融解性忘却症候群被験者の唯心論

00:融解性忘却症候群

【融解性忘却症候群】

定期的に記憶を失う原因不明の精神疾患症。
忘却の際には身体の一部が溶けていくように見えることから、「融解性」と呼ばれる。
また、失われるのは「心」であり、「自己」の消失を促す病だという考察もある。
最初の発症者が発見されて以来、数年で世界的に蔓延しつつあるが、対処法、治療法は何一つわかっていない。
この病は感染症だという説もあるが、真偽不明である。
忘れては覚え、忘れては覚えを繰り返すため、脳に異常な負担がかかり、コチゾールが大量に分泌されるため、海馬が萎縮し、最終的には「生きること」すらも忘れて死に至る。
進行速度は人それぞれで、最短が1週間。
特に10代から20代の若い世代の発症が目立つ。



最近の研究では被験者の観察から、融解性忘却症候群患者は「ある条件」を満たすことで不老不死になり、現代の生物学を超越した生命体に変貌するという説が有力となりつつある。

01:被験者Aの記録

目覚めると白い天井が視界に広がっていた。
ここはどこだろうか。
見覚えがある気も、ない気もする。
首を回転させ、辺りを見ようとしたが、頭に幾つものコードが張り巡らされていて容易には動けなかった。

「おはよう、起きたんだな」

「わ」

「あ、驚かせた?ごめんね」

真っ白な視界に、突然青年の顔が現れた。
反射的に声が出てしまったので、少なからず動揺したのだろう。
さらりとした白い髪に、青い瞳、白衣の袖を片方だけ捲った青年だった。

「改めて、おはようございます」

「おはよ、ございます」

「言葉は喋れるね。君の名前を教えて?」

言われて恐怖を感じた。
自分の名前はなんだろう。
そもそも、今ここで自分を含む全ての情報がないことに気づいてしまったのだ。
この状況を彼に何と告げればいいのだろうか。

「…わからないか。まあ期待してなかったけど」

青年は手元のタブレット端末につらつらと何かを書き綴る。

「頭のこれ、邪魔だよね。外すから起き上がってくれる?」

素直に従う。
にしても、どうしてだろうか。
さっきまで全く知らない、全くわからないことだったのに、彼の口から出てくる言葉はすんなりと理解できる。
最初は知らなかった言葉なのに。
上半身を起こすと、彼は手際よく頭の装置を外していく。
頭が軽くなった。
寝癖のついた髪がふわりと頬を掠めてくすぐったい。

「俺のことも覚えてない?」

そんなこと言わないで。
不安になる。
わからない。わからない。
知らない。知らない。知らない。
何と言えばいいのだろうか。
言い知れぬこの恐怖を表現する術すら、自分は持ち合わせていない。

「初めまして、と言っても、もうこの挨拶は4度目だけど。俺は″ひととせ まこと″だ。よろしく」

そういうと青年は人の良さそうな笑みを寄越した。
ひととせ、まこと。
口の中で何度か確認する。
そしてゆっくり

「ひととせ、まこと」

と言って見せたが、舌足らずになってしまった。

「そうそう、まこおにぃちゃんって呼ん、」

がこん。

「キモい。引っ込めペド野郎」

青年の顔が苦痛に歪む。
背後から分厚い本の背表紙で後頭部をやられたようだ。
ひょこり、とそれをやったであろう女性が顔を出す。

「酷いなゆなちゃん!」

「ゆなちゃん言うなキモい」

ひととせを淡白にあしらうと、彼女はこちらに向き直った。
長い茶髪を一つに結っており、少しきつい黒の瞳を持つ長身の女性だった。

「私は″きずき ゆなみ″です。3度目の初めましてね」

「きずき、ゆなみ」

ひととせと同じように繰り返してみせる。

「相変わらず、頭は良いようね」

その言葉の意味がいまいちわからないまま、彼女は先方ひととせを殴った件の本を寄越す。

「それ、読んで。君の知らないことが書いてる」

黒のハードブックで、ずしりと重い。
硬い表紙がすぐ手に馴染んで、何処か懐かしく思えた。
何が書かれているのだろう。
わかるだろうか?
今自分に必要な情報が、わかるだろうか?
1ページ目を開く。

