風香
風には匂いがあるらしい。
「夏には水と木の秋には燃え行く命の匂い。冬には鋭く尖って、だけど透き通った匂い。そして春には―」
そう言っていた彼女は、まだどこかにいるのだろうかだろうか?
下ろしたての靴を履いて、ドアを開けると、生暖かい湿気が体を包んだ。カツカツと、視界を斜めに遮る階段を誰かが昇っていく。引っ越したての僕には、やはりそれが誰か分からなかった。
玄関から細い路地へ。民家の塀とアパートの外壁に挟まれた通路を深い影が覆い、空を映す水溜りだけが光を放っていた。
sgbrbsr3jrdhdzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
1ページと数行。それ以降動きが無い。
頭の後ろから覗いたパソコンの画面は、今までの一時間が何の進歩もなく消えていったことを示していた。
「……先生?そろそろ続き、頂かないと―」
「うっさいっ!」
キーボードに突っ伏していた頭がバッと起き上がり、くるりとこちらを向いた。
「貴方はチェック担当なのですから、黙ってそこに居ればいいのです!」
今にも掴み掛らんばかりの気迫で、ズイと迫ってくる彼女の顔は怒りで真っ赤になっていた。グシャグシャに掻き乱した艶のない黒髪が目元まで垂れている。徹夜明けなのか、黒々とした目の下のくまと相まって、もはや悪魔めいた何かに見える彼女に、僕は後ずさるしかなかった。たまったレポートを一晩で片付けようとして、こんな表情になっている大学生は割と多いものの、彼女が書くのはレポートではない。
「いや、しかしですねぇ……」
「黙っていなさいと言っているでしょう!私がどれだけ苦労しているか、貴方は……貴方はぁっ!」
「あ、ちょっと、暴れないでくださいってば!」
オフィス用の回転椅子に座ったまま、バタバタ暴れる彼女に数発殴られながらも、どうにか腕を掴んで制止することに成功した。僕と彼女しかいないとはいえ、ここは大学の一室だ。流石に騒ぎすぎるのは良くないだろう。ここに入学してから三年、彼女と共に文学研究部に入部してから一年と半年。こういう子供っぽい行動がただただ可愛らしかったのは、いつのころまでだっただろうかと懐かしくなる。
作佐部文子は天才ではなかった。
僕―飯田章は今年の春で、大学三年生になったが、文学研究部ではまだ一年目の部員だ。一年生の時からこの部活に対して興味を持っていたものの、新生活と大学の講義の忙しさや、そもそも「文研」という団体に所属することへの抵抗感から、なかなか踏ん切りがつかず一年以上ズルズルと考えていたためだ。「二年になっていまさら……」という気持ちもなかったわけではない。同じ学部の同輩で文研に入部している友人からも誘いがあったが、僕が文研に所属するに至った決定的な要因は―敗因といっても差支えないだろうが―非常に残念ながら、目の前で、うんうん唸っている彼女(ポンコツ)である。
文子は去年の春入学した現一年生であり、僕と同じ日に文研に入部した。
どこのサークルでもそうなのだろうが、我が文学研究部には入部の前には仮入部期間というものがある。その時の顔合わせで僕の目前に座った彼女は、文学研究部より茶道部に入って着物を着てお茶立てでもしている方が似合いそうな凛とした一見冷たく見える顔つきをしていて、それでいて部室の雑然とした本棚のバックが限りなくしっくりくるような、ボサボサの短髪をただ簡単にヘアピンで纏めただけの髪形で、「綺麗で不思議な人」という印象を僕は感じていたのを覚えている。「『可愛いなぁ』と思った」と要約していただいて差し当たって問題はない。
ただ、僕が彼女をどうこうしたいが為にこうして文研に入部したと解釈するのは少し待っていただきたい。それ以外の理由でも、文子が関係していることには変わりないのだが……。
件の顔合わせのとき、体験という形で既に部に所属していた部員から、自分でショートストーリーを書いてみようというお題が出された。完成した物語を部内で発表するところまでが仮入部期間の一連の流れになっていて、既定枚数などは特に決まっていないものの、小説を書くことはやはり簡単なことではなく、当然途中で投げて部室自体に来なくなってしまう新入生も多い。今思うとこれは本当にやる気があって入ってくるかどうか、選別しているのかもしれない。この企画の発案者であるらしい部長本人には直接聞いたことはないが、あの陰険ならそういった意図を込めてやりかねない。ともかく、そのような“テスト”とも言うべき体験の中で、満点以上をたたき出して、一発合格どころか、発案者側から「是非うちに入ってほしい」とまで言わしめたのが作佐部文子であった。
文子は体験初日、僕が執筆に四苦八苦する前でサラサラと流れるように鉛筆を動かし原稿用紙に文字を刻んでいった。唖然とする間もなくそれも終わり、前部長に「出来ました」と一言添えて物語を提出すると、「用事があるので」とこれまた一言捨て台詞を残し、部室から出ていった。
その6ページ半に及ぶ「大作」は、一つ一つの表現が繊細で幻想的で、感情の大きなうねりのようなものを上手に表現していて、その場にいた人間の心をとらえるのには十分すぎる作品だった。誰に対しても基本的に上から目線な態度をとる現部長でも「天才だ、天才だ」とはやし立てていて気持ち悪かった。かくいう僕も例外ではなく、まさに“惚れる”という言葉がふさわしいほど作品に魅了されていた。
僕も「自分の作品を書いてみたい」という純粋な創作意欲は持っているつもりだ。しかし僕が文研に入ろうとした主な理由は、彼女から小説における何かを学ぼうといった高尚なものではなく、ただ単純にもっと彼女の描き出す世界を、彼女の隣で見られたらどんなに幸せだろうと思ったからだった。その世界が、彼女だけが作り出したものではなかったことが分かるのは、それから数ヶ月の後であった。
「はぐぅぅぅぅ……!」
さっきから微動だにしなかった文子が背もたれに身体を預けながら、頭をかきむしっている。……こんな彼女の奇行を見たかったわけではないのだが。
「作佐部先生、寄りかかるのはいいですけど、またあの時みたいにブッ倒れないでくださいね?」
「ああ……。その話はしないでください、あの時のことが脳裏によぎってしまいますぅ……」
締め切りとは別の意味で頭を抱えだす文子。確かにあれは僕にとってもあまりいい思い出ではない。
結局、その後文子は部室に顔を出すことがなく、2週間後の体験期間最終日にどうやって入部してもらおうかと、やきもきしていた部員たちの前にようやく現れた彼女に現部長がオファーし、それを承諾する形で彼女は文研に入部した。陰険部長の謀略のせいで減少してしまった僕を含む新入部員の多くが彼女の入部に色めき立ったのは言うまでもない。
