カイルの旗
この冬、パレードの先頭で旗を持つ役はカイルに決まった。つまり卒業試験は、彼がトップだったということだ。そして二番だった僕には、上空からフライトバイクでパレードの写真を撮るという役目が与えられた。だがそれは僕が二番だったためではなく、ただ僕がバイク乗りだったから。
少し残念ではあったけれど、僕は自分に振られた仕事に魅力を感じもした。僕はバイクが大好きだったし、それに、祭の日に街の空を走れるなんて、こんな機会でもなければ滅多にないことだ。惹かれないはずはなかった。
カイルはやや緊張した面持ちで届いたメールに見入っていた。一緒にいた僕は彼の顔を覗きこんで、
「やったな」
と、小さく力強く声を掛けた。カイルは彼の癖の、ちょっと口の端を噛むような動作のついでにこちらをチラと見やると、ふっ、とはにかんだ笑顔を見せて、答えた。
「ありがとう」
僕は彼のその笑顔をこれから先、いつまでも覚えているだろうと予感した。カイルの笑顔はそれぐらい鮮やかで、どこか漫画の絵みたいにくっきりとしていた。カイルは、本当は僕より三つも年上なのだけれど、こうしているとそんなことは全く気にならず、むしろ僕よりか幼いのではとさえ思われた。
カイルは真ん丸な眼鏡の下の、人懐っこい大きなブラウンの目を二、三度瞬かせて、再び向こうにある灰色の空を見上げた。僕は彼の冷静な横顔を眺めながら、ふと気になったことを尋ねた。
「カイル、帝都(セントラル)に行くのか?」
帝都はこの街から遠く、二〇〇キロ離れた国の都だ。カイルは振り向かなかった。僕は黙って答えを待っていた。カイルの赤っぽい巻き毛がひんやりと湿った風に揺らされていて、それを見ながら、今日は雪が降るかなとか、ぼんやり考えていた。
カイルは降り出した雪の、最初の一片みたいにふわりと呟いた。
「……行けない、だろうな」
僕はその一瞬の静けさに、ひしと打ちのめされた。僕はかろうじて「そう」とだけ言って、それから、みっともなくはしゃいだ調子で続けた。
「大丈夫さ。今年も、平気だったんだからさ」
わずかに振り返ったカイルは少し笑って、何も言わなかった。彼はただ落ち着いた、答えの代わりを十分に務める眼差しを、僕にじっと向けているだけだった。その視線を伸ばした先には、もう一人、透明な本物の僕がいるかのようだった。
僕はカイルの、多分、一番親しい友達だった。だからこそかえって、とてもそれ以上のことは喋れなかった。どんな慰めも、正直も、言葉になるより前に淡雪みたいに溶けてしまった。カイルもきっと僕と同じだった。僕らはお互いの呼吸の間隔……吐く息の白さでわかる……が微妙に、如何ともしがたい時間差でずれていくのを静かに観察していた。
寒いから早く帰ろうと、僕はやがてしょげて言った。カイルは頷きながら、「ああ」と一言、柔らかな口調で返事した。
それから僕らは、一緒に過ごせる、おそらく最後になるであろうパレードについて、空々しいぐらい普段通りに会話した。僕はずっと仕事のために使うバイクの話をしていた。カイルは流体道路についての、小難しい薀蓄(だって、力学の話だけに留まらず、道路敷設の歴史の話まで含めて来るのだから)を展開していた。傍からみたらまるで噛み合っていなかっただろうけれど、僕らは幼い頃からこういう風にして、言葉にできない色んなことをぼんやりと伝え合ってきたのだった。
家に帰った僕はストーブに当たるより前に、ガレージに出た。そこには同居している叔父自慢の、真っ赤なヴィンテージカーがずんぐりと蹲っている。凄まじいことにコイツは、アスファルトの上しか走ることが出来ない。だが、僕の目当ては今日はこれではなかった。僕はこの新車のせいで端に追いやられてしまった、自分の相棒のバイクに用があった。
このところ試験続きで全く乗れていなかったのだが、ようやく結果も出て、走らせてやれる機会がやってきた。写真係に任命された以上はパレードまでに安定した走りの勘を取り戻さなくてはならなかったし、それに何より、僕は加速度に伴う、あの何とも言えない高揚感を一刻も早く身に感じたくてうずうずしていた。もし天候さえよければ今夜にでも繰り出したかったのだが、帰り道がてらに調べてみた限りでは、やはり今晩の天気は思わしくないらしかった。そのために僕は仕方なく、機体の整備だけでもしようと考えたのだった。
