おかしな夫婦

第一章

序章
僕と加寿子は、結婚してまだ十日しかたっていなかったが、僕の会社が移転したため、
このマンションにやってきた。「シンフォニア」というマンションは、3LDKで、ちょ
っと贅沢なおしゃれなマンションだったけど、住人は三世帯しかないというため、家
賃を大家さんが半額にしてくれたのである。大家さんは、僕たちがまだ新婚なのを、
すぐ見抜き、残りの部屋はこれから必要になるから、ぜひすんでくれ、という。加寿子
は、ぜひそうして生きたいと願ったが、僕は正直言うとまだ、そんなきになれなかった。
なぜなら、僕は、結婚と同時に「支店長」というポジションも与えられたのだから。銀
行という世界もなかなか面白いものだ。しかし、僕はこれ以上におもしろいものを、こ
のマンションで得ることができた。

第一章
僕が仕事から帰ってくると、妻の加寿子は、必ずその日にあったことを話したがる。
今日誰にあったとか、こんなおいしそうな食べ物があったから買ってみたとか。しかし
加寿子の作るものはいつも「出来合い」だった。料理するといっても、レトルト食品
を加熱するか、炊飯器でご飯を炊くか、位しかない。僕は、学生のころは、家から通
っていたため、夕食は家で食べていたから、それなりに食事を作ることはできるが、
彼女は大学で、寮生活をしていたため、食事のことなど任せきりたったから、少ない
休日は、僕が作るようにしていた。
加寿子は、仕事はあまり得意ではなかった。僕の五年遅れで入社してきたが、よく
喋るし、美人だったから、お客さんに気に入られすぎて、仕事がふえてしまい、自分
で処理ができなくて、ほかの女性社員から嫌われていた。「あいつは結婚して、主婦
になっても生活に困らない」と、嫌がらせをされたときもあった。だから、早くから
結婚を望んでおり、大喜びで家庭に入ったのである。しかし、一人前になるには、ま
だとおい。
休日は僕が料理を作っていた。そうでないと栄養が偏ってしまう。
ある日のことだった。
僕が、帰ってきたときのことだ。ドアを開けると、カレーのにおいが充満していた。
「い、いったい、どうしたんだい?」
僕が聞くと、
「お隣の奥さんが、おしえてくれたのよ。あたしが、ごみ置き場にごみを捨てにいっ
たときにね、偶然会っちゃったの。今のゴミ袋は中身が見えるようになってるでしょ
う?そうしたら、お隣の奥さんが、レトルト食品ばっかだと、旦那様が長生きしない
よって、おっしゃって、カレーの作り方をおしえて貰ったの。」
加寿子は楽しそうに答えたが、僕は腑に落ちないところがあった。
「加寿子、お隣は、変な人いなかった?」
「ああ、そういえば、旦那様がお宅で仕事されてたわ。心理カウンセリングっていうん
ですってね。いいじゃないの、在宅勤務って。大好きな旦那様がいつも一緒って、うら
やましい。」
「心理カウンセリング?」
「ええ、何でも、心が病気の人が、生い立ちを話して、考えかたとかを、直してくれる
商売なんですって。今は、面白い商売があるのねえ。あたしみたいなおしゃんべくりも、
売り物になりそうって、おっしゃってたわよ。」
僕は苦笑した。カウンセリングは面白い商売ではない。クライエンとの生き方に直にさ
ようする。
「変わった夫婦だね。お隣は。」
「でね、奥さんがとても明るくて、今度お隣でホームパーティーしたいっていうから、
あたし、すぐ引き受けたわ。貴方も一緒に行きましょうよ。」
「そうだね。」
僕はしぶしぶ頷いた。
数日後、僕と加寿子は、お隣にいった。
チャイムを鳴らすと、
「はあい、」
という明るい声。
奥さん、すなはち近藤雪野さんが、出迎えてくれた。
「どうもいらしてくれてありがとうございます。」
僕は、その発話にどうも違和感があった。なんとなく子供っぽい。加寿子は、そういう
所が良いのだ、と、説明してくれたが、どこか違うような気がした。この前食べさせて
もらったあのカレー。それと合致しないのだ。あのカレーはホテルで出されるような、
超高級品だった。きっと誰かが伝授してくれたのだろう。
「雪野さん、うちの旦那よ。ただの銀行員。」
「ただのってことはないだろう、、、」
「とにかく、あがってくらはい。」
雪野さんは、僕たちを、居間に招いた。
「光男さん、お隣、きたよう。」
「あ、どうも、ありがとうございます。まったくだらしのないうちの家内ですけど、仲
良くしてやってください。」
といって、彼女の旦那さんである、近藤光男さんが、挨拶してくれた。本当に、苦労し
てきていることを感じさせる、物静かそうな男性であった。
「いまお茶いれるね。」
雪野さんは、緑茶を入れてくれた。
「ねえ、お二人はいくつなんですか?すごく素敵なご夫婦だわ。」
と、加寿子が面白半分に言った。
「僕が40で、家内は39です。」
「あら、お二人とも、まだ三十代に見えましたわ。40なんて感じませんよ。」
加寿子と、光男さんが、そんな話をしていると、雪野さんは、お茶をそれぞれの前に
おいた。そして、
「気持ち悪い。」
といい、湯飲みに中指をつっこみ、かき回し始めた。
「雪野さん、どうしたんですか?」
と、僕が聞くと、
「気持ち悪い、、、助けて!」
という。僕は、スマートフォンを取り出したが、
「雪野、君は昨日、明日お客さんがくるから、どうしても玉露のお茶がいいといい張る
から、大金はたいて買ってきたんだよ、それを気持ち悪いなんて、、、。また欝がきた
のかい?」
「ねえ、もしかして、」
と、加寿子の声が、スピーカーで流れているように聞こえてきた。
「雪野さん、おめでたじゃない?」
僕はピンときた。引っ越してきたばかりだけど、このマンションの近くに小さな産科病
院がある。光男さんが、スマートフォンで、産科の診察時間を調べてみると、まだ間に
合いそうだった。光男さんが、僕たちにもきてくれと頼んだので、僕らは行ってみる事
にした。


