兎を追う
兎を追う。
それは、夢や欲望を追いかけること、同時に、悪い方向に走ることを示しているのだという印象を受けます。
>『古事記』に大国主その兄弟に苦しめられた兎を救い吉報を得ることあり。これは兎を吉祥とした例だが、兎を悪兆とする例も多い。
『十二支考』南方熊楠
東洋では兎は月にいることになっていますが、西洋ではイースターエッグと一緒に描かれることが多かったり、エジプトでは太陽が登るのは兎の仕業だとされたり、など復活や希望、明るさの象徴とされることが多いようです。現代の日本にはキリスト教文化も流入してきており、さらにキャラクター商品や干支の一つとされていることと相まって、兎は好い印象を持つ動物と考えている方が多いのではないでしょうか。
しかし、兎が悪い印象を持つこともあります。どうして? 順を追って説明しましょう。兎は古来、外見的に雄雌の区別がつきにくいことから、両性を兼ねるものとされていました。大昔では、雄雌の区別を強制的に取り払った宦官が横暴をふるっていた時代もあったからでしょう、兎もそのイメージと相まってずるがしこい、悪い動物とされていることが多くなったそうです。以上のようなイメージから、道端で兎を見たらその道は悪い方向だから進むべきではないという迷信まで生まれたとか。
この兎のイメージ、この世界を表すにはぴったりだと思いませんか?
現実にはいろいろな兎がうようよしています。もちろん、夢や希望を示してくれる兎もいるでしょう。しかし、人間は夢ばかりを追いかけていくわけにはいきません。社会的な意味や倫理的な意味で人間が追うべきではない兎もいますし、その他にもいろいろな種類があるはずです。例えば、感情に走って動かされている兎だとか、タスクに追われている兎とか、自分の意に反することを強制する兎など。この兎たちを使って、私たちがどうやって行動の選択、実現をしているか、ざっくりと説明してみましょう。
自分が兎よりも速く走ると追い越して離れてしまうし、兎よりも遅く走ると追いつくことができない。さらに、兎と自分の速さが同じでも走っている向きが違ってしまえば、兎には追いつけない。
兎の速さを探究心や好奇心とでもみなし、兎の向きを自分の取り巻く環境や状況とみなし、場所は速さと向きがもたらした結果ある場所を示すとすれば、話は簡単ですね。
二兎追うものは…で始まる定番の諺もこの兎の速さと向きで表されるのではないでしょうか?
二匹の兎とはどういうものでしょうか。たとえば、恋と勉強とかが代表的な例です。恋に夢中になって勉強をしようと思っても集中力が切れてしまい、勉強ができなくなるとストレスがたまり恋に裏目となって出て恋人との関係を悪くしてしまう。こういうことってありませんか?この人はどちらに対する意欲はあるのですけれども、恋と勉強、そもそも物事の方向性が違いすぎますし、意欲が空回りし、中途半端に追ってしまうため、結局どちらもダメになってしまうということです。
もっとわかりやすく抽象的に掘り下げてみましょう。二兎追うものは一兎も得ず、とは兎が二匹とも自分とは別の場所にいってしまう時ですね。それだけを考えると、3つの状況が考えられます。
- まず一つは、一方の兎が速すぎて一方の兎が遅すぎる時。
- もう一つは、兎が二匹とも速すぎたりする時。
- そして最後の一つは二匹の兎が別々の方向を向いてしまっている時。
3つのうち、1番最初は兎の速さを変えるだけで二匹とも追うことができますね。つまり、兎の速さを自分と同じぐらいにすればいいのです。しかし、少し違和感を抱きませんか?二匹を追うには「二匹とも追いたい」という意思が人間にあることを指します。
そうなると、一方の兎の速さが極端に遅い、ということはあまりないのではないでしょうか。そうなると一番目の例は、ちょっと違いますね。
さらに、2番目の兎の速さが速すぎたりする場合。これは意識が先行して行動が全く追いついていないときを指しますね。これは意識と行動の擦れ違いとでも言えますね。でも、これは二匹を追うことに限ったことではないと思います。しかし、二兎追うものは一兎も得られなくなってしまう原因の一つにはなるでしょう。
最後に、二匹が違う向きに走っている場合、二兎を追うのは難しそうです。違う向きに走る場合、一匹を追いかけてから、もう一匹のところに向かうまで距離があり、時間がかかってしまうのが二匹追うのを難しくしています。一匹の動きに合わせると同時に、遠いところにいるもう一匹に目が行き、さっき追いかけていた一匹を見失ってしまうのです。こういうことは、二匹追っているときにしか起こりえません。これが二兎追えなくしてしまっている根本的な原因ではないでしょうか?
