永久欠番

概要と第一章

上村華子
高校で、存在を否定されたために、中退し、ヒーリングアカデミー野村に、山村留学する。健忘失語にかかるが、克服し、成長していく。
上村葉子
華子の母親。保険のセールスをしている。決断力があり、華子に退学をすすめ、山村留学させるが、重大な秘密があった。
野村教授
ヒーリングアカデミー野村の主宰者。民族楽器を専門としている。常に車椅子にのり、自動車も運転できないが、生徒たちを心配している。
須田常静
アカデミーの古筝教授。重い障害をもち、余命は短い。華子を最期の生徒として、忠実な愛情をよせていく。
花村博、近藤和代
二人ともアカデミーの、生徒。
吉田玲
気孔師。かつては、酷い悪童であったが、常静の指示で、華子に気孔を施術するなど、協力している。
吉田朗子
その妹。華子のクラスメートで、華子からは担任教師の下僕のように見えていたが、実際は進学などどうでもよかった。
徳松百合子
朗子と華子の担任教師。進学率しか頭になく、体罰で国公立大へいかせることにこだわっている。
長野淳子 
スクールカウンセラー。自分の人生は自分で、と主張したが、学校に消され、活動できなくなる


上村華子は、学校からとびだした。鞄も持たず、くつも履かず、制服と上履きのまま。
全速力で走り抜け、自宅アパートのまえにたった。しかし、鍵がなかった。鞄のなかに、入っていた。電源をきった、スマートフォンもなかった。
雨が降ってきた。華子は、大粒の涙を零してないた。
どれくらい時間がたっただろう、辺りは真っ暗になっていた。
「華子」声がした。母の春子の顔が見えた。
「お母さん。」
あまりにくやしすぎて、先がでなかった。
「とにかく、入って、おふろであったまりなさい。」
春子は、優しくいった。父親は、すでに亡くなっていた。たった一人の家族である春子は、保険の外交員をやっていた。春子は、鍵をあけてやり、華子は、風呂にはいった。風呂は、そっと心の傷をいやした。
華子は、風呂をでた。
「華子」
母は、優しくいった。
「学校、やめちゃおうか。また、ひどいこといわれたんでしょう?あんな教師ばかりの学校じゃ、何の意味もないじゃない。あの、徳松っていう、教師に、池波っていうカウンセラー。またなにかいわれてきたのよね。」
「そうよ、お前は、生きてはいけない人間だな、そんな点数しかとれないんだから、っていわれたの。池波は、あなたは、お母様を殺す気か、あんな大学いくなんて、学費がたかすぎるし、なにも学ぶ者はない、そういったの。げんに、お母さんみろ、全然違う仕事しなきゃいきていけないじゃないかって。」
華子は、志望している大学があった。
そこは、彼女の母の母校でもある。母は、大学でまなんだことを生かすには一切関係ない仕事をしている。だから、教育者は、それにつけ込み、進学率がどうの、就職がどうの、と脅かすのだった。
「華子、山村留学してみない?私の師事した教授が主宰してるところよ。楽器をまなんだり、精神療法もしながら、BDで授業をやってくれるところなの、現役の高校生もいれば、おじいさんおばあさんまで、学べるし、カウンセリングとか、催眠療法も、充実しているのよ。卒業すれば、高卒の資格がえられるわ。だから、大学は、受験できるわよ。ねえ、どう?」
母は、鞄のなかから、パンフレットをとりだした。
「ヒーリングアカデミー野村」という、そのしせつは、富士山の二号目にあった。東京では、けっして無い場所だ。専攻楽器は、箏や、胡弓などの和楽器や、古筝や、笛子などの中国の楽器だった。
「あたし、ピアノしかできないわ。」
「大丈夫よ、基礎から丁寧にやってくださるから。」
「うーん、、、。」
と、華子は考えた。どっちにしても、今の学校はつらすぎるし、卒業できるじしんもなかった。
「いってみるわ。」
華子は、決意した。
翌日、華子は、高校に退学届けをだし、その足で静岡にむかった。
華子は、新幹線をおり、バスに乗って、指定された場所へむかった。バスは、走れば走るほど、田舎になってきて、とうとうあたり一面森ばかりの所へきた。そこで華子は、バスをおりた。停留所に、中年の女性が待機していた。
「あなたが、上村華子さん?わたし、大内和代です。専攻は、生田の箏。」
やさしい、静岡訛りであった。
「ええ、上村華子です。よろしくおねがいします。」
「じゃ、行きましょうか。五分もかからないから。」
と、和代は、あるきだした。華子も、ついていった。
「若い人が山村留学なんて、何年ぶりかしら。ここも、後一人、おじさんしかいないのよ、笛子やっている、31のおじさんよ、名前は花村博。先生方は希望者がでたら呼び出すの。ここに住んでいる先生方もいたんだけど、いまは、野村教授と、須田常静っていう、古筝の先生しかいないの。」
「古筝?それなんですか?」
「もうすぐ、きこえてくるわ。」
すこしあるくと、日本の箏のおととは、まるで違う、甘い、不正確なおとがかきこえてきた。もし、音大であれば、邪道といわれるのではないか、と思われるほど、不正確だった。
「これが、古筝の音。貴女には不愉快かしら、ピアノやってるんだし。」
「いえ、」華子は、口が勝手に動いて入るようなきがした。
「すてきだわ。音が正確じゃない楽器って、人間みたい。」
「そう?若いのに、変わってるわね。」
すこしあるくと、ひとまわり大きい建物があった。これが、本部だった。その、げんかんに、車椅子の男性と、笛子を持っている、男性が微笑んでいた。
「ようこそ、上村華子さん。野村昭男といいます。」車椅子の男性がいった。母が大学生のときに、非常勤講師として、胡弓をおしえ、教授となったが、くも膜下出血で、車椅子生活となり、大学を退いたときいている。
「よろしくおねがいします。野村教授。」華子は、最敬礼した。
「僕は」、笛子の青年があいさつした。和代は、おじさんといっていたが、とても凛々しい青年であった。
「花村博です。じゃ、お入りください。」
全員、建物にはいった。
まず、野村教授が学校のしくみを説明した。この、ヒーリングアカデミー野村は、富士市内の定時制高校と、れんけいしており、午前中は、各々、寮に置かれているパソコンを用いて授業をうける。それにより、学校に出席したことと、同格になる。
食事は、全て自炊で、コンビニ弁当など、既製品は、禁止され、わからなければ、教わるなどして、壱から十まで、全てつくらなければならなかった。
午後からはとくに時間割もなく、音楽の時間だった。ほとんどの講師は、大学教授を定年退職した、一流の人々だった。そのなかで、カウンセリングや、多種多様なセラピーが行われる。
「で、」野村教授は、いった。
「希望する楽器とかある?」
「古筝をやらせてください、」
華子は、迷いなくいった。
「あら、珍しいな。」と、博が笑っていった。
「わらってはいけないよ、花村君。すぐ、須田常静のもとへおつれしてあげて。」
野村教授の指示で、博と、華子は、須田常静の自宅兼レッスン室にいった。
まだ、古筝のおとがきこえてきた。
「常静先生、あけてください、新しい生徒がきましたよ。これでいつまでもひきつづける必要はありませんよ。」
博は、戸をたたいた。
「どうぞ、入ってください。開いてますので。」細いこえがした。
二人は、中にはいった。部屋は一つしかなく、ワンルームの和室のようだった。そこで、男性が古筝をひいていた。華子は、音色と裏腹に、美しくつくられている楽器に驚いてしまった。
そして、その奏者は、まるでテレビタレントにでも、なれそうなほど、美しい男だった。髪を長くのばしていたが、逆にその方がふさわしかった。紫色の羽織袴がさらにそれをつよめていた。
「先生、古筝を希望されるそうですよ、上村華子さんです。」
博は、常静のからだをポンとたたいた。常静ははじめて演奏をとめた。
「は、はじめまして。上村華子です。どうぞ、よろしくおねがいします。」
華子は、しどろもどろにいった。
「須田常静です。こちらこそ、」
常静は、華子と握手した。
「常静先生は、サイコセラピーとか、カウンセリングもお上手ですよ、ぜひ、やってあげてください。彼女に、」
「ええ。わかりました。」
常静は、静かにいった。
そのとき、一瞬胸に手を当て、かおをしかめたのを、華子は、見逃さなかった。



