家族

佐藤木綿子は、不安と恐怖を抱えながら病院をでた。DID、多重人格障害、これは、どうしたら良いものか。
夫繁樹は、彼の他に、益男、京子、この二つが内蔵している。それは、わかった。では、どうしたら佐藤繁樹にもどるのか。いつになったら戻るのだろうか。友人たちは、彼女に離婚をすすめたが、彼女は、どうしてもできなかった。佐藤繁樹であれば、優しく明るいのであり、かつ働き者でもあり、申し分のない夫だったからだ。彼女は、それを忘れたくなかった。
「繁樹さん。」
呼んでも返事はない。
「益男さん?」
「なんだよ。」
四十にはおもえない、若者の人格だ。
「今日、たべたいのとかある?」
「ステーキ。」
若者であれば、ステーキをたべても、不思議ではない。しかし、夕食になると、繁樹になり、牛肉を半分残してしまう。だから、毎日牛肉は、捨てる。益男は、大食いで、一ポンドたべたいというが、繁樹は、少食である。益男になれば、一ポンドの牛肉を平気っで買ってしまい、貪るようにたべる。しかし、夕飯の時間には、繁樹であることがおおいため、どうしていつもステーキなのか、と、きいてくるときがある。
一方、京子は優しいおばさんである。男性が女性の人格をもつと、低い声で、女性言葉をはなすため、気持ち悪いといわれる。木綿子に変わって掃除をしたり、ピアノをひく。しかし、繁樹は、ピアノを習ってはいないため、どうして、ショパンのバラードが弾けるのかわからない。木綿子は、それをみると、夫が解離性同一性障害であるとよくわかり、演技ではないんだな、と思った。
「木綿子」
男がいった。
「益男君、でてないね。二人だけではやっていけない。僕は実家に帰ろうとおもう。君は僕とわかれて、好きなだけやりたいことをすればいい、」
「いいえ、繁樹さん。」
と、木綿子がいった。
「私も、一緒に、いきます。あなたをDIDに追い込んだのは、わたしでもあるんだし。」
木綿子は、看護師だった。繁樹は、作家として、たくさんの本を送り出してきた。この都会では、そんな人物が、多重人格障害とわかってしまったら、大変なことになる。というのが本音であるが、益男になれば、なにをされるか。自分の身がもたないし、誰かがいてくれる、彼の実家にいたほうが、安全という理由だった。
翌日。
繁樹が繁樹のままでいる間に、二人は、電車にとびのり、山奥の実家へ帰った。


佐藤繁樹の実家は、病院を経営していた。無論精神科ではない。単なる内科であった。病院といっても、単なる診療所であった。佐藤繁樹は、三人兄弟の末っ子。次兄佐藤邦彦と、母親佐藤ゆみが医師をしている。長兄佐藤由紀夫は、医師免許を持っている。という兄弟で結婚しているのは、繁樹だけであった。
二人は、病院と隣接している家に入った。
応答は、手伝い人がした。父はすでになくなって、20年近くたっている。
二人は居間に通された。
「もうすぐ、奥様と、邦彦様がもどられます。」
繁樹はそのまま、ごろん、とよこになった。まあ、実家ではだれでもそうなるだろう。しかし、お茶もなく、木綿子は、のどがかわいてしまった。繁樹に声をかけようとしたら、幸せそうにねている。この暑いのに、クーラーもない。
やがて、人影が見えた。
「繁樹」と、声がした。そして襖があいた。お母様、と木綿子が声をかけようとしたら、現れたのは男性だった。
小柄な男で、緑色の和服を着ていた。しかし、左腕は、袖を通っていなかった。欠損していたのだ。残った右手は、赤い色をしているものが、ちらほらみえた。刺青だ、と木綿子は、すぐわかった。
「木綿子さんですね。兄の由紀夫です。」
刺青があるから悪人と決めつけてはいけない、と言いたくなる美声だった。
「ま、ゆっくりしていってくださいよ。」
彼はお茶を出してくれた。片腕なので時間がかかった。
「どうしたんですか?東京で、静かに暮らしているときいてましたけど。そういえば、佐藤益男というひとから手紙がきました。弟子をとったんですか?」
「あの、それなんですが、」木綿子は、話を切り出した。
「由紀夫!」厳しい声が聞こえた。女性が入ってきた。姑のゆみだった。
「あんたは、部屋に引っ込んでいなさい。」
由紀夫は、またきます、といって、でていった。
「繁樹!」と、母親は叩きおこした。
「なんでねているの?すぐおきなさい。」
「あなただれ?」
男は、たずねた。
「繁樹、お母さんをわすれたの?」
「知りませんよこんな人。僕は佐藤益男です。」
「ばか、芝居打っているんじゃない!」
母親は男を平手打ちした。
「芝居なんかじゃねえよ!繁樹は、俺がまもらないと、何もできなくなるんだよ!」
益男は、いった。
「これ、どういうこと?」
今度は妻の木綿子に矛先がいく。
「わかりません。繁樹さんは、DIDの診断をうけて、都会では、生きていられないから、こっちにきたんです。」
