粗熱
駅から近くないマンションの四階で、一番隅の部屋のベランダの手すりにもたれ掛かりすながらじっと月を眺めていた。
シャワーを浴びてからどれほど時間が経ったのかわからないけれど、夏の夜の風は粗熱を冷ますかのように私の火照った身体を撫でていく。自分の短くも長くもない髪の毛に触れると、少しだけ濡れた髪は夜風にさらされひんやりと冷たくなっていた。
「寂しい」とだけ打ったメッセージに返信はなく、テーブルに置いた現代の四角い文明の機器は外からの電波を受信することもなく、一度も光らないままだった。わかっていたつもりでも返信を期待していた自分に小さくため息をついてしまう。
目を細めて月を見上げる。月が雲に隠れたりまた現れたりする様を眺めながら、明日の授業のことや今月の光熱費のことを考えるのだが、どうにもうまく思考が繋がらなくて視線を月から逸らすのだった。
することがなくなり、たまたま目に入った誰の姿もない横断歩道の白線を数えてみる。五つまで数えたときに、奥の玄関から物音がした。鍵が差し込まれる音が狭い部屋に響くのを聞きながら、私はゆっくり瞬きをする。扉が開いて、人が部屋に入ってくる様を私は振り返ってじっと見る。
「起きてたんだ。」
首を傾げながら、相手に声を掛けた。相手はこちらには目もくれずに台所まで足を伸ばし、冷蔵庫に手を掛ける。
「アルコールは。」
相手は、視線は冷蔵庫の中から外さずに少し低い声の問いがこちらに飛んできた。
「ない。…アイスならある、一個取って。」
「ん。」
静かに手渡されたアイスはひんやりと冷たく、少し手に痛いほどであった。
「夜が寂しいなら恋人でもなんでも作ればいいのに。」
叱っているような言葉とは裏腹に、相手の表情に怒っているような風はなく、声色はほんの少しだけ楽しそうでもあり、そんな彼女を見ていると私まで楽しくなってくるのだった。
「私は小春が好きだもん。」
「はいはい。」
私の予想通り、私のことなど心底どうでもいいといった様子の彼女は私の言葉を軽くあしらってアイスの最後のひとかけらを口に含むと満足げに目を閉じた。
私が「寂しい」とメッセージを送っても、私が彼女のことをどれほど好きでも、彼女はそんなことなんてどうでもよくて、アルコールとアイスと少しの眠りのために私の部屋に来るのだった。
眠れない彼女は、夜を一緒に過ごす相手をいつだって探していた。一番恋人でもなんでも作ったらいいのは自分だろうと言い返したくなるのだけど、私は私が彼女に必要とされるのがなんだか心地よくてこの生活を抜け出せないままなのだった。私が彼女のことを好きなだけでいられるこの生活が、私にとっての幸せであったのだ。
彼女が布団に寝転ぶのを見て、私は網戸を閉めて彼女の傍に座る。
「寝れそう?」
首を傾げて相手を見やり、小声でそう問うと、彼女はうっすら目を開いて全然、と呟いた。そっか、と小さく相槌を返し、彼女の髪に人差し指で軽く触れる。平生の彼女であればきっと最も嫌がる行為であっても、私の部屋の、私の布団に寝転ぶ彼女はそんなことなど気にならないようだった。
彼女の頭を撫でていると彼女の瞼はいつの間にか閉じていた。網戸から入り込む夏の夜風は私の首筋を擽り、夜闇に消えていった。
余計なもののない寝顔、彼女の寝顔はいつだって綺麗で、愛しさを感じると同時に心苦しさも感じるのだった。
穏やかな寝息を立てる彼女の手に触れると、彼女の肌はとても冷たく、けれどその分彼女の手が温められているのだと思うと私は少しだけ満足した。
私はすべてをわかっていた。私が目の前にいる一人の女性のことを好きでいられるのは今だけだと、理解していた。彼女の生活に私の生活が交わっていられるのも今だけだと、理解していた。
だから余計に彼女のことを大事に思っていた。いつか彼女は必ず私から離れていく。そうしたら私はどうするんだろう。少しだけ瞼が熱くなるのを感じて、そこで思考をやめにした。彼女は穏やかに眠っていた。
綺麗すぎる彼女の寝顔の横に寝転がり、規則的なリズムで上下する彼女の身体を眺めているうちに、私も静かな眠りに落ちた。
暑い夏の夜、私たちは一緒だった。
粗熱
いつだってそばにいたかった