結局、二兎追うものは一兎も得ず、が生み出す根にあるものは向きに絞られてしまいました。
世の中は案外シンプルにできているのかもしれませんね。
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さて、何かをするためには少なくともなにかを捨てなくてはいけません。一匹の兎を追うためには、どれか別の一匹の兎を追うのをあきらめなければならいけません。一匹でもそう追うのは大変なことです。
それなのに、 大抵の人間はたくさんを望もうとして、それが実現できないと早々とあきらめて、心を痛めながら生きていくか、精一杯両方とも得ようとして力尽きるか、それらのどちらかに分類されます。常に成功する人なんていません。だから、「文武両道」「良妻賢母」と成功する人が称えられるのです。
二匹を兎を追うのはそれなりに苦労が伴います。さらにどちらにもおいつけないかもしれない、というリスクを常にはらんでいます。私はそれをよく自覚して、生きてきたつもりでした。
私は、常に選択肢のうちどちらが自分にとって得なのか、長い目でも見て利益がいいのか、さらに親や周囲の顔色からどうしたほうがいいのかを判断し、真っ先に真実を手にいれようとします。つまり、大勢ある兎の中から追いかける必要のない兎はなるべく追わないように、たとえ追ってしまったとしてもすぐに退却できるように、頭の中で計算をします。
たとえば、先ほどの恋と勉強の例で話しましょう。私の家では恋愛禁止ではありませんが、恋人ができたとなると口うるさく小言を言われ、結局、勉強のほうが歓迎されます。これはほとんどの家庭であることではないでしょうか。もちろん、私は大人の顔色を重視しているので、大人にとっていい子であるようにしたいと思っていました。しかし、私は恋人になりたいと言ってくださった方の好意にも応えたいと思っていました。そこで、考えたのが、恋人を恋人としないことです。あくまでも相手の方とは友達という立場を貫きます、そうすることで親や周囲への面子を保ちます。そのかわり彼には勉強を教えていただき、恋人のように寄り添う時間を増やすことで、両者をほどほどに両立させ、この問題を解決しようとしたのです。
しかしこれは、別の問題を生み出してしまいました。私は二匹の兎を追うリスクを最大限に減らし、お互いにとっても都合がいいように物事を進めたつもりでしたが、相手の方の不信感をあおる結果となり、失敗に終わりました。計算がいつも都合よくいくとは限らないのです。されど、あのころの私は人の考えていることは行動やしぐさ、言動からすべて計算できるのではないかと思っていました。そして、それが自分の最大の欠点だということに気が付きませんでした。むしろ美点にすら思っていました。世の中は親や周囲の顔色を窺って生きなければいけないけれど、人の集団の中で自分が周囲から無害そうに見られるならば人間関係は円滑になる、そう信じていたからです。相手の気持ちを考えるよりもまずは笑顔で人に媚を売ることが先でした。嫌われるのが怖かったのです。それが、いわゆる人間関係という兎を追うリスクを減らす手段だと考えていました。それなのに、最良だと思った兎がいつも人に理解されない。
昔から、それが不満でした。選んだ兎を追ってもうまくいかず、私は同世代の少年少女と折り合いが悪くなることがしばしばありました。上のたとえなんて氷山の一角で、これは高校のときですが、幼稚園や小学校のときもこのような失敗が多かったと思います。 私が結論を誤ったというのが大きな理由ですが、それ以外にも彼らが理解できなかったという要素も大きかったと思います。
