桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君4
続きです。申し訳程度のホラー要素
桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君4
「では田中殿、お達者で」
そう言い置いて、鹿王は犬とともに狂気渦巻く暴風の中にするりと身を投げ出した。
「は!?」
何の気負いもない、あまりに自然な動作に光顕は反応できず、ただ呆然と鹿王の凶行を眺めていることしかできなかった。はっと我に返り、
「おい、鹿王っ」
慌てて、後を追うように山門から身を乗り出す。しかし、巻き上げられた数々の凶器と砂や泥で目も開けていられない。
こんな中に入っていって無事なわけがない。
「おい、鹿王。返事しろ。馬鹿か、お前は!」
叫んでも、轟音にかき消され、応えはなかった。
轟音に交じって、不意に、北東の山の方から、ヒュウヒュウという異質な音が近づいて来る。風の音ではなかった。獰猛な動物の荒い呼吸音のようなそれは、凄まじい勢いで迫ってきた。思わずそちらに視線を向ける。
そこには目玉があった。赤く濁った一対の目玉が、闇夜のなかでぬらぬらと光っている。同時に、は、は、はという生臭い吐息を頬に感じ、光顕は固まった。動物だった。牛や馬などではない。象やサイの何倍もの大きさの生き物が赤い目を滾らせて、この風のなかにいる。
信じられないが、そうとしか考えられなかった。
「おい、鹿王、早く戻れ。おい、返事しろ。マジこの風やばいぞ。戻れって!」
突風の中に身を乗り出しで叫ぶが、やはり応えはなかった。助けに行かねば。光顕が意を決したその時、頭の中で誰かの声が鳴り響いた。
動くな!!
叱責するような厳しい声音に、光顕は思わず動きをとめる。低く太いその声は、先ほどの阿狛の遠吠えに似ていた。
死にたくなければそのまま静かにしていろ
再度、声が響くと同時に頬にぴしゃりと何か液体が叩きつけられた。雨まで降ってきたのかと、それを無意識に手で拭うと酷い臭いがした。鼻を衝く腐敗臭とタンパク質が焦げた独特の臭気に思わず顔を歪める。手についたその液体は水よりずっと重みがあった。
なんだこれは。
そうこうしていると、唐突に風が止んだ。鼓膜を破るような攻撃的な轟音も、呼吸を阻む突風もまるで嘘のようにぴたりとなくなった。光顕は恐る恐る山門から外に出てみる。辺りは水を打ったような静寂に包まれていた。
光顕は突風の駆け抜けていった方角に目をやった。何もなかったかのように整然と木々が立ち並んでいた。木に塞がれて見えないはずの大学の明かりが、夜の闇の中に浮かんで見えた。
大学へ戻ろう
その明かりに泣きたくなるほどの安堵感を覚えた。家に帰ったところでどうせ一人だ。それならまだ確実に人がいる大学へ行こう。あそこにはまだ桃井准教授や院生達がいるはずだ。とにかく一人でいたくなかった。自分を知る誰かに会いたかった。
どこからか人の声が聞こえる。境内の奥の方でぽつぽつと明かりが灯り始めていた。きっとこの騒ぎに気付いた寺の関係者だろう。
ここにいては厄介だ。
そう思った光顕は、裸足のまま大学を目指した。
雲の合間から顔を出した月が、柔らかい光を空から落とす。顔にだけだと思っていた液体は、光顕のパーカーにべっとりとこびり付き、不気味な異臭を放っていた。
9
大学の構内に戻った光顕は足を縺れさせながら研究棟へ向かった。足の裏は傷だらけで土にまみれていたが構ってなどいられなかった。
流石に人の数は減っているようだが、まだまだ夜を徹して実験や研究に明け暮れる研究棟にはいくつも明かりが灯っている。光顕は一目散に桃井研究室へと向かった。そこにはまだ桃井准教授や榊たちがいるはずだ。
光顕に日常を与えてくれるに人間がいるなら誰でもいい。この際、小和田だって構わなかった。光顕は、ついに廊下を走り出し、奥まった桃井研究室へと急ぐ。研究室のドアから漏れる光に涙がこぼれた。