文子は入部後も小規模のものではあるが文学賞に入選を果たし、その容姿も相まって“天才文学美少女”と学校内外からの反響も大きく、日陰者だった文研は一気に知名度をあげ、入部希望者も増えた。大学は中学高校と違って、正式な手順さえ踏めばだいたいいつでも入部が可能である。そのため希望者の中には、彼女を口説きたいだけで小説などには一切興味のなさそうなチャラチャラした男どもも数名居たが、部長が彼女に「悪い虫が付かないように」と例の手法で追い返した。このときはさすがの僕も部長の評価を上げざるを得なかったが、女子学生には問答無用で入部許可を出す部長のヘラヘラした顔で現在に至るまで降下し続けている。こんなのが同学年唯一の友人であっていいのかということを、少し真剣に検討しなければならないかもしれない。
……ともかく、文子は我が部のホープとして部員一同の期待を一身に受けていた。そんな文子の“天才文学美少女”たる仮面が剥がれ始めたのは半年前だ。その時期は部内で行われる品評会に向けて部員各人が作品を書いている頃だった。品評会というのは各々が執筆した作品を読んでもらい、感想なり意見なりを出し合う場である。部全体の作品の質の向上を目的として年に4回程度行われるのだが、「ここの表現はこうした方が良い」とか「一段落が長くて読みにくい人もいるのでは」など、純粋に質の向上に役立ちそうな意見を「この表現なんか気持ち悪いねぇ」や「まどろっこしくてよくわかんない」といったいちいち心にグサリとくる言い方で聴かされることになるので、割とえげつない。
そんな品評会まで一週間を切ったある日の水曜日。僕は書きたい分量の半分程度を書き終えて、品評会への焦燥感を募らせていた。
「ふぁ……、ねむ……」
その日の早朝、僕は少しでも作品を仕上げようと、大学へと足を運んでいた。『早朝』と言っても大学の一時限目が始まる9時より少し前だっただろうか。とは言え水曜日は基本的に三限目からなので、いつもの僕ならやっと起きだすような時間だ。
「やっぱり早く来すぎたな……」
独り言ちる。大学の共有スペースはそんな独り言を聞く者がいないほど閑散としていて、PCデスクの上で眠っているパソコンの、コーコーという寝息さえ聞こえるほどだった。
特別な用があったわけではない。家にいると集中できないからだ。大学から少し遠いアパートに一人暮らしをして半年と少しがたったとき、入居当初の家族のいない寂しさとピカピカなフローリングはどこへやら、代わりに現れたのは見ている者のいない解放感と、ゴミ屋敷だった。
そんな部屋では大学の課題や小説がはかどるはずもなく、こうして両方の締め切りに追われて、僕はここにいるわけである。こういう時は集中できるところでさっさと終わらせるに限る。
「あ、あれ……?」
デスクに座って自前のUSBメモリを取り出そうと、カバンの中を漁ってみたものの一向に見つからない。昨日は日雇いの肉体労働でパソコンを開く気力もなく、早々に寝てしまったので、カバンからUSBを出していない。
とすれば。
「部室かぁ……」
文研の部室は校舎を挟んで反対側にある。通り抜けできるので普段はさして時間もかからないのだが、寄り道していたおかげで少し時間を食ってしまった。道中の購買で買った菓子パンとペットボトルが入ったビニール袋を左手に持ち替えて、右側のポケットから鍵を取り出す。ガラス窓を覗くと中は電気がついていない。こんな早い時間なら当たり前か。
「ん?開いてる?」
鍵を鍵穴に差し込もうとドアノブに手を置くと扉が少し開いた。僕は少し仰け反って窓を再確認する。うん、やっぱり暗い。
部室の鍵は防犯上の理由から原則的に一本で、文芸部に限らず学校の鍵は全て警備室で管理されている。その窓口で事前に登録されている部員名簿と学生証を参照して、鍵を借り受けるという仕組みだ。僕も共有スペースからそれを借りに、別棟の警備室まで申請に行ってきたわけなのだが、既に部室の鍵が開いているというのは果たしてどういうことか。
「ああ、部長か」
大学には数百の部活動が存在し、その中でも学校への貢献度がより高い、数十の団体が部室を借りる権利を得られるわけだが、『手続きがめんどくさい』、『所属している他の人間が鍵を持っているとき、自由に出入りできない』などの理由から、学校に無断で合鍵を作って所持する部活動がほとんどである、という噂話をよく聴く。我々文学研究部の部長も例外ではなく、過去の部長から脈々と受け継がれてきた合鍵を持っている、という噂だ。噂……、あくまでも噂だ。
「電気も付けずになにしてるんだ、アイツ……?」
得体の知れなさと陰険さとでは我が校に置いて右に出る者までは居ないとまで謳われたあの野郎が、何をやっているかなんて想像できるはずもない。まぁ、謳っているのは僕だけなのだが……。
「またどうせ、く~だらないことしてるんでしょうけどねぇ……」
ため息をつきつつドアを開けようとしたその時、
「きゃぁぁぁ!」
という絹を裂くような女性の悲鳴と、ガシャンという何かが倒れる音が室内から聞こえた。僕は突然のことに「ヒィッ!」と、飛び退いてしまう。我ながら情けない声だ。
いや、今は自分の貧弱ボイスを嘆いている場合ではない。明りのない部屋……。悲鳴と倒れる音……。そして……。アイツのにやけた顔が浮かぶ。ついにあの野郎、禁断の領域にまで手を伸ばしてしまったか!僕は少し勢いをつけながら刑事ドラマばりに(もちろんドアノブを回しながら)右肩からドアに突っ込んだ。
「坂戸ぉ!貴様ぁぁ!!」
室内は獣と化した部長がいるわけでもなく、僕の叫び声と備え付けの作業用パソコンの吐く「コーコー」という静かな音が聞こえるだけ。握りこんでいたドアノブを離すと、右開きのドアが軋んだ音とともに静かに閉まる。……さっきので歪みが酷くなってなければいいのだが。
薄暗くなったことで、目の端に明かりが見える。
「おかしいな、誰もいないはずは……」
液晶ディスプレイの放つ白色の光。僕の右側の―ちょうど、窓の外側からもドアからも死角となる位置にある、デスクトップパソコンの電源が入っているようだ。
「おいおい……!」
控えめに降り注ぐ鉛白色の光の下に誰かが倒れていた。部屋の中央にある大テーブルの所為でここから顔は見えないが、少し長めのスカートから覗く細い脚が、この人物がさっきの悲鳴の主であることを物語る。一緒に倒れたオフィスチェアに、脚がきれいに揃って引っかかったまま動かない。流血なんかしてないよなと、おっかなびっくり近づく。
「き、君?大丈夫……?って」
顔が見える。それが件の、
「作佐部さん!?」
だった。
どうやら気絶しているようで、大きくバンザイの姿勢のまま、眠るような安らかな表情のまま倒れている文子に、ゆっくり顔を寄せる。日焼けしたこともなさそうな真っ白い肌と、その無防備な表情が相まって、今にも透けて消えていってしまうのではないかと思わせるほどの儚さを、真っ黒い短髪が縁取るようにして一層引き立てる。一瞬見入ってしまったが、気絶している女の子を見つめ続けるのは、変態的すぎるので声をかける。
「お~い、作佐部さ~ん?」
頭を打ってたとしたら、あまり揺らすのはよくないだろう。ペチペチと頬を叩くと、「んぅ……」と短い嗚咽の後、ゆっくりと文子の瞼が開く。ダランと、広げられていた両手に力が入っていく。同時に顔に赤みが戻ってきた。……あれ?赤すぎじゃない?
