bird of passage.

1.Monstar.

1,Monster.




 阿鼻叫喚の地獄絵図を、いつも遠くから眺めていた。
 沈んで行く夕日に照らされる戦場では今も多くの人間が血を流し、殺し合う。放置された死体が腐り、性質の悪い疫病が蔓延しても影響を受けることのない高台で、まるで天上から下界を見下ろす神々のような心地で、驕り高ぶっていた。目と鼻の先にある地獄を現実感の帯びない目で愚かしいと、無関係だと思い込んでいた。毎日毎日飽きもせず、下らない争いで傷付け合う彼等を見下し、理解しようとも思わなかった。
 戦争は日常の一部だった。と言っても、自分が其処に直接関係する訳ではなく、寂れた山村から見下ろす平野で繰り広げられる戦争をただ見下ろす日々だった。戦火の届かぬ場所から彼等を哀れ蔑むだけの毎日。ルビィにとって、戦争とはそういうものだった。
 今年で十六になるルビィの暮らす村には、掟があった。それは余所者を受け入れてはならないというものだ。しかし、掟が出来てからこの村を訪れた者など一人としていない。細々と自給自足する自分達の存在は世界にとってどれ程のものなのだろうか。自分も何年かすれば村の中の何処かに嫁に行くのだろう。そうして子を産んで、年を取って行く。先人の引いたレールの上を歩いて行くことに何の違和感も覚えず、迷うことも無く、未来への希望も諦観も無く、田畑を耕し家畜の世話をする日々。
 それを転機と呼ばず何と呼ぶのか。


「まずいことになった」


 新月の闇の中で行われる会合は、村の恒例行事だった。村の権力者を中心としたその会合でどんな話題が持ち上がるのか、ルビィは知らないし興味も無い。知らされぬことは知ってはならないことだ。掟に背くことは死ぬことだ。恐怖を感じたことはない。日常生活において、掟に背くことなんて有り得なかったからだ。
 囁き合う人々の声が扉の向こうから微かに聞こえていた。緊迫する空気は扉越しにも感じることが出来た。好奇心が無い訳では無かったけれど、掟に背くことは許されないという理性が遥かに強かった。会合の行われる場を離れ、ルビィは何時ものように戦場を見下ろせる崖を目指して歩き出した。
 険しい山々に囲まれたこの土地では、戦場となる平野を掌握することは勝機に繋がる。故に毎日押しては引くの攻防を繰り広げるのだが、絶え間なく変わって行く戦況はルビィにとっては小さな娯楽の一つだった。


「何を見ているんだ?」


 ふと、背後から掛けられた声に振り返る。漆黒の闇に浮かぶ二つの青い双眸。
 戦場の騒がしさが消え失せ、緊張にも似た静寂が張り詰める。闇に慣れたルビィの目に、見覚えの無い青年の美しい相貌が浮かんで見えた。御伽噺に出て来る天使というものは、恐らくきっとこのような姿をしているのだろう。透き通るような青い瞳から目が逸らせない。
 青年は足音を立てずにルビィの横に並ぶと、ポケットに手を突っ込んだまま戦場を見下ろした。


「ああ、此処は戦場が良く見えるんだな。成程、魔王軍が少々押しているようだ」


 こんな人間がいるのだろうかと、ルビィは目の前にしながらも本気で思った。夜風に銀髪を靡かせながら、崖下を見下ろす横顔に表情は無い。


「この戦争がどんなものか、知っているか?」


 ルビィが首を振ると、青年は無表情に言った。


「これは人間と魔族による、世界の覇権を賭けた戦争なんだよ」
「魔族……?」
「そう。人間よるも遥かに強靭で、長命で、異能を持つ生き物だ。角が生える者もいる、体中に鱗があったり、毒を持つ者もいる。突如出現した彼等を人間は魔族と呼び、何時しか殺し合うようになったんだ」


 目の前で起こる戦争が何なのかも知らぬまま傍観していたルビィにとっては、それはとても信じられるものではない御伽噺だったが、それでも青年の話を聞きたいと思った。
 だが、次の瞬間。何かを言おうと口を開いた青年がゆらりと崩れ落ちた。背中に突き刺さった一本の矢と押し寄せる村人。猛る男達が倒れ込んだ青年を罵倒し、蹂躙している。村人の漆黒の瞳が、青年の美しい青い目を見下し蔑み、黄色の肌が青年の白い肌を汚す。正義を振り翳し武力を行使する男達に、青年は身動き一つしなかった。見る見るうちに血に染まり、肌には鬱血が浮かぶ。
 青年の名を叫ぼうとして、ルビィはその名を知らぬことに気付く。縄を打たれ、罪人のように引き摺られ、家畜のように鞭を打たれる。彼が何者なのかルビィは知らない。
 村には掟があった。背くことは許されないし、そんなことを考えたことすらなかった。振り返ることもしない青年は何を思うのだろう。零れ落ちた血液が、目が覚めるような赤色を地面に滲ませている。
 村に戻った時、辺り深夜だというのに辺りは炎に照らされ昼間のようだった。多くの野次馬に囲まれた広場の中央に、縄を打たれたあの青年が投げ出されるように倒れ込んでいる。見世物のように振るわれる暴力をただ享受し、抵抗一つしない。秀麗な面を苦痛に歪ませても、嗚咽は漏らさない。固く結ばれた口元が、腹部を蹴り上げられたことによって咳き込み血を吐き出す。囁き合う野次馬と化した村人の声は聞こえない。初めて見る異常な光景にルビィは声一つ発せない。
 大人達が何かを叫んでいる。口汚く罵倒するのは父だ。棒切れでその痩躯を打ち付けるのは叔父だ。笑いながら小石を投げるのは友人だ。


「ルビィ!」


 茫然と立ち尽くすルビィに駆け寄る母親は、息を切らして縋り付くように両腕を取った。


「大丈夫だった? 何もされなかった?」


 必死に安否を気にする母に、ルビィは困惑するばかりだ。母が心配するようなことは何一つ無かったというのに、如何して青年はこんなにも罵倒され虐げられ、暴力を振るわれているのだろう。


「ねえ、お母さん。あの人は、何かしたの?」
「何を言ってるの! あれは、魔族じゃない!」


 魔族と言われて、ルビィは耳を疑う。
 世界の覇権を賭けて人間と戦う者。人間の――敵。
 自分達と明らかに異なる青い瞳に、銀色の髪。――だけど、それだけで。
 毒も無く、鱗も無く、鋭い牙も爪も持たず、ただ皮膚や瞳の色が違うだけでこんな扱いを受けなければならないのか。


「化物め! 死ね!」
「消え失せろ、害虫め!」
「悪魔の手先だ!」


 口汚く罵倒する人々の目は狂気に染まっている。目の前の異質な生き物を敵として捉えることで、村人はまた団結するのだ。
 体を丸めて痛みに耐えていた青年が、ゆっくりと面を上げる。鬱血した頬と、切れた口の端から零れる血液。傷だらけの体を起こし、震えることの無いはっきりとした声で、揺るぎない目で、青年が声を張り上げた。


「なら、お前等は何なんだ!」


 ざわめきが、静寂に変わる。青年は青い目を鋭くさせ、周囲を睨んだ。


「俺が悪魔なら、無抵抗の相手を蹂躙するお前等が神だと言うのか? 馬鹿馬鹿しい」
「何だとッ!?」


 罵詈雑言の中で青年が蹂躙されている。凶器を振り上げられ、踏み躙られ、叩き潰されている。
 引き摺り出される青年の銀髪が血に染まり、泥だらけの衣服は破れ掛け、白い肌は蒼い。それでも噛み付くように叫ぶ怒号が村人に向けられる。数人掛かりで羽交い絞めにされて連れて行かれる先が何処なのか、ルビィは知らない。囁き合う野次馬も我が身可愛さに静かに自宅へと消えて行く。更けていく夜に、青年の咆哮だけが響き渡っていた。
 世界は戦乱だった。物資は常に不足し、その日一日を生きることに懸命で、他のことを考える余裕などありはしなかった。夜更けに見下ろす他人の戦争が一体何なのかも知らなかったし、知る必要も無いと思っていた。
 皆が寝静まった深夜、青年が放り込まれた村外れの牢は、灯り一つ無い闇の中にあった。見張りすら付けない警備の薄さには驚いたが、ルビィがそっと顔を覗かせると、鉄格子の奥で二つの青い眼球が此方を見ていた。


「また会ったな」


 傷だらけの体で、指一本動かすことすら煩わしいというように青年は壁に凭れ掛かったまま動かない。それでも僅かな外の灯りに照らされたルビィの顔を確認すると興味も無さそうな仏頂面で言った。


「何か用か?」


 ルビィは、黙った。村人が悪魔だと罵る対象。汚らわしいと暴力を振るう相手。怖いと思う。近付くべきではない。
 この男が件の魔族ならば、毒を持っているかも知れない。鋭い爪や牙を持っているのかも知れない。凶暴で、残虐で、冷酷な化物なのかも知れない。長きに渡って人間と戦争を繰り返す敵だ。村人が躍起になって殺そうとするのも解らない訳じゃない。
 ただ、ルビィは知りたいのだ。


「あなたは何者なの?」
「あいつ等が散々言ってただろ。化物さ」
「本当に?」


 ルビィの問いに、青年はきょとんと目を丸くした。


「あたしには、貴方が人間に見えるよ」


 肌や目や髪の色が違っても、自分と殆ど同じ姿をした青年。村人が不吉だと呪うその姿をルビィは綺麗だと感じた。
 世界の覇権を賭けて争う相手が魔族だから傷付けるのか、踏み躙るのか、殺すのか。正義だと信じるその行為は本当に正しいのか。
 青年は無言だった。村人の一方的な暴力により満身創痍のまま、額から零れ落ちる血液を拭うこともしないまま、青年は自嘲するように薄く笑っている。喉を鳴らすような乾いた笑いが漏れ、整った青年の面が子どものようにくしゃりと歪む。薄く開かれた目から除く青い瞳に映る光は優しく穏やかだった。


「あなたは皆の言う通り残虐で醜悪で冷酷な魔族なの?」
「さあな。でも、だから俺はこうして牢に閉じ込められているんだろ?」
「それは村の掟だもの」
「じゃあ、お前は?」
「――あたし?」


 青年は酷く真剣な顔で、ルビィに問い掛けた。


「お前は如何なんだ? 村の掟なんて関係無く、お前の思いをお前の言葉で聞かせてくれよ。魔族は存在するだけで悪か?」
「そんなの、解らないよ。考えたことないもの」
「何故、自分で考えない?」


 ルビィは黙り込んだ。その時。この世の終わりを思わせるような地響きにも似た轟音が響き渡った。激しい揺れに立っていることすらままならず、崩れ落ちるようにルビィは座り込んだ。古びた牢の壁に亀裂が走る。咄嗟に立ち上がった青年は片膝を着いて辺りを見回した。


「何!?」
「――砲撃だ」


 青年が冷静に言い放った瞬間、亀裂の入った天井が崩れ落ちた。巨大な瓦礫となった岩が青年の頭上に容赦なく降り注ぐ。
 悲鳴と共にルビィは青年の名を叫ぼうとして、知らないことに気付いた。だがその時、轟々と降り注ぐ瓦礫の中で、月明かりに銀髪が微かに輝いたように見えた。しかし、それも続け様に鳴り響く爆音と共に消えて行く。青年が微かに漏らした砲撃という言葉が現実味を帯びる。こんな辺鄙な場所にある寂れた山村を砲撃する意味などある筈も無いのに、周囲で起こる全てが可能性を現実のものへと変えていく。
 ルビィの足元に大きな影が落ちる。反射的に見上げた先に、視界一杯を覆う程の瓦礫が落下していた。
 悲鳴も、瞬きも間に合わないその刹那。銀色の閃光が瞬いた。


「――おい、無事か?」


 硬く閉ざしていた瞼を、恐る恐る開く。ルビィは引き攣るような声を上げた。
 自分が先程までいた筈の牢が崩れ、遥か下に見える。足元は浮遊し、強い風が吹き付ける。理解不能の状況にルビィは周囲を見回した。白い浮雲に手が届きそうだ。


「な、に?」


 背後から抱え込まれていることに気付き、振り返った先に透き通るような青い瞳と銀髪が輝いていた。
 だが、特筆すべきはその容姿では無く、人間ならばある筈のない白亜の翼がその背に存在するということだろう。絶えず羽ばたく純白の大きな翼によって浮遊しているのだ。有り得ない状況に夢でも見ているのかと目を擦る。青年は目を細めて遠くを見遣り、呟いた。


「あれは、魔王軍だな」


 森の先から黒い塊が押し寄せて来ている。掲げられる紫の旗に怒号にも似た雄叫びが響き渡る。逃げ惑う村人はまるで蟻の大群のようだった。
 青年はゆっくりと下降していく。足元に見えた大木が目前に映り、やがて頭上に伸びて行く。両足が地面に着いたと同時に、ルビィは夢から目が覚めたような心地でその足を踏み出した。目の鼻の先である村から黒煙が立ち上っている。何かが焼ける焦げ臭さに、異常事態を嫌でも感じた。


「村が……!」
「行くぞ!」


 ルビィが飛び出すよりも早く、青年は走り出していた。その背中からは既に翼は消え失せ、痕跡すら無い。
 先を行く青年を咄嗟に追い掛けるルビィは迷っていた。魔族という存在、この青年が何者なのか、如何して村が襲われるのか、如何して彼が走っているのか。
 息を弾ませながら、途切れ途切れに青年が言った。


「俺が、恐ろしいか?」


 恐らく肯定の返事を予想しているだろう青年は口元に自嘲の笑みを浮かべて問い掛けた。だが、青年が背中を向けていることも忘れてルビィは首を振った。


「怖くない」


 びしりと言い切ったルビィの言葉に、青年が振り返る。それまでの仏頂面すら消し去って、青い眼を真ん丸にしている。現実味を帯びない御伽噺のような青年は、何処か子どものようにあどけない。ルビィは笑った。


「貴方の翼は、とても綺麗だから」
「……そうか」


 それだけ言って、青年はまた背を向けた。照れ隠しだろうかとルビィは可笑しくなる。これが魔族か。村人が罵倒し虐げる恐ろしい存在。
 子どものように笑い、褒められて照れ隠しに顔を背け、人を救う為に翼を広げる。これが、魔族か。
 青年は入り組んだ森をまるで自分の庭かのように縦横無尽に駆けて行く。地面から隆起した大きな根を飛び越え、青年が言った。


「自己紹介がまだだったな」


 大きな青痣のある顔で、それまで張り詰めていた空気を全て霧散させ、青年は笑っていた。


「俺の名はダイヤという。翼を持つ魔族の一人だ」


 歌うように楽しげに、羽ばたくように軽やかにダイヤは駆けて行く。其処に翼など無くとも、人間と同じ両足があるだけで、踊るように走り抜けている。
 森を抜ける前から充満していた煙に嫌な予感は的中した。ルビィにとっての故郷が、赤い悪魔に呑み込まれようとしている。
 黒煙の上る空には鉛色の雲が浮かび、天上を舐めるような火柱が上がる。彼方から飛ぶ砲撃に築かれた家々は一瞬にして消炭となり、人々は泣き叫び逃げ惑う。血を吐いて倒れる友人が、足を失くし這いずる隣人が、母の死体に泣き付く幼子が、揃って声を上げる。誰か、助けてと。


「お母さん!」


 ルビィが悲鳴を上げた。漆黒の目に映るのは瓦礫と化した家の残骸に埋もれる母の姿だった。伸ばされた手は助けを求めたのだろうか。額から流れ落ちた血液が地面に染み込み、閉ざされた目は開かれることも無い。既に熱を失った体に通うものは何も無く、後は風化するのを待つだけだ。


「お母さん! お母さん!」
「止せ!」


 縋り付こうとするルビィの腕をダイヤが掴んだ。振り払おうとルビィが力を込めた瞬間、母の遺体は崩れ落ちた瓦礫の中へと消えて行った。


「ううう、うああああっ!」


 彼方此方で響く悲鳴が、怒号が、喘ぎが、ぐちゃぐちゃに混じり合っている。あの時、崖の上から見ていた戦場は、今目の前にある。
 助けてくれ。誰かの悲鳴が聞こえルビィが振り向くと、其処にダイヤはいなかった。一目散に駆け付けたダイヤが、崩れ落ちそうな瓦礫を支えている。大きな柱に下半身を挟まれているのは、あの時、ダイヤを罵倒し踏み躙った男だった。傷だらけの腕で、焼けた柱の熱さも忘れたようにダイヤが声を上げた。


「必ず助けてやる! だから、諦めるな!」


 如何して?
 疑問と共に、ルビィは走り出す。
 その人は、貴方は傷付けた人だよ。魔族である貴方にとっては敵でしょう。如何して救おうとするの。何時かは殺し合うかも知れないのに。ねえ、如何して。
 歯を食いしばって柱を押し返すと、ダイヤは埋もれた男の手を取って引き摺り出す。男の両足は酷い火傷で、立つことすらままならなかった。痛みに呻きながら、男はダイヤを見て問い掛ける。


「お前、如何して」
「如何して、だと?」


 砲撃の止まない東の空を睨みながら、ダイヤが吐き捨てるように言った。


「助けを求める人間を助けるのに、理由が必要なのか?」


 暴力に対する痛みはあっても、差別に対する屈辱はあっても、ダイヤは人を助けようとする。魔族であっても、人であっても、命に代わりは無いのだと全身全霊で訴えるように走り出す。一人でも多くの人間を救おうと駆けるその様は人間以上に、人間らしかった。
 魔族って、何?
 泣き叫ぶ少女の元へ駆け寄ろうとしたダイヤの足元に、矢が突き刺さった。砲撃と異なる攻撃にダイヤの足が止まり、振り返る。
 ずらりと並ぶ人ならざる者の集団。一目にそれが人間ではないと解ると同時に、魔族と呼ばれる者なのだと悟った。弓を構えるのは黒い短髪に、赤い目をした青年だった。眉の無い額には二本の小さな角があり、吊り上った切れ長な目は冷たい印象を与えた。ダイヤは無表情だった。


「こんなところで、何をしているのですか」


 感情を読ませぬ男の言葉に、ダイヤもまた淡々と返す。


「それは此方の台詞だ。四将軍のガーネットともあろう者が、こんな田舎の山村に主力を投入するとは」
「四将軍……?」


 聞きなれない単語を復唱すると、ダイヤはルビィを背中に隠して囁いた。


「魔王軍を纏める四人の将軍の内の一人だ」


 魔族の存在すら知らない田舎娘が、そんな話を理解出来るとはダイヤも思っていないだろう。その目は既に正面のガーネットを睨むように見据えている。


「兵を退け。こんな一方的な虐殺は、禍根を残すぞ」
「禍根どころか、草一本残りませんよ。魔王様は、人間の殲滅をお望みです」
「……馬鹿げてるぜ、魔王も、てめぇも」


 苦々しげに呟いたダイヤの青い目に、火花が散る。それは怒りにも憎しみにも似た炎のようだった。


「人間の肩を持つ気ですか?」
「別に、人間の味方がしたい訳じゃねぇよ。助けてと言われて素通り出来る程、薄情じゃないだけだ」


 丸腰で、傷だらけで、軍隊を相手に、ダイヤはまるで対等であるかのように振る舞う。辺りに立ち上る黒煙も、火柱も、悲鳴も怒号も何もかもが信じられない。
 死に行く朋友が、家族が、流れ続ける血液と呻き声がルビィの背に圧し掛かる。脳では処理しきれない悲劇が土石流のように心の中に流れ込む。声にならない悲鳴を上げてルビィは膝を着いた。腹部から得体の知れない何かが沸き上がる。吐き出したいのは消化物か、叫びか、それとも。
 目の前にあったダイヤの服を掴んだ。血の染み込んだ、ぼろぼろの服だった。力を入れれば容易く破れてしまいそうで躊躇する。だが、ダイヤはその手を強く握った。
 大きな手だった。傷だらけの無骨な指だった。だけど、血の通った温かい掌だった。


「大丈夫だ。俺が必ず、守ってやるから」


 背中を向けたまま、圧倒的不利な状況でもダイヤはその横顔に不敵な笑みを浮かべていた。
 不思議だった。今日出逢ったばかりなのに、ダイヤは自分を助けようとする。そんなダイヤを、如何してか無条件に信用している。


「此処は俺が如何にかする。お前は、出来る限りの村人を助けて逃げろ」
「そんな! ダイヤは!?」
「俺には俺の考えがある。――さっさと行け!」


 ダイヤの怒声に押されてルビィは走り出した。

2.Human.

2,Human.




 上げたかった悲鳴は呑み込んだ。ただし、求めようとした助けは吐き出す前に阻止され、強い力で受け止められた。
 必ず守る。何の確証も無い言葉を鵜呑みにして、ルビィは今も走り出す。炎に巻かれた山村に生きている人間は極僅かだった。瓦礫に埋もれた母と、魔王軍の兵に串刺しにされた父の遺体に縋り付くことも出来ぬままにルビィは声を張り上げる。


「魔王軍が迫っています! 一刻も早く、この村から脱出して下さい!」


 傷だらけの女が足を引き摺りながら瓦礫から立ち上がる。母の遺体に縋り付く子どもが顔を上げる。絶望し座り込む男が、ぽつりと呟いた。


「何処に、行けと言うんだ?」


 轟々と燃え盛る炎に呑み込まれそうな呟きに、満身創痍に絶望する村人が口々に共感する。この村で生まれてこの村で死ぬのが、この村に住まう人々の人生だ。この村以外に居場所なんてある筈も無い。村の外には命の保証も出来ない戦乱が待っている。


「どうせ死ぬなら、この村と共に死ぬ」


 同意するように頷き合う人々は最早立ち上がることもしようとしない。
 その通りなのかも知れないと、ふと思った。どうせ、人は何時か死ぬのだ。生き方は選べなくても、死に方くらい選びたいだろう。生まれ育ったこの村で死にたいと願う気持ちがルビィには痛い程に解った。
 だけど。


「……死んでは、いけないよ……」


 ルビィは拳を握った。


「死んだら、終わりなんだよ! 何も残らない、何も得られない、何も成さぬまま、何も出来ぬまま滅びることが、あたし達の人生だったと言うの!?」


 ダイヤが戦っている。一人では到底太刀打ち出来ない筈の大軍を相手に、恨みこそすれ救う義理も無い村人の為に丸腰で戦っている。
 それは何の為?


