陳暦(ちんごよみ) 第8章 房州の海 母死す。
当時の「結核」は不治の病だった。
作品構成上そのまま掲載すること、お許しください。
房州の海 母死す。
南無谷の爺
2月房州の潮風は「冷たく、寒い」、名古屋から結核末期で息を引き取るため、
生まれ故郷の房州富浦に来た美津は11を頭に10、7歳の2男1女の子連れで
やっとの思いで故郷の家へやっとの思いでたどりついたのは美津33歳だった。
美津の父親、近太郎は口元でこうつぶやいた。
「もう何年になるっぺか出たきり便りもなく、やっと帰ってきたら死に水取か」
苦々しく精一杯の皮肉と見下げてはいるが涙目だった、美津の顔を見たくとも
満足に見られないのが正直な近太郎だった。
大正15年9月「関東大震災」で美津は東京蒲田に遠縁にあたるガラス屋へ復興
の手伝いで行ったつもりだったが13年目の近太郎との再会だった、つもりつも
った懐かしさもぐっと盛り上がってくるものがあった、ふと思い起こすと病状の
事のほうが心配で、顔色もひどく悪く、立っているのがやっととゆう状況だった。
「美津が死んだら後どうするんだろう」
「酒飲みの亭主で、子供達は」
と近太郎の心配と初対面の雪太郎を「どうして今までほっておいたのか孫たちを
どうするつもりか」となじりたかったが、弱弱しく美津から離れようとしない3
人の孫の疲れた顔を見比べると、腹の虫を抑えに抑えた、雪太郎も以後帰るまで
一言も云うことがなかったとゆうよりこの雰囲気では怖じていたとゆうのが正直
な心地だった。
多分に「許されない結婚と病弱な美津を連れて来てはならない家へ連れ帰ったこ
と」が負い目にもなっていた。
この雰囲気で伸は近太郎や婆が見ている目は「何故、母をいじめるのだろう」と
不安顔だった、謙もよし枝も同じ思いだった。
6畳間程の一軒家には一度で焚ける窯が4つ、薪で焚くのだが炭もできる「消壺」
もあった。
2世帯分の食事を一度に作る、作業は忙しく本家と美津一家が共同使用する事になった。
燃える薪の煙はとんでもなく煙たかった、自分の世帯の食い物と本家の違いが歴然
とするこの時間はとても伸には嫌な時間だった。
ある日、庭の池で餌の米粒をやっていた錦鯉の4匹のうち赤い鯉が死んだ。
その鯉が味噌汁の具になってその日の両家食卓にあった、が謙次とよしえは箸さえ
つけられなかった、とても美味いものとは言えなかったし自分が餌をやっていた生
き物だから、「可哀想に」と感じたからだ。
「食えん奴は食わんでいい」
と真顔で近太郎は怒鳴った。
二人はなおさら声を出して泣き、悲しかった。
昨日まで餌をやった鯉では、美味しく思はないのが当たり前だった。
「蘇峰の間」
2階奥の八畳間を「蘇峰の間」と呼んでいた、この間は国学者「徳富蘇峰」先生が毎
年夏の避暑で使われている大事な部屋でもあった。
伸は一日おきに「泉沢商店」へ通い帳を持って食事の材料を買いに行った、朝、夕2回
食事の世話で「蘇峰の間」へ上がって美津の食べたい物を聞きに行く、謙次とよし枝は
母の顔をもう2ケ月も見ていなかった、心では淋しかった、だれに愚痴れるわけでもな
い生活はすでに淋しさの頂点に達していた。
「よし枝が夕べ便所で居眠りをしてたっぺ、気が付くのが遅けりゃ落ちて死んでるっぺや」
と長男の嫁友子が朝飯の時に云った。
「寝ぼけてたんだっぺ」と皆が云う、「よかったっぺ、早く見つけて」と声を合わせる。
その便所とゆうのは風呂場隣の外にあったもので、無論汲み取っては畑の肥料にする大事な