フライトバイクは、フライトとは名の付くものの、風を掴んで浮かび上がるような類の乗り物ではない。都市の上空に設置された流体道路上を行くための、水上バイクならぬ風粒子上バイクだ。形はどことなく水中を滑るペンギンに似ている。機体は大概、頑丈で軽い炭素繊維強化プラスチックでできていて、機体下部に設置された吸気口から、流体道路の風粒子を機体内部に取り込んで推力を得て走る。
整備とは言ったけれど、実際のところ、天候に合わせて調整が必要なのは、道路の方だ。僕たちバイク乗りはその道路のコンディションに合わせて己の気を張り、機体を走らせるだけ。だから僕がバイクに施したことは、ミラーに付着した埃を取ったり、計器類のスイッチをオンにしたりオフにしたりして、簡単な動作確認をしてみることだけだった。(もちろん内臓ポンプを動かすエンジンのチェックも入念に行ったけれど、つい最近、検査に通したばかりということもあって、新たに手を入れるべき箇所はありそうもなかった)
コンプレッサーのブレード角と、計器類の最終的な調節(主に気圧データの設定)は、明日の天気に合わせてやる必要がある。僕は機体をこれでもかとピカピカに磨き上げた後、早くもやることがなくなり、冷え切ったガレージの床に座り込んだ。
しばらく機体側部の流線型に見惚れてぼうっとしていると、ふいに、激しいノック音がガレージと僕の鼓膜を震わした。驚いて音のした方、突如として開かれた家の戸を見ると、そこには眉間を険しくした、僕の母が立っていた。
「やっぱりここにいたわね。ジェイク、試験の結果はどうだったの?」
押し殺したような母の声に、僕はあえて事もなげにさらりと答えた。
「まぁまぁ。悪くなかったよ」
「何番だったの?」
「……二」
母は溜息をついて、世界の作り方に失敗したと気付いた神様が匙を投げる時、きっとこんな風に独りごつだろうなって風に、言い捨てた。
「ふん。結局、旗手にはなれなかったのね」
言うなり彼女は身を翻して、家の奥へ立ち去って行った。僕は本当はもう寒くて家に戻りたかったのだけれど、彼女の声を聞いたせいで、意地でも立ち上がりたくなくなった。
母は僕を心底応援していたのだ。それは一応、わかっている。母は僕が一番になって、今は亡き父と同じ、帝国(I)理工(A)学校(T)に推薦してもらえるようにと願っていた。卒業試験の成績最優秀者だけがその栄誉に与るという、学校の伝統である。例え一番の者が進学の権利を放棄したとしても、二番にお鉢が回って来ることはない。つまり僕はもう、地元の学校に進学するしかないということだ。母は、多分、僕以上に僕のことを悔しく感じたからこそ、あのように言ったのだろう。そして信じ難いことに、あの言い様で彼女に悪気は全くない。長い付き合いだからこそわかるのだけれど、母はむしろ、僕を慰めに来たのだ。あえて僕を怒らせて、茶化して、それで自分の希望ごと今日の内に全部お終いにしたかったのだ。
だが今の僕には、そうしたあまり愉快でない彼女流のやり方を受け流せる余裕は、ありはしなかった。まだ帰り際のカイルの言葉が頭から離れていなくて、そのせいで無性に、ああいうひねくれた自分勝手な態度に腹が立った。
僕は持っていた端末で都市部の交通情報サイトにアクセスすると、天候と道路の状況を手早く調べ上げた。どうやら道のコンディションは、予想していたよりもずっと悪くない。
すっくと立ち上がった僕はそのままバイクに組みついて、早速最終調節を開始した。端末からデータを機体にリンクさせ、はじき出された数値に従ってブレードを合わせ、いくらか吸気口をいじった。鳴りかけた警告アラームは反射神経をフルに生かして黙らせてやった。普段ならこんなことはしないのだけれど、今は思いきり速度を出したい気分で、相棒といえども、邪魔されたくはなかった。
燃料は十分。ゴーグルの方の充電も、すでにすっかり済ませてある。僕は身支度を終えてハンドルに手を掛け、ガレージをコントロールしているAIにシャッターを開けるよう呼びかけた。するとたちまち素直なコンピュータが僕の前に夜の住宅街の荒涼とした世界を広げてくれた。
外はこんこんと降りしきるボタ雪で、白い緞帳みたいに一面覆い尽くされていた。僕はその光景に思わず怯みつつも、ゴーグルを力強く引き下げて、バイクに跨った。機体に完全に体重を乗せると、馴染んだ感覚が身体中に染み渡ってくる。地上の道路をタイヤが転がる不器用な振動と、温まりきらない、鈍い加速。じわじわと気が昂っていった。速度と共に生じてくる、重い、という体感が、かえって僕の意識をさぁっと速やかに空へと向かわせる。AIの起動音で気付いたのか、何か家の方から叫び声が聞こえてきた。しかし家の前の通りを走ってすぐの流体道路と合流し、走行モードを地上滑走からフライトに切り替え、上昇線に乗って、雪の渦巻く中を、地上百七十フィートまで浮き上がるにつれて、あっという間に、すべては風と重力の彼方へと掻き消されていった。
僕はするするとライトアップされた幹線道路を辿りながら、しばし無心になって走りに集中した。往来のまばらな片側三車線の道路は、昼間とはうって変わって、何だか妙に深閑として感じられた。僕以外のバイクは一台も走っていなかった。
視界は悪くとも、異様な寒ささえなければむしろ、快適なドライブだった。僕は真っ暗闇にぷつぷつと浮かび上がる人家の灯りを見下ろしつつ、風に紛れて、フッと短く溜息をついた。昔、こんな夜に耳当てを忘れて走り出して、ひどい凍傷を負ったことがあった。あの頃はまだほんの初心者で、色んな迂闊な失敗をしたものだった。もちろん今もバイク乗りとしてはひよっこではあるけれど、あの頃はもっともっと生まれたてで、ほとんど目も見えていないような状態だった。
雛の僕はどんな道もそろそろとゆっくり走ってきた。事故を起こさないように。道から外れないように。相手とぶつからないように。そうした不器用な気遣いがむしろ危険な行為だったってわかるようになったのは、つい最近のことだ。
走るということは、実はこのバイクではなく、道によって成り立っていると今の僕は思っている。この場合の道というのは流体道路のことではなくて、どちらかと言えば、交通によって生じる流れのこと。周囲の環境があればこそ、走るという状態が生まれる。自分独りで走っているように感じたとしても、それは実際のところ、見えない大きな枠組みの中を走っているに過ぎない。
僕はまだレースには出たことがないから(年齢制限をクリアするためには、まだあと三年も待つ必要がある!)サーキットのことはよくわからないけれど、きっとこの道と共通する部分も少しはあるのだろう。競争するというのは何より、誰かと一緒に走るということだ。もちろん孤独に走る側面は存在するのだろうけれど、それだけに、自分が今、どこをどのような状態で走っているか、正確に把握しておかなければならないに違いない。道を作り出すものの一つの要素として自分を蔑ろにはできない。でもそれと同じぐらいに、僕の外には大切なものがたくさんある。
今の自分に言えることではないと、思うけれど。
僕は正直、今自分がどこへ向かって走っているのかわかっていなかった。正面から頬に叩き付けてくる雪片の冷たい痛みも今はもうすっかり感じなくなっていた。時々強まる横風に合わせて体重をちょくちょく移動させるけれども、それも最早、惰性でやっているという感じだった。楽しいかと聞かれれば一応は頷くと思う。速度は一二〇前後、この天候にしては既に結構出していた。僕は幹線道路を外れて、アップダウンとカーブの激しい広域農道方面に向かって走っていった。
農道を抜ければ海に出る。だが海には何もない。僕はそこまで考えて、ふと、その何もない浜辺こそが、自分の目的地であるらしいと気が付いた。
ゴーグル上にスピード超過を知らせるアイコンがせわしく点滅している。僕はそれを無視して、むしろさらにパワーを足して上昇に入った。山林地帯に沿う螺旋軌道に乗って、街を脱出する。眼下には田園地帯が広がっているはずだが何も見えなかった。
