失われた夏 2 郊外のカフェ
九月に入った最初の水曜日。二人は、逢う事にした。
その日は、朝から雨雲が低く垂れ込めるような曇りの日だった。
彼は、午前中からステーションワゴンを走らせた。
約束の時間に、待ち合わせたカフェに着いた。
駐車場に、ステーションワゴンを駐車してカフェの中に入った。
中に入ると、室内は空調で冷えていた。
彼は、ホワイトとブラウンを基調にした、落ち着いた雰囲気の空間を見渡した。
窓際の席に、阿木貴子は頬杖をついて座っているのが見えた。
窓の外を見ていた彼女が、不意にこっちを振り向いた。
彼と彼女は、目が逢った。
彼は、一瞬だけ動揺した。心の何処かにある、やましい気持ちを彼女に見透かされた様な気分だった。軽い後ろめたさを感じた。
彼女は、頬杖をついたまま彼を見て微笑した。
そして、もう片方の掌を胸元の辺りで控えめに振った。
彼も、微笑すると軽く右手を挙げた。それから、ゆっくりと彼女の席まで歩いた。
彼女の席の斜め前まで歩いて来てから立ち止まった。
彼は彼女に向かって、ぶっきらぼうに「よう」と、だけ言った。
彼女は、懐かしそうに微笑した。
「こんにちわ。ミッキーマウスくん」
「なんか、何処かで聞いた挨拶だね」
「さっきの挨拶の仕方、あの夏の日の貴方そのものだったわ」
彼女は、楽しそうに笑った。
彼女の言葉に、あの夏の日の記憶が鮮明に浮かび上がった。
そうだ、あの夏の日にミッキーマウスのTシャツをきていたんだ…。
たしかに、待ち合わせ場所でぶっきらぼうに「よう」て言った記憶がある。
今日の彼女は、胸元のあいた白いTシャツに、色の褪せたブルージーンズのショートパンツを身につけている。足元は、華奢なヒールサンダルを履いていた。
あの夏の日の彼女も、似たような服を着ていた事まで思い出した。
柔らかいブラウンの髪を、後ろで無造作に束ねて、薄化粧の潤んだ瞳と口元が微笑している。
色の白い胸元に、控えめなデザインのパールのネックレスが、彼女の魅力を引き立てていた。
「待った」
「私もさっき来たところ」
「あいにくの曇り空だね」
「別にいいのよ晴れてなくても」
彼女は、オレンジのティーソーダを飲んでいる。
彼は、熱いコーヒーを注文した。
「貴方も白いTシャツに、色褪せたブルージーンズなのね。ベージュのスエードのスニーカーがいい感じ」
「ああ、この格好が落ち着くんだよね」
「恋人同士のペアルックみたい」
「あ、本当だ。偶然だね、ペアルックだ…」
「素敵だわ」
「君だって、魅力的だよ」
二人は、微笑した。
やがて、注文した熱いコーヒーがテーブルに置かれた。
彼は、砂糖もミルクも入れずに、そのまま熱いコーヒーを飲んだ。コーヒーの香りが、口元で漂った。
「今日は、何処に行こうか。何処に行きたい」
「海が見たいわ」
「海か…。午後の早い時間には、着くね。せっかくだから、途中で食事しょう。海の見える所で」
「そうしましょう」
二人は、しばらくカフェで話をした。
「この間、偶然に出逢った時。君だと解らなかったよ」
「そうね。あの頃は、ショートヘアにしてたから」
「あの頃、君は可愛いかったね」
「いやだ、変な事を言わないで」
彼女は、彼の言葉に敏感に反応した。
「そうだ、クラスの松岡を知ってるだろ」
「ええ」
「あいつ、君にラブレター百通くらい書いたらしいよ。結局、一通も渡せなかったそうだ」
彼女は、驚いた様な顔をした。
「ええ、知らなかったわ。百通なんて、そんなに想われてたの」
「初恋だったらしいよ」
「貴方だって、スポーツマンで格好良かったからモテたでしよ」
「そうかな。告白された事一回もないな」
「嘘でしょ。森下さんて知ってるでしょ」
彼女の言葉に、彼の気持ちは少なからずとも動揺した。
「あ、ああ。森下彩さん」
彼は、後ろめたい気持ちを表に出さない様に平静を装った。
「貴方に告白して断られたて聞いたわよ」
「え、嘘だろ。記憶にないね」
二人は微笑した。
「懐かしいわ。あの頃は、全てが新鮮だった」
「そうだね、学校の窓から海が見えた。いつも透明な深いブルーでさ、休み時間はよく窓際で眺めてたね」
「そうね。あ、ほら。一学期の期末テスト終わって午後から海に行ったじゃない」
「ああ、そうだね…。二人で行ったね」
「自転車に二人乗りして」
「うん」
「素敵な、夏の午後だったわ」
「完璧な夏の午後だった」
「誰もいない小さな三日月の海岸」
「あんな場所あるなんて、知らなかったよ」
「オレンジのアイスティーで乾杯したわ」
「あのオレンジのアイスティー、美味しかったよ」
「あら、嬉しいわ。あの時は、何も言ってくれなかったよね」
「はは、緊張してたんだよ。だって、女の子と二人きりなんて初めてだったし」
「ココナッツオイル塗ってくれた貴方の両手、震えてたわ」
彼は、彼女の言葉で思い出した。
そうだ、震える指先を何とか落ち着けるように、心の中で呪文のように唱えた事を…。
「はは、参ったな。気がついてたのか」
「そうよ」
「あの夏の日の午後に、僕は君に惹かれている事を自覚したんだな」
「気がつくのが遅いのよ。私は、高校一年から好きだったのに」
「本当に、あの日は素敵な日だった」
「過去形にしていいの。こうしてまた出逢ったのに」
「そうだね」
「そうよ。このストーリーは、まだ途中よ」
二人は、時を過ぎていくのを、忘れた様に、学生の頃の話に夢中になった。
二人は、
午前中の遅い時間にカフェを後にした。黒いステーションワゴンで海へドライブに出掛けた。
失われた夏 2 郊外のカフェ