夫婦の壁
読書好きの夫婦は仲がいいらしい。休日、互いに本を読んでいれば、どんなに傾向の違う作品を読んでいたとしても、楽しい時間を共有できるから。でも、夫とわたしは…
「おい、またクラシックなんかかけてんのか。こんなの聞くと眠くなるんだよ」
夫はわたしの返事も待たずに、ジャリジャリした耳障りな音楽に変えた。休日はいつもこうだ。思わず溜め息が出てしまう。
若い頃はこうではなかった。高校の軽音楽部で、同じ曲を聞いたり、演奏したりしていた。自然な流れで友だちになり、恋人になり、結婚した。
でも、年齢とともに音楽の趣味が違ってきてしまった。わたしはもっと音楽の本質に迫りたくなり、どんどんクラシックに傾倒していった。
一方、夫はエンターテイメント的な傾向の強いポップな曲を好むようになり、年甲斐もなく、若いアイドルや、ボーカなんとかを聞くようになった。アイドルはともかく、どうしてロボットみたいなものの歌なんか聞くのだろう。
もちろん、二人とも人間だから他にも好みの違いはある。でも、大抵のものは、お互い邪魔にならなかった。夫が晩酌にビールを飲む時、わたしは温かいほうじ茶を飲む。夫がゲームに夢中になっている間、わたしは編み物をする。テレビはニュース番組を見る程度だから、チャンネル争いもない。
だけど、音楽だけはどうにもならない。わたしはこっそり耳栓をして、新聞を読むことにした。
「あら、これいいわ。ねえ、あなた、ちょっと相談があるんだけど」
一週間後、軽音楽部で一緒だった恵子が、生後六か月の赤ちゃんを連れて遊びに来た。わたしも妊娠したばかりなので、先輩ママの助言が聞きたかった。だけど、恵子は他の話がしたかったらしい。
「旦那とは、まだギクシャクしてるの?」
あけすけな恵子の質問に、わたしは苦笑した。
「まあ、多少はね。でも、これのおかげで随分改善されたわ」
わたしはダイニングテーブルの上の小さな機械を指差した。
「何これ。新型の音楽端末?」
「違うわ。サウンドウォールという機械よ。原理はよくわからないけど、音だけを遮断する見えない壁を作るの。いい、スイッチを入れるわね」
「ん?何も変わらないわよ」
「壁の同じ側にいるからよ。ちょっと待ってね」
わたしはオープンキッチンに置いている音楽端末でクラシックをかけ、恵子にダイニングからリビングの方に歩くように言った。
「なんだか、キツネにつままれたみ」
見えない壁を越えた途端、恵子の声がプッツリ途絶えた。もちろん、それは恵子の方も同じで、驚いた顔で戻って来た。
「わね。全然聞こえなくなったわ」
「でしょう。完璧に音だけを遮断するの。これで、ダイニングの半分からキッチン側はわたし、残り半分からリビング側は夫、という風に分けてるわ」
「ふーん、でも、どうかなあ」
恵子は何故か不満気な顔をしている。
「心配しなくても大丈夫よ。音以外は影響ないから、身振りや顔の表情で意思の疎通はできてるわ」
「そりゃそうだけど。これって、文字通り、夫婦関係に壁ができちゃうんじゃないかな。来年には家族が増えるんでしょう?」
「あら、親が互いにカリカリしてるより、マシだと思うわ」
「そうかなあ」
「それより、妊娠中の心得を教えてよ」
しばらく二人で話していると、恵子が急に何かを思い出したように、「ちょっと機械を止めてみて」と言った。
スイッチを切ると、リビングのソファーに寝かせていた恵子の赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。恵子はすぐに駆け寄って、赤ちゃんを抱き上げた。
「おお、ごめんね。ママ気付かなくて」
わたしも赤ちゃんの顔のぞいて「ごめんね」と声をかけた。
ようやく赤ちゃんを寝かしつけると、恵子から諭すように、こう言われた。
「赤ちゃんが生まれる前に、その機械は返品するか、人にあげるかしなさい。今みたいなことがあったら、大変よ。それに」
恵子はすやすやと眠っている赤ちゃんの顔を見て笑いながら、続けた。
「赤ちゃんができたら、夫婦の壁なんて、すぐになくなるわ」
(おわり)
夫婦の壁