夏休み
第一話 引っ越し
八月上旬、高速道路を一台のバスが駆け抜けた。型が古いせいか足回りはひょこひょこして落ち着かず、おまけにエンジンも走ることしか能がないようで、大量の黒煙を排出している。後続車両は迷惑極まりない様子で、バスを避けるようにして走っていた。
内部も決して快適とは言えず、クーラーの効きが悪いのか、数名しかいない乗客は団扇を仰いで暑さをしのいでいた。まさかバスの中で世話になるとは思いもしなかったようで、乗客の顔に笑みはない。中央部の席に座っている遠野(とおの) 恭一郎(きょういちろう)も例外ではなかった。
凛とした顔立ちで、何者にも染められていない黒髪はちょうど良い長さにまとめられており、それはあたかも彼の性格を表わしているかのようだった。額から滲み出る汗をふき取り、バスのバックポケットに収まっていた観光雑誌を読むこともなく読んでいる。彼は終着点であるとある町へと向かっていた。
――――――きっかけは今から三日前、恭一郎が大学の寮にいたときのことだった。この日もいつも通り帰宅した彼は、自宅の電話に一通の留守番電話が入っているのを確認した。何時もなら来ないはずのそれに疑問を示し、再生する。
「恭一郎、元気にしていますか? ちょっと話があるので、折り返し電話ください」
それは恭一郎の母親からのものだった。何かあったのか。彼は急に心配になり、電話をかける。それはワンコールでつながったが、彼の予想に反して、母親の声は明るかった。
「恭一郎! 久しぶり。元気だった?」
「母さん、どうしたの、急に」
久方振りの母親との会話。恭一郎は安心したような感情を覚え、床に座り込んだ。それに気付いたかのように、母親のテンションは上がっていく。
「いや実はね、父さんがあんたのいるところに引っ越したいっていうのさ」
「引っ越し?」
「うん。父さん今年で定年退職したでしょ? 退職金はたいて、いっそのこと都会に住もう、何て言いだして」
恭一郎は嬉しそうに話す母の言葉に耳を傾けていた。笑ってもいるが、なぜかひきつっている。
「そんなに急に引っ越すとか言われても……。住むところは決めたの?」
「最近できたマンションがあるでしょう? あそこに決めたの!」
「話題の低家賃で借りられるところ?」
「そう!」
恭一郎のいる学生寮の近くは、近年建設ラッシュが続いており、彼の両親が借りるマンションもその一つだという。恭一郎が納得するかのように首を縦に振ると、間髪入れずに母がマシンガンの弾幕のごとく喋りだす。
「あんたが住んでいる近辺は街灯が多くて、治安もいいって聞くよ。ショッピングセンターとか美術館とか、楽しむのにも事欠かないねえ!」
「ああ。狸に畑を荒らされたり、地元のチンピラどもの騒ぎ声を聞く心配もないしね」
恭一郎が笑って母の話についていこうとする。彼女は昔からこれだった。良くも悪くもマイペースなのだ。話の進み具合についていけていないのを分かっていない。
「それで父さんが、あんたに引っ越しを手伝ってほしいって、お願いしてきたの」
「引っ越しねえ」
「8月の中ごろにはマンションに住むって決めたから、荷造りはその三日前くらいにしたいの。あんた、大学で遊んでばっかりいるんでしょ? どうせだったら少しは親の役に立ちなさいよ」
母は饒舌に話していたようだったが、恭一郎は何かおかしいことに気付き、慌てて母のマシンガントークを止めに入った。
「母さん、まさか俺が手伝う前提で話してる?」
「当たり前でしょ。だったらどうして電話するのさ」
思っていたことが当たったようで、彼の表情は途端に暗くなった。母はどうやら、大学生は社会人になるまでの羽を伸ばす期間だと思っているらしい。しかし、彼の通っている大学は事情が違った。
彼は医療系の大学に進学したのだ。まだ一年生とはいっても専門的な科目を取らなければならず、彼はそれの対応に苦慮していた。ほかにも度重なる課題、夏季休業が明けた後に待ち構える後期始めのテスト、一日4時間を切る睡眠時間と、悩みの種は尽きない。
「母さん、俺だって忙しいんだ。これから試験もあるんだし……」
「何、家族の絆よりも試験の方が大事だってかい」
「そんなわけじゃ……」
「じゃあ決まり! バスの予約、しておきなさいよ」
「予約しなくても乗れるけどね。ばいばい」
恭一郎は嫌味を残して電話を切った。そして、ため息をついて一瞬考えた。親にこう入ったものの、つかの間の休息として実家に帰るのも悪くない。たまには気分転換も必要だった。しかし、単位がかかっているテストの勉強もしなくては……。彼は葛藤していた。そうしているうちに、今度は彼のスマートフォンに着信が入る。今度はだれだろう。彼は気だるげにスマートフォンを取る。
「もしもし」
「あ、あの、恭一郎先輩ですか?」
その声を聞いた時、眠りかけていた恭一郎が覚醒した。スマートフォンを握る力が強くなるのを感じる。
「……瀬奈々か?」
「はい、お久しぶりです! 春野町立春野高等学校吹奏楽部の、愛川(あいかわ) 瀬奈々(せなな)です!」
愛川 瀬奈々はかつての恭一郎の後輩だ。恭一郎とパートが同じで、よく指導や声掛けをしていた。それもあってか、二人はとても仲が良かった。彼は笑顔になって会話を続ける。
「いきなりどうした」
「先輩、八月の八日って空いていますか?」
その日は両親に引っ越しの手伝いをしてほしいと頼まれた日とかぶっていた。
「何かあるのか」
「はい。四半期に一度行っている、定期演奏会を見に来てほしいんですが……」
「ああ、そんなのあったな」
春野高等学校の吹奏楽部は全国大会の常連で、遠野が在学していた時には金賞を3年連続で受賞するほどだった。この定期演奏会は町中の人が見に来るほどの大盛況で、特に夏に行われるものは大会の直前に行われるのでひときわクオリティーが高い。
「実は、定期演奏会の直前に実家に帰るんだ」
「そうなんですか。じゃあ、そのついでにでもいいですので、来てください!」
「ああ、何とか時間を作っていくよ」
「ありがとうございます! お待ちしています」
「ああ、じゃあな」
恭一郎は電話を切る。これで彼の心は決まった。
「仕方ない、引っ越し手伝うか……」
そうと決まれば彼は荷造りを始めた。その中に、彼が全国大会でもらったメダルを忍ばせた。その中には、彼と愛川との思い出が詰まっていた。
第二話 瀬奈々
春野町についたのは正午を少し過ぎた頃だった。昼間なのに歩いている人はほとんどおらず、バスターミナル内では有線放送から流れる歌謡曲が悲しげに響いている。恭一郎はバス内で飲んだコーヒーの缶を捨てた後、まっすぐに実家へと向かった。
実家に着くと、既に引越しの準備が始まっているようで、近所の人たちが何人か手伝いに来ていた。
「おお、恭一郎じゃねえか」
「お久しぶりです」
「都会はどうだ? 楽しいか?」
「案外住みづらいですよ。僕はお勧めしません」
還暦を過ぎたと思われる隣の人と取り留めのない話をした後、彼は玄関へとたどり着いた。奥でせわしなく動いている両親の姿を確認した後、彼は靴を脱いでリビングへと入る。
「二人とも、ただいま」
その声を聞いた両親は作業の手を止め、久々に里帰りした息子との再会を喜んだ。
「恭一郎、元気だったか?」
父親の晴彦が恭一郎の肩を叩く。恭一郎はすっかり老けた父を見て感慨深い気持ちとなった。
「退職金で都会に移り住むって、母さんから聞いたよ」
「ああ。そんなにでないものだと思っていたが、思ったより出てな。それで決めたんだよ。みんな、ちょっと休もうか」
二人は一息つきながら麦茶を飲む。バスの中では缶コーヒー1本しか飲んでいなかった恭一郎の喉に冷たさがしみる。周りで手伝っていた大人たちも休憩しており、思い思いのことをやっている。喫煙するものもいれば、無心になって座っているものもいた。
「学校はどうだ」
「ついていくのも大変だよ。楽しいけどね」
「それならよかった」
晴彦は幾分安堵しているようだった。楽しいと思えるのなら、それでいい。息子の希望通りに出来ているのだから……。そこに、母の清子がやってくる。
「あんたなら来てくれると思ったよ」
「俺が今まで父さんと母さんの頼みを断ったことがある?」
恭一郎が茶化すように笑みを浮かべる。彼は文句を言いながらも、両親との約束は破ったことがなかった。
「母さん、引っ越しの準備がひと段落したら、春野高校に行ってくるよ」
「ああ、定期演奏会ね。良いよ、行ってらっしゃい」
「ありがとう」
両親も恭一郎のことを信頼しているようで、彼の望みであればよほどのことがない限り反対していなかった。恭一郎はモチベーションが上がったようで、コップに入っている麦茶を飲み干すと、すぐに作業に取り掛かった。
「疲れているだろうから、もう少し休んだら?」
「バスの中で寝てきたから大丈夫だよ。この新聞紙はどこに捨てればいい?」
彼は早速山積みになった新聞紙を抱える。
「あんたは本当に頑張り屋さんなんだから……。家を出た向かいに、ゴミ捨て場があるでしょう。そこに置いておいて」
恭一郎が新聞紙を抱えて外に出る。30度を超える気温にへたばりそうになりながらも、彼は自分の出来ることをした。家に帰ろうとすると、学ランを着た三人の男子高校生が楽しそうにしゃべりながら帰宅しているのが見えた。春野高校の学生だ。彼は懐かしそうにその集団を見ていたが、どこかおかしい。彼が高校に在籍していた時と、何かが違っていた。
彼らは頭髪を茶色や赤色に染め、耳に複数のピアスをしている。ズボンのポケットには煙草の箱が差し込まれており、不良であることは明らかだった。
「……え?」
恭一郎は我が目を疑った。彼が在籍していたころは規律が厳しく、現在のようにちゃらちゃらしたことはできなかったのだ。もっとも、学力は低いのだが……。彼は急いで家に戻り、両親に現在の春野高校のことを聞くことにした。
「遅かったじゃないの」
「ねえ母さん、今の春野高校、なんか変じゃない?」
恭一郎がそう問うと、両親は表情を曇らせた。
「あんたも気付いたかい。この町の高校生はすっかり変わってしまったんだよ」
「どういうこと?」
「今年入ってきた1年生がとびきりやんちゃな子たちでさ、先生方も手に負えなくなっちゃったの」
「そのせいで今まで規則で縛られていた奴らが一気にちゃらちゃらするようになって、ここら近辺の治安はめちゃくちゃだ」
父が口惜しそうに言葉を絞り出す。恭一郎は言葉を失っていたが、直後に気がかりなことを口に出した。
「そうだ、瀬奈々は?」
「瀬奈々?」
「ん、ああ、愛川さんちの一人娘か」
そこで先程恭一郎と立ち話をした男が割って入ってくる。彼は手拭いで汗を拭きながら恭一郎と向かい合った。何やら深刻な表情をしており、恭一郎の緊張は自然と高まってくる。
「瀬奈々のこと、知っていますか?」
「なんでもひどい目にあっているらしいな。俗にいうイジメってやつか」
「イジメ!?」
恭一郎の表情が凍りつくのが分かり、両親は心配そうなまなざしを向ける。
「この前も、泣きながら帰ってくる瀬奈々ちゃんの姿を見たよ。痛々しくて、直視できなかったね」
「……そんな」
そう言った恭一郎は突然立ち上がり、靴を履いて外へ飛び出していった。
「恭一郎、どこ行くの!」
「決まっているだろ? 瀬奈々の家だよ!」
彼は脇目も振らずに走り出した。瀬奈々がイジメにあっている。その事実を知らなかった自分が悔やまれる。瀬奈々の家は恭一郎の家からほど近く、走って5分もあれば到着した。焦った様子でインターフォンを押す。
「どなた?」
扉をあけて出てきたのは、瀬奈々の母親だった。彼女は恭一郎の姿を確認すると、懐かしそうに笑顔を浮かべた。
「あら、恭一郎君じゃない。どうしたの?」
「……瀬奈々はいますか?」
「さっき帰ってきたばかりよ。よかったらあがって」
「お邪魔します」
靴をそろえて家に上がる。恭一郎の心中は、不安しかなかった。毎日泣いて帰ってくることを想像しただけでも、こっちが泣きたくなってくる。茶の間に着くと、瀬奈々の母はアイスコーヒーを作ってくれた。
「今呼んでくるから、待ってて」
「わざわざすみません」
そういいながらも、恭一郎はアイスコーヒーに手を付けなかった。コーヒーの表面に移る暗い表情が、その理由を物語っている。ほどなくして、母親が戻ってきた。
「もう少しで来るから、待って」
母が茶の間から姿を消すと、車輪が地面を転がる音が聞こえてきた。恭一郎は自然と立ち上がっており、生唾を飲み込む。ドアが開くと、そこには一人の可憐な少女が姿を見せた。
「……瀬奈々」
「恭一郎先輩、お久しぶりです。卒業式以来ですね」
手動車いすを操りながら出てきた愛川 瀬奈々は、恭一郎の姿を見るなり顔を赤らめて俯いてしまった。腰まで伸ばした黒髪、まだ私服に着替えていなかったのか、清楚な感じの制服姿である。それは恭一郎が最後に見た瀬奈々そのものだった。どこも変わっていなさそうに見えるが、俯いた顔からのぞかせる表情は少しさびしい。
「どうして、私のところに?」
「まあ固いことは良いからさ、少し話をしよう」
恭一郎は笑顔になって瀬奈々の隣に行く。二人は久し振りに距離が近くなったのを嬉しく思っていた。彼は瀬奈々の手に右手を重ね、優しく語りかける。
「俺たち、付き合ってどれくらいたつ?」
「1年くらいですね。ちょうど去年のこのころは、全国大会前の夏合宿でしたよね」
「でも、全国には行けなかった……」
二人は男女の仲になっていたのだ。瀬奈々は昨年の出来事を回想しながら、恭一郎に身を委ねた。とても満ち足りた、天使のように安らかな表情で……。
第三話 二人の合宿
――――昨年の8月初旬、春野高校吹奏楽部一同は春野町を離れ、とある山間の村のホールで合宿をしていた。日程は2泊3日で、ここで全国大会の最終調整を行っていたのだ。当時高校3年生の恭一郎はトランペットのパートリーダーで、この日も休憩中なのにもかかわらず、ホールのロビーで一人、自主的に練習を積み重ねていた。
気温は30度を超えており、額からは玉のような汗が流れ落ちていたが、彼はそれを気にも留めず、黙々とトランペットと向かい合っていた。そこに、当時高校1年生の瀬奈々が顔を出す。彼女は蒸し焼きにされかけていた恭一郎を心配し、近くにあった自動販売機でスポーツドリンクを買ってきてくれていた。
「恭一郎先輩、少し休んだらどうですか? はい。これ、受け取ってください」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
タオルで汗をぬぐい、スポーツドリンクに口をつける。乾ききった喉に、冷たさが突き刺さる。瀬奈々は彼の豪快な仕草に思わず笑ってしまった。しかし直後、彼女の表情が曇る。