「医師の子どもがそんなことをするわけないじゃないか!私を騙すんじゃないわよ、あなたたちはこのうちにはいれません、物置の二階でくらしなさい。トイレもあるし、台所もあるから!」
ゆみは、バシッとふすまを閉めてしまった。
木綿子が益男をみると、繁樹に戻っており、ないていた。
「仕方ないわ」
と、木綿子は、いった。二人は物置に移った。トイレもあり、台所もあった。もともと、診療所に勤めている看護師が使う部屋だ、と繁樹がせつめいした。いまは、住み込みで働く看護師もいないために、物置になっている、と。
木綿子は、診療所の看護師にはなれないとあきらめ、近くの病院に雇われて、その物置でくらした。繁樹がどこにいくかわからなかったため、不安ではあった。もし、益男や京子が登場したら、どこかとおくへいって、しまうのではないかと。しかし、それは、一度もなかった。長兄の由紀夫が、毎日食べ物を持ってきてくれたり、弟をどこかに連れ出してくれたりして、食べ物には、不自由しなかったからだ。
由紀夫は、優しかった。弟がDIDにかかったとすぐに悟り、自分が何ができるか、を模索しているようすがみてとれた。弟が、人格を交代したときも、それをうけとめよう、としていたふしがあった。残った右手には、孔雀の刺青があった。なにか訳があるのだろう、と木綿子は、おもった。これだけ優しい人、看護師よりも優しいひとが、なぜ刺青を入れたのだろうか。

木綿子の新しい職場は、子どもが多かった。小児科専門というわけではなく、院長が子ども好きで有名だったからだ。
初めのころは、まだよかった。しかし、時間がたつにつれて、彼女を取り巻く者の態度が変わってきた。医師や、他の看護師たち、子どもたちの親の態度が変わってきた。子どもたちは、彼女に話しかけてきたが、親たちは、「多重人格者の嫁」とよび、木綿子本人の前で陰口を叩くようになってきた。
それは、佐藤家にも、つたわった。邦彦も、ゆみもこれには頭を悩まされた。このまま噂が広がれば、自分たちの病院にも、影響がでる。由紀夫は、物置ではなく、どこかのアパートに住めばいいじゃないか、と意見をだしたが、二人とも、そんなことをして、繁樹が人格を入れ替え、万引きでもした場合、責任を追わなければならない、その方がもっと迷惑だと、反論した。第一、繁樹は、働く事ができない。それは、そうだろう。三人の人格が一人の体をかりて話しているのだから。さらに、人格たちは、食べ物の好みが違うなど、落差が激しいため、とてもむりだった。
由紀夫は、閉じ込めていてはいけないと、観光名所へ繁樹を案内したり、入れ替わりのないときは、自助グループにも参加させた。しかし、彼の主張は、一貫しなかった。繁樹は、泣いてばかりで、益男は、母親に、試験の点数が悪いことで、金属バットで殴られたことへの怒りばかり話し、京子は、
自分は、いい子ではなかったため、殴られたのだ、とオネエ言葉ではなす。
そんな弟を、長兄は、つらそうに、涙を浮かべてみていた。長兄も、知らなかったのだ。片腕の切除のため、長く入院しなければならず、その事件があったころは、不在だったからだ。邦彦は、自分の手術のさい、もう立ち会える年代であったため、それから、自分は、医者になると宣言をし、両親も公認していた。三男の繁樹だけが、立ち会いを許されなかった。それは、病院の規則だし、しかたない、と、由紀夫は、思っていたが、多重人格者になってしまった以上、責任は、自分にあると、思っていた。それは、そうだろう。東大病院の教授が、長男の骨肉腫を見つけられなかったばかりか、左腕を肩から指先まで全て切除した、となれば、大のスキャンダルとなる。だからこそ、母も、献身に看病した。その当時の由紀夫は、まだ子どもだったこともあり、それを母親の愛情だと勘違いしてしまったのだ。その上、富豪であったから、骨肉腫が左腕全部をとらなければならない、といわれても、二つ返事で手術をする事ができた、と言うことを、大人になってから知って、弟に、あやまらなければならないな、と思っていた。

邦彦と、ゆみは、繁樹夫妻を、東京に戻すことを考えていた。特にゆみの態度が、冷たい、と、由紀夫は思った。ゆみは、自分たちの母親だ、自分と邦彦と繁樹を産んだ、腹を痛めて産んだ人物だ。しかしなぜ、末っ子にたいして、こんなにも冷たいのか。妾か?と由紀夫は、おもった。由紀夫は、こっそり市役所にいって、戸籍を調べてもらったが、戸籍には、全く問題はなかった。さらに、末っ子の妻の木綿子にも、申し訳なかった。
「すみません、」
由紀夫は、物置に、入った。
「木綿子さんにちょっとお話が、」
木綿子と二人で物置のそとへでた。そして、降ろした現金の入った茶封筒をわたし、
「弟と別れて、幸せになってください、みんな僕のせいなんです。」
「いえ、いりませんわ。」
と、木綿子はいった。
「私の夫は、佐藤繁樹ですもの。」
「しかし、」
