洋平くんの受難 (完結)


 心地よい風が吹く、黄昏時であった。幾分肌寒くなったとはいえ、まだまだ冬には遠いはずだった。
 それなのに・・・。
 ココロが寒い。
 楢崎洋平は、寒気を通り越した悪寒を感じながら、人気にない公園を歩いていた。
 口元に寄せた指先の赤いマニキュアや、耳元で鳴る派手なイヤリング。首を覆う長い巻き毛や大きな足を支えるハイヒールの高さが、彼のノーマルなはずの思考を否応なく凍りつかせた。
 もちろん、こんな格好をしているのは、趣味ではない。単なる仕事だ。
 洋平のアルバイト先は、人材派遣会社である。
 若干二十七歳の青年社長の経営するこの会社は、とにかく迅速かつ完璧をモットーとし、日常一般的なことから危険を伴うことまで手広く扱う。料金は少々高めという噂だが、社長の人徳の賜物か、依頼の内容も依頼主も極上であった。
 洋平は、偶然町で見かけたビラで、バイトをすることに決めた。
 もちろん長期間に渡って契約する仕事もあるが、依頼のほとんどは短期間で率のいいものだったからだ。それなら好きな時に仕事が選べるし、色々な経験もできるだろう。
 だが。
 まさか女装などという経験を積ませていただけるとは思わなかった。
 その依頼が入ったのは、今日の昼だったらしい。あまり急なので、依頼主たる三十男は、
「自分の恋人として格好つくくらいのヤツなら、どんなのでもいい」
 と言ったらしい。
 現在進行形の彼女との仲を、完了させたかったのだ。
 このテの依頼は一月に数件あるが、何でも来いの社長でも、即答できないものがあるらしく、すんなりと契約することはない。
 しかも、他の派遣に比べると、破格の料金を提示する。派遣員の不快料ということらしい。
 結局、三十男の場合、契約金は相場の二倍。他に洋服のレンタル料などの必要経費などを換算すると、たいそうなものになっただろう。
 しかし、別れのダシになった洋平としては、その金額でも安すぎると思わざるを得なかった。
 男と女の言い争いを繋げると、どうやら女は相当の金を男に貢いだ上、男の出世に邪魔だからということで、捨てられるのだ。
 男は、上司の娘と見合いするらしい。
 女はそれを知っていたらしく、洋平がダミーだと分かっていたようだ。話の間中、洋平のことなど見向きもしない。
 だが、そんな彼女も、男の冷たい態度を見極めると、最後に洋平の方を見て、哀しそうに涙を溜めると、深々と礼をして去って行った。洋平には、彼女がこんな見苦しい場に立たせた詫びを言っているように思えた。
「たまんねぇよな。あんな野郎に騙されるなんてさ。嫌なら嫌だって、はっきり本人に言ってやりゃいいんだ。デタラメな女を作らなくてもさ。依頼人でなきゃ、ぶん殴ってるとこなんだけどな」
 ハイヒールのつま先で小さな石ころを蹴飛ばして、洋平は大きくため息をついた。
 こういう仕事は、二度と引き受けたくない。
 鬱蒼とした林を抜けて公園の出口に差し掛かると、通行人たちの視線が一斉に洋平に向く。
 絶対、女装なんかしないぞ。
 好奇とも羨望ともとれる視線を全身に受けて、洋平は酸欠状態だ。長い髪で顔を隠すように俯き、ストールで胸元をかき寄せるようにして小さくなると、そそくさと先を急いだ。
 事務所よりはアパートのほうが近い。契約完了の報告は、アパートで着替えてからにしよう。
 歩きにくいタイトスカートに邪魔されて、それほど速度は出ないが、ゆったりと買い物を楽しむ主婦たちの間を擦り抜けていると、かなり足の速い大柄な美人になる。
 三つのアーケードと昔ながらの買い物横丁を突っ走り、住宅区に差し掛かった。
「なんだ、あれ」
 と小首を傾げた時にはすでに、問題は自分の後ろに張り付いていた。
 走り込んで来る男三人から逃げるように、小さな女の子が洋平の背中に隠れている。制服から咲久耶中央高校の生徒だということはわかったが、その女生徒が男どもに追われる理由と言えば、やはりナンパか新手の勧誘か。
「どうかしたの?」
 洋平は声変わりしたテノールを出来るだけ優しく柔らかく発音して、自分の背中に声をかけた。
 長身に加えてハイヒールの洋平から見れば、かなり小さい女の子だ。そんな子が自分の背中に張り付いて震えているのは、少々役得のような気もするが、傍目から見ればおおいに倒錯的だろう。
 彼女は青ざめた顔を上げ、視線を三人の男に向けた。
「お――い。ちょっと待ってよ」
 と、軽く息切れをしながら、男のうちの一人が大きく手を振りながら走ってくる。
「逃げることないってば。ちょっと、話を聞かせて欲しいだけなんだ」
 あくまで愛想の良い表情で近づいてくる。
「ずっと後をつけて来て、突然、車に乗せようとするから、逃げたの」
 一層洋平の後ろに張り付くように隠れる女の子の声が、洋平に届く。
「そう・・・。大変だったのね」
 そう答えると、彼女の頬に赤みが差す。つられて洋平も笑った。
「それじゃ、ちょっと下がっててね」
 彼女の手に、レンタルのバッグを渡し、後ろの電柱を指差す。
「どうするんですか」
 恐る恐る問う女の子に、鮮やかな微笑を向けて、洋平は言った。
「大人の話をするのよ」
 二人の会話を黙って聞いていた三人の男のうち、中央の男が、振り返る洋平の横顔を睨んだ。小柄で細身だが、その鋭い目は明らかに、両脇の二人よりも上のポストにいる男の目だ。
 洋平はつけ睫毛で強調された瞳を真っすぐその男に向け、にこりと笑う。
「では、彼女にかわって用件を聞きましょう。場合によっては、この先の咲久耶中央署まで同行してもらいます」
「だから、何か勘違いしてるよ。俺たちは、ちょっとインタビューしたいだけなんだ」
 脇をすり抜けて行こうとする男の腕を掴み、洋平は強引に引き戻した。
「話は終わってないでしょう。勝手をされては困ります」
 女と思って侮っていたが、掴まれた腕は締め上げられ、とてもじゃないが『タダの女』ではないようだ。
「おまえは、誰だ」
「見ての通り単なる通行人」
「通行人? なら口出ししないでもらおう。俺たちは単に、その子に用事があるんだ」
「インタビュー?」
「雑誌のな」
「ふ――ん」
 雑誌の記者と言われれば、そう見えるかとも思ったが、振り返って女の子を見ると、とても穏やかな状況とは思えない。肩を持つなら、むさ苦しい中年男たちよりも、可愛い女の子の方だろう。
「やっぱり、邪魔するよ」
 洋平はにっこりと笑って三人を見返した。
「でしゃばると、その奇麗な顔に傷がつくぞ」
 低く曇った口調が、いっそう洋平の笑顔に華を添えた。
 紅い唇を微かに動かして、洋平が呟く。
「できるものならやってみろよ、おっさん」
 男物の声を冷たく凍らせて、洋平は姿勢を低く構えた。その服装と声音のギャップに、男は一瞬たじろいだ。
「おまえ、ただの通行人じゃないな」
 確かに、丈高い青年が、女の格好をしてこうして仁王立ちになっているのだ。『ただの通行人』ではないだろう。
 電柱の影に隠れている彼女も、二人の会話は聞こえないまでも、この尋常でない状況をしばし呆然見つめていた。
「で、やるのか、やらないのか」
 長い沈黙にうんざりして、洋平は横柄に問うた。
 小柄な男も同様に、大きく息をついて合図する。両脇の男が動いた。どちらも洋平に向かってくる。
 ヒールの高さとタイトスカートの裾に注意して、上品に構えると、腕を左右に引き裂くようにして、二人の横面を弾き飛ばした。
「玲子ちゃん直伝の肘鉄払い」
 洋平は注釈をつけて、しつこく襲い掛かる熊顔めがけて、右ストレートを見舞う。
 武道の心得はないが、ケンカの場数は踏んでいる。しかも、鬼のような『従姉弟』に特訓されたのだ。この程度では負けない。
「俺たちは、雑誌の記者だと言ってるだろう」
「だから。とても、そうは見えないんだけどな」
「女だと思わないほうがいいようだな」
 小柄な男は、軽くネクタイを緩めると、低く呟いた。
 どうやらこの男だけは、一筋縄ではいきそうにない。どっしりと構え、拳を握り、脇を締めて洋平を睨む。
「どうしても邪魔するなら、顔に傷がつくだけではすまないぞ」
「くどいな。無駄口はやめて、掛かって来いよ」
 そう言って指先を軽く動かした洋平に、男は真っ向から掛かっていった。
 最初の正拳突きは辛うじて避けられたが、二発目は無理だ。
 洋平は細いヒールを気にしながらも、ステップで身体をかわし、両腕で蹴りを受け止めた。
 その時、ボキッツ!
「ヤバイ、弁償だ」
 踏ん張った足の下で、高価なハイヒールは無残に折れてしまった。その為、洋平の態勢が大きく崩れる。
「フィニッシュだ」
 冷たい口調が頭の上で響いた。
 男は右腕を大上段に振り上げると、洋平の頭めがけて手刀を打ち込んだ。
 駄目だと叫んで頭を抱えるのと、男が呻き声をあげるのは、ほとんど同時だった。
 来ると思った衝撃はなく、振り下ろされるべき手刀はいつの間にか遠ざかっていた。
「どうなってんだ」
 と惚けた声で顔を上げた洋平は、遠く買い物袋を下げて立っている少女を見て、また顔を伏せた。足元にはタマネギが一玉落ちている。
「ごめんなさい。そこのオネエさん、タマネギ落としちゃったの。拾って持って来てくれない」
 よく通る奇麗な声を張り上げて、その少女は大きく手を振った。
 この声量で警察でも呼べば、すぐにでもパトカーが飛んで来るだろう。興味なさそうに通り過ぎていた通行人数名も、横目で見つめている。
 タマネギの当たった額を押さえ、後ずさりする男も、それを察したようだ。
 洋平の顔と、遠く買い物少女の顔を、記憶するように交互に見つめ、二人の部下を起こすとそそくさと退散して行った。
「大丈夫ですか?」
 洋平にバッグを返しながら、追われていた少女は気遣った。まだ震えているが、その表情は和んでいるというよりは、何かに奪われているという感じだ。
 はっきり、目前の丈高い美女に憧れていると言っても過言ではないだろう。
 だが、洋平はそれどころではない。
 次第に近づいて来る買い物娘を避けるように、折れたヒールを拾い上げ、素早く身だしなみを整えて、『女』を作る。
「良かったわね。もう大丈夫でしょう。気をつけて帰ってね」
「ありがとうございます。忍ちゃんが来てくれたから、もう平気です」
 そう言って、すぐ傍まで迫った買い物娘を示す彼女に、洋平は青ざめた。
「もしかして、知り合いなの?!」
 本当なら最悪だ。
 買い物娘は、この女装を決して見られたくなかった人物の一人である。その彼女と知り合いとは・・・。
「と、とにかく、気をつけてね。それじゃ」
 ここは退散するに限る。
 買い物娘と一言でも口をきけば、この場で正体がバレてしまう。せっかく女のフリをしてまで助けたのに、これでは笑いものだ。
 足元が心もとないせいか、酷い走り方だ。しかしそんなことを構っている暇はない。一刻も早くアパートへ帰ろう。
 呼び止める声を背中に受けながら、洋平は一目散に逃げた。
 もしかして今日は仏滅なのではないだろうか。厄払いに頭から冷水でもぶっかけよう。そうすれば少しはスッキリするかもしれない。
 バッグから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回そうとした瞬間、いきなり閉まっているはずの扉が開いた。
 笑顔で迎えてくれた女性が、一瞬のうちに眉間にシワを寄せた。その顔は、女装している自分と瓜二つである。
「二、三発殴らなきゃならないようね、洋平」
 低く唸る声が、呪いのように響いた。
 やはり、今日は仏滅のようだ。



「あんたに、こういう趣味があったとは思わなかったわ」
 そんな憂鬱を音に表したような声を聞きながら、洋平は濡れた髪をバスタオルで拭いていた。
 四つ年上の従姉弟の楢崎玲子は、それを横目で眺めている。長いウェーブの髪を鬱陶しそうに後ろに流し、勝手に冷蔵庫を開けて缶ビールを出した。
 化粧も香水もみっちり洗い流し、やっと落ち着けると思ったが、こうして従姉弟と面と向かっていると、女装のまま鏡を覗いているようで、落ち着くどころではない。
「さすがに母さん同士が双子で、父さんたちが兄弟というだけあって、私たちよく似てるから、顔の文句は言わないけどさ。どう考えたって異常よ。最初に見た時は、私、目の前が真っ暗になったもの」
「べつに、玲子ちゃんが途方に暮れなくてもいいじゃないか。バイトで仕方なくやったんだ」
「ロクなバイトじゃないわね。やめなさいよ」
「やだよ。結構気に入ってるんだ、あの会社。いつもはもっとまともな仕事を回してくれるし、バイト料もいいからね。玲子ちゃんの方はどうなんだよ。地元のでっかい会社に就職したって、伯母さんから聞いてるよ。建築関係だったっけ? どうしてこんな所に来たの。長期休暇?」
「そ、せっかくの有給休暇は、有意義に使わなくっちゃ」
 どこかヤケクソ気味に言った玲子が、無意識に傍のボストンバッグを引き寄せる。
 彼女の持ち物と言えば、それきりだ。服装はといえばいたってラフで、トレーナーにジーンズ。玄関に脱がれた靴は、履き潰したスニーカーである。これで長いウェーブのかかった髪を切り、ピアスを外すと、一回り小さい洋平ができるだろう。
「そういえば、玲子ちゃんの友達で、俺が通ってる大学を卒業した人がいたよね。確か、沙也子さんだっけ」
「――」
「彼女、こっちで就職したの? それとも地元に帰ったの? 玲子ちゃんと違って女らしかったから、すでに結婚してたりして」
 恐る恐る言った冗談が、渇いてしまった。
 洋平の渡しかけた缶ビールが、玲子の手を擦り抜けて床に落ちた。訝しげに玲子の横顔を見つめると、玲子はそのまま固まったように微動だにしない。
「どうしたの、玲子ちゃん。顔色悪いよ。その年齢で結婚できないの、気にしてたの?」
 『その年齢』と言っても、玲子はまだ二十四歳だ。決して遅いわけではないが、洋平としては、帰省の度に玲子の母親に泣きつかれているせいか、つい口に出してしまう。
 玲子が気にしていたのなら、頬の一つも殴られてもいいと思いながら答えを待っていると、落とした缶ビールを拾い上げ、玲子は苦笑で肩をすくめた。
「これじゃ、開けた途端に泡が出るわね」
 かなり人目を引く容姿が、靄の中に霞んでいるように見えた。
 こんな玲子は、洋平の記憶にはない。
「俺のと交換しようか。母さんから届いた駄菓子しかないけど、ビールのつまみにはいいよね。それとも居酒屋にでも行こうか。安くて旨い店を知ってるんだ。玲子ちゃんはお腹すいてないの?」
 気を遣って次々捲くし立てる洋平を、いつもなら怒鳴り散らしている玲子が、今日は何故か哀しげに見つめるだけだ。
 洋平は気味悪がって思わず問うてしまった。
「玲子ちゃん、どこか身体の調子でも悪いの?」
「どこも悪くなんかないわよ。洋平は優しいなと思って、感心してただけ」
 一転笑顔で返されて、洋平の背筋が凍った。
「やっぱり変だよ、玲子ちゃん。熱でもあるんじゃないの。病院行こうか、それとも薬でも飲む?」
 心底狼狽えて、右往左往していると、鉄拳が二発飛んできた。
「人が褒めてやってれば、何よその態度は。とにかく、二、三日泊めてもらうから、そのつもりでいなさいよ」
 有無を言わさぬ命令口調が、やはり玲子にはぴったりだ。一安心でため息をついた洋平の目前に、新たな問題が積み重なっていた。
 その一つを摘み上げて、玲子が流し目をくれる。
「こんなにR指定のDVDばかり買って、イヤらしいわね。私がいる間は、どこかへ隠しててよ」
 軽蔑の眼差しが、目前のテーブルの下に置いてあった大量のDVDに注がれている。ハードボイルドやアクション映画のタイトルが並ぶ中、卑猥なタイトルで裸の女が怪しげなカッコウをしているものが幾つもあった。一見して中身が知れる。
 大学の先輩からの処分品とは言え、あまり気持ちのよい代物ではないだろう。
 中身を開けて見ては閉じる動作を繰り返している玲子からそれを取り上げると、洋平は、蹴りの入らないうちにすべてのDVDを紙袋に突っ込んだ。
「仕方ないな。翔くんが貸してくれって言ってたから、そっちへまわすか」
 紙袋を厳重に紐でくくって玄関先に置いた。
「洋平、私がベッド使ってもいいでしょ」
 しばらくボストンバッグの中をゴソゴソとかき回していた玲子は、言っているうちに洋平のベッドに潜り込んだ。
 それに反論する気はない。


 翌日、洋平は、まだ起きる気配のない玲子に書置きを残すと、女装道具とR指定の紙袋を両手にさげ、早々と事務所に向かった。
 人材派遣会社石橋コーポレーションの事務所は、三階建てのビルの二階にあり、一階は本屋、三階は社長宅になっていた。
 建物脇の階段を駆け上り、大きく「おはようございます」と扉を開けると、いつになく威勢のいい声が返ってきた。
「おはよう、洋平さん。珍しいね。洋平さんが午前中に顔出すなんて」
 そう言って笑う少年の横で、同じ顔の少年が小さく「おはようございます」を言う。顔は同じでも、見るからにガキ大将と優等生に分かれる二人だ。
 ガキ大将のほうが兄の石橋翔。優等生が弟の石橋曜である。この四月生まれの双子と、ほぼ一年離れた三月生まれの妹が、石橋コーポレーション社長、石橋公の自慢であった。
「どうしてこの時間に、二人がいるんだい。今日は平日だろ。学校は行かないの?」
「今日は特別なんですよ、洋平さん」
 優等生はハンサムに彩りを添えて、にこりと笑った。
「本日は、咲久耶中央高等学校の創立記念日である」
 曜の陣取る机の上に腰掛けている翔が、おどけて答える。
「なるほどね。じゃ、たっぷり時間があるってことだね」
 洋平は、持っていた紐で縛った紙袋を翔に渡した。
「なに、洋平さん」
「翔くんが言ってたヤツだよ。しばらく預かっててくれるかな。遊びに来た従姉弟が嫌うんだ。もちろん見てもいいからさ」
「もしかして、例のアレ?」
 大きな紙袋を両腕に抱え、今にも涎を垂らさんばかりの翔に、洋平はウィンクで答えた。
「なんなの、それ」
 曜のほうは分からない様子で、紙袋の中身を確かめようとするが、翔はいち早く戸口に向かい、
「部屋に置いて来るよ。洋平さん、サンキュー」
 と足取りも軽く三階の自宅へ急いだ。
「翔、すぐに戻ってくるんだよ。兄さんが待ってるんだから」
 消えてしまった背中に叫んだ曜が、困ったように洋平を見た。
「アレって、洋平さんがレポートの代金換わりに友達からせしめたヤツ?」
「そう。全部がRじゃないけどね」
 曜が、がくりと肩を落とす。
「当分は、徹夜だな。兄さんがどう言うか見ものだよ」
「翔くんは、公さんにバレないように見ると言ってたけど、やはり無理かな」
 苦笑で問う洋平に、曜は大きくため息をついた。
「公兄さんに内緒にできることなんて、何一つないと思うよ。特に翔はね」
「・・・なるほどね」
 気難しい顔で肘鉄をついた少年に、両手を挙げて同意した。確かに誰も敵わないだろう。
 洋平は近くにいた事務員の玉川葵に、女装道具を入れた袋を渡して、壊れたヒールの話をした。昨日、一応電話で報告はしたが、弁償料が不安だ。
「ちゃんと社長から聞いてるわ。これが昨日の明細書ね。バイト料はすでに口座に振り込んであるわ」
 そう言って渡された小さな紙切れには、契約の金額に色がついていた。
「昨日の依頼人の上司という人が、昨夜遅くに来て、素行調査を依頼して帰ったの。自分の娘さんとの結婚を考えていたんだけど、昼間に、彼と背の高い美人が一緒にいるところを見て不審に思ったのだそうよ。その人が言うには、あんまり美人が目立っていたので気付いたそうよ。彼に不都合が見つかれば、会社内での地位も危ないと思うわ」
「本当に?」
 半信半疑で問いかける洋平に、葵は鮮やかに笑って頷いた。
「ぶん殴るのは駄目だけど、少しは溜飲が下がったでしょ。だから、お手柄料として社長がつけたのよ。ちゃんとお礼、言ってね」
 微笑む葵に、思わずガッツポーズの洋平は、大きくVサインを返す。
「やったね。これで捨てられた女の人も、少しはスッキリするかな」
「女を泣かせた当然の罰よ。それよりも洋平くん、社長が奥で待ってるから行ってくださいな。仕事の話だそうよ」
 言われて曜も焦る。
「そうだった。洋平さんも加わるんだったんだ。ごめん、俺、公兄さんから言われてたのに忘れてた」
「じゃ、今度は曜くんと一緒なの?」
「そうだよ。翔もだけど――って、翔ってば、戻って来ないけど、まさか早速何か観てるんじゃないだろうね」
 文句を言いながら出て行く曜を呼び止めようとしたが、葵に急かされて社長室へ向かった。


