詞篇 天使のたまご
この作品は、一九八五年に公開された長編アニメーション『天使のたまご』(監督・脚本 押井守/アートディレクション 天野喜孝)を原作とした、非公認の改作である。原作に関する権利はすべて原作権利者が有し、原作権利者から本作が権利侵害に当たるとの申立があれば、作者は速やかに本作の公開を取りやめる用意がある。
なお本作は、細密な映像と幻想的な音楽とによって編み上げられた原作の物語を、言葉を用いて再構成することに主眼を置いて執筆した。改作にあたっては可能な限り作者個人の感想・論評等を交えずに為したつもりである。便宜上「自由詩」「Fan Fiction」として区分してはいるが、「詩」と呼べる洗練はなく、「小説」と呼べる創造性もなく、所謂「二次創作物」の範疇にも入らない。本作に「詞篇(しへん)」──ことばのあつまり──と冠したのは、そのためである。
読者各位におかれては、上記の二点について予めその旨ご了解いただきたい。
二〇一五年九月 不波 流 拝
序
手。
幼子の手。
その白い柔らかな掌。
両の手で、何かを包み込んでいる。大事そうに、慈しむように。
何かを包み込んでいる、掌。
包んでいた両手が、ゆっくりと開かれた。
何かが、掌の上に載っている。
幼子の両手に、丁度納まる大きさ。
両の手がそれを玩ぶ。掌の間に挟んでそっと転がす。
球形のようだが、少し歪。楕円のようでもある。
白い柔らかな掌の上で、それは自在に転がる。
やがて転がすのに飽いたのか、今度は右手にそれを載せた。落さぬように、壊さぬように、そっと。
柔らかな指の上で、ゆるやかに玩ぶ。優しく、いとおしみながら。
五本の指が力強く開かれた。
太い骨に、逞しい肉、青く浮かび上がる静脈。
男の掌。
その指が、それを掴む。五本の指が力を込めて乱暴に握られると、硬さが指を阻む。
しかし次の瞬間、中指がいとも簡単にそれを突き破った。
乾いた音と共に、
それは潰れて砕けた。
卵のみる夢
黒々とした大地が広がっている。
厚い雲が空を覆い、流れていく。雲はどこから送り込まれるのか。流れ去った雲はどこへ消えるのか。
黒雲が切れる様子はない。刻々と形を変えながら、空を覆い隠したまま、同じ方角に流れ続ける。
大地から何かが盛り上がっている。
奇妙に歪み、捩れ、伸びあがる樹。黒い大地をそのまま吸い上げたかのような、太い幹。その上に大きく広がった枝が、何かを抱え込んでいる。
巨大な卵。
半透明の殻に覆われた卵は、絡み合った枝の中で、微かに拍動している。
雛。
固く閉じた眼、折り曲げた脚、畳み込まれた翼。
殻の中で眠る、巨きな雛。
薄い殻の中で雛の鼓動が反響している。時折瞼を閉じたまま眼球が動き、まだ羽毛のない翼を微かに動かす。
夢を見ているのだろうか。
切れ切れの言葉が地面から涌き上がり、巨木の周囲を舞う。喪われた言葉。最早話されることのない言葉。
そうして雛は眠り続ける。いつまで眠るのか、いつ孵るのか。
空を覆う厚い雲が、変わることなく流れ続けている。
機械仕掛けの太陽
空は黄昏を迎えていた。
茜色に燃え立つ空から鳥の羽音が聞こえたような気がして、少年は空を見上げた。しかし彼の視線の先に、鳥はなかった。
ここがどこなのか、彼は知らなかった。自分がどこからやってきたのかも。
無造作に束ねた少年の白い髪を乾いた風が揺らし、長い外套が音を立ててはためいた。
長身を紺の外套に包み、足を大地に穿つように風に抗って立っている。
年の頃は十七・八か。端正なその貌に、表情はない。白い蓬髪のために老人のようにも見える。
右肩に担いだ長銃の重さを、彼は改めて感じた。長い銃身の左右両側に銃把のついた、十字型の特異な形状。銃身には幾筋もの複雑な装飾が纏わりつき、銃把から突き出た長い引鉄は、鈍い光を放っている。
この銃をどのように扱うのか、彼自身も知らなかった。だが、長い間手放すことなく、ずっと傍らに携えてきたのだった。
銃口を地面に向け、右手で銃身を掴んだまま、彼は放心したように空を眺めていた。
冷たい風が流れ続けている。彼の他に人の気配はない。
少年は巨大な構造物の元に立っていた。正しくは、その廃墟の元に。
茫漠とした砂浜の果たてに、それは建っていた。複雑な突起を伸ばし、それは空を切り裂こうとしているようにも見えた。しかしその切っ先は、誰に見出されることもなく、空しく朽ち果てようとしていた。
辺りには錆びた金属と廃油の臭いが漂っている。
最早意味を喪い、名前を失くした廃物たちが、積み上げられ、組み上げられた、奇怪な伽藍。墓標の如き要塞。
誰が、何のためにこのような構造物を造り上げたのか、彼は知らなかった。
ただ、この廃墟が長い間そこにあり、そして既に時の中に埋没しようとしていることだけは、彼にもわかった。
茜色の空を裂いて、球形の躯体を轟々と軋ませながら〈太陽〉が沈んでいく。彼は黙ってそれを見上げた。
〈太陽〉は無数の神々の像に表面を隙間なく覆われ、躯体中央の一ツ眼のような巨大な薔薇窓から燦然と光を放っている。
内燃機関の放つ熱と轟音が彼に届くと同時に、躯体から無数に伸びる支柱の先で、蒸気筒が一斉に鳴動し始めた。一本一本の支柱の上にも幾つもの立像が佇んでいる。それを覆い隠すように、勢いよく蒸気が吹き出す。
高く、低く、近く、遠く。蒸気筒の不協和音を奏でながら〈太陽〉は沈む。薔薇窓が、ゆっくりと瞼を閉じるように巨大な鎧戸に覆われていく。軋みながら閉じていくその表面にも、名も知らぬ神々の像が立ち並んでいる。
沈みゆく〈太陽〉の一端が海面に触れた刹那、水面を割ってもうもうと水煙が上がった。彼の頬に熱い風が吹きつける。
熱と轟音を盛大に周囲に撒き散らしつつ、〈太陽〉が海面に没してゆく。
『誰? あなたは誰?』
不意に少年の脳裏に、少女の声が響いた。
彼は瞬きもせず、〈太陽〉を真直ぐに見据えている。
辺りは夕闇に覆われ始めた。
轟々と沈みゆく〈太陽〉、時を刻む壮麗な光景。
だが彼の他に、それを見る者はなかった。
吹きつける風が、彼の髪を揺らす。
その場に立ち尽くしたまま、やがて彼もゆっくりと闇の中に沈んでいった。
水の記憶
遠くから蒸気筒の鳴る音が聞こえる。高い音で、ゆっくりと尾を引いて。
少女は褥の中で眠い目を開けた。
夕暮れ時の柔らかな光が差している。
彼女は夢から醒めたことを確かめるように、自分の白い掌を見つめ、手の甲で目をこする。
また、蒸気筒の音。
誰かが呼ぶようなその音に、少女はもう一度目をこすった。
目覚めると、いつも世界は黄昏ている。
彼女は褥の上に座り、日の差す方を眺めた。円い窓に向かって続く階段が、夕日で赤く染まっている。
両手の指で年齢が数えられるのではないかと思われる、幼い少女。
彼女自身、いつからここにいて、それまでどこでどうしていたのか、確かな記憶はない。長い白髪の左にだけ小さな三つ編みを結うているが、それも自分で編んだのか、それとも誰かに編んでもらったのか。もう忘れてしまった。
彼女は白い敷布を纏ったまま窓の方へ這った。少女がいた場所に、丸いふくらみが残る。褥から少女が出ると、敷布の下から真白な卵が姿を現した。夕闇が迫る中、柔らかな光を受けて白く光る卵。彼女が産み落としたようにも見える。
崩れかけた大きな天球儀、朽ち果てた計算尺。彼女の寝台はその中心にあった。無論、彼女はそれらが何なのか、知る由もなかった。
またどこかで蒸気筒が鳴っている。
少女は窓に向かって階段を上る。まだ幼い彼女の背には少し高すぎる段差を、一段ずつ確かめるように。
円窓から外を覗く。外からの風が吹き込んで、彼女は少し目を細めた。
茜色に黄昏た空、夕映えの海、そして鬱蒼と茂る黒い森の向こうに広がる灰色の街。それが彼女の世界のすべてだ。
彼女は両手で頬杖をついて、暮れゆく彼女の世界をうっとりと眺めた。
また、蒸気筒の音が耳に届く。細く長く、彼女を呼ぶ。
窓に吹き込む風が、彼女の白く長い髪を緩やかに揺らしながら、詠うように低く唸り続けていた。
日が完全に落ちてから、彼女は身支度を始めた。
褐色の肩掛けを着け、釦を留める。それから、寝台の上で卵を大事に縦縞柄の裳裙の中に抱き込むと、ずれないように腹帯をしっかりと締めた。
誰に教えられたわけでもないのに。