「先輩、私、正直不安です」
「ん? 何が」
「全国大会ですよ。私今まで、そんな大きな大会に出たことないので……」
彼女は俯いていた。まさかここまで上り詰めることが出来るとは、思ってもいなかった。小脇に抱えたトランペットが、陽の光に反射して彼女の顔を映す。
「大丈夫だよ。俺もお前くらいの時は、同じ気持ちだったから」
「でも私、正直他の人より技術もないし、この前の定期演奏会も、先輩方から注意されたのは私だけでした。なんか、劣等感覚えちゃって……」
直後、ネガティブ思考に陥っている瀬奈々の肩を、恭一郎が叩く。
「注意されるということは幸せなことなんだよ。俺だっていろんな人から注意されて、され続けてここまで来た。実際、今でも指導を受けているほどだ。最初から完璧な奴なんていない。強くなれ、瀬奈々」
瀬奈々はホール内に去っていった恭一郎の後ろ姿を見つめる。そして大きく息を吐き、自分を奮い立たせた。強くなる。そう心の中で呟きながら。
この日の練習は午後6時で終了した。バスでホテルに向かう途中、瀬奈々は恭一郎の隣の席に座った。周囲の人たちがようやく休めるといった満足感で騒いでいる中、この二人だけは無言だった。恭一郎は疲労困憊の様子で外の景色を眺めていたが、瀬奈々は何かを言いたそうに口を固く結んでいる。しかし二人は互いに話すことなく、ついにホテルに到着した。男子と女子が別々の部屋に荷物を置き、ホテルのロビーでミーティングをする。
「練習お疲れ様でした。明日は本番と同じように通しで練習して、それから春野高校に帰ります。そのため、8時までにはここに集合してください。集合してから朝食をとり、9時にはホールに向かいます。よろしいですか?」
皆が威勢のいい返事をする。それに気をよくした顧問の先生は生徒を解散させ、夕食を取らせることにした。ホテルの夕食はバイキング形式で、このような食事をあまり経験したことがない部員たちは目を輝かせて、我先にと皿を取る。しかし、この中に恭一郎と瀬奈々の姿はなかった。
恭一郎はミーティングが終わった後、部屋に直行していた。眠い目を擦って楽譜に目を通しながら、それぞれ注意すべき個所に赤いマーカーを入れている。彼はすっかり練習の虫となっていた。すると、ドアがノックする音が聞こえた。どうせ先生だろう。彼は軽くあしらうことにした。
「先生、夕食ならすぐに行きますので……」
「先輩、私です」
「瀬奈々?」
後輩が自分の部屋に押しかけてきたことなど一度もなかった恭一郎は、すぐに彼女を部屋に入れてやった。彼女はトランペットを抱えており、未だに練習着のままだった。
「どうした。飯食ったのか?」
「いいえ、まだです。実は、渡したいものがありまして」
いつになく決然とした表情をしている彼女に違和感を覚えながらも、恭一郎は笑顔で接することに努めた。
「顔が怖いぞ、瀬奈々お前らしくない。で、渡したいものって?」
「これなんですけど……」
彼女が取り出したのは、一枚の小さな紙切れだった。それは丁寧にもきれいに折りたたまれており、恭一郎は呆然と見ているだけだった。
「私が出て行ったら、開けてください」
「……ああ」
「それでは、失礼します」
瀬奈々は表情を崩さずに出ていった。彼女の足音がなくなったことを確認した恭一郎は、早速手紙の中を見てみることにした。丁寧な文字でしたためられており、彼は声に出して読み上げる。
「……お話したいことがあります。今日の夜11時半、一人で3Fの小宴会場前に来てください。待っています。ほお」
彼は瀬奈々の真意を掴めないまま手紙を読み終え、ポケットにしまいこむ。そして何事もなかったかのように部屋を出て、夕食会場へと向かっていった。
消灯時間は午後の10時だった。しかし依然として恭一郎の部屋にいる部員は元気で、周りに注意されない程度の声でバカ騒ぎをしている。それは消灯から1時間とちょっと経過した時も同じだった。
「お前ら、明日は早いぞ。もう寝たらどうだ」
「まあまあそういうなよ。明日でこの楽しい合宿ともお別れだぜ? 最終夜くらい楽しもうや」
恭一郎の同期であり、親友でもある坂田(さかた) 平治(へいじ)がたしなめる。恭一郎がため息をつき、部屋から出ようとする。
「お前こそ何やってるんだよ。外出禁止だぞ」
「去年も一昨年も外出禁止で先生に叱られたお前が言うな。ちょっとジュース買ってくる」
「ついでによ、俺にコーラ買ってきて」
「いい加減黙れ。買いたかったら自分で買ってこい」
「ちぇ。つまんねえの」
何とか平治を振り切った恭一郎は、瀬奈々の待つ小宴会場へ足を運ぶ。彼は癖で5分前行動を実践していた。そのためそこにはだれもおらず、先生の監視から逃れることだけを考えていた。
11時半、誰かの足音が聞こえてくる。ひょっとしたら先生かもしれない。恭一郎は宴会場の看板に自らを隠し、どこから来るかわからない足音から逃れようとする。しかし、足音は自分の目の前で止まった。恐る恐る顔を上げてみると、そこにいたのは瀬奈々だった。
「先輩、何してるんですか?」
「先生だと思ってね。監視の目を盗んできたもんだから。で、要件は何?」
薄明かりがついた小宴会場の前で、二人は互いに顔を合わせた。瀬奈々は体全体に力が入っているようで、なかなか言葉を発することが出来ない。
「あ、あの……」
「どうした。声が小さいぞ」
この期に及んで先輩に注意されるとは。瀬奈々はこんな自分を情けなく思い、両手の拳を握った。額から汗が流れ、緊張はピークに達している様子だ。
「せ……、先輩」
「なんですか、遠慮なく行ってください」
恭一郎は目の前の瀬奈々を、なんだかかわいらしく思えてきた。二つ上の先輩を呼び出して、果敢に立ち向かう彼女の姿を。そして、彼女の唇が動いた。
「入部してから、ずっと、好きでした。こんな私で良ければ、つ、付き合って、くれないでしょうか!」
ついに言ってしまった。思いを告げた直後深々とお辞儀をした瀬奈々は思った。恭一郎は呆気にとられて瀬奈々の姿を見つめており、しばしの間、二人の間に沈黙が流れた。額から零れ落ちる汗が、床に小さな水たまりを作る。
「……先輩、お願いします!」
どれくらいの時間が経ったのだろうか、瀬奈々は緊張のあまり、ついに涙声になってしまっていた。目が潤んでおり、未だに顔を上げようとしない。恭一郎は腕を組み、大きく息を吐く。心が決まったようだった。
彼は瀬奈々の元に歩み寄り、顔を上げさせる。恐怖に怯えたような表情をしていた彼女は、泣いていた。唇を震わせ、拳を固く握りしめている。
「俺、心が決まったよ」
「はい……」
「お前の頼みなら断れない。いいでしょう、付き合ってあげますよ」
その直後、恭一郎は瀬奈々を優しく抱きしめた。瀬奈々よりも一回りも二回りも大きい恭一郎の体は、彼女の体をすっぽりと包みこみ、絶大な安心感を与える。それを感じ取ったのか、瀬奈々は泣いてしまった。
「おいおい、俺と付き合うのがそんなに悲しいか。付き合ってくれって言ったのはどっちだ」
恭一郎は瀬奈々を茶化すように言うと、頭を撫でて安心させようと努める。それでも瀬奈々は泣きやまず、隣のベンチに二人で座ることにした。彼女が落ち着いたのは、それからしばらくしてのことだった。
「先輩、私、まだまだ至らないところもありますけど、頑張ります!」
「何をがんばるってんだよ。お前は俺の好みにどストライクだよ」
「……え?」
「少し天然なところとか、頑張り屋なところとか、あんまり怒らないところとか。前からいいなあとは思っていたんだよ」
照れ笑いを浮かべる恭一郎を、瀬奈々は愛おしく思いながら見つめていた。そして、恭一郎の左手を握る。
「先輩、私、どうして告白できたと思いますか?」
「え? 分かんないな」
「今日の昼ごろ、私にこう仰ってくれましたよね? 強くなれ、って。それで私、強くなれた気がして、ホテルの部屋であの手紙が書けたんです」
「なるほど。そういうことね」
さりげなく左手を握られたことにびっくりしながらも、彼は瀬奈々の右手を握り返す。そして、部屋に戻るために二人同時に立ち上がった。二人の手は、離れていなかった。
翌日の通しは、大成功に終わった。これで全国大会でのゴールド金賞も夢ではない。そう顧問に言われたからだ。トランペット担当も好評で、この日初めて瀬奈々は顧問に褒められた。強くなれ。その言葉をしっかりと心の中に刻んだことが、彼女を成長させる要因になった。
「瀬奈々、やったな」
「はい! この調子で全国大会も頑張りましょうね!」
二人は笑顔で帰りのバスに乗り込む。当然、二人は隣同士の席に座り、小旅行の帰りのような気分でバスに揺られた。手はしっかりと握られており、硬いきずなを象徴するものだった。
バスが発進して1時間ほどが経過した後、高速道路を下り、一般道を走り始める。そこは人通りも皆無で、車も時々通る程度だった。車内にいる部員たちはほとんどが寝静まってしまい、恭一郎も睡魔に襲われ始めていた。
「ごめん、寝るわ……」
「おやすみなさい、先輩」
二人はいったん手を放し、恭一郎はゆっくりと瞳を閉じて眠りにつく。眠る姿さえも愛おしいと思った瀬奈々は、恭一郎の方に自分の顔を置き、ずっと寄り添っていた。すると、今まで何もとおっていなかった対向車線から轟音が聞こえてくる。
「なんだ?」
運転手が目を凝らしてみると、対向車線から大型トラックがはみ出して、こちらに突っ込もうとしてきたのが見えた。凍りついた運転手は慌ててクラクションを鳴らす。部員たちはクラクションの音で目を覚まし、前方で起こっていることに背筋を凍らせた。女子部員は悲鳴を上げ、顧問は急いで部員たちに指示を出す。
「このままだと衝突する可能性が高い! 今すぐシートベルトを付けて、衝突に……」
しかし、遅かった。顧問の指示が完全に終わる前に、トラックとバスは鉄がひしゃけるけたたましい音とともに道路わきに吹き飛ばされ、そのまま横転。双方炎上し、周囲は悲惨な状況へと一変した。
最初にバスから出てきたのは、運転手と顧問だった。運転手は額から出血し、左腕を抑えている。顧問もそれに近い状況であり、急いで部員の安否確認に走った。
「皆さん、生きていますか!? 返事をしてください!」
顧問の声とともに、複数人の部員がバスの中から姿を現した。それぞれ大怪我をしていたが命に別状はないようで、顧問は安堵した。すると、平治が叫ぶように顧問に話しかける。
「先生、遠野と愛川がまだバスの中です!」
「なんだって!?」
顧問が凍りつくと、部員たちは二人を助けようとバスに近寄る。
「おい、早く出てこいよ!」
「死ぬぞ!」
顧問は急いで部員たちを回収し、携帯電話で警察と消防を呼ぶ。到着にはそんなに時間はかからなかった。
「早く、遠野と愛川を助けてやってください!」
「先生落ち着いて。私たちで何とかします」
消防隊が皆を宥めると、すぐに救出作業に取り掛かった。エンジン部分は燃えているので、少しの刺激で爆発炎上する危険がある。慎重な行動が必要だった。
「遠野君、愛川さん、どこにいますか? いたら返事してください!」
消防隊の一人が呼び掛けると、かすかに男の声がする。それを感じ取った消防隊が割れたガラスから覗き込むと、瀬奈々を必死になって救助しようとする恭一郎の姿があった。
「助けてください! 瀬奈々が、瀬奈々が!」
瀬奈々は放心状態で自分の足を見ていた。衝撃でシートが外れたのか、彼女の両足を押し潰していたのだ。牽引用のロープでシートを持ち上げ、瀬奈々の足を自由にさせる。恭一郎は僅かな力を振り絞って瀬奈々を消防隊の一人に渡し、そして自力でバスの中から這い出てきた。
「先輩、無事で何よりです」
「……強がるなよ。お前、自分がどういう状況になったのか分かってるのか!」
瀬奈々は気丈にも笑っていたが、もう歩くことはできないような足になってしまっていた。部員のほとんどが目を逸らしたくなるほどに出血しており、ところどころ粉砕骨折している。恭一郎は瀬奈々を抱きしめて、大泣きした。部活では泣いたことのなかった彼が、初めて泣いた。
「先輩、私、強く生きますよ。仮に歩けなくなったとしても、私は私です」
その笑顔は、どこか空しかった。部員の誰もが涙を浮かべ、瀬奈々は恭一郎や部員とともに病院に運ばれていった。
手術が必要なのは瀬奈々だけであった。皆は心配そうに手術室に運ばれていく瀬奈々を見る。そこに、現場を担当した警察官が顧問と運転手の前に現れた。
「調べたところ、事故原因はトラック運転手の飲酒運転で、この日も大量に飲酒をしてからトラックを運転していたそうです」
それを聞いた部員たちとその家族から怒りの声が聞こえる。
「ふざけるな!」
「こんな下らない理由で、どうして全国大会チャラになるんだよ!」
春野高校吹奏楽部はこの事故が原因で、全国大会に出場することが出来なくなってしまったのだ。無言で頷いた顧問は部員たちを宥めるために別室に移動する。しかし、恭一郎だけは動かなかった。恭一郎の母が彼を引っ張るが、頑なに戻ろうとしない。
「母さん辞めないか。あいつは俺に似て頑固なんだ。ここは一人にさせてやろう」
「……うん」
母は折れた。恭一郎の目は死んでおり、瀬奈々の両親とともに手術室前の椅子に座っていた。
手術は5時間後に終了した。すでに朝日が差し込んでおり、ほとんどの人たちは疲れたのか眠ってしまっている。しかし恭一郎、瀬奈々の両親は別で、「手術中」のランプが消えたのが分かると、一目散に手術室の扉の前に立った。出てきた瀬奈々は悲惨な姿となっていた。
「瀬奈々……」
両親は目に涙を浮かべて、わが娘の姿を見つめた。足は膝から下がなく、縫合跡が痛々しく残っていたのだ。彼女は麻酔で眠っており、自分の体がどうなってしまったのかはまだ気づいていない。もし自分の変わり果てた姿を見たとしたら、どう思うのだろうか。不安が次から次へと頭をよぎった。
瀬奈々が目を覚ましたのは、手術が終了してから1時間ほどが経った頃であった。彼女は激痛に顔を歪ませ、自分の足を見る。しかし、さして驚いた様子はなく、ただただじっと、自分の足を見つめるばかりだった。両親は医師から説明を受けている所だった。
「膝から下が取り返しのつかないことになっており、切除するしか方法はありませんでした。そこから上の機能はまだ残存しているので、瀬奈々さんの体調が快方に向かい次第、リハビリを始める予定です」
「これから瀬奈々は、車椅子ですか?」
「そうなるでしょうね。後ほど寸法を測ります」
両親が説明を受けている間、恭一郎は瀬奈々の生存を喜んでいた。
「生きていてよかった……」
「先輩も、大事に至らなくて何よりです」