「良かった、気が付いた」
ホッとしたのもつかの間、唸るような左手が僕の頬に炸裂し、直後頭頂部に鋭い痛みが走った。
「ひっどいことするよなぁ、まったく」
だいぶおさまってきた痛みの余韻から、頭と頬を抑える。どうやら、文子に平手を食らわされて吹っ飛んだ僕は、大テーブルに頭をぶつけて気絶したらしい。気絶状態から回復した後、僕の目の前にあったのは文子の顔ではなく、部長―坂戸正也の顔だった。憤怒半分困惑半分な様子の坂戸の隣には、真っ赤な顔でこちらを睨む文子の姿があった。僕が頭をぶつけたちょうどそのとき入ってきた部長が部室の惨状を目の当たりにし、要らぬ勘違いをしていたり、文子も同じような内容で怒りに震えていたりして、誤解を解くのに相当の労力を必要とした。
今は横長のテーブルに文子と坂戸が隣同士で、僕は横から二人を見るような位置で座っている。
「―で、どうして作佐部は気絶してたんだい?」
「へっ?いや、その……」
部長が質問する。僕もそこは気になっていたので、無言で続きを促す。
「文章が、えっと……書けなくて、ですね」
どうでもいいが、文子の声を初めて聴いた気がした。そんなことはないのだが、彼女は普段あまり喋らないし、僕も声をかけないのでなにか新鮮だ。
「その書けなくて、リフレッシュしようと、こう……伸びをしたら―椅子ごと倒れまして……」
ようは背もたれに全体重をかけた拍子で倒れて、頭を打って気絶していたということらしかった。僕も小学生の時にやったな、そんなの。坂戸も察しがついたようで「作佐部はお茶目さんだなぁ~」などとニコニコしている。
そこで僕の中で何かが引っかかった。
「書けないって……」
「どういうこと?」と、続ける前に文子がさっきのパソコンを指差す。坂戸は座ったままパソコンに近づき、僕は仰け反るようにして、モニターを見る。
画面にはおなじみの文章作成ソフトに『あ』と一文字、打ち込まれているだけ。画面上部中央に表示されているファイル名は『品評会の作品』……。
「え?これ、品評会のヤツ?締め切り、あと一週間だよ!?」
坂戸の声は怒っているというよりも、現状を把握しかねて困っている感じだ。どちらにせよ、常に軽い態度を崩さない坂戸にしては珍しい。しかし、それも無理はない。仮入部期間初日に僕の目の前で、あの『6ページ半の大作』を誰よりも早く書き終えた彼女が、まさか『あ』しか書けていないなんて、僕にもどうしても思えなかった。
「あ、ああ。そっか。ひょっとしてスランプ気味だったりするの……?そうかそうだよね!な~んだ、早く言ってよ、僕が相談乗るよ?」
なんとかいつもの調子に戻った坂戸が、「ハハハ」と苦笑いで言うと、文子は俯いて首を振る。
「違うんです……」
すぅ、と文子が息を吸って顔を上げる。春独特の突風めいた甘い香りの風が、僕の頬を撫でた、気がした。
「盗作、だったんです」
そのあと文子は「盗作」について何も語らなかった。
もちろん坂戸も僕も追及したが、はぐらかされてしまった。曰く、「出会って数か月の女の子の個人情報を根掘り葉掘り聞くなんて、良い趣味をお持ちですね」、だそうで。
「盗作」の真意についてはおろか、話せない理由さえも話さないつもりらしかった。一年以上たっている今なら話してくれるだろうか。
回想に夢中になって、話半分にめくっていた単行本を閉じた。ふと時計を見上げると、あれから更に1時間経っていた。ちょうどその真下で、後姿の文子がパソコンの画面とにらめっこしていた。午後五時四十分。三時前ぐらいに情報処理室に入室したので、二時間以上ここに詰めていたことになる。
「……」
そういえば、さっきまでうんうん唸っていた文子が静かだ。代わりにキーボードを打つ音が、二人だけのパソコン室に響く。
やっとアイデアが浮かんだか。
様子を見てみようと、自分の座っているデスクから立ち上がる。せっかく書く気になったのだ。気が散らないようにゆっくりと立ち上がって、少し近づく。数歩下がったところから画面をのぞき込むと、そこには文字と余白のマーブル模様が……。
「うひひ……。ふへひひ……」
「書けよっ!」
「ギャン‼」
スパーンと高い音が文子の気味悪い笑い声を遮る。うん、いい音だ。冴えわたる僕の平手を後頭部に食らった文子は「痛いじゃないですかっ!」と、頭を押さえながら抗議してくる。
「いや書けよ、お前!この一時間何やってたんだよ!」
文子は一度パソコンの画面を見て、なぜかニッコリと僕の顔を見上げる。
「なにって2ちゃんね―」
スパーン。今度は頭頂部。
「だから、痛いですってば!」
文子は大げさに痛がって見せた。僕だって良識のある大学生だ。人の頭を叩くときの加減ぐらいはわかっている。そもそも叩いている時点で―、という指摘はしないでほしい。ため息をつきながら、隣のPCデスクを椅子代わりに腰をへたり込ませた。……良識は無いかもしれない。
「ホントいい加減に書いてくれよな、坂戸に何か言われるのは僕なんだから……」
「我慢してください。それが担当編集のツトメです!」
「……作家ってさぁ、編集者に対してはもっと丁寧に接するものだと思うぞ?」
自分のことを棚に上げて、開き直りを喜々として発言する。入部当初の淑やかさはどこへやら、あの「盗作」騒動のなかで、僕が彼女の担当編集者になってからずっとこの態度である。もっとも、自分から承諾したことだったので自業自得なのかもしれないが。
我が文学研究部には、「担当編集者制度」という、僕の憂鬱の原因となっている決まりがある。これは数代前の部長が『新入部員と現部員のコミュニケーションの場』として、また『他者の考察の取り入れによる作品の質を向上させる手段』として作ったものらしい。「制度」と仰々しく言っているが、専ら読者としての感想と誤字脱字のチェックが主で、実際の編集者のように執筆の際に必要なデータなどの調査はしない。それでも自分の作品を読んでもらえて、感想が上がるだけで、ちょっとした励みにはなるものだ。
