お龍
第一章
「えー、この間の抜き打ちテストをかえします。」と、石井正人は、のんびりとしていった。
「まず、一位は、佐藤龍子、98点だ。」
教室は、どよめいた。龍子は、席からたちあがり、答案用紙を取りにいった。
「すげーよなあ、お前ってあたまいいんだなあ。」と、他の生徒たちがため息をつく。でも、こうなるために、龍子は、どれだけ苦労しただろうか。中学生の時は、とにかく点数は取れなかった。父にひどくしかられて、物置に閉じ込められたこともあった。そんなとき、お母さんがいてくれたら、と何ども思った時もあったが、すでに離婚していて12年経っている。噂によると、どこかでカウンセラーをしているらしい。母親は、現職のカウンセラーで、龍子の気持ちはよくわかってくれたからであった。
この高校しかはいれなかったのだ。とにかくやたらと進学率を歌う学校は、たまらなく苦痛だった。高校というところは、こんなに苦しいのなら、もう、大人なんか、信用しない、と彼女は思い、不良になることを決めた。その日からあっという間に、彼女の髪は金髪になり、耳にピアスをし、スカートを尻が見えるまで短くし、ルーズソックスを履いた。面白いことに、そうなればなるほど、気持ちのよいものであった。だれか人を殴るということは、こんなにもきもちいいものか。彼女は、毎日のように、誰かをいじめた。体が欲しているかのように。
その日、彼女の標的はある男子生徒に向かった。その男子生徒は、ある楽器を奏で、音大に進みたい、と望んでいた生徒だった。あるとき、予備校の講師が講演会にきたことがあった。講師は「正しい道」として、医学部、教育学部、「少し間違った道」として、人文学部など、「決していってはいけない道」に、芸術学部をあげた。すると、その男子は、泣き出して、講堂を飛び出してしまった。これは、おもしろいぞと、思った龍子は、放課後、彼を講堂の裏へ呼び出し、彼の髪に火をつけ、自分はやいほいと逃げてしまった。
そして、その翌日から、その男子は、卒業まで登校しなかった。
龍子は、高校を卒業した。卒業したには、卒業した。しかし、就職も、進学もせず、家にいた。卒業アルバムは、真っ白であった。結局、悪人になっても、ろくな事がない。はじめのころは、確かに楽しかった、のだが、学年が上がっていくにつれて、逆に彼女自身が自分がなにをやっているのだろう、と、思うようになり、虚しくなった。大学も、あの講師がいうとおりなら、いっても意味はない。就職も、したくなかった。大学をでても、就職して、良い人生をおくれるのは、一握りでみんな、それを得るために、戦わなければならない、それに、テレビをみても、高卒、大卒の人間が就職できるのは、極わずかしかない時代で、学校は、めんつのために、躍起になっている。そんな世の中なら、もう生きていても仕方がない。龍子は、死にたいと、口にし、父は、何回か精神科に入院させたが全く治らなかった。入院なんて、一時家を離れて、鉄格子の檻に閉じ込めるだけだし、足を折って入院して、完璧によくなった、だから退院だ、というもんでもない。それに、人件費がかかるため、入院費用も、ばかにならず、とうとう、父は仕事を定年した。収入は、彼女が申請した、障害年金になり、ついに龍子は、36になってしまった。父繁雄も、何回も叱ったが、龍子は、腰をあげようとはしなかった。
ある、晴れた日の事だった。父繁雄は、腕に犬を抱いて龍子の部屋にいった。自分には、もう時間がない。一か八かにかけてみよう、と、繁雄は、考えていて、ペットショップに注文していたのだった。
龍子は、高校生の時のような、美貌は、少しもなくなって、まるで、猪のようになっていた。選択も掃除もせず、病院しか、外にでないため、明らかに新鮮な空気と運動不足であり、かおはむくみ、腹は突き出て、二本の足は大根というよりかぶの方が、表現として、正しい表現だった。
「龍子」
と、髪の白くなった繁雄は、龍子に語りかけた。
「犬を飼ってみないか。」
「犬?めんどうくさいわあ。どうせ、柴とか、つまらないのばっかりでしょう?」
龍子は、父にそっぽをむいた。
「違うんだ、龍子、みてくれ、これは、グレーバウンドだ。世界一足が速い犬だ。こいつをつれて、フリスビーとか、ドックショーに出せば、お前も、外へ出られるだろう。な、餌代はお父さんの、年金からだす。な、飼って見ようじゃないか。」
繁雄は、恐れを感じながら、なだめるようにいった。龍子が、ばくはつすれば、足や腕一本取られる可能性もある。まえに頭を殴られたことがあるのだ。100キロ近い彼女の体重は、背骨をおられることだってありえる。
すると、犬が優しい顔をして、繁雄の手を離れた。そして、龍子の顔に、近づき、頬をペロペロとなめた。その暖かさに、彼女は、不思議と、その灰色のグレーバウンドが、好きになった。
繁雄は、ほっとした。龍子は、グレーバウンドをだきしめた。
「妹ができたみたいだわ。」
「そうか。じゃ、名前をつけなくちゃな。雌だから、花子とか?」
「いやよ、そんなありふれた名前。お龍がいいわ。坂本竜馬の妻お龍。」