僕たちは産婦人科に到着した。光男さんのはなしでは、この町では産婦人科は
ここしかないという。そのとおり、沢山の妊婦さんたちが、生まれてくる子供
のことや、兄弟の育て方のことを話していた。
「みんなしあわせそうだな。」
光男さんが、僕にボソッとつぶやいた。後で意味がわかる。
「近藤雪野さん、どうぞ、診察室へ。」
看護師が雪野さんを呼んだ。男である僕たちは、診察室には行かなかった。僕
は、光男さんに、子供ができたら男か女、どちらがいいかとか、世間話をもち
かけたけれど、光男さんは何かじっと考え込んでいるようであった。また、何
か、恐れているような表情だった。
数時間後、雪野さんが、加寿子と一緒に戻ってきた。雪野さんは満面の笑みで
、これ以上うれしい事はない、ということが目に取れた。それをみて、光男さ
んは、更に不安になった。
「発表しまーす!」
雪野さんは選挙演説するように言った。
「光男さんが、お父さんになりました!」
僕は、彼女のこの上なくしあわせな笑顔をみて、ある意味羨ましいと思った。
「雪野さん、妊娠七週目ですって。まだ性別も何にもわからないそうだけど。
ただ、心配なのは、39歳でしょう、更に初産だから、ハイリスク妊娠にな
っちゃうのよ。くれぐれも、気をつけてねって、お医者様も言っていたわ。
あ、ご主人に来てほしいって。ちょっといってみてくれる?」
加寿子がそういうので、光男さんは、診察室にいった。
「雪野さんおめでとう。」
僕は、待合室で、雪野さんにいった。
「そうよ、ここの先生も喜んでくれた、もうおばあちゃんだけど。」
「それは安心じゃない。ベテランのおばあさまなら、何がおきても安心ね。
ハイリスク妊娠って言ったけど、何にも気にしなくていいわよ。あたしの親戚
では、45歳で産んだ人がいたわ。お医者さんったら、結構オーバーな事をい
う人だから、気にしなくていいからね。」
「おい加寿子。」
と僕は言った。
「あんまりおしゃんべくりは良くないぞ。ここは病院なんだから。」
「そうかそうか、ごめんねえ。じゃあ、家で続きしましょうか。」
「ばかだな、こういうときは、夫婦二人で、ささやかに祝いあうもんだ。君、
興奮しすぎてるよ。二人だけにしてあげよう。」
「すみません、、、ちょっと調子に乗りすぎたわね。」
そうこうしていると、光男さんが戻ってきたので、全員、マンションに戻った。
光男さんは、なにか、浮かない顔だった。後部座席の二人は、いつまでも喋って
いる。女というのはそういうものだ、と、光男さんはいった。
そして、マンションの玄関口で別れた。

夕飯の後片付けをおえると、僕はTVをみてすごした。加寿子はお風呂に入ってい
た。
すると、玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に誰だろう?と思って僕はドアを
開けた。すると、そこで立っているのは光男さんだった。
「夜分遅くすみません」
光男さんは深刻だった。
「と、とりあえずあがってください。」
僕は光男さんを居間に招きいれた。加寿子が風呂からでて、晩酌をしていたが、
びっくりして、持っていた缶ビールを落とした。
「やだ、光男さん、あたし、お風呂入ったばっかりで、こんな格好でごめんな
さい。」
加寿子は、フリルのついたパジャマを着ていた。急いでジャージを着た。
「実は、お願いがございまして。」
光男さんはいすに座り、静かに言った。
「家の家内に、堕胎をするようにいってくれませんか。」
「何を言うんですか!女性として、子供ができるのは最高の喜びなのに、それを
潰す気ですか?もし、高齢出産で大変なのなら、もっと良い病院さがして、連れ
ていきます。何でも手伝いますよ。」
加寿子は酔いのせいもあり、高飛車に言った。
「そういうことではなく、あいつは、それすらできないでしょう。」
「どういうことですか?」
僕は聞いた。
「実は、家内はですね、統合失調症なんですよ」
光男さんの顔は、悲しみに満ちていた。統合失調症と聞かれて、僕はまったくし
らないわけではなかった。僕が子供のころ、伯父がこの病気にかかり、自殺して
しまった、という経験をしたことがある。伯父さんは、常に監視されている、こ
わい、といい続け、誰の言うことも聞かなかった。異常だといえば、そうじゃな
いといって怒り出す。しまいに伯父さんの家族は、病院に伯父さんを預けたまま、
そのまま放置し続けて、伯父さんは、二度と外へ出ることなく亡くなっていった。
加寿子には、結婚するまえに話していた。しかし、そんな病気と縁のない彼女は、
昔のことだから、といって理解しなかった。
僕は、自分の伯父さんのことを話した。そして、雪野さんの症状を聞いた。光男
さんは、普段は明るく、元気に家事をしているが、何か間違いをしたりすると、
彼女に体罰をした担任教師の声が聞こえてきて、大騒ぎになる、と話した。それ
ゆえに、彼女は、母親になれない、と、光男さんは言った。そして、雪野さんが、
産みたい、といって聞かないことをはなした。
「でも、ですよ」
加寿子は酔いが覚めて、静かに言った。
「私は、女性として、やっぱり、子供ができたら産みたいと思います。雪野さん
も同じだと思います。統合失調症があったって、いいじゃありませんか。今は、
きっと、主人のころより、もっと医療や福祉も進んでいると思うんですよ。第一、
一番大好きな人の赤ちゃんができる喜びは、女性にとって最高の喜びです。それ
は、誰にも変えられないものですから。」
「そうですかね、、、。」
光男さんは涙を流していた。きっと、本当は、産ませてやりたいと思っているの
は、光男さんだろう、と推量できた。しかし、光男さんは、雪野さんを愛してい
るゆえに、現実とのギャップで悩んでいるのだ。
「光男さん」
僕は言った。
「僕たちは、協力します。マイナスになるものは、裏にプラスを含んでいると、
大学時代に習ったことがありました。だから、一緒に乗りこえて生きませんか?」
光男さんは、涙をふきながら、
「ありがとうございます。」
といった。時計が十二時を廻ってしまったので、光男さんは帰っていった。