「すみません。出戻ってきちゃいました」
なるべく明るい口調で声をかけ、勢いよくドアを開ける。そして、そのまま、言葉をなくした。
部屋の中は明るかった。研究用の部屋なので電気は明るめのLEDライトを使用している。その煌々とした光の下、部屋の中央に榊が座り込んでいた。髪はぐちゃぐちゃに乱れ、トレードマークの黒縁メガネはどこかへ吹き飛んでしまっている。完全に自失した様子で、虚空を見つめる榊の手には、赤いセーターが握りしめられていた。それは今日、小和田が着ていたものだった。しかし、室内に小和田の姿がない。研究室には榊と、そして自分の椅子に座っている桃井准教授の姿しかなかった。他の院生たちの顔はなく、部屋中に赤黒い液体が飛び散り、床にはタールでできた水たまりのように凝っていた。
光顕の喉が変な音を立てる。呼吸がうまくできない。それは、この空間があの独特の腐敗臭に満たされているからだ。
あれがここにも来たんだ。
膝から力が抜けた。
「光顕、戻ったんか。なんで戻ってきた」
自分の椅子に腰かけた桃井准教授が絞り出すような声で、話かけてくる
「なんでって。あれがここにも来たのか」
「あれって何や。何があったんやろうね。僕にもわからんわ」
そう言って桃井は溜息をつく。魂が抜けたような虚ろな独白だった。部屋の中央で座り込む榊は、全身赤黒い液体に塗れ、何事か呟き続けていた。よくよく聞いてみると、壊れたテープレコーダーのようにずっと小和田の名前を繰り返し呼び続けている。常軌を逸していた。この空間にあるものと、あるはずなのにない存在。全てが普通ではなかった。
「警察。警察を呼ぼう」
空転する思考をなんとか拾い集めて、自分の正気を保つために光顕は日常を繋ぎ止める。
「警察」
呟きながら、桃井准教授は机に置いてあった煙草ケースから、煙草を一本取り出しライターで火をつけようとする。しかし、その煙草にまで汚泥がこびり付き、うまく火がつかない。桃井准教授は意地になって、何度もライターの火種を起こす。カチリ、カチリと百円ライターの安い音が苛立たしげに室内に響いた。光顕は無言のまま部屋を横切ると、桃井准教授から煙草を取り上げた。
「やめてください。体に悪いです」
それが、煙草自体を指しているのか、煙草についている物質を指しているのか光顕自身にもわからなかった。
「警察呼んで、何て説明したらええかな。なあ、榊君」
桃井の声に反応して、榊が悲鳴のような声を上げた。座り込んだまま、身体を折りたたむように蹲って吠えるように泣いている。べっとりした液体に身を浸していることにすら気づかないようだった。その姿はどこか獣じみて見え、光顕は風の中で聞いた獣のうなり声を思い出した。
そういえば、机のうえにあった、桐の箱が消えている。
「あの箱は?あれ、どこにやったんだよ」
「箱やったらその辺に、落ちてるやろ。ちょうどその、」
そこに座っていたはずの院生の名前を挙げて、桃井准教授が指を指す。そこには確かに大量の液体に沈む箱があった。そして、すぐ傍にはそこに居た院生の服も一緒に沈んでいる。箱は開けられていて、その中身が空であることは、手に取らずとも確認できた。
『闇の中に赤黒い腐液と垂衣がひっそりと残されていました。』
桃井准教授の怪談話の結びを思い出し、光顕は慄然となった。唐突な吐き気に見舞われ、何度もえずく。しかし、なかなか吐けず、不快感だけが増していった。
「これ、何なんだよ。何があった?この黒いのって、まさか」
最後まで口にできず、光顕は言葉を濁した。同時にまた、榊が獣じみた悲鳴を上げる。桃井准教授が疲れ切った嘆息をした。
まさか、そうなのか。
光顕は現状を受け入れるしかなくなった。
この赤黒いどろどろの液体が、院生たちだということを。
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