それに、読み手側として(人によるが)『担当編集』というポジションには、おいしいところもある。それは作品の“最初の読者”となれること。それが憧れの作家であればなおのこと嬉しいだろう。スランプで落ち込んでいる文子の心に付け込んで、どうこうしようなどとは考えていない。
ともかく、諸々の事情を加味して、我が部の部長―坂戸正也の頼みを快諾したわけなのだが……。
「あ~、暑い!先輩!ジュース買ってきて下さいよ」
「先輩をパシるんじゃない!」
「だって、先輩、私の担当編集ですよ?」
「……そうだけど?」
なんとなく言いたいことはわかっていたが、あえて聞いてみる。文子はアメリカのコメディ並みにわざとらしく肩をすくめて、「わかってないですねぇ」とこれまたこれ見よがしにため息をつく。
「作家のご機嫌取りに貢物をするのも担当のツトメでしょう?」
「そういう職業じゃねぇから!」
偏見だから!多大なる偏見だから‼……いや、一部はそうなのかもしれないけど。
彼女の脳内では、編集業=作家のご機嫌伺のようだ。それでもまともに書ければこちらもちょっとは機嫌を伺ってやる気にもなるが、二時間しっかりかけて十数行なんてのじゃ、そんな気力もわかない。担当して1年4ヵ月と少し。その間に何度か発表の機会があったが、できたことはない。それ以前に最後まで完結させた作品がない。しかし、モノづくりに携わる人間にスランプはつきものだと言うし、百歩譲って小説が書けないのは良しとしよう。
問題はこの我の強さだ。今のような「ジュース買ってきて」なんてものはまだ可愛いもので、この前の休みには、昼頃突然「書けたから見てほしい」と電話がかかってきて慌てて行ってみると、「遅い!」と怒鳴られ、そのうえ「気に入らなかったんで書き直してます」とニ、三行の原稿を見せられたときの、何とも言えない虚脱感を僕は一生忘れないだろう。
「えぇ~!なんでパシらされてくれないんですかぁ~!?」
「ホントにお前後輩か!?」
まだウダウダと絡んでくる文子に「もしかして、僕って作佐部と同学年だったのか?」と自分の認識すら危うくなりかけたところで、5限目終了のチャイムが鳴った。五時五十分。
「うわっ!もうこんな時間か!」
「え?あっ、本当だ」
なんだかんだで十分も話していたようだ。文研の活動開始は六時ちょうど。今いる情報室のある棟から活動拠点である部室棟までは、校舎を一棟挟んで反対側にある。その中を急いで突っ切れば十分以内にはたどり着けるだろう。
慌てて自分の席へ戻り、机の上の単行本を拾い上げる。これも後で読み直さきゃな……。
「おい!何してんだよ、早く行くぞ!」
僕の行動を訝しげに見守っていた文子は、僕から視線を外しパソコンの方を向く。
「良いじゃないですか、別にそんなに急がなくても……。遅れて怒る人がいるわけでもないし」
「僕は五分前じゃないとなんとなく気持ち悪いんだよ」
確かに文研では多少の遅刻にやかましく言うやつは少ないが、こういう基本的なマナーみたいなものを守らないのは気持ち悪い。別に守らなくてもなんとかなる場合もあるが、守らないとすべからくモヤモヤした気分になる。僕の返答に対して、文子は「そうですか」と溜め息をついた。次いで落ち着いた、もっと言えば平坦な声で言った。
「どうしてもと言うのであれば致し方ありません。先に行っていただいて構いませんよ」
どうしてコイツが妥協したかのようなセリフを言っているのかは永遠の謎になるだろうが、それ以上に「先に行け」とはどういうことか。よく意味が分からなくて思わず「はぁ?」と文子に迫った。
「お前だって部員なんだから開始時刻には間に合わせるべきだろう?」
「なに怒ってるんですか?」
「い、いや……。別に怒っちゃないが……」
怪訝そうな顔でこちらを振り向く。こちらが至極まっとうなことを説明しているはずなのに、その目が異様に怖く感じて視線を逸らしてしまう。当の本人はそんなことを意に介していないような澄まし顔で、視線をパソコンへ移した。
「今ならなにか、書けそうな気がするんです。だから先輩は、先に行っていてください」
……また、わがままだ。どうしてコイツは……。
「あ~もう!わかったよ!先に行きゃいいんだろ、行きゃぁよ‼」
なぜこんなにイライラするのか、自分でもまるで分らなかった。しかし「大したことじゃない」とも、どうしても思えなかった。
情報処理室の引き戸を開きながら「その代わり―」と文子に向かって指を突き出す。
「部活には顔出せよな!」
何か負けた気になって、何とはなしに負け惜しみのようになってしまった。文子は画面に顔を向けたままだった。
扉が閉まる直前、「だから、先に行って構わないと言っているのに」と微かに聴こえた。
「遅れました~」
結局部室のドアを開けたのは活動開始から十分後。開けたドアがキィキィと擦りあげるように鳴る。ただでさえ狭い部室に鋭い音が響いた。先に集まっていると思っていた部員は、一人としていなかった。
「おっ!遅かったじゃないか、章」
一人上座に立って自前のノートパソコンに向き合っていた坂戸がこちらを向く。
「……みんなは?」
「もうとっくに散ったよ」
活動の始めには今後に関する連絡があったりするため、基本的に一度集まることになっているが、そのあとは自由に場所を選んで執筆できる。
「あれ?お嬢は?一緒だったんじゃないのか?」
『お嬢』というのは文子のことだ。あのわがままっぷりから坂戸が勝手に呼んでいる。
「ああ……。まだ描き足りないからって言うんで、置いてきた」
「駄目じゃないか、“執事クン”。お嬢様を置いてきちゃあ」
「誰が執事だ!担当編集だ、担当編集!」
キザったらしく、黒がかった紫色の眼鏡をクイと直す。
