リトルパレットランデヴー

プロローグ:2006年5月23日

ヒラリヒラリと、蝶が舞う。
あれは、カラスアゲハかな。
真っ黒の画用紙から切り取られたかのようで、今度は風景を逆に一瞬一瞬、自身の形に切り取ってゆく。
時期が時期なだけに、夏本番に見られるモノに比べたら、体格はあまり良くないのが少し残念だ。

その一方、金属バットで、ボクは殴られている。
ボクの中身はもはや原形を留めていない。

大丈夫、これはものの例えだ。現実のボクは、全く以て健康そのもの。
だからこそ、こうしてスッと立っていられる。
必死にその身を風に乗せ続けようと、せわしなく羽を上下させるカラスアゲハの動きだって、しっかりと目で追うことができている。
ただ、今朝からずっと、見えない金属バットで、ひたすらに後頭部を殴られ続けているような、痛みを伴わない衝撃を感じていることは、確かな事実だ。

2006年、5月23日火曜日。
ボクにとって今のところ一世一代の日となる予定。
今朝、トイレでカレンダーを見ると、ゴシック体で大きく印刷された23という数字の横に、大安の二文字が小さく添えられていた。
結構じゃないか。
家を出る直前、情報番組の星座占いでは、水瓶座は2位だった。
結構じゃないか。
こういう類のものは、結果が良い時にしか信じないことにしているが、なんとなしにボクが見るときには、大抵が10位とかそのくらいだ。今日の”こと”を計画し始めた翌朝なんて、1位の発表と焦らされた挙句に結局は最下位で、「恋愛は慎んだ方が吉」だなんて散々な結果だった。ミス・ネーションだかなんだか知らないが、こんな占い師の世話になど一生ならないと心に誓った。

“あの子“は来てくれるだろうか。
1週間前から周到な準備をしてきた。
最近は中学生ともなると、携帯電話を持つのも至って自然なことになってきた。
今やクラスメイトも半分くらいは自分の携帯電話を所持している。
でも、ボクはそんな気の利いたものは持っていないから、三日三晩悩んだ挙句、他に方法を結局思いつかず、手紙で今日のことを”あの子”に伝えた。


黄美花へ

来週の火曜日の放課後、体育館裏に来て欲しい。
16時半に待ってる。

誠司


たった二行の手紙。名前を入れてもわずかに4行。
しかし、書き上げるのに費やした時間とメンタルは途轍もない。
最初はただのメモ帳に書いたのだが、いくらなんでも味気ないだろうと、転校していった親友に手紙を書くために購入し、余らせていた便箋を使って書いた。どんな悩みだって吸い込んでしまいそうな程に澄み渡った青色の便箋。色にうるさい”あの子”でも、これならきっと文句を言わないだろうと。けれど、今度は宛名を「みーちゃんへ」と書いていたのが気になった。最近ではこのあだ名で呼びかけることはなかったが、こうして自然と文字に起こしてしまうあたり、改めて”あの子”への想いの強さと、それに対する恥ずかしさが湧き上がってきた。そうして1枚、便箋を無駄にした。書き上げても書き上げても、不安、気掛かりに襲われて、ボクは一夜にして1枚のメモ帳と、合計6枚の便箋をくしゃくしゃに丸めた。
書き上げた手紙を、今や便箋より数が多くなってしまった専用の封筒に入れ糊で封をし、通学用のカバンに入れた頃には、ベッドに体を預けて休む時間なんて、ほとんど残っていなかった。
青黒いクマをこしらえたボクに、母さんは試験前でもないのに一体どうしたのと、怪訝に尋ねてきた。
長期で出ていた宿題をやるのを、すっかり忘れて一夜漬けでやっていたのだと説明すると、あなたにしては珍しいわねと、怪訝な顔を崩さなかった。まあ、小学校以来、勉強嫌いの妹と違って一度も宿題提出を怠ったことのないボクにしてみれば、不自然な説明ではあったけれど、ボクも人間である以上、決して筋の合わない話ではないし、納得したようでそれ以上は聞かれなかった。
眠たい目を擦りながら、いつもより重たく感じるカバンを右手にぶら提げ、ボクは家を出た。
先週の水曜日のことだ。
歩いて5分、いつも国会議員のポスターと、それとは不釣合いな花屋の洒落た広告が貼られた電柱が目印の、いつもの曲がり角で、いつもの時間に、いつも通り”あの子”と合流する。

「おはよう。」

いつも通り、女の子らしいソプラノの、柔らかい声がボクに向けられる。
同時に、艶やかな黒い絹が、風に揺れる。
頭の回転数が酷く落ちていたからワンテンポ遅れて、おはようとボクも応える。
ひどいクマだねと、”あの子”が言う。そうなんだ、ちょっとねと、母さんにした説明と同じ説明をする。
セイちゃんでもそんなことあるんだねと、母さんと似たり寄ったりの言葉を、口角を上げて笑いながら返してくる。
ボクだって人間だし。
その言葉で、余計に鼻を鳴らしてフフッと、”あの子”は笑う。

