黒いカバン
それは黒いカバンだった。誰がそこに置いたのか、公園のベンチの割と目立つ場所にあった。
一之瀬がそこを通りかかったのは、急ぎの郵便物を投函した帰り道だった。会社に早く戻るため、公園の中を通り抜けようとしていたのだ。カバンを見た一之瀬は、その周囲を確認したが、誰もいなかった。明らかに忘れ物だ。一之瀬は迷った。急いで会社に帰る途中で、交番に寄って行く時間の余裕はない。見なかったことにしようと心の中で手を合わせ、きっと誰か善意の通行人が届けてくれるだろうと思うことにした。
ところがその時、視界の隅にホームレスらしき人物が近づいて来るのが見えた。どう考えても、彼の持ち物ではないだろう。疑うわけではないが、逆に見過ごせば、罪作りになってしまうかもしれない。上司には、遅れた理由を説明すれば、恐らく許してくれるであろう。一之瀬は、カバンを届けることにした。
ベンチに近づき、取っ手をつかんでカバンを持ち上げようとして、一之瀬は驚いた。重い。それも、想像をはるかに超える重さだった。この大きさでこれほどの重さの物を、一之瀬は一つしか考えられなかった。金塊に違いない。それもかなりの量だ。一之瀬は怖くなった。絶対にヤバイものだ。それなのに、迂闊にもたっぷり指紋を付けてしまった。もう置いていくこともできない。一刻も早く交番に届けないと、大変なことになる。何とか持ち上げようとしたが、五センチほど浮いたところで耐えきれず、ドンと降ろしてしまった。
何か、カチッ、という音がし、続いて一之瀬がつかんでいる取っ手の部分がビリビリと震えた。すると、手がギュッと取っ手に吸い付くのと同時に、体重が何倍にもなったような感覚に襲われた。
「うわっ!」
一之瀬が身動きできずにもがいていると、ジョギング中だったらしい上下スウェットの中年男性が駆け寄って来た。
「どうしました?」
「このカバンを交番に届けようと思ったら、メチャメチャ重い上に」
事情を説明する途中で、スウェットの男性が一之瀬の肩に触れた。
「わたしが交代しま、あれっ、手が、手が」
男性の手は一之瀬の肩に吸い付いたまま離れず、同様に体も重くなったようで、ヒザがガクガクしている。男性は、何かイタズラされたと思ったらしく、一之瀬を睨んだ。
「あんた、どうなってるんだ、これは?」
「す、すみません、ぼくにもわからないんです」
二人が悪戦苦闘しているところへ、先ほどのホームレスと一緒に制服の警官がやって来た。警官はスウェットの男性に敬礼した。
「カバンを持ち逃げしようとしている男がいると、この人が通報してくれました。逮捕にご協力いただき、ありがとうございます」
一之瀬と男性は異口同音に「違います!」と叫び、事情を説明しようとしたが、止める間もなく警官が二人に触れてしまった。
「うわーっ!」
見ていたホームレスも「どうなってるの?」と言いながら、警官に触れてしまった。
「ひえーっ!」
四人の男は、まるでスクラムを組むように固まってしまった。そのまま、三すくみならぬ、四すくみの状態でウンウンうめくばかり。
その時。
「ああ、すまんすまん。ここにあったんじゃな」
四人が声のした方を見ると、白衣で白髪の老人が立っていた。
「あなたは、古井戸博士!」
そう叫んだのは、警官だった。
「そうじゃ。すまんことをしたな。宇宙船用重力発生器を入れたカバンをうっかり忘れて、探しておったんじゃ。ううむ、何かの拍子で、緊急用重力連結モードになったようじゃな。離れられんのじゃろう。これはの、事故などの際に、宇宙船がバラバラになるのを防ぐためのもので、ああ、そんな説明をしている場合ではないのう。待ってくれよ。確か、リモコンが、おお、あったあった」
博士は小さな機械を白衣のポケットから取り出すと、カバンに向けてスイッチを押した。カチッという音がすると、すぐに四人はカバンから離れ、勢い余って尻もちをついた。
「わっ」
「あっ」
「おっ」
「ひっ」
「すまんのう。お詫びに、今わしが作っている、重力発生器付き宇宙船が完成したら、みんなを試乗させてあげよう。どうじゃね?」
四人は声をそろえて叫んだ。
「結構です!」
(おわり)
黒いカバン