着ぐるみアウトライン

着ぐるみアウトライン

 駅前のロータリーは一瞬しんと静まり返った。夕暮れの噴水広場はいつの間にか無人で、ひとり取り残された私がオレンジの光の中にぼう然と立ち尽くしているばかり。バスは客を乗せて行ってしまい、列車も大勢を飲み込んで発車したようで、あとには閉店した宝くじ売り場のそばで、貧乏ゆすりをする私だけが残されたのだ。
 前のビルの壁の街頭ビジョンを私は見上げる。夕焼け空を背景に巨大な液晶がニュースを次々映し出す。
 七歳の子供が誘拐・殺害され、雑木林に死体が遺棄された事件。火山の噴火によって数十名が死亡し、今もその倍の人数が行方不明となっている災害。操縦中の機長の自殺にともなう航空機の墜落事故。大臣経験者を含む数十名の逮捕者を出した汚職事件。多くの患者を死亡させ、いまだ後遺症に苦しむ人が数千人規模でいるという薬害事件。大人気アイドルグループが初めてのドーム公演を成功させたという話題。突如ブレイクし、近頃はテレビで見かけない日のないお笑いコンビが、出身地の親善大使に任命された話題。――
 ニュースを眺めているうちに、私は全身が沸騰するような息苦しさを覚え、いても立ってもいられなくなった。首を左右に振って自分を救ってくれる何かを――それが何かは私にも分からないのに――ただむなしく探した。
 私は走り出した。高架駅の通路をくぐり抜けて、駅の反対側へ出た。タクシー乗り場の先頭に高級車の個人タクシーが停まっている。広々と座れるので、私はホッとした。
 私がタクシーに乗り込むと、運転手が「えっ!?」っとバックミラー越しに目を丸くした。
 「驚いたなぁ!」と運転手は言った。「私はあなたの大ファンなんですよ。うちの嫁も娘も、家族みんなで応援してるんですよ」
 「どうもありがとう」
 私は早口に返して行き先を告げた。
 「うれしいなぁ、あなたを乗せたことを話したら、うちの連中度肝を抜かれますよ」
 私はバックミラーにぶら下がる二つのキーホルダーを見た。黒いアザー=ルーとオレンジ色のトワックル。県を代表するキャラクターに成長し、今もその人気を拡大させ続けている二体のゆるキャラ。そのミニチュアが揺れている。
 「もっともっと人気者になって、この町を盛り上げてくださいね」
 私はうなずきながら背もたれにもたれた。
 (いくら人気者になったって、俺の人気じゃない)と私は思った。(アザーの人気だ。俺のじゃない。俺とは関係ない。すべてはアザーなんだ)
 大通りとの合流地点の信号にタクシーは引っかかった。私は何となく窓の外を見た。広場の植え込みの縁に十人ほどの男女が腰掛けている。みな背を丸めてスマートフォンの画面に目を落としているので、頭頂部とおでこしか見えない。ひとりとして表情はうかがえない。
 私は窓に映る自分の顔を見た。デフォルメされたまん丸の猿の顔に、大きく見開いた目――シンプルな可愛らしさと神秘的な雰囲気をあわせ持つ独特のデザイン。丸い団子っ鼻と半月型の赤い口。胴体も腕も足もほとんど凹凸がなく、のっぺりしていて装飾性はない。派手さがないからこそ、星の数ほどいるゆるキャラの中でかえって目立ち、多くの人の心をつかんだ。
 アザー=ルー。
 くそ。胸が重苦しい。つらい。
 (俺の人気じゃない…)と窓に映るアザーの顔――私の顔を見ながら私は心でつぶやいた。(俺の人気じゃない。アザーの人気だ。俺じゃないんだ……俺じゃ……俺じゃ)
 タクシーが走り出す。薄暮の街のネオンも一緒に動き出し、窓のアザーの顔をまぶしく撫でてゆく。まるでアザーの顔自体が色鮮やかに輝いているよう。
 (俺じゃない……俺じゃ……俺)
 薄笑いを浮かべるアザー(常に同じ表情)を私はにらみつける。
 (俺……俺は誰だ?)
 私は左手で頭を押さえた。
 (俺って誰なんだ? 俺は一体……一体誰だ? 俺は誰だ? 俺は誰なんだ? 俺は……俺は……)
 タクシーが停まった。「参ったな」と運転手がつぶやく。「ひどい渋滞だ。事故でもあったのかなぁ」
 私は前を見た。緩やかにカーブする国道に、無数のテールランプが連なっている。
 「だいぶ時間かかっちゃうかも。構いませんか?」
 私は「構いません」と死にそうな声で答えてうつむいた。
 (俺は誰だ?)そして自問を続けた。(俺は……なんでこんなことになってしまったんだ……?)

 ――

 去年の冬から私はビルの夜警のバイトを始めた。午後十時から翌朝六時まで、二人一組でビルの管理室に詰め、灯りの落ちたビル内を交代で見回りする仕事だ。
 はじめはなかなかつらかった。真っ暗な廊下を懐中電灯ひとつでうろうろするのは、気持ちの良い仕事とは言えなかった。
 見回り中、窓に光を当てないように電灯を斜め下へ向けながら、私は子供の頃のことを思い出していた。暗闇が怖くてトイレに行けず夜中に悶々とした思い出だ。ビルの廊下に広がる暗闇は、子供時代の深夜の家を覆っていた暗闇にどこか似ていた。冷たく、よそよそしく、じわじわ心を責め立てるような迫力のある闇。足を踏み出すことを躊躇させる、不安をかき立てる闇。
 廊下や部屋に侵入者が潜んでいないか確かめるのが任務なのだが、本当に誰かいたら私は声も出せずに気絶していたかもしれない。
 働き始めが冬だったので冷気も厄介だった。寒さは怖さにも負けないくらい私をむち打った。冗談抜きに、歩いていると本当に身体が震えてくるのだ。
 私はとんでもないバイトを選んでしまったと後悔しきりで、さっさと済ませて暖かい管理室に戻ることばかり考えて毎晩見回りをこなしていた。
 だがバイトを続けるうち、次第次第私の心境は変化していったのだ。


 管理室を出て、私は廊下を歩き始める。寒い季節は終わろうとしている。歩いていると身体がほのかに温まってくる。
 暗闇の只中へ意気揚々――とまでは言えないが、穏やかな気持ちで私は足を踏み出す。
 バイトを始めて一ヶ月ほど経った頃からだったか。私は廊下を歩いていると不思議な安堵感を覚えるようになった。暗闇の中にいると自分の身体が溶け出して闇と融合するような、奇妙な、しかし現実離れした恍惚感に包まれ、気持ちが落ち着くようになったのだ。ちょっと前まで暗闇が怖くて震え上がらんばかりだったというのに、おかしなものである。
 この感覚はどういうものなのか。自分でも何が何だかよく分からない。だが心地は悪くなかった。それは恐怖や寒さとは対極の、穏健で温かな感覚だった。闇が強靭な幕となって、外界の刺激から私を守ってくれるような。なんだかまるで母の胎内にいるような。そんなイメージだ。
 なぜそんな感覚を覚えるようになったのかは分からないが、バイトのつらさが和らぎ、むしろ夜警の仕事が楽しくなったのはありがたかった。
 ビルの闇は私をつかの間安堵させてくれる、私の心の防護幕のようになった。闇の中にいる間は自分のことも他人のことも何も考えなくていいのだ。闇の中ではすべてが一緒くた混じり合って境目がなくなる、という観念に、私は魅了されていた。人も物も輪郭を失い、差異をなくし、自分が何者であるかなどどうでもよくなる。
 闇と同化すれば何も見えなくなる。
 見えなくなってしまえば、みな一緒だ。差異に対して、あるいはその差異自体が存在しないということに対して、不安を感じなくて済む。――
 私はそんな取り止めのないヘンテコな観念を頭の中で弄びながら、毎晩見回りの任にあたっていた。真面目な仕事っぷりとはお世辞にも言えない。そんなぼんやりした警備では、ひょっとしたら一人や二人、侵入者を見逃していたかもしれない。
 その代わりに欠勤や遅刻も一切なく、私はシフトの融通もきいた。何しろ私には盆も暮れも正月もなかった。そんなものを気にしなければならないほどの人間関係を、私は築いていなかった。
 警備員としては頼りないものの、別段問題も起こさないし上司の望むままに交番も組める。まあぎりぎり及第点はもらえてしかるべきアルバイト職員ではあったと思う。


 春の始め。
 その夜二度目の見回りを終えると、私は懐中電灯を消して管理室のドアを開け、異常ありませんでした、と中の有野に告げた。有野は白髪混じりの頭を小さく振って「お疲れさん」と返し、黒い皮の手帳を閉じた。有野はビル管理会社の社員で、私の指導役兼年上の同僚だ。定年間近の五十代でもう孫がいる。
 「コーヒーでも飲むか」
 有野は目の前の棚からカップを二つ取り、コーヒーを淹れてくれた。
 見回りのあとは身体が火照っている。季節的にもうアイスでもいいな、と思いながら私は温かいコーヒーを飲んだ。有野はカップに口をつけながら、空いている手で胸ポケットをたたいた。最近は管理室が禁煙のビルも多く、有野も半年前にタバコをやめたのだが、いまだにコーヒーを飲む時にポケットを探る癖が治らない。
 私は壁掛け時計を見た。午前三時半。私は携帯電話を取り出した。液晶の時刻は三時三分。管理室の時計はいつも狂っている。しかもその狂い方が一定でなく、日によって十五分進んだり、三十分遅れたりするので当てにならない。
 「携帯変えたのか?」と有野が尋ねた。私が手にしているのはスマートフォンだ。
 私はうなずき、今までのガラケーは昨日駅で無くしてしまったんです、と答えた。
 「そりゃ災難だったなァ」と有野は太い眉を八の字にしてうなずいた。
 「新しいのはスマホか……今はみんなそれだな。私なんてやっとガラケー――って今は言われてるのか――に慣れ親しんだっていうのに。時代の流れについていけないよ。うちの息子も息子の嫁さんも、親指と人差し指で器用に画面をいじってる」
 有野の息子はアメリカの大手半導体メーカーの日本支社に勤めている。将来は本社への異動も期待されている優秀な人物だそうで、日本とアメリカで離ればなれになるのはさみしいが、そうなったらやっぱりうれしいな、と有野が前に話してくれた。
 息子さんはおいくつでしたっけ? と私は尋ねた。
 「二十七だ」と有野は答えた。私は、同い年だ、と思って息を止めた。
 有野がコーヒーの湯気の向こうで相好を崩す。
 「そう言えば今度の人事異動で係長に出世するんだそうだ。同時に、私にはよく分からんが、それこそスマートフォンの」有野は私の電話を指差した。「新しい部品の開発主任に抜擢されたと言っていた。私にはでき過ぎた息子だよ」
 目尻と眉毛を下げ、照れ半分に話す有野には、六十手前ながら好々爺の雰囲気があって好感が持てる。子供の自慢話も嫌味には聞こえない。
 だからこの時の私がにわかに落ち込んだのは、有野のせいではない。ただ、彼の息子と私が同い年だということに、自分でも意外なほどのダメージを受けたのだ。
 「どうした?」と有野が尋ねた。なんでもないです、と私は首を振った。

 アパートのドアを開けると、奥の部屋から単調な電子音が聞こえてきた。玄関に黄色いスニーカーが脱いである。恵だ。
 ただいま、と声をかけても返事はない。私は自分のくたびれたブーツをスニーカーの横に脱いで家に上がった。
 上がってすぐが台所で、奥に一間の1K。
 部屋の引き戸を開けると床に恵が座っていた。朝の光の中、険しい表情でテレビを見つめている。そろえた膝の前には黒とグレーのツートンカラーの、ヘルスメーターのような形のゲーム機。私たちが生まれる前に作られ、私たちが生まれた頃に姿を消した古いコンシューマ。コントローラーは無く、本体についているボタンとレバーで操作する。ゲーム会社に勤めるプランナーで、レトロゲームマニアである恵が私のうちに持ち込んだ物だ。
 引き戸のレール上に立ったまま、私は画面を見つめた。恵はアクションゲームをプレイしている。単純なグラフィックに単調な色合いのゲーム画面。解像度が低いので、ドットの大きな角ばったオブジェクトしか描出できない。主人公はかろうじて人間と分かる抽象的な四角に過ぎないし、敵や障害物もただの丸や長方形。色以外はどれも似通った造形で、私にはほとんど敵味方の区別もつかない。
 ゲームのステージは黒一色の背景に、四角を組み合わせた木が並ぶだけのシンプルさ。その前を自機である四角が行ったり来たりする。画面外から飛んでくる赤や黄色の四角と丸を延々と弾き返したりよけたりして、スコアを稼ぐ。
 いくつもの四角形がテレビ画面を飛び交うのを見ていると、軽くめまいがしてくる。物寂しくも浮遊感のあるBGMが、そのドラッグ的な雰囲気をさらに高める。
 恵は不意に手を止め、いきなりゲームの電源を切った。乱舞する四角は消え、テレビのスピーカーは沈黙し、しん、と部屋が静まり返る。私は中に入り、カバンを床に放り出して恵を見た。
 「単刀直入に言うわ」恵は私を見上げて言った。その顔の右側に朝陽が当り、眼鏡のレンズが緑色に光った。
 「別れましょう」
 今日は仕事は? と、私は話をそらした。
 「休みを取ったわ。別れ話をするために」
 恵はかたわらのバッグからこの部屋の合鍵を取り出し、テーブルの上に置いた。私は黙って鍵を見下ろした。
 「返す」
 うん、と私はうなずいて鍵を取った。
 そんな私の様子に「ねえ、あなたはさ……」と、恵はイラ立たしげな声を出した。
 なに? と私は尋ねる。
 「あなたは何がしたいの?」恵は怖い顔で言った。「今後どうしたいの? 将来に向けてこうしたいとかああしたいとか、ないの?」
 私は答えずに立ち尽くす。恵は吐き出すように続ける。
 「あなたが何を考えてるのか、分からない。夢もないのにバイトのその日暮らしで、熱中するような趣味もない。いつもぼんやりしててつまらなそうで、楽しそうに笑うことなんてまずない。穏やかで優しい人だと思って付き合い始めたけど、穏やかなんじゃなくて何に対しても興味がないだけ。興味ないからこだわりもない。だから何があっても怒らない――怒りさえわかない。あなたの感情が見えない。何を考えてるのか分からない。何がしたいのか全然分からない」
 うん、とため息交じりに私はうなずいた。
 「もう嫌になったよ、あたし」
 恵はふっ、と息を吐いた。そして「さようなら」と早口に言って立ち上がり、余韻も何もなく部屋を出て玄関へ向かった。私はその後ろ姿を目で追った。恵は座ってスニーカーを履き始めた。華奢な背中が小刻みに揺れていた。
 玄関の電球が切れかかっている。光が何かの暗号のように明滅し、恵の黒髪がそれを反射する。
 ゲーム機はどうするの? と私は尋ねた。恵は返事をせず、アパートから出て行った。

 米を磨ぐ気力もわかなかった。私は近所で唯一、朝早くからやっているラーメン屋へ行って朝食を取ることにした。
 のれんをくぐって、茹でた麺のにおいを嗅いだ瞬間、私は食欲がまったくないことを自覚した。
 席についてメニューを広げると、見開きの左ページ上に「定食」と大きく書かれている。下にラーメン系のメニューがずらっと並び、それからカツ丼や麻婆丼などの丼物が続いている。
 定食? と私は思う。
 丼物の下にサバ味噌定食やカキフライ定食などの「定食」がやっと出てくるが、それとひと続きにキムチやギョウザ、瓶ビールにコーラまで並んでいて何ともカオスだ。変な店だ。
 私は炒飯を注文して息をついた。そうだ恵をメモリーから消そうか、と思い、スマホを取り出したが、前の携帯をなくして機種変更したばかりなので、そもそもまだ誰の番号も何のIDも登録されていないのだった。
 運ばれてきた炒飯を口に入れながら、私は恵の言葉を反芻した。
 あなたは何がしたいの? 今後どうしたいの? 将来に向けてこうしたいとかああしたいとか、ないの?
 私はげんなりと息をついた。いくら考えてみても、将来に向けてしたいことなど何も思いつかないのだ。将来どころかたった今やりたいこともない。過去に遡っても、何かの趣味に熱中したとか仕事や勉強に一生懸命になれたとか、そういう記憶は皆無だ。
 ひどいもんだなァ、と私はスープをすすりながら思う。一体俺は何なんだろう。二十七年間も俺は何をしてきたんだ。
 思えば子供の頃からこれといって得意なことも、好きなこともなかった。その時々に流行ったゲームや遊びは周りに流されてかじったが、夢中になったことはない。
 成績もずっと中の中といったところで、頭が良いわけでもないが悪いわけでもなかった。スポーツも、体育や遊びで不自由なくプレイする程度にはできるが、運動神経が良いほうではない。カラオケに行けば聞き苦しくないほどには歌えるが、うまいと言われることはない。絵や造形などの美術も、学校の授業で落第しない程度にはこなせるが、アートには基本的に無知で興味もない。ミュージシャンやアイドルのファンになったこともないし、好きな漫画家とか映画監督とかもいない。食べ物に対するこだわりとか、車が好きとか服が好きとか、そういう趣味もまったくない。やってみたい仕事も将来の夢も全然ない。何となく受けて合格した大学も結局三十単位も取れずに、二十一歳で中退した。
 母は私が幼い頃に亡くなったし、父も大学をやめた頃に病死している。兄弟もいない。付き合いのある親戚もいない。電話を紛失してアドレスを失ったことで、もともと少ない友達への連絡手段もなくなった。SNSやツイッターの類もやっていないのでネット上の繋がりもない。そしてさっき、彼女にまで振られてしまった。――
 そこまで考えて、私はレンゲを持つ手を止めた。
 なんて何もない人間なんだ、と私は思った。今までを振り返ってみて、私はじんわりとしたショックを受けていた。背にゆっくりとイヤな汗がにじむような鈍いショック。
 これじゃ空気だ、と声に出さずつぶやいた。まるで俺って空気のようじゃないか。
 家族もなく、友もなく、恋人もなく、仕事のキャリアやスキルもなければ趣味もない。自分の得意分野はおろか、不得意分野さえすぐには思いつかないような空気。
 なんてこった。これじゃ自己紹介もできない。自分が何者なのか、ひとに説明するのもおぼつかない。
 そして私は、食べかけの炒飯を見つめながら心の底から震えた。私はこのように考えたのだ――二十七年間もそんな有様だったのなら、今後も死ぬまでそのままという可能性が高いんじゃないか? 二十七年というのは、人ひとりがすっかり変わるのには十分すぎる時間だ。逆に言えばそれだけの長期間、こんな空気のような人間であり続けたということは、これから先も空気人間のまま生き、年老いていくと考えるのが妥当じゃないか? ずっとずっとこんな体たらくのまま、長い人生を生きていかなきゃ――
 炒飯はまだ半分残っているが吐き気がしてきた。
 レンゲを置き、水を一口飲む。ぬるくて、妙に消毒液くさいような気がした。
 コップをテーブルに戻し、私はうつむいた。不安だ。胸が苦しい。私はこの世にたったひとり取り残されたような気分でいま、ラーメン屋のテーブル席に座っていた。
 両手を握りしめて、怖い、と私は思った。
 私はため息をついた。唐突に湧いた恐怖感と絶望感をただ恨めしく思う。なんてこった、こんなこと考えるんじゃなかった。わざわざ彼女に振られた日に近所のラーメン屋で考えるようなことじゃなかった。ああ、胸が重い、息が苦しい。
 だが、考え始めてしまったものはしかたがない。
 今がつらいだけでも大変なのに、今後もずっとつらいまま何ひとつ変わらないんじゃないかと思うと、私は恐怖と惨めさで泣き出してしまいそうだった。
 のしかかってくる不安でテーブルに突っ伏しそうなのを、私はカウンターのテレビに顔を向けることで堪えた。
 テレビではローカルの生活情報番組をやっていた。地元テレビ局の男性アナウンサーが進行をし、ローカルタレントが当たり障りのないコメントを差しはさむ、ありふれた朝の番組だ。
 大仰なジングルとともに画面に「発見、我が県!」というタイトルロゴが現れた。アナウンサーが「今日は亜猿(あざる)市のゆるキャラ、アザー=ルーを紹介しちゃいます」と明るく言うと、画面が切り替わった。
 私は頭の中に砂を詰められたような気分のまま、見るともなくテレビを眺めた。若い女子アナが、亜猿市のとある商店街を訪ねる。何かのイベントの真っ最中で、通りの中央の広場にピンク色のステージが設営されている。ステージ上には白黒の着ぐるみのサルがいて、音楽に合わせて不恰好なダンスを踊っている。観客は結構な人数だ。客たちは「アザー!」「かわいー!」といった黄色い声援をサルに投げかけていて、ちょっとしたアイドルのライブのよう。
 不思議な光景だと思った。私も亜猿市民の端くれだが、あんなゆるキャラがいることは今初めて知った。
 女子アナのレポートによると、アザー=ルーというそのキャラの人気は現在、亜猿市内で猛烈なスピードで拡大中とのこと。今や県外にまで熱心なファンが現れ始めており、市の様々な企業や団体からはひっきりなしにグッズ製作やイベント出演の依頼が入っているという。
 私は何も知らなかった。「何に対しても興味がない」という恵の言葉を思い出して、また気分が重くなった。


 その夜、私が出勤すると、管理室には有野と共にスーツ姿の見知らぬ男がいた。お疲れさん、と男が言ったので私もお疲れ様ですと返して、それから手持ち無沙汰に突っ立った。
 有野が本社の課長だと教えてくれた。課長は七三分けの四角い頭を小さく揺らしながら私を見た。
 結論から言うと、私はこの夜、仕事をクビになった。課長は淡々と、経費節減のために雇用期間の短いバイト職員は今月いっぱいで雇い止めすることにした、と告げてきた。(雇用期間の長いバイトは契約社員にするという話だった)
 ……この日の勤務中の私の記憶は曖昧だ。あの後有野とどんな会話をしたのかも、見回り中に何を考えたのかも思い出せない。
 用を終えるととっとと帰ってしまった課長の顔もほとんど覚えていない。ただやたら印象に残っているのは、課長が着ていたワイシャツだ。彼はノーネクタイだったので、私は雇い止めについての話を聞く間、彼のシャツのボタンに目をやっていた。ふと何か違和感を覚えたので、何だろうとよく見てみると、全部のボタンとボタン穴がひとつずつずれて嵌められていたのだ。
 かけ違いのボタンなんて気にしている場合ではないのに私は、灰色のシャツの前見頃のズレが妙に気になって、自分をクビにする話を聞く間中ずっとボタンを見つめていた。わざわざ思い出したくもないが、今でも私は課長のシャツの色や柄だけは鮮明に思い出せる。

 私の記憶がはっきりするのは、仕事を終えてビルを出て以降だ。早朝の冷たい外気の中に立ったら突然パニックに襲われて、一刻も早く次の仕事を見つけなきゃと焦り出した。何しろ蓄えもほとんどないし、頼れる人間の当てもない。大げさでなく、これは生存の危機だと私は思った。
 とりあえずどこかでバイト情報誌を調達しようと考えながら歩き出すと、遠くの空で雷鳴が轟いた。見上げれば空は真っ黒。泣きっ面に蜂だ。あいにく傘は持っていないのだ。
 私は降り出さないでくれと祈りながら駅への道を急いだ。通りには会社や学校へ向かうサラリーマンや学生があふれていた。人も建物も電柱もみんな曇り空の下、モノクロ映画のような打ち沈んだ色合いにくすんでいた。
 ふと私は足を止めた。やたら派手派手しい紙が右手のビルのガラス窓に貼ってあって、視界に引っかかったのだ。
 濃いピンク地に太い油性ペンで大きく「スーツアクター急募!」と書かれている。「スタッフが急にやめてしまい、イベントで着ぐるみを着るスタッフがおらず大変困ってます! 体力に自信のある方、私たちと一緒に働いてくれませんか?」
 私は紙に惹きつけられた。
 この時の私が冷静だったなら、こんな大変そうな仕事の募集など無視してさっさと歩き過ぎていただろう。だが私はパニック状態+雨が今にも降り出しそうなのに傘がない、という状況で焦りが頂点に達し、まともな判断力を失っていた。その上で、貼り紙の派手派手しさである。どぎついピンク色は、くすんだ街並みで輝かんばかりに目立っていた。私はその鮮やかさに強烈に惹かれるものを感じたのだ。
 私はスマホを取り出して、紙の最後に書いてある番号に電話をかけた。すぐに溌剌とした声の女が出て「お電話ありがとうございます、ドリプラでございます」と名乗った。私は要件を告げ、貼り紙のあるビルの前にたった今いると言った。女は「ビルの三階が会社なので、もし良かったら今すぐでも面接できますよ?」と返してきた。履歴書もアポイントメントもなし。本当に緊急の人手不足らしい。私はOKして電話を切り、ビルに入った。