少女は締め具合を確かめると、ごく自然に、服の上から卵を優しく撫でた。
鞄を肩から掛けると、身支度は整った。
彼女は踊るような軽やかな足取りで身を翻した。裳裙がひらりと舞う。
そのまま素足で暗い回廊を駆け抜け、回廊の先の段差を一息に飛び降りる。
いつの間にか、夜の空は厚い雲で覆われていた。
黒々とした影となった彼女の〈巣〉。離れてみると、それは舟の形をしているのだった。
高台に据わった巨大な方舟。幾つもの錨を大地に穿ち、一度でも水に浮かんだことがあるのかどうかも疑わしい、物々しい巨きな黒い影。
その影を背に、卵を抱えた少女は森へ向けて駆け下りていった。
森へ下る草原は、風で波打っていた。
奇怪な形の石柱が、規則正しく列を為し、彼女はその列に従って森へと歩みを進めた。
風は森の方角から絶えず流れてくる。
森の木々が静かにざわめいている。時にそれは、人の囁く声のようにも聞こえた。
少女は躊躇うことなく暗い森へと足を踏み入れた。
絡み合いながら大地を抱く根、複雑にうねる幹、進むのを妨げるように捩れる枝を器用に躱しながら、彼女は森の闇を歩く。
逸る気持ちが、徐々に彼女の足取りを軽くする。
闇の中に、彼女の白い姿が浮かび上がる。
卵を抱いて走る。
木々の影に見え隠れしながら。
波紋。
水辺に壜を沈める。小さな彼女には一抱えありそうな大きさの、円い壜。
中を水で満たすと、少女は壜を水から引き上げ、肩掛けの裾で拭いてから、顔の前に持ちあげた。
視界が丸く歪む。
歪んだ世界を、小さな気泡が幾つか、下から上へと昇っていく。
満足げに微笑むと、彼女は壜の水を一口飲んだ。
水辺は静まり返っている。
暗い森の中、水面に僅かな光が映り、音もなくゆらぐ。
静かに流れ出るせせらぎには、仔細に見れば彫刻が施された石の欠片も見出せる。その間を、白い羽毛が一枚、ゆっくりと流れていった。
水面に映った木々が、静かにたゆとう。
或いは、壜を通して見た彼女の世界なのだろうか。
複雑に伸びる枝が、うねる幹が。
世界が歪む。
浸水する。
じわり、じわりと、滲むように、蝕むように、少女の背後から水が迫る。白い髪が、頬が、眼が、鼻が、順に水に没していく。
水中でゆらめく。
林立する水草がゆらぐ中、卵を抱いて立つ少女。
彼女が世界を見ているのか。それとも、彼女は世界から見られているのか。
判然としない。
不確かな時が流れる。
急に一陣の風が吹いて、少女は我に返った。彼女の白い長い髪が乱れ、ややあって、静かに治まった。
森から流れ出た細い流れは、やがて幾筋もの流れを集め、次第にその水量を増していった。
流れの傍らでは、古い建物の一部とみられる石造りの柱が朽ち、水底には何かの機械の断片が、幾つも横たわっている。
遠い昔に喪われた記憶の欠片が、清らな水にいつまでも洗われていた。
水は、街へと流れ込んでいく。
その街は斜面に形作られていた。
古い石造りの重厚な建物が立ち並び、奇怪な魚や名も知らぬ幻獣の装飾が至る所に施された、石畳の坂の街。色のない灰色の街。
人の気配はどこにもない。
川はいつか石造りの水路に変わり、少女はその傍らを流れに従って歩いて行く。
水路の途中に設けられた鉄柵の一つ一つにも複雑な装飾が施されている。
少女は柵の上から流れる水面を眺めた。空を過ぎる黒雲が、暗い水面に映っている。
囁くようだったせせらぎの音は、水路を流れるうちに徐々に低く変じ、最後は貯水池へと流れ込む重い唸りとなった。
広い貯水池の中央を縦断する石造りの長い橋。黒々とした水面を眺めつつ、少女は橋を真直ぐに渡っていく。
満々と水を湛えた貯水池の水面は、重苦しい空を映しながら滑らかに波打っていた。
窓の向こうに
少女は誰もいない街を彷徨う。
石造りの家が立ち並ぶ路地。複雑に入り組む階段。放棄された荷車や家具が、嘗てここに生活があったことを辛うじて感じさせる。
人々はどこへ行ったのか。どこへ消えたのか。
彼女は何も知らず、また興味もなかった。
少女は誰とも出会ったことがない。
嘗ての生活の残骸の上で、彼女は暮らしている。それが残骸であることも知らずに。
ふと、道端にしゃがみ込む。積み上げられた廃物の山から、壜を拾い上げる。丁度彼女の顔と同じくらいの大きさの円い壜。
壜を顔の前にかざし、彼女は微かに笑みを浮かべた。
醜怪な魚の装飾から細く注ぐ水。洋燈の明かりの下で、円い壜が小さな口でその水を受けている。静かに壜の口から溢れ出る水。
誰も通らぬ街角に、水が注ぐ音だけが響き続けている。
少女は無人の街路を歩いていた。
建物の隙間を抜ける狭隘な路地を。緩やかに上り下りを繰り返しながら。
通りから窓を見上げる。
僅かに開きかけた窓に、空を流れる暗雲が映る。
少女はそれをじっと見つめた。背後で浮彫の聖人画が共に窓を見上げている。
窓に映った雲は、それぞれ異なる方角へ流れていくように見えた。窓の隙間に、黒々とした闇が覗いている。
窓を見上げる少女。
今は誰も住んでいない家の窓から、彼女の姿が覗く。
つば広の帽子が掛かったままの洋服掛け、古い長椅子、洋杖、水差し、遮光幕、壁に掛かる奇妙な絵画。
生活の残骸から見下ろされる。
或いは装飾過多の出窓から。
または組硝子の大きな窓から。
暗渠の鉄格子の隙間から。
彼女が窓を眺めているのか、窓から彼女が眺められているのか。
少女は卵を両手で抱えたまま、不思議そうな顔で窓を見上げ続けた。
気づくと、彼女は階段下の袋小路に佇んでいた。窓脇の石壁に、場違いな長い銛が四本、深々と突き刺さっている。絡みついた引き綱が、重く垂れ下がり、不穏な空気を醸す。
過剰な装飾を施された建物の上に広がる空には、変わらず黒雲が流れ続けていた。
無人の街に、どこからか少女の聞き慣れぬ音が聞こえてきた。
金属を硬いものに擦りつける音、金属同士が軋みあう音、重苦しい唸り。
響きが徐々に近くなる。
少女は胸騒ぎを感じて走る。複雑に入り組んだ路地を。建物と建物の間の僅かな隙間を。
音を目指して。
音は確実に彼女に近づいていた。
建物の隙間から、急に大通りへと出た。丁度両側から上り坂が出合う頂点。音が更に彼女に近づく。
数歩歩いた後、彼女が振り返る。
舗道を無限軌道で踏みしだき、内燃機関の荒々しい咆哮と共に、戦車が姿を現した。
一輌ではない。十数輌が整然と列を為し、坂道を次々と登ってくる。
幾重にも管が絡みついた長い砲身を覆った装甲板が、砲身の外形を異様に膨張させている。無機物でありながら生物的な曲線を纏う戦車は、低い唸りをあげながら少女に近づいた。
車体に比して巨き過ぎる砲塔をいずれも正確に九時の方向へ向け、戦車群はゆっくりと坂道を越えていく。
少女は物珍しそうに、通り過ぎていく戦車を見上げた。
熱を含んだきな臭い排気、鋼鉄の履帯が巻き上げる敷石の粉塵、金属が擦れ合い軋み合う音。どれも、少女がこれまでに経験したことのないものだ。
無人の街に、突如出現した喧騒。
太い砲身が作る影が、何度も彼女を覆っては過ぎ去る。
少女は、戦車とは反対の方向にゆっくりと坂を下りながら、戦車を眺め続けた。
不意に、殿の一輌が少女の目の前で停車した。車重で全体が一度沈み込んだ後、後方へ揺り戻されてから静止する。車体上の管が数本、奇妙な音を発しながらそこだけ生き物のように拍動し続けている。
車体後方から人影が背中を向けたまま立ち上がると、踵を返してこちらに向き直った。
長い外套に身を包み、十字型の長銃を携えた、白髪の少年。
少女は不思議そうに彼を見上げた。
彼は車体の上を数歩歩くと、音を立てて外套を翻し、少女の目前に降りた。
少年の背後で、停車していた戦車が再び変速機を入れて坂道を登り始めた。拍動していた管を硬直させ、内燃機関の低い唸り声をあげながら戦車は去っていく。
少女を見つめる少年。
彼女は少し身を縮めながら、両腕でそっとお腹の卵を胸元に抱き寄せた。その様子に、彼はやや眉を顰める。
戦車が坂を越え、金属が軋む音が次第に遠ざかっていく。
少年と少女だけがそこに取り残された。
息遣いを感じる近さ。触れることのできぬ距離。互いが互いを見つめる。
見知らぬ者。
無人の街の片隅で、
少女は少年に出会い、
少年は少女に出会った。
少女は卵を抱く腕を更に引き寄せた。