体が痛くてうまく笑えない瀬奈々だったが、恭一郎が怪我をおして自分の見舞いに来てくれたことが本当にうれしかった。それから1か月間、恭一郎は瀬奈々のお見舞いに欠かさず行き、そのたびに彼女を励ましたのであった――――
第四話 情報提供者
「今思うと、よく心折れなかったよな」
「ここで折れたら負けだと思ったので。これから辛いことは、まだいっぱいあるでしょうから」
アイスコーヒーを飲みながら、恭一郎は瀬奈々に寄り添っている。
「まさに今、とても辛いんじゃないのか? 瀬奈々」
「え……?」
「隣に住むおっさんから聞いたよ。お前、苛められているんだってな」
彼はついに本題に切り出した。それを言われた瀬奈々の表情が、次第に曇っていく。図星だと判断した恭一郎は、俯いている瀬奈々と向き合った。彼の切迫した顔に驚いたのか、瀬奈々は話を始めた。
「今年の部活動のオリエンテーションで、新入生に演奏を披露したんです。その時、ちょっとガラの悪い一年生たちが私を見て笑い出して、それからですね。嫌がらせが始まったのは」
やはり瀬奈々はいじめられていたのだ。恭一郎は衝撃を受けると同時に、瀬奈々の手を握る。彼女は唇をかみしめていた。その時の体験がよほど心に来たのだろう。
「それから通学路で私に会うたびに、脅してお金を取ろうとしたり、鞄を踏切のところに持っていかれたり、いろいろされました」
「踏切? 危ないじゃないか!」
車いすの人が踏切を渡ることは、生きるか死ぬかの瀬戸際だ。段差が激しくタイヤがハマりやすいので、大抵は誰かに押してもらって渡る。しかし春野町は田舎町なので人通りが少なく、瀬奈々はそこを避けて、遠回りをして線路を渡っていた。
「私もためらいましたけど、遅刻しちゃうと思って、無我夢中で取りに行きました。結局鞄は取ることが出来ましたけど、この日は朝のホームルームには参加できなかったです」
「……他にどんなことされた? 言ってみろ」
恭一郎はもはやいても経ってもいられなくなっているようで、次第に怒りで血の気が盛んになっている。瀬奈々はそんな彼の豹変ぶりに圧倒されたのか、真実を包み隠さず話すようになった。
「えっと、煙草の吸殻を、火がついたまま投げられたり、何度も平手打ちされたり、あと……」
「なんだ?」
「無理矢理、制服を脱がされたこともありました。大声を出したので、すぐに逃げてくれましたけど、あのときは本当に……」
そこまで言って、瀬奈々は泣き出してしまった。恭一郎は怒りで顔を朱に染めた。
「お前を苛めた奴の名前は何だ!」
すると瀬奈々は泣くのをやめ、俯き加減になって恭一郎に告げた。
「要(かなめ) 一(はじめ)っていう人です。1年生の中で、特に悪い人だと聞いています」
「分かった、ありがとう。お前の母さんははそのことを知っているのか?」
「知っていますけど、言えないんです」
「どうして!」
「実はこの人のお父さんが町議会議員、お母さんが春野病院の副院長を務めているんです。いじめを告発しても、権力の前に倒れるのは明白だって、要さんに言われました」
恭一郎は頭を抱えた。このまま瀬奈々がいじめられる姿を見ていくしかないのか……。二人は絶望の淵に叩き落されたような気分になった。
「私、恭一郎先輩を巻き込みたくなくて、どうしても言えなかったんです。先輩は将来有望で、都会の医療系大学に進学したと聞きました。だから、先輩の将来を私なんかのためにふいにしてほしくないんです」
瀬奈々の目から、再び涙が零れ落ちる。しかし、恭一郎は首を横に振った。
「これ以上お前の悲しい顔を見たくないんだ。あいつは俺がどうにかする」
「先輩、駄目ですよ。そんなことしたら……」
「心配するな。俺に任せろ」
恭一郎はあくまでも笑顔だった。追いつめられてもなお、こんな顔をすることが出来る彼を見て、瀬奈々は更に泣いてしまう。自責の念に駆られている彼女は、恭一郎の腕を掴んで泣きじゃくった。下手をしたら、恭一郎が危険な目にあうかもしれない。そんな不安が、二人の頭の中をよぎった。
この後しばらくして、恭一郎は瀬奈々の家を出た。まさか自分の恋人が、一年たってこんなことになっていたとは。彼女は未だに泣きながら、恭一郎を見送っていた。
家に着いた時、引っ越しの準備はほぼ終わっていた。両親が疲れ果てた表情で今に座っている。
「ごめん、遅くなった」
「いくらなんでも遅いぞ。何時だと思っているんだ」
晴彦が愚痴をこぼし、時計を見る。しかし、恭一郎はため息をつくことしかできないでいた。瀬奈々が性的暴力を振らわれそうになった事実、要というやつの暴走を止められないという悲痛な現実。すべてが彼に重くのしかかる。彼は空腹だったはずなのに、そのまま自分の部屋に引きこもってしまった。
「恭一郎、ご飯食べないの?」
「いらない。置いといて」
虚無感に襲われながら、寮から持ってきたノートパソコンを開く。実家から帰ってきた後に学校に行き、所定の枚数のレポートを提出しなければならなかったのだ。タイプする音が響くが、それは最初だけだった。次第に行き詰っていき、一時間後には全く進まなくなってしまった。どうしても瀬奈々のことが思い浮かぶ。仕方なくノートパソコンを閉じて横になると、スマートフォンに着信が入る。誰かと思って電話に出ると、若干アニメ声なある後輩からだった。
「もしもし」
「恭一郎先輩、お久しぶりです。二年生の八田(はった) 弥生(やよい)です」
「八田か。元気だったか?」
「おかげさまで、無病息災でございます!」
恭一郎は久方振りの後輩との再会に喜んでいた。しかし、何でいきなり? 疑問もあったが、今は何も考えたくないという思いが勝ち、十数分ほど会話を楽しむことにした。
「今日、瀬奈々にあってきたよ」
「え? じゃあ、春野町にいるんですか!」
「ああ」
そういえば、ここへは高校の定期演奏会を見に行くために来たのだ。いつの間にか、こんなに重苦しい気持ちになってしまったのだろう。
「定期演奏会、見に来ますか?」
「勿論」
「ありがとうございます! 終わったらご指導のほど、お願いします」
その後何度か話した後、恭一郎は電話を切った。彼は八田から活力をもらったような気になり、再びノートパソコンを開ける。そして、今までの倍の速度でレポートを執筆し、日付が変わらないうちに全ての作業を完了させてしまった。
しかし、彼の中に達成感と言うものはなかった。瀬奈々を危険な立場から解放してあげなければ……。レポートと言う余計なものが終わってから、彼は本格的に彼女を救う方法を考え始めた。インターネットを開き、いじめをなくすための情報を、少しでも多く集めようと努める。
結果は駄目だった。イジメで困っている人は多いようで、恭一郎が検索して引っかかったサイトも、苛められた人たちのコミュニティーのようなものであったり、恭一郎と同じような悩みを抱えている人が質問を投じていたりと、彼にとって参考になるサイトは一つもなかった。
「だめか……」
すると、再び八田から電話がかかってきた。こんな夜中になんだ? 彼はノートパソコンを閉じ、電話に応じる。
「どうした」
「瀬奈々ちゃんに会ったって言ってませんでしたか?」
「言っていたけど」
「あの子、いじめられているらしいんです」
「知ってる。今日聞いた。要 一っていう一年坊主にな」
どうやら吹奏楽部の人たちは瀬奈々がいじめられていることを知っているらしい。彼は少し安堵しながら八田と話している。するとその直後、八田は思わぬ爆弾を落とした。
「私、彼についていくつか知っていますよ」
恭一郎は眠くなった頭が一気に醒めたことを覚え、勢いづく。
「どんなことだ」
「彼の素顔、いろいろと」
「教えてくれ」
その情報は、彼にとってはのどから手が出るほど欲しい。しかし、今は深夜0時を過ぎており、相手側の事情もある。八田は慎重に言葉を選んで恭一郎に告げる。
「明日の午後3時、春野高校の前で待っていてください。それと申し訳ないんですけど……」
「なんだ」
「情報料として、甘いお菓子、欲しいです」
八田は大の甘党で、部室でもチョコレートやジュースを常備している。差し入れに甘いお菓子が渡された時には、小躍りなんてしていたほどだ。恭一郎はそれをしっかりと覚えており、二つ返事で了承した。
「適当なものでいいか? チョコレートとか、サイダーとか」
「嬉しいです! 待っていますね!」
甘いお菓子や飲み物の名前を聞いただけでテンションが上がるとは、あいつらしいな。恭一郎は電話越しに微笑を浮かべて、八田との連絡を切った。しかし、あいつはどんな情報を持っているのだろう。彼の中の一抹の不安が、心の中にわだかまった。
第五話 標的の男
翌日、恭一郎は近所のスーパーマーケットに出向いていた。八田が部活前によく食べていたものを思い出しながら、菓子が陳列されている棚の前で睨めっこをしている。そして目的のものを見つけ次第、かごの中に放り込んでいく。情報料まで必要だということは、きっと重要なものなのだろう。彼はもはや、瀬奈々を救うことしか考えていなかった。
ジュースやお菓子が詰まった段ボール箱を抱えながら春野高校の校門の前にスタンバイする。窓の外からは合奏の音が聞こえてくる。恭一郎はそれに耳を傾けながら、八田が来るのを待っていた。現在午後の二時半。少し来るのが早すぎたか? 猛暑の中、菓子を冷やすために段ボールの中に入れているドライアイスが微量の冷気を外に漏れださせている。それを浴びながら、彼は暑さをしのいでいた。
しばらくして、合奏が鳴りやんだ。
「そろそろか」
今まで座っていた恭一郎が立ち上がる。いつになく緊張した面持ちで。外から何人かの部員が出てくると、彼は軽く会釈をした。そのたびに、後輩たちから歓喜の声が出た。
「恭一郎先輩、お久しぶりです!」
「こんな所にいないで、学校の中にいらっしゃってもよかったんですよ」
彼は感慨深い気持ちになっていた。自分はここまで後輩たちに慕われていたのか。在学中は何かと後輩に厳しく当たっていたのに。すると、部員に車椅子を押されながら、瀬奈々が現れた。彼女はとても驚いた様子で恭一郎を見つめている。
「先輩、定期演奏会は明日ですよ?」
「ああ、今日は八田に用があったんだ」
「弥生ちゃんに?」
「なんでも、お前を助けてくれるかもしれないらしい」
恭一郎は笑っていたが、瀬奈々の表情は曇っていた。
「どうした」
「私、弥生ちゃんまで危険な目に……」
「危険な目に遭うかどうかは、まだわからないだろ」
「そうだよ、瀬奈々ちゃん!」
瀬奈々はびっくりして後ろを振り向く。ツインテールの髪を振り乱して、息を切らして立っていたのは、八田 弥生だった。あらかた後輩が帰ったと分かると、いきなり飛び出してきたのだ。
「先輩、お久しぶりです」
「昨日はすまんな。これ、情報料。家に着いたらみんなで食べよう」
「わあ、こんなにたくさん! ありがとうございます! 私、張り切って調べちゃいます!」
「あの、恭一郎先輩、みんなって……」
「瀬奈々、いきなりですまないが、八田の家に来てくれないか?」
恭一郎のお願いに、瀬奈々は少し考える素振りをして、首を縦に振った。
「私がまいた種です。皆さんに協力します」
「ありがとう」
「じゃあ、行こうか! 瀬奈々ちゃん、車椅子、押すね」
恭一郎は「情報料」を抱えて、八田は瀬奈々を押して、八田の自宅へと到着した。中には誰もおらず、三人は思い思いの言葉をかけて家の中に入る。
「お父さんとお母さんは共働きで、夜まで帰ってきません。夜六時くらいまでだったら、自由にしていてもいいですよ」
「済まないな。さあ、先ずは食べようか」
そういうと恭一郎は、段ボールの中から大量のお菓子とジュースを取り出した。まだドライアイスの冷気が残っており、中はちょうどいい感じに冷えていた。
「俺のおごりだ。食べてくれ」
「……いいんですか? こんなに」
瀬奈々は目を丸くしてお菓子に見入る。チョコレート、一口サイズのチーズケーキ、飴、果物のジュース……。すべてが色鮮やかに見えた。一方の八田は狂喜乱舞しており、どれから食べようか目星をつけ始めている。
「わあ、先輩、ありがとうございます! これなら私、いっぱいあいつのこと喋っちゃいます!」
「そうしてくれれば、こっちも嬉しいよ。長い時間かけてスーパーで選んでいた甲斐があった」
瀬奈々は恭一郎にジュースを注いでもらい、一口含む。練習の疲れが吹き飛んだような感じがし、彼女の顔には笑みが広がった。すると八田はチョコパイを口にくわえながら、パソコンを起動し始めた。この中に情報が入っているのだろうか。恭一郎はいよいよ緊張してくるのを感じた。
「八田、これは?」
「えっと、これからとあるサイトを開きます。ここに、私たちがまとめた要 一の情報があります。驚かないで下さいよ」
やけに自信に満ちた言動と顔で、八田は器用にパソコンを操作していく。
「このサイトです」
「これって有名な匿名掲示板、KATARU(かたる)じゃないか」
「私たちはここを拠点として、要の悪事を暴こうと日夜努力していました。まあ、要を狙うきっかけになったのは、別の出来事ですけどね」
「弥生ちゃん、それは何?」
「あいつ、差別主義を誘発するようなアフィリエイトブログを運営していたの」
「アフィリエイトブログ?」
二人は訳が分からず閉口してしまった。そんな思考停止に陥った二人のために、八田が説明を加える。
「アフィリエイトブログっていうのは、インターネットの広告収入を利用して利益を上げるブログのことです。見る人が増えれば増えるほど利益は上がってきます」
「それって、巨大なアフィリエイトブログであればあるほど、楽に大量の金を稼ぐことが出来るってことか」
「つまるところ、そういうことになります。私たちの所属する掲示板は、そんなアフィリエイトブログを嫌っています。今回は、ちょっと事態が大事になっています」
そういうと八田は、『要事件、これまでの経緯』というスレッドを開く。そこには細かい文字で、大量の情報が記載されている。1レス目の書き込みには、事件の発端が記されていた。
『今年7月上旬、いつも通りアフィ(アフィリエイトブログの略)を潰そうと日々努力している俺たちの元に、とある情報が飛び込む
↓
「こんなアフィ見つけた。絶対に許すな」という書き込みの後に記載されていたURLに飛んでみると、そこは無法地帯と化していた。デマが飛び交い、ブログのコメント欄に巣食う住民は馴れ合いの嵐
↓
ブログ名は『嫌韓速報』。主にネット右翼(以下ネトウヨ)ご用達のまとめブログだ。俺たちはそれを潰そうと専用のスレッドを建て、管理人を骨の髄まで追い詰めることを決める
↓
ドメイン名から誰がこのブログを管理しているのかを調べるサイトにアクセスし、早速調べる
↓