「大丈夫ですわ、私は看護師ですから、こうみえても、静岡のガンセンターにも、つとめてましたから。」
そういい、夫のところへ戻っていった。


繁樹の病状は、悪化の一途をたどった。
益男と京子の人格は、頻繁に現れた。このままでは、病院がつぶれてしまう、と感じたゆみは、知り合いの、悪知恵の働く建築家を訪ね、家を増築した。物置ではなく、ワンルームマンションのような、ねる場所も台所も、風呂もトイレもついている。洗濯機もある。しかし、ドアは鍵がなければあかない。いわゆる座敷牢を作ったのであった。そこへ、末っ子を閉じ込めた。木綿子は、家族として、迎えられ、診療所の看護師として働かせ、母屋にすませ、贅沢三昧の日々を味あわせた。仕事が終われば、ご馳走が与えられ、土日は、休み。木綿子の念願であった、二胡もならわせ、いかにも、娘のようにかわいがった。由紀夫は、どこかへ旅行にいく、といったまま、消息不明となった。
木綿子は、はじめの頃は、由紀夫や、繁樹のことを、思い出していたが、贅沢な暮らしがそれを奪った。人間の弱さか、金をもつと、逆にひとつわすれてしまうのだ。木綿子は、いろいろなことをやれた。やりたい、と思えば全てできた。やがて、一日中布団にいても怒られなくなった。
佐藤家の手伝い人、剣持は、これを疑問におもった。なぜここまで、木綿子と、繁樹をだめにしたというか、なんというか。
「奥様」
剣持は、ゆみにいった。
「奥様、いつまで、繁樹さまや、木綿子さまに、こんな事をさせるのですか。」
「さあ、私の気が済むまでかな。」
「奥様、ちょっとおかしいですよ。母親なら、そんなこと、しないですよ、実の息子を座敷牢にとじこめるなんて。」
「あたしの息子なんて、邦彦だけよ、後の二人なんて、うむんじゃなかった。産まなきゃよかったわ。」
「奥様」剣持は、きっぱりといった。
「私、今日でやめます!退職金はいりません!そのかわり、繁樹さまを、引き取らせてください!」
「好きにすれば!」
「わかりました!」
と、剣持は、座敷牢の鍵をあけた。
「剣持さん。」
男は、呟いた。
「いまは、繁樹さんなのね、おばちゃんのことわかる?」
「剣持さんだろ?」
繁樹は、力なくいった。
「おばちゃんと一緒に家をでよう。一緒にいよう。いい病院さがそう。いつまでもここにいたら、身が持たないわ。奥さんは、冷たい人になってしまったから、おばちゃんとくらそう。由紀夫さんもよぼう。ね、繁樹さん。」
「そうだね。」
と、繁樹は、冷静にいった。
「ここにいたってしかたないよな。うん、おばちゃんとくらそう。」
「よかった。」
と、剣持は、繁樹をだきしめ、二人は大急ぎで荷造りし、家をでていった。
東京とはかけ離れた田舎のまちにきた。小さなアパートを借り、繁樹は、料理屋でアルバイトをはじめた。剣持は、また、その町の病院で働くことになった。
ある日のこと。料理を運ぼうとした繁樹は、ひどい頭痛におそわれた。それきりわからなくなった。
「俺は一体どこにいるんだ、木綿子はどこだ!」
益男だった。彼が登場したのは、何日ぶりか。益男は、客が逃げていく中、
「おい、俺がなぜこんなところにきたのか、おしえてくれ!」
と、さけんだ。店長が益男の履歴書に書いてあった、精神科に電話してしばらく預かってくれ、うちにはおけん、と電話をし、病院のスタッフが男を運んでいった。
連絡を受けた剣持は、すぐ病院にとびこんだ。しかし、益男は、剣持が誰なのかわからなかった。益男は、一番大切な木綿子を自分の母親に奪われ、繁樹は、かわいそうだ、木綿子を連れてきてくれ、と懇願した。その木綿子は、今どこにいるか、と、医師がきくと、今度は女言葉になり、木綿子をつれてきたら、繁樹は、もっとつらくなる、もう26の大人だから、一人ていた方がいい、と喋る。つまり、二人の話は内容こそ違うけれど、繁樹は、非常に弱いから、二人でガードしなければならない、ということで一致していた。医師は、繁樹は、幼いときに、何か辛いことがあり、そのショックから、二人の人格をつくらなければ、ならなかったのだ、と説明した。
しかし、剣持は、彼が幼いころ、雇われていなかったため、全くしらなかった。それは、ゆみや邦彦に聞いても答えはないだろう。正確に知っているのは、由紀夫だ、と思った。その由紀夫は、いまは、行方をくらましている。
どうしたら、いいものか、剣持は、検討もできなかった。また、自分のやっていることは、間違いだっただろうか、座敷牢から解放させてやりたかった、それだけなのに。
本当にそれだけなのに。
今想えば、多重人格なんて、どうして存在するようになったのだろう。こんなかわいそうな病気。そもそも、家族とは、なんだろう?いつの間にか剣持は、家族なんて作るものでは、ないのではないか、と考えついた。死がくるのを、楽しみに待っている。そんなことをおもうようになった。

