ソナチネ
ソナチネ
「佐野さん、郵便です。」
と、佐野れい子のもとに一枚の葉書が届いた。れい子は葉書をみた。
「M音楽大学同窓会のお知らせ」
と、書かれた葉書をみて、れい子は、あまりにも懐かしく、思わず涙がでた。
「ママ、どうしたの?」
五歳の娘、麻奈が、彼女に言った。
「ねえ、麻奈ちゃん、今度の日曜日、おばあちゃんとこにいてもらってもいい
かな?」
「なんで?」
「ママの大学のときのお友達が、みんなで集まってパーティーするの。ママの
大切なお友達がたくさんいるの。みんなどうしているのかな。麻奈ちゃんも、
学校に入ったらそうなるのよ。」
「いいよ、おばあちゃんとこは、面白いから。麻奈、行く。」
「ありがとう。じゃあ、お願いね。」
れい子は、夫にも許可をもらい、同窓会にいくことにした。みんなどうしてい
るだろう、みんなで一曲弾きあおう、となっても恥ずかしくないように、ラベ
ルのソナチネを練習した。娘とデパートに行き、高級な朱子織のドレスを、奮
発して買った。れい子は、それだけしか準備できなかった。
当日、れい子は高速バスを利用して大学に行った。経済力のない彼女に、新幹
線は、高すぎる。れい子は、大学時代に、親友と呼べる、二人の女性がいた。
澤田八重と、長島ゆかりだ。八重は卒業後、作曲家になりたい、といいだして、
大学院を経て、ドイツに留学した。よくドイツから葉書が来たものだ。成績が
優秀だった八重は、結婚はしなかった。M音楽大学に教授として招かれ、今は
後継者を育てることに力を入れている。ゆかりは、音大卒業後、ごく普通の会
社員となった。今ではピアノは趣味程度しかないようだが、毎日を楽しんでい
るようである。たしか、子供を一人産んだ、とも聞いた。
胸を膨らませながら、れい子は、バスを降りて、大学に向かった。パーティー
は、大学の一室で行われる。
れい子が緊張して、会場に入ると、弦楽合奏が流れる中、同窓生たちが、お喋
りしていた。
「れい子さん」
と、声がした。振り向くと黒の訪問着に身を包んだ八重がいた。八重は、学生
時代とは、かなり違っていた。学生時代はとにかくよく泣いて、ラフマニノフ
の「パガニーニの主題による狂詩曲」を聴いたときに涙を流したこともある。
しかし、教授、と呼ばれるようになってからは、かなり肝が据わってきた、と、
いうのだろうか、というより、ピアノという楽器に誇りを持っていることが、
感じられた。
「八重さん、いまは八重教授と呼ばなければいかないかしら。」
「いいのよ、八重で。昔と、頭は全然変わらないわ。相変わらずよく泣くし。
れい子さん、結婚したんでしょう?そのほうが羨ましいわよ。」
「えーっ、八重さんはこの大学の主任教授なんでしょう?そのほうがよほど
すばらしいわ。」
二人が話していると、
「八重、れい子!」
と、酷くめかしこんだ女性がやってきた。
「あ、長島さん。」
「どうしたの、その格好。」
八重は、思ったことはすぐ口にする悪癖があった。
ゆかりは、黒いワンピースで、赤いバラの花が刺繍されたものを着込んでいたが、
水商売か、売春婦が着るような格好をしていた。
「あら、変かしら?」
「ちょっと、けばけばしいかもよ。ねえ、れい子さん。」
八重はまた言った。
「だってほかに、まともな服ないんだもの。シングルママは、お金がないのよ。」
と、ゆかりは答えた。
「ゆかり、シンママなの?旦那様は?」
と、れい子は聞いた。
「そう、離婚した。旦那の暴力がひどくてさ。」
「えっ家庭内暴力?だったら、弁護士さんなんかに相談すればよかったじゃない。
あたしの友人で、弁護士さんいるけど、すごくお上手よ、紹介してあげようか?」
と、八重はアドバイスした。
ゆかりは、表情こそ変えなかったが、ほかの二人とは違う感情を持った。
「れい子さんはなにをしているの?」
八重が聞いた。