 社長室兼応接室の扉を開けて、
「公さん、ありがとうございます。昨日の依頼人の素行調査が入ったんでしょ。本当に、徹底的にやってくださいよね。あいつ叩けば、目の前が霞むくらいのホコリが出てきますよ、きっと」
 その時の男の顔でも思い浮かべているのか、洋平が満面笑顔で言った。
 正面の大きな机に座っている青年が、苦笑でおはようと返す。
「キミが元気で嬉しいよ、洋平くん。素行調査のほうは、キミのご期待に添うよう努力するとして、本題に入ろう。座りたまえ」
 石橋公。若干二十七歳にして一つの会社を経営する彼は、頭脳明晰容姿端麗を形にしたような男前であった。この会社の依頼人たちの質と量に定評があるのも、一重にこの社長の人徳と容姿の賜物だ。
 公は空いている正面の席を示し、代わって上座に座っている背広の男を視線で示した。
 そのくたびれた背広と屈託のない笑顔の青年には、すでに面識があった。椅子に踏ん反り返って洋平に手を振っている。
 洋平も、満面笑顔で答えた。
「お久しぶりです、室戸さん。室戸さんがいるってことは、警察絡みの仕事なんですか」
 咲久耶中央署刑事課の室戸武史は、にこりと笑って頬杖をついた。
「残念ながら、そうなんだ。とは言っても、依頼人は別にいるけどね」
 外見の割には若く明るい声の室戸が、にこやかに付け加える。この刑事、公とは同級生ということで、時折こうして姿を見せる。
 その為かどうなのか、石橋コーポレーションの求人ファイルには、時として破格の危険手当がつく仕事があった。
「その人は公的な立場の人間だからな、あくまでも本来の役目は伏せておかなければならない。しかも今、咲久耶市全体が注目している人物だから、生半可じゃ困る」
 室戸が奥歯にものの挟まった言い方をしているのを横目に、公は一枚の書類を洋平に渡した。
「契約書だよ。依頼人の署名捺印がある」
 職種の欄に『雑用』と書かれ、時給の欄には破格の金額が書き込まれていた。
 洋平が顔を上げる。
「依頼人は、片岡市長なんですか」
「そう。金額を見ても分かるように、少々厄介なことなんだ」
 そう公は前置きをすると、淡々とした口調で説明を始めた。
「キミも知っていると思うが、現在、この咲久耶市が真っ二つに分かれて争っている、すその地区の開発計画の是非が問題なんだ」
 この咲久耶市中央区の西北端に広大な森林地帯があった。美しい山の裾野にあることから、その辺り一帯を『すその地区』と呼んでいた。
 そして、この地区の開発を巡って、咲久耶市が揺れている。
 巨大なビル都市に変える計画を打ち出している大手建設会社数社と、環境保全のため緑地として保護しようとする市民団体が、真っ向から対立しているのだ。
 前者の中心人物が、業界大手の原山建設会長原山雄一であり、後者のそれが市長である片岡英夫でその人であった。
「両者は譲らないまま、市議会が開催されるわけだが、このところ片岡市長の身辺に、不審なことが起こってるんだ」
 公に代わって、室戸が続けた。
「市長秘書の小磯勉氏が、先日来消息を絶ってしまったんだよ。彼は市長の腹心であると同時に、バリバリの自然保護派だった」
「まさか警察は、小磯氏の失踪を、開発推進派の仕業とか思ってるんですか。いくら対立関係にあるからと言っても、考え過ぎじゃ・・・」
 洋平が物騒な言葉が出る前に遮ると、室戸は珍しく深刻な顔を見せ、微かに唸った。
「俺も最初はそう思ったよ。だけど実際、小磯氏がいなくなってからは、開発派の運動が目覚しくなっているし、水面下では、具体的な開発計画とその予算までが練られているという噂だ。片岡市長はそれでも踏ん張っているワケだが、それさえも疎んじる奴らは、ダーティな手段に出たんだ」
「はぁ、市長のネックを掴む方法を見つけたんですね」
「市長には、高校生のお嬢さんがいるんだ」
「その女の子の安全が、市長を排斥したい奴らによって損なわれる恐れがある、とおっしゃるんですか」
「現に、彼女は昨日見知らぬ男達に連れ去られるところだったらしい。幸い、通りかかった女性と忍ちゃんが追い払ったらしいけどな」
「昨日? 忍ちゃんと?」
「そう。けっこう大柄で美人だったらしいが、どこの誰とはわからないらしい。襲って来た男三人も遠めで、忍ちゃんにはよく見えなかったらしいよ」
「はぁ・・・。男三人ですか・・・」
 沈み込む洋平をどう思ったのか、室戸は明るく付け加えた。
「片岡市長も心配して、中央署署長に相談されたんだが、小磯氏の行方と市長を狙う奴らの捜査で手一杯なんだよ。中々人員をお嬢さんの護衛につけることが難しいって話になってな、で、困った時は公に押し付けるの精神で、片岡市長にこの会社を紹介したワケ」
 ま、他にも理由はあるんだけどな。と小さく室戸が付け足す。
「で、俺が用心棒ですか?」
 洋平が呆れて公を見ると、公が苦笑を向ける。
「危険は多少あるとは思うが、できればキミに受けてもらいたいんだ。これは妹の忍のご指名でね」
「忍ちゃんが、どうして」
 この社長が、家庭の事情から一家の長として三人の弟妹を大切にしていることは、皆が知るところだ。わけても双子の弟と同じ学年の妹は、末っ子だからなのか、女の子だからなのか、とにかく甘い。
 その妹の指名とあらば、職権でも特権でも乱用するだろう。
「忍も個人的に、市長のお嬢さんの護衛を頼まれていてね。当分の間、市長宅で暮らすことになっている。それで同じ仕事をするならキミが良いと言っているんだよ。何かワケありのようではあったけどね」
 そう言って目を細めた社長の言わんとすることは、手に取るように分かった。
 昨日、片岡市長の娘を助けた女が、洋平であることを、この社長も可愛い妹も知っているということだ。
 どうやら今回の仕事も、暗雲漂い始めてきた。こういうのは断るに限る。
「すみませんが、公さん。この仕事は・・・」
 そう言い掛けた時、ドアが開いた。
「おまたせ、公兄さん。真穂を連れて来たわ」
 透き通った声が多少冷たく聞こえる口調の女の子が、一同に大人びた礼をした。
 昨日、タマネギ一つで大の男を追い払った、石橋家の末っ子、石橋忍である。
 双子の兄、翔と曜を両脇に、屹然と立つ姿は、見るからに姐御肌で、咲久耶中央高校の中でさえ一目置かれているという噂は納得できる。
 そして、そんな忍に隠れるように立っている小さな女の子がいた。
「忍の隣にいるのが、片岡市長のお嬢さんの真穂さんだよ。咲久耶中央高校の二年生だ」
 洋平は、心の中で頭を抱えながら、一応挨拶をと思い立ち上がると、その小さな女の子は忍の後ろにすっかり隠れてしまった。忍が何やら小言を言っているが、いっこうに出て来ようとしない。
「ごめんね、洋平さん。この子、男の人が苦手なの。気にしないでね」
 拝むように手を合わせる忍の背中で、セミが鳴いているようだ。
 横で踏ん反り返っていた翔が、軽く彼女の頭を小突いた。
「態度悪いぞ、真穂。せっかく洋平さんがお前のお守りをしてくれるって言うのに、挨拶くらいしろよ」
 間延びしたぞんざいな物言いに、片割れの曜が流し目をくれる。
「翔がそんなふうに苛めるから、真穂が男嫌いになるんじゃないか」
 公によく似た柔らかな口調と物腰は、とても翔と双子の兄弟とは思えない。そっくりな容姿も、きちんとした制服の着こなしと雰囲気で二割り増しハンサムだ。
 忍の冷めた雰囲気を考え合わせると、どうやら翔は、石橋家の突然変異に見える。
 忍は、真穂の頭を小突いている翔の手を容赦なく叩くと、鋭く睨んだ。
「そうよ。翔は女の子の扱い方なんて、全然分かってないんだから。真穂の一メートル以内には近づかないでよ」
 たいした剣幕に、翔は憮然としてそっぽを向いた。
「俺、真穂の護衛は降りるぞ。そんなわがまま女に付き合ってられるかってんだ」
 洋平としても、いつまでも忍の背中から出て来ない女の子を、引き受ける気にはならなかった。男が近づけないと言うなら、いざと言う時助けようがない。
「公さん、やっぱりこの仕事、パスしますよ。俺には無理だ」
「そうそう。洋平さんもその方がいいよ。やめちゃえ、やめちゃえ」
 そう囃し立てる翔の顔面に一発拳を食らわして、忍は洋平に近づいた。
「駄目よ。洋平さんにはどうしても引き受けてもらうわ。私と一緒に真穂の家に泊まり込むんだから、他の男じゃ困るの」
「それなら、なおさら女性の方がいいよ。彼女だって、その方が気楽だろうし」
 いささか苦手の忍に迫られて、ひたすらたじろいでいると、忍の鋭い瞳が妖しく光る。
「昨日、真穂を助けてくれた女の人が、どこの誰なのか分かれば、その人に頼むわよ。真穂は、あの人が良いって言ってるんだから」
「な」
「幸い、私があの人の顔を覚えているもの。探し出すのは簡単だわ。そうでしょ、洋平さん」
 脅迫されているとしか思えない迫力に、洋平は公を振り返ると、これまたにこやかに笑って見ている。言いたいことは、妹と同じだろう。
「断るなんて、言わないわよね、洋平さん。ご指名には答えなくっちゃ」
 そう言う忍の後ろで、小さな女の子が恐る恐る洋平を見上げている。
「役に立つとは思えないけど・・・」
 それでも辛うじて反論する洋平に、忍は事も無げに返す。
「あぁ、居てくれればいいのよ、洋平さんは」
「では、契約成立ということで。期待しているよ、洋平くん」
 忍以上に明るい公の笑顔に項垂れて、洋平はただ短く同意するしかなかった。
 いつからかキョトンとして見ていた翔が、小首を傾げて洋平に近づいた。
「ねぇ、洋平さん。脅されるネタでもあるの?」
 洋平はいっそう項垂れるしかなかった。
 悪夢だ。


 洋平の一日は、掃除から始まる。
 朝日がまだ顔を出さないうちに起きだして、まずは門の外から始める。
 怪しげな人物がいないか確認しながら、塀に沿って敷地を一回りし、その後、庭を掃除しながら屋敷を一周する。けっこう広い庭だが、苦になるほどではなかった。
 片岡邸には、市長の片岡英夫と恭子夫人、一人娘の真穂が住んでいた。
 いつもは週に三日、お手伝いが来ることになっていたが、事情が事情だけに、当分休ませるということだ。その代わりに洋平と忍が家事手伝いをすることになった。
 今頃、忍は恭子夫人を手伝って、朝食を作っているだろう。
 草刈り機をコロコロと転がしながら、芝生の手入れをしていた洋平は、今日も二階から視線を感じて、見上げた。
 窓辺に真穂が半分だけ顔を覗かせて、カーテン越しに洋平を見ている。
「おはよう。気持ちのいい朝だね」
 同じ台詞を、毎日続けている。そして本日も朝の挨拶は空振りに終わる。
 洋平が明るく手を挙げた途端、窓辺の人影は消えるのだ。
「俺って、そんなに怖がられるタイプなのかな」
 今日もポツリと呟いて、掃除を続けた。
 真穂の無視は、永遠に続きそうだ。いい加減うんざりする。
「早いとこ、お役御免になりたいよ」
 手だけはしっかり動かしながらぼやいていた。
 片岡邸から咲久耶中央高校までは徒歩30分。
 洋平は、忍と真穂を正門まで送った後、自分の大学へと向かう。仕事のうちだ。
 真穂と並んで歩く忍が、時折反対隣の洋平に話しかける。
「洋平さん。今日は、いつ頃迎えに来てくれるの」
 毎日、当たり前のように忍に質問される。そして、洋平はいつも通り答えた。
「忍ちゃんたちの授業が終わる頃には来れると思うけど、用事とかあるなら、俺が時間を合わせるよ」
 気を遣って返事を待つと、忍はさらりと流す。
「じゃ、早めに迎えに来てね」
 いつも言い切られているので、洋平としては少々窮屈だ。これも仕事のうちなのか。
 洋平は思い切って返してみた。
「そんなに心配しなくても、ちゃんと来るよ。それとも、何か不安なことでもあるの」
 真っすぐ前を見て歩く忍の横顔を窺うと、鋭い視線で射抜かれる。
「ないわ。洋平さんがいないと、真穂が探し回るから」
 まさか。
 毎朝の挨拶を無視し、姿を見つけると物陰に隠れる女の子が、誰を探し回るって?
「・・・冗談だろ、忍ちゃん」
「本当よ」
 半信半疑で流し目を送っていたが、そんなことをしている場合ではなかった。
 正門に近づくにつれて、周囲がざわめいてきて、やたら視線を感じる。
 初日はその光景を遠巻きに眺めていた女生徒たちが、日毎に周囲に集まるようになり、数日過ぎると結構な数の群れになった。
 中には、わざわざ忍を捉まえて、洋平が何者なのか問い質す女生徒もいた。
 興味津々で忍がどう答えるのか聞いていると、意地悪な表情を浮かべてチラリと見られた。
「ちょっと訳ありでね、登下校は一緒なの。だから私たちが校門を入るまでは邪魔しないでね」
「それって、忍が正門を入ったらフリーってこと?」
 群れの中から質問が飛び、洋平の背筋に寒気が走る。
 できれば「違う」と言って欲しいな・・・と思ったが、叶わぬ望みであった。
 忍は事も無げに真穂を先に促し、肩越しに洋平を見ながら正門に一歩足を踏み入れる。
「洋平さんの仕事は正門までの護衛だから、その先は自分で処理してね」
 なんとも冷たい仕打ちだ。
 それからは、毎日悩みの種だ。
「じゃ、また放課後お願いね」
 と忍の声がかかると、『ひとまずお役御免』であると同時に『獲物』になる瞬間である。真穂と忍が正門に入ったと同時に、洋平は無数の女生徒に取り囲まれる。
「忍ちゃん、この女の子たちはどうすればいいの」
 精一杯背伸びをして立ち去る忍の背中に声をかけるが、明らかに面白がっている横顔と軽く振られた手が薄情だ。
 それを遠巻きにして、翔と曜が大きくため息をついている。
「洋平さんは優しいからなぁ。その分大変だろうね」
 曜が肩をすくめる傍で、翔が仁王立ちで憮然とする。
「曜が、ヘルプすればいいじゃん」
 女の子に囲まれて、なんだか楽しそうに見える洋平を羨ましがっているようにも見える。
 曜が呆れた顔で翔を見た。
「やだよ。めんどくさい。翔が行けばいいじゃん。皆、逃げるよ」
「そんな自虐的なことしたくないよ。俺がイタイじゃん」
「じゃ、このままということで」
 結局、同じ結論に達し、双子も真っすぐ正門をくぐった。
「こら、二人とも。見捨てるな」
 洋平の伸ばした手が、虚しく揺れた。


 予鈴に助けられ、やっと開放された洋平は、大学に向かう途中、電柱に寄り掛かってぼんやりしている室戸の背中を見つけた。
「室戸さん」
 声をかけると、さも眠そうな顔ながら、パンを頬張ったまま振り返った。
「おぅ、洋平。これから大学か」
「真穂さんは、忍ちゃん達と無事学校へ行きましたよ。で、何してるんですか、こんな所で」
 朝の往来で、菓子パンと缶コーヒーを食らっている姿は、道行く人々の視線の端にしっかりと映っている。
 室戸は美味しそうに甘そうなパンを頬張ると、少し考えてあっけらかんと言った。
「ん・・・、張り込み?」
 疑問形ですか。しかも――。
「目立ってますよ、しっかり」
 正直、目立っている。
 隠れてコソコソ見張るという様子ではない。誰からも見えやすく、まるで『見てますよ』と言わんばかりの不審者ぶりだ。
 咲久耶中央署に配属される前も一つ所に留まらず、所轄を点々としているこの男は、一方で、行った先で重宝されている節があった。
 洋平はまだ、珍しそうに目前で座り込んでいる室戸を眺めていたが、ふいに建物から出て来た男たちに視線を移した。
「あれ、あの三人・・・」
 背の低い男の後ろを二人の人相の悪い男が続く。いつか真穂を追ってた三人だ。
「室戸さん、あそこ、出版社ですか?」
 小さく問うと、小さく首を横に振られた。
「いや、原山建設の出先機関ってところかな。どうした」
 目を丸くして洋平の答えを待つ室戸の前を、三人は気にも留めず去っていく。
「あの三人、真穂さんを追っかけてた自称記者三人ですよ」
 聞いて、室戸は三人の後姿を見やる。
「へぇ。そうか、洋平が『女』やってたときの」
 真穂を助けた時、洋平は女装していた。おそらく公にでも聞いたのだろう。あの双子、――とりわけ翔には知られたくない。
「あ・・・、それ、忘れてください」
 小さく懇願する洋平にはお構いなく、室戸は菓子パンを頬張った。
「真穂さん追って、どうする気だったのかな」
 今、咲久耶市はすその地区の開発派と保護派に分かれて争っている状況だ。その開発派の先陣である原山建設に関係があるらしい男衆と、保護派の代表である市長の娘。
 接点があるようで不可解な取り合わせに、室戸は興味があるのかないのか分からない表情で、缶コーヒーを飲み干した。
「さぁ」
 洋平には、まるで見当もつかない。
 この数日は、真穂の周囲に不審な影はない。あの三人を見かけることもなかった。
 では、真穂に何の用があったのだろう。
 特に変わった様子は見せない室戸を見ながら、洋平はあれこれと考え込んでみた。