華子の新しい生活がはじまった。勉強の進め方は酷く遅かったが、だれもその事で怒るものはいないため、特に気にしなかった。
なによりも、午後の音楽の時間が大好きだった。古筝という楽器は、見かけの割に単純なので、すぐに曲をひけるようになった。
それが終了後、常静と一緒に、「セラピー」をする。常静のやり方はいわゆるカウンセリングのような、ただ黙ってきいて、本人に気づかせるというものではなく、クライアントがはなせば、セラピストが質問をしていく、というものだった。
「古筝やっていれば、あまり気にならないんですが、」
と、華子はいった。
「時々、まだ、あの担任教師がこっちまでくるんです、そして、お前はバカだというんです。」
「担任教師は、なぜ、君がこっちにきていると、知っているの?」
「はい、担任教師が私の考えを抜くんです。担任教師は、私のことを壱から十まで知っている。」
また、華子は、こんな事をしゃべったこともある。
「私は殺されたんです。担任教師と、カウンセラーに。あのふたりこそ、あたしを陥れたひとです。今頃他の生徒も、ターゲットにしているんじゃないかしら。」
「あたしだけがいけなかったんです。いい子じゃなければ学校にはいれないから、試験の成績が良くないと、物差しで叩かれる。」
華子の話は、学校の担任教師と、カウンセラーの指導における病的なはなしばかりだった。常静は、それについては、なにも指摘しなかった。クライアントは、矛盾したことをいったり、健常者からみれば、いい加減に恨むのをやめろ、と思われることをいつまでも、続けていたりすることは、ざらにある。それを怒ったり、否定しては、いけない。クライアントに、取っては、いままさにここで起こっているのだから。
さらに、華子の話は続く。
「いまも、あの二人はいきているなんて、しんじられない、ぶっ殺してやりたい。」
常静は、その二人が何をしたか、しりたかったが、華子に質問しても、答えは得られなかった。彼女が相当な傷を負ったことは確かだ。しかし、「思い出せない」しか答えがないため、おそらく、その記憶は、抜け落ちている、いわゆる解離性健忘と、推量した。
常静は、ただ聞くだけでは意味がない、と考え、カウンセリングのことを
傾聴セラピーとよんでいた。華子は、傾聴セラピーをうけたあとは、とても気持ちよかった。だれもが、「違う、そんなことは、ありえない。」として、いわれるが、いまここで、おきていることであり、自分で違うと思えなかったからだ。常静は、なにも否定しなかったし、自分の話にオウム返しのような、質問もしなかった。
セラピーが終わると自由時間だった。周りは森ばかりだったが、ふしぎなことに、町へいこうとは、おもわなかった。
その日も、傾聴セラピーをうけていた。華子は、同じことばかり繰り返していたが、
「華子さん、そろそろ、言わなければならないんですが。」
と、常静は、いった。
「あなたは、学校で傷ついていますね、そして、度をこして、学校の先生に、こうされたと、思い込んでしまうことで、相手の気を引こうとしている。それは、おそらく、あなたが傷ついて、助けてほしいからです。お医者さんのことばを借りると、精神分裂病と、いえるとおもいます。まあ、病名は、あまりあてにならないから、気にしなくてかまわないけど、早くなんとかしてしまわないと、大変なことになる」
「病気?どこがですか?体の方は悪ないのに。」
「急に、悲しかったり、過去の辛さを思い出して、ないたりするでしょう。」
「私は、よくわからないけど、感情が湧き上がって、パニックになるんです。それが病気ということですか?」
「こうは、考えられませんか。病気といわれたら、多少時間がかかっても、なおると。病院、いってみましょうか。」
「はい。」
華子は、常静を信頼していたから、迷わず即答した。
常静と華子は、和代に運転をたのみ、五分ほど車を走らせて、近くの精神科にいった。
精神科というより、どこか外国の庭園のような庭をもつ、観光施設だった。
中はまるで、立派なホテルのようだったが、異様な雰囲気だ。口を半開きにした、患者や、怖い目つきで睨みつけるものもいる。
「上村さん、どうぞ。」
看護師が診察室へあんないした。
「はい、上村華子さんね。常静君のお知り合いでしたら大歓迎ですよ。彼はいつも良い患者さんを、つれてきますから。僕は高橋朋樹といいます。よろしくね。今日は、どんな症状できたのかな。」
華子は、常静に話したことと、同じことをはなした。優しい高橋朋樹は、ただ、うんうんときいてくれた。
「そうか、それは、大変だったね。きみは、常静のいう病気だね。でも、じかんは、かかるけど、きっと良くなるよ。薬だしておくから、常静君の治療と一緒に、頑張ってやろうね。」
高橋医師は、笑顔だった。80歳をこえた、白髪頭の高橋医師は、常静の方をみた。
「常静君、君の体はどう?相変わらず蒼白いじゃないか。」
常静は、かおをしかめながら、
「いえ、大丈夫です。」
といった。華子は、このやりとりの意味がわからなかったが、それは、大変重要なものだった。

第二章

華子が、常静の部屋をたずねると、常静は、ちゃぶ台のまえにすわり、何か書類をよんでいた。
「今日は、交流分析をしましょう。これは、あなたが、いま現在どんな状態かを知るもので、良い悪いの点検ではありません。どの、結果が一番いいのか、とか、またその逆でもありません。」
「はい。」華子は、ちゃぶ台にすわった。
「この紙をご覧ください。なんてことのない質問ですが、はいか、いいえを
かきこんでください。」
常静は、紙と鉛筆を手渡した。
「僕はあなたが、はいと答えた問いの数を方眼紙にかきます。そして、それを、五つの要素にわけます。さらに、五つの要素に、はいと回答したものの数がきまったら、折れ線グラフにあらわします。これによって、あなたが、何に過敏なのかをみることができます。」
うまく、理解できなかったが、華子は、常静からわたされた紙に、はい、いいえをかきこんでいった。
ほんとうにありふれた質問だった。「人の話を遮って自分の考えを言ったことがあるか?」、「炊事や、掃除はすきか?」、「決断は早いか?」、「音楽や美術はすきか?」、「自分がいいたいことがあっても、いえるか?」というような、そんなの当たり前じゃないか、と、いう質問が、五十題。華子は、五分もしないうちに、全問に回答した。常静は、速いな、とわらいながら、答を折れ線グラフに、あらわした。
「こんな感じですね。」
常静は、グラフをみせた。
「まず、五代要素を説明します。」常静は、鉛筆で、CP,NP,A,FC,AC
とかいてある箇所を示しながらいった。
「まず、CP,批判的な親、すなはち父親のこと。批判したり、責任感が強かったりします。次にNP,療育的な親、すなはち母親です。他人に対する親切や、同情心をあらわします。次にA、大人のこころ。合理的に、臨機応変にものごとをすすめるこころ。そして、FC,自由な子どものこころ。感性がよく、明るいこころです。音楽家には、よくある要素です。最後は、AC、順応した子どものこころ。自分を抑えて、まわりに入ろうとするこころです。どの要素の力がつよいのか、で、いまの精神状態をみるわけです。グラフのかたちは、N字型だったり、W字型だったりします。理想のかたちは、台形です。全て同じ点数で、一文字型もありますが、それは、理想ではありません。現代人には、非常に多いかたちですが。」
「私のグラフをみせてください。」
華子は、いった。自分もその形だと、
思っていた。
「はい、これですよ。あなたは、逆への字型です。」
常静は、方眼紙をみせた。そんなばかな、と、華子は思った。しかし、グラフは、CPが極端に高く、NPが非常に低い。それを定点に、右に上がっていく、まさしく、ひらがなの「へ」の文字の逆字だった。
「どうして、あたしがこんなかたちに。」
「はじめは、みんなそういいますよ。この形があなたの心です。助けてくれと悲鳴をあげている形です。なぜ、この形になったのか、を、傾聴でききとり、ときには、ヒプノセラピーを利用しなければならないときもありますよ。そして、台形に持ってゆく。これが、交流分析です。」
「台形というのは、どんな形なんですか?どこが強いんですか?」
「お見せしましょう。こういう形です。」
常静は、方眼紙をみせた。CPとACは、半分くらい、NP,A,FCが高得点の形だった。まさしく、富士山のような、形だった。
「初めからこの形なんて、だれもいませんよ。」と、常静は、いった。
「いたとしても、お釈迦様か、イエス・キリスト様とかでしょう。この治療は心の状態が、具象的になりますので、とても効果的な治療ですよ。1日一枚、その日にみたことや、かんじたことをおもいだしながら、質問に答えて、グラフを百枚かきなさい。そうしていくうちに、変わってくる筈です。では、今日は、ここまでにしましょう。」
と、常静は、たちあがり、桐箪笥の中から、方眼紙が、百枚入った桐箱をさしだした。いや、差し出そうと思った。しかし、急にくるしくなり、桐箱は、ドスンと畳の上におちた。
「先生?」
華子は、常静の体をささえた。
「大丈夫です。」
常静は、喉をゴロゴロならしながらいった。
「単なるアレルギーですから。その箱を持っていってくださいね。」
「はい」
常静の顔が引きつっていたので、華子は、箱を持って、寮にかえった。