「あたしはそんなの嫌だ! もっと世界を見て、もっと美味しいものを食べて、もっと楽しいことをしたい!」


 こんな狭くてさびれた村で、何も知らぬまま魔王軍に殺されて死ぬなんて嫌だ。誰にも逆らわず、誰にも恨まれないように必要最低限のことを行って生きて来た。殺し合う人と魔族を高いところから見下ろして愚かだと嘲笑って来た。だけど、生きるというのはそういうことなのだ。命じられるまま従っているのでは人形と同じだ。戦場で戦う者はただ傷付け合っているだけではない。己が信じるものを、己が信じるように、己で責任を負い、己で考え、己で決めて其処で剣を握ったのだ。
 死ぬことは逃げだ。戦場で散るよりも遥かに惨めで愚かしい行為だ。


「もっと生きたいよ!」


 目頭が熱い。鼻がつんと痛くなって、呼吸が酷く苦しかった。
 こんなことをしている場合じゃないと解っているのに、動き出せない。頬を伝う滴。とうとう降り出したのかと顔を上げれば、目の前に見覚えのある村人が立っていた。


「……俺も、生きたい……」
「死にたくないよ……!」


 小さな子どもが、縋り付くようにルビィの手を握る。少しずつ集まる人々は、口々に言った。
 生きたい。それこそが原動力。全てを動かし奮い立たせる力。頬を伝う滴を乱暴に拭い去り、ルビィは声を上げた。


「生きよう!」


 足を引き摺る女が、顔の半分をも火傷に覆われた青年が、母を失った幼子が、念仏を祈るばかりだった老人が、ルビィの後を追う。
 葬列のようだと、笑いたければ笑えばいい。それでも、此処にいる人間は皆生きようとしているのだ。振り返ることの出来ないままルビィは歩き出す。ただ一つ、食い止めると残ったダイヤのことだけが心残りだった。
 入り組んだ深い森は、村民にとっては最早庭も同然だった。魔王軍は幾ら人間とは異なる恐ろしい力を持っていようとも、簡単に抜けられる筈が無い。生まれ育った村を捨て、丸腰のまま未知の世界へと足を踏み入れる。この先、生きられるか如何かなんて解らないけれど、あの一瞬、生きたいと願ったことが全てなのだ。
 木々の間を抜けるルビィの後方から、後を追う魔王軍の咆哮が聞こえている。今も続く砲撃は村民の殲滅を目論んでのものなのだろう。逃げなくては。
 負傷した村人を支えながらルビィは横穴に入った。地元の者しか知らない隣の山に続く抜け穴だ。


「此処から、逃げて下さい」
「ルビィちゃんは……?」


 問い掛ける男の体は焼け、立っているのもやっとの状態だった。五体満足なのはルビィくらいのものだ。
 彼等は真っ直ぐの穴を抜ければ生きられる。ルビィもまた、その先頭に立って行くべきなのかも知れない。だけど、如何しても、如何しても気に掛かる。
 ただ一人残ったダイヤの存在が、頭にこびり付いて逃げ出そうとする足を引き留める。


「あたしは戻ります」
「如何して! 追手が来ているってのに!」
「ダイヤのことが、気になるから」


 すると、ざわりと人々が顔を見合わせる。


「あの魔族を……?」


 村人が難色を示すことは解っていた。彼等がどんな言葉を繋いだとしても、ルビィはその足を止めるつもりなど毛頭無かった。
 自分達を助ける為に単身、魔王軍に挑んだダイヤが無事だとは思えない。見捨てる程薄情にもなれない。縋り付き引き留める村人の懇願が、ルビィにはまるで遠い世界のもののように聞こえていた。


「止めましょう。魔族なんかに関わらない方がいいわ」
「そうだ。大体、魔族を相手に俺達に出来ることなんて何も無い」
「此処に隠れていましょう」


 鳩派の甘え切った考え方に、ルビィは違和感を覚えた。村の掟は絶対だった。彼等の意見に従うのが利口な遣り方だった。だけど、それでも、人間ばなれしたあの青い宝石のような瞳が脳裏を過る度にその考えを否定する。何故、自分で考えない?
 ルビィは走り出した。
 魔族というものが如何いうものなのかは解らない。人間と争い、村を滅ぼしに来た敵だ。なら、ダイヤは一体何なのだろう。化物だと罵られながら人間を守ろうとするあの魔族は一体何者なのだろう。上辺だけの情報では処理し切れない何かが此処にある。
 森を抜けた先は、何時も戦場を見下ろしていた崖だった。今日は戦いも無いけれど、魔王軍のテントが無数に張られている。恐らく、この戦場では魔王軍が勝利を勝ち取ったのだ。
 怖いと思う。恐ろしいと思う。けれど、それ以上に知りたかった。
 甲高い音が鳴り響いた。折れた剣は回転し、ルビィの足元に突き刺さる。あと僅かずれていたら串刺しだったかも知れない。反射的に顔を上げた先に、見覚えのある銀髪が風に舞っていた。
 全身を血に染めながら、ふらつく足取りで、傷だらけの腕で、罅割れた剣を振るっている。特異な能力を持つ筈の魔族が、まるで人間のように戦っている。人間の敵である筈の魔族が、人間を守る為にたった一人で抗っている。
 ダイヤの足元に転がる魔族の者は皆事切れているのだろう。ぴくりとも動かず血の池に浮かんでいる。その中でも悠々と。まるで死神のように立つ男は仲間の死に少しも動じる事無く無傷のまま微笑んでいる。


「良い様ですね」
「……うるせぇよ……!」


 絞り出すようにダイヤが言った。呼吸すら辛そうな満身創痍のまま、剣を杖に体を支えるダイヤの目はまだ死んでいない。
 呆れたようにガーネットが溜息を零した。


「もう止めましょう。この大人数を相手に素晴らしい働きをしたとは思いますが、此処までです」


 ガーネットの背後に、ぞろりと武装した魔族が並ぶ。圧倒的不利な状況でも、ダイヤの目に灯るのは消えることも揺らぐこともない強い光だ。


「大体、如何して人間なんかに拘るのですか? あんな脆弱で、狡猾な生き物の何処にそんな価値が?」
「ガーネット」


 その名を呼び、ダイヤは青い目で真っ直ぐ見据えた。


「俺はな、人間が死のうが、魔族が勝とうが如何だっていいんだよ。俺はただ、俺のやりたいようにするだけだ」
「その為に死んでもいいと?」
「当然だろう。それが、生きるということだ」


 ダイヤがゆっくりと剣を上げる。次の斬撃には持たないだろう大きな罅の入った刃に月光が反射する。
 ガーネットは背後に連れた配下を下がらせ、剣を抜いた。


「気紛れとは言え、貴方の考えることは解りません。魔族と人間は相容れぬ存在。食うか食われるかのどちらかだ」
「そんなこと、誰が決めた」
「神の意志です」
「なら、その神に伝えておけ。首を洗って待ってろってな」


 ダイヤが地面を蹴った。足音すら聞こえぬ軽やかな一歩を、ガーネットは防ぐべく剣を構える。
 だが、その時。大地震のように地面が激しく揺れ動いた。立っていることもままならない揺れに魔王軍共々ルビィは倒れ込み膝を着く。地震ではない。揺れの中、遠くを見遣れば砲口を此方へ向ける人間軍がずらりと並んでいた。こんな山村を助けに来た訳では無いだろう。魔王軍共々皆殺しか。
 ダイヤの背からふわりと純白の翼が広がる。大地の揺れから切り離られ悠々と浮遊し、砲撃を続ける人間軍を睨む。突っ伏したまま動けないガーネット。握り締めるように剣を掴むその手が震えている。その時、ぐらりと、崖が崩れ落ちた。
 切り離されたように落下した大きな岩に乗っていたガーネットの体は共に遥か下方へ向かっていく。悲鳴にならない声を上げてガーネットが手を伸ばす。舌打ち交じりの苦々しい顔でダイヤがその手を追う。間に合わない。――だが、ガーネットの体は下降を止めた。その手は確かに強く握られている。
 ルビィは、自分よりも遥かに大きなガーネットを支えながら呻いた。


「早く……上がって……!」
「お前、人間……?」


 信じられないものを見るような目で、ガーネットが言った。答える余裕など無いようにルビィは唇を噛み締める。
 羽ばたいていたダイヤがその手を共に支え、一気に引き上げた。反動で後ろに転げたダイヤとルビィは揃って腰を打ち付け、摩っている。


「如何して人間が、魔族の俺を助ける……?」


 きっと、ガーネットの問いは尤もなのだろう。ルビィはそう思いながらも、問い掛けずにはいられなかった。


「人間と魔族って、本当に解り合えないのかな。目の前にある命を救いたいと思う気持ちは同じと思うのは、あたしだけ……?」


 どちらも大切な命だと言うのは、戦争を知らぬ者のきれいごとだろうか。
 それでも、救える命を人間だから魔族だからと切り捨てるのは余りにも悲し過ぎる。茫然と、握られていた手を見詰めガーネットは俯いている。


「退けよ、ガーネット。お前が戦うべき場所は此処ではないぜ」


 暫しの沈黙。ガーネットは考え付いたように面を上げた。
 大幅に戦力は欠けてしまっただろうが、それでも強靭な力を持つ魔王軍にしてみれば大した違いも無いのだろう。


「皆の者、良く聞け! 敵は北西、人間軍だ!」


 ずらりと向けられた砲塔に怯えることなく、溢れ返るような大軍を恐れることなく、毅然としてガーネットは声を張り上げる。


「一人残らず、打ち取れ!」


 わっと活気付く魔王軍が、激しい傾斜などものともせずに駆けて行く。正面からぶつかって行くその様は武力に余程の自信があるのだろう。
 座り込んだまま立ち上がれないルビィを、ガーネットは見下ろしながら言った。


「人間の女。魔王軍である私にその問いは答えられぬ。だが一つ、礼を言わせて貰おう」


 傲慢な態度を崩さず、ガーネットが言い捨てる。言葉とは裏腹のぞんざいさに呆れながら、ルビィは苦笑を漏らす。ガーネットはすぐにダイヤに目を移した。


「お遊びが過ぎますと、何時か痛い目を見ますぞ」
「余計なお世話だ。自分の領分は弁えてる」
「ならば、結構」


 そう言って、ガーネットはマントを翻して颯爽を歩き出した。向かう先は押し寄せる人間の大軍だ。圧倒的不利なその状況でどちらに勝利の女神がほほ笑むのかなど解らないし、どちらが勝てばいいのかも解らない。
 ダイヤは疲れ切ったかのように大きく息を吐き出しながら倒れ込んだ。


「ああ、疲れたぜ」


 全身傷だらけで、最早自分のものか敵の返り血かも解らぬ程真っ赤に染まった衣服で、ダイヤは子どものように無邪気に笑う。
 手当しなくてはとルビィが近付くと、ダイヤは起き上った。酷い打ち身や切り傷が、見る見るうちに消えて行く。其処にはまるで何も無かったかのような新しい皮膚に目を疑うルビィに、ダイヤは可笑しそうに笑う。


「治癒能力も、人間の比ではないからな。気遣いは結構だ」


 血塗れの服のまま、気休めのように膝と尻の砂を叩いて落とすとダイヤは立ち上がった。その青い目は始まった人間と魔族の戦場をじっと眺めている。
 戦塵が、血の臭いが、風に乗って運ばれて来る。自分もその中に巻き込まれていたことが実感出来ぬままルビィは、ガーネットの手を握った掌を見詰めた。温かく、大きな掌だった。剣を振るって来たのだろう、肉刺や胼胝だらけの歪な掌だったが、それは人間のものと大差無い。


「魔族って、何なの……?」


 呟くように問い掛ければ、すぐにダイヤは切り返す。


「なら、人間とは何だ?」


 ルビィには答えられなかった。当然、ダイヤも答えられなかっただろう。
 自分のことすら解らないのに、他人のことまで理解出来るものか。そう言われているようでルビィは自然と俯いてしまった。その頭上に、凛としたダイヤの声が響く。


「だから、俺は世界を見るんだ」


 弾かれるようにルビィは顔を上げた。ダイヤは腰に手を当て、今も戦場で殺し合う人間と魔族を逸らすこそなく遠目に見ている。それが悲劇でも、絶望でも、狂気でもダイヤはきっと目を逸らさないだろう。そんな強さを感じた。


「これから、何処に行くの?」
「さあな。風の向くまま、気の向くままさ」


 何処か誇らしげに言うダイヤを羨ましく思った。小さな村が世界の全てで、掟が絶対である自分とはまるで違う生き方だ。何者にも縛られず、何者にも支配されない風のようなその魂を美しいと思う。ルビィは、言った。


「あたしも、連れて行って」
「はあ?」
「家族も村も無くなった此処に未練なんて無いもの。あたしも風の向くまま、気の向くまま世界を見てみたい」
「なら、お前は自分の足で歩くべきだ。違うか?」
「違うよ。あたしは、貴方と行きたいの。貴方の見る世界を、一緒に見たいの」


 するとダイヤは不満げに口籠ったが、わざとらしいくらい盛大な溜息を零した。


「死んでも知らないぞ」


 そう言って、ダイヤはルビィの腕を掴んだ。
 夜明けの空に純白の翼が広げられる。迎える朝日を反射するその様は幻想的で、現実味を帯びない。まるで夢の中のような心地でルビィは叫びたい衝動に駆られた。
 ルビィの両腕を掴んでぶら下げたまま、ダイヤは飛び立った。抜け落ちた白亜の羽根が戦場に消えて行く。朝日に向かって飛び立つダイヤの行く先などルビィには解らないが、それでも構わなかった。

3.Utopia.

3,Utopia.


 荒れ果てた大地をただ只管に歩き続けるその様は、恐らくきっと葬列にも等しいのだろう。
 村の者は無事逃げ延び、近隣の村と合流することが出来、各々の怪我を癒していると聞いた。彼等が歩む道が決して平坦なものではないことだけは確かだった。魔族を恨む者もいるだろう。復讐を誓う者もいるだろう。悲哀に暮れて自ら死を選ぶ者もいるだろう。それでも前を見据えて生きて行こうとする者が如何程いるのかルビィには解らない。ただ、生きて欲しいと思う。村の掟が全てだった彼等が直面する新しい世界が、如何か優しいものであるようにと願うばかりだった。
 魔王軍と人間軍の戦を掻い潜って、ルビィとダイヤは草一本生えぬ砂漠を歩いていた。如何やら翼を持つダイヤも長時間の飛行は出来ないようで、足を取られる黄砂の上を慣れたように進み続けている。早足に進むダイヤを追うルビィは隣に並ぶどころか後姿を見失わぬようにするのが精一杯だった。ダイヤは休むことも振り返ることもしない。己が望むように己の思うまま歩いて行く。
 ふと、ダイヤの足が止まる。灼熱の太陽が照り付けるだだっ広い砂漠の中に一つ、まるで蜃気楼のような町があった。日に焼けた黄色の煉瓦を積み上げた建物と活気付く人々の声が遠く離れた場所にも届く。息を切らせて追い付いたルビィに、視線すら向けずにダイヤが言った。


「アリザリンの都だ」
「アリザリン?」
「そう。辺鄙な場所だが、貿易の栄えたオアシスのようなものだ。丁度いい。寄って行くとしよう」


 布を被り、再び歩き出すダイヤの足取りは淀みない。ルビィは気合いを入れるような心地で大きく深呼吸した。
 石畳の市中を闊歩するのはルビィと違わぬ人間だ。健康的に日に焼けた男が大きな魚を片手に売り捌く声が響いている。擦れ違う人間の姿は多種多様で、ダイヤの言う通り貿易都市であることから異国の人間との交流が盛んなのだろう。見たことも無い食べ物や、美しい宝玉、人々の明るい笑顔と賑やかな声が溢れている。外の戦争など知らぬように笑い合う人々の黒色の瞳は輝いていた。


「すごい! これが町なの?」


 村の外に出たことも無かったルビィにとっては見るもの全ては新鮮だった。深く被った布の影からダイヤはその様子を一瞥し、笑う。
 ダイヤも笑うのだな、と当たり前のことに関心する。
 大地を焼き、肌を焦がす太陽にも負けぬ明るい人々の活気に、自然とルビィの気持ちも明るくなる。胸の中で淀んでいた両親の死や村の滅亡による悲哀が俄かに和らいだような心地できょろきょろと周囲を見回していると、目の前にいた者に気付かずに衝突してしまった。
 壁のような大男だった。尻もちを着いて倒れ込むルビィの見上げた先に、じろりと見下ろす冷たい眼球が二つ並んでいる。漆黒の瞳に映る自分の姿と、岩のような顔面に浮かぶ憤怒の形相にルビィは動けなくなった。


「貴様、何処を見て歩いていやがる!」


 紅いマントを翻し、分厚い鉄の鎧を纏ったその様は兵隊のようだった。腰に差した剣に手が伸ばされ、周囲の賑わいが静まり返ったと同時に悲鳴が混ざる。
 ルビィは動けない。


「ご、ごめんなさ……」


 謝罪の言葉を告げようと、震える唇を動かす。男がその刃を抜き放とうとした瞬間、男の体は勢いよく市場の出店の中に吹き飛んで行った。悲鳴にも似たざわめきが周囲を包み込む。人々が距離を置いて凝視する先には深く布を被ったダイヤが凛と立っていた。


「悪かったな。余りにも愚鈍だから、石像かと思ったよ」


 布の下で浮かべる不敵な笑みに、果実の汁に塗れた男がよろよろと立ち上がる。
 だが。


「止しなさい」


 男の背後より、気配も無く現れた青年がその肩を掴んだ。穏やかな笑みを浮かべた人の良さそうな好青年を視認すると、男は雷に打たれたように体を固くした。


「クオーツ様……」
「市中で剣を抜くなど言語道断。アリザリン軍の恥ですよ」
「……! 失礼、した」


 苦々しげに男は零し、踵を返して行った。
 残されたダイヤも鼻を鳴らし、そのまま歩き出そうとするが、クオーツと呼ばれた男が呼び止める。


「待ってくれ。部下が粗相をしたな。侘びがしたい」
「結構だ」


 一言に切り捨てて歩き出そうとするダイヤを、クオーツは肩を掴んで止める。その耳元で、小さく、ルビィには辛うじて聞こえるくらいの声量で囁いた。


「お前、魔族の者だろう」


 ダイヤの足が止まる。だが、布を深く被ったままくるりと振り向き、不機嫌そうに口を尖らせた。


「それが何だ。俺を拘束するのか。見せしめに火炙りにでもするか、市中引き摺り回しか」
「まさか」


 ダイヤとて、そうされる気など更々ないだろう。クオーツは苦笑した。


「君達に興味が沸いたんだ。一緒に食事でもしないか」
「ハ、敵陣真っ只中で飯なんざ食えるかよ」


 そうダイヤが言い捨てたと同時、まるでタイミングを見計らったかのようにルビィの腹が鳴った。
 咄嗟に目を逸らす。羞恥に顔面に熱が集まるのが解ったが、クオーツは楽しげに笑った。


「御馳走しよう」


 ち、と舌打ち交じりに、体をすっぽりと覆う衣服を翻してダイヤはクオーツの後を追った。
 擦れ違う人々が親しげにクオーツに声を掛けている。先程の男とは違い鎧を纏ってはいないが、町民とは異なる雅やかな衣服は民間人とは思えない。それでも慕われている様がありありと解るその穏やかな微笑みと落ち着いた物腰に、見知らぬ他人であるにも関わらずルビィは警戒心を持てなかった。僅か先を歩くダイヤの足取りはやはり淀みない。
 賑わう都の中央には宮殿があった。高い城壁に囲まれてはいるが、街並みに溶け込んでいる。上げられた紅の旗が風の中で泳いでいた。
 大きな城門には武器を携えた兵士が二人並び、侵入者を阻む。だが、兵士はクオーツの姿を見るとすぐさま道を開け、大きな城門を開いた。途端に視界に広がる緑の庭園に目が奪われる。整えられた芝生と色とりどりの花々。荒涼の大地で生きて来たルビィにとっては天国にも等しい光景だった。
 迷いなく宮殿内に入ると、クオーツは擦れ違う兵や大臣等の敬礼に軽く応えながら客間へと案内してくれた。美しい山脈を描いた大きな絵画と、太陽の光を一杯に取り入れた大きな窓が印象的だった。中央の長方形の机にはダイヤの翼を彷彿とさせる穢れ一つ無い白亜のテーブルクロスが広がっている。真ん中に置かれた金色の花瓶には鮮やかな花が活けられていた。


「座ってくれ」


 促され、ルビィは手前の椅子に座った。沈み込むように柔らかい素材に驚きつつも、正面に座るクオーツに目を向ける。ダイヤはどっかりと腰かけると不満げにクオーツを睨んでいた。それすら可笑しいと言うように微笑みを浮かべたまま、クオーツは傍の者に食事を運ばせる。見たことも無い美しい料理、食材に目が奪われる。漂う香ばしい肉の匂い。艶やかな果実の数々。食欲をそそられる食物に釘付けになっていると、苦笑交じりにクオーツが言った。