 晴れた日が続く。
 今日も早くから日課の芝生刈りをしていると、庭に片岡が現れた。
 咲久耶市長は、小柄だが恰幅のいい紳士で、いつもニコニコと穏やかに笑っている。
「やあ、いい天気だね。絶好のゴルフ日和だ。久しぶりに出掛けたいところだ」
 柔らかい口調で語りかける片岡は、眩しそうに瞬きをした。内心は、置かれた立場を軽口で紛らわせたいのだろう。
 実際片岡の周囲は、週明けの市議会を前に、緊迫の度を増していた。この市議会で、すその地区の開発か保護かが決まる。
 事前のアンケート調査では、市民は保護派が圧倒的だが、開発推進派の企業はそんな市民感情などおかまいないらしい。
 市長であり、また保護派の筆頭である片岡は、彼らにとっては目障りという以外の何ものでもないのだろう。しかもこの片岡が主張を曲げれば、他の保護派もこぞって開発派に回るだろう。それほど市会議員は、開発派に傾いていた。
「いよいよ開発か保護かの選択が来たな。キミはどちらを望んでいるのかね」
 草を刈る洋平の手をぼんやり見つめて、片岡はポツリと呟いた。保護派の筆頭として奔走する片岡だが、ことが愛娘にまで及ぶとなれば、自分の選択に躊躇するのは当然かもしれない。
 洋平は草刈り機の手を止めて、大きく息をつくと、塀の向こうに見える緑を仰いだ。
 片岡邸からすその地区は目と鼻の先にある。大きな常緑樹が小さな山のように盛り上がり、冷たい住宅地の空気を浄化している。鳥たちの鳴き声も数多く聞こえ、一歩足を踏み入れれば、色々な動植物にお目にかかれるだろう。
「開発ということが、そのまま高層ビル群の建設というのであれば、ごめんですね」
洋平は言葉を選びながらも、澱むことなく自分の考えを伝えた。
「この咲久耶自体が、首都圏の人口流出によって出来た住宅都市でしょ。それをまた首都と同じ構造に変えるなんて不毛ですよ。ビルの数や人口だけが、都市の良し悪しを決めるわけじゃない。咲久耶には咲久耶の良さがあるはずです」
「その良さを出す為の、開発と保護かね」
「そうですね。市長には悪いんですが、その計画に、ゴルフ場建設はナシでお願いします」
 洋平の一言に、片岡は軽快に笑うと、洋平の背中をバシバシ叩く。
「はっきりしていていいね、キミは。いやはや、爽快、爽快」
 憂さを晴らすような腹からの笑い声が庭に響く。そうして笑うことで、片岡自身少し気が晴れたようだ。
 洋平は気持ち良さそうに片岡を見ていたが、不意に思い出して微笑を引っ込めた。
「片岡さん、秘書の小磯さんが突然いなくなったことは、何か影響があるんですか」
 洋平は、小磯とは面識がない。雇い主の石橋公からは、「とても生真面目な人だ」とだけ聞いた。忍に問うと、やはり「真面目な人」と返事があった。
 片岡は少し表情を曇らせた。
「そうだね。彼は真剣に市政を考えている青年だから、とても助かっていたよ。何故、彼がいなくなってしまったのか、考えても思い当たらなくてね。困ったものだ」
「小磯さんの代わりに、柳田さんが秘書の役目をされているんですよね」
 小磯が失踪し、市長秘書は別の市職員に引き継がれたが、それでは足りない部分を、失踪した小磯よりも十歳近く年下の柳田が、埋めているという。
「柳田君と小磯君は、年齢の違いなど感じさせないほど仲が良くてね。小磯君は、柳田君をとても信頼していたようだから、この切迫した状況でも力になってくれるだろうと頼んだのだよ」
 色男で完璧主義者だが、中々冗談が通じないのがもったいないのだが、と付け加えて、片岡はお道化た。
 二人で明るく笑っていると、テラスに忍と、噂の柳田が現れた。
「毎日大変そうですね」
 洋平が柳田に礼をすると、柳田も無言で礼を返す。
 やせ細った身体に、洋平と同じくらいの背の高さ。安物の背広を着て、控えめに立っているが、表情一つ変えず、その視線は冷たい。
 片岡は苦笑しながら、右手に握っている冊子で肩を叩く。どうやら咲久耶市の地図のようだ。
「週末、すその地区の視察をするんだよ。その打ち合わせがあってね、そのルートを検討するのに見ていたんだが、手付かずの場所が多くて、視察ルートをどうしようかと考え中だよ」
 片岡が何気に地図を開いて洋平に示した。
「小磯君からは、此花池までは車が通る舗装道路を行き、池からは歩いて山すそを登ることを提案されていたんだ。何か、いい場所があるとか言っていたよ。しかし、それではすその地区の状態はわからないのではという意見もあってね」
 悩ましいところだと、半分面白がる片岡が地図をなぞるように示す。舗装道路と池の位置、道のない空白部分がおぼろに脳裏に投影される。
 地図には、『危険』の文字や『崖』と書かれた箇所がある。
「この地区って、結構手付かずな場所が多いってことですよね」
 洋平が問うと、片岡は笑って地図を閉じた。
「そうだね。それをどうするかって所を、議論していくって話だね」
 吹き飛ばすように笑うと、すぐに出掛けるから朝食はいらないと、忍に声をかけ、片岡は柳田を伴って奥へと消えた。
 全幅の信頼を置いていた小磯氏が失踪して以来、柳田が秘書を代行しているのだが、何かとやり手の男らしく、万事にそつ無くこなしていると、公は言っていた。
 片岡自身、柳田の存在は大きいようだ。
 ただ、その色男は時折、凍ったように表情を無くすことがあり、洋平は柳田が苦手であった。
「妖気漂う二枚目は、物語の中だけで沢山だけどね」
 忍もどうやら洋平と同じ感触を持っているようだった。とても女子高生と思えない鋭い瞳を、二人が消えた方向へ向けている。
「あの人、小磯氏がいなくなる少し前から、様子がおかしかったらしいの。開発推進派が活発になったのも、丁度その頃なのよね」
「ふむ。面白い話だね、忍ちゃん。あの男が小磯さんの失踪に関係していると思ってるの」
窺うように屈んで忍に視線を合わせると、忍が小さく頷く。
「五分五分でね」
「五分五分、ね」
 屋敷の中から流暢な夫人の声が聞こえる。どうやら忍を呼んでいるようだ。
「忘れてた。朝食が出来てたんだわ。洋平さんも、食べてね」
 慌てた忍は、大きな声でそれに答えると、サンダルを引っ掛けて庭へ下り、二階の真穂の部屋へ声をかける。
「そこにいるんでしょ。真穂。朝食よ。下りてらっしゃい」
 だが、窓辺に人影はなく、もちろん答えもなかった。
「隠れているのは分かってるのに、困った子なんだから」
 腹立たしげに言い捨てる忍に、苦笑で洋平が同意した。
「大変だね。咲久耶中央高校は共学だろ。半分は男なのに、あれで大丈夫なのかい」
「真穂も私も普通科文系だから、女の子の方が多いのよ。これが翔の体育科や曜の普通科理系だと、登校拒否になるでしょうけどね」
 忍は尚も「本当に困った子」と言いながら、とっとと家に入って行った。おそらくその勢いで真穂の部屋まで行くのだろう。
 取り残された洋平が、しばし唖然と二階の窓を見つめたことは言うまでもない。
「忍ちゃん、俺は朝食、後でいいからね」
 大きな声で言ってみたが、果たして忍に聞こえたのかどうか。
 今日もまた「同じ日」が続くのかと思うと、洋平はただただ途方に暮れるだけだ。


 忍はノックもろくにせず、真穂の部屋へ入ると、一直線に窓辺にまで進んだ。
「どうしてすぐに下りて来ないのよ。そんなだから、洋平さんが気を遣って朝食を一緒に摂らないんじゃないの。もう何日になると思ってるの。いい加減にスナオにならないと、洋平さんの仕事を翔にでも代わってもらうことになるわよ」
 踏ん反り返って腕組みをし、床に座り込んでいる幼馴染を見下ろしながら、忍はイライラと足を揺らした。その足元で、真穂は小さく膝を抱えて俯いている。
「でも、忍ちゃん。真穂のことなんて関係ないわよ」
 いじけた猫のように小さくなった真穂は、床にのの字を描く。挨拶できないのは、洋平の顔を見ると、瞬間性失語症と顔面硬直に見舞われるだけだ。決して意地悪からではない。
 いつもなら、「まったく」と呟いて呆れるだけの忍が、その日は違った。
 表情こそ変わらないが、確かに忍は怒っている。
 異様な雰囲気を感じて顔を上げた真穂に、容赦ない忍の視線が突き刺さる。
「護衛っていうのはね、守ってやろうとする人の努力だけじゃ守りきれないのよ。一番大切なのは、守られる側の人が危険を切り抜けようとする気力なの。真穂の場合、襲われる前から負けてるじゃない。これじゃ、いくら洋平さんや私が傍にいても、仕方ないわよ。分かったらすぐに下りて、洋平さんに朝の挨拶でもしなさい」
 論理がぶっ飛んでいるようにも思うが、言いたいだけ言うと、忍はさっさと出て行ってしまった。堪忍袋の緒が切れたようだ。
 一人小さくなっていた真穂は、おもむろに立ち上がり、窓辺に張り付いた。
 下の庭ではまだ洋平が、草刈り機で芝生の手入れをしている。
 ラフなシャツにジーンズ。柔らかい表情と口調で話し、石橋兄妹の喧騒も笑って流している。平均よりやや丈高い様子で、男性としては細身。ただ立っているだけなのだが、どこか目に付く青年だ。
 サンダルで現れた忍と並んでいると、似合いのカップルになる。
 カーテンの陰に隠れながらも二人を見つめる真穂は、今にも泣き出さんばかりに目を潤ませていた。
「ちゃんと、わかってるわ。でも、やっぱり男の人なんだもの」


 洋平は、いつものように真穂と忍を学校まで送り、女性徒の群れに囲まれ、疲れきって大学へ向かう途中、また室戸に会った。
 挨拶しようと手を挙げたが、視線で制止されてしまった。
 見ると、今日は見るからに張り込みらしい。
「どうしたんですか、室戸さん。刑事みたいですよ」
 素早く傍に走りより小声で言うと、前髪をクシャリと撫でられた。
「刑事なんだよ。元々」
 人懐っこい笑顔が、この刑事の持ち味だ。この顔に騙されて、ついホイホイと乗せられてしまう。
 それが、何故か心地よいから不思議だと、洋平は自虐的に考えながら室戸の視線を追った。建物への出入りは見られない。
「で、またあの三人ですか?」
 真穂を追っていた三人が浮かぶ。一人は小柄で強面の男、名は矢部というらしい。あとの二人は、大柄だが迫力に欠けるチンピラ風だった。
「いや、矢部たち三人とは限らないかな。叩けばホコリが出る奴らばかりの集まりだからな、必要があれば、全員署に連れて行ってもいいかな」
 事も無げに室戸が答える。
「女を捜してるらしいんだよな、あいつ等。結構血眼になって、な」
「女? どういう女なんですか」
「いや、わからん」
 わからないことが、さして問題でもない軽い口調だ。
「だが、何となく気になるだろ」
 悪戯っぽい笑みが、不気味だ。この微笑に、いつも弄ばれているような気がする。
「それより、洋平。市長の傍にいる柳田って青年はどうだ」
 いきなり鋭い視線で話題が変わり、洋平は目を見開いた。加えて柳田のことを訊かれるとは思わず、一瞬考える。
「柳田さんですか――。普通に二枚目ですけど、何かあるんですか」
 問い返すと、室戸は珍しく真面目な顔で声を低く抑えた。
「行方不明の小磯に、いつもくっついていた奴でね。小磯の行方について聞き取りをした時の様子が印象的だったんだよ。柳田自身がどうにかなるんじゃないかと思うくらいだったな」
「それって、どんな感じですか。想像がつかない」
 室戸の説明がまったく理解できず問い返すと、室戸も少々考え込んだ。
「どうって、そうだな・・・、このままコイツ死ぬかなってくらい深刻な顔かな・・・」
 どこか含みのある口調と表情の室戸を、洋平は怪訝な顔で見返した。
「そんなに、気掛かりなくらいですか」
 洋平は、記憶にある柳田の横顔を思い出す。氷の造詣のように冷たい無機質のような顔。
「そうだな。『アヤしい関係』を疑うくらいには、変だったよ」
「忍ちゃんが言うには、小磯さんが失踪する少し前から、柳田さんの様子はおかしかったって。・・・室戸さんの言われる『アヤしい関係』かどうかは知りませんが・・・」
 想像力を超えたアヤシイ表現に、洋平は少なからずたじろいだ。
「忍ちゃんがね。なるほど」
 室戸にも思うところはあるのだろうか。思案顔で視線を意中の建物に向けながら、思考をめぐらす。
「それで、室戸さん。小磯さんの消息は掴めたんですか」
「掴めてたら、真っ先に片岡市長に報告するよ。市長にとっては、どうしても必要な人材だろう。単に保護派というだけじゃない。小磯は片岡さんが市長に立候補する以前からのブレインだ。信頼度がハンパない」
「そんな人が、どうして行方不明なんですかね」
 真面目だったという情報と現状がまったく重ならない小磯のイメージに、洋平は多少困惑する。
「さぁな。俺も知りたいな」
 室戸はさして興味もなさそうだ。


 夜遅く、片岡を乗せた車が玄関先に停まった。
 迎えに出た洋平と忍は、周囲を確認。つけてきている車や怪しい人影はない。
 柳田が助手席から出て後部座席のドアを開ける。
「今日は疲れた。柳田くんも大変だったね。今日は泊まっていきたまえ」
 朝の快活さはなく、笑顔を作りながらも片岡は疲労を色濃く滲ませ、忍を伴ってそのまま家へ入った。
「何かあったんですか」
 洋平が傍に残った柳田を見ると、柳田も心配そうな表情で片岡の去った方向を見つめている。
「今、すその地区は瀬戸際だ。小磯さんを失って、この状況は、いかに市長が強い方でも苦しいだろう。小磯さんの牽引力は市長にとって重要な武器の一つだった」
「小磯さんって、無責任ですよね。こんな大事な時にいなくなってしまうなんて」
 洋平はつい思っていることを口にしてしまった。誰もが『真面目であり、信頼できる』と言う小磯が失踪しなければ、特に問題もなく過ごせただろうと思っていた。
 保護派か開発派かの選択はさておき、少なくとも洋平が『護衛』という派遣の仕事を請ける必要はなかったように思う。
 ただ、無用心な呟きに、激しい反応が返ってきた。
 柳田の目は憎悪に近い怒りで底光りしたまま、洋平を睨んでいた。
「あの人を悪く言うな。あの人ほど咲久耶市やすその地区のことを考えていた人はいない。市長の片腕として今まで働いてきたんだ」
 低く唸るような低音が、一層不気味に響く。
 洋平は、暫く何一つ反応ができなかった。何故、この目前の男は、これほど豹変するのだろう。
 洋平の怪訝な表情に気付いたように、柳田は瞬きをして二三歩退いた。
「すまない。声を荒げてしまって」
 洋平の困惑した視線を避けるように顔を逸らせると、柳田は小さな声で謝った。
「いえ、俺も、軽々しく言ってすみませんでした。柳田さんは、小磯さんとは仲が良かったんですよね」
 絶句に近い状態だったが、辛うじてそう答えると、改めて目前の男の横顔を見つめる。これが、室戸の言っていた『死を選びそうな深刻な』顔なのだろうか。
 柳田は、何かを捨てるように小さく横に顔を振り、掠れた声で洋平に謝った。
「悪かったね。今日は、色々あってね。これまで保護派だった数名の市議が、開発派に流れかけているようでね。かなり激しい議論になったんだよ」
 開発となれば、雇用や経済効果など財政が潤う要素が多様にあるのだろうが、単純に目先の利のみを追求しては市の発展には繋がらないのだと保護派は訴える。両者の溝は、中々埋まらない。市議の動きの裏には、開発派の旗振り役である原山建設が見え隠れするが、それを証明するものはないという。
「すその地区の視察が週末ですよね。ルートは決まったんですか」
 洋平は、少なからず引っ掛かっていた。片岡市長が持っていた地図に、幾つもの印があった。『危険』などと書き込まれた赤い字が、脳裏に浮かんで悪寒が走る。
「小磯さんの提案通り、安全なルートでいいんじゃないんですか」
「他の意見も聞くものだよ」
「市長の地図にも危険箇所がいくつかありましたが、そこも見るんですか」
 珍しく立ち止まって話を聞いている柳田に、ここぞとばかりに質問を浴びせる。
「舗装された道路って、此花池の畔まで通じている1本ですよね。ということは、舗装されていない山道を選ぶってことでしょ?」
 洋平の勢いに、苦笑した柳田がポケットから携帯地図を取り出して広げて見せた。そこにも赤字で印がある。
「今上がっているルートには、危険箇所がいくつかある。そういう所を見なくて保護を訴えても、市民を守ることにはならないと言われれば、行かないわけにもいかないだろ」
「そんな危険な所、ワザワザ行かなくても――」
 洋平が、柳田の指す地図上を目で追いながら言う。それを聞きながら柳田が、赤字の印とは別の場所をいくつか示す。
「避難できそうな岩場や窪地は、以前から小磯さんが市長に伝えているよ。大丈夫だろう」
「柳田さんも同行されるんですか」
 説明は分かりやすいが、それでも洋平は引っ掛かった。
「いや、俺は同行しない。保護派の市議が数人行くよ」
 いつになく多弁な柳田は、喋りすぎたと思ったのか、ふいに表情を曇らせて洋平から視線を逸らせた。
「君たちは、いつまでここにいるんだ」
「さぁ、俺にもわかりません。目障りですか」
 柳田も時折この屋敷で寝泊りしている。小磯が使っていた部屋を使っているという。今日もそこを使うという。
 正直に答える洋平を、一瞬見つめた柳田は、整った顔でニコリと笑い、微かに肩を揺らした。
「大変だね、君も。別に目障りとは思わないよ。君だって、仕事なんだろ」
 柔らかい口調で労うように語る柳田に、洋平が目を見張った。
 この表情、この笑顔は、いつか見たことがある。
 中学生の頃だったろうか。
 従姉弟の玲子と同級生の朝見沙也子は、とても仲良しとは見えないのに、何故かよく一緒にいた。
 男を片っ端からなぎ倒して歩く玲子とは正反対で、朝見沙也子は常に『彼氏』がいた。しかも付き合う男が悉く玲子の気に入らないタイプなのだと言って、友人の彼氏であるにも関わらず『大嫌い』といって憚らなかった。
 柳田は、沙也子の彼氏にそっくりなのだ。もちろん柳田にはまったく関わりのない話だが、しかし・・・よく似ている。
「どうかしたのか」
 怪訝な顔で柳田が声をかけた。それほど洋平は固まっていたのだ。
 少し驚いたように首をすくめて、洋平は軽く頭を左右に振った。
「すみません。ちょっと、思い出したことがあって・・・」
 尚更わからないと言わんばかりの柳田に、洋平がつい、前のめりになってしまった。
「柳田さんって、彼女とかいるんですか?」
「彼女?」
 今度は柳田が眉間にシワを寄せて、固まってしまった。どこから出た質問か、見当もつかないと言わんばかりだ。
 洋平は慌てて両手を振りながら、張り付いた作り笑いで後ずさった。
「いえ、すみません。本当に何でもないんです。ただ、柳田さんのような二枚目が好きな女性に心当たりがあって――」
 言い訳になっているのかいないのか、洋平はそのまま廊下を下がっていきながら、適当に言葉を付け足すと、柳田はいつもの冷めた横顔で口角を少し上げ、洋平に背を向けると、静かにその場を去った。
 暫く諸手を挙げた状態で立ち尽くしていた洋平は、手の平で膝を押さえ、大きく前かがみになり息をついた。
 馬鹿なことを訊いてしまった。
 従姉弟の玲子が、その男遍歴に『辟易する』と言いながらも、何かにつけて会話に登場していた沙也子の顔がチラチラする。四つ年上のこの二人の女性は、洋平をからかって遊ぶことが常で、洋平にとって鬼門に近かった。
「馬鹿だよな、俺」
「洋平さんが、馬鹿だと思ったことはないけど」
 いきなり二の腕辺りで声がした。
 一つ叫び声を上げて飛び退いた洋平に、忍が呆れたような視線を惜しげもなく浴びせている。
「どうしたの、忍ちゃん」
「洋平さんこそ、どうしたの。まだ部屋に帰ってなかったから、探してたのよ」
 探していた・・・。
 既に世間では眠りについている人もいる時間に、女子高校生が何の用があるのだろう・・・、とは思わなかった。
 洋平は、忍の表情の端に見える、あまり有難くない笑顔を見て取った。この微笑が見える時は、要注意だ。無理難題が降ってくる。
 一歩退こうとする洋平の腕を、がっしりと捕らえてニッコリと満面の笑顔を作った忍は、とびっきりの柔らかい声で言う。
「洋平さんにお願いがあるの」
 ・・・ほらね。


 原山建設の社長室で、原山雄一は腹立たしげに目前の部下たちを見た。
「いつまで待たせるんだ。いつになったら、持ち去られたモノが戻ってくるんだ。女は始末したと言ったのは嘘か」
 低く荒い口調の原山は、容赦のない視線を目前の小柄な矢部に向け、大柄で筋肉質の身体を大きな椅子に沈めるようにして座っている。
 矢部は、身の置き所に困っている風で、ただ神妙に首を垂れている。
「確かに、女は始末しましたが・・・」
 そのまま答えると、灰皿が飛んできた。
「それで何故、大金を要求されるんだ。まさか、女の幽霊がいるなどと言わないだろうな」
 憤怒の形相で怒鳴り散らす原山は、今にも真っ赤な顔でぶっ倒れそうだ。
「幽霊は、ないと思いますが・・・」
 矢部自身も半信半疑だ。確かに『女』は始末したはずなのに、その後脅迫電話が掛かってきた。説明しろと言われても、矢部の方が説明して欲しいところだろう。
 だが、それを訥々と語ったところで、原山には通じないだろう。
「そうであれば、私は、どこの『女』に脅されているんだ」
 原山の剣幕は果てしがない。
「社長、こうなったら、市長の視察の件は、手を出さないほうが」
 得体の知れない事柄が目前にあるのであれば、ヘタに動かないが身のためだ。まずは、『女』のことを明らかにする方が先だろう。まして肝心のブツは、『女』の手元にある。それがもしも公けになれば、原山建設もすその地区の開発も、全てが飛んでしまう。
「このままでも、開発派の勢いは優勢かと思います。ここで、市長の身に何か起これば、市民感情も開発派の足並みも揺らぎます」
「黙れ、あれもこれもできないでは埒が明かん。市民感情が開発に向かう為にも、すその地区の危険性を知らしめねばならんのだ。その為の計画だ」
 声量と迫力に圧倒されて、既に矢部は反論する気はない。
 原山も、咆哮にひと段落付け、椅子に深々と沈んだ。
「例の男は、ちゃんと動いているのだろう」
「あの男は、問題ないかと思います。もしこちらを裏切れば、あの男が殺人者だということがバレますので」
「まったく、何がどうして殺したのか知らないが、こちらには好都合だ。とにかく、手筈通りに事を運べ。この計画に、莫大な予算が掛かっているのだ」
 そう言って部屋の一角に置かれた都市模型を見る原山に、恭しく礼をして、矢部は部下二人を伴い退出した。