「まあ、飼うのはお前なんだから、好きな名前をつけてやれ。」
「お龍に決定!お龍、あんたは、ずっとこのうちの子よ、いろんなことして遊ぼうね。」
わん、とお龍は、返事をした。
繁雄は、ほっと胸をなで下ろし、汗をふきながら、へやにもどった。
龍子は、グレーハウンドをインターネットで調べ、性格や、習性などをメモ書きした。それによれば、正確にいえば、イングリッシュグレーハウンドという犬種で、貴族がウサギ狩りのために飼うか、競馬のような、ドックショーにださせるために飼っていた犬種であった。飼育のこつとして、「スポーツ選手を育てるつもりで、とにかく走らせること。」と書いてあった。龍子は、外へでるのは、苦手であったが、お龍がそとへでたがるし、走らせなければいけないので、家の近所の公園を走らせることにした。
龍子は、お龍を紐で繋ぎ、外へでた。何年も、でていなかった外の世界は、すっかり変わっていた。田んぼと記憶していた場所には、住宅街になり、工事であった場所は、ショッピングモールになっていた。太陽の光は前よりも強烈であり、3月なのに、暑い位だった。
と、とつぜん、お龍が龍子の手をひっぱった。公園の反対方向にお龍は、紐を引きちぎり、走っていった。その速いこと速いこと。自転車よりも速かった。龍子は、グレーハウンドは、たまに、鳥などをみつけると、レース犬として、飼ってに走り出してしまう癖がある、と図鑑に書いてあったのを思い出し、
「お龍、まちなさい、こら!」と、言いながら後を追った。しかし、お龍は、獲物を目掛けて走っていくような、走り方ではなかった。むしろ、「こっちへいらっしゃい、」と、ナビゲートしているようだった。
どれくらい走っただろう、住宅街のアスファルトをはしり、道がアスファルトから、土になり、緩やかな坂道を走って、龍子は、息がきれてしまい、
「お龍、いい加減にしないと、おいてくわよ!」と、言おうとすると、お龍は、走るのをやめて、わん、わん、わん、と吠えた。龍子は、足をとめた。
何か、甘く美しい音が、流れてきた。
絃を弾いているのだな、とわかったが、どんな形なのか、全くわからなかった。ふと、周りをみると、そこは、小さな平屋の家がたっていた。おそらくそのいえの者が弾いているのだろう。その音は、売春婦のような、妖艶さも感じさせた。きっと、弾いているのは、美人な女性だ、と、龍子は、おもった。その家は門も塀もなく、まどからちらちらと中の様子が見え、むき出しの状態でたっている。お龍が、その窓に向かって吠えた。
「人の家の前で吠えちゃだめ!」
と、龍子は、お龍に向かっていった。すると、家の中の人物が、龍子の方をみた。それをみた途端に、龍子は気絶してしまった。
中にいたのは、女性ではなかった。
龍子と同じ年格好の男性で、かおの左半分は、ひどいケロイドでつぶれていて、焼けただれ、まるで人間ではなく、化物のような、気持ち悪い顔をしていたのだった!
どれだけ時間が経っただろう。
自分はどこにいるのかも、わからず、ぱっと目を開けると、あの化け物の顔が真正面にきた。
「わああっ!」と、龍子は、飛び起きた。
「お母さん、目をさましたみたいですよ。なんだかびっくりしているみたいだけれど。」
と、化け物はいった。もしかしたら、化け物屋敷にきてしまったのだろうか。次に出るのは、轆轤首?など考えていると、
「気がついた。良かったわ。ごめんなさい、家の息子、顔がおかしいってよく言われるけど、気にしないで頂戴。
あの子は、自分で、自分の顔が、みれないから。ほら、礼、挨拶しなさい。」と、中年の淑女がいった。おおらかで優しい、憂いもひめているような、女性だった。
「朝倉礼です。よろしく。」化け物は、そうなのった。はじめて、龍子は、かれの顔を間近でみた。確かにひどいケロイドではあったが、口調は、穏やかで、ケロイドさえなければ、歌舞伎役者になるだろう、と思われた。 今時の西洋人を真似た美しさではなく、日本の古典文学でいうところの、「美男子」といえる顔をしていた。にていると言えば、紀貫之か。
「あたしは、朝倉陽子」と、母親はなのった。
「このうちは、あたしと礼しかいないの。主人は早く亡くなって、礼は、私一人で、そだてたわ。礼は、虐められて、失明したけど、いまは、古筝を教えながら、頑張ってやってるの。ねえ、龍子さん、お夕食たべていきなさいな。」
「どうして、私が龍子だと?」
「この、ワンチャンの迷子札に、あなたの名前と、住所が書いてあったわ。とても、お行儀のいい、ワンチャンね。しかも、純血の、グレーハウンドなんて、久しくお目にかからなかったわ。私も、若い頃よく、ドックショーにいってたの。でも、グレーハウンドは、なかなか見かけなかったわね。最近はラブラドールばっかりで。」
陽子は、にこにこ笑いながらいった。
「さ、お夕食しましょう。」
三人はテーブルについた。ラザニアと、ブラックオリーブのサラダ、ビシソワーズスープなど、高級な、レストランで、食事をしているようだった。
陽子は、たべながら、このラザニアの、ミートソースは、焼きすぎだなど指摘したので、ラザニアは、礼が作ったものだと、わかった。