逆立てた茶髪に切れ長の目。高身長に、いっそ童顔とも言える顔立ちで、見る人間によっては非常に魅力的に映る顔だろう。最近流行りの『チャラ男』なるもののような恰好をしているが、女性経験はないらしい。本人談なので、確証はないが。
「しかし、そうか……。ちょっと連絡しとかなきゃいけないことがあったんだけどな」
「なんだ?」
珍しいこともあるもんだ。初めに集まる意義を忘れてしまうくらい、活動に関する連絡がないのが普段のこの部活なのだが。
「実はな―」
と坂戸が話し出そうとしたとき、また歪んだドアの開く音が響いた。
「お疲れ様です~……。……って」
情報処理室に残っていた文子が申し訳なさそうにドア越しに覗いていた。
「なんだ。お二人しかいないんですか」
「オッス、お嬢!お疲れ~」
部室に僕と坂戸しかいないのを確認すると、しおらしそうな態度から一転して乱暴に扉を開け放ち、持っていた荷物をガサッと床に放り投げる。坂戸はにこやかに手を振るが、僕はさっきのこともあって(なくても)そんな気分になれなかった。どうやらコイツは「盗作」の一件に関わっている僕ら二人には自らのわがままっぷりを隠すのを断念したらしい。しかし、僕と坂戸を除く他の部員、ひいては学部の友人にも相変わらず“天才文学美少女―作佐部文子”の姿で接している。理由は定かではないが、今更明かせないというのが本当のところなのだろう。
「部長。いい加減その呼び方やめてくれませんか?」
「ぴったりな呼び名だろ!?」
グッと親指を立てる坂戸。喰ってかかる文子。
「確かに私の高貴な振る舞いは令嬢のそれと呼ぶにふさわしいものですが、先輩の呼び方にはなにかバカにしたニュアンスで聴こえます!」
「お嬢がそう感じるのは、自分に思うところがあるんじゃないかなぁ?んん~?」
わがままで子供っぽいのもお嬢様のイメージだよな。ググッと歯噛みする文子に対して、坂戸はニヤニヤとしたり顔で対面する。この二人が集まるとこういういざこざが必ず起こるので、大変めんどくさい。まず文子が何かしら火種を持ち込んで、大概坂戸にいなされて反撃できずに撃沈するのが、大体のパターンである。放っておくとまた醜い争いが始まるので、ここらで口を挟むことにする。
「で、連絡事項ってなんだよ?」
「ああ、そういえばそんな話してたな」
坂戸はフレームを触って眼鏡を直すと、数少ないオフェスチェアに座った。それに釣られて僕と文子もパイプ椅子に座る。彼女は「話って、なんのことですか?」と悔しそうに聞いた。
「あと二か月したら学祭あるだろ、学祭」
うちの大学では、大学祭を十一月上旬に開催している。三日間に及び、学生団体が経営する露店が立ち並び、運営委員会の主催で著名なアーテイストのライブコンサートやその他様々な催し物が開催される。我々文研は部員が執筆した小説を短編集と言う形で一冊の本にして販売している。装丁は企業に任せるので結構本格的なつくりだ。
「今年出版するヤツの話か?」
「いや、あれとは別で運営の方が“イベント”を企画しているらしい」
「イベントねぇ……」
どうもしっくりこない。わいわい賑やかなものに、我が部は縁遠い気がする。文子もそう思ったのか、訝しげに首を傾げる。
「聞くところによると、一般参加者を募ってあらかじめ完成した作品をお客に評価してもらって、作家としての優劣を競うんだとさ」
「それって、そもそもお客さん集まるんですか?」
当然の疑問だ。こういった企画はネット上では行われることがあるが、現実で、しかもお祭りの催しの一環としてやるには、絵面が地味すぎる。
素人が執筆した作品を、黙々と読むお客。シーンとした会場。確かに行く気がしない。
「まぁ、そう思うよな。だが、運営の方もそこは考えているらしい」
「考えるって、何を?」
このまま行くと、本学史上最悪の大学祭企画となること必至なこのイベントをどう面白くするというのか。坂戸本人も未だ納得がいってないように話した。
「うちの学長の伝手で出版業界に働きかけて、ベストセラー作家を審査員に招いたり、参加者側として人気のラノベ作家を引っ張ってきたりするみたいだ。そもそもこのアホな企画が通ったのも学長がゴリ押したかららしいぜ?」
坂戸が自分のカバンの中から審査員や参加者の名前が記載された名簿を取り出して、僕に手渡す。なるほど、普段小説を読まない人でも映画のCMや、アニメの原作者として聞いたことのあるような名前が載っている。コネのちからってすげー。「へぇ~!あ、この人も出るんですか!」と、テンションが高い文子が身を乗り出して名簿をのぞき込む。これ見よがしに言ってやった。
「確かに、ミーハーが集まりそうだな」
「む。私がミーハーだというのですか?」
不満そうに文子がこちらを向く。顔が近い。鈍色の大きな双ぼうが僕をとらえている。吸い込まれそうになって、堪らず後ろに椅子を引いた。
「ゆ、有名人が来るってだけで興奮してるんだからミーハーだろう?」
「まぁまぁ」
うーうー唸る文子を制して「で、本題なんだけど……」と坂戸が改めて口を開く。
「これに『二人』で出てほしい」
「いつも通り担当編集と執筆者でってことか……。だけど僕たちが改めて書かなくても、他の短編集用の作品をエントリーしたほうが早くないか?知っての通り、こいつはこれ以上ない遅筆だし、部としての面目を保つんだったら、堅実にエントリーできるほうを選ぶべきだろ?」
「遅筆とか言わないで下さいよ!」
ぎゃあぎゃあ言い出した文子を「いいから、いいから」と坂戸が首根っこをつかんで制した。僕の目を覗き込んだ文子の瞳が焼き付いて、まだ顔も身体も熱かった。坂戸は何が面白いのか、少し口角をあげた。
「俺だって考えなしに言ってるわけじゃないぞ。でも、どうしようもなさそうだ」
文子がほっぽり出した名簿から一枚の紙がはみ出ている。坂戸はそれをするりと抜き取ると、僕に手渡した。イベント要綱。下記日時以内に作品提出を……。テーマは……!
