勿忘草

僕は、病院を出た。ああもう、とやるせなかった。思わず、大通りに飛び込もうとした
けれど、白バイが走ってきたので、できなかった。次は踏み切りに飛び込もうとしたけ
れど、やっぱり白バイが走ってきた。まあ、ちょうど交通違反の取締りが厳しい時期な
のだ、という単純な理由だったけれど、僕にとって、それは、必要の無いものだった。
というより、みんななぜ、僕が死ぬのを邪魔するんだろう、と思った。
「君君、こまるよ。こんな踏み切りに立って!」
大柄な巡査が怒鳴りつけた。
「ちょっと、交番まで来てもらおう。」
僕は巡査と一緒にパトカーに乗った。いっそ、架空の犯罪でも作ろうか、と僕は思った。
パトカーはすぐ止まってしまった。僕は車を降りて、交番に入った。
「警視、連れてきました。電車に飛び込もうとしていました。」
すると、タバコを訝しげに吸いながら、もう一人の警察官が出てきた。そして、
「あら!」
といった。
「警視、はやく取調べを、」
「馬鹿、なにを言っているんだ、この方は、東京芸術大学の教授、偉大なる箏曲家で
ある、稲葉慎之介先生であらせられるぞ!」
「へ?」
「どうもどうも先生、いつも先生の演奏、テレビで拝見してますよ。この間の新曲、
『勿忘草』、あれを、非番の時は毎日聞くんですよ!」
僕はため息をついた。稲葉慎之介というのは、偽りない僕の本名だ。しかし、警視
という、音楽に縁なぞない人が、この名前を知っているとは、名前という者は、何
て恐ろしい者だろう。
「すいませんね、内の部下が変なことしてしまって、おい、謝れよ!」
「は、はい、すいませんでした」
巡査は脂汗を拭きながら答えた。
「それにしても先生、お顔色がよろしくないようですな。お風邪でもひかれました
か?」
僕は、本当の所、高熱で苦しかった。もともとただの風邪、もしくは流行の、イン
フルエンザだと思っていた。病院というものはあまり好きではなかったし、まだ36
なので、そんな大病をするような歳でもないだろう、と思っていた。
「ええ、まあ、ちょっと熱っぽいといいますか、、、。」
「おい、この方を送って差し上げろ。住所は、ここだ。」
警視が、指示を出した。
「ははい、しっかり送らせていただきます。先生、もう一度パトカーに。」
と、言うわけで、僕は、パトカーで家に帰った。
家は、ごく普通の一軒家。僕は有名になったからといって、贅沢に暮らす芸能人は
嫌いだった。僕は母と二人暮しだ。また、苦しくなってきた。母になんていったら
いいだろう、母が、逆さ鏡になるのは、そう遠くはないだろう。そうなるまえに、
何でもいいから「事故死」としたかった。そうすれば、母がマスコミの取材で苦労
しなくなるだろうし。やっぱり、あの時、電車に飛び込んでおけばよかった、あの
警視のせいだ、と、僕はのろった。
パトカーが、僕を下ろした。僕はのろのろと、玄関をあけた。
「おかえり」
母の声がした。
「風邪だって?やっぱり。」
僕は何も言わないまま、自室に引き上げてしまった。母がおかゆをつくったという
が、食べる気がしなかった。
それから何時間たっただろう、いつの間にか朝になっていた。
「慎之介!」
母の怒鳴り声がした。母はいつもこれだ。子供の頃は、厳しい鬼ばあみたいだったけ
ど、だんだんに慣れてしまっていた。僕がめをあけると、紙切れを握りつぶして、今
までで、一番怖い、母の顔がそこにあった。
「こら、この馬鹿!」
母は、僕の頬を平手打ちした。
「まったく、こんな大事なことだまって、おまけに母ちゃんに別れも言わずに逝こう
なんて、なんていうわがままをいっているだね!」
馬鹿、には慣れている。父が亡くなって以来、母は、厳しくしなければならないとお
もってこういう言葉を使って僕を育てた。
僕は周りを見回した。僕は机に座っている。目の前のパソコンには、練炭自殺と書か
れている。つまり、調べ物をしながら寝てしまったということだ。で、母の持ってい
る紙切れは、「診断書」という文字が、デカデカと書かれている。僕が何を言おうか
まよっていると、
「本当に馬鹿だね、母ちゃんより、先に死ぬなんて、十年も早いよ!まだ助かる道が
あるんなら、なんで使わないのさ、確かに陽子線治療は大変なのかもしれないけど、
それで助かるっていうんなら、母ちゃんは喜んで応援するよ!成功失敗なんて、やっ
て見なきゃわからないじゃないか、失敗したら、またお医者様に相談すればいい。
それだけのことじゃないか!それなのにもう諦めるなんて、母ちゃんは一度も教えた
ことはないよ!」
と、甲高い声がした。
「やめてくれよ、死なせてくれよ!」
と、僕は思わず言い返した。
「母ちゃん、僕がだんだんに衰弱して、しまいには意志の疎通もできなくなるんだよ。
陽子線なんて、たやすく言わないでくれよ。選択肢は、肺の片方をとるか、陽子線し
かないんだよ。もし、失敗したら、母ちゃん、今よりもっと悲しくなるじゃないか。
だから、こうやって、意志が通ずるときに、、、。僕もかなしいんだよ。だって、ま
だ36なのにさ、もう肺癌になるなんてさ。タバコも吸うわけでもなし、酒も一滴も
飲めないのに。恥ずかしいじゃないか、それだったら、、、」
「不慮の事故死に見せかけて、先に逝こうと思ったんだね!そんなのはね、親孝行で
もなんでもない!あんたはすぐそういうこと言うけどね、残された人間の悲しみって
のは、普通に亡くなるよりももっとすごいんだよ!父ちゃんのとき、よくわかったよ。」
「結局は同じじゃないか!いくら坊主や神父がいけないことだと言っても、そんなの
はみんな嘘っぱちに決まってるさ!」
「ああそうかい、そんなこと平気で言うんじゃ、あんたは芸大の教授にはなれないね。
もう、その考えを改めるまで、このうちの敷居はまたがせないよ!さっさと出ていき
な!」
母は、僕を無理やり立たせ、玄関から押し出し、ピシャンとドアを閉めてしまった。