そこに書かれていたものに、自分は確実に圧倒された。
その言葉で、全てがわかったのだ。


『よぉ俺。溶けた心を取り戻す術は見つかったのか?』



俺は融解性忘却症候群の第一発症者。
被験者A。
そして、この病の解明を目指すプロジェクトチームの第一責任者。


ーーーー東 知浩(かずひろ)だ。

02:被験者Aの身元

東 知浩 アズマ カズヒロ 男
身長160cm 体重46kg 17歳 O型
御波町出身
父と母の3人家族

好きなものは親子丼、読書、カフェオレ
嫌いなものはイクラ丼、犬、雨天

発症が確認されたのは16歳と78日目
それまでは町内の高校に通っていた
発症確認後、自ら被験者に立候補し、病の解明に向けてさまざまな形で貢献している


このくらい書けば自分のことはわかるだろう
他にわからないことがあるなら、行動記録映像を観るなり、追記する二人に尋ねるなりすればいい



次に周囲の人間について
主に俺の生活的担当者は2名


春夏秋冬 誠 ヒトトセ マコト 男
身長170cm 体重60kg 25歳 AB型

食えない奴
ペドフィリアの性癖を持ち、年下にしか興味がない
多少ウザくても我慢すれば、あとは特筆するような支障はないはず


城 柚波 キズキ ユナミ 女
身長175cm 体重は不明 24歳 A型

しっかり者で淡白
ドSの気があり、手が出やすい傾向にある
読書の趣味が合う


彼らの仕事は俺の観察及び生活面でのヘルプだ
ちなみに彼らは忘却症候群の傾向にないので、俺のことを忘れることもないはずだ



そこまで読むと、俺は少しずつだが記憶を取り戻していた。
考察するに、恐らく深層心理の記憶は失われていないのだろう。
慣れ親しんだ言葉や、自己の形成を始める程度に成長していた自分のことがそれに当たる。

「忘却症候群って、どんな病気なの」

「んーその質問はとても解答に困る」

誠は少しわざとらしく考える素振りを見せる。
ああ、なるほどこういう奴なん
だ。

「正直に答えるなら、解答不能だね」

「え」

「そうね」

柚波は手元の学術書から目を離さずに同意を表明する。
落ちてきた髪を耳に掛け直すと、彼女はちらりと視線を投げてきた。

「私たちは、この病気についてあまりにも知らな過ぎるの。発症者にはっきりした共通点もない、効果の有りそうな薬はどれも効かない、個人差は普通の病気より大幅に有る…ほんっと参っちゃうわ」