「テーマは『出会いと別れについて』……!?」
「な?無理だろ?」
なんと無駄に高尚な課題を出すのであろうか。いや、そうではない。つまりは“テーマの違い”ということか。
文研のブースで販売する短編集には、全体の雰囲気を整えるため執筆のキーワードとなる主題が設けられている。そのため、部員は自然とそれに沿って執筆することになる。今回のそれは、このイベントに要求されているテーマとあまりにもかけ離れていた。
「ほとんどの連中は進捗が遅いと言ったって、半分ぐらいはできてるし。お嬢だけなんだよな、まだ前半戦なのは」
それほど進んでいるのであれば、方向性を根本から変えるような修正は難しいだろう。
ちなみに短編集の主題は『イカリング』である。
「わ、私がまだ前半戦なのは、あんなふざけた題目のせいでして……。ごめんなさい」
いくら我が強い文子も部員に迷惑をかけていることは自覚しているようで、しおらしい。
「いいよ、いいよ。今回はそれで解決策が生まれたんだからさ」
軽く笑って、頭に手を添えた。黙ってうつむく文子から目を反らしながら、上手くいかなさを感じる。
「章は―お前のことだから出版用の短編は出来てるんだろ?」
「え?あ、ああ。八割方……」
そんなくだらないような、くだらなくないような、嫉妬心とも敗北感ともつかない感覚に打ちひしがれる僕を、坂戸は口元に手を添えて見ていた。
いつの間にか坂戸の隣に座っていた文子が「なっ‼」と顔を上げた。お前が遅すぎるんだよ……。と言っても授業課題の数個を犠牲にした結果なのだが。
「だったらあとはお嬢次第だな。無理強いはしないけど、どうする?」
坂戸が文子に向き直る。……どうでもいいけど僕の予定は聞かないのな。
文子があからさまに体を硬直させる。顔を上げることなく、長い沈黙の、サァサァという耳鳴りが部屋を満たした。
今まで自分の作品を大学祭の展示ブースどころか、一作目以外ほとんど世に出していない文子にとって『締切厳守』なこの依頼を受けることは不安が大きいのだろう。ぶっちゃけ今回の短編集のことも半分(少なくとも三分の一)くらいは「最悪出さなくても怒られないしぃ」ぐらいで考えていたのだろうと思う。かといって今回の件を受けなければ、「遅筆」と言われたうえ、それを棚に上げて依頼を受けなかったと思われるのではないかと、彼女のプライドが許さないのだろう。悩みに悩み抜いて、しかしそうなったときに意地っ張りな彼女がとる選択は一つ。
縮んだバネが跳ね上がるように、身体に入った力で勢いよく頭を上げる。
「やってやろうじゃないですか!」
うるんだ鋭い瞳が、三点リーダーの雨の音を掻き消した。
部室棟を出ると辺りはすっかり夕暮れだった。雑多な街並みがオレンジ色に染め上げられているのを遠くに見ながら、建物の濃い影の中を僕らは歩いていた。隣を歩く文子のマフラーと長く伸びた黒髪が、冷たい風になびいて、今が本格的な冬にほど近いことを感じる。
僕と文子は一緒に裏門から帰路につくことが多い。僕は自宅が近くにあり、文子はその近くの駅を利用して帰るからだ。部員の中では僕らしかこの裏門を使う者はなく、必然的に二人きりの帰り道になる。
「……」
「……」
気まずい。いつもならもう少し会話があるもんなんだが、大学祭のことが響いているな……。自分が大役を任せられてしまったという不安か、それとも自分が遅筆であることで責任をしょいこまされた憤りか。どっちかわからないので―、どっちかどうかもわからないので回想してみる。
あの後、各々好きな場所に散って執筆していた部員たちが部室に帰ってきて、その日の活動は無事お開きとなった。ある者は影のあ る顔で、ある者は談笑しながら、一人、また一人と帰ってくる。文子と僕と坂戸の三人は部室から移動せずに残っていた。文子の筆はいつも通り進まず、うんうん唸ったり、ディスプレイに頭をガンガン打ち付けたりしていた。……が、部員が返ってきてからは、いつも通りの『お嬢様』らしい彼女を演じていた。そんな彼女に向けられる視線もいつも通り、“天才文学美少女”が受けるにふさわしい程度の『好感』と『羨望』と『怨めしさ』を足して三で割ったようなものであった(二十歳で『少女』というのもいかがなもんかとは思う)。皆からは若干距離を置かれているように感じるが、今更そんなところで傷つくような彼女ではないような気がする。
「……まぁ、今回はよかったんじゃないか?結果的にお前の遅筆に救われた形なんだから……」
空を見上げながら、自分にできる最大限のさりげなさで励ましてみる。散々考えた挙句の励ましの言葉が、こんなテンプレでいいのだろうか?
「先輩、なぐさめるの下手ですね」
「……」
案の定、お気に召さなかったらしい。なぐさめて貰いたくなってきた。
遅筆だということについて落ち込んでいたならば、今の発言は不用意だったか?