ものであるのはゆうまでもない。
よし枝は「知らない、覚えていない」を繰り返し答えていた、誰も笑えなかった、満一カメ
へ落ち込んでいたらと、「死」を想像すると皆怖かった、自分もあるかもしれないのだと。
本当のよし枝は「泣いていたのだ」、泣いていたとは言えなかった、言えないのだった。
大好きな母とも会えず、いつも一人きりの生活には耐えられなかった、泣いているうち泣き
止んだ頃寝てしまったとゆうのが真実だった。
謙次も毎日泣かされていた。
謙次の足、指は「しもやけ」で真っ赤に膨れ上がっていた、ヒビまで入っていた、が近太郎
は痛がる謙次におかまいなく毎朝5時にはマンガを持ってまだ暗い浜へ「わかめ」取に行く、
冷たい、痛い、寒いでひいひい泣くが「塩水につければ治る」と、近太郎の一言で嫌がる謙次
の腕をつかんで海水へ足を漬け込んだ、謙次は足をバタつかせているが「痛い」、そんな謙次
をよそ眼に家族は必死でわかめをマンガで取った、女はリヤカーへ積み込んで浜へ並べて乾す
作業で忙しく立ち回っていた。
「琵琶」と別れ
そろそろ春を告げる「天草」取が終わるころ、
3,4,5、6月は琵琶の出荷準備から出荷と一家総出の大忙しの4ケ月である。
3月は古紙で袋つくりから「柿渋」塗、杉板で箱作り、琵琶の摘果、袋貼りに至って5月中旬
から琵琶もぎ、大事に大事に箱え詰める、隣の集配場へリヤカーで運ぶ。
リヤカーは離れた山から琵琶を運ぶのはもっとつらい仕事だった。
山で集めた琵琶を傷つかないよう慎重な作業が続く、幾山もあるので忙しいなんてゆうものじゃ
ない、子供達で出来る作業ではなく、ぜいぜい息お吐くむなしい仕事だった。
伸は弱音を吐けない弟、妹達と日々働いた、琵琶が食べられるのは変形か腐りかかったもので謙
次とよし枝は甘い汁の琵琶は好物だった。
伸は「琵琶が嫌い」、その理由もはっきりしない、「琵琶の本当の美味しさ」を知らなかったか
らかも知れない、いずれにしても琵琶は好きにはなれなかった。
その山も近太郎が死んで財産相続で減ってしまった、とゆうのは娘二人に分けた分をそれぞれが
売ってしまったからだった、話し合いで賃貸するつもりだった本家では大誤算だった。
その事が尾を引いて以後本家の出入りはなくなった。
美津の葬儀は「妙心寺」で親族、兄妹、同級生、と多彩だった、「肺病の家」と云われて付き合
いはそれまでなかったが死んだのでは誰にもその気は全くない、付き合いがなかったとゆうこと
が怪訝でもあった。
暑くなりそうな陽が照り付け始める10時一家が名古屋へ帰る日、富浦駅で近太郎が云った、
「伸坊、お前たちに日頃煩く云ったのはこれからお前たちだけで生きていくッぺ、それが判って
いた、そのための修行だったと思え」
と云うと我慢していたであろうグシャグシャの顔でボロボロ涙を流し一人一人の頭をなでてやっ
と云った。
かたはらの雪太郎は一瞬顔があったが、言葉ではない心で「ありがとう」と大きく頭を下げていた。
伸の校友が駅を出てすぐ入るトンネルの手前で20人位が「さようなら」と立ち上がって手を大き
く振っていた。
一番仲のいい東京から来た「吉田」が一番目立った姿で手を大きく振って「サヨウナラ」
と云っている口があった、と同時に「トンネル」に入った。
「サヨウナラ」。
陳暦(ちんごよみ) 第8章 房州の海 母死す。
順序不同のわけは、書き溜めている原稿が順序よくなっていないのですから。