急に、少女が少年の前から走り去った。肩から提げた鞄から、壜が当たる音が鳴る。
少女は建物の隙間に身を隠し、冷たい壁に背を当てて息を吐くと、卵を抱いたまま蹲った。
額を卵につけ、両腕でしかと抱いたそれが無事であることに安堵する。
が、すぐに立ち上がって再び大通りへと出た。
無人の街路の上を、黒雲が流れていく。
数歩駆けて辺りを見回したが、少年の姿はどこにもなかった。戦車の去った方角も、今は夜の黙に覆われている。
少年の姿を見つけることができず、彼女は小さく肩を落とした。
先の出来事は本当にあったことなのか。
少女は誰もいなくなった街路に暫く佇んでいたが、やがて胸元に抱いていた卵をゆっくりと下ろすと、さっと肩掛けを翻して踵を返し、坂を駆け下りていった。
倒れた戸棚、雑多に転がる様々な形の壜、水差し、割れた硝子の杯。
廃屋の中で、少女は探し物をしていた。何を探しているのか、彼女自身にもよくわからないまま。
棚に果醤の壜を見つけ、手元に引き寄せる。
彼女は微笑を浮かべると、提げた鞄にそれを入れた。片手は常にお腹の卵に添えられている。
隣の棚にもう一つ果醤の壜を見つけ、同じように手に取ったが、こちらは興味なさそうに床に取り落とした。彼女が歩むたびに、木の床が小さく軋む。
彼女は視線の先に円い壜を見つけた。
赤い水が少し中に溜まっている。
少女は壜を両手で拾い上げると、小さく笑みを見せた。持ち上げられて揺れる、赤い水。
壜を逆さまにして、溜まっていた水をすべて床に流す。水は、気泡を立てながら最後の一滴まで残らず床に流れ落ちていった。
少女は円い壜を抱えて街を走った。細い路地から急にがらんとした広場へと出る。街燈の灯りが走る彼女の姿を白く浮かび上がらせた。
周囲の高い建物が壁のように広場を取り囲んでいるが、それでも圧迫感を感じないほど広い。広場の中央には、大きな噴水があり、その頂点にも洋燈が幾つか、ぼんやりと灯っている。
石造りの幻獣の彫刻が、広場を横切る少女を屋根から見下ろしている。
少女は壜を捧げ持ったまま噴水に近づいた。
建物と同じように、石造りの噴水も数々の怪魚の装飾で覆い尽くされている。その怪魚の口々から、細い流れが幾筋も流れ出ている。
少女は両手で捧げ持った壜をゆっくりと噴水の水面に沈める。気泡を吐きつつ、壜は水を呑み込んでいく。
やがて壜が水で満たされると、少女はそれを引き上げた。
両手で目の前に翳し、壜を覗き込む。
目の前の奇怪な噴水が、彼女の視界の中で円く歪む。洋燈の灯りへと吸い込まれていく小さな気泡。目の前の世界が、全く違う様相を見せる。それは彼女を知らない世界へと誘っているようでもあった。
いつもの壜遊びに満足し、彼女は壜を下ろすと、水を飲もうと口をつけかけた。
その時。
彼女は不穏なものを感じてそれを止めた。
先刻まで誰もいなかった噴水の向こうの畔に、〈影〉が一人、こちらに背を向けて蹲っている。傍らに長い引き綱を無造作に下げた銛を携えて。
円い壜が音もなく水中に落ちる。
装飾が張り巡らされた噴水の水底に向かって、壜は夢のようにゆっくりと転がった。
どこかで鐘が鳴っている。
一度。
二度。
鐘が時を刻む。
三度。
四度。
気づくと、噴水の周りには多くの〈影〉たちが蹲っていた。〈影〉たちはそれぞれに銛を携え、石像のように動かない。
怪魚の口から吐き出される水の音と、遠くから聞こえる鐘の音だけが、広場に響いている。
少女はお腹の卵を両手で押さえると、ゆっくりと後じさりした。数歩退いてからくるりと向きを変え、洋燈の光の輪から慌てて離れる。
人の背丈よりも遥かに長い黒い銛に、幾重にも絡みつく引き綱。広場の石畳には知らず、何本もの銛が突き刺さっている。
彼女はその隙間を一直線に走り抜けていった。
いつか無人の街に、大人の男の姿で〈影〉たちが溢れていた。
店の飾り窓の中に佇み。
街燈の下に蹲り。
建物の屋根の上に立ち。
それぞれが思い思いに銛を抱え。
労働者風の外套を着け。
鳥打帽を目深に被り。
一様に俯き加減で。
疲れたような無表情で押し黙り。
少女が路地を駆ける。長い白髪を靡かせ、裳裙をはためかせて。
鐘はまだ鳴り続けている。
何かが始まろうとしていた。
水底の街
草生し、朽ち果てた優雅な四屋。空中で途切れ、華美な手摺が崩れ落ちた石段。遠く伽藍の尖塔が浮かび、半ば水に没した庭園。
宮殿か、寺院か。旧い栄華の記憶は喪われ、今はただ寒々とした風が吹き抜けるばかりだ。
廃園で少女は憩う。
片隅に蹲り、壜に指を入れては赤い果醤を舐め、傍らに置いた壜から水を一口飲む。
草に覆われた庭園を、冷たい風が吹きわたっていく。
また指を舐める。
薬指、中指、人差指、親指、掌。
今度は中指と人差し指、二本の指を一度に咥える。口に含み、甘さを確かめる。
ふと、少女は果醤を舐めるのを止めた。
鞄の上に腹這いになって卵を置くと、背中に両手をやって腹帯を解く。暫くもぞもぞと動いた後、彼女は上体を起こして両手でゆっくりと裳裙の裾を持ち上げた。
裾の奥から白い腿と共に現われる卵。
少女の体温から離れると、卵は鞄の上で少しだけ向きを変えた。
少女は肩掛けを解き、両腕を翼のように広げて卵をいとおしそうに眺めると、卵の上に優しく掛けた。
崩れかけた列柱を映す鏡のような水面に、波紋が走る。
自分から流れ落ちていく雫が水面に作る波紋を、少女はしゃがみ込んだまま頬杖をついて眺めている。次々と奥へ奔っていく波紋。僅かな光が水面に映り、うっとりと見つめる彼女の顔にも波紋を返す。
やがて雫が絶え、水面が徐々に鎮まっていく。
最後の波紋が一筋、音もなく奥へと消えていった。
小用を済ませ、彼女は卵の処へ戻る。短い石段を一段ずつ登る途次、向こう側に先刻までなかった背中に気づく。
少年の背中。
右肩に十字の長銃を担ぎ、彼は静かに坐っていた。
少女は一瞬たじろいだが、すぐに微かな笑みを浮かべた。
一歩ずつ彼に歩み寄る。
しかし彼女はすぐに卵を置いたままであったことに気づいた。不安が胸を過ぎる。両腕で掻き探るが、お腹に卵はない。
両の手が所在なく胸元をまさぐる。
少女が少年に近づくのを躊躇っているうちに、少年は音もなく立ち上がっていた。長銃を右肩に担いだまま少女に向き直り、静かな眼で彼女を見下ろしている。
少女は両手を胸元で押さえながら一・二歩後じさりする。不安の色が更に濃くなる。が、すぐに小さな驚きが彼女の顔に現れた。
少年が外套で隠していた左手をゆっくりと前に出した。
その掌の上に載った、白い卵。
「大切なものは、お腹の中に入れておかなければ、失くしてしまうよ」
彼はそう言うと、ゆっくりとした所作で彼女に跪き、左手の卵を彼女の目の前に差し出した。
少女はどうしていいかわからずに、胸元を両手で押さえたまま佇んでいる。安堵、困惑、不安、そういったこれまでに感じたことのない種類の感情に、少女の目が泳ぐ。
少年は十字の長銃を肩に掛け、跪いた姿勢のまま少女を見つめた。聖女に礼拝し捧げ物をする賢者の如くに。
遠くで鐘が鳴っている。
少女は少年を見つめたまま裳裙の裾を両手で掴みながら彼に一歩歩み寄った。裾を引き上げつつ、視線は彼の目から外さない。
何度か裳裙を卵に被せようとしながら鐘の音に躊躇い、それでも抱きつくようにしてやっと少年の左手から卵を奪い返した。彼女の長い髪がふわりと舞う。
両の手に卵を抱きとり、彼女は漸く少年から目を逸らした。
恨めしそうな顔で、少女は改めて少年を睨む。が、抱きとった卵の重さに安堵して思わず頬が緩んだ。
少年は跪いたまま、卵の重量から解放された左手をゆっくりと長銃に添え直した。
「その卵の中には、何が入っているのかな?」
弦の低音のような穏やかな声で彼は問うた。
少女は目を伏せ、上目遣いに彼を見上げながら答える。
「そんなこと、教えられないわ」
声が微かに震えている。
「だってわたし、あなたを知らないもの」
言いながら少女は顔を上げ、少年に目を合わせて答えた。
少年も、少女を見つめ返す。
「卵は、割ってみなければ、その中に何が入っているのか、判らないものだよ」
彼は声の調子を変えることなく、そっと呟いた。
思いもよらぬ少年の言葉に、少女は驚懼の表情を浮かべた。
