雪猫
はらり、はらりと桜の散る頃に、仔猫はこの世を旅立った。仔猫の飼い主であった少女はその屍を庭の片隅に、丁寧に、大切に埋めてやったが、仔猫の魂は、その時にはもう、遠く冷えた遥かな空へと透き通っていた。
仔猫の魂は、風よりも、空の青よりも速く、真っ直ぐに天を走った。誰にも見えなかった。そっと触れてくるもの、鳥の羽根だとか、雨粒になる前の、ほんの小さな霧の一粒だとかだけが、その魂の軌跡を知ることができた。
しゃがみこんだ少女が仔猫の墓に手を合わせ、ゆっくりと立ち上がって、涙をぬぐい、スカートについた土埃をサッと払って、やや躊躇いがちに歩き始めて、初めて、仔猫の魂はわずかだけ、哀しいような気持ちをよぎらせた。
哀しい。
恋しい。
寂しい。
愛しい……。
魂はそれから少しだけ、薄い雲の中で雨を浴びて湿っていった。
桜の時期の空は、明るかった。日は静かに、小ぶりのダイヤモンドみたいに輝いていた。
「まだまだ寒いんだって……」
誰か、あるいは人ではないかもしれない何かが、どこかでこっそりと噂していた。仔猫の魂はそれを耳にして、それでもまだ、空を突き抜けて駆けた。
空のもっと高いところでは、氷の子供たちが楽しく、ちまちまと遊んでいた。氷は小さい頃は本当に可愛らしいもので、まだ何にも知らなくて、ただ塊になることだけが嬉しく、ただただ、宙に浮かんでいるだけで、とても幸せなのだった。
そうしたものが徐々に大きくなるにつれて、ふいに、カラカラッと壊れていくのは、悲劇と呼ぶにはあまりに些細なことではある。けれども、世界にとっては、それが心から痛ましいことであるのには変わりがなかった。
小さくて軽いもの、は、
何の役にも、立たないもの。
誰の魂も、そんなことは全く思いもしていない。仔猫の魂もまた、氷たちのことなどちっとも気付かずに、するすると翔け昇っていった。
空は泣きそうなほど青かった。風はたくさんの氷の子供たちを乗せて、銀色に光りながら過ぎ去っていった。
地上に吹き下ろす風は野原一面に広がる菜の花畑に、思いきり体当たりした。そうして咲き並んだ黄色が一斉にそよぐ様を、畑沿いの河川敷を歩いていた少女が見つめていた。
一羽の鶯が、鳴いた。その声は儚くも高く響き、宙に漂う、ありとあらゆるものの心を、ふるると震わせた。
丁度同じ時、目に見えないものたちは縷々と歌っていた。
氷と水の狭間で。
風の立った後で。
魂の溶けた、残り香として。
彼らは小声で幾重にも重なりながら、自然と和して歌を紡いだ。
仔猫の魂はそんな歌の中を通り抜けていった。一度、いつだったかに少女が自分の首に結びつけた鈴の音が、ちりりん、と小さく聞こえた気がした。
抜き足、差し足、忍び足…………。
まだ身体が温かかった頃に、仔猫はよく似た歌を聞きながら歩いていたことを、覚えている。
柔い足と、冷たいアスファルト。柔い足と、濡れたアスファルト。柔い足と、凍ったアスファルト。
交互に繰り返される淡々とした印象の連続が、次第に仔猫を虚ろなミルク色の靄の世界から、くっきりと色の分かれた四角い世界へと、連れて行ってくれたものだった。
仔猫は、簡単に壊れるものであれば、どんなものでも好きだった。例えば縁側に掛かったクモの巣だとか、網戸だとか、少女のふっくらとしたぬいぐるみだとか。中でも仔猫は少女の家の、湿気った、古臭い畳が特に気に入っていた。爪で引っ掻くとポロポロと崩れる枯れた草たちが、なぜか無性に、面白かった。
壊れるって面白い。
理由は、心の昂りだけで、十分。
仔猫はそう考える。
それにしても、壊されるということは、自ずから壊れていくことと、何が違うのだろう。
仔猫にはもちろん、そんなことはわからない。考えもしない。それを思うようなものになるためには、魂はまた別の道を、それも、長く仄暗い、ろくでもない道のりを、経なければならない。
少女の家の、畳の部屋の振り子時計が、ゴォーン、と低く、誰もいない部屋の空気を怯えさせた。しばらくすると部屋中にすさまじい静寂が押し寄せてくるのだが、こういう間には、大抵何かが忍び込んできている。
ただしそれに気付くものは、まず、いない。
仔猫の魂はふと空を行く足を緩めて立ち止まった。そしてその場で今まで来た方を振り返り、何もいないことを確認した。
……妙な虚しさが纏わりついていた。空っぽの餌箱や、乾き切った井戸のような、どうしようもないやるせなさが、辺りに漂っていた。
一体いかにして迷い込んできたものか、桜の花びらが一片、仔猫の魂の傍を掠めて失せた。
何かが近くにいる感じがした。
声もなく。
さらに、風もなく。
青だけが、いつの間にか、魂と共に空間に置いてけぼりにされていた。
少女の懐かしい声が宙に反響していた。どうやらまた泣いているらしいということが、それとなく察せられた。そして同時にその泣き声が、忘却を誘う響きのこもったものであるということも、魂には知れた。
時空を超えたどこかで、いまだ元気いっぱいの仔猫の無邪気な足音が、綺羅と実った氷の結晶を、パリパリと踏み壊していく。
「にゃあ」
仔猫の魂は、その時、一度だけ、鳴いた。
透明になった命の溶けて行く様は、限りなく細い雨糸が無限の並行の果てでつと交わり、ほろりと解けて行く幻想を、大気の内に散らせた。
やがて空から地へ、底の抜けた砂時計が、永遠の時を流れさせた。
思えば振り子時計の往復も、仔猫にとっては、これと同じ意味を物語っていた。
世界はいつもひっそりと秘密を守っているものだよ、と誰か、仔猫に耳打ちするものがあった。しかし夢中で結晶を踏んでいた仔猫が後ろを振り向いた時、そこにはすでに、誰も立ってはいなかった。
誰かは、またどこかの静寂へと潜みに行ったのだ。
冷たい風が地上に吹き始めた。桜吹雪が灰色がかってきた空へ優雅に舞い上がり、桜の木の根元に集まっていた人々は、皆揃って上着の襟を内側に寄せた。
仔猫の魂は、段々と鈍く、先細って行く感覚の終わりに、微かな重みを感じた。温かな誰かの手のひらの感覚が、最後まで残った。
軽い、軽い小っちゃな雪が、桜の花びらに混じって大地に下りてきたのは、それからほんのすぐ後の出来事だった。
了
雪猫