 そして、週末。
 朝食を摂り終えて、庭先へ出た頃、空が曇ってきた。この調子では夕方頃には雨が降るだろう。
 片岡市長は、すその地区の視察である。結局、視察は舗装した道路ではなく、多くの凸凹道を進み、山の中腹まで行くことになったという。雨の程度によっては、引き返すかもしれないという。
 すその地区の森の中で、雨避けの建物と言えば、此花池と呼ばれる大きな池のほとりの小屋くらいだろう。
 片岡が帰ってくるなら、夕食の用意が必要だろう。その後はお決まりの囲碁研究だ。こちらはゴルフとは違いかなりできるようだ。父親仕込みの洋平も、何局か付き合ったが、あっさりと負けてしまった。
「ほんじゃ、碁盤でも磨いておこうか」
 と磨いていると、庭先から双子が神妙な顔つきでやって来た。
 何がどう腑に落ちないのか、二人、同じ顔を見合わせて、「違う」と「当たっている」を繰り返している。
「どうかしたのかい。二人とも」
 軽く声をかけると、翔の方が驚いた顔で洋平を指差して喚いた。
「洋平さん、ずっとそこに居たの?」
「あ、あぁ、いたけど。どうしたの?」
 訳が分からず呆気にとられていると、曜が、翔を押し退けて、なんでもないと軽く手を振る。
「なんでもないよ、洋平さん。それより用事があるんでしょ、行ってください。俺たち、今日は暇なんで、時間はかまいませんよ」
 取ってつけたような言葉に、特に不審も抱かず、洋平は磨き上げた碁盤を収めると、さっさと立ち上がった。
「ごめんよ、二人とも。アパートが気になってね。様子を見たら、すぐに帰って来るから」
「どうしてアパートに帰るの、洋平さん?」
「まだ、従姉弟が泊まってるはずなんだけど、携帯に連絡しても出ないんだ。ちょっと様子を見て来ようと思ってね。休日に悪いね、二人とも」
「そういうことか」
 翔が親指を立てて了解ポーズを取ると、曜も笑って手を挙げる。
「何なら、洋平さん。今日は俺たちが代わってもいいですよ」
 すぐに帰って来るからと、洋平は繰り返す。
 毎日、顔だけは見に帰るのだが、玲子の様子は日増しに険悪になっていく。洋平には極力気を遣っているという感じで、どこか神経質で落ち着かない。ふいに声をかけると、飛び上がらんばかりに驚くのだ。
 気になって、玲子の実家に連絡すると、伯母はこれまたヒステリックな声で、玲子を探していたのだと言う。
 どうやら洋平の所へ行くと言って出て来たというのは嘘のようだ。だが、それをありのまま玲子に問い質すのも気が引けた。
 何か隠している。それも、訊いてはいけないことのようで、ただ毎日何事もなく過ぎていくことだけが救いであった。
 洋平が、二人を残して行ってしまうと、双子がまたしても顔を見合わせて言い合いを始めた。
「だから言っただろ。さっきすれ違ったのは、洋平さんじゃないって」
 曜は、それみたことかと言わんばかりに、翔を睨んだ。しかし翔も負けてはいない。
「でも、よく似てたじゃないか。髪型も顔つきもさ。洋平さんがサングラスして帽子被るとああなるよ。曜は前から見なかっただろ。だから分からなかったんだよ」
「でも、後姿は別人だったよ。同じ細身でも、あっちは一回り小さく見えたし。それに洋平さんはもう少し肩が広いし、猫背だよ。さっきの人は姿勢が良かったよ」
「だから、洋平さんが背筋を伸ばすと、ああなるだろ」
「いいや。洋平さんはいつも猫背だよ」
 飽くなき戦いを続ける双子に、騒ぎを聞きつけてやって来た忍が怒鳴った。
「二人とも、さっきから何を言ってるの。うるさいわよ」
 思い切り睨まれる。
 廊下の端を柳田が横切った。片岡の視察には同行せず、今日は書類整理を頼まれているのだと聞いている。
 双子は、一瞬水を打ったように静まり返ったが、尚も納得できないのか、翔は踏ん反り返って言い返した。
「でもさ、忍。本当に洋平さんそっくりだったんだぜ、そいつ。俺、声かけたんだから」
「それで、返事はあったの?」
「――いや、無視された」
 ケチョンとなって肩をすくめると、それみたことかという表情が返ってくる。この辺りは、曜の反応と同じだ。
「もういいわ。洋平さんはずっとここにいたんだから、翔の見間違いよ。それで、曜。洋平さんはどっち行ったの」
「洋平さんなら出掛ける仕度じゃないかな。まだ出掛けてないと思うけど、どうしたの。用事なら、俺たちがするけど」
 明らかにイライラしている忍の顔色を見ながら、曜は言葉を選んだつもりだったが、何の効果もないようだ。ほぼ無視された。
「本当に、真穂ったら、手が掛かるんだから。腹が立つから、洋平さんに八つ当たりしてやるのよ。二人とも、ここはいいから、帰って」
 意外な切り替えしに、絶句する。
「はぁ? 忍、帰れってどういうこと。俺たち、呼ばれたから来たんだぞ」
 翔が目を丸くして聞き返したが、明確な答えは返らず、容赦なく切り捨てられる。
「とにかく、二人とも、真穂のことは洋平さんと私で大丈夫だから、帰ってね」
 言うだけ言って、忍はどこかへ行ってしまった。
 唖然として見送った双子が、同じ顔を見合わせる。
「なんだか、洋平さんが可哀相になるよな」
 おそらく、あの勢いをそのまま受け止めるであろう洋平の、困惑した顔が浮かぶ。
「翔。忍が、洋平さんに特別な感情を持ってないことだけが救いかもな」
「ん。不憫だ」
 神妙な顔をしてしみじみと唸る翔を振り返り、曜が眉をひそめた。
「て、翔。不憫の意味が分かってるの」
「いや、よくわからないけど。室戸さんがたまに言ってる。洋平さんのこと」
 あっけらかんとした答えに頭痛がする。
 またしても取り残された双子は、やはり納得できない様子で、忍に怒られる前に家路についた。


 アパートまで走り帰った洋平は、片手に下げた紙袋に渋い顔を見せ、合鍵でドアを開けた。
 玲子は出掛けたようだ。テーブルの上に、書置きと大きな封筒がある。
「預かってくれって、何なんだ、これ」
 座り込んで開けた封筒から、無記名のシールが張られたDVDが出てくる。
「まさか、R指定・・・じゃないよな」
 一人で言って、一人で納得すると、洋平は問題の持ち帰った紙袋を眺めた。
 片岡邸を出る時、忍に押し付けられたものだ。
 中には嘆かわしい品々が、出番を待っている。先日、忍に前振りはされていたが、早くもその時が来たというわけだ。今は『護衛』に専念する時だと思ったが、結局、忍と二人で真穂を警護することには変わりなく、忍の勢いに負けた形となった。
 物陰で呼び止められ、耳元で囁く忍の依頼に頭を押さえていると、遠くから真穂がこちらを窺っているのが見えた。洋平が気になる様子だが、決して近づくことはなく、挨拶を交わすこともない。
 洋平は特に不便さを感じる訳でもなく、仕事は仕事として成立している。給料は出る。
 真穂の社会性云々はどうでも良いことなのだが、保護者然とした忍は、堪忍袋の緒が切れる寸前といった風情だ。
 忍の言い分もわからないではないが、実際には頭の痛い依頼である。言い返そうとも思ったが、忍に勝てる気がしない。いや、コテンパンにやられるだけだろう。
 洋平のことを考えて、双子にはバレないように家に帰すとは言っていたが・・・。
「さて・・・どうしたものか」
 暫し腕を組み考え込むと、意を決し、おもむろに声のトーンを上げて発声練習を始めた。
 やはり無料とはいえ、女の子の・・・いや、忍の依頼は断れないと見える。



 賑やかな商店街を、一人の青年が人目を避けるように俯き、歩を進めていた。それほどの陽光を感じる風はないが、それでも濃いサングラスを外そうとはせず、またトレーナーにジーンズという出で立ちにも関わらず、両手に皮手袋を嵌めているのは、なんとも不似合いで不気味であった。
 青年の足がふと立ち止まった横で、電気屋の店先に置かれたテレビが、一つのニュースを流していた。
 身元不明の女性の遺体が発見された。
 青年の表情になんら変化は見られないが、それでもその濃いサングラスの下に隠れた瞳は、このニュースに釘付けという感じであった。
 女子高生が二人、羨望の眼差しを彼に投げかけて通り過ぎる。
 そうして、また青年が歩き始めるまでには、かなりの時間があった。


 真穂は忍に連れられて、公園まで来ていた。
 とっておきのワンピースに揃いのリボン、薄く口紅をつけてそそと立っている姿は、恋人を待つ少女そのままである。
「いいわね、真穂。これが最初で最後のチャンスだと思いなさい。もし、ここに現れる人が真穂の探している女性だったら、最低、あの時のお礼だけは言うのよ。いいわね」
 何度も教え込むように言った忍は、チラリと時計に目をやると、
「じゃ、私は遠くで見ているから。上手くやるのよ、真穂」
 と早口で捲くし立て、そのままさっさと行ってしまった。
 取り残された真穂は、心細い表情のまま、立ち尽くすばかりだ。忍の言うままにこんなオシャレをして、ここに立ってはみたものの、決心はと言えば、今にも崩れそうな砂の城そのままである。
 せめてもの救いは、忍が翔と曜を家に帰し、この場にいないということだ。曜はともかく翔は、ことの真相を知った途端、からかい役に回ることは目に見えている。
 脳裏に浮かぶ二つの影をダブらせながら考え込んでいると、ふいに頭上高く声がかかった。
「何をそんなに沈んでらっしゃるの」
 少しかすれた柔らかい声が、優しく問いかける。
 あの日、真穂を助けてくれた女性だ。
 真穂はしばし絶句のまま、ただその女性を見上げているしかなかった。
 そして、その女性に扮する洋平は、笑顔がこびり付いた顔のまま、ただただ途方に暮れるしかなかった。
 忍に頼まれた『最後のチャンス』は、洋平にとってあまり気持ちのいいものではない。
 はっきりとあの時真穂を助けたのは、男である自分だと言って、その上で親しくなるなら話もわかる。
 しかし、忍が採った手段は、まず洋平が『あの時』のように女装して、その姿に慣れた真穂に真実を話せば、彼女の男性恐怖症も軽くなるのではないかという過程である。
 だが、信じていた女性が男だったと知るのは、却って人間不信を増長されるだけのような気がしてならない洋平だった。
 時間だけが虚しく過ぎていく公園で、大きくため息をついた洋平は、呆れた様子を見せて真穂に背を向けた。
「考え事をしてらしたのに、邪魔して悪かったわね。退散するから続けてちょうだい」
 はっきり、付き合いきれないと言った態度は、遠く見守っている忍を激怒させるに充分だったが、同様に、真穂をその気にさせるにもまた充分であった。
「あの・・・違うんです。あの時、助けていただいて、どうやってお礼を言おうか迷っていただけなんです。だから行かないでください」
 震えながらも、はっきりとした口調で言った真穂は、いつもより生き生きとしているように見えた。
「あの時は、本当にありがとうございました。すぐにお礼を言えば良かったのに、私、怖くって。助けていただかなかったら、どうなっていたか」
 深々と頭を下げている真穂を肩口で確かめて、
「いいのよ、もう。無事だったんだから」
 洋平は、真穂の言葉に答えるように振り返った。心のどこかで、男だとバレてないかと期待しながら、それがどうも空振りに終わっていることに軽い眩暈は感じる。
 いくら従姉弟の玲子と同じ顔とはいえ、気付いて欲しいよな。
 真穂は真剣な表情で続けた。
「よろしければ少しの間、お話したいんです。お名前すら聞いてはいないんですから」
 洋平は一言承諾した。
 もちろん忍の依頼のメインは、真穂の体質改善にあるのだ。ここで断ることはできない。
「じゃ、ちょっとだけ」
 洋平はまた、真穂に背を向けたが、今度は気遣うように後ろを振り返りながら、あまり立ち寄ることのない手近な喫茶店に入った。
 洋平と真穂は近くの喫茶店の隅に座った。
「あれから、変な人に追いかけられたりするの」
「いいえ、いつも友達が傍にいてくれるし、人材派遣会社から護衛の人が来てくれているから、大丈夫です」
「そう」
 言葉少なく答えて、洋平は珈琲に口をつけた。
 小さなテーブルを挟んで向かい合わせで座っているが、真穂はほとんど視線を伏せたままだ。この距離で、洋平の正体がバレないなら、はっきりと言葉にするしか方法はなさそうだ。
 テレビでは、ニュースが流れている。河川敷で若い女性の遺体が発見され、免許証らしい写真が大きく映し出された。
「沙也子さん――」
 洋平は愕然となり、女装であることも忘れて、荒っぽい口調で立ち上がった。
 ニュースは続ける。
『他殺されたものと思われる女性は、所持品から朝見沙也子さんと判明。遺体の状況から、他の場所で殺害された可能性が――』
「沙也子さんが、殺された・・・」
 玲子のことを思い出す。突然洋平のアパートに現れて居座り、どうしてなのか理由も言わないで居ついている玲子が、時折見せる物憂げな横顔。
「まさか・・・、玲子ちゃん・・・」
「あの・・・」
「ごめん、真穂ちゃん。ちょっと用事を思い出したんだ」
 そう言って伝票を鷲掴みにすると、レジへ向かい、途中物陰に隠れるようにして客を装っている忍に声をかける。
「忍ちゃん、あとを頼んでいいかな。俺、気になることがあるんだ」
「え、洋平さん。どうしたの。ちょっと、待ってよ」
 慌てて追おうとするが、真穂の存在に気付いて踏みとどまる。
「真穂、どうなってるのかわからないけど、――大丈夫?」
 真穂の傍に駆け寄って答えを待つが、真穂もまた茫然とした様子でテレビを見ている。
「どうしたの、真穂。知ってる人?」
「あの人・・・、小磯さんと一緒にいた人」
 ニュースはまだ、沙也子の顔を映している。
「小磯さんって、失踪している市長秘書の?」
 真穂は、ニュースに釘付けである。特に詳しいことが報じられている訳ではないが、よほど衝撃的だったのだろう。テレビから視線を外すことができないようだ。
 真穂が彼女に会ったのは、小磯が失踪する少し前だ。偶然、街でみかけ、一緒にお茶をしたという。
「なんだかとても派手な人で、小磯さんの真面目なイメージとは真逆のような女の人だったけど、小磯さんは好きだったみたい。その人と一緒にいて、私に紹介することを、とても嬉しそうにしてたから」
「それで」
「これをもらったの」
 ポーチにつけているストラップを見せた。
「これ、大事にすると願い事が叶うからって言われて」
 特に疑問にも思わず、身につけているという。四葉の形の裏側に、文字と数字がある。
『MINAMIGUTI 3』
「何、何か意味があるの? 真穂」
「分からないわ。もらってから今まで、特に気にしてなかったから」
「とにかく、公兄さんに連絡しなきゃ。洋平さんも慌ててたから――」
 混乱して携帯電話を取り出す忍を、真穂は放心したような顔で覗き込んだ。
「ところで、忍ちゃん。さっきの女の人が、洋平さんなの?」
 忍は一瞬絶句した。真穂が『怖い』と思ったのは、始めてだ。


 洋平は、高いヒールの靴に走りにくさを感じながらも、とにかく走った。走りながら携帯電話で呼び出すが、玲子の携帯電話はドライブモードだ。繋がらない。
「クソッ」
 変だと思っていた玲子の様子が、沙也子の事件にリンクしているように思えてならない。少なくとも、沙也子の事を、玲子は知っているような気がする。
 だが、洋平がアパートに着いた時、玲子はいなかった。
「そうだ、あのDVD・・・」
 預かってくれという書置きと一緒に置かれていたDVDは、テーブルの上に置きっぱなしにしていた・・・はずだった。
「あれ、無い。無くなってる」
 半信半疑でテーブルの上、その周囲を探したが、無い。
 洋平は、頭のどこかをフルに動かしながら、考えた。
 女装道具を持って帰宅した時、確かにテーブルの上にあった。着替えている時もだ。そして、たいして重要視もせず、そのままにして出掛けた。鍵は、・・・かけたぞ。
 おかしいな、気味が悪い。
 そう思った時は、遅かった。
 背後に気配を感じて振り向こうとしたが、許されなかった。背中に鋭いものを突きつけられ、肩越しに伸びてきた手に一枚の写真があった。玲子と沙也子が写っている。
「朝見沙也子を知っているな」
 低く濁った声が、洋平の耳元で唸る。抗おうとすると、背中の鋭いものが一層突きつけられて、死さえ予感する。
 別の手が、洋平から携帯電話を取り上げる。
「少し付き合ってもらおうか」



「どういうこと、忍ちゃん。あの人は、洋平さんなの?」
 早々に喫茶店から出て、歩きながら真穂を凌ごうとする忍に、真穂は真顔で迫った。
 間近で対面していても、あの女性が洋平だとは思えなかった。確かに声は女性にしては低めで、背も高く、カップを持つ手も大きかった。
 だが、『男性』だとは思わなかった。まして、この数日間傍で見ていた洋平とは・・・。
 首をスカーフで覆い、長いウェーブの髪を強調させ、多くを語らなかったからなのか。単純に、自分が見ていなかっただけなのか・・・。
「とにかく真穂、今は一刻も早く帰りましょう。こんな所でグズグズしていると、危ないわ」
 忍は敢えて真面目な顔を作ると、周囲を見回しながら携帯電話を操作した。
 大きな交差点が見える。高いビルに囲まれた一角は週末の昼過ぎとあって、人通りが多い。車の量も心なしか多く感じる。路上駐車も平日よりは目に付いた。
 ここまで来るまでは、自分たちと一緒に洋平がついていた。いざという時があったとしても、洋平がいれば真穂は守れると思っていた。しかし、今、真穂を守るのは自分一人だ。
 怪しい様子がないか見る。
 だが真穂は、はぐらかそうとする忍の腕を掴んで立ち止まらせた。
「忍ちゃん、本当のことを言って。あの人は、洋平さんなの? 以前、私を助けてくれたのも、洋平さんだったの?」
 凄みを増した真穂の視線が、忍に迫る。
 忍は、絶句のまま二歩下がった。
 これは、答えようによっては洋平にも迷惑がかかる。真穂の男嫌いに拍車がかかるかもしれない。
 言い寄られた形で後ずさりする忍の視界に、大通りの向こうを歩く細身の青年が入った。
 トレーナーにジーンズ、帽子を深く被り濃いサングラスで顔を隠しているが、確かにその姿は洋平だ。
「どうして、洋平さんが・・・」
 忍は混乱した。確かにさっきまで女装していた洋平が、こんな短時間で着替えてそこにいるとは思えない。
 真穂は、忍の視線の先を確かめて、少なからずホッとした。そこに洋平がいるのなら、先程まで一緒にいた長い髪の人物は洋平ではない。
 流れるように歩くその姿が、ビルに大きく映し出されるテレビニュースを見上げて立ち止まる。
 喫茶店で見た『河川敷の女性遺体』のニュースだ。食い入るように見つめていた。
「真穂、行ってみよう」
 真穂が後ろを付いてくるのを気遣いながら、忍は大通りを横切った。
 通りには駐車車両も多く、人が入り乱れている。離れないように手を繋ぎ、二人はニュースを見上げて立ち尽くしている青年の傍まで近づいた。
 あと数歩の所で、相手が男性の為か真穂は忍の手を放し、街路樹の陰に隠れてしまった。
「真穂――」
「ここにいるから、忍ちゃん行ってきて」
 この期に及んで尚も後ろ向きな真穂に、いつもの説教を・・・と思ったが、そんなことをしていると青年に逃げられそうだ。青年は、二人に気付く様子はなく、ただただビルに映し出される大画面を見つめている。
 忍は、真穂に動かないように伝えると、一歩進んで青年の背中に触れた。
「洋平さん・・・じゃない・・・」
 手の平で感じたその背中は、男の――洋平のものではなかった。
 相手は、ニュースに集中していた反動からか過剰なまでに驚き振り向いて、濃いサングラス越しに忍を見た。
 確かに洋平にそっくりだ。鼻筋も頬のスッキリとしたラインも、間近で見る洋平のそれと同じものだ。だが・・・、違う。
「女の人・・・、洋平さんそっくり・・・」
 相手は、暫し忍の顔を凝視したが、すぐに我に返り冷たく視線を逸らせると、無言のまま小走りに立ち去った。その走る後ろ姿は、明らかに男のものとは違う。
 洋平にそっくりな女。
「どういうこと・・・」
 女の見ていた大画面を仰ぎ見て、忍は考えた。ニュースは河川敷の女性遺体について、喫茶店で聞いた内容とそれほど大差はないが、ただ女性の身元がはっきりとした。
 朝見沙也子。元建設会社社員で、現在は無職だという。
 洋平も、そして立ち去った女も、この遺体の女性を知っているようだ。
「とにかく、公兄さんに連絡するから、真穂はここで・・・」
 考えるよりも行動をと思い、真穂を振り返った忍は愕然となった。
 いると思っていた街路樹の陰には、誰もいない。
「真穂、どこ・・・」
 真穂がいない。
 確かにいると思っていた真穂の姿がなかった。
「真穂!」
 目を凝らし周囲を見渡す忍の視線が、一人の男と合った。
「柳田さん・・・」
 大きな黒い車の後部座席に乗り込もうとしている男が、暫し動作を止めて、忍の方を見つめていた。見ると、その後部座席の真ん中に、真穂らしき女の子の頭が見える。
「柳田さん・・・、まさか・・・。どういうことなの・・・」
 明らかに柳田は、故意に忍に姿を見せているようだ。だが、その意味する所がわからない。忍が自分に気付いたのを確かめると、
「車を出せ」
 と短い言葉を残し、柳田が車中に収まると、車は急ぎ発進する。
 忍は走った。
 無駄と分かっていながらも、車を追いながら素早く携帯電話を取り出した。大通りを行き交う人を縫うように走りながら、忍はもどかしそうに呼び出し音を聞いた。
 車は、難無くその通りを抜けると、もっと大きな通りへと出た。


 真穂は、自分に何が起こったのか、瞬時にはわからなかった。
 青年に近づくことを躊躇い、街路樹に隠れて目前の忍が背を向けた途端、後ろから口を塞がれたのは覚えている。気付くと大きな車に引きずり込まれていた。
 非力ながらも暴れようと、自分を押し込める男の顔を見て、真穂は愕然とした。
「どうして、柳田さんが・・・」
 間近にある冷たい視線の横顔を凝視すると、答えは別から返ってきた。
「そいつは、俺たちに弱みを握られている」
 真穂の反対隣に座る矢部が、皮肉る。いつか自分を追いかけてきた男に驚きながらも、視線は柳田に注がれた。
「弱みって、なんですか? お父さんを裏切らなければならないような事なんですか」
 真穂には信じられなかった。
 真穂の知っている柳田は、ひたすら父の秘書である小磯を慕い、影に徹していた真面目な青年だ。
「何故・・・」
 繰り返す言葉に、矢部が愉悦する。
「こいつは、人を殺してるんだよ」
「人殺し・・・」
 真穂は矢部の表情を見て冗談を言っているのではないことを確信すると、柳田の横顔を凝視した。
「ウソですよね。柳田さん。そんなこと・・・」
 柳田は否定することなく、珍しく正面から問い詰めてくる真穂に苦笑し視線を逸らせた。車の遥か後方を忍が追いかけて来るのが見える。
「無駄口はいい、早くここから離れろ。あの護衛の女は侮れない」
 そう言って、柳田は真穂のポケットから携帯電話を取り上げて電源を切ると、後は黙って腕を組み、目を閉じた。