愚痴の様につらつらと吐き出すと、恨めしそうに誠を睨む。

「それもこれもアンタがカズにべったりでこっちの手伝い全然しないからよ」

「それは理不尽ではないですかね柚波さん!?」

「じゃあ、俺の病気は治らないの」

「それはないわ」
「それはないよ」

二人が同時にこちらを向く。
シンクロしたのを疎ましく思ったのか、二人はちらりとお互いを見やって、柚波は眉を顰め、誠はへらりと笑った。

「カズ、私たちがどうしてこうやって、起きてても眠ってても忘れちゃってもアンタにずぅぅぅっと付きっ切りで研究してると思ってるの?」

「この病気は世界中に蔓延しつつある。俺たちは、一分一秒でも早く、治療法を見つけるためにーー君を治すためにこの仕事をやってるんだよ」

柚波と誠の真っ直ぐな瞳が、俺が忘れた記憶の奥深くに届いた気がした。
これは、何という感情だったろうか。

「…ありがとう」

自然と口から漏れた。
この言葉はきっと深層心理に残っていたものだ。
ーー大切な言葉だ。

「わかればいいのよ」

柚波は相変わらず目の色一つ変えず、再び学術書に視線を落とした。
誠もにこにこと笑ったままだ。

記憶が抜け落ちた俺は、前の俺と違う。
なのに、彼らが俺を想ってくれるこの暖かさは、忘れたはずなのに懐かしかった。

03:被験者Aの研究

目が覚めて52時間が経った。
柚波は何度か部屋を出入りしたが、誠は文字通り俺にべったりだった。
子供か。

「ねー駄弁ろうよー」

「なんでそんなに俺に構ってるの?暇なの?」

「暇じゃないよ?カズに構うのが俺の仕事だから」

「…キモいね」

「酷くない!?」

別にキモくはないでしょ、と口を尖らせた。

「てか、誠って研究員でしょ。だったら仕事あるんじゃないの」

「だーかーら、カズと一緒にいるのが仕事なんだって」

「…キモいは訂正、ウザい」

「なんか柚波ちゃんに触発されてないかい!?」

誠はからからと笑う。
爽やかなんだけど、計算でやってるみたいでウザい。
俺は柚波に借りた忘却症候群の文献を片端しから読み込んだお陰か、この研究所のことや病気のことは前の記憶とほとんど違わないくらい戻った。
チュートリアルは終わって、ここからは俺自身で進み方を決めるゲームが始まるのだ。

「…誠、俺は研究にいつ戻っていいの」

「もうやりたいの?無茶しなくていいのに」

意外だと言わんばかりに驚いた風を見せた。
なにが無茶だ、俺だって、この病気を治したいのだ。

「無茶してない。ただ、ずっとベッドの上なんて退屈なんだ。だったら自分の仕事したい」

「…」

誠は逃げるように視線を逸らす。
口元には笑みを貼り付けていたが、目は笑っていなかった。
そんな沈黙が暫く続き、堪らず俺は重苦しい溜息を吐き出す。

「…誠だって治したいって言ってたじゃん。だったら実験のサンプルは必要で、」

「そんなこと、忘れたから言えるんだろう!!」

先程と打って変わって荒々しく空気を揺らす。
仮面の様にしてあった笑顔は掻き消され、感情を剥き出しにした素の「ひととせ まこと」がそこにいた。
成人男性の力で服の胸元を掴まれ、ひゅっと喉が鳴る。

「なんで忘れんだよ!!お前、あんな酷いことされてたんだぞ!?なんで忘れられるんだよ!?」

研究の具体的な内容は資料もなく、記憶もほとんど戻っていなかった。
だから誠が怒る理由が見つからない。
酷いこと?それってどんな?

「俺はあんなお前を見たくないんだよ!!俺は、俺…俺たちはお前を守ることも出来ないんだよ!!そんなところにわざわざ連れて行くかよ!?絶対嫌だ!!嫌なんだよッ!!お前にとって辛いことなんて、させたくないんだよ…っ!」

滲んだ青い瞳が俺を捉える。
どうして誠は、泣いているのだろうか。
どうして俺は、こんなに嬉しくてこんなに苦しいのだろうか。

「…誠、」

「…悪い、忘れていいよ」

「誠ッ!」

俺は釣られて声を荒げた。

「俺はもう″忘れた″んだよ」

大粒の涙が誠の頬を伝って落ちる。
ポーカーフェイスは最早ぐちゃぐちゃだ。
そう、俺は忘れたんだ。
だから、いいんだ。
今までどんなことがあったとしても、それが良いことであれ悪いことであれ、俺の記憶はリセットされた。
これからは真っさらな紙にまた描いていくのだ。

「大丈夫だよ、俺は」

子供の吸収力の早さというのは、あれはまだ子供の記憶の上書きが少ないからではないかと思っている。
歳を重ねる毎に365日分の記憶が次々と脳に詰め込まれていく。
人間の脳の容量が一般的に同じくらいだとすると、パソコンの様に動作が遅くなるのは必然だ。
俺の記憶がリセットされたということは、深層心理に残留物があるとはいえ前より容量が軽くなっているはず。
となれば今俺の脳は子供同然で、この状態でなら辛いことでも苦しいことでも覚えが早いお陰で″慣れ″が効くのではと考えた。