彼女は両腕の中の卵を抱きしめたまま後ずさりすると、彼の横をすり抜けて水の溜まった草地に駆け下り、音を立てて横切る。
少年はゆっくりと立ち上がると、少女を振り返った。
少女は慌てて荷物をまとめ、取るものも取り敢えずその場を立ち去る。
回廊を走り去ろうとした少女だが、ふと立ち止まると、後ろを振り返った。
少年が草地に下りて彼女を見つめている。
言いようのない感情が少女の胸に湧く。胸元に荷物を掻き抱いたまま息を吸うと、少女は叫んだ。
「あなたは、誰っ?」
少女の高い声が廃園に谺した。
少年は長銃を肩に担いだままじっと彼女を見据えると、うっすらと笑ったようだった。
翼を有する怪魚を模った街燈が点々と灯る中、二つの影が歩いて行く。小さい影は彼女のもの。大きい影は彼のもの。寄り添うでもなく、離れるでもなく。
道端には既に呼ぶ者の無くなった通りの名を示す傾いた標識に混じって、引き綱を無造作に垂らした長い銛が何本も突き立っている。
小さな影が止まると、大きな影も止まる。
小さな影が逃げるように駆けると、大きな影はゆったりとそれに随う。
「ついてきちゃだめ!」
少女は卵を両手で抱えたまま振り返って彼に叫んだ。言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうだ。彼の顔を上目遣いに見たまま数歩後ろ歩きをした。
少年はその言葉には何も答えず、少女を静かに見つめたまま彼女に随って歩く。
広い舗道から狭い路地へ。
迷路のように複雑に入り組む街路を、二つの影は歩き続ける。
長い路地の陰を抜け、階段を降りる前に、彼女はまた振り返った。
つき随っていたはずの彼の気配がない。
来た方向に向き直って少し待っても、彼は現れない。
不安。
少女が路地へ戻りかけると、路地の闇の中から音もなく彼の姿が現れた。
彼女は慌てて身を翻し、階段を駆け降りる。
少女の白い影が闇の中に溶けた。
重々しい門を備え、砂丘の風紋を模した長い鉄柵が続く廃墟。建物の屋根では幻獣が四囲に睨みを利かせ、装飾的な列柱の間に歪んだ窓が並んでいる。中央の広縁の上では石の猛禽が翼を広げている。
二人は鉄柵の前をゆっくりと通り過ぎていく。風紋が二人の前を流れる。
自分の後ろをつき随って歩く少年の足音を、息遣いを、少女は確かに感じ取っていた。
自分でない誰か。
目の前にいて、自分を見つめている、その誰か。
振り返らずともその気配は感じられるのに、それでも彼女は振り返る。
自分を追う誰かを。
逃げれば追う。
追われれば逃げる。
少女から妖艶な笑みが零れた。少し歩調を早めて前に向き直る。前髪が流れて彼女の笑みに懸かる。
少年が追い迫る。
白髪を夢の如く靡かせ、肩掛けを、裳裙を翻して、少女は逃げる。闇の中で長い白髪が舞う。
夢か、現か。
二人は間隔を保ったまま、風紋の柵の前をゆっくりと通り過ぎていった。
魚狩り
水路を流れる細い水音が聞こえる。
広い階段を上った先の街灯の下に座り込んで、少女が休んでいる。少年は少女から少し離れた建物の壁に凭れて座っている。十字型の長銃を携えたまま。
少女は壜から水を一口飲むと、立ち上がって少年を振り返った。
少年が伏せていた顔を上げると、壜を差し出して水を飲むよう勧める。
しかし少年は首を横に振る。
少女は少しがっかりした顔で肩をすくめた。
街に雨が降り始めた。
すべてのものが等しく雨に濡れる。雨が敷石を打つ音が辺りに充ち、街は水の匂いに覆われた。
雨の中、二人は舗道を歩き続けていた。
少女は肩掛けを頭に被って雨をしのぎ、少年は雨に打たれるまま、彼女につき随っていく。
また少女が少年を振り返った。
少年はうっすらと笑って左手で自分の外套を広げ、少女に中に入るよう促した。だが、少女は子供っぽい仕草でぷいっとそっぽを向く。少年は僅かに首を傾げた。
少女を先に、二人は街角を歩く。
ふと、少女が歩みを止めた。
店先の飾り窓に見入る。少年も歩みを止めると少女の後ろから飾り窓を見つめた。
飾り窓に二人の姿が映る。
流れる暗雲を背に佇む二人。不確かな二つの影。
急に街路に物音が溢れ、少女が振り返った。
少年が見遣った路地の闇から、長い銛を手にした〈影〉たちが次々と走り出た。少女は思わず少年にしがみついた。
〈影〉は闇から滲み出るように数を増やす。靴が敷石を激しく叩き、引き綱が銛を打つ音が辺りに満ちる。
静寂が破られた。
「魚が出たのよ」
少年の腰にしがみついたまま少女が怯えた声で呟いた。
「魚?」
少年が問い返す。
通りを無数の〈影〉たちが無言で走り抜けていく。
時ならぬ喧騒。
少女は少年の外套の下に潜り込み、壁際に自分の身を寄せた。
少年は走り去る〈影〉の背を目で追う。
「どこにもいないのに。追いかけたって、魚なんかどこにもいないのに」
少女は呵責するようにそう言ってから、自分が少年にしがみついていたことに気づき、握りしめていた手を緩めた。少年が左手でその肩を抱くと、安心したのか少女は彼の顔を見上げて少し笑った。
二人は再び街路を歩き始めた。一つの影となって。
無言のまま走る〈影〉の一団とすれ違うと、少女は少年の外套の中で彼に寄り添ったまま反対側に移動した。
街は今や〈影〉たちの姿で溢れていた。
剥がれかけた張り紙が残る壁の前を、次々と〈影〉たちが駆け抜けていく。
或いは坂を駆け下り、或いは屋根を走り、水が流れを集めるように、〈影〉たちは次第に数を増し、糾合していく。
何かを追っている。
広場の敷石の下に黒い巨大な影がゆらりと現れた。胸びれを悠々と靡かせ、敷石の水面の下を泰然と泳ぐ古代魚の影。
降りしきる雨の中、怒号も喚声もなく、狩りが始まった。
巨大な魚影をめがけて、銛が次々と放たれる。
放たれた銛は鋭い音を立てて敷石に突き刺さるが、古代魚は尾ひれをくねらせて音もなく逃げ去った。
〈影〉たちは次々と手にした銛を放つ。
引き綱が宙を舞い、銛が魚に殺到する。銛は正確に魚の影を射抜くが、敷石に刺さるばかりで魚に刺さることはない。古代魚は音もなく大通りの石畳の下を遊弋する。
〈影〉たちは狩りの手を緩めない。通りを走る者、屋根から狙う者、壁伝いに追う者。
かれらが追う先々に、古代魚の影は次々と姿を現す。
通りの魚影を追っていた〈影〉の一人が、建物の壁面に現れた魚に気づき、銛を打つ。
放たれた銛が硝子の窓を突き破る。割れた硝子の破片が部屋中に飛び散り、銛は遮光幕を揺らして床に深々と突き刺さった。
魚狩りの喧騒を他所に、雨は静かに降り続けていた。
破風に怪魚の像。古代の神殿を思わせる列柱、曲線を多用した複雑な装飾の玄関を持つ劇場。
少年は劇場の扉の前に座り、雨に濡れる街角をじっと見つめていた。左足を投げ出し、右腕で長銃を抱え込んでいる。
隣の扉が僅かに開いて、把手に少女の肩掛けが掛けられている。
朽ちかけてはいるが、劇場の左右非対称な扉の縁には細かな浮彫の装飾が施され、華美な意匠の把手も往時の賑わいを偲ばせる。
少女は独り劇場の中にいた。
分厚い扉の向こうを覗き込む。闇に目が慣れてくると、多くの観客席が整然と並んでいるのが目に入る。雨音もここまでは届かない。
少女はお腹の卵を抱えたまま、静まり返った観客席の間をゆっくりと歩く。
高い天井を見上げると、破れた組硝子の天窓から細かな雨が音もなく降り注いでいる。暗い舞台に緞帳が重く垂れ下がり、豪奢な袖幕がそのまま残る、劇場の廃墟。
天窓から入る僅かな光に、少女の姿が白く浮かび上がる。少女は不思議そうに辺りを見回した。
舞台の反対側、観客席の奥の壁面に、鮮やかな色で魚をあしらった組硝子が見える。
天井から微かな光と共に降り注ぐ雨が、彼女の姿を幻想的に映し出す。雨粒の細かな波紋が、少女の足元に描かれては消える。
少女は雨に打たれ、その場に佇んでいた。物憂いその横顔が、劇場の闇の中に白く浮かぶ。
どのくらいそうしていたのか。
やがて、いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開くと、少女は顔を上げた。
遠ざかっていた雨音が戻ってくる。
正面に、魚の組硝子が見える。
頭を下にして、大きな身をくねらせる魚。とりどりの原色の硝子を組み合わせ、暗雲を背に泳いでいる。一枚の硝子も欠けることなく、外の僅かな光に映えている。
