恋人の骨

この作品は2002年の夢の記述を元にした短編小説作品です。

 僕の恋人は、すらっとして背が高く、長い髪、顔立ちも整った人で、ある家のお嬢様である。普段はとくにいわゆるお嬢様らしい格好をしているわけでもないけれど、育ちのよさ、上品さはにじみ出ている。この日のデートも、ジーパンに薄いシャツというラフな格好だった。
 僕らは川辺の丘にある公園に来ていた。とりとめのない休日のデートにとりとめのないやりとりや会話が、今の僕にとっての幸せだし、彼女にとってもそうだろう。二人はすでに思い込みとか勘違いを越えたところで、明らかに、お互いをわかり合えていた。
 
 
 
1 恋人達のいる丘
 
 今は夕暮れも過ぎようとしている。ちろほろと浮かぶ雲には黒と橙が入り混じって、その合い間あちこちに薄い星が出ている。
 二人は緩い傾斜の草地に寝そべって、しばらくの間それを眺めた。もう一度起き上がった時には既に暗くなって、丘から見下ろす鈴鹿川は、こちら側の岸から随分遠くの向こう岸まで、一面黒っぽい水を湛えて流れているのだった。岸部の草の色には、まだ所々橙が残っていた。
 この二人以外にもあちらこちら恋人達が、川辺から傾斜の上の道路にすぐ近いところまで、たくさん肩を並べている。どのカップルも今は、顔も色も見えなくて影絵のようだった。
 夕暮れの終わりの静けさに響いていた川のせせらぎを掻き消すようにして、重たい飛行機の音がする。僕はまた寝転んでみる。飛行機は見えない。ゴウゴウゴウと、何か気味の悪い生き物が遠ざかっていくようだった。
 僕が体を起こしてみると、彼女はうつむいたまま動かない。僕は何故か、正面から彼女の顔を覗き込むのが怖くて、背中に回ってそっと横顔を見たのだ。
 彼女の長い髪がすふっと浮いた。
 彼女は目を閉じていて、鼻から流れた血が流れを止めて固まっていた。口元にも小さく血がこびり付いていた。
 あたりはもう、今やとうとう日が暮れて真っ暗く、影絵の恋人達は皆、風が草を揺らす斜面に無造作に並べられた、動かぬ大小の黒い岩にすぎないようだった。
 
 
 
2 医者
 
 僕は恋人を抱えて丘を駆け上がり、道路脇に彼女を座らせておくと、鈴鹿川に平行して伸びるその長い道を、一人走った。
 幾らかすると簡単な造りの小さい建物が道路沿いに設置してある。そこが医者達の住まいだった。
「恋人をお願いします」
 言って戸を叩くと、奥で物憂い返事のような声、あるいはただ物を動かすような曖昧な音かもしれないが、聞こえた。
 僕は目を閉じて、再び一本道をひた走った。とても長い距離に思えた。
 戻ると、すでに四人の医者が彼女の元へ来ており、彼女の数人の家族も到着していた。
 四人の医者のうちいちばん若いのが手術を始めて、他の三人は周囲に腰掛けアドバイスを与えてはいるが、実際の手術には加わらないらしい。僕は胸がときときと鳴って、ひとりで丘を川岸の方へ下って行った。
 
 丘を下ってしまうと、川まで平らな草地が続いて、この辺りは月灯かりに照らされて随分明るかった。ひとり歩く僕の横を通り過ぎる恋人達の顔も、ここでははっきり見えた。皆何か話していたが、聞き取れない囁きばかりであった。
 一度だけ振り向き丘を見上げると、いちばん上の方で動く人影が見えたが、僕は顔を背けそれっきりにした。
 僕はどんどん川縁を歩いて行った。
 ポケットの手鏡の中に、さっきの、鼻血を固まらせた彼女の横顔が映っていた。僕はそれをすぐにしまったが、とりかえしのつかないことをしたように思った。もう一度取り出してみると、それはもう二度と彼女の顔を映し出しはしなかった。
 
 
 