「君はこれ。」と、陽子は、ドックフードの缶詰めを与えた。いくらうまそうなにおいがしても、やたら欲しがらないのが、グレーハウンドだ。ちゃんと、自分には食べるものがあるからいい、と、考えられる犬は、そうはいない。
食べ終わると、日が傾いてきた。龍子と、お龍は、陽子の運転する、軽自動車で帰ってきた。
それから毎日、龍子は、お龍に導かれながら、朝倉家を訪問し、三人と一匹で交流をはじめた。朝倉家は、由緒ある貴族だった。陽子の曾祖父が、旧華族に相当した。しかし、日本国憲法が成立して、ひどく落ちぶれ、今は、こんな古臭い家に住むしかない、と陽子はいったが、顔はきっぱりとしており、旧華族であることに、誇りをもっていることがみてとれた。
息子、礼が弾く、あの不思議な音色は、古筝という中国の楽器であった。日本の箏にも近いが、絃は、21本もあり、小さな鼈甲の爪を、医療用の絆創膏にはりつけ、指につけて弾く。礼の腕前は素晴らしく、盲目であることを忘れさせるような音色だった。礼は、全て自作自演である、といったが、頼めば他のものをひいてくれた。頼んだ曲は、だいたい、人気アイドルたちの曲であったが、礼は、全く気にしないようで、五分まてば、すぐやってくれた。ただ、不審なのは、常に母の、陽子が側にいて、きいていることだった。最初は、たんに、眼が不自由だから、介助がいるんだろう、と思った。しかし、礼は、古筝に関しては、心配なさそうだ。柱を立てて、音程をかえることも、絃を張り替えることも、一人で全てやれるのだ。母親の陽子は、龍子がリクエストする曲を、あれやこれやと要求していくなか、指が動かないとか、テンポが遅すぎる、など、難癖を付けるようになった。
龍子は、礼の事を考えると、天にも昇る気持ちだった。礼は、気取っているともおもわなかったし、逆に、今までに感じたことのない、電流がながれてきたようなきがした。それは、漢字一文字で表せる現象であるが、まだ、理解できなかった。
一方、礼は、点字のパソコンを使い、点字の古筝譜を書いていた。それを母に数字譜へ書き直してもらって、高級な、バインダーに入れ、机に置いた。彼も、同じ文字の現象に冒されていた。ただ、彼は、メールができないから、電話しか、話す手段がないため、母が買い物にでかけたあと、固定電話で電話した。これが、毎日だった。龍子は、電話代で、よく父に叱られたが、まるで、平気で、小一時間、話すのであった。
ある日のことだった。
「礼、たまには、二人で水入らずの時間をすごしてきたら?映画とか、コンサートとか、いってらっしゃいよ。恋愛は、しゃべるだけじゃだめ。どこかで、一緒に行動をともにしなきゃ。あんたのすきな、苔寺でも、龍子さんと、二人でいってきなさいよ。」
と、陽子が礼にもちかけた。礼は、ディズニーランドよりも、苔寺が大好きだった。目の見えないかれには、派手なエレクトリカルパレードより、苔寺の澄んだ空気と、自然が、心の癒やしだったのだ。
龍子に、苔寺にいこうよ、と恐る恐るもちかけると、龍子は、よろこんで、といった。
二人は速球に日程を決め、新幹線で京都に、むかった。
京都駅から、バスをのりつぎ、苔寺についた。ご住職の補助をうけながら、二人は写経をし、庭園にはいった。しばらくすると、小さな建物があった。茶室だった。中は自由に見学ができた。礼は、白い杖で入り口をみつけ、中へ入った。龍子も、中にはいった。
「龍子さん。」
と、礼は、見えないめで、彼女をみた。
「はい。」
龍子は、かれのいう文書をすぐに推量した。
「僕と、結婚してください!」
礼は、一気に顔が真っ赤になり、いいおわると、力が抜けたようにうなだれた。
「あたしは、」と、龍子は、彼のかおを両手で、さわりながら、
「あなたを幸せにします。あなたを愛しています。この顔のあなたが、一番、だいすきです。」
と、静かにいった。
手探りで、礼は、彼女の体を力いっぱいだきしめた。
二人は、お互い涙を流しながら、抱き合った。
一方、礼たちが楽しんでいるあいだ、
陽子は、お龍の迷子札に書いてあった、龍子の家を目指して、車を走らせていた。
「突撃開始!」と陽子は、口の中でねんじた。
第二章
陽子は、龍子のいえのまえに、車をとめた。
「ごめんください!」と語勢をつよくして、戸をたたいた。
「なんですか、龍子は、先ほどでかけましたよ!」と、しぶしぶ戸を開けた繁雄は、眼の玉をいしで、ぶっつけられたような、衝撃をうけた。
「朝倉礼の母親の、朝倉陽子です。一言、お願いがあってまいりました。」
と、客は、きりっとした目つきでいった。
「朝倉礼?誰のことですか?いま、忙しいんですから、おひきとりを。」
「お父様。覚えていらっしゃらないんですか?まあ、なんということでしょう!では、二十年前に、お嬢様が、家の礼に何をしていたか、おわかりになりますか?」
「わかるって、何がですか、うちの龍子が、なにしたって、学校から、一度も呼び出しは受けませんでしたよ。」
