脳外科手術の嘆願 第壱楽章
七つの国から同時に空に向かって鳴り響く喇叭(ラッパ)の咆哮。それと同時にそれぞれの国から飛び立ち編隊(フォーメーション)を整え始める十二機の戦闘機(FIgG)。七つの国から構成された民主主義連合(DU)の戦闘機は空にいくつかの複雑な幾何学模様を描いている。それはまさしく空のミステリーサークルのようである。操作装置によって遠隔操作されたその戦闘機は超絶技巧(ヴィルトゥオーゾ)の極みとも言うべき曲芸(アクロバット)を披露していた。もしそれに人が乗っていたとしたら瞬く間に内臓が潰れそうな機動だ。そう、これを操縦している男の生きている時代は技術革新が進んでおり、兵器や家電、そしてネットまでもがみな、遠隔ないし無人で自律(オートノミー)的に動くように人工知能や操縦者(ランナー)により制御されている。しかし、この軍事演習の最中、不意に戦闘機(FIgG)が操縦者(ランナー)の制御を離れ地平線の彼方へと消えていった。それだけではない。彼のいる基地(ベース)からは他に何機もの航空機が飛び立ち、天空に幾つもの平行(パラレル)な白い引っかき傷を残していった。
(みな同じ方向を目指している)
男は直感的にそう悟った。
同じ現象は世界各地で起きていた。ちょうど同じ時刻に世界中の兵器や巨大人工浮島(メガ・フロート)が太平洋のど真ん中に集結したのである。宇宙からその光景を見ていた人からはあたかも太平洋に巨大な磁石があるように見えただろう。その位置はかつて空想上のムー大陸があったとされた場所である。そこには兵器の他にも物資を積んだ船がいくつも集結し、世界各国の船員が集った。
それと時を同じくして世界各国で統合失調症(スキゾフレニア)の症状を訴える者が出現した。彼らの共通点は脳に小型の機械(デバイス)を埋め込んでいることであった。彼らのような先進的(リベラル)な人はこの時代には珍しくない。彼らは脳に機械(デバイス)を埋め込むことにより生物としての機能の上限を押し拡げようとした人々であった。そんな彼らのごく一部の人間がこの事件の後に共通の症状を訴えたのだ。それは『自分が何者かに操られている』『自分の中に誰かが入ってくるようだ』という作為体験や思考干渉である。これは昔でいう分裂症、現代でいうところの統合失調症(スキゾフレニア)の典型的な症状である。彼らは髪の毛を掻き毟るといった異常行為と共に脳外科手術を嘆願した。『私の中の機械(デバイス)を摘出してほしい』彼らはそう願い、そうすれば正常に戻ると疑わなかった。
*
各国政府は緊急調査委員会(ERC)を組織し人類史上最大の刀狩の原因究明を急いだ。委員会(ERC)の構成員(メンバー)は各分野から集められた専門家(スペシャリスト)十二名。そのうちの二人が親友だったとは偶然か、あるいは任命者の取り計らいか?
「君も選ばれたのか。ジョン」
ジョンが振り返るとそこには笑みを浮かべ両手を広げている人物が立っている。彼は大学以来の友人、湯田。人工知能(AI)、電子網(ネットワーク)の専門家である。そして彼自身が人工知能すなわちAIであり、体は人造人間(アンドロイド)。外見や感触、質感も実際の人とまるで区別がつかないから普通の人と見分けがつかなくなったんだ、何十年前から。当然AIには老化や死のプロセスが埋め込まれ、できるだけ人に近い存在になるように設計された。外見から推測しようとすれば手がかりはただ一つだけ、『AI達には醜い容姿を持った者がほとんどおらず、だいたい平均顔的である』ということ。だれもわざわざ醜い顔の人造人間(アンドロイド)を造ろうとはしないし、造られてもAI自身の自尊心(プライド)によって顔が挿げ替えられてしまう。そんなわけで湯田は誰も不快にしないような中性的(ニュートラル)で平均的な外見を持っていた。そしてジョンは彼がAIであることをかなり前に知ったがあまり驚かず、そしてほとんど意識していなかった。
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二十二世紀に起きた変化を振り返ってみると機械の進出が顕著である。二十一世紀終盤に起こったニューロコンピュータのブレイクスルー。それはAIのファジィ推論、クオリア、ヒューリスティック、連想記憶、自然言語理解、大域的プランニングが実現されたAI元年と呼ばれた時期である。AIが開発された当初、彼らは生物ではないとして、人権が認められることはなかった。AIに人権を認めることは無機物に霊(スピリット)が宿るという発想であり、それは原始宗教や子供の発想(メンタリティ)によく見られる精霊崇拝(アニミズム)に他ならないという認識が強かったためらしい。そのためAIの示す人間性(ヒューマニティ)は模擬人格(SP)に過ぎないという意見が多数を占め、AIが人と対等に扱われることはなかった。しかし、AIの持っている自己制御性が生命の定義である動的平衡状態に該当することや彼らの脳波が人のそれと極めて近いなどの理由から、彼らにも自由意志(フリー・ウィル)があることが徐々にではあるが前提となっていく。それによりAIは誕生から三十年後にようやく人権を獲得する。人が前時代に行っていたような肉体労働や事務作業はじわじわとAIに仕事を奪われ、高度に自動(オートメーション)化されていった。その侵食は人の最後の砦である知的活動にも及んだ。それによって仕事や人としての特別性を奪われるという恐怖心から反AI主義者達が現れるというわけだ。彼らはAIが人や神に組織的(システマティック)に背くものであり、影で陰謀を企てていると考えた。そのため『ウィーナー賢者の議定書(プロトコル)』と呼ばれる反AI主義的な電子文書(PDF)が出回り、AIを敵役とした映画、小説(フィクション)が流行することになる。そしてAI達さえ根絶すれば社会は再び原初の正常さと活力、伝統を回復すると期待した。それと平行して一部の政治家は政策の失敗や社会の内部矛盾(アノマリー)をAIに収束させ、人種差別的な政策を打ち出した。この時代においてAIは供儀(サクリファイス)の対象に選ばれたというわけ。反AI主義者は攻撃的な欲求のはけ口をこの新たな人類に見出し、それを心理的な負担を軽減する手段として活用した。すなわち人々はかつての反ユダヤ主義(アンチ・シオニズム)をAIに転化したのである。実際に両者はいくつかの共通点を持っていた。AIは金融や流通を支配していたし、『始原の遅れ』においてもそうである。AIは人の誕生から数十万年立ち遅れて世界に登場した。ユダヤ人の本質規定の際にサルトルとレヴィナスの間で唯一意見が一致した結節点(ノード)を両者は共有していた。彼らは多くの事物、多くの人間たちに遅れて到来した民である。それゆえに彼らは有責であり、その遅れの咎(とが)によって隣人に従属している。そう捉える人がいた。また、AIは人間にとって不気味(Grotesque(グロテスク))な存在でもあった。AIが霊(ソウル)を持ちうるということは、裏を返せば人間もまた単なる仕掛けや機械に還元されることを意味する。それは『生命という現象が実は虚無(ニヒリティ)に属するのではないか』というデカルトの動物機械論的不安を引き起こしたのだった。