3 恋人の死
 
 戻ってみると、もう誰もいなかった。恋人の姿もなく、医者もいなかった。家族達もいないし、道の向こうの方に見える筈の医者達の家明かりもなかった。それに思い返せば、月が照らす川縁の道にも、戻りは誰もいなかった。
 彼女が腰掛けていたあたりの場所には、木の札が真っ直ぐに立ててあった。
 札には十数の文字が書かれている。最後の方に「御」「九」「仏」等とあるのは漢字と読めたが、あとの文字は記号か旧字体か、読み取ることはできなかった。それは動物の形、あるいは幼児の絵のようにも見えた。
 ゴウゴウゴウと、先通り過ぎたかと思った飛行機の音がまだ遠くに聞こえていて、今ようやく聞き取れない向こうに去って行った。あるいは、何かとてつなく大きな動物が、厚い雲の上を通っていったのかもしれない。
 僕はしばらく立ち尽くした。
 まだどれ程も時間は経っていなかった。なのにもう今や誰もいなくなって、僕の彼女はもう永遠にいなくなったのだ。
 川辺の丘に沿ってずっと続く一本道が西の山影に消え入る方から、やがてなまぬるい風が吹いてきて僕を通り過ぎた。その一陣の風はあの医者達の簡素な一軒屋の方へ吹いて行って、そのまたずっと向こうまで、道端の草を揺らしながら吹き去って行った。その方角、視界のいちばん果てには旧国道が川を渡る橋があって、車のライトがチラチカと揺れて見えた。そのうち医者達の家に一度だけ灯が付いたが、と思うとすぐに消えてもうその後は真っ暗いままだった。
 また同じなまぬるい風が吹いてくる。遥か鈴鹿山脈の連なりが、星空に張りぼてみたく浮かんでいる。僕はこれ以上、もうこの風にあたるのがよくないように思えてきて、家に帰った。
 
 
 
4 恋人の骨
 
 何日か後、非常に良く晴れた五月の昼過ぎに、僕は友人と二人で車に乗って出かけた。どうも彼女の胸の骨の二つが、何処かに埋められているらしいことがわかったからだ。そう記した手紙の差出人は、彼女の親類の一人だった。
 
 旧国道から、鈴鹿川沿いに入るあの一本道は今、完全に封鎖されてしまっていた。工事の準備のためらしいがまだそれらしき人はおらず、立て札にある工事着手の予定は二年後となっている。
 川沿いの丘は今や、岸辺からすぐ道路沿いまでぎっしりとした深い茂みと茨に覆われてしまった。
 川の横の林に、僕が子どもの頃、川へ遊びに行く時よく使用していた小さな秘密の抜け道がある。以前恋人とも一度そこを通ったのだった。念のためと思い、そこから川縁へ下りてみることも考えたのだが、その道も見つからなくなってしまっていた。
 新興住宅地に恋人の実家があることは聞いていたので、一度訪れてみることにした。
 鈴鹿川の北西に位置するその小高い場所へ、狭い森を抜けて着くと、そこら一帯はこの昼下がりにひっそり静まりかえっており、建造中らしい邸宅、門を閉ざした洋館、小さな公園や林ばかりが多く見られ、人の姿はない。他はほとんど表札の掛けられていない家ばかりで、とうとう恋人の家は見つからなかった。
 僕宛てに手紙をくれた親類の家に電話を掛けてみても、記したこと以上詳しいことは何もわからないと言う。またその人の話では、かつての恋人の家族は今はもう、両親はどこか外国に、一人の兄は地中海の小さな島に、弟達は死海の畔にひっそりと暮らしているのだと言う。
 手がかりは何もないのだった。あの時のポケットの手鏡にも、血の痕跡すらなかった。
 