少女は組硝子に向けて駆けだした。
高い石段を一足ずつ登ると、魚の組硝子は少女のすぐ目の前にあった。
少女がそっと組硝子に近づくと、背後の天窓からの光で彼女の姿が組硝子に映る。
左手を当てると、鏡写しに現れたもう一人の少女が右手を合わせる。
彼女は軽く首を傾げてもう一人の自分に微笑みかけた。もう一人の彼女もにっこりと笑顔を返す。
鏡合わせの自分に、何事かを語りかける少女。
その姿を、少年は劇場の外から見上げていた。
劇場の壁面にも魚が泳ぎ始めていた。
影の古代魚たちは、少年の面前で悠然と組硝子を横切っていく。
少年の周囲を〈影〉たちが銛を手に慌ただしく走り回る。〈影〉は少年のことなど気にも留めない。
雨はひとまず止んでいたが、黒雲は方角を変えることなく流れ続けていた。
魚は次々と姿を現し、次第にその数を増していた。
大通りの建物の壁面に。
広場の角を悠然と。
〈影〉たちは無言で魚を追う。
店の飾り窓に影を映し、屋根の煙突を飛び越え、走り続ける〈影〉たち。
屋根の上から通りに向けて一斉に銛が放たれた。引き綱が風を切る。
銛は魚の影を追うように次々と鋭い音を立てて敷石に突き刺さるが、魚はするりと泳ぎ抜けていく。引き綱が遅れて落ちてくる中を、〈影〉たちが魚を追って走る。
魚影を認めると素早く銛を投げる。
引き綱を宙にくねらせ、無数の放物線を描いて銛が魚にめがけて殺到する。魚の黒い影に次々と銛が突き立つが、魚は何事もなくすり抜けていく。銛はまだ濡れている舗道の敷石に空しく突き立つばかりだ。
銛は硝子窓を突き破り、街角で灯る街燈を射抜く。
無数の銛が次々と放たれるが、その一本たりとも魚を射抜くことはできない。
通りに垂れ下がった引き綱の下を、胸びれをゆっくりと翻しながら、魚の影が誘うように留まっている。
〈影〉の一人が袋小路で銛を放とうと構える中、巨大な魚の群れは壁面を悠然と折り返していく。
幅の広い階段を音もなく登っていく魚影を、〈影〉が追う。
魚の群れは闇の中から次々と涌き出で、〈影〉たちが駆け抜ける街中を意のままに泳ぎ続けていた。
時の堆積
灰色の街に教会の鐘の音が鳴り響く。祭礼の終わりを告げるかの如く、一斉に。幾つもの鐘が打ち鳴らされ続けている。
二人は街を離れて黒い森を抜けた。
鐘の音が二人に追い縋る。
奇岩が並ぶ草原に出たところで、少年は立ち止まった。十字型の長銃を担いだまま、背後から聞こえる鐘の音に応えるように街に向き直る。
少年の前を歩いていた少女も立ち止まって不審そうな顔で彼を振り仰いだ。
少年は街を一瞥すると、すぐに踵を返して先へ歩き始めた。少女は慌ててその背中を追った。
鐘の音が、森からの風に流されてまだ聞こえている。
二人は石柱の並ぶ草原を上っていった。少女を先に、少年を後に。
森から流れてくる風が時折強く吹き付ける。
丘の上に少女の〈巣〉が見えてきた。
ちらちらと少年を振り返りながら歩みを進めていた少女が、急に数歩前に走ると、少年に向き直った。真剣な表情で少年を見つめる。
吹き上げてくる風が彼女の長い髪を乱す。
「お願い。私の卵に、何にもしないって、約束して」
自分の住処である丘の上の方舟を背に、両手をお腹の卵に添えて、彼女は少年に静かに告げた。風に流された髪が彼女の顔を半ば覆い、口元を隠す。
少年は頷きもせず、何も言わずにただ彼女のことを見つめただけだった。
闇の中に細く光が差し込んでいる。その細い光の中に二つの影が浮かび上がる。
少女に続いて中に入った少年が一歩足を踏み出すと、足元で水音がした。少年は自分の足元を見下ろした。
彼が踏み出した左足から波紋が立っている。
水の匂い。
水面はゆっくりと波紋を返すと、少しずつ鎮まっていく。
闇に目が慣れるに従って、甲殻類の外骨格なのか、或いは獣の脊髄なのか、奇妙な形の石が水底にゆらめいているのが見えてくる。
湾曲した巨大な柱が何本も暗がりの奥へと続いている。
少年が足を踏み入れたのは、浅く水が溜まった方舟の肋の底部だった。低く、重く、空気が鳴っている。
「こっちよー」
先に進んだ少女が左手を振りながら嬉しそうに少年を呼ぶ。高い声が巨大な空洞に反響する。
彼はゆっくりと彼女の方へ歩みを進めた。足を踏み出す度に、足元で水が音を立てる。
其処彼処に獣の化石が転がっている。
少女がいたのは方舟の竜骨の上。不恰好な突起がやはり獣の脊髄を思わせる。
少年は自分の右側に聳える石の壁面を見遣った。
全面に彫刻が施されている。
生命樹。
根元から伸びるに従い幾つにも枝分かれし、或るものは途切れ、或るものは更に枝分かれし、枝を増やしたり減らしたりしながら上へ上へと伸びる、生命の系統樹。
「これと、同じ樹を見たことがあるよ」
少年はそう言って包帯を巻いた左手を壁画にそっと添えた。少女がそれを目で追う。
彼は掌でゆっくりと樹をなぞる。根元から、梢へと。
「あれはいつのことだったのか
忘れてしまうほど遠い昔
音を立てて雲が流れていく空の下
真っ黒な地平線が
そのまま盛り上がって生まれた
巨きな樹」
少年は壁面の生命樹をなぞりながら、遠い記憶を辿る。自分の名すら忘れても尚、消えることのない記憶。
「大地から精気を吸い上げて
脈打つ枝を伸ばし
何かを掴んでいた」
何かを渇仰するように天に向けて開かれた少年の五本の指が、闇を握り潰す。
「卵の中の
眠り続ける
巨きな鳥を」
「その鳥はどうしたの? どこにいるの?」
竜骨の上にしゃがみ込んで少年を見つめている少女の声で、彼は記憶の海から戻った。
彼はふっと息を吐くと、壁面に当てていた左手をそっと引いた。
「今でもそこにいて、夢を見続けているよ」
少年は生命樹の壁画を見上げたまま答えた。
「夢? 鳥はどんな夢を見るの?」
少女が重ねて問う。
「その卵の中に何がいるのか、まだ教えてもらえないのかな?」
少年は少女の問いに答える代わりに、彼女に向き直って問いを投げ返した。
少女はしゃがんだままお腹の卵を胸元に抱き寄せ、彼を上目遣いに見て小さく笑みを浮かべた。
二人は左回りに長い螺旋階段を登る。
それぞれの段の両側に一つずつ、水の入った円い壜が置かれている。どこまで登るのかわからぬ階段の、一段ずつの左右に。
螺旋階段の壁面にも、段にも、獣の骨格が刻み込まれている。
二人が通り過ぎると、壜の中の水に小さく気泡が浮かんで、すぐに消えた。
少女は少年を風が吹き抜ける外回廊へと導いた。地表が遥か下に見える。
外回廊の壁にも壜の列が隙間なく続いていた。
回廊を覆う彫刻と思われたのは、古生物の化石。回廊を抱きかかえるように覆っている。その肋骨の下を、二人は黙って歩いて行く。
外回廊から再び船内に入ると、やはり両端に壜がびっしりと並んだ通路を横切る。通路の向かいの壁には人の背丈の何倍もある鸚鵡貝の化石が見える。
様々な生き物の膨大な骸が化石となって、この方舟のあらゆる箇所に纏わりついている。
少女は慣れた足取りで少年の前を行く。
二人は方舟の内回廊に出た。
時の堆積した化石の回廊。
長い首を擡げ、腕に羽毛を生じた鳥とも獣ともつかぬ大きな化石が露出した壁の前で、少女は立ち止まった。
彼女はその場に跪くと、捧げ持っていた円い壜を、壜の列に加え、据わりを確かめる。
少年は十字の長銃の銃口を床に突き当てると、壁に背をつけて少女の隣にゆっくりと腰を下ろした。
少女もぺたんと座り込み、卵を抱いて壜の列を眺めると、そっと微笑んだ。
少年は改めて辺りを見回した。
壁面に沿って、同じような壜が列を為している。化石によって上下しながら、膨大な数の壜の列は更に奥へと続いているようだ。
「君は、いつからここにいるのかな?」
少年は少女に静かに問うた。その声に少女は顔を上げ、長銃を抱えたまま目を伏せている彼の顔を見た。
少年は少し顔を上げて少女を見てから問いを重ねた。
「集めた壜の数だけいたのかな?」
その問いに、少女は困惑した顔で黙ってかぶりを振った。
少年は少女から視線を外して呟く。
「僕もどこからやってきたのか忘れてしまったよ。これからどこへ行くのかも。元々、知らなかったのかもしれない」
その口調には自嘲の色が混じっていた。
少女が心配そうに彼の顔を見つめて尋ねる。