剣持が、繁樹をつれて逃げていった数日もしないある日のこと。
佐藤家に、ある人物が戻ってきた。その男は、左腕がなかった。そして、背中には竜の刺青が黒々とついていた。
男は、診療所に堂々とはいり、院長室は、どこか、と看護師にきいた。看護師が言うのをためらうと、着物の袖をめくり、血のように赤い刺青をみせた。看護師は、怖がって、思わず教えてしまった。
男は、院長室のドアをみつけ、躊躇わずに入った。
「院長。」
中にいたゆみは、その人物がだれであるのか、すぐわかった。
「由紀夫!」
「やっと気づいたか。」
「半年も連絡をいれないで、どこいってたの!」
「修行さ。いまは、このとおり、刺青師だよ。いまは、若いやつが、tattooといって簡単にいれるから、結構楽だよ、一応医師免許あるからね、片手がなくて開業医になれなかっただけで。」
「由紀夫、でていきなさい、あなたみたいな、ヤクザはここには、いれさせないわ、勘当よ!」
「勝手にすればいいさ、あんたには名声しかないんだから、あんたは、外に生きがいをもとめることしかできないんだ。そんなのは、お見通しだ。僕が腕をとったとき、あんたは、僕にすごい愛情があるみたいにわざと演技したんだ。まんまと、僕をだましたね。そうだよな、世界的にゆうめいな医師の息子が骨肉腫?っていったら、大笑いだよな。あんたは、自分が、バカにされるのが怖くて、悲劇のヒロインを演じて、その鬱憤を繁樹にぶつけていたんだろう。なあ、なぜだよ、僕だけの親じゃなくて、邦彦と、繁樹の親でもあるんだろ?二人もあんたを必要とする人間がいるんだぞ、それにきがつかなかったのか?繁樹だって、愛してもらいたい気持ちはあるさ、それが実際にないから、自分で、京子や、益男を作り上げたんじゃないか。」
「由紀夫、繁樹みたいに、心の病気をもつと、親は本当はきついものよ、だって、私は普通のこどもとおなじように、繁樹も育てたんですもの。親が子供に幸せになって欲しい気持ちはだれでもあるわ。だから、いい学校、いい会社っていって当たり前よ。由紀夫は、体が不自由だから、それをいじめだと、思ったのね。その証拠に繁樹は、剣持さんと、家をでていたわ。子どもは、家をでるのが当たり前なの。」
由紀夫は、驚いたが、すぐに立ち直り、
「悪いけど、繁樹は、健康じゃないんだよ。」
といった。
「どこいったんだよ。」
「あなたのまけよ、由紀夫。」
結局、このせりふだ、と由紀夫は、おもった。障害のある由紀夫は、どうしても人に頼らなければならない。母はそれを強調して脅している、しかし、それは嫌だ、という気持ちをもつのは、いけないだろうか。由紀夫は、ひるまなかった。
「ああ、負けだろうね。しかし、家に生きがいをもとめられない、あんたも、また負けだよ。思い出してみろよ、僕は、覚えているよ。仕事でつかれたり、ミスをした腹いせをみんな家の中で、きかせて、「あんたの為よ。」で締めくくって、まるで、僕らが、いては、いけないような、口振りをしたのをね。まあ、確かにそうかもしれないけど、それを脅かす道具にした、あんたも、またまけだよ。」
「由紀夫。」
母は、怒りに任せていった。
「あんたは、そんな風にしかなれないのなら、ここをでていきなさい。二度と戻ってこないように。あんたは、産むべきじゃなかった。」
「勝手に泣いてればいいさ。」
由紀夫は、そそくさと出て行った。
院長室を出ると、実に堂々と歩いていた。歩き方も、まさにヤクザ。片手であることは、たしか。
由紀夫は、屋敷にはいった。玄関をあけ、居間にいくと、二胡を弾いていた女性がいた。由紀夫は、女性と向き合った。
「木綿子さん。」
演奏がとまった。
由紀夫は、袖をめくった。赤い孔雀、
木綿子も、この人がだれだかわかった。
「お兄さん!」
「ご主人をおぼえていますか?」
木綿子は、思い出せなかった。すでに、義母より、再婚をきめられており、腹部が少し膨らんでいた。
「覚えているはずないね。」
由紀夫は、いった。木綿子は、邦彦の妻になり、母になる予定だった。それでは、末の弟が本当に哀れになる。いや、あわれすぎる。由紀夫は、木綿子が贅沢をしすぎたせいで、昔のことなど、忘れたことも見抜いた。由紀夫は、袖をもどした。青天の霹靂は、流産をひきおこす。「命」の重みをよくしっているかれは、新しい命には、罪を被せたくない気持ちがつよかった。
産まれてくれて、Welcome。これが、本来的持つべきものだから。
由紀夫は、踵をかえすと、再び駅にもどった。まず、弟を見つけなければならない。幸い多重人格者を扱うところは、この町には、一軒しかない。由紀夫は、乗ってきた上りの電車ではなく、下りの電車にのった。