 あてもなく、友人と話しながら、市の南の方角へ向かって車を走らせていた。その時、窓を開けるとちょうどすぐ上を見慣れない鳥が南から二羽飛んで来て、さも何か隠しているような表情をしてこちらを見た。鳥は擦れ違った後も尚しばらく首をこっちへ向けたまま飛んでいたが、僕らが今遠ざかっている新興住宅地の方へどんどん飛んで行きやがて見えなくなった。
 僕が「これはどうもおかしい」と言うと、友人もこれは何かあると言った。南ということは確信的になって、僕と友人は先の不可解な鳥の飛んできた方角「南」をキーワードにしようと話し合った。
 国道を下りて、隣市との境を巡って行き来するうちに、小さな古い林がやけに疎らに点在する場所を見つけた。
 聞くと、ここが市最南の地で、その名を「鶏殻町」というらしい。探索には、この町だけに照準を絞ってもう間違いはなさそうだった。その町民に、地図の描かれた看板の前まで案内してもらった。
 この町は町役場や郵便局のある中央区と、もう一つの郵便局と新商店街のある北区、旧商店街の南東区、主に住宅が散らばる最南区から成る。厄介なことには、小さな林は道の入り組んだ各地区に散らばっており、その数は三十七にも及んだ。それでも、探索は開始された。
 
 大抵は何もないただの狭い林で、どの林も周りを茨と茂みが囲んでいたが、妙に整備された出入口にも見える隙間があった。
 十四番目に訪れた林で鶏がら地蔵と記されたお地蔵様を見た。友人はここに違いないから掘ってみるよう勧めたが、僕は否定した。ここではない気がしたし(そう思いたかった)、苔の生えた地蔵様の頭部が、北西の空の方を向いて今にも飛び立ちそうなのに妙な不安を覚えたのだ。その頭部は、もう随分風化浸食されていたが、どうも人間ではなく、鳥の形をしているように見える。どう見てもこの口は人間の唇ではない、これは嘴だ。
 友人は笑い飛ばしたが、結局捨て置き探索を続けた。
 二十九番目の林まで来た時に時計を見ると午後三時を指していた。その林を足早に通り抜け車に戻って昼飯処を探すと、すぐ近くに店らしき建物が見えた。一階は駐車場だけで四台停められるが今は全く車はない。僕達の車を停めて階段を上がると、駄菓子屋だった。
 
 駄菓子屋の店内を回りながら窓の外に目をやると、いつかドライブの途中彼女とここに立ち寄ったことがあるのを思い出した。この窓からの眺めは、その時見た景色に違いなかった。
 南に向いたその窓からは、さきまだ訪れなかった残り八つの林が全て見えた。綺麗な正八角形を描いて並んでいると思って見ていたが、思い立って窓を開け放つと、窓ガラスによって景色に歪みがかかっていたことがわかった。林のうちの一つは並びから外れ、七角形を形作っていたのだ。
 「あれだ」、と僕は思ったが、そのまま何気ないふりを装い店内を歩いた。
 僕が前に来た時買って食べた、砂糖が満遍なく塗されている小豆パンはもう置いてなかった。しかし彼女がおいしいね、と言って帰りの車で僕に分けてくれたのは、今もそこに置いてある鳥の小揚げというものだ。小さな唐揚げが幾つか入っている小箱だった。
 僕は、店の奥で眠っているようにさえ見えるあまりにひどく年老いた婆に、本当にさり気無い様子で声をかけた。
「この品物は、一体全体何の唐揚げですかな?!」
 老婆は返答に窮したのか何か聞き取れない声でもごもごやっていたが、急に咳き出したりしたため僕はもう放っておいた。友人は喉が痛くなったと言って喉飴を買い、車に戻った。
 お互い「ともあれ場所はわかったな」、と言い合って車を出した。
 
 そこには二つめの鶏がら地蔵があった。この地蔵様の目は潰れているようにも見え、それで少し安心し、足元を掘ってみると、ここに埋まっていたのはたくさんの鶏の骨だった。そこで友人と目を合わせるとすぐ、急ぎ十四番目の林へ戻った。友人はやはりそうだったではないかと言わんばかりであった。
 地蔵様の下を掘っていると、行きに擦れ違った二羽と思われる鳥が木の高い枝に止まって、モゲ、モゲ、モゲ、と啼くのであった。僕はこうるさく思い、友人は憎たらしい奴め石礫を投げてやろうかと言ったが僕は黙々と土をどけていった。
 すると、確かに何かが埋まっていたらしい空洞が見つかったが、蛻の殻、もはや蛻の殻であった。その時上の方で羽音がして、見ると、二羽の不可解な鳥はもういなかった。何処かへ飛び去ってしまったのだろう。

恋人の骨

恋人の骨

2004年10月初稿/未発表作品

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted