生まれて初めて学校をズル休みした
最近、僕を殴る遊びがいやに流行っている。今日も普段どおり、全身が痛かった。
「お前はまさか、本当に自分が皆を怒らせて、嫌われて殴られてるとは思ってないだろ」
言ったのは、僕を殴る集団のいわばリーダー格の嵯峨だった。僕は塾の帰りで、嵯峨はコンビニから出てきたところだ。偶然会ったのだ。会ってしまったのだ。
嵯峨を見ると、僕を殴るときのあの気味の悪い笑顔を思い出してしまう。また嵯峨に殴られるのかと思うと怖くて仕方がなくて、その場で動けなくなっていた。
「聞いてる? なあ、シタナガくん。お前今おもしろい顔してるぜ」
嵯峨は僕を殴らず、あの嫌な笑顔も見せず、僕に、普通に話していた。正直なところ、何がなんだかわからない。嵯峨はいつも八つ当たりでもするように僕を殴りつけて、蹴飛ばして、顔を歪めて笑うのに。
「なんだよ、なんか言えよ。俺一人しかいないんだ、なんかあったってどうにかできるだろ」
「ごっごめん、あの」
「ダメだな、お前。なんで謝るんだよ。俺相手にごめんなんて、一番必要ないだろ」
嵯峨は片眉を上げて、呆れたように息をついた。僕は嵯峨がまともに話をするのを、これまでに聞いたことがなかった。嵯峨は至極まともなことを言った。
「だからさ、お前、自分が嫌われてると思うか? って」
「えっ、う、うん……」
「マジ? やっぱバカだな、お前」
いつもより普通に笑った。普段の嵯峨は、頭がおかしくなったようにゲラゲラ笑う。異常だと思っていた嵯峨が、少し普通に見えた。いつもと違っていた。
「な、なんでさ。僕は嫌われてるから、殴られるんだろ」
「嫌われてんのは俺だろ。普通に考えろよ」
「普通に考えてるよ、だって、嵯峨は」
「違うって。だからさ、俺に同調してる人間が多いから、とかじゃなくてさ。俺とお前、客観的に比べてみろよ。とろくてどんくさくて無害なお前と、キレやすくて情緒不安定ですぐ人を殴る俺。わかるだろ?」
「え……」
キレやすくて情緒不安定ですぐ人を殴る。それは嵯峨の普段の姿を正確に言い表していた。僕は、嵯峨が簡単に、客観的に見た自分の姿を言ったことに驚いた。
今日の嵯峨は何かがおかしい。何もかもがおかしい。そもそも、僕と嵯峨が会話をするということ自体、おかしい。まともな嵯峨は不気味だった。
「な、ならどうして、わかってるなら、どうして」
「ハッキリ喋れよ、お前。本当に俺が怖いんだな」
嵯峨は僕を鼻で笑った。僕は目を逸らした。
「皆、俺に嫌われると何されるかわかったもんじゃないからって、俺と一緒にお前を殴ったり、俺に同調したりするけどさ。それはそれとして俺のことはちゃんと嫌いだって、わかってるよ。わかっててやってるんだ」
「や、やめてよ。わかってるならさ。嫌われるのは、嵯峨だって嫌だろ」
「わかってるし、嫌われたがりなわけでもないけどな。でも俺バカだから、脳味噌が腐ってるから、自分とか見えないものを傷つけたって、わかんねえんだ。手首切ったり、ラインの友達を片っ端からブロックしたりな」
「は、はあ?」
僕には嵯峨の言ったことが半分も理解できなかった。俺バカだから、以降の言葉が、わからない。嵯峨は、一体何を考えて、僕を殴っていたんだ。
「だからさ、俺は自分の手首切るくらいなら他人の手首を切って回りたいし、自分が死ぬより世界中から人間が消えてほしいんだよ。俺は、俺は自分が、お前よりも嫌いだ」
嵯峨の言ったことを、一度飲み込む。整理する。何について話しているのか、僕はとにかく、数瞬の間、考えた。口を開くのに、少し慎重になった。
「か、勝手なこと、言うなよ」
嵯峨が話しているのは、嵯峨だけの思いだった。僕は、腹が立った。
「そんなの、僕の知ったことじゃない。僕は嫌われてないのに、誰も怒らせてないのに、どうして嵯峨の、そんな、わけのわからない気持ちのせいで、殴られなくちゃいけないんだよ」
僕が嵯峨に反抗するようなことを言うのは、これが初めてだった。心底苛立った。何を言ってるのかほとんどわからなかったけど、僕は、とにかく心の弱い人間のままごとに付き合わされたのだ、と解釈した。そんなの、あんまりだ。嵯峨は少し目を泳がせた。
「シタナガくんの言う通りだ。全部な。でも俺は、死にたくないんだよ、本当に」
「どういう意味だよ。なんだそれ。誰も、嵯峨に死ねなんて言ってないだろ」
「真っ当なこと言わないでくれよ。そうだよ、誰も言わないんだ。言えばいいのに、お前だって。死ね、とかクソ野郎とか、そんなこといくらでも言いたいだろ」
「決め付けるなよ、わかんないよ、僕。嵯峨が言ってること」
嵯峨は面白くなさそうに笑った。ヘラヘラしながら、視線を足元に落とし、焦点を合わせてはずらしていた。それをやるのは、そんな風になるのは、普通僕のほうじゃないのか。普段僕を散々殴りつけているくせに、弱い態度を取る嵯峨が腹立たしいと思った。とにかく嫌な気分だった。
「俺がいなくなったらさあ、シタナガくんにも友達ができるよ。俺はいないけどな。そのうち、彼女だってできるかもしれない」
「話を勝手に飛ばさないでよ、順番に話してくれなきゃ、あの」
「死のうと思うんだよ。今夜にでも。俺が一人で死んだほうがずっと早いのにって、思ってたんだ。俺は世界中の人間を皆殺しにはできないから」
「え、は? 死にたくないんじゃなかったの」
「死ななきゃいけないんだ」
後頭部を掻きながら、嵯峨は簡単に言う。
「最後に食おうと思って買ったんだけどさ、やるよ。二つもいらないから」
嵯峨が差し出したのは、二つあるボトルアイスのうちの一つだった。ホワイトサワー味だった。僕が受け取らないでいると、強引にカバンにねじ込んで、そのまま歩いていく。
「待って、待ってよ! こんなのいらない」
「まあさ、明日から楽しくなるんじゃないの、ガキの喧嘩で済むうちに終わってよかったじゃん」
「なんだよそれ、そんなの、どうして僕に言うんだよ! 嫌だよ、僕、聞きたくなかった」
「は」
嵯峨がまた笑った。顔は見えないけれど、多分つまらなさそうな顔をしていると思う。
「本気にするんだな、シタナガくん。こんなの、本気で聞くやつ誰もいないよ」
「はあ……?」
そう言うと嵯峨は、片手をひらりと上げてスタスタと歩いていった。僕は感情の整理がつかなくて、その日よく眠れなかった。
次の日僕は、生まれて初めて学校をズル休みした。貰ったアイスは、カバンの中で溶けている。
生まれて初めて学校をズル休みした