「どこかへ、行ってしまうの?」
少年はその問いには何も答えなかった。
また雨が降り始めた。
方舟の破れた屋根から、暗い船内に雨が注ぐ。方舟の内部は何層にも階層化されているようだが、巨大過ぎて全容は判らない。
二人は化石の前に座り込んだまま、方舟に降り注ぐ雨を見つめていた。
「我創造りし人を
我地の面より拭い去らん」
唐突に、少年が呟きはじめた。
少女は隣の彼の顔を見上げる。
「人より獣、
昆虫、
天空の鳥に至るまで
滅ぼさん。
そは我、
これを創りしことを
悔ゆればなり」
少女は少年の言葉を黙って聞く。
「今七日ありて
我四十日四十夜
地に雨を降らしめ、
我創りたる万物を
地の面より拭い去らん」
ゆっくりと目を閉じ、少年は更に言葉を継ぐ。
「かくて七日ののち、
洪水
地に臨めり」
雨音が遠ざかる。
彼は記憶の水底に潜るように訥々と語り続けた。
「その日
大淵の源 皆潰れ、
天の戸開けて
雨四十日四十夜
地に注ぎ、
方舟は水の面に漂えり」
惨事の記憶。
「地に動く肉なるもの
鳥、家畜、獣、
地に匍うすべての昆虫
および人
皆死ねり」
「その鼻に生命の気息の通うもの
すべての乾土にあるもの
皆死ねり」
夥しい死。
「ただ
彼とともに
方舟にありしもののみ
存れり」
天井に、床に、壁に、柱に。
無数の獣たちが石と刻印された回廊は、湿った闇を湛えている。暗い回廊から見上げた天井の辺りに、雨滴が僅かに光っている。
彼らのいる辺りだけがぼんやりと明るい。
彼が発した言葉は、次の瞬間には闇に呑まれていく。
「彼
地の面より
水の減少しかを見んとて
鳥を放ちいだしけるが
ふたたび彼のところへ
還らざりき」
少女はじっと彼の横顔を見つめたまま、黙って彼の言葉を聞いていた。
「鳥がどこへ辿り着いたのか、それとも力尽きて水に呑まれたのか、誰も知ることができなかった」
彼は少女とは視線を合わすことなく、回廊の闇を見据えている。
「だから人々はその還りを待ち続けたのさ。待ち続け、待ち疲れて、いつか鳥を放したことを忘れ、鳥のことも忘れてしまった。水の下に沈んだ世界のことも」
彼はそこで一度言葉を切って少女を見た。
「……自分たちがどこからやってきて、いつまでここにいて、どこへ行くのかもね。獣たちが石になるほど遠い昔の物語だよ」
そう言うと、彼は再び顔を上げて目の前の闇を睨む。
「僕が見た鳥も、いつどこでのことだったか思い出すこともできない、遠い記憶でしかない。夢だったのかもしれない」
彼は自分の発した言葉の意味を確かめるように呟いた。
「君も僕も、あの魚たちのように、とっくにいなくなってしまった人たちの記憶でしかなくて、本当は誰もいない世界に雨が降っているだけなのかもしれないんだ」
少年は一段声を低めた。
「鳥なんか、始めからいなかったのかもしれない」
それきり、彼は口を噤んだ。
化石の回廊の吹き抜けに、静かに雨が注いでいる。下層の方は闇が深くて何も見えない。雨粒はその闇の中に消えていく。
二人は互いに黙ったまま、降り続く雨を眺めていた。
ここにいるのは誰と、誰なのか。互いに自分の名前すら知らない者同士が肩を並べ、雨滴を眺め続けている。
誰が、誰に語ったのか。
確かなのは、何か。
雨音だけが途切れることなく、確かに辺りに響いている。
少女が、お腹の卵を胸元に抱き寄せた。目を閉じてそっと頬を寄せる。
「いるよ」
卵に頬をつけたまま少女が呟いた。
「ここにいるよ」
今度は顔を上げて、はっきりと言葉にした。目を輝かせて、確信を持った声で。
「いるよ」
少女は立ち上がると、少年の手を引く。少年は右肩に十字の長銃を担いで彼女に随う。
「いるよ」
彼女は何度も繰り返す。急かすように両手で彼の手を引く。
黴の匂いに噎せ返りそうな狭い階段。湿り気で空気が重い。両端に円い壜が列を為し、壁に無数の化石が蔓延っている。
少女は彼を方舟の更に上層へと導いた。
雨が直接床を叩く最上部。
短い通路の先に、それはあった。
それを目にした瞬間、少年は微かに眉を寄せた。
少女は石壁の前に立った。少年もそれに続いて立ち止まり、改めて石壁を見上げた。
雨が石の床に細かな波紋を幾つも描いている。
羽毛を生じた翼を広げ、跪いた形のまま化石となった人骨。
それが少女の鳥だった。
天使の化石。
頸を垂れた頭蓋骨の暗い眼窩が石壁から二人を見下ろし、身体と同じくらいの長さの大きな翼を肩甲骨から左右に広げ、今まさに降り立った姿勢のまま石となっている。
少年はその前で雨に打たれながら驚愕に目を見開き、僅かに口を開けた。しかしすぐに口を結ぶと、その表情は哀しみへと変わった。
少女は微笑して石壁を見上げながら、彼に告げた。
「わたしが見つけたの。あれはもう石になってるけど、この中にいるの。わたしがあたためて孵すの。わたしが見つけた鳥よ!」
少女はやや興奮気味に少年を見つめる。彼女は右手でお腹の卵を撫で、左手で少年の外套を掴むとそっと彼に身を寄せ、目を細めた。
少年は石壁を見上げたまま動かない。十字の長銃が彼の右肩に食い込む。
「知っていたよ」
彼は少女を一瞥もせずに力なく呟いた。
「きっとそうだと思っていたよ」
冷たい雨に打たれるままそう続けたきり、彼は黙って天使の化石を見つめていた。
夜盗の如く
風雨が強くなってきていた。風が鳴り、雨が方舟を激しく打つ。
嵐がやってきている。
少年は少女の〈巣〉に招かれていた。
彼は天球儀の中心に置かれた寝台に凭れ、長銃を傍らに立て掛けて、小さく燃える焚火の炎を見つめている。
少女は焚火のそばで卵を抱えて蹲っている。
焚火の傍には天秤のような小さな架台に、やはり小ぶりな円い鉄瓶が下げられている。
部屋のあちらこちらに少女が街から集めてきたであろう沢山の円い壜が転がり、炎で赤く染まった影をゆらめかせている。
薪が時折小さく爆ぜる音と、外の風の音だけが響く。
少年はあれからずっと黙ったまま、何かを考えているようだった。
まどろみかけている少女を見遣る彼。
「何か聞こえるかい」
少年が問いかけると、少女は閉じていた目を半ば開けた。彼女は両手で抱えた卵から顔を上げて彼を見ると、ふっと微笑んだ。
それから、改めて卵を両手で大事そうに抱き寄せると、再び目を閉じて頬を寄せる。
「聞こえる。小さな息をする音」
少女が囁くように返す。
「それは君の胸の音だよ」
少年は低く呟いた。
「羽の音も。きっと、空を飛ぶ夢を見てるのね……」
少女はそう言うと更に卵に顔を埋めた。
「それは外の風の音だよ」
少年はやはり低く返す。
「もうじき。今はこの中で夢を見てるけど、あなたにも見せてあげる。……もうじき」
少女は卵に顔を埋めたまま囁く。
「だから、それまでここで……」
彼は黙って彼女の言葉を聞いている。
「ここは、雨も降らないし、暖かくて──」
少女はそこまで言うと再びまどろみに落ちた。
外から風の鳴る音が絶えず聞こえている。
流れ続ける黒雲から落ちる雨は更に勢いを増していた。
強い風が草原を乱暴に掻き乱し、豪雨は森の中の細い流れを激流に変えた。
森の木々は葉裏を見せながら大きく揺さぶられている。
水路の水も急激にその水量を増し、重い音と共に街へと押し寄せる。
少年は卵を抱いてまどろんでいる少女を両腕で抱きかかえ、寝台へと運んだ。
少女の小さな身体を褥の上へそっと横たえると、彼女の長い髪の下に枕をあてがう。
少年が寝台を離れようとすると、少女は右手で彼の服の袷を掴んでいた。彼は少女の右手に自分の右手を重ねると、ゆっくりと彼女の右手を剥がす。二人は右手を握り合う形になる。少女の白い小さな手と、少年の精悍な手。
彼は握っていた彼女の右手をそっと褥に下ろすと、その場に膝をついて眠りの際にある彼女を見つめた。
「あなたは、誰?」
少女が遠のく意識の中で彼にそっと尋ねる。
「君は、誰だい?」
少年は穏やかな声で彼女に問い返した。
互いの問いにはどちらも答えない。
外の風鳴りの音だけが聞こえている。
少年が見守る中、
少女は卵を抱いて
静かに眠りに落ちた。
雨が街を覆っていた。
街燈に照らされた街角の上を厚い黒雲が流れ去っていく。
排水溝から雨水が滲むように音もなく溢れ出ていく。広がる水面は雨滴で波紋を描きながら、灰色の建物を映し出している。