一方。
東京では、、、。
長野淳子が、高校生のカウンセリングをしていた。しかし、彼女がいう、「自分の人生は自分できめられる。」という言葉を理解できるものは、ほとんどなかった。退学する者もいたが、結局、なにもできなくなる。自分できめろ、私を頼るのはだめよ、などいったが、結局は、生きるマニュアルを求める者が多かった。カウンセラーが、ああだこうだと、指示をだすことは、原則的にない。長野は、それを詠ったが、自分で気づくということができないものが、おおすぎた。
長野は、かつて、交流分析を習っていたことがあった。しかし、実際には役に立たなかったのでやめにした。
その中に、須田常静のながあった。須田は、もうまもなく、というところまできていると、きいたことがあったが、じつはどうなのだろうか。

華子は、常静にいわれたとおり、毎日グラフを書いた。一週間経っても逆への字方のままだ。
「華子さん」と、野村教授が声をかけた。
「須田君とは、うまくやっていますか?」
「うーん、いまのところは、、、。」
「でも、薬がうまくきいたのかな。随分おちついてきましたね。だれかにおいかけられたとか、まだありますか?」
「いえ、ないです。こんな山の中だから、みんな、嫌になったのかな。」
「実はね、明日のごご、精神科へ訪問にいくんです。あなたは、日が浅いから、まだいけないかな、とおもっていましたが、顔色はいいですから、いってみませんか?勿論須田君も、一緒ですよ。高橋医師のところです。慰問ではなく、患者さんたちの合唱をききにいくんですよ。」
「素敵だわ。」
と、華子はいった。
「では、いきますか?」
「ぜひ、おねがいします。」
華子は、笑みをうかべた。
翌日。
和代がワンボックスカーを運転して、全員精神科にいった。博が、野村教授の車椅子を押した。常静は、なにか心配そうだった。
全員、高橋医師の案内で、病棟に入った。病棟といっても、問題をおこすような、重度のものは、いなかった。華子たちは、広い部屋にとおされた。患者たちが着飾って舞台に立っていた。中には、薬でぼんやりしているものもいる。それだけ症状が激しいのだろう。人が獣のようになる、それが、精神疾患というものだ。
華子たちは、指定されたパイプ椅子にすわった。まもなく患者たちの合唱がはじまった。曲は、木下牧子の、「夢見たものは、」と、「鴎」であった。しかし、華子は、急に気分がわるくなった。曲が佳境にはいってきた、
すると、彼女の目の前に、担任教師があらわれた!そして、物差しを振り上げた、、、。
「やめてください!」
華子は、思わず金切り声を上げた。すると強い腕が彼女の目をふさぎ、しっかりと彼女を抱きしめた。歌っていた患者たちも、彼女の豹変ぶりに、おどろき、貰い泣きをしたり、自分たちの歌を邪魔したと怒鳴る者、華子につっかかるものまでいた。非常ベルが鳴り、看護師がとびだしてきて、柔道の技を使ったり、注射をうつなりして、おちつかせた。患者たちがもどるまで、華子は、強い腕の中にいた。やがて野村教授が高橋医師に、金を払い、謝罪している声がした。
「いいんですよ、野村教授。こういうことは、よくありますから。お金なんていりませんよ。」高橋医師の声がした。
やがて、華子を抱えている手がゆるんできた。頭上から、うめき声がして、華子から、手が離れた。
「常静君、もう良いよ、手を放してあげて。」と高橋医師の声がして、華子は、やっと、ものを見れるようになった。後ろで、ゴロゴロと、聞き覚えがあるおとがした。振り向くと、常静が胸を押さえながら、うずくまっていた。華子は、常静になにか言おうとした。しかし、声がでない!一生懸命金魚のように、口を動かしていると、常静が彼女のかおをみて、再び彼女をだきしめた。
「常静、」
高橋医師は静かにいった。
「きみは、そんな体で、教授が勤まるはずがない。すぐに大きな病院で、手術してもらいなさい。君は、いつまで、わがままを押し通すつもりかね。」
非常に厳しい声だった。
「いえ。」と、常静は、呼吸を整えながらいった。
「やります。」
細い細いこえだった。
「高橋先生、かれの事より、華子さんをなんとか、してあげてくたさい。」野村教授が発言した。
「うん。ちょっと落ち着くまで、休憩室にいこうか。いま、薬をもってこさせます。」高橋医師は、看護師一人と、博と和代を付き添いとして、華子を病棟からだした。
「常静、君は、庭を散歩して頭を冷やせ。」
野村教授は、強くいった。
常静は、何か言おうとしたが、
「これは、命令だ!」
と、教授は、どなった。
「常静先生、お庭にいきましょうか。」
と、看護師に体を支えてもらいながら、常静も、部屋からでた。
残ったのは野村教授と、高橋医師だった。
「すみません、僕の不注意で。」
野村は、車椅子のまま、謝罪した。
「いやいや、彼女のような例は沢山ありますから気にしないでください、それより、常静のほうが心配です。専門ではない僕がみてもわかりますよ。都内か、どこかの心臓外科で、バチスタとか、やらないと、大変なことになります。」
「先生、常静は、自分でもわかっていると思うんです。彼女を最期の生徒として、立ち直らせたいのでしょう。彼は、人が何をいっても、聞かないことがありますから。許してやってくれますか、」
「しかし、彼はまだ三十五ではないですか、まだまだ可能性のある年齢でしょう。あそこまで音楽の才能をゆうしながら、何かもったいなさすぎでは。」
「きっと、もう、手遅れだと知っているのではないでしょうか。本人が、長くないと、わかっているのだとおもいますよ。彼の言うとおりにして、最期の最期まで、古筝に生きた人間として、送ってやるのが一番だと、おもいます。それしかないんです。きっと。」
「そうか、、、。」高橋はがっかりしたようにいった。
「あの音が聞けなくなるのもそうとおくないな。でも、野村君、少しでも彼の音をきけるように、病院にはちゃんといくように、いってくださいよ。」
二人は肩をおとした。



