桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君3
続きです。主人公が再登場
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寒中怪談大会を中座して、光顕は早足で桃井准教授と暮らす家へと向かった。桃井准教授は親から受け継いだという平屋建ての一軒家に一人で住んでいたので、転がり込むことに抵抗はなかった。家事をするなら家賃もいらないというので、ありがたく住まわせてもらっている。仏間には桃井准教授の両親、つまり光顕の祖父母にあたる人達の遺影があったが、面識のなかった光顕には今ひとつぴんとこなかった。
嫌な話を聞いてしまった。気持ちの悪い寒さに襲われながら歩いていると、民家と民家の間に煉瓦造りの建造物が見えた。琵琶湖疎水の分線にあり、水路閣という。明治時代、琵琶湖から京都まで水を引くために作られた水路で、現在でも使われていると聞いたことがある。ふと興味が疎水に移った光顕は上ってみることにした。両側をコンクリートで固められた水路の中を水がゆっくりと流れていく。水面に揺れる月明かりが、水の飛沫に映ってきらきらと跳ねる様子が綺麗だった。光顕はそのまま水の道に沿って歩き始めた。南禅寺の奥のほうに続いているので方向的には家へ向かっている。そう遠回りにはならないはずだった。
暫く歩くと、水路は山に近づき、枯れた木々と民家の境を通り始める。この辺りは、こんもりとした木々と寺がセットになってそこここに点在していた。身体を動かしたからか寒さもそれほど感じなくなってきた。
山を抜けたところで、眼下に一際大きな門が見える。
あれが山門か
別名、天下竜門の名前を持つその門は、全国的にも有名な名所の一つらしいが、忙しさにかまけていた光顕は今日まで目にしたことがなかった。
山門があるということは、ここはすでに南禅寺の敷地内らしい。そろそろ本格的に家路につかなければと思い、光顕は水路から降りて坂を下った。家に帰るには山門の脇を抜けて南禅寺の領域を出なければならない。近くまでいくと、高さ二十二メートルの建造物は意匠のせいか、それ以上の威圧感があった。あの屋根の上で、石川五右衛門が桜を見下ろし、絶景かな絶景かなと言う歌舞伎の演目があるらしいが、なるほど確かに絵になるな、と山門の屋根を見上げていた。
すると、不意に屋根の真ん中あたりで何か影が動いた。
鳥か?いや、鳥にしては大きすぎる。人間?まさかね。
そう思って瞬きをした瞬間、左の足首辺りに激痛が走った。
「痛ってえ!」
思わず叫んで、目を遣るとポメラニアンほどの小型犬が光顕の足首に噛みついていた。甘噛みなどという可愛らしいものではなかった。ぐるぐると喉の奥で威嚇の唸りをあげて、牙を突き立てている。
「痛ってぇっ。マジ痛い!離せってば」
光顕は咄嗟に足を振り、腕で追い払おうとするが、犬はすさまじい執念で噛みついたまま離さない。暫く騒いでいると、上から声が降ってきた。
「こらこら、阿狛、何を騒いでいるんだい」
見上げると、先ほどの屋根の影が、大きく張り出した縁のところまで移動していた。月明かりがようやく影の姿を捉える。子供?耳も目も疑わざるを得なかった。十二、三歳といったところだろうか。葵祭で目にしたような、やたらずるずるした古めかしい衣装を着込み、髪の毛を長く伸ばして頭の真ん中で分け、両脇に垂れ下げていた。
コスプレ?