僕は行く当てが無いまま、適当に歩いた。このまま、死ねたら最高だと思った。少し
あるくと、高いビルがあった。あそこから飛び降りようと思った。そのビルが何の施
設かもわからないのに。
僕は胸痛と戦いながら、エレベーターにたどり着いた。屋上へ行きたかったが、屋上
にはこのエレベーターは到達しないようにできていた。僕は、別のビルを探そう、と
おもい、踵を返して、玄関に向かった。
すると、三味線を持った、中年の女性とぶつかった。
「あっ、ごめんなさい、」
と女性は言った。僕は座り込んだ体を、何とか立ち上がらせようとしたが、
「あら、芸大の、、、稲葉先生!まあ、すごく苦しそうなお顔だわ。私たちの部屋
で、ちょっと休んでからお帰りになったらどうですか?わたしたち、ここの専属団
体なんです。」
と、女性は、明るく言った。僕は何とか立ち上がり、
「あの、貴方は、どんなおしごとを?」
とだけ聞いた。
「私たちは、自助グループです。私、こういうものです。」
彼女は名刺を渡した。見て見ると、
「グループひのき、総長、中島伸子」
と書いてあった。
「みんな、何かしら事情をもっているかたがたです。中にはお体がご不自由なかたも
いますので、お休みするスペースを設けております。良かったら、お休みしていって
ください。」
僕はそうすることにした。横になれば、胸痛も取れると思った。
中島さんは、僕を、一階の小さな部屋に招待した。

本当に小さな部屋だった。五人ほど座れる、テーブルと奥に安楽椅子が置いてあった。
「遅いじゃないですか、代表。」
最初に声をかけたのは、紋付羽織袴を身に着けた、車椅子に乗っている男性だった。彼
の着物の袖口から、夾竹桃の入れ墨がちらちら見えた。
「ああ、ごめんなさいね。今日は新しいお仲間を見つけたのよ。芸大の、稲葉先生。」
「こんな、入れ墨男と一緒で、大丈夫?」
「あら、藩先生も入れ墨の世界大会で優勝したじゃありませんか。それだって芸術だと
私は思いますよ。ねえ、稲葉先生。」
中島さんは誰に対しても明るい。
他には30代後半の女性と、おばあさんが座っていた。
「えーと、彫師の、藩先生と、若い奥さんは、小沢優子さん。おばあさまは佐藤愛子
さん。自己紹介は、一人一人のお話でわかると思うから、お話を始めましょうか。
じゃ、稲葉先生、適当に座って。みんなのお話を聞いていてね。気分悪くなったら、
むこうの安楽椅子を自由に使って。じゃあ、小沢さんから、お話をしてもらいましょ
うか。」
語りが始まった、、、。

