嘘は彩る
少し歪んだ、恋の話です。
プロローグ
牧師の青い目が花嫁を見た。
素晴らしく穏やかな日差しが、ステンドグラスの窓から注いでいる。
カナ
――良き時も、悪き時も。
ずいぶんと流暢な日本語で、牧師の口からその文句が流れ始めた。私は、彼の首から下げられた小さな十字架をぼんやりと見つめた。
この儀式は確かに、他の誰でもない私自身に向けて行われていることなのに、どこか他人事みたいだ。ちらりと隣を見やると、ナオキくんがそれに気付いて薄く微笑んでくれる。胸がぎゅうと痛んだ。
ついにこのときが来たんだ。来てしまったんだ。
ナオキくんは優しい。真面目で、誠実で、これほど絵に描いたような「いい人」はそうそういないと思う。仕事もできて、経済力にも問題はない。私なんかにはもったいないくらいだ。そんな彼が、私を好きになってくれた。共に一生を過ごす相手として選んでくれた。この上ない幸せではないか。私は今日、喜びに笑って、喜びに泣くべきだ。
それなのに。
――富める時も、貧しき時も。
私には、ずっと忘れられない人がいた。その人は今、きっと特別何を感じるということもなく、親族席からこちらを見ているだろう。いつもそうだったように足を組んで、気怠そうな猫背で。
コウキは、ナオキくんの双子の弟だ。
二年前まで、私はコウキの彼女だった。いや、彼女の一人だった、と言った方が正しい。双子の兄とは対照的に、ひどく女癖が悪く、お金にだらしなく、ろくに仕事もしないで私に酒と煙草をねだってくるような、まるでダメな男だった。
でも、好きだった。今も――好きだ。
どうしてなんだろう。コウキと出会ってから、私はどうしようもなく、彼に恋をしてしまった。その出会いというのも、ナンパというロマンチックからは程遠いものだったというのに。私の他にも女がいることは知っていた。一緒にいても未来はないこともわかっていた。それでも、その指に触れられることが、ひたすらに嬉しかった。少し厚めの唇から好きという言葉が流れ出るたび、涙が出そうなくらい幸せになれた。どうかしていると、自分でも思う。
――病める時も、健やかなる時も。
付き合い始めてから一年が経った頃、突然私は別れを告げられた。飽きちゃった、と。そう言われた。じゃあねと去っていく背中を追いかけることも、別れたくないと縋ることもできないほどの呆気なさだった。それからの死んだような生活ときたら、思い出したくもない。
そんな頃だ。私は仕事関係の食事会でナオキくんと知り合った。
一目見て、息が詰まるほど驚いた。二人は一卵性双生児で、その顔はほぼ同じだったからだ。それでも、すぐにコウキではないとわかったのは、そこに漂う雰囲気がまるで違っていたからだ。双子の兄がいるという話も聞いたことがあった。
――共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで。
知り合って間もなくナオキくんに交際を申し込まれたときは、それこそ息が止まってしまいそうだった。少し厚めの唇が好きという形に動くのを見て、私は本当に泣いてしまって、そして――頷いてしまった。
ナオキくんはコウキとは違うのに。体中どこを探したってピアスの穴は空いていない。髪も染まっていない、煙草の匂いだってしない。きれいに整えられた指先はコウキのそれよりずっと優しくて、その瞳は私のことだけを見てくれるのに。ナオキくんが何も知らないのをいいことに、私は彼にコウキを重ねた。性格や仕草はまるで違っても、笑うと寄る目尻の皺に、低くかすれ気味の声に、懐かしい欠片を探した。
――愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを。
だから、こんなものは嘘だ。誓いの言葉も誓いのキスも、この教会も指輪も全部全部、偽物だ。私が偽物にしたんだ。一人の男の人の――こんなに優しい彼の人生を、私は偽物にしてしまう。本当はこんなに綺麗な白いドレスを着る資格なんてない。
ああ――だけど。
ナオキくんと結婚すれば、コウキとの繋がりも一生途切れることはない、と。私は心のどこかで安心している。じわりじわりと、確かにこみあげる喜びがある。
――神聖なる婚姻の契約のもとに。
ふと一瞬、牧師の瞳の青に懺悔しそうになった。そんなことは許されない。私はもう、選んでしまったから。戻れないところまで、来てしまったから。
――誓いますか?