佐藤家の上の階に住む種田家では、仏壇がおかれ、毎日欠かさずトッポギがおかれていた。
トッポギの皿の後ろには、まだ、大人になっていない、十五歳くらいの、少年の写真が置い
てあった。
「ご飯だよ、義男はトッポギ、好きだったねえ。」
中年というか、もう五十を越している女性が、小径をならして、手を合わせた。
「雅子」
やはり五十代の男性が、そっと言った。
「君は泣きすぎだよ。義男はもう帰ってこないんだ。」
「そうですね、今年は一周忌の年ですね。何も準備ができなくて。清さんは、悲しくない
んですか?」
「俺だって悲しいさ。明るく元気にいってきますといって、二度と帰らぬ人になってしま
うとはな。」
「やっぱり、私の、自己管理が甘かったのでしょうか。あの子がここにいるときに、きち
んと、検査をしておけば、あの子はあんな重い病気にはならなかったのでしょうかね、、。」
「君はすぐ羊水検査の話しをする。もう十五年の昔じゃないか。それに、受けたから、
全ての子供が健康になるなんてありえないだろう。もう忘れなさい。」
「でもね、、、あたしは、あの子を産んだときの、あの幸せは、忘れられませんよ。あた
しにとっても、最初で最後の子供だと、お医者様に言われてましたから。」

その日、加寿子と雪野さんは、種田さんのお宅を訪問しに出かけた。加寿子が、赤ちゃんに
栄養を取らせるための、料理を習ったらどうかと持ちかけたからだという。すると、雪野さ
んは、種田さんというひとが、すごく料理がうまいから、習いに行こう、と言い出した。あ
のカレーは、種田さんに習ったために味が良かったのだと、雪野さんは言っていた。
雪野さんがチャイムを押すと、
「どなた?」
と、女性の声がした。
「あ、奥さんの雅子さん。旦那様は清さんね。」
雪野さんは説明した。
「こんにちは雪野です。お隣さんをつれてきたよー。」
「はじめまして、佐藤加寿子といいます。」
「どうぞお入りください。」
がちゃり、という音がして、髪の白い婦人と、落ち込んでいるような男性が出迎えてくれた。
「雪野ちゃんまたきたの、またパスタを習いに来たのかい?」
「そうよ、体にいいものばっかりの、パスタの作り方教えてよ。」
「パスタの先生なんですか?」
と、加寿子は聞いた。
「ええ、まあ、料理学校で教授をしていました。イタリアン専攻なので、パスタばかりなん
ですよ。昨年に辞職しましてね、いまは、こうしてお料理を個人的に教授する事業をやって
います。」
雪野さんは、謝礼と書いた袋を手渡した。加寿子も手渡した。
「加寿子さんは、いままで料理の経験はありますか?」
雅子さんが、聞いた。
「それが、わたし、ぜんぜんできないんです。女らしくありませんね。いつも主人にしから
れてばっかり。」
僕はそのころ、大きなくしゃみをしていた。
「ねえ、新米主婦が一番簡単にできるパスタって何かしら?」
雪野さんがきくと、
「そうですね、やっぱり、パスタの基本はミートソースですね。ちょっと手間はかかるけど、
これがうまくない店は、ほかのパスタもおいしくありません。ミートソースを、今日は稽古
してみますか?」
と、清さんが言ったので、ミートソースを稽古することになった。
早速、授業が始まった。野菜を細かく刻み、ひき肉をいためる。すると雪野さんがうめき声
をあげた。
「ちょっとトイレに、、、。」
といって、勝手にトイレに行ってしまった。
「あら、雪野ちゃんまた食べつわりだわ。」
加寿子は、軽く言ったが、老夫婦は、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
「雪野ちゃんに赤ちゃんができたの、、、」
雅子さんは、静かに言った。
「はい、そうですよ。このあいだ、診察してもらいました。」
口の軽い加寿子は、さらりと言った。
「そう、じゃあ、私と同じ歳に、お母さんになるのね。」
「あ、お子さんがいたんですか。いま、結婚されたのかな?」
「いいえ、逆さ鏡なんです。十五歳のとき、星になりました。」
「どうしてまた!交通事故とか?」
「違うんです。」
雅子さんは、静かに言った。
「あの子が私に宿ったとき、私は、コーラスの指導者で、三つの楽団を掛け持ちにして、
羊水検査を受ける暇がなかったんです。そして、生まれた息子は、福山型進行性筋ジス
トロフィーにかかって、15歳で亡くなりました。」
「そうだったんですか。お線香上げてもいいですか?」
「ええ、ぜひあげてください。友達もなかったあの子のことですし、喜びますよ。で、
それからね、雪野ちゃんに、羊水検査を受けるように薦めてあげて。高齢初産は本当に
きついから、それにすごく危ないのよ。赤ちゃんだけじゃない、お母さんも。」
「嫌よ!」
と、ものすごい怒鳴り声が聞こえてきた。振り向くと雪野さんだった。
「あたしは、絶対に受けないわ、そんなもの!そんなことをするのは、この子を殺すこ
とになるでしょう?」
雪野さんは更に怒鳴った。
「そうはいってないわよ、雪野ちゃん。赤ちゃんを産んで育てるって、何も障害がなく
ても大変なのに、ましては、病気の子を育てるなんて、すごく大変なのよ。そうならな
いための、検査なの。」
「ちょっと待ってよ、それで病気とわかったらどうするの?大体おろすでしょ、あたし
は絶対にそんなことは許さない。そんなの殺人よ。おまわりさんに見つかって捕まれば
いいのよ!」
加寿子が、加担することもなく、雪野さんは一人で怒鳴っていた。
「ああもう、なんで、そういうひどい目であたしを見るの!ああそうよ、あたしはあば
ずれよ!二度と普通の人と、みてはくれないんだ。あーーーっ、もういやーーーっ!」
「雪野ちゃん!」
と清さんの鋭い声。
「君は、赤ちゃんがいるでしょう!」
雪野さんは、一瞬固まった。とたんに小さくなった。そして、
「あ、そうか、赤ちゃんがいた、、、。」
と、腹部を庇うようにさすり、
「ごめんね、ママ、怒りん坊だったね。これから気をつけるね、、、。」
と何度も繰り返した。

結局、作りかけのパスタは清さんが処分してくれた。加寿子は焦げた鍋などを、弁償し
ようかといったが、その必要はない、雪野ちゃんは、カッとするとああなるが、根はす
ごくいい人だから、大丈夫、と清さんは言ってくれたという。
「すごいなあ、女の人って。」
と、僕は言った。
「心が病んでいても、お母さんなんだっていう、自覚は泣くならないんんだね。」
「あたしも、びっくりしたわ。」
と、加寿子はしんみりといった。
「でも、雪野さんは、赤ちゃんに障害があるとしても、必ず産むと思うわ。これは女の
勘だけど、目を見たら、何が何でもって言う顔していたわよ。」
「きっとそうだろうね。」
僕は、ぼんやりとビールを飲んだ。