第一章

はじめまして、小沢優子です。」
中年の婦人が話始めた。
「職業は、、、保育士をしています。現在は、A保育園に、二時間だけ、パートタイムで
働いています。かつては、市立の保育園に勤めていましたが、息子をなくしたことにより
退職しました。もう、二度と公立の保育園には勤められません。息子は18歳で、帰らぬ
人になってしまいました。それは、私の責任でもあるからです。あの子は私が殺したよう
なものです。」
「私の責任」というのはどういうものだろう?なぜ、母親が、「私が殺した」といったの
だろうか。
「息子は、勉強とピアノが好きでした。一日中弾いてました。四歳からピアノを習ってい
ましたが、それ以外は、勉強付けで学校のことは何も話しませんでした。たまには友人と
深夜まであそぶとか、そういうこともしませんで、毎日きちんと帰ってきて、勉強ばかり
してました。わたしは、誕生会のようなものも企画していましたが、誰も友達は来ません
でした。息子は、中学生になると、毎日のように「疲れた」と口にし、すぐ寝てしまう生
活になりました。そうして、一年生の一学期の期末テストの後に、『お母さん、僕はピア
ノで音大に行きたいな。』といいました。夫とも相談して、いかせてやることにしました。
しかし、音大の受験がどんなものであるか、私はまったく知りませんでした。ピアノ教室
の先生に伺ったところ、音大の先生が、この町に住んでいて、良い先生だから、紹介しま
す、といい、息子を連れ出してくれました。その先生は、本当に厳しいかたでしたけど、
息子は楽しかったようで、週に一度、元気にレッスンに通っていました。
そうこうしているうちに、高校受験の季節になりました。息子は、音楽高校を志望しました
が、内申点がどうしても足りませんでした。私は、保育士でしたので、とにかく仕事が忙
しすぎて、息子の内申点が、足りないのはピアノばかりして、勉強をしないからだ、と勝手
に解釈して、よくしかりました。息子は疲れたとか、限界だとか言いましたが、今時の子は
すぐ文句を言う、ときいていたので、そんなことは口にするな、屁理屈をいうな、などと返
し、とにかく睡眠時間をけずってでも勉強するのが、中学生という者だ、と、叱り飛ばしま
した。私は知らなかったんですが、その当時、私の母が、まだ生きていて、母が息子を褒め
ていたそうなんです。母は、あの子に対して厳しすぎる、と、よく言いましたが、息子が志
望した高校は、このあたりでは一番すごいというところでしたから、内申点が必要だったん
です。」
「他の方に、相談するとかは考えなかったんですか?学校の先生に相談するとか。」
僕は聞いたが、小沢さんは、涙を流した。
「はい、それが、息子には友達が一人もいなかったんです。もともと人付き合いは苦手なの
かな、とは思いましたが、息子は、学校の授業をこなすのに精一杯で、そんな余裕はなかった
そうなんです。
そうこうしていると、ピアノの先生が、音楽高校ではきつすぎるから、近くの普通科に通っ
たらどうか、とアドバイスしてくださったんです。先生の娘さんも、その高校から音大に
進んだと。進学校ではないから、のんびりしているから、勉強はそこそこで、その分ピアノ
の練習に当てられると。少なくとも、娘さんのころはそうだったようです。それしか情報が
無かったので、そうさせることにしました。偏差値は、とても低いところだったから、すん
なりと入ることができました。でも後になってそれは、間違いだったんだと、何度も悔やみ
ました…。」
小沢さんは泣きじゃくっている。
「様子がおかしいな、と思ったのは、初めての三者面談のときでした。担任の先生がこうい
いました。『ある、音大では、高校を卒業したら、一年浪人して、じっくりピアノを習って
から、受験するときいてますが、うちの高校からはそういう生徒は出したくありませんね。』
と。でも私は、それは、ピアノの先生から聞いていましたし、夫もそうなってもいいといって
いましたから、まったく気にしませんでした。息子もそれは承知していました。
高校に入ったので、私は市の臨時職員の試験を受け、公立の保育園に、勤め始めました。その
ほうが、お金が手に入るからでした。志望していたのは私立の音大でしたので、お金が必要
だったんです。それは確かでした、だから、私も主人も一生懸命働きました。
所が、息子はだんだん笑わなくなっていきました。ピアノの音色も汚くなっていきました。
音大の先生の影響かと思いましたが、息子は口を聞かなくなりました。あとは息子の日記か
らわかったのですが、あの高校は、先生のお嬢様が通ったときとはだいぶ違っていたようなん
です。とにかく、国公立大学に全員はいることが全てだったんです。先生方は徹底的に音大の
悪口を言ったそうなんです。『学費が四年間で一千万円かかる、この高校に来ているのは、お金
がないからきているのであって、そんな大金を稼げる親御さんを持つ生徒はいない、だから、
そんな大金を稼ぐには、お父さんとお母さんは、脳梗塞かなんかになって、大学に行く前に、
死ぬ、犯人はおまえということになる』とか、『この、就職難の時代、音楽なんか勉強した
ってなんの金にもならない、親は働き蜂で死に、お前は銀行強盗をするしか金を得られなく
なり、安定した食事がもらえるのは刑務所だけだ』とか。私も、保育園で上司から、嫌われ
ていて、毎日毎日疲れ果てて。あの子が、受験生になったとき、貧血にかかり、一ヶ月入院
を強いられました。そのとき、息子は、自分のせいで、私が病気になったんだ、と感づいた
ようで、それを事実としてしまい、しかし、音大の思いを捨て切れなくて、本当に本当に、
悩んだのです。私が入院している間に、教師たちは、あの子に『お前が音大に行くのをやめ
れば、母親の病気は必ず良くなる。しかし、続けていれば、お前の母親は死ぬ。』といって
脅かして、あの子は負けてたまるか、と、思って、音大の先生に頼んで、外国人の先生にも
習わせてもらったりして、抵抗していました。それは日記に赤裸々と綴られてありました。
私が退院すると同時に母が亡くなりました。心筋梗塞でした。息子は泣きませんでした。私
は、泣いてばかりいましたけど。母は、息子の日記によると、唯一の息子の聞き役だった様
です。最後に、泣いてはいけないと、息子に言い聞かせて亡くなったとありました。
それいこう、よく家に変な電話がかかってきました。担任教師が、模試の結果を伝え
てきて、『息子さんの可能性を信じてあげてください、音大ごときではもったいない』と、
猫なで声で言っていましたが、疲れ果てていた私は、生返事しかできませんでした。それで
息子は、担任教師に、お前の母親も本当はお前が国公立大学への進学を望んでいる、俺が電
話して聞いたぞ、など言われたそうです。そして、予定通りに、息子は音大を受験しました。
合格することはできました。でも、合格発表から戻ってきて、担任教師が、物差しで息子を
殴ったんです。それが、本当に、、、本当に、、、。」
「小沢さん、無理して言わなくてもいいですよ、」
中島さんは、そういったが、彼女は
「いいえ、言わせてください!」
といった。それは僕に向けて言ったのではないかと、思われた。悲しみと怒りで体は震えて
いた。
「打ち所が悪かったせいで、息子は、歩けない体になってしまって。大学も辞退しなければ
ならず、あの子は、農薬を飲んで、自殺しました。私が、仕事が忙しいのを口実に、あの子
の苦しみを聞いてあげられなかった。だから、だから、私が殺したようなものなんです!」
小沢さんは机に突っ伏して泣いた。こんな酷い話が教育の現場で行われているとは。
「10年もたってますけど、私から、この悲しみは消えることができません。母親、失格で
す…。私は、息子の重大な秘密にも気づいてやれない…。」
10年、、、長いようで短いのかもしれない。
中島さんが三味線を弾き始めた、
分かれても、分かれても、心の奥に、、、
勿忘草を貴方に、という曲であった。
息子さんは、どんなに苦しんだだろう。また教師たちも、そんなでは失格だ。誰のための
教育か?僕も、芸大で教えてはいるけれど、学生のなかで、ここまで苦労したという者は
聞いたことがない。もしかしたら、アカンサス賞に認定した者の中にいるのかもしれない。
気がつかないだけで。
中島さんがそっと僕に話してくれた。
「小沢さんの息子さんは、今はやりの軽い発達障害だったのよ。だから、友達もできなか
ったの。それは、彼が亡くなってから、わかったの。」
やるせない思いだった。