要 一という野郎であることが判明。有志によって住所や家族構成など捜索中←今ココ』
「ここまでわかっているので、あとはこれさえわかれば何とかなるのですが……」
そういうと八田は、二つ目のチョコパイに手を付ける。その間に二人は要の運営しているブログ、嫌韓速報に目を通す。そこには信じられないことが書かれていた。
「キムチの中はジフテリア菌だらけ?」
「韓国経済、もうすぐ破たんか。なんて記事もありますよ」
明らかなネガティブキャンペーンだった。ウソと分かりきったような情報に、コメント欄では韓国を罵倒するような書き込み、嘲笑に満ちていた。これで金を稼いでいるのかと思うと、恭一郎は腹立たしさを感じた。
「ふざけるな! 人格を疑うよ」
「でしょう? だから、このブログ、そして運営主である要を再起不能に貶めてやろうと思ったんです」
サイダーを一気飲みしてチョコパイを腹の中に流し込んだ八田は、再びパソコンと向かい合う。彼女は過去のスレッドから要の情報を抽出しようとしていた。
「これから要の情報を抽出します。どんな些細なことでも」
「でも、ここにあいつが書き込んでいるという保証はないぞ?」
「それが、有志が捜してくれたんですよ。要が良く書き込んでいるスレッド」
そういうと、八田はとあるスレッドを開き始めた。
「題名からしてあれですけど、まあ見てください。名前の欄に『孤高のファイター』と書かれているのがあいつです」
「……女性差別スレ?」
そこには女性蔑視発言が多く書き込まれていた。クラスメートの不満、上司の悪口、セクハラだと間違われたことなど様々だ。恭一郎と瀬奈々は、孤高のファイターが書いたもののみに注目して読んでみることにした。
『孤高のファイター:障害持っている女がテレビに出てた。ああいう特集マジでムカつくんだけど』
『孤高のファイター:女なんて男とセックスするための道具なのに、どうしてこんなにでしゃばれるかねえ。理解に苦しむ』
彼は特に、障害を持った女に対して差別意識を持っていたようだった。恭一郎は瀬奈々と顔を合わせた。彼女がいじめられている理由が、なんとなくわかったかもしれない。
「次が問題の書き込みです」
下に進めていくと、孤高のファイター名義での書き込みが多くなる。どうやらスレッド全体で人が来ない時間帯に書き込んでいるようで、一時期は彼の身が書き込んでいる状況になっていることもあった。
『孤高のファイター:障害持った女苛めてるけど、聞きたい?』
『名無し:なにこれ詳しく』
『孤高のファイター:車椅子に乗った女で、下半身がないの。これだけでももう笑えてくるんだけど、そいつの鞄をひったくって、踏切の中に置いてやった!』
『名無し:マジキチ。そんでその後どうなった』
『孤高のファイター:陰で見ていたんだけど、必死こいて取ろうとしてるの! 姿見てみ? 笑えてくるから』
そのレスには写真が貼られている。それをよく見てみると、汗だくになりながら鞄を取ろうとしている瀬奈々が映っているのが見えた。それに対する反応は凄まじいもので、何十にもわたってレスが続いた。
『名無し:クソワロタ』
『名無し:必死過ぎて草不可避』
『名無し:今度やってみようかな』
瀬奈々は自分が盗撮された事実、笑いのネタにされた事実に、思わず涙がこぼれた。恭一郎も怒りに肩を震わせ、瀬奈々を抱きしめる。
「瀬奈々ちゃん、ごめんね、こんなつらいもの見せて」
「……弥生ちゃんは悪くないよ。悪いのは、要さんだから」
恭一郎に抱きしめられながら、瀬奈々は涙を流してパソコンを見る。すると八田は、このページをお気に入り登録し、別のサイトに移動する。
「これは重要な証拠になるから、ウェブ魚拓を取っておきます」
「ウェブ魚拓?」
「このまま放置しておくと、要に消される可能性があります。だからウェブ魚拓を取って、いつでも閲覧できるようにするのです」
八田の分かりやすい解説に、恭一郎は思わずうなった。魚拓を取る作業を終えるとそのURLをコピーし、これまた別のページを開き始めた。KATARUだ。掲示板はジャンルごとに小分けにされており、八田は嫌儲(けんもう)という板にアクセスした。そこのトップページには、『アフィカス要を再起不能に陥れるスレ』というものが立っており、彼女はそこにアクセスする。そしてコメント欄に、こう記載した。
『要の悪事、貼っておいたで。消されんように魚拓も取っておいたから、とりあえず取り急ぎ』
要が写真をアップした板と魚拓のURLを同時に貼りつけ、皆からの返信を待つ。その間に八田は冷えた板チョコにかぶりついた。チョコが割れる音が耳に気持ちいい。
「すごいな、八田」
「これくらい序の口ですよ」
八田は恭一郎に褒められることに慣れていないようで、顔を赤くする。瀬奈々は自分を落ち着かせるために、恭一郎に入れてもらったジュースを少しずつ飲みながら精神を安定させようとする。目を瞑って、恭一郎の温もりに触れながら。
「あとは直接要を観察しなきゃダメですね」
「それにはどういうメリットがある?」
「住所や大体の家族構成を調べるためには、やはり直接見るに越したことは無いですね。私が行ってきましょう」
「ちょっと待って、弥生ちゃん。私にいい考えがあるの」
すると今まで黙っていた瀬奈々が、急に口を開き始めた。
「どうしたの?」
「私、苛められてくる」
「いきなり何バカなことを言っているんだ! そんなことしたら……」
「私、もう要さんにいじめられるのはいやです。でもここで行動しなきゃ、駄目なんじゃないかって思えてきました。皆さんが骨身を粉にして頑張っているのに、私だけ見ているだけなんて、嫌なんです!」
瀬奈々の表情は切迫していた。二人は困惑していたが、瀬奈々は二人を視線でとらえて離さない。恭一郎は昔の瀬奈々を思い出していた。何をやってもダメで、おまけに優柔不断。顧問からはよく叱られ、正直言って、部の足を引っ張ってしかいなかった。でも今は違う。まっすぐな視線にゆるぎない信念。これも自分でまいた種だからだろうか。
沈黙はしばらく続いた。八田はこの時ばかりは流石におろおろしており、恭一郎に助けを求めるような視線を向ける。しかし当の恭一郎も判断を決めかねているようだった。もしかしたら、また彼女にとって命がけのことをされるのかもしれない。不安が頭をよぎる。
「彼が悪事を働いたという証拠をつかむためなら、何でもします!」
瀬奈々の決心は揺るがなかった。みんなが頑張っているのに、私だけただ見ているわけにはいかない。彼女は、二人に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「先輩と弥生ちゃんは証拠を収めるために写真を撮ってください。危なくなったら大声を出しますから、その時は、助けに来てくださいね?」
彼女は一歩も引くことは無かった。恭一郎は彼女の新年の硬さにため息が漏れ、ついに心を許すような表情になった。
「分かった。そこまで言うなら協力しよう。でも条件がある」
「なんでしょう」
「決行は明日にしてくれないか。明日の定期演奏会、重要であることはお前たちは分かっている筈だ」
これだけはどうしても成功させてほしい。先輩からの、数少ないわがままだった。八田と瀬奈々は首を縦に振り、先輩の教えを守る。
「ありがとう。明日は期待しているぞ」
「はい! 頑張ります」
「俺はもう帰る。瀬奈々、行こうか」
「はい」
「ついでに要の住所も教えておくから、携帯は見ておくんだぞ、八田」
「分かりました。明日は、絶対に見に来てくださいね」
恭一郎らはそれぞれの思いを胸に解散した。彼と帰り道が同じである瀬奈々は、申し訳なさそうに俯きながら車椅子を押されている。
「私なんかのわがままを聞いてくれて、本当にありがとうございます」
「いいんだよ。俺なんて、在学中に幾つわがままを言ったことか……」
二人はようやく、普通の時間を取り戻したように思っていた。こうして車椅子を押されて、何気ない会話をする。それだけでも幸せであった。そしてゆっくりと歩みを進めていくうちに、瀬奈々の家に着く。
「それでは私はこの辺で」
「明日の定演、楽しみにしているからな」
「全力を尽くします!」
こうして二人は名残惜しそうに別れた。しかし、恭一郎には要の住所を特定するという大事な仕事がある。彼は改めて気を引き締めると、要の家を探し始めた。幸い春野町は小さい町なので、少し歩けばどの家でも特定することが出来る。それに恭一郎は大学に入るまで、生まれも育ちも春野町だ。土地勘はある方だった。
彼はまず、大きい家を探し始めた。町議会議員の息子であれば、豪華な家に住んでいることは間違いない。現に春野町の議員は、ほぼ全員が豪華な家、黒塗りの高級車を所持している、金持ちだと言わんばかりの風格だ。
「ここでもない、そっちでもない……」
春野町の議員の家が散見される地域まで足を運んだが、要という表札はどこにも見えない。すると恭一郎は何かを思いつき、瀬奈々の家まで戻り始めた。
「あいつが瀬奈々の家を知っているとすれば、きっと近くにいる!」
彼は急いで瀬奈々の家の半径500メートル以内を捜索しはじめる。きっとこの中に要の家が……。汗が落ちるのも忘れて早歩きで巡ってみると、彼の背後から重低音のクラクションが聞こえた。後ろを振り向いてみると、黒塗りの高級車に乗った、恰幅の良い50代の男が見えた。恭一郎は急いで道を譲ると、直後にその車を追いかける。まさか……。幸い車はゆっくりとしたスピードで走っていた。彼が車を見失わないように後を追っていると、予想は的中した。
「要!」
彼は男に気付かれないように住所を見て、それを頭の中に叩きこむ。そして家から離れながら、八田に住所を書いたメールを送信した。
『了解です。KATARUの方に載せておきます。あとは要の悪事を晒せば、任務完了ですよ!』
いよいよ希望の光が見えてきたことに、恭一郎は喜びを感じていた。これで瀬奈々に安全が保障される。自分のことでもないのに、彼は天に舞うような気持になっていた。
第六話 引き裂かれた二人
要の住所が分かったことは、瀬奈々にも伝えられていた。
『お前をいじめていた奴の住所が分かった。あとは悪事を証明すれば、八田が何とかしてくれる。だから今は、定期演奏会のことだけに集中しろ。健闘を祈る』
先輩からの心強いメールに、彼女は泣きそうになっていた。もうだめだと思っていたのに、先輩や八田の力を借りてここまで来たのだ。もう失敗は許されない。彼女は二人の恩に報いるような演奏をしようと誓った。
「先輩、頑張りますからね」
瀬奈々は自分のトランペットを取り出す。それは昨年、彼女が恭一郎に買ってもらったものだった。それを枕元に置き、明日の定期演奏会の成功を祈る。そして直後、部屋の電気は消えた。
その頃八田は、KATARUの要追跡スレを開いていた。住所を晒した後の反応を見るためだった。
「私の予想通りだ。お祭り騒ぎになってる」
そこは彼女が晒した住所の話題であふれかえっていた。
『GJ! これで要を本格的にいじれるな』
『住所で検索してみたら、結構大きい家が出てきた。流石は町議会議員の息子』
『親も真っ黒なんじゃね? 子があれだから』
『その線はあるな。検索よろ』
八田はその中にこう書きこんだ。
『要と同じ高校に通っているものだけれども、明日で全てを終わらせようと思う。収穫をお楽しみに』
その書き込みを投稿して数分経たないうちに、レスはどんどん投下されていく。
『住所晒したのってお前か。期待している』
『有能。楽しみにしているで』
『レイシスト要を絶対に許すな。いっそのこと、親子ともども外に出られなくなるまでいじめてもええんやで(にっこり)』
『いやいや、喜ぶのはまだ早い。奴が自殺してからがスタートや』
八田はレスの流れにほくそ笑み、電源を切る。そして自分のクラリネットを取出し、祈るようにしてじっと見つめる。まずは定期演奏会だ。彼女は自分の成功を信じ、首を大きく縦に振った。
翌朝5時半、恭一郎はもはや外に出ていた。二人のことが不安で、学校の周りを散歩するようにして廻っている。あれだけ準備を入念にしているのに、この胸騒ぎは何だ。どれだけ動いても落ち着かない。
「くそっ……」
自分に毒づいたが、気持ちは変わらなかった。
瀬奈々は制服に着替え、恭一郎に買ってもらったトランペットを自分の膝に乗せ、定期演奏会前最後の朝練に向けて家を出た。彼女の中から、妙な自信がわいてくる。二人の力を無駄にするわけにはいかない。そのためには、自分が頑張って結果を出さなくちゃ……。すると、一人の男が彼女の前を通り過ぎる。その直後、男はくるりと背を向け、いきなり瀬奈々のトランペットをひったくったのだ。
「あ!」
男は走ってどこかへ消えようとするが、瀬奈々は車椅子をこぎ、男に追いつこうとする。しかし、途中で完全に見失ってしまった。息を切らしながら、冷や汗が垂れてくる。
「どうしよう……」
瀬奈々が呆然としていると、近くで男たちの笑い声が聞こえてきた。それも、どこかで聞いたことのあるような声が。彼女はその声を頼りにして車椅子を進めていくと、集団で数人の男が、瀬奈々のトランペットを持ちながら談笑していた。
「あの、返してください!」
大声で男たちに呼びかけると、彼らは慌てて走り出す。そして行き着いた先は、あの踏切だった。男は踏切のど真ん中にトランペットを置くと、瀬奈々を挑発するように言い放った。
「悔しかったらとってみやがれ、障害者!」
彼女はその声を聴いて愕然とした。まさか……。しかし、考える暇もなく、彼女は踏切へと入っていく。
「うう……」
しきりに手を伸ばすが、なかなか取ることが出来ない。挑発した男は未だに踏切の近くにおり、スマホで写真を撮っている。男の取り巻きも、彼女の様子を見てげらげらと笑っており、瀬奈々の悔しさは頂点に達した。
「要さん、こんなことして、どうなるかわかっているんですか」
瀬奈々は写真を撮っている要を睨み付け、必死にトランペットを取ろうとしている。しかし要は聞こえていないふりをして、未だに面白がって瀬奈々のことを晒し者にしている。汗だくになってトランペットを取ろうとしている障害者は、要にとってこれ以上の見世物はなかった。
「一生ここで座ってな」
ついに要たちはどこかへ消えてしまった。しかし、悔しさに涙を流している瀬奈々はそれに気付いていない。ただひたすら、恭一郎からもらったトランペットに手を伸ばしている。すると、踏切の警告音が鳴り始め、遮断機が降りてきた。
「え?」
瀬奈々は凍りついて、より一層手を伸ばすことに集中する。そして遂に、トランペットを掴むことに成功した。喜びもつかの間、彼女は踏切についている警告ボタンを押そうと車椅子を走らせようとする。しかし、溝にはまって一歩も動くことが出来ない。