水面は徐々に、しかし確実に広がっていく。すっかり石畳を覆った水面の上を、大きな波が繰り返し寄せる。
銛を手にしたまま石像のように立ち尽くした〈影〉たちの頭上にも雨は注ぐ。魚狩りの喧騒が嘘のように、街は水音だけに包まれている。街角の其処彼処で佇んでいる〈影〉たちが、水面に浸かっていく。
噴水のある広場も既に全体が冠水している。噴水の頂にある街燈がぼんやりと灯る中、黒々とした水が広場でゆったりとうねっている。細く水を吐いていた噴水の怪魚たちが、今は勢いよく水を吐き出し続けている。
無人の街は、ゆっくりと水没しつつあった。
少年は外套を取って寝台に凭れて座っていた。眠る少女に背を向けて。
焚火の炎はまだ小さく燃えている。天球儀の欠けた円が天井に大きな影を作り、炎に合わせて揺らいでいる。
風鳴りの音が微かに聞こえる。
褥の上で少女が姿勢を変えた。
少年はまどろんでいるのか、それとも何かを考えているのか、身じろぎもせずにじっと座ったままだ。
床に転がっている壜の一つ一つが炎を映して小さく光っている。
少女の部屋は一瞬たりとも同じ表情で留まることがない。生き物のように小さく燃える炎が、部屋のあらゆるものに表情を与え、ゆらゆらとうごめかし続ける。
寝台の背後に架かる布には、少年の影が映っている。彼も部屋の一部となって炎に揺れ動いている。
薪が崩れて一瞬炎が落ち、部屋全体が暗くなったが、すぐに息を吹き返して部屋に光を戻す。
風鳴りの音に混じって、薪の爆ぜる音が時折響く。
静かだ。
雨音もここまでは届かない。
時間が静止したような静寂の中で、揺らめき続ける炎だけが部屋に時間を齎していた。
どれだけの時間が過ぎたのか。
炎が、静かに消えた。
部屋から表情が失せる。
天井に映った天球儀の欠けた円も、壜に瞬いていた僅かな光も、布に映えていた少年の影も、すべて闇に溶けた。
薪の爆ぜる音が消えると、風鳴りの音だけが部屋に充ちる。
小さな衣擦れの音。褥の上で少女が寝返りを打った。抱いていた卵に背を向けて。
闇の中でゆっくりと少年が立ち上がった。
その時を待っていたかのように。
彼は眠っている少女の方へ向き直ると、褥の上の卵を両手で静かに取り上げた。
少年の目の前で、少女が自分の身体の下にあった右腕を抜いた。少年が見降ろしていることに気づかず、彼女は眠り続けている。
彼は、左手で傍らに立て掛けていた長銃を取った。
遥か上方の円窓から、流れる黒雲と降り続ける雨が見える。
右手で銃を支えながら、跪いて左手で卵を静かに床に置く。
そうして改めて立ち上がると、両腕で銃を抱えた。
床に置いた卵を見つめる彼の目は、深い哀しみを湛えている。
彼は銃口を床に向け、ゆっくりと垂直に長銃を持ち上げた。
下になっていた右手を持ち替える。
床に置いた卵をめがけ、
彼は渾身の力を込めて、
長銃を突き立てた。
雨はなお降り続いている。
街は水没しつつあった。
石造りの灰色の建物は二階まで水に浸かり。
狭い路地に大通りから繰り返し波が寄せ。
破風の怪魚が見上げた先を黒雲が流れ。
開いた扉から水に浸かった部屋では窓脇で遮光幕が水面にゆらめき。
広場で立ち尽くしたまま腰まで水に浸かった〈影〉の周りで、黒い水面が滑らかにうねり。
やがて、彫像のような〈影〉たちの顔まで水が覆い尽くし。
灯ったまま水没した街燈の光に、割れた窓がぼんやりと照らされ。
石壁に突き立った銛から垂れ下がる引き綱が、水の流れに大きく泳ぎ。
噴水の怪魚は、小さな気泡を遥か上の水面に向けて吐き続け。
教会の尖塔も、石造りの家々も、路地の石段も。
何もかもが、
水に呑まれてしまった。
見知った景色が、それまで見せたこともない表情で立ち上がる。
時が、静かに襲いかかる。
少年は右肩に長銃を担ぎ、暗い空を見上げていた。
その髪も、その外套も、その身体も、重く濡れている。
『誰? あなたは、誰?』
少女の問いが、少年の脳裏に響く。
彼は水没しつつある街の屋根の上で、暗い空から落ちてくる無数の銀の垂線を黙って見上げ続けていた。
雨を呑み込み続ける黒い水面が、ゆるやかにうねりながら屋根へと迫る。
取り残されたその場所で、彼は十字の長銃を担いだまま、雨に打たれていた。
異神と共に
少女は褥の中で眠い目を開けた。
自分の白い掌を見つめ、彼女は夢から醒めたことを確かめるように、手の甲で目をこする。
いつもそうしているように。
褥の上に身を起こすと、敷布を纏ったまま両手でもう一度目をこする。
それから、がらんとした薄暗い部屋を見渡した。頭に懸かったままだった敷布が、背中にずり落ちる。
何かがいつもと違う。
少年の姿はない。
少女は褥の上を這うと、寝台からそっと降りた。
その白い素足を静かに床に下ろす。足元に、昏い靄がうっすらと立ち込めている。
彼女は数歩歩いて周囲を見回した。
やはり、少年の気配はない。
風の音は既に止んでいた。
ひどく静かだ。
崩れかけた天球儀が朝の薄明にぼんやりと浮かび上がり、床に転がった壜が靄の中で微かな光を返している。
少女がまた一歩足を踏み出すと、足元で乾いた音が鳴った。
何かが割れる音。
少女は足元を見た。
自分が踏んだものに気づいて、彼女はその場にしゃがみこんだ。
両手でそれを拾い上げる。
殻を割られ、空洞を晒す卵。
少女は虚ろな眼でそれを眺めた。
前夜眠りに就くまで大事に抱き続けてきた卵は、今、目の前で無惨な姿を晒している。
卵の中の空洞を硬い表情で覗き込んでいた少女の顔が歪む。
何が起きたのか、彼女はやっと理解した。
名付けることのできない感情が彼女の内に一気に迸る。
息を吸うが声にならない。
彼女の目から涙が零れ落ちる。
朝の光が差し込み始めた回廊を、彼女の絶叫が劈いた。
何度も、しゃくりあげながら号泣する。
その声が吹き抜けを通じて方舟の全体に谺した。
いつからなのか、方舟の中は木の根に覆われている。壜が並ぶ回廊を、柱を。木の根が方舟全体を絡め取っている。
少女は冷たい石の床の上でなおも慟哭していた。額を床に付け、身体を丸め、お腹を掻き抱く形で。全身から哀しみを発するかのように。
やがて、少女は泣きじゃくりながらもゆっくりと身を起こした。
肩を震わせながら顔を上げる。
その目には強い光が宿っていた。
少女は壜が列を為す長い螺旋階段を駆け下りた。
辺りからは化石が姿を消し、木の根が覆い尽くしている。しかし彼女の目にはそれは映らない。
右回りに螺旋階段を駆け下ると、浅く水の溜まった底部を横切る。
竜骨の傍らに聳える生命樹の壁画も、絡みついた木の幹に幾重にも覆われて見えなくなっている。根元から梢へ、壁画に重なるように伸びる幹。
音を立てて水溜りを駆け抜け、少女は細い門から外へ出た。石造りの門は、木の根で割られ、歪んでいた。
空が白み、明るくなり始めている。
彼女は外へ出たところで一度立ち止まり、ひとつ息を吸うと、門の前の石段を草原へと駆け下りた。
草原を走る少女の傍らに、長い影が落ちている。
うねり、捩れながら上へ上へと伸びる巨木の影。
石組の方舟に根を穿ち、何本もの幹が絡み合いながら天を目指して伸び、押し頂くように何かを包み込んでいる。
それは巨大な卵であった。
方舟を苗床に、絡み合う枝によって高々と天に掲げられた卵。
奇岩が並び、風に波打つ草原を、少女は一心に走った。
白い髪を振り乱し、涙が零れるのも構わず、息を切らしながら。
雲の隙間から明るさが差し始めている。
黒い森が近づいてきた。
十字の長銃を右肩に担いだ少年の背中が少女の視界に入る。
もう他の何も目に入らない。少しずつ少年の背中が近づく。
少女はひたすらに走る。
あと少しで追いつく……と思われた刹那、少女の身体は支えを失って宙に舞った。
思わぬことに、少女は目を閉じる。白髪が千々に乱れる。
大地が割れて、大きく口を開けていた。
少女は為す術もなく、その深みへと落下していく。
黒雲の流れる空を背に、両腕を広げたまま頭から奈落へ。
目を見開くと、揺らめく水面が近づいている。
時間が遅延する。
水底から、何か白い影が上がってくる。
左にだけ三つ編みを結った長く白い髪を靡かせ、はためいている縦縞柄の裳裙は確かに少女と同じ。しかし、長い手足に丸みを帯びた身体は、大人のそれ。