第二章

水口奈津子は、今日も家に引き篭もった。夫の智輔は、ほとんど家にいない。
レンタカー会社ではたらき、そして駐車場係のアルバイトをしている。
帰ってくるのは十二時過ぎで、休日もなく、朝は六時に出かけてしまう。
奈津子は原因はわかっていた。原因は自分だ。自分が働けないからだ。
奈津子は、優秀な高校に通っていた。しかし、思っても点数は伸びず、酷い
摂関をされていた。それまでの母親は優しいし、奈津子は大好きだった。し
かし、自分が大学に行くと言い出してから急に厳しくなった。奈津子は、友
人から、その大学は、あまり厳しくはないし、楽しいところだ、と知ってい
たから、あまり勉強には精を出さず、だいすきなバレーボールに夢中だった。
しかし、母親に、むりやり部活をやめさせられ、始終机に座ったまま、外出
を許されない夏休みに、奈津子は自殺を図って入院し、精神科医のこれ以上
家族と住まないほうが良い、という薦めにしたがって、現在の夫である、智
輔と見合いで結婚し、誰も知っている人はいない、このマンションに引っ越
してきた。
奈津子は、働けないのは良く知っていた。だからこそ苦しかった。夫の智輔
は、穏やかなやさしい人ではあったけれど、一箇所だけ違う箇所があった。
智輔は子供をほしがった。しかし、奈津子は高校時代の経験から、どうして
も子供を持てる自信が無かった。自分が母親になれば、同じことをしてしま
うだろう。それでは子供がかわいそう。彼女はそういうわけで、母親になれ
ない、と、定義していた。智輔には、同じマンションに住んでいる、近藤雪
野という女性も、心の病気のために、子供を持てない、自分も同じだから、
と、智輔に談判し、自身は障害者手帳を作って、証明写真のように持ち歩い
ていた。だから、働けない。さらに、母親が教育費をかけすぎたせいで、家は
破産している。だからお金が無かった。やさしい智輔はそれを全部受け止めて
くれたけれども、奈津子は捏造におびえながら暮らす日々となった。
ある時、智輔が息を弾ませて帰ってきた。布団で眠っていた彼女は、不意に目
がさめた。
「奈津子!」
智輔は戸をあけた。
「僕が行ったとおりだよ、雪野さんが身ごもったんだ。もう三十九で、統合
失調症となれば、二度と子供はできないって、君は言っていたけれど、君は
まだ、三十四で、まだまだ僕らには望みがあるよ、奈津子、もう少しだけが
んばってくれないか、頼む、一生のお願いだ!」
奈津子は、驚きと怒り、恐れが同時に湧き出してきた。雪野は、石女ではな
かった。確かに、彼女のそのあたりは調べておかなかったのだ。事実は、雪
野の夫である光男が、雪野の薬を管理していたからである。女性の本能を消
す薬を与えていなかったことによるのだ。
「あいつを殺してやれ!」と、どこからか声がした。奈津子はその通りにし
ようと思った。

数日後
珍しく休みをもらった僕は、ずっと家の中ですごしている加寿子がたまには
どこかへ連れて行ってやらないと困るだろう、と思い、雪野さんと光男さん
と一緒に、ショッピングモールにでかけた。そこへいく電車は、ある意味社
会の縮図のようなところがある。ランニングシャツ姿の人、和服を着ている
人。フランス人形のようなロリータさん。かと思えば男性が女性が好む色を
着ていたり。床にしりをつけ、お菓子を食べている女子高生たち。勉強など
全くしないで、カバンを軽々と持ちながら、いやらしい性行為を自慢する、
男子大学生や高校生。本当に、日本もおかしくなったなあ、と思いながら、
僕は電車に乗った。光男さんは、そういう人たちだからこそ、自分のところ
へ、カウンセルを依頼する、と説いたが、僕はまったくわからなかった。
雪野さんは、腹部が少し飛び出してきた。もともとぽちゃっとした体格だか
ら、妊娠しているか判断に迷うところだが、今は、気をつけてみれば、そう
かな?と思われるようになった。加寿子と二人、胎動を感じるようになった、
などと楽しそうに笑っていた。
「雪野も」
光男さんは言った。
「少しは母親業も勉強しないといけませんね。まあ、僕も勉強しなくては。」
光男さんは、子煩悩だった。雪野さんよりも熱心で、服や粉ミルクを吟味して
いた。雪野さんが薬を飲んでいるから、母乳で育てることはできないし、牛乳
もいけないという。光男さんは、それではスキンシップにならないのでは、と
心配していた。
僕たちは駅に着いた。雪野さんの体が心配で、エレベーターに乗ろうと、光男
さんが提案したが、小さい駅なので、エレベーターが無く、エスカレーターに
乗るしかなかった。
雪野さんが、エスカレーターに足をかけたそのときだ。
電車から、豹柄のシャツを着た若い女性が、エスカレーターに駆け寄ってきて、
雪野さんにぶつかった。
「あっ!」
と雪野さんは躓いた。エスカレーターを転がり落ちた。
「い、い、い、」雪野さんは腹部を押さえた。
「雪野さん、待っててね、今救急車よぶからね!光男さん!」
僕は、スマートフォンを回した。
光男さんは僕と一緒に犯人を追いかけていた。その女性は、幸いなことに
運動神経が良くないようで、すぐに取り押さえることができた。
警察への通報は加寿子がした。救急車も五分もしないうちにやってきて、雪野
さんは、加寿子と一緒に病院に向かった。
光男さんたちは、交番にいた。
「水口さん」
光男さんは静かに言った。
「今、貴方のご主人が来てくれるそうです。」
女性はサングラスを取った。机に突っ伏して泣いた。体格は確かに二十代なの
だろうが、其の目は子供のようにおびえ、体はがたがたと震えていた。そして
左の手を右の手のつめでがりりと引っかいた。
「自傷はやめなさい!」
光男さんは彼女の手を押さえた。
「いやだって言ってんじゃねえか!」
女は、金切り声で叫び、それを振りほどいた。光男さんは床にひっくり返って
しまったが、どこも怪我していなかった。
「おいおい、水口さん、次は傷害罪か?」
警官が笑いながらいった。
「笑ってんじゃねーよ!」
女性は、警官にも飛び掛ったが、警官はお手の物。思わず僕も彼女にタックルし
た。まあ、警官はこういうことは慣れている。すぐ受身して彼女に手錠をはめた。
「おい!」
聞いたことの無い声。強い若者の声だ。
「奈津子!」
大柄な男性が、交番に飛び込んできた。見るからに苦労した、という顔立ちをし
ていた。顔も体も真っ黒に日焼けしていて、本来なら彫りの深い、優しそうな顔
なのであるが、日焼けにより、それが消され、怖い伯父さんのように見えるのだ。
「あ、すみません、水口奈津子の夫の智輔です。皆さん、家の妻が不祥事をして
しまいまして、申し訳ありません!」
そういって、彼は、光男さんだけではなく、僕にも警官にも頭を下げた。
「なんだお前、また何かやったのか!この、馬鹿野郎!」
彼は、奈津子さんの頬を平手打ちした。まるで、アントニオ猪木みたいだった。
でもこの人は、怖い人ではない。やくざの関係者でもなさそうだ。確かに言葉も
乱暴だし、体も大きいが、其の目がそうではなく、奥さんを心から愛している、
ということが、よく見て取れた。
其のとき、僕のスマートフォンが鳴った。
「もしもし?」
「あ、安男さん、雪野さんの赤ちゃん、大丈夫だそうよ。産科のお医者様がすぐ
処置してくれたから。わたし、心配だから、一日だけ病院に泊まるわ。雪野さん
は、いま病院で眠ってる。ただ、警察の取調べは落ち着くまで待ってと、お医者
様から伝言をもらっておいた。」
「ありがとう加寿子。僕たちもまだ話が片付いてないから、また連絡するよ。」
僕は、電話を切って、光男さんに、赤ちゃんは大丈夫だ、と小声で伝えた。光男
さんは、ありがとうといいながら泣き出した。
「えっ、、、まだ生きてる、、、?」
奈津子さんは、思わず言った。
「いい加減にしろ!人の命を、ましてや、これから生まれてくる命を、奪おう
とするなんて、人間失格だぞ!」
「あたし、、、あたし、、、きっと殺してやろうと思っていたのに。」
「命って、不思議なものだなあ、、、ちっとやそっとで、だめになったりしない
んだな、、、。」
僕は思わずつぶやいた。
「雪野さんの愛情だったんじゃないかな。」
智輔さんは言った
「子供を守ろうとするときの、女性の本能だろう。雪野、よくやってくれた!」
光男さんは感激していた。
「そうかあ。奈津子さん、今の人たちの言葉を忘れず、生活するんだぞ。しかし、
羨ましいな。こうやって、仲間が支えてくれて、雪野ちゃんは幸せだな。俺も早
くいい嫁さんもらわないとなあ」
警官が思わず言って騒動はお開きになった。智輔さんと奈津子さんは警察署へい
き、僕たちはマンションに帰った。
雪野さんは、ひがたつごとに、腹部が大きくなってきた。誰が見ても妊婦さん、
と、すぐにわかった。
雅子さんが、帝王切開の指導をしてくれた。雅子さんが良い病院を探そう
か、と提案すると、雪野さんはこういった。
「あたしは、自然なお産をしたい。心をやんでるから、自然分娩してはいけな
いっていう、法律はどこにも無いでしょう?」
確かにそうだ。雪野さんは更に続ける。
「あたしは、病院で変にカッコつけて指導する医者のまえでは、産みたくない。
いい人たちがたくさんいる、ここで産みたい。」
「雪野ちゃん」
雅子さんは、静かに言った。
「出産っていうのはね、本当に大変なのよ。生理痛の何十倍も痛いものよ、そ
れに、あなた、薬飲んでるでしょう?いきめなくなったら、赤ちゃんが窒息死
してしまう恐れがあるのよ。やっぱり、病院のほうがいいんじゃない?」
「いやよ、わざわざ手術までしなきゃならないなんて。たまには苦しくなって
みたいわ!」
「雪野ちゃん、そんなこと言わないの。赤ちゃんも命がけよ。あなたはそれを、
自分のエゴで殺そうとしているようなものよ。赤ちゃんも、一生懸命やらなき
ゃいけないし、お母さんも一生懸命やらなけらば、自然分娩はできないわ。そ
れに、これからのほうが長いのよ。貴方がつかれきってしまったら、赤ちゃん
は、お母さんに会えないまま、一生を過ごさなければならないわ。」
「雅子さん」
雪野さんは、小さいけれど、しっかりした声で言った。
「雅子さんは息子さんを、なくしたんだよね。羊水検査受けてって、あたしに
も言った。それって、本当の愛情なのかしら?息子さん、筋ジスで亡くなった
そうだけど、羊水検査でわかってたら、確実に堕胎していたでしょう?」
「雪野ちゃん、それは、心の準備よ。供えあれば憂いなしっていうでしょう?
生まれる前に筋ジストロフィーの本を読んだり、親の会に参加しておけば、あ
る程度肝が据わるようになるものよ。」
「そうかしら、でも、息子さん、本人はそれで幸せかしら。何でもマニュアル
化して、息子さんの感性を、潰すことになるんじゃないかしら。そして、生ま
れてこないほうがよかったって、ならないかしら。」
「雪野ちゃん、きみはいよいよお母さんになってきたなあ。」
清さんは包丁を洗いながら言った。
「お母さんの代わりの役をずっと演じてきたって、君は言っていたよね。同時
に本物のお母さんになりたいと思っていた矢先に、統合失調症だ。どんなに辛
かったろう、でも光男さんと結婚し、子供をもうけたなんて、もう、病気の枠
からでて、新しい自分になると決めるようにし向かれているんじゃないのかな。
いいさ、自然分娩すればいい。何かあったら、また考えれば、それでいいじゃ
ないか。」
清さんは包丁をしまった。
「まあ、男には、こんなことを言う権利は無いのかもしれない。けど、母親に
なることを、すぐ簡単なほうへいこうとする人があまりに多いから、雪野ちゃ
んみたいに自然分娩をこんなに望むのは偉いと思うよ。なあ、雅子、僕らの息
子が生まれたときに取り上げてくれた、お産婆さんは誰だっけ?」
「だって、十五年前の話ですよ、もう、引退されたんじゃありませんか?あた
したちのときだって、かなりお歳だったでしょう?」
ちょうど其のとき、加寿子が回覧板をもってやってきた。
「こんにちは、回覧板です。あら、雪野ちゃんもいたの、ちょうどいいわ、あ
がらせてもらうわね。」
加寿子は、このマンションの住人たちにすっかり打ち解け、勝手にあがりこむ
癖がついていた。
「ねえ、加寿子さん、」
と、雅子さんが言った。
「助産師の、小泉博子さんをあなたのスマートフォンで検索してもらえないか
しら。」
「かしこまりました。」
加寿子はスマートフォンを取り出し、小泉博子、と検索した。
「すごいおばあさんだけど、まだ現役だわ。すごいわね、800人も取り上げて
る。あ、ブログがあるわ。」
加寿子はそのサイトを開いた。
「産婆、小泉博子のブログ」と書かれたそのブログは、これまでにとりあげてき
た、事例がたくさん載っていた。重度の妊娠中毒症の婦人の例、肺や心臓に持病
がある婦人の例など、「障害のある人」たちに自然分娩を成功させ、「人は痛い
から、母親になる。昔ながらのお産というものは、非常に合理的で、現代の楽し
て産ませる、という思想は、親になれない」という文句が書かれていた。写真も
たくさん載っていて、お産の姿勢も様々。鉄棒のような物をつかみ、腰を曲げて
いる婦人、天井につる下げた綱を持っている婦人、など多種多様である。しかし、
分娩台、というものはなかった。
「すごいな、、、もう九十六歳なのにまだやっているのか。」
清さんが言った。
「そうね、この方なら、信用できるかも知れないわ。あたし、問い合わせてみま
す。」
と、加寿子が言ったが、
「あたしにやらせて!」
雪野さんが言った。そして、スマートフォンのダイヤルを回した。
「はじめまして。」
電話がつながったようだ。
「あたし、近藤雪野といいます。」
「はい、初めての方ですねえ。」
品格のいいおばあさんの声が聞こえてきた。
「お産は初めてですか?」
「はい、あたし、どうしても自然分娩がしたいんです。みんなにはやめろと言わ
れてます。でも、あたしはお母さんになるんだから、どうしても体験したいんで
す。」
雪野さんは語り始めた。
「あたし、実は統合失調症という病気なんです。夫に言われて、やっと気づきま
した。それまでは、何にも悪いことはしていないのに、なんで罪人みたいな扱い
をされなきゃいけないのかって、思っていましたが、それは病気の症状だそうで。
あたしは、勝手にこの世界は私のものだ、とか口にしていましたが、それがいけ
ないってことも、主人から言われました。つまり夫の話では現実にいたくないか
ら、そういう世界に行ってしまうのだと、いわれました。あたしは、病気になる
前は保育士だったんですが、本当に大変な仕事でした。でもあたしは、子供が成
長するさまも、みてきました。夫は保育士には二度となるな、といいましたが、
こうして子供が宿ったんですから、保育士の経験が生かせる職業、即ち母親にな
るために、まずは自然分娩をしたいんです。赤ちゃんがここのいるのは、妄想で
もないし、幻聴でもありません。ちゃんと現実の世界です。あたしは、きっと何
とかなると思っているんです。こんな人間で、申し訳ないですが、あたしが、お
母さんになる支度を、手伝ってくれませんか?」
雪野さんはここまでを一気に話した。
「お話はわかりました。では、明日から、分娩の練習をしましょう。」
小泉博子さんのやさしい声がした。
「はい、お願いします。」
もう一度、加寿子はスマートフォンを受け取り、雪野さんの住所や、電話番号など
を伝えた。
「そういえば、雪野ちゃん、ご主人は?全然見かけなくなったけど。」
雅子さんが聞くと、
「あ、いまね、カウンセラーの研修会で東京行ってる。」
雪野さんは答えた。
「それにしてはずいぶん長くない?」
雅子さんの言葉で、暢気な加寿子も、
「そういえばそうねえ。」
と、相槌をうった。
「いいのよ、家のなかで、いつまでもいるより、外へ出たほうがいいんだから。」
雪野さんはまったく気にしていないようであるが、他の三人は顔を見合わせていた。

光男はそのころ東京にいた。
毎日、雪野の世話でつかれていたし、酒も飲めない。カウンセラーの研修にいった
あと、家に帰りたくないな、という思いが現われ始めた。
光男は、研修会の後、銀座のホテルに向かった。其の途中、小さなバーがあった。
昨年もこのホテルに泊まってはいたけれど、このバーはまだなかった。いつの間に
できたのだろうか、好奇心で入ってみた。
「いらっしゃいませ」
初老のバーテンダーが迎えた。其の隣に、まだ二十歳そこそこの女性がいた。
かなりの美少女だ。本当に女らしい。豊胸で、ウエストは締まり、また、豊かな尻
ももっている。水商売には向いているかもしれない。
「あ、この人ね、真理子さんっていって、昨年入ったばかりなんですよ。こんな若
くみえるけど、もう三十九なんですよ。」
「真理子です、よろしく。」
美女は、そういった。すこし低い声だ。雪野とは違う、落ち着いている。やっぱり
彼女は、健常者だ。健康な女性と話したのは何年ぶりか。相手といえば、妻の雪野
や、クライエンとたちだったから。
「ご注文は?」
「じゃあ、ブランデーを。」
「了解です、少し待っててね。」
数分後、ブランデーが置かれた。光男は一気に飲んでしまった。
「まあ、伯父様、すごいのね。」
彼女はおどろいたようだった。酒になれていない光男は、べろべろに酔ってしまった。
彼の頭の中を、とてつもない欲望が支配していた。
「おれはよ、」
光男は、テーブルを叩きながらどなった。
「毎日毎日、精神病のやつらを相手して、この十年間、いちどもやったことの無い、
だめな男だ。」
二人は、「やってない」の意味がすぐわかった。
「普通の、女性、健康な女性。これがやっぱり一番で、一番乗り心地のいい物体だ。
俺の妻も精神病で、子供なんか育てられないのに、産もうとしている。そんなやつ
では無く、健康な女を襲って見たい。襲ってやるぞ、」
そうして、真理子の体に抱きついた。
「なにをやっているんですか!」
という、声が聞こえたが、あとは記憶が無い。