 いきなりヒマになった。
 忍は理由も言わないで、双子の兄たちを追い返した。洋平の女装を見せない為の忍の配慮だが、そんな理由があるとは知らない。
 仕事にあぶれた休日。やることが他に思い当たらなかった。
「何してるんだ、翔」
 明かりを落とした部屋で、テレビだけが皓々と点いている。その前で、翔は何やらゴソゴソとDVDを確認している。
「テレビ見るくらいなら、そんなに――」
 言いかけて曜はやめた。翔の手に持っているDVDのタイトルが、暗がりでもはっきりとわかる。どうみてもR指定だ。
「翔。洋平さんに借りたヤツ・・・」
「ハハハ・・・。だって、観るヒマがなかったんだ。曜も見る?」
「――見る」
 ポーカーフェイスで答える同じ顔を、翔はむっつりして見返した。
「なんだ。結局、曜も見たいんじゃないか」
「いいから、早くしろよ。時間がもったいない」
「わかったよ。まずは、これ」
 翔は、派手な女体のカバーを開けて、ラベル一つ貼られていないDVDを取り出して、デッキにセットした。
「なんか素人っぽくていいだろ。ヒットかもしれない」
 期待度満載で翔は再生ボタンを押した。曜はそんな翔を呆れ顔で見ながらも、しっかりと画面を意識している。
 だが、そういうシーンは始まらない。
 ムード音楽が流れる中、粗い画面で始まり、手前にベッド、奥にソファが見える。画面に入ってきた男と女は、どうやら口論をしているようだが、ストーリー性はまるで無い。
 痴話喧嘩か――。
 見るからに女は高飛車で、男が何かを訴えるように言い寄っていた。
「そこまで」
 突然の制止に、翔と曜は驚いて後ろを振り返ると、公が腕組みをして立っていた。
「公兄さん・・・」
「兄貴・・・。いつからそこにいたの」
「確か、『素人っぽくていいだろう』からだよ」
 では、映像が始まる時には、そこにいたことになる。
「それより翔、このDVDはどうしたんだ」
 映像は続いている。
 男は声を荒げ女に詰め寄るが、女はあくまでも平然と何か答えている。その温度差は、一種異様な緊迫感をはらんでいた。
「洋平さんに借りたんだよ」
「洋平くんが、どうしてそんな映像を持っているんだ」
「誰かにもらったって言ってたよ。大学の人とか」
 記憶にある洋平の言葉をそのまま思い出しながら答える翔に、公の思考が早まる。
「どうしたの、兄さん」
 曜が訝しむように公の次の言葉を待ったが、公が答えるより先に携帯電話の音が鳴った。
 電話の相手は忍のようだ。暫く黙って聞いていた公は、視線を双子に合わせて軽く合図をする。
「わかってるよ、忍。え――、真穂ちゃんが・・・。落ち着きなさい。翔と曜をそこに行かせるから、待っていなさい」
「忍がどうかしたの、兄さん」
 すでに立ち上がりかけている曜に、公は頷いた。
「よくわからないが、真穂ちゃんがいなくなったらしい。曜、ともかく行ってくれ。さ、翔も」
 言いながら、翔が握り締めているテレビのリモコンを取り上げる。
「え――、兄さん、ズルイよ。俺たちが行ったら、自分一人で見る気だろ」
 映像は、男と女がもつれ合い、ソファの向こうに倒れこんだ所だった。
「困ったヤツだな、翔。これは子供が見ていいものじゃないぞ。いいから、行きなさい。忍と合流したら、連絡してきなさい。その頃までには、武史に事件のことを聞いておくと、忍に伝えることも忘れないように」
「室戸さんに『事件』のことって、何。何のこと?」
 尚もグズグズと時間を延ばす翔の耳を摘んで、曜は軽く手を挙げた。
「じゃ、行ってきます。兄さん、危険手当と緊急手当を頼んだよ」
 ニコリと笑みを浮かべて見送ると、リモコンの音量を少し上げて画面を凝視する。
 死角に倒れこんだ男女は確認できず、虚しいBGMが流れる中、暫く揉みあう音のみが聞こえたが、画面の端に白い足が投げ出され、おもむろに立ち上がった男が茫然と床を見下ろした。
 公はそのまま画面を見据え、流れてくる音を聞き分ける。大きく肩で息をする男の呼吸音に、近づく足音が重なる。
 その足音が止まり、画面に現れた人物を確認しながら、公は手に持っていた携帯電話を構えた。


 室戸は、同僚刑事の筧と共に、原山建設の社長室の豪奢なソファに踏ん反りかえっていた。大きなガラス張りの向こうに、鉛色の雲が見える。数時間後には咲久耶市の空を覆うだろう。広々とした部屋の一角には、美しい稜線の山を背景に幾つかの区画にまとまった都市模型が、その威容を誇っていた。
 室戸は飄々とした表情で首を縦横に動かしながら、大きな社長席におさまっている原山雄一の様子を見ていた。
 すその地区の開発か保護かを決める市議会は、来週だ。
 この数週間、咲久耶中央署は多忙だ。
 咲久耶市は、開発派と保護派と二分して、そこかしこで決起集会やら説明会、街頭演説と騒々しい。それに加えて市長秘書の失踪と、狙われた市長の娘。猫の手も借りたい上に、白熱していく街の治安に半ば振り回されている観があるところへ、河川敷に遺体があがった。
 明らかに首を絞められた他殺体だった。そしてその身元を調べ、ここに辿り着いたのだ。
「遺体で見つかった朝見沙也子は、3ヶ月前まで原山さんの秘書をしていたようですね。もちろん、捜査に協力いただけるでしょうね」
 促しているのか、単純に形式だけの質問なのか、室戸は満面の笑顔で原山を見た。
 原山は、忌々しげに眉を顰める。
「3ヶ月前に退職した社員のことを聞かれても、答えられるかどうか」
「朝見沙也子は、何故退職したんですか」
「一身上の都合・・・と聞いていますよ。秘書など、この数年で何人も代わっているんですよ、いちいち個別認識なんぞしていませんよ」
「お前らが探している『女』ってのは、朝見沙也子のことか」
「・・・何のことですか・・・」
「お前の部下が、『女を捜している』ということは知っている。そして、河川敷にあがった遺体はお前の元秘書ということは、――どうなる?」
 原山の反応を見極めながら、室戸は答えを促した。
 だが、原山はあからさまに不機嫌な顔をして、深く椅子に沈んだ。
「どうと言われても、困ります。難癖つけるのはやめてくださいよ、刑事さん。こっちは、来週の市議会の議決に社の命運がかかってるんですよ。そっとしておいてください」
「そういう割には、部下をあちこち動かしてるじゃないか」
「そりゃ、給料を払ってるんですから、働いてもらわないと困りますよ」
 と、ふてぶてしい答えを返す。
「で、開発ってのは、採算が合うのかい」
 と、室戸は軽快に立ち上がり、都市模型に近づいた。
 原山建設がどれほど力を入れているか想像できる、緻密で豪奢な造形物。原山建設が中心となっている開発派が目指すすその地区の形だ。これに反して、現在の原生林をそのまま残して保全することを一とした保護派の筆頭が、現在の市長である片岡英夫である。
 この二派に分かれて市議会も荒れている。数名の市議が、その去就を巡って右往左往する現状は、攻防に拍車をかけている。
「商売は、採算度外視じゃできませんよ。市民貢献という面も、もちろんありますがね」
「取ってつけたなぁ」
 原山が、市議たちに接近していることは、おぼろげに掴んでいるが、はっきりとした証拠はない。その辺りは巧妙であった。
 室戸の携帯電話が鳴る。公からだ。
「どうした。あぁ、――市長の娘がさらわれた?」
 何気なく繰り返した言葉に、原山の指がピクリと動いた。
 それを見て、室戸が原山に意味ありげな視線を向けながら、公の声を聞いた。
 ふと室戸の表情が固まり原山を凝視する。
「わかった、すぐに動こう。それで?・・・へぇ、そりゃ・・・興味深い映像だな。見かけたことのある男が三人、死んだ女を運んでるのか。面白いな・・・」
 室戸は電話を切ろうとはせず、多少大袈裟な反応を見せながら、座って状況を見守っていた筧に合図をし、その手を原山に向けて扉に向かう。
 若い筧が、絵に描いたような礼儀正しい挨拶を原山に向けて、肩をすくめながらそれに続いた。
 原山の顔は険しい。この意味ありげな仕草の刑事から、何かをかぎ分けようとするように。
「それで、他には――。・・・柳田?」
 ドアノブに伸ばしかけた手を止めて、ふいに室戸は原山を振り返った。
 手応えがあった。原山は明らかに動揺している。
 それを確認して退出した室戸は、足早に進みながら筧に短く指示を出す。
 小さく頷いて先に覆面車に向かった筧の背を見送り、しばらく歩きながら公の話を聞いていた室戸は、ふいに立ち止まって携帯を見た。公の声が途切れたのだ。
「おい、公。どうした、・・・・え・・・・、なんだって・・・」
 室戸の声を遠くに聞きながら、公はテレビ画面に釘付けとなった。
 女と揉み合った後、茫然と立ち尽くしていた男の背後に現れた柳田は、幾つか男と言葉を交わしたが、すぐに突き飛ばされて壁に背を打ちつけた。男三人が踏み込んで来たのは、それから暫く経っていた。
 壁に寄りかかっている柳田に何かを言うと、早々に女の身体を二人が抱えて出て行った。
 ここまでは、公もまるで謎が解かれる過程を視覚化されていくことに満足しているようだった。
 だが。
 やがて誰もいなくなった画面に、一人の女性が映る。男たちが姿を消した方向とは別の扉から入って来たのだ。おそらく隣の部屋にいたのだろう。
 女は、隠すように置いてあるリモコンを取り上げて、こちらに向かって構えた。
 長くウェーブの掛かった髪に細面、女性にしてはやや背が高いように見えるその姿を、公は一時停止ボタンを押して凝視した。
「洋平くん?」


 真穂を乗せた車は、すその地区の森を進み、此花池の畔で止まった。曇天が重く圧し掛かっている。
 むせるような植物の湿気の中に引きずり出されて、真穂は少し咳き込んだ。
 舗装された道路はここまでだ。
 目前の小屋は、小さなログハウスといった風情だ。それほど大きな建物ではないが、小さすぎる程でもない。数人が雨風を凌ぐには充分な大きさだ。
 此花池の畔に立ち辺りを見渡すと、鈍い色の水面の向こうに深い森の奥が見える。鬱蒼と茂った木々の向こうには、陽光は差していない。曇天のせいもあるが、何より陽の差し込む隙間がないように見える。
 柳田に腕を取られた形で此花池の畔に立った真穂は、目を凝らした。
「小磯さんがお父さんに言っていた『見せたい場所』というのを、柳田さんは知っていますか」
 ずっと以前、市長秘書の小磯は、片岡市長によくすその地区のことを話していた。その中で、とても美しく神秘的と言える場所があるのだと言っていた。確か此花池のどこかだと記憶している。
 結局、そこが何処なのか聞くことはできなかったが、小磯の口調には、『一度は見てみたい』と思わせるような憧憬があった。
 柳田はその問いに答えるつもりはないのか、無言で遠く対岸を見つめた。
「おい、柳田。『女』がそいつに渡したものは、ちゃんと取り上げたんだろうな」
 小屋に入りかけた矢部が、柳田に声をかけながらも、時計と山腹の方角を確認するように何度か見た。
「オンナって・・・」
 確認するように柳田を見る。どうやら真穂にとって、柳田は特に男性だと意識する対象ではないようだ。
 真穂の脳裏に、テレビニュースで見た『他殺体の女』が浮かぶ。
「朝見沙也子のことだ。あの女から受け取っているだろう。四葉のストラップだ。それを渡してもらおうか」
「どうして柳田さんがそれを知っているんですか」
 真穂は訝しむように柳田を見た。
 何故、この男たちは、真穂が沙也子から何かを受け取っていると知っているのだろう。ただ一度、偶然街を歩いていて、小磯と一緒にいた女性から何気なく渡された物だ。
 四葉の形の裏側に『MINAMIGUTI 3』とあるストラップ。
 真穂自身、気にも留めていなかった。ポーチにつけて持ち歩いているとはいえ、特に気にすることもない代物だ。
 この男たちにとって、このストラップに、何の意味があるのだろうか。
 自由に動く右手でカバンの中からポーチを取り出し、ストラップを見せながら、真穂は柳田の表情を間近で見つめた。
「朝見沙也子が原山建設を脅す時、このストラップの事を出したんだ。市長の娘が証拠品を隠してある場所を記した物を持っているとね。自分の身を守る為に、こいつらの目を自分から逸らそうとしたんだ」
 柳田は、その四つ葉の裏に彫られた『MINAMIGUTI 3』の文字を確認して、ポーチごと矢部に放り投げた。
「どういう意味だ、柳田」
 その文字を見て、矢部は即座に柳田に大声で問うが、その声は虚しく森に木霊した。
「そんなことは自分で考えろ。俺は知らない」
 素っ気ない言葉で返し、柳田は真穂の腕を引くと小屋に促しながら、呟いた。
「池の対岸には行くな。あそこは危険だ。引きずり込まれるぞ」
 言われて真穂は、その場所を確認しようとしたが、遮るように小屋へ押し込まれてしまった。
 小屋に入ると、数名の男が待っていた。
 特に話すことはなく、柳田はそのまま、視線で示された扉に真穂を連れていく。
 広めの部屋を横切り、扉が開くと、真穂よりも先に中から惚けた声がかかった。
「あ、いつかのインタビュー男。真穂ちゃんまで――。しかも、柳田さん?」
 声の主は、長いウェーブの掛かった髪を乱し、片方のハイヒールが脱げた状態で両腕を後ろ手に縛られた女性・・・ではなく、洋平だった。


 雨が降り始めた。予報では通り雨で、あまり長くは降らないといっていた。
 片岡市長を乗せた車が、荒れた道を進んでいく。
 市長の他、保護派議員が三名、民間団体の者が五名、市議の秘書などを合わせ、四輪駆動車三台で山道を登っていく。道は舗装されておらず、道幅も狭い場所が幾つもある。時に急角度の曲がり道を登りながら、中腹にある少し広い台地を目指す。
 多少の悪路を知ることも、重要だと勧められたことも本日決行の理由の一つだ。
 この視察を踏まえて、来週の市議会に臨もうとしている市長の片岡英夫は、食い入るように窓の外を見つめていた。
 まだ一介の市議として活動していた頃、一人の青年とすその地区の保護活動について意気投合し、根強い開発派と対峙しながらここまで来た。市長となり、いよいよこの問題の一つの結論を出す直前での青年の失踪は、片岡にとっては大きな痛手だ。何が原因で失踪などということになったのか・・・。それを慮る時間すら充分にない自分自身を叱咤しながら、ここまで来た。
 小磯勉が視察ルートに選んだのは、既に舗装されている此花池までの道を車で走り、此花池の小屋からは、徒歩で山の中腹まで登るルートであった。歩くことで、得られる感覚を大事にして欲しいと、小磯は片岡に語った。
 だが、今片岡が取っているルートは、車で悪路を行くことで、すその地区の現状を把握し、開発するべきか否かという視点である。
 同乗している他の者からは、悪路に対する批判や開発への必要性が吐いて出る。
 片岡は、小磯が語ったすその地区の情景を思い出しながら、車の揺れに身をゆだねていた。


 真穂の手首を掴んだまま、柳田は女装のままの洋平に近づき、マジマジとその顔を見つめた。
「キミは、楢崎洋平くんか? その格好は、シュミかい?」
 洋平が『違う』と言う前に、矢部が会話に割り込んだ。
「確か、あの時邪魔に入った女だったな。柳田は知ってるのか、こいつを」
「この娘の護衛に派遣された青年だ。お前ら、『女』を捕まえろと言われたんじゃなかったのか」
 矢部の後ろで控える数名を眺め、柳田は真穂を洋平の隣に座らせ背後に回ると、真穂の両手を後ろ手に縛り始めた。
「朝見沙也子と繋がりのある女にメボシをつけてアパートへ行ったら、こいつがいたんですよ」
 ボソボソと言い訳をする数名に、矢部の鉄拳が飛ぶ。
「男と女の区別もつかんのか」
「ですが、矢部さん。矢部さんだって、間違いますよ。渡された写真の女そっくりじゃないですか」
 言い訳に必死の数名は、写真を示しながら矢部に泣きつく。矢部もバツが悪いのか、それ以上は責めない。
 洋平は、遠目にその写真の中の玲子を見ながら考えた。
 朝見沙也子は、確かに玲子の同級生で、卒業後も交流があったのは知っていた。問題は、何故沙也子が殺されて、玲子が狙われるのか・・・だ。
 従姉弟の玲子とその友人の朝見沙也子は、真反対のようでどこか共通する点が幾つかあった。それが、どう考えてもろくな『共通点』ではない。
「まぁいい。矢部、時間が迫っている。この二人は縛って閉じ込めておけばいい。これ以上の失敗は、身の破滅だぞ」
 柳田は、暫く洋平と真穂の背後で成り行きを見ていたが、辟易したような表情を見せて立ち上がった。
「破滅はお前だけだろう、柳田」
 矢部は、部下達に次の指示を出しながら、不敵な笑みを柳田に向けた。
 柳田も同じ表情をして見せる。
「馬鹿か、お前は。死体遺棄は、立派な犯罪だぞ。しかも、これからもう一つ事を起こそうというんだ。これで破滅は決定的になる」
「何をする気なの、柳田さん」
 真穂が動きにくい身体を乗り出すようにして、柳田を見た。
「小磯さんと一緒にすその地区を守るって言ってたのは、嘘なんですか」
 柳田の答えはなく、急かすように矢部たちを部屋から追い出すと、真穂と洋平を見比べた。
「無駄に騒ぐなよ」
 そう一言呟くと、静かに扉を閉め、鍵のかかる音がした。