「そんなことありませんよ、被害者の家の子は、強制退学させられて、それから、10年ほどブランクがあって、やっと大検をとって、大学にいくことができたんですよ。そのあいだ、私がどれだけ、つらい思いをしたか、ご存知でして?礼は、失明もして、PTSDにもかかって、思い出せば、この世のものとは、思えない凄まじい叫びをあげて、頭を壁にぶつけたりして、とめるのに、どれだけくろうしたかしら。教えてあげます。礼は、龍子さんに、アルコールをかけられた上に、火をつけられて、髪を全てなくし、かおを半分焼かれたんですよ!」
繁雄の顔が蒼白になった。自分の娘が、そんなことをしていたなんて、全くしらない。繁雄は、床にひざまずいて泣きに泣いた。
「泣きなさい、なくがいいわ。父親なんて、どうせそんなもの。男親って、とくに娘の場合、娘のことを全然しらない人が多すぎるから。いっておきますけどね、女親が子供を産むときって、すごい痛みなのよ、体中、火花が燃えているようなもの。もうだめだ、死にたいって、思ったときに、すって力が抜けて、赤ちゃんの産声を聴いた時の感動は、わすれられませんよ。とにかく、女はそれができるものだから、息子が顔が半分焼けたら、犯人探しなんて、すぐできるようなもの、お忘れないでくださいね。」
陽子は、そういって、涙の止まらない
老人に、唾を吐きかけ、部屋をでていった。そのとき、お龍は、裏口を開けて、そっとでていった。
「ねえあなた、」
石井英子は、テレビの前でゴロゴロしている、夫にいった。
「今度の連休、温泉でも、いきませんか?」
「つまんないよ、そんなところ。部活の遠征でよくいったから、もう飽きた。温泉旅館なんて、みんなおなじさ。」と、夫の石井正人はいった。
「そうじゃなくて、私とですよ。もう、高校は、定年されたんですから、私の方へ、優先度をあげてください。あなたは忙しいばっかりで、子どもが作れなかったから、私は、毎日毎日、寂しかったんですよ。」
「パソコンがあるじゃないか。スマートフォンだってある。mixiやFacebookで、たくさん友達は、いくらでもできる。それさえあればいいだろう。」
「でも、見えない顔のひととやりとりするのは、なんだか、さびしいわ。ねえ、どこかいきましょうよ。」
「SNSで、知り合ったひとと行けばいいじゃないか。近くのひとは、いるだろう。」
そうじゃなくて、と英子は、いいたかったが、夫は、何をやってもぬかに釘だった。こんなはずじゃなかったのに。結婚式もあげて、新婚旅行にもいけるほど、裕福な家庭に嫁いだ。当時は英子も、教師であったが、結婚してからは、教師をやめた。子作りに励むためだった。しかし、二年経過しても子供はできない。そのために、不妊治療をはじめたが、体外受精にも、失敗。卵子提供というてもあるが、そうこうしているうちに、子宮けいがんを発症してしまい、子宮をすべて切除しなければ、ならなかった。そして、産婦人科の医師にこういわれた。英子の生殖器は、全く異常はなかった。原因は正人の貧精子症である、と。
英子は、子どもがすきだったので、保育士のしかくをとり、保育園で働いた事もあった。しかし、ピアノで音大にいったことが露呈されると、酷いパワハラにあい、やめざるをえなかった。
いまの生きがいは、唯一夫が許可した、津軽三味線だけであった。
ある日、英子は、家の庭をふらふらとしている、グレーバウンドをみつけた。散歩中に迷子になり、いえに紛れ込んできたのか、と、おもった。首輪に迷子札があり、龍子の名前と、住所、電話番号が明記されていたため、英子は、飼い主は、心配しているだろう、と思い、グレーハウンドを車に乗せて家をでた。
英子は、カーナビに犬の迷子札に書いてあった、住所をけんさくし、その場所へ車をはしらせた。
近くの、有料駐車場に車をとめ、犬を抱いて、家の玄関に近づくと、脅迫する女性と、幼児のように、泣いている男性の声がした。犬が、英子の手をすり抜けて、玄関に向かってほえた。
と、玄関が空いて、女性がでてきた。怒りに満ちた、般若のようだ。
女性は、英子に軽く会釈するだけで、通り過ぎた。犬は、相変わらず泣き声がする、玄関に向かって吠えている。英子は、呼び鈴もならさず、玄関を、あけた。
「あの、このワンチャン、お宅様の物ですよね?」
「お龍!」と、繁雄は、声を上げた。お龍は、繁雄の顔をペロペロとなめた。まるで、慈しむような、優しい目立った。
「あ、お龍さんっていうのね。」
「はい、、、。」
まだ涙の止まらない繁雄をみて、英子は、何十年ぶりに、教師の血がさわいだのか、子どもがしたことに、全く気づかなかった親だと察知した。
「すみません。」と、英子は、優しくいった。
「差し支えなければ、話していただけますか?私、こうみえて、もと教師でしたから、中には、問題があったお宅を、拝見したことがありましたから。
」
繁雄は、彼女を居間にとおした。涙を流した茶をだした。不思議な犬だ、と、英子は、思った。グレーハウンドは、確かに忠実な犬だとは、知っている。しかし、いつまでも、彼の顔をみていて、そっと、寄り添うようにみている犬などいるだろうか?