由紀夫は、剣持の故郷がどこの駅にあるかしっていた。しかし、持ち金はあるけれど使いたくないし、弟の調査には、費用がかかる。そこで由紀夫は、見世物小屋へいった。片腕で、刺青だけでは、見せ物にはならない、と言われたが、由紀夫が持ち前の男性ソプラノで、カッチーニのアベマリアを歌うと、喜んで由紀夫をかってくれた。
由紀夫は、「片腕のおかま」として、カッチーニのアベマリアや、シューベルトのアベマリア、また、流行りの流行歌や、演歌までうたった。歌う声は、女性の声にそっくりだが、歌いおわれば男性にもどる。いわゆる、カウンターテノールのひとつ、ソプラニスタであった。由紀夫は、モーツァルトの魔笛まで歌うことができた。
かれが、身売りした小屋は全国を回る旅一座だった。由紀夫は、これを狙った。そうすればどこかで、弟の話が出るかもしれない。ここは、確かに剣持の故郷ではあるけれど、またどこか、いったかも、しれないからだ。見世物小屋の一人であれば、旅費は小屋の経営者がだすから、それは、大助かりだ。
由紀夫は、興行を行うあいまに、繁樹と、剣持の写真をみせて、この二人をしらないか、と尋ねあるいた。答えはNOだった。それでも彼は、あきらめず、興行者として自身をやしないながら、弟を探し続けた。やがて、木綿子の腹部がもどる日が近づいてきた。と、同時に、寒くなってきた。
由紀夫は、雪景色で一日中彩られた街にやってきた。
ある日のこと、由紀夫が興行を終えて宿舎に帰ろうとしたときだった。
白い景色のなか、お経を読む声がした。二人の男性が棺をかつぎ、数人の参列者が、ついていた。冬の葬列だった。所が、喪主らしい人がいない。みんな、葬儀屋のスタッフだ、と由紀夫は、感づいた。そして、ピンときた。
「すみません、どなたの葬儀なんですか?」
由紀夫は、たずねた。僧侶ではなく、尼僧だった。
「はい、遠いところから、若い息子さんと、一緒にきた方のお弔いです。息子さんが、喪主になることが、できないので、他に身よりもないから、私たちで、弔っております。」
「故人の名は?」
「はい、剣持八重子様です。」
「僕も、参加させてくれませんか?入れ墨者ですが。」
「はい、参加してやってください。多ければ多いほど、喜びますわ。」
尼僧は、優しくいった。
由紀夫は、火葬場に同行し、納骨も行った。それを共同墓地に葬った。
葬儀が終わると、由紀夫は、尼僧にたずねた。
「庵主さま、剣持八重子の息子と名乗った方の名前は、佐藤繁樹では。」
「ええ、そうおっしゃいましたわ。」
と、尼僧は、朗らかに答えた。
「実は」
由紀夫は、佐藤繁樹の兄だと自己紹介し、繁樹が多重人格者であり、母に存在を否定され、剣持と一緒に逃げたこと、繁樹には妻がいるが、妻は真ん中の邦彦に洗脳され、もうすぐ邦彦との間に、子どもがうまれてしまうことを話した。それゆえに佐藤繁樹を探している、と、顛末をはなした。
「由紀夫さん。」
尼僧は、いった。
「繁樹さんは、精神科にいます。私がとりあえず安全なところに、と思って入らせたんです。わたしは、尼僧として、精神疾患を持つ方の話相手になっているんです。明日いってみましょうか。」
「今日でも、」
「いえ、由紀夫さん。あなたはひどくつかれているから、庵でやすみなさい。」
由紀夫は、その通りにした。
翌日。
由紀夫は尼僧と一緒に、精神科にむかった。そして、精神療養病棟にいった。その、一番奥の個室にとおされた。
由紀夫は、ドアをあけ、
「繁樹!」
と強くいった。
「兄さん!」
由紀夫の顔に涙がうかんだ。二人の顔にみるみるうちに、涙で濡れていった。
「今日は、益男君でていないから。」
「いいさ、益男君は、用がなくなれば、消えていく。お前は僕の弟の繁樹。たった一人の佐藤繁樹だ、わかるか。」
「僕は、記憶が飛んでしまうときがあって。」
「ああ、益男君や京子さんのことか、いいか、益男君も、京子さんも、全部お前の一部だ。お前を守るために、二人は存在する。本当に申し訳なかったよ、この手を取らなければならないとき、母も、邦彦も僕の方ばかりみて、お前のことを構ってやれなかった。だから、僕が変わりにあやまるよ。ごめんなさい。」
由紀夫は、片手だけで土下座した。
「兄さんもういいよ。僕は、兄さんが悪いとは、思ってない。仕方なかったとおもう。ただ、木綿子は、どうしている?」
「木綿子は悪人だ。」
と、由紀夫は、いった。
「木綿子は、邦彦と、再婚して、子を作ったよ。」
繁樹は、ガクンと肩をおとした。もしかしたら、益男があらわれるかも、と、思っていた由紀夫は、ちょっと身をひいた。
「しかし、」と、繁樹はつづけた。
「そうなれば、近親交配になるから、必ず跳ね返りがくるな。」
「そうだよ!しかし、家族は君のせいにするだろう。本当に家族は、なんのためにいるのか、わからなくなるよな。親も、身勝手すぎるし。きっと、名声と言う者が、家族になった時代なんだよ。本当なら、ちょっかいをだしたり、ほめたり、しかったり、慰めたりするものさ、でも、あいつらは、それができないで、名声ばかり持ちたがるのが間違いさ。家族のようで家族ではない。素敵な家族といいたげな。」