 室戸は同僚刑事の筧と共に署に戻り、公に頼まれた『河川敷の他殺体』についての捜査状況をかき集めた。
「武史、持って来たよ」
 石橋公は、DVDをヒラヒラとさせながら部屋に入って来た。すかさず傍に寄った顔見知りの鑑識に渡すと、慣れた様子で室戸の隣に立ち、室戸の手元を覗き込んだ。
 広いテーブルに咲久耶市の地図が広げられている。
「忍ちゃんが覚えていた車のナンバーを手掛かりに捜索している。真穂さんの携帯電話は電源が切られているようだが、GPS追跡は諦めてないよ」
「片岡市長は今頃すその地区の視察だろ。何故、柳田くんが同行していないんだ」
 公は、忍から連絡が入った場所を見つめ、そこから真穂と柳田が乗った車が向かった方向に視線を移した。その先には、美しい山を背景にすその地区が広がっている。
「柳田は、小磯秘書の代役とは言え、あくまで片岡市長の私的な面が強い。他の市議や民間団体に憚って同行しないと言っていたよ。特に不審に思わなかったから、言われる通りに聞いてたんだがな」
 困った顔を見せて肩をすくめた室戸に、公は納得顔を見せる。
「公、三兄妹はどうしているんだ。忍ちゃんは、大丈夫か」
 目前で真穂をさらわれてしまったショックは大きいだろう。公も、忍の精神的ショックを慮り、まずは双子と合流させて次の指示を出した。
「忍は片岡市長の屋敷に戻ったよ。柳田くんの使っている部屋に何か手掛かりはないか探しているだろう。双子は洋平くんのアパートだ。あれから洋平くんとも連絡が取れていない。彼に『そっくりな女』も気掛かりだよ。忍が洋平くんと間違えるくらい似ていたようだから、もしかして洋平くんの身にも、何かあったかなと・・・」
 せめて連絡が取れればと思うが、こちらもまた電源が切られているようだ。
 DVDの最後に映っていた女と、忍が見かけた女が同一人物であれば尚更だ。
「待てよ、公。どうして洋平が危ないんだ?」
 確かに、『そっくりな女』はややこしいだろうが、それだけのことで、危険がどこにあるというのだろう。
 いま一つ腑に落ちない室戸に、公は申し訳なさそうな顔をして見せた。
「忍が無理を言ったようでね」
「まさか、また女装させたのか」
 肩眉を上げて呆れた室戸は、ふと真顔になり呟いた。
「ま、それなりに女に見えるからな、洋平は。可愛いからいいか」
 室戸の一言に、地図に前のめりになっていた刑事たちがドン引きし、それを代弁するように公が呟いた。
「・・・おい、武史。『可愛い』は、青年に対して使う形容詞じゃないぞ」
 一人キョトンとしている室戸に、走り込んで来た鑑識が書類を渡す。急くように迫る鑑識が、ある箇所を指す。
「公、お前が見た映像は、小磯が女の首を絞めてたんだったよな」
 室戸の言葉に、引いていた刑事達が一斉に室戸の手元に顔を寄せる。
 公は、その問いに肯定するように無言で見返すと、室戸は書類から顔を上げた。
「河川敷の女の死因は、首を絞められた為の窒息死じゃないぞ。頭部をコンクリートに打ち付けたことが直接の死因だ」
「コンクリート?」
「そうだ。ということは、部屋で殺されたわけではないということかな」
 公の携帯電話が鳴り、公はスピーカー機能を押した。
 全員が聞き耳を立てる中で、曜が話し始める。
 洋平のアパートまで来た双子は、顔見知りの管理人に声をかけた。洋平の部屋まで行くと、鍵は開いたままで誰もいない状態だった。
「兄さんが言ってた女物のカツラは見当たらないよ。でも、女の人がいたらしいのは確か。管理人さんが会ってる。ついでに、洋平さんの携帯電話と、いつも洋平さんが履いてるスニーカーはあるよ」
「管理人さんに訊いたら、従姉弟の『玲子さん』って、顔は洋平さんソックリらしいよ。どっちも細身で長身だから、余計似て見えるって」
 脇から翔が付け足した。
「なるほどね。『楢崎玲子』か」
 室戸は、朝見沙也子の携帯履歴の中に何度も出てくるその名前を確認する。
 そこへ、忍から電話が入った。公は、一旦曜の電話を切ると、忍の着信を取った。
 忍は、柳田が使用している部屋の中で、市長夫人の片岡恭子と一緒にいた。
 市長夫人には、柳田に頼まれて部屋にあるものを持って来るように言われたと、嘘をついた。正直、今の状況で柳田が何を考えてどう動いているのかなど、誰も分かっていない。真穂を連れ去った事実も、今、彼女の行方が分からない状況で、母親に伝えることも憚られた。
 とにかく何か、手掛かりが欲しかった。だが、部屋に入り、忍は暫し唖然としたのだ。
「公兄さん、柳田さんが使ってる部屋の机に、地図が広げてあるわ。すその地区の視察ルートが記入されているの。所々に丸やバツの印があって、ご丁寧に細かく説明書きがあるわ。視察ルートに何か仕掛けがあるみたい」
 所々の言葉を声に出しながら、忍は公に画像を送り、公はそれを室戸に転送する。
 画像を見た刑事たちは、皆一様に表情を変えた。
「これは、視察ルートに仕掛けを作り、市長を襲撃するということなのか? そんなことをしてどうするつもりなんだ」
 室戸が呟く。
「ただね、あからさまに『見てください』と言わんばかりに広げてあって、胡散臭いんだけど」
 忍が付け加えた。
「柳田の意図がよくわからないな」
 頭をかく室戸に、聞き込みから帰ってきた刑事が報告する。
「朝見沙也子を調べていたら、柳田竜一が出てきました。どうやら恋人関係だったようです」
 確かに、DVDの映像には、朝見沙也子の部屋に入ってくる柳田の姿があり、それに向かって小磯が鬼気迫る表情でなじっていた。
「殺された女性は、小磯さんとも付き合っていたのだろう。しかも、小磯さんと柳田くんは親友と言ってもいい関係だと聞いていたが・・・」
 公が室戸の顔を見ると、そうだと言わんばかりの表情が返ってくる。
 調べでは、原山建設を退職した朝見沙也子は、最近保護派の集会や講演会に積極的に参加していたようだ。小磯や柳田と出会ったのは、そう昔のことではないという。
 開発派筆頭の原山建設の社長秘書だった沙也子が、いきなり保護派の中心にいた小磯や柳田と接点を結ぶのは、いささか極端すぎる。
「よくわからない女だな」
「朝見沙也子が真穂ちゃんに渡したストラップの『MINAMIGUTI 3』というのも、気になる所かな。武史はどう思う」
「さぁな。わからないことだらけで、どこから手をつけていいのかもわからない所だよ、公」
 半ば諦め気味に踏ん反り返った室戸は、こめかみをほぐすように揉む。
「公、三兄妹は動けるのか」
「あぁ、動けるよ」
「じゃあ、頑張ってもらおうかな」
 室戸が、どっこいしょと身体を起こすのと同時に、刑事の声がかかった。
「室戸さん、GPS捉えました」
「さて、動こうか」


 社長室で部下からの電話を受け、原山は茫然となった。
「・・・エロ動画だった・・・だと。しかも・・・『男』だっただと・・・」
 朝見沙也子の交流関係から親しい女を割り出し、その女のアパートを突き止めた原山の部下は、先手を打って女自身と、『証拠』と言われるものを押さえる為に動いた・・・はずだった。
 だが、部下から入る報告を聞く度に、原山の顔は険しくなる。
「もう時間がないというのに、何をしているんだ。女が持っているものを早く回収しなければ・・・」
 現時点で、すその地区の開発派と保護派は拮抗している。一人でも多くの支持を取り付け、少しでも優位に立たなければ、開発へは向かわない。念願を叶える為には、どんなことでもする。だが、それが裏目に出られては困る。
 卓上の電話が鳴る。
 秘書が繋いだその電話の相手は、『女』だ。
 黙って聞いていた原山は、一方的な相手の要求に短く『わかった』とだけ数度答え、静かに会話を切った。
 退職した朝見沙也子からの電話を受けた時は、一笑に付した。
 沙也子は、厳重に保管しているはずの裏帳簿や贈収賄のリストをネタに、多額の現金を要求してきた。初めは単なる戯言と思っていた原山も、沙也子が本気で原山を強請っていることを実感した。
 確かに公表されれば身の破滅となる書類を、沙也子は退職前に持ち出していた。そして、市長秘書の小磯勉の名前をチラつかせながら、彼女は交渉を優位に進めていた。
 小磯は保護派の中でも、市長の片岡と並ぶ中心人物だった。もし、その男に開発派の影の動きが知れれば、すその地区開発計画も原山の社運も潰えるのは明白だった。
 図らずも、沙也子が死に、柳田という駒を掴んだ。小磯の失踪も、開発派にとっては有難い要因の一つだ。
 これで、沙也子に掴まれていた証拠書類を取り戻せれば安泰・・・と思っていた矢先、――『別の女』が現れた。
 朝見沙也子から全てを聞いており、その死の経緯を知っていて、その証拠のDVDまであるという。
 要求は一つ。『金』だ。
「矢部はどうしている」
 原山は、時計の針が進むのをぼんやりと眺めながら、傍の部下に問う。
「市長の視察ルートへ向かっている時間だと思います。今は、動けないでしょう」
「ともかく、一刻も早く取り戻したい。『女』を呼び出した。片付けろ」
 従うように一礼し、退出した部下の後には、原山一人が残った。
 広い社長室の一角、煌びやかな都市模型が冷たく光っている。
「ここまで来て、諦めるわけにはいかないのだよ」


「本当に、洋平さんなんですか」
 相変わらずウェーブのかかった長髪のカツラを被り、濃い口紅と付け睫毛の顔、肌の露出は極力控えてはいるが、細い腰にタイトなスカートは、何度眺めてみても「男」とは思えない。ヒゲが目立たず、肌が奇麗な為か・・・。
 真剣に吟味している真穂に苦笑して、洋平は痺れた足を放り出すように伸ばした。
「あ・・・、ごめんね。忍ちゃんに頼まれてね。言っとくけど、コレ、シュミじゃないからね」
 何やら後ろに縛られた腕をモゾモゾと動かしながら、曖昧な笑顔を見せる。
「変なことしてる訳じゃないから、気にしないでね」
 と一応お断りを言うことを忘れなかった。
 真穂は、洋平の様子を特に気にする様子はなく、ありきたりの質問をした。
「どうして洋平さんが捕まっているんですか」
「よく分からないけど、多分、従姉弟と間違われたんだろうと思うよ。沙也子さんが殺されたことについて、従姉弟の玲子ちゃんは何か関わっているんじゃないかな。昔からどこか抜けてる所があるんだ、玲子ちゃんは。常識・・・とかね」
 さすがに従姉弟のことだ。言いにくい様子で言葉を濁す。
「真穂ちゃんは、何故連れて来られたの」
 真穂は、洋平が喫茶店を出て行った後、洋平にソックリな人を追い柳田達に捕まったこと、以前偶然街中で会った沙也子と小磯の事や、沙也子に貰ったストラップを取り上げられたことを話した。
「へぇ、小磯さんて、沙也子さんと付き合ってたんだ」
 複雑な顔をする洋平に、真穂も同じ表情を浮かべた。
「真面目な小磯さんが選ぶには、少し派手な感じの女性だったわ」
「だろうね。沙也子さんって、確か面食いで、遊び人って感じの男の人とよく付き合ってたよな。それも複数――」
 記憶にある沙也子は玲子の友人の中でも同性のウケが悪く、やけに男に好かれていたような印象があった。
 付き合うとすれば、柳田のような二枚目で見栄えのいい男だろう。伝え聞く小磯のイメージとは違う。
「そのストラップに何か意味があるのかな」
「渡された時には、何も聞かなかったわ。ただ、『幸運になるお守り』だって言われたの。『MINAMIGUTI 3』ってどこだろう」
「場所・・・かな。何処の南口だろう」
 考えても行き着かない。
 小さな小窓があるだけの狭い部屋で、少し動けば触れてしまう距離だ。
 投げ出した足を見つめながら、洋平は所在無げに問うてみた。
「真穂ちゃんは男の人が嫌いって、何か原因とかあるの」
 ふいに訊かれて、真穂は真面目に考え込んだ。
 特に理由は思い当たらない。
「別に・・・。忍ちゃんとか、周りが女の子ばかりだから、男の人だと緊張してしまうんです」
「なるほどね」
 軽い返事で洋平は返した。
 真穂は少し暗い顔をして、俯いた。
「洋平さんも、私みたいな引っ込み思案は嫌いでしょ?」
 卑下するように自嘲気味に呟く真穂に、洋平は多少うんざり気味。
 この仕事を受けてから、まだマトモに真穂とは会話をしたことがなかった。常に逃げ腰で、反面視界の範囲にはいる。その中途半端さに、洋平が辟易していたのは事実だ。
 こうしてあれこれ会話を交わしていること自体が、初めてだ。
「う――ん。どう言えばいいかな。嫌いとかじゃないと思うよ。ただ、普通にしてくれれば、楽なんだけどなとは思ってたよ」
 忍が普通に話しかけてくるように、隠れず気を遣わず、普通にしててもらいたい。洋平自身が、どう対応していいかわからないから。
 真穂は、洋平の顔を見つめた。
「そのまま言うんですね、洋平さんは」
「そのまま言うしかないでしょ。こんな格好で、色々言っても、説得力がなさそうだから」
 付け睫毛の瞳を故意にバチバチさせ、口紅を引いた口元を綻ばせて、洋平は笑った。
「・・・」
「さて、どうするかな」
 いつの間にか、背後でモゾモゾしていた洋平の動きが止まっていた。
「どうするって・・・」
 分からない様子で小首を傾げる真穂に、洋平は破顔した。
「このまま捕まって、ジッとしてちゃ駄目でしょ」
「でも、どうするんですか」
 真穂は背後に回っている自分の手首を確認した。縄で縛られていて、どうしようもない。
「一先ず、縄を解こうかな」
 言って笑う洋平は、真穂の前に両手を出して見せた。確かに、柳田たちが居た時は、後ろ手に縛られていたはずだ。真穂の両手も背後で縛られている。
「理由は分からないけど、柳田さんは何か意図があって、あいつ等と行動を共にしているようだよ。真穂ちゃんの手を縛った時、こっそり俺の縄に切り目を入れてたんだ。あいつ等にバレないようにね」
 真穂の縄を解いてやり、洋平は立ち上がると、閉じられた扉と頭上に見える小さな小窓を確認した。
 扉は堅く閉ざされており、小窓はどう見ても通り抜けられるようなサイズではない。
「あいつ等、時間がないって言ってたな・・・」
 座り込んで洋平を仰ぎ見ている真穂が、腕時計に視線を落とす。午後3時が来る。
「こんな時、忍ちゃんならどうするかな」
「呼んだ? 洋平さん」
 頭上から、明るい声がかかる。
「はぁ――、どうして忍ちゃんがいるの」
 声がした小窓の方を見ると、少し高い位置にもかかわらず忍の顔があった。
「どうして、そんな高い所に――」
「下に翔がいるの。ちょうど良かった?」
 翔を踏み台にしているということだろう。洋平と真穂は呆気に取られている。
「いや、ちょうどじゃないと思うけど・・・。どうして、ここがわかったの」
「簡単よ。真穂の携帯のGPS」
「え・・・。捕まった時、柳田さんに取り上げられたはずなのに」
 言われて周囲を探した。もちろん、身につけてはいない。
 真穂が気付いて傍に投げられていたカバンの中を確かめた。確かに携帯電話があった。しかも電源が入ったままだ。
「どうして・・・」
 確かに取り上げられて電源を切られたはずなのに。
「とにかく二人ともそこから出てきて。周りには誰もいないみたいだから」
 扉が外から開き、曜が現れる。続いて入って来た忍は真穂と抱き合い、翔が目を丸くして洋平に近づいた。
「洋平さん。忍に言われてスニーカー持ってきたけど、こういう意味だったんだね」
 携帯電話を渡しながら紙袋を掲げて笑って見せる翔は、洋平のスカート姿を上から下までしっかりと確認している。
「いや、・・・できれば服を持って来てくれると嬉しかったな」
 洋平は素直にガッカリした。ハイヒールで森の中を動かなくても良いのは有難いが、できればスカートを着替えたかった。
「ごめんなさい、洋平さん。そこまで考えてなかったよ。まさか、そんなに似合うとも思わないし」
 曜は気の毒そうな顔をして洋平を見ていた。やけに女装が似合う分、侘しさがある。
「仕方ないか」
 助かったことをまず良しとして、洋平はスニーカーを履き、携帯電話の電源を入れた。
「じゃ、行こうよ。洋平さん」
「どこへ」
「逃げるの」
 満面笑顔でピースを見せる翔に、軽い頭痛を覚える。
 小屋を出ると、周囲は霧雨で煙っていた。
 むせ返るような緑の匂い。此花池は水音一つ立てず、鈍い色に沈んで見えた。ふと対岸を見た洋平が、目を凝らす。
「あれは、人?」
 遠く水辺に佇むように白い影が見えた・・・ような気がする。
 横に並んで同じように目を凝らした真穂が言う。
「柳田さんが行ってたわ。池の向こうは危ないって。引き摺りこまれるから行くなって」
「そうか――。ところで、忍ちゃん達は、ここまでどうやって来たの」
 ここにいるのは、洋平と真穂の他は、忍と双子の翔と曜の五人だけだ。車のエンジン音も人の声もしない。
「真穂のGPSが追跡出来て、ここの場所が分かったから、途中までは車で送ってもらったのよ。大勢で踏み込むのは躊躇われたし、もっと危険な計画があるってわかって、そっちを優先したの」
「それって、俺たちは見捨てられたのかな」
 複雑な顔の洋平に、忍は笑って首をすくめた。
「そうじゃないわ。でも、柳田さんの動きを見ると、多分二人は大丈夫だろうってことになったの」
 実際、大丈夫だったから良いようなものの、やはり洋平は多少不満顔だ。
 五人で小屋を出ると、雨は止む気配がある。
 此花池の鈍い色も、少し白みがかっていた。
 いきなりズンという地鳴りが腹に響く。
「何の音だ」
 洋平は地面を見つめた。
「すごい音」と、忍。
「間に合わなかったのかな」と、曜。
「俺たちも行こう」と、翔。
 三人はある方角を見て歩き始めた。
「今日は、視察の日だよね。ちょうど、今、・・・あの方角」
 脳裏に、柳田が説明してくれたすその地区の地図が浮かぶ。
 洋平は傍の真穂に確認した。真穂が青ざめる。
「お父さん・・・」
 立ち尽くす真穂。洋平が促すように背を押す。
 ふと振り返って此花池の対岸を見ると、やはり白い陽炎のようなものが見えた。何か、急かされているように思えた。
「とにかく行こう」
 走り始めた三人の背中を追うように、二人は後に続いた。


 霧雨が薄れていき、空が明るくなっていく。
 此花池の小屋を後にし、舗装された道路ではなく、山へ続く細い道を取った五人は走った。地図によれば、この道を行く方が早いはずだ。
 ただ、獣道よりは手が加えられて進みやすいが、如何せん坂が急だ。地面もぬかるんでいる。脚力と体力勝負である。
 翔が先頭を走り、曜が続く。忍は少し遅れる真穂を振り返りながら、二人を追った。
 洋平は、まとわりつくスカートに閉口しながらも、最後尾を遅れずに走った。
 また地鳴りのような音がした。足元の揺れに、
「マジか」
 翔が舌打ちをする。曜が追いついて上を見上げる。
「翔、落ちてくるものに気をつけろよ」
「本当に、間に合わなかったの?」
 焦り始めた忍が、速度を上げる。
「忍ちゃん、どういうこと? 間に合わないと、どうなるの?」
 不安に駆られる真穂が、忍の後にしっかりとついて行く。
 翔と曜が先導する道を、洋平は登った。スカートのため走りにくいが、止まる訳にはいかない。心が急く。
 先導する双子に、洋平が声をかける。
「そこは左へ、その方が安全だよ。その次は、右」
 柳田が地図を示しながら説明してくれた要所が、次々浮かんでくる。
 時折急な角度で曲がる道を登っていく。幅が狭い場所もあり、山側は切り立ち、周囲を取り囲むように木々が生い茂る。
 腕や足に木々の鋭い枝が引っ掛かるが、躊躇っている場合ではない。
 ひたすら先を急ぐ。
 木々が途切れた所で、広い道に出た。
 車の轍がいくつも山の上に向かって続いている。その轍を追うように、ぬかるんだ道を必死に走る五人の呼吸に紛れて、大きな喧騒が近づいてきた。
「あそこよ」
 忍の声が示す方向に、一台二台と車が見え始めた。数人の背広を着た男たちの中に、石橋公の姿を見つけた。
「兄貴、どうなったの」
 翔が公に声をかけ、その視線の向こうを見た。
 明らかに土砂崩れの跡が分かった。小規模だが、巻き込まれれば土砂に埋もれるか、崖下に転落だ。
「間に合わなかったの?」
 忍が追いついた。
 公は妹達を制しながら、土砂崩れの方に視線を向けた。
「大丈夫だ。もう少しずれていたら、車ごと崖下だっただろう」
 見れば、三台の車は土砂寸前で止まっている。
「あの崩れた辺りは土が脆いそうだが、車が止まったあの位置は頑丈な岩場で、崩れ難い構造らしい。よくあそこで止まったものだ」
 公が説明する場所を、洋平も見つめた。
 数台の警察車輌と警察官や刑事たちが交錯している。広くはない坂道に大きな声が響く。
 洋平は大きく肩で息を吐き、周囲を見渡した。
 ちょうどすその地区に広がる森の木々の高さより少し上がった場所。その拓けた山道は、ある程度の範囲であれば容易に見渡すことができる場所だ。ここならば、通る車の状況も掴めるだろう。そして――。
「柳田さんが言ってた通りだ。あの辺りは逃げ場になるって――」
 公用車が三台止まった位置と、記憶にある地図が一致する。
「柳田さんが、市長に電話を入れて車を止めるよう伝えたらしいよ。急用だとか言ってね」
 さすがの公も肝が冷えた顔だ。洋平も思わず胸を撫で下ろした。