「実は、、、、。」
繁雄は、しどろもどろになりながら、先ほどの顛末を、はなした。
「そうだったんですか、、、。」
と、英子は、自分が教師であったときを思い出した。公立の高校だから、進学率など通用しなかった。ただ、費用が安いからくる。親に私立へいかせてやると、いわれておきながら、実は公立しか、いかせてもらえず、不良と化した生徒を何十名もみてきたし、その逆で、勉強が嫌だからといって、公立にきてしまう、生徒もいた。親の経済力で、学力が違うという世界に、英子は、無情をかんじていた。
「お父様」と、英子は、静かにいった。
「残念かも、しれないけれど、お父様の威厳を示す、良い機会かもしれませんよ。」
と、そのときだった。玄関の戸がガチャリとあき、
「お父さん、帰ってきたわよ、今日は、お父さんの次に大好きな人をつれてきた。」
と、龍子が帰ってきた。
「本当にきていいのかな、僕、」
と、礼。龍子は、すぐに、
「いいのよ、お父さん、大喜びするはずよ。」
と、つかつかと家に入っていった。礼は白い杖で様子を探りながら入っていった。
「お父さん、」
と、龍子は、居間にはいった。居間にいる、女性のことは、目もくれず、
「この人、朝倉礼さん。あたし、結婚する。彼と、小さいアパートにすんで、彼が古筝を教えて、私は、障害年金で、くらしていく。もう、36になったけど、やっとあたしも、一人前になったわ。」
「朝倉礼」この名前をきいて、英子も動揺した。じぶんの夫が、教師であったときに、よく口にした名前だった。
「龍子」父はきっぱりといった。
「お前は、まず、彼に対して、罪をみとめ、償いなさい。そうしなければ嫁には行かせない。」
父は、厳しい口調でいった。こんな厳しい顔をした父は何年ぶりだろうか。
「お父さん、何をいっているの、私、罪なんかないわよ、そんな、大袈裟じゃないわよ、アパートだってすぐ近くにこの前たたったばかりでしょ、もう、契約したのよ、取り消しはしないわ。」
「お前は、」と、父はいった。
「礼君に、火をつけて、顔を焼き、目を失明させた。これが罪だ。少年法にまもられていたから、学校でも、あまり取り上げなかったから、すぐ忘れたたのだろうが、彼の心についた傷は、はかりしれないだろう。その証拠に、かれは、退学している。おまえは、ぬくぬくと高校生活をやり、卒業はできたのに、かれは、出来なかったのだろう!」
「違います!お父さん。」
と、礼がかばうようにいった。
「確かに、それは、ありました。でも、彼女も傷ついていたんです。そうでなければ、あそこまではしませんよ。僕を退学させたのは、石井正人という、担任教師です!」
繁雄と、英子がひるむ番だった。
「君は、体の機能を失わせた張本人を、なぜ恨まない?」
「だって、仕方ないじゃないですか。
彼女に恨みを持ったって解決はしませんよ。それよりも、音楽家となれたから、逆に、感謝していますよ。高校にいたら、音楽家には、なれなかったでしょう。母にすごく反対されていたんです。でも、失明して、すごく落ち込んでいたときに、やっぱり力をかしてくれたのは、音楽でした。母もわかってくれて、大学にいくという夢ははずれましたが、家元直門させていただいて、いまは、大師範までいったから、それで、満足です。」
かれは、笑っていた。不満らしきものは、何も持っていなかった。ただ、じぶんの運命を受け入れ、うらみも持たず、つねにこれからを考えて生きる、という姿勢を身につけていた。
龍子は、思いっきりなきたかった。確かに父の言うことは、事実だ。そして、退学させるまでいってしまったのも事実だ。
「かえろうか、」と、礼はいった。
龍子と、礼は、アパートにもどった。カナダ人の建築家が建てたそのアパートは、おしゃれで、若夫婦にぴったりだった。
「礼君、」と、龍子は、弱々しくいった。
「あなたを、その顔にしたのは、私だったの?あなたは退学したの?きっと私に恨みを持っているでしょう?」
「そんなことはないさ。」と、彼はいった。
「なぜ?」
「だってもう、何も見えないから、恨んでもしかたない。」
「それならよけいに、、、。」
「そうなった方が幸せっていう、人間もいるよ。」
「どういうこと?」
「いま、学校が、苦しいって言う人は、大勢いるもの。そういう人に取っては、退学って言うものは、底から脱することになるから。確かに、学歴社会ではあるけれど、それに、どうしてもついて行けないっていう、人間もいるよ。」
「でも、あたしは、あなたの事を傷つけてしまったし。」
「あのね、龍子さん。」と、彼はいった。
「いま、一番欠けているのは、何だとおもう?許す、という事じゃないかな。いじめられたり、傷つけられたりしても、その人を許すこと。世の中ってのは、一方的に押し付けられるようにみえるけど、必ず裏があって、そこで得たものがある。それに気づかないで、病んでいく人があまりにも多すぎるだけなんだよ。」
「それ、どこでならったの?」
「僕が、教えている中等教育学校で。」
礼が、中等教育学校で、教えていることは、知っていた。下は13歳から上は90代まで。実に様々な年代が、勉強したい、という要求で、やってくる。