「毒なんて入っていないから、どうぞ召し上がれ」


 遠慮がちに、ルビィは目の前のパンに手を伸ばす。
 村での主食は芋だった。それから痩せた土地でも育つ僅かな野菜と、僅かな燻製肉。蒸留した雨水で喉を潤し、日々の生活を営んでいく。戦乱の世に、飢餓に苦しむ場所もあるだろう。それに比べれば自分達は幸福だと言ったのは村で最も高齢な生き字引でもある村長だった。瓦礫の下で圧死した彼の長い人生の記録に、こんなにも豊かな食事があっただろうか。
 外は戦乱なのに、此処には食物が溢れ、笑顔に満たされている。この矛盾は何?
 口に運ばれたパンは表面香ばしく、柔らかかった。
 クオーツは未だ布を取らぬダイヤを見て言った。


「好い加減、顔を見せたら如何だい? それとも、人払いをしようか」
「余計な世話だ」


 不満そうに言って、ダイヤは襤褸布のようなフードを抜いた。日光を反射する銀髪と宝石のような青い瞳に周囲がざわめく。人間と明らかに異なるその色彩への驚愕、恐怖、畏敬の目が向けられる。そうした視線などまるで気にならないようにダイヤは目の前の肉に齧り付いた。
 食事を始めた二人を満足そうに眺め、クオーツは言った。


「俺の名はクオーツという。この地を治める者だ」


 名乗ったクオーツの威圧感が、ルビィにも伝わった。他者を圧倒する常人とは異なる覇気。穏やかな眼差しの奥に燃える紅蓮の炎。
 彼はこの町の、否、この国の王なのだ。圧倒されながら、ルビィはパンを置いて口を開いた。


「私は、ルビィ……です」
「ルビィ。良い名前だ。見た所、君は人間のようだが……?」


 ルビィは頷いた。


「私は人間です。此処から東の山奥の村の、田舎娘です。王様と食事することも許されないような……」
「そんなことはない。人間に上も下も無い」


 優しげに微笑むクオーツの人柄が、表れているようだった。それを面白く無さそうに一瞥し、ダイヤは構わず食事を続けている。


「此処も元々は何も無い砂漠の地だったんだ。其処に水を引き、緑を植え、町を作った。貿易が盛んになることで栄え、人々の暮らしが豊かになって行く」
「素晴らしい町だと思いました。私の村には……何も無かったから」


 羨ましいと思った。もしも、あの村にもこのクオーツのような指導者がいれば、何か変わったのだろうか。魔族に滅ぼされ虐殺された家族も友人も皆、生きていたのだろうか。
 彼がいれば、この世界はこの町のように豊かになるのだろうか。争いの無い平和で豊かな優しい世界が、出来るのだろうか。
 骨付き肉に齧り付いていたダイヤが、身を毟り取った骨を皿に投げ捨てる。クオーツはダイヤに目を向けた。


「さて、そろそろ君のことを訊かせてくれないか?」
「知って如何する」
「言っただろう。君達、魔族に興味があるんだ」


 ダイヤは鼻を鳴らした。仏頂面を崩さないダイヤに、クオーツもまた微笑みを崩さない。


「俺にも魔族の友人がいる。人と魔族の共存出来る世界を創ることが、俺の夢だ。その為に、君達の話が訊きたい」
「理想を持つことは良いことだ。確かにこの町は砂漠にありながら豊かで、穏やかで、活気に満ち、貧富の差も殆ど無い。だが、お前が魔族との共存を願うのなら、如何してこの町には魔族はいない?」


 この町にいるのは全て人間だ。人間だけの、人間による、人間の為の町。
 クオーツは苦笑した。


「人間と魔族の間には深い溝がある。今も世界の覇権を賭けて争っているし、偏見を持つ者も多い。だが決して、この町に魔族がいない訳では無いぞ」


 ついて来てくれと、食事もそのままにクオーツは席を立った。
 慌てて立ち上がったルビィに、ダイヤはふてぶてしい態度を崩さぬまま、フードを被り直すこともなく後を追う。宮殿内は光が満ちている。行き交う人々の表情は明るく、美しい衣服で着飾り、誇らしげに歩いて行く。擦れ違う人はダイヤに好奇の目を向け、或る者は何か囁き、或る者は早足に去って行く。この国の王の掲げる夢が魔族との共存であったとしても、これが現状なのだと痛い程に思い知る。それでも背筋を真っ直ぐ伸ばして歩いて行くダイヤの考えが知りたいと、ルビィは思う。
 クオーツは宮殿の中庭を抜け、木造の扉で閉ざされた離宮へ案内した。見張りの兵は城門と同様に二人。クオーツの姿を認めると恭しく礼をして門を開いた。
 入ってすぐの広間には紅い絨毯が敷かれている。足跡一つ無い美しいその布は今のルビィには手の届かない程高価なものなのだと一目で解る。足を踏み入れることに躊躇していると、クオーツが声を張り上げた。


「コーラル!」


 宮内に響き渡るような大声で叫ぶのは名前だろう。静かだった空間に慌ただしい乾いた足音が響いた。
 二階の欄干から此方を見下ろす人影が、嬉しそうに呼び掛けに応えた。


「クオーツ!」


 白い肌、紅い瞳、黒色の長髪。人のような出で立ちでありながら、有り得ない色彩を持ち、その頭部には獣のような耳があった。
 ぴんと張られた三角形の耳は周囲の物音を探るように震えるように忙しなく動いでいる。転がるように階段を駆け下り、クオーツに駆け寄るその様は慣れた飼い犬のようだ。可愛らしく笑う少女にルビィはふっと笑みを漏らした。
 クオーツはルビィとダイヤに向き直った。


「紹介しよう。彼女の名はコーラル。俺の幼馴染であり、親友だ」
「宜しく」


 コーラルはルビィに微笑み、ふとダイヤに目を止めた。


「君は魔族だね。名は?」
「ダイヤだ」
「そうか、君が……」


 合点いったようにクオーツとコーラルは顔を見合わせた。


「放浪する魔王の末子。君が噂のダイヤだね」


 魔王の、末子。人間と争う魔族の王、その息子。
 言葉を失ったルビィに、ダイヤは興味も無さそうに鼻を鳴らした。


「そんなことは如何だって良いことだ。問題なのは生まれではない。生き方だ」


 びしりと言い切ったダイヤに、コーラルは嬉しそうに笑った。


「その通りだ。君とは馬が合いそうだわ。……此処を案内してあげる、ついて来て!」


 子どものような無邪気な笑みを浮かべ、コーラルはダイヤの手を引いた。それは人間と変わらぬ温かい掌だった。
 半ば強引に駆けて行くコーラルに戸惑いながら、ダイヤはルビィを振り返った。何時でも先を歩いていたダイヤは振り返ることも立ち止まることも無かったけれど、と思い出し奇妙な違和感を覚えた。
 翼を持ち、一騎当千の剣技を持ち、人間と異なる銀髪と青い瞳の青年。けれど、人間と同じように笑い、驚く。
 二人の去った後の広間で、クオーツは困ったような笑みを浮かべた。


「行ってしまったね」
「はい……」
「そうだ。君には俺が案内しよう。是非、見て欲しいものがあるんだ」


 そう言って、クオーツは歩き出した。

4,Sacrifice.

4,Sacrifice.


 コーラルに手を引かれるまま宮殿内を駆け回る。思えば、戦場以外で走ったのは随分と久しぶりだとダイヤは思った。翼を持って生まれた自分は歩かずとも世界を見ることが出来たし、何者に囚われることもなく自由に生きて来た。世界の覇権を賭けて争う人間と魔族を客観視しながら、生きたいように生きている。それは自分の力だ。例え魔王の息子であっても無くても、自分はそうとしか生きられなかっただろうと思う。
 宮殿内は決して狭くは無い。それでも、入り口には彼女の出入りを禁ずるかのように兵が配置され、窓には鉄格子がある。傍から見れば軟禁状態の彼女が屈託無く笑い、誇らしげにクオーツのことを語る様がダイヤには理解出来なかった。
 走り疲れたのだろう。一休みしようと提案したコーラルは緑豊かな中庭の芝生の上に座り込んだ。ダイヤは少し悩んだが、結局、隣に座ることにした。


「お前、一体何時から此処にいるんだ?」
「さあね。物心ついた頃から、此処にいるよ」


 ふうん、と相槌を打ちダイヤは視線を巡らす。日に焼けた壁に囲まれた此処は、体の良い牢獄のようだ。そう感じるのは、自分が何処にでも行ける翼を持っているからか、それともただ単に捻くれているからか。ダイヤには解らない。
 誇らしげに、コーラルが言った。


「でもね、此処にいる限り、私は安全なの」
「安全?」
「外の世界は戦乱だし、町に出ればきっと人間は私を恐れるもの。クオーツはね、私を守ってくれているんだよ」


 コーラルの気持ちが、ダイヤには解らなかった。
 守られたことなど無かったし、必要すら無かった。コーラルは何か言いたげなダイヤに微笑みを返して言った。


「ねえ、私と一緒に此処で暮らさない?」


 コーラルの唐突な申し出にダイヤは言葉を失った。この少女の言っている意味がまるで解らない。


「嫌だ」
「如何して? 此処は安全だし、食べ物も美味しいし、クオーツは面白いし……」
「確かにそうかも知れない。だが、此処には自由が無い」
「……そうね。今は、そうかもね」


 困ったように笑いながら、コーラルが言った。


「でも、近い未来必ず人間と魔族が共存出来る世界が訪れるよ。クオーツが、必ず創ってくれる」
「……何故、そう思う」


 問い掛ければ、コーラルは嬉しそうに笑った。子どものような無邪気な笑みだった。


「クオーツを、信じているから」


 何故、とは訊けなかった。無条件の期待、信頼。そのどちらも自分には無いものだ。そして、この先も必要の無いものだと思っている。
 ダイヤは、例えクオーツが人間と魔族が共存出来る世界を創れなくても、関係が無かった。戦乱の世が続いても生きていけるだけの強さがあるからだ。だが、全ての魔族がそうではない。人より遥かに強靭で長命で、異能を持つ魔族が拮抗して争い続けるのは、その個体数が圧倒的に少ないからだ。戦力差を数で埋めて来る人間は鼠のように無数の子を生し兵隊に仕立て上げて行く。その生殖力に対抗出来ぬ魔族の中には、こうして人に守られなければ生きられない者もいるのだ。
 ダイヤはコーラルを見たときに、思ったのだ。まるで飼い犬のようだと。クオーツがどれ程の聖人君子だとしても、コーラルが憐れだと思った。だが、違うのだろうか。


――人間と魔族って、本当に解り合えないのかな。


 ルビィの声が脳裏を過った。そんなことは解らないし、興味も無い。どちらが勝ったとしても自分は自分の思うように生きるだけだ。
 だけど、それ以外の道があるのかも知れない。勝者と敗者ではない、別の道が。それを創ることが可能なのかも知れない。


「……出来るといいな。魔族と人間が、共存出来る世界が」
「出来るよ、きっと」


 そう微笑んだコーラルの純粋さが、ダイヤには痛かった。自分の生き方を揺るがすような痛みに目を背け、天を仰いだ。何者にも囚われることのない白亜の浮雲が、自由に空の海を泳いでいた。


 一方、ルビィは昼間とは思えぬ湿気に満ちた暗闇の中、地の底まで続くのではないかと思う程に深い階段を下って行く。一体此処は何処なのか、何処に向かおうとしているのかすら問うことが出来ぬまま、ルビィは黙ってクオーツの後を追った。時折、振り返っては此方を気遣う姿は紳士的で、自分勝手に歩き続けるダイヤとはまるで違う。
 それでも地獄に向かっているかのような恐ろしさが拭い去れない陰気な空間で、ルビィは少しでも早く目的地に到着することを願った。クオーツが自分を殺す理由は無い。ダイヤの存在を思えば危害を加えることも無いだろう。打算的な考えで後を追う自分の狡猾さに辟易しながら、闇に慣れた目が階段の終わりを捉えた。蝋燭の薄明りの奥に広い空間があるようで、ルビィはほっと胸を撫で下ろす。クオーツは横顔を向けて言った。


「此処は研究施設なんだ」
「研究?」
「そう。砂漠に強い植物を作る為の品種改良なんかが主だね」
「へぇ」


 陰気な空間に漂う懐かしい土の匂いに心が安らぐ。きょろりと周囲を見渡したルビィの視界の端に、奇妙なものが映り込む。
 無数のガラス瓶に入った赤い液体。凝視するルビィにクオーツは言った。


「それはね、コーラルの血なんだよ」


 耳を疑うその単語に眉を寄せると、クオーツは苦笑した。


「魔族の研究も、行っているんだよ。人間より優れた種族である彼等の欠点はその低い生殖力だ。それを人間と配合することで新たな強い種族が生まれる。我が国は、人間にも魔族にも負けない強力な軍事力を得られるんだ」


 誇らしげに話すクオーツの言葉に、奇妙な呻き声が混ざっていた。その方向を見れば、全身を鱗に覆われた魔族がベッドに拘束されている。
 無数の人間が、銀色のナイフを掲げる。それが振り下ろされる寸前に、ルビィは目を背けた。身を裂かれた魔族の悲鳴が闇に木霊する。


「な、何を……!?」


 生きたままに身を刻まれる苦痛が、辛苦がその悲鳴から、呻き声から伝わる。目だけでなく、耳すら塞ぎたい地獄のような状況だった。それでも平然とクオーツはその様を見詰め、微笑んでいる。


「言っただろう。研究をしているんだ。魔王軍と対等に渡り合うには、人の力だけでは不可能なんだよ」


 同様にベッドに縛り付けられた人間の馬事雑言が聞こえる。人形のような無表情で男は、魔族から採取した皮膚を移植していく。
 クオーツは微笑みを絶やさない。


「あれは奴隷だ。彼等に魔族の力を移植し、洗脳し、最強の戦士を、神の軍を作るんだ」
「こんなの酷過ぎるよ!」


 阿鼻叫喚の地獄絵図に、堪らずルビィが叫んだ。それまで微笑んでいたクオーツは表情を消し去った。


「なら、他に如何しろと?」


 自分の行為に何の疑問も抱えないまま、クオーツは当然のように言う。


「この地を狙うのは魔族だけじゃない。人間だってそうだ。この町の平和を、人々の生活を守る為には戦うしかない。その為には最強の軍隊が無ければならない」
「そうして……人間と魔族の共存する世界が創れると言うの!?」
「そうだ。アリザリンが世界の頂点となることで争いは無くなり、人間と魔族の戦いも終止符が打たれるだろう」


 カツン、と足音が響いた。


「そして今度は、お前等が人間と魔族を支配するのか」


 ルビィの振り向いた先に、青い瞳が輝いていた。無表情ながらもその瞳に映る微かな光は炎にも似ている。魔族や奴隷達の悲鳴が今も響き、酷い血の臭いが満ちている。
 ダイヤは周囲を一瞥し、興味も無さそうに言った。


「武力による支配……。それがお前の言う共存か?」
「不満かい?」
「いや……」


 そう言ってダイヤは踵を返した。


「行こう、ルビィ」
「ダイヤ……」


 黙って階段へと足を踏み出したダイヤに、微笑みを浮かべたままクオーツが言った。


「気を悪くしないでくれよ。これは平和を得る為の最小の犠牲なんだ」
「好きにするといい。俺には関係の無いことだ」


 言い捨てて、ダイヤは颯爽と階段を上って行く。向けられた背中からは何も感じられない。
 怒りも悲しみも、諦めも何も無い。興味を失ったようにダイヤは振り向くことも無く淀みない足取りで階段を上がって行く。早足に行くダイヤの後を懸命に追いながら、それでもルビィは背中に突き刺さる魔族や奴隷達の悲鳴に耳を塞ぎたくなる。此処で行われているのは研究という名目の拷問だ。けれど、戦場では極普通のことなのだろう。一体誰が、彼等の罪を裁けるというのか。
 地上に出ると眩しい程の太陽が迎えてくれた。それまでの地獄がまるで嘘のような明るさに眩暈がした。


「ダイヤ……」


 同じ魔族として、本当に何も思わないのだろうか。そう問おうするが、ダイヤは無言のまま歩き続ける。


「宿を取ろう。直に日が暮れる」


 宮殿の外には相変わらず平和な街並みが待っている。賑わう人並みも、溢れる笑顔も、美しい街路も何もかもがルビィには虚無に見えた。
 彼等が名君と讃えるクオーツが、宮殿の地下で何を行っているかなど知らないだろう。否、知ったとしても彼等は理解するのだろう。
 ゆっくりと太陽が死んでいく。その腹を食い破って夜が顔を出せば、周囲の人は消えて凍り付くような風が吹き始めた。黄砂を運ぶ夜風に当たりながら、人の消えた街並みをルビィは見ていた。微かに聞こえる明るい音楽は、何処かで娯楽の舞台でも行われているのだろうとダイヤが言っていた。一晩一食付の安宿で、ダイヤはベッドに腰掛けて何時も腰に差している剣の手入れを始めている。だが、ルビィは昼間に見たあの地獄のような情景が如何しても忘れられなかった。


「ねえ、ダイヤ?」


 ダイヤは顔を上げない。


「あたしは村が襲われた時、こんな争いの世は無くなればいいって思ったの。人間と魔族が共存出来る世界が創れたらって、クオーツの夢にも共感したよ。だけど、あの人のしていることは本当に正しいことなの?」


 ふとダイヤに目を向けるが、やはり顔を上げる事もしないまま剣の手入れをしている。聞いていないのだろうかと、ルビィが再び窓の外に目を戻そうとした時、ダイヤはまるで独り言のような小さな声で答えた。


「さあな」


 漸く、ダイヤは顔を上げた。


「魔族の生まれを知っているか?」


 唐突な切り口に動揺しつつ、ルビィは首を振った。


「魔族ってのはな、人間の恐れや憎しみと言った負の感情から生まれた存在だと言われている。だから、種によっては人間を襲うし、喰らう」


 悲しい存在だな、とルビィは思った。人によって生み出され、人を滅ぼす為に生き、人によって殺されていく。
 ダイヤは言った。


「でもな、生まれなんて下らねぇよ。もしも本当に人間によって生み出されたとしても、今は人間と同じ生ある命だ。必要なのは生まれではない、生き方だ」
「それでも、魔族は人を滅ぼそうとするのね」
「ああ。それしか存在意義を見出せない者もいる」


 全ての魔族が、ダイヤのように己の思うように自由に生きられる訳ではないのだ。
 ダイヤは言った。


「魔族と人間が共存する世界なんて、夢物語だ。そういう意味では、クオーツのしていることが最も現実的なのかも知れないな」
「そうして作られた世界に、何の意味があるの?」
「少なくとも争いは無くなるだろう。毒を以て毒を制す遣り方は間違っていない」
「でもそれは、新たな毒を齎すような気がする……」


 ダイヤは黙った。手入れが終わったのか剣を鞘に納め、枕元に置く。


「もう、寝ろ。早朝の涼しい内に、砂漠を抜けなくてはならないからな」


 ダイヤはランプを消した。窓の外から零れ落ちる月光を見詰め、ルビィはベッドに潜り込んだ。
 魔族と奴隷の悲鳴が今も耳の奥に残っている。今夜は魘されそうだと、不吉にルビィは思った。

5.Wish.

5,Wish.