徳松百合子は、あることで、悩んでいた。彼女が若いころは、親たちは、自分の前にひれ伏していた。受験のことを何一つ、知らない、そして良い学校へいかせたい、という親たちばかりで、ただ、受験は、テクニックであると、知らせればよかった。私立大学に行かせないために、学費が一千万かかると、生徒を脅し、言うことを聞かなければ、物差しでぶったたく。これでよい。と、彼女は、確信していた。とにかく自分の地位を保持するため、そのやり方を貫き通し、若い男性教師よりも、恐ろしかった。
その徳松は、50歳の誕生日を迎えた。
結婚もしていないので、一人で、近所のスーパーマーケットにいった。夕食は、カップヌードルと、サプリメントしかなかった。すると、とんとん、と肩を叩かれた。池波淳子だった。
「あら、池波先生。」
「いえ、ちがいます。長野です。主人と離婚して、シングルにもどりました。」
「まあ、あんなに仲良くされていたのに?」
長野が、夫と仲がいいのは、学校中知れ渡っていた。徳松も、知っていたが、うらやましいとも何とも思わなかった。しかし、ここへきて、急に寂しくなった。
「ええ。主人は、浮気して出て行きました。私、主人のこと、何も知らなかったんですよ。」
「先生は、いまは、お一人?」
「 ええ。カウンセリングはしてますけど。」
徳松は、長野が、うらやましかった。まだ、手に職をもっている。しかし、自分には何もない気がした。

翌日。
徳松は、いつもどおりに、学校に来た。そしてまた、根無し草の受験生に、私立大学は、一千万かかる、いってはいけない、と、物差しを振り上げた。そして、
「いいか、とにかく、お父様やお母様に、負担をかけず、卒業して、ご両親が安心してあの世へいける、そんな人間になりなさい!」
とどなり、物差しを床へ振り下ろした。すると、それは、一番前に座っていた、男子生徒の額にあたり、男子生徒の頭から噴水のように、血がふきだした。すると、隣にすわっていた、吉田朗子というがたいの大きい女子生徒が、たちあがった。
「先生、私たちは先生のために、大学へ行くんじゃありません。」
徳松は、ケッとわらった。
「何もしない、あなたに、何がわかるの?ご両親があなたのために、何回も血を流したかわかるの?」
「親がいない場合はどうなるんですか?」
朗子も負けじとどなりかえした。徳松は、はっとした。この生徒は、交通事故により、両親をなくしている。いまは、母方の祖父とくらしているのだ。
そんなこと、なぜ忘れたのだろう。
「先生、はやく、佐藤君を保健室へ。」朗子は、いったが、徳松は、指示をだせなかった。物差しがパタンと落ちた。怪我をした男子生徒は、他の生徒がつれていった。すると、それまで黙っていた生徒が、一斉にさわぎだした。
「あたしたちはもう、先生なんて信じません!」
朗子が怒鳴ると、女子生徒たちは、手拍子しながら、
「でていけ、でていけ!」と叫びだした。
「しずかに!」徳松がさけんでもつうじない。
徳松は、腰に激しい痛みをかんじ、すわりこんでしまった。ぎっくり腰であった。生徒たちは、ちんどんやのように、教室をでていった。

富士では、深刻な問題がおきてきた。華子がまったく口を聞かず、何かキーワードをいうと、奇声をあげて大暴れする。そのキーワードは、おもに学校のことや、心理学的なことだった。博や、和代は、入院させてあげたら、と提案したが、高橋医師にたのんでも、病院は、定員いっぱいで空きがない、と断られてしまった。二人は、華子に話しかけないようにしないと、自分の身がもたない、と、愚痴をいったが、常静だけはちがった。彼は、華子を寮からだし、自分のいえにすまわせた。力を振り絞って、古筝をを弾き歌いした。体をみせなければならない場所いがいなら、華子が暴れると、強いうででだきしめ、ブラームスの子守歌などを口ずさんだ。
博と和代は、常静の体が心配だと、野村教授からきいていたので、定期的に訪れたが、古筝のおとは、鳴り止まなかった。
それを、何日繰り返しただろう。
あるひ、常静が華子をだきしめ、漢詩に節をつけて歌ったところ華子は、復唱しはじめた。しかし、それは、オウム返しでしかなく、話す言葉にはほどとおかった。



華子は、常静が弾き語りをする漢詩を復唱することは、できるようになったが、まだ発話はできなかった。常静は、彼女の症状を健忘失語と見抜いた。ある、重大な心の傷を負い、それから逃れようとするために、言葉が言えなくなる、と言うものだ。また、キーワードは、「夢に向かって」とか、「夢を追いかけて」など、将来性の話をすると暴れ出す、ということもわかった。一時期、解離性同一性障害とも考えたが、全く矛盾したことを言うわけではないし、キーワードさえ言わなければ、喋れなくても生活は可能なので、それは違うな、とわかった。
「華子さん、大丈夫なのかなあ。」博は、和代にいった。
「大丈夫よ。きっと。常静先生と一緒なら。」
「でも、健忘失語って、」
「大丈夫よ。先生は、解離性同一性障害、いわゆる多重人格障害の方もなおしたのよ。」
「えっ、それ初耳。本当なんですか。」
「ほんとうよ。彼女と同じ年の男の子だったわ。人格さんを三十人以上作って、すごく大変だったらしいけど、最後には人格さんは、みんな消えていったわ。いまは、立派な古筝弾きとして、音大で教えているそうよ、」
「ねえ和代さん、」
博は、何かひらめいた。
「その人の名前は?」
「吉田玲」
「その人をこっちへ呼ぶわけには、いかないかな。常静先生だけじゃ、カバーできないよ、いくらキーワードをいわなければ、大丈夫だとはいっても、ポロッと口にしてしまうことはあるし。」
「そうね。野村教授に頼んで、呼んでもらいましょうか。」

翌日。
吉田玲が、アカデミーにやってきた。
きりっとした、しかし、憂いをもった顔であった。
野村教授がでむかえた。
「吉田先生、きてくださってありがとうございます。」
野村は、頭を下げた。
玲は、昔と全く変わっていた。三十人以上、有名なビリー、ミリガンよりも多くの人格を宿した、あのころの風貌は、少しもなかった。
「常静先生は、お元気ですか。」
「いえ、それが、須田君は、相当進んできているみたいで。もう、、、。」
「そうですか、クライアントの華子さん、上村華子は、僕の妹の、吉田朗子の同級生です。朗子は、徳松という教師にひどくいじめられ、先月、退学しました。朗子に聞いた話ですと、華子さんは、徳松に、三十六回叩かれていた、と聞いています。」
「三十六。まあ、それは、やりすぎですね。」
「ええ、朗子の話ですと、あの学校は、日常的に体罰が行われているようてす。その理由は知らないようですが、朗子が入学する前には、耳を殴られ、聴力をなくした生徒がいたときいています。朗子は、いま、退学して、特殊学校にいっていますが、友達も何人かいるみたいです。華子さんは、健忘失語になるほど辛かったんですね。」
「ええ。須田君は、弱音をはきませんから、なにも言わずにセラピーを続けていますが、このままですと、もともとこれっきりしかない生命力がむしり取られてしまいます。手伝ってやってくれませんか?」
「はい。常静先生のような、優秀では、ありませんが。」
野村は、玲を常静の部屋につれていった。
「常静先生。」
と、玲は、戸をあけた。古筝の音がとまった。常静がお入りください、と優しくいった。
「吉田くん。」
常静は、涙を流しながらいった。
「随分良くなったんだね。あのころとは、大違い。」
「先生のおかげです。」
華子もこの人が誰だかわかった。吉田朗子の兄だ。しかし、朗子は、徳松の殿のようなかんじであり、高得点者でもあった。確かに朗子の兄は、多重人格者だとは、知っていたが、なぜここへきたのだろう?
「もう、国家試験には、受かったの?」
「お陰様で受かりました。中国は、なんとなく怖い国といわれますが、のんびりしていて、心がらくになりましたよ。」
「そうか、いまは、立派な気孔師になったんだね。」
「はい。先生、」
二人は、専門用語を使い、打ち合わせをした。
「では、やってみましょうか。」
常静は、古筝を弾き始めた。
非常にゆっくりしたメロディーがながれだした。華子は、力がぬけた。すると、温かい手が、彼女の頭を触り、次に首をさわった。はじめは、セクハラとおもったが、その手は、やさしく包み込むような、極論すれば、赤ん坊を抱く母親のような温もりを感じられた。
音楽がとまり、手がはなれた。
華子は、周りが明るくなったように、みえた。
「華子さん。」
玲が小さく声をかけた。
「は、はい。」
と華子はいった。言葉がでた!言葉がでた!言葉がでた!
華子は、感涙にむせいだ。常静も、泣いていた。
「先生、、、」華子は、おそるおそる、口を開いた。違和感もなにもない。
「ありがとう、ございました!」
今度は一気にいった。流暢にでた、訛りや、どもりもなにもない。
華子は、涙を流している常静に、
「先生、そんなに泣くと、絃が錆びますよ。」
といった。常静は、彼女をだきしめた。
「よかったですね。」
玲もわらった。
その日、華子が書いたグラフは、逆への字てはなく、CPが少しおち、NPが、少しあがった。