「嘘だ! こんなこと……」
慌てふためいている間にも、列車は刻一刻と近づいてくる。しかも、通常の倍近くの速度で。春野町は早朝に、寝台特急が通る。要はその時間を知っており、瀬奈々をまんまと誘い出すことに成功したのだ。
精一杯の力を出して車椅子を押しだそうとしても、トランペットを取ったときに力を使い果たしてしまったようで、思ったように力が出ない。列車の轟音が、瀬奈々の耳に突き刺さる。
「嫌、嫌、いやあ!」
無情にも車椅子は微動だにしない。彼女は泣きながら押し出そうとするが、ついに列車は彼女の目の前まで来てしまう。そして鉄がひしゃける音を立てながら、瀬奈々は車椅子もろとも列車に轢かれてしまった。
それは恭一郎の耳にも聞こえていた。駅の方からものすごい音がしたので、彼は走り出す。そして見えてきたのは、煙を上げながら止まっている寝台特急だった。
「事故でも起こったのか?」
すでに周囲は野次馬がたかっており、恭一郎はそれをかき分けながら現場へと歩みを進める。その道中、こんな会話が聞こえてきた。
「まだ若いのに……」
「即死みたいだな。車いすごとぐちゃぐちゃになって」
車いす? 恭一郎はいやな予感がして、野次馬をかき分ける速度を早めた。数分後、野次馬の先頭に立った彼は、ショックに言葉を失った。
そこには青いビニールシートで隠された死体と、鉄くずと化した車椅子が横たわっていた。そして、トランペットも。警察が来ているのも忘れ、恭一郎は現場へと飛び込んでいった。
ビニールシートをめくってみると、そこには目を覆いたくなるほど無残な形となった死体があった。その近くには、瀬奈々が登校時に持っていたバッグがあった。それをあさってみると、春野高校の生徒手帳が出てきた。信じたくない気持ちでいっぱいだった恭一郎だが、現実を受け入れるようにしてそれを見る。
「2年5組、愛川 瀬奈々……」
それは紛れもなく瀬奈々のものだった。彼が崩れ落ちると、警察官が慌てて恭一郎を外に連れ出す。
「君、何やってるんだ。一般の人は立ち入り禁止だぞ!」
「……」
抜け殻のような恭一郎が野次馬の海から脱出すると、そこには八田が立っていた。彼女は恭一郎を見て察したらしく、ただ一言だけ残した。
「お悔やみ、申し上げます」
八田は拳を握りしめ、唇を固く結んで、恭一郎の前から姿を消した。こんなこと、誰が想像しただろうか。あまりの衝撃に、恭一郎は涙を流すことも忘れていた。
第七話 瀬奈々ちゃんを救え
突然の悲劇に、八田は放心状態で学校に向かっていた。どうして瀬奈々がここまでされなきゃいけなかったのだろう。もっと早く解決していれば、こんなことにはならなかったのに……。彼女は自分の無力さを呪った。悔し過ぎて、悲し過ぎて、涙も出なかった。
学校に到着すると、部室では今朝の事故の話題で持ちきりのようだった。しかし、誰ひとりとして瀬奈々の名前を出す人はいない。どうやら事故現場に言った人は一人もいないようで、いつものように騒いでいる人が殆どだった。
「みんな、おはよう」
八田が皆に挨拶する。皆は彼女がいつもと違うことに気付いたようで、急に話の勢いがしぼんだ。ある一人の部員が八田に話しかける。
「あの、八田先輩、どうしたんですか?」
しかし彼女は何も答えず、荷物を置いて部室を後にした。そして職員室に出向き、事故の真相を顧問に話そうとする。
「先生、おはようございます」
「おはよう。今朝の列車事故、聞いたか」
「はい。現場を見ました。亡くなったのは愛川です」
「ああ。私もいたのだが、まさか愛川が亡くなっていたとは……」
「それを他の人たちは知りません。今から部室に言って、全部話しましょう」
「分かっている」
顧問は沈痛な気持ちで、かみしめるように話していた。二人は部室に向かい、勢いよくドアを開ける。いきなり顧問が登場したことにより、部室は一気に静まり返った。
「みんな聞いてくれ。今日の定期演奏会は中止だ」
その発言に、部員一同がざわついた。しかし顧問は、それを無視するかのように話し続ける。
「今朝の列車事故、みんなは知っているよな。その被害者は、うちの吹奏楽部のトランペットのパートリーダー、愛川 瀬奈々だ」
その言葉に、部員一同は衝撃を受けた。まさか被害者が同じ部員だったなんて。中にはひざから崩れて泣き出す部員もいた。
「即死だったようだ。トランペットと車椅子は金属の塊となり、当然、体はどうなったかわかるな?」
八田は唇を固く結んで悲しみをこらえている。恭一郎のあの顔を思い出してしまうのだ。瀬奈々がいなくなったことによって、あのエネルギッシュだった先輩が、ゾンビのように無表情になって、足取りもおぼつかなかったのだ。それは彼女も同様で、今は何もしたくない気分だった。
「今日は全員、黙とうして解散としよう。定期演奏会中止のお知らせは、私が学校の入り口に張り紙を貼って知らせる。それに事務局の先生がホームページ上にアップしてくれる。それでは、黙とう!」
顧問の合図で、皆は一定時間黙とうをささげた。女子部員の嗚咽が聞こえる。八田はそれすらも聞きたくない気分で、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。しかし、今は故人を偲ぶことしかできない。そのことが、八田の無力感を一層強めた。
黙とうが終わり、部員たちは無言で校舎を後にする。しかし一人だけ、黙とうが終わってもそのまま部室に残っている女子がいた。夢見(ゆめみ) 友(とも)恵(え)という一年生の女子である。彼女はトランペット担当で、よく瀬奈々からアドバイスをもらい、日々成長していたのだ。黙とうが終わって泣き崩れている彼女を、八田は優しく介抱した。
「夢見、もう帰ろう。部室閉めるよ」
八田が夢見を立たせ、鍵を閉める。夢見は未だに八田に寄り添っており、泣きやむ様子も見せない。職員室に入ると、先生方は察したのか、無言で彼女たちを見つめていた。顧問にカギを返した彼女たちは校門を出て、近くの公園で落ち着こうとした。
「何で、先輩が亡くならなきゃならなかったんですか」
「私だってわからない。でも、瀬奈々ちゃんは下級生の男子にいじめられていたのは知っているよね?」
「はい。でも、苛められて自殺する性格じゃありません!」
「それは私も分かっている。でも……」
すると、彼女たちにとって聞きなれた声が飛び込んできた。要を含む、男子数人が公園の前でしゃべっていたのだ。
「あいつら……」
「知っているの? 夢見」
「うちのクラスの男子です。何時も先輩をいじめては、クラスの男子に自慢していました」
夢見は彼らに殺意にも似た視線を向けているが、本人は気付いていない。すると八田はとある機械を持ち出し、男子たちに近付いた。
「先輩、それなんですか?」
「見ればわかるでしょ、盗聴器。これで何か掴めたらなって」
「分かりました、黙っています」
夢見は息をひそめるようにベンチに座っている。八田はすぐに男子数人の会話を盗聴することにした。幸いにも彼らは大きい声で話していたので、会話を拾うのは容易だった。
「今日のあれ、どうだった」
「マジで最高! こんなに面白いことしてて、俺たち呼ばないなんてずるいよ」
なんのことだ? 八田は盗聴器を彼らに向けているが、話し始めたばかりなのか、本題に入ろうとしない。しかし、それでも彼女は辛抱強く待ち、情報を掴もうとする。たとえどんなに些細な情報でも……。
その頃夢見は、八田の様子をベンチに座りながら、固唾をのんで見つめていた。先輩は大丈夫なのだろうか。しっかりと会話は聞き取っているのだろうか。彼女は勝手に悩んでいる。と、そこに彼女にとって見慣れた男が公園の近くを横切る。彼女はそれに気付いたのか、迷わずに声を掛けた。
「あの……」
男は夢見の声に立ち止り、彼女の方を振り返る。そこにいたのは、今にも死にそうな顔をしている恭一郎だった。彼は瀬奈々を亡くした失意に耐えられず、今の今まで春野町をさまようようにして歩いていたのだ。
「君は?」
「春野高校一年の、夢見 友恵です。吹奏楽部で、パートはトランペットです」
彼女は礼儀正しくお辞儀をして、恭一郎に敬意を示す。恭一郎も同様に、軽く会釈をする。そして、うなだれるようにしてベンチに座った。相当疲れていたのだろう。夢見は恭一郎の淀んだ表情を見て、彼の隣に座る。
「初めまして、ですね」
「そうだね」
「先輩は、愛川先輩と同じで、トランペットをやっていたと聞きました」
「そうだけど、君は瀬奈々を知っているのか」
「はい。とても優しくて、私が失敗しても庇ってくださる、優しい先輩でした……」
そう言っているうちに、夢見の目から涙がこぼれた。瀬奈々のことを話していると、彼女との思い出がよみがえってくる。何回一緒に帰ったことだろう。何度ためになるアドバイスを授かったことだろう。彼女の中では数えきれないくらいだった。
「すみません、先輩方の前では泣かないって決めていたのに……」
「いいよ。俺だって泣きたいくらいだ。最愛の彼女を、失ってしまったのだから」
「愛川先輩、私と帰るときは良く恭一郎先輩のことを話していました。早く会いたいって、何度聞いたことか。私、羨ましいなって思いました」
涙に声を震わせながらも、夢見は話し続ける。彼女の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。そこに、恭一郎がティッシュを差し出す。
「良かったら使って」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
「いいよ」
「こういう優しさも、愛川先輩そっくりですね」
「あいつは元から思いやりがある奴だった。しかし如何せん不器用でな。だから、自他ともに認める吹奏楽部の足手まといだったんだよ。去年までは」
恭一郎も瀬奈々についての思い出話を語り始める。夢見はそれに食いついていた。彼の口調が饒舌になりつつあることにも気付きながら。
「でも、俺と付き合い始めてから大きく変わったな。なんでもてきぱきとこなすようになったし、卒業式が終わってからのサプライズを企画したのもあいつだった。びっくりしたよ」
サプライズとは、卒業式が終わった後に吹奏楽部の三年生を全員部室に呼び出し、薬玉と花束でお祝いするという、ごく単純なものであった。
「後から聞いたけど、あいつ、徹夜で薬玉作っていたらしい。それで卒業式には遅刻ギリギリで来たんだと」
「そうだったんですか」
「あいつはこれからどんどん変わっていくだろうなと思った矢先に、今日があった」
「恭一郎先輩の心中、お察しします」
「君だって辛いだろう。先輩の中で一番面倒見てもらっていた人が亡くなったんだから」
「でも、恭一郎先輩ほどではないです」
夢見はいつの間にか、泣かなくなっていた。恭一郎と話していると、不思議と心が安らぐ感じがしたのだ。同時に、二人の距離も自然と縮まっているのも感じている。
「あいつ、俺が告白をオッケーしたときに、初めて俺の前で泣いたんだよな。今まではどんなことがあっても、部活では泣かなかったのに」
「そうなんですか。私は泣いてばっかりでしたけどね。厳しい口調で指摘された時とか、いつも愛川先輩に慰めてもらっていました。今考えると、情けないですね、私」
夢見が自虐的に笑うと、恭一郎は彼女と向き合った。何かあったのかとキョトンとしている彼女に、恭一郎が語りかける。
「今のうちに泣いておけ。自分の感情を吐き出せるというのは、とても幸せなことなんだよ。現に俺は不幸せだ。本当に情けないのは、泣きたくてもなけない奴のことを言うんじゃないかな」
「そう……、ですか?」
「そうとも。なぜだか泣けない俺なんかと比べたら、夢見はとても逞しいよ」
「恭一郎先輩、なんだか、愛川先輩の喋り方に似ていますね」
夢見は恭一郎の喋り方によって、瀬奈々と会話していると錯覚しそうになっていた。彼女は涙目になって恭一郎を見つめており、そのたびに現実に引き戻されていく。
「そうか? 俺は瀬奈々よりはきついけどな、喋り方」
「愛川先輩、いつもこんな感じで私を励ましてくれました。もう声も聞けないんですね」
夢見と話していた恭一郎は、この言葉で我に返った。そうだ、瀬奈々はもうこの世にはいないのだ。彼は現実を受け入れるようにして夢見から視線を逸らした。それから二人の間に沈黙が流れる。夢見は恭一郎が再び下を向いてうなだれてしまったことに気まずさを覚えた。私のせいで、先輩はまた暗くなってしまったのか。そんな感情もあって、彼女は余計に話しづらくなってしまっていた。
何とかこの状況を打開しなければ。夢見は考えていた。すると幸いなことに、八田が帰ってきたのだ。八田は恭一郎がここにいたことにびっくりしている。
「恭一郎先輩?」
「八田か。なんか済まないな」
「なんですか! 先輩は何も悪いことしていませんよ」
「俺が要を潰したいといったばっかりに、瀬奈々は、瀬奈々は……」
「自己嫌悪はやめてください! というか夢見、何やってるの!」
「す、すみません」
「いいんだ、八田。もう少し彼女と話させてくれ」
恭一郎は控えめな口調で八田を制すると、再び夢見と向き合った。夢見も同様に、泣きそうになりながら恭一郎と再び会話をしようとする。
「今日はありがとう」
「え、私、何かしましたか?」
「俺と話してくれたことだよ。少しだけすっきりしたよ」
「あ、はい! そう言っていただければ嬉しいです!」
夢見は恭一郎に礼を言われ、少しうれしく、また照れくさくなった。彼女も瀬奈々同様に、先輩から褒められることに慣れていなかったのだ。
「恭一郎先輩、良かったら連絡先、教えてもらえませんか? こんな時に不謹慎だってことは分かっているんですけど……」
「別にいいよ。SNSでいいかい?」
とあるSNSを起動した恭一郎は、自分のIDを夢見に見せた。同時に、隣にいた八田もIDを見て、友達リストに入れる。
「そういえば八田も、登録していなかったな」
「ですね」
「恭一郎先輩、登録完了しました。ありがとうございました!」
「こちらこそ。好きな時間に連絡して。まあ、出られるかどうかは分からないけど」
そう言って恭一郎は席を立ち、二人と向き合った。
「これから瀬奈々の家に行こうと思う。一緒に来てくれないか」
「勿論です」
「私も行きます。でも、黒っぽい服装に着替えてからの方がいいですよね」
「私たちは制服があるからいいけど、恭一郎先輩はどうしますか?」
「そうだな。着替えてからにするよ。ちょっと待っていてくれないか」
「分かりました。いつまでも待っていますよ」