「いつまでも守ってもらうだけの子供じゃないし。俺コーコーセーだったんでしょう?」

学校生活の記憶なんて皆無だが、制服の肌触りは覚えている気がする。

「自分のことは自分で決めたいよ」

「…」

どちらかと言えば誠の方が子供の様だ。
目は赤くなり、唇を噛んで眉を潜めて拗ねて、俺の話を聞いているのかいないのか。
顔を背けたまま目線をちらりとも寄越そうとしない。
やがて緊張で強張った身体をゆっくり伸ばし、感情の熱を溜息と共に吐き出した。

「…悪かったよ、いきなり大声出してごめん。お前の言うとおりだ」

顔を上げる。
そこには俺が目を覚ましたときと同じ、食えない笑みが浮かんでいた。

「やっぱカズは頭良いんだなぁ」

無理して笑っている様には見えない。

「…誠、お前って思ったよりガキっぽいな」

「えっ嘘!?ちゃんとオトナだよ俺!」



それにしても、誠がこんなになって止める俺の仕事って、一体何なんだろう。

04:被験者×××の日記


今日の研究はいつもより楽だったかな。
ていうか、いつもほとんど動かくていいから身体的には楽なんだけど。
でもね、頭に色んな装置着けられて脳に直接グロテスクな動画とか気持ち悪い音とか送られるのは勘弁だよホント。
いっつも吐きそうになるし、晩御飯食べる気失くすし。
それに比べて今日は楽だった。
寝てるだけでよかったんだ。
多分、脳波とかを観察する実験だったんだろうね。
よくわかんないけど。
だって俺、にいちゃんほど頭良くないし。
明日は何するんだろ。
痛くないのがいいなぁ。



久振りに外に出た。
アイス食べた!
この病気になってから初めて食べたアイスだったけど、味覚って案外正直で。
多分俺の深層心理に一番多く残ってる情報って味覚についてじゃないかな?
俺そんなに食い意地はってたかな。
にいちゃんとも久振りに会った。
最初はわからなかったんだけど、名前を聞いたら思い出した。
にいちゃんはやっぱりすごい。
外でのニュースとか色々教えてくれた。
俺の通ってた学校、閉鎖になっちゃったんだって。
覚えてないけど、病気になった人が増えちゃったんだって。
病気が治ったらまた通えるかなぁ?



もうやだな。
身体めちゃくちゃだるい。
きついし眠い。
でも日記は毎日つけてねって言われたから、今日もちゃんとつける。
それに病気はにいちゃんが必ず治してくれるからね!
あーでも頭が痛い。
どうしよう、風邪でもひいたかな?
今日の実験はそんなに酷くなかったんだけどなぁ。
にいちゃんとは次いつ会えるのかな。
早く会いたいなぁ、話したいこといっぱいあるや。
あれ、俺おかしいのかな足が俺の足が溶けてる?溶けてるよえなんでこわいえおかしいでしょいたいいたいいたいあしいたいよにいちゃんたすけていたいしろいだんだんしろくなってああああいたいわすれちゃうわすれちゃうやだこわいわすれたくないよにいちゃんたすけてたすけていたいよいたいよいたいたすけてにいttttttttttttttttttttttttttttttt
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きょうからにっきをつけることにする。
まいにちつけてねっていわれたから。
おれ、いままでのことなんにもおぼえてない。
へんかな。
でもだいじょうぶだよね。
わかんないけど、だいじょうぶだとおもうんだ。
だれかが、なおしてくれるから。
だれかって、だれだっけ?

融解性忘却症候群被験者の唯心論

融解性忘却症候群被験者の唯心論

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-18

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 00:融解性忘却症候群
  2. 01:被験者Aの記録
  3. 02:被験者Aの身元
  4. 03:被験者Aの研究
  5. 04:被験者×××の日記