真夜中。僕が眠っていると、大音量でスマートフォンが鳴り出した。
「わあ、じ、地震でもあったか?」
と。思って大急ぎで画面をみると、警察署であった。
「あ、すみません夜分遅く。じつはですね、、、」
「ええっ!」
僕は大声を上げてしまった。隣のへやで寝ていた加寿子が目を覚まし、
「どおしたのう」
といった。
「光男さんが、強姦で捕まったんだってよ!で、家で引き取ってくれというんだ。
光男さんの財布に、僕の名刺があったから、こっちへかけてきたんだって。とり
あえず、ぼくはいってみるよ。」
「雪野ちゃんには何て言う?耳が肥えてるからすぐ気がつくわ。もしかしたら、シ
ョックで流産しちゃうかもしれない。どういったら良いのかしら。」
僕は、何がなんだかわからないが、とにかくいってみるといい、高速道路を飛ばし
て銀座に行った。案の定、真夜中なので、雪野さんはすぐ目覚めたらしく、僕が車
のエンジンをかけると、電気がついた。

僕は銀座に着いた。こんな時間でも、この町は眠らない。あちらこちらに風俗店が
ならび、売春婦たちが客をせびっている。
僕は、警察署にいき、佐藤安男と名乗ると、太った刑事が、
「この方に見覚えはありませんか?」
と、留置場に僕を連れて行った。
「やすおさん」
そこに光男さんがいた。酒のにおいが吐き気を催すほど漂っていて、光男さんの服
も乱れている。
「どうして僕は、こんなことしてしまったんでしょうか、、、。」
光男さんは幼児の様に泣いてしまった。
「どうしてぼくは、こんなことをしてしまったのでしょうかああああ!うちの雪野
を、だれよりも誰よりも、愛しているのにいいいい!」
「そんなこといったってね、」
先ほどの刑事がいった。
「被害者がいるんですから、それなりに、敬服していかなければなりませんよ!」
「どうして僕が、どうして僕が、、、お願いです、刑事さん、ここから出してく
ださい、もうすぐ、妻との間の、子供が生まれるんです。お願いします!」
「しかし、あなたは、その奥さんとではなく、普通の人とやりたくて、強姦したん
でしょ?被害者がそういっている以上、ちゃんと裁きを受けなければなりませんよ!」
「刑事さん」
僕は聞いた。
「その、被害者って言うのは誰なんです?」
「えーと、バーのウエイトレスです。三十九歳です。」
「で、其の女はどこにいるんですか?」
「はい、たったいま、部下の者が、近くの精神科につれていきました。半狂乱でした
ので。」
「じゃあ、彼女に合わせてもらえませんか?僕は、彼が強姦をしたとは思えないんで
すよ。いつも奥さんの側にいる優しい男性です。それは僕が保障します。」
すると、刑事のスマートフォンがなった。
「俺だ。」
「警視、とんでもないことがわかりました。精神科で検査したところ、真理子という
人物は、女性ではありません。性同一性障害です。本名は、田中久。二年前に性転換
手術を受けています。そして、あのバーのマスターなんですが、あれは暴力団に関わ
りがあり、二人で客に睡眠薬の入った酒を飲ませ、強姦の被害受けたように装い、客
をゆすっていたそうなんですよ。ゆすりの被害にあった客は、300人近くなります。
だから被害者は、真理子ではなく、近藤光男さんですね。」
警視の電話は古かった。ぼくにも部下の方の、声がわかるほどだったから。
「おはなしはわかりました」
警視は、電話を切った。
「釈放します。」
そういって、牢屋の戸をあけた。
一言も謝らなかった。
僕と、光男さんは、男泣きしながら、戻ってきた。ちょうど空が夜から、朝に変わって
いた。雪野さんが、ドアをあけて、駆け寄ってきた。
「光男さん、よかった、無事で!」
雪野さんは夫に寄り添った。
光男さんも、彼女を抱きしめた。
「いい奥さんもらったじゃないですか。」
僕は、雪野さんのように感情をあらわにできるのは、かえって羨ましいと思うように
なった。
「おかしな夫婦だけど、いい夫婦だわ。」
加寿子はそういった。
雪野さんはいよいよ臨月になった。僕たちは、真新しい布団を買い、産室を作って
あげた。
一日何度もカレンダーをみたが、赤丸で囲った
予定日、結局なにもおこらなかった。そして、一日、二日、三日経った日。