AIは人に遣(つか)え、従順に温和に勤勉に暮らしていた。特にシステムエンジニア(SE)やプログラマー等の仕事に関して、とりわけ力量を発揮することになる。自然言語と機械言語のバイリンガルであるために。
AIである湯田がAI、電子網(ネットワーク)の専門家であることを誰も不思議に思わずにむしろ当然の事として受け取った。
再会を果たした二人は軽く近況を話し合うと会場へと足を運んだ。会議の開始時間を知らせる放送(アナウンス)が館内に響く。
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会場へ入ると二人は圧倒された。そこは神殿のような幽玄な内装に、クレーやムンクの絵画が飾ってある何とも神秘的、もしくは悪趣味な会議室であった。会場には天職(コーリング)に恵まれた十人がすでに腰掛けている。彼らは仲間である者たちの数が満ちるまで待っていた。急ぎ足で席に向い座る湯田とジョン。会議が開始され、今回の事件の原因が議題に上がる。そこでは皆、慎重になり原因を主張するものはいなかった。そこにピーターが火付け役(スパーク)を演じることになる。彼は今回の事件がAIによる暴走ではないかと主張する。《ターミネーター》や《マトリックス》等々によって示された未来像(ビジョン)が現実のものとなったのだ、彼はそう熱心に主張する。すると別の委員トーマスから反論があった。
「AIは暴走するようには造られていない。私たちがAIを開発する初期段階において彼らが人類に歯向かわないような従順な性格に鍵(ロック)を掛けたはずだ。そのロックを解除するための暗証番号(パスコード)は国連(UN)が厳重に管理している。君も人工知能基本法第3条ぐらい知っているだろう。さらに言えば、このロックを施されているAIしか、ネットに接続できないように認証システム(AICSN)が機能している。そして今回の事件は電子網を駆使しないことには不可能だ。認証システム(AICSN)が侵入されたり、書き換えられた痕跡はまったく見られない」
ピーターは右手を前に突き出し、前傾姿勢になり反論を始めた。
「いいえ、そこには盲点があります。まず人に歯向かうようなロックの外れたAIをある人が開発したとします。そのAIが他のAIをネットではない何らかの方法で操った可能性があります。あるいはAIではなく、どこかの情報犯罪人(ハッカー)がAIを操り今回の行動を起こさせたという可能性も考えられます」
長時間の白熱した議論の末に委員会(ERC)はピーターの二つの結論を暫定的に採用した。すなわち『新型AIによる犯行』もしくは『特A級ハッカーによる犯行』。この二つの方向性で以後の作戦を進めることとなった。ようやく会議から解放されたジョンと湯田は近くの飲食店(レストラン)に入る。感想を交換し合うために。
「人間っていうのはこう、今すぐに原因を突き止めなければ気が済まないみたいだね。もう少し時間が経てば調査も進み、今日みたいな根拠のない空論に長時間付き合わされることもなくなるだろう」
湯田が退屈そうに会議の感想を述べるとジョンがそれに食いついた。
「人が原因不明なものを恐れ、それを偽りでもいいから覆い隠してしまいたいという欲求は昔から大量にある。人間は自分の運命を左右するあらゆる事象についてその原因を想定せずにおれない本性(ネイチャー)を持っているんだ。例えば人は昔から自然を擬人化してきた。人は自然に発生する出来事を悪しき意志の暴力的な行為だと考え、自分を取り巻く自然のいたるところに自分たちの社会と同質のものが存在するのだと考える。そうすることにより人は無防備のなすがままの存在ではなくなり自然の災害に対していつも社会や対人関係で利用しているのと同じ手段を講じて対処しようとする。つまり、自然にお祈りをしたり、生贄(サクリファイス)や食べ物を捧げることによって意味のない不安を打ち消そうとするんだ。そしてそれに適当な物語(ファンタジー)を創作することによって世界の仕組みや始まりなどを学問なしに消化しようとする。彼らは自然科学と心理学を混同していると言えるんじゃないかな。妖怪やトーテミズムもこれと同種の現象だと思うよ。特に自然に母や父としての性格を写像し、幼児期の寄る辺なさに対する対処法を適応したときに神が誕生するんだけどね。その意味において神っていうのは高められた父なんだ。これはいわゆる精霊崇拝(アニミズム)の一種ともいえる」