「君も、もう少し落ち着いたら中等教育学校にいって見るといいよ。」
と、礼はいった。
「とにかく、君の事を恨むとか、憎むとかは、全くないからね。」
礼は、龍子を抱きしめた。龍子も、それに応じた。
一方、石井家では。
「あなた」と、英子は、夫の正人にはなしかけた。
「ほあ。」生返事が帰ってきた。
「あなた!」英子は、語勢をつよくいった。
「私の方を向いてください!」
「一体なんだっていうんだ、お前の話はきいても、ろくなことがない。」
夫がしぶしぶたちあがると、英子は、思いっきり彼の頬を平手打ちした。
「あなた、朝倉礼という、名前を知っていますね。」
「ああ、知っているよ!それが何だっていうんだ、お前は、いちいち口をだすな!」
「では、彼が失明して中退したことは?」
「知っているさ、失明したら、健常者と同様にはくらせない。それに、他の生徒が勉強に集中できなくなって、進学率が落ちたらどうする?それにもう、とっくに時効じゃないか、、、。」
「やっぱりあなただったんですね。彼を退学にさせたのは。あなたは、彼の傷より、進学率を優先した。私に手を出すな、といっておいて、そんなにひどいことをしていたんですか!かれが、どれだけ傷ついたかわからないでしょう!」
「ああわからないね!いいか、高校の価値ってのはな、国公立に何人入ったかできまるんだ、教師はそのためにいるんだ。生徒が沢山国公立にいくように、指導をするのが仕事だ!」
「あなたは、人でなしだわ!もう、このうちにいられないわ、私、いまから、でていきます。もう、顔もみたくありませんわ。そのうちに離婚届を郵送しますから。」
英子は、怒りにまかせ、キャリーバッグに荷物をまとめて出て行ってしまった。
英子は、外にでた。外にいくと、灰色のグレーハウンドがいた。
「あらまた、脱走しちゃったの?」英子は、龍子のアパートに連れて行こうとしたが、お龍は、勝手にずけずけと、歩いていく。「こっちへいらっしゃい。」とでも、いいたげに。
英子がお龍を捕まえようとすると、ワン、と、ある家にむかってほえた。その家は、朝倉礼の母親、朝倉陽子のいえだった。
鳴き声をきいて、陽子があらわれた。
「あら、お龍ちゃん、また、遊びにきたのね。ドッグフードたべようか?」
お龍は、英子をみて、ワン、とほえた。
「あら、貴方は、石井先生の奥様。」
「申し訳ありません!」
英子は、頭を地面につけた。
「謝ってすむ問題で、ないことは、わかっていますが、慰謝料も持ってきました。」
「奥様。」と、陽子はいった。
「奥様は、何もしらなかったわけですから、慰謝料は、いりませんよ。もう、20年も前ですから。私も、龍子さんの、家にいって、仕方ないかなってわかりました。恨みつづけても、何もありませんもの、龍子さんの、お父様も、しらなかったわけですし。ただ、欲をかいていえば、もうちょっと優しい目で、生徒さんたちをみて、あげてほしいとおもいます、」
陽子は、穏やかに言った。
英子は、涙がとまらなかった。
「いつのまに、学校は、そんなひどい場所になったのでしょうか。」
「なぜでしょう。私たちの頃も、いじめはありましたよね。その頃はガキ大将みたいな人がいて、いじめていたけど、止めてくれる人がいましたからね。いまは、全くなくなってしまいましたよね。」
「そうですね、私も、結婚するまでは教師でしたけど、そこまでいじめがエスカレートしてしまうことはありませんでした。ましてや、いじめで、自殺してしまうなんて。教師、失格です。」
「で
も、私たちは一生懸命やりましたよ。それを誉めてやらなければ。」
陽子は、英子の手をとった。
石井正人は、玄関から犬の声がしているので、金属バットをもち、ドアをガチャンとあけ、
「こら、この犬!」と、バットで殴ろうとした。すると、犬は、猛スピードでにげていった。足の速さで有名な、グレーハウンドだから、おいかけているうちに、どこへきたのかわからなくなってしまった。
「おい、犬はどこだ!」と、キョロキョロ歩きまわっていると、小さな学校があった。その中から、古筝の音がきこえてきた。
「佐藤中等教育学校」と、かかれた、看板に「古筝演奏会、自由にお入りください。」とかいてあった。
「こそう、、、えんそう、、、?」
正人が呟くと、
「あ、お客さまですね、どうぞお入りください、いま、第一部が終わったところです。公開授業も、やりますよ。
」と、車椅子に乗った老人がちかづいてきた。教師の勘で、校長だな、と、わかった。
「いったい、ここは、何をする学校なんですか、カルチャーみたいなもの?」正人は、吐き捨てるように、いった。
「はい、こちらは中等学校です。義務教育をうけてない、何らかの事情がある人がはいるところです。」
「いわゆる、不良学校ですな。演奏社は、だれですか!この曖昧な音、気持ち悪くなりますよ。」
「朝倉礼君です。古筝の持ち味はそれじゃありませんか?完璧な音を出せない、人間みたいなものですよ。」
石井の顔が見る間に、ガラリと変わった。
「朝倉礼、、、。」
「はい、この中等学校の第一期生です。当初は、いじめにあって、つらかったようですが、卒業してから、古筝の師範の免状をもらって、プロの古筝奏者なりました。いまでも、ああやって演奏にきてくれます。」