 大地を揺るがすような地響きの中、悪夢に魘され天地が引っ繰り返るような錯覚と共にルビィは目を覚ました。
 寝惚け眼を擦って周囲を見回すが、ダイヤのベッドは蛻の空となり、窓の外からは人々の悲鳴が耳を劈くように響き渡っていた。夜の筈が紅い光に照らされる窓辺にダイヤが立膝で虚ろな眼を向けている。剣を腰に差す様は臨戦態勢にようだった。平穏でない状況にルビィがベッドを抜け出すと、黙り込んでいたダイヤが漸く口を開いた。


「お前、随分と神経が図太いんだな」
「悪かったわね……」


 ダイヤを睨みつつ、窓の外を覗く。静寂に満ちていた筈の町は猛火に包まれ、人々は家財を抱えて逃げ惑っていた。
 息を呑んだルビィに、ダイヤは無表情に言った。


「魔王軍が攻めて来たんだ。直に戦となるだろう」


 その言葉と同時に、街路を叩く重厚な鎧の音が響き出した。悲鳴が消え、人々の歓喜の声が上がる。列を成して行進して行くのはクオーツ率いるアリザリン軍だ。その後列にいるのは恐らく彼が作り出した魔族と配合された奴隷の軍。鉄仮面の下にどれ程に醜悪な顔があるのか、鎧の下にどれ程に異様な肌が広がっているのか。雅やかな宮殿の地下で行われていたあの狂気に満ちた研究施設で生み出された彼等を思い出し、ルビィは身震いした。
 町民の応援に応えるようにクオーツが片手を上げる。国旗である赤い旗は夜風に靡いていた。
 ダイヤは窓から飛び出した。突然の行動にルビィは慌てて後を追うが、ダイヤは翼を広げてクオーツの横に並んだ。


「砂漠に移動しろ。此処を戦場にしてはならない」
「そんなことは解っている」


 クオーツは当然のように言い捨てて、ダイヤを一瞥することもなく前だけを見て歩いて行く。如何にかルビィが追い付くと、ダイヤは翼を畳み、石畳の上に降り立った。
 逃げ惑うばかりだった人々の目に希望が映る。戦場に赴く戦士に送られるエールと期待の眼差し。小さくなっていくアリザリン軍を見送りながらルビィは問い掛けた。


「ダイヤは如何するの?」
「そうだな。巻き添えにされるのも御免だから、この町から離れようか」


 平然と話すダイヤに、ルビィは思わず声を荒げた。


「この町を放っておくの?」


 迫る戦に浮足立つ民衆と、死地へ赴くクオーツと、異形の戦士達。目の前で起こる事態を他人事と傍観を決め込むダイヤに苛立ったのだ。
 ダイヤは強い。ルビィの村を襲った魔王四将軍の内一人、ガーネットの軍勢をたった一人で食い止める程の強さを持ちながら、剣を手にすることも人々を守ろうと導くことも無く、戦火の届かぬ場所へ避難しようとしている。それは余りにも無責任に思えた。
 だが、ダイヤはすっと目を細め怪訝そうにルビィを見た。


「じゃあ、俺に如何しろって言うんだ。人間の味方をして魔族を殺せと?」
「……違う! そんなことは言ってない!」
「魔族の俺に、人間を助ける義理は無い。そうだろう?」


 その通りだ。ダイヤは聊か冷たいけれど人間のように振る舞うから、忘れてしまっていたが、魔族――それも魔王の末子なのだ。同族である魔族に加勢することはあっても、剣を向けることなど有り得ない。そう思うのに、ルビィの中に浮かぶダイヤは自分を守ってくれた背中ばかりだ。


「なら、如何してあの時、あたしを助けてくれたの?」


 村で迫害され、謂れの無い暴力を受けても尚、人間を守ろうと満身創痍になって駆け回っていたのもダイヤだ。
 矛盾するダイヤの行為が、考えがルビィには解らない。だが、ダイヤはそれをたった一言で切り捨てた。


「ただの気紛れだ」


 ダイヤの向ける青い瞳に、何の感情も宿ってはいない。当たり前のことを当たり前に言い放つダイヤに、ルビィの考えなど欠片も伝わっていないだろうし、気付こうともしないのだろう。ダイヤが解らない。冷たいのか、優しいのか、勝手なのか、自己犠牲なのか。


「お前はお前の好きにしろ。俺はお前に付いて来いだなんて一度だって言ったことは無い」
「そうだけど……!」
「俺を頼りにしてるなら、それは間違いだぞ。俺はお前の味方じゃない。身に掛かる火の粉を振り払っているだけだ」


 冷たく言い捨てたダイヤが背中を向ける。
 そんなのは嘘だと叫びたかった。自分勝手という言葉だけではダイヤを表現し切れない。苛立ちも無ければ悲しみも無い。恐怖も無ければ落胆も無い。在るのは興味の失せたがらんどうの瞳だけだ。ルビィが掛ける言葉を模索していると、ダイヤは黙って再び翼を広げた。闇夜に映える白亜の翼に民衆がざわめく。けれど、ダイヤは振り向くことも周囲を見渡すこともなく飛び立ってしまった。舞い落ちる数枚の羽根が石畳に薄い影を落とす。
 戦闘が始まったのだろう。激しい怒声と咆哮、金属のぶつかり合う音と悲鳴。戦場の雑音が波のように町に押し寄せ、或る者は膝を着いて祈り、或る者は家財を抱えて逃げ惑い、或る者は家の影に隠れ、或る者は戦火の届かぬ場所で傍観している。迫り来る魔王軍と戦っているのはあの異形の戦士達だろう。戦いに何の疑問も覚えぬよう洗脳された人形。
 足元にナイフが転がった。護身用にと町民の誰かが抱えていた者だろうが、逃げ惑う彼は気付くことなく立ち去ってしまった。ルビィは鈍色の刃を見下ろし、映り込む自分の漆黒の瞳を睨んだ。
 ダイヤの言っていることは間違っていない。間違っているのは、自分だ。中途半端な正義感をダイヤに押し付けて、自分こそ戦火の届かぬ場所で杞憂しているだけ。剣一つまともに振るったことも無いのに、ダイヤには魔王軍と戦って欲しいと望む。なんて勝手で、なんて愚かで、なんて醜悪で、なんて狡猾なのだろう。ルビィはナイフを拾い上げた。生まれて初めて握る刃は想像以上に重かった。ダイヤの携える剣はもっと重いのだろうと思った。


 戦場は苛烈を極めている。少数ながら魔族と同等の力を持つ異形の戦士達を先頭に、アリザリン軍が圧していたかと思えば魔王軍は両翼を広げ、展開し始めた。動きの俊敏さでは人間は魔族に勝てない。前後左右に包み込まれたアリザリン軍の敗北は目の前だった。勝負が付いたからと言って、魔王軍は攻撃の手を緩めたりしない。彼等はこの町を占領下に置きたいのではなく、人間を殲滅したいのだ。アリザリン軍が殲滅されれば次は町民を老若男女問わず虐殺するだろう。
 ルビィは、戦場と町を隔てる巨大な城門の前に立っていた。戦場の悲鳴が、怒号が鮮明に聞こえる。自然と震える体を抑え込み、ルビィはナイフを握る。


――何故、自分で考えない?


 何時か、ダイヤはルビィにそう問い掛けた。村では掟に従うことは生きることだった。考える必要なんて無く、与えられる仕事とノルマを熟していくだけが生活の全てだった。
 だが、それは違うのだ。それでは、あの異形の人形戦士と何も変わらない。
 人間だからとか、魔族だからとか、そんなのは関係無い。けれど、何の罪も無い人々の生活が、命が強者によって当たり前に奪われることは間違っている。どんな命にだって生きる権利がある筈だ。例え魔族が人間を殺す為に生まれた存在だとしても。
 城門には兵士が数人、そわそわと戦況を窺いながら右往左往するばかりだった。ナイフを持つルビィに気付く様子も無い。だが、その時。
 ざわりと、悲鳴にも似た声が背後から上がり、ルビィは振り返った。
 艶やかな黒髪を夜風に靡かせ、宝玉のような紅い瞳は煌々と、一切の迷いの無い足取りで此方へ向かう異形の人影。ぴんと張られた三角形の耳は月光を浴びて銀色を帯びていた。いる筈の無い魔族に民衆がざわめき、後ずさる。


「コーラル……」


 コーラルはルビィを見て微笑むと、城門の前に立った。武器を向ける兵士になど見向きもせず、鋭く伸びた爪を持つ右手を広げた。
 そして、一瞬。町を守っていた筈の城門はいとも容易く切り裂かれ、轟音と共に戦場を露わにした。想像以上に苛烈を極めた戦場は地獄絵図だった。飛び散る血液にルビィの足が竦む。コーラルはルビィの持つナイフを一瞥し、問い掛けた。


「戦うの?」


 ルビィは首を振った。


「守りたいの。この町の人を」


 その為に握ったことも無い武器を握ったのだ。はっきりと答えたルビィに、コーラルは微笑んだ。


「そう。解ったわ。でも、貴方は此処にいなさい」
「如何して……!」
「貴方に出来ることは何も無いから」


 そんなことは解っている。それでも退けないルビィに、コーラルは背を向けた。
 戦塵に呑まれるコーラル。同時に大勢の魔族の悲鳴が響いた。舞い上がる戦塵の中、影を縫うように黒い閃光が走り抜ける。人間には不可能な速度で、動きで、同じ魔族でありながらコーラルは自らの肉体だけで圧倒していく。突然現れた敵に魔王軍の隊列が乱れ、アリザリン軍が雪崩れ込む。戦局が覆ろうとしている。
 優しく微笑み、子どものように無邪気なコーラルも魔族だ。人間を殺す為に生まれた存在。他者を傷付ける為に持った力。本能のままに戦場を駆ける姿は正に鬼か夜叉。彼女が敵であっても味方であっても、民衆は魔族というだけで恐怖し逃げ惑う。兵士の手引きで民衆は宮殿内へと避難を始めた。ルビィは振るわれることの無いナイフをただぶら下げ、魔族を一撃の元に仕留めて行くコーラルを見詰めていることしか出来なかった。
 その一瞬。戦塵を切り裂くように一本の矢がコーラルの背に突き刺さった。体制を崩したコーラルが倒れ込む。途端に振り上げられた刃を寸でのところで躱すが、それまでと明らかに鈍った動きに魔族が一群となって襲い掛かる。クオーツが声を上げた。


「退け!」


 アリザリン軍は待ってましたとばかりに敗走を始めた。殿には動きの鈍くなったコーラルが、血塗れで爪を光らせている。
 街路を駆け抜けていくボロボロの兵士達。ルビィはいないもののように無視され、衝突されながらもコーラルを茫然と見ていた。
 ぞろりと立ち並ぶ魔王軍に、たった一人向き合うコーラル。クオーツは既に兵を率いて退いている。自分達に牙を向いたコーラルを、魔王軍は生かしては置かないだろう。コーラルも既に腕を振り上げることすら苦しそうなのに、その場から逃げようとはしない。
 敗走するアリザリン軍の上に、一枚の羽根が舞い落ちた。兵を率いていたクオーツは不意に顔を上げ、其処に人ならざる者の存在を確認すると共に駆けていた馬の足を止めた。ダイヤは感情を読ませぬ無表情でクオーツの前に降り立ち、羽根を畳むと真っ直ぐに青い瞳を向けた。クオーツの停止により、兵士もまた足を止める。ダイヤは言った。


「何処に行くんだ?」


 淡々としたダイヤの声に、クオーツがぐっと押し黙る。ダイヤはその答えを待つ間も無く問い掛けた。


「逃げるのか? コーラルはまだ、戦ってるぞ」
「……そんなことは、解っている……!」
「コーラルを見捨てるのか?」


 尚も問い掛けるダイヤに、苛立ったようにクオーツが叫んだ。


「違う! だが、俺はこの国の王だ! 民を守る義務がある!」
「――その民に、コーラルは含まれないのか?」


 クオーツは何も言い返さなかった。否、言い返す言葉を持っていなかった。
 だが、そのクオーツを弁護するかのように満身創痍の兵士が口々に言った。


「所詮、人間と魔族は相容れぬ」
「化物同士の戦いだ。我々にどうにか出来るものではない……」
「……お前も同意見か、クオーツ」


 青い瞳に落胆の色を滲ませて、ダイヤは問い掛ける。


「俺はこの戦争の勝敗に興味は無い。関与する理由も無い。だが……、コーラルはお前を信じていたぞ」


 ダイヤは目を伏せた。どちらの味方をするつもりも無い。ゆっくりと翼を広げ、宙に浮かび上がったダイヤは道を空けた。暫しの沈黙の後、クオーツは固く目を閉ざす。そして、その漆黒の瞳が現れると同時に全ての迷いは消え失せ、宮殿へと向かって走り出していた。ダイヤは敗走するアリザリン軍を見下ろし、コーラルがいるだろう戦場へと羽ばたいた。
 魔王軍の侵攻が止まっている。敗走するアリザリン軍を追撃しない理由は無い。
 ただ一つの理由を、除いては。
 崩された城門の前に影が一つ伸びる。黒い長髪は月光を反射し、魔王軍はじりじりと距離を詰めるが攻撃することが出来ずにいる。一歩でも間合いに踏み込めば殺すと、まるで人形のように項垂れたコーラルが爪を向けていた。紅い瞳は虚ろで、最早敵の姿など見えてはいないだろう。ダイヤはその様を上空から見下ろしている。
 こんなものは一時凌ぎだ。戦力で圧倒する魔王軍を相手にたった一人で、勝算がある筈も無い。小さな爪で、細い腕で、傷だらけの体で何を守ろうと言うのだろう。ダイヤが羽ばたく度に白い羽根が舞い落ちる。その時、声がした。


「ダイヤ!」


 叫んだのはルビィだった。上空のダイヤに呼び掛けると、黙って降下を始めた。
 ダイヤはコーラルの背中を見ていた。


「ずっと、このままか?」
「――え?」
「コーラルはずっと、このまま戦い続けているのか?」


 ルビィは、頷いた。他に答える術が無かった。ダイヤの目の光は無かった。怒りも悲しみも無く、在るのはただの空しさだけだ。
 ダイヤは剣に手を伸ばした。だが、その時、遥か後方から乾いた蹄の音が響き渡った。


「コーラルッ!」


 呼び掛けに反応するようにコーラルの肩が震えた。風のようにクオーツが駆け抜ける。来る筈の無い存在、いる筈の無い男。馬と一体になって剣を抜き放ち、崩れ落ちようとするコーラルを支えた。途端に魔王軍は各々の武器を携え雄叫びを上げた。クオーツはコーラルを支えながら剣を向けている。
 一斉に襲い掛かる魔王軍。ルビィが叫ぶより早く、ダイヤは剣を抜き放っていた。
 一閃――。銀色の閃光が、魔王軍には見えただろうか。ルビィは元より、クオーツやコーラルにもただ魔王軍が倒れ込んだようにしか見えなかった。薙ぎ倒された魔王軍に戦慄が走る。剣を構えたダイヤを知らぬ者が、魔王軍にいる筈も無い。


「――ダイヤ様だ」
「馬鹿な、如何してこんなところに」
「本物か?」
「だが、あれは間違いなく――」


 口々に囁き合う魔王軍を睨み付けるダイヤの瞳には鬼気迫るものがあった。常軌を逸したその剣技に敵う者はいない。
 どよめく魔王軍に、ダイヤは声を張り上げた。


「この国に手を出すな! これ以上の侵攻は、俺に剣を向けるものと思え!」


 ダイヤは一歩も引く気は無い。その中で、将らしき紫色の魔族言った。


「これはサファイヤ様の御意思ですぞ! ダイヤ様こそ、サファイヤ様に抗うおつもりか!」
「――ハッ、兄貴が怖くて放浪なんざ出来るかよ! それより、お前は如何する気だ?」
「――!」


 ダイヤから立ち上る陽炎にも似た怒気と殺気に、魔物は息を呑む。
 声にならない声を上げ、将は手を上げた。


「退くぞ!」


 一瞬のざわめきと共に、魔王軍は一斉に後退を始めた。統率の取れた動きにその余力を感じ得ない。宮殿まで退いたところで、殲滅は確実だっただろう。
 紫の魔族は最後に振り返った。


「この件、きっちりとサファイヤ様に御報告させて頂く」
「一昨日来やがれ」


 ダイヤは不敵に笑い、魔王軍はまるで夢でも見ていたかのように跡形も無く消え失せた。
 クオーツは崩れ落ちたコーラルを抱えたまま、その名を呼び続けていた。


「コーラル、しっかりしろ!」


 虫の息であるコーラルが、助かる見込みは万に一つも無いと誰の目にも明らかだった。掛ける言葉を持たないルビィはダイヤに寄り添い、その袖を握った。
 ぽつりと、コーラルの頬に滴が落ちた。


「死なないでくれ……!」
「クオーツ……」


 握っていたクオーツの掌を、コーラルが握り返す。虚ろに開かれた紅い瞳の光は今にも消えそうに儚い。


「何時か必ず……てね……」
「コーラル……?」
「魔族と人間が共存出来る世界……何時か……必ず……」


 噎せ返るコーラルの口から血液が零れ落ちる。
 流れる血も、見えている世界も同じなのに。ただ姿が異なるだけで虐げられ恐れられる。相容れることの無い種族の違い。それでも、コーラルは信じて疑わない。クオーツはその手を握り締めた。涙が溢れている。


「……ああ……! 必ず、創る! そうして世界が平和になったら、一緒に暮らそう」
「クオーツ……、ありがとう」


 握られていた手が、離れた。熱を失った体の心臓は停止したのだろう。閉ざされた目は二度と開かない。


「コーラル……!」


 声にならない絶叫が、響き渡った。明けて行く夜、照らされる町、繰り返し訪れる朝。それでも、死者は蘇らない。
 ルビィは嗚咽を噛み殺しながら、二人を見ていた。頬を幾筋もの涙が伝っている。ダイヤに表情は無い。だが、その目は伏せられ、浮かび上がる感情を押し殺しているようにも見えた。
 誰が悪いのか、如何すれば良かったのか、ルビィには解らない。誰もが皆、自分で考え、自分で責任を負い、自分で選んだ結果だ。誰を恨み憎んでも、何処に思いをぶつけても何も変わりはしない。ダイヤは顔を上げた。


「……俺は行く」


 声には抑揚も無く、表情は死んだように固い。ルビィはその袖を握っていた。


「あたしも……行くよ。付いて行く」


 付いて来いとは、ダイヤは言わない。肯定も否定も示さず、ただダイヤはクオーツとコーラルに背中を向けた。
 ルビィの腕を掴んだその手が震えていたのは、気のせいでは無いだろう。地平線の向こうから太陽が顔を出す。人間と魔族の死に絶えた戦場を照らす朝日の中、ダイヤは飛び立った。


 その後、風の噂で聞いた。
 アリザリンの町の中央には、戦での死者を悼む石碑が立ったことを。そして、その筆頭は魔族であるコーラルという女性であったと――。

6,Borderline.

6,Borderline.



 噎せ返るような血の臭い。舞い上がる戦塵を吸い込まぬように口元を布で覆いながら、屍累々の戦場を歩いている。先を歩くダイヤはやはり振り返ることも立ち止まることもなく、足元の死体をまるで石ころか何かのように飛び越えて行く。砂に塗れる臓器に眩暈を禁じ得ないルビィは頭を抱えたくなった。村の外から出たことも無かったルビィにとって戦争とは遠い世界の物語で、一生関わる筈の無いことだった。
 蹲る者は誰一人起き上ることも、目を開けることもない。アリザリンの都を攻めた魔王軍との戦いで見た戦場は、世界に有り触れた出来事なのだと嫌でも思い知る。


「こうなってしまえば、魔族も人間も変わらないな」


 ぽつりと呟いたダイヤの言葉は砂嵐に吸い込まれながらも、確かにルビィの耳に届いた。
 世界の覇権を賭けて争い続ける人間と魔族。そして、魔族は人間の怒りや憎しみという負の感情から生まれた存在なのだと言う。それでも、今を生きている魔族に滅びろだなんて言えはしない。だからと言って、人間が滅びる訳にも行かない。
 本当に、それしか道が無いのだろうか。どちらかが滅びるまで争わなければならないだろうか。


「ダイヤは……如何思うの?」
「何が?」


 背を向けたままダイヤが言った。ルビィは足元の死体を踏まぬように避けながら後を追う。


「どちらかが勝つまで、戦争は終わらないの?」
「さあな。俺には解らないし、興味も無い。それより、次の目的地が見えたぞ」


 戦場を越えた先、砂漠と森の境界。寂しい風の吹き付ける時代に取り残されたかのような、遺跡にも似た古都。区画整理が行われ商業が盛んだったアリザリンとは異なる貧しい都は人間の住処なのだろう。綻びだらけの城壁が無いよりはマシだと訴えるように風を受けている。
 茶褐色に染まる都は木造建築が主なのだろう。中央に聳える大きな教会の屋根がまるで天を貫くかのように聳えたっていた。魔族が攻める価値も無いと捨て置かれたような都でも、門番は都に入ろうとする旅人に武器を向ける。


「モーブの都だ」


 何食わぬ顔で、ダイヤはフードを深く被ったいかにも怪しい姿のまま門を潜ろうとする。案の定、門番によって道を阻まれた。
 睨みを利かせる門番に一枚の書状を突き出した瞬間、さっと顔つきを変えた門番は武器を引いて恭しく礼をした。ダイヤはさも当然というように堂々を門を潜り、ルビィは慌てて後を追った。
 界隈は昼間ということを疑わせるように静まり返っている。擦れ違う襤褸布を纏った老婆は胡乱な目付きで当て所無く彷徨い、それを導く者は一人としていない。中天に差し掛かる太陽から目を背け酒を煽る男、着衣すら煩わしいと服を脱ぎ捨て寝転ぶ女。泥だらけの子どもが塵の中を漁ってはポケットに仕舞い込んでいく。
 アリザリンの都と比べ、此処はなんと醜悪な地獄なのだろう。塵溜めのような、風の吹き溜まりのような腐臭を漂わす街中で、ルビィは反射的に口元を布で覆った。すると、其方に顔を向けることもなくダイヤが言った。


「そうしていろ。此処は年中、訳の解らない疫病が蔓延しているからな」


 真っ直ぐに歩いて行くダイヤは、道端に転がる腐敗の進んだ死骸に見向きもしない。誰も弔うことなどせず、まるで其処に在るのが当たり前のようにただ時間が流れて行くのを待っている。都の中央には立派な教会があるというのに、都を守る衛兵だっているのに、如何して人々の目はがらんどうのまま虚無を見詰めているのだろう。
 黙って進むダイヤを追うと、前方に更なる紫の門があった。それは城壁などより遥かに強靭で美しい白亜の外壁だった。
 ルビィが問い掛ける間も無くダイヤは門を押し開けた。途端に行く手を阻むように振り下ろされた無数の刃にルビィは肩を跳ねさせる。銀色の美しい鎧に身を包んだ兵士は抑揚のない声で言った。


「貴様、何用だ」


 ダイヤはフードを深く被り、先程と同じく一枚の書状を突き付ける。兵士は剣を鞘に納め、黙って道を開けた。
 拓けた視界に広がる賑やかな町――。それは背後で閉じた門の向こうがただの悪夢であったかのような美しさだった。古い木造建築ながら、綿密に組まれた建物の全ては長い年月風雨に晒されながらも当時の美しさを残している。所々に在る出店の下には僅かながら食材が並び、擦れ違う人々の顔は明るく笑顔すら覗かせる。


「この町は二重構造になっている」


 フードの下、くぐもった声でダイヤが言った。


「この中心部こそがモーブの都。……他はまあ、差し詰め塵捨て場と言ったところか」


 人を人とも思わぬダイヤの言いように不快感は感じたが、正にその通りだった。
 疫病が蔓延し、飢餓に喘ぐ人々のことなど微塵も気に掛けぬように生活を送る中心部の住人。彼等を分け隔てるものは一体何なのだろう。ルビィは問い掛けた。


「如何して……?」
「今に解る」


 ダイヤは天高く聳える教会に目を遣った。
 鐘の音が響き渡った。途端に辺りは水を打ったように静まり返り、通行人は足を止め道を引き返す。家に居た者は硬い顔付きで扉を開け、ボールを抱えた子どもも皆揃ってぞろぞろと教会へと歩き出す。
 人々の群れに紛れ込むように歩くダイヤを追ってルビィもまた教会へと足を向けた。
 教会前の広場は町中の人々が集まり犇めき合っていた。荘厳で巨大な教会の扉の前に木製の舞台と一本の柱がある。これから何が起こるのだろうと、人々の隙間を縫って様子を窺うルビィの耳に、静寂を打ち破る悲鳴が届いた。
 狂ったように泣きじゃくる女の悲鳴と嗚咽。逃げ出そうとする女を人形のように甲冑の兵士が引き摺り、彼女の両手を拘束する鎖が石畳を打っては嘆くように鳴る。集まった人々は表情一つ変えず、その舞台をただ見詰めているだけだ。女は必死の形相で暴れ狂うが、兵士は有無を言わせぬまま舞台上の柱に荒縄で縛り付けられ、今も助けを求めて金切声を上げる。教会の扉が開いた。
 紫を基調とした雅やかな衣を纏った初老の男が、何人もの美しい若者を引き連れて舞台に上がる。犇めく人々が口々に言った。