「あたしは、ピアノバーとかで弾いていたんだけど、主人と結婚してからは、完全
に専業主婦。今は、娘のことで大忙しで、ピアノはほとんど弾いてない。」
「あら、女の子だったの。あたしは違うのよ。」
「いいじゃない、男の子は、また魅力があるから。そういえばゆかりさんが一番、
子供うんだの、早かったわね。いま何歳?」
「十歳。」
「いいじゃない、ねえ、こんど家の娘と遊ばせてよ。」
ゆかりはきりり、と歯をならした。
「でも、れい子さんのお嬢さんはまだ五歳でしょう?家の子とは五年もちがうでし
しょう?全然違うわよ。それに家は汚いし。散らかしっぱなし。寮にいたときの、
あたしの部屋をみれば、一目瞭然。あたし、大学時代はだらしないで有名だった
でしょ?」
確かに、それはいえた。三人が知り合ったのは大学の寮であったが、ゆかりの机
は、ごみが散乱していて、八重に叱られたものだった。八重の机は、新品同様。
れい子はその中間と思われた。
「いいのよ、散らかっていたほうが、生活感があっていいわ。」
と、言った八重は、さりげなく右足にてをやった。
「八重さんどうしたの?」
ゆかりが聞くと、
「いえ、ちょっと痛みのような、、、。」
と笑っていた。
そうこうしているうちに、同窓会はお開きになった。お互い、また会おう、と、
言って別れた。
数日後のことだった。
れい子が、食事の支度をしていると、電話が鳴った。
「もしもし?」
「れい子さんテレビみて、Aテレビよ!」
ゆかりの逼迫した声が聞こえてきた。
れい子は、あわててテレビをつけると、
「えー、M音楽大学主任教授の、澤田八重女史が、骨肉腫のため、右足を切断する
手術を受けたことがわかりました。澤田女史は、切断はしたものの、幸い命には
別状はないそうです。しかし、日本を代表する作曲家である、澤田女史にとって、
これは大きな痛手となるでしょう、、、。」
ニュースキャスターは、のんびりと話していた。
「れい子、確認できた?あたしの代わりに見舞いに行ってくれないかしら。」
電話の奥で、ゆかりがそういったので、れい子は我に返った。
「ゆかりさんも、一緒にいかないの?それにどこの病院なの?」
「ごめん、本当はあたしも行きたいけど、あたし、夜に仕事しているから、行け
ないのよ。八重さんによろしく言って頂戴。」
「せめて、手紙くらいはいいんじゃない?」
「手紙もかけないのよ。時間がなくて。病院は、B記念国際病院。テレビがそうい
ってたわ。じゃ、おねがいね。」
と、電話は切れた。
あの八重が、骨肉腫?そういえば、同窓会のとき、ちょっと痛みといっていたが、
それがそうだったのか。いずれにしろ、音楽家にとって、痛手となるのは手だけ
ではない。足は、ピアノのペダルを踏むために必要となる。しかも、高度な曲に
なると、両足を使わなければならない。すなはち、手も足もどちらが欠けていて
も、音楽家にとっては命取りになる。
れい子が、病院に飛び込んだのは、日が沈んだ後だった。
「八重さん!」
れい子は案内された病室に行った。そこにいたのは、あのときの八重ではなかっ
た。げっそりとやせ衰え、頭はスキンヘッドになっていた。そして、右足の膝か
ら下は、完全に切断されていた。しかし、彼女は最期の時を静かに待っている、
という威厳があった。
「れい子さん、、、。」
八重は、べそをかきそうな、しかし一生懸命こらえている様子がわかった。れい
子は、自由に泣かせてあげることにした。称号は素晴らしい物だけど、両刃の剣
だ。それは、苦しませることでもある。八重は、唇を震わせて涙を流し始めた。
そうだろう、彼女の両親はすでに亡くなっている。親戚もすくないし、結婚もし
ていないので、こういう涙を流すのは、れい子と、ゆかりの前だけだろう。
「私、死ぬのかしらね。」
八重はぽつんと言った。
「そんなことないわ。あたしたちまだ、三十五じゃないの。」
「でも、もう、、、。」