「も、もしかしたら、顔が半分焼けていませんか、その方は?」
「おっしゃるとおりです。」
「わあーっ!」
と、石井は、混乱した頭のまま、道路を走っていった。どの道をとおってきたかも、わからず、大雨が降ったのも、きづかなかった。
家につくと、
「英子!!」
と、どなりつけた。
「なんですか、びしょぬれじゃないですか、」
「朝倉礼に謝りにいくから、礼服を出してくれ!」
「あなた、やっと、その気に。でも、あたしはいきません。あなたの責任なんですから、あなたがいってくまさい。」
その時、犬の鳴き声がした。
石井がドアをあけると、グレーバウンドが座っていた。犬は、石井をみると、雨のなか、こっちへ来いという、仕草をした。石井は、傘もなく、はしりだした。
終章
犬は、自転車よりもはやく、雨の中を走っていった。ある一軒の家の前でとまった。いえは、異様な雰囲気だった。犬はその家の庭で、わんわんとほえた。
「お龍だ。まただれか、つれてきたんだよ。」
朝倉礼の声だった。石井は、逃げようとしたが、犬は、石井の手を噛みついた。
「痛い!何をするこの犬!」
「イシイせんこうだ!」と、龍子は、声をあげ、あまどをがらりと開けた。
「 佐藤龍子!」
「違います、私は朝倉です。」
「お前たち、、、」と、石井は怒鳴ろうとしたが龍子の表情をみて、すぐにやめた。
「家に入ってくれますか、いま、龍子を支えてほしいんです。」
と、礼が依頼した。犬にナビゲートされながら、石井は、家にはいった。
いえは、線香の匂いが充満していた。
「龍子のお父様が、亡くなられたんです。龍子さんが、はなしていなかったことを、僕の母がつげたら、そのショックでなくなってしまいました。
死因は、心筋梗塞のようですが、大切なお父様だから。」
と、礼は説明した。
「お父さん。」
と、龍子は亡骸に話しかけた。
「お父さんに、高校のこと、はなさないでごめんなさい。私がいじめていた礼さんが、私の夫になります。あたしは、もう、ゆるしています。彼はとても、素晴らしいひとだから、彼を愛し、罪をつぐないます。」
涙を拭いていた陽子がいった。
「龍子さんのお父様は、私が殺したようなものです。私は、龍子さんと礼がなかよくなっているのをみて、復讐してやろうと思ってしまったんです。だから、わたし、酷いことをいってしまいました。息子が、苛められて、顔が半分焼けてしまって、母親としては、辛さがありました。でも、まさか、命を奪うとは、、、。」
「申し訳ない。」
石井は、自分では絶対出さないと思っていた言葉をだした。
「私も、進学率ばかり考えて、お二人の心を傷つけてしまった。あの頃は、それだけに必死でした。そんなもの、必要ないと、段々わかってきたけれど、上のものは、進学率をあげろという。それができなければ、退学にしろ、など、いわれてきて、狭間でものすごく苦しみました。本当に、私は、一番の悪人です。」
「もうやめましょうよ。」と、声がした。振り向くと、英子がたっていた。
「この、わんちゃんにつれてきてもらったの。みんなそれぞれ、感情があるし、考えもちがう。それでいいやにできないから、こんな事件が起きたんです。もう、やめましょうよ。終わりにして、新しいことをはじめましょう。」
「先生、奥様。」
と、礼と龍子は、石井夫妻の方へ、体を向けた。
「僕たち、結婚式をあげたいんです。しかし、ごらんのとおり、夫婦二人で、何でもというのは、難しい。なので、仲人になってくれませんか?いろいろかんがえたけど、先生が一番相応しいとおもうんです。」
「しかし、私は、、、。加害者だ。君たち二人に辛い思いをさせてしまったのは、私だ。そんな私が仲人なんて、」
「そんなこともういいんです。少なくとも私たちはそう思っています。」
「しかし、」
「あなた!」
と英子がいった。
「くよくよ悩まないで、男らしくひきうけたら!一番過去に縛られているのは、あなたじゃないですか!」
「う、うんまあ、そうだな。」
「私からもお願いします。」と陽子が敬礼した。龍子も、礼も敬礼した。
数分、沈黙が流れ、
「わかりました。ひきうけます。」
と、石井正人は、強くいった。
白無垢に身を包み、綿帽子を被った龍子と、紋付き羽織袴に身を包んだ礼は、天照大神を祀った、家の近くとの神社で挙式した。二人が指輪を交換するのを、石井夫妻がみまもった。
挙式は無事に終了し、料亭に移って、披露宴をおこなった。古筝関係者、親戚、など、様々な人がきてくれたり、祝電を送ってくれたりした。
しかし、学校関係者は、石井夫妻だけであった。
披露宴が大詰めになり、花嫁のスピーチがはじまった。いわゆるクライマックスだ。龍子は、原稿をもっていなかった。しかし、父の遺影をしっかり抱えながら、堂々と話しはじめた。
「私は、いままで。」龍子は、選挙演説のように言った。
「大人がいやでした。大人になるのもいやでした。だって大人は、自分勝手で、辛いといってもなにもしてくれない。ただ、勉強をして、足が速くて、そういう人しか愛してはくれない。そう、おもっていました。