「教皇様だ」
「教皇様がいらっしゃった」
「教皇様……」


 まるで呪文のように唱えられる言葉は、初老の神父らしき男を指しているのだと悟った。
 白髪混じり髪を帽子の下に隠し、神父は民衆の前に立つ。後ろで影のように歩いていた男が進み出て、声を張り上げた。


「――この女は人間でありながら、魔族に加担し、国家を破滅へと陥れようとした大罪人である! よって、この場で火炙りの刑に処す――」


 民衆がざわめく。溢れ出た馬事雑言は柱に縛られた女へと向けられ、薪が用意されるのを急かすように囃し立てる。
 広場中に溢れるもの憎悪と憤怒。矛先は身動き一つ出来ぬ程に縄で打たれたか細い女だ。異常な事態に混乱するルビィは、無意識にダイヤの袖を握り締めていた。
 男が炎を掲げる。ダイヤは身動き一つしない。


「――この聖なる炎が、不浄なる魂をも浄化するであろう」


 炎が、薪に放たれた。
 爆ぜる炎は瞬く間に大きくなり、女の足元を舐める。女の狂ったような悲鳴とは裏腹に、民衆からは笑みと拍手の乾いた音すら零れていた。
 肉の焼ける臭いが、女の呪いの言葉が、民衆の狂喜が、広場を埋め尽くす。教皇と呼ばれる初老の男は眉一つ動かすことなく燃え上がる炎を見物していた。ルビィは縋るようにダイヤの腕を掴んだ。


「な、何なの、これは!」
「――魔族狩りさ」


 フードの下で、凍るような冷たい声でダイヤが言った。
 人間と魔族は長きに渡って世界の覇権を廻って戦争を続けている。人は魔族を拒絶し、魔族は人を屠る。魔族は恐ろしいと思う。けれど、今も焼かれる女性が一体何をしたのか。否、何をすれば火炙りになどされなければならないと言うのだろうか。
 炎が柱もろとも女を焼き尽くし、黒焦げになった死骸だけが残ると呆気無く舞台は終了した。教皇は終に一声も発さぬまま、何事も無かったかのように教会へと戻って行く。教会の扉が閉まったと同時に民衆もぞろぞろとまた元の生活に戻って行く。悪夢から目覚めた心地で、それでも目の前の揺らぐことのない現実を怯える目で見ながらルビィはダイヤの腕を握る。
 ダイヤは言った。


「魔族を始めとして、それに加担した者を処刑する儀式だ。尤も、その多くは謂れなき罪を負わされた民間人で、人々を恐怖によって支配する為に行われているのだろうな」
「そんな……!」


 同じ人間でありながら、支配される者と支配する者がいる。殺すことを許される人間と、殺される義務を持つ人間がいる。
 歪な人々の感情の中で、ルビィはただその不条理をダイヤにぶつけることしか出来ない。


「こんなの、酷過ぎる!」
「だが、これがお前達、人間だろう」


 フードの下で、青い瞳が鋭く光った。
 それでも表情を変えないダイヤに、ルビィは噛み付くように言った。


「違う! こんなの、こんなのおかしい!」
「強者が弱者を従えるのは当然のことだ。俺に言わせれば、お前の方が余程おかしいぜ」


 呆れたような溜息を零し、ダイヤは目を細めた。先程までの鋭い光は消え失せ、まるで其処には何も存在しないかのような虚無感の奥に、決して拭い去ることの出来ない人間への諦観と侮蔑を見た気がした。


「種の繁栄の為に手段を問わないのは人間も魔族も同じだ。お前が否定する理由が、俺には解らない」
「種の繁栄とか、世界の摂理とか、そんなことは解らないよ……。ただ、人間には感情がある」


 ダイヤは子ども染みた動作で首を傾げた。恐らく見た目以上に年齢を重ね、ルビィよりも遥かに長く生きて来ただろう男とは思えない。


「感情とは何だ?」


 それはこれまで思うまま傍若無人に振る舞って来たダイヤから投げられる質問ではなかった。彼は何時だって自分の感情、延いては己の心に従って生きていたダイヤに解らぬ筈が無い。そう思うのに、幼子のように小首を傾げるダイヤの言葉には、ルビィを小馬鹿にするような様子もはぐらかすような響きも無い。ただ純粋な、疑問だ。
 咄嗟に言葉を繋げずルビィは黙り、弾かれるように顔を上げた。


「感情とは、心よ。誰かに優しくしてもらえたら嬉しかったり、馬鹿にされたら悔しかったり、大切な人がいたら抱き締めたいと思う心のことよ」
「ふうん」
「あなたにだって、あるでしょう」
「さあな。俺はただ、本能のままに生きるだけだ。――尤も、魔族は人間のように私利私欲の為だけに同族を虐殺したりしないがな……」


 燃え滓と化した檀上の女性の遺骸を眺め、ダイヤは呟くように言った。そのまま視線は扉の奥に消えた教皇を追うように虚空を彷徨った後、静かにルビィに向けられた。何処か陰を帯びた無表情に、青い瞳に昏い色を滲ませる。
 人間と魔族は解り合えないのかも知れない。僅かな問答の中に大きな溝を見たような絶望にも似た心地でルビィは問い掛けた。


「あなたには大切な誰かというものは、存在しないの?」


 ダイヤは――、答えなかった。それは否定であり、肯定であった。
 黙って背を向けたダイヤは、何時もの迷いの無い足取りで歩いて行く。僅か一枚の薄布で覆い隠された魔族の証に気付く者は誰一人としていない。数分前まで親の仇のように憎しみ罵倒した女性は魔族ですら無かったのに殺され、魔族の証を隠したダイヤは平然と街中を歩く。
 何が正しくて、何が間違っているのだろう。これが本当に正しい形なのだろうか。ルビィには解らない。比較するべきものを持たない、殆ど無知とも言えるルビィにとっては、小さな世界で培った独り善がりな価値観が全てだったからだ。
 黙って歩き続けたダイヤは一つの建物の前で足を止めた。ダイヤが先程『塵捨て場』と称した場所とを隔てる白亜の外壁に沿う古びた街並みの一角だった。固く閉ざされた扉は侵入者を拒むように沈黙している。ダイヤは扉を二度、爪先で打った。すると、扉は沈黙を保ったまま音も無く開き、二人を招き入れた。一見すると薄く脆そうな木造の扉の内側は金属で覆われ、二重構造のこの都のようだと思った。
 建物の中に入ると、ダイヤは平然とフードを脱いだ。布の下に追い遣られていた銀髪はダイヤの頭部に沿うように張り付いている。煩わしそうに肩の埃を払うダイヤは顔を上げて目の前の影に青い瞳を向ける。瞬きと同時に透き通るような銀色の長い睫が震えた。


「久しぶりだな、ダイヤ。元気そうで何よりだ」


 親しげにダイヤの名を呼んだ青年は、人懐っこい笑みを浮かべて言った。健康的に焼けた浅黒い肌と、黒色と呼ぶには聊か色素の抜け過ぎた栗色の瞳と髪。人間と魔族を判別する基準の曖昧さにルビィは黒曜石のような目を瞬かせる。ダイヤは少し、笑ったようだった。


「お前こそ。思っていたよりは、元気そうだな。――ルブライト」


 ルブライトと呼ばれた青年は擽ったそうに、屈託無く笑う。遠くの山々に沈もうとする夕日が締め切られたカーテンの僅かな隙間の向こうから血のように紅い光を零す。直に夜が訪れる。
 ルブライトはルビィに視線を向けた。


「ダイヤが人を連れて来るのは初めてだな。……初めまして、俺はルブライト。人間だ」


 ルビィが抱える疑問を察したように、ルブライトは笑った。ルビィは栗色の瞳の奥を覗きながら、会釈する。


「あたしは、ルビィ。宜しくお願いします」
「こちらこそ」


 人当たりの良い笑顔と快活な口調で、まるで歌うようにルブライトは言葉を紡ぐ。それが心地良くて、ルビィは先程の惨劇から抱えていた昏い気持ちが晴れて行くような気がした。
 ダイヤは勝手知ったる他人の家と言わんばかりに、部屋の中央に置かれた椅子に腰掛けるとそれまで背負って来た荷物を足元に落とした。決して手放すことの無かった剣も腰から下ろし、立て掛ける。それまで張り詰めていたダイヤの警戒心は影を潜め、ルブライトへの信頼がその態度に滲み出ている。そんなダイヤを見たのは初めてだった。


「ルブライト、水くれ。あと、飯」
「はいはい。全くお前は相変わらずだな」


 少し困ったように笑いながら、ルブライトは調理場のような質素な流し台に立つ。決して広くは無いけれど、ルブライト一人で生活するには持て余しそうでもある。何より、中央の大きな円卓は無数の椅子で取り囲まれ、此処を訪れる人間がダイヤだけでないことを証明している。
 様子を探るルビィの存在すら気に掛けないように、ダイヤは手渡されたコップ一杯の水を飲み干した。音を立ててダイヤがコップを置くと、立ち尽くすばかりのルビィに視線を向けてルブライトが言った。


「何も無いけれど、寛いでくれ」


 ルビィは少し考え、遠慮がちに椅子に座った。ダイヤと空席を一つ挟んだ右隣りだった。
 ルブライトはルビィの前に一杯の水と、ダイヤに御代りを注ぐと再び調理場に立った。慣れた手付きで食事の用意を進めるルブライトの背中を眺めながら、ルビィは声を潜めてダイヤに問い掛けた。


「此処は一体何? あの人は何者?」


 ダイヤは欠伸を噛み殺しながら、面倒そうに視線も向けずに答えた。


「此処はルブライトの家で、あいつは俺の餌係だ」
「答えになっていないわ」
「――此処は所謂、地下組織の隠れ家だよ」


 はい、どうぞ。
 香ばしく焼けた肉と、新鮮な野菜の盛り合わせをダイヤとルビィの前に並べてルブライトは言った。興味も無さげに肉へと手を伸ばすダイヤの肩越しに、微笑みを崩さないルブライトへ視線を向ければ言葉は続けられた。


「俺達はリターナー。モーブの都を牛耳る教皇を亡き者とし、自由を勝ち取る為に立ち上がった革命組織だ」


 それまでの穏やかな物腰を忘れさせるような、凛とした目でルブライトは言った。

7.The cold heart.

7,The cold heart.




 そして、太陽は死に絶えた。


 夜風が揺らすカーテンの隙間から、天高く聳える教会の刃の切っ先にも似た鋭い屋根の影、何かに怯えるような卑小さで白い月が周囲の雲を暈しているのが見える。死んだように静まり返る夜の街には衛兵以外に人は無く、定時を知らせる教会の鐘の音が水面の波紋のように静かに染み渡るばかりだった。ルブライトは珍客の来訪に、僅かに配給されるばかりの食材で料理に腕を振るい、その痩躯からは想像も付かない大食漢であるダイヤは泥のようにベッドに横たわって眠っている。寝返りを打つダイヤと共に白亜の翼が動き、ふわりと小さな羽毛が一つ舞った。
 白木のサイドテーブルを挟んだ一方のベッドには、世界の悲劇など何一つ知らないような穏やかな寝顔の少女がいる。魔族と旅をする少女の背負っているものが何かなど知りはしないが、ルブライトは少しだけ笑った。酷く卑屈な自嘲に程近かった。
 手元に置かれたグラスを呷ると、微かにベッドの軋む音がした。


「――行くのか?」


 何時の間に目を覚ましたのか、声の主はベッドに腰掛けたまま己の剣を引き寄せていた。寝惚け眼とは思えない鋭い光を放つ青い瞳はルブライトを捉えて離さない。苦笑しつつ、ルブライトは頷く。ダイヤは鼻を鳴らして勢いよくベッドから立ち上がると、剣を腰に差した。
 ふと横に目を遣り、ダイヤは溜息を零す。


「おい、起きろ」


 荒っぽくベッドを蹴ると、寝惚け眼のルビィがゆるゆると上半身を起こした。目を擦る仕草は幼い子どものようだった。


「……ダイヤ、何処に行くの?」
「来れば解る。いいから仕度しろ」


 窓辺の椅子の背凭れに掛かった、御決まりの上着を頭まですっぽりと被ると、ダイヤは早々に背を向けた。寝起きの愚鈍な脳に、深呼吸で酸素を送り込みながらルビィもまた、すっかり色褪せた上着を被る。
 黙って扉を開けるルブライトもまた、その姿を隠すように深くフードを被っていた。夜風が冷たく吹き付ける街路に人影は無い。それでも尚、人目を凌ぐように裏路地を進むルブライトは黙ったまま背中を向けている。
 やがて、一行は国家を二分する白亜の壁に行き当たった。何の変哲も無い石の壁だが、翼を持たないルビィにとってそれは越えることの出来ないものだ。塵溜めと称される町に取り囲まれたこの町は、彼等より遥かに水準の高い生活を送っている筈なのに、ルビィには牢獄のように感じられた。ルブライトは振り返らぬまま、しゃがみ込んで壁を見詰める。そして、カチリと錠の落ちる音がした。


(隠し扉――)


 ただの壁であった場所に、ぽっかりと穴が空く。漂う腐臭に口元を覆い、ルビィは隣のダイヤを見た。だが、ダイヤは顔色一つ変える事無く小さな扉を潜るルブライトの後を追う。
 以前、来たことがあるのだろう。ダイヤの後を追いながらルビィは考える。扉の向こうは、塵溜めと称するに相応しいこの世の地獄のようだった。路上に横たわる人間が寝ているのか、死んでいるのかも解らない。静まり返る貧民街は昼間以上の不気味さを漂わせていた。
 ルブライトが何処へ向かおうとしているのかなど解らない。微かに感じる無数の気配にルビィは自然とダイヤの傍に身を寄せていた。それでも、ダイヤは視線も寄越さずにルブライトの後を追う。その青い瞳には何が見えるのだろう。
 人気の無い貧民街の傍ら、煤けた変哲のない家屋の薄汚れた扉を押し開ける。闇に沈む町の中で微かな明かりが漏れていた。


「――ルブライト!」


 彼がその姿を現した瞬間、家屋の中から無数の視線が集まった。ルブライトは微かに口角を釣り上げて笑う。
 仄かな明かりの中に浮かぶ壮年の男が歩み寄る。襤褸布を纏うだけの貧民街の住民に比べ、整った身なりは恐らく中心街の人間なのだろう。ルビィらには一瞥もくれぬまま、ルブライトの傍に向かうと興奮したように顔を紅潮させてその手を取った。


「待っていたよ、ルブライト」
「ああ、遅れてすまない」
「……其方は?」


 男はルブライトの後ろに続く二人を怪訝そうに見る。ダイヤは興味も無さそうにそっぽを向き、ルビィはフードを下ろすと小さく会釈をした。
 ルブライトは口元に僅かな笑みを残し、誇らしげに言った。


「此方の女の子はルビィ。それから、」
「俺のことはいないものと思ってくれて構わない。無関係の第三者だ」


 未だフードを深く被ったまま、凛と背筋を伸ばしてダイヤは言った。彼等にはダイヤの青い瞳も銀髪も見えはしないだろう。だが、奥で椅子に座っていた一人の若者が声を上げた。


「そうはいかない。此処に素性の知れない者を招き入れる訳にはいかない」


 周囲の人々が揺れるように同意する。囁き合いの中、ダイヤは隠す気もない舌打ちを一つすると勢いよくフードを下ろした。途端に、蝋燭の灯に透ける月光のような銀髪が静かに揺れた。
 面を上げたダイヤの宝石のような青い瞳が真っ直ぐに前を見据える。不可触の輝きに、人々は悲鳴にも似た声で驚嘆し、恐怖した。だが、ダイヤはそんな人々の反応など気にもせずに言った。


「見ての通り、俺は魔を司る者だ。だが、これだけは言っておこう。俺はお前等の敵ではないし、味方でもない。ただ、この町の結末を見届けに来ただけだ」


 部屋の中は水を打ったような静寂が支配した。魔族と敵対し、畏怖して来た人間がそう簡単に受け入れられる筈も無い。
 ルブライトはわざとらしく乾いた咳払いをし、室内にいる全ての者に届くようはっきりと言った。


「こいつの身元は俺が保障する。教皇派の回し者ではないし、魔王軍とも関わりを持たない」
「リーダーがそう言うなら……」


 渋々と言った調子で先程声を上げた若者がルブライトをリーダーと呼ぶ。壮年を越えただろう逞しい男達を差し置いて、自分と然程変わらないだろう年齢のルブライトを、ルビィは尊敬にも似た眼差しで見詰めた。真っ直ぐに背筋を伸ばすルブライトからは自信が溢れ、向けられる信頼にも納得がいく。
 一方で、話題の張本人であるダイヤは自身が弁解することもなく、不機嫌そうにそっぽを向いて鼻を鳴らすだけだ。そんなダイヤとルビィを無視して男達は中央の大きなテーブルを囲んで頭を突き合わせた。潜めた声からその内容が穏やかではないことは容易に想像が付く。
 蚊帳の外となったルビィが退屈そうに壁に背を預けると、勝手気ままに傍にあった椅子を引き寄せ立膝で座るダイヤが意地悪そうに口角を釣り上げて言った。


「昔話をしてやろうか」


 ルビィの向けた視線を肯定と取り、ダイヤは人々の会談などまるで興味が無いように話し始めた。


「このモーブは今から十年程前に一度、魔族によって滅ぼされた都だ。中央街を取り囲む塵溜めのような廃墟はその名残だ」


 潜めようともしない堂々としたダイヤの声に、何人かの若者が憎々しげな目を向ける。だが、何処吹く風とダイヤは口を動かし続ける。


「運良く生き残った住民は絶望の中、僅かに残された希望に縋るようにして都の復興に努めた。その希望というのが、この町の連中が崇拝する光を唯一絶対の神とする宗教だ」
「光……」


 ルビィの呟きに、ダイヤは無表情に頷いた。


「まず初めに、人々の心の拠所として教会が再建され、教皇等が組織された。だが、光在る処に闇は生まれる。復興が進み、町が再び機能し始めた頃、一人の男が訴えた。何時までも光などという神の偶像に縋っていてはいけない。自分達は光から自立し、自身等が希望の光となり生きて行かなければならないと」


 其処で、ダイヤはくつりと皮肉っぽく嗤った。青白い面を蝋燭の紅い光が妖しく照らす。


「人間ってのは訳が解らねぇ。自分の都合で勝手に生み出した神を、今度は自ら滅ぼそうってんだ。ちゃんちゃら可笑しいぜ」


 隠しもせず人間を卑下し嘲笑うダイヤには、本当に解らないのだろう。だが、ルビィはとても笑う気になどなれない。
 それまで輪の中心となっていたルブライトが、振り返って言った。


「それを面白く思わない教皇派は、その男を魔族に加担した反逆者だとして、人々の前で火炙りにして処刑した。――俺の、父だった」


 ルビィは押し黙った。会談していた面々が苦い顔で俯き、或いは二人を忌々しげに睨む。
 口を挟んだルブライトを一瞥し、ダイヤは笑っていた。突き刺さる無数の憎悪の視線が居た堪れず、ルビィは目を伏せて問い掛けた。


「誰も、止めなかったの?」


 其処で初めて、ルブライトはふいっと視線を外した。


「皆、怖かったのさ。父の言葉に賛同する者もいたが、表立って頷くには教皇派の権力は強過ぎたし、神に縋らず生きるには魔族への恐怖が余りにも深過ぎた」

 それを一層可笑しそうにダイヤが嬉々として聞いている。魔族であるダイヤは人間の複雑に入り混じる感情など理解出来ないし、するつもりも無いのだろう。だから、愚かだと、ただの寓話のように嗤っていられるのだとルビィは思った。
 ルブライトは節目だらけの煤けた天井に目を向けたまま続けた。


「その処刑を切欠に、人々は教皇派により脅威を感じ、平伏すようになった。教皇派は人々の反応に味を占め、罪無き者を魔族に加担した反逆者として処刑し、自分等の力を誇示し、支配するようになった」
「酷い……!」


 ルビィの絞り出すような声を余所に、終にダイヤは吹き出した。
 場違いな程に声高々に大笑いするダイヤに、一人の若者が堪らず叫んだ。


「何が可笑しい!」
「何が、って」


 可笑しく堪らないとダイヤは目尻に涙すら浮かべながら、腹を抱えている。激昂する若者を周囲の男が諌めるが、その怒りは収まりそうにない。若者は今にも殴り掛かりそうに、噛み付くように声を荒げた。


「魔族には解らないだろう! 所詮、心を持たぬ化物だ。自由を勝ち取ろうとする我々の戦いも、ルブライトの辛苦も……!」


 ルブライトは視線を足元に落とした。嗤い続けるダイヤに、若者は尚も続けた。


「命を張って真の自由を訴え続けたルブライトの親父さんを、魔族のお前が嗤うな!」


 ダイヤは目尻の涙を拭いながら、その面に笑みを浮かべたまま言った。


「俺に言わせて貰えば、お前等が英雄視するルブライトの親父こそが、この町で続く悪魔の所業の切欠じゃねぇか。ルブライトの親父がいなけりゃ、こんなことは起こらなかったんじゃねぇか?」


 途端に、誰もが閉口した。ダイヤの言葉に言い包められたのではない。自らを無関係の第三者と名乗ったダイヤの酷い言い様に、言葉を失ったのだ。静まり返る室内で、ダイヤだけが可笑しそうに喉を鳴らす。其処で、漸くルブライトが顔を上げた。


「――そう、かも知れない」
「リーダー!」
「だが、だからと言って現状を放置する訳にはいかない。父のしたことがもし、過ちだったのなら、それを正すのは息子である俺の仕事だ」


 ダイヤが、くつりと笑う。


「立派だな、罪人の息子」
「――ダイヤ!」


 叫んだのはルビィだった。それでも続ける言葉を持たないのは、どんな言葉もダイヤに響かないと解っているからだ。
 静寂が降り立った室内で、ダイヤはふつりとそれまでの笑みを嘘のように消し去って窓の外に目を向けた。


「もうじき夜が明ける。帰ろうぜ、ルブライト」


 自分の放ち続けた刃のように残酷な言葉の数々を忘れたように、平然とダイヤは言う。
 ルビィには、解らない。魔族が、ダイヤが解らなかった。ルブライトを呼ぶダイヤは酷く親しげに微笑んでいる。ルビィの脳裏に過るのは、魔族でありながら人間を愛し、守る為戦って死んでいったコーラルの横顔だった。
 魔族が皆、冷たいとは思わない。そして――、ダイヤが冷たいだけの生き物だとも、ルビィには思えなかった。
 ルブライトは大きな溜息を吐いて、顔を上げた。その面には清々しい程の笑みが浮かんでいる。


「……そうだな。今日は、此処で解散しよう。教皇派に気付かれれば全てが水の泡だ」


 そうして隠れ家を後にするルブライトの後を追うルビィの耳に、人々の蔑むような囁きが聞こえた。


「所詮、天から見下ろす鳥に、地べたを這いずる蟻の気持ちなど解らない」


 その例えは的を得ていると、内心で同意し掛けたルビィの耳に、微かな声がした。


「解るさ、お前等なんかよりもずっと」


 聞き間違いかと顔を向けた先、ダイヤは既に背中を向けていた。
 ただ、夜明けの迫る空に羽根を広げた無数の鳥の影が確かに浮かんでいた。

8,Reminiscence.