八重はあふれる感情を抑えながら言った。
「ピアノは、弾けないのよ。」
そういって、肩を震わせてなき始めた。
「すみませんが」
と、老医師が言った。
「そろそろ、お暇してくれませんか?澤田さんは、精神的に不安定になっていて、
いま、精神科医と一緒に治療してるんです。」
精神科、、、一番強かった八重が、、、。でも、仕方ない、とれい子は思った。
「八重さん、また来るわ。」
「きっとね、きっとよ。」
八重が泣きじゃくる中、れい子は帰っていった。
しかし、れい子はそれ以上、八重の元を訪ねることができなかった。娘の小学校
入学試験のため、あれやこれやと忙しく、八重のいる病院は、電車で一時間以上
かかるため、簡単にいく事はできない。八重は時々手紙を書いてよこすが、死の
不安ばかりで、れい子は返事を出すのをやめてしまった。
そんな中、何気なくテレビをつけると、ニュースをやっていた。
「えー、昨年より、B記念病院で療養を続けていた、澤田八重女史が、今日、病院
屋上から、飛び降り自殺を図りました、、、。」
れい子は、石で頭をたたかれたようだった。すぐに、飛んで行きたかったが、麻奈
が、もうすぐ帰ってくる。ご飯を食べさせてそれからいこう、と思った。
一方、このニュースを聞いて、大喜びをしている女性がいた。女性は、口紅の蓋
を閉めた。
ソナチネ下
れい子は、電車に飛び乗った。早く、八重の元へ行きたい、彼女を一人で死なせては
ならない、焦りの気持ちから、電車はひどくのろいような気がした。
すると、携帯電話が鳴った。ついにきたか、と身構えた。しかし、病院からではなく
夫からだった。
「なによ、ビールなら、冷蔵庫に、、、」
「馬鹿なこと言うな、お前は自分の子供より、友だちのほうが、そんなに大事なの
か?」
「どういうこと?」
「麻奈が、帰ってこないんだ。いま何時だと思ってる?」
れい子は時計を見た。八時半。外は真っ暗。
「とにかく、母親なんだから、すぐに戻って来い!」
夫は怒鳴っていた。
れい子は、八重のことを忘れて、すぐ電車をおりて、家に戻った。
家に入ると、警察が待機していた。夫が呼んだのだ。
「先ほど、ご主人が、お電話を受け取りましてね。身代金五百万を要求といってきた
そうです。九時にB記念病院の正面玄関に置けと。麻奈ちゃんは無事が確認できまし
た。おじちゃんとおばちゃんと、拓君といるそうです。」
と、刑事の一人が言った。ベテランの域に入っている、50代の刑事だった。
「拓君?」
れい子はどこかで聞いたような名前だ、と思ったが、すぐにぴんと来た。
「それは、私の友人の、長島ゆかりの息子です、長島ゆかりは、私の、大学時代の
友人です、でも、彼女は、そんなことをするようなではありません!」
「奥さん、もしかしたら、貴方も加担しているのですかな?」
「違います!」
何がなんだかわからないまま、れい子は叫んだ。
一方。
B記念病院の近辺にある、小さなアパートで、麻奈と、拓は、仲良く遊んでいた。
エンジェル係数の高い家だった。グランドピアノまで所持していたが、奏者の母
が自分の体を売ったお金で手に入れたものだとはまるで知らなかった。ヘンレ、
ブライドコプフ、デュラン、ペーターズなど、著名な出版社は数多くあったが、
手にとって弾くものもなく、埃をかぶったままだった。拓は、ショパンのバラー
ドを弾いたが、それは彼にとって難しすぎた。
となりの部屋では、ゆかりと、内縁の夫が、何か話しこんでいた。
「いいか、十時までに、身代金を用意しろ、正面玄関の前におけ、後で取りにい
く。そうしたら、人質は返してやろう。」
内縁者は、携帯電話でそういっていた。
「あなたは」
相手は女性だった。
「ゆかりさんと、何の関係ですか?」
「婚約者さ。」
と、男はいった。
「ゆかりはそこにいるよ。お前の娘も一緒だ。ゆかりは被害者だ。お前たちは