いつだったか、この同じ道を通って、あの浜辺にカイルと出掛けた日があったことを僕は思い出した。今はもう処分されてしまった、父のクラシックな二人乗り用のバイクで、僕がカイルを後ろに乗せて走って行ったのだ。あの時はカイルがぎゃあぎゃあ騒いでしょうがなかった。カイルは、怖い、高い、速い、下ろせと何度も言うくせに、いざ脇に寄せてホバリングさせると、こんなところで止まってどうする、早く行けと文句を言うのだった。結局僕らは、呆れるほど鈍い速度で(それはそれで、高さがかえって気になるとこぼされたが)、農道を進んだ。夏で、暑くて、やたらに晴れている日だった。鋭い日差しが剥き出しの僕の腕をじりじりと焼いていて、青白かったカイルは、すでに痛ましいぐらい真っ赤になっていた。
遠くで、灯台の緑色の光がキラリと輝くのが見えた。僕は身体をやや前傾させて、降下の姿勢を取った。ロード上から、冷えて少し重くなった粒子が一気に吸気口に流れ込んできた。同時に速度がぐっと増す。僕は機首を少し上げて加速を抑えた。「この先急カーブ」という派手な文字がロードの端に表示されており、僕はその手前辺りから、滑らないギリギリを狙って身体を右に倒し、再び身体を起こした。首尾は上々、続く反対向きのカーブも快調にやり過ごす。流氷の海の中を自在に貫く海鳥の気分。もしカイルが乗っていたなら、卒倒したかもしれない。
そのまま農家上空の直線道路を景気よく飛ばしていると、ほどなくして、向かいから僕よりも年上の連中が数台ほどの列になってやって来た。彼らは恐ろしい大音量で、攻撃的な音楽を特設スピーカーから撒き散らしていた。そのうちの一人が擦れ違いざまに僕に何か声を投げてきたが、彼ら自身の音のせいで、もちろん聞き取れはしなかった。
そうして僕とカイルは、馬鹿みたいに時間をかけて、無事に浜辺まで辿り着いた。そこで僕らは夏の間だけやっていると思しき、老人が一人で切り盛りする侘しげな露店に寄って、レモネードを買った。その氷だらけの甘酸っぱいレモネードは、僕が人生で飲んだ中で一番美味い飲み物だった。カイルは僕と同じくレモネードを煽り、いかにも身に染み入るといった様子で飲み下しながら、打ち寄せる波に向かって呟いた。
「二度と乗らない」
僕は軽く笑っていなした。
「へぇ。いいけど、帰りはどうするの?」
「歩いて帰る」
僕はカイルの返事を聞きながらレモネードを最後の一滴まで飲み干すと、氷だけになったカップを脇に置いて言った。
「どうぞご勝手に。でも、街までどれくらいあるんだろうね?」
「端末を貸してくれよ。すぐ調べるから」
「残念だがない。この間未払いが過ぎて止められてそれきり。だから置いて来た。カイルもいい加減、自分のを用意したらどうだい?」
「結構。僕にあれは必要ない。地図はないのかい?」
「ナビは機体にダウンロードしてあるけれど、そのためにわざわざまた電源を入れるのは面倒だ。それに今時、アナログの地図を使う乗り手なんてまずいない。それより、カイル、今度のT市でのレースは一緒に来るだろう?」
だがカイルは言い淀むでもなく、淡々と告げた。
「いや、悪いけれど、行かれない」
「なぜ?」
「来週からまた入院することになったから」
それを聞いた僕は眉を顰めた。
「また? この間、治ったって言っていたじゃないか?」
「再発したそうだ。今度は手術できない位置にも腫瘍があるようだから、より詳しい検査が必要になるって」
カイルの口調はまるで他人事のようだった。話す最中、彼はずっと海の方だけを眺めていた。
「……ああ、でも、今は何ともないから心配はいらないよ。むしろ僕としては、薬を飲むと悪化する感じがするぐらいなんだ」
僕は静かに溶けていくレモネードの氷の傍らで、どこか遠い国の噂話でも聞いている気分だった。ともするとカイルの話が、本当はちっとも深刻でない話題のように感じられていた。
「……ああ、嫌だな。また、あれを飲むのは」
カイルが一度、右手で乱暴に顔を撫でて言った。彼は僕と比べて、全くと言っていいほど汗をかいていないことに、僕はその時初めて気が付いた。彼は声のトーンをそのままに、話を継いだ。
「でも、まぁ、悪くない話でもあるよ。次にもう一度留年したら、カイルと同じ学年になるからね。そしたら、一緒に卒業できるぜ」