第二章

翌日、僕はまたあのサークルに行ってみた。今度は誰が話すのか、聞いてみたかった。
中島さんの、携帯番号をもらっていたので、彼女に連絡をとり、しばらく聞くだけで
参加させてもらうことにした。
「今日は、僕が話をします。」
藩が発言した。
「ええと、いま僕は、父と暮らしてます。僕は車椅子だけど、父は何かと世話をして、
時々喧嘩したりもあるけど、今やっと、穏やかな生活になりました。僕は、こういう
恐ろしい姿をしていますが、決して、やくざとかではないから、安心してください。」
確かに普通の人からみたら、そう思うだろう。全身入れ墨で覆われ、黒の紋付羽織袴
を身につけ、黒い、長い髪をしている。一見すると女性と間違えられるほど美しいが、
袖の間からびっしりと彫られた入れ墨に、驚くほどの落差がある。
「僕は彫藩といいます。本名はあまり言いたくないのですが、ここでは名乗るように
しています。本名は高橋友哉です。」
実にありふれた名前だった。藩は続ける。
「僕は、父と母の一人息子でした。しかし、父も母も家にいるのに保育園に行かされ
ていました。保育園というものは、父母が働いていて、お家にいないから、家で一人
では寂しいから、みんな保育園にくるんだよ、と、保育園の園長先生から聞かされま
した。しかし、隣の席に座った女の子が、『先生、友哉君のパパと、ママは、ずっと
おうちにいるのに、何で保育園にきているの?』と、言いました。すると先生は、『
そんなこといっちゃいけません!友哉君は、ちゃんとわけがあるからここに来ている
んだよ』といいました。だから僕は家の家族が、他の人と、違うんだなってことが、
わかりました。
僕は小学校に入学しました。公立の、保育園からそのまま持ち上がりの、小学校でした。
あまり規模は大きくは無いところで、クラスも、保育園の人たちとそのまま同じでした。
初めての授業参観のときでした。そのとき、来てくれたのは母ではなく父でした。母は、
前日にお皿を割って、大暴れをして、病院に運ばれて、強い薬をもらって、朝起きるこ
とができなくて、授業参観にこれなかった、というのが理由でしたが、もう40年の昔
ですから、その頃は、父親が授業参観に来るというのはありえないことでした。父は、
僕が、教科書を読むと、すごくニコニコして、『友哉!いいぞやれやれ!』といい、ま
るでそれが、野球の観客みたいな声でした。隣のおば様が、『高橋さん、ちょっと声が
大きいですよ!』と、注意してくれたけど、父は言うことを聞かずに『何を言っている
んだ、今日はうちの友哉の晴れ舞台じゃないか!』といって、六甲卸を大声で歌いだす
始末で…。周りの同級生がどっと笑いました。僕の両親は頭がおかしいんだ、というこ
とが、僕にも、クラスのみんなにもわかってしまいました。」
藩は続ける。
「それから、ずっと僕は、いじめの標的になってしまいました。ランドセルを四つくら
い背負わされたり、ゴキブリを頭に載せられたり、靴の中に泥を入れられたり…。
それを両親に言っても通用しませんでした。父も母も、こうしろああしろとか、なんの
アドバイスもくれませんでした。ゴキブリと口にすれば、母は、金切り声を上げます。
泥といえば、友哉は大島紬になれる、と父はいいます。先生に相談して、父母に話して
もらうように訴えたこともあったけど、先生でさえも、父母に伝えることができないの
でした。先生の話でも、金切り声をあげたり、変なほうに話がずれていってしまうんで
す。先生は、僕が小学六年生になった時、職員室に呼び出して、こういいました。「友
哉君、あなたのお父さんとお母さんは、統合失調症という病気なの。友哉君も、お父さ
んとお母さんを助けてあげてね。』と。病気、となれば、どうしても病気の人の訴えが
最優先されてしまいます。だから、僕はただの付属品で、僕のこの苦しみは、誰もわか
ってくれないんだって、そのとき思いました。そのとき、僕の体は怒りでみなぎってい
ました。中学も、やっぱり地元の中学しか入れなくて。僕の家の収入は障害年金と生活
保護であることも知って、だから、いい学校にも行けない。僕は、行きたい学校があり
ました。まだ、開学したばかりの、私立高校でした。でも、高校図鑑で、その学費が途
方もなく高くて、とても家の経済力では、いけないこともわかりました。どうして僕は
生まれてきたんだろう、社会人としてまったく機能をしていない親に、子供を生む権利
はない、生まれてくる子がどんなに苦しいかもわからない、本当に無責任すぎる、子供
だって、文化的な生き方ができると詠われていても、親の経済力や、環境によってでき