裁かれるみたいだ、と思った。
私は息を吸った。思いがけず涙が出た。きっと誰もが、この涙を幸福によるものだと勘違いしてくれるだろう。
「……誓います」
ナオキ
すうと、カナちゃんの白い頬に涙が伝うのを見た。気付かないふりをしたけど、悲しいのだろうなと、思った。
カナちゃんは優しいから。心から愛しているわけでもない僕との結婚を、心苦しく思っているのだろう。
カナちゃんとコウキと付き合っていたことぐらい、知っている。それどころか、今もコウキが好きだということにさえ、気付いている。当然だ。コウキと付き合っているカナちゃんを、僕は好きになったからだ。
一目惚れ、と言えばいいのだろうか。ほとんど衝動的に、どうしようもなく好きになってしまったのだった。一目見たその日から、どんなことをしても手に入れたいという欲求が頭から離れなくなった。欲しくて欲しくて、たまらなかった。
だから――貰った。
二人を別れさせるのは簡単だった。もともとコウキは女性に対して執着しない奴だから、少し頼めばすぐに譲ってくれた。自然な出会いを作りだすことも、何も知らないふりをすることも、カナちゃんが僕のものになる思えば何の苦にもならなかった。カナちゃんの好きな男と同じ顔であることを幸運にすら感じた。コウキと双子であることを嬉しく感じたのは、間違いなくこれが初めてだ。まるで役に立たない恥ずかしい弟だと思っていたけど、訂正してやってもいい。
――ねえ、カナちゃん。僕は君が思うよりずっと前から君を知っていたんだ。僕らが出会うよりも前から君のことが好きなんだ。どうせコウキはカナちゃんのことを愛してなんかいなかったよ。それなら、僕と一緒になった方がずっとずっと幸せにしてあげられる。僕は君のことを心の底から愛しているんだから、きっと幸せだよ。気の弱そうな表情も、折れそうに細い腕や腰も、優しすぎるところも、僕の思い通りになってくれるところも、全部好き。たまらなく好きだ。だから、心は僕を見ていなくても、許してあげる。そのかわり、僕の嘘も許してよ。一生、夢を見させてあげるから――
カナちゃんと向き合って、その薬指に指輪を嵌める。首輪みたいだな、と思って、僕は満足した。微笑んでみせると、カナちゃんは無理をして笑った。悲しげに寄った眉が、可愛いと思った。
きっとカナちゃんは幸せそうに暮らしてくれるはずだ。僕の隣で。
僕は嬉しくなった。
コウキ
あいつはまた泣いてるな、と思った。少し冷たくするとすぐ泣く女だったのに、別れたときは泣かなかったのを何となく思い出した。
こんな堅苦しい場所でじっとしているのはつまらなかった。タバコが吸いたくてイライラしたから爪を噛んでいると、母親が俺を睨んだ。余計にイラついた。
昔の女が双子の兄と結婚するというのは、妙な感じだった。しかもその女は今も俺のことが好きで、ナオキの本性も知らないで、全部仕組まれているのも気付かなくて――バカな女。
カナを譲れと、ナオキが言ってきたときは驚いた。いつも涼しい顔をしたあいつが必死の形相で、心底バカにしているはずの俺に頭を下げて。
生まれて初めて、優越感を感じた。ガキの頃から見下されてばかりだったから。あいつは何だってうまくやれるのに、俺は何をしてもダメだった。そんな俺が、初めてナオキに勝ったような気になった。だから、仕方ねえな、あげてもいいけど、そんなことを言った。気分が良かった。
こいつは俺にとっちゃどうでもいい女に本気で惚れたんだ。俺のお下がりと結婚するんだ。そう思うと笑えた。今日の結婚式だって大笑いしてやるつもりだった。
それなのに――なんでこんなに退屈なんだ。どうして全然面白くないんだよ。なんで負けたような気にならなきゃいけないんだ。
だいたいそんな女のどこがいいんだよ。体なんて細すぎてつまんねえだろ。弱虫で、泣き虫で、お節介で、バカみたいで、それに、
それに。
俺なんかを、本気で好きなんだ。
――畜生
やらねえよ、バーカ。そう言えばよかった。どうせなら、あいつがどんなに欲しがっても、簡単に渡さないで見せびらかしておけばよかった。今さら、遅いけど。
結局バカは俺だ。
面倒くさいから考えるのをやめた。無性にタバコが吸いたかった。誰でもいいから女を抱きたいと思った。舌打ちすると、まわりの何人かが嫌な顔で振り向く。
――あーあ
退屈だ。
エピローグ
牧師が宙を仰いだ。
滑稽なほど穏やかな日差しが、ステンドグラスの窓から注いでいた。
本当に嘘吐きなのは、
嘘は彩る
読んでくださりありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。