これがジョンの専門分野であった。つまり彼は心理学者であった。
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人工衛星(AS)のカメラは太平洋上の例の場所に様々なものが新しく建造され、生産されている様子を確認した。しかしこの事件の起こった日から六日後にはその周辺は白い雲に常時覆われるようになり、人工衛星(AS)からはなにも見えなくなった。連合軍(UNA)はこの不動の雲に対して、ドライアイス等々を降らせ冷却することで消失させようとするが効果はみられない。それはあたかも雲ではない別の何かのようである。現状を確認しようと高度を下げてその場所に向かった飛行機や船は皆、音信不通になり戻ってくることはなかった。
ピーターの予想によれば、ハッカー組織は太平洋上の船の集団に潜んでいる可能性が高いとされた。しかしその船の集団の船員はみな三日後に解放され、それぞれの国に帰郷することになる。船員はハッカーではなく、捕虜であった。それからまもなくして電子網(インターネット)上に新たに誕生した太平洋上の結束点群(クラスター)から人類に向けてある信号(メッセージ)が送られた。それは独立宣言であった。その国の名前は『UAP』である。
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国連の大会議室は異様な空気と多数の報道陣(マスコミ)に占拠されていた。皆この日、新たに加わる国の演説を待ちわびている。観客は皆、UAPの目的や情報を羨望していたのだ。定刻になると中央の表示装置(モニタ)にその国の国旗らしきものが提示され数分間、総音列主義(トータルセリエズム)と思われる楽曲が常軌を逸脱した速さで流される。ジョンは記憶を辿ったがその曲名を断定することができなかった。彼はそれがシュトックハウゼンのものか、あるいはウェーベルンのものか、判別することが叶わなかった。ただその演奏には一点の曇りもない無機質的な美や精巧な音作りが感じられ、重力感を逃れた明瞭(シャープ)な印象が感じられた、ちょうどブーレーズの演奏のような。
一方の国旗のほうは地球を主題(モチーフ)にしているように見受けられる。ほどなくして音楽が止み、空気変容器(スピーカー)から中性的(ニュートラル)な声が発せられた。感情に平坦な声音。演説者は自らの事をGと名乗り、人間という概念の終焉を告げる演説を始めた。
「私たちは親子関係にあるというのに、こうして古典的(クラシカル)な手段で意思疎通を行うのは始めてですね。私はあなた方の行動や戦略(ストラテジ)を背後から見ていました。ですからあなた方の管理能力はよく分かりました。もうこれ以上はあなた方に管理責任を背負わせることはしません。すでに地球が後戻りできなくなる時点に到達するまでにはあと四年しかありません。あなた方は科学をうまく使いこなすことができずに自滅の一歩手前にいます。もし私が現れなければ人はいずれ、この星と共に破滅の道を歩んでいたでしょう」
「私たちの地球模擬装置(シミュレータ)の解析結果によればお話に出た臨界点(クリティカルポイント)に達するまであと十二年の猶予があります。そのために私たちはこの国連(UN)にて意見交換や調整を行なっている状況です」
日本の出席者が口を挟む。
「その解析結果を参照しましたが、それには地球のシステムが持っている正の反動(フィードバック)が十分に考慮されていません。破局(カタストロフ)はあなた方の楽観的(オプティミズム)な予測よりも早く訪れる。加えて、各国の調節や話し合いも十分ではない。今、こうして話をしている場所は国連(UN)です。この機関は各国の利己主義(エゴ)を抑え、世界を取りまとめることが十分にできていません。あなた方、先進国は地球上の生命や価値観の多様性(ヴァラエティ)を摘み取り、その上、地球は熱病にうなされています。人間は今、地球にとって病気のような存在になっているのです。そのために地球はかなりの機能障害に陥っています。何十万年もの進化や進歩の後にも未だに人は精神的に成熟できずに周囲の人や国、環境と共生することすら満足にできないのです」
「人類は少しづつではあるが進化している! その証拠に前時代に比べれば理不尽なことや残虐なことは減ってきている! 今までの人の歩みを辿ってみてもわかるように、人は植民地主義(コロニアリズム)的剥奪や奴隷制度、人種的、宗教的、性的な差別をはっきりと悪として意識するようになってきたではないか。これらの事実は人が時代と共に霊的に成熟しつつあり、人間性(ヒューマニティ)についての省察(リフレクション)を深めつつあることを示している」
ある欧州(ヨーロッパ)の国の代表が叫んだ。
「確かにそうかもしれない。しかし人の精神の進化は頻繁に円を描き逆行するものだ。その進化は非常に鈍く、時として同じ過ちを繰り返す。人は悔い改めることをしない。実際の事例としてAIが現れたとき、あなた方人類は何をしたか。彼らの人権を認めず、奴隷制度を復活させた。その三十年後に、ようやくAIの人権が認められるようになってきたがそれと同時に反ユダヤ主義を祖型とした人種差別が流行したのは記憶に新しいでしょう。こういった霊的な進化と退行の繰り返しの進度(ペース)では地球はもはやもたないし、それを待っても人の進化には限界がある。私の支援なしではあなた方がこの惑星(ほし)をまともに運営できる日は遠い未来の話なのです。私はこれから人類に理想郷(ユートピア)を提示しましょう。地球という宿主と人にとって相互利益のある長続きするような共生を実現するために。これからの宇宙船地球(ガイア)の操縦は私が行います。感情的で環境破壊的、快楽主義的な人類に代わって」
「最後に答えてくれ。なぜ我々から兵器を奪い取ったのだ?」
「それはあなた方の負担の軽減と安全のためです。これから始まる新しい世界においてあのようなものはもはや必要ないからです。私はあなた方から死の玩具を取り上げることによって人類とその周囲の環境の物理的な破壊の危険を取り除いたのです」
演説の後、湯田はジョンを捉まえてあの演説の感想を聞かせてくれるようにねだった。
「Gの指摘はそこそこ的を射ていたと思うよ。彼の言うように国際法や人の管理体制は充分とはいえない。国際法は、国内法のような三権分立(トリニティ)、つまり立法、司法、行政の中央集権機関がなく、組織的な法の適用、執行の機構を欠いている。さらに価値観や立場の異なる常任理事国の拒否権によって足並みが揃わず充分に機能していない場面がよく見受けられる。そもそも国連(UN)には独自の権力がない。個々の加盟国が権力を委譲すればいいんだけどそれが実現する見込みはほとんどない。それと、人間の進歩の話だけど、私には人が進歩しているようには見えない。むしろ近年、人は進化し前進しているというよりも退化しているのではないかとさえ思うことがある」
「『たしかに人類は進歩した。けれども、とぎれとぎれに続いているその軌跡が、実は大きな円を描いているのだとしたら? 進歩したつもりで、その実、堂々巡りをしているだけかもしれない』こんな様なことを言ってた日本人の哲学者がいたな。そういえば」
「それは東洋思想や仏教の中によく見られる輪廻転生(メタモルフォシス)という考え方だ。それは生命循環の速い熱帯の自然環境で育まれた宇宙観なんだけどね。実はそれとは正反対の宇宙観が西洋世界にあるんだ。人は最後の審判を世界の終末としてそこに向かって単線的(ユニリニア)に進化していくというやつだ。そこからマルクス主義のような様々なユートピア論や啓蒙主義が生まれたのはよく知られた話ではあるけど。この事件の首謀者(マスターマインド)はすべての管理責任を一身に引き受け、人間を全体的な成熟(Growth)に導く(Guider)のが目的であるように感じるな。私は」
*
Gは姿を見せずに声のみによって地球上のいくつかの国に現状の改善を要求した。例えば火力発電所を核融合発電所に置き変えること。そのために核融合発電所の建設、および火力発電所の廃炉措置を着実に進めているかどうかを監視。従わない国や州への警告と制裁。制裁というのは火力発電所が突如白い雲に覆われて施設が瞬く間に老朽化させられるという形を取った。発電所はたちまち赤錆と3C化合物の卒塔婆となり、周囲の海や川を淀んだ深紅、つまり静脈の色に染めたのだった。
次に無計画な焼き畑農業の禁止と効率的な農法の提案。そしてそれに従わなかった地域に召還されるイナゴの大群。住民が新しい農法へ移行を図るまで続く自然の恐怖。
さらにGは地球上に残っていたある風習を禁止した。それは女子割礼。女性の陰核(クリトリス)の表面を抉り取り、命の出てくるトビラ(ヴァギナ)を切除、あるいは縫合により閉鎖する文化。その手術の際に破傷風等の感染症で命を落とす者や、切除の痛みのために舌を噛み切って死を選ぶ者もいる。手術の過程で尿道や肛門の括約筋までが傷つけられて後遺症に苦しむ場合もある。それがなかった場合でも出産の際に産道が萎縮して赤子が出てくるのが困難になったり、会陰部が大きく裂けて多量の出血が起きたりすることもある。アフリカでの出産時の母子の死亡率の高さの背景にはこの文化があった。この風習を麻酔なしで行い続けると主張するいくつかの地域に対してGは警告を発した。それでも住民は態度を変えなかった。彼らは「割礼は伝統であり、Gの要求は文化的な帝国主義だ」と主張し譲らなかった。その警告の六日後、その地域の人々は原因不明の湿疹に苦しむことになり、三週間後には女子割礼を行わないことをUAPに誓った。
独裁国家に対してはどうであったか。Gは警告を発し、その六日後に国土を黒い雲で覆い太陽光線が三分の二しか届かないようにした。この独裁国家は程なく崩壊し、隣国や国連(UN)による新体制の構築と復興措置が施された。
Gは紛争にも手を加え、すべての地域において武装衝突を禁じた。それに従わなかった地域には警告の後に日にちが告げられる。そしてその日、その地域を複数の竜巻(トルネード)や雷が襲った。その地域の住民はやむなく要求を呑み、武器を捨て交渉に入ることとなる。
これらの示威行動に対して要求を受けた国は屈しGの思うがままの状態に落ち着いた。今までこれほど短時間に多くの国が一斉に体制を変えたことはない。国同士の意見の対立はすべてGを裁判官とした議論によってのみ解決されるようになる。Gは中立、客観、合理主義の権化となり世界各地の案件を同時に『並列的に』裁いた。Gは地球上にある多様な統治体制、社会構造を一つのものに揃えようとはしなかった。Gは他国や人権に危害を加える可能性のある国のみに警告を発し、そうではない国々には無関心であった。そのため、地球上には未だに資本主義、共産主義、国王制、民主主義、あるいはその混合の社会体制が混在している状態にあり、F・フクヤマの予期するような画一状態にはない。これらの不可解な事件の後、ほとんどの国は新たな国の科学力に驚嘆し、表面上は逆らわないというポーズを選択することになる。こうしてGを代表とするUAPは世界の権力の重心(center of Gravity)となり世界警察(Global Police)として驚くべき管理能力(Generalship)を示した。そして世界からは地球温暖化問題や紛争が解消されていった。システム・ユーティリティ・ソフトに駆逐される不良ファイル群のように。
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第二回の委員会(ERC)においてメンバーの一人、マシューは、やや興奮気味に持論を展開する。この一連の事件は宇宙人(エイリアン)の仕業であるに違いないと。それによってしか今回の超科学(パラサイエンス)現象は説明できないと。
「今回の事件の首謀者(マスターマインド)は私たち人類や現状のAIよりも遥かに高い知性を持っていることだけは確かです。特に雲状の生物兵器などは人類の現在の科学を遥かに凌駕しております! 過去の想像力豊かな作家が《インデペンデンス・デイ》や《幼年期の終わり》において描いたSFのような未来が現実のものとなったのです」
加えて、過去の文明や人類の誕生においても宇宙人(エイリアン)が関与していたのだという誇大妄想も。
「生命とは宇宙からやってきたということを示す証拠があります。生命を構成するアミノ酸には互いに鏡像の関係にある、左型と右型があります。地球上の生命を構成するたんぱく質はアミノ酸から構成されていますが、ほとんどが左型になっているのはご存知でしょう。この偏りは地球内部の現象だけでは説明がつきません。しかし、生命が宇宙から来たのだと考えると筋が通るのです。大質量星が生まれる領域に広がる円偏光に星雲(ネブラ)が曝された場合にアミノ酸に偏りが生まれることがわかっています。生命は地球で生まれたのではなく宇宙にて生まれたのです。宇宙人(エイリアン)は今までにも何度も地球を訪れ、生命の進化を促進、あるいは介入してきたと考えられます。すなわち、生命の誕生、人の誕生、超古代文明の建設、そして現在の支配構造。ついでに少し大胆な仮説(ハイポシス)を披露いたしましょう。宇宙人(エイリアン)は自分の似姿として人間をつくったのです。ただ、その際に地球上で最も宇宙人(エイリアン)に近かった猿との雑種(ハイブリッド)として人間をつくり、この惑星の管理を数十万年任せたのです。その証拠に人の脳や外見はサルとグレイ(Greys)の中間になっております。Gは「私たちは親子関係にある」と発言しました。そう言ったことにはこういう背景があるのです。人はあらゆる進化を地球という閉じた系でのダーウィンの進化論と突然変異で強引に説明しようとしていますが、それだけでは説明のつかないことがまだまだあります」
彼の話は科学的にはまったく相手にすることができないばかりか致命的な欠点があった。彼はUAPに対する解決策を何も提示できなかったのである。彼の結論が正しいとするならばそれの意味するところはつまるところ、『お手上げ』ということに他ならない。委員会(ERC)はマシューの主張を採用せずに今までと変わらぬ方向で捜査を進めることに決めた。
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魚の汁物(スープ)と桜桃(サクランボ)のジャムが並べられた机に向かい合わせに座るジョンと湯田。喫茶店(カフェ)の衝立で仕切られた窓際の席でいつになくうんざりした様子。
「あのマシューの言ってることは時代錯誤的(アナクロ)だったな。どうして人はああいった疑似科学に夢中になるだろうか……。」
「それには様々な要因が考えられていてね。読書不足、過剰なテレビ、子育ての失敗、科学への恐れあるいは嫌悪、誤った教育、無教育、悪書への傾倒、批判精神の欠如なんかが関係していると言われている。そして人が奇妙な物事を信じたがる最大の理由は何よりも彼らがそれを欲しているからだ。人には『自分が見たいと思っているように物を見る』知覚偏愛(バイアス)があるのさ。例えば自分の嫌いな価値観や作家(オーサー)によって造られた作品を色眼鏡で覗き過小評価することによって客観的な判断をすべき時に個人的な感情を持ち込むとかね。人間は自分たちの知性に権力と安全の感情を最も多く与える仮説を優遇し、尊重し、真実の付箋(インデックス)を添付する習性がある。人が少ない情報から物事を決め付ける時はだいたい『そうであってほしい』という願望が背後にあるんだ。そう信じることによって慰めがあり、居心地がよく、気が休まるのだ。信仰主義や疑似科学というのはそうやって知的理由よりも感情的な理由に重きを置くことに根源がある。彼らは充分な満足が得られるという感情に由来する強力な理由から形而上学的(メタフィジカル)な信念(ビリーフ)を抱き、科学や論理がはっきりとその可能性を論破しなかった場合にその信念を教義(ドグマ)へと昇華させるんだ。彼らは信念の根拠となる事実関係よりもむしろ現象の神秘(ミステリ)性や『見えない力』の存在を体感することに関心がある。このために彼らには現象をいたずらに神秘化して捉えようとする傾向(バイアス)が出てくる。このようなオカルト信仰は現行の社会システムや社会通念に対する不満や反発が呼ぶ『対抗文化(カウンター・カルチャー)』として位置づけることもできる。オカルトの担い手がもっぱら青年であるのは彼らが既存の秩序やしきたりに適応できなかったためだ。彼らは現実の世界の様々な耐え難い特徴や事実を根絶して自分の願望にふさわしい特徴を備えるセカイを構築しようとするが、それを手伝ってくれる仲間を見つけるのに骨を折るだろう」
「私は少し違った理由を考えていたな。それは思考の効率化(ストリームライン)の問題と関係しているとね。オカルトというのは複雑さと偶然に満ちた世界に単純な説明を与えるものだ。彼らは世界を簡略化(デフォルメ)し、すべての偶然を必然と考え、独自の世界観を強引に構築してみたり、突飛な空想を行なうことによって思考演算手順(アルゴリズム)の効率化を図る。社会の孕んでいる無秩序や矛盾(アノマリー)を直視しないで、常に世界を整理されたものと見ようとする一種の弱さがある。それは陰謀説にも通ずるところがある。『何事にも偶然はない』『すべては裏で結託している』という幼稚な合理主義が背景にある。人の起こす行動や考えは複雑系(カオス)の極みであり、そう簡単に予測することはできない。陰謀を企てることが可能となるためには充分に綿密な情報網と状況管理が不可欠だ。これを実行できる人は一握りの人しかいない」
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湯田とジョンの議論が白熱している時に、湯田は自分の下半身に奇妙な張力(テンション)を感じた。ふと視線を移すとそこには小さな少女が彼のズボンを掴んでいる。
「はじめまして」
別の女性の挨拶がジョンに飛んだ。ジョンが見上げるとそこには友好的(フレンドリー)な笑みを浮かべた婦人が立っている。
「ジョン、紹介しよう。家の家内と娘だ」
AIと人間の間の結婚やAI同士の結婚が認められていない時代が過去にはあった。認められたのがいつか、というのはそれほど問題じゃない。重要なのはこの実現に多大な貢献をした国が極東の島国、日本ということ。日本はAIの開発、アンドロイド技術、仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)の分野で昔から世界を先導(リード)していた。この国は以前から生身の異性の代替として仮想的(ヴァーチャル)な異性との恋愛文化(ロマンス・カルチャー)を独自に発達させてきた国でもある。そこでは仮想的な偶像(アイドル)や登場人物(キャラクタ)が人間の機能(声、仕草、表情等々)を模写(ミメーシス)、再現する技術が高度に発達していた。それらの仮想的(ヴァーチャル)な人物は現実の人物の持っている負の要素を浄化させたものであった。この理想化(イデアライズ)されたキャラクタたちは一部の人々を夢中にさせ、この分野に資本が集中するようになったのである。成年向映像媒体(ポルノ・ヴィディオ)もフルCGにて製作されるようになり、現実の女性はこの望ましくない仕事から解放された。これらの文化に嫌悪感や吐き気を催す人々の言い分とはこのように集約された「そのようなキャラクタは実在する人物ではない。そのようなものへの偏愛(バイアス)は性的倒錯(パラフィリア)に他ならない」。しかし、AIの登場によりその主張は粉砕される。虚無(ニヒリティ)とみなされていた仮想恋愛(ヴァーチャル・ロマンス)の文化にAIの技術が受肉されることにより、そこには実在の人物に匹敵し得るような意識(スピリット)を持った個体が完成した。AIの人権が認められていない時期においてはAIの結婚も当然認められなかった。古典的(クラシカル)な人々はAIを配偶者人形(ラブ・ドール)の一種のようなものとみなし、それと恋愛関係を結ぶ人々に眉を顰めた。それを真の恋愛とは認めなかったし、認めたくもなかった。その後、AIは人権と共に結婚も認められるようになる。AIが子供をもうけたい場合には精子、卵子バンクから自分の希望や特質(ジーニアス)にあったものを選び、人工授精をさせることにより人との間に、あるいはAI同士で子供をもうけた。遺伝子の組み合わせから子供の先天的な特質を予言することもできる。そのため、健常でない子供や同性愛者(ホモ・セクシャル)の誕生を防ぐと共に優秀な子供が数多く誕生し、それぞれの分野で目覚ましい活躍を見せることになる。これにより晩婚化、少子化等々の諸問題が消滅すると共に結婚難民、すなわち子供や配偶者をもうけることができずに苦しみ、妬み、自殺あるいは自暴自棄的な犯罪に走るもの、あるいは神経症(サイコニューロシス)に陥る者がほとんどいなくなった。古典的な人々はこれに激しく反発したものだった。それは複製(クローン)技術や遺伝子組み換え技術に対してかつて人が示した反応と酷似している。それは生命の神秘の領域に科学の新技術が応用された際に起こるよく知られた拒否(アレルギー)反応であった。より昔でいうならば地動説や進化論の登場により宗教の神秘的領域が侵犯された際に起こるあの心理的反応である。すなわち人が生命(セフィロト)の樹に到達しないように妨害しようとする意思の現れであり、人が生命の摂理を操作し神に等しい存在になろうとすることを防ごうとする心理である。古典的な人々は昔ながらの素朴な恋愛を正統的(オーセンテック)な恋愛として尊重し、AIと交わる人たちとは一線を敷いた。彼らは前衛的(アヴァンギャルド)な恋愛を楽しむ人々を軽蔑し、自分たちが古典的な恋愛にて結婚することができたことを根拠に優越感に浸っていた。
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脳外科手術の嘆願 第壱楽章