……というかこのセリフ、坂戸の言っていたことを復唱しただけじゃないか?
変わらず地面を見ている文子を横目に、僕は今一度考える。
部活自体は日々の活動と変わりなく、滞りなく進んだ。文子は部員の前では終始天才であり続けていた。変化と言えば、締めに坂戸から「学祭のイベントは文子が担当する」というのが久しぶりの連絡事項になったということくらい。いつも通りのお淑やかな口調で「承りました」という文子を見ていた部員たちの視線は、好意的な目が半数、懐疑的な目が半数。自分達の所属するグループ全体の評価を左右するような大舞台の主役を、最初の一作以外、まったく表に立っていない人間に演じさせようというのだから、信用してもらうことなど土台無理な話なのだ。毎回アクシデントやらトラブルやらハプニングやら、横文字でなんとか誤魔化しているようだが、今まで見破られないのが不思議でしょうがない。しかしそのグループの半数を魅了するに足る演技を、文子が一作目で示したのも確かだと思う。例えではないが、女優とかのほうが向いているんじゃないだろうか。それか詐欺師。いいや、そんなことはどうでもよくて、だから、つまり、要するに……。
「いいですよ、気を使わなくて」
思考の流れを文子の言葉が遮った。文子はとっくに顔を上げていた。
「え、いや、俺は別に気なんて―」
「大方―、大方私のことで気を回してくれてるんでしょ?先輩、顔に出やすいから……」
お前はいつ僕の顔を見てたんだ。怪訝な顔で前を向く。ニヤニヤしやがって……。
「あ~、目反らしましたね!先輩ハズいんですか?恥ずかしいんですか!?」
「うっさいな!」
「ねぇねぇ!」と煽る文子を一喝する。さっきまでの沈んだ感じが嘘のように目を輝かせながら僕の周りをくるくる回るのはやめろ。それでも文子はひとしきり笑い続ける。もしかして彼女に嵌められたのかと、自分のお人好しさを嘆きかけたところで、笑い疲れた文子が深呼吸して、僕に向き直る。
「でも―心配してくれたんですよね……?」
打って変わって、上目遣いに微笑んだ。卑怯な不意打ちだ。歩みが一瞬止まるほど硬直してしまった僕を見て、またケラケラ笑いだす。
「兄を思い出します」
「お兄さん……?」
咳払いを挟んで聞き返す。すると依然にこやかに、垣間見える影を隠して、彼女は言った。「ええ、もう亡くなったんですけどね。―ああ、気にしなくてもいいですよ。もう何年も前の話なんで……。『作佐部恵人』って脚本家、知ってます?」
「……ごめん、知らない」
情けないことだが、僕は作家についてもあまり詳しくない。脚本家なんてなおさらだ。気に入った作家数人の作品を一通り読んだら、適当に追加で選んで読む読書スタイルだからだろうか。「ふ~ん……。まぁ、そうですよね」と文子は特に感慨もなく適当に相槌を打った。そして、少し笑って、パッと僕の方を振り向いた。
「先輩は、なんで文研に入ったんですか?」
自分から話の腰を折っていくのか。
「唐突に、なんだ?」
「いいから、いいから。教えてください?」
藪から棒に飛んできた質問の回答を考える。その間十数秒。
「要はアレだ、たまたま手に取った本が面白くて『自分もこういうの書きてぇ』って作家を目指して、友達に誘われたから試しに入った」
「……なんか結構考えた割に普通の答えですね」
よくよく考えるとありがちな理由だったので、如何にカッコいい感じに表現するか考えていたのだが、飾ることもできないほどありがちだった。
「そういう作佐部先生には、さぞ立派な入部の理由があるんでしょうねぇ?」
ぐうの音も出ないほど的を得ているが、一応仕返ししておこう。なぜか文子は「良くぞ聞いてくれました!」みたいな憎たらしい顔をする。思えば彼女が突然この話を振ったのは、単に自慢話がしたかったからかもしれない。
「何を隠そう私が作家志望に原因は、兄なんですよ。えっと、先輩は、小さいころ『朝空の元にて』っていう映画、放映してたの覚えてません?あ、全国区じゃなかったから知らない、かな?」
『朝空の元にて』……。幼少の少ない思い出の引き出しをひっくり返して探すが、出てきたのは気怠かった早朝ラジオ体操くらいだ。
「兄のデビュー作で……。そして、最期の作品なんです」
自分の記憶能力のなさをこれほど恨めしく思ったことはなかった。しかし、思い出せたところで僕は、彼女に何か声をかけてやることはできただろうか。彼女は続ける。目を細めたのは、窓ガラスが反射させた陽光の眩しさにではないだろう。
「小さいころから病弱で―、バカみたいに優しくて。自分の身体がツラいのに私の心配ばっかりして。でも、原稿に向かってる兄は、私のこと、周りのこと、全然見えなくなっちゃうんですよ」
裏門から続く一本の坂から、夕焼けの街並みの中に日が沈んで行く。僕たちの歩く対岸にある歩道を小学生らしい二人が駆け抜けていく。何の気なしに「あの頃は良かったなぁ」と考えてしまう。
「勘違いされそうだから先に言っときますけど、別に『お兄ちゃん取られた~!悔し~!』とかそんなんじゃないですよ?自分が苦しいのにあれだけ周りに気を張ってる兄が、唯一自分のことだけ見ることのできる“執筆”ってきっと凄いんだって」
憧れの兄に一歩でも近づきたい。
丘を登る風が彼女のオレンジ色に染まった髪をザワリと巻き上げた。真っ直ぐ前を向く彼女の横顔は、なんだか力強くすら見える。変に心配していた自分が無性に滑稽に思えて小さく笑ってしまう。
「む。天才作家作佐部文子の誕生秘話を鼻で笑うとは!先輩は不届きな人ですね」
「ん?いや、結構前置いた割には普通の理由だと思ってな。僕と一緒で」
本か人か、それだけの違い。そうであるなら、きっと僕にも彼女の気持ちが理解できる。文句を言おうと開きかけた文子の口を、咳払いでふさぐ。
「僕はただの担当編集だからな。お前が、お兄さんを目標にするなら勝手にやってくれ。そのかわり、最大限フォローはさせてもらう。……作佐部先生の遅筆じゃ納期が心配だからな。まぁ、なんだ。―これからも、よろしく」