そういうと恭一郎はいったん二人と離れ、自宅に到着した。そしてクローゼットを探り、父親が使用していたお葬式用の礼服に身を包む。それを見た父親はびっくりしたような顔で恭一郎を見つめた。
「葬式にでも行くのか」
「愛川さんの遺族の方々に、顔を合わせに行くだけさ」
「まさか、亡くなったのって……」
「そう、愛川さんの一人娘の瀬奈々だよ」
父親は呆然として立ち尽くしていた。それを尻目に、恭一郎はだれにも告げずに外に出る。そして数分後、彼は八田と夢見と合流し、瀬奈々の家に出向く。そこにはすでに、近所の人たちが花束を持って参列しており、瀬奈々の両親は涙で目を腫らしていた。しかし、参列したのは彼らが最後のようで、彼らの後ろには誰もいない。
「失礼のないようにな」
「はい」
三人が愛川家に入ると、母親が涙を拭いて応対してくれた。
「ほかの吹奏楽部の人たちは、もう参列してくださったのですか?」
「ええ。先生、生徒の皆さんはみんな泣いていましたよ」
そう言いながら、母親は三人に飲み物を出してくれた。
「あなたたちは、瀬奈々にとてもよくしてくれましたね。ありがとう」
「そんな、私たちなんて……」
「良いの。私からの気持ちだから。飲みなさい」
三人は口々に失礼します、と一言添えて飲み物を飲む。母親は早朝からのごたごたで疲れていたらしく、ぐったりとしてソファーに座る。恭一郎は瀬奈々の家に来ていたことを思い出していた。手を繋いで語り合っている所を母親に見られ、付き合っているのがばれたとき、休日に遊びに行って、初めて父親と会ったとき、とても緊張し、気まずい空気になったこと。それを瀬奈々が和ませてくれたこと。
「恭一郎君」
「はい」
「瀬奈々をありがとうございました」
「それを言われる義理なんぞ、僕にはありません。僕は彼女を守ることが出来なかったのですから」
「いえいえ、瀬奈々は、あなたといた時間が一番楽しいと言っていました。ここにはいないけど、お父さんも、この人なら瀬奈々を任せられる! なんて言って……」
「そんなことを……」
恭一郎は顔を赤くして俯いた。まさかあんな強面な人が、そんなことを思っていたなんて。彼は目頭が熱くなるのを感じた。
「八田さんも夢見さんも、瀬奈々を支えてくれてありがとうね」
「とんでもないです。私なんて、先輩に迷惑ばっかりかけて」
「瀬奈々、家に帰ってきてからはいつも私たちに部活で起こったことを報告してくれたんだけど、あなたの話題で持ちきりだったのよ。いつも元気いっぱいで、たまにミスもするけど可愛い後輩だって。八田さんのことも、いつも車椅子を押してもらって申し訳ないって」
夢見はその言葉に胸を打たれ、自然と目から涙がこぼれてきた。八田もこの時ばかりは顔をくしゃくしゃにして泣き崩れる。申し訳ない気持ちはこっちだって一緒だ。要を潰す途上で最大の友人、先輩を失ってしまった。彼が落ちていく様を、瀬奈々と一緒に見たかった。また一緒に、笑い合いたかった。吹奏楽もしたかった。様々な思いが浮かんでは、涙となって落ちていく。
すると、瀬奈々の父親が部屋に入ってきた。三人ははじかれたように彼を見る。
「お邪魔しています」
「ああ、恭一郎君に八田さん、それに、夢見さんか」
父親も同じく、疲労困憊の様子だった。どうやら会社の人たちに瀬奈々が亡くなった報告をしているうちに、かなりの時間が経ったようだった。
「君たちには本当にお世話になったと思っている。今まで瀬奈々を、ありがとう!」
「そんな……、僕は何も」
「君は実によくできた男だ。このまま仲が続けば、瀬奈々を君にやろうとまで思っていた」
「そうだったんですか……」
「それなのに、それなのに……」
父親は急に泣き出した。瀬奈々のことが思い浮かんだのだろう。恭一郎は、なぜだかそれを止めることが出来なかった。すると、母親が父親を別室に連れて行く。
「すみませんね」
「いえ、むしろ僕も泣きたいです。そういえば、踏切での事故でしたよね」
「ええ。瀬奈々には毎日のように、踏切は渡らないで遠回りして学校に行きなさいって言っていたのに、今日に限ってこんな……」
「多分、早く練習したかったんでしょう。もしも彼女と同じ状況だったら、僕も踏切を渡って近道しますから」
その会話を聞いていた八田は急に眼を大きく開き、何かを思い出したかのように二人の間に割って入った。
「二人とも、ちょっといいですか?」
「なんだよ、八田。息が荒いぞ」
「瀬奈々ちゃんは踏切を渡りたくて渡ったわけではありません。無理やり連れてこられたのです!」
「え?」
その一言に、二人は耳を疑った。特に母親は混乱しているらしく、どう対応していいかわからず、フローリングにへたり込む。
「それはどういうことだ」
「私、偶然要たちに遭遇して、会話をこの盗聴器で傍受しました」
「本当か!」
「まずはこれを聞いてください。車の通る音とかも聞こえますが、結構よく聞こえます」
夢見は混乱している母親を引っ張り、八田の盗聴器に耳を傾けさせる。八田が盗聴器の再生ボタンをオンにすると、会話が再生された。
「それで、あの障害者はどうなったの」
「ああ、死んだよ。列車事故、見なかった?」
「マジかよ! 特急に轢かれたんだろ?」
「そうそう。ひでえ有様だったらしいぜ。身体はミンチになって、トランペットとかもうぐしゃぐしゃ。まあ、あの障害者にはお似合いだったけどな」
八田以外の三人は凍りついて聞いていた。当の八田も、改めて聞くと殺意がこみ上げてくる。会話はまだ続くようで、要たちのテンションも高くなっていく。
「トランペット必死で取る姿、あれ最高!」
「どうせ安物なのに、何でここまで必死になれたのか、分からないぜ」
「にしても考えたな、トランペットひったくって、踏切の前に置くなんて」
「徹夜で考えたんだよ。あの障害者、もうおもちゃにするのは飽きたから、そろそろ死んでくれないかなって」
「自分で手を下さずに殺せるなんて最高じゃん! 流石町議会議員の息子だよ」
「おいおい、そこ関係あるか?」
ここで会話は途切れていた。母親はわなわなとふるえており、恭一郎と夢見も殺意に満ちた表情をしている。
「これが現実です。辛いかもしれませんが……」
「これはれっきとした殺人よ! すぐに警察に通報して!」
母親はヒステリックになっており、周りが見えなくなっていた。実の娘をこんな下らない理由で殺されたのだ。発狂するのも無理はない。気持ちは痛いほどわかったが、八田は母親を制止させた。
「私に考えがあります。警察に送るよりもつらい方法が」
「え?」
「まあ見ていてください。二日もあれば、彼と彼の家族を地獄に叩き落せます」
意味深な発言を残し、八田は一礼して愛川家を後にする。恭一郎も発狂しそうになっている夢見を介抱しながら、母親に一礼をして、八田の後を追った。この先、彼女の考えていることは何だろう。恭一郎は期待と不安、そして一抹の恐怖を心の中で膨張させながら、先程の公園に到着した。
「ひどい! 先輩をおもちゃ呼ばわりするなんて! 絶対に許せない!」
「俺も夢見と全く同じ気持ちだ。絶対に許されるべきではないと思っている」
その時、八田からSNSに着信があった。グループの誘いのようだ。グループ名には、『瀬奈々ちゃんを救え』と書かれてある。誘いは夢見のスマホにも届いていたようで、二人はほぼ同時に誘いを承認した。トーク画面に入ると、早速通知が入る。
『承認ありがとうございます。これから本格的に作業を開始いたしますので、各自着替えてから私の家に来てください。全員そろい次第、作業の概要を説明いたします』
二人は同時に「了解」と返信し、ベンチを立つ。
「それでは、またあとで」
「はい」
二人は決然とした表情で公園を後にした。この先待っていることの重大さに、覚悟を抱きながら。
第八話 反撃開始!
恭一郎が自宅に戻り、軽めの昼食を済ませた後、グループチャットに新たな通知が入る。それは夢見に向けられたものであったが、彼は一応目を通してみることにした。
『夢見へ、あなたのクラスの連絡網を持ってきてください。そこに要の電話番号が記載されている筈ですよね』
電話番号なんて使って何をする気だ? 彼は好奇心をくすぐられ、少しだけ早足で八田の家に向かう。そこではすでに夢見と八田がパソコンに向かっていた。開いていたサイトは、やはりKATARUだった。
「済まないな、遅れて」
「全然構いませんよ。それより、これを見てください。私が思っていたより、要の情報は掘られていたみたいです」
スレッドの内容を見てみると、いたるところにウェブ魚拓が貼られていた。それを見ると、彼の過去に更新した個人ブログの内容が殆どだった。そこには彼の家族構成、どこに行ったか、そこで何をしたか、また瀬奈々をいじめた記述も多数見受けられる。
それを見た恭一郎は、ますます要を許せなくなっていた。あいつには死よりもつらい仕打ちをしなくては。憎悪の焔が、彼の心中にともる。すると八田が、連絡網を持って席を立つ。
「どこに行くんだ?」
「ちょっと印刷してきます」
「印刷?」
「連絡網を印刷して、要とその取り巻きの人たち以外の住所を黒塗りにしてプライバシーを保ちます。もう一枚は夢見に返します」
「それってまさか、要たちの電話番号をKATARU上に晒すっていうことか!」
「そういうことになりますね。取り巻きの名前は、先輩が来る前に夢見から聞き出しました。幸いにも、全員同じクラスだったので」
そういうと八田は階段を降り、印刷機の前まで歩みを進める。その間に、恭一郎と夢見は何もすることが無くなってしまった。沈黙が場を包んだが、夢見がいきなり口を開く。
「あの、恭一郎先輩は、いつまでここにいるんですか?」
「え? ああ、定期演奏会を見てから帰ろうと思っていたから、明日には帰るかな」
「そうなんですか……」
夢見は妙にさびしそうな表情で俯いてしまう。恭一郎は彼女の表情を察し、慌てて言葉を告ぐ。
「大丈夫。二度と会えないわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「俺の両親が、八月の終わりごろに俺の住んでいる町に引っ越すんだ。だから、春野町にはもう長くいられなくなる」
「そんな……」
「でも、後輩たちにはこれからも顔を合わせるつもりだよ」
それを聞いた夢見の表情は、安堵のものに変わった。そこに、八田が連絡網を持って部屋に入ってくる。一つは既に要とその取り巻き以外の電話番号は黒く塗りつぶされており、プライバシーは万全だった。
「先輩、何良い雰囲気になってるんですか。天国の瀬奈々ちゃんが嫉妬しちゃいますよ」
「五月蠅い。ほっとけ」
「夢見、これ」
八田が茶々を入れた直後に夢見に渡したものは、コピーに使った連絡網だった。こちらには何も手を加えられておらず、夢見は一礼して受け取る。
「それと夢見、先輩と話すのは良いけど、行き過ぎないようにね」
「……失礼しました」
八田は夢見の詫びを聞いた後、連絡網を写真に撮り始める。そしてこれをパソコンに送信し、KATARUの要追跡スレにそれを貼りつける。その作業は一瞬で終わり、恭一郎と夢見は八田の手際のよさに舌を巻いた。
「先輩、すごいです!」
「部活での振る舞いも、これくらい手際よくなっていればな」
「失礼ですね。こう見ても副部長なんですよ」
八田は恭一郎がだんだんいつもの彼に戻りつつあることを感じていた。つい一時間ほど前までは、こんな茶々も入れられなかったのだ。彼女は内心嬉しく思い、写真をアップしたのちにこのようなコメントを追加した。
『要とその取り巻きの電話番号や。後輩から連絡網借りてアップしといた。こいつらもどうやら、車椅子の女のいじめにかかわっているらしいで。ソースはわいの後輩』
そのレスを提供した数分も経たないうちに、スレはお祭り騒ぎとなった。
「おい、どんどんコメントが増えているぞ」
「そんなもんですよ、KATARUって」
八田は飄々とした顔でパソコンとにらめっこしている。
『サンキュー! というか取り巻きもいたんだな』
『電話番号も分かったことだし何しようかな(ゲス顔)』
そして八田は、とどめの一撃を加える。彼女が盗聴した音声データをパソコンに落とし、KATARUに掲載しようとしたのだ。
「八田、それって……」
「盗聴した音声です。これで彼が罪人であることをはっきりさせます」
彼女は音声ファイルを添付し、こうコメントした。
『今日の朝に起きた列車事故、覚えてるか? ニュースでもやっていると思うけど。亡くなったの、要がいじめていたあの車椅子の女の子や。その事故を起こした原因は要。ソースはこのわいが要の会話盗聴した音声ファイル』
八田のキーボードをタイプする音が、次第に大きくなってくる。彼女は感情的になっており、唇をかみしめている。悲しみ、悔しさ、怒りがわきあがってくるのが自分でも分かっていた。恭一郎も彼女と同じ気持ちで、あの音声を脳内再生すると要を殺したくなる。っコメントを送信し終えると、八田は力尽きたかのように床に大の字になって寝そべった。
「お疲れ、そしてありがとう」
「先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。あとは、同志がいろいろやってくれるでしょう」
力尽きた八田の代わりに恭一郎がパソコンを動かす。ページを更新すると、音声ファイルを掲載してからいくばくも経たないうちに、スレッドは上限である1000コメント寸前にまで到達しようとしていた。
『これマジ? 糞糞&糞。絶対に許すな』
『たっぷりとお灸をすえてやらないと』
『潰せ! 家族、取り巻き、取り巻きの家族ともども根絶やしじゃ!』
『これは……。死んだ女の子が浮かばれないわ』
『おもちゃとか。今度はお前がおもちゃになる番だよ。覚悟しろ』
『とりあえず電話番号と住所が分かったから、あらゆるイスラムのテロ組織に履歴書出しておいたわ。テロ組織って電話番号と住所さえあれば、ネットで簡単に手続きできるんだな。驚いたわ』
恭一郎は唖然としてスレッドの内容を見ていた。テロ組織? 彼は身の毛がよだつ思いがし、慌てて八田を起こす。
「おい、テロ組織に履歴書送った奴がいるぞ」
「そうですか。早速やりやがりましたね」
そう言っているが、彼女は満面の笑みだ。それから彼女はとあるサイトを開く。それは要が運営しているアフィリエイトブログ、嫌韓速報だった。それからUSBを差し込み、あるファイルを開く。そこにはわけのわからない言語が羅列されており、夢見はちんぷんかんぷんな様子だ。しかし、恭一郎は口を半開きにして凍り付いている。
「恭一郎先輩、どうしたんですか?」
「八田、さすがにこれはヤバい」
「何がですか。私はただ……」