由紀夫は、ぼやくようにいった。

ゆみは、もうすぐ孫の顔がみられる、と喜んでいたが、気がかりがあった。由紀夫が戻ってきて以来、木綿子が塞ぎ込むようになっていた。
「木綿子さん。」
と、ゆみは、聞いた。
「どうしてそんなに、悲しそうなの?病院で何か言われたの?それとも、片腕の入れ墨者がこわかった?」
「お母様。」
「なに?」
「私、ここを出ようと思うんです。」
「なんで!」
ゆみは、動揺をかくせなかった。
「お母様、私はもう、37です。このとしですと、ハイリスク妊娠になりますよね。」
「そうね、でも、大丈夫よ、四十代でも、、自然分娩するひとは、たくさんいるわよ、分娩のとき、痛いのが怖いようなら、無痛分娩だってできるし、中毒症になったとしても、帝王切開も、できるから。」
「そういうことじゃないんです。」
「じゃあ何よ、」
「とても、言いにくいんですが、」
木綿子は、ゆみの顔に脅えたような、そして、申しわけなさそうな表情をした。
「羊水検査ってありますよね。私はハイリスク妊娠だから、やった方がいいといわれて、私は軽い気持ちで受けてしまったんです。」
木綿子は、恐怖を感じながら、恐る恐る続けた。
「それで、、、それで、それで、、、
。」
「早く言ってしまいなさい!」
ゆみは、だんだん苛立ってきた。
「じつは、その結果、この子は、由紀夫兄さんみたいに、左腕が欠損していると、診断されて、しまったんです!」
ゆみは、驚きをかくせなかった。なんということだ、産まれてくる孫が、入れ墨者と同じ障害を持ったなんて!
これでは、後継者ができたのではなく、迷惑な人間がひとり増えるだけだ。
「良いわ。」
とゆみは、ヒステリックにいった。
「うまれたら、すぐ孤児院にあずけましょ。」
「それは嫌です!」
木綿子は、決断にみちていた。
「私の子どもですから、たとえ、障害があったとしても、私がそだてます、」
「ほー、育てる。」
ゆみは、バカにしたようにいった。
「私は由紀夫のせいで、どの位傷ついたかしらね、頑張って普通学校に行かせたけど、給食の器をおとしたり、家庭科では、口に針をくわえてやらなきゃいけないから、汚い汚いと、砂をかけられたり、料理だって、右手で炒めて、左足が鍋を押さえていたから、本当にいじめられたのよ。たとえ、息子でも、施設にいれてやったほうが、よかったかもしれない。だから、由紀夫は、入れ墨をしたのよ。そうなっても、いいの?障害のある子を健常者に交えて、自立させるのは、傷つくだけよ。そして、他のこは、就職したり、結婚したりして、親から離れていくけれど、障害のある子は、一生離れることは、できないのよ。 だんだん、年をとれば、体も弱ってくるし、そのうち、援助が苦痛になるのよ。でも、そのこの障害はかわらない。こういうことできる?あなたに。」
「やってみなけやればわからないかもしれないけど、私はやります。わたしの子どもですから。」
ゆみは、力がなくなってしまった、と感じ、部屋をでた。そして、夜の街中へ出て行った。街は騒然としている。カップルや、家族連れで賑わっていた。みな、障害なんて、知らない人たちだ。その人たちに何がわかるんだ、こんなに、歯を食いしばって生きてきたのに。
由紀夫は、自分のことを、偽物の愛情といい、入れ墨をした。でも、本当は、偽物ではなかった。医者であったから、骨肉腫の怖さも知っていた。だから、左腕を切断させた。しかし、恩を仇で返すような結果になってしまった。末っ子の繁樹も、多重人格者となり、消息を絶った。由紀夫に気をとられ、繁樹が本をよんでと短い足で、よちよちとやってきたのに、いい加減にしろ、とつい怒鳴ってしまったり、叩いてしまったこともある。真ん中の邦彦は、一番従順な息子だった。確かに真ん中は、上でも下でもあるのだから、頭もよく、リーダーシップもでる。だからいま、病院をやってくれているわけであるが、邦彦は、どう思っているか、不安になりはじめた。
ゆみ自身、自分に自信がなかった。兄弟はみんな優秀で、大学の教授などになった。仕方なくゆみは、東大教授の夫と結婚した。しかし、繁樹が生まれてすぐ、由紀夫に骨肉腫が発覚してしまった。夫もゆみも、仕事がいそがしくて、由紀夫が腕が痛い 、と訴えても、きけなかった。だから、三人の子どもたちに、申し訳ない事をした、と心のうちでは思っていた。だれのせいでもない。でも、結果だけは、残っている。どうしたら、いいものか。
夜のまちは、何も答えなど、教えてくれなかった。同時に哀れでもあった。街の若者たちは、「自分らしく」
を学校で教えられ、義務より、権利の方を連発するように、できている。
年寄りたちは、ゴミのように、施設に閉じこめられ、外へでることもほとんどない。
