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程よく抱かせるくらいには飲ませたし、そのつもりで相手もわざわざ自分のような一端の研究員を引っ張り出して来たのだろうことは見抜いていた。

だが、そこに奇妙な不満ともつかぬ蟠(わだかま)りが一寸前までは饒舌だったクロードを閉口させたのである。

自分でも判別のつかぬ感情にばかり気がいって、気がつけば眼前のサクロはすっかり機嫌を損ねて口をへの字に曲げていた。

「嫌なら嫌って言えばいいだろ。普段は物怖じせず何でもへらへらしてる癖に。いざ、しおらしいと最高に気味が悪い。」
「え?言って欲しい?やめてって。」
「どっちでも。」
「そう、私もね、どっちだって宜しいのですよ。貴方こそ、普段は誰が何を嫌がろうが強行するのにこういう時はなんなのですかね?今更、こんなところで紳士ぶるおつもりでも無いだろうに。」
「あーそっ。何でもかんでも無理矢理されるのがお前は好きなのね。はいはい。気がつかないで失礼しました。学が無いから察しが悪くてね。」

サクロが自嘲的に蔑めて拗ねてみせると、クロードはその表情が物珍しいのか覗き込むように彼の長く柔らかい前髪をかきあげ、目を合わす。
やたらと整った白い顔と普段の伊達眼鏡を外した少し幼い顔はどこか対照的でなにか矛盾めいたものを彷彿とさせた。

「そうですね。では、察した上で、私に一言どうぞ?」
「とっとと脱げよ淫売。休憩分しか払う気は無い。」

けち。と楽しそうに目を細めて、軽く開けた薄い唇をワイシャツのカフスボタンに這わせ舌と歯を使いねぶるように器用に外していく。ピンと張っていた袖口がたおやかにしなり、露わになった擦れた白い手首は扇情的に朱を差している。

「ほら、上手でしょう。」
「下手とか上手いとか分からねえよ、今、初めて見たんだもん。」
「じゃあ、やってみるといいんです。貴方も。」
「何言ってんだ。考えてやるからもっと手本見せろよ。ほら。」

サクロは口の端を片方だけ釣り上げると、左腕をクロードへ差し出して横柄に催促した。
気に入ったんじゃないか、などと口に出してやっても良かったが、減らず口では満たされないほど枯渇しているものがお互い既にあることを二人ともよく知っていた。

この男と絡めたときの舌の感触が嫌いではない。邪に立ててくる爪の硬さや食らいついてくる歯並びの間隔も好ましい。

容姿の美醜や区別をつけることがあまり得意でないサクロにとってはそういったものが自分の情欲の組み合わせに合致していることが何よりも値打ちがあった。

先にソファーに寝そべるクロードが右足で器用にサクロの胸板や臍周りをなぞってやり、そのまま足を彼の唇に押し付けた。

「へえ、どっちかっていうとお前は人に舐められるのは嫌いな質だと思ってたけど。」
「まあ、基本的に気持ち悪くて嫌いですが、今日は貴方に舐めさせるつもりで来てやってたから。そういう気分。なんです。」

相槌を打つかわりに舌で爪の甘皮の境をねぶり、甲の骨に沿ってそのまま上下に這わす。
使っていない右手を内腿から腰骨へ撫で上げると反射的にクロードの体がピクリと痙攣した。
腰が浮いた所を滑り込ませるように手を差し込んで下着を脱がす。
態(わざ)とらしく、やや強引に指で掻き寄せよせ、ゆっくりと床の上に落とす。僅かばかりの布音の摩擦音、濃密で噎せるほどの色香を含んだ艶めく吐息が途切れ途切れに口づけの合間から漏れた。

先刻、クロードの抱いていた蟠りはこの一時の情事に解消されているようにも見えた。
秋口に差し掛かった頃の恐ろしく静かな夜は、口内で転がしすぎた飴玉のように甘ったるく、どこか舌のひりひりとした蠱惑的ななにかを含んでいた。

こういった夜が幾度か続き、その過程の中で少しずつ針のずれていったレコードプレーヤーのような齟齬が、耳をつんざく喧しい騒音を奏でるまで多くの時間はかからなかった。
ほんのもう少し、サクロ・バルトリが「Paper moon」についての興味があったなら結果は恐らく違ったものになっていたのでは無いだろうか。
齟齬の始まりは全てあの件からであったのに。

「私はあの店で、何があれば紙の月を本物の月だって世界に言い張ってみせてやると言ってましたっけね。」
「はあ?信頼がどうの、って散々はしゃいでたじゃねえか。もう俺、あの店は行かないからな。」
「……そうでした。貴方は学が無いんでした。」
「なんだよ。何が言いたいの?」
「何かを人に聞く前に御自分でお調べくださいな。もし、正解だったら私が商品をあげます。…貴方からの信頼と、あともう1つ欲しいものがある。それが無ければどんなものも全て私には安っぽいものになるんです。」

お前、めんどくせえなあ。と寝返りをうつサクロの言葉に今度はクロードが自嘲的に「本当にね。」と小さく呟いた。

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  • 小説
  • 掌編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2015-10-06

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