第三章

ある日。
吉田朗子が兄の玲に連れられて、アカデミーにやってきた。華子は、ぎょっとした。なぜ、こんな場所に!
「華子さん」朗子は、花壇に水をあげていた華子に声をかけた。
「吉田さん。」
「朗子でいいわ。」
朗子は、右腕に傷があった。傷ではなく、龍の刺青だった。髪も、長くのばしていた。髪を厳格に短く切り、囚人服のように、制服を着ていた高校にいたときとは、また違っていた。華子は、もっていた、シャワーをおとした。朗子は、水道の蛇口をしめた。
「華子さん、ぬれてるわよ。髪を拭きなさいよ。」朗子は、笑った。
「どこかにタオルはないの?」
「本部のなかにあるわ。」
華子は、本部にもどろうとした。すると、朗子もついてきた。
「少し話したいの。」
朗子は、いった。真剣な目つきだった。とても、高校にいたころみせた、目ではなかった。
華子は、こんらんしながら、朗子をとおした。
二人は、テーブルにすわった。
「私ね、」朗子は、話し始めた。
「もう、学校はやめたの。いまは菊川にいるの。特殊学校というか、ヒーラーになるために、専門学校に通っているの。兄が大学受験に失敗して、多重人格障害になって、祖父とよく衝突したけれど、祖父が中国人の方にお願いして、兄をしばらく中国に住まわせて、兄は気孔師の国家試験もうけて、いま菊川で、やっているの。だから、私、大学受験ばっかりいうあの学校は、本当にいやだったのよ。まあ、はじめの頃は、優等生は、いいなと思っていたけれど、大学は、いま行かなくても良いんじゃないかな、とおもうわ。まあ、お金はかかることはたしかだけど、あたしは兄と同じように、ヒーラーになって、ある程度、実践して、それから大学にいきたい。専門的な勉強は、その方がいいって、祖父がいっていたわ。だから、大学へはいるための勉強なんていまは、必要ないの。この刺青は、その証拠。だから、もう高校は、いかないわ。」
「朗子、、、。」
華子は、複雑なきもちだった。徳松や、長野の殿だった朗子が、刺青をし、こうやって自分の夢を語っている。学校では見せない程の笑顔だった。
「華子さんは、生きたい道とかあるの?」
「わからないわ。だって、そんなこと考えては、いけないと先生方にそういわれてきたし。お母さんも、なにもいわないもの。」
「ねえ華子さん、学校と口にするのは、やめましょうよ。学校じゃなくても、学ぶことはできるのよ。学校は、自分になるためのただの手段よ。いま、須田先生に習ってるんでしょう?古筝。だったら、もっともっと疑問や、質問を投げつけて、古筝弾きになっちゃいなよ。須田先生、お体が良くないってしってるでしょ、あんな優秀な先生だけど、もう終わりになるかもしれないわよ。」
「常静先生、すごい人なの?そんなに。」
「知らないのあなた、須田常静と言えば、セラピーの世界で、知らないものはいないわよ。東大の医学部をでて、大学院の博士号ももって、古筝と、催眠療法を融合させた治療を発明して、大評判になったのよ。合計で、千人近く治したのよ。でも、もう、終わりになるかもね。」
「もう終わり?どういうこと?引退されるの?」
「ちがうのよ、須田先生、もう長くないのよ。兄の話では、かなり弱ってしまって、もう、一年もてば上出来っていわれたらしいわよ。いまも、貴女には見せないで、苦しそうにしてるわ。だから、貴女を最期の生徒として、みてるのよ、そんなことも知らなかったなんて、学校は、なにも、教えてくれないわよね。」
「常静先生が、そんなに、、、。」
「そうよ、だから、常静先生の教える事を全て掴みなさいよ。そうしなかったら、悔いがのこるわよ。」
華子は、なにも言い返す事ができなかった。いまも、自分には苦しいものが、まだとれない、という力もなくなってしまった。では、どうしたらいいのか、自分の病気を直そうとしてくれる人が、まもなく自分の元をさり、二度と戻ってこないひとになってしまう。それは、いかりに変わった。先生は、おおぼらを吹いた、私の知らないところで、そんな重大なことをかくしていた。なんという裏切り、なんという悲しみ、なんという怒り、華子は、幼児のように、泣きじゃくった。
「華子さん!」
朗子は、華子をひっぱたいた。
「早く、先生のもとに戻りなさいよ、一分一秒、先生の命は短くなるのよ!しっかりしなさいよ!」
華子は、ぱっとたちあがり、常静の部屋に飛び込んだ。
常静は、古筝をひいていた。
「華子さん、どうしたの?土足で。」
「先生!」
華子は、叫んだ。怒りと悲しみが混じっていた。
「どうして、私にはいってくださらなかったんですか!」
常静は、華子が何を言おうとしているのか、すぐわかった。常静の目に、涙が浮かんだ。
「仕方ないんですよ、」
常静は、やさしくいった。
「貴女には、あなたが躓いた原因を告げてから、言おうと思っていたけれど、もう知ってしまわれたのですね。
僕には、、、二度と正月はきませんね。自分でもわかりますよ。でも、自分の責任であり、自分の過失です。誰にも、変えることもできませんよ。」
「先生が、いなくなったら、あたし、」
「ええ、吉田朗子さんのお兄さんに継いでもらいます。あなたのお母様にも伝えてあります。」
「そういうことじゃないんですよ、先生は悪い人です。先生はあたしを裏切りました。」
「そうですか。」と、常静は、いった。
「明日、一時にこちらにきてください。」
何か、強い迫力を感じた口調だった。
華子は、その剣幕に驚き、はい、と言わざるをえなかった。