回転数は落ちていたが、必死でボクは脳内の神経を接続してゆく。
いつも通りを装うために。
ここまでは順調。
しかし、こういう時、必ずボクはミスをしてしまう。
合流した曲がり角を少し行くと、交差点がある。大抵は青になっているのだが、この日はちょうど青が点滅していて、渡れそうになかったため、ボクらは歩みを止めた。
重たい右手をなんとかしなければと、ボクは徐にカバンを開け、今日につながる件の手紙を取り出した。
どうしたのと、”あの子”が首を右に傾げる。それに並行して、後ろで一つに結われた髪が揺れる。

「これ、来週の火曜日までに読んどって。」

左手に手にした空色を、ボクは”あの子”に差し出す。
差し出してから気付いた。
向こう一週間、どうやってボクは”あの子”と向き合えばいいんだと。
えっ、という声が、”あの子”から小さく溢れる。
そりゃあ仕方がない。ボクだって、逆の立場なら、きっとそうだろう。
幼馴染というには、その付き合いは少し足りないかもしれない。
けれど、10年ちょっとの人生にしては、『友達』として十分に付き合ってきた。
そんな相手から、半径2cm程度の指先の運動だけで、あっという間気楽に送れるeメールと比べ、途轍もない労力を必要とされる手書きの手紙なんてもらったなら、その驚きの大きさは、推測するに容易い。
やってしまったと、勉強以外に取り柄のない、自分の愚かさ、馬鹿さ加減に、寝不足も相まって目眩がしそうだった。

「分かった。じゃあ、来週の月曜日の夜に、読んどくね。」

流石は、そういうところは男子に比べて圧倒的に成長が早いという、この子も女子なる生き物なのだなと、ボクは実感させられた。
”あの子”の気遣いのおかげで、実際にはそれ以前に読んでいた可能性は考えられたけど、そこまでぎこちなくなることなく、1週間をボクらはいつもどおりに過ごした。
いつもの曲がり角、いつもの時間に、いつも通り”あの子”と合流する。
学校では他愛のないやり取りをし、日が暮れかかった帰り道は”あの子”の自宅である花屋まで送っり届けて、帰宅する。
いつも通り、繰り返していった。

腕時計に目をやる。真っ青な文字盤に、眩しいばかりに黄色い長針と短針が、それぞれぴったり6と、4と5の中間を指していた。もう約束の時間じゃないかと、ボクは気を弱らせる。利き手の逆、左手首に巻いたそれは、2週間ほど前、子どもの日のお祝いにとおじいちゃんに買ってもらった、ボクが大好きなバイクレーサーをモチーフにした、限定モデルだ。その選手のゼッケン番号に合わせて、世界に4600本しかない特別なもの。半年前からボクは予約していたのだが、今手に入れようとすると、ネットオークションでは買値のウン倍もの値段で取引されている。

時々、ボクは思う。自分が、”特別”な存在になれないかと。
他の誰にもない、特別な価値が、僕に眠っていやしないだろうかと。
勉強は出来る方だけど、決して毎回1位を取れるわけじゃない。
通知表もオール5ではあるけれど、美術と体育に関しては、内容はともかく真面目にやってるボクに、推薦を見越して先生たちがお情けでつけてくれているに過ぎない。
習い事もそれなりにしてきたけど、モノになったものは無いし、結局、ボクに誇れるものなんて、あるようで全くない。せいぜい、漢字や英単語を2、3回見れば完全に暗記してしまえることぐらい。
今日のことは、ひょっとすると、ボクのそういう卑屈で、みみっちい自己嫌悪を埋め合わせるタメでもあるのじゃないかと、これまで自問自答してきた。結局、答えは出なかったけれど。

頭を上げると、一列横隊で規則正しく整列したクスノキの枝葉と体育館の屋根が、空を上下から挟んで大きく覆っており、まるで細流が空を流れているようだった。
相変わらず、ボクの頭には鈍い衝撃が断続的に走り続けている。
けれど、その細流から溢れた青が、束の間の安らぎをボクに与えてくれた。
青。
ボクの名前にも入っているけれど、そんなことを抜きにしても好きな色。

塗り直されたばかりの体育館のまっさらな白い壁に背をあずけ、瞼をゆっくりと下ろし、この世界を遮る。
聞こえるのは、風に揺れ、互いにこすれあうクスノキの葉音だけ。
1週間前ほどではないけれど、今日も寝不足。
このまま、風景と一緒に、ボクは体育館の壁の白に、すうっと溶け込んでしまうような感覚に心を委ねた。
でも、そんな心の安寧も、一瞬で破られた。

パキッ、パキッ、パキパキッ。

無機質で、乾いた、木の枝が踏み折られる音がこちらに近づいてくる。その音はどんどん大きくなり、ボクの目の前でぴたりと止む。代わって、はあ、はあ、と、乱れた呼吸音がボクの耳に入ってくる。