る者と、できない者に、はっきり区分されてしまうのなら、もう、死にたいとおもい、
飛び降り自殺を図りました。でも、できなかったんです。僕が飛び降りたのは、自宅の
マンションの屋上からで、両親のめが届くところ。僕が飛び降りたとき、偶然に偶然に、
母が買い物から帰ってきて、すぐ僕を病院まで運んだそうなんです。母のドコにそんな
力があったのか、見当がつきません。でも結果は、楽になるどころか、もっと悪くなり
ました。はい、僕は、歩けなくなってしまったんです。」
そういって、彼は車椅子の車輪を叩いた。
「僕は母のことをすごく恨みました。どうしてとめたのか、どうして死なせてくれなか
ったのか、お前のおかげで、僕は歩けなくなってしまった、責任取れよ、など言い、母
を責めました。でも、母は、「たった一人の息子だから」としか言いませんでした。僕
は本当に腹が立って、『死ね!もうしんじまえ!愚鈍なお前なんか!』と叫びました。
母は、それだけは言ってほしくない言葉だったらしく、一気にベランダへ疾走していき
…、二度と戻ってきませんでした…。
父は、母が死んでからは、家事ができないから、ということで、援護寮に収監されてい
きました。僕はひとりになって、結局何もかも失い、夜の街を徘徊していたら、不良に
絡まれて、このまま殺してと思ったけれど、そうはさせないんですね、神は。そのとき、
入れ墨をしていたおじいさんが歩いてきて、そう、左手にすごい立派な、不動尊の絵が
彫られていて…。その方がきたら、不良たちはみんな逃げていきました。その方が、彫
るに絆と書いて、「ほりはん」と名乗っていたんです。僕は弟子入りさせてもらい、い
ろんな方の背中を預かって、30の誕生日に「彫藩」という名前をもらいました。そし
て、僕は、入れ墨の世界大会に応募して、グランプリをもらって、今に至るわけですが、
今でも後悔しているんですよ、母にあんなこと言わなければ良かったと。きっと入れ墨
は許してくれなかったでしょう。母は、その対にいましたからね。」
「お母様は、何をされていたんですか?」
僕は聞いた。
「ピアノの伴奏してました。ベートーベンをこよなく愛して。僕が子供の頃は、まだ、
ピアノの記憶を残していました。よくベートーベンのソナタとか弾いていましたね。
でも、統合失調症になって次第にできなくなっていったんでしょう。きっと、好きで
病気になったわけじゃない。やっぱり、傷ついていたんだとおもうんです。父は、僕の
個展を見に来てくれて、昨年から同居するようになりましたが、あのときのことは、し
かたなかったことにしよう、と約束しました。今は、入れ墨の道に行ってしまったし、
歩くこともできないから、何の償いもできないけれど、せめて父には、安楽に過ごして
もらいたくて。僕は、本当に一人になったら、弟子にこの名を譲り、高橋友哉として、
髪を下ろそうと思うんです。長くなりましたが、以上です。」
藩は、ここまでを一気に語った。入れ墨、、、僕も当初は悪人のするものだと思ってい
たが、今は、芸大の学生でさえも、おかしな文様を入れてしまう者がいる。日本の入れ
墨は、外国人には魅力的に映るというのは聞いたことがある。しかし、この痛みに耐え
ることで「大人のしるし」と解釈する少数民族は数多いし、これは、いくら禁止しても、
無くなるものではないのではないか、と思われた。
中島さんが勿忘草を貴方に、を弾き始めて会はお開きになった。
いつまでも、いつまでも、こころのおくに、、、。
僕はいつの間にか、体のだるさは取れていた。
「藩先生」
僕は言った。僕も「大人のしるし」をしたいと思った。藩や、前述した小沢さんの生き方
を、僕にも分けてもらいたかった。それを、藩に打ち明けてみた。小さなものでいいから、
彫ってほしい、と告げた。僕は悪人になるのではない。藩のような、強さを分けてほしい。
その第一歩として。
藩は、自分なんか足元にも及ばないといったが、僕は勿忘草をひとつお願いした。小さな
ため息をついて、藩は、自分の店にぼくを連れて行った。道はところどころ段差があった
が、藩は平気だった。僕のほうが、手を貸すべきか迷うほどだ。
藩の店は、小さな一軒家で、特に看板も出していなかった。小さな部屋に通されて、机の上
に、右腕を置いた。
藩は道具を取り上げた。はじめは皮膚の上をプチプチ刺しているようであったが、何回かや
っていくとそれは熊蜂に代わった。藩は、彫りながら、之が手彫りというものだ、といった。
流行のタトゥーマシーンでは、和彫りの美しさは出ない、とも語った。そしてあまりの痛さ
に、声を出そうとすると、僕の右腕には、綺麗な勿忘草が描かれていた。