 面接は五分で終わった。名前と年齢と、疾病の有無、そして来週からすぐ働けるかという四点しか尋ねられなかった。
 私は無事に採用され、雇用契約書にサインをした。


 物置のような空間の上がり框(かまち)に私は座っている。体は着ぐるみで首から上は人間、という出で立ちだ。頭の被り物は膝の上に乗せている。
 私がいるのは亜猿市流角(るかく)町商店街の空き店舗。もともとは八百屋だったそうだが、今は閉店し、ガラクタとほこりばかりが散らばる、がらんとした倉庫のようになっている場所だ。私の足の下にはコンクリートの三和土が広がり、目の前には大きなシャッターが降りていた。
 イベントMC担当のユキさん(電話に出たのも私を面接したのも彼女だ)は「ここが今日の控え室よ。着替えて待機しててね」と言い残し、イベント会場へと行ってしまった。
 陰気な場所にひとり残された私は膝の上の、これから被ることになるサルの頭を見て、ため息ばかりついていた。
 サルと目を合わせる。
 まん丸にデフォルメされた白黒のサルの顔。コミカルに見開いた大きな目。細い黒目には可愛らしさとともに、猫の瞳のような神秘的な雰囲気もある。シンプルだが独特のデザイン。
 体の部分の作りもシンプルだ。頭と同様白黒で、体型がぽっちゃりとした流線型になっている以外は何の特徴もないシルエット。ゴテゴテとしたデザインのゆるキャラが多い中、思い切った簡素さだ。アクターの動きやすさを第一に考えたのよ、とユキさんが言っていた。見た目でなくアクションの派手さで売り出していこう、とスタッフや市の職員で話し合って決めたのだという。そのほうがかえって目立つんじゃないか、と。
 その決定は大正解だった。アザー=ルーは従来のゆるキャラにない機敏な動きで注目を集め、いまや大きな人気を獲得しつつある。ラーメン屋で見たテレビ番組で紹介されていたとおり、着実に。
 天井が「ガタッ」と鳴った。私は顔を上げ、息を止めた。音は遠のきながら連続し、すぐに聞こえなくなった。
 私のいる一階は無人の潰れた店舗だが、上の階は普通のアパートになっているので時折住人の物音が響いてくる。その度に私は体を固くする。
 単なる生活音に過ぎないそれらが、今の私の耳には攻撃的に響くのだ。それほどに私は緊張し、ナーバスになっていた。
 改めて私はアザーの頭を見た。そして、もう何度考えたか分からないが、なんでこんなことになったんだ、とくよくよ考えた。この後アザー=ルーになって大勢の前でユキさんと踊ったり小芝居したりするなんて、悪い夢としか思えない。勢いで面接を受けてしまったことを私は強く後悔していた。どう考えても自分に向いている仕事ではない。人前で何かしらのパフォーマンスをした経験なんて、小学校の学芸会以来、ないのだ。しかもその時の私の役は、突っ立っているだけでセリフのない村人Cだった。
 そして、今の私は主役だ。
 心臓が猛烈に高鳴ってきて、軽い吐き気さえ覚える。私は胸に手を当てて呼吸を整えた。その手も私のではなくアザー=ルーの着ぐるみの手だ。
 できるだけ何も考えないようにしよう、でないと悪い想像に押しつぶされそうだ、と私は思った。ゆっくり深呼吸しながら、私は自分の内部から外部へと意識の矛先を変えようとした。と言っても、私の周りには面白そうなものなど何もない。目の前の床には様々なガラクタの入った段ボール箱が置いてあるだけ。側面に「日用品」とペン書きされ、掃除機のホース、ハイヒール、茶碗、ひげ剃り、ジャッキ、古いスーツ、花瓶、電動ドリル、テレビのリモコンなどが無造作に放り込んである。不必要な物を「日用品」の名目で取りあえずまとめたのだろう。整理しようとしたような形跡はなく、物がただぐちゃぐちゃのめちゃくちゃに箱の中に山積みにされている。
 いきなり横の勝手口が開いて、私はビクッとした。「準備はいい?」と言いながらユキさんが入ってきて、私は小刻みにうなずきながら立ち上がった。
 「緊張してるよね?」
 私が、はい、と答えると、「アザー=ルー親衛隊」のスタッフブルゾンを羽織ったユキさんは笑顔になった。笑うと大きなたれ目がきれいなアーチ型になる。
 「大丈夫、何も心配しないでいいからね」とユキさんは言った。「慣れるまではややこしいアクションはなしだから。あなたはただ、私の話にウンウンうなずいてくれればいいの。小さい子供になったような気持ちで、ちょっと大げさにね」
 はい、と私がさっそく大きくうなずくと、ユキさんはにっこり微笑んだ。私より一歳上だと言っていたが、えくぼの浮かぶ笑顔にはまだ学生のようなあどけなさがある。
 うなずきに限らず、着ぐるみでの動作は大げさなくらいでちょうどいいと私は事前に教わっていた。着ぐるみを着込んだ状態では細やかな動きなどできないので(言葉もしゃべれない設定だ)、一つ一つの所作を大きくしないと何をやっているのか遠くの客まで伝わらないのだ。
 「じゃ、今日は楽しくやりましょう」
 ユキさんは私の肩を優しく二度、たたいた。私は、がんばります、と震える声で答えた。

 ユキさんがマイクでしゃべっている声が遠く響いてくる。私は控え室を出てすぐのところの路地で、他のスタッフとともに出番待ちをしている。身体は情けないほど震えていたが、着ぐるみ越しなので周りの人々には気づかれていなかったと思う。
 今回のイベントは流角町商店街のPRが目的だ、と聞かされていた。最近、街の商圏に県立大学のキャンパスが新設されて、学生の住民が増大したそうだ。彼ら若い顧客をコンビニや大型スーパーに取られないために、商店組合が今回の街のPRイベントを企画した。
 しかし私にはそんな目的などどうでもよかった。商店の魅力をうまくPRできるかどうかより、自分が無事にアクターの仕事をこなせるかどうか、心配なのはその一点だった。
 さっきから私はユキさんの話を聞こうと必死に耳をそばだてている。しかしうまく聞き取れないのである。声は風に流されてしまっていた。人間の言葉になる前に霧散して、言語未満の音波として空気に紛れてしまっていた。
 打ち合わせどおりならユキさんは今頃「アザー=ルー親衛隊」(私たちの公称だ)の挨拶と自己紹介を終え、私たちがこの商店街へやった来た目的などを説明しているはずだ。その声が聞き取れない。MCの進み具合で自分の出るタイミングを計る気だった私は焦った。
 だがそれは杞憂だった。唐突に(MCが聞こえないのでそう感じた)大勢のアザーを呼ぶ声が、大気を突き破るようにして響いて来たからだ。
 私は「うわっ」と硬直し、すぐに我に返って走り出した。お呼びがかかると離れたところから勢い良く会場に駆け込んでくる、というのがアザー=ルー登場のパターンなのだ。着ぐるみ姿なのでスムーズに体が動かず、自然とドタバタしたコミカルな足の運びになってしまう。だが、そうした間の抜けた愛らしさもアザーの売りだった。
 ただただ無様かつ必死に手足を動かして路地から飛び出すと、にぎやかな人だかりが目に飛び込んできた。五、六十人ほどはいるだろうか? アザーの登場に気づいて、皆いっせいに私の方を見る。そしてまた大地を震わすような歓声を上げる。
 私の中ですっと体温が急降下した。それは自分でも予想外の、唐突で劇的な反応だった。歓声に興奮して体が熱くなるのでなく、むしろクールダウンしたのである。テンションが下がったというわけではなく、心の芯が引き締まるような、(やったこともないが)寒風吹きすさぶ中乾布摩擦をするような、そんな全身がキッと研ぎ澄まされるような感覚に私は包まれた。
 「アザー、こっちよー」とステージのユキさんが私を手招きする。私は勢いよく階段を駆け上がり、舞台中央で立ち止まって観客を見た。小さな広場を埋め尽くす人々。私は打ち合わせの内容を思い出して、大げさに背筋を伸ばしてお辞儀をした。また人々が歓声を上げる。そこかしこから「かわいー」と黄色い声が飛ぶ。
 なんだこれは、と私は思った。一体これはなんなんだ。
 盛り上がる観客をながめながら私は混乱する。これまで経験したこともない状況に、私の中の様々な観念や価値判断が崩壊する。
 ここまでアザー=ルーが熱狂的に応援されているとは想像もしていなかったのだ。昨日まで空気のような人生を送っていた人間が、突然大声援の真っ只中に立たされて、私はもうわけが分からなくなった。
 だが心地良かった。最高の気分と言ってよかった。歓声を浴びていると、これまで感じたこともない力が身体中にみなぎってくるのが分かった。
 歓声に耳をつんざかれながら、私はとろけるような快感に打ち震えていた。こんな天国に昇るような気持ちを味わうのは、生まれて初めてだ。
 私は極度の興奮状態に一瞬で達していたが、しかし一方で、私は我ながら不思議なくらい冷静に仕事をこなしてもいた。ユキさんが商店街のアピールポイントや実施中のキャンペーンについてしゃべるのに合わせ、私はウンウンうなずいたり首をかしげたりしてアザーを演じていた。ちゃんとやれている自分が自分でも信じられない。
 私の中で強い自信が急激に生まれていた。今ならうなずくだけでなく、激しい動きを伴うダンスでも芝居でも、何でもできそうな気がした。
 観客は私の動きに反応して声を上げたり拍手をしたりする。私の目に、それぞれの観客の着ている服の色や柄が奇妙なまでに鮮やかに映る。これもまた不思議な感覚だ。それまで私は、他人の服の色や柄に興味を惹かれたことなどほとんどない。なのにアザーになってみると、その色合いの多種多様さになぜか新鮮な驚きを覚えるのだ。
 いや客の服だけではない、八百屋の看板、とんかつ屋の暖簾、カバン屋の幟、病院の壁、道路や電信柱、何もかもが艶やかでカラフルで、光り輝いて見える。
 なんて鮮やかなんだ、とユキさんが商店街共通のポイントカードシステムの説明をするのを聞きながら思った。
 イベントの間中、私の目の中で世界は彩りにあふれ、美しくあり続けた。まるでそれまでかけていたサングラスを外して久しぶりに裸眼で世界を見たような感じだ。全てのものが色彩豊かにきらめいている。
 うなずいたり、首をかしげたり、手足をバタつかせたりしながら私は思った。このままずっとこうしていたい。いつまでもここでこうしてアザーを演じていたい。


 日を追うごとに私はアザー=ルーのスーツアクターの仕事にのめり込んでいった。アザーになり切って、ユキさんの話にうなずいたり、驚い(た演技をしてみ)たり、飛んだり跳ねたり、地元のアマチュア音楽家がボランティアに近いギャラで作ったテーマ曲に合わせて踊ったり体操したり、ファンの子供にキャーキャー言われたり、大人にもキャーキャー言われたりすることに、どんどんのめり込んでいった。数週間後には、私はずっと昔からこの仕事をしていたかのような気持ちになっていた。私は、天職に出会えた、と確信したのだ。やるべきであると同時にやりたいと思える仕事についに巡り合ったのだ。
 アザー=ルーの人気も順調に拡大していった。毎日届く応援メールやSNS等におけるフォロワーの数も日増しに多くなったし、イベントを見に来てくれるファンも目に見えて増加していった。全国区の知名度を獲得している一部のメジャーゆるキャラには及ばないものの、地元とその周辺地域での人気は絶大かつ不動のものとなっていった。
 人気獲得の一助に自分もなっているのだと思うと私は大いに満ち足りた。人間気持ちが乗ると自分でも信じられない力が発揮できるもので、アクターとしての私のアクションも日進月歩で上達していった。
 運営会社のドリプラ(ドリームプランニングの略だそうだ)の事務所とイベント会場と自宅を行ったり来たりする暮らしの中で、これが幸福というやつなんだと私は心底から実感した。この当時の私の頭の中ではきっと大量のドーパミンが出ていたことだろう。二十七年間、出るに出られず脳の片隅に溜め込まれていたものが一気に噴出していたことだろう。


 初舞台からひと月ほど経ったある晩のこと。
 仕事を終えて帰宅した私は部屋着に着替え、習慣でテレビをつけ、ビールのプルタブを開けて座布団に尻を乗せた。夜のローカルニュース番組をやっていたので、それを見るともなしに眺めながらビールを飲んだ。
 こうして部屋で一人、心地よい疲れに包まれて一杯やっていると、イベント会場での出来事が夢だったように思えてくる。私がうなずくと客もうなずき、私が仰け反ると客は「おー」と嘆息を漏らし、私が跳ねると客は黄色い歓声を上げるのだ。私の一挙手一投足に大勢の人間が反応し、好意的な声や拍手を送ってくれる。
 なんてすごいんだろう、と思う。なんだか本当に夢のようだ。ちょっと前までの私の暮らしっぷりからしたら、信じがたいレベルの人生の急転換だ。
 缶を握る自分の手を、私はじっと見た。その手にアザーの黒い手を重ね見る。私の手と、アザーの黒い手。私の中に、自分とアザーがひとつになっているという実感がわいてくる。
 イベントは週に二、三回程度で、それでも体力的には楽でなかったが、私はもっともっとアザーになって人前に出たいと思った。休みなしの週七連勤で働きたいとさえ思った。こんなに何かをやりたいと思うのも、こんなに気力が充実するのも生まれてはじめてのことで、私は毎日が楽しくて仕方がなかった。
 私はビールの残りを飲み干し、夢心地で時間を過ごした。
 テレビに不意にアザーが映って、私は目を丸くした。「矢野在(やのざい)町フェスティバル」と書かれたアーチの下でアザーが踊っているではないか。
 「矢野在町駅前で行われた振興イベントに人気ゆるキャラ・アザー=ルーがやって来ました」とアナウンサーがナレーションを入れた。今日私が参加してきたイベントだ。
 そう言えば取材が入っていたっけ、と私は思った。イベント中はアザーを演じることに没頭していたのであまり意識しなかったが、会場から少し離れたところに大きなカメラやマイクを構えた人たちがいたような気がする。
 大仰な動きで、しかし我ながら俊敏に踊る自分を見ているとどこかむずがゆい、不思議な気分になるが、悪い気はしない。人気という形のないものを、メディアの報道という形あるもので確認できるのはエキサイティングな経験だ。自分が一端のスターになったような気になる。
 アザーのニュースが終わると、アナウンサーは表情と声色を変え、「昨年以来、我が国のいわゆる働き盛りの世代の自殺率が大きく上昇傾向にある、と内閣府が発表しました」と言って次のトピックへ移った。私は興味を失い、再び今日のイベントでの歓声を思い返し始めた。
 テレビは東京のオフィス街を映し出している。丸の内かどこかだろうか。駅前の交差点をたくさんのビジネスマンが行き交っている。誰も彼も濃いグレーや紺のスーツを着たドブネズミファッションで、全体がにごった灰色の塊に見えてくる。
 アザーになっている間はあれほど客の服が鮮やかに見えたのに。テレビの中の人々の服のくすんだ有様といったらどうだろう。
 番組がCMに入った。私は気分が良かったので、もう一本ビールを飲むことにして立ち上がった。
 缶ビールを持って台所から戻ると、テレビには三人の制服姿の少女が映っていた。地元ローカルの清涼飲料水のCMだ。
 少女たちは手に黄色いラベルのサイダー瓶を持って山間の道を歩いている。三人がそれぞれ矢継ぎ早に、サイダーに使われているのは名水百選に選ばれた市内の湧き水であること、その水は豊富なミネラル分を含んでいること、地元産のレモン果汁を使って風味も良いこと、などを芝居がかった会話調で説明してくれる。
 三人の中で真ん中の女の子がアップになり、細いあごを上向けてサイダーをあおる。髪をポニーテールにした、やや切れ長な目の美少女だ。背も高くて手足も長く、三人の中で断然見栄えがする。誰なのか、芸能界に疎い私には分からない。ローカルCMだし、有名なタレントではないのかもしれない。だが輝いている、と私は思った。とても魅力的な少女だ。
 最後に商品名の「亜猿レモンサイダー」というロゴが大写しになってCMは終わった。
 私は、あっ、と思った。事務所でユキさんが言っていたのを不意に思い出した。アザーが地元の飲料のイメージキャラクターに決まりそうだ、という話だ。社長とメーカーと役人の三者で詰めの交渉をしていて、早ければ来月には契約が決まり、ラベルに載せるアザーの写真を撮影をするかも、と言っていた。私は、ふーんすごいな、とのん気に思うだけですぐにその話を忘れてしまっていたが、確かその飲料とは今の「亜猿レモンサイダー」だった。(アザー=ルーは行政の公認を受けているので、企業と契約する際には役人も出てくる。市のイメージが悪くなるような商品やメーカーとは契約を結ばせない、というわけだ)
 CMにも出るのかな、と私はつぶやいた。すると顔が火照って暑くなり、冷たいビールをCMの少女のようにあおった。


 あっという間に更にひと月ほどが経った。私はますますこの仕事にのめり込み、アクターとしてのスキルを順調に獲得し、進歩を遂げていった。ユキさんたちスタッフにも「あなたが来てくれて本当に良かった」と大いに感謝され、むずがゆくも幸福な日々を過ごした。
 蘭子の存在を意識したのはその頃だ。
 あるイベントで最前列のど真ん中に――つまりステージ上の私の真正面に彼女がいたのを見つけ、「今日も来てる」と思ったのが最初のはっきりした記憶だ。
 しょっちゅうイベントに来てくれている女の子がいることには、前々から気付いてはいた。主に土日祝日のイベントで、最前~三列目辺りの客の中に頻繁にその姿を見かけた。
 初めのうちは私もアザーになり切ることに必死だったり、逆に完璧に役に没頭したりして、リピーターの客をことさら意識することはできなかった。だがこの頃にはだいぶ余裕が出てきて、私は客の様子にも気を配れるようになっていた。
 蘭子は目立つ少女だった。まずその表情。常に無表情なのだ。他の客が私の動きに逐一喜んで笑顔になってくれるのとは対照的に、彼女はイベントの終わりまでほとんどにこりともしない。大勢の中でのその浮きっぷりはかなり異様で目を引いた。
 また色白で細身で美人なのである。しかもかわいいとかきれいとかいう単純明快な言葉でくくるのはためらわれる、独特の雰囲気を持った美人。おでこを隠した長い黒髪を左右に垂らし、ただじっと私を見つめるその様は、ホラー映画のヒロインのように超然とし、不気味ですらあった。
 楽しくないのかな、と私は思ったものだが、何度も来てくれる以上、アザーのファンなのは間違いない。それに無表情ながらも眼差しというか顔全体に、こちらに食い入ろうとするような奇妙な勢いが確かにあった。小さな子供は何かに熱中するとかえって表情をなくして黙り込む。彼女の静けさはそれに近いもののように思われた。何度かのイベントで意識して見ているうちに私はむしろ、キャーキャー騒ぐ客より彼女の方が本気のアザーファンなんじゃないか、と思うようになった。蘭子のたたずまいの裏には、一過性の流行に乗るのとは別種の、非常に強固な情熱が隠れているような気がする――そんなふうに私は思った。
 与田蘭子という名前を知ったのは、彼女の存在をはっきり意識した日から一週間後のことだ。
 その日、私は亜猿市と隣の小波似市が共同で開催した「伝統工芸品展」というイベントでパフォーマンスをしていた。会場であるデパートの催事場の特設ステージで、地域の工芸品をフロアの客たちに紹介してゆく仕事だ。皿や壺や編みカゴになんて私は何の興味もなかったが、アザーとしてなら、いくらでもそれらに対して興味津々の演技をすることができる。
 私は、ユキさんが地域の焼き物の歴史などについて説明するのを聞きながら(毎回ユキさんはプレゼンテーターとして、イベントに合わせた知識をびっしり詰め込んでくる)、大げさに驚いたり、大きくうなずいたりして、客の興味を惹き続けた。
 そして私は、今日も来てる、と思った。蘭子は前から二列目の真ん中辺りにいた。直立不動の体勢で、私を――アザーを見つめていた。相変わらずの無表情で。

 撤収作業は小規模なイベントならあまり大変ではない。アザー=ルー自体を宣伝するためのイラスト看板や幟などの小道具、(こちらで用意する場合)マイクやアンプ、スピーカーなどのPA機器を片付けたら、イベントの主催スタッフと軽いミーティングをして終わりだ。
 私は大抵、撤収作業は免除された。着ぐるみで飛んだり跳ねたりするのはかなりの重労働なので、事務所に帰るまでは休憩時間にしてもらえたのだ。
 私が今いるデパートのフロアは、半分が催事場で、もう半分がファストファッションの店舗になっていた。
 私は店頭にずらっと並んだ色違いのシャツを冷やかしながらぶらぶらした。シャツにはデザインの違いはないようだったが、色の豊富さはすごい。眺めていると、画材屋で絵の具の品定めでもしているような気分になってくる。
 歩いているうちに、私の目の中でシャツの多種多様な色がごちゃごちゃと混ざり出す。店舗全体が濁った一色に染められているように見えてきて、目が疲れてくる。
 自販機とベンチの置かれたスペースがあったので、私はコーヒーでも飲んで休憩しようと近付いた。先客がいた。自販機の隣にひとりの少女が立っている。あ、と私は思った。長い黒髪の、あの無表情な女の子だ。
 彼女はどことなく虚ろな、ぼんやりした様子でスマホの画面に目を落とし、ゆっくりと指を動かしていた。私が自販機の前に至ると、少し顔を上げてこちらを見て一瞬固まり、それから小さく会釈してきた。
 私は戸惑いながら会釈を返した。同時に、自分がアザー=ルー親衛隊のスタッフジャンパーを着ていることを思い出して、会釈の理由を理解した。
 こんにちは、と私は言った。彼女は「こんちはっ」と、こちらが鼻白んでしまうくらいぶっきらぼうな声で返した。私はちょっとたじろいで目を丸くしたが、アザーのファンであるのは分かっているので気を取り直した。当時の私は全アザーファンに対して、ほとんど博愛的な親近感を抱いていた。
 よくアザーを見に来てくれるよね、と私は言葉を続けた。蘭子は無表情のまま、うっすら頬を染めた。
 「うん、もう何度も来てる」
 言い方はやはりぶっきらぼうだが、赤くなるということはやはりアザーが大好きなのだろう。私は気を良くし、もう少し彼女と話をしたくなった。
 客席ですごく目立ってた、と私は言った。
 彼女は表情を変えず「どうして?」と返した。
 他のお客さんはみんなはしゃいでるのに、君だけは物静かだったから、と私が答えると、やはり同じ表情のままこくりこくりと二度うなずいた。
 「じっくり見たいの」と彼女は言った。「騒ぐよりも、アザーの一挙手一投足をちゃんと目に焼き付けたいの」
 冷たい顔つきとは裏腹に、彼女の答えは好意的でハキハキしている。なるほど、と私は思って嬉しくなった。やはりこの子は本当のアザーファンなんだ、一過性のブームに乗っているのとは違うんだ、と確信した。
 君のような人がもっと増えたらいいなァ、と私は優しい気持ちで言った。彼女はきょとんとした。
 君みたいにアザーをじっくり応援してくれる人が増えたらいいなって僕も思うんだ、と私は言い直した。
 彼女は少し考えてから、ゆっくりとうなずいた。
 「私もそう思う」
 そして不意に居住まいを正してこちら向くと、頭を下げた。
 「私、与田蘭子と言います。アザーのスタッフさん、今後もがんばってください、応援しています」