翌日、常静の前に、華子がやってきた。
「今日は、誘導をやります。」
常静は、静かに言って、古筝の前にすわった。華子は、マッサージ機の上にすわれといわれた。
華子がそこに座ると、
「目を閉じて。僕が弾く音楽だけ聞いていてください。」
常静は、古筝を弾き始めた。
その曲をきくと、酷く涙が溢れ出し、止まらないほど流れおちた。目をつぶっているはずなのに、朝靄のような、霧がかかっている、景色がみえてきた。霧はどんどん取れていき、やがて具象的な映像になった。
そこは、学校だった。すると、背中に痛みが走った。徳松に叩かれたのだ。物差しでバーンと。次は、学校の保健室が見えた。長野がいた。長野は、徳松に叩かれた顛末をきいても、何も反論しなかった。
「いい加減にしてください!」と、華子は、叫んだ。実際に口にだしていったのであるが、華子は、覚えていなかた。
「あなたはもう退学しなさい、点数もとれなくて、そんなに弱い子は、学校の評判をおとすことになるから。」
「わああああ!」と、華子は、床に頭を叩きつけながらいった。この、長野の言葉は、いつまでも、あたまにこびりついてはなれない言葉だった。
長野は、校内の公衆電話で、華子の母、葉子をよびだした。五分位で、葉子は、学校にきた。
「華子!」
「お母さん、ちゃんとしつけて頂けないと困ります。教師に反抗する生徒は、邪魔者ですから。他の生徒にも、こまりますし。」
「先生、それはちょっと言い過ぎますよ。たしかに、上品な育て方はしてきませんでしたが、邪魔者って。」
華子の体は怒りでいっぱいになった。
「殺してやる!」
華子は、テーブルに載せられていた、果物ナイフをとりだした。それをもち、長野に迎って突進した。すると、母が、長野の前にたった。
母は、手のひらを軽く斬られただけで何もなかった。そして、優しく華子をだきしめた。
映像は、そこまでで、ぷちんときれた。
「私、、、お母さんのこと、、、殺そうとしたのでしょうか?」
「そうではないとおもいますよ。」
常静は、答えた。
「あなたは、長野さんに、強い怒りを感じたのは、確かです。でもお母さんが長野さんをかばおうとした。だから、お母さんが長野さんに、見方したのと勘違いしていて、怒っていたのですね。」
「母は、本当に長野に見かたしたのでしょうか?」
「それは、僕がいうことではありません。ご自分できいてみるといい。あなたが心を病んだのは、これが決定的な真実です。」
「先生。」
華子は、涙を浮かべた。
「先生は、やっぱり、すごい方ですね。」
これまでにない、笑顔だった。
「セラピーをおわります。」
常静は、最敬礼し、華子は、外へでた。そして、寮に戻ろうとすると、野村教授が、近づいてきた。
「華子さん、ちょっと常静を呼んできてくれないかな。」
「はい。」と、華子は、常静の部屋にもどり、野村教授が呼んでいると、告げた。
常静が本部にやってきた。青白いというより、蒼白なかおだった。
「まあ、座りたまえ、」
二人はテーブルにすわった。
野村は、とある病院のパンフレットを差し出した。心臓に特化した病院で、規模こそ大きな所ではないが、最新式の設備を整えていた。
「須田君、君は自分の病気を治すには心臓移植しかない、といっていたね。ドナーを待つことができないから、余命がないとも言っていた。しかし、それを覆すことができるかもしれないんだ。」
「どういうことですか?」
「これをみてくれたまえ。」
野村は、パンフレットをパラパラとめくった。すると、「バチスタ手術のご案内」と書いてあった。
「これは?」
「うん、君と同じ病気の人が何十人も、これで治っているらしい。肥大しすぎた心臓の一部を切り取るというものだが、劇的な回復ができるそうだ。高橋医師や、この病院の医師にも相談したんだけど、君はまだ、三十五だし、手術に耐えられると思うと言っていた。費用は、僕がだすから、受けてもらえないだろうか。」
「しかし、、、。」
「君は、日本の古筝界の大物だ。さらに優秀なセラピストだ。上村華子を初めとして、君のセラピーを必要とする人はこれからもたくさん出るだろう。そのためにも、死ぬのではなく、生きていてほしい。」
野村は、頭を下げた。
「教授」と、常静は、いった。
「お話はわかりました、頭を下げないでください。手術、うけます。」
静かな、しかし、決意に満ちた声であった。
常静に呼び出された母葉子は、アカデミーにやってきた。娘の様子をみにきたつもりだった。丁度華子は、常静と、レッスンをしていた。
「ごめんください。」
葉子は、戸をたたいた。
常静がどうぞ、というと、母が、入ってきた。
「お母さん、」と、華子は、いった。
「ごめんね、いままで。あたし、いままでお母さんはあいつの見方をしていたんだ、と思ってた。でも、それは、勘違いだって、常静先生に教えてもらったの。だから、もう平気よ。」
華子は、涙を流しながらいった。口ではそういうが、まだ、腑に落ちないようなきがしていた。
「お母さんも、ごめんね。あなたが長野さんに、飛びかかったとき、本当に怖かったのよ。あれだけの怒りをためて、あそこまでしようとして、お母さん、何回も自分をせめた。なにも、力になれなかった。ただ、学校をやめて、こちらに来させるしかおもいつかなかったのよ。悪いのはお母さんよ、」
「どちら側が悪かった、ではなくて。」
と、常静がいった。
「多分、どちらのせいでもないとおもいますよ。だから、一番大切なのは、相手や自分を責めるのではなく、赦す、ことじゃないかな。もう、これっきりにして、新しい人生、新しい自分になること、これが一番だと、おもいますよ。僕はね。」
華子と、葉子は、涙を流しながら抱き合い、これまでのいきさつを、語りあった。こんなこと、何十年ぶりだっただろう。かつては、母も子も関係なく対立していたときもあったのだ。
酷い叩き合いになることもあった。お互い責め続けていたけれど、いまこうして、ことばが、かわせる。それがうれしくて、ならなかった。
と、そのときだった。
ふたりの後ろで、うめき声と共に、バタンという音がした。ふたりが振り向くと、古筝の前に、常静が倒れていて、熊のような唸り声を立てながら、胸を抑え、立ち上がろうとしていた。
「先生!」
と華子は、常静のもとに、かけよった。どうしたらよいかわからなかった。
「華子、いま、救急車よぶから、先生についていてあげて。」
母は、冷静だった、ある意味、美しかった。
「華子さん、、、」
常静が、かの泣くような声をあげた。
「大丈夫、いつもの、、、いつもの、、、こと、、、だから、、、。」
といって古筝に手をのばしたが、届かず、手をバタンと投げ出し、いままでよりもさらに、強く強く強く、唸り声をあげていった。
まもなく、救急車がきてくれた。葉子から、連絡をうけた野村は、パンフレットをもらった、心臓特化型の病院へまわさせた。
「あたしたちも行こう。」
葉子は、そっといった。
「怖いわ。」
と華子は、いった。
「馬鹿!」
葉子は、華子をひっぱたいた。
「しっかりしなさい、門下生でしょ!」
華子は、我に帰り、葉子の車にのった。和代も、博も、野村も、彼女たちをおいかけた。
幸い、病院までは、五分程度しかなく、手早く処置が行われ、常静は、一時間程度で、意識をとりもどした。
そして、全員に、こんな説明があった。彼の心臓は、画像診断したところ、スイカほど肥大していた。病名は突発性拡張型心筋症。心臓の筋肉に力がなくなり、血液を送り出すことが出来なくなる、非常に珍しい病気であった。心臓移植のドナーを待っていては間に合わない、すぐにバチスタ手術をしなければ、と説明された。朗子と、玲もかけつけてきて、全員、常静のバチスタ手術に同意した。費用は、とてもかかるが、全員で、割り勘しよう、と玲の意見で一致した。
午後、手術が行われた。何十時間もかかる大変難しい手術であった。人工心肺を使い、肥大した所をきりとり、残りをつないでいく。あまり、例がない手術でもあるため、成功するか、さえもわからないものだった。
「こうなってしまうなんて、」
野村教授は、ぼやいた。
「僕らはなんで、みつけてやれなかったのだろう。」
博もいった。
「もっと、いい、医療をはやくみつけてやれば、ここまで、ならなかったのかもしれないね、あんなスイカみたいな心臓になるまで、ほっぽらかしにしすぎたのかな。」
「しかたないわ。」と、和代は、博をなだめた。
「そう言うところが、須田常静なのよ。」
博と和代が愚痴をいっている間、華子たちは、静かに歌を口ずさんだ。
常静が、よく口ずさんでいた、「ジャスミン」。中国に古くからある歌。
美しいメロディーであった。