振り返ったカイルはいつもの表情で笑っていた。僕は答えようとした、その瞬間、うっかりして足下のカップを蹴ってしまった。流れ出た水はあっという間に砂に染みていき、氷の欠片は、灼熱の砂の上でたちまち小さくなって溶けていった。カイルはその様子を、目を丸くしてしげしげと見つめていた。僕は何だか、急に息が詰まって、慌てて空を仰いだ。青一色の、ぽっかりと開いた、大穴みたいな空。僕は結局、二人分の空のカップを拾ってゴミ捨て場の方へと何も言わずに駆けて行った。
そうだ。あの日も僕は、何も言えなかったんだ。
雪は水分を失って、いつしか粉雪になりつつあった。僕は再び山林に沿って高度を得ながら静かに加速していった。道路上の粒子と粉雪とが風に煽られて、ハラハラと舞いあがっては軽やかにダンスする。僕は走行中には音楽をかけない性質なので、ひたすら駆動音だけに耳を澄ませていた。
あと少しで浜辺に到着するという時、ゴーグルの端で新着の交通情報が点灯した。「この先、事故車あり」。やがて前方に赤い警告ランプが見えてきて、それが先の情報のことだと知れた。僕は若干速度を落として、道端の強化プラ保護壁にのめり込んだ事故車を横目に見やった。機体の塗装から、事故車は先にすれ違った集団と似た一味のものであると推測できた。あの時すれ違った彼は、もしかしたらこれに注意しろと知らせてくれていたのかもしれない。
僕は道を逸れて、浜辺へと下りて行った。緩いサークル上のカーブを慎重に回りながら、海岸沿いにある一般道と併走する道へと出た。人気のないその道を少しばかり行くと、見覚えのある粗末な駐車場が見えてきた。入口には目印のほの白い明かりがぽつんと侘しく点いている。僕は下降線に乗ると、走行モードを切り替えて車輪を引き出し、減速を始めた。風に合わせて機体を細かく振りつつ、一般道へと移行を開始する。案外急なパスだった。パワーを絞っても速度が思うように落ちず、機首を上げて、さらに減速と降下を待つ必要があった。地上に向かって落ちていく、その間、僕の全神経が機体に注がれている。繊細なコントロールの一つ一つが、大きな選択。やがてタイヤが、持ち上げた機体の後部で、コッ、とごくおとなしい音を立ててコンクリートに接するのを感じた。懐かしい重さと抵抗が身体にどさりと帰ってくる。僕は体勢をゆっくりと水平に戻して、駐車場へと向かった。
駐車場で電源を切って、僕はバイクを下りた。すぐそこには真っ黒にうねる海と、世界の果てまで雲で蓋をされた、がらんどうの空があった。かつて露店のあった場所には屋台骨だけが残されており、その他には、浜には人はおろか、ゴミさえも全然見られなかった。
僕はクロスカントリー仕様の手袋の下でさえ凍えた手を上着のポケットに入れ、降りしきる雪の中を、ゆっくり一歩歩み出した。踏みしめた砂は水気でじっとりと湿っていて固かった。波音はやけに太く、大地を震わすかのごとく、長く轟いていた。
僕は微かに届く駐車場の明かりに照らされながら、しばらくの間呆然として立っていた。そこには夏とは全く違う、重く、凍てついた静寂が果てしなく横たわっていた。狂気的に荒ぶる波は絶え間なく岩場に押し寄せて、砕け、また凄まじい力で引き摺られて、深みへと帰って行く。何を考えるつもりもなかったのに、ふいに行きがかりに見た事故車のことが思い浮かんだ。
それと同時に漠然と漂う僕の思考の端々には、なぜかカイルの笑顔がちらついていた。別にカイルが病気で幾ばくもないことと、あの乗り手が事故を起こして死んだことには何の関係も無いはずなのに、どうしてか、僕の中で両者は細い糸で結びつけられて想起された。
僕は白い息を漏らしながら、目を瞑って集中して考えた。カイルではなく、事故車の乗り手のことを。一体彼がどこで道を違えてしまったのかと、脳内で何度も走りをシミュレートしてみた。カイルと無残な事故のイメージとを引き剥がすには、こうして暗闇に沈んだ道を探し出すのが最良の方法だと僕には考えられた。
海岸沿いの道から農道に出て、フルスロットル、そのまま降下。加速に合わせて吸気をさらに開放する(農道に入る時の、僕みたいに)。やや外側から、機首を抑えながら、そのまま内側に向かってバンクする。やや尾部がスリップする……。でも、それだけでは、ああはならない、と感じた。元から機体の重心をいじっていたのでなければ、対向車のない限り、何とか建て直せたはず。