 その翌日(日曜日)、私たちは駅前の広場で開かれた県警察主催のイベントに出演した。子供達のランドセルに貼る、ライトを反射する交通安全ステッカーの啓蒙イベントだ。
 広場のステージの前に並んだ椅子には、そういうイベントだけに親子連れが多く座っている。だが蘭子はちゃんといた。広場の端の方で、立ってこちらを眺めている。親子連れに席を譲ったのかな、と思い、私はアザーの中で微笑んだ。
 イベントの終了後、いつものように休憩時間を与えられた私は、広場をぶらついて蘭子を探してみた。彼女はすぐに見つかった。淡い水色の薄手のコート姿で、コーヒーチェーン店のタンブラー片手に噴水の縁に腰掛け、キョロキョロ道ゆく人々を眺めている。
 こんにちは、と私は声をかけた。蘭子は驚いたように私を見上げ、それからふっと息を吐いて「こんちは」と返した。太陽の下だと屋内で見るより更に色白で、肌がうっすら金色に光って見えた。
 今日も来てくれてありがとう、と私は言い、少しだけ迷ってから、アザーも応援してくれてありがとうと言ってたよ、と続けた。
 蘭子は一瞬きょとんとしてから、はじめて笑顔を見せた。嬉しそうな、同時に可笑しそうな、良い笑顔だ。
 「ありがとう。けど、なんかおかしい」
 蘭子は言うとすぐに無表情に戻った。だが頬はほんのりと紅潮している。
 私も笑った。着ぐるみに過ぎないアザーが言っていた、というのはもちろんフィクションだ。だが私はアザー=ルー親衛隊のメンバーなので(アクターであることはもちろん明かさない)、蘭子から見れば「向こう側」の人間だ。私の言う「アザーの言葉」は我々の総意のようにも受け取れるはず。――実際には蘭子のことは他のスタッフには話していないので総意ではないが、まあそれは大した問題じゃない。自分の存在をアザー側がとてもありがたく思っているんだ、とファン(蘭子)に感じてもらえればそれでいい、と私は思っていた。
 ところで今日は待ち合わせでもしてるの? と私は尋ねた。
 蘭子は切れ長の目をパチクリやり、「ううん、なんで?」と尋ね返した。
 さっき誰かを探していたんじゃない? と私は聞いた。キョロキョロしてたけど。
 蘭子は首を振り、「人間観察……みたいなもの」と答えた。
 みたいなもの? と私は首をかしげる。
 「うん。私、芸能関係のアルバイトしてるから」
 それと「人間観察みたいなもの」がどう繋がるのか分からなかったが、しかし私はなるほどと思った。美人だしスタイルもいいし、モデルか何かをやっていても不思議はない。
 と思った次の瞬間、私は気づいた。
 あの子だ! 間違いない。
 蘭子はあのCMの少女だ、亜猿レモンサイダーの。
 目の前の顔と記憶を細かく照らし合わせるより先に、もしかしてレモンサイダーのCMに出てない? と私は尋ねていた。蘭子はこっくりとうなずいた。
 髪型も違うしメイクも違うし、何よりCM内の爽やかな笑顔と今の無表情に違いがありすぎて気づかなかった。が、一度分かると(当たり前だが)もう同じ顔にしか見えない。
 なるほどそっか、と私はうなずいた。でも今まで全然気づかなかったよ。雰囲気がまったく違うから。
 「だろうね」と蘭子はぶっきらぼうにうなずいた。その話題がいやでそういう言い方をしているのか、元々そういうしゃべり方というだけなのか、分からない。私はもうひとつ聞いてみた。
 芸能関係って言ってたけど、モデルさんか何かやってるの?
 蘭子は「ううん」と首を振る。「モデルさんをスカウトするほう」
 え? と聞き返して私は蘭子を見つめた。
 「芸能事務所でスカウトのバイトしてるの」と蘭子は続けた。
 スカウトのバイト? とおうむ返しにし、私はさらに尋ねた。君いくつ?
 「十七」
 高校生だよね? と確認すると彼女はうなずいた。
 高校生が芸能スカウトのバイトなんてできるの? と私はさらに尋ねた。
 「できるよ」と蘭子は当たり前のようにうなずく。「他の事務所にもいるよ、高校生のバイト」
 普通にいるものなの?
 「そんなにはいない。でも全然いないってわけでもない」
 へええ、と私は息を吐いた。高校生でそんな仕事をしていることがまず驚きだったが、それ以前に「芸能スカウト」という言葉のイメージと目の前の蘭子が、あまりにかけ離れた雰囲気なのが不思議というか奇妙だった。
 道端で知らない人に声をかけてそうには見えないなぁ、と私は言った。
 「仕事の時は、変わるよ」と蘭子は返した。
 私はCMでの彼女を思い出した。今の彼女と比べるとまったくの別人。雰囲気くらい変えようと思えば、どうにでも変えられるということか。だがしかし、街中で愛想良く(よく知らないがスカウトなら愛想良いのが一般的だと思う)道ゆく人に声をかけている蘭子の姿はやはり想像できない。
 スカウトする側よりスカウトされる側って感じだけど、と私は言った。CMにも出てるくらいだし。
 「そうだね」と、蘭子は特に謙遜も否定もせずうなずいた。続けて「でも無理」と首を振る。
 「私の中に芸能人になりたいっていう情熱なんてないから」
 興味ないの? と私は聞いた。サイダーのCMの君は堂々としたものだったけどなぁ。
 「あれは自分で望んで出たものじゃない」と蘭子は言った。「サイダーの会社の人とパパが友達なの。パパ経由でCMに出てって頼まれただけ。プロのモデルやタレントを使わず安く済ませたかったんでしょ」
 出てみてどうだった? と聞くと、蘭子は少し考えてから「楽しかった」と答えた。
 「タレント側の気持ちが少しでも分かったのは良かったと思う。だけどやっぱり私は、スカウトするほうがいい」
 まさかこんな話になるとは思わなかったなぁと思いながら私は、スカウトの仕事に対しては情熱があるってこと? と尋ねた。同時に私は、自分が他人に興味を持って積極的に質問していることに我ながら驚いていた。
 蘭子は黙ってうなずいた。私は腕を組んで首をかしげ、やっぱりスカウトしてるところ想像つかない、と正直に言った。
 すると蘭子は私をまっすぐに見て、「じゃ、やってみる」と言った。そして先ほどもそうしていたように、キョロキョロと辺りを見回し始めた。
 蘭子がひとりの若い女性に目を留めた。私はその時点でもう驚いていた。蘭子の顔つきが瞬時ににこやかで人懐っこそうなものに変わってしまったからだ。
 「お姉さん、美人ですね」と蘭子はいきなり女性に話しかけた。女性は驚きながらも(私も蘭子の思い切りの良さに驚いた)蘭子を見て立ち止まった。警戒した表情で「はい?」と問い返す。私は素人考えで、スカウトが十代の少女でなかったら無視されていたかも、と思った。
 「びっくりさせてごめんなさい、今お姉さんくらいの歳のきれいな人に声をかけてるんです」
 蘭子はさっきまでのぶっきらぼうなしゃべり方とは打って変わって、朗らかにハキハキと話す。
 この子なにを言ってるんだろう、という顔で女性は眉根を寄せた。
 「私、こういうお仕事してるんですよ」
 蘭子は名刺を取り出して、女性に手渡した。
 「モデルさんとタレントさんの事務所でスカウトをやらせてもらってて」
 女性の雰囲気が明らかにほぐれる。笑みまで浮かべる。
 「え? スカウトさんなの?」
 「はい」と蘭子は明るくうなずいた。「まだ高校生なので、アルバイトですけど」
 「高校生のスカウトさんなんているんだー」
 女性は面白そうに蘭子を上下に眺めた。
 「お姉さん、モデルのお仕事に興味ってありますか?」と蘭子が尋ねる。
 「ないことはないけど」と女性はちょっと困った顔でうなずく。
 「ひょっとしてモデル経験者ですか?」と蘭子が聞く。
 女性はブンブン首を振った。
 「ええっ、全然違うよ」
 「こうやってスカウトされたことは?」
 「はじめて」
 「ホントに? 美人だし歩き方とかもきれいだから、もしかしてって思ったんだけど」
 女性は嬉しそうに、ホントないないそんなの、と笑った。私はほれぼれした。女性の表情にもはや警戒の色はない。
 「ファッション誌で不定期でできるモデルさんを探してるんですよ、登録制の」と蘭子は言った。「お休みの日とか、お姉さんの都合のつく時だけアルバイト感覚でやれるお仕事なんですけど、どうでしょう? 専属とかではないから、都合が悪ければ断ってくれて全然問題ないし。撮影は東京のスタジオがほとんどだけど、もちろん交通費とかは全部出るし、拘束時間も短いし、それにプロのカメラマンに撮ってもらえるのって楽しいですよ~」
 「うーん興味はあるけど」女性は迷いながら、しかしまんざらでもなさそうな顔で言う。「この場ですぐに決めるのは難しいなぁ」
 「あ、もちろん今すぐ決めてなんて言わないですよ」と蘭子は笑顔で首を振った。
 「もし話だけでも聞いてみようかなって思ったら、さっきの名刺の番号まで気軽に電話してください。その時、お姉さんさえ良ければ詳しいお話をしますから」
 「じゃあ、気が向いたらね、電話してみるかも」
 女性は名刺をカバンにしまいながらうなずいた。
 「はい、その時はよろしくお願いします」
 蘭子は丁寧にお辞儀をした。女性は笑顔で手を振って歩き去った。
 頭を上げ、私のほうを振り返った蘭子はもう無表情。
 「こんな感じ」
 すごい、と私は素直に感心して言った。びっくりしたよ、本当にスカウトさんなんだね、納得した。あの人、実際に電話してくるんじゃない?
 蘭子は特に表情を変えず、肩をすくめた。
 「それは分からない。その時はモデルにスカウトされたって喜んでても、冷静になってから「でもやっぱりそんなのできないや」って思う人もたくさんいるし」
 そうなの? 僕には今の人が本当にその気になってるように見えたけど、と私は言った。それにしてもホントすごいや。ほれぼれしたよ。
 「今のは、たまたまうまくいっただけ」蘭子は冷めた様子で返す。「無視されることの方が多いよ」
 そうなんだ、と私はうなずいた。そして続けた。けど君がさっき言ってた「仕事の時は変わる」っていうのは本当だったね。表情からして別人のようになっちゃって驚いた。やっぱり女優さんとかに向いてるんじゃない?
 蘭子はうなずくものの、否定する。
 「そういう素質はあるのかもしれないけど、やっぱり無理。その道へ進みたいって気持ちがないから」
 蘭子はそこで少し考え、言葉を探すようにゆっくり話し始めた。
 「芸能界って、ちょっと芝居がうまいとか見た目がいいとか、ダンスや歌がうまいとか、そういう才能や素質だけじゃ生きていけないの。定まったお仕事が確約されてるわけじゃないし、アクの強い変人もたくさんいる厳しい世界だから。そんな世界で生きていくなら、自分は何が何でも芸能で食べていきたいっていう強烈な希望が必要。意地とかじゃなくて、芸能の仕事を心から楽しめる資質っていうか。それは芸の才能や見た目より大切。そういう情熱がなければ何十年も同じ世界でがんばっていくことなんかできないよ。たとえ人気が出てスターになったって、自分の気持ちと仕事の間にギャップがあったら、いつか必ずつらくなる」
 蘭子の言葉はやたら熱かった。私はアザーとして舞台に立つ現在の自分を念頭に置いて、人気者になったらそれだけでもう満足できそうな気がするけどなぁ、と返した。
 「人気者になることで本物の情熱を持てる人もいると思うよ。それならいい」と蘭子は言った。だけど、と続ける。
 「人気のあるなしと関係ないところで仕事そのものが楽しいとか意義深いとか、そういう気持ちを見つけられないなら、やっぱりどこかで煮詰まる。自分のやってることを楽しめなくなって迷ってしまう。ファンの声援はありがたく思いつつも、でも仕事自体は、誰よりもまず自分を満足させるってことを最優先でやらなきゃ。そうじゃないと、人気者であることに慣れた時に、きっと苦しくなるよ。たとえ人気が落ちなくても、ワーワー言ってもらえる部分以外に純粋な面白さを感じてないと、きっとつらくなるよ。「誰かが喜んでくれるのが力になるからやる」って考え方もあるし否定は全然しないけど、でも一歩間違えたらそれって、自分の意思でなく他人の評価に左右されながら生きていくって言ってるのと一緒だもの」
 そんなものかなぁ、と私は首をかしげた。そんなことは考えてみたこともないので、本当に想像もつかないのだ。
 「例えば」と蘭子は言った。
 「人気絶頂の歌手が突然「充電する」とか言い出して活動休止しちゃうって話、よくあるでしょ。わたしが働いてる事務所でも前にそういうこと、あった。もしファンの声援だけで生きていけるなら、そんなことは起こらない。どうしてそんな決断するのかって言ったら、人に期待されながら実際にやってることと、自分の中で本当にやりたいと思ってることの間で板挟みになって耐えられなくなるから。誰だってやりたくないことを、何年とかならまだしも、何十年も続けるのは堪え難いよ。ううん、実際に続けてみるまでもない。単に想像するだけでも絶望してしまう、この先死ぬまで私はこれを続けなきゃいけないのか? って。今つらいのはなんとか我慢できる人でも、今後も永遠にずっとつらいって想像しながら生きるのは、我慢できないと思う」
 無表情のまま滔々と語る蘭子に私はただただ感心した。
 なるほど、確かにそうだろうなぁ、と私は言った。恵に振られた直後にラーメン屋で抱いた不安を思い出し、心底からの同意を込めた。
 君はもし芸能人の道に進んだらそのプレッシャーで絶望しそうなんだね、と私は言った。
 蘭子はうなずいた。
 「たとえ人に大して認められなくても、心から情熱を傾けられるものならずっとやってける。逆に情熱がなかったら、ちょっとした挫折ですぐ諦めちゃう」
 蘭子が言い終えたところで私は名前を呼ばれた。離れたところでユキさんが「帰るよー」と手を振っている。私は蘭子に、ごめん、今日はどうもありがとう、またねと挨拶して歩き始めた。
 歩きながら私は考えた。今まで一度でも私の中に、そんな情熱が芽生えたことはあっただろうか。――ない。天職と感じているアクターの仕事だって、この先大きな挫折を味わったらやめたくなるかもしれない。
 蘭子の無表情が頭の中に残っていた。自信に満ちあふれる(ように私には見えた)力強い無表情が。


 翌週、亜猿市の特産品をクイズ形式で客に紹介するイベントに私たちは出演した。場所はデパートの屋上。
 つつがなく仕事を終えた後、私はまた蘭子と話をした。
 蘭子は屋上の隅っこのベンチでスマホを眺めていた。私が声をかけると、やはりぶっきらぼうに「こんちは」と返して画面を見続ける。私は彼女の斜め前に立って、今日はバイトは休みなの? と聞いた。蘭子はうなずいた。
 「バイトは週に二回だけ。学校の後だったり土日だったり、その月によってまちまち」
 物足りはなくない? と私は、昨日の鮮やかなスカウトっぷりを思い出しながら尋ねた。
 蘭子はにこりともせず、「物足りないけど仕方ない。受験勉強もしなきゃいけないから」と答えた。
 私は、そもそもどうしてスカウトのバイトに興味を持ったの? お小遣い稼ぎなら他の普通のバイトでもいいだろうし。と尋ねた。
 蘭子は私をちらっと見上げるとスマホをしまった。目の前の、百円硬貨で動くパンダの乗り物を眺めるともなく眺めながら言う。
 「修行」
 修行? と私は聞き返した。
 「将来、芸能プロモーターになりたいの。そしていつか自分で事務所を設立したい。そのための修行」
 私は驚いた。
 芸能事務所の社長になりたいの? と私が確認すると、蘭子はこくっとうなずく。
 そりゃすごいなぁ、大きな夢じゃないか、と私は言った。蘭子は私を見上げてしばたたいた。
 「笑われるかと思った」
 笑わないよ、と私は言った。この間、あれだけ詳しく芸能のこと話してくれたのも納得だよ。
 蘭子は少しだけ微笑む。
 どうして芸能プロモーターになりたいって思ったの? と私は尋ねた。
 「中一の時に、大きな俳優オーディションを生で見たの」と蘭子は言った。
 「今のパパが広告代理店に勤めててオーディションを見学できることになったんだけど、私も連れてってもらって」
 今のパパという言い方が引っかかったが、私はただ、うんとうなずいた。複雑な家庭なのかもしれない。
 「その時はまだ芸能界になんて興味なかったから、「この人イケメン」とか「スタイル良いな」とか、そんなことを考えながら審査を眺めてた。大人が並んでる隅っこで。で、その時にグランプリに選ばれたのが、尾母野将紀」
 ああ、と私はうなずいた。売れっ子の演技派俳優だ。若手の役者の中では抜群の人気と実力を誇る。
 「正直に言って失望した」と蘭子は淡々と言った。
 「もっとかっこ良くて素敵だなって人、他にたくさんいたの。なんでこの人がグランプリなんだろうって思った。尾母野さんは特別イケメンでもないし、地味で線も細いし、パッとしない印象だったよ。けど、その数ヶ月後に初主演映画を見て、私、本当にビックリした」
 なんで? と私は聞いた。
 「信じられないくらい迫力があったの」と蘭子は言った。
 「目つきとか表情とか、オーディションの時と同じ人だなんて思えないくらい別人になってた。お芝居もすごくうまいし、かっこいいし……なんて言うか、目が離せなくなるって感じ。ただフレームの中に尾母野さんがいるだけで、もう「良い映画を見てる」って思えるの。オーラとか存在感とかがものすごい」
 私はうなずいた。尾母野将紀は確かに抜群の二枚目ではないが、どんな役を演じても見る者に強い印象を残す職人的な役者だ。
 「どうして見抜けたんだろう、って気になったの」と蘭子は言った。
 「私は尾母野さんにそんな才能や魅力があるなんて全然気づけなかったのに、どうして審査員の人には分かったんだろう……それがすごく気になった」
 うんうん、と私は腕を組んでうなずいた。
 「オーディションの公式サイトで読んだ審査員長の言葉が、心に残ってる」と蘭子は続けた。
 「こんなふうに書いてあった。何度も読んだからほとんど暗記しちゃったよ。《尾母野くんは最終審査の直前、他の参加者には目もくれず、演技審査の練習に没頭していた。同じ大部屋内に他の候補者がいたら、自分との出来栄えを比べたくなるのが人情だろうが、彼は周囲など見向きもせず、ただ自分を高めることに一心不乱になっていた。それは「この世界で生きていきたい」と本気で思っている証拠だ。他の人間などどうでもいい、とにかく「自分は役者をやりたい」それだけなのだ――そんな強い思いを持ってオーディションを受けに来た証だ。それはとても大事なことだ。まずその気持ちがなければ、売れる売れないは別として、何十年も役者という仕事を続けることはできない。
 期待を膨らませて私は最終審査に臨んだ。尾母野くんの演技は想像以上だった。アラはもちろんあるし、パッと見の立ち姿に華があるとも言えないが、しかし我々審査員の胸を激しく打つ何かを彼は持っていた。それを言葉で現すのは難しい。だがこの世界で長年生きている人間にはすぐに分かる、原石のような鈍い光だ。才能と言ってもいいし、オーラと言ってもいい。その輝きは鈍くも鋭いものだった。カメラの前に立ったとき、この青年は想像もつかないほどの変身を遂げるだろう――そうワクワクさせてくれる、可能性の光だ》」
 私は聞き入った。それこそ芝居の長ゼリフのようにすらすらとそらんじる蘭子に、心を吸い寄せられた。
 良い話だね、と私は言った。
 蘭子はうなずいた。
 「私はショックだった。同じ人間なのに、私には絶対に見えないものが審査員長には見えていたんだと思ったら衝撃を受けた。それで私、思ったの。この人のようになりたい、人の内側にある鈍い光にちゃんと気づける人間になりたい。表面的なかっこよさや器用さとは違う何かを、きちんと見極められる人間になりたい、って。それがきっかけ。芸能プロダクションを作りたいって夢の、最初の気持ち」
 私は感動的な気分になっていた。目の前の、私より十歳も年下の少女に掛け値なしの敬意を抱き始めていた。蘭子はしっかり将来を真正面に見据え、力強く語れる夢と目標を持っている。
 同時に私は、身のやり場をなくしたような情けなさも味わっていた。この少女に比べて私の体たらくはなんだろう。まったくもって不甲斐ない。蘭子の百分の一ほども、私は夢や目標というものをこれまで持ったことがないのだ。
 応援するよ、と私は言った。アザー共々、君の夢を応援するよ。
 アザーという言葉に、蘭子の頬が紅潮した。


 それから一週間ほど後のあるイベントで、私はちょっとした「挑戦」をした。それまでは、ユキさんに呼ばれて会場へ走り込んで来ると、そのまま速やかに舞台に上がりイベントを始める、という流れでやってきたが、その日は舞台に上がる前に最前列のお客さんの手に走りながら次々にタッチしていく、というアクションを追加してみたのだ。
 それはすごく好評で、それまで以上にイベントが盛り上がった。以後、よほど特殊な形状の会場でない限り、私たちはアザーによるタッチをイベントの流れに組み込むことにした。
 さらに二週間ほど後のイベントでのことだ。
 私は会場に走り込んでくると、先述のように最前列の客に次々にタッチしていった。「アザーのタッチ」の話は瞬く間にファンに浸透し、中には私が近付くとプレゼントを差し出す人も現れ始めていた。(そのため、私も気持ちゆっくりめの走りに動きを改めた)
 プレゼントと言っても大げさなものではなく、似顔絵や応援メッセージの書かれた手紙などだ。どれも本当に心がこもっていて、私はひとつひとつを涙が出そうなくらい嬉しく思いながら受け取ったものだ。
 その日、蘭子は最前列にいた。彼女に気づくと、私は他の客に不公平感を与えないように注意しつつ、蘭子の前で少しの間立ち止まってあげた。そして彼女の右手を両手で取り、短い時間だが前後に揺すった。蘭子を応援したい気持ちからの行為だった。蘭子もそのときばかりは満面の笑顔を浮かべてはしゃいでくれた。
 私が次の客に移ろうとすると、蘭子は封筒を差し出した。何の変哲もない、地味な茶封筒だ。私はステージに登ると、近づいてきた裏方のスタッフにプレゼントの束を渡し、いつもどおりイベントを始めた。――
 その日は裏方スタッフがひとり病欠していて私も後片付けを手伝ったので、蘭子とは話ができなかった。
 事務所へ帰り、ようやく休憩をもらえた私は、事務所の隅のソファーに座って蘭子からもらった封筒を開けてみた。まずアザーの似顔絵が出てきた。とても精緻なイラストで驚いた。もともとがデフォルメされたデザインなので線はシンプルだが、色にはにじみやグラデーションが多用してあって、うまい上に個性的である。
 私は似顔絵を丁寧に横に置いて、メインの手紙を取り出した。数枚の便箋に、小さくてきれいな字がびっしり書き込まれていて圧倒された。