「このままでは」
と、医者は苦虫を噛み潰したような顔で僕をみた。
「君は本当に自分の名に、泥を塗るつもりかい?このまま治療をしないでほうって
おけば、確実に命は無い。君のような、数多くの学生たちの憧れのような人間が、
三十六で、もうあの世へ行くとなれば、これは大騒ぎになり、君のお母さんだって
こまるだろう。とにかくね、はやく陽子線を受けに行きなさい。いつまでも絶望し
ていては始まらないよ。」
僕は、藩のすさまじい話と、勿忘草で、彼のような家もあるんだなあ、と、感心し
てしまったのであった。しかし、完全に同じ、ということはできなかった。藩の様
な強さを、僕は持っていない。そう思っていた。

その日も、中島さんのメールに誘われて、僕は、会議に出席した。
「今日は、私が話をします。」
今日の語り部は、おばあさんだった。真っ白い髪の毛に、ピンクの着物を着て、か
わいげなおばあさんだった。
「私は、昨日主人の一周忌を終えました。私も、皆さんと同じように、もしかした
ら主人を殺してしまったのかも知れません。」
おばあさんは意外に冷静だった。一年たてばそうなるのだろうか。
「私は、佐藤愛子と申します。主人と二人で、ぶどう園を経営しております。子供
は、いません。ほしかったけど、不妊治療ができなかったんです。私が子宮頸癌の
ために、結婚してすぐ、手術しなければならなかったんで。でも、主人は、お前さ
えいてくれれば何にもいらない、といって、子供ができなくても、いろいろ面白い
ことをしてくれました。寄席に連れて行ってくれて、私を笑わせてくれましたし、
良いレストランがあれば、すきな料理を食べさせてくれました。だから、もしかし
たら、私は主人に頼りすぎたのかもしれません。」
僕は、子供というものがあまり好きではなかったから、彼女の話を、真に受けるこ
とができなかった。もし、子供ができなくて、悲しいなら、心中すれば良いじゃな
いか、とさえ思ってしまった。この人はできる部位は違うけど、癌を経験している
ひとであれば尚更そうだろう。
実は、僕も最近、むしゃくしゃするようになった。たぶん進行しているんだろう。
立ち上がろうとしたりすると、酷い胸痛で動けなくなってしまうときがある。それ
を芸大の中でみせてしまったために、学園長が、肩を叩くしぐさをしているような
のだ。そうなるんなら、母にしかられる前に、死んでおけばよかった、と、思うよ
うになった。
おばあさんは続ける。
「最初に主人に異変が生じたのは、主人が自転車で買いものにいったときでした。
自転車で転んで、足を骨折したのです。サドルに、コードの端が引っかかっている
のに気がつかなかったそうで、コートを引っ張ったら、自転車が諸に倒れて、主人
はその下敷きになったんです。幸い、そのときはすぐ回復しましたが、翌年に、犬
の散歩をしていたとき、側溝に落ちて、同じところを骨折しました。さらにそれが
治ってきたと思ったら、夜中にトイレに起きて、電気をつけるのを忘れていって、
トイレの段差に躓いて転び、背骨を圧迫骨折したんです。それから、主人は段々に
元気が無くなっていき、まず下痢や便秘などから始まって、体には異常がなく、精
神科にいって、うつ病と診断されました。とにかく、本当に悲しそうな顔で、食事
ものどを通らないといい、かといって大好きなだいふくだけを食べて、、、。本当
にあたしは、どうしたら、助けられるかもわからず、とりあえず、精神科の先生の
はなしを良く聞きなと、叱る位しかできなかったのです。
主人は、そういうと、とにかく薬中毒のようになりました。朝昼晩関係なく、一日
全部の抗欝薬を一度に飲んだり、病院にいけば、どうしてもつらいから、強くして
くれ、の一点張りで。で、強くしてもらったら、口がパカパカと常に動いているよ
うになって。私はおろおろするしかできませんでした。周りの人からの助けもあり
ません。ましてや、子供もいないので、、、。一度だけ、心中を図ろうとしました
が、怖くてできませんでした。」
「そうだよ、そのときだよ!」と僕は頭の中でこういっていた。
「主人は、高校教師でした。よく、学園ドラマの、三年B組み何とか先生では、教え
子さんたちが、よく先生のお宅を訪問して、受験勉強したりとかしますよね。でも
ね、実際の学校はそんなことありません。先生の家を訪問しようとする生徒なんて
いませんよ。あの先生は、教え子の一人に、輸血を頼んだりしますけど、そんなこ
と、絶対無いですよ。仮にそういうことが頼める先生というのは、存在しないので
はないでしょうか。先生なんて生徒に文句言われるだけで、それでおしまいです。
あっすいません、ここに立派な芸大の先生がいることを忘れていました。稲葉先生、
本当にもうしわけないです。」
「いえ、続けてください。芸大の教授だって、似たような者ですから。僕も三年B