僕はいつもどおり銀行で仕事。加寿子は、清さんたちの料理教室にいっていた。
奈津子さんは、たいした用事もなかったから、家にいた。
しばらくすると雨が降ってきた。奈津子さんは、急いで洗濯物を取り込もうとベラ
ンダの戸をあけた。
声がした。
「いたあい!」
また声がした。
「いたい、痛い!」
奈津子さんは見当がつかなかったが、こえの高さから、雪野さんだとわかった。
すぐ、彼女の部屋に飛び込んだ。
「雪野さん!」
雪野さんは、ベランダで、腹部を押さえながら苦しんでいる。
しかし、これが陣痛だと、奈津子さんは理解できなかった。どうしたらいいのか
も、わからなかった。取り合えず、救急車をよぶべきか?とおもったとき、清さ
んが
「なんだ、玄関のドアを開けっ放しにして、雪野ちゃん、空き巣が入ったらどう
するの、、、」
と、言いかけると、
「いたあい!」
という叫び声と、どうしていいかわからなくなって、携帯電話を探し回っている
おとがする。清さんは、声の質で、奈津子さんの声とすぐわかり、持っていた食
材をすぐに落として
「なっちゃん!すぐ産婆さんをよんで!」
奈津子さんはやっと之がお産の始まりだ、ということに気がついた。しかし携帯
がどこへいってしまったのか、とおもったら、清さんの足元にあった。奈津子さ
んは、ダイヤルを回し、小泉さんを呼び出した。清さんが、買出しから戻らない
ので様子を見に来た加寿子と雅子さんは、お産が始まったとすぐわかった。
僕のスマートフォンが鳴った。僕は、急いで仕事を切りあげ、雪野さんの部屋へ
すっ飛んでいった。
僕が来たときは産婆さんである小泉さんが到着していて、加寿子や雅子さんがお
湯を用意したり、いろいろな準備をしていた。智輔さんが、産婦は何か食べたほ
うがいい、といってお結びを作っていた。しかし、一番肝心な、光男さんは、ど
こに?
「加寿子、光男さんは?」
「いま、呼び出しているんだけど、、、。」
「光男のばーか!」
雪野さんの声だ。僕は腹が立ってきた。この大事なときに、なぜ?非常に不条理
だ。
「僕、光男さん探してくるよ!」
僕は、急いで車を走らせた。スマートフォンのアプリで、光男さんがどこにいる
のか確認が取れた。そこを知り、僕は激怒した。とにかく、制限速度を超えて車
をはしらせ、ある歓楽街に来た。
光男さんは、あるクラブにいた。加寿子が光男さんの出張が多すぎると、雪野さ
んがもらしていた、と話していたことは聞いていた。しかし、光男さんは、毎日
こういう伽場蔵に通いつめていたのだ。
僕は、自動ドアを叩き割るような気持ちで、その店に入った。
「光男さん!光男さん!」
「何ですかあなたは。」
遊女がひとり近づいてきた。本当に美人だ。しかし、雪野さんほど美しくはない
と、僕は思った。
「近藤光男さんに会わせてくれ!はやく!」
遊女は、こわがって、僕を部屋に連れ込んだ。
「光男さん、生まれるよ!はやく戻ろう!」
光男さんは何の反応もしない。
「あら、みっちゃんて、奥さんいたの?一人で寂しいからじゃないの?」
遊女たちは、口々に尋ねる。光男さんは答えない。惑わしの魔法にでもかかったの
か?
「目を覚ませよ!」
僕は、光男さんの頬を思いっきり叩いた。
「雪野さんが、どんなに苦しんでいるか、自分で見てみろ!来い!」
ぼくは、光男さんをひっぱり、車に押し込んで、また車を走らせはしらせ、太陽が
姿を消したころ、マンションにたどり着いた。

僕たちが到着したとき、雪野さんの声はどんどん大きく強くなっていた。
「初めてのお産ですから、まだまだ時間はかかりますよ。がんばってね。」
小泉さんがのんびりした声で言う。雪野さんはその声を聞く余裕が無いのだろう、
イタイイタイとうなり続けていた。
「あの、」
と、僕は言った。
「光男さんをつれてきました。」
雪野さんが光男さんの方を見た。
「あんたなんか、あんたなんか、あたしの夫じゃないわ!出てってよ!出てって
言ってるでしょう?出てけ、出てけ、でていけー!」
「雪野ちゃん、そんなこといっちゃ、、、。」
加寿子はつぶやいたが、
「いやいや、こういうことをいう、産婦さんは珍しくありませんよ。」
小泉さんは優しく言った。加寿子は、腑に落ちないようで、軽くため息をついた。
「さあ、雪野ちゃん、いまからね、赤ちゃんを押し出すよ。ほうら、頭が見える
でしょう?」
小泉さんは鏡を出した。僕たちにもわかった。股間の隙間から、黒いものが見え
た。おそらく、髪の毛だ。
自動的にいきみたくなったのだろうか、雪野さんは、
「う、う、うーん」
といきみ始めた。
「いいよ、いいよ、いいよ、上手よ。その調子!」
いきむと、なんとなく顔が見えるのだが、やめると、引っ込んでしまう。
そのとき、雪野さんは、眠るようになってしまう。所謂眠り産だ。
「雪野ちゃん、寝ちゃだめよ!」
小泉さんは、雪野さんの足をぴしゃぴしゃ叩いた。
「寝たら、赤ちゃんが窒息してしまうわよ!がんばれ!」
出産経験のある、雅子さんが言った。僕はこっそり、眠り産はどうして危険なの
か聞いたが、男である以上、理解しにくかった。
「雪野ちゃん、しっかりして、寝たらだめよ!」
加寿子も雪野さんの体を叩く。雅子さんも加担し、清さんは、祈りの姿勢をした。

「雪野!」
聞いたことの無い声だった。
全員後ろを振り向いた。応援の言葉が静まった。聞こえてくるのは雪野さんの、
怪獣のような唸り声だけ。
光男さんは、雪野さんのもとへ駆け寄り、
「雪野ごめん、ごめんね!」
と、涙を漏らした。そして雪野さんの手を、がしっとつかんだ。
雪野さんの目の色が変わった。
「う、う、う、ううううううううんっ!」
と、強くいきんだ。赤ちゃんの体が、股間から、せり出してきた。
「よくやった、雪野ちゃん!」
小泉さんは、赤ちゃんの体をつかんで引っ張り出した。肌色というより、ピンク
色であり、羊水でぐっしょりぬれていて、まだ臍の緒が、青かった。
そして、僕たちが、聞いたことの無い響き、天使の声のような、甲高い、声がき
こえてきた!産声だ!
「ほうら、元気な男の子よ。おめでとう!」
そういって、小泉さんは、赤ちゃんを、お母さんの胸に乗せてあげた。お母さん
は、言葉が無く、ただ涙をながしていた。そして、誰よりも美しい目をして、
彼を強く抱きしめた。
「お父さん、はさみを持ってきて。」
小泉さんはいった。一瞬、僕は、なんのことだかわからなかったが、すぐにわか
った。光男さんは、化粧箱からはさみをだし、彼の臍の緒をぱちんときった。
「この子、何て名前にしようか」
雪野さんは聞いた。とにかく、羊水検査や、性別検査などは何もしていないので、
生まれてきたらきめよう、と構えていたと、加寿子から聞いていた。
「うん、ちゃんと考えてある。」
と、光男さんは言った。
「君と僕から一文字とって、光雪としよう。」
「近藤光雪くん、お誕生日、おめでとう!」
清さんは、拍手をした。つられて、全員が拍手をし、光男さんは雪野さんと、
光雪くんを抱きしめた。
「あたしたちも赤ちゃんほしいわね」
加寿子が僕に囁いた。

おかしな夫婦

おかしな夫婦

ある若い夫婦が、新しいマンションに引っ越してきました。住人はみんな個性的でした。その中の夫婦に赤ちゃんができます。妻は心の病気を持っていました。無事に出産までたどり着けるでしょうか。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-27

Copyrighted
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Copyrighted
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  2. 第二章
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