お寺であの格好ということは関係者なのか。とすると、もしや不審者だと思われたか。そういえば拝観料も払っていない。不法侵入の不安感に苛まれつつ、いや、違うだろ。あんなところになぜ、と、一瞬のうちに頭の中で問答が繰り返された。
「おお、これは驚いた。どうやって入ってこられたのだろうね。こんな場所に」
少年は物珍しげに屋根の縁から身を乗り出す。絶妙なバランスを保ってはいるが今にも落っこちそうだ。
思わず、
「馬鹿っ、危ないだろ。早く降りろ」
叫んでから、はっとなって言い直した。
「いや、急ぐな。ゆっくりでいい。ゆっくり落ち着いて降りてこい。降りられるか?」
大阪では阪神タイガースが優勝すると囲いを乗り越えてでも道頓堀にダイブしたがる人間が続出するらしい。京都の人間はテンションが上がるとそこいらに数多ある歴史的建造物に登る文化でもあるのだろうか。何にせよ危ないことこの上ない。
「降りられるかと聞かれれば是であるが。しかし、あれだ、急げと言ったり、ゆるりと言ったり、よくわからない物言いをするお方であるのう」
少年は縁に腰掛けて足を宙に放り出し、おっとりと扇のようなもので口元を覆った。
誰のために言っていると思っているのか。
光顕はむっとしたが、文句を言おうと口を開くと、その口からは意志とは異なる呻き声が洩れた。足に噛みついたままの犬が更に牙を深く突き立ててきたからだ。主人を守っているつもりなのだろうか。
「気を付けて、出来るだけ早く階段を使って降りてきてください」
光顕は、痛みを堪えて再度少年に呼びかけた。
6
主人の命が下るまではどうあっても光顕を放す気のないらしい犬が、ぐるるとまた小さく唸った。小型の犬は全体的に黄金色の巻き毛に覆われた長毛種らしく、額の辺りに二箇所、丸く焦げ茶色の部分があった。それが平安時代の貴族の眉毛のようで、横に大きく開いた獅子鼻にもどことなく愛嬌がある。大きさはポメラニアンくらいだが、見知った犬種ではなかった。雑種なのだろう。
繁々と自分の足に噛みつく犬を眺めていると、
「これ、阿狛(あこま)、人を噛んではいけないと何度も教えたであろう」
ふわりと姿を現したのはやはり十二、三歳ほどの少年だった。いつの間に、音もなくどうやって降りてきたのか、まさにふわりと現れた。
「あのね、犬の散歩中にリード放すのはマナー違反だろ。ちゃんと括っとけよ」
「リード?マナー?括る?おかしなことを話される」
少年が心底不思議そうに聞いてくるので光顕は頭を抱えたくなった。自分自身ゆとり世代と言われ、年配者から呆れられることの多い光顕だが、これがジェネレーションギャップというものなのだろうか。話が通じる気がしない。しかもやたらひねた言葉遣いだ。
「君ね、こんな時間まで遊んでたら親が心配するだろ。早く家に帰れよ。あと、さっさと、この犬を俺から引き離せ。いつまで噛んでんだよお前」
最後のほうは犬に向かって毒つく。光顕の悪態が分かったように犬は犬歯を突き立てたまま左右に首を振って、唸り声を上げた。
「犬?この子は犬ではない。阿狛(あこま)である」
少年は少年で、またきょとんとした顔をして見当違いなことを言ってくる。犬はペットではなく家族の一員だというやつだろうか。
名前があっても犬は犬。法的には器物だ、バカたれっ
怒鳴りたいところをぐっと耐える。ここでかっとなっては子供相手に大人気ない。何より下手に騒いで関係者が来たらややこしいことになってしまう。
「そうだね、犬じゃないね、アコマだね。で、そのアコマを引き離してくれないかな。お兄さん、今、アコマに噛まれてるよね。かなり痛いんだよね。頼むよ。別に訴えたり、保険所に連絡したりしないからさ」
自分でも気味が悪いほどの猫撫で声で話しかけると、少年はおっとりと、犬に話しかけた。
「どうしようねえ、阿狛。放すかい?」