 《はじめまして! いつもアザーのことを応援しています。アザーの大ファンです。
 突然このようなお手紙、ごめんなさい。アザーにはいつもすごく元気と勇気をもらっているので、お礼が言いたくて、生まれて初めてお手紙を書くことにしました。乱文はお許しください。
 私は今F高校に通う二年生です。もうすぐ三年生になるので、心はもう受験生です。T大学の経済学部を目指して受験勉強に励んでいます。私には将来、芸能プロモーターになりたいという夢があるのですが、入社したいと思っている事務所の社長さんと幹部の方たちの何人かがその大学の出身なので、言い方は悪いですが学閥的なコネがあったほうが良いだろうと思い、目指しています(笑)
 私がアザーの存在を知ったとき、私はどん底に落ち込んでいました。いいえ、落ち込んでいるのは今も同じです。毎日がつらくて苦しくて、叫び出したくなるような気持ちで過ごしています。そんな毎日で、アザーだけが私の心のオアシスというか、すごく大きな癒しなのです。
 なぜそんなに悩んでいるのかと言いますと……
 私には父親が二人います。私が十歳のときに両親が離婚し、その後母が再婚したので二人なのです。最初のパパ(私は前パパと呼んでいます)はお菓子メーカーのM社に勤めています。今のパパ(新パパと呼んでいます)は広告代理店に勤めています。以前、新パパのお仕事の関係で俳優さんのオーディションを生で見させてもらえる機会があって、それがきっかけで私は芸能界に興味を持ちました。
 私はその夢と、前パパとの関係で今すごく悩んでいます。
 私は前パパのことも新パパのことも、これまでは同じように「お父さん」だと思っていました。普段一緒に暮らしているのは新パパで、前パパとは週に一度しか会えませんでしたが、私は前パパのこともすごく大切なお父さんだと心から思っていました。
 ところが数ヶ月前のことです。私は前パパに、それまで話していなかった夢のことを話しました。前パパはすごく真面目で堅い性格の人なので、なんとなく気後れして話せずにいたのですが、やはり私も父親に将来の具体的な目標を知ってもらいたくて、勇気を出して話しました。(ちなみにママと新パパは賛成してくれています)
 前パパとは晩ご飯を一緒に食べようと誘われていたので、話は前パパの家の近くのレストランでしました。
 私は一生懸命話しました。自分がどれだけこの夢に対して情熱をそそいでいるか、真剣に話しました。けれど、前パパには強く反対されました。聞く耳なんて持たずといった感じの頭ごなしの反対です。「芸能の世界なんてヤクザみたいなもんだ。そんな世界へは行くな。実直な道に進め」と言われました。私が修行のために芸能スカウトのバイトも始めている、と話すと真っ青になって首をブンブン振って「そんな危ないことしてるのか、今すぐやめなさい」。
 私はすごく頭にきました。真面目な夢を全否定されて本気で怒りました。文句もいっぱい言いました。反論もしました。でも結局前パパに理解してもらうことはできなくて、ほとんどケンカ別れのような形でその日の会話は終わりました。
 悔しかったし悲しかったけど、でも私はその時点ではまだ、説得をあきらめてなんて全然いませんでした。分かってもらえるまで根気よく話をして、最後にはちゃんと前パパにも理解してもらおうと、前向きに考えていました。
 ところがそれからしばらくして、前パパが急に外国へ転勤することになってしまったのです。前パパは英語とドイツ語に堪能なので、ドイツのドルトムントという都市にある支社へ異動することになった、という話でした。私はそれを前パパからのラインで知って、内心安堵してしまいました。そう、安堵したのです。話し合いが気軽にできなくなってしまう、どうしよう、とかではなく、ホッとしたんです。ちゃんと説得して分かってもらうんだ、なんて殊勝に考えていたくせに、前パパが転勤すると知った途端「私の夢に反対する面倒な人がいなくなってよかった」と、どこかで私は思ってしまったんです。
 その思いを自覚すると、私は自己嫌悪でひどく落ち込みました。自分自身が許せなくて自分を責めました。大好きな父なのに、いなくなって良かったなんて……最低すぎる。私は最低です。
 私は返信しませんでした。なんて返したらいいのか思いつかなかったのです。「向こうでもがんばって」とか「体に気をつけてね」とか、そういう明るい言葉やはげましの言葉は、心にわだかまりがあって書けない。けどレストランでの話し合いに関する話題も、また反対されたり言い争いになったら嫌だから書きたくない。私は結局、前パパを無視しました。出発の日に空港に見送りにいくこともしませんでした。それでも後悔する気持ちとか申し訳なく思う気持ちとかは湧いてきませんでした。強がって「せいせいした」みたいに言ってるのではありません。私は改めて心の底から安心していたんです。前パパがいなくなれば私の夢に反対する人はいなくなるんだ――。少しの間、明るい気分にさえなってしまいました。
 でもその後は、前よりひどい自己嫌悪に襲われました。自分のことが世界で一番悪い人間に思えました。もう自分が嫌で嫌で泣きたくなって、私は毎日、ふさぎこんだ気分で過ごしました。学校へ行っても、バイトをしてても、家にいても、気分が晴れることがないんです。常に心が暗いもやもやに覆われていて、食欲もないし、よく眠れないし、ちょっとしたことですぐイライラしてしまうし、そのイライラがさらに別のイラ立ちにつながって悪循環に陥るし、本当にもう最低です。
 もちろん勉強も手につかないし、バイトにも前より身が入りません。これじゃいけない、これじゃ芸能プロモーターになる夢が遠ざかる、と思って奮起しようとしても、心にも体にも力が入らないのです。「夢に反対する人がいなくなって良かった」なんて思ったくせに、その夢のための勉強やバイトがおろそかになるなんてバカみたいですよね。
 私はショックでした。自分自身が情けなくて。「絶対私は芸能プロモーターになるんだ、他のことになんか目もくれずにがんばれる人間だ」って思っていたのに、たったひとりの人に認めてもらえないってだけで、もう気持ちがガタガタに揺らいでしまっている。一体私は何なんだろう、何してるんだろうと思うと情けなくて情けなくて消えてしまいたくなる。
 けれど、前パパにも夢を認めてもらいたいという気持ちに、嘘はつけません。
 一ヶ月ほど前にもう一度チャンスがありました。前パパが休暇をもらって、一週間帰国したんです。私は会いました。連絡をほとんど絶っている状態だったのでとても顔を合わせづらかったのですが、がんばって会いました。認めてもらいたい一心でもう一度、私たちは話し合いました。でもダメでした。「夢を持つのは人間だから当然だが、可愛い娘がわざわざ芸能界なんて厳しい世界に、それもプロモーターなんて怪しい職種で関わりたいなんて言い出したら、止めない訳にはいかない」というようなことを言われました。
 私は怒りました。怪しいなんてひどいと思いました。確かにまともではない事務所も存在はするそうだけど、でもまっとうに誇りを持って仕事をしている人もたくさんいる世界です。悔しくて大声で怒鳴りました。でも前パパは認めてくれませんでした。私たちは結局分かり合えませんでした。最後はさよならの挨拶もしないで別れました。それ以来前パパとは連絡を取り合っていません。なれない外国に住んでいるのだから、もっと心配してラインしたりメールしたり電話してもいいはずだけど、そんな気にはとてもなれません。
 私は本格的に落ち込みました。ずっと心にわだかまりを抱えたまま今も過ごしています。こうしてお手紙を書いている間でさえ、私はイラ立ちと悲しみで今にも泣き出してしまいそうなのです。
 何をしていても楽しくありません。前よりももっとひどい状態に陥っています。勉強もバイトも、ますます手に付かないし、友達づきあいも悪くなってしまいました。(遊ぼうというエネルギーも湧いてこないのです)
 夜中に突然目を覚まして、涙がこみ上げてくることもあります。自分でも心の荒れをコントロールできないのです。
 悔しくてたまりません。前パパに認めてもらえないこともそうですが、それ以上に自分自身に腹が立ちます。自分の夢は何があっても揺るがないものだという自信があったのに、この有様……。自分は思っていたよりずっともろいんだと分かったら、さらに気持ちが弱くなってくるのです。自信の無さがイラ立ちに変わって自分でもうんざりしてきます。道を歩いていて突然、がっくりと膝をつきたいほど体が重たくなるときがあります。何もかもが私を苦しめようとしているかのように思えてきてつらいのです。
 そんなふうにストレスを抱えて生きていたら、最近では私の夢を応援してくれている新パパやママにまでイライラするようになってしまいました。反抗期の中学生みたいに両親を避けたり、会話を意図的にそっけなくしたり、いちいち言い方がきつくなってしまったり……。新パパもママも私の急な変化に戸惑っていると思います。そんな自分がイヤで、でもどうすればこの気持ちに折り合いをつけられるのか分からなくて、また前パパのことが許せないのに、私の中で愛情がこのまま消えてしまうのではないかと思うとそれもイヤで、もうどうしたらいいか混乱してしまって苦しいです。
 だけど、そんな日々にあっても、アザーががんばっている姿を見ていると、心に温かいものがあふれてくるのです。私がどんなに今アザーに救われているか、それをお伝えするボキャブラリーや文章力がないのがとてももどかしいです。
 私がアザーを知ったのは、あるイベントでのことでした。そのイベントには、私のバイトの先輩がスカウトした新人の歌手の人が出演することになっていたので、先輩と一緒に応援しに行ったのです。そのイベントの冒頭にアザーが登場しました。当時は今ほど有名になる前で、わざわざアザーに目を向ける人は少なかったと思います。だけど私は一目でトリコになりました。可愛くて動きがコミカルで、しかもとってもシンプルなのにすごく洗練された見た目で、心を奪われました。
 テレビやネット、イベントでアザーが地元PRにがんばる姿を見ていると、私はその時だけは悩みを忘れて穏やかな気持ちになれます。安っぽい言い方だけど、アザーは私の癒しなのです。本当にありがとうございます。スタッフの皆様も、これからも体に気をつけて、がんばってください。》

 私は蘭子の手紙をこっそりカバンに入れ、退勤した。差し入れは事務所で一括管理する決まりなのでルール違反だが、構うものかと思った。家でひとり、じっくり読み返したかった。
 ビルから出たところで、私はちょうど右手から歩いてきた通行人とぶつかりそうになった。私と相手はびっくりして立ち止まり、それからお互い無言で行き過ぎた。通行人はたまたま私と似たような格好をしていた。灰色のパーカーにブルージーンズ、茶色いワークブーツに、頭にはキャップ。
 それだけなら、ただそれだけの出来事だ。ところが歩き始めて一分もしないうちに、最初の曲がり角でまた私は出会い頭に人とぶつかりそうになった。そして相手は、これまた私と似たような格好をした若者だった。グレーのパーカー、ブルージーンズ、キャップ。
 私は家に帰り着くまで、蘭子の手紙についてあれこれ考える代わりにやや偏執的な遊びをした。私と同じ格好をした人間を何人見かけるか、数えてみたのである。服の細かな型やシルエットは問わないものとし、グレーのパーカー、ブルージーンズ、キャップの三つが合えばひとりと数える。
 結果家に着くまでに、二十四人もの「私ふうの人間」を見た。道、駅、電車内、途中で寄ったコンビニ――いたるところに、私に似た名も知らない彼らはいた。

 家に着き、スウェットの上下に着替えて習慣でテレビをつけた。音量を絞ってニュースキャスターが口をパクパクしているだけの状態にしてから、私は手紙を取り出し、読み返し始めた。ゆっくりと一語一語噛みしめるように。
 読みながら、つらいな、と思った。丁寧な文字と文字の間に苦悩がひしめいているような手紙だ。改めて胸が痛くなってくる。
 私はショックを受けていた。夢を語ったり、鮮やかに通行人をスカウトする蘭子と、手紙の中で悩みをぶちまける蘭子のあまりの落差に、胸を締め付けられていた。
 私は彼女の心に想像を馳せた。蘭子は強く自分自身を責めている――つらいことだろう。夢や目標が揺らいでしまった自分、実父が転勤したことを喜んでしまう自分、ストレスのせいで継父や母にまで冷たく接する自分――そんな自分自身を執拗に攻撃するのは耐え難い苦痛だろう。
 私は思った。そんなに自分自身を傷つけなくていいんだよ、と。お父さんのことなんか気にしないで自分のやりたいことをやりたいようにやっていいんだよ、と。それは少しも悪いことなんかじゃないんだよ、そんなに気にしすぎなくてもいいんだよ、と。君ならきっと大丈夫だよ、自分のやるべきことに邁進していれば最後はうまくいくよ、と。
 何度もそんな言葉を心でつぶやいた。
 私なんかと違って明確な目標を持って生きている蘭子なら、他のことには目もくれなくていいのだ、と私は強く思った。ただひたすら夢に向かって進んでいれば何の問題もないんだ。
 だがそれを蘭子に直接言うのを想像すると、気持ちが萎えてくる。
 自分には蘭子を励ます資格なんてない、自分は他人を励まし、元気づけてあげられるようないっぱしの人間ではない、と私は思った。私には叶えたい夢も目標もない。これまでも何もなかったし、これからだって多分何もないだろう。着ぐるみのアクターだって、本当に一生の仕事にできるのか、自分でもよく分からない。そんな何もない人間がどうやって、何かを掴み取りたいともがき、あがいている人間を励ませる? 何も持たない人間が、何かを持った人間を元気づけるなんて、どうしてできる? まるっきり悪い冗談だ。笑えないブラックジョークだ。
 そんなことを考えていたらテレビのニュースが途切れ、CMに入った。画面に蘭子が現れて、私はぎくっとした。亜猿レモンサイダーのコマーシャル。黄色い瓶を片手に、爽やかな笑顔を浮かべている蘭子。このCMは来週から新しいバージョンに変わる。
 アザー=ルーがCMの新キャラクターになることがついに決まり、先日、CMの撮影をしてきたのだ。
 商品を生産している工場の建屋をバックに、職員一同と社長と、そしてサイダーの瓶を持った私(アザー)が立っている。私がおどけながら瓶を掲げたり前に押し出したりしている横で、社長自らがたどたどしくサイダーの美味しさや、使用した湧き水のことや、健康への効用を説明する。お世辞にもセンスのあるCMとは言えない。蘭子たちの出演しているCMの方がはるかに良い。だが撮影スタッフに囲まれながらカメラの前で踊ったり飛んだりするのは、やはり私にとってエキサイティングで心躍る体験だったし、毎日テレビコマーシャルとしてそれが流れるのかと思うと天にも昇る気持ちになる。
 私はテレビを消して、ため息をついた。すぐ横の床に投げ出してあるグレーのパーカーと、ブルージーンズとキャップを見た。じっと、食い入るように、静かな気持ちで眺めた。
 私は再び手紙に目を落とした。《安っぽい言い方だけど、アザーは私の癒しなのです》
 私は何者でもなかった。だがアザーは何者かであった。
 俺にはどうしてあげることもできない――私は思った。でもアザーになら蘭子を元気づけたり勇気づけたりすることができるんだ。


 一週間後。私は亜猿駅の広々とした連絡通路の一角でイベントを行った。地元物産品と、そしてアザー=ルーそのものを駅利用者に宣伝するのを目的としたイベントだ。
 アザー人気はますます高まっており、会社と行政も方針を転換することにした。従来のアザーは地元PRの際の「補佐役」に過ぎず、あくまでイベントの主役は「地元物産」とか「伝統工芸」であったのだが、今後はアザー自体を前面に押し出して、アザーを亜猿市全体の象徴として売り出していこう、というふうに計画が切り替わったのだ。
 今回のイベントも地元物産の紹介は半分、残り半分の時間はアザーのパフォーマンスに割いた。
 その日の私は我ながら素晴らしいパフォーマンスを披露できた。それまでで最高レベルの俊敏な動き、普段の二割り増しの高さのジャンプ、ユキさんのトークに対する完璧な間合いのアドリブ――。ギャラリーにも伝わっていたと思う。固定ファンの反応もいつもより良かったし、立ち止まってくれる一見の駅利用者の数も想定よりはるかに多かった。(人が集まり過ぎたために、予定より十五分早くイベントを切り上げたくらいだ)
 別にアザー自体を積極的に売り出すことが決まったからがんばったわけではない。そんなことは正直言って私にはどうでもいいことだった。
 その日は最前列に蘭子がいたのだ。私のほとんど目の前に彼女の無表情があったのだ。顔面の筋肉をピクリともさせず、しかし瞳だけはらんらんと光らせてこちらを見つめる蘭子。
 何しろ、私は知ってしまった。蘭子が深い悩みを抱えて日々過ごしていることを知ってしまった。そうしたら感情移入しないわけにはいかない。彼女を少しでも元気づけたいと思わないわけにはいかない。一時でも悩み事を忘れてもらいたい、そのためにこれまでよりがんばろう、と思わずにはいられない。
 ユキさんとトークしたり踊ったりしながら、私は蘭子の手紙の内容を思い出していた。《アザーだけが癒しなのです》としたためた彼女の心へ思いを馳せていた。
 イベントの間中、蘭子はほどんと瞬きも忘れて私の一挙手一投足に見入っていた。私は時折その目を見つめ返しながら(と言っても着ぐるみの中からなので、見られているとは感じなかっただろう)彼女の中のイラ立ちや悲しみが少しでも鎮まればいいと祈った。

 イベントの後、私は蘭子を探した。
 彼女は駅ナカの通路の片隅に立っていた。いつものように気だるい様子でスマホをいじってうつむいている。私は声をかける前に十秒ほど、黙って蘭子の立ち姿を眺めた。白い肌に長い黒髪を無造作に垂らした、まるで幽霊か人形のような蘭子を眺めた。
 私たちがいるのはラーメン屋がずらっと並ぶ飲食店街だ。有名なラーメン激戦区で、何度か全国放送のグルメ番組でも取り上げられたことがある場所。どれも似たような店構えで、ラーメンに興味のない私には一軒一軒の区別もろくにつかない。
 こんにちは、と私が近づいて声をかけると「こんちはっ」と、蘭子はつっけんどんに返した。
 私は少し迷ってから言った。お手紙ありがとう。
 蘭子はスマホをしまって、しかし私のことは見ずに前を向いたまま「うん」とうなずいた。
 ごめんね、僕も読ませてもらったよ、と私は言った。
 蘭子は「いいよ」と無愛想に言った。
 「スタッフの人たちみんなに読まれるだろうなって思ってたから」
 蘭子は自分の右手を見た。
 「三日間ぐらい手が痛かった。手紙なんて書くのはじめてだったから」
 現代はメールとかがあるからね、と私はうなずき、続けて、君があんなに悩んでるって知ってすごくびっくりした、と言った。
 蘭子は少しだけ視線を下げた。
 君はひたすら夢や目標に邁進してる人だと勝手に思ってたから。まるで自分のことみたいに胸が締め付けられたよ、と私は続けた。
 蘭子は小さくうなずいた。
 私は続ける。なんて言えば励ませるのか僕にはよく分からないけど、僕らもアザーも君のことを応援したいと思ってる。もっともっとこういうイベントをがんばって、少しでも君のつらさを癒せたらいいなって思ってる。
 蘭子はもう一度小さくうなずいた。
 それから、と私は続けた。大変なこともあると思うけど、どうか夢に向かって止まらず進んでいってほしい。僕は夢とか目標とかが全然ない人間だから説得力ないけど、君なら夢を叶えられると思うんだ。根拠はないけど、君ならきっと最後はうまくいくと思うんだ。
 我ながら空疎な言葉だと思った。夢が叶うとか、最後はうまくいくとか、そんなこと私に分かるはずがないのだ。だが、何かを言わずにはいられなかった。夢を諦めないでほしいと私が本気で思っていることを、何とか蘭子へ伝えたかった。
 蘭子は私を真正面に見た。私の頭蓋骨の内部まで見通すような、まっすぐな視線。
 蘭子は目を伏せ、愛想のかけらもない声で言った。
 「ありがと」
 私は肩の力を抜き、いいえ、と微笑んだ。
 それから私は彼女に今後のイベントの予定や、アザーのCMやグッズ展開に関する情報などを教えて上げた。いくつかは未定の、まだ公式サイトなどにも載っていない情報もあったが構わず話した。蘭子はいつもどおり無表情に、しかしやはり興味があるのだろう、熱心にうなずきながら私の話を聞いた。
 また蘭子も、ぽつりぽつりとだがバイトの話(この間の女性が電話をかけてきてくれた話や、その女性を業務外でスカウトしたのがばれて上司に怒られたことなど)を私にしてくれた。
 私は蘭子の話を楽しく聞いていたが、ある瞬間、不意にあることに気づいて胸が詰まった。
 会話の合間合間。蘭子の顔に、苦痛に耐えるような表情がさっと走るのが見えたのだ。
 それは時間にして0コンマ何秒、一瞬のことだった。だが私ははっきり気づいた。眉間や目元を歪め、下唇にシワを寄せ、奥歯を噛みしめる――なんとも苦しげな表情。改めて考えると、最初からその表情を彼女は何度も見せていた。だが私にはほとんど見えていなかった。一瞬よぎるだけだったし、彼女の表情の癖みたいなものとして私は無意識に流していた。
 私は、蘭子が低い声でバイトのことをしゃべるのを聴きながら一瞬わけが分からなくなり、それからハッと理解した。
 イベントが終わり、アザーがいなくなった今この時は、蘭子にとってもう癒しの時間ではないのだ。イラ立ちが止むことなくうずく現実。こうして何気ない会話をしている間も、アザーが唯一の癒しである彼女の中では、苦しみが絶えず首をもたげようとしているのだ。蘭子は絶えざるストレスに苛まれている。

 私は帰宅すると、まずシャワーを浴びるため浴室に入った。大変に汗をかく仕事なので事務所でも軽くシャワーを浴びるが、やはり家に帰り着いたら本格的に体を洗って人心地つきたい。
 脱衣所の洗面台に映る自分の顔を見て、ふとシャツを脱ぐ手を止める。私は私の顔を眺める。
 二枚目でもなく、さりとてブサイクでもない、ありふれた二十代の男の顔。鋭さも愛嬌もなく、暗い陰も見えなければ陽気さのかけらもなく、特徴らしい特徴の何ひとつない、無個性の顔。普通の顔。何者でもない顔。
 何だか自分の顔が自分の顔のように思えなくなる。鏡の中に赤の他人がいるように思えてくる。
 私は鏡に近づき、一体これは誰なんだ、と冗談のつもりでつぶやいた。だが私の声は自分でも驚くほどシリアスに響き、私は不愉快に舌打ちした。
 私は自分の顔にアザーの顔を重ねた。私ではなくアザーが鏡に映っている様子を想像してみた。すると私の心は軽く躍った。バカみたいな話だが胸が高鳴り、ときめきを覚えた。自分がアザーに変身した様を想像するとワクワクするのだ。ヒーローになった空想を楽しむ子供のように。無邪気な喜びで力がみなぎってくる。
 私は想像をやめて力を抜いた。再び自分の顔を見つめる。私の顔は、やはり誰でもない見ず知らずの他人のように見えた。
 私は服を脱いで浴室に入った。
 シャワーを頭から浴びながら、私は蘭子を思い出した。会話の合間に見せた、苦痛に耐える表情を思い出した。
 俺ではダメなんだ、と私は頭を洗いつつ思った。蘭子の心を癒せるのはアザーだけ。他の誰かではダメ。俺ではダメなんだ。
 私は陰鬱な気分になった。別に蘭子を「人間の自分」が癒したいと、そこまで強く思っていたわけではないはずだった。なのに、アザーを目にしている以外の時間は彼女には苦痛にすぎないのか、と思うと気持ちが暗くなる。悔しさや嫉妬とは違う。悲しみやあきらめ、不甲斐なさに近い感情だ。心が重苦しい。
 シャワーを終え、脱衣所で体を拭きながら脇の小窓を見る。網戸にセミのサナギがくっついている。成虫になる夢でも見ているんだろうか。
 夏か……、と私はつぶやいた。


 それから二週間ほどのち、市内のとある夏祭りで私はパフォーマンスを行った。場所は亜猿市で一番大きな神社。広い境内に大きなステージを設営し、祭客に神社のいわれを説明したり、アザーが引いたおみくじ(実際にイベント前にスタッフで引いたものだ)の内容をネタに小芝居のようなやりとりをしたり、そしていつものように機敏なダンスを披露したりして場を盛り上げた。
 蘭子も来ていた。前から二列目で私を無表情に見上げていた。淡いブルーの浴衣姿で、髪もそれに合わせてアップにしている。いつもと違う楚々とした雰囲気に私はステージ上でほれぼれした。さすがCMに出るほどの美人だ、と思った。
 イベントは盛況のうちに終わった。うちわや、金魚の泳ぐビニール袋を持った客たちは大いに盛り上がってくれた。私は拍手や歓声に手を振って応えながら舞台を降りると、控え室のテントへ引っ込む振りをしてその前を歩き過ぎた。ユキさんたちは後片付けをしているし、他のスタッフもテントの中にいるので私のこの行動には気づかない。
 私はいたずらっ子のようなワクワクした気持ちで、アザーの格好のまま鎮守の杜を進んだ。着ぐるみの着脱場面を見られないようにするため、テントは部外者の入り込まない社務所の陰に設営してある。そこから伸びる道は夜店もないので、ひと気がまったくなくひっそりしている。灯篭の並ぶ仄暗い砂利が長々続いているばかり。そこを歩くのはアザー姿の私ばかり。
 私はアザーの格好のまま蘭子に会おうとしていた。彼女をとにかく元気付けてやりたかったのだ。この姿で私が現れたら、さぞや喜んでくれることだろう。少しは元気になってくれるだろう。
 適当なところで参道へと方向転換し、さらに杜の小道を歩くと、私はその先に青い浴衣の蘭子を見つけた。しめた、一人っきりだ。この格好で大勢の中を探し回らずに済むのはありがたい。
 私の足音に気づいて蘭子がこちらを見る。彼女は目と口をまん丸に開く。手からスマホが滑り落ちた。土の上に転がるスマホに蘭子は目もくれない。ただこちらをぼう然と見つめて立ち尽くす。当然だ。現実離れしすぎている。他に誰もいない小道の奥から、憧れのアザー=ルーが歩いてくるのだ。夢のような、わけの分からない状況。
 だがその時、実は私も不意打ちを食ったように驚いていたのだ。蘭子の表情があまりにも真っ暗で、本当に本物の幽霊のようだったから。私に気がつく寸前、目にはわずかな光もなく、唇はしっかり閉じる力もないのかわずかに開いていて、顔全体に張り詰めた感じがぜんぜんなかった。十代の若者とは思えないほど疲れ切り、たるんだ雰囲気で、思わず私は息を飲んでしまったほどだ。
 蘭子は何も言わずぼんやりと、目の前までやってきた私を見つめた。驚きと困惑で全身が硬直している。軽く恐怖さえ感じていたかもしれない。私はびっくりさせないようにゆっくりと、黙って(アザーはしゃべれない設定だ)彼女の手を取った。細い手だった。その手を可能な限り優しく、アザーの丸っこい両手に包み込んだ。そして元気付けるように上下にゆっくり振った。私の動きに合わせて、蘭子の瞳も上下する。
 みるみるうちに蘭子の目に光が宿り始める。表情に人間的な温かみがきざす。
 私はまたゆっくりと手を離し、そっと腕を伸ばして、彼女の肩を優しくたたいた。それからガッツポーズをして見せた(言葉なしで元気付けるのはなかなか難しいものだ)。そして手を振って、元来た道を戻り始めた。
 歩き出してから数秒ほどして「アザー、ありがとう!」と蘭子が叫んだ。振り返ると蘭子が肩を震わせて私を見つめていた。
 「ありがとう! 本当に本当にありがとう!」
 喜びと涙の入り混じった声。情熱的な声だ。私の胸もカッと熱くなり、不覚にもアザーの中でもらい泣きしてしまった。
 私はもう一度手を振り、今度こそ後ろを振り返らずに歩き去った。
 意気揚々と小道を戻る私はのんきで幸福だった。蘭子の「ありがとう」を心の中で反芻し、良いことをしたなぁ、とアザーの中でほくそ笑んだ。
 テントの前でユキさんがあちこち首を巡らして立っていた。私は、おーいとばかりに手を振った。私に気づくとユキさんの顔が鬼になる。
 え、と立ちすくんだ私を「どこ行ってたの!」とユキさんは怒鳴りつけた。
 ユキさんは私をテントへ乱暴に引っ張り入れた。
 そしてすぐさま台風のような説教が始まった。
 「アザーのまま出歩くなんて何を考えてるの!」とユキさんは言った。
 「いまのアザーの人気のすごさは、あなたもじゅうぶん分かってるでしょ? 大勢に取り囲まれて、将棋倒しとかの事故でも起きたらどうするの? 人気者だという自覚をもっと持ちなさい! こういうことをしたら危険かもしれない、とちゃんと想像を働かせて、慎重に行動しなきゃダメ! 何かがあってからじゃもう遅いのよ!」……
 ユキさんは怒り続けた。着ぐるみを脱ぐ間も与えられず、私はアザーの中でただただ目を白黒させて叱られた。こんなふうに怒るユキさんを見るのは初めてだった。私は本当にびびってしまい、体を縮こませながら、ただ小声でごめんなさいと繰り返すほかなかった。
 少し落ち着いてくると、私は後悔の念でいっぱいになった。ユキさんの言うことは正しかった。確かにスタッフの付き添いもないまま、大勢の人間のいる付近をアザー姿でうろつくなんて怖いもの知らずもいいところだ。
 頭が冷えてくると、私の中に強い恐怖がせり上がってくる。なんてバカなことをしてしまったんだとアザーの中で真っ青になった。何事もなく済んだのは、単に運が良かったからに過ぎない。蘭子がたまたまひと気のないところにいてくれたから二人とも無傷でいられたのだ。私は身のちぎれるような思いを味わった。自分を責め、ひたすら反省する他なかった。
 「イベントが終わったら着ぐるみは速やかに脱ぐこと、いいわね?」と言ってユキさんは説教を締めくくった。そのとき私は、情けなさや自省の念にプラスして、言いようのない無力感をも覚えてぐったりしていた。
 私はユキさんにうながされて着ぐるみを脱ぎつつ、蘭子の「ありがとう!」の絶叫を思い出した。彼女も危険な目に遭わせていたかもしれないと思うと、本当に怖いと思ったし、何事もなくて良かったと安堵するばかりである。それは嘘ではない。しかし、あれが蘭子にとって言葉で表せないほどの素晴らしい体験だったのも確かなのだ。私はあの短い時間、蘭子に全ての悩みを忘れさせ、夢のような気分を味わわせたのだ。
 私は汗ばんだ肌着を脱ぎ、清潔なスタッフTシャツに着替えながら、鈍重なめまいをこらえていた。身体がいつもより重い気がした。
 絶望的な気分だった。
 ――アザーの格好で出歩くことはできない――
 そう、できない。今回の一件ではっきりした。
 アザーは私だけのものではない。いくらアザーと一心同体のような気がしても、私はアザーではない――当たり前の話だ、わざわざ言うのもバカバカしいほどに。ファンのものでもあり、私以外のスタッフたちのものでもある。私のわがままで、彼らを悲しませるようなことはしでかせない。ファンの少女を元気付けるためだろうと何だろうと、アザーをほしいままに利用する権利など私にはない。そしてそれが許されないなら、もう二度と、蘭子にあんな体験をさせて上げることはできない。どうあがいても、できない。アザーの人気が高まれば高まるほど、できないのだ。
 私には何もできない。