8,Reminiscence.


 とうとう迎えが来たのかと、思ったのだ。

 民衆の前で、理不尽な罵詈雑言を浴びながら炎に呑み込まれた父が、子どものようにしゃくり上げる母に埋葬された晩のことだった。裏切り者だと、危険分子だと、白い眼で睨まれながら母は口元を真一文字に結んで、黒焦げで異臭を放つ父の遺体を背負って町から随分と離れた岩場の隅に小さな墓を建て、自害した。後を追えるようにと、母は最期の優しさに小さなナイフを残してくれた。
 首筋に突き立てられた刃を滑らせれば、鮮血が噴水のように吹き出す。事切れた母はもう何も言わない。――俺はただ、無心に穴を掘り続けていた。
 顎から滴り落ちるものが汗なのか涙なのか、俺には解らなかった。死して尚、人目を避けるように建てられた墓を空しいと思うけれど、隣に母の墓を作らなければならなかった。歪な石で固い地盤を削るのは中々に困難で、死体となった母がそうであるように、俺の手もまた泥だらけで、血塗れだった。
 何が間違っていたのだろうか。何が正しいのだろうか。如何すれば父は火炙りになんてならずに済んだのだろう。如何すれば母はこんなところで隠れるようにして自らに刃を突き立てずに済んだのだろう。解らないよ。
 卵のように体を丸めさせた母を暗い墓穴に押し込んで、掘り起こされた赤土を被せて行く。
 ねぇ、如何して?
 如何してなの?
 お母さん、知ってるかな。俺、今日で十歳になったんだ。
 親父の酒場を継ぐのが、俺の夢だったんだよ。いつも賑やかで親父の誇りだった酒場は取り潰されて見る影も無いけど。
 女の子が欲しかったと言いながら俺の頭を撫でてくれたお母さんの為に、可愛い孫を作ってやりたかったんだ。
 ねぇ、如何してなの?


「――人間ってのは、訳が解んねぇな」


 大きな満月を隠すように、現れた影は碌な足場一つ無い小高い岩山から見下ろしていた。人間にはある筈の無い月光に照らされた白亜の翼が、降り注ぐような満点の星空に浮かんでいる。音も無く羽ばたく其れは、不機嫌そうな仏頂面で俺の前に降り立った。
 白く滑らかな肌と、透き通るような銀髪と、宝石のような青い瞳。背中の翼が無くとも一目に人外のものであると解るのに、胸の中に沸き立つのは恐怖でもなければ驚愕でもなく、ただ純粋な感動だった。
 其れは墓と呼ぶには余りに質素な墓石の前にしゃがみ込み、なあ、と声を掛けた。


「苦しくないのか、土の中ってのは」


 俺に向けた言葉ではなかった。答えがある筈も無いのに、其れは少し苛立ったように声を荒げる。


「黙って無いで、何とか言ってみろよ。なあ」
「言える筈無いよ」


 其処でぴたりと其れは動きを止め、ゆっくりと俺を見た。その美しい面には純粋な驚きが浮かんでいる。


「もう、死んでるんだから」
「そうなのか。そいつは、悪かったな」


 其れは再び墓石に向き合うと、白亜の翼を器用に畳み込んで手を合わせた。
 人ではない其れが魔族だと気付いたのは、その時だった。満月を背負ったその姿が余りに幻想的で、美しくて、まるで天から来た神の使者のように思ったのだ。其れは少し眉を寄せて謝罪の言葉を口にする。悪かったな、安らかに眠れ、と。
 其れは再び俺に目を向けた。


「お前、こいつ等の血縁者か?」
「……俺の、親父と、お母さん」
「ふうん。お前の、名前は?」
「ルブライト……」


 其れが、瞬きをする。長い銀色の睫が静かに震えた。


「お前が殺したのか?」
「違う」
「じゃあ、誰が殺したんだ?」


 母が命を絶ったナイフが、今も冷たい土の上に転がっている。現実味を帯びない幻想的な容姿からは想像も付かない粗暴な口調で、此方を気遣う神経など微塵も持ち合わせていないような言葉で、其れは平然と話し掛ける。だからか、悲劇とも呼ぶべき両親の死は意識から切り離されてしまった。


「自分で命を絶ったんだ」
「――自分で?」


 俺の言葉が信じられない其れは訝しげに眉を寄せ、目を細める。


「理解出来ないな。如何して自分で死ぬ必要がある」


 それを、俺に言わせるのか。
 黙り込むと、其れはふんと鼻を鳴らして立ち上がった。


「死んで何が解決する。死ねる度胸がありながら、出来ないことがあるとは思えないな。お前の親は、負け犬か」


 違うと、叫びたかった。お前になんて解らないと、訴えたかった。けれど、言葉は何の形にもならず喉の奥に消える。何も言い返せない自分が悔しくて情けなくて、ただ俯いて拳を握り締めた。


「おい、ルブライト。顔を上げろ」


 俺より背の高い、青年と呼ぶべき容姿を持つ其れは顔を覗き込んだ。悪意など無かったのだろう。其れの目は純粋で、好奇心に満ちている。


「何で、泣いてるんだ?」


 心底解らないらしい其れは、弱ったと眉を下げている。


「何処か痛いのか? 腹が減ってるのか?」
「違う……」
「じゃあ、何で泣くんだ。頼むから、泣かないでくれよ。お前が泣いていたら、俺まで悲しくなっちまうじゃねぇか」


 その顔は本当に、今にも泣き出しそうだった。如何して、お前がそんな顔をする必要がある。あんなに酷い言葉を投げ付けて置いて、如何してそんな優しく労わるんだ。
 お前は魔族だろう。人間の敵なんだろう。なのに、何でそんな顔をするんだ。何で。


「――俺」


 覗き込んで来る青い瞳が余りに綺麗で、意味の無いことを言ってしまう。


「今日で、十歳になったんだ。……おめでとう、って、言って欲しかったんだ」


 おめでとう、おめでとう。生まれて来てくれてありがとう。生んでくれてありがとう。机を囲んで食事して、ケーキを食べて、抱き締めて欲しかったんだ。頭を撫でて欲しかったんだ。
 冷たい母の死体を墓穴に押し込んだ。溢れた血液が両手を濡らした。


「抱き締めて、欲しかったんだよ……!」


 其処で漸く、涙が零れ落ちた。堰を切ったように溢れ続ける涙と嗚咽。其処に町の人間は誰もいないと解れば、声を張り上げて泣き出した。
 驚いたように目を真ん丸にしていた其れは、暫く俺を見ていたかと思うと、静かに強く、優しく抱き締めた。突然のことに言葉を失った俺は抱き締める細い腕を不意に掴んでいた。


「おめでとう、ルブライト」


 棒読みの言葉が、ぎこちない腕が、困ったように下げられた眉が、穏やかな青い瞳が、其処にあった。
 人間の敵で、悪で、害である筈の魔族。強大な力と残虐な心で破壊の限りを尽くそうとする魔族。化物だと恐れられ、忌み嫌われている魔族。
 ゆっくりと離れた其れは、白い歯を見せて悪戯っぽく笑った。鋭い犬歯が見えるが、それ以上に無邪気な笑顔から目が離せない。人間なんかより遥かに美しく、優しく、強い。


「生まれて来て、良かったな」


 他人事のように呟きながら、幼子にするように頭を撫でる。其れは物言わぬ冷たい墓石を一瞥すると、何か悪戯を思い付いた悪童のような笑顔を浮かべて言った。


「死んだお前の親の代わりに、俺が言ってやるよ。お前が生まれたこの日に、お前が死に絶えるその時まで」


 魔族の寿命は人間などより遥かに長い。一見青年に見える彼もまた、自分には想像も付かない程の年月を重ねて来たのだろう。そう思うと、向けられる笑顔は何か深い意味があるような気がして来る。


「だから、もう泣くな」


 びしり、と額に指を弾き、其れは笑った。子ども染みた仕草が余りにも不釣り合いで、虚を突かれたように瞠目すれば其れは欠伸を噛み殺しながら白亜の翼を広げた。一陣の風が短い前髪を揺らした。
 そのまま飛び立とうと、闇に浮かび上がるような羽根に力を込める其れに、叫んでいた。


「お前、名前は!?」


 其れは、口角を釣り上げて笑った。皮肉っぽい笑みがやけに様になる。


「ダイヤだ。忘れんじゃねぇぞ」


 ダイヤは、高度を落とした月夜に向かって飛び立った。羽ばたきが風の中に掻き消されていく。満天の星空に吸い込まれていくような背中を見詰めながら、魔族である其れの名を口の中で繰り返す。ダイヤ。子どもっぽい笑みが瞼の裏に焼き付いていた。



 階段を踏み外したような浮遊感と共に、ルブライトは目を覚ました。明け切らぬ窓の外には人影一つ無い静かな通りがあった。
 何時の間に眠ってしまっていたのだろうと目を擦りながらルブライトは寝惚けた頭を抱える。リターナーの会談があった。ダイヤの歯に衣を着せぬ物言いに激昂した仲間の声が今も耳に残っている。ルブライト自身は、ダイヤの言葉など受け流して気にもしていないのだけれど、自分のことのように憤り叫んだ仲間の優しさに微笑む。心優しい、大切な仲間だ。
 ダイヤの勝手な言い分も、無遠慮に言い放つ言葉の数々にももう慣れた。それだけ、ダイヤとの付き合いは長い。母が死んで天涯孤独となったあの夜の約束以来、ダイヤは一年に一度だけ現れる。あれからもう十年以上の月日が流れたけれど、律儀に約束を守るダイヤは押し付けがましく感謝の言葉を求めたりしない。ダイヤにとってはただの退屈しのぎ、暇つぶしに過ぎないのだから。
 今年もやって来たあの白亜の翼を持つ魔族は、組織内に余計な軋轢を生み出して置きながら、既にそんなことは興味が無いと記憶にすら残していないのだろう。くつりと喉を鳴らすと、それは皮肉めいた自嘲となった。
 その時、背後から何の殺意も無い小さな気配が動いた。


「――ルブライト」


 遠慮がちに名を呼ぶ声に振り返ると、其処にはダイヤが初めて連れて来た人間が居心地悪そうに立っていた。早朝と呼ぶにもまだ早い時刻に目を覚ますとは思えず、眠れなかったのだろうと見当を付けてルブライトは殊、優しい声で言った。


「如何したんだ、ルビィ?」


 漆黒の髪と瞳を持つ間違うこと無い人間の少女が、不安げに瞳を揺らす。何処にでもいるだろう何の特徴も無い少女だ。ダイヤが連れているのが不思議な程に。
 ルビィは何か言い淀むように数回口を開閉させると、終に意を決したように言った。


「さっきは、本当にごめんなさい」


 『さっき』という言葉に、あの会談からそれ程時間は経過していないのだと気付いた。机に向かって書き物をしながら眠ってしまった時間は短かったらしい。ルブライトは苦笑した。


「君が気にすることは何も無いよ」
「でも、ダイヤが酷いことを……」


 ふつりとルブライトの中で淀んだ感情が浮かぶ。ダイヤのことで、如何してこの少女が謝らなければならないのだろう。まるで、お前よりも自分の方がダイヤに近いのだと暗に告げられているようで苛立つ。お気に入りの玩具を取られたような、子ども染みた醜い嫉妬だ。ルビィに悟られぬように内面を押し隠し、ルブライトは答えた。


「ダイヤとは付き合いが長いから、慣れてるんだ。相手を思いやることも無く、思ったことをそのまま口にする。本能のまま生きる野生動物に近いんだ」
「……」
「だからこそ、嘘や誤魔化しは無い。口は悪いけど、悪意は欠片も無い」


 微かな優越感と共に、ルブライトは微笑む。不満げに唇を尖らせるルビィに、ルブライトは内心で安堵する。
 魔族の中でも一線引くダイヤの中に、自分以外の人間に踏み込んで欲しくない。それが何故なのか、ルブライトにも解らなかった。


「……ところで、そのダイヤは何処に?」


 姿の見えないダイヤを探して視線を巡らすが、ルビィが首を振るだけだった。


「さぁ。勝手に何処かに行っちゃったよ」


 行先も告げないで、自分勝手に振る舞うその様は本能のままに生きる野生動物と同じだ。魔族にしても規律くらいあるだろう。そういう面も含めて、ダイヤは特殊だと思うのだ。


「そうか。ま、朝には帰って来るだろうさ。さて、俺もそろそろ寝ようかな」


 わざとらしく大きな背伸びをして、ルブライトは立ち上がった。ルビィは漸く不安げに揺れる瞳を消し去り、微笑んだ。
 ――その時だ。
 叩き壊されんばかりの勢いで扉が叩かれたかと思うと、此方の返事など必要無いと言わんばかりに蹴破られる。咄嗟に身構えることも出来ずに硬直するルブライトとルビィの前に、ずらりと無数の凶刃が頭を上げて並んでいた。

9.My friend.

9.My friend.


 何かが起こったらしい。
 それまで沈黙を守っていた教会を遥か上空から見下ろしていたダイヤは、人の密集する広場の喧騒を耳にしながら、肉眼では捉えられぬ速度で町の片隅へと滑り込んだ。突き抜けるような青空に浮かぶ日輪は今日も今日とて変わることなく地上を照らし続けている。
 悲鳴、怒号、罵声が混じり合った広場は噎せ返るような熱気に包まれていた。姿を見られぬようにと深くフードを被ったダイヤは人垣を潜り抜けて騒ぎの元へと突き進んだ。それはまるで、先日の公開処刑こと火炙りの刑を彷彿とさせる人々の狂気だった。嫌な予感を胸にダイヤは踵を上げる。そして、その視線の先に見覚えのある少女がいた。
 縄を打たれるみすぼらしいその少女は、数人の男達に引き摺られるようにして教会へと連れ込まれていく。それがルビィであると気付くと同時にダイヤは舌打ちをした。僅かに口を開いた教会の門に吸い込まれる少女は必死に何かを叫んでいた。伸ばされた手は誰にも届かず、声を聞こうとする者など一人もいない。同じ人間でありながら、見て見ぬ振りをする人間達に辟易する。――酷く、苛立つ。
 ルビィが教会の中に消えると途端に、人々の狂気は霧散して漣のような囁き合いに変わった。ダイヤは気配も無くその場を立ち去ると拠点であったルブライトの自宅へと向かった。自分が離れていた数時間の間に一体何があったというのだろうか。
 町の彼方此方で囁き合う人々の話題は専らあの騒ぎだった。けれど、見向きもせずダイヤは真っ直ぐに歩き続ける。
 見慣れた木の扉を蹴り開ければ、反動で衝突した扉の金具が空しく鳴って響くだけだった。気配一つ無い室内は蹂躙され、整頓されていたものが落下し踏み躙られている。独り暮らしのルブライトの家には見合わない程の大人数が押し寄せたようだと、足元に落下したグラスの破片を見下ろしながらダイヤは溜息を零す。


「ルブライト」


 呼んでみるが、当然ながら声は返って来ない。期待などしていないつもりが、つい肩を落とした。
 壁に刻まれた幾筋もの切傷は間違いなく剣によるものだ。丸腰の人間を相手に、武装した大人数が襲い掛かったのだ。命があっただけで幸運なのだろうとルビィの姿を思い浮かべて苦笑した。
 背後の気配に、ダイヤは振り返った。深く被ったフードの下で、透き通るような青い瞳が煌めいた。それは相手を射殺す程に鋭い視線だった。短い悲鳴を上げた男が後ずさる。聞き覚えのある声だなとダイヤは思った。


「お前、昨日会合にいた奴だな。ルブライトは何処だ」
「ルブライトさんは――」


 其処で口籠った青年は目を伏せた。握り締めた拳が微かに震えている。
 大きな瞳に涙を滲ませながら、絞り出すように声を上げる。


「今朝、教皇派の奴等が乗り込んで来て――」


 ち、と零した舌打ち。ダイヤは青年の横を風のように擦り抜けた。
 向かった先は先刻の広場だった。既に人々は散り始めているようだ。――否、集まり始めているのかも知れない。目の前に設置された物々しい舞台と木の十字架が、運ばれる薪が、これから何が起こるかを物語っているようだ。ダイヤは胸の中に沸々と沸き立つ苛立ちを拭い去るように、その目立ち過ぎる容姿を覆い隠していた衣を脱ぎ捨てた。風に舞い上がる銀髪と、真っ直ぐ正面を見据えた青い瞳。人間とは明らかに異なる姿に周囲の人間がざわめき戦く。それにすら苛立ち、悲鳴を上げる人間を一瞥することなくダイヤは畳み込まれていた白亜の翼を広げた。
 人々の喧騒が遠くなる上空で、ダイヤは腰の剣を引き抜いた。色取り取りに飾られたステンドグラス。銀色の閃光が走った。
 悲鳴にも似た騒音の中で砕かれた硝子の破片が広場や教会内に落下する。ダイヤが見下ろす先に、縄を打たれ頭垂れるルビィの姿があった。今にも表に引き摺り出されようとする少女と、縄を握る無数の人間。音に驚いて人間達が顔を上げるよりも早く、一陣の風が通り抜けて行った。
 冷たい風の中で、鮮血が霧のように舞った。
 悲鳴を上げる間も、無い。
 一瞬にして沈黙の肉塊へと変貌した人間だったものに、ルビィは喉の奥から空気の抜けるような音を一つ発した。荘厳な教会の中に浮かぶ地獄絵図。一振りで剣の血を払うと、ダイヤは胡乱な眼差しでルビィを見た。


「お前、何してんの?」


 否、その目はルビィを見てはいない。その奥にずらりと並ぶ教皇派と呼ばれる武装した人間の群れを捉えていた。
 感情の読めない無表情で、青い瞳だけが必要以上に雄弁だった。ルビィはその鬼火にも似た青い瞳の中に燃え盛る憤怒を見たような気がした。


「魔族が、如何して此処に……!」
「お前等が余計なことをするからさ」


 剣を腰に構えたダイヤの目に浮かぶ燃え上がる炎。ルビィは身動き一つ出来ず、その惨劇を見届けることしか出来なかった。
 それは一瞬の出来事だった。


「これは俺のものだ。返してもらうぜ」


 血の池の中で、返り血一つ浴びることなくダイヤは言った。漸く消え去った憤怒の炎の奥で、再び凍り付くようながらんどうの瞳が浮かぶ。ルビィは動きを封じる縄が切り離されたことにも気付かぬまま座り込んでいた。
 子どものような所有欲で、大勢の人間の命を一瞬にして奪い去るダイヤ。魔族と呼ばれる生き物。誰かの為に動くことなど無い。ただ只管、何処までも自分の本能に従って生きている。
 ダイヤは人の亡骸を小石のように避けながら、ルビィの前に立った。


「面倒を掛けるんじゃねぇ」
「ダイヤ……」


 その時、教会の外がわっと騒がしくなった。何事だと顔を向けるダイヤに、ルビィは思い出したように叫んだ。


「ダイヤ! ルブライトが――!」


 突然、教皇派が押し寄せたルブライトの家。訳が解らないまま拉致されたルビィとルブライト。何者かの密告によってリターナーの存在が、リーダーの居場所が知れたのだ。抵抗したルブライトは多勢に無勢のまま連行され、ルビィはあらぬ疑いを掛けられて拷問される寸前だった。そして、ルブライトは今――。
 騒がしい広場の様子に、全てを悟ったらしいダイヤは無表情だった。微かに、ルブライトの声がするような気がした。
 何かを叫んでいる。何かを訴えている。


「――如何して」


 それが誰の声なのか、ルビィには解らなかった。ダイヤだったのか、ルブライトだったのか、それとも。
 命を削るように声を上げるのは。


「如何して、戦おうとしない!?」


 ルブライトの声だった。狂気の中でただ一人、伝わる筈の無い言葉を必死に訴えている。
 誰も助けてくれない。誰も共感してくれない。誰も信じてくれない。だけど、それでもルブライトが声を上げる。ダイヤは声の方向に目を向けたまま身動き一つしない。