犬は嫌々するようにまた左右に頭を振る。これが案外痛い。
「嫌じゃねえよ。放せよさっさと!お前も飼い主なら何とかしろよっ」
さすがに声を荒げた光顕だったが、それでも少年は光顕の苛立ちを意に介す様子もなく、また例の扇のようなもので優雅に口元を覆った。
「私は阿狛の飼い主ではない。友達」
「ああ、うん、そうねえ、お友達だねえっ。だから。そのお友達をさっさとなんとかしろっつってんだよっ」
「何とかとは?」
「噛んでんだろっ、見えるよな。見えてるよな。かぶっといかれてんじゃん、俺の足。俺の足から、お前のお友達を引き離せ。わかったかよ」
少年はむむむ、と何やら難しげに眉を顰めた。
「何だそれ。何か悩むとこでもあるのか。俺、現在進行形で噛まれてんだけどっ」
「にぎやかなヤツだ。そうまで言うなら、離すように私から頼んでもよいが・・・」
そこで言葉を切った少年は、念を押すようにずいっと光顕に顔を近づけた。ふわりと微かな甘い香りが光顕の鼻腔をくすぐる。さっき研究棟の近くで咲いていた桃の匂いだった。
最近、ピーチフレグランスでも流行っているのか。
まじまじと近づいてきた少年を見つめる。少年はすっと目を細めて、光顕を正面から見遣った。
そういう表情を浮かべると、あどけなくさえ見えていた少年が急に、腹の底が冷えるような酷薄な印象に変わる。睥睨した、という言葉がしっくりくる。
「やはり、もうしばらく噛まれていたほうがよいようだが」
「……はあ?」
少年の表情に気圧されながらも、思わず気の抜けた声を上げた光顕は頭を抱えた。
「阿狛が放したが最後、死ぬかもしれぬ」
どんな脅し文句なんだそれは。
「まあ、そうならぬよう頑張ってはみるがの」
少年は難しい顔をしながら独り言のようにそう続ける。もうこれ以上付き合っていられない。
「じゃあ、俺が死なないように気合い入れて頑張ってくれ。そんで、さっさと犬を連れて帰れ」
「犬ではない、この者は阿狛といって……」
「わかった!わかったから、さっさと頼む。痛いんだってば」
みなまで言わせず、光顕は強引に少年を黙り込ませた。少年は、膝をつくと、未だに頑固に光顕の足に噛みついているポメラニアン系の雑種に話しかけた。
「と、いうわけだから、離しておやり。まったく、人間とは誰も彼も恩知らずよのう」
少年がそう言うと、犬はまだ抗議するように、くうと鳴いたが、ゆっくりと足から口を離した。足の筋肉から牙が抜けていく感覚にぞっとしながら、光顕は傷口を確かめる。飼い犬なので感染症の心配は少ないかもしれないが、一応外科を受診しておいたほうがいいだろう。傷口はよれたり逸れたりして挫滅することなく丸い穴が二つぽっかり深く空いていた。何の躊躇いもなく本気噛みをした証拠だった。しかし、本来なら、かなりの流血沙汰になっているはずの傷口であるにもかかわらず、全く血が出ていない。
手で触り、目で確認してもやはり、そこには穴が開いているだけで、血が出てくる気配がなかった。
不思議に思っていると、急に背後の山がざわりと鳴いた。驚いてそちらに目を向けると、夜の闇のなかで、なお濃い山の影がうねうねと生き物のように蠢いてみえる。気味が悪かった。風で揺れているのではない。山全体が明らかに何らかの意思を持った不自然な動きをしている。
「何だ、これ」
思わず呟いた。少年は光顕には目もくれず、蠢く山を見つめていた。
「阿狛、どうだい。こっちに来そうかの?」
阿狛はまた、くう、と悲しげに鼻を鳴らした。
山は自然の法則に抗った奇妙な動きを強め、巨大な生き物が激しくのたうっているかのようだった。
「何だ。何が始まるってんだ?」
「そなた。少し黙っておれ。山の声を聞きのがすではないか」
少年は山ではなくじっと北東の空を凝視していた。
「阿狛、向こうはどうだい。まだ眠っているか」