 私は重苦しい気分で帰宅すると、脱衣所で服を脱ぎ、洗面台に近づいた。鏡に映る自分にアザーの顔を重ねてみるが、この前のような喜びは湧いてこない。私は想像を打ち消し、再び自分の顔を見て唇を噛んだ。鏡の中の無個性で、自己主張の薄い私の顔も唇を噛んだ。
 俺はアザーじゃない、と私は思った。自分はただのスーツアクターで、ただの人。人気者なのは外側の着ぐるみ。俺とは何の関係もない着ぐるみ。確かに舞台のアザーの動きは俺の動きでもあるけど、その役割は俺じゃなきゃいけないってわけでもない。他のスーツアクターでもアザーは人気者になっただろう。会社のスタッフは優秀だから、誰が入ったって今の地位へ登ってこられただろう。それどころか俺みたいな素人が中に入るんでなかったら、今頃もっと人気になっていたかもしれない。
 私はさらに思った。魔法使いなのは外側のアザーなんだ。俺じゃないんだ。蘭子を喜ばせたのも夢を見せたのも癒しているのもアザー。「ありがとう」と言われたのはアザー。全部、アザー。俺じゃない。
 鏡の中の私の顔がゆがむ。
 歓声も拍手も俺には届いていない。届いていると思い込んでいただけで、実際には届いていない。自分のことのように喜んでいたが、そんなのは幻想だった。アザーの人気を自分の人気のように勘違いしていたんだ。蘭子やみんなに愛され、求められているのはアザー=ルー、拍手喝采されているのはアザー=ルー、賞賛されているのはアザー=ルー……。そういうのは全部、着ぐるみに吸収されるんだ。中の俺までは浸透しない。決して。
 当たり前じゃないか、そんなの。
 私は洗面台の縁を握りしめた。
 どうしてそんな当たり前のこと忘れてたんだ。どうしてアザーのまま蘭子のところへ行ったりしたんだ。そんな傲慢なこと……。なんでそんなバカなこと……。
 バカなこと……。
 バカなこと、とつぶやきながら私は浴室へ入った。
 ぬるま湯のシャワーを頭から浴びながら、私はアザーになった自分を夢想した。着ぐるみではなく、本当にアザーになった自分をだ。
 アザーになってしまいたかった。もしアザーになってしまっても、多分私は困らない。それどころか今よりずっと楽しく、満ち足りた人生を送れそうだ。少なくともファンの女の子一人、自由に慰められない今の状況よりは、ずっとマシだろう。
 「本物のアザー」になってしまいたいな、と私は声に出してつぶやいた。神や仏、その他なんでもいい、そういう力を持ったモノがいるなら、いっそアザーに変身させてほしい――私は頭を洗いながら、むなしく思った。
 シャワーを終えて浴室を出て、脱衣所で頭を拭きながらふと窓を見ると、網戸のサナギがなくなっている。孵化して、抜け殻は下に落ちたのだろうか。
 どこかでセミの鳴き声が聞こえた気がした。


 三日後、私は市内の商店街のイベントでパフォーマンスを行った。私の気分はあれ以来ずっと暗かったが、仕事自体は質を落とさずにこなしていた。
 イベントを終えた後、私は控え室代わりの商店組合の事務所に戻ると、ユキさんに言われたことを守って、速やかに着ぐるみを脱ぐことにした。
 頭を引き抜こうとしたところで違和感を覚えた。アザーの頭が妙に重い。変だなと思いつつ力を込めると、情けないくらい腕が上がらない。私は、うん、と声を出してさらに力を入れた。だが入れた端から力が抜けていく。だんだん息も荒くなる。まるで丸一日食事を抜いたような疲労感で、しまいには腕が震え始めた。
 何とかうなりながら頭を引っこ抜くと、途端に疲労感は消えてしまった。私は肩を上下させながらアザーの頭を見つめた。何だ今のは? 自分で感じている以上に、ステージで体力を消耗したんだろうか?
 「どうかしたの?」とユキさんに問われ、私は彼女の方を向いた。ユキさんは大きな姿見の横に立っていた。
 私は、なんでもないです、と答えながら、姿見に映った自分の顔に意識を引かれた。妙に顔色が良い気がするのだ。肌の色艶が何となく明るく、鮮やかで、張りがある感じだ。
 私は体の方も脱ぐため、そばにいたスタッフに声をかけて背中のファスナーを下ろしてもらった。
 その時、誰かがテレビをつけた。ちょうどニュース番組をやっていて、アナウンサーが「来永久(くるとわ)市と箆井仁(へらいに)市の合併の可否を問う住民投票が行われ、賛成多数により可決されました」と伝えた。
 「ふーん、来永久と箆井仁って合併するんだ」とスタッフの一人が言った。
 「来永久が箆井仁を吸収するんだそうですよ」と別のスタッフが言った。
 「じゃあ、合併後の名前は来永久なの?」と最初のスタッフ。
 「らしいです。箆井仁に住んでる友達がすごく嫌がってましたね。地元の名前が消える、合併なんかしたくない、って」と別のスタッフ。
 合併、という単語に私はギクりとした。そしてギクりとした自分にまたギクりとした。なにバカなことを……俺は何を考えてるんだ……と私は思って頭を振った。
 私は、さっきの感覚はまるで自分の皮膚とアザーの頭が「合併」しようとしているかのようだった、と思ったのだ。私は自分の連想を愚かだと思った。三日前の風呂場での願いが神様に届いたとでも言うのか、バカすぎる、と思った。子供じゃあるまいし、本当に何を考えてるんだ。
 だが、胸の動悸は収まらない。ただならぬ不安感が体の底から湧いてくるのを止められない。
 私がひっそりと粘つく唾を飲み込んでいると、ニュースの雰囲気が変わった。アナウンサーが冗談めかした声で「話題のあの方にも二つの市の合併について伺いました!」と言うと、映像がどこかの野外のイベントスペースに切り替わった。
 先の丸くなった円柱型の、漫画的に描かれたミサイルのような形状のゆるキャラが、激しく飛び跳ねながらフレームインしてきた。どこを見ているのか判然としないぼんやりした目つきと痙攣的な細かい動きがインパクト抜群の、来永久市のゆるキャラ・トワックルだ。体は地域の特産のミカンをイメージしてオレンジ色。どことなくくすんだ、あまりきれいではないオレンジ色。
 県内ではアザーと人気を二分している。MC担当者を使わずに自らしゃべるという、ゆるキャラには珍しい奇抜なスタイルを一番の売りにしているのだが、自治体のバックアップの元で組織的な運営をする我々アザー=ルー親衛隊と違い、全ての業務をアクター本人が一人でこなしているためそのようにせざるを得ないのだという。
 「トワックル、人気だなぁ」とスタッフの一人が言った。
 「うかうかしていられないな」と別のスタッフが受ける。
 テレビの中でトワックルが「合併は賛成っとわ!」と甲高い作り声で言った。
 「来永久が大きく発展するのは嬉しいっとわー。でも箆井仁という名前がなくなるのは残念だという方も多いと思うとわ。そんな皆さんのお気持ちはお察ししますとわ」
 トワックルは神妙な調子(それ自体がギャグにも思える)で続ける。
 「だけど合併後は、どうか箆井仁の皆さんも仲良くしてくださいっとわ! みんなが幸せになる合併にするために、トワックルも一肌脱ぎたいっとは!」
 トワックルが「合併」と口にするたびに、私は言いようのない不安にとらわれた。でも「頭が抜きにくかった、まるで自分とアザーが「合併」しようとしているかのように」なんてこと、誰にも相談できない。


 着ぐるみが脱ぎにくい――その感覚と労苦は猛烈なスピードで強まっていき、あっという間にジョークや笑い話にもならないレベルへ重症化した。最初は頭だけだったのに、数日で身体にも症状は拡大した。大げさでもなんでもなく、脱ぐだけで息が上がってしまうほどなのだ。ステージでのハードなパフォーマンスのほうがよっぽど楽だと感じるくらいだった。冗談抜きで、着ぐるみを着ているときの方が快適なのだ。
 私には自分の身に何が起こっているのかさっぱり分からなかった。だが、何かとてつもなくおかしなことが起ころうとしている、ということだけははっきり分かった。その感じを言葉で説明するのは難しい。だが狂おしいほどの確信をもって私は、自分の中にとんでもなく大きな変化が萌芽しているのを理解していた。
 私の中で膨らむ不安とは裏腹に、パフォーマンスのクオリティはむしろ高まっていった。頭が脱げにくいのを自覚する前と後で、明らかに私の体の動きは違っていた。とにかく五体が信じられないくらい自由自在に動いてくれるのだ。頭で思い描いたアクションを、描いたままに完全に再現できているという実感があった。
 私は別次元に達しようとしていた。それまでの「もともと未経験の素人にしてはがんばっている」段階から、「プロのパフォーマー」へと進化しようとしていた。自分で言うのもおかしいが、私は身体のキレにしてもアドリブの発想力にしても、いまや「見世物」を超えた「エンターテイメント」の領域に達しつつあったのだ。
 私はステージだけが自分の居場所のように感じ始めてもいた。ステージの上の私はこの上なく幸福だったが、ステージを降りた私は絶えざる不安にさいなまれていて、ひたすら陰鬱だった。着ぐるみを脱ぐのは何しろ億劫で疲れるし、脱いだ後も「自分に何が起こっているんだ」と心配になってまるで心が休まらない。
 ステージでアザーになっている間だけはストレスを忘れて、自分の心を気持ち良く解放することができた。喜びに胸ときめかせ、この世の春を謳歌していると感じることができた。生きている、と思えたのだ。

 私はそのようにしてアザーになった。

 その日は猛暑だった。関東全域で気温が人間の体温ほどまで上がり、気象庁から高温注意情報が発せられた。コンクリートは太陽を照り返し、エアコンの室外機は更なる熱波を放出して、亜猿市の野外を地獄の釜の底のように煮えたぎらせた。
 私もアザーを着る前からもう汗だくになっていた。
 軽く息の上がった状態でワゴン車の助手席に乗り込んだ私に、ユキさんが「今日は特に暑いから、ステージに出る前にきっちり水分と塩分を取っておいてね」と言った。
 私はひたいの汗をぬぐいながら笑ってうなずいた。私は何の心配もしていなかった。アザーを着さえすればどうってことはない、と思った。着ぐるみに入れば楽しく心躍って暑さなんか吹き飛ぶ。猛暑日なんてその程度ものものさ。
 今思うと、あきらかに私は異常だった。アザーを演じる充実感が外部の刺激を忘れさせてくれているんだ、人間の精神ってすごいな、と私はのんきに考えていたが、そんなことあるはずがない。まあ普通の格好ならまだありえるかもしれないが、私は着ぐるみを着ているのだ。その上で激しく跳んだり踊ったりを、三十六度超の気温の中でこなすのである。そんな状況で暑さを忘れてしまえるなんて、めちゃくちゃだ。完全に狂っている。

 今回の会場は大きなショッピングモールの野外催事場だった。周囲に壁や建物のない開けた場所だが、風がないのでものすごく暑い。準備をするユキさんたちスタッフもみな、始まる前からへとへとの表情になっていた。
 しかしアザーに着替え、控え室で待機している私は楽なものだった。今の私はアザーを着ていると、暑さなどの身体的な苦痛が本当に吹っ飛んでしまうのだ。
 それにしても妙だ、と私はイスにかけながら思った。今日はさすがに快適過ぎやしないか? 着ぐるみの暑さや重苦しさがまるっきりない。いや、と言うより、まるで何も着ていないようだ。裸で座っているようだ。
 スタッフが出番だと私に声をかけた。私は立ち上がり、いつものように全速力で駆け出す。そして私はちょっと驚いた。身体がびっくりするほど軽い。軽すぎるのである。アザーの手足が本当の手足のようで、着ぐるみを着ている感じがまったくない。これは今までで最高の感じだぞ、と思いながら私は会場に走り込み、いつものように最前列の客とタッチを交わしてステージに上がった。
 ステージ上でも良い感覚は続いた。予感したとおり、その日の私は最上のパフォーマンスを披露することができた。ダンスもジャンプも、ユキさんとのやりとりも、ただでさえ良い調子だったここ最近の中でも飛び抜けて良い出来だった。アザーを演じる私はもう恐いものなし、無敵、何でも来い、というハイな気分になっていた。
 イベントが終わって、私は上機嫌に手を振りながらステージを降りた。今日は蘭子の姿はなかった。最高のパフォーマンスができた日に来てもらえなかったのは残念だが、それでも私は満足感でいっぱいだった。暑いとかつらいとかフラフラするとか、そういうイヤな感覚は微塵もなかった。
 だが歓声を背負いながら控え室へ歩く間に、私の中の絶頂感は急速にしぼんでいった。最近はいつもそうなのだ。以前は素晴らしい仕事ができると、イベント終了後もその余韻というか「やり切った」感が持続してずっと良い気分だったのに、近頃は舞台を降りると途端に虚無感に支配されて、憂鬱になってしまう。
 ずっとアザーのままでいられたらいいのに、と私は詮無いことを考えた。既に何度も考えたことだが考えずにいられなかった。しつこく「アザーのままでいられたらどんなに幸せだろう」と私は夢想した。
 控え室に入り、私はさらに憂鬱な気分で肩を落とす。着ぐるみを脱がなくてはならないのである。脱ぐ際の猛烈な倦怠感・疲労感は、ここのところさらにひどくなっている。しかも誰にも相談できないから、余計ひとりで思いつめてつらくなってしまう。
 ここからが仕事の本番って感じだな、と苦笑しつつ私は頭に手を掛けた。
 脱げない。
 私は力を込める。
 脱げない。さらに力を込め、うなりながら引き抜こうとする。
 アザーの頭はびくともしない。それどころか、あまり力を込めると何だが自分の首ごと引っこ抜けてしまいそうで、力が抜けてしまう。いくらなんでも、と私は思った。今日はちょっとひどくないか?
 私は呼吸を荒げてもう一度頭を引っ張った。突然アゴに痛みが走って手を離す。
 今のはなんだ? こんなのは初めてだ。
 落ち着け、落ち着け、と私は自分に言い聞かせた。鼓動が早くなる。
 私は頭は後回しにして体から脱ぐことにした。ちょうどユキさんが控え室に戻ってきたので声をかける。
 「ユキさん、背中のチャックを下ろしてください」
 ユキさんは「え?」と言って私を見つめたのち、吹き出した。
 「いきなり何言ってるのよアザー。着ぐるみじゃあるまいし」
 私は固まった。
 いや、待て、落ち着け、ジョークに決まってるだろと私は思った。ユキさんは冗談を言ってるだけ、決まってるじゃないか。だが「冗談言わないでくださいよ」と返す言葉が出てこない。喉がカラカラに乾いて声が出ない。
 「おいアザー」とスタッフのひとりが言った。
 「喉乾いてるだろ、今日は暑かったからなぁ」
 ほれ、と私にペットボトルを投げて寄越す。私は受け取ったペットボトルのふたを無意識に開け、その中身を飲んだ。飲んでからびっくりして口を離す。
 (飲めた!?)
 飲んでしまった。着ぐるみを着ているのに――私は飲んでしまった。直接アザーの口(貼り付けられた布に過ぎない。実際に穴があいているわけではない)からジュースを飲めてしまった。レモン風味の液体が喉から胃へと落ちてゆく。確かに私はそれを感じた。ジュースは今、私の体内にある。
 私はぼう然とペットボトルを見た。パッケージにはアザーの写真が印刷してある。アザーがイメージキャラクターを務める亜猿レモンサイダー。
 私は目を疑った。そこには見返り美人のように背中を見せつつ顔だけこちらへ向けているアザーが写っているのだが、その背に比翼仕立ての縦線がないのだ。アザーの着ぐるみには、後ろ首からお尻にかけて、チャックを隠すための比翼の縦線が走っているはず。なのに、そんなものどこにもない。背は全面継ぎ目なしにのっぺりしている。
 落ち着け、冷静になれ。そう必死に私は自分に言い聞かせる。心臓がさらにスピードを上げて早鐘を打つ。
 「アザー、どうかしたの? どこか調子が悪い?」
 ユキさんが心配そうに尋ねる。私はなんと答えればいいのか分からず、ただユキさんを見返した。ユキさんは私に近づき、手のひらを私の――アザーのひたいに付けた。
 そして「うーん、熱はないみたいだけど」と真剣な顔で言った。
 「大丈夫です」と、私はかすれた声で答えた。
 「ちょっと疲れてるだけです」


 それ以降、初日の記憶はほとんどない。私は恐ろしい混乱状態に陥り、何が何だかわけが分からないままその後の時間を過ごした。どのように会社を出、どのようにアパートまで帰り着いたのか、まったく思い出せない。
 記憶がはっきりするのは翌朝起きて洗面所で顔を洗おうと鏡を見た時点からだ。
 私は落ち着いていた。「理由は分からないが、俺は昨日アザーになったんだ」ということを――目の前の鏡にアザーが映っているという事実を、私は冷静に受け止めていた。
 白と黒のシンプルな配色。漫画的にデフォルメされたまん丸の目。そして大きな赤い口。そこにはちゃんと穴が空いている。舌とか歯とか歯茎とかの生物的な要素はまったくないが、ほの暗い穴がちゃんと開いている。
 ああ、ここから昨日、ジュースを飲んだんだ、と私は思い、蛇口をひねり、顔を洗った。洗いながら、こんなことしていいのかな、と私は思った。アザーの生地は水を吸うと乾きにくいんじゃないか、と。もしタオルやドライヤーで乾燥が追っつかないようなら、今後顔はウエットティッシュで拭くくらいにしようか。そもそもこの生地は人間の皮膚ほど汚れることもないだろう、汗腺なんかないだろうから汗だって多分かかないだろうし……。
 ……そんなことを考えながら、私は顔を洗い、歯を(歯などないのでただ口の中を)磨いた。既に私はアザーとして生活することをリアルに考え、受け入れてしまっていた。自分でも呆れる。信じられないほどすんなりと、私はアザーになってしまったのだ。

 私はアザーであることに急速に慣れていった。出勤すれば皆からアザーと呼ばれ、当然のようにアザーとして遇された。アザーになってから二十四時間も経たないうちに私は、現状の自分に何の違和も感じなくなった。私はアザーとして会社にいて、アザーとして街を歩き、アザーとしてしゃべり(しゃべることができたので、設定は無視して遠慮なくしゃべった)、当たり前にアザーとして振る舞った。
 出社してから三時間もすると、もはやアザーを演じているという意識もなくなった。最初からアザーであったような気さえした。会社の自分の机にかけ、イベントのない日なので事務仕事をしながら(アザーになったからといって、そういう人間的な仕事がなくなったわけではなかった)、私はアザーとして息をし、しゃべり、動いた。
 周囲の人々は、私を一貫してアザーとして扱う。今までもずっとアザーであったかのように、だ。それが一体全体どういうことなのかさっぱり分からなかったが、おかげで私もスムーズに、社会的な意味でもアザーになることができた。
 アザーになってから二、三日後には、生理的な点でも何の問題もないことが分かってきた。人間だった時より快適なほどだ。
 まず食事を取る必要がなくなった。腹も空かないし、わずかな水分が欲しくなる以外、喉もほとんど乾かない。その水分も勝手に蒸発してしまうらしく、排泄の必要もなくなった。
 風呂にもほとんど入らなくていいようだった。汗をかかないので何もしなくてもかなり清潔でいられるのである。もちろん何がしかの汚れは付着するので、ときどき行水のようなこと(感覚的には洗濯に近い)をする必要はありそうだったが、基本的には消臭スプレーを吹きかけたのち、きれいな布巾で乾拭きすれば充分のようだった。
 しかし私にとって何より嬉しかったのは、言うまでもなく、ずっとアザーのままでいられるということだった。
 ユキさんも他のスタッフも私がアザーとしてそこらをうろつくのをもう咎めない。まあイベント会場などファンがたくさん集まっている中を、スタッフの付き添いなしで歩き回るのはさすがに危険だろうが、人間だった頃の不自由さと無力感を思えば何てこともない。
 街を歩いているとファンの人々に声をかけられた。サインをねだられれば喜んで「アザー=ルー」と書き、握手を求められれば手を握り、写真を撮りたいと言われれば一緒にフレームに収まってあげた。そのようなことがあるたびに、私は胸の内に矜恃が生まれるのを感じた。私はアザーになったことでやっと満ち足り、何者でもないという苦しみから解放されたのだ。
 アザーになってからしばらく、蘭子は姿を見せなかった。バイトが忙しくなったのか、それとも受験勉強が忙しくなったのか。早く見に来てくれないかなぁ、と私は思った。この晴れ姿でもう一度、面と向かって蘭子と話をしたい――そう思うとわくわくした。
 そんな調子で二週間が過ぎた。私にとってその二週間がこれまでの人生で一番、幸せな時だったかもしれない。私はあふれんばかりの幸福と満足感の中で、アザーとして暮らし、アザーとして生きた。
 ところが、である。
 変身して二週間が過ぎた頃だったか――。幸福を満喫していた私の中に、不意に小さな澱のような負の感情が生じた。それは細胞分裂するアメーバみたいに急拡大し、あっという間に私の心を覆い尽くしてしまった。
 そして私は、幸福とは程遠い状態に陥った。


 事務所のソファーにかけた私を囲むように、他のスタッフも椅子に座っている。イベントへ出発する前のひと時。皆缶コーヒー片手に気持ちのいい笑顔を浮かべて、前向きなことや明るい話題を口にしている。
 アザーの人気が上がれば上がるほどスタッフは仕事が楽しくなるし、やりがいも見出してゆくので、自然と笑顔やポジティブな発言が増えるのだ。
 「またファンレター、いっぱい来たね」と誰かが言った。
 「みんなすごいよね、メールとかツイッターとかある時代にさ、直筆で書いてくれて」と別の誰か。
 「ツイッターのフォロワー、いま何人くらい?」
 「何人だっけな? でもすごい数になってるよ」
 「ゆるキャラの全国大会、今年は上位に行けるんじゃない?」
 「ひょっとしたら、トップだって取れるかもよ。県外の人からもいっぱい応援メッセージもらってるもん」
 「そう言えば社長が、また新しいCM決まりそうだって言ってたよ」
 「ホントに? 今度はなんだろうなぁ」
 「テレビのオファーもいろいろ来てるって言ってた。全国放送のもあったみたいよ」
 「すごいな。ホント、アザーはわが町のスーパースターだな」
 「本当ね」とユキさんが隣の私を見た。「アザー様々ね」
 「うん……」と私は曖昧にうなずいた。
 「お、晴れてきたぜ」とスタッフの一人が言った。「今日は屋外だったよな? 助かるな」
 私は正面にある窓を見た。朝から空を覆っていた雲が切れ、真っ青な晴れ間が覗く。陽光が窓から差し込み、私の顔面にスポットライトのように当たる。
 私はまぶしくて周りが見えなくなり、一瞬自分が何もない空間に放り出されたような感覚にとらわれた。
 出発までにはまだ少し時間がある。スタッフはおしゃべりを続けている。私は他のスタッフの話にいい加減に相槌を打ちながら押し黙っていた。
 「アザー、どうかしたの?」とユキさんが聞いてきた。「今日は一言もしゃべらないけど」
 ユキさんの大きな目が私を覗き込む。なんて親身で、そして不安げな表情だろう。私はジリジリした気持ちで口を開いた。
 「前に、ここに若い男のアルバイトがいましたよね? 彼はどうなったんですか?」
 ユキさんはしばたたいた。
 「男のアルバイト? 今はいない人? ……さあ、そんな人いたっけ?」
 私の腹の底が熱くなる。
 「なんていう人?」とユキさんが尋ねるので、私は私の名を告げた。
 ユキさんは困ったように笑った。「やっぱり知らないわ」
 「誰かと勘違いてるんじゃないか、アザー」と他のスタッフも笑った。
 私が曖昧にうなずくとその会話はそこで終わり、次の話題に皆の興味が移ってしまった。
 結局、出発の時間まで私はむすっと黙り込んでいた。
 私はひたすら考えていたのだ。
 人間だった時の私は一体どうなってしまったんだ、と。
 もちろん私はここにいる。それはちゃんと分かっている。アザーに変身してしまったが、私は私として存在し、事務所のソファーに座っている。そこに混乱や疑問の余地はない。自分は自分であるという意識は、人間だった時から現在までちゃんと連続している。
 だが、他のみんなの中では? と私は考えていた。みんなにとって「人間の私」はどういう扱いになっているんだ?
 私がアザーになって以降、人間時代の私の話題は誰も持ち出さない。そんなことってあるだろうか、と私は思うのだ。人ひとりいなくなったというのにそれを誰も口に出さないなんて? 疑問に思わないなんて普通に考えたらあり得ない。大騒ぎとまではいかなくても、あいつはどうしたんだ? なんで会社に来ないんだ? くらいのことは誰かが言い始めてもいい。なのに、なぜ? どうして誰も何も言わないんだ? なぜ私が消えてしまったことを誰も気にするそぶりも見せないんだ?
 納得がいかなかった。誰も動揺してくれないことに、私は大きなイラ立ちを感じていた。
 だから私はユキさんに尋ねたのだ。人間時代の私がどうなったのか、ということを。そうしたら、そんな名前は知らない、だ。一体これは、どういうことなんだ? 私のことなどきれいさっぱり忘れてしまったというのか?
 そんなバカな話があるか。それじゃ、初めから私なんて存在していなかったってことじゃないか。
 ――そんなふうに、人間時代の私に関する疑問が頭に浮かんで以来、私の中のアザーになれたという幸福感は急速にしぼんでいってしまった。
 「そろそろ行きましょ」とユキさんが言うと、みなどやどやと動き始めた。結局、人間の私の話はその日も出なかった。
 駐車場までみなと歩く間も、私はうつむき黙っていた。イラ立つと同時に、私は悲しかった。とてつもなくつらくて、やりきれなかった。