 市長を始め、全員が間一髪で助かった。
 驚いて車から飛び出したのか、皆土塗れとなり、岩場の陰にうずくまっている。その周りを警察関係者らしい人だかりが、それぞれうずくまっている者を確認している。
 遠くから、救急車両の音が聞こえた。
 真穂が片岡の姿を見つけて走り寄った。
「お父さん、大丈夫?」
 顔に泥がついており、些か疲れた表情だが、片岡は娘を認めて笑顔になると、安心させるようにゆっくりと頷いた。
「公さん、こうなることがわかっていて、皆ここにいるんですか」
 洋平は唖然としていた。何もかもが『謀られた』ように間一髪無事だ。
 傍で聞いていた忍が、公の答えを待つように顔を見上げると、公は苦笑で肩をすくめた。
「わかっていたわけではないよ、洋平くん。ただ、警察署に匿名の連絡が入ってね。市長たちに危険が迫っているから、ここへ向かえってことだったんだ」
 洋平と真穂の居場所はGPSではっきりと分かっていたという。また、柳田が片岡邸に残した地図からも、何か企みがあることは伺えたが、そのまま鵜呑みにするのは危険だとの判断もあった。
「かなり限定的な情報提供で、信憑性には欠けるものだったが、いつもの武史のノリでね、捜査員を幾つかに分けてその一つがここへ来たというわけだよ」
 忍たち三兄妹を小屋に向かわせたのも、まずは偵察を目的としたものだったが、特に怪しい人物の気配もなく、そのまま洋平と真穂の救出となったのだという。
「じゃあ、室戸さんはまだ他に、何かが動くと思っているのね。兄さん」
「武史は別働隊で署に残っているよ。こちらが空振りに終わった時のホケンでね」
 空振りにならなかったことが、少し意外な様子の公が安心させるように笑顔で答える。
 唖然として状況を聞いていた洋平のポケットで、いきなり呼び出し音が鳴った。
 玲子からの電話だ。
「玲子ちゃん」
 発信元を見て急いで出ると、怒鳴られた。
『やっと繋がった。何やってるのよ、洋平。呼び出したい時に役に立たないんだから。ちゃんと電波のあるところにいなさいよ』
 何度か連絡したようだが、勝手な言い分だ。
 携帯電話を耳から離して睨みつけ、聞こえてくる文句が途切れるのを待って、洋平はため息をついた。
「玲子ちゃんこそ、俺がいくら連絡しても出なかっただろ。で、どこにいるの」
 目配せで公を見ると、公は察して携帯電話を構えた。相手はおそらく室戸だ。
 具体的な地名を洋平が発音すると、公が復唱して上手く伝わったことを指で示す。
「とにかく、玲子ちゃん。そこから離れちゃ駄目だよ」
 言い含めるように言ってみるが、相手はまったく応えてない。
 その上、
『来る時は、しっかり女装してきてね』
 と意味不明な要望が返ってくる。
「はぁ?」
 どうせろくでもないことだろうなと思い、『電波が』といい続けながら早々に通話を終える玲子に辟易しながら、洋平は周囲を見渡した。
 確かにこの場所は、森の中にいる時と比べれば見晴らしが良く、電波も届きやすいだろう。とすれば、状況を把握するのに適していると言える。
「武史には伝えたから、警察が保護してくれると思うよ」
 公の言葉を聞きながら、何かを探し出すように周囲をくまなく見渡していた洋平は、離れた場所の岩陰に数人の人影を認めた。
 その数人は、辺りを窺いながら後ずさりしている。
「翔くん、これ」
 尚も何かを探すように中腹や眼下の木々の中をキョロキョロとしながらも、洋平は傍に立つ翔に足元の小石を放って渡すと、自分が見ているのとはまったく反対側にいるその数人の方を指差す。
 気付いた公と曜も、それぞれ時間差で小石を投げて寄越す。
「怪我させるんじゃないぞ、翔」
 飛び道具を渡しておいて、シレッと言ってのける。
「え――っ、兄貴、それは無理」
 翔は宙に浮いている小石を一つずつ、身を翻しながら掴むと、それを岩陰に向かって投げた。そのすべてが、絶妙に不審者たちに当たる。その中に矢部の姿もあった。
 小石をぶつけられた矢部たちは、それぞれ言葉にならない叫びを上げながら我先に逃げようとする。
「逃がすか」
 足元の小石を握り締めて思い切り投げつけて翔が走り、曜が後に続いた。
「一人につき、手当つけるよ」
 その背中に一声かけて、長兄は腕組みのまま笑顔で高みの見物。
 忍は声援を送りながら、洋平の様子を気にした。
 洋平が探していたのは別のものだ。
 洋平は目を凝らした。
 見晴らしがいいこの場所の動きが見えて、即座に判断し連絡できる場所。
 ふと視線を感じて山すそに向けると、駆け上がってきた斜面の下遠く、木々の緑の隙間に白い影がよぎった。
「・・・柳田さん?」
「ちょっと、洋平さん。どこへ行くの」
 身を翻して上って来た斜面をすべり降りて行く洋平に向かって叫んだが、洋平の姿はどんどん小さくなっていく。
 公が気をつけるよう忍に言ったが、それに答えることもソコソコに忍も後を追った。
「忍ちゃん、私も行く」
 いつの間にか傍まで来ている真穂が、忍を追い越した。
「真穂、洋平さんがどこに向かってるか、分かるの?」
「多分、此花池の畔」
「此花池の畔って、さっきまでいた小屋のこと?」
「ううん、その対岸。柳田さんが『近づくと引きずり込まれる』って言ってた場所」
 小磯に聞いたことがあった。ある一瞬、鮮やかな光に輝く場所がある・・・と。
「多分、柳田さんがそこにいるの」
 普段、オドオドしながら忍の後ろに隠れている真穂とは思えない力強い声に引っ張られるように、忍はその後に続いた。


 洋平は、後ろから忍と真穂が追いかけてくるのを感じながらも、先を急いだ。
 此花池が見える辺りで小屋とは別の道を取る。小屋に行く道同様舗装されていたが、それもすぐに途切れ、雑草と木々の根っこが入り組む地面に、細い獣道が池の岸に沿って奥へと続く。
 生い茂る木々の合間から、光の筋が幾つか通る。池の水面は変わらず鈍い色に沈んでいた。足元を選ぶように注意深く、しかし先を急いだ。
 ちょうど、池を挟んで反対側に小屋の影が見える鬱蒼と茂る緑の中に、淡く白い陽炎が立つ。
 柳田が真穂に言った場所。
 『近づくと引きずり込まれる』という小屋の対岸。
「やっぱり・・・」
 速度を落として一息つき、洋平は一言呟いて止まった。
 その背後に真穂と忍が追いついた。
 何かに呼ばれている気がした。しかし、『それ』は柳田ではなかった。
 ちょうど小屋を出た時に洋平が人影を見た辺り、そこに柳田が立っていた。
 そして、その足元に一つの骸があった。
 追いついた忍が小さな悲鳴を上げて洋平の背中に取り付き、真穂は両手で口を押さえて一瞬怯んだが、もう一歩前へ進んで骸を見つめた。
「小磯さん・・・」
 木の枝や枯れ葉が積もる上に四肢を投げ出し、うつ伏せで横たわっている。傍に小さな瓶が転がっていた。おそらく薬を飲んだのだろう。
 死臭の漂う骸の傍に立ち、柳田は瞬きもせず足元を見つめていた。
 雨は止み、雲間から徐々に陽が差し、柳田の半身を照らしていく。
 男にしては色白の頬を透かし、その光が池の水面に届いた時、突然周囲が一変し、水面の色が鉛色から淡いエメラルドグリーンへと変わった。
「対岸とまったく景色が違う」
 洋平の呟きに、背中に張り付いていた忍も視線を向けてしばらく見つめた。
 吸い込まれそうな翠玉色。
「この角度だけ、この色が見えるんだ。小磯さんはこの色を守りたくて、保護に力を入れていた」
 何も変えないことを・・・、このままの姿で留めることを望んだ。
 柳田は、足元の骸から視線を逸らすことはなかった。
 背中で少し震えている忍を気遣いながら、洋平はゆっくりと柳田の反応を確かめた。
「市長たちは全員無事ですよ。矢部たちも、今頃捕らわれているでしょう」
「そうか・・・。間に合って、良かった」
 心の底から、ホッとした言葉だ。
「柳田さん、俺たちが見つかるように細工したのも、市長たちが助かるように計らったのも、全て貴方でしょう」
「よく見ているな、キミは」
「そうですか。では、その腕に隠している刃物を、俺に渡してください」
 そう言って差し出した右手を、柳田はチラリと見て肩をすくめた。
「本当に、よく見ているな、キミは・・・」
 柳田は、洋平の視線が集中する自分の左手首から、細いナイフを取り出した。
「それで、俺の縄に切り目を入れてくれたんですね」
「・・・」
「そして、これで死のうとしている」
 ナイフを受け取った洋平の言葉に、柳田の意識が洋平に向いた。
 虚無に囚われたその表情を見つめながら、洋平は考えていた。
 堅物で通っていた小磯の一途さは、その行動からも読み取れた。
 そしてこの柳田も、一見冷静で臨機応変に対応できる体を装いながらも、本来は無骨で感情表現の不器用な青年なのかもしれない。
 だからこそ言いたかった。
「死んでは駄目ですよ、柳田さん。小磯さんから色々な事を聞いているんですよね。小磯さんが守りたかったものを、これからは貴方が守っていくんでしょ」
「俺に、そんな資格はない。生きている資格もない。俺のすべてが偽りだ」
 何の感情も含まない乾いた言葉が、森に沈む。
「でも、小磯さんに憧れて、同じ志を持って、同じ場所で生きていきたいと思っていた気持ちは、嘘ではなかったんでしょう」
 そう言ったのは、真穂だった。いつものオドオドとした様子は微塵もない。
 真っすぐ柳田を見つめ、はっきりとした高音が森に響いた。
「お父さんは小磯さんからこの池のことを聞いて保護派になったの。小磯さんの話すことには未来があったわ。柳田さんも、そんな小磯さんに魅かれたんでしょ。本当は、あの派手な女の人のことなんて、どうでも良かったんでしょ」
 沙也子の存在。
 それがあれほどに大きな軋みを生じるとは思っていなかった。
 生きていないと思っていた。女に裏切られて、正気でいられないと思った。そして、死ぬならここだと思っていた。
 いつか小磯が連れてきてくれたこの場所。
 今日と同じような薄曇りが晴れて陽光が差し、池の色が神秘的に変わった。
 その光を浴びながら、この場所の素晴らしさや存在意義を語る小磯を、ただ無言で見つめた。
 ずっと、そうしていたかった。


 あの日。
 沙也子の部屋へ呼ばれていた柳田は、合鍵で開けた玄関にあった小磯の靴を見て、入るのを躊躇った。
 奥から沙也子と、小磯の怒鳴り声が響いてくる。
「俺を利用していただけか」
「当たり前でしょ」
 沙也子の罵詈雑言が続き、耐えていた小磯の咆哮が虚しく響いた。
 何を叫んだのかは、分からなかった。ただ、床に倒れこむ大きな音と狂ったような呻き声が暫く続き、・・・物音が途絶えた。
 柳田がゆっくりと部屋に入る。
 床に、力の抜けた沙也子の身体が横たわっていた。
 何をしたのか、自分で自分の所業が理解できないのか、小磯は動かない沙也子から離れて壁に寄りかかっていた。
 暫し柳田は声も出なかった。状況を必死に考えた。
 小磯の視線がゆっくりと移動し、横に立つ柳田の顔に合って、狂った。
「何故、お前がここにいるんだ」
 小磯の質問に、柳田は答えられなかった。手に持っている合鍵を隠しきれなかった。
「まさか、お前は彼女と――。俺は、お前にも騙されていたのか・・・」
 絶望が小磯を覆う。
 言い返す言葉もなく立ち尽くす柳田を突き飛ばし、小磯は出て行った。
 暫くは、虚しい曲が流れるだけの室内に、複数の荒々しい足音が聞こえた。
 沙也子の居所を突き止めた原山建設の三人の男が現れ、状況を見て柳田に言った。
「お前が殺したんだな」
 柳田は、否定しなかった。
 矢部は、ニヤリと笑った。
「この死体を隠してやる。だから、色々と協力してもらおうか」
 矢部の言葉に、柳田は無言だった。
 恩着せがましい言葉を投げる矢部は、部下二人に指示を出し女を運び出した。
 柳田はどうすることもできず、ただ悶々と過ごした。
 小磯は失踪し、柳田は市長秘書代理を任された。滅多なことはいえない。
 腐敗が始まっている小磯の身体は、すべてに絶望した時に生きることをやめてしまったのだろう。
 それでも、生きる選択肢はなかったのだろうか。
「もし、小磯さんが沙也子さんを殺していなかったら、小磯さんは死を選ばなかったでしょうか」
「いや・・・、どうかな。女が本気じゃなかったと知った時点でアウトだったかな」
 そう考えれば、小磯が沙也子と交際していると知りながら、沙也子と関係を持った事だけで、小磯に対する背信ではないのか。
 答えを受け止めて、洋平はただ見つめていることしかできなかった。洋平の背中に隠れていた忍も、落ち着きを取り戻した様子で現実を静観した。
 真穂は口を押さえていた右手をゆっくりと伸ばし、柳田の背に触れると、まるで支えるように寄り添った。
「柳田さん。小磯さんはいつも貴方を自慢していた。自分の一番の理解者で、一番の同志だって。確かに、小磯さんはあの女の人に心酔していたけど、でも、あの女の人とはまったく別の次元で貴方を慕っていた」
 たとえその想いに違いがあろうと、大切だったことに変わりはなかったのだ。
 だが、そう思い切るにはあまりにも乖離してしまったのだ。
 すその地区を、この美しい池のことを熱く語る小磯を、柳田はずっと傍で見てきた。
 女ができてからの小磯は、日増しに陶酔しのめり込んでいった。保護派の中心にいて、守りたいと思うものの為に真剣に向き合い続けていた男の心が、綻び始めた。
 対象が変わっただけと言うには、その綻びは激しかった。
 表面上は何もないかのように振舞う小磯の傍で、柳田は崩れていくものの大きさを思わずにはいられなかった。
 そんな時、沙也子が自分に声をかけてきた。
 あの人が夢中になっている女。自分に向けられない目を独り占めする女。――自分からあの人を奪っていった女。
 最初は、自分の知らない小磯のことが知りたかった。しかし、沙也子にとって小磯は、単純に原山建設に対する脅しのためのカードでしかないとわかった。沙也子は、生真面目で朴訥な小磯を蔑んでさえいた。
 それでも誘われるままに関係を続けたのは――、柳田自身、心のどこかが壊れていたのだ。心のどこかが間違えた。
 それが女を共有するという歪な状態となり、女を抱きながら男の触れた痕を探す。
 愛していたのに、傷つけてしまった。いや――。
「俺が、殺してしまったんだ」
 柳田は崩れるように膝をつき、低く嗚咽を漏らした。その瞳は見開かれたまま、目の前の骸に注がれる。
 ずっと見つめていた逞しい背中。時に褒めてくれた大きな手。もう見ることはできない満面の笑顔。
 思い出せば尽きない小磯の痕跡が、自分の中で渦を巻いてほとばしる。
 だが、どんなに目を凝らしても、骸は何も答えない。とめどもなく流れる涙が腐敗の進む身体に染み込むのを、ただ見ているしかないのだ。
 洋平も、洋平の影から見守る忍も、そして真穂も、無言で目前にある『死』を悼んだ。


「小磯と柳田が三角関係か。小磯に女がいたことだけでも画期的なんだけどな。まさかこんな結末を見ようとはね」
 咲久耶中央署の一室。
 事件の概要を書き出したボードに刑事の一人が小磯と柳田の間に線を入れ、その上にバツ印を置いた。
 DVDを確認しながら、数名の刑事がそれぞれの席に座って事件の見直しをしている。
「そうだな。一番驚いたのは、小磯だろう」
 真面目一辺倒の堅物だった小磯は、特に人目を引くタイプではなかった。
 反面柳田は、どこにいても人目を引くような男だ。社交的とは言い難いが、女性受けは良かったらしい。
 本人の意思は、わからないが。
 捕らえられた矢部たち原山建設の社員は、それぞれが取調べを受けた。
 矢部によると、朝見沙也子が原山建設を退職した後の居場所を突き止めて踏み込んだのが、あの日だった。
 小磯が立ち去った後の居室に立ち尽くす柳田を見て、朝見沙也子を殺したのが柳田だと思ったという。映像を見る限りでは、沙也子が生きている様子は確認できなかったが、その指が微かに動くのを矢部は見逃さなかった。
 柳田は、沙也子を殺したと思っている。ならば、これを上手く利用しよう。
 恩を着せる為に、沙也子の身体を始末することを柳田に伝えて従わせた。
 まさか、操られているのが自分たちの方だとは気付きもせず。
 取調室の矢部は観念した様子で、問われたことを淡々と語った。
 沙也子を運び出させた矢部は、もちろん、沙也子が原山建設から持ち出した帳簿や裏工作の証拠の品の隠し場所を聞き出そうとした。結局、その時の行き違いで、沙也子の頭をコンクリートに打ちつけてしまい、聞き出せないまま殺してしまった。頭部外傷性の脳挫傷、それが沙也子の死因である。
 すべてを語り脱力した矢部に、刑事が柳田の思惑を伝えた。
 利用されたのが自分たちの方だと知った矢部は、惚けたような、ホッとしたような複雑な表情を浮かべた後、一言自虐的に呟くと、肩を落として小さくなった。


 取調室の柳田は、ワイシャツのボタンを首元まで留めて、背筋を伸ばし、端然と座って正面の刑事の質問に一つひとつ丁寧に答えた。
 膝の上に置いた細い指先が、時折ピクリと引きつるが、その落ち着いた表情が変わることはなかった。
 小磯が沙也子のことを周囲に隠していたのは、沙也子に口止めされていたからだ。
 彼女が開発派の先鋒原山建設の社長秘書であることが、保護派の小磯にとってはマイナスイメージになり、片岡市長に迷惑がかかるのは申し訳ないという沙也子の言葉を鵜呑みにした。
 だがそれは、沙也子自身が巧みに動く為の方便だったにすぎない。
「沙也子は、小磯さんの存在を、原山を脅す牽制に使っていた。本気じゃなかった」
「何故、そんな女と君が・・・」
 そう問われて、柳田は黙って俯いた。
 ただ、沙也子と深い仲になったことについては、特に何の感慨も持ってはいなかったと答えた。
「あの女にとって、男は誰でも良かったんでしょう。小磯さんだろうが、俺だろうが、その他大勢の男だろうが・・・」
 柳田は、矢部たちに強制されて協力すると見せかけて、実は、原山建設の不正を大々的に白日の下に晒すことができるよう仕向けたかった。
 そうすれば、もっと多くの人が『保護』について考えてくれるのではないか、『開発』が特定の人間のみの利益で終わる今の咲久耶市の構造を打ち壊せれば、小磯の本懐を遂げられる。その為なら、どんな汚濁に塗れてもいいと思った。
 視察ルートを妨害する仕掛けの場所を矢部たちに提案したのは柳田だ。
 矢部たちにどこに仕掛ければ効果的かと提案し、人員がそちらに割かれるように指示する。これで小屋に囚われた二人を救出する隙も生まれる。部下をそちらに割かれれば、原山の動きも鈍くなる。そして一部始終見通せる場所で時を計り、警察署や片岡市長に連絡して謀略を阻む。
 すべては柳田の計略通りだ。
 実際、原山たちが片岡市長たちに仕掛けた罠は不発に終わり、不正の証拠も沙也子からは取り戻せなかった。
「自分がやらなければならないことが終われば、死のうと思っていました」
 小磯の傍で・・・。
「止められましたけど」
 止められたことが良かったのか、悪かったのか、柳田自身にはわからなかった。
 柳田も、沙也子が隠し撮りをしていたことは気付かなかったという。
 あの日の一部始終が収録されたDVDが存在することは知らなかった。
 ただ、それが無ければ沙也子を殺した犯人にされていたかもしれない。その時はどうするつもりだったのだろう。
 そう問われた柳田は、どうでも良さそうに苦笑した。
 柳田は、矢部たちが沙也子の部屋に押し込んで来た時から、沙也子の殺人を自分が被る決意をしていた。
 どうでも良かったのだ。自分が殺人犯になることなど、どうでも良い。どんな理由だろうと、小磯を裏切ったことには変わらない。小磯を失うことに変わりがないのだ。
 だが、沙也子の死が矢部たちの手によるものだと告げられた時、柳田が大きく目を見開き暫く刑事を見つめて息を止めた。
 やっと現実に戻ってきたという表情だ。
「あの人が殺したんじゃない・・・」
 ゆっくりと顔を天井に向けて肩を大きく下げると、一層背筋を伸ばした柳田は、何かを噛み締めるようにゆっくりと目を閉じて呟いた。
「良かった」
 それが、せめてもの救いだったのかもしれない。
 原山が保護派を篭絡する為に用いた裏帳簿や、約定の証拠はまだ見つからない。
 本当の『鍵』は、柳田も知らなかった。
 沙也子は原山を脅す時に、ヒントの一つを市長の娘に渡したと伝えていた。自分に害を及ぼしても、取り返したいものは返らないのだと言ったのだ。
 四つ葉のストラップ。
 だが、それは『おとり』だという。
「本人が言っていました。沙也子は、そういう女です」


