秋の終わりと冬の始まり
肩とつま先に触る空気の冷たさに薄く目を開け、スマートフォンを手にする。
「七時か…。」
そう漏らし、身体を起こす。
特段早起きする必要もない毎日だが、日々あまり変わらない時間に目を覚ます。
キャミソールに下着だけの格好の自分にショートパンツを履かせ、洗面台に向かう。
歯磨きと洗顔を終え、ショートパンツも自分の手も全部隠れる蓮のパーカーを羽織り、左のポケットにイヤフォンとスマートフォン、右のポケットにお札一枚とタバコを押し込み、靴下とムートンブーツを履いてドアノブに手をかける。
ゆっくりと隙間を広げるドアから、冷たい風が差し込む。
深く鼻から空気を吸い込み、歩き出す。エレベーターで軽くストレッチをし、中庭になったエントランスで全身を大きく伸ばして外に出る。
タバコに火をつけて、吸い込み、吐き出す。
お気に入りのコーヒーワゴンまでゆっくり歩き出す。
「おはよう、瑠衣。眠たそうだね。」
住宅とオフィスが立ち並ぶ街の路地にあるコーヒーワゴンの店主が話しかけてくる。
「おはよ。なんか昨日出かけたら疲れちゃって。化粧も落とさずに窓も開けっ放しでソファで爆睡。体痛いわ。」
「風邪引くぞ。蓮は帰らなかったの?」
「そうみたいね。まぁ、もう少しで帰るんじゃない?」
「そう。じゃあ蓮にあっついコーヒーと、瑠衣にはミルクティーで?」
「うん。今日は寒いから私のも少し熱くても良いや。」
ワゴンの近くにある吸い殻入れに近づき、コーヒーと紅茶ができるのを待つ。
目まぐるしく足早に歩く人、仕事前にコーヒーを買って一息つく人。朝から楽しそうな子供やカップル。この街には色んな人がいる。
「お待たせ、瑠衣。蓮が帰ったらちゃんと寝ろよ。」
ここの店主は、大輔。大輔は少しおせっかいで心配性。蓮も私もすごく助かっている。
「ありがと。またね。」
持ち帰りの紙袋にまで、大輔のセンスが光る。日本にいるのに、まるで外国にいるような気分になる。持ち手のない紙袋を左腕に抱え、その暖かさに短くなったタバコを深く吸い込み、ほっとする。吸い殻を捨て、また家に向かって歩き出す。
家に着くと、鍵が開いている。蓮が帰ってきている。
「蓮、居るの?」
「おかえり、瑠衣。」
さっきまで私が寝ていたソファになだれ込んでいる蓮がそこに居た。
「ここで寝たでしょ。体痛くない?」
まるで見ていたかのように、紙袋をテーブルにおいて近付く私の腰に手を回す。
「疲れてたの。それに蓮が帰ってこなかったからでしょう。」
「はは、ごめんごめん。身体は平気?」
腰に回した手とは反対の手で、私の乱れた頭を撫でる。
「ちょっと首寝違えたかな。」
そう私が言うと、腰と頭を引き寄せて私の首元にキスをする。
身体を少し震えさせる私にまるでいたずらっ子のような表情をして、キスをする。
触れるだけのキスをした後、下唇にキスをして、伸ばした舌が私の唇を開く。小さく漏れる声が部屋に響く。深いキスではなく、触れるだけのキスと少しだけお互いの舌に触れる。どのくらい時間が経ったかわからないけど、ふと目を薄く開いた時にベランダから差し込む光に目を見開いて、蓮を引き剥がす。
「何?」
「洗濯物干さないと。ね?」
口を尖らせて拗ねた顔をする蓮の頭をくしゃくしゃに撫で、コーヒー買ってきたから、と腰に回された手を解く。
「シャツ、脱いでね。あと、このパーカー。タバコ臭いから洗うよ?」
「ん。」
脱いだシャツを私に手渡し、背後に回る。