ふいに僕の背筋に、寒気が走った。ガレージの中で、スイッチ一つでプツリと止んだ警告音の名残が、今更高く耳に響き出す。コントロール不能になった事故車と自分の機体が重なって、クラッシュを連想した瞬間、思い描いていた機体の像は跡形もなく消滅した。一気に頭の中が暗転して、それから徐々に、瞼の裏側の視界がじわりと白んできた。
気が付くと僕は教室の風景を見ていた。斜め前には痩せ細ったカイルの背中があり、教壇には神父が立っていた。その景色はまさしく、学生皆の鬼門、聖書の時間だった。僕は何の音もしないその教室の真ん中で、こじんまりと、身の置き所なく、虚ろな気分で座っていた。
聖書の時間は、カイルが参考書を開いていない唯一の時間だった。今年のカイルは文字通り、命を削るようにして勉強していた。彼は出席日数の不足が理由で留年していただけで、決して学問が他から遅れていたわけではなかったはずなのに。カイルは一秒を噛みしめ、血を流しながら傍若無人な知識共と向き合っていた。何だかもう、神様と戦っているんじゃないかとすら、僕には思われていた。
一方の僕はといえば、卒業を前にすっかり燃え尽きていた。何をどう頑張っても虚しく、時々報われた努力でさえも、僕を一切焚きつけてはくれないと感じていた。僕の心はすっかり迷い、行く当てもなく、ふらふらと道なき道をさまよっていた。だけどその最中でも、カイルのことは心から応援していたから、彼のために、自分にできること(とは言っても、彼の欠席日に教科のデータを回収したり、過去問を集めたりすることぐらいだったけれど)は何でもしようとしていた。僕の抱えている弱みは、というか、脆さは、彼には絶対に見せまいと決めていた。せめて見かけだけでも、昔通り、クラスの誰よりも頼りになる男でいようとしていた。そのせいか、本当はこうした空っぽの状況だったにも関わらず、僕はやけに真面目に試験に取り組んで、今までで最も良いスコアを取ったのだった。
カイルは、いつもちょっと俯いた姿勢で、ひっそりと聖書に目を落としていた。みんなが眠ったり内職したりしている中で、そうした態度は異質でありながらも、あの部屋の静謐な空気によく馴染んでいた。
彼がどんな思いを抱えていたのかは、僕にはわからない。僕にわかることはただ、彼があの時、本気で生きて、立ち向かっているということだけだった。彼の前には確かに道があった。彼は自分が走っている道を、どんな風に走っているかを、見極めようと全力だった。カイルは、あの日々を最高に駆けていた。
僕は閉じていた目を開けた。雪が肩に、頭に、たくさん降り積もっていた。僕はポケットから手を出して身に付いた雪を払い、踵を返した。
駐車場で何気なく灯台を仰いだ。するとそのずっと奥の海に、遠目にもわかるほどきらびやかな巨大な旅客船が浮かんでいるのが見えた。この波濤の中で客船は悠然と、パッと見には緩慢にも見える速度で(実際にはそんなことはないはずだが)進んでいた。僕はゴーグルを装着し、バイクに電源を入れた。賢い相棒は瞬く間に僕を僕と認めるなり、言われずともとばかりに自分から道路のデータの更新を求めてきた。僕は駐車場の隅に立てられた旧式の交通情報掲示板に目を向け、一応、機体からアクセスを試みた。だが、やはり掲示板はそんな機能には対応していなかったようで、表示されたデータは、結局僕の手入力によって地道に機体へ打ち込まれた。ブレードの調整と、吸気口の制限が、その数字に従って行われた。これで速度を控えれば十分だと、僕は息を漏らした。
始動すると、控えめで健気な駆動音が辺りの大気を震わせた。僕はわずかに身体を傾けて浜辺を離脱し、暗い海岸線を辿って走り出した。
雪はその晩、子守唄のごとく、こんこんと、絶えることなく、降り続いていた。
それからつつがなく日々が過ぎて、パレードの日がやって来た。氷河期みたいに気温の低い、透き通るほどに晴れた、空の高い日だった。
僕は同じ仕事が割り当てられている仲間らとのミーティングを終えた後、カイルの元に赴いた。カイルはパレードの出発点である学校の校庭で、お決まりの伝統衣装に身を包んでおとなしく椅子に座っていた。衣装は中世の将校風で、赤と黒の上質な布地で作られており、カイルの大人びた物憂い眼差しとも相まって、やけに本格的な迫力を帯びていた。
「いいね。一枚撮ろうか」