ゆみは、医者であった。患者を助けるのが仕事だ。しかし、やり続けて、病院の名前ばかりにこだわってしまった。いつからおかしくなったのかも、思い出せなかった。末っ子の嫁にさえも、自分のわがままを押し付け、自分のものにしよう、と、マインドコントロールをした。しかし、彼女の思うような、人間になった者は、はたしているだろうか。
由紀夫と、繁樹は、どこに入るのだろう、スマートフォンをいくらならしても、全く反応はなかったから。もう、この世におさらばをしてしまったかもしれない。
そう考えると、涙がでてしまった。
ゆみは、家に戻った。
邦彦が、起きてきた。
「邦彦」
ゆみは、静かにいった。
「一緒に、由紀夫と、繁樹を探すのを手伝ってもらえないかしら。」
しかし、邦彦は、素っ気なく、
「お母さん、何十日も家をあけたら、患者さんたちは、どうなる?お母さんが一番よく言っていた言葉じゃないか。」
といった。さらにショックは、おおきかった。由紀夫や、繁樹は、自分を嫌がってでていったが、その方がむしろよかったのではないか、とおもった。邦彦は、従順しすぎだ。ということは、三人の息子たちの子育ては、全て失敗におわったと、ゆみは、思った。

繁樹が退院した。精神科は、社会的入院をふせぐため、1年以内にでなければならない、と法律で決まっている。
とりあえず、亡くなった剣持が借りていたワンルームのアパートにすみ、由紀夫が、興行をやって、粗末な金を得てくらしていた。それでも、幸せだった。繁樹は、やっと、母親の虐待から逃れたため、時には買い物をするときもあった。由紀夫の興行で得た金で、カウンセリングを受けることができるようになり、少しずつ、二人の人格の存在を理解できるようになっていた。
そんな中。
由紀夫と繁樹がのんびりとしていると、
がちゃ。
ふいに鈍い音。
由紀夫がでてみると、そこには、放心状態の母がいた。まるで、幽霊のように力がなく、ぼんやりしていた。
「由紀夫」と、母は言った。
「帰ろう。」
「いやですよ。」
由紀夫は、きっぱりといった。
「繁樹がかわいそうです。また座敷牢にいれるんでしょ、繁樹は、いま、治療してるんですよ、二人の繁樹を消すためにね。」
ゆみは、もう涙がとまらなかった。自分は、生まれて来るべきではなかったと。
「お願いしたいのですが、」ゆみは、敬語でいった。
「木綿子さんの出産に立ち会って頂けないでしょうか?その子は、あなたと、同じように、片腕がないんです。
羊水検査でわかりました、わたしが、他の検査をうけさせまして、画像をとらせたら、はっきりわかりました。左手がないって。」
「木綿子にあわせてください。」
繁樹がいつの間にか母の話に入ってきた。
「邦彦兄さんの妻になったことは、確かですが、一度だけあわせてくれたら、僕はこの世からきえます。」
「そんな、、、。」
と、母がいった。そうみると、やっぱり母は母だった。この世にひとりだけの母親。しかし、なぜ自分の存在を否定したか、繁樹は、思っていたが、もう、すんだことは、仕方ない、と心に決めた。由紀夫も、そうおもった。
三人は、電車にのった。こんな風に電車にのることは、繁樹も初めてだった。母は、近くでみると、一気に老け込んでしまったようで、髪は白髪が混じっていた。二人は田舎で、どんな生活をしていたのか、ゆみは、しりたがった。由紀夫が正直に歌を歌って、興行をやりながら、暮らしているというと、ゆみは、涙をながした。
遂に電車は、停車した。三人は、電車を降りた。街の風景も、すっかり変わっていた。大型のショッピングモールができたり、オフィスビルや、学校、などが、立ち並んでいた。
三人は、ゆっくり歩いて家についた。
「ああ、いい匂いだ。」と、繁樹がいった。
「家族の匂い」
三人は、家にはいった。
邦彦がでむかえた。邦彦は、由紀夫が刺青をしているのに、いい顔をしなかったが、それでも、家に招き入れた。
「木綿子はどこに?」と、繁樹は、木綿子、木綿子、と名前をよびながら、家の中を行ったりきたりして、一番奥の部屋をあけた。
「木綿子!」
中にいた女性は、布団から飛び起きるのは、できないのであるが、布団の上に座って、
「繁樹さん!」
と、感涙に咽ぶようにいった。繁樹は、部屋に飛び込んで、妻の首に手をまわした。
由紀夫をはじめ、家族たちは、入り口のところで、待機していた。
「やっぱり、木綿子さんは、繁樹の妻だ。」由紀夫は、静かにいった。
「邦彦、もう戸籍も、出してしまったんだろうね、お前と、木綿子さんとの、婚姻届。」
「ああ、お母さんにそうしろと、いわれたからな。」
邦彦は、非常に合理主義ではあったが、それゆえに、人にも甘すぎる癖があった。自分で考えるのは、面倒だから、すぐ誰かに頼ってしまう。まるで、デジタル人間であった。
「解消はできないよな、もう、お前の子どもも、いるんだからな。」
「ああ、もう病院は継がせるつもりだ。」
「片手の子どもでもか?」
邦彦の表情がかわった。
「片手?兄さんと同じように、か?」
「ああ、木綿子さん、羊水検査で、わかったんだとよ。お前みたいに何でも合理的にしようとすると、片腕のこは、傷つくだろう。」
邦彦は、もうだめだ、と実感した。真ん中だったから、兄、弟、どちらの側につけば、自分が有利になるか、ばかり考え、合理主義になり、能書きばかり口にしたけれど、自分は医者になれただけで、何もしなかった。そういうわけで、交流もあまりなく、友人もなかった。もしかしたら、邦彦が一番哀れなのかもしれない。
だれのせいでもない。みんな、一生懸命生きてきたのだから。由紀夫も、邦彦も、繁樹も木綿子も、みんな、それぞれの生き方で生きてきた。それは、一人一人違ってもいい。
「嬉しいわ。」
木綿子が、泣きながらいった。
「あたし、しあわせよ。お兄さん達が戻ってきてくれて、お母様もいて、繁樹さんもいて、そうして、命まで、もらったのよ。」
「そうだね。僕も、人格さんたちが現れないことが一番うれしい。」
と、繁樹がいった。
「僕は、片腕しかないけど、片腕だけでも、料理したり、口で縫い物ができるのが、うれしいなあ。」
と、由紀夫もいった。
「そういえばそうだね、毎日同じことしか、してないけど。」 
邦彦は、力が抜けた。 
「みんな、」
と、母がいった。
「お母さんを許して頂戴。あなたたちのお陰で、何気なく家の中で、暮らしていることは、本当に大切なことって、やっと、わかったわ。」
その時だった。
木綿子がうなり出した。
「急いで産婆さんをよんできて!」
ゆみは、指示をだした。邦彦が自転車をとばした。由紀夫は、繁樹がパニックにならないかを心配していたが、
「木綿子のそばにいたい。」
と、強くいったので、そのようにすることにした。
木綿子のうなり声は、どんどん大きく、強くなっている。
産婆さんが到着した。優しそうなおばあさんだった。すでに破水しているので、比較的早く生まれる、と、産婆さんはいった。
数時間すると、木綿子は、産婆さんの合図にあわせていきみはじめた。しかし、陣痛が取れると寝てしまう。ゆみも、邦彦も、産婦人科は、経験がないので、途方にくれていた。繁樹は、木綿子が寝てしまうと、「起きて!」など、声かけをしたが、仕舞にそれも通じなくなり、「木綿子を助けてくれ、」と、べそをかきはじめた。
由紀夫は、家族たちが途方にくれているなか、木綿子と、繁樹のもとへやってきた。木綿子は、痛みで目をさまし、いきむことはできるため、胎児の頭が見えるまでたどり着いたが、産道から、外へ出すためには、ものすごく息まないと、赤ちゃんが窒息死してしまう。産婆さんは、目打ちで、木綿子をめざめさせ、息ませた。それを何度も繰り返した。繁樹は、聖母マリア様への祈りのことばをくちにした。
その時、由紀夫が木綿子の頬をひらてうちした。木綿子は、目をさまし、うーん、と、つよく息んだので、赤ちゃんがせり出してきた。産婆さんは、赤ちゃんの肩に手をかけ、彼をズブウンと言う音とともに、そとへだした。後産も無事に終了し、赤ちゃんが、素晴らしい声をあげた。
由紀夫は、繁樹の手をにぎり、良かったな、とくちにした。
赤ちゃんは、やっぱり左手がなかった。彼は、一生この姿でいなければならない。障害というものは、持った本人しか、わからない事がある。それをなだめるのは、やはり障害のある者である。邦彦は、自分は彼の父には、なれないとさとり、繁樹と、木綿子の子どもとして、二人で、育てさせることにした。
赤ちゃんがうまれて、二週間たった。名前は重之と、命名された。名付け親は繁樹だった。
木綿子も、産後の肥立ちはよく、すでに家事はできた。
繁樹たちは、やはりこの家を出て行くことにした。あの、座敷牢に入れられたり、マインドコントロールされた記憶を消し去りたいからであった。すむ場所は、由紀夫が紹介した。 
繁樹たちは、長期滞在の礼をいい、新しいすみばに巣立っていった。
由紀夫は、重之に取っては、重大な先輩になると予測され、繁樹たちの近くで、呉服屋をはじめた。もう、見世物小屋は、ごめんだった。
ゆみも、邦彦も、このまちからさようならをした。ゆみは、自ら二度と帰らない場所へいった。邦彦は、大病院で雇われ、遠く離れた場所にいって、しまった。
あの滞在は、何だったのだろう、と、木綿子は、よくおもった。すると、夫がいった。
「普通に生きるのが大切という格言を、確認したんだと、思えばいいんじゃないかな。」

家族

家族

ある日突然多重人格を発症してしまった夫と、彼を支える妻の話。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-27

Copyrighted
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