彼らは兎をたくさん追いかけ、得な兎を捕まえて至上の喜びに浸ったり、兎を捕まえ損ねて悔しがったり、無益だとわかりきっている兎を追い回して回り道したり、そうして喜び、悲しみ、苦しみ、悩みなどの感情の渦の中に生き、私のような計算(今となっては屁理屈ですが。) が理解できないのです。必要あろうとなかろうと、たくさんの兎を追ってきた、その試行錯誤の証が彼らにとっての青春になるのですから、タテマエだけで外壁を固めてその中で飼っている兎にしか手を伸ばさない私は奇異なもの、人によっては不快なものに見えたかもしれません。
一方、私も何も考えずに自信満々なような顔をして兎を追い回す周りの少年少女を理解できませんでした。どうして何も考えずにいられるのだろう、へまをしたり、しくじってしまったらどうするのだろう、と思い込んでいたからです。でも、そのくせ、堂々と兎を追いかけられるその姿がうらやましく、嫉妬さえしていました。卑屈だったのです。
自分の自尊心を大切にしすぎるからこそ、正しさを過剰に追及するからこそ、私は不器用で結論を間違うのです。だから兎を追うのに、必要以上に人を傷つけて生きなくてはいけなくなるのです。
さて、私はこの話を書いているときに、小さな違和感に気が付きました。多数の兎を追うことは馬鹿らしい、と計算をしながら生きてきた私ですが、自分も兎を同時に数匹追っているのではないかと思ったのです。兎を追うことで生じるリスクを最大限減らそうとする、そのこと自体が一匹の兎になるのではないかと思ったのです。
リスクを最大限減らそうとする兎と、勉強したいと思う兎と、周囲の顔色をうかがう兎と、結局私もほかの少年少女と同じく、ただ単にたくさんの兎を追っているだけなのです。それを若気の至り、偉そうに理屈をつけて、計算をしているから進む道は一択だと自分にフィルターをかけてしまっていました。いつも人と接するときに空回りしてしまう現象はこの勘違いから来ていたのでしょう。私だって兎をたくさん追っているのだ、なら計算何てしなくてもよかったのに、と、少し自分に安心したのと突っ張っていた自分を恥ずかしく思ったのと、いろいろな感情がごっちゃまぜになって頬が緩んだ瞬間でした。同時に古い殻が破れた瞬間でもあります。
そういえば、大学で「ちえりさんは、あまりにも本心が見えない。」と言われてしまうことがたくさんありました。それがきっかけとなって、私は人についてもっとちゃんと考えられるようになりました。悲しいことも、辛いこともありましたが、これがわからなければいけない難関の一つであったように思えます。
そして自分と人とのつながりをもっと意識できるようになった今、静かに自由に自然に溶け込んで暮らしているのが今の私がいます。
今度は兎を追う方法をもう心得ています。
それは兎がたくさんある時、一匹一匹と向き合うことです。この兎は現実の兎と違って、目を離したすきに逃げていくものではありません。目を完全に離せば、意識から一時的に消えます。つまり兎は動きを止めます。なぜ兎の動きが止められず、見失ってしまうかというと、中途半端に意識が二匹を行き来するので、兎一匹、一匹への正確な方向感覚がつかめなくなってしまうのです。一匹を追いかけていても、遠いところにいるもう一匹に目が行き、さっき追いかけていた一匹を見失ってしまう、ということはなくなるはずです。
真剣に向き合って、空回りしてしまったら、そこで成長していけばいいのです。そうやって作っていくのは友達であり、性格であり、兎を追うことで青年期に成熟していくゆえんだと思います。
だから、恐れず兎を追いかけていきます。
---終---
兎を追う