僕がカメラを構えて言うと、カイルは呆れ顔で肩をすくめた。
「勘弁してくれよ。写真はもう何枚目かわからないんだ。この服、やけに重たいし。もしかして鉛でできているのかな?」
「かもね。けれど、すごく似合っているよ。体調はどう?」
「かなり良い。難ならこのまま、放射線だって浴びられるし」
僕は鼻で笑い、カイルの隣りに飾られた校旗に目を移した。
「すごいな。近くで見るのは初めてだ」
僕は言いながら旗に近寄り、屈んでその表面の模様を覗きこんだ。全体的に鮮やかな、だが深みのある緑色の旗であった。翼を広げた大鷲の文様がその中心に堂々と刺繍されている。大鷲の羽は一本一本、手作業で丁寧に縫われていたため、やけにリアルな質感を醸し出していた。右下には国軍の、山吹色の星のマークが行儀よく並んでいる。
「ジェイク」
ふいにカイルに呼ばれて、僕は振り向いた。カイルは、同情的ではない、それでも思い詰めた表情で、僕に語りかけてきた。
「ごめん。君がずっと旗手になりたがっていたことを、知っていた」
僕は怪訝な顔をした。そんなことはわざわざ改まって言われずとも、初めからわかっていたことだった。
「やめろよ」
決まりが悪くなって僕が言うと、カイルは首を横に振った。
「ごめん。自己満足だとわかってはいるのだけれど、言わずにはいられないんだ」
僕は溜息と同時に背筋を伸ばして、周囲に視線を巡らせた。校庭にはパレードの開始を待ち侘びる卒業生の父兄が続々と集まってきていた。
「ジェイク、君は、親父さんと同じ旗手になりたかった、って」
「もうやめろって。君の方が旗を持つのにふさわしいと、多くの人が認めたんだよ。僕だってそう思っている。親父なんかどうだっていい」
「違う。そうでなくて、君は」
カイルはそこで一旦言葉を切ると、さらに勢いを減じて、ささやくみたいにこぼした。
「君は、気付いてないのだろうが、僕に道を譲っているんだよ」
カイルは言ってから真っ直ぐに僕を見た。対する僕も真っ向から、彼を見返していた。大気がキンと冷えて、僕の指の末端の血管が貧血で気を失いそうになっていた。そんな中でカイルの瞳はいつになく、強く激しい熱を宿していた。
「君の言いたいことは、想像できる。僕の思い過ごしだと言うんだ。君は、自分は精一杯やって、最高の成果を上げたのだと主張するだろう。でもそれは違うと僕にはわかる。君は自分を見捨てて、自分よりも僕を先に走らせようとして……いや、もう、僕が走っていなくてはいけないのだとか、思い込んでいるんだ」
「違う。そんなことは、全く考えたこともない」
言い返す僕の声に被せて、カイルが続けた。
「そうだろう。君は、無意識なんだ。いつも一人で、勝手に自分のことを決めつけて、それでいて本当は何にもわかっちゃいない。君自身についても、僕についても」
僕はまた言葉に詰まってしまった。自分の内で粘性のある何かが渦巻いてはいたけれど、そのわだかまりをどう表していいか見当がつかなかった。僕はこのまま黙り込んで、下を向いてコンクリートに視線をぶつけて、気分が落ち着くまでじっと待っていられたらと考えていた。だけど同じくらい、何かが言いたくてしょうがなくもあった。今にも堰を切って溢れ出しそうな言葉たちが、僕を内側から破壊しかねないぐらい乱暴に暴れ回っていた。馬鹿野郎、馬鹿野郎、って、何度も激しく、掠れた声で叫びながら、力の限り泣いている誰かがいた。
僕はついに、耐え切れず、震えながら口を開いた。
「……カイルは、僕が病気を憐れんで手を抜いたと、言いたいわけじゃないよな?」
カイルは穏やかに頷いた。
「ああ。もし君がそんなヤツだったら、僕はもっと早くにこうしたことを話せていた」
僕は長く、深く、再度溜息をついた。それから一瞬だけ視線を空っぽの空に向けて、話を紡いだ。
「確かに、君の言う通りかもしれない。僕は例によって何も見えていなかったみたいだ。君がそんな風に思っていたなんて、想像だにしなかった」
僕は喋りながらかじかんだ手を擦りあわせて、息を吹きかけた。温度的には逆の話になるけれど、まさに焼け石に水といった表現がぴったりだった。
「だけど、君が謝る必要は全くないよ。僕は君が同じ学年になる前から、道に迷っていたから。行くべき場所が見つからなくて、そこに丁度君が現れた、それだけなんだよ」