だから、誰かをいじめるしか、はけぐちがありませんでした。私は、隣にいる、いまから夫となる礼さんに、二度と取り返しのつかないことをしてしまいました。でも、それは私が変わるきっかけにもなりました。礼さんは、私が辛い気持ちであったことを認めてというより、ゆるしてくれたんです。そして、仲人になってくださった石井先生、私は、あのときは、だめな教師だとばかり、思っていたけれど、先生も、先生なりにお辛かった事もわかりました。」
選挙演説が涙声になってきた。
「だから、どの人もそれぞれ、悩みを
もって生きていることが、わかりました。かんぺきに善悪どちらにもなれないんです。生きているのは、それぞれに辛いこと。へらへらとすごしているひとたちも、実は悩みがあるんです。悪いことをしたひとも、悪いことをする理由がある。私たちが一番欠落しているのは、それをみとめるとか、受け入れるより、許す、ということではないでしょうか。」
続いて、礼が話し始めた。
「僕たちは、いじめられた被害者と加害者です。僕も、彼女のことを酷く呪いました。でも、僕は、古筝をはじめ、師範まで、なりました。ここまで、これたのは、彼女への復讐心がなかった、といえば嘘になります。しかし、彼女とであってから、その気持ちはなくなりました。彼女も学校生活できずついていた。
僕たちはこれから、新しい家族を作っていく立場になります。やがて、新しくうまれてくる者たちに、ゆるすことの大切さを伝えて行けたら良いな、と思っています。本日は皆さんどうも、ありがとうございました!」
式はおわり、龍子たちはアパートに帰ってきた。新婚旅行には、いくつもりはなかった。礼のところで古筝を習いにくる者が、翌日からやってくる。
ドアを開けた。しかし、いつもきこえてくる、声はしなかった。
「お龍!」
答えがない。
「どこにいるの?」
電気をつけてみた。すると、父の位牌の前で、お龍は、眠っていた。
「もう冷たくなっている。」と、礼がいう。
「手遅れだろう。」
「お龍!」
龍子は、お龍の亡骸をだきかかえた。亡骸の頭は彼女の涙でぬれていた。
「ほうら、泣いちゃだめよ、」陽子が制した。
「なくと、仏はうまく、三途の川がわたれないわよ。」
どうしてなのだろう。父がなくなったときよりも、彼女がなくなったほうが衝撃がおおきかった。龍子は、幼児のように、泣きはらした。
お龍が亡くなって半年たった。ペット霊園という所で人間と変わらない、供養をしてもらった。そのくらいしなければ、龍子は、納得できなかった。
ある晩、テレビを見ながら、うとうと眠りかけたとき。わんわん、と犬の鳴き声がした。振り向くとお龍だった。
「お龍!」と、龍子は、名を呼んだ。しかし、お龍は、振り向かなかった。
「龍子」と、聞いたことのない、優しい声がした。
「お龍は、もう、しゃべれないわ。」
もう一度その声がした。聞いたことはない、とおもったが、そうではないようなきがした。誰の声なのか、記憶ごとに、考えていくと、
「お、お母さん!」
「龍子!わかってくれたのね!」
目の前に、女優さんになれそうな、美しい女性が立っていた。
母子は、抱き合い、泣いた。お母さんは、龍子にこういった。
「お母さん、あんまりにも仕事にのめり込みすぎて、お父さんとわかれたの。お父さんは、好きな人ができたからっていっているけど、私が、臨床心理士の仕事ばかりしていたから、そのせいなのよ。でも、離婚してから、良いことなんて何もなかったわ。離婚した、というと、クライエントさんたちも、減ってしまって。家庭をもって、子供がいて、旦那がいて、これ以上の幸せはなかった。私は、間違っていたんだなあって思って、ビルから飛び降りたの。でも、自ら命を絶つのは、神を裏切ること。だから、姿はみえなくても、ずっとここにいるの。そんな中、あなたが、引きこもりになって、しまって、これはいけないな、と
思って、あなたを助けるために、犬の体を借りて、話しかけていたのよ。
せめて、あなたが結婚した姿だけでも、みたかったから。」
「お母さん、、、。」
龍子は、いいたいことが、あまりにも、多すぎて、泣き出してしまった。
「龍子、大丈夫よ。これから、あなたを必要としてくれる人があらわれる。
もう、お母さんのことは、わすれなさい。そして、礼さんや、陽子さんをたすけて、しあわせになりなさい。辛いという字は、幸せの一歩まえなのよ。
大丈夫、その人を大事にすれば、あなたも、しあわせになれるわ。」
お母さんは、優しく龍子をだきしめた。そして、その感触は薄くなっていき、龍子は、はっと目が覚めた。
「龍子」と、姑の陽子が声をかけた。
「ごはんだよ。」
「はい、いまいきます。」
と、急いで着替え、食堂にむかった。すると、臭い匂いが台所を充満していた。龍子は朝食どころではなく、化粧室に飛び込んで、一時間ちかくいた。
「どうしたんですかねえ、今はやりの嘔吐下痢症にでもなったかな。」
と、礼はしんぱいしたが、陽子は、ニコニコして、
「ふふふ。今にわかるわよ。」
と、いった。
「ご飯たべたら婦人科にいきましょうか。」
数時間後。
婦人科から、出てきた三人の顔は、太陽よりも、輝いていた。
お龍