音大にいって、そのまま楽しい人生を歩んできたよな。それは、ゆかりも望ん
だことだ。しかしな、お前はすばらしいパトロンにあい、八重は大学の教授さ
まになり、幸せを手に入れたのに、ゆかりだけが、どうしても働く場所がみつ
からず、体をうって生活していたんだよ。結婚にはいったけど、そんなことを
しているってばれたら、旦那さん大暴れの巻きさ。だから、ゆかりは離婚した。
そして俺と一緒になったんだ。ゆかりは、すごく苦しんだよ。何で自分だけが、
音楽環境の仕事場をもらえなかったのかをね。だから、そうしなくてもいいよ
うに俺がこうしてやっているわけさ。」
男は高らかに笑い出した。
「ゆかりさんはそこにいるの?出してもらっていい?」
すると、隣の部屋から、息子の音とはまるで違う、柔らかい音が聞こえてきた。
「これ、、、、」
ゆかりは、やっと気がついた。
「麻奈ちゃんの音よ、この曲は、八重の曲、、、!ねえ、やめましょうよ、
こんなかわいそうなことするの!」
「殺してくれといったのはお前じゃないか!」
ゆかりは、となりのへやに飛び込み、
「麻奈ちゃん、拓、逃げなさい!ここは貴方たちのいるところじゃない!」
といって、玄関のドアをあけた。拓は、空気を読み取り、麻奈の手を引っ張って
逃げた。男は後を追った。二人とも体が小さいし、暗い夜ということもあり、ご
みバケツに隠れるなどして難を逃れ、病院の正面玄関にたどり着いた。
「助けてください!」
拓が叫ぶと同時に、
「麻奈!麻奈!拓君!」
と、母親の声が聞こえてきて、パトカーのサイレンが鳴り響いた。その声と、サイ
レンの音で、患者の一人が目を覚ました。彼女は、ナースコールをして、、、。
「ママー!ママー!」
麻奈は無事に母親の元に戻った。拓も警察に保護された。追いかけてきた男も、手
錠をはめられた。そして、長襦袢姿で、ゆかりが走ってきた。
「ゆかりさん!」
れい子は思わず叫んだ。
「ごめんなさあああああい!」
ゆかりは土下座したが、れい子は彼女の手を取った。
「あたし、、、あなたたちが楽しそうに生活しているのをみて、羨ましくて、音楽
のできる環境にいられるのがねたましくて。あたしは、普通のサラリーマン家庭だ
から、音大でたら働かなきゃいけなかったの。でも、そうすればするほど、音楽が
恋しくなって、結婚しても幸せになれなくて、幸せになっている、貴方たちを、段
々殺してやるって思うようになって。あたしは音楽が好きだった。でも、お金がな
いから、できない。こんな悲しいこと、貴方たちにいくらいってもわからないじゃ
ないの!やっぱり、あたしは、音楽する人間じゃないのね。」
「それはちがうわ。」
静かな声が聞こえた。
振り向くと、車椅子に乗った八重が、看護師と一緒に、正面玄関をでてきた。
「あたしは、病気になって、初めて音楽ってすばらしいなと、思うようになった。
教授になって、少しおごっていたのかも知れないわ。あたし、あのとき本気で死の
うと思った。でも、音楽がとめてくれた。音楽にあわせて、あたしは車椅子をこぐ
練習をした。音楽にあわせて、腕を鍛える練習をした。何もないときは寂しいなっ
て、感じるけど、音楽はそれも消し去ってくれるのよ。それを自分で作るだけでも、
すごいことやっていたんだなって、改めて知ったわ。ゆかりさんも、心から、音楽
がすきだったら、聴くことだけでも、幸せなはずよ。」
「八重さん、、、。」
れい子は思わずつぶやいた。八重は、いつの間にかセミロングの黒髪をしていた。
あのときの、絶望的な表情は少しもなく、穏やかな、柔らかな表情だった。
八重は、ゆかりのそばにきた。ゆかりは、八重の膝に頭を乗せて泣き出した。れ
い子も八重に駆け寄り、三人の女性は、涙の三重唱を歌った。
一年後
ある晴れた日。
八重は車椅子で、れい子はあるいて、女子刑務所へ向かった。ゆかりが出所する日
だった。
ソナチネ