カイルは静かに、しかし毅然として言った。
「僕は君に、そんな生き方をして欲しくはない。だから僕は、君にきっかけを与えてしまったことを後悔している」
「わかっているよ」
僕は努めて明るめに、抑揚をつけて繋げた。
「それでもさ、お願いだから、そんなことは言わないでくれよ。カイル。僕はこの一年、君といれて、君と卒業できて、本当に良かったと思っているんだ。君の降る籏が僕の前にあるってことをさ、僕はもう、一生忘れないんだ。……だからさ、これから、自分がどこに行くのか正直、僕にはわかっていないけれど」
僕は一拍息を飲んで、言い切った。
「僕は君がいたから、走り続けられるんだ」
気が付けば僕は拳を固く握り締めていた。血の通っていなかったはずの手が、今はじっとりと汗で濡れていた。カイルはぼうっとしたような、少し驚いたような、その中間とでも言える顔で僕を見ていた。ちょっと開いたその口が一度だけ何か発音しかけたが、結局は、はっきりとした言葉にはならなかった。「ありがとう」って、口の形に動いた気がする。
僕らはそれからぱたりと無言になった。あまりに一辺にたくさんのことを話したので、どちらも気力をすっかり使い果たしてしまっていた。まだ脳の中には若干の余熱が残っていたけれど、それはもう、どうやっても言葉にできない、残り粕みたいなものだった。
そんな時丁度、僕の端末に連絡が入った。この段になって、撮影に関する追加資料――――有難いが面倒なことに、プロのカメラマンからの指導要領――――が入って来たので、至急取りに来いという内容だった。僕は急いで返事を送りながら、
「行かなきゃ」
と、短くカイルに伝えた。カイルは
「行ってらっしゃい」
と、わずかに口元を綻ばせてそれに答えた。
僕は一目散に駆けて、空に向かうための準備に向かった。その後は俄かに忙しくなってしまい、パレードが終わるまでカイルと会う機会はなかった。
規制線だらけの街の上空にて、僕はごくごく緩い、抑えられた速度で走っていた。バイクに取り付けられた可動式の三脚の先には、借り物の、超高価な高感度カメラが鎮座している。誰だってこんな状況ではいつになく慎重にもなる。僕はレンズをパレードの行列に向けて、そろりそろりといいショットを狙って、何度もシャッターを切った。次いで移動の指令が下ると、すぐさま網の目のように入り組んだ道路を伝って、新たなチャンスを探しまわった。そうしたわけで祭が終わる頃には、今年最大級の寒波が訪れていたというのにもかかわらず、僕は汗びっしょりになっていた。
だがその甲斐あってか、僕らの撮った写真は殊更に評判が良く、街の外でもかなり話題になった。だが皮肉なことに、中でも最も高い評価を得た一枚は、空ではなく、地上で撮ったものだった。あの僕の母親でさえも、珍しく素直にその写真を褒めてくれた。
「旗の写真、とても素敵じゃない。一瞬って奇跡なのね」
僕自身としては、何てことのない写真であるように思っていた。どちらかといえばその写真は、公式に撮ったものというより、僕とカイルが個人的に撮ったものでもあった。だからそれがセントラルニュースの記事に載ると聞いた時には、僕は驚きを通り越して困惑し、唖然としてしまった。僕にはだいぶ後年になるまで、その写真の良さはわからなかった。僕はあの写真で、旗ではなくて、空を撮ったつもりだったのだ。淡い桃色の流体道路が一筋、細く、高く伸びている空と、その下で屈託なく笑うカイル。
母は余程気に入ったのか、僕が撮ったその写真を一等良い品質で印刷し、至極満足げに額縁に入れて、リビングに飾るようになった。僕がこの旗手は親友なのだと伝えると、彼女は同じもの(額までセットにしていた)をカイルの家に送りつけた。
カイルはパレードから半年後に亡くなった。彼の病床には送られた写真と、この界隈の流体道路の3D地図が置いてあった。その最後にプロットされた航路を辿ってみると、行きついた場所はあの浜辺だった。僕はカイルの家族の了解を得て地図を貰い受け、それをバイクに乗せることにした。
……僕はまだ走っている。
カイルの立てた旗は風を受けて、いつも大きくはためく。
了
カイルの旗