組シリーズは見てましたし。もっと、具体的に話してくれませんか?」
「ええ、じゃあ、続けます。主人は、定年する迄、Y高校の国語教師だったんです。
結婚したときは、本当に忙しくて、なかなかつらいからかな、と思って、家事は私
がやっておりました。しかし、何年たったも家事はしませんでした。時には夜中の
二時、三時まで戻らないこともありました。
あるときです。生徒さんのお父様から電話がありました。それを聞いて、びっくり
しました。女子生徒が飛び降り自殺で亡くなったというのです。彼女は、この間の
かたが、おっしゃっていたような、芸術系の学部を目指していたそうなんです。で、
主人が反対をして、彼女は飛び降りたというのです。ちょっと重複するようですが、
ごめんなさいね。私は主人を問い詰めました。『どうして彼女を自殺にまで追い込
んだの?』と、すると主人は『仕事だから仕方ない』というんですよ。そして、主
人がY高校に赴任して、なくなった人は全部で五人。みんな芸術や体育や、すばら
しい学問を学ぼうとしている子達の命を、主人が全て奪ったとしか考えられなくて。
そうこうしているうちに、主人は定年になりました。そして、先ほど述べたような
ようになりました。そのとき、私は思ったのです。『ざまあみろ、たくさん生徒さ
んたちを殺してきた結果だ』と。」
うん、確かにそうだろう。そういう生徒を何人か僕は受け持ったことがあるが、心
が傷ついている、ということは、とても綺麗な事なのかもしれないけれど、迷惑行
為であることも僕は知ってる。心が傷つくと、人は、うつ病や統合失調症といった
非常に厄介なものを引き起こすのだ。僕も一度だけ、その病気にかかった生徒の担
任をしたことがあるが、とにかく、こちらのほうがおかしくなるのではないか、と
思わせる生徒だった。普通の生徒に伝えるべきことを、何十倍も掘り下げて、わか
りやすくしなければならないし、言いまわしによれば、すぐ泣き叫ぶ。僕も「仕事」
と、認識し、いやそうしなければ、僕自身の身が立たないのだ。
「それを皮切りに、」
おばあさんは話を続けた。
「亡くなった生徒さんの親御さんが次々に見えました。みんな、主人のことを恨ん
でいました。中には、お父様で、『お前が殺した!』と、怒鳴りつけてくる人もい
たんです。主人は『進路指導だから』とか、『教師に反抗する不良学生でしたから、
妥当な処分だったと思います』など言っていました。
ある時、主人のところに、望月しのぶさんという女子生徒さんのお父様とお母様が
訪ねてきたんです。よく話をききますと、しのぶさんはとても優秀な生徒だったよ
うです。しかし、しかし今は、、、あの世にいると聞きました。高校生のとき、担
任教師を刺して殺したというのです。その担任教師は女性だったそうです。しのぶ
さんは旧家の一人娘です。おじいさま、おばあさま、お父様、お母様と暮らしてお
りました。しかし、その女性教師は、しのぶさんが一人っ子だったことをきっかけ
に、酷く彼女をいじめたそうです。『スーパーマーケットで、お母さんを取りあっ
て喧嘩している子供を見たことがある?貴方はそれを経験していないから、他の人
よりひとつ格が下なのよ。わたしが、格を上にしてあげるから。貴方は忠実な下僕
でありなさい。』というのが、口癖のようになり、しのぶさんは追い込まれてしま
ったのでしょう。『わたしがどれくらい強いか先生、みせてあげます。』と言い、
刺身包丁を万引きして、授業が始まる前に、その教師を殺害したしそうなんです。
そして彼女自身も、屋上から飛び降りて、帰らぬ人となりました。そして、彼女の
お母様は、こういわれました。その、指導をしろ、といったのが、家の主人だった
と。おばあさまも。おじいさまも、しのぶさんがなくなって数年後になくなりまし
た。主人は、今度もしらばっくれたようでした。すると、お母様はこういわれまし
た。
『奥さん、あなた子供産んだこと無いでしょ。どのくらい苦しいか知っていますか
?エベレストに上るのと同じくらい苦しいんですよ、だから、ご主人がいかに鬼教
師であっても、そうして平気なんですね。いくら、点数が悪かろうが、子供は子供
で、私たちの物です!先生方の進学率を上げるためのツールじゃありませんよ。う
ちのこがどれだけ苦しんだかわかりますか?一人っ子は、悪人じゃありません。一
人しか子供が無い親は、兄弟がない分、最初で最後の育児ですから、責任は重大な
んですよ!悪人にしないために!時にはどうしても学校の先生に頼らなければいけ
ない時だってあるんですよ!それを拒否するばかりか、身分が低いと押し付けるの
は、あの子の人権を破壊するようなものじゃないですか!』
私は、もうどうしたら良いのかわかりませんでしたよ。」
おばあさんは、涙を流した。藩が、そっと、手ぬぐいを手渡してくれた。