 洋平が室戸の服を借りて人心地した頃、楢崎玲子が咲久耶中央署に着いた。
 原山建設の者との接触寸前の顛末は、極シンプルだ。
 石橋公からの電話を受けた室戸が、原山建設を張り込んでいた刑事と合流。
 洋平が玲子に呼び出された場所へ向かうと、人目を避けるようにサングラスをかけ、周囲を気に掛けながら立っている女がいた。
 室戸に促されて咲久耶中央署まで来た楢崎玲子と、それを迎えた楢崎洋平を並べて、その場の皆が感嘆した。
 室戸が小気味よく笑った。
「お前ら、本当にそっくりだな」
 今、玲子は長かった髪を短く切っている。その髪型が洋平と変わらないショートヘアなのも相俟って、瓜二つと言ってもいい。多少洋平の方が、背が高いという程度の違いだ。
 玲子の体型は凸凹が少なく、細身で長身のモデル体型といってもいい。男に間違われることはそうないだろう。どちらかと言えば、外見的には洋平の方が中性的と言える。
 マジマジと見られて気を悪くしたのか、玲子は憮然として室戸を見返した。
 室戸はそんな視線にお構いなく、今度は洋平の足元を睨んだ。
「俺のスラックス、短いのか。身長は同じくらいなのに、腹立つな。洋平」
 遅れて、原山建設社長の原山雄一が刑事たちに囲まれて到着した。部下が現行犯で逮捕されたことを受けての任意同行だという。
「室戸さん、原山建設の方はどうなりそうですか」
「矢部たちが山道に細工して、市長たちに危害を加えようとした分については追求できるが、原山本人はどうかな。具体的な指示を出していたのが原山だったという証拠は出ていない。証拠が集まるかどうか」
 ヤレヤレと一つ伸びをする室戸に、廊下の向こうから声がかかる。
「ちょっと洋平、あの人、大丈夫?」
 同僚に呼ばれてその場を離れた室戸に聞かれないように、玲子は洋平に耳打ちする。
「どして」
「だってあの人、私に向かって『洋平の方が好みだ』って言ったのよ。アヤシイでしょう」
「――深い意味はないと思うよ」
 満面の笑顔で答えようとして、洋平の顔が引きつった。
「それより、玲子ちゃん。俺に女装させて、どうしようと思ってたの」
 待ち合わせ場所に『女装して来い』というからには、何か魂胆があるに決まっている。どうせ原山との取引に、玲子のフリをして行けとでも言う気だったのだろう。
「別に・・・。似合ってたから、いいじゃない」
「顔が同じだけだろ。まさか、玲子ちゃん。俺のフリするために髪を切ったの?」
 見たことのない玲子のショートヘアを繁々と眺めると、バツが悪そうに視線を逸らす。
「そんなんじゃないわよ」
「じゃあ、何」
「これは、――男と別れてムシャクシャしてたから切ったのよ」
 取って付けたような言い訳だが、その表情から察するに、あながちウソではないようだ。
 しかし・・・。
「え――って、玲子ちゃんと付き合ってくれるような男がいたの」
 そちらに驚いた。
「何よ、それ」
「どうして別れたの」
「知らないわよ。『お前とは付き合えない』って言われたの」
「で、どうしたの」
「腹立つから、肘鉄喰らわしてやったわよ」
「・・・だよね」
 こういうヤツだった。
「じゃあ、DVDをすり替えたのは、どうして」
 DVDのことは、かいつまんで公から聞いた。沙也子の死に関する大事な部分が録られていたという。
 洋平が翔に渡したR指定のDVDの中の一枚だと聞いて、眩暈を覚えた。
 玲子の仕業だとすぐわかった。
「そりゃ、自分で持ってるとヤバイかなと思って」
 結局、洋平は囮に使われたということだろう・・・な。
「で、沙也子さんのことだけど、なんで沙也子さんはあんな映像を撮ってたの」
「沙也子は男と寝る時は、動画を撮ってたのよ。悪趣味だけど、それで画像が残ってたというわけ」
 朝見沙也子は、センサーで人物を感知すると作動するカメラを使って、自分と男の一部始終を録画していたのだ。
 玲子は、沙也子が小磯と帰ってきた時、別室で眠っていたという。
 元より沙也子は、誰がいようと男を連れ込んでいた為、玲子も特に気にする風もなかったという。
「色々ツッコミたいけど、怖いからやめておくよ」
 沙也子を『悪趣味』と称する玲子自身、あまり褒められたシュミではない。他人の情事を隣室で聞いている方も『悪趣味』である。
「沙也子にとって、小磯って男は特別だったわよ」
 何か想う所があるのか、玲子は少し目を伏せて呟くように言った。
「それって、沙也子さんにとって、小磯さんだけは好意を持てた男性だったってこと?」
 一抹の不安を感じながら恐る恐る訊ねた洋平に、一変して鋭い視線が返ってくる。
「相変わらず甘いわね、洋平は。沙也子があんな堅物を好きになる訳がないでしょ。だいたい、沙也子が好き嫌いで動くと思う? お金よ。全てはお金のためよ」
 それ以外ないでしょうと付け加え、玲子が強い口調で言い返す。
「そういう意味での、特別、よ」
 玲子の持つ沙也子の男性観は、聞いていた洋平の頭痛を悪化させた。
 洋平は、ひたすら途方に暮れていた。
「そうだったね。玲子ちゃんの友達だもの、普通じゃないよね」
 昔からそうだ。どうしてこうもこの目上の従姉弟は、・・・。
 ブツブツと呟く洋平の頭を、玲子は拳骨で殴った。
「痛いよ、玲子ちゃん・・・」
「今、沙也子と私を一緒にしたでしょ」
 どこが違うんだと言い掛けたが、やめた。
 これ以上、沙也子のシュミの話をしても仕方がない。先に進もう。
「原山建設との交渉って、どうしようと思ってたの。何か取り引きできるものがあるの」
 見たところ手ぶらの玲子を上から下まで眺めて問うと、目の前に小さな鍵をブラブラと見せびらかされた。鍵には四桁の番号とロゴマークがついていた。
「何、それ」
「たぶん、貸し倉庫のキー。これの隠し場所はすぐに分かったわ。沙也子ってば、片付けるのヘタだから、大事なものは冷蔵庫に入れていたのよね」
 そこはそれとして――。
「それって――、室戸さんに渡してないの」
 少し離れた場所にいる室戸を指しながら問うと、拗ねた様に身をくねらせて玲子が口を尖らす。
「だって、本当にここに証拠を入れてるのかどうか、わからないんだもん」
「って、玲子ちゃん。確証もなく、そんなものをネタに原山建設と接触しようとしたの。しかも、俺に女装させて自分のフリさせてまで――」
 呆れて喚いたが、相手はまったく歯牙にもかけてない。
「あんた、結局来なかったんだからいいじゃない」
 頭が痛い。
「で、どこの鍵か分かったの?」
「さあ、それが分からないのよね。このロゴマークを使ってる管理会社は三つ。それぞれ市内に大小合わせて十前後の店舗があるのよ。エリアを拡げれば幾つになると思ってるの。そんなの一つずつ探すのは無理だもの。あの子のことだから、何かヒントを残しているはずなんだけどさ」
 手当たり次第に探すわけにもいかず、手掛かりになる物も見つからなかったということだ。
 それでも『交渉』しようとしてたのか。
 至極当然顔で思案する玲子とは裏腹に、洋平は珍しく眉間にシワが寄った。
「どうして、すぐに相談するとか、警察に言うとかしなかったの。玲子ちゃん」
「だって、沙也子がいい金になるって言ってたのよ」
 少し不貞腐れたような甘えたような口調の玲子を、洋平は冷たく見返した。
「・・・言ってたから?」
 覗き込んだ鏡に咎められる感覚か。玲子は洋平の気迫に押されたように首をすくめると、少し尖った口元で不満そうに言った。
「だって、あの子が言うくらいだもの、いい稼ぎになるかなって」
「玲子ちゃん、犯罪だからね」
「だって、少しくらいいいかなって」
「だから、犯罪なんだってば。玲子ちゃん」
 平行線を辿ってしまう会話に、洋平はうんざりして叫ぶしかなかった。


 洋平が、玲子の逸脱ぶりに頭を抱えていると、室戸が手に何かをぶら下げて戻って来た。
「よぉ、洋平。真穂ちゃんは市長の所かな」
「はい、病院ですよ。公さん達もそこにいると思うんで、俺もこれから行くつもりです」
 片岡市長を始め視察に同行していた者は、一応念の為の検査ということで近くの総合病院へ搬送された。
 片岡英夫市長の娘である真穂はもちろん、石橋公と三兄妹も同行しているはずだ。
「これ、朝見沙也子が真穂ちゃんに渡したものだって言うんだが、特に事件に関係ないようなんだ。真穂ちゃんに返して欲しいんだ」
 室戸が指先で弄ぶものを見て、洋平が納得した。
「あぁ、その四つ葉のストラップ・・・」
 真穂から矢部が取り上げたものだ。『MINAMIGUTI 3』の四つ葉のストラップ。
 沙也子が真穂に渡した、『おとり』だったというストラップ。
 『ヒントの一つは、市長の娘が持っている。自分を殺しても無駄だ』という抑止力は、まるで効力はなかったということになる。
「俺で良ければ、真穂ちゃんに渡しますよ」
 そう言って差し出した手の平に室戸がストラップ渡すと、瞬時に玲子が横から掴んで取った。
「待って、それって――」
 突然の行動に二人が面食らう。
「どうしたの、玲子ちゃん。沙也子さんが真穂ちゃんに渡したっていうストラップだけど・・・。事件に関係ないみたいだよ」
 掻っ攫われた形の手を虚しく掴みながら洋平が玲子を見ると、明らかに豹変している。
「馬鹿ね。沙也子が無駄に何かを買うわけないわよ」
「?」
 意味がわからずキョトンとしている洋平と室戸を尻目に、玲子は暫くストラップと手にあった鍵を見比べた。
「わかったわ。貸し倉庫の業者と場所が」
 どこから出したのか、しわくちゃな紙切れと持っていた鍵、それからストラップを交互に見つめて小躍りせんばかりだ。
 玲子が指したのは、しわくちゃな紙切れの中に書かれた一行。
 『四葉』社の、『南口第三倉庫』だ。
「ここよ、洋平。ここに隠してたんだわ。沙也子だもの、何か形に残してると思ったのよ。あの子、物覚え悪かったもの」
 既に有頂天だ。
 玲子の示す紙切れには、リストアップした貸し倉庫の場所が小さな文字で書かれている。
 その中で『南口』とついている貸し倉庫は六ヶ所。そのうち『3』がついているのは二つ。そのうちの一つ、『四葉』という管理会社のものだ。
 はしゃぐ玲子を、ただ目を丸くして唖然と見つめる室戸がいた。
 その横で、洋平は頭を抱えた。限界だ。
「わかったよ、玲子ちゃん。よくわかったから、何もかも室戸さんに話してね」
 尚も自分が理解できたことに歓喜している玲子の背中を押して、洋平は室戸に差し出した。
「どうぞ、室戸さん。煮るなり焼くなり」
 玲子が我に返る。
「どうして――」
「どうしてなのかわかるまで、説教されてきてね。玲子ちゃん」
 押し付けられた室戸は、玲子の手から鍵とストラップを取り上げると、そのまま手首を取って踵を返した。
「じゃあ、一緒に取調室へ行こうか」
「だから、どうして。私は沙也子が隠してたことに気づいただけじゃない。ここですぐに教えてあげるわよ」
「玲子ちゃん、お願いだから大人しく言う通りにしてね」
 抵抗する玲子の背中をしっかりと洋平がブロックし、後退させないようにしている。同じ顔の二人が、一人は鬼の形相で、一人は仏の諦め顔で押しつ戻りつしているのは、笑うしかない光景だ。
「そう焦らずに、ゆっくり聞かせてもらうよ。取調室で」
 室戸はそう言いながら、廊下の向こうに見える数名の刑事に声をかける。玲子から取り上げたものを渡し、裏を取るように指示を出した。
「ブツはひとまず置いといて、知ってること全部話してもらうよ。言いたいこと沢山あるだろ。俺が聞いてやるからさ」
 と、室戸は強引なナンパのノリである。
 玲子は往生際が悪い。すこぶる悪かった。
「ちょっと、洋平。なんとか言ってよ。どうして私が取調室なんかに行かなきゃいけないのよ」
 抵抗しながらも引き摺られるようにして離れていく玲子に、洋平が手を振る。
「だからね、玲子ちゃん。その理由も含めて、ちゃんとヒトの話を聞いてね」
「おかしいでしょ、それ」
「常識だよ、これ」
 血相を変えて怒っている玲子と、静かに受け流している洋平を見比べて、室戸が肩をすくめて納得する。
「やっぱり・・・、中身は全然似てないのか。不憫だな」


 咲久耶市長の片岡英夫は、念の為検査入院となった。
 病室に行くと、疲れた様子ながらいつもの明るい笑顔で洋平を迎えてくれた。
「片岡さん、申し訳ありませんでした。真穂さんを守る役だったのに、危険な目に合わせてしまいました」
 直角に頭を下げて詫びる洋平に、片岡は軽く首を横に振って労った。
「君も大変だったと聞いているよ。柳田くんのことも、君が助けてくれたと聞いている。本当にありがとう」
 石橋公からおおまかなことは聞いていたが、片岡は信じられない様子もある。
 ずっと傍で一緒に仕事をしてきたはずの小磯と柳田が、何故こんなことになったのか。
「正直、小磯くんのことは信じられないよ。盟友と言ってもいい存在だったのだが、気付いてやれなかった。柳田くんのことも、きっと思い詰めた結果だろうな」
 結局、玲子が言い当てた倉庫に、『証拠』があった。
 原山建設の裏帳簿と贈収賄のリストだけではなく、原山と市議会議員の密会場面の映像や録音など、詳細なデータが保管されていた。加えるなら、数名の男との情事の映像もあり、中には小磯との密会もあったことから、これより小磯を脅すことも考えていたのかもしれないと想像できた。
 ともかく、原山建設と原山雄一社長、それに繋がる幾人もの市議会議員の不正が明るみに出ることになるだろう。
 玲子の手柄と言えば手柄と言えるのだろうが、良かったでは済まない。
 今頃、室戸にこってり絞られて――いればいいなと思いながら、洋平は片岡の心中を慮った。
 視察に同行していた市議も、片岡同様に検査入院となっている上、不正の『証拠』となるものが見つかったという報告を受け、片岡市長は週明けの市議会の延期を議会に要請した。
「どうして二派に分かれて、いがみ合わねばならなかったのだろう」
 確かに守りたいものがあった。だがそれは、大切な命を失ってまで為さねばならないことだったのだろうか。
「私は、そこまで深く考えてはいなかったように思う。保護を『変わらないもの』とだけ認識していたのではないだろうか。自然も人間も、そんな単純で浅はかではないだろう。どうすれば市民が幸せに暮らせるか、まずはそこを考えなければ。保護か開発かの二択ではなく、もう一度最初から問い直そう」
 その為には、早く公務に戻らなければと意気込む片岡を、洋平は頼もしく見た。
「それに、君を推薦してくれた忍ちゃんに、礼を言ったばかりだ」
「はい?」
 突然話が思わぬ所へ行き、面食らっていると、片岡はいつもの満面笑顔で言った。
「娘がね、明るく奇麗になったようだ。君のおかげだろう。これからも娘を頼む――とは、いかないのかね。ウチの娘は良い子だよ」
「――答えに困るんですけど」
 本気で答えに困った。
 片岡も同じように困った顔で笑った。
「そりゃ、親だからね。親バカと言われても、娘は一番可愛いよ。君がいることで、娘が良くなるなら、何としても掴まえておきたいと思うよ」
 確かに、初めて会った時の真穂と、今病室の外で忍と一緒にいる真穂では、幾分変化があるようには見える。それは洋平でも感じることだが、その理由は洋平にはない。
 おそらくは、この数日で目の当たりにした事実のせい。
「それは多分、俺は関係ないと思いますよ」
 洋平は正直にそう言って、片岡の微笑を誘った。


 病室を出ると、真穂と忍が待っていた。
「そう言えば、真穂ちゃんは、柳田さんには普通に話しかけてたよね。柳田さんは、違うの?」
 真穂は驚いたように目を見開いて洋平を見たが、何のことかわかったように顔を綻ばせると話し始めた。
「柳田さんのことはずっと小磯さんから聞いていて、私にもよく此花池のことや自然のことなど話してくれていたの。お父さんが小磯さんのことをとても信頼していたし、あの小磯さんが柳田さんのことをとても頼りにしていたから、特に嫌ではなかったというだけです」
 どうやら真穂の感覚は、『お父さんが好きな人は大丈夫』のようだ。
「ただ、信じられなくて・・・。柳田さんの行動が信じられなくて。お父さんを裏切るというよりも、あんなに好きだった小磯さんを裏切るとは思えなくて――」
 真穂がポツポツと話す。
 小磯のことは、父親の傍でずっと見ていたのだろう。二人が意気投合し、市政に情熱を持って取り組んでいたのも目の当たりにしていたはずだ。その小磯を慕い、ずっと傍にいた柳田に対して、免疫ができあがっていたとしてもおかしくはないのだろう。
「でも、小磯さんが好き過ぎて、あんなことになったんだとわかりました」
 黙って聞いていた洋平がふと、違和感を感じた。
「なるほど・・・って、その『好き』は、深い意味? それとも浅い意味?」
 洋平は引っ掛かったが、真穂の答えは単純だ。
「同性を好きになってはいけないんですか?」
 正面から返されて答えようがなく、隣にいた忍の顔を確認したが、これまた納得したのかしてないのかわからない笑顔が張り付いている。
 しかし、真穂の意思ははっきりとしていた。
「私、強くなろうと思います。すぐには無理でも、いつかなろうと努力します」
 誰の足手まといにもならないように、『誰』にでも『普通』でいられるように。
「傍に、良い先生がいるからね」
 洋平が忍に視線を向ける。忍は意外そうに洋平を見返したが、特に反論もせず、真穂に笑って見せた。
 真穂も忍に笑顔で返し、洋平を見上げた。
「また、会えますか」
 洋平は笑った。
「俺が普通に男の格好をしてる時に、普通に声をかけてくれるなら、ね」


「真穂ちゃんは、大丈夫そうだね」
 公や双子が待っている病院の一階ロビーへ向かいながら、洋平は隣を歩く忍を見た。
「そうね。私が思っているほど、真穂は弱い子ではなかったみたい」
「忍ちゃんは大丈夫? もう気持ち悪くないの?」
 小磯の骸を見て洋平の背中にしがみ付いて震えていた忍は、まるで初めて会った時、女装の洋平の背中に張り付いていた真穂のようだった。いつもの忍からは想像がつかないほどうろたえていた。兄の会社を手伝い、場数は踏んでいるとはいえ、やはり同い年の女子高生というところか。
 今は、いつもの忍だ。
「あら、私はいつも、ちゃんと大丈夫よ」
 『ちゃんと』の意味がよく分からないが、あまり触れられたくないようではある。
 洋平は、別の話題に変えた。
「忍ちゃん、なんで俺を今回の仕事に選んだの? やっぱり、女装?」
 真穂が無事だったから良かったものの、護衛の役目をまっとうできず、危険に晒したのは事実だ。
「どうかな。どうして?」
「それくらいしか貢献できなかったかなと、反省してます」
 スナオに頭を下げると、お道化た微笑が返ってくる。
「そうなの? 洋平さんって、楽なのよね」
 ――楽?
「褒めてはないよね、それ」
「あら、通じてない」
「よく、わからないんだけど」
 そう軽く言い返して、洋平は『しまった』と思った。ここは即答で肯定しておかなきゃならないところだった。が、遅かった。
 忍の表情が一変し、洋平の腕を引っ張って止めた。
「洋平さんは、私に『好きだ』って言って欲しい?」
「いいえ、そういう意味ではありません」
 極力失礼にならないように直立不動でそう答えると、冷たい視線が返ってきた。
「洋平さんって、冷たいわよね」
 どうして、そうなる。
「忍に迫られてる時の洋平さんのオドオド感は、ハンパないよな」
 ロビーの大きな柱にもたれかかり、遠く何か話し込みながら近付いて来る洋平と忍を見て、翔は間延びした顔で呟くと、その傍に立つ曜も同意するように苦笑する。
「洋平さんは優しいからね。言われやすいんだろうなぁ。特に、忍のような押しの強い女の子には弱そうだ」
 だからと言って、真穂のような引っ込み思案な女の子にも弱かったっけ。
「やっぱり、不憫だよな」
「・・・そうだね」
 まるで対岸の火事を心配そうに眺めるように、双子は中々近づいてこない二人を待った。


「公さん、申し訳ありませんでした」
 理由はどうあれ、真穂を護衛するという仕事を放り出し危険に晒してしまった。契約違反だ。
 ただ、石橋公は率直に言った。
「君も、無事で良かったよ。洋平くん」
「ご迷惑をおかけしました」
 素直に謝ると、公は苦笑で洋平の肩を叩いた。
「いや、悪かったね。忍が無茶を言って、あんな格好をさせたんだろ。災難だったね」
 女装のことだ。それについては多少面白がっている様子があり、洋平としては釈然としない。
「大変だったね、洋平さん」
 曜が右隣で労うと、翔が左隣でマジマジと洋平の横顔を眺める。
「やっぱり化粧なんかしていない、今の顔がいいな」
 無邪気な笑顔にホッとする。
「ありがとう、曜くん、翔くん」
 両腕を双子の肩にかけて寄りかかるようにして息を吐いた洋平に、少々ご機嫌ナナメな忍が呆れる。
「そういう顔は、翔と同じで子供っぽいのよね。洋平さんは」
 怒っているわけではないようだが、どうもスナオになれないようだ。
「おい、忍。洋平さんも男だぞ。俺ともども子ども扱いするなよ」
「なによ、翔。立派に子どもじゃないの」
 翔の反論に言い返した忍の横で、公が何かに気づいたように破顔する。
「そうだ、洋平くん。翔に預けたDVDの山のことだが」
 R指定のDVDの山のことだ。
 穏便に切り抜けたい洋平のこめかみに冷や汗が流れる。
 忍の強気も苦手だが、公の笑顔も苦手である。
「あ・・・公さん。やっぱり、ダメですか?」
 できればなかったことにして欲しい。
 だが、そう容易くは逃れられそうにない。
「では、忍の判断を仰ごうか」
「いや、それは・・・」
 それだけは勘弁して欲しい。でないと、おそらく忍が黙っていない。
「何? 私に内緒のこと?」
 ほら、ね。
「いや・・・。だからね、忍ちゃん。知らない方が良いこともあるよ」
 双子から腕を離して後ずさりしながら祈ってみるが、通じそうにない。
「私だけ知らないのは、許せないわよ。洋平さん」
 さらにご機嫌ナナメで迫ってくる忍に、防戦一方の洋平を遠目に見つめ、双子はひたすら納得する。
「洋平さん、・・・やっぱり不憫だ」
「翔、お前、足引っ張ってんだから、洋平さんを援護しろよ」
「え――、パス。曜がやれよ。うまいだろ、仲裁」
 結局、面倒を押し付け合いながら、同意できるところで落ち着いてしまう。
「じゃ、このままということで」
 二人、シンクロするように洋平に背を向けると、とっとと玄関へ向かって歩き出した。
「こら、双子。見捨てるなよ」
 洋平の受難は、まだまだ続きそうである。


                             完

洋平くんの受難 (完結)

洋平くんの受難 (完結)

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-10

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