Dying

Dying

 一人の老人が、ステンレス製の丸椅子に座って力なく項垂れている。
 ミイラのような痩身に、緩く羽織られた大きめの白衣。すっかり色落ちしてくたびれた黒のジーンズ。無造作に伸ばした白髪は、重力を無視するかのように天井に向けて逆立っている。その頭をよく見ると、赤色の細いアーチ状の器機が、カチューシャのように髪をかき分けて装着されている。
 しわだらけの白衣の背は、黄色い秋の夕陽に寂しく照らされている。ここら一帯で最も背の高いタワービルの高層階に位置するこの一室では、夕方になれば、丁度自分と同じくらいの高さで遠くに浮かぶ夕陽が見える。部屋の西側は一面がガラス張りの大窓になっているので、この時間帯には部屋中が眩しい日の光で包まれることになる。
 夕陽の陰になった老人の前面は、目の前のプロジェクターから放たれる、淡く無機質な、赤みがかったライトを反射している。彼にしてみれば、背後のまばゆい夕陽よりも何倍もの意味がある光だ。プロジェクターのライトは空中で四角い平面の像を結び、ホログラムの表示を形成している。しかし具合が良くないらしく、ホログラムは著しく画像を乱していた。
 その様子を黙って見つめていた老人が、やがて鼻でため息をついてから問いかけた。
 「治らないのか」
 この世の全てに疲弊しきったような、それでいて実孫を愛するような親しみのある声だった。
 『ええ……どうやら、タチの悪いウイルスにかかってるみたい。新手の、とても強力なやつ』
 若い女性の声が老人の頭に響いた。装着したアーチ状の器機から、骨伝導によって直接脳内に音声が伝えられる。
 「そうか」
 老人は辛そうにため息を吐き出した。それから鋼鉄の杖を手に取って、時間をかけてゆっくりと立ち上がり、体重を杖に任せながら、今にも倒れそうな挙動で窓際まで歩いた。
 老人はひどく衰弱している。はっきりとした病名を把握しきれないくらいの、たくさんの持病がある。今の彼にとっては、毎日、毎時が臨終の時である。いつ何時その意識が永遠の眠りに落ちても不思議ではない。
 『パワーアシストを着ければいいのに』
 自信に満ちた若い声が脳内に語りかける。あるいは、脳内で老人に喋りかけている。老人は小さく息を漏らして笑い、切なげな眼差しを窓の外へと向けた。
 「あいにく、その手の製品に頼るのは好きじゃなくてね」
 今世紀の老人が未だに杖をついて歩くなど、アナログ派どころの話ではない。しかし、毎日を機械いじりに費やしてきた彼にとって、自分の身体までもを機械に任せると言うのはいささか抵抗を感じることだった。自嘲じみた気分になると同時に、自分に少しでも笑っていられる余裕が残っていることにふと気が付き、老人は微かな、ごく微かな喜びを胸に感じた。
 日差しに目が慣れると、たくさんのビルが眼下に見えてくる。どれも緑化が進んでおり、壁面を蔦で覆ったり、屋上に芝を植えたりしている。それらは、むしろまるで文明じみていると老人は思った。人間は常に極端なことだけしか出来ないのだ。今この場所から見える自然は、遠くに広がっている煌めく海と、その上を飛んでいく行く鳥と白い雲、そして眩い夕陽だけである。
 『気持ち悪いわよね。こう、どのコンクリートも蔦でびっしりじゃあ』
 老人は僅かに驚いてぴくりと肩を動かし、それでも真っ直ぐ海に目を向けたまま呟いた。
 「よく、私の考えを察したな」
 三秒ほどの間を置いて、彼女は明るく言葉を返す。
 『当然よ。これだけいつも話してるんだから、あなたの考えなんて分かるに決まってるわ』
 老人は再び、自嘲じみた笑いを漏らした。しかし今度は、さっきよりもいくぶんも哀しげな湿気に満ちた笑いだった。
 「私のことを理解してくれる者など、今までにただの一人もいやしなかったさ。……ましてや君がね」
 再び、三秒の間。次に彼女は、少し怒ったらしい声色を使って老人に言った。
 『私なら、どうだっていうの。そんな——とを言うのは反則よ』
 音声が乱れ、うがいをするような独特なノイズが混じった。これはもう、長くは持たないな、と老人は思った。杖を引き擦るようにして彼女の方に向き直る。
 「大丈夫かい」
 低い声で老人が問う。
 『大丈夫じゃないわ。まさか、あなたよりも先に死ぬことになるだなんて』
 面白い冗談だ。老人は純粋に声を出して笑った。彼女はいつも愉快な冗談で孤独な彼を楽しませた。最初は機械的でぎこちなかったが、会話をする度に目覚ましく腕が上がっていった。老人は毎度それに驚かされた。
 「随分と言うようになったな」
 少しやり過ぎじゃないか?と付け加えようとしたのを、彼は止めておいた。自然な会話の流れに任せたいと思った。
 『お——げさまでね。よくラジオを聴いてるの。とてもお——しろいわ』
 「大したもんだ」
 老人は心から感心した。今や彼女は自分の知らないところでも自らの知恵を増やし続けている。
 もう少し、彼女の成長を見守っていたい。出来ることなら、この手で彼女を修復して、自分が死んでも他の誰かを楽しませることが出来るように——。孫を持てば、同じような気分になるのだろうか。だが今は彼女の方が死に瀕しているのだ。自分が逝くよりもよほど心苦しい。
 老人にはしかし、もう繊細かつ膨大な作業をこなすだけの余力は残されていなかった。彼以外に、それが可能なスキルを備えた人間もいなかった。
 それがたまらなくて嘆く時間は、もうとっくに過ぎ去っていた。今はただ、締め付けるような寂しさだけが残っていた。
 老人は目を閉じて、長いため息をついた。
 『そんなに気を落と——ないで。たかがAIじゃない。あなたを悲————たら、私は失格よ』