阿狛は、山の方を見つめ、大きく一つ遠吠えをした。体格にそぐわない太い鳴き声だった。吠えた後、阿狛は山の方を向いて、ふがふがと大きな鼻を鳴らし、何かの気配を感じ取ろうとしていた。
「勘弁してくれよ。俺、こういうの苦手なんだよ」
「得て不得手の問題ではない。黙って噛まれておればいいものを。無駄に騒いだのはそなたであろう」
少年が呆れたように嘆息したその時、足元の阿狛が北東の空に向かって、高い声で鳴いた。少年はすっと目を細めて、小さく呟く。よく聞き取れなかったが、何かの呪文のようで光顕には意味のわからない言葉の羅列に思えた。不意に、ぴたりと山の鳴動が収まる。一瞬の静寂の後、北東の空から凄まじい轟音と突風が山門を襲った。吹き飛ばされた瓦が宙を舞い、下にいる光顕達の頭上に降り注ぐ。
光顕はとっさに、犬と少年の首根っこを掴んで、山門の一層部分に転がり込んだ。
「これ、何をする」
少年はこの日初めて少し慌てた様子で声を上げた。
「あんなとこにいたら危ないだろうが。怪我するぞ」
「私があそこにいないと意味がないのだよ。何のためにわざわざここまで出向いたと」
言い合う間にも、突風が山門を襲う。山門の一階部分には壁がない。太い柱以外に危険物を避ける遮蔽物は何もないはずだった。しかし、突風はなぜか岩に分かたれた激流のように山門の中を避けて両脇に流れている。
何がどうなっているのか。呆然とする光顕を尻目に、早くも落ち着きを取り戻した少年が傍らの相棒に声をかけた。
「これはいかん。阿狛、向こうの様子はわかるかい」
尋ねられた阿狛は、聞き耳をたてるように、巻き毛に覆われた黄金色の頭を垂れた。まるで人間のような仕草だった。風があたりの瓦や木片を飲み込んで、轟々と流れている。濃い闇色の風が、激流となって京都の町に襲い掛かっているようだった。
竜巻か。
目の前の現実を上手く飲み込めないまま、へたり込んでいると、あろうことか少年が、山門から暴風渦巻く外へと出ようとしていた。
「ちょっと待て。お前正気か」
「至極正気」
「だったら、止めとけよ。怪我するだろ。竜巻がどっか行ったら家まで送ってやるから今は大人しくしとけ、な」
言い聞かせながら、光顕は少年が裸足であることに気が付いた。つるりとした綺麗な足だった。さっきのどさくさで靴が脱げてしまったのか。光顕は仕方なく自分の履いていた靴を脱いで、少年に手渡した。
「とりあえず今はこれ履いて座れ」
「これを履けと」
「臭わねえよ。おろしたてのコンバースだぞ。すっげえ新しいヤツだから心して履け。やるんじゃないぞ。貸すだけだからな」
少年にはいささか大きすぎるが仕方がない。この風だ。もはや彼の靴を探し出すのは無理だろう。
少年は物珍しそうに受け取った靴を繁々と眺めた後、ヒョイとその靴に足を突っ込んだ。やはり大きすぎたらしく、歩くと踵が浮いている。
「ほう、これも、そなたも変わっておるのう」
気に入ったのか、少年はゆったりとほほ笑んで見せた。
「はあ、お前に言われたかねえよ」
言い合っていると、風の壁に向かって、阿狛がけたたましく吠え始めた。
少年は急に表情を引き締めた。風に向かってゆっくりと扇をかざす。そして光顕の方を振り返った。
「そなた、なかなか面白き者。名前をお聞かせ願いたい。私は鹿(しし)王(おう)という。鹿の王と書いて鹿王だ」
鹿の王。変わった名前だった。今流行りのキラキラネームというやつか。光顕は自分に普通の名前をくれた両親に心から感謝した。
「これ、私は名乗ったのだから今度はそちらの番」
「ああ、はいはい。俺は田中光顕、この近所の大学生だ」
「田中光顕。しかと覚えた」
「そりゃどうも」
「では田中殿、お達者で」
そう言い置いて、鹿王は犬とともに狂気渦巻く暴風の中にするりと身を投げ出した。
桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君3