「いくらおまえでも、越えちゃいけないラインがあることは知っている筈だ!」
「先輩、越えちゃいけないラインなんてスタートラインみたいなもんですよ」
にっこりほほ笑んだ八田に、恭一郎は彼女に狂気を感じた。夢見は未だにわからない様子で、二人を交互に見やる。
「先輩方、何があったんですか!」
「夢見、お前は知らなくてもいい」
そうやってやり過ごした後、恭一郎は八田に耳打ちした。
「これって、他人のパソコンを遠隔操作できるウイルスじゃないか!」
「正解です。どうしてわかったんですか?」
「父さんからこのことは口外するなと言われたんだが、父さんは警察に勤めていて、ホワイトハッカーだったんだ。もう退職したけど。最初に父さんにこのファイルを見せられた時にはわけがわからなかったんだけど……」
「そうだったんですか。さあ、ここからがショータイムの始まりです!」
そうすると彼女は、要の運営するブログにウイルスを流し込む。幸いにもセキュリティーに関しては厳重ではなかったようで、彼のパソコンの中に容易に侵入することが出来た。
「これで要のパソコンは私のものになりました。データも、アドレスも、全部ね」
「これでどうするつもりだよ」
「まあ見ていてください。面白いですよ」
八田は要のアドレスを利用して、とあるサイトに侵入した。それを見た二人は、あいた口がふさがらなかった。
「指定暴力団、川口組!」
「へえ、ホームページから団員希望が出来るのか」
恭一郎と夢見は、ただあたふたすることしかできなかった。それに対して八田は、勝利を確信したかのような高笑いを上げている。彼女は要のメールアドレス、住所、本名、電話番号を添付し、団員希望のフォームをクリックした。結果はすぐに受容され、『翌日に履歴書が送付されます。ご登録ありがとうございました』という文面とともに、団員希望の手続きは完了した。
八田はKATARUに戻り、コメントの反応を窺う。
『俺は南米のギャング組織に履歴書を送付したで。もちろん、ポルトガル語で』
『麻薬注文してやった。明朝には乾燥大麻1キロが、玄関に届いている筈や』
『みんなすごいことやりよるな。俺は牛糞1キロを要名義で注文してやったけど、お前らに比べたらしょぼいもんだな』
『待て。アフィブログの内容を忘れたか? 明らかに朝鮮を罵倒している内容だったから、朝鮮総連に要名義で殺害予告送っておいた』
三人はとどめに、要たちの会話を収めた音声ファイルを大手動画投稿サイトにアップした。またこの動画をSNSで拡散するなど、徹底的に広める活動も行った。それはKATARUの住民もそれに加担したことによって一瞬で拡散し、夕方までに一万回再生を記録した。
「もうこんな時間か」
「両親も帰ってきますし、この辺でお開きとしましょうか」
「みんな、ありがとう。あとは明日を待つだけだ」
いつの間にか、恭一郎は涙声になっていた。そんな彼の思いを感じ取ったのか、夢見は唇をかみしめて涙を流している。
「これでやっと、愛川先輩に報告できますね」
「ああ、瀬奈々、俺たちはやったんだ」
「恭一郎先輩、夢見、ありがとうございました。皆さんのおかげで、私は戦うことが出来ました」
八田は二人に深々と礼をする。明日がどうなるか楽しみだ。心の中ではニヤニヤが止まらなかった。
「今回の功労賞はお前だよ、八田。いい後輩を持った」
「先輩、かっこよかったです!」
「何でお礼を言われなきゃならないんですか。私は当然のことをしたまでですよ」
八田は照れ隠しにそっぽを向いた。彼女が部活で見せる、いつもの癖だ。そして二人は改めて八田に礼を言って、夕日に照らされながら帰路についた。
道中、夢見は恭一郎のことをちらちら見ては俯くことを繰り返していた。指をせわしなく動かし、挙動も落ち着きがない。それを恭一郎は見抜いていた。
「どうした、夢見」
「……いいえ、なんでもないです」
彼女は恭一郎と二人きりになったことにより、より緊張感が増していた。先程までは八田がいたので、それほど緊張はしなかった。しかし、こうしている今、恭一郎が帰る時間は刻一刻と近づいていることを感じている。彼女は焦っていた。
結局、先に家に着いたのは夢見の方だった。あれから彼らは、一言も話すことは無かった。彼女は泣きそうになりながら恭一郎を見送る。
「先輩、また明日会いましょう」
「そうだね。また明日」
恭一郎の歩いている後ろ姿を見つめながら、夢見は心の中で手を振った。なんて自分は意気地なしなのだろう。ふがいない気持ちが彼女の心を支配する。自分の部屋に入ると、着替えるのも忘れてベッドに倒れこみ、そのまま声に出して泣いた。この状況だから、伝えられないのは仕方が無い。しかし、それにしても自分が情けない。正直な気持ちひとつ伝えることが出来ないのだから。
「大好き、です、恭一郎先輩。大好きです!」
彼女は恭一郎に恋心を抱いてしまったのだ。瀬奈々を想起させるような優しさ、喋り方、まっすぐな気持ち。初対面の時から心が揺さぶられる気持ちに駆られていた。しかし、ここで告白してしまったら、恭一郎に失礼だと感じていたのだ。結局彼女は夜まで泣き続け、この日は溢れる感情、思いを制御できずじまいだった。
恭一郎は夜中の二時なのにもかかわらず起きていた。疲れている筈なのに、なぜか心臓の高鳴りが止まらない。朝が近付いて、緊張しているのだろうか。彼は胸を抑え、自分の鼓動を確認する。それはドラムを刻んだような速さで、心なしか息も荒くなってくる。
「はあ、はあ……」
急な環境の変化に、体がついていけていないのだろうか。彼は勝手な仮説を立ててその場をやり過ごそうとする。すると、彼のスマホに着信が入った。過剰に体を震わせて電話に出ると、それは夢見からだった。こんな時間になんだ? 彼は胸の鼓動を気にしながら電話に出る。
「もしもし」
夜遅くの電話のはずなのに、彼は怒りを感じなかった。赤の他人だったら、こうはならなかっただろう。夢見はか細い声で話し始める。
「こんな時間にすみません。どうしてもお話がしたくて」
「なんだい?」
恭一郎は出来るだけ優しく接することに努める。
「本当は帰り道で言いたかったことなんですけど、今言います」
「はいはい」
このシチュエーション、どこかで体験したことあるな。内心そう思った恭一郎だったが、今はあえて考えないことにした。その後しばらくは、夢見の呼吸する音がかすかに聞こえてくるだけだった。
「どうした? もう寝ちゃうよ」
「ま、待ってください! 言います! あの、実は……」
「実は?」
「せ、先輩の、ことが、す、好きでした! 付き合って、くれないでしょうか!」
恭一郎は衝撃を受けたと同時に度肝を抜かれた。まさかこいつが、俺に恋愛感情を持っていたとは。初対面なのに大胆だな。そのせいで彼は、しばらく言葉が出なかった。それに気付かない夢見は、不安な気持ちで押し潰されそうになっている。
「先輩?」
夢見は祈るようにしてスマホを握りしめる。しかし、恭一郎からの返事は来ない。彼は苦悩していたのだ。瀬奈々が亡くなった今、彼は一人身だ。しかし、ここで即決してしまったら、瀬奈々にも夢見にも失礼な気がしてきた。そこで彼は、考えた末に口を開く。
「今は心の整理がつかない。だってそうだろう? いきなり言われちゃ、誰だって困惑する」
「はい……」
「だから頼む。俺が帰るまでには必ず返事をする。それでいいか?」
「いつ帰るんですか?」
「今日の18時のバスで帰る。それまでには答えを出す。頼む」
夢見は立場上、食い下がることが出来なかった。結局恭一郎の頼みを承諾し、電話を切る。彼女はこうして、不安に満ちた夜を送ることとなった。
なんとかその場をやり過ごした恭一郎は、ほっとした気持ちになっていた。先程まで続いていた胸の鼓動も落ち着いている。これは夢見と話したおかげなのか? 彼はそんなことさえ思った。それと同時に、彼を睡魔が襲う。ついさっきまで全く眠くなかったのに、夢見と話してからはどうも体の様子が普通の状態に戻りつつある。彼は電気を点けっぱなしにしながら、死んだように眠りについた。
「……?」
しばらくたってから、恭一郎は目が覚める。つけっぱなしにしていた電気は誰かに消されており、部屋もきれいに片づけられている。彼は目を疑って自分の部屋の周りを見た。これはいったいどういうことだ? 彼があたふたしていると、押し入れから光が漏れているのが見えた。
「なんだよ、これ」
恭一郎は手を震わせながら押入れのドアを開ける。すると、彼の目に鋭い光が直撃した。光は彼の予想を上回る明るさで、しばらくうずくまってしまうほどだった。
「うああ……」
光に目が慣れてきたとき、恭一郎は目を出来る限り開け、どのような状況になっているのか把握することに努めた。すると光の中に人影が見える。それは恭一郎に少しずつ近づいてくる。彼は後ずさりしたが、すぐに壁に到達してしまう。
「だ、誰だよ。なんか言ったらどうだ!」
それでも人影は反応せず、ただただ恭一郎に近寄ってくる。そして、人影は彼の肩をぐっとつかんだ。恭一郎が身震いしながら掴まれた肩を見ると、どこか見覚えのある手があった。まさか……。恭一郎は掴まれた手を放し、顔をじっくり見ようと人影と同じ目線に立つ。顔を見たとき、彼の予想は的中した。
「……瀬奈々!」
「先輩、会いたかったです」
その時、押し入れから出ている光が消えた。同時に部屋の電気が勝手につき、見慣れた笑顔がはっきりと映し出された。
第九話 さようなら、みんな
気持ちが幾分落ち着いた恭一郎は、瀬奈々と顔を合わせて座っている。彼女にはかつてあった両足があり、女の子座りで恥ずかしそうにしている。
「どうしてここに?」
「最期のお別れをしたくて……」
これで本当に最後だと思うと、恭一郎は悲しい気持ちになってくる。
「そんな顔しないで下さいよ」
「ん? ああ、そうだな」
「先輩、私は幸せでしたよ」
「俺だって同じだ」
彼女とのとりとめのない会話。昨日もしたはずなのに、なぜか久しぶりにした感覚に陥っている。しかし、彼女に悲しい顔をするなと言われても、自然に涙がこぼれてくる。瀬奈々を失ってから、初めて流した涙だった。
「すまん、俺が守れなくて……」
「私は先輩に守られっぱなしでした。だから、一度や二度くらいいいですよ」
「お前は死んだんだぞ!」
「それでもいいんです。たとえ夢でも、先輩に会えただけで、私は幸せなんです」
恭一郎は瀬奈々の前で泣き崩れた。情けないと分かっていても、自分では制御できなかった。そんな彼に、瀬奈々は優しく手を差し伸べる。
「とっくに死んだ人を守るよりも、今守らなければいけない人を守った方がいいと、私は思います。夢見ちゃんみたいに」
「……え?」
「あの子、要さんたちからイジメに遭っていたんです。男性不信になるほどに」
「それは本当なのか?」
「私を庇おうとして夢見ちゃんが間に割って入った時があったんですよ。それからイジメの標的にされて……」
瀬奈々は罪悪感でいっぱいだった。自分がいなければ、夢見もいじめられることは無かっただろう。彼女によくあるネガティブ思考だった。
「だからお願いです。私のことは良いから、夢見ちゃんを守ってあげてください!」
彼女の切実なお願いに、恭一郎はひるんだ。こいつ、今日起こったことを何もかも知っているような口調でいる。しかし、彼には瀬奈々を裏切ることが出来ないという感情が少しだけ残っていた。
「お前は本当に他人のことを第一に考えるな。昔からそうだよ」
「そうですか? 自分ではそんなこと、思ったことないです」
「本当にいいのか? 俺が夢見と一緒になっても」
「私は全然構いません。どうせもう火葬される身ですし」
それから彼は考えた。確かに瀬奈々はこの場からはいなくなるが、彼にとっては大事な人だ。しかし、夜中にあった夢見の電話、そして瀬奈々の意見。様々な思いが混ざり合い、そして彼の心の中にたまっていく。
「私はもう、恭一郎先輩に出来ることはすべてやりました。デートだって、キスだってしましたから。今度はそれを、心が傷ついた後輩にする番ですよ」
瀬奈々は顔を赤らめて回想に浸る。恭一郎と一緒にいた時間はごくわずかなものであったが、内容はとても濃かった。高速バスを使って都会まで行き、そこで一緒にショッピングを楽しんだり、テスト期間中は成績優秀な恭一郎に家庭教師についてもらったこともあった。そのおかげで彼女は高得点を取り、学年でトップクラスの成績にまでのし上がることが出来たのだ。
恭一郎が沈黙をしているうちに、窓から朝日が差し込んできた。結局彼は最後まで決められず、瀬奈々を戸惑わせる羽目となってしまったのだ。
「先輩、急がないと……」
その言葉が何を意味しているのか、恭一郎にはわかっていた。夢からさめれば、瀬奈々は自分の前からいなくなる。それまでに決めなければ。彼の顔に、焦りの色が見えてくる。すると、彼はふと夢見の言葉を思い出した。
「先輩のことか、す、好きでした! 付き合ってくれないでしょうか!」
あんなに緊張していっていたということは、冷やかしではない。瀬奈々の告白を実際に受け取ったからわかる、あの独特な感じ。涙に震えていた、夢見の声。あれが演技ならオスカーものだ。彼は決心がついたのか、いきなり瀬奈々を抱きしめた。最後に彼女のぬくもりに触れたくて……。
「先輩?」
「決まったよ。お前のわがままをのもう」
その返事を待っていたかのように、瀬奈々は微笑みを浮かべながら優しく抱きしめ返す。そして彼女は、光の粒子となって跡形もなく消えていってしまった。
「夢見ちゃんを、よろしくお願いしますね」
「ああ」
粒子となって消えてしまった後も、彼は瀬奈々を抱きしめるポーズで固まっていた。夢から覚めたのは、その直後のことであった。
「瀬奈々!」
恭一郎は慌てて飛び起きた。しかし、電気はつけっぱなしで部屋は散らかったままだ。押し入れの中を調べてみても、中には誰もいない。やはりあれは夢だったのか。彼は少しだけがっかりしながら押入れを閉める。
「しかし、やけに鮮明な夢だったな」
こうつぶやいた恭一郎は電気を消す。カーテンを開けると、外は雲一つない青空が広がっていた。リビングに行くと、両親がニュース番組を見ている。何事もない出来事だったが、直後に臨時ニュースに切り替わった。
「なんだ?」
映像にはどこか見慣れた景色が広がっている。恭一郎がそれをよく見てみると、そこは要の家だった。直後に両親も気付いたようで、驚きの声を上げる。すると地方テレビ局のアナウンサーが、割と早口で文面を読み上げる。
「臨時ニュースをお伝えします。速報です。春野町長選挙に出馬予定だった春野町議会議員の要(かなめ) 剛三(ごうぞう)さん、51歳が、今日の朝6時半ごろ、遺体となって見つかりました。遺体に外傷はなく、警察は司法解剖を進めるとともに、現場の捜索を行っています」