「ダイヤ!」


 このままでは、ルブライトは殺されてしまう。今頃、あの悪趣味な舞台の上で処刑されようとする青年を思い浮かべてルビィは叫んだ。微動だにしないダイヤは、漸くゆっくりとルビィを見た。


「何だ?」


 何事も無かったかのように問うたその声に動揺は微塵も無い。ダイヤの中にあるのは野生動物と同じ生きる為の本能だけだ。己を突き動かす衝動に従って迷うことも無ければ、悩むことも無い。種族の確執を感じながら、それでもルビィは声を張り上げる。


「このままじゃ、ルブライトが殺されちゃうよ!」
「だから?」


 意味が解らないというようにダイヤは、子ども染みた仕草で首を傾げた。


「俺は魔族だぜ? 如何して、人間を助けなきゃならねぇんだ?」


 それは、至極尤もな言葉だった。世界の覇権を争う人間と魔族は相容れぬ敵同士。殺すことはあっても助けることなど有り得ない。
 ただ、それがただの魔族ならば。ルビィは奥歯を噛み締めた。


「魔族とか、人間とか、そんなの関係無いよ! 今助けを求めているのは、あなたの友達でしょ!」


 見間違いかと思う程の刹那、ダイヤの瞳が微かに揺れた。見える筈の無い処刑台を見詰めるダイヤの目は遠い。けれど、その時。
 カツン、と。静寂を破る硬質な靴底の音が鳴り響いた。


「見事な太刀筋だ」


 場違いな拍手の乾いた音が反響する。ダイヤは剣をぶら下げたまま、暗がりの奥にいる人影に目を細めた。
 ルビィは引き攣るような悲鳴を上げた。物々しい儀式用の衣服を纏う老人は、その年齢とは見合わないしっかりとした足取りで二人に近付いて行く。
 教皇と呼ばれる男は、その目に血のような紅い光を映して薄く笑っている。


「まさか、この町に私以外の魔族が紛れ込んでいるとは思わなんだ」


 くつくつと喉を鳴らす男の口元から、蛇のような長い二枚舌が顔を出す。黄色だった肌は死体のように蒼褪めている。それは明らかな異形、魔族の象徴だった。
 目の前の現実が信じられないとルビィは目を丸くした。


「嘘、でしょ? 教皇が……」


 魔族狩りを執り行う張本人が、魔族だなんて。否定の言葉を幾ら探しても目の前の現実は変わらない。
 全ては仕組まれていたのだ。ルビィどころか、ルブライトすら解らない頃からずっと、この町は魔族の掌で踊らされていた。魔族の口車に乗って人間は互いを殺し合っている。
 教皇は笑っている。


「人間とは実に愚かで面白い生き物だな。何十年にも渡り、簡単な口車に乗って自滅していることにすら気付かない」


 ルビィは拳を握った。
 なら、ルブライトは、ルブライトの父は、これまで処刑された大勢の人々は。
 握り締めた拳を軋ませるルビィを横目に見下ろしながら、ダイヤは胡乱に教皇に目を遣る。だが、教皇は未だ乾いた笑いを漏らしている。


「馬鹿馬鹿しいだろう。こんなにも脆弱で、愚鈍な生物が地上を統べろうと言うのだから、実に馬鹿馬鹿しい!」


 ぽつりと、何かが零れ落ちる音がしてダイヤは目を向けた。
 滑らかな肌を滑り落ちた一粒の滴。悔しそうに拳を握り締めて、ルビィは俯いている。その下に生まれる涙の跡に、ダイヤはゆるゆると顔を上げた。一瞬、皮肉そうに口角を釣り上げる。


「俺も魔族だ。同情なんて大層な感情は持ち合わせちゃいねぇ」


 その手が剣を握った次の瞬間、教皇の首が飛んだ。瞬きすら間に合わぬ一瞬に、ルビィは勿論、教皇すら何が起きたのか理解出来ないだろう。
 青緑の血液を吹き出して、頭部の切り離された胴体が仰け反って倒れる。目を丸くした教皇の生首が、驚愕を隠せずに頻りに瞬きを繰り返した。ゆらりと佇むダイヤの剣から滴り落ちる青緑の液体。未だ呼吸を続ける生首に、一歩一歩と距離を埋めながらダイヤは目を伏せていた。
 青白く変色した頭部が、無言で距離を埋めていくダイヤに必死に叫んでいる。それは余りに非現実的で異様な光景だった。


「貴様、何をする! 同じ魔族でありながら、血迷ったか!」
「血迷う? 俺が?」


 馬鹿馬鹿しい、と先刻の教皇の言葉を引用するようにダイヤは笑う。教皇は身動き一つ出来ず、近付く影にただ怯える。


「人間の味方をするつもりか!」


 音も無く近付くダイヤから表情が消えた。それまでの軽薄な笑みすら消えれば、其処に浮かぶのは寒気がする程の静けさだ。


「別に、人間の味方って訳じゃねぇさ。ただ」


 教皇の目の前に立ち、ダイヤは剣を構えた。


「お前のやり方は気に食わねぇ」


 青い瞳が硬質な光を放つ。それは刃の切っ先にも似た危なげな光だった。
 掌に力が籠められるその刹那、生首を化した教皇が大きく口を開いた。吐き出されたヘドロのような色をした霧に、ダイヤは思わず口元を覆って距離を取った。瞬く間に空間を占拠しようとする濃霧を避けるように、ダイヤは翼を広げてルビィを抱えて飛び立った。勢いよく侵入した先、割れたステンドグラスへ向かって羽ばたいた筈が、その体はぐらりと揺れた。
 足元からじわじわと迫る濃霧の中に、ダイヤはルビィを抱えたまま墜落した。反射的にルビィを庇ったダイヤは、強かに打ち付けた腰を摩りながら微かに呻く。胸を掻き毟りたくなるような不快感にルビィは首を抑えた。既に教皇の姿は見えない。起き上ったダイヤの舌打ちがした。
 濃霧の中に、確かな影が無数に浮かび上がる。それは羽虫の大群のように二人を取り囲んでいた。


「雑魚が、時間稼ぎのつもりか」


 薄暗い教会に差し込む光が、浮遊する影を鮮明にする。掌大の羽根を持つ夥しい数の深緑の蟲がさざめいていた。
 ダイヤの目は一瞬、脱出口を睨んだ。けれど、僅かな逡巡の後、青い瞳は覚悟を決めたように目の前の数え切れない蟲に向けられた。


「耳と目を塞いでいろ」


 背中にルビィを庇うように隠しながら、ダイヤははっきりと言った。


「俺から離れるな」


 剣を握り直したダイヤの目に何が映るのだろう。ルビィは、言われた通りに身を寄せた。
 蟲は一斉に襲い掛かった。無数の羽ばたきがまるで地鳴りのように響いた。たった一本の剣で迎え撃つのは余りにも無謀だ。けれど、それでも。


「退けぇえ!」


 塞いだ筈の耳を劈くようなダイヤの怒号が教会を揺らした。振り絞るように、その命を削るように叫ぶのは魔王の末子である筈の魔族だ。
 ダイヤは一見すれば無茶苦茶な太刀筋で、けれど確実に蟲を駆逐していく。それでも沸いて現れる蟲は数を減らすどころか前にも増して増殖しているかのように視界を覆っていく。教会の外では今もルブライトの処刑が執り行われようとしていて、その命の限りを告げるように民衆のざわめきが届く。
 ルビィは、目を開けた。こんなところで蹲っていてはいけない。これでは、誰も救えない。守れない。家族を失ったあの日のように、死地へと出向くコーラルを見送ったあの時のように、何も出来ずに指を咥えて見ているのはもう嫌だ。
 霞む視界に、全身に深緑の返り血を浴びたダイヤの姿が映る。
 待っていても助けは来ない。誰かを恨んでも呪っても、状況は変わらない。――戦わなければ、何も得られない。
 ルビィは、足元の刃を掴んでいた。


「ダイヤぁ!」


 濃霧のようにダイヤを取り囲もうとする蟲に向けて、ルビィは剣を振り下ろした。初めて握った刃は酷く重く、赤黒い血液に塗れていた。だが、刃に確かな手応えがある。落下する蟲は翼を失い足元で苦しげに蠢いていた。そして、蟲の紅い瞳がルビィを見た。
 巨大な生物のように蟲の大群は標的をルビィに変え、一気に襲い掛かった。ダイヤの悲鳴のような切羽詰まった声が響いた。

 其処で、視界は真っ白になった。

 目の前に広げられた白亜の翼は、襲い掛かる蟲から庇うように沈黙している。同様に両手を広げたダイヤの頬を、人間と変わらぬ紅い血液が伝う。咄嗟に上げた悲鳴は声にならなかった。ルビィはただ、目の前の生き物の名を呼ぶしかなかった。


「ダイヤ!」


 けれど、ダイヤの目は酷く冷静だった。元来の落ち着きを取り戻したかのように、傷だらけの体でダイヤは剣を握り締める。
 そして、次の瞬間。ダイヤは竜巻のように回転すると勢いよく翼を羽ばたかせた。突然の嵐のような強風に、身構えることも出来なかった蟲達は一直線に壁へと叩き付けられた。一瞬にして一掃された蟲にも、死亡した教皇の首にも目を向ける事無く、ダイヤは再び羽ばたいた。それは害する者を駆逐する為でもなく、自由を求めて飛び立つ為でもなく、ただ一人の人間の為だった。
 割れたステンドグラスから勢いよく飛び出したダイヤは、教会の前で十字架に張り付けられたルブライトに向けて手を伸ばした。


「ルブライト――!」


 薪をくべられ、今にも点火されようとするルブライトが顔を上げる。暴行を受けただろうその面は赤く腫れ上がり、ところどころに青痣が浮かぶ。血塗れのままルブライトは、予想だにしていなかった姿に目を見張る。
 突風が、舞台上の人間を吹き飛ばす。如何にか教会を脱出したルビィが見たのは、転げ落ちるように十字架を破壊するダイヤの姿だった。民衆の動揺がざわめきとなって広がる。
 落下したダイヤが、ルブライトの自由を奪う縄を切り落とす。血塗れで息を切らすその様は、魔王の末子と呼ぶには余りに惨めだった。白亜の翼は紅と深緑の血液に染まっている。ダイヤは叫んだ。


「てめぇ、ふざけんなよ!」


 青い瞳が揺れるのは、酸欠の息苦しさ故ではないだろう。ダイヤの起こした突風によって消えた『聖火』の松明が空しく転がっている。


「勝手に、死にそうになってんじゃねぇよ!」


 駆け寄ったルビィの目に映ったのは、握り締めた拳を震わすダイヤの姿だった。
 魔族でありながら、人間のように剣で戦い、人間の為に息を切らせている。
 急変した事態を呑み込めない民衆のどよめきの中、教皇派だろう初老の男が叫んだ。


「貴様、魔族の分際で余計なことを!」
「その男は罪人だ! そいつはこの聖なる炎で――」


 既に消えた松明に縋るように、男が叫ぶ。民衆の中にもまた、それを支持する声が上がる。
 けれど、それでもダイヤは揺るがない瞳で、張り詰めた声で懸命に叫んだ。


「何が罪だ!」


 片膝突いたまま、取り囲む民衆に向けて、処刑を強行しようとする教皇派に向けて、ダイヤが声を上げる 初老の男がびくりと肩を揺らした。


「この町に罪人がいるとするなら、それはお前等だ!」


 何を訴えるのだろう。それで何が変わるのだろう。何の為に叫ぶのだろう。――魔族で、ありながら。
 ダイヤは鋭い視線を周囲に巡らせ、忌々しげに言った。


「不平不満を零しながらも、自らの弱さを楯に声を上げることも、剣を取ることもしなかった。ありもしない救世主に縋って、変化することに怯えて、他人の不幸を願うその古臭く惨めで愚かな心こそが、この町の罪だろう!」


 誰も、何も言わなかった。否、言える筈が無かった。
 この町で罪無き人々を処刑し続けたのは魔族ではなく、他でもない仲間を疑い怯えた人間達だ。


「何故、戦わない! 何故、向き合わない! 何故、自分で考えない!」


 幾ら待っていても、幾ら願っても祈っても、戦わなければ本当の自由は得られない。傷だらけの体が、血塗れの剣が、喉を裂くような声がその全てを魂に訴えている。
 空気に亀裂が入ったような気がした。ダイヤの魂を揺さぶるような叫びが木霊する。と、その時。


「教皇が――!」


 叫んだのは名も知らぬ町民だ。
 教皇が魔族であったこと、全ては仕組まれていたこと。瞬く間に広まる声に民衆の表情が変わって行く。そして――、人々は声を上げた。それは天上を揺らすような歓声だった。
 長い教会の支配から解き放たれた民衆の歓喜が溢れる。或る者は涙を零し、在る者は隣人と抱き合い、或る者は救えなかった命を嘆いた。過去の栄華に縋ることも出来ぬ教皇派は崩れ落ち、水面下で活動を続けていたリターナーが教会の滅亡を知らしめるように十字架を叩き落した。
 舞台の片隅で、ぜいぜいと呼吸を繰り返すダイヤは急変する事態を茫然と見守るだけだ。ルビィはその傍に寄り添った。


「ダイヤ……」


 体中の傷は、恐らく数刻としない間に治癒するのだろう。染められた白亜の翼もまた、洗い流されるのだろう。それでも、他でも無い人間の為に訴えたあの叫びは決して消えない。
 ルビィは、ダイヤの手を握った。人間と変わらぬ細く温かい掌だった。


「くそ……」


 こんな筈じゃなかったと、悪態吐くダイヤにルビィは微笑んだ。
 傍若無人で、自分勝手で、歯に衣を着せることも誰かを思い遣ることもなく、ただ本能という衝動のままに生きているダイヤ。冷たくて恐ろしいと思うこともある。――けれど。
 ルビィの脳裏に過るのは、あの薄暗い教会で身を挺して自分を守ろうとしたダイヤの姿だった。
 ――けれど、ただ一人の友達の為に、意地も矜持もかなぐり捨てて走ったあの姿こそが、本当のダイヤの姿なのだろう。人間でも魔族でも関係無く、ただ大切なものを守る為に剣を握ったあの後姿こそが、彼の本質なのだろうと思った。


「――ダイヤ」


 仲間に支えられながら、歓喜に満ちた町の喧騒の中でルブライトが声を掛けた。ダイヤは恨めしげに睨み、舌打ちと同時に立ち上がった。
 ルビィに短く「行くぞ」と告げるダイヤの翼は既に治癒している。染み着いていた血液は珠のように滑り落ちて行った。


「待ってくれ、ダイヤ!」


 羽ばたこうとするダイヤに、ルブライトは追い縋る。面倒臭そうにダイヤは半身になって目を向けた。


「この町の結末はもう見届けた。俺が此処に留まる理由は無ェよ」
「ダイヤ……! 俺はまだ、聞いていない」


 それは遠い約束。ダイヤがこの町を訪れるただ一つの理由。
 けれど、ダイヤは無表情のまま吐き捨てるだけだ。


「それはもう、俺の役目じゃないだろう」


 ダイヤの目に映るのは、大勢の仲間に囲まれたルブライトの姿だった。両親の粗末な墓石の前で咽び泣いたあの子どもではない。
 翼を広げたダイヤは、ルビィの手を掴んだまま大空に飛び立った。浮雲にも似た白亜の翼は見る見る間に小さくなって行く。速度を上げたダイヤは振り返ることなど無く、そしてきっと、二度とこの町を訪れることはないだろう。
 届く筈の無い声を、ルブライトは零した。浮かべられた微笑みは、満身創痍であるにも関わらず力強かった。


「ありがとう、ダイヤ。――お前に逢えて、良かった」


 歓声に掻き消された声は、やがて空気に霧散して行った。

10.Rules.

10,Rules.



 どさりと、肉の塊が砂塵に塗れ落下した。

 澄んだ金属音が鳴ると、一陣の風が周囲に立ち込める鉄の臭いを運び去ろうと吹き抜けた。足元に散らばる無数の肉片と、砂に染み込む血液。ルビィは口元を押さえながら、右手に銀色の刃を握っていた。
 正面で、刃を鞘に納めたダイヤが無表情に立っている。青い瞳には命を失った肉片も、ルビィの姿も映ってはいない。遠くに運ばれていく砂塵を眺めているようだった。
 モーブの都を後にしたダイヤとルビィは、荒涼たる岩砂漠を宛ても無く突き進んでいた。ダイヤが何処に向かおうとしているのかは解らない。それを問うこともルビィには躊躇われていた。ルブライトと別れてから、ダイヤは何かを深く考え込んでいるようだった。


「行くぞ」


 足元の砂を踏み付けて、ダイヤは翼を広げることも無く歩いて行く。如何やら、単身ならまだしも、ルビィを連れて長時間飛ぶのは疲れるらしい。同様に、ルビィもダイヤに抱えられて慣れない高空を進むのは神経が疲弊してしまう。
 先を急ぐ訳でも無い。ただ世界を見て回るという二人が地に足を下ろすのは当然の選択だった。それは安全な上空に比べ、多くの危険が伴うのもまた然りだ。人を喰らおうとする魔族、金品を狙う盗賊、血に飢えた獣。襲い来る脅威から身を守る為には強くなるしかない。
 ルビィの手にぶら下げられた刃は誰かを傷付けることも、攻撃を防ぐことも無かった。全ては一瞬にしてダイヤの剣技によって一掃された。
 人も魔族も獣も、ダイヤの前では同じことなのだとルビィは思う。
 魔族は人の負の心から生まれた存在だとダイヤは言った。だから、魔族によっては本能的に人を襲い喰らう。その為に進化した爪や牙、毒や鱗を持っている。そして、人の生み出した武器を其の怪力で襲うこともある。
 恐ろしいと、思う。生殖能力で劣る魔族が、その個体能力の高さで人を殲滅しようとしている。それがこの世界の現状だ。


「ねえ、ダイヤ」


 振り返りもしないで歩いて行くダイヤに、漸くルビィは声を掛けた。
 何処に向かおうとしているのかとは、訊く気も無かった。


「如何して、ダイヤは強いの?」
「俺が強いと思うのは、お前が世間知らずだからだ」


 自分より強い者など、この世界に幾らでもいる。
 ダイヤはそう言って歩き続ける。今、ダイヤが何を考えているのかなんてルビィには解らない。そうして言葉を探している間に、二人の先には岩砂漠が消えて痩せた赤土の大地が現れた。
 生命の育たぬ不毛な砂漠と殆ど変らない。点在する緑が食べられるとは思えない。モーブの都を離れてから随分時間が経っているように思う。空腹に思わずルビィは溜息を零す。空腹を訴えないダイヤとルビィの体力は全く違う。疲れたな、と歩調の鈍ったルビィを一瞥し、ダイヤが言った。


「おい、家があるぜ」


 ルビィの肉眼では捉えられない先に、小さな木造の家があった。ダイヤは隠す事無く苛立ったように舌打ちし、膝に付くルビィの手を取った。
 その瞬間――。ルビィの足は宙に浮かんでいた。
 剣を握って来たとは思えない程に華奢な掌が、ルビィの腕を掴んでいる。上から聞こえる羽ばたきと共にダイヤは一直線に其の家の前まで駆け抜けた。
 赤い屋根の、みすぼらしい質素な家だった。人が住んでいるとは思えない。けれど、微かに香る食べ物の匂いにルビィは引かれて行く。ダイヤは腰の剣を握ったまま、今にも剥がれ落ちそうな扉を叩いた。
 数秒の沈黙。扉が、軋みながらゆっくりと開いた。


「はい……?」


 隙間から此方を窺うように顔を覗かせたのは、美しい女性だった。
 漆黒の艶やかな髪を腰まで伸ばした、色白の細身の女は、怪訝そうに二人を見ている。ルビィは言葉を失った。視線は、女性の宝石のように美しい碧の瞳を捉えている。
 人ではない。――魔族だ。
 けれど、ダイヤは欠片も気にすることなく言った。


「旅をしている。食べ物を、分けて欲しい」


 自らの容姿を隠す事無く、ダイヤは凛と背を伸ばしている。この痩せた大地に食べ物が豊富にあるとは思えない。
 無茶な要求だ。ルビィがそう思った時、女性は花が綻ぶように微笑んだ。


「お疲れでしょう。――どうぞ」


 女性は何の警戒も無く、二人を招き入れた。


「恩に着る」


 ダイヤもまた、女性を疑うこと無く家に足を踏み入れる。取り残されたルビィだけが動揺しながらもダイヤの後を追った。
 家の中は外見とは異なり、綺麗に整頓され衛生的だった。料理をしていたのだろう。竈で鍋が煮え立っていた。
 女性に通された四足の椅子に腰掛け、ダイヤは食事の用意をする後姿を見ていた。何も言わない彼が何を考えているのかルビィには解らないけれど、警戒していないとは思えなかった。


「あの……」


 湯気の立つスープを運ぶ女性に、ルビィは遠慮がちに言った。女性は微笑みを浮かべたまま首を傾げる。


「如何して、こんなところに……?」


 女性は微笑んだまま、答えなかった。ダイヤはスプーンを握って、失笑したようだった。
 そんなの勝手だろう。ダイヤが嗤う。その通りだ。スープを一口飲み下し、ダイヤが言った。


「食える時に食っておくべきだ。お前は弱い人間なんだから」


 それは人間が弱いと言っているのか、ルビィが弱いと言っているのか。ルビィには判別できなかった。
 ルビィと向かい合うように座り、スープを啜る女性の仕草は精練されている。
 スープにパンを浸しながら、女性が言った。