やがて、手術室の明かりがきえた。
全員、立ち上がると、常静がチューブでぐるぐる巻きにされながら、ストレッチャーではこばれていった。

意識を回復した須田常静は、げっそりとしていたが、目の光りだけはあった。毎日、華子は、見舞いにいった。母葉子も、忙しくなければきてくれた。野村や、他の者は、全くいかなかった。博たちは、18時間の大手術に耐えられたのだから、回復するだろう、と考えていた。
その日、華子は、いつも通り病院にいった。
常静は、布団の上にすわった。
「今日は、」
と、常静は語りはじめた。
「ある、馬鹿な男の物語をきかせてあげます。」
華子は、椅子にすわった。
「その者は、4歳から古筝をならいました。十年後に彼は、師範の免状をとります。でも、弱点がありました。かれは、義務教育を受けていなかったんです。かれは、近親交配で生まれたために、非常に虚弱であったため、学校にいけませんでした。」
「なぜ、近親交配で?」
「かれの祖父の妻は、死亡しました。しかし、古筝の家元はつくらなければならない。祖父は、後妻をもらいました。それが馬鹿の母でした。しかし、祖父は、亡くなった祖母の間に子供がいました。その少年は、馬鹿の父でした。父が一番性欲の強い、十八歳のとき。祖父の後妻の部屋に忍び込んで。」
「つ、つまり、レイプしたと?」
「はい。その通り。そして生まれたのは、馬鹿でした。彼が四歳から古筝を始めた云々はのべましたね、」
「はい。」
「しかし、祖父も、父も、後妻も、大地震で被災してなくなり、かれは、古筝を背負って、放浪の旅に出ました。
ある、廃墟の寺院に居座っていたときでした。彼は、警察に保護されて孤児院にいきました。でも、古筝の家元の私生児であることは、すぐに知られてしまって、かれは、悉くいじめられて。」
「ひどいわ!その人の親!」
「で、かれは、学校にいかないまま、精神科にいって、暫く隔離室にいて。その中で心理セラピーを学んで。」
「ええ。」
「セラピーを施す人として、やって行くようになり、やっと人並みに暮らせるようになったけど、段々に胸が苦しくなって。もう最後、と野村教授のもとに、おいてもらって。」
「じゃあ、その、バカな男って。」
常静は、そっと、自分をゆびさした。
「先生は、学校にいかなかったんですか?」
「ええ、でも、その方がかえって楽なこともありますよ。いまは、ほとんどの人が学校にいけるけど、僕が若い頃は、たくさんいましたからね。学校に行かない人。学校にいったから、何がえらいか、というと、何もないとおもいますよ。学校が苦しくて、行かないひとも、いるからね。華子さんは、学校をどう、捉えているのですか?」
「わからないわ。ただいけと言われるだけで。」
「本当は、そうあってはならない所ですよ。学校は。だって、学ぶとは、これから生きていく術を身につける事ですからね。それが、僕にはあこがれでしたけど、結局できないまま、ここまで来たんですから。」
「先生、先生は、まだ三十五なんですから、夜間中学とかで学ぶとか、通信教育とか、あるじゃないですか、病院をでたら、あたしも協力しますよ。まだまだ学びたいってきもち、あたしもありますもの。あたし、先生のそばにいます。あたしを救ってくださった、先生のそばにいたい。」
常静の目に、涙が浮かんだ。
「華子さん、あなたは、広い世の中へ出て行かなくては。本当のあなたが、世の中を歩くすべを学んで、また、苦しんでいる人たちに、それを伝えていく。そうすれば、これから生まれてくる命たちに、世の中の素晴らしさを教えられる。そのためにも。」
「先生、それは、一人では、やっていけないんじゃないでしょうか。私はそうおもいます。先ほどはなしてくれた男性は、一人で全てしようとしたから、お体をもぎとられてしまわれたのでしょう。だから、二人でやっていけば、また違うとおもうんです。一人ではなく、二人で。それは、できませんか?」
「そんなこと、、、。」
「私が、先生のそばにいます。」
華子は、常静の肩にそっとてを置いた。
常静は、その手を握りしめ、二人の間に置いた。二人とも、目の色が深くなっていた。
看護師が
「面会時間、おわりましたよ、」
と、つげにきた。
「あら、もうそんな時間?」
華子は、立ち上がり、上着を着用した。
「また、明日きます。バイバイ。」
華子は、手をふった。
「また明日」
常静も手を振った。
華子は、軽やかにはしって帰っていった。明日は、アカデミーをでて、アパートにでも移りたい、そんなことを語ろうと思っていた。

翌日。
朝日が地平線から降り注いでいた。
朝食を届けにやってきた看護師が、常静の部屋の戸を叩いた。
「須田さん、朝食ですよ、おきてください。須田さん?」
看護師は、常静の部屋の鍵をあけた。
そして、持っていた朝食のお盆を落としてしまった。すぐに、踵をかえし、ナースステイションに飛び込んで、
「先生、いらしてください、個室の須田さんが!」
まだ朝が早いため、担当医はいなかった。寝ぼけまなこをした当直医は、急いで常静の部屋に飛び込んだ。
常静は、もう息絶えていた。眠ったまま、あの世の人になったのだ、と医師は、かくしんした。
これが、臨終か、と思われるほど、彼の死に顔は、うつくしかった。

終章

野村教授のスマートフォンがなった。
「はい、野村です。」と、はなしはじめたが、一気に喪心した顔になった。
そして、話がおわると、パタン、と、スマートフォンが落ちた。
「どうしたんですか?教授」
と、博がきくと、
「常静が死んだ。」
と、一言だけいった。
「遺体を引き取りにきてほしい、とのことだ、昨日、眠ったまま逝ってしまったらしい。」
「でも、手術は、成功したんじゃ、、、。」
「僕は運転ができないから、二人で、遺体を引き取ってきてくれ。身よりもないから、ここで、ささやかな葬儀をしよう。あいつは、儀式みたいなのが、きらいだから、みんなで、ジャスミンの歌を歌って、送り出そう。」
「華子さんには、どうします?」
「僕が伝えるよ。」
博と和代は、でていった。
野村教授は、寮にいき、華子の部屋の戸をたたいた。
「華子さん、ちょっといいかな。」
「はい。」
華子は、ドアをあけた。
「華子さん、落ち着いてきいてくれ、須田君が昨日亡くなった。眠ったまま、目をさまさなかったそうだ。手術は、成功したけれど、体が多臓器不全だったらしい。つまり、手術できない体だったのを、見抜けなくなったそうだ。いま、博君と、和代さんが、遺体を引き取りにいった。もうじき帰ってくる、かれは、日本には身内がない。みんな大地震で亡くなったからね。だからここで、送り出してやろう、」
華子は、何もいえなかった。もう二度と不正確で美しい古筝の音はきこえない。もう二度と、もう二度と、、?
もう二度と!
華子は、床に崩れおちた。
その時、博と和代が帰ってきた。二人は車のドアから、古筝位の大きさの、桐の箱を取り出した。そして、本部の中に置いた。
華子は、野村教授の指示で本部にいった。常静の遺体をみて、
「なんと美しい死に顔だ。」
と野村教授がつぶやくほどその顔は美しく、長年の負担から、解放された喜びの顔であった。
華子は、床に突っ伏してないた。
「先生は嘘つきだわ、手術ができたら、二人で暮らすつもりだった。二人で、古筝おしえて暮らすつもりだった。」
壊れた噴水のように、泣きはらす彼女の言葉をきいて、他の者は、この女が、この男をどう想っているのかを知った。ただでさえ、この感情はつらい。男と女があるかぎり、取り払うことは、できないものだ。しかし、危険もはらんでいる。野村は、朗子の家に電話し、華子を預かってもらえないか、と頼んだ。朗子は、すぐ承諾した。華子は朗子の家に預けられたが、誰とも口をきかなかった。朗子も、玲も、そっとしておいた。この場合、やたら施術してしまうと、悪化するかもしれないからだ。母も、仕事が無いときはきてくれて、朗子と三人で、近くの百貨店などに連れ出してくれたが、華子は、ことばがでなかった。時々野村が電話をかけてくれたが、華子は、喋れないままだった。
そんな中、病院から、忘れ物という、小包が届いた。野村教授があけてみると、常静の筆跡でかかれた、和装本が見つかった。