 ステージは何の問題もなくしっかりこなした。いくらイラ立っていても落ち込んでいても、決して私は仕事に苦悩を持ち込まなかった。いや、ステージにいる間だけは無我夢中になれて、むしろ苦悩を忘れることができた。
 その日も蘭子の姿はなかった。イベント途中からでも駆けつけてくれないかと期待したものの、私がステージを降りるまで、彼女はやって来なかった。がっかりした。蘭子に会いたかった。蘭子に会って、彼女を元気付けて、ほんの少しでも笑顔になってもらえたら、こんな気分も多少は晴れるのに、と私は思った。

 退勤後、私はもやもやした気持ちを抱えたまま帰りの電車に乗った。座席にかけながら、俺は一体どうなってしまったんだとなおも悩み続けた。
 自宅の最寄り駅で降りて、駅前のロータリーの脇を暗い気分で歩いていると、私は前方のある光景に「あれ?」と思い、足を止めた。十メートルほど先に小さな公園の出入り口があるのだが、そこから細身の男と小さな男の子が手をつないで出てきたのだ。
 あれ有野さんじゃないか? と私は思った。ビル管理会社の社員有野に、男はよく似ていた。
 二人は私の方へ歩いてくる。男は目線を下げ、男の子が何かおしゃべりしているのをうれしそうに聞いている。
 間違いない、有野さんだ、と確信するのと同時に私は駆け出した。
 「あー、アザーだ!」と男の子が真っ先に声を出した。有野は駆け寄ってきた私に一瞬たじろぐも、すぐに「ああ」という表情になって、
 「アザー=ルーだっけ? この町のゆるキャラだろう?」と言った。
 機先を制された私は自分がアザーであることを急に意識して、言葉に詰まった。
 「アザーだー、アザー」
 黙っている私に男の子がまとわりついてくる。
 有野は目尻を下げて言った。
 「孫はあんたの大ファンなんだよ。良かったらサインをもらえないかな?」
 有野はズボンのポケットから黒い皮の手帳を取り出した。バイト中にも何度も見かけた手帳だ。私の胸中に自分でも驚くくらいの勢いで懐かしさと哀しみが込み上げてきて、我ながら戸惑った。
 手帳にサインしながら、私は思い切って人間の時の名前を言い、そういう名前の人を知らないかと有野に尋ねてみた。
 有野は「え?」と目をパチクリやった。私はとっさに嘘をついた。
 「その人は僕の古い友人なんです。実は今、行方が分からなくなっていまして、連絡も取れず困っています。取り敢えず手当たり次第、こうして声をかけてくださる方に、心当たりがないかうかがっているんですよ」
 「ああ、そうなのかい」と有野は人の良さそうな困り顔でうなずいた。
 「それは気の毒になぁ。申し訳ないけど、聞いたことのない名前だよ」
 「そうですか……」
 私は力なく手帳とペンを返した。

 手を振りながら小さくなっていく二人に手を振り返しながら、私は悄然と考えた。
 有野さんも俺のことを覚えてないのか――。
 私は駅を正面に見て立ち尽くす。泣きたくなってくる。完膚なきまでに打ちのめされたボクサーのような気持ち。もう立っているのさえつらい。
 私はここにいて、こうして考えたり悲しんだりしているのに、自分はどこにもいないのだ、と私は感じた。せっかくアザーになれたのに、でも俺はやっぱりアザーじゃないんだ、とも思った。
 私は人間だった自分にこだわっていた。人間の私がないがしろにされている現実を受け入れられなかった。そのせいでアザーになりきれないのだ。アザーの内部にいる感覚はゼロで、アザーの身体を自分の生身の身体だとちゃんと感じているのに、しかし「私」はどこにも存在していないような気になってくるのだ。
 本格的に泣きたくなってきた。だが泣けない。どうもアザーでは涙を流せないらしい。涙腺がないのか。
 前方のロータリーにバスが停まった。夕陽を受けてバスの車体がオレンジ色に輝き、車内の人々の顔も燃えるように赤くなる。
 私はなおも考えた。
 一体、人間の俺はどうなってしまったんだ? 人ひとり消えたっていうのに……みんなホントに俺のことなんか忘れてしまったっていうのか? なんで? なんでそんなことに?
 私の脇でシャッターの閉まる音がした。小さな宝くじ販売所が店じまいを始めていた。
 私は考え続けた。
 こんなことってあるか? 俺は確かにここで生きてたんだぞ。飯を食べて、仕事して、しゃべって、息をして、この世に存在してたんだ。なのに、なんで? なんで最初からなかったみたいなことになってるんだ? どうしてだ?
 私はふと、昔読んだ科学の本に書いてあったことを思い出した。
 量子力学の多世界解釈。難しいことはよく覚えていないが、ミクロの領域での物質の、ある状態とそれとはまた別の状態が重なり合って同時にあるという奇妙な現象は、この世が物理的に繋がりのない複数の世界へと(ある状態の世界と、それとは別の状態の世界)に分裂していると解釈することで理解できる、というような話だった。要するに、今自分が生きている世界とは少しだけ違うパラレルワールドが、この世界では無限に作られ続けている、ということだったと思う。
 それは、量子論界隈での複数ある解釈のひとつにすぎないし、決して多くの賛同を得ている説でもない、とのことだったが、やけにインパクトのある内容だったので、私の記憶にはっきり残っていた。
 もしかすると私が今生きている世界は、人間の私など最初からおらず、はじめからアザーしかいなかった世界、ということなんだろうか? ドラえもんの「もしもボックス」のような。「もしもボックス」で作られた世界に、のび太やドラえもんがもうひと組ダブって存在することはない。同じように、この世界に人間の私とアザーの私がダブって存在することはない、ということなのだろうか?
 私は考えた。考えたところでどうにもならないが、考えずにいられない。
 もしそうなら、この世に俺が生きてた証はないってことなのか? 俺は最初から存在しなかったってことになるのか? ユキさんたちも、有野さんも、誰もアザーではない俺のことなんかはじめから知りもしないってことなのか? 俺のことなんか……
 全身の力が抜けて、私はその場にへたり込みそうになった。そんなのあんまりだ、と思った。
 私は確かに無意味で無益でくだらない――それこそこの世に存在していないかのような人生を送っていた。自己紹介するのも困難なくらい特徴のない人間だった。属性とか肩書きとか、そういう他と自己を区別するための要素とはついぞ無縁だった。それは認めざるを得ない。趣味もない、大した学歴もない、ろくな職歴もない。家族もなければ、友達も失い、恋人にも振られた。自分を内的に規定することも、外的に規定してもらうこともうまくできない、誰でもない存在。長所はおろか、短所さえすぐには思いつけない空気人間。そこにいながら、どこにもいないような人間。
 だが……しかし、だ。だからって本当に最初からいなかったことになるなんて、冗談にしたってひどすぎる、笑えないぞ、あんまりじゃないか、最低だ、と私は思った。そんなことが――そんなことがあってたまるか。
 体が熱くなってきた。まるで全身の細胞が(生物的な細胞がこの身体にあるのかどうかも分からないが)うごめき、躍動し、沸騰するかのように。
 人間の俺はいなくなったのか? と、私はなおも考える。本当に消えてしまったのか? 誰の頭の中にも俺は残っていないのか? 俺はこの世から忘れ去られてしまったのか?
 ……それから私は、バスが出た後の駅前の静けさに突然気づき、顔を上げて街頭ビジョンのニュースを見たのだ。
 七歳の子供が誘拐・殺害され、雑木林に死体が遺棄された事件。火山の噴火によって数十名が死亡し、今もその倍の人数が行方不明となっている災害。航空機の墜落事故。大臣経験者を含む数十名の逮捕者を出した汚職事件。多くの患者を死亡させ、いまだ後遺症に苦しむ人が数千人規模でいるという薬害事件。大人気アイドルグループが初めてのドーム公演を成功させたという話題。突如ブレイクし、近頃はテレビで見かけない日のないお笑いコンビが、出身地の親善大使に任命された話題。――
 人の耳目を集める出来事が毎日ひっきりなしに起こっている。それらはいっ時、大きく注目され、人々の意識の余暇を埋め、弄ばれて、そしてやがて飽きられ記憶の片隅に追いやられる。どんな大事件も大事故も、時間とともに風化し、忘れ去られる運命からは逃れられない。
 なら、と私は思った。
 そもそも最初から空気のようだった私なんて、忘れられるどころか存在しなかったことになっても、ちっともおかしくないじゃないか……
 そこまで考えたところで、私はいても立ってもいられなくなり、タクシー乗り場へと走ったのである。
 私がいたことを何とか証明したい――心にあるのはただその思いだけだった。職場の仲間と有野がダメなら、他に思いつくのはもう恵しかいない。私がゆるキャラ好きの運転手に告げた目的地は恵の住む町だったのだ。


 タクシーはまだ目的地につかない。渋滞は思った以上にひどく、おかげでこれまでのことをすっかり振り返れてしまった。
 長い長い息を吐いて、私は軽く伸びをした。背中やふくらはぎに疲労が溜まっている。
 背もたれにもたれ直し、私は窓の外のネオンに目をやった。疲れた私の目に色とりどりの輝きは、やたら暴力的でうるさいものに映った。星のない夜空の無垢な黒さを、どきついネオンが汚して台無しにしていると思えた。
 私はもう一度、深い深いため息をついた。
 さっきまでの私は、自分が初めから存在していなかったかのような有様なのを、冗談じゃない、ひどすぎると考えた。そんなのあんまりだ、と。
 だが、こうして時間をかけて冷静に振り返ってみると、ものすごく悲しいが、こんな状況に陥っているのは当然の帰結のようにも思えてくるのだ。筋道立てた説明などもちろんハナからできないが、私が人として消滅し、アザーになったのは自然の成り行きだったような気がしてくるのだ。
 私は最初から数に入っていないような、見えない人間だった。ビリどころか、レースに参加さえしていないような人間だった。アザーに変身したことはともかく、「人間の私」が抹消されてしまったという事実は、実は「人間の私」になんの変化ももたらしていないのだ。もともと見えなかった人間が本当に見えなくなったに過ぎない。本質的には、以前となんら変わらない。
 私は窓に映るアザーの顔を見つめながら、ありもしない唇を噛んだ。
 ――それでも俺は存在したんだ。人間の俺は確かにいたはずなんだ。
 私は心で「いたはずなんだ」と狂おしく繰り返した。

 少しうとうとしていたところを運転手に起こされた。
 「大変お待たせしました、着きましたよ」
 大儀に首を起こし、窓の外を見ると、恵の家の近くの駅の風景が目に入った。
 私が金を払って車を降りると、運転手は「それじゃ、がんばって。応援してます!」と明るく言って走り去った。
 私がいるのは恵のアパートから歩いて十分ほどの場所。各駅停車しか停まらないこじんまりとした駅の前のバスロータリーだ。
 私は足取りも重く歩き始めた。
 五分も行くと静かな住宅街に入る。私は極力何も考えないように、予断を自分に許さないように急いで足を動かした。時折私に気づいて、こちらを見つめたり軽くはしゃいだりする人がいたが、幸い誰も声をかけてはこなかった。
 そろそろ恵のアパートが見えてくる辺りで、私は立ち止まった。私の向かう先の道の暗がりから、若い女が歩いてくる。輪郭で分かった。恵だ。
 私はなんと声をかければいいのか分からず、ただ立ち尽くしてしまった。十メートルほどの距離まで近づいたところで恵がびくりとして立ち止まる。それから私の方をうかがうように見て、そしていきなり駆け寄ってきたので今度は私がびくりとした。
 「アザー=ルーですよね!」と恵は黄色い声で聞いてきた。私は面食らいながらうなずいた。
 「嬉しい! ファンなんです、あたし。こんなところで会えるなんて……!」
 私は「ありがとう」と返しながら意外に思った。恵はゆるキャラになんか興味のない、クールで現実主義的な人間だと思っていたから。
 「きゃー、ホントに嬉しい! 握手してもらっていいですか?」
 「ええ……」
 私は恵の手を握った。恵は満面の笑顔。眼鏡の奥の瞳がちょっと引いてしまうほど輝いている。私は複雑な気持ちになった。私との最後の日々、彼女がこんな笑顔になることなどなかったから。恵はいつもつまらなそうな顔をしていた。もちろんそれは私のせいだったのだが。
 頃合いを見て私は有野にしたのと同じ質問を恵にした。
 「行方不明なんですか? お友達が?」と恵は言って、本気で気の毒そうな顔をした。それから彼女は右の眉を上げ、左の眉を下げた。彼女が考え事をする時の癖で、私は思わず息を飲むほどに懐かしい気持ちになった。
 「その名前、どこかで聞いたことあるような気がする……」と恵はつぶやいた。
 私の全身が脈打った。心臓が早鐘を打ち始める。
 恵はふと肩の力を抜き、首を振った。
 「ごめんなさい、やっぱり知らない名前だわ」
 私の肩からも力が抜けた。

 恵の背中を見送りながら、私はその場にへたりそうになるのを堪えて考えた。
 どうして? どうして誰も覚えてない? どうして? 本当にこの世に、人間の俺の痕跡はないのか? きれいさっぱり? 俺なんか最初からいなかったことになってるのか? 本当に……本当に……
 私は自問する。
 俺は確かにいたよな? 存在したよな? そうだよな、俺は存在したんだよな。ここにいたんだ。俺は……俺は……
 私は自分の名前を思い浮かべようとした。
 あれ……? あれ?
 名前が思い出せない。そんなバカな。自分の名前を口に――できない。思い出せない。自分の名前が分からない。そんな……そんな……なんで? たったいま恵に名乗ったばかりじゃないか。なんで……そんなバカなこと……なんで?
 私は自分自身の姿形を頭に思い描こうとする。――思い出せない。見た目もだって!? 私の頭の中で輪郭はぼやけ、顔も髪型も背格好も曖昧な煙のようになる。家の洗面所の鏡を思い出す。簡単に思い出せる。だがそこに映る私を思い出すことができない。
 「そんな……そんなこと……なんで」と私は泣きそうになりながら――でも泣けない――つぶやいた。
 「なんで……なんでなんだよ……」
 プーンと音がして私は右腕を蚊に刺された。なんでなんでとつぶやきながら、私は右腕をかきむしった。

 結局私は、自分の名前も、自分の容姿も、何ひとつ思い出せないまま帰途についた。
 よろよろと駅前まで戻り、とにかくタクシーを拾って帰らなきゃとぼんやり考えながら、しかし私は足を止めず、というか止めることができずにタクシー乗り場を歩き過ぎた。
 私はわけの分からないエネルギーに突き動かされていた。あえぐように息を吐き、無目的に、飼い主と死別した老犬が見つかるはずのない懐かしい顔を探して徘徊するように、ただ歩いた。
 歩きながら自分の名前を思い出そうと頭を猛回転させた。だが最初の一文字目さえ思い出せない有様。自分の顔を思い描こうとがんばりもした。だが顔の中身どころか、髪型が右わけだったか左わけだったか、いやそもそも髪の毛があったのかなかったのかさえ分からないのだ。
 深夜十二時近くになり、私は頭も身体もヘトヘトになった。さすがに限界だった。駅まで戻ってタクシーを拾い、もう何も考えずにシートにもたれた。今度の運転手はゆるキャラになど興味のない人で、こちらを必要以上に見ることもなく、終始無言だった。

 翌日、出勤した私は誰に声をかけられても生返事をするばかりで、まともに会話もできない状態だった。私は自分で自分のことを忘れてしまった事実にすっかり打ちのめされていた。
 周囲のスタッフも変に思ったかもしれない。だがその日は午前中から大きめのイベントが入っていて忙しく、私の暗い雰囲気になど誰も構ってはいられなかった。私もそれで良かった。誰とも話などしたくなかった。ただただ放っておいてほしかった。
 移動の車中でも私は無言だった。
 一体全体――私に何が起こっているのか、私にも分からない。着ぐるみに変身するという段階ですでに充分わけが分からないのだが、しかし今回のことは変身したこと以上にショックだった。人間の私がこの世に存在した唯一の根拠が――私自身の記憶が失われてしまったのだ。もう思い出せないとしたなら、私はそのまま完全に消えてしまうことになる。
 いや記憶だけではなかった。家に帰り着いた辺りから、私は感覚の上でも、自分が最初からアザーだったような気がし始めていた。
 昨夜は肉体的には疲れ果てていたのですぐ床についた。そして、人間の私はどうなったんだ、なんで自分でも名前も顔も忘れているんだ、と考えながらうとうとし始めた。すると、じわじわと、「いや自分は人間でなく昔からずっとアザーだったじゃないか」という気持ちが、ごく自然に胸にせり上がってきたのである。
 はっきり言葉で「人間でなくアザーだった」と考えたのではない。そういう言語的な知覚ではなく、「最初からアザーだった」という実感が、柔らかい布に心をそっとくるまれるように、形のない観念として湧いてきたのである。
 形がないからこそ、その感じはぞっとするほどリアルだった。感覚的で観念的であるからこそ生々しく、確信的だった。
 私は――まるで当たり前のことのように「俺はアザーになったのではなく、最初からアザーだったんだ」と直感したのだ。それでぎくっとして、一旦眠気が消えて、「いやいや、何考えてるんだ、俺は人間だ」と私は自分に言い聞かせねばならなかった。私はその時、震えていた。とてつもなく怖くて震えていた。自分の名前や容姿だけでなく、そもそも「人間だった」という感覚まで消えようとしているということに、激しく恐怖した。
 忘れたくない、忘れないでくれ、と私は真っ暗な天井に向かって懇願した。
 そのまま悶々とし続け、明け方近くになってやっと眠りに落ちたが、完全に寝不足だった。しかし、助手席に座る私はまったく眠気を感じなかった。とにかく早くステージに上がりたかった。ステージに上がる自分を思い描けば、眠気など忘れてギラギラしていられる。
 私はステージのこと以外、考えたくなかった。心に不安や恐れが湧いてくればくるほど、私は「ステージ上の自分」のイメージを飢餓的に求めた。客の前で動き回っている間だけは自由になれる、自分を解放できる、不安を忘れられる――。
 ステージに上がればいつだって最高の気分になれる。