一瞬目を丸くした文子は、クスリと笑いながら言った。
「こちらこそ、担当さん」
僕たちはまた、二人で歩き出した。
夕焼けに溶けていく憧れの『影』を追って。
「先生……?先生!おい、先生ぇ!!」
「……んあ?」
「寝てんじゃねぇよ、ポンコツ!!」
今日も僕の平手が文子の頭頂部を打つ。パソコン室に冴えわたる炸裂音。今日の天気予報は『一面の雪景色』。寒さで威力は三割増しだ。「いったぁ~」と文子は頭を押さえている。
例のイベントから二か月半。作佐部文子はかろうじて未だ『天才』だった。他大学の文学研究部員や他の一般参加者を押さえて、コンペティションでは堂々の一位を獲得し、そのことで名実ともに“天才文学美少女”の才能が健在であることを校内外へと知らしめた。
……のだが、僕の中では彼女はポンコツのままだ。
「あと一週間無いんだぞ!真面目にやれ!」
「だ、だって書けないもんはしょうがないじゃないですかぁ」
今は学外向けの小冊子に乗せる作品の執筆中だ。今回の一件で名がさらに知れ渡った文子のもとには様々な依頼が舞い込むようになった。直近の例を挙げるなら、大学のPRのためにホームページに一筆くださいというもの。そういう依頼と部活動をかけ持っていながら、最近は執筆スピードが輪をかけて遅い。そして彼女の担当編集である僕は毎回付き合わされるので、結構疲れる。
「……ったくあんなこと言うんじゃなかった」
ぐらりと頭を振って天井を見上げる。
夕焼けの中で語られた兄の思い出。もうずっと遠くに行ってしまった目標をひたむきに追う彼女の姿にほだされて、僕は彼女の担当編集を続けることを決意したのだが、あれから一か月と経っていないのに既に今すぐフリーな一執筆者に戻りたくなりつつある。……流石にそうもできないので、文子が作業するパソコンの画面を後ろから指さす。
「あ、ここは前段落で主人公が告白するんだから、もっとこう―」
「あっ、ちょ、言わないで!言わないでください!」
「いや、流石に展開が厳しすぎるだろ、これは……」
「いいですからっ!先輩は後ろで見ててくれればいいですからぁっ!」
押し返されてしまった。大学祭の一件で分かったことなのだが、文子の弱点は筋立てが下手なところらしい。本人が負けず嫌いで殊更に頑固だからか、以前まで他人(主に僕)のアドバイスなどには「私の仕事ですから」と耳を傾けない文子だった。しかし今回は大きな舞台のため「いろんな人に迷惑がかかるよ?」と丁寧に、丁寧に脅して差し上げたところ、僕のアドバイスをようやく聞いてくれるようになった。助言といっても適当に読みあさった本のストーリー構成の知識や、なんとなく思いついた展開を挙げただけだったのだが、どうやら文子自身しっくり来た部分があったらしくぶ然としながらも、加筆したり、修正したりしていた。結果、イベントから二週間前にはほぼ書き終わり、全体を何度か推敲し直す余裕すらあった。それからというもの、拒否られない範囲でアドバイスするようにしているのだが、今回は失敗してしまったらしい。
「……ここのヒロインの発言は―」
「だぁ~もう!言わないでくださいってば!また盗作になっちゃうじゃないですか!」
振り払われて後ろにたたらを踏む。ん?今、『盗作』って……?
こちらの怪訝な表情をうかがって、自分の失言に気づいたのか文子がハッとして口元を抑えている。そういえば、あの時の『盗作』という言葉の真意を、未だ僕は聞かされていなかった。文子を“天才”足らしめたその最初の作品―そして僕が彼女に憧れる理由となったあの作品を、彼女は『盗作』と表現していた。そして彼女はその『盗作』を、内容からは考えられないほど凄まじい速さで書き上げていた。それはこの数か月で見てきた彼女の様子からは難しいと言わざるを得ない。目を合わせたまま沈黙していると文子から「はぁ~……」とため息が漏れた。
「……入部の時に見せた作品は、ホントは兄の脚本なんです。あまり仕事のことを話したがらない人で……。だから兄が亡くなってから、遺された世に出なかった脚本を読みこんだりしていたんです」
文子はこちらを直視しながらも、膝の上で両手をギュッと握りこんでいた。兄の作品をキッカケに、自らも病弱な兄を突き動かした「なにか」を追い求める文子。何度も何度も繰り返し、兄の脚本を読み返したことだろう。
「体験入部の時、「なにか書いてみよう」って言われて……、なにも思いつかなくて。それでその……、よく覚えていた兄の脚本の一つを文章に起こしたんです。周りにはなんか負けたくないっていうか、なんというか―」
後ろ頭を掻きながら「あ~あ、カッコ悪いから言いたくなかったんだけどなぁ……」とテレテレと笑う。しかしすぐに僕から目線を外して、
「でも、そのあとずっと後悔してます。私の作品って、全部『盗作』になっちゃうんじゃないかって……」
と俯いた。
窓の外では大粒の雪が降り落ちている。こんな日に遠くの誰かの足跡を追えば、行く先は埋もれて見えなくなってしまうだろうし、来た道を振り返ればそれがその誰かの足跡なのか、それとも自分自身のものなのか、きっと区別がつかなくなってしまうだろう。そんな時隣で、ともに歩いてくれる人がいれば―。
「……勘違いしているようだが、僕の言ったアイデアは全部、作風に合わなそうだから見送ったものばかりだぞ?え~と、だから、盗作だとかなんだとかはそもそも成立しないというか……。」
「ふぇ……?」
文子が顔を上げた勢いで目の端についた涙が落ちた。
「僕が創れなかった世界を作品にしてくれませんか、文子先生……?」
今度はこっちが頭を掻く番だった。「あ~、ほらほら、締め切り間に合わないからちゃっちゃと書く書く!」と回転イスの背もたれを回して、文子をパソコンの方へ向かせた。
「やっぱ先輩、元気づけるの下手です」
憎たらしい笑い声が聞こえた。
風香
青春っぽい作品が書きたくなりまして、書いてみました。
この作品は連載物で、とある発行物に載せていただいたものを、こちらにも載せさせていただきました。
ちょいちょい更新していきます。ゆっくり待って行ってね!