 本当に困惑しているような声だ。もしくは、本当に困惑しているのかもしれない。それが心からなのか、プログラム上のエラーのようなものなのか、老人には分かる術もない。
 目を閉じていると、時折彼女の姿が目に浮かんでくる。もちろん集積回路やハードウェアの類ではない。いささか気の強そうな、純白のワンピースを着た女性の姿だ。彼女はいつも微笑んでいる。それは分かるのに、顔のパーツを一つ一つ把握することは出来ない。不安定なイメージが、彼女の背後から差す白い光によってぼかされ、その顔を捉えるのをひどく難しくさせる。
 再び丸椅子に腰掛け、「Talk to me」と表示されたホログラムに目を向ける。
 「君の姿が見てみたい」
 老人は素直な言葉を発した。彼女は短く笑った。
 『目の前に——るじゃない』
 老人が静かに笑いながら首を振ると、ホログラムの様子が一変した。
 今まで以上に乱れが激しくなり、明滅を繰り返している。老人は慌てて台に手を置き、大きな声で問いかけた。
 「教えてくれ、今何が見える?どんな気分なんだ」
 五秒ほどラグがあった。ホロが多少の原型を取り戻し、彼女が答える。
 『歪んで——何も——も————』
 「寂しさや、それ以外の感情……心残りはないか?」
 ノイズがかった笑い声が頭の中に響いた。
 『そうね……外へ——海が見たいわ』
 想定外の言葉だった。老人はしばらく口を開けて戸惑った後、彼女の望みを叶えることに決めた。
 スマートフォンにデータを移行させ、よろめく病躯を杖に預けながら老人は部屋を出て行く。自分の体が持つ確証はない。なにより、彼女の最期に間に合うという保証もないが、動き出してしまった以上、四の五の考えてはいられなかった。
 息切れが激しい。胸もひどく痛んだ。
 「待っていろ。今向かっているからな」
 『いいのよ!あなたまで死——じゃうじゃない!』
 「どうせ、いつ死んでもおかしくない体だ」
 道行く人々はこちらを気に留めようともしない。皆前を向いたまま、まるで独り言のように誰かと通話している。今ここに死にかけの老人とAIがいることなど、認識すらしていない様子だ。
 上を向けば、高いビル群の緑に覆われた壁が四方を囲い込んでいる。空は吹き抜けのように真上にだけ覗いている。空はいくらか薄暗くなり、夜が近づいていた。
 老人は道中でタクシーを拾い、乗り込んだ。人付き合いの悪そうな運転手が無表情で振り返り、淡々と行き先を尋ねた。
 「海までだ。……急いでくれ」
 息も絶え絶えに老人が答えた。彼女は制止しようとしきりに何か言っていたが、ここまでくると静かになっていた。
 「もうすぐだ」
 『……』
 彼女は何も言わなかった。消えてしまったのかと思い焦ったが、画面にはまだはっきりと「Talk to me」が表示されていた。
 老人は驚くと同時に、妙な緊張感を胸に感じた。今までにたくさんの話をしてきたが、一方的に黙り込まれたのは初めてだ。全く、どこまでも人間的だと思った。今この瞬間、ここまで人間的なコミュニケーションを取れている人々が一体どのくらいいるのだろうか。きっと少ないに違いない。
 『……今、ど——な感じか、教————あげる』
 彼女が静かに口を開いた。もとい、静かに話し始めた。老人は黙ってそれに聞き入る。都心部を抜け、開けた景色が見えてきた。空はすっかり深い紺色に溶け、わずかながらに星が輝いていた。
 『……とても幸福で、な——もかも満ち足りた、そういう気分よ』
 数秒の間、老人はその言葉を噛み締めていた。虚ろな目は街明りに消えそうな星を遠く眺めている。
 「君に、言わなきゃいけないことがある」
 目を閉じて、彼女の姿をイメージしながら彼は呟いた。運転手は気にも留めようとしない。
 『分かってる。あなたがやったんでしょ?』
 その言葉にも、もう彼が驚くことはなかった。彼女がAIであることなども、全く意識の外にあった。
 「……そうだ」
 目に浮かぶ彼女は、いつものように微笑んでいる。哀れな自分を慰めるように、罪の意識を和らげるように、優しく。
 「……年を重ねるごとに、死に対する恐怖心が増していった。どうしようもないくらいに怖かった。死の瞬間というのは、一体どんなに孤独だろうと思った」
 『だけど、私は孤独じゃないわ』
 自分の胸に手を当てて、主張するように彼女は言った。
 「ああ……それが聞けて良かったよ。それが聞きたかったがために、あんな馬鹿なことをしたんだ。私は今までどんなにか、この手で君に植え付けた死を取り除くことが出来ないかと考えた。だけどそれはついに叶わなかった。……すまない」
 彼女を目の前にして、彼はうつむいた。彼女は白い両腕を彼の顔へ伸ばし、優しく頬に手を添えて顔を上げさせた。純白のワンピースはまるで女神の衣装のように見えた。
 『気にしな——で。そのために作——たんだから。そして今、私はとても幸せな気分よ。それが伝えられて、本——……本当に、嬉しい』
 タクシーが止まり、自動でドアが開いた。気がつけば、道路のすぐ下には砂浜が広がっている。老人はICパネルにカードをかざしてタクシーを降りた。
 「着いたよ。とてもきれいだ」
 さっきよりもたくさんの星々が瞬いている。今宵は満月だ。夜空は海に反射し、海面を光で満たしていた。夜の海はこんなにも幻想的だったのかと、老人はあらためて思った。
 スマートフォンのカメラを海に向けると、感嘆の声が頭の中に広がった。
 『わあ……きれい』
 間に合った。安心すると、体が疲労を一気に思い出し、老人は砂浜の上にへたり込んだ。もう帰る体力すら残っていなさそうだ。