 今日のイベントは大規模な物産品展で、場所は空港だった。ターミナルの一角にステージを設営して、県の特産品を空港の利用客に紹介するのである。
 会場規模だけなら今までで一番大きい。国際線の空港なので外国人も大勢足を止めるだろう。YouTubeなどに公開したアザー動画には海外からのアクセスも結構あったので、中にはすでにアザーを知っていて、わざわざ見にやってくる国外のファンもいるかもしれない。
 だが私にはそんなことまったくどうでもよかった。どこの誰が見ていようが関係ない。そこそこの客がそこにいて、私の動きにわずかでも拍手とかの反応を返してくれるなら、もう何だってよかった。今の私にとって観客は調味料のようなものだった。まったくないのも味気ないが、しかし醤油や砂糖が料理そのものになることは決してない。私の肉や野菜や米は、ステージのパフォーマンスだった。それこそが私の心の栄養だった。
 私はただ純粋にパフォーマンスするのを望んでいただけだった。他のことは何も考えず求めず、ステージで飛んだり跳ねたりしたいだけ。それだけだ。ステージにいる間だけはややこしい悩みも不安も心配事も、嫌なことはすべて忘れられる。かりそめの自分であること――アザーであることに没頭し、他の諸々を頭から締め出せる。
 一瞬の幻でもいい。ステージの上だけのまやかしでもいい。私は忘れたかった。すべてを忘れて「アザー=ルー」になりきりたかった。
 私たちは空港の職員に、搭乗カウンターの奥のメイクルームへ案内された。今日の控え室だ。
 部屋のドアには『アザー=ルーご一行様』と書かれた紙が貼ってある。
 その隣にもう一枚。
 『トワックル様』
 そう。今日はあのトワックルと共演するのである。空港という広い会場を選んだのも、普段の二倍以上の来客を見越してのことでもあった。
 メイクルームの中に入るとトワックルがいた――トワックルの着ぐるみが置いてあったのではない、既に着込んだ状態のトワックルが、大きな鏡の前に座っていたのだ。私は面食らった。出番にはまだかなり時間があるので、彼が着替え済みであるとは思わなかったのだ。
 簡単に会釈を交わすと、トワックルはメディアで見るハイテンションなイメージと違う(まあ当たり前だが)落ち着いた物腰で、あいさつと自己紹介をしてきた。ごく普通の低い声で「トワックルです」と名乗り、ひとりで活動していることや、アザーの動画をよく見ていること、こういう変なキャラなので絡みづらい部分もあるかもしれないが許してほしい、といったことなどを非常に礼儀正しく話してきた。こちらも主にユキさんが、アザーの紹介と、今日は共演させてもらえて嬉しい、よろしくお願いします、といったあいさつを返した。
 空港職員と打ち合わせがあるというので、ユキさんたち他のスタッフはいったん出ていった。控え室には私とトワックルが二人きりで残された。
 私たちが並んで座っている目の前には大きなメイク用の鏡がある。
 私は隣のトワックルを鏡越しに見た。改めて見ると、体色のオレンジは結構使い込まれてくすんでいる。
 何か話したほうがいいよなぁ、と私は思った。しかし何を話せばいいのか。ここ数日の私は何しろ自分の問題だけで精一杯だったから、事前にトワックルの情報を仕入れるなどの準備をしていなかった。どうせ本番ではユキさんが全部進行してくれるしいいや、といういい加減な気持ちも多分にあった。
 私があれこれファーストコンタクトの言葉を思い浮かべては打ち消していると、不意にトワックルがこちらを向いた。そして遠慮がちに「あのー……」と声をかけてきた。
 「はい?」と私もトワックルを見た。
 「アザーさん、いきなりで恐縮なんですが……」トワックルは探るような上目遣いで(と言っても私の顔もあちらの顔も抽象的なデザインなので、そういう雰囲気だった程度の意味だが)続けた。「ちょっと変な質問をしてもよろしいでしょうか?」
 「何でしょう?」と、私はしばたたく(感覚的に。実際にはまぶたがない)。
 誰もいないのにトワックルはわざわざ私に顔を近づけて、声を落とした。
 「あなたも元人間ですか?」
 私は息を止め、絶句し、硬直した。頭が真っ白になって、数秒間ただ無言でトワックルを見つめた。
 なんだと? 元人間ですか?
 私は答えず、トワックルを凝視し続けた。トワックルもこちらを見つめたまま何も言わず、微動だにもしない。室内は壁掛け時計の針の音がはっきり聞こえるくらい静まり返った。ややあって、私はほとんど痙攣するようにぶんぶんぶんと三度うなずいた。
 トワックルはゆっくり頭を戻し、満足げに天井を仰いだ。
 私は心臓を高鳴らせ、トワックルにのしかからんばかりの勢いで尋ねた。
 「あの、まさか、トワックルさんも?」
 トワックルは私の両肩を優しくたたきながらうなずいた。私が身体を戻すと、彼は片手で胸を撫で下ろした。
 「いや〜ほっとした」トワックルは笑う。「同士の方で良かった、頭がおかしい奴だと思われたらどうしようと不安でしたよ」
 私はトワックルの身体を上下に眺めながら尋ねた。「トワックルさんもその身体は、なんというか……生身なんですか?」
 「はい」トワックルはうなずき、腕を私の方へ差し出した。「ほらここ、膨れてるでしょ? 蚊に刺されちゃったんです」
 「あ、私もです」と私も蚊に刺された腕を見せた。
 トワックルは私の腕を見つめてうなずいた。
 「動画を見ながらね、実はアザーさんもそうじゃないかと思ってたんです。私が着ぐるみと合体しちゃったのと同じ頃から、あなたの動きも、ちょっと異常なくらい良くなったから」
 私は驚き、大いに感心してうなずいた。トワックルはこんな大事を経験しつつも、自分以外の着ぐるみの変化にも注意を向けていたのか。私なんて自分のことだけでいっぱいいっぱいだったのに。
 「こうなったの、どうも私たちだけではないようですよ」トワックルは鏡越しに私を見て言った。
 私は目を見開いた(という気持ちになった)。
 「私たち以外にもいるんですか?」
 「私が直接会ったのはあなただけですが」とトワックルは言った。「私のゆるキャラ関係のネットワークで調べたところ、全国に二十人程度はいるようですね」
 「そんなに……?」
 ぼう然とする。日本の各地に、私のように着ぐるみに変身し、戸惑っているゆるキャラが二十人も――
 「一体――これは何が起こったっていうんだ」私は自分でも意外なほど大きな声でひとりごちてしまった。自分のこととしてならすんなり受け入れられた「ゆるキャラへの変化」だが、目の前のトワックルや他のゆるキャラにも起こっていることだと分かると、途端に不思議で奇妙で、異常極まりないことだと思えてくる。
 「どうしてこんなことになってしまったんでしょう?」と私はトワックルに尋ねた。
 トワックルはうーんとうなる。
 「原因は分かりませんが……でもね」また顔を近づけてくる。「どうしてこんなことになったのか、私なりに考えてることはあるんです」
 私も釣られてトワックルに顔を近づけた。
 「他のひとのことは分かりませんので、これはあくまで私の場合ですが」と前置きした上でトワックルは話した。「私がトワックルとひとつになってしまったのは、私が「自分のことが大嫌いな人間だったから」なんじゃないか、と思うんです」
 「大嫌いな……」
 私はトワックルを見つめた。彼は続ける。
 「そう。私は自分のことが大嫌いな人間だったんです。とにかくもう、ホントにどうしようもない奴だったんですよ私って。自分が自分であることに辟易してたと言いますか……そもそもトワックルとして活動し始めたのも、自分への不満があったからなんです。この町を盛り上げるためなんて話は後付けです。着ぐるみを着て飛んだり跳ねたり狂ったように叫んだりするためのアリバイ作りに過ぎなかった。私はただ、自分でない誰かに変身して、普段の私ではとてもできないようなハチャメチャなことをやって、ストレスを発散したかったんです」
 トワックルはため息をついた。
 「子どもの頃から自分には、人に誇れる長所なんかひとつもありませんでした。テストなんて赤点しか取ったことがないし、皮肉とか冗談を理解するのも人よりツーテンポは遅れるしで頭が悪い。何をするにしても間が悪くて人に迷惑ばかりかけて、ちょっとした作業や簡単な仕事も要領が悪くて覚えが悪い。運動神経も悪いし、顔もどう贔屓目にみたってブサイクで、体型もずんぐりむっくりのモグラみたいな感じで、しかも短足と来てます。自分に自信が一ミリもないもんだから自然、口下手のコミュ障になっちゃって、人とまともに会話もできない。こんなふうにはじめて会った人にべらべらしゃべってる私を、以前の私が見たらびっくりするでしょうね。ちなみに言うまでもなく女の子にモテたことなんて一度もないし、友達だって全然いませんでした。もちろん金もないし、夢や目標もないし、ほんとに無い無い尽くしの空っぽ人間。そのくせ変にプライドは高くて、自分の欠点を逆に笑いに変えて開き直るようなこともできない。被害妄想も強くて、せっかく自分と接してくれる人が現れても「こんなダメ人間と普通にコミュニケーション取ろうなんて奴いるわけない。きっと相手は俺をバカにするためのネタを引き出そうと話しかけてるんだ。何気ない言葉の裏には侮辱とか皮肉が隠れてるんだ」なんてこと反射的に考えて、気分が悪くなってイライラして、ますます人を遠ざけてしまう。自分を責めて、それでも足りなきゃなんの罪もない善良な周囲の人を恨んで。そんな有様なので、どこにいても人に避けられて軽んじられて疎まれてしまうんです。私はただただ孤独で、自分のダメっぷりに押しつぶされそうになって、何もしてないのに突然息苦しくなったり泣きたくなったり、もう散々な人生でした」
 私は思わずうーんとうなった。確かにそれはつらい。人間時代の私よりはるかにひどい。
 私はトワックルの話に圧倒されて言葉を返すこともできなかったが、当のトワックルは淡々とした様子だ。
 「着ぐるみを着て、弾けたキャラクターになってたのも、そういう反動からなんですよ」とトワックルは続けた。「着ぐるみで姿を隠せば、面倒な心配事や恥も外聞も気にせずいくらでも自由になれたんです。着ぐるみは、古代の演劇の仮面みたいなものなんですね。仮面をかぶって観客から顔を隠すことで、別次元の存在に変身できてしまうんです」
 「よく分かります」と私はうなずいた。
 トワックルもうなずき、続けた。「どんどん心が解放されていって、ドーパミンが出まくって、テンションが上がって、人前でトワックルを演じるのが楽しくて楽しくてしょうがなくなりました。それが体の動きにも反映されるんですよね。自分でも驚くような勢いで私は飛んで跳ねて、どんどん機敏になって、ますます弾けたアクションをこなすようになっていきました。そしたらそれがバンバン受けちゃうわけですよ。何がなんだか自分でも分からないうちにファンサイトはできるは、ツイッターのフォロワー数は桁から増えるは……。そりゃもう気持ちが沸き立ちました。人にわーきゃー言われるのがこんなに楽しいなんて三十すぎて知りましたよ。私は夢の中でさえ人々の中心に立つことなんてなかった人間です。そんな自分を想像することさえできなかった」
 「分かります、すごく」私は深くうなずいた。トワックルに強い共感を覚えた。自分と似たような喜びを感じていたひとがいたのだ。俺は一人じゃなかった、と思えて嬉しかった。
 「だけどね」とトワックルは声のトーンを変えた。「いくらゆるキャラとして人気者になっても、ステージでたくさんの人にワーワー言われても、動画の再生数が何万・何十万となっても、着ぐるみを脱いだ私は以前と何も変わらないダメ人間のままでした。相変わらずのクズ。コンビニでお釣りをもらう時でさえおどおどするような腰抜けのまんま」
 トワックルは鏡の中の彼自身へ目を向けて続けた。
 「つらかった。むしろトワックルを始める前よりつらくなった。ゆるキャラとしてキャーキャー言われれば言われるほど、かえってゆるキャラでない時の本当の自分を意識してつらくなるんです。弾けてるトワックルと不甲斐ない自分のギャップで、心がバラバラに引き裂かれてしまうんです。着ぐるみを脱いだプライベートでちょっとヘタれた出来事があるたびに――たいしたことじゃありません、満員電車で足を踏まれるとか、人と会話した後に「余計なことまで言ったかも」と心配になったり――、私はそれまでより深く傷つくようになりました。私は強く思いました。ずっとトワックルのままでいられればいいのに、と。トワックルのままでいれば、いくらでも強く、おおらかで、寛容で、何も怖くないという気持ちになれる。二十四時間トワックルのままでいられたらどんなに幸福で素敵だろうか。そんなことを何度も何度も強く思いました」
 「分かります、すごく分かる」と私は繰り返しうなずいた。「僕も何度も同じこと、思いました」
 トワックルは鏡越しに私を見てうなずいた。
 「ちょうどそんな時です。ちょっとお恥ずかしい話なんですが」と彼は続けた。「前々から好意を持っていた女性に、私、勇気を出して告白したんですよ。いやもう大変なことですよ。一生分の勇気です私としては。だって私は自分にまったく自信がない上に、変にプライドだけは高い人間ですから。振られた時のことを想像するともうダメで、告白しようと決心できたこと自体が奇跡でしたね。やっぱりゆるキャラの時の黄色い歓声が少しは勇気になっていました。自分は人気者なんだ、あんなにたくさんの人が自分を応援して好きになってくれてるじゃないか、と思うと、ほんのちょっぴり強くなれる気がしました。で、うまくいったなら良い話なんですが……甘くありませんでした。思い出してもいまだに胸が苦しくなります。自分を奮い立たせながら告白した結果は完膚なきまでにアウト。こっちが言いたいこと全部言い終わる前に、相手は被せ気味に「ごめん、あたしそういう気持ち全然ないから」って嫌悪感丸出しのものすごい早口で言ってきました。そしてぼう然とする私を置き去りにして、彼女はさっさとどっか行っちゃいましたよ、スマホ見ながら」
 私は何と言えばいいのか分からず「そうですか」とただうなずいた。
 「情けない話ですけど、もう死のうと思いました」トワックルは苦笑を含む声で続けた。「もう限界でした。何もかもが嫌になりました。女性に振られたこともショックでしたが、それはきっかけに過ぎません。私は思ったんです。天職と言えるくらいの仕事を見つけて、やっと自分も一端の人間になれたかも、と思ったのに、やっぱり全然ダメでなにひとつ変われてない、結局自分はどうしようもない人間のまんまじゃないか、ってね。こんな人生いくら生きたって意味はないし、幸せになんかなれっこない。自分には未来なんかないんだ、仮にあったとしても苦しいだけの未来が延々と続いてるだけなんだ。で、よしっ明日死のうと決めて、最後のつもりのイベントを終えて、控え室に戻ってきたら……脱げなくなってたんです」
 私はうなずきもせず、ただ無言でトワックルを見た。トワックルは壁の時計を確認した。イベント開始までもう少し時間がある。
 「私は自分のことが憎かったんです」とトワックルは優しい声で続けた。「不甲斐ない自分のことが嫌いで嫌いで仕方がなかった。だから私はトワックルになれたんじゃないか、って思うんですよ」
 私は黙ってトワックルを見続ける。トワックルは小さく笑い、続ける。
 「着ぐるみと融合したのは普通の現象じゃないですよね、どう考えても。私たちの知る科学や常識を軽く超えちゃってますよね。でもとにかく、なんだか分からないけど、何か途方もなく大きな力が働いてこういうことになった――それは、いま私たちがそろって同じ夢を見ているのでもなければ現実です。いや、その力の正体なんて私には分かりませんよ。多分どこの誰にも分かりませんよねそんなこと」
 私は「確かに」と相槌をうった。トワックルは続けた。
 「しかし、なぜ他の誰でもなくこの私が着ぐるみと融合したのかについては――分かる気がするんです」
 トワックルは自分の言葉を噛みしめるようにゆっくりと話す。
 「私は死にたいと思い詰めるほどに、自分のことが嫌いな人間だった。私は自分自身を捨てようとしていたんです。だから、その大きな力がこの世界に働いた時、私は「人間の私」から「トワックルというゆるキャラ」へと変身できたんじゃないかと思うんです。根拠もへったくれもない話ですが私は確信しています」
 トワックルは小さく息をつき、「私はトワックルになれて満足ですよ」と明るい声で続けた。「人間でなくなったことに不満なんてありません。むしろ願ったり叶ったりです。私はいま人生を心から楽しめているんです。やっと本当の自分になれた気がするんです。……あなたはどうです?」
 唐突に問いかけられ、私は「え?」と声を出して固まった。
 「アザー=ルーになれて幸せですか?」トワックルは重ねて聞いてきた。
 私はうつむいた。私はアザーになれて幸せなのか――。
 ややあって私は首を振り、「分かりません」とだけやっと言葉を絞り出した。
 「そうですか」とトワックルは穏やかにうなずいた。
 鏡に私――アザーとトワックルが並んで映っている。私はハッとした。トワックルがぼんやりと輝いて見えるのだ。目の錯覚か――いや、なんとなく明るく光って見えるぞ。
 私のほうは逆にどことなくくすんでいた。汚れ具合ならむしろ私のほうがきれいで、トワックルのほうが薄汚れているはずなのに。(トワックルは多分、人間時代からあまり洗濯できていなかったのだろう。彼は協力者なしに個人で活動するゆるキャラだから)
 私は頭の中に砂が詰まっているような気分で思った。――トワックルは完全に全てを受け入れているんだ、ゆるキャラとして生きることに迷いがまったくないんだ。対して俺は自分がアザーであることを受け入れられていない。あれほどアザーになりたいと願ったくせに、なったらなったで今度は自分が人間だったことにこだわっている。自分とトワックルの輝きの差はそれだ、と私は思った。トワックルは過去の自分をかけらも残さず捨て去ったのだ。彼は今このときを謳歌して生きている。変身した自分を活き活きと楽しんでいる。中途半端な私とはまったく正反対に。
 「出番よ〜」ユキさんが空港スタッフと一緒に私たちを呼びに来た。時間だ。トワックルが「はいっ」と威勢良く答えて立ち上がり、私もワンテンポ遅れて立ち上がった。
 部屋を出て長い廊下をユキさんやトワックルと一緒に歩きながら、私は鬱々と考えた。
 確かに俺も自分自身のことが好きではなかった。何者にもなれないチンケな自分に心底気が滅入っていた。そしてトワックル同様「アザーになりたい」と強く願った。それはもう、そんなに強く何かを願ったことはないってくらいに強く……
 確かに今のこの状況は自分で望んだことだ。トワックルの言う何か大きな力に、俺の願いが完璧に聞き届けられた形だ。でも……
 でも、どうしても納得いかない気がする。確かに俺も自分のことを嫌っていたかもしれない。でも人間として消えたいとまでは思っていなかったのではないか? 俺は……
 そこまで考えて私は雷に打たれた。私は自分が大きな勘違いをしていたことについに気が付いたのだ。思わず立ち止まってしまい、ユキさんとトワックルに「どうしたの?」と振り返られてしまった。
 私は何事もなく再び歩き出したが、頭は真っ白、心はショックでぼう然としていた。
 「気がする」
 「かもしれない」
 「ではないか?」
 なんなんだそれは、と私は思った。俺は自分の気持ちさえ断定することができないのか。自分の気持ちさえ俺は何も分かっちゃいないのか。
 そうか、やっと分かった、と私は心でつぶやいた。そういうことだったんだ。
 俺は自分のことを忘れたんじゃないんだ。「忘れた」だなんてとんでもない思い違いだ。
 俺は元から自分のことなんか何ひとつ分かっちゃいなかったんだ。俺には確実なものなんて、最初からひとつもありはしなかったんだ。自分の気持ちさえ理解できない人間。何も分からない人間。自分が何者かもわからない人間。何者でもない――。
 そうだ。
 俺は最初からゼロだった。

 ドアを開けてターミナルに出ると、私たちは大歓声に迎えられた。私とトワックルは示し合わせたかのように息のあった動きで走り出し、客席とステージの間のスペースを右へ左へ大騒ぎして、みんなをさらに沸き立たせた。乗っけからいい盛り上がり。イベントは最高の滑り出しだ。
 だが特設ステージに駆け上がった私の体と心は、完全に離れ離れになっていた。
 体はいつものように快調に動いている。ジャンプのキレも高さも抜群に良いし、隣のトワックルとのアドリブのコンビネーションも完璧だ。だが私の心はこれ以下はありえないというくらいに沈み、乱れていた。心は身体の動きにまったく関知せず、体は心と無関係なところで勝手に動いていた。
 私は心の中でひたすら繰り返していた。俺は誰でもないんだ。何者でもないんだ。最初から何者でもなかったし、これからも何者でもないんだ。この世に生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、俺は俺にとってすら何者か分からない体たらくでただ生きていくしかないんだ。
 私はトワックルの動きに合わせてターンを決めたり、トワックルにもこちらの動きに合わせてユーモラスな奇声を上げてもらったりしながら、そんなふうにひたすら心を鬱屈させた。お客さんも大いに沸いてくれて歓声も普段の倍以上だったが、私の耳に彼らの声は届かなかった。アザーとトワックルのコラボは一+一が三にも四にもなる盛況っぷりで始まり、そのままのテンションで続いていたのに、私はどん底だった。
 飛び跳ねながら、私は心底思った。つらい。苦しくてどうしようもない。いっそ消えてしまいたい。
 私の身体はアザーになったが、そのアザーを自分だと思うことができない。「アザー=自分」と実感することができない。さりとて、「アザーである」ということの他に、どんなアイデンティティも私は持っていない。そのアザーが自分自身と思えないなら、私は何者でもないとしか言いようがない。
 でもそれは今に始ったことではないのだ。ずっと前から私は誰にとっても――私自身にとっても、何者でもなかった。確かに私はかつて生物学上ではニンゲンだったかもしれないが、精神的な意味では人間ではなかったのだ。少なくとも独り立ちしたイッパシの人間ではなかった。不明瞭な無数の影のひとつに過ぎなかった。似たような影の中に紛れた、輪郭さえも曖昧な影のひとつに過ぎなかった。
 音楽に合わせてステップを踏みながら、心がバラバラに吹き飛んでしまいそうな悪寒を覚えていた。それでも体は自分でも信じられないほど機敏に、正確無比に、わずかなミスもなく動いていた。
 目の前に蘭子がいてくれたら少しは気持ちも違っていたかもしれない、と私は思った。どんなに心が暗く沈んでも「蘭子の笑顔を見たい」という欲求があれば、「自分自身」というものを感じることもできたかもしれない。そして少しはイベントも楽しめたかもしれない。
 だが居並ぶ観客の中に蘭子の顔はなかった。大勢いるので全ての顔をチェックするわけにはいかなかったが、彼女はいつも最前列から三列目には立っているのだ、見つけられなかったことはこれまで一度もない。
 私は念のため6列目までチェックした。だがいなかった。蘭子の怜悧な顔はどこにも見当たらなかった。
 さらに奥の列も探そうと、私は足かくように視線を左右に振った。だが遠すぎる。観客の顔の細かなつくりまでは判別できない。
 頭の芯が冷えていく。客の顔が全部同じに見えてくる。どれも抽象的な笑顔。私とトワックルの愛らしいコンビネーションにはしゃぐ笑顔。笑顔。笑顔。笑顔の洪水。ぐちゃぐちゃに混じり合い、乱れ合体した笑顔の嵐。
 蘭子の無表情が恋しかった。恋しくて苦しかった。
 トワックルと並び立ってユキさんのMCにうなずきながら、私は心ここに在らずの気分で考えた。
 蘭子はどうしたんだろう。学校は夏休みのはずだから、前より頻繁に来てくれると思っていたのに。休み中、ここぞとばかりにバイトをたくさん入れたのか。それとも受験勉強にいよいよ本格的に集中し始めたのか。いや、いくら忙しくても一度くらいは来られると思うんだが。
 なら、あるいは、アザーに飽きてしまったのか……
 考えても仕方がないと分かっている。蘭子の考えは蘭子にしか分からない。私は蘭子ではない。だが気持ちがあまりにへこんでいるので、暗い想像を止めることができない。私を癒してくれるはずの蘭子の無表情と若干の笑顔に、すがりつきたくてたまらなくなってしまう。
 そんなことを考えていると、心と、表面上は完璧に仕事をこなす体がますます分離してゆく。
 やがてイベントは終わりに差し掛かる。ラストダンスを終えて、私とトワックルは飛び跳ねながら観客に手を振る。トワックルは奇声を上げながら、私は可愛さを振りまきながら。
 いよいよステージを降りる段になって、私は「あっ」と声を上げて立ち止まった。
 いた!
 蘭子だ。蘭子がいる。ロビーの遠くからこちらへと小走りに駆け寄ってくる。息を切らして客の最後列にくっつく。間違いなかった。私には分かった。あんなに遠いのに、はっきりと蘭子だと分かった。あの真っさらな無表情。笑顔の洪水の中で完璧に浮き上がっている無表情。
 蘭子は残念そうに肩を落とし、ステージを去ろうとしている私をながめている。
 「アザー、どうしたの?」
 ユキさんに言われてハッとし、私は再び歩き始めた。そしてユキさんやトワックルに押されるようにステージを降り、廊下に続くドアへ向かった。名残惜しく客の方を振り返りながら。
 周りの人たちには私が最後までファンに愛想を振りまこうとしているように見えただろう。だが私は蘭子だけを見ようとしていたのだ。ステージを降りて遠くまで見通せなくなっても、私は人垣の向こうにいる蘭子を求めて何度も何度も振り返った。

 イベント終了後、私はすぐに控え室を出て、ロビーへ向かった。さっき入ったばかりのドアから出て、ステージの裏手から広場へ回る。広場にはまだ大勢の人間がいた。手を振ってくるファンたちに軽く手を振り返しながら、私は蘭子を探した。
 蘭子はロビーの隅にいた。こちらへ背を向けて、たった今滑走路に降りてきたばかりの飛行機を眺めて立っていた。
 私が近づくと、声をかけるより先にこちらを振り返り、無表情をパッと笑顔に変える。
 「アザー!」と蘭子は言って両手を胸に持っていった。私は片手を上げて、「久しぶりだね」と言った。
 「うん、夏祭り以来」と蘭子は答えた。そうだった、まだアザーと融合する前のことだ。無茶をしてユキさんにめちゃくちゃ怒られた日。ついこの間のことなのに遠い昔のようだ。
 「アザー、あの時は本当にどうもありがとう」
 蘭子は丁寧に頭を下げた。
 「あんなふうに会いに来てもらえて、すごく嬉しかった。とっても元気出た」
 見慣れない満面の笑顔に戸惑いつつ、私は心が急激に満たされてゆくのを感じた。
 「君が悩んでるって知って、少しでも元気付けたかったんだ」と、私は幸福な気持ちで言った。
 「喜んでもらえたようで、良かったよ」
 「一生忘れられない思い出になったよ」と蘭子は言った。「あの後、しばらくぼうっとして、夢だったのかなって思った。こんなこと現実で起こるなんてあり得ない、って。でも神社を出ても夢から覚めなかった。電車に乗っても、道を歩いても、家に着いても覚めなかった。お風呂に入って落ち着いて、やっと今日のことは現実だったんだ、って納得して、何度も何度もガッツポーズした」
 私はうなずきながら心の中で微笑んだ。蘭子がひとりでガッツポーズしているのを想像すると、おかしいと同時に可愛らしい。
 「はじめてアザーを見た時からわたし、大好きだったんだよ」と蘭子は続けた。「わたし、他のゆるキャラとか可愛いグッズとかあんまり興味ないんだけど、アザーだけは、なぜかすっごく惹かれて、すぐに大ファンになっちゃった。可愛くて健気で面白くて、大好きなの」
 蘭子は饒舌にしゃべる。
 「部屋中、アザーのグッズでいっぱいなの。ぬいぐるみとかクッションとかポスターとかカップとか……」
 「僕に囲まれてるんだね」と私は言った。蘭子はいかにも素直そうに、うんとうなずいた。
 「アザーに囲まれてると落ち着くの。わたし、いつもイライラしたり落ち込んだりしてばっかりだけど、アザーががんばってるのを想像すると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。とっても癒されて心があったかくなる」
 蘭子は笑いを漏らした。「アザーがキャラクターになってるレモンサイダーあるでしょ? 前のCMに出てた女子高生って、実はわたしなんだよ」
 私はうんうんとうなずいた。
 「わたし、女優とかタレントになりたいって願望全然ないから、前はCMに出たことも何とも思ってなかった。だけど、アザーが新しいキャラクターに決まった時、わたし飛び上がって喜んだよ。わたしの後にアザーがCMキャラクターになるなんて、なんて素敵なんだろうって。言葉にできないくらい嬉しくて、アザーとの運命を感じた。つながりができたって気がしたの」
 私はうなずいて言った。
 「僕も蘭子さんの後を継げてとっても嬉しいよ。僕らは同じCMに出た、大切な仲間だね」
 蘭子は顔をくしゃくしゃにして笑い、真っ赤になって何度も小刻みにうなずいた。
 「嬉しい! うん、仲間だね。わたしたち、大切な仲間だね! 今日、またこうしてわたしのところへ来てくれてありがとう! 今も夢見てるみたいな気持ちだよ、アザー」
 「最近、姿を見なかったからちょっと心配してたんだ」と私は言った。「今日は久しぶりに来てくれたのが嬉しくて、ついきみを探しちゃった」
 「わたし実は、前パパに会いにドイツへ行ってたの」と蘭子は答えた。
 おおっ、と私はびっくりしつつうなずいた。ドイツ。それではイベントに来られないはずだ。
 私は蘭子に尋ねた。
 「お手紙にもお父さんのこと書いていたけど、会ってみてどうだった?」
 「仲直り、できた」と蘭子はまっすぐな顔で答えた。「バイトで貯めた貯金をはたいて、前パパには事前に遊びに行くからねって簡単な連絡だけして、勢いで行ったの。前パパ、すっごく驚いて、ちょっと戸惑ってた」
 私は「そうだろうねえ」と相槌をうった。
 「時間はたっぷりあったから、もう一度わたし、自分の希望を一から話したの。もう否定されても構わないって気持ちで、冷静に話した。認めてはもらいたいけど、もし無理ならもういいや、って。私の人生なんだから、私の好きにやる、そのことを伝えられればそれでいいや、って。わたしが何を考えているのか、それを前パパに知ってもらえればそれでいい。そうしたらね、すごく落ち着いてしゃべれたよ。前は少し否定されるとカッとなっちゃって、頭が熱くなって普通に話すことができなくなって、きつい言い方になって。そうしたらますますパパのほうも意固地になっちゃって、話し合いになんて全然ならなかったんだ。でも、わたし、パパの考えは関係なしに、わたしが真剣に考えてることを話すことができたら、後はもう否定されたまんまでもいいって開き直ることにしたの。わたし、自分の気持ちに集中したんだ。自分以外の人の意見で自分の気持ちを左右するんじゃなくて、自分で自分のことを左右しようって……当たり前のことなんだけど。アザーに元気をもらえたおかけで、やっと覚悟を決めることができたんだよ、自分の人生を自分で決める覚悟」
 私はうなずきながら、前に蘭子が私に話してくれたことを思い出した。彼女は言っていた。《「誰かが喜んでくれるのが力になるからやる」って考え方は否定しないけど、一歩間違えたらそれって、自分の意思でなく他人の評価に左右されながら生きていくことになる》……。
 蘭子は、もともと自分の中にあった思いを再発見したのだ。
 「前パパさんはきみの気持ちを聞いて、なんて?」と私は尋ねた。
 「認めてくれた」と蘭子は言って微笑んだ。「というか、わたしのしつこさについに折れたっていう感じ。否定しても否定しても反論もしないで自分を押し通し続けるものだから、前パパも観念したというか」
 私はうなずき、心で微笑んだ。
 「でもひとつだけ、認める条件というか、頼み事をされた」と蘭子は続けた。
 「頼み?」
 「《もし、どうしようもなくつらくなったり苦しくなったら、僕にも相談してほしい。答えなんて出しようのないことでもいいから、遠慮なく愚痴でもなんでも聞かせてほしい。お前は僕の娘だ。僕はいつだってお前のことが心配でたまらないんだよ》って。わたしはなんでも話すって約束した。つらくなったら、ちゃんと弱音を吐く。無理しすぎない。がんばりすぎない、って」
 「それがいいよ。絶対それがいい」と私は答えた。
 「うん」と蘭子はうなずいた。「前パパの気持ちも分かったよ。私の夢を否定していたのだって私を思ってのことだもの。でも、ちょっと過保護じゃないかなと思うけどね」
 蘭子はすっきりとした、以前より大人びた顔で私を見た。
 私も蘭子を見返した。
 蘭子は「アザー、本当にありがとう」と改めて言った。「勇気と勢いをもらえたのはアザーのおかげ。アザーがわたしの背中を押してくれたんだよ」
 私は鼻の辺りをかいた。アザーの体がかゆみを感じることなどないのだが、むずがゆい気がした。
 「あの日、アザーに元気付けてもらえたから、もうなんでもできる、怖いことや苦しいことなんか関係ない、わたしは自分のやりたいことをなんだってやってやる、って思えたの」と蘭子は続けた。
 それから彼女は不意に私に顔を近づけ、小声で言った。
 「実は今日、前パパと新パパと、三人で来てるの。ほら、あそこ」
 蘭子はロビーの奥のオープンカフェを指差した。二人の中年男性が丸テーブルを挟んで座っている。穏やかな雰囲気で、片方がカップ片手に何かしゃべり、もう片方がゆっくりうなずいて聞いている。ただの友人同士に見える。彼らが蘭子の二人の父なのか。
 「日本には、夏季休暇を取った前パパと一緒に帰国したの。旅費も全部出してもらっちゃった」と蘭子は言った。「で、三人でお出かけしたいって、わたしがわがままを言ったの。変な状況になっちゃうけど、わたしは三人で出かけてみたかったの。前パパと新パパが、ママを挟んでビミョーな関係なのはもちろん理解してるよ。だから、半分本気、半分冗談で頼んだんだ、二人が嫌だって言ったら、無理強いなんてしないつもりだった。けど、二人ともオッケーしちゃった。お互いに相手がどういう人か、知りたかったのかも」
 「なんだか、すごく平和な感じ」と私は言った。
 蘭子は微笑んだ。
 「車の中ではだいぶ気まずかったけど、少しは打ち解けてくれたみたい。良かった」
 蘭子は二人の父から私へと目を戻した。
 「全部アザーのおかげ。こんなに幸せな気持ちでいられるのは、アザーのおかげだよ」
 私は嬉しかった。着ぐるみの身体がむずがゆい錯覚を起こすほどに嬉しかった。それは掛け値なしの事実だ。だが、同時にさみしくもあった。
 アザーのおかげ。アザーが元気付けてくれた。アザーが背中を押してくれた。――
 アザーに関することばかり。蘭子もやはり、アザーのことしか見ていないのだ。
 私は、蘭子に人間時代の私について尋ねることができなかった。残念だが聞くまでもないだろうなと思ったし、聞いてみてはっきり「知らない」と言われて、この穏やかな気分が壊れてしまうのも嫌だった。蘭子こそ誰よりもアザーだけを見つめていた人間だ。蘭子にとっては最初からアザーこそ救い主。アザーこそ平和の象徴。人間の私が介在する余地はない。どこにも――
 蘭子が背筋を伸ばし、手を後ろに組んで周囲を見回した。
 「そう言えば」と蘭子は言った。「よく声をかけてくれたスタッフさんは元気にしてる?」
 私は息を止めた。
 よく声をかけてくれたスタッフ? まさか俺のことか?
 私はゆっくり深呼吸した。吐く息が震える。
 「どの人のことだろう?」と私は慎重に尋ねた。ぬか喜びはごめんなのでちゃんと確認しなければ。「短期バイトの人もいて、結構入れ替わりがあるから」
 「多分三十歳はいってないくらいの、男の人」と蘭子は言い、続けてひとつの名前を告げた。
 私の頭の中で照明弾が炸裂した。頭蓋骨の荒れ野に太陽が昇ったかのごとき光。俺の名前だ! と私は思った。いくら考えても思い出せなかった名前だ。それを蘭子が当たり前のように口にしてしまった。
 全身が興奮と緊張で熱くなる。
 だが私はあえて分からないふりをした。蘭子ならもっと私に関するあれこれを覚えているかもしれない。知らないのを装って、いろいろ聞き出したい。
 「うーん、ちょっと記憶が曖昧で……」と私はとぼけた。「どんな感じの人だったか覚えてるかな? 細かいことでもいいんで教えてもらえる?」
 「背はこれくらいで……」蘭子は自分の頭の上に手をかざした。
 うんうん、と私はうなずいた。
 「どっちかというと痩せ型で、髪は短めの黒髪で、こっちからこう分けてて……」
 蘭子は身振りで髪型を表現する。
 「目は細めでちょっと鋭いけど、笑うと穏やかそうな感じ」
 うんうん。私はうなずく。
 「顔は少し面長っぽいかな……。あこがシュッとしてて」
 私はうなずく。
 「そう言えば、しゃべりながら指を顎にくっつける癖があった」
 私はうなずきながら、体が震えてくるのを必死に抑えていた。俺だ、と私は思った。俺だ、俺だ、間違いない、俺だ。
 蘭子の口からよどみなくあふれる一人の男のイメージ。それはまさしく私だった。私以外の何者でもなかった。
 「そう言えば、黒っぽい大きな時計をいつもしてた。スポーツやる人がつけてそうなやつ」蘭子は続ける。「しゃべり方はとても穏やかだった。ゆっくり考えながらしゃべる感じで、話しやすかった」「声は低いけど、ときどきびっくりしたりすると高くなった」「こっちがしゃべってる時はこっちの顔を真正面に見るけど、自分がしゃべってる時はうつむきがちで……ちょっと照れ屋だったのかも」
 胸が熱くなる。この気持ちをどう表現すればいいのか分からない。蘭子の言葉によって私自身が少しずつ、他でもない私の中で形作られてゆくのだ。誰よりよく知っている人物。自分自身。既知の感覚が強くあるにもかかわらず、しかしまったく知りもしない人間について教えられているような気分にもなる。私は私に再会していた。同時にはじめて出会ってもいた。矛盾するが、よく見知った懐かしい人間と、私は生まれてはじめて顔を合わせていた。
 「イベントの後、突っ立ってる私に何度か声をかけてくれた」と蘭子は言った。「アザーを見終わった後は、わたしいつも夢から覚めたような感じでぼうっとしてたから、「なんだろうこの子」って心配になったのかも」
 うん。私はゆっくり静かにうなずく。
 「優しい人だった、とてもとても」
 蘭子の噛みしめるような言い方に、私はうなずくのもやめて聞き入った。
 「バイトのこととか夢のこととか、しょうもない長話をじっくり聴いてくれた。茶化したり、冗談を言ったりしないで、真剣な顔で」
 きみを尊敬する気持ちがあったからだよ、と私は心の中で言った。夢に邁進するきみがまぶしくて、かっこいいと思ったからだよ。
 「アザーにわたしが長い手紙を――愚痴ばっかりの手紙を送ったでしょ。あの時も、アザーの言葉をあの人が伝えてくれたの。自分でも手紙を読んだんだって。わたしが悩んでることを知って、すごく共感して、慰めてくれた。自分のことのようにつらそうな顔して――。痛みを分かち合ってくれたような気がして嬉しかった」
 私も嬉しい。そんなふうに言ってもらえて私こそ嬉しい。嬉しくて胸がいっぱいだ。
 私の中に私がいる。蘭子が思い出させてくれた、アザーではない人間の私がいる。私には見える。確固たる私の姿形がはっきりと頭の中に見える。
 私はついに堪えきれなくなり、涙を流した。一瞬置いて、ハッとした。
 泣いている――?
 私は泣きながら驚いた。どん底に落ち込んでも涙ひとつ流せなかった私が、いま泣いているのだ。しかも――鼓動がまた激しくなる。
 これは――この感覚は――着ぐるみだ!
 私は、着ぐるみの中で泣いているのだ。
 ああ、と声にならない声を出して、私は打ち震えた。なんていうことだ、俺は……アザーの中にいるじゃないか。
 久しぶりの感覚。「中にいる」というこの感じ。暑苦しくて重苦しい、スーツアクターの感覚。涙がとめどなく溢れてくる。アザーの目からでなく、その中にいる私自身の目から。
 「俺がいる」と私はつぶやいた。くぐもった、ほとんど音にもならない声で。「俺は人間なんだ。アザーじゃない、人間なんだ」
 どんなに私がグズグズと涙を流しても小声で独り言をつぶやいても、目の前の蘭子は普通にしゃべり続けている。彼女には私の涙が見えていないし、声も聞こえていないのだ。私はアザーの中で泣き、アザーの中でごく小さい声を出しているに過ぎないのだから。
 「アザーと同じくらい、あの人にも感謝してる」と蘭子は言った。「あんなふうに共感っていうか、同じ目線に立ってくれた大人の人、初めてだった。あの人からも、私は勇気をもらったんだ。本当に嬉しかった。また会ってお礼を言いたい。前パパと仲直りできたことを報告したい」
 私はぎくっとした。
 そうだ……! なんてこった、脱げるんだ!
 そう。着ぐるみを「着ている状態」のいま、俺はアザーを脱ぐことができるんだ、と私は気付いた。アザーの頭を外せる。私の顔を見せることができる。そうしたらきっと蘭子は驚き、そして喜んでくれるだろう。
 ――いやダメだ。それはダメだ。ああ、くそったれ。なんてこった、ちくしょう。
 私はアザーの中で煩悶した。
 私には分かったのだ。
 いま脱いだら自分は二度とアザーに戻れない――。
 そして、アザーでいることを選択をしたら人間には戻れない――。
 なんの根拠もない。だが、トワックルが「着ぐるみと融合した理由」を根拠のないまま確信できたように、私も強烈な確信をもって分かった。脱いだら終わる。脱がなくても未来が決定する。私が今いるのは最後の分水嶺だ。選択できる機会はたった一度きり。今だけ。間違いない。
 この感覚はうまく説明できないが、私の頭は明晰だった。最初から「このラストの選択肢」についての知識が脳に組み込まれていたかのように、明確に理解できた。
 どうする? どうすればいい?
 私は逡巡した。アザーのままでいるか――しかし人間の自分への未練は強くある。では人間に戻るか――いや、アザーになってからの方が幸せだったのは間違いないのだ。
 くそっ、どうすればいいんだ?
 「アザー、思い出せた? あの人のこと」
 蘭子が尋ねてくる。私は蘭子を見た。何て答えればいいんだ? どうすれば……
 迷っている間にも、中にいる感覚が薄れていくのが分かった。なんてこった、制限時間まであるのか?
 時間がない。早く心を決めなくては……
 「彼は、そのぅ……」私はしどろもどろに言葉をつむぐ。「今は、あのぅ……ちょっといないというか、その……」
 私が頭を沸騰させながらしゃべっていると、蘭子がいたずらっぽく微笑んだ。
 「いないんだ、そっか。ふーん。ねえ、あのさ」そして私を上目に見て言う。「アザーって、もしかして着ぐるみなんじゃない?」
 私は息を飲んだ。蘭子は続けた。
 「もし私の想像が正しかったら……。アザー、ちょっと頭を取ってみて」
 …………。
 私は――ゆっくり息を吐き、言った。
 「残念だけど僕はアザー=ルーさ。アザーはアザー。中の人なんていないんだよ」
 蘭子は数秒私をじっと見つめ、ふと目をそらし、小さく笑った。
 「そうだよね、フフ、ごめんなさい。なにを聞いてるんだろ、わたし。あの人があなたの中にいるんじゃないかって思ったの」
 「謝らないでいいよ」私は首を振って言った。
 私は選択した。沸騰していた頭の中に静やかな凪が訪れる。もう後戻りはできないが、穏やかな気持ちだった。
 私は少し考えてから言った。
 「蘭子さん、彼のこと気になるよね。それなら、ちょっと彼のことを話してもいいかな」
 「すごく気になる、聞かせて」と蘭子は私を見た。
 「どこから話せばいいかな……」私は考え、ゆっくり言葉を探しながら話し始めた。「彼には……ここで働いてる間、いやもっと前からいろいろと悩みがあったんだよ」
 「悩み?」と蘭子は問い返した。
 「簡単に言うと、彼は何もかもうまくいかなくなって、人生がもうダメになりかけていたんだ」と私は続けた。「自分は一体何をすればいいのか、どんなことをして今後生きていくべきなのか。いろいろな事情が重なって、彼はそういうことが何も分からなくなっていた。自分のすることが分からないというのはとても苦しいものだそうだよ。蘭子さんのような若い人には想像しづらい話かもしれないけど」
 「ううん、大丈夫」
 「彼は毎日ぼんやりと、自分でも何のために生きているのか分からないまま生きてた」と私は続けた。「なんて言うか……彼は自分というものを完全に見失ってしまっていたんだ。日々がただ無駄に過ぎていて、その無駄に過ぎているってことさえうまく実感できない感じで……ただただ無気力に毎日を過ごしてしまって、どんどん自分の存在が薄くなっていって、空気に紛れて消えてしまうような気がしていたんだ。彼は自分自身のことをそんなふうに考えていた」
 「本当に?」蘭子はしばただいた。アザーを相手にしているからか、それとも彼女の中で何かが変化したのか、今日はいつもより表情豊かだ。「……わたしには普通に元気そうに見えた。そんなに追い込まれてるようには見えなかったけど」
 「きみにはそういうところを見せないようにしていたんだよ」と私は言った。「彼はきみに敬意を抱いていたからね。自分と違ってしっかり夢や目標を持って生きているきみに、憧れのような気持ちを持っていたんだ。未来を自分の手で切り拓こうとしている蘭子さんの姿が彼にはとてもまぶしく見えていたんだよ。そういう人に、情けないところを見せたくなかったのさ」
 蘭子はただ黙って赤くなった。私は続けた。
 「彼はきみとは正反対の人間だった。未来に希望を持つどころか、彼は自分の人生に絶望しかかっていた。怖がっていたんだ、生きていくことを。親とも死別していたし、守るべき家族もいない。いろいろあって友達や恋人も失った。もう自己紹介さえ満足にできないくらいに、彼は自分が何者なのか分からなくなっていた」私はしゃべりながら思わずため息をついた。「でも、そんなどうしようもない現状より恐ろしかったのは未来なんだ、と彼は言っていたよ。未来もずっとこのままなんじゃないか? この無気力で、一人前の人間になんてなれっこない苦しみを死ぬまで味わい続けなきゃいけないんじゃないか? そう思うと恐怖やイラ立ちで頭が変になりそうだったそうだ。このままただ無意味に年老いていくのかと思うと本当に怖かった、って。そんな時に前の仕事をクビになり、彼はここで働きはじめたんだ」
 蘭子はうつむいた。
 「そうだったんだ……。そんなに大変だったなんて知らなかった。わたしには、ただ優しいお兄さんっていうふうにしか思えなかったのに」
 私は心で微笑んだ。
 「でもね、ここで働きはじめてからの彼はとっても生き生きしていたんだよ」と私は言った。「それまで味わったこともない喜びを感じていたんだ。みんなが僕を応援して、いっぱい歓声をくれると、彼も自分のことのように嬉しくて、幸せな気持ちになれたんだ」
 蘭子は目を大きくしてうなずいた。
 「そういう気持ちになるのは彼にとって生まれてはじめてのことだったんだ」と私は続けた。「それまでの彼は充実感とか喜びとか、そういう感情とはほとんど無縁に生きていた。自分のことをただひたすらちっぽけな、取るに足らない人間だと信じていたからね。何者でもない、その他大勢の一人。なんの取り柄もないし、人脈もないし、一人で孤独に打ち勝てるような強さもない。ただ流されるように人生の時間を浪費して、真っ暗で代わり映えのしない未来へ向かって年老いていくだけ。彼は自分の人生をそんなふうに捉えていた。でもこの仕事を始めて、多くの僕のファンや、スタッフさんと出会って一生懸命になって、やっと生きることは楽しい、自分のいるべき場所はここだ、ここにいることが自分にとっての幸福なんだって実感できるようになったんだよ」
 蘭子は真剣な顔で聞いている。私は続けた。
 「特にきみ。蘭子さんには本当に力をもらえた、と彼は言ってたよ。僕への応援の気持ちや夢のことを知って、彼はもっともっと仕事をがんばりたいって思ったし、もっともっと仕事が楽しくなったんだ。そしてきみが深く悩んでいることを知って、その支えが僕なんだと分かったとき、彼の中には使命感のような気持ちまで芽生えたんだ。自分のやるべきことと、自分のやりたいことが彼の中で一致したんだよ。自分が楽しくてやってることが、他の人の楽しさへと広がっていく……それはとても幸せなことなんだ」
 蘭子は小刻みにうなずいた。分かる分かる、といった感じに。だが、その顔が曇る。
 「なら、どうして今いないの?」
 私はうつむいた。蘭子は続ける。
 「そんなに充実していたなら、いまここにいなきゃおかしいよ」
 私は言葉を探し探し言う。「それを説明するのは、ちょっと難しいんだけど……」
 「難しくてもいいから、聞きたい」蘭子はすがるような目で私を見た。
 私はうなずいた。顔を上げて続ける。
 「いま言ったように、仕事の楽しさや充実感は、彼にとってすごく新鮮で、すごくステキな感覚だった。でもね、彼はいつしかこんなふうにも考えるようになったんだ。『いくら自分ががんばったところで、脚光を浴びて人気を得るのはアザーばかりで、自分が人から重要視されるわけじゃない』」
 蘭子は眉根を寄せた。憮然とした顔つきだが、何も口を挟まない。
 「彼は次第に悲しい気持ちに心を支配されるようになっていった」と私は続けた。「彼の中で、野心というか贅沢な心というか、自分も人気の存在になって、みんなにキャーキャー言われたい、っていう欲が生まれたんだね」
 蘭子は私をじっと見上げている。
 「彼はアザー=ルーになりたかったんだ」と私は言葉を噛みしめるように続けた。「スタッフとして僕を下支えして、僕がみんなにたくさんの歓声を浴びるのを見ながら、彼自身も僕の立場に立ってみたいと思うようになったんだ。その感情は日毎大きくなっていったそうだよ」
 「アザーになりたかった……」蘭子はつぶやいた。
 私は続けた。
 「そう。だけどね、そう思ったところで舞台に立つための才能や芸や見てくれの良さや面白さがあるわけじゃないから、どうすることもできなかった。自分はアザーのようにはなれない。アザーを裏から支える以外にできることなどない――。そんなふうに思えば思うほど、ますます自分のちっぽけさが身に沁みてしまって、彼の悲しみは大きく膨らんでいった。けれど、いくらつらくなっても、すんなりと別の道や仕事を探すわけにもいかなかった。何と言っても、彼はここで働くことほどの充実感を、それまでの人生で感じたことなんてなかったんだからね。その充実感はちょっとつらくなったからって簡単に手放せるようなものじゃなかった。それに、どんなに悲しみが大きくなっても、蘭子さんたちが僕を応援してくれるのを自分のことのように嬉しく思う気持ちは、嘘じゃなかった。その気持ちが彼の中で消えることは決してなかったんだ」
 蘭子はじっと唇を結んでいる。
 「彼はこの仕事を楽しく感じる心と、むなしく感じる心の間で板挟みになっていたんだ」と私は続けた。「僕を――アザーを支えてくれるスタッフとして働くのはやりがいがあるし楽しい、けどすぐ近くにいるアザーが光を浴びれば浴びるほど、ますます自分が真っ暗な影になる気がして苦しくなる。「自分は何者でもない、他の人間と区別もつかない、その他大勢の一人に過ぎない」「まるで、その辺に転がってる石ころのような、あってもなくても何ひとつ変わらない存在」「アザーのような人気者と違って誰にも顧みられないチリのような存在」。彼の中のそういうネガティブで卑屈な思いは、日増しに大きくなっていった。彼はそんなストレスにだんだん耐えられなくなって、息もできないような気分になって……仕事が充実すればするほどに――僕の人気が高まれば高まるほどに、彼は自分でも「自分は意味ある存在だ」と感じることができなくなっていった。彼はそのことにすごくイラ立ち、焦り、そして悲しんでいた」
 「それで、いなくなってしまったの?」
 蘭子はいつもの無表情に戻っている。だが、その目には涙がいっぱいに溜まっていた。
 私はうなずいて続けた。
 「彼は「アザー=ルー」のチームの一員であることに疲れてしまったんだ。強烈な光のそばで、光があるからこそ真っ暗な影の中に沈み込んでいく自分に耐えられなくなっていった。だから彼はいなくなったんだと思う。自分で自分のことをきちんと認められて、自分が何者なのか知ることができるまで、休息が必要になったんだと思う」
 「とってもいい人なのに。すごく優しい人で、道端の石ころなんかじゃないのに」
 蘭子の目から涙がポロポロこぼれる。
 「影なんかじゃないのに。私にはアザーと同じくらいの光だったのに。とっても素敵な人だったのに。とっても良い人だったのに」
 「そうだね」と答えながら私ももらい泣きしそうになったが、ぐっと堪えた。
 「きみの言葉、彼に伝えておくよ」私は蘭子の頭をそっと撫でた。「蘭子さんにとって光だったってことを知ったら、彼はものすごく喜ぶよ。そんなふうに自分のことをよく見ていて、認めてくれていた人がいたことを、心の底から喜ぶはずだよ」
 「別に大したことは言ってない」
 蘭子は涙をぬぐいながらそっぽを向く。照れ臭そうだ。
 「確かに大きなことじゃないかもしれない」私はうなずいた上で、でもね、と続けた。
 「誰にとっても、さりげない良さをちゃんと見てもらって認めてもらえるのって、すごく嬉しくて尊いことなんだよ。君は前、言っていたよね? 表面的なかっこよさや美しさではなく、内なる良さを見極められる人間になりたいって」
 蘭子はまだ涙の光る目で私を見る。私は続けた。
 「君は、きっともうなっていると思う。君は彼の良さに気づいてくれたんだから」
 蘭子は涙目のまま満面の笑顔になった。輝くような美しい笑顔だ。
 私は指を立てて(立てる指がないデザインなので立てたつもりで)言った。
 「案外、彼はすぐに戻ってくるかもしれないよ。きみの言葉を伝えたら喜んで飛んで帰ってくるかもしれない」

 カフェから出てきた二人の父が「そろそろ行こう」と蘭子を呼ぶ。蘭子は小走りにかけて、二人の間に収まる。そして私を振り返り、「次のイベントは、スタートから来るから!」と大きな声で言う。
 私はうなずいて手を振った。蘭子が手を振り返し、両隣の父が揃って私へ頭を下げる。ひとりは深々といかにも生真面目そうに。もうひとりは軽くぺこりと爽やかに。

 三人が見えなくなり、私はゆっくり歩き出す。イベント広場の裏のドアを開け、控え室へ続く廊下に入ると立ち止まって天井を仰いだ。
 私は頭に両手をかけ、それをゆっくり引き上げた。アザーの頭はあっさり抜けた。
 長い長い息を吐いて、私は頭を振る。髪の毛から汗が飛び散る。私はアザーのままの手で私の顔に触れた。目、鼻、口、耳。私の顔だ。久しぶりの。
 私は人間だ。もう着ぐるみではない。人間の世界に戻ってきた。
 「脱げないよなぁ、彼女の前じゃ」と私は苦笑し、つぶやいた。
 「俺はプロのスーツアクターだもんな」
 私はアザーの頭を抱えて歩き出した。廊下を歩く間私は、まぶしい光が頭上に降り注いでいるのをずっと感じていた。(了)

着ぐるみアウトライン

着ぐるみアウトライン

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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