さらに要家に関するニュースが読み上げられていく。
「また剛三さんの妻であり、春野病院の副院長を勤めていた要 澄子さん、44歳が、麻薬取締法違反の疑いで現行犯逮捕されました。調べによりますと、午前6時35分、玄関の近くにあったおよそ1キロの乾燥大麻が、澄子さん名義で送られてきたということです。澄子容疑者は、『全く身に覚えがない』と、容疑を否認しています」
「更に剛三さんの16歳の長男が、昨日早朝に起こった列車事故に関連しているとして、警察で取り調べを受けています。大手動画サイトに出回っていた音声データに、剛三さんの長男に関することが言われていたそうです。警察は近く、容疑が固まり次第逮捕する方針です」
そのことが読み上げられた時、恭一郎は膝から崩れ落ちで歓喜の涙を流した。
「瀬奈々、見ているか。俺たちはやったぞ! やったんだ!」
彼は叫びたい衝動に駆られ、着替えてから八田の家に行く。彼女もすでに号泣しており、二人は抱き合って喜びを分かち合った。これで終わったのだ。すべてが終わったのだ。八田は空を見上げ、涙をぬぐって叫んだ。
「瀬奈々ちゃん! 見てる? これで全てが終わったんだよ!」
すると直後、夢見が走ってきた。恭一郎はそれをキャッチするように抱きしめ、再び喜びを分かち合う。そして八田の目を盗み、近くの路地裏に行った。
「今日の夜さ、夢の中に瀬奈々が出てきたんだよ」
「本当ですか? 何て言っていたんですか?」
「何のとりとめのない世間話だよ。あと……」
「あと?」
「お前を守ってやってくれと、直々に頼まれた」
「……え?」
「だから、俺のお願いを聞いてくれ。俺は夢見を守る。お前は俺についてきてくれないか?」
突然のオッケーに、夢見のテンションは最高潮になった。そして感極まって、泣いてしまった。そこまで瀬奈々に似せることは無いだろう。恭一郎は苦笑いしたが、瀬奈々にかつてそうしたように、夢見の頭を撫でてあげた。
「先輩、私なんかで良ければ、お願いします!」
「承知した。これからどんどん、夢見のことを教えてほしい」
「はい! これからは友恵って呼んでください!」
「分かったよ、友恵」
二人はすぐに馴染んだ。八田が後ろで一部始終を見ているのも知らずに。彼女は笑い、そして泣きながら二人を見つめていた。二人とも、良かったですね。恭一郎が新たな一歩を踏み出したのを感じ、八田は自然とやる気がみなぎってくるのを感じた。これから控えている全国大会、瀬奈々の分も頑張ってやる! そう思いながら。
午後5時半、いよいよ恭一郎が帰る時が迫っていた。彼はバスターミナルにおり、聞くこともなく有線放送を聞いていた。両親は幾分寂しそうな表情で立っている。
「そんな顔しないでよ。俺の住んでいる町の近くに引っ越してくるんでしょ?」
「それは分かっているんだが、どうも別れっていうのはつらいもんだと思ってね」
さびしそうに笑いながら、父親が言う。母親は彼に、少しだけお金を渡した。
「バス代ならもう持ったけど……」
「引っ越し手伝ってくれたお礼。さびしくなったら、いつでも帰ってきなさいね!」
「帰って来るって言っても、徒歩十分もかからないでしょう」
家族と会話しているうちに、バスが到着した。バスは行きと違って最新型だ。彼は予約していた席に乗ろうとする。すると、見慣れた顔がぞろぞろと集まってきた。彼は喜びに顔をほころばせる。
「八田! それに瀬奈々のお母さん、お父さん! 見送りに来てくださったんですか!」
「お世話になった人を見送らないなんて、失礼だと思わないかね」
「たまにはここに遊びに来るのよ。コーヒー作って待ってるから!」
「ありがとうございます!」
八田はひらひらと手を振るだけだった。しかし、それでも恭一郎は嬉しかった。彼女は大事な場面になると緊張して、思うようなパフォーマンスが出来ないことがある。今回もそれだろう。恭一郎は妙に納得してしまっている。
「夢見も来ていますよ」
「おお、そうか。恥ずかしがっていないで出てこい!」
恭一郎が催促すると、夢見はおずおずと出てきた。そして、彼のもとに走ってきたかと思うと、無言で抱き着いてきた。恭一郎はよろけそうになるも何とか体勢を立て直し、彼女を抱きしめ返す。
「そんなにさびしがらなくてもいいだろう。一生会えないわけじゃないから」
「先輩、死なないでください!」
「何言っているんだよ。若いんだから大丈夫だよ」
夢見を離すと、彼は温もりを閉じ込めてバスに乗り込んだ。様々な人たちに見送られて、バスは発車する。
「さようなら! またいつか会いましょう!」
みんなはバスが完全に見えなくなるまで手を振っていた。そして、八田は夢見の背中を押す。夢見は感傷的な気持ちになっていたが、これによって我に返った。
「何ぼーっとしてるの。これから全国大会に向けて特訓だよ! 恭一郎先輩に、天国の瀬奈々ちゃんに、いいところ見せようじゃないの!」
「はい! 頑張ります!」
二人はどこからともなく走り去っていく。その様子を、大人たちは微笑交じりで見つめていた。
瀬奈々の弔い戦をやってのけた、小さな巨人。そのことはのちに春野町全体に広まり、三人は春野町のがんを切除したヒーローとして、近所の人たちから祝福の言葉をもらうこととなったのだ。こうして、長いようで短い、春野町のいじめ根絶事業は幕を下ろしたのであった。
エピローグ
寮に帰ってきた恭一郎は、散らかった部屋を片付けようと一念発起した。まずは周囲のいらないものを捨てていく行程に入っていく。部活での思い出は彼にとって忘れることの出来ないものだったので、楽譜などをクリアファイルにまとめていく。
衣料品はもう使わないものが多数出てきたので、段ボールにまとめてリサイクルショップに出すことにした。ある程度段ボールが山積みになり、片づけるべき衣料品が無くなりかけたとき、押し入れから一枚の紙切れが出てくる。何かと思い拾い上げると、瀬奈々と撮ったプリクラだった。二人はピースサインで、満面の笑みで写っている。
「こんなこともあったな」
感慨深げにつぶやくと、プリクラを部活関係のファイルに綴じこむ。そうやって自分の部屋を引っ掻き回しているうちに、瀬奈々との思い出の品が続々出てきた。彼女とショッピングした時にお揃いで買った首飾り、冬休み、少しだけ諍いを起こした時に、彼女からお詫びとしてもらったマフラー。これはまだ封も開けていなかった。彼にとっては、あまりにも大事だった。それらを眺めながら、恭一郎はクローゼットの中に押し込んだ。彼女との思い出を大事にしたかった。
それから彼は首飾りをつけ、段ボールを抱えてリサイクルショップへと足を運ぶ。店の中に入ると、そこにいたのは思いもよらない人物だった。
「あれ、坂田!」
「恭一郎じゃないか、久しぶりだな!」
そこにいたのは、彼の同級生で吹奏楽部だった坂田 平治だった。彼と会ったのは卒業式以来で、二人は再会を喜んだ。
「こんなところで何しているの」
「片づけていたら、こんなにいらないものが出てきちゃって。だから、売りに来たってわけさ」
「なるほど、そうだ、恭一郎」
「何だい?」
「今日、時間あるか? 久しぶりに、二人で話さないか」
恭一郎は二つ返事で坂田の要望を通した。それから彼は手短に用事を済ませ、リサイクルショップから出る。二人が向かったのは、近くの小さな居酒屋だった。
「ちょっと待て、俺たちまだ19歳だぞ」
「気にするな。酒飲まなきゃいいの」
二人は席につき、適当に飲み物を頼む。それから彼らは、世間話に花を咲かせた。
「お前、今何しているの」
「俺は医療大学に通っている。俺バカだから、付いて行くのも大変さ」
「春野高校でトップクラスの成績取っていた奴が何言っているの」
「坂田は?」
「俺はここで公務員やってる。まだまだ慣れていないけど」
二人は久々に笑い合っていた。恭一郎も、帰省した時の疲れを取ろうと、今は出来る限り楽しい雰囲気に居たいと思っていた。
「後輩たち、元気してた?」
「元気すぎて困るよ。特に八田」
「あいつはいろんな意味で元気だからな」
「そして、俺はあいつに助けられた」
「どういうことだよ」
坂田は現在の春野町の状況をあまり知らないようだった。彼は興味津々で恭一郎に突っ込んでくる。
「昨日の早朝に起こった列車事故、覚えているか」
「ああ。地元だったからびっくりしたよ」
「亡くなったのは愛川 瀬奈々。トランペットのパートリーダーだった」
「おい、まじかよ。何でニュースでは名前が言われなかったんだよ」
「家族が名前を出さないでほしいって、テレビ局や新聞社に頼んだんだと」
坂田の飲み物を飲む手が止まる。恭一郎の顔はどこか沈んでいる。
「お前、確かあいつと付き合っていたよな」
「ばれてたか」
「吹部中に伝わっていたよ」
「涙も出なかったよ。あまりにも突然すぎて」
「それはさぞかしつらかっただろうな」
坂田が沈痛そうな面持ちで恭一郎を見る。
「そこからの話は、俺と八田と夢見だけの秘密なんだけど、お前には特別に教えてやる」
「その前に、夢見って誰だよ」
「新しく入った一年生。パートはトランペット。瀬奈々には懇意にしてもらっていたらしい」
「何が起こったんだよ」
「犯人を捜したんだ。あの手この手を使って」
「そういえば、なんか音声ファイルが話題になっていたけど」
「音声ファイルのことは知っているんだな、あれは八田が盗聴したものだ」
「マジかよ」
坂田は八田の意外な一面に舌を巻く。一年の時は大人しいやつだったのに。そして、同時にこんなことも思った。あいつ、そういえば愛川と毎日のように行動を共にしていたな……。内気な彼女にとって、瀬奈々は大切な親友だった。それを失った悲しみが、あいつをここまで突き動かしたのか。坂田は考えさせられる気持ちになっていた。
「それを拡散して、容疑者逮捕ってわけさ」
「お前ら、疲れたろ。なんか悪いな、誘って」
「全然。むしろ嬉しいよ。こうして疲れを癒す場を提供してくれたわけだし」
恭一郎は不思議と笑顔になっていた。昨日までは死にかけたような顔をしていたのに、なぜか気持ちに余裕が出来ている。それから彼は店員を呼び、飲み物の注文をする。
「すみません、生ビール二つ!」
坂田は唖然とした表情で恭一郎を見る。店員は快く了承し、客室から引き返す。
「酒は飲めないって、言っていたよな」
「ここの店、年齢確認が無かったんだよ。だからチャンスかなって」
「酒に慣れておくのか」
「そういうこと。今日は飲もうや!」
少しだけ考えた坂田だったが、恭一郎と会うのはこれから先、なかなかないだろうと思い、笑顔になって了承した。そして彼らは日付が変わる寸前まで飲み明かし、たくさん笑い合った。
八田は自分のクラリネットを点検していた。今日も異常なし。彼女はそれだけで笑顔になれた。すると、彼女のスマホに着信が入る。夢見からだった。
「もしもし」
「先輩、気分はどうですか?」
「最高。これからの生活も充実しそうだよ」
「私も同じです!」
「夢見は私以上に充実しているでしょ。彼氏、出来たんでしょ?」
彼女はにやりと笑い、夢見の動向を窺う。
「どうして知っているんですか?」
「路地裏で告白したでしょ? 恭一郎先輩に」
「……はい」
「おかしいと思ったんだよね。顧問とさえまともに目を合わせられない夢見が、恭一郎先輩とだと急に心開けちゃって」
「すみません……」
「何謝っているの。夢見は何も悪いことしていないよ」
「なんか、愛川先輩から取ってしまったみたいな感じになっちゃって……」
八田はため息をついた。どこまで謙虚なんだ。ある意味で尊敬でき、参考にしなければならない面でもあった。
「まあまあ、そんなこと言わずに。私は構わないから、楽しんで。恭一郎先輩との、甘々な生活」
八田が夢見を茶化す。電話越しで、夢見の息が荒くなっているのが分かる。八田は、夢見が顔を真っ赤にして反論しようとしている所が容易に想像できてしまい、思わず吹き出してしまった。
「そ、そんなに私をいじめないでください!」
「ごめんごめん。明日の練習も、頑張ろうね」
「はい。頑張ります! おやすみなさい」
「おやすみ」
八田は電話を切り、風呂に入ろうと部屋から出ようとする。その前に、机に飾ってある写真に目を通す。
それは昨年の合宿が終了した直後に、部員全員で取った集合写真だった。瀬奈々と恭一郎は手を繋ぎ、仲睦まじそうに写っている。八田は瀬奈々に抱きついており、他の部員から笑われていた。吹奏楽部での思い出はこれからもたくさん作られていくだろう。しかし、ここに瀬奈々がいたこと、そして瀬奈々とよく行動を共にしたこと。これだけは一生忘れることは無いだろう。しばし写真を見つめたのち、八田は電気を消して部屋を出た。今までとは違う、凛とした顔立ちで。
電話を切った夢見は、未だに顔を赤らめて座っていた。そこまでからかうこと無いのに……。指をせわしなく動かし、羞恥に耐えている。
スマホの電源をつけ、待ち受けを設定する。そこには恭一郎が帰る直前に撮った集合写真があった。周囲には八田や瀬奈々の両親、恭一郎の両親もいる。それは部活の集合写真を彷彿とさせるもので、夢見はしっかりと恭一郎の手を握っている。違うのは、瀬奈々がいないことくらいだった。その写真を待ち受けに設定すると、グループチャットに着信が入る。恭一郎からだった。
「なんだろう」
彼女はチャットの内容を開く。そこには、それなりの長文が載せられてあった。
『八田、友恵。今日まで俺のわがままに付き添ってくれて本当にありがとう。大事な人は失ってしまったけど、犯人が捕まってほっとしています。
八田、あなたは良く頑張ってくれました。まさか、こんなにネットに詳しいとは思ってもいませんでした。これからもこの手際の良さを、日常生活でも活かしてください。
友恵、あなたがいたから、僕は立ち直ることが出来ました。あなたがいなかったら、どうなっていたことやら……。春野町にはこれからも行くつもりなので、その時になったらたくさん話しましょう。
ちょっと長文になってしまいましたが、これで僕の言いたいことは以上です。ちなみに勝手で済みませんが、グループは解散せずに、このまま続けていきたいと思っています。これからも何気ないことでもいいので、どんどん話していきましょう!以上』
夢見は嬉しくなって、すぐに返信した。それが終わった直後、母親から呼ばれる。
「ご飯だよ、下りてきなさい」
「はい!」
彼女はスマホの電源を点けっぱなしにして階段を駆け下りる。SNSの画面のままになっており、そこにはこう書かれていた。
『これから先もずっと、よろしくお願いいたします!』
終
夏休み