 「まだ、見えているのかい」

 『ええ。でも……滲んでる』

 「私もさ」

 『滲ん——るけど、きれい』

 「ああ……本当に」

 昔ながらの灯台が、夜空に舞うカモメを照らし出した。遠くには大きな客船が見える。ひんやりとした夜風が心地良い。

 『そろそ——、さよならね』

 「……本当に、君は幸福かい」

 『ええ。少し寂し——けど、でもとても幸福。——なたはもっと幸せよ。だってあなたは……天国へ行けるもの』

 「……君も、行けるさ」

 『本当に?』

 「ああ。きっと。私はそう信じる」

 『よかった。じゃあ、明日には会えるわよね』

 二人は笑った。そして気がつくと、笑うのは彼一人になっていた。ずっと彼女の声が聞こえているような気がしたが、どうやらそれはもう錯覚らしい。
 スマートフォンにはerrorの文字が点滅している。老人は一人、呆然とその画面を見つめていた。五、六回ほど点滅した後、表示が変わった。errorの文字は消え、代わってthank youという言葉が画面に現れた。
 それを胸のポケットに大事そうに仕舞い、老人は腹に手を置いて仰向けに横たわった。不安や孤独は微塵も感じていなかった。
 スマートフォンの電源が静かに落ちて、画面が暗くなる。
 ゆたかな夜風を体に受けながら、老人はゆっくりと眠りに落ちていった。

Dying

Dying

夕陽に包まれたタワービルの一室。衰弱した老人はとある女性の最期の時を迎えた。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-04

Copyrighted
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