終章

「愛子さん」
藩は静かに言った。
「愛子さんは愚鈍ではありません、子供ができなくて、苦しんだ過去もあるわけで。
僕も親が統合失調症でしたから、普通の親をもてなかったことはとても悲しみまし
た。でも、悲しんではだめです。仕方ないって事は誰にでもある。」
「そうですよ」
優子さんも言った。
「あたしも母親としては、失格です。やっぱり息子を殺してしまった、というのは
本当に残酷な現実かもしれない。でも、また歩き出さなければだめです。息子は、
自殺してしまいました、しかし、学ぶことを残しました。私も、今、発達障害のあ
る子を受け入れた保育園に勤めていますが、息子のような障害を負わないよう、私
なりにがんばっているんです。彼が、息子のように苦しまなくもいいように。彼は、
普通の子より覚えも違うけれど、ゆっくりやれば、ちゃんとできるんです、だから、
保育士はやっぱりやめられない仕事です。」
「そうなんですよ。僕も時々思います。まあ、この仕事をしていると、どうしても
やーさんに見られてしまいますが、そういう人は一割くらいしか来ませんよ。まあ、
芸能人のまねをしたいとか言う人もいますけど、和彫りをしたい人は、やっぱり傷
ついているんです。虐待されたとか、リストカットしてできた傷を竜で隠してほし
いとか、そういう理由がいちばん多い。彼らの話をきくと、日本の学校というのは
本当に貧しいなあ、とよく思います。人間は個性という者があります。全ての人が
おんなじことを、同じ様にできるはずが無い。こんな当たり前のことを、日本の学
校は、教えてくれません。教えるのは、試験の点数位な物でしょう。試験の点数よ
りももっともっと大切なことがある。それは自分のシンボルマークでしょう。例え
ば、音楽なら音楽、国語なら国語とね。入れ墨も、いたみに耐えることで大人にな
る印だ、と、標榜している少数民族も数多い。つまり「印」なんですよ。この技術
はね。それが、今の学校ではないということかな。」
「藩先生、主人は、何を誤ったのでしょうか。」
「おそらく、今の時代、ボタンひとつで何でもできてしまいますよね。すっかりそれ
に浸かっているから、『ほんの少しちがう』のを見抜けなかったんじゃないかな。
そしてその、『ほんの少し』は、実は大きな力になることも知らなかったんじゃない
かな。だって、世界的に有名な人はみんな、『ほんのすこしちがう』所があるでしょ。」
世界的に有名な人、、、例えばなにが『ほんの少し』違っていたのだろうか。
「そうそう、だってお客様だって、ほんの少し、子供の頃違っていたって、聞いたこ
とありますよ。ねえ、稲葉先生。」
と中島さんが言った。
「稲葉先生は、子供の頃、お箏の音楽ばかり聴いて、音楽の先生もお困りになった
でしょう。でも、それは、邦楽にとっては、すばらしい美声だって、宗家の先生が
絶賛したから、先生はお箏の道に行かれたって、ウィキペディアに書いてあったわ
よ。」
そ、そんなことがあったのだろうか、僕はすっかり忘れていた。誰がそんなことを
インターネットの百科事典に投稿したのだろうか。
「そうよ、私、息子に聞かせてやりたかったわ。ねえ、ここで一曲と、言うわけに
は、いけないかしら。」
「小沢さん、ぼくは、、、。」
「箏あるよ、ここ。昔、カルチャー教室だったんだ。そこで教えに来てくれた先生
が他界されて、もうぼろぼろになってしまったかな。でも、稲葉さんならきっと、
良いものにしちゃうんだろう。あ、中島さんも参加してくださいよ。二人で、勿忘
草を貴方に、弾いてください。」
「あたし、箏もってくるわ。」
小沢さんは、押入れから、箏を一面もってきてくれた。立奏台は故障していたが、僕
は正座で弾くと申し出た。小沢さんが出してくれたつめをはめ、黄色くなった箏柱で
調弦し、中島さんに三味線を合わせてもらい、二人ユニゾンで弾いた。
「わかれても、わかれても、、、」
全員、美しいハーモニーで歌った。そう、之は僕にとって、ほんの少し、でありそし
て「印」だ。そう、「ほんの少し」を見抜くこと、、、。
演奏が終わって帰る時刻になった。
道具を片付けて、帰り道をあるいた。もう、秋が深まり、あたりは真っ暗であった。
冷たい風が僕の体を叩いた。僕は道中着を着なおして、歩き出そうとした。
と、そのときだった、口から生臭い液体が噴出し、僕はわからなくなった。
ただ、「勿忘草を貴方に」の歌が、どこかから聞こえてくる。そうして、、、。

警視が、白檀の木下で男性の死体を見つけた。
自殺でも他殺でもなく、肺癌による喀血が彼を窒息死させたのであった。死体の腕
には、勿忘草の入れ墨があり、それは、陽光を反射して輝いていた。

勿忘草

勿忘草

余命数日と宣告された主人公は、ひょんなことから、あるサークルに加入します。そこに通っている人たちの、激動の人生を聞いて、彼は再び生きようと、考え直しますが、時すでに遅く、、、。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-27

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 第一章
  2. 第二章
  3. 終章