忘れ物

 目の前にいる男を殺したことだけは憶えていた。けれども、それが、昨日だったのか、一昨日だったのか、もしく、五年先、十年先のことだったのか、確かな記憶についてだけは、まったく思い出せなかった。四月の山手線の車内は空いていて、わたしは椅子に座り、男は吊革につかまって、携帯式の音楽再生機で、何か祈るようにして音楽を聴いていた。長めの色素の薄い茶色い前髪がガラス窓を通り抜けて射し込む光に揺れて、時折、眠たそうな眼を細めながら、男はあくびを繰り返した。

 十七、八歳の男の肌は曇りがなくて、合成樹脂のパーカーにストールを巻いた躰はほっそりとしていて、どことなく頼りなかった。どうして、こんな真昼に、山手線渋谷品川方面の電車内でこの男と会ってしまったのだろう、ほかの客がいなくて、椅子も潤沢に空いているにもかかわらず、わたしの前の吊革に掴まったのは、怨みでもあるのだろうかと、わたしは少しだけ不機嫌になった。音楽がはじけ飛ぶように漏れてきて、どこか人を馬鹿にしたようなリズムが響いた。わたしは、リップクリームを取りだして唇につけてから、舌の先で自分の口の中に触れた。徹夜続きで、昨日からできた口内炎が痛かった。がたんごとんと響く列車の揺れは心地よく、わたしはうとうとしそうになったが、緊張感だけは持続していた。

 ごそごそとショルダーバッグの中の整理をしていると、「新宿、新宿」というアナウンスが聞こえて、わたしは恐る恐る顔を上げた。目の前の男が新宿駅で降りることを願っていたが、男は相変わらず音楽を聴いているようで、少しだけリズムをとりながら、控えめに肩を揺らしていた。新宿からは案外多くの客が乗ってきて、わたしは七人掛け座掛けの端っこに座っていたのだが、それでもまだぎりぎりまで躰を縮めた。席はすべて埋まり、これでこの男がどこか空いた席に座る理由もなくなった。代々木、原宿と、終着地の渋谷までのどこかの駅に着くまでの間、わたしの前の吊革に掴まっていることは確実になった。殺した時の手触りや、魂が漏れ出す時の我慢できない臭いだけは憶えているのに、彼が誰だったのかということだけをわたしはすぐには思い出せなかった。

 代々木駅に着いた頃、品川で信号機の事故が起こったというアナウンスが響いた。目の前の男はあどけない顔を少し曇らせて、チッと短く舌打ちをしたが、その後は、うつむいて目をつむってしまった。代々木駅で五分待ち合わせをしている間に、わたしは、今日の会議用の書類を取りだして眼を通した。企画会議とは名ばかりで、もうあらかじめ決まっている内容を読み上げに行くようなものだった。それでも、わたしがはじめて企画した商品がもうすぐ実際に店頭に並ぶことになりそうなのはうれしいことだった。

「まもなく列車が動き出します」

 運転手が独特のアクセントでそういうと、本当にまもなく列車は動きはじめた。わたしは書類の最初の一行を読んだだけで、後は頭に入ってこなかった。どうせ、渋谷まではすぐに着くはずだった。わたしは書類に眼を通すふりをしていたかった。こんなにちゃんと仕事をしていますよ、こうしてちゃんと働いていることで、あなたを殺したことを許してもらえますか、そういいたかった。けれども、男は目をつむったまま、陽差しの中で幸せそうに半分眠ったように吊革に掴まっているばかりだった。原宿駅に差しかかり、列車が停車しようとした。男は眼を開けて、身支度というほどでもないが、背負っていたリュックをずりあげて、襟首の角度を整えた。もう一度男があくびをした時、彼の目尻からはうっすらとした涙があふれ出た。わたしは、書類をショルダーバッグの中の使い古したファイルに戻してから、落ち着かない気分で、わたしが殺した男が原宿駅に降りようと準備する様子を見つめていた。

 列車が完全に停止すると、吊革につかまっていた男の躰が前のめりになって、わたしの顔の近くに、彼の痩せたお腹の辺りが迫ってきた。彼がつけている甘い香水の匂いがして、わたしは、確かにこれは懐かしいなと思った。その瞬間、男は、わたしのことをじっと見つめて、小さくてなだらかな声で、囁くようにつぶやいた。

「憶えていてくれたんですね」

 思いがけない言葉に驚きながら、わたしは、「原宿、原宿」というかすれたアナウンスの声を聞いていた。彼に返事をすることもできず、わたしは、心の中で、憶えていましたとだけ答えた。彼は原宿駅で降り、わたしは彼の姿を硝子窓越しに追い続けた。扉が閉まり、列車は今にも動き出そうとしていた。原宿駅の混みあったホームの上に降りた彼の背中は、真っ直ぐで、清潔な感じがした。わたしはそのまま立ち上がって追いかけてゆくべきだったのだということに、扉が閉まってから気がついた。だから、彼が、一瞬ふり向いてこちらを見た時に、わたしは驚いた。彼は、わたしに微笑みかけて、口の動きだけで、「ファイト!」と叫んだ。
 一瞬、心臓がどくんと高鳴って、お腹がきゅんと痛んだ。彼は、そのまま、音楽が流れるようにして人波に紛れ、すぐに背中は見えなくなった。山手線は走り出し、陽差しは照りつけていた。わたしは、抑えきれず、ぼろぼろと涙を流しながら、殺してしまってすみません、だけど、あなたがいると、わたしは、不安だったんですと、心の中で繰り返し叫んだ。隣に座っていた、年配の女の人がわたしがぼろぼろ泣いているのを見かねたようにして、ハンカチを渡してくれた。渋谷駅に入って、列車内にアナウンスが鳴り響いた頃、わたしははじめて、彼のことを本当に思い出した。あの人、わたしの同級生だった男の子だ。いじめられて死んだ男の子だ。高校の教室の窮屈な空間で彼が同級生の男の子に蹴られている場面が蘇った。あの子の顔、とても美しくて、そして、遠かった。わたしはもう、まわりが見えないくらい涙でべとべとした頬を手の甲で拭った。無数の警告音や車掌の声が響いていたが、どんな音もわたしの耳には入ってこなかった。

「ファイト!」

 原宿駅で彼がいったその言葉だけが耳には響いて、どこまでも広がる海のようにわたしのもとへと押し寄せた。発車のベルが鳴りはじめて、わたしは、急いでショルダーバッグを抱え、列車から外に飛び出した。ハイヒールの踵が音を立てて、わたしは、隣の席に座っていた女の人のハンカチを握りしめたまま列車から飛び出したことに気がついた。わたしは、そのハンカチを握りしめたまま、宮益坂へと続く出口へと向かい歩きはじめた。列車が走り出して、つむじ風が起こった。わたしの頬はひりひりと痛んだ。

忘れ物

忘れ物

はじめて大きな仕事に着手した「わたし」は、山手線で渋谷まで急いでいる途中、昔殺したことがある男と出会う。「わたし」は、いつどこで殺したのかは思い出せないが、その男の子を殺したことだけを憶えている。やがて、列車は原宿駅に到着し、男の子は電車を降りる。その時、「わたし」は、彼が、昔のクラスメートで、いじめにあっていたことを思い出す。彼がいじめに会っている場面を傍観していた「わたし」に向かって、懐かしい男の子は、意外な言葉を残して、人ごみの中に消えていく。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted