脇から虫が
脇から虫が出てきちゃう女の子の短編です。
静かなるスラップスティック。
突然、脇から虫が出てきたら……
突然ですが、脇から虫が出てくるようになりました。
理由はまだ分りません。
気付いたのは今朝方でした。わき腹にかゆみを感じ何気なく手で払うと、何やら黒いものがヒュッと飛んで壁にぶつかったのです。カーテンの隙間から漏れる光でうっすら照らされたそれは、全国の婦女子の皆様が絶叫する虫でした。私も例外ではなくものすごい悲鳴を上げ、部屋に飛んできた両親に何事かと思ったと怒られたほどでした。
偶然虫が脇の下に居ただけではとお思いでしょう。私もそう思いました。しかし、洗面台の前で嫌な予感は確信に変わったのです。
ぽとり、と黒いものが脇からこぼれ落ちて行きました。鏡越しに見るそれは非常におぞましいもので、また絶叫し今度は両親に幻覚を見たのか、医者に行くしかないと、ひどく心配されました。しかし、私はこれを振り切って制服に着替えました。今日は、どうしても学校へ行かねばならないのです。
秋の気配が著しい通学路を、私はいつもより多めに着込んだ下着をごわつかせながら足早に通り過ぎました。ああ時間がない。もうすぐ、あの人があの踏切を通ってしまいます。
急いだ甲斐あって、私はいつもの時間、いつもの場所で、あの人を発見することが出来ました。
通学路の途中にあるこの踏切で、毎朝あの人とすれ違うのです。
名前はまだ分りません。
あの人の存在に気付いたのは三か月ほど前、雨の日でした。私はその日遅刻しそうであせってしまい間違って弟の傘をさして来てしまったのです。電車柄とかならまだよかったのです。よりにもよってオタク全開の萌え系アニメ柄の傘をさしていることに気付いた私は、濡れたまま学校へ行こうかとひどく迷いました。しかし、それで風邪をひいては元も子もありません。知り合いにだけは会わないように……慎重に辺りを確認しました。
その時です。なんと同じ柄の傘の人が向こうから歩いて来るではありませんか。私はきっとデブのオタクがさしているに違いないと思い、向こうもそう思っているのかと思いながらもすれ違いざまに顔を確認せずにはいられませんでした。
――ひどくイケメンでした。
なぜ、イケメンがあのような傘をさすのか。私は理解に苦しみました。オタクの世界にもイケメンがいるという事実を、その頃の私は知らなかったのです。
それからというもの、私はその人の顔が忘れられずに、次の雨の日またその萌え傘で登校してしまったほどです。弟は私のギンガムチェックの傘で登校したのでしょう。ああもしかしたらあの人も私の傘を見て喜んでいるのではないかと、期待に胸を膨らませました。しかし、時間帯が少しでもずれるとあの人を見つけることは出来ませんでした。
私は日に日に大きくなる恋心を抑えきれず、ついに明日告白をしようと決意し布団にもぐりこみました。それが、昨日のことです。
今、目の前にはあの人が居ます。踏切の向こう側で本を片手に立っています。
私は脇を軽く確認しましたが、虫の気配はありませんでした。
チャンスは、きっと今です。
脇から虫が出るからといって、この恋心を止めることはできません。
ゆっくりとあがる踏切を人と自転車が行き交いました。あの人は本を読むのを止めず、目線を本に向けたままこちらへ向かって歩いて来ます。私はその場に立ち尽くしたまま、あの人がここに来るまで待とうと思いました。距離にすると数十メートル。ダッシュしたら十秒もかからないこの距離が、どんなに長く感じたでしょう。あの人は、刻一刻とこちらへ近づいて来ます。胸の高鳴りは一層強くなり吐き気と喉の渇きで今にもその場に倒れ込みそうでした。
こんな私が告白をしようと思うなんて、頭がどうかしてしまったのではないかとお思いでしょう。完全にどうかしてしまったのでしょうね。脇から虫が出るくらい、どうかしてしまったのでしょうね。
「あっ、あの」
自分の声がこんなに高かったなんて今まで思ったことはありませんでした。緊張に緊張を重ねた内臓が今にも口から脇から体中の毛穴からところてんのように押し出されそうでした。こんな第一声じゃ、あの人に、気持ち悪がられてしまう――
「なんですか」
あの人は、無表情のままこちらを向きました。鋭い目と長いまつげがじっと私の方に向けられた瞬間は、もう髪の毛が全部真っ赤に染まって抜け落ちるのではないかと思うくらいでした。
「あ、あの、私……」
なんということでしょう。あんなに脳内でシミュレーションした会話なんて、さっき出した生ごみと一緒にゴミ収集場所に捨てられたのですね。
「脇から虫が出るんです」
そう言った方が、よっぽど気を引けるように思えました。でも私は、何も言えず口元を震わすだけでした。
「それって、桜之端高校の制服でしょう?」
ふぇッ、と思わず声が出ました。あの人、いえこの人は、私のことを少なくとも高校生だと認識してくれていたのです。
「そ、そうです、ご存知なんですか」
嬉しさでいっぱいになりやっと笑顔を出せた私はこの目の前のイケメンの目をしっかり見ることが出来ました。それはとても澄んでいて、まっすぐで、実直できっと繊細で愛情に溢れています。
「俺の友達そこに通ってるけど、○○ってやつ。もしかして知ってたりする?」
「へ……えええ、ああ、はい、ええと」
もう名前など聞き取れませんでした。聞き返すのも失礼かと思い、思わず下を向きました。高校の名前を言ってくれただけでも、私には天国だったのかもしれない。少なくとも、文化祭で○○に会いに来てくれたら私のことも気付いてくれるかもしれない。それに、一瞬でも目を見て話をすることが出来た。それだけで、幸せだったのかもしれない――
「あの、俺、遅刻するとまずいんで」
そう言って通り過ぎようとする彼の手元が視界に入った瞬間、私は目の色を変え彼を呼び止めました。さっきまでの蟻んこのような私はどこへやら。私は今、かつてない自信に満ちた目で彼の腕を掴んでしまったのです。
「あの、お話したいことが――……」
この自信の理由は分かっています。
彼の手の中にあった本の“世界不思議昆虫記”の文字を見て、私の臆病な豆腐心臓は今、ぬか漬けから出されたばかりの、いえ、畑から獲れたばかりの大根のようにみずみずしく硬い心臓へと変貌を遂げたのです。
脇から虫が