失われた夏 3 雨の水曜日
今日は、九月の最初の水曜日の午後だ。
朝から低く垂れ込めるような曇りの午後だった。午前中より、どんよりと低く垂れ込めてきた雲は、ますます黒くなっていた。
今にも降り出しそうな、雨の予感がある。
長く続く海岸線に沿っている国道を、ステーションワゴンが走っている。
ステーションワゴンの運転席に、夏木雅人が乗っていた。助手席に、阿木貴子がいる。
彼女は、ステーションワゴンに乗ってから何も話さず静かにフロントグラスから流れる景色だけを見ていた。
彼は、彼女の微妙な変化に気がついていた。
車内は、ラジオが流れている。
「九月に入っても、残暑の厳しい日が続いていましたね。今日は、お天気のせいか涼しいです。三日位は秋雨前線の影響で涼しいそうですよ。
少しづつ秋が深まっていますね。
それでは、次の曲をどうぞ……」
トランペットを中心に、軽快なミドルテンポのJAZZのスタンダードナンバーが流れてくる。
二人は、黙ったまま曲を聴いた。
曲が終わる頃に、フロントグラスに小さな雨粒が落ちてきた。
雨粒が、何滴かまた落ちた。
「雨かな……」彼が、独り言を呟いた。
彼女は、何も応えずに黙ったまま外だけを見ていた。
彼は、彼女の変化に不安な気持ちになった。
何か張り詰めた緊張感に、車内の雰囲気は重かった。
「この先に、海の見えるレストランがあるから食事をしよう。傘持ってないから、入口の付近で止めるよ」
「ええ……」
彼女は、それ以上は応えなかった。
静かな沈黙たけが、車内にあった。
彼は、彼女の変化に戸惑いを隠せなかった。しかし、車内の雰囲気を変えることも出来ないまま、彼の運転するステーションワゴンは、海の見えるレストランの駐車場に入った。
水曜日の平日の午後は、車も疎らだった。
残念ながら、入口付近の駐車スペースは、車が駐車してあった。
彼は、建物の入口に一番近い位置にステーションワゴンを駐車した。
フロントグラスは、雨粒で濡れていた。
彼は、エンジンを停止すると、彼女を見た。
「入口まで、濡れるよ」
「いいのよ。濡れたって平気よ」
二人は、ステーションワゴンから出ると、レストランの入口へ歩いて入った。
レストランに入ると、南側の窓際の席に座った。窓際といっても南側全体が硝子張りになったスペースだ。
外は、水平線から低く垂れ込めている黒く灰色の雨雲と深いブルーグレイの海が見えている。
窓ガラスには、雨粒が増えてきた。
二人は差し向かいに座り。遅い昼食を注文した。
二人は、シーフードをメインにしたイタリア料理を楽しんだ。
食事が終わるまで、二人は黙ったまま食べた。
彼は、彼女の変化に耐えられなくなってしまった。
「どうしたんだい。さっきから黙ったまま」
「気にしないで。海を静かに見ていたいだけなのよ」
彼女は、それ以上応えなかった。
菫色に見える雨は、ますます降り出している。ガラス全体に水滴が無数について流れている。海の風景は、歪んで見えた。
二人は、一言も喋らずに黙ったままコーヒーを飲み終えると、レストランを後にした。
レストランの出口のドアを開けると、雨は本格的に降っていた。
「さっきより雨が降っているね。仕方ないな。車まで、走ろうか」
「そうね」
彼女は、無表情に応えた。
「じゃあ、行くよ」
二人は、雨の中をステーションワゴンまで走った。
雨は、容赦なく二人に降り注いだ。
二人の白いTシャツは、肌に貼りつくように濡れた。
急いで、ステーションワゴンの中へ入るとドアを閉めた。
車内は、雨の香りがほんのりと漂っている。
彼は、ステーションワゴンを発進して、海の見えるレストランを後にした。
「もう少し、海が見たいわ」
「いいよ」
しばらく走ると、道路脇に駐車スペースのある場所を見つけた。
彼は、そのスペースに入り駐車した。
ステーションワゴンの屋根を叩く様に、雨音が聞こえた。
彼女は、シートベルトを外すと、ドアを開けて外に出た。
彼は、呆気にとられたような顔をして、彼女を目で追った。
外に出た彼女は、ステーションワゴンのボンネットに腰をかけて海を見た。
彼は、ドアを開けると外に出て彼女の側に回った。
彼は、立ったまま彼女を見た。
「どうしたんだい。今日は、何か変だよ。急に、黙り込んで……」
「そんな事ないわ」
彼女Tシャツは、すでに雨で張り付いて透けていた。彼女は、幾分弱くなった雨に更に濡れた。
「黙ったままじゃ、わからないよ。静かすぎるから」
「……」
彼女は、沈黙したまま静かに水平線を見ていた。
その間、雨の音と、波の音しか聞こえなかった。
彼には、沈黙が長く感じられた。
やがて、彼女は振り向くと彼を見た。
「高校の頃、貴方の事が好きだったわ。けど、言えなかった。卒業してから、もう昔の事にしてしまったの」
彼女の言葉に、彼は少し驚いた。
彼は、取り乱すことなく平静を装った。
「そんな事、急に言われても」
「なのに、今、偶然にも貴方に出逢ってしまった」
「……僕は、どうしたらいいんだ」
「ねえ、私を抱きしめてくれる」
彼女は、立ち上がると彼の前に来た。
彼は、自然に彼女を引き寄せて抱きしめた。
雨に濡れた身体から、彼女の体温が伝わって来た。
彼女の甘い香りに、彼の気持ちが切なく揺れた。
「私ね、今でも貴方の事が好きよ。
だけど、貴方と一緒になれないの。
だから、悲しいの」
「何故」
「私、付き合ってる人がいるのよ」
「誰」
「貴方の知ってる人よ」
「もう、僕とは逢わないて事かい」
「今は、私を抱きしめて……」
それから、二人は抱き合ったまま沈黙した。
その間、雨の音と、波の音しか聞こえなかった。
二人は、雨に濡れながら抱き合った。
二人は、時が止まったように感じた。
失われた夏 3 雨の水曜日