「本当、ごめんね。面談、長引いちゃって。おばさんが、あれこれ、先生と話し込んじゃうものだから・・・」

ゆっくりと、ボクと世界を閉ざしていた緞帳を上げてゆく。ボクの目に光が差し込んでいくとともに、蝶々結びにされた白いリボンがまず視界に、次に真白な細い首、開け放たれた血色の良い薄ピンクの唇、そして長い睫毛を備えた円な瞳が、こちらを見ているのが捉えれらる。

「ごめんね、ほんっとーに、ごめん。」

両方の眉毛がハの字に下がり、いかにも申し訳ないという表情。それが伝えてくる必死さは、どこか生まれたばかりの、母親の世話を求める子犬にも似たものがある。

「大丈夫。ぼ、いや、俺も今、来たところやけん。気候が良かったから、ちょっとウトウトしそうになってた。黄美花も、なんか急かしてしまってごめん。」

気遣いの応酬の謝り問答。そして、慣れない一人称単数表現。違う、早く言わなければと、気持ちが焦る。もちろん、このタイプの焦りは良くないと分かっているのだが、どうにも自分で自分の小心を突っついてしまう。けれど、その焦りも一瞬で杞憂に変わる。

「そう?それやったいいんやけど・・・。で、早速なんやけど、話って何(なん)?」

いきなりのストレートパンチ。寸手のところでボクは躱(かわ)す。
こういうところも、”女子”特有の性質なのだろうかと、おかげでボクは妙に冷静さを取り戻す。
応えてボクも口を開く。

「黄美花、俺、お前のことが好きだ。」

「えっ。」

刹那、気まずさという絵の具で塗り込められた空間が、時間が、ボクたちを嵐のごとく静かに取り巻いてゆく。
ボクの感じる脳内の衝撃が、ギアを上げ、そのテンポを一気に加速させる。
またやってしまったと、ボクは加速の度合いを増してゆく痛みのない衝撃と、同じ過ちを繰り返す自分の馬鹿さ加減と恥ずかしさのせいで、ほとんどその場で倒れてしまいそうなくらいの眩暈に襲われた。いくらストレートに本題に入ってくれと言われたところで、本当にそのまま、会って15秒ほどで言う事ではないだろうと、激しい自分への罵倒が脳内を飛び交う。
しかし、両手は固く拳を作ったまま、見開かれた目から視線を外せないでいる。
昔、似たようなことがあったなと、無意識に記憶が再生される。あれは幼稚園の演劇発表のことだった。近所のホールを借りて、園児たちの家族を観衆に迎えて、桃太郎をやったのだった。ボクはイヌの役で出演を果たし、度重なるリハーサルも上手くやっていた。しかし本番、檜の舞台に歩みを進め、スポットライトを浴び、千人にも一万人にも見えた観衆を視界に入れた瞬間、全く動けず、喋れなくなってしまった。泣くことすらできず、ただ呆然と立ち尽くす。あの時は担任の先生が助けてくれたが、今はそれもとても望めない。

未来永劫にも近い時間が、わずか数秒の中に圧縮されたかのようだった。
永い永い、いや、実際にはごく数秒なのだけれど、時の牢獄に一人放り込まれたボクを解放する呪文を唱えるかのごとく、”あの子”の口が動いた。

「嬉しい。ありがとう。嬉しい。セイちゃん、本気なんだよね?」

「うん。」

「ありがとう。嬉しい。」

「えっ、じゃあ。えっ。その、あの。」

うまく言葉が繋げない。発声も上擦ってしまう。いろんな感情に彩られた濁流が心をうねる。
これも嬉しいってことなんだろうか。無意味な問を自分に投げかける。
ボクはガッツポーズを作り、ほとんど叫び出しそうな、声にならない声が、喉の奥から次々と溢れてゆく。
次にボクらが声なる声を発したとき、それはほとんど同時だった。

「ありがとう、みーちゃん!」「あのね、セイちゃん。」

えっ、とボクは一度言葉の奔流を止める。

「嬉しい。けれどね、ごめんね。」

”あの子”の言葉とともに、一気に体が冷えてゆくのが感じられた。

「私ね、『好き』って言葉を、奪われちゃったんだ。」

ボクから視線を外し、地面に落ちたばかりらしい、まだ青々とした緑の葉を見つめながら、黄美花はそう呟くように言った。
その時ボクは、彼女の、黄美花の瞳の奥に、どんな絵の具を用意してもパレットの上では表現できない、陰鬱で鈍い悲愴の色を、確かに認めた。

「それでも、セイちゃんは、私を好きでいてくれる?」

リトルパレットランデヴー

リトルパレットランデヴー

「好き」という言葉を発せなくなってしまった少女、黄美花。 親の敷いたレールをゆくことに疑問を抱く少年、誠司。 ふたりは精一杯に恋をして、泣いて、笑って、成長してゆく。 そして、ふたりを取り巻く大人たちも。 今の時代よりも、ほんのちょっと昔が舞台の青春物語です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-12

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