女は少女と同じように、両腕を広げ、驚きに目を見開いて少女にゆっくりと近づいてくる。
二人は水面で出会い、静かに目を閉じると、互いに顔を傾げて接吻した。
次の瞬間、女の口元から穏やかに波紋が広がり、少女の姿は闇に掻き消えた。
大量の気泡と共に、女は水底へと沈んでいく。いや、上下は既に定かでない。
彼女は両の手をゆっくりとお腹に当てた。
それから、自分の身体の形を確かめるように、左手を鳩尾から胸、胸元から喉へと這わせる。
身体の中から何かがせり上がってくる。
彼女は苦しげに喉を押さえた。
そのまま顎を引いて耐えるが、堪え切れず、遂に長い白髪を乱して大きく振り仰いだ。
彼女の口から大量の気泡が吐き出される。
気泡の群れは、暗い水中を小さな音を立てて上っていく。
水面へ。
やがて、黒い水面に
真白な卵が一つ、
ぽこんと
浮かび上がった。
続いて、
幾つもの卵が
一斉に浮かび上がる。
水面でたゆとう卵たち。
波紋が大きく広がってゆく。
石畳を覆った水面の上を
ゆっくりと寄せては返す波紋。
そこに映る黒い影。
捩れる幹に持ち上げられた、巨大な卵。
流れる雲が次第に途切れ始めた。
黒い廃墟に根を張り、高々と空に掲げ上げられた幾つもの卵。
石造りの建物は悉く崩れ落ち、空が開けている。廃墟となった街の其処彼処で、卵を抱えた大木が、明るくなり始めた空へと各々聳え立っている。
劇場は組硝子のある壁面だけを残して崩れ去っていた。色のない廃墟の中で、魚の組硝子だけが鮮やかな色を放っている。
観客席に根を這わせ、幹を捩り合わせながら立ち上がる巨木。
その頂には、半透明の殻の中で眠っている巨きな雛が見えている。
誰も見る者のない廃墟の街。
崩れ残った石壁の、窓の向こう。
朝の冷たい空気に掲げられた卵は、
一体何を夢見ているのだろうか。
少年は浜辺に立っていた。
草原から続く巨石の列。
砂浜には大量の白い羽毛が打ち寄せられ、吹き寄せられて、幾筋もの風紋を描いている。
少年の足元で、羽毛の列が微かな風に震える。
彼は十字の長銃を担いだまま、黒い海を睨んでいた。灰色の雲が海から丘へ、彼の上を次々と流れていく。
強い風が吹いて、浜辺に吹き寄せられていた白い羽毛が一斉に空に舞い、少年は目を細めた。
風で舞う無数の羽毛。
羽毛は薄明るい空を埋め尽くし、立ち尽くしている彼の周囲を夢のように舞う。
水平線に光が走り、次いで轟音と共に大量の水煙が上がった。
彼は砂浜からその様子を見つめた。束ねた白い蓬髪と紺の外套が風に揺れている。
立ち昇る水煙を割って、黒い眼球のような〈太陽〉が姿を現わした。
夜が明ける。
熱い風が吹きつけて、空中に漂っていた羽毛を一挙に丘へと薙ぎ払い、少し遅れて砂浜に大波が押し寄せた。
立っていた少年も、一息に波に呑まれた。腰まで波に浸かり、外套を背後に引かれながら、彼は辛うじて立ち続けている。
波が寄せ続けるが、彼はそこから立ち去ろうとはしない。
立像の立ち並ぶ支柱が海面に出ると、大小の蒸気筒を一斉に鳴動させ、内燃機関の重い唸りを轟かせながら、〈太陽〉は水面から天空を目指す。
大量の海水を吐き出しながら、〈太陽〉は海面を離れていく。それは〈太陽〉の流す滂沱の涙とも見える。
無数の神々が居並ぶ鎧戸が開きつつあり、薔薇窓から光が差している。
薔薇窓から燦然と放たれる光が、砂浜の列柱に、少年に降り注ぎ、波が寄せる浜に濃い影を落とす。
〈太陽〉が昇るにつれて、奇岩の影はその長さを縮めていく。
薔薇窓を覆っていた鎧戸が、完全に開き終えた。
その中に、
膝の上に両手で卵を載せて座る
少女の像がある。
離れゆく地上を見下ろしている。
草原の列柱が、
少しずつ小さくなってゆく。
少年は昇りゆく〈太陽〉に、
間違いなく彼女の姿を見た。
見える筈などないと知りつつ、
それでも彼は確信していた。
決して手の届かぬ無数の神々の列に、
少女が連なっていることを。
彼は昇る〈太陽〉を
黙って見上げ続けた。
癒えることのない孤独を胸に。
風向きが変わった。
丘から海へ。
吹き下る風が、彼の外套を揺らす。
昇る〈太陽〉は
見る間に高度を上げていく。
少女の像は
柔和な微笑みを浮かべている。
膝の上の卵に向けて。
遠ざかりつつある地表に向けて。
愛おしさと、
慈しみを湛えて。
繰り返し寄せる波に洗われながら、
少年はいつまでも
その場に立ち尽くしていた。
その姿が次第に小さくなる。
波は間隔を変えることなく寄せる。
やがて、少年の姿は
黒い海面に紛れて見えなくなった。
石柱の影は既に点となった。
風で波打つ草原も、
囁くようにざわめく黒い森も、
ゆっくりと遠ざかっていく。
黒い森に囲まれ、
真黒な河を一筋吐き出している 灰色の塊。
あれは、幻の魚の街。
丘の頂が
不自然な直線を描き、
海へ向けて下る奇石の列は
等間隔で平行に並んでいる。
〈太陽〉は尚も昇る。
陸地の全景が見えてくる。
木の葉の形をした島。
黒い森と灰色の街を載せ、
草原に覆われた斜面は、
苔生し錆びついた甲板。
整然と並ぶ列石は鋲。
真直ぐな丘は舟の竜骨。
右舷を半ば水没させ
傾いだまま暗い海底に真黒な影を落とす、
巨大な、
巨大な方舟。
世界は
今も、
夢の海を、
漂い続けている。
了
□ 引用等一覧
本作は、二〇〇一年四月にパイオニアLDCより発売されたDVD『天使のたまご』を原資料とし、原作の映像を逐次的に文章として書き起こす形で執筆した。
■参考文献
『天使のたまご』押井守/天野喜孝 徳間書店アニメージュ文庫(1985)
『天使のたまご 絵コンテ集』押井守 徳間書店アニメージュ増刊(1986)
『聖書 新共同訳』共同訳聖書実行委員会編 財団法人日本聖書協会(1987)
■引用
参考文献として挙げたアニメージュ文庫『天使のたまご』に採録された押井守監督の章句から、以下の部分を引用したので、章毎に明示しておく。括弧内は原文の掲載頁。
・水の記憶
「目覚めるといつも世界は黄昏ている」(p.10)
・窓の向こうに
「少女は少年に出会い」(p.72)
「少年は少女に出会った」(p.73)
・水底の街
「自分でない誰か。目の前にいて自分を見つめているその誰か」(p.154 「あとがき」より)
・時の堆積
「暗い回廊から見上げた天井のあたりに、雨滴が僅かに光っている」(p.115)
「それが少女の鳥だった」(p.125)
※ 作中人物の発する台詞は、原則として原作及び絵コンテ集に従った。なお、一部の表記については改変している箇所もある。
※ 各章の表題は、菅野由弘によるオリジナルサウンドトラック『天使のたまご 音楽編』(原題『水に棲む 天使のたまご音楽編』)の曲名から採っている。
■聖書の章句について
作中「時の堆積」の章で引いた旧約聖書の章句は、原作及び絵コンテ集に従った。出典は『世界古典文学全集第5巻 聖書』関根正雄/木下順二編(筑摩書店)。原作に於いては演出上の理由により改変されている箇所もあると推察されるが、執筆者が出典資料に当たることができず、また当該個所を現在広く流布している新共同訳の章句に差し替えた場合、原作の放つ印象から大きく乖離するため、敢えてこの形とした。引用一覧の作成にあたり、各々対応する章節を以下に明示しておく。
「我創造りし人を我地の面より拭い去らん。人より獣、昆虫、天空の鳥に至るまで滅ぼさん。そは我これを創りしことを悔ゆればなり」(創世記第6章8節)
「今七日ありて我四十日四十夜地に雨を降らしめ、我創りたる万物を地の面より拭い去らん」(創世記第7章4節)
「かくて七日ののち、洪水地に臨めり」(創世記第7章10節)
「その日大淵の源皆潰れ、天の戸開けて雨四十日四十夜地に注ぎ、方舟は水の面に漂えり」(創世記第7章12節)
「地に動く肉なるものの鳥、家畜、獣、地に這うすべての昆虫 および人皆死ねり」(創世記第7章21節)
「その鼻に生命の気息の通うもの すべての乾土にあるもの皆死ねり」(創世記第7章22節)
「ただ彼とともに方舟にありしもののみ存れり」(創世記第7章23節)
「彼地の面より水の減少しかを見んとて鳥を放ちいだしけるが、再び彼のところへ還らざりき」(創世記第8章8節、12節)
詞篇 天使のたまご