私の腰に後ろから手を回してくっつく蓮をお構いなしにシャツとキッチンのタオルを持ち、洗濯機に向かって歩く。この肌寒い朝に少し熱を帯びている蓮の胸が、ブカブカのパーカーを脱いだ私の肩に触れてまた少し緊張する。
ドラム式の洗濯機に必要なものを入れ、スイッチを押す。
「そうだ、瑠衣。スコーン買ってきたよ。」
朝帰りをした蓮のお土産はいつもそれだ。少し離れたところにある朝しかやっていないカフェのスコーン。起きる時間が不規則な私たちにとっては中々レアなものだ。そして、蓮は私がそれを好きなのを知っている。嬉しいのと、蓮の熱を帯びた胸に触れていた緊張感が心を余計に躍らせる。振り返り、胸に顔を伏せて蓮の細いラインの背中をきつく抱きしめる。
「はいはい、嬉しいのね。コーヒーと紅茶、冷めちゃうよ?」
今度は蓮がしてやったり、といった顔で私の額にゆっくりキスをして私を嗜める。
「窓、開けようか。」
白い洗いたての長袖のシャツを腕に通し、デニムをスウェットに履き替えると、ブラインドをあげて窓を開ける。まだ冷たい朝の空気が部屋中に広がる。私は肩を震わせ、蓮のお気に入りのニットを頭からかぶる。洗いたての柔軟剤の匂いが広がる。
「また、俺の着る。瑠衣のもあるでしょ。」
「だって大きくて楽なんだもん。それにこっちのほうがあったかい。」
いたずらっ子のようにそう言って、紙袋からコーヒーと紅茶を取り出す。流石大輔。取り出したコーヒーと紅茶はまだ温かく、今日は相当熱くしたんだな、と思う。
「お。あいつ元気だった?最近見てないわ。」
スコーンを一口かじった後、私の手からコーヒーを受け取ってそう言う。
「大輔は元気そうだった。寝落ちしたこと言ったら、蓮が帰ってきたらちゃんと寝ろってさ。」
「そっか。相変わらず世話焼き心配性だな。」
そう言って笑ったあと、またスコーンをかじる。
向かい合って座る無垢のダイニングテーブルの椅子に体育座りをし、紅茶のカップを両手で持ち、ゆっくり飲む。気持ちの良い風に、コーヒーと紅茶の匂いが立ち込めて、風の音と蓮がスコーンを噛む音、遠目に洗濯機の音。なんて良い朝なんだろう。半分ほどかじったスコーンを私に手渡し、一口かじってお気に入りの味に幸せを噛み締めて、紅茶を口に運ぶ。
「締め切り、いつだっけ?」
コーヒーを飲み干した蓮が言う。
「んー、明日。もう構成は終わったから、まとめて修正待ちかな。」
蓮はデザイナー、私は小説家。
起きる時間も違えば活動時間も違う。だからこそ、こういう日はすごく大切だ。最初の頃、一緒に居始めた頃は時間が合わないことや一緒にいられないことで随分悩んだ。ただ、一緒に居るうちに気づいたのだ。一緒にいられる時間が短くても、時間が合わなくても、一緒にいる時間にこんなにも色んな事に気付けるということを。
私たちは、我儘で自分勝手だから自分たちの好きなこと、やりたい事をやらないと心のバランスが取れない。
「タバコ、取って。」
パソコンの前の椅子に座り直し、ソファで寝ようとする蓮に言う。
ジッポを鳴らし、私のタバコに火を点けて、キスをしてからタバコを咥えさせる。
深く煙を吸い込み、パソコンに向かう。
今日はこれで私の集中力が切れて、蓮がソファから起き上がるまで多分一つの会話も生まれない。あとは、洗濯機が私を呼ぶまで。
蓮が開けっ放しにしたリビングのドアを閉めると、聞こえるのは窓から入り込む秋の終わりと冬の始まりを告げる冷たい風と、蓮の寝息と私がキーボードを叩く音だけだ。
この人と一緒で、よかった。
秋の終わりと冬の始まり
季節に応じたものでも。と思って書きました。
私にとってもこの二人は好きな二人になりそうです。