ある日、朗子の家に大掛かりな荷物が届いた。朗子があけてみると、古筝が一面入っており、手紙も入っていた。
「兄さん」
朗子は、兄にいった。
「華子さんを呼んで、」
玲は、その通りにした。
華子がやってきた。
華子は、古筝をみて、
「常静先生の、古筝!」
と、口が動いた。
「華子さん、これをよんでみてよ。」
朗子が和装本を手渡した。
「あなたが、」
華子は、涙ながらによみはじめた。
「強く想ってくださったのは、しっていました。期待にできる答えができなくてごめんなさい。これは、僕の安物の古筝ですが、使ってください。そうすれば、僕は、いつでも音をだして、あなたを慰めてあげられます。もう悲しまないで。あなたを必要としてくれる人があらわれるでしょう。そして、今を生きてください。さようなら。須田常静」
「華子さん、」
朗子が華子の肩をたたいた。
「その古筝で何かひいてよ、」
「簡単なのしか、」
「いいからいいから。」
華子は、古筝を調弦し、ジャスミンを
ひいた。
「華子さん、華子さんの奏法が、須田先生になってる!」
「本当だわ!」
玲と朗子は、立て続けにいった。
「やっぱりまだ、生きているんだよ、須田先生は。」
「そうね、上村華子さんの体にお引っ越しされたんだわ。」
「ほんとうさ。あの人は、永久欠番だ。僕らも永久欠番に、なれるように、いきたいね。」
「そうね。」
二人が交わしていたころ、優しい風がふきはじめた。春がきたのだ。

徳松は、朗子が中退したショックがものすごくおおきかった。はじめのうちは良かった。自分を裏切るならそれでいい、しかし、当てが見つからなくてまた戻ってくるだろう、と考えていた。ところが、朗子は、戻ってこない。さらに、以前退学した華子も、戻ってこなかった。同じクラスから二人退学者がでた、という噂は、あっと言う間に広まってしまった。
さらに、いつも通り受験のこと、学費がかかるから私立にはいくな、という根源は、徐々に覆されるようになった。不況であり、大学にいくより、働く生徒が増えてしまった。生徒が全員大学にいける時代になり、大人になって大学へ行けばよいのだ、という考えも広まった。シニア入試という、おじいさん、おばあさんを大学に入らせる制度も登場した。これにより、いまは、大学にいかなくても、いいや、という生徒ばかりになった。ちゃらんぽらんな生徒ではなく、いわゆる優等生がそういう。徳松は、ひたすら体罰を繰り返して、進学率を上げようとしたが、もはや、叩く力も弱り、ぎっくり腰も何回も再発した。
長野も、徳松ににていた。スクールカウンセラーという身分では、学校にはむかえるほどつよくない。長野は、自宅でカウンセリングルームを開発したが、自分の人生は自分できめられる、
それは、確かだ、しかし、いまきめるものではない。長い長い人生は、放浪の旅のようなところがあり、ある程度、力を抜かなければならない者も、現れるようになった。学校は何も教えてはくれない。社会にでれたけど、疲れ果ててしまう。そんな者がおおい。時代は、正しいとおしつけ、マインドコントロールすればうまくいく、という時代では、なくなっているのであった。
徳松のもとに、合格の安否をしらせる、電話がかかっていた。そのコールに、徳松は、合格の知らせとおもって、受話器をとった。
「はい。」
「せんせい。」
売春婦のような、媚びるようなこえだった。
「あなたは、国公立大学にいけば、しあわせに、なれるといってましたよね。」
「え?」
思いつかなかった。彼女は、老いたのだ。それに、彼女は、きづかなかった。
「私、吉田朗子です。私がどうなったか、教えてあげましょうか?」
「朗子さん。」
さらに電話は続いた。
「私、いま、ヒーリングの勉強してるんです。だって、この仕事、大好きだから。先生は、医療、介護、福祉の道が一番正しい生き方だと私にいいました。でも、ヒーリングサロンにくるのは、そういうひとばかり。みんな、世の中の不条理ばかりはなしますよ。それが、正しい進路なんですか?それらを否定はしないけど、そんなつらい仕事なんて、やれませんよ。私はそういう人を癒やすほうが、むいてると、おもいますわよ。」
「あなた、小論文では、必ず福祉のことばかり書いていたじゃない。」
「あ、生徒のうそも見抜けないんだ。
逸れじゃあ、だめですね、小論文に本音を書いていけないと言ったのはだれですか?」
「あなた、何を、」
「じゃあ、小論文と、実際にいった大学を比べてみてください。ふふふふ。」
気味の悪い声で朗子の声は消えた。
徳松は、目をさました。ふふふふ、ふふふふ、朗子の笑い声が耳に響いてくる。どこから聞こえてくるのか、わからないし、姿がみえない。徳松は、外へでた。すると、中央分離帯に朗子の姿があった、、ようなきがした。
「朗子さん!」徳松は朗子のもとへ走った。しかし、鈍い痛みを全身に感じ、それっきりわからなくなった。
信号機は、青だった。すごいスピードで走ってきた、トラックは、彼女が飛び出してきたため、急ブレーキをふもうとしたが、間に合わなかったのだった。一番の殿であった朗子の幻影が、彼女を事故死においやったのだ。

長野は、カウンセリングルームを続けていた。しかし、ある知らせがまいこんできた。母が倒れたというのだ。弟から電話をもらい、病名は認知症だという。とりあえず母には、家の近くのデイサービスにきてもらい、長野はカウンセリングルームをつづけた。頼りにする男もない。弟は、姉がカウンセリングの技術があるから、認知症の相手もできるだろう、と初めは思っていたが、そのうち違和感を感じはじめた。
「姉さん」と、弟は、いった。
「お母さんの顔をみてやってくれないかな?僕ばかりで、淳子はどうしているのか、よく口にするんだ。」
「いかないわ。」と、長野はいった。
「私の人生は、私がきめるわ。私は、親の死にたちあうんだったら、逃げた方がいい。」
「ネパールの竹かごの物語をしらないのかい?主人公がお父さんを捨てようとしたら、子供が、大人になったとき、お父さんをすてるから、かごは持ってね、というはなし。いくら認知症でも、お母さんじゃないか。姉さんは、お母さんをデイサービスという竹かごにいれてすてるのかい?」
「まあ、そういうことね、あたしは生きがいがほしいの、必要とされたい。家の中ではなく、そとで。」
長野は、冷たくいった。弟は、ついに我慢できなくなり、
「もう、僕はね、あしたから、また、病院に戻らないといけないんだよ。先月、足に腫瘍があるから、とろう、といわれてるんだ。」
そういって、弟は、袴をあげた。すねに、メラノーマがでん、とたっていた。
「あるならあるで取ればいいじゃない、あたしにはかんけいない。」
「姉さんは、洗脳されたんだ、カウンセリングにね!」
弟は、なきながらでていった。
その数日後、弟の妻が彼女の家にやってきた。妹は、うつ病で働くことができない。蓄えはみるみる、そこをつき、長野のクライアントも減っていった。とうとう、一銭もなくなった。長野は、破産手続きを開始したが、すでに遅く、長野は、飛び降りて、自殺した。

常静がなくなり、五回春がきて、皆の悲しみも消えた。年を取った野村教授は、朗子の兄であり、セラピストである、玲にアカデミーを譲り、自信は故郷へ戻っていった。朗子は、セラピストとして、自宅でルームを開いた。
博も、和代も、和代は介護士に、博は、看護師となり、アカデミーを去った。
アカデミーは、生徒が増え、履修する楽器の数がふえた。上村華子の古筝科は、やっぱり正確な音ではないから、生徒が集まりにくかったが、華子は、それでも良いとおもいながら、古筝を教えつづけた。
古筝を弾くと、感じるのだ、常静の音がすると。
彼は消えてはいない、華子は、そう感じていた。そして、母葉子も華子の下でくらすようになった。
常静は、自分のそばにいる、彼は永久欠番なのだから、と考えながら、華子は、新しく入った生徒を迎えにでかけていった。

永久欠番

永久欠番

学校に行けなくなってしまった花子は、ある、山の中にある音楽学校に山村留学をすることになりました。彼女はそこで重い障害をもった教師とであい、人間の美しさを学んでいくようになり、淡い思いも芽生えていきますが、、、。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-27

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  1. 概要と第一章
  2. 第二章
  3. 第三章
  4. 終章