「旅をされているのですね」


 答えないダイヤに代わって、ルビィが言った。


「あ、はい。私はルビィと言います。こっちはダイヤ」
「良い名前ね。私は、エメロード」


 エメロードは微笑む。美しい女性だ。――否、美しい魔族だ。人に牙を向くとは思えない。
 碧の瞳はルビィに微笑み掛けると、無言で食事を続けるダイヤに問い掛けた。


「あなた、魔族?」
「ああ」
「人と旅をしているの?」
「非常食みたいなもんだ」


 酷い言い草にルビィがねめつけると、ダイヤは鼻を鳴らした。
 エメロードは興味深そうに二人を見比べると、嬉しそうに言った。


「旅は楽しい?」


 ルビィには答えられない。楽しい思い出ばかりではない。それ以上に、辛いことが多かった。
 ダイヤが答えた。


「閉じ籠っているよりは、退屈しないな」


 皮肉で言ったのではないだろう。エメロードが困ったように笑った。
 ダイヤは何時だって自分勝手だ。相手のことを思い遣ることも無く、自分の思ったままの言葉を口にする。
 そんなダイヤの不躾な言葉も気に病むことなく、エメロードは微笑みを絶やさなかった。


「もうじき日が暮れるけど、泊まって行く?」
「いや、結構だ。近くに村があった筈」


 茜色に染まる空を一瞥し、ダイヤは言った。エメロードはほんの少しだけ形の良い眉を下げて頷いた。


「西に向かって進めば、オリーブの村があるわ」
「そうか。助かった」


 ダイヤは素早く衣服を整え立ち上がった。同じ場所に留まらないその姿は風のようだ。ルビィは二人分の空になった皿を重ね、上着を肩に掛ける。直に日が暮れる。日光の無い夜は当然、冷える。この場所が砂漠のような極寒の地になるかは解らなかったが、魔族のダイヤは兎も角、人間であるルビィには命に係わる。
 開け放った扉に、ダイヤは振り返ることなく進んで行く。見送りに出たエメロードは少しだけ、寂しげだった。会釈し後を追うルビィは後ろ髪引かれる思いだった。最後に振り返る。エメロードはこれから食事の片付けをするのだろう。長い袖を捲り上げたところだった。
 その白く細い腕に、醜い火傷の痕があった。引き連れた皮膚は変色し、醜く歪んでいる。エメロードはそのまま家の中に戻り、扉は閉ざされた。
 振り返ることのないダイヤは早足に西へと歩き続ける。ルビィは走った。


「ダイヤ、あの人の腕――」
「余計な詮索するんじゃねぇ」


 吐き捨てたダイヤは、それ以上何も言わなかった。気付いていたのだろうか。ただ興味が無いのだろうか。ルビィには解らない。
 漸く追い付くかと言う瞬間、ダイヤは足を止めて振り返った。視線をすっと泳がせ、ダイヤは白亜の翼を広げた。
 音も無く羽ばたいたダイヤは空を裂くように引き返していく。ルビィの目が追い掛ける。その時、火柱が上がった。
 轟々と唸る業火が、エメロードの家を呑み込もうとしている。ルビィは息を呑んだ。


「エメロード!」


 燃え盛る紅蓮の炎は群青に染まった空すらも照らし出す。炎の前に降り立ったダイヤの小さな後姿を追い掛けるようにルビィも走り出す。
 何が起こったのか解らない。ただ、あの家にはエメロードがいる――。


「――クソッ!」


 ダイヤの吐き捨てた声がした。次の瞬間、ダイヤは炎の包まれる家の中に突っ込んだ。


「ダイヤ!」


 漸く家の前に着いたルビィは、自ら炎の中に飛び込んだ。
 家はがらがらと音を立てて崩れ落ちる。天を舐める業火は離れた場所に立つルビィすらも畏怖させた。中に飛び込んで行ったダイヤは戻らない。死に掛けの太陽にも似た炎がルビィに迫る――その瞬間。
 炎の中から、一つの影が浮かび上がった。


「ダイヤ!」


 白亜の翼は折り畳まれているが、燃え盛る炎に少し焦げてしまっている。けれど、そんなことは如何でもいいというように、ダイヤの腕には意識を失ったエメロードがしかと抱えられていた。
 ダイヤが脱出した瞬間、見計らったかのように家は崩れ落ちた。今も燃え続ける炎を背に、エメロードをゆっくりと地に下ろすとダイヤは其の口元に手を遣った。


「生きてるな……」


 良かった、と息を吐くダイヤは人間と変わらない。
 こういうことをするから、ルビィはダイヤが解らないと思うのだ。興味が無いような態度を取る癖に、危機には誰より先に駆け付ける。人間も魔族も見境なく殺す癖、双方に当然のように手を伸ばす。
 死に絶えた太陽の下、エメロードの瞼がゆっくりと持ち上がった。微かに震える長い睫に彩られた碧の瞳は何も映していない。やがてゆっくりと起き上がると、少し困ったように笑った。


「ありがとう……、助けてくれて」
「お前には借りがあったからな。――それより」


 ダイヤは闇に染まった地平線を一瞥し、言った。


「あいつ等は何者だ?」


 ルビィの目には何も映らなかった。何者かが潜んでいる気配すら感じられない。
 武器に手を伸ばそうとしないダイヤから見るに、如何やらその相手はもう遠方へと離れたようだ。エメロードはやはり、笑みを浮かべて答える。


「多分、オリーブの村の人ね。今年は作物が不作みたいだから……」
「意味が解らないな。それで、如何してお前が襲撃されるんだ」


 ダイヤの目に映るのは純粋な疑問だった。怒りも憎しみも悲しみも無い。ただ、目の前の事態の説明だけを欲している。それはつまり、エメロードに興味は無いのだ。
 エメロードは其処で漸く笑みを消し去り、酷く驚いたように目を丸くした。


「貴方、私のこと、知らないの?」
「知るかよ。何処かで会ったか?」


 呆れたように、煤に塗れた美しい相貌でエメロードは溜息を零す。
 なるほどね。何か合点がいったのだろう、エメロードが言った。


「私は、人間と魔族の混血なの。所謂、間者なのよ」


 伏せられた目を彩る長い睫が、不安げに揺れている。


「この世界には掟が在るわ。人間は魔族に関わってはならない。魔族は人間に関わってはならない。混血には、人間も魔族も関わってはならない」


 それはつまり、この女性が人間でも魔族でもない異質な存在であることを示していた。
 人にとっては異形の姿で、魔族にとっては無力な存在。どちらにも属すことの無い、ただ忌み嫌われるだけのもの。


「それが、何だって言うんだ」


 ダイヤには、心底理解出来ないのだろう。
 不思議そうに言ったダイヤの青い目は、既に消えた気配の行き着く先を追い求めていた。
 言葉に詰まったエメロードを抱え上げ、ダイヤは立ち上がった。器用に畳まれていた白亜の翼から、焼け焦げた羽根だけが抜け落ちて行く。


「行くぞ」
「何処に?」


 反射的に問い掛けたルビィに目を向けることもなく、ダイヤは歩き出す。


「一番近い村は、オリーブの村なんだろう?」


 この男は、何を言っているのだろう――。
 ダイヤの当然のような提案に、二人は瞠目した。けれど、その足は既に前進している。それを止めることなど誰にも出来はしない。溜息を一つ零し、ルビィは後を追った。

11,A difference.

11,A difference.



 吹き抜ける隙間風が、悲鳴のように空しく木霊している。
 人間が生活している筈の村には、夜半と言えど気配は愚か生活感すら感じられないというのは余りにも不自然だ。寂れた寒村に広がる畑に作物らしき影も、今にも崩れそうな家屋が立ち並ぶ中に灯りも一つも在りはしない。本当に此処に生物が居住しているのか、ルビィには甚だ疑問だった。
 それでも此処がオリーブの村だと主張したエメロードは、ダイヤに背負われたままとんと黙り込んでしまった。
 暗黙の掟に従い村人の理不尽な襲撃すら享受するというエメロードにとって、此処は立ち入ってはならぬ場所なのだろう。口を噤んだエメロードを横目に見ながら、何の迷いも無く村に足を踏み入れて行くダイヤを追った。


「なあ」


 耳が痛くなる程の静寂を打ち破り、ダイヤが言った。


「如何してお前は、あの場所に住んでいたんだ?」


 質問の意図が掴めずにルビィは困惑する。問い掛けられたエメロードは相変わらず口を噤んだまま目を背けていた。


「襲撃も初めてではなかっただろう。それでも何故、村から程近いあの場所に執着する」


 束縛を嫌い自由を求めるダイヤには心底解らないのだろう。一定の場所に居を構えたことも無い魔族であるダイヤには、帰る場所の無い不安など解らないに違いない。
 けれど、一方でダイヤの問いは至極当然のものだった。
 寒風に掻き消されそうな微かな声が届いた。それがエメロードのものと判別するのに、僅かに時間を必要とした。


「この村から、離れられなかったの」


 枯葉を踏むような乾いた音が、其処等中から聞こえた。息を殺して此方を窺う無数の気配が、ルビィにも感じられた。
 腰の剣に手を伸ばすことも、翼を広げることもしないダイヤはただ真っ直ぐに前を見据え、正面から歩み寄る人間の群れを睨んだ。
 人間達は通常では武器になる筈の無い工作具を構え、此方を呪い殺すような強い眼差しを向けていた。穏やかではない異常な状況で、エメロードだけが噛み殺すような、絞り出すような言葉を続ける。それはまるで懺悔のように、ルビィには聞こえた。


「此処には、私のただ一人の家族がいたから……!」


 エメロードの伏せられた碧眼から零れ落ちた一筋の滴が、ダイヤの背に染み込んだ。
 こつん、と。
 ルビィの足元に小石が転がった。


「出て行け!」


 剥き出しの殺意に、拒絶の言葉。放った声の幼さに驚くよりも、ルビィは此方を呪う少年の鋭過ぎる視線に声を失った。
 それが合図だったように、其処等中に潜んでいた気配は闇の中で姿を現し、拒絶の言葉を雨のように降らせた。


「出て行け!」
「化物!」
「悪魔!」


 一斉に放たれた言葉が誰に向けられているのか、ルビィには解らない。魔族であるダイヤか、人間でありながら共にいようとするルビィか、どちらにも属すことの許されないエメロードか。或いはその全てなのか。
 投げ掛けられる謂れの無い言葉と石を避けることもしないダイヤの心中などルビィに察することは出来ない。透き通るような青い瞳は、がらんどうのまま胡乱に人間達を見詰めていた。
 小石が、ダイヤの蟀谷に衝突し落下した。それでも敵意すら向けようとしないダイヤは、虚無に染まる青い瞳を不思議そうにルビィに向けた。


「なあ、ルビィ。こいつ等は、何を言っているんだ?」


 ダイヤの問いこそが、ルビィには疑問だった。
 それでも、ダイヤは言った。


「言われなくとも、俺達は何時までもこんなところにはいないし、こいつ等に危害を加えたことも無い。そうだろう?」


 その通りだった。けれど、この世界には暗黙の掟がある。
 魔族は人間に干渉してはならない。人間は魔族に干渉してはならない。混血にはどちらも干渉してはならない。その掟の意味など誰にも解りはしない。それでも破ることを恐れるのは、一体何故なのだろう。何を恐れているのだろう。


「泣くな、エメロード」


 背中のエメロードに届くように、はっきりとダイヤが言った。
 顔を上げることをしないエメロードに、群れを成す人間達の中央の老人が、憎しみに満ちた声を上げた。


「出て行け、化物! お前のような紛い物が此処に来る理由など在りはしない!」


 背負われたエメロードが、遠目にも解る程にびくりと震えた。
 続け様に叫んだ老人の嗄れ声に、世界に亀裂が入ったような気がした。


「お前の母親はもう、この世にはいない!」


 エメロードの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
 それが、エメロードがこの村に執着する理由。例え理不尽な襲撃を受けても、謂れの無い冷たい態度を取られても、頑なにこの村の傍を離れなかったたった一つの答え。
 お母さん。
 震えるエメロードの声が、大勢の罵声の中でルビィの耳に届いた。


「化物! 死んでしまえ!」
「お前は村を不幸にする!」


 ぶつけられたのは石か言葉か。傷付けられたのは肌か心か。
 ダイヤが、言った。


「泣くな」


 繰り返されるダイヤの声は揺らぐことなく真っ直ぐエメロードへと向けられていた。


「泣いたらいけないぜ」
「ダイヤ……」


 微笑みすら浮かべて、ダイヤはエメロードを見た。


「こんな中身の無い薄っぺらな言葉に、傷付く必要なんて無い」


 青い瞳には、刃の切っ先にも似た鋭い光が宿っていた。人間達を見る目は酷く冷たい。
 反論する価値すら無いと、ダイヤは踵を返して歩き出した。


「なあ」


 村から出て行こうとするダイヤは不意に足を止め、未だ睨み続ける村人を一瞥した。


「エメロードの母親は、何故死んだんだ?」


 老人が言い淀んだと同時に、血気盛んな若い男が声を上げた。


「俺達が殺したに、決まっているだろう!」


 みしりと、ダイヤの握られた拳が軋んだ。それでも、普段の態を崩さずに短く相槌を打つと、ダイヤは再び歩き出した。
 普段、相手を思い遣ることも無く、自分の思うままに言葉を紡いで来たダイヤからは想像も付かない程に呆気無い去り際に、ルビィは口惜しく思った。恨み言一つ吐かずに、弁解も反論もしない。普段の口の悪さは何処へ行ったのだ。こんな時に言わずに、何時使うというのか。


「お前等、碌な死に方しないぜ」


 予言のようなはっきりとした声が、彼等に届いただろうか。
 行くぞ、と。ダイヤは歩き続ける。


「ダイヤ」


 ルビィの声に、ダイヤは胡乱な眼差しを向けた。


「如何して、何も言わないの? 如何して、何もしないの?」
「人間には人間の掟が、生活がある。殺す価値も無ェよ、あんな奴等」


 それが正論であることも、ルビィには解っている。けれど、理解出来ても納得は出来ない。所詮、心と脳は異なる器官なのだ。感情を持たぬ本能だけの魔族であるダイヤに、それが解る筈も無い。


「何時までも、ぐずぐず泣いてんじゃねぇよ」


 吐き捨てるダイヤに、先程までの気遣いなど欠片も無い。エメロードを鬱陶しそうに背負い直し、大して疲れてもいない筈なのにわざとらしく溜息を零す。
 村から離れた岩場にエメロードを下ろし、ダイヤは慣れた手付きで火を起こす。肩を回しながら座り込んだダイヤは弄ぶように薪をくべながら二人に背を向けた。時折吹き付ける乾いた冷たい風の音以外に、周囲に音は無い。ダイヤの手元で薪が爆ぜるが、気にした様子も無く胡坐を掻いていた。
 ルビィはエメロードの隣に座った。だが、掛ける言葉が見付けられなかった。
 どんな励ましも慰めも陳腐なものにしか思えず、かといってダイヤのように切り捨てられる程に冷徹にもなれない。結局、最も残酷なのは魔族ではなく人間なのだろうと、ルビィは思った。
 その時、風の音と聞き間違う程に微かな声がした。


「本当は――ってた」


 ルビィが顔を向けると、橙の光がエメロードの白い面を染め上げていた。
 エメロードは死んだような無表情で、自身を刻むように言葉を紡いでいく。


「本当は全部、解ってた……」


 くしゃりと、エメロードの顔が歪んだ。泣き出す寸前の幼子のようだと、ルビィは思った。


「村の人が嘘を吐いていることも、お母さんが殺されたことも、全部解ってた……!」


 それまで、だんまりを決め込んでいたダイヤが不意に口を挟んだ。


「なら、如何して何もしなかった?」


 エメロードは答えなかった。否、答えられる筈が無いとルビィは悟った。
 魔族よりも遥かに心も体も人間に近い彼女が、ダイヤと同じように割り切って考えられる訳ではない。彼女に何が出来たと言うのだろう。如何すれば、何が正解なのだろう。正論など言われなくとも解っているけれど、それでは切り捨てられない感情がある。


「復讐することも、逃げることもせず、変わる筈の無い現状にしがみ付いていたのは何故だ」


 それは純粋な問いなのだろう。自分の理解の及ばぬ相手を卑下することの無い態度は崇高たるものかも知れないけれど、受け取った人間は純に答えられる訳が無い。
 黙り込んだエメロードに代わって、ルビィが声を上げた。


「誰もが皆、ダイヤみたいに強い訳じゃない」
「何が言いたい」
「ダイヤみたいに割り切って考えられるなら、誰も苦しんだりしなかった!」
「お前、勘違いするなよ。俺が強いんじゃない。――お前等が、弱いんだ」


 ダイヤの冷たい物言いには、明らかな苛立ちが滲んでいる。
 堪らず、ルビィは叫んでいた。


「ダイヤには解らないよ! 人間の苦しみも辛さも!」
「そんなこと、当たり前だろう」


 それまでの苛立ちを消し去ったダイヤの瞳に映るのは、明らかな落胆だった。


「俺は魔族だからな、人間のことなど解る訳が無い。――ただ、知りたいから訊いている」


 そうだと、ルビィは悟る。
 ダイヤは人間のように、誰かを傷付けようとして言葉を放つ訳ではない。思ったことを思ったまま、自分の欲求を満たす為だけに言葉を綴る。


「相手の全てを解り合うなんて、同種族でも不可能だ。でも、だからこそ愛しいんだろ?」


 青い瞳に瞬く光が何なのか、ルビィには解らない。
 本能のまま生きる魔族には、感情など無いと嘗てダイヤは言った。でも、ダイヤは変わり始めている。人間への興味、世界への期待、自分の可能性を信じている。それはきっと、彼が出逢って来た人や魔族の影響なのだろう。
 ダイヤがふと顔を上げ、何かを嗅ぎ分けるように鼻を鳴らした。


「俺の予言が、当たりそうだ」


 そう吐き捨てたダイヤの真意は知れない。それきり興味を失ったように黙り込んだダイヤは、先程の問いを繰り返すことも無かった。

12,The palm of the hand.

12,The palm of the hand.



 魔獣の唸り声を思わせる不吉な轟音で、ルビィは覚醒した。
 宵とも暁とも付かない淡色の空に、入眠時間が短かったことを悟る。風除けとして、気休め程度の岩場を宿代わりにしていたルビィは夜風に吹かれて冷えた体を丸めた。奇妙な形に風化した岩場のせいだろうか。吹き抜ける夜風は誰かの悲鳴のようだった。
 もう一眠りしようと毛布の下に潜ったところで、また、あの魔獣のような唸り声がした。


「――おい、起きろ」


 吐き捨てるような乱暴な口調に、今度こそルビィは覚醒した。
 猫の目のような痩せた月の下、銀髪が風に舞い起こる。胡乱に向けられた青い目は昏く、広げられた白亜の翼だけが幻想的に美しかった。絶えず響き渡る風の悲鳴と唸り声。それが何かを悟る前に、ダイヤは腰を下ろしていた岩場から舞い降りた。
 ルビィは寝惚け眼を擦りながら言った。


「ダイヤ……、何の音?」
「砂嵐だ」


 何でもないように言い放ったダイヤは広げた翼を畳もうとしない。
 この場から離脱しようとしているのだろう。砂嵐というものが何かは解らないルビィも、それが危険なものであることはダイヤの神妙な面持ちから理解出来た。荷物を纏めようとして、ルビィは目を疑った。
 視界の端に霞む奇妙な光景。周囲の風を呑み込んで巨大化して行く空気の集合体。魔獣の唸り声にも似た轟音。


「何、あれ、」


 それに向けられたルビィの人差し指は震えていた。
 天を穿つように聳える砂塵の塔。人間の思惑も魔族の力量も何もかもを呑み込んで消し去る圧倒的な力。全てを怖し呑み込み無に還すだけの存在。


「竜巻だな」


 淡々と、ダイヤは言った。
 突風の一種であり、積乱雲の下で地上から雲へと細長く延びる高速の、渦巻き状の上昇気流。周囲には神の怒りを思わせる雷鳴が低く轟き始めている。離れた場所にいる筈のルビィの頬を撫でる砂を孕んだ冷たい風は、竜巻の脅威を思い知るに十分だった。
 この場所にいてはいけない。直感的に、ルビィは避難を考えた。強大なあの自然現象から少しでも離れた場所に逃げなくてはならない。さもなくば、一片の肉片とて残らぬまま木端微塵に砕け散ってしまうだろう。そんな恐怖を覚えてルビィは立ち上がった。けれど。


「村、が」


 風の唸りに掻き消されそうな程に微かな細い声に、ルビィは振り返った。何時から目を覚ましていたのだろう、エメロードが竜巻を茫然と見詰めていた。
 その目に映るのは自然現象への恐怖ではない。轟音の合間に聞こえる僅かな人間の悲鳴。それが何かを悟る前に、エメロードは弾かれるように駆け出していた。


「エメロード!」


 ルビィの制止など聞こえぬような疾走に、ダイヤが小さく舌打ちをした。
 広げられた白亜の翼は僅かな羽ばたきにより、ルビィを抱えて一瞬にしてその距離を詰めた。ダイヤは下方で一心不乱に駆け抜けるエメロードを一瞥し、答えの解り切っている問いを投げる。


「おい、エメロード! 何処に行くつもりだ!」
「このままじゃ、オリーブの村が!」


 一瞬、躊躇うようにダイヤの飛行が緩んだ。それでも走り続けるエメロードの気持ちも、ダイヤの考えもルビィには痛い程に解ってしまう。
 長い間、エメロードを蔑み苦しめて来たオリーブの村。彼女が唯一守りたいと願った家族を殺し、その事実すら欺いて来た。恨むことはあっても、助ける義理は無い。例えエメロードが村を見捨てたとして、誰が恨むだろう。誰が彼女を責めるだろう。
 だけど、それでも。


「ダイヤ!」


 ルビィは、目を丸くするダイヤに向けて声を上げた。
 それでも、救える命があるのなら救いたい。そう思うのは人間の身勝手なきれいごとだろうか。薄汚れた理想論だろうか。
 ダイヤには解らないだろうか。それでも、ルビィは叫ばずにはいられなかった。


「あの村を、助けて!」


 ダイヤは何も言わなかった。
 こんなやり取りを、以前した。モーブの都で、処刑されようとする友人であるルブライトを平然と見捨てようとしたダイヤに、ルビィは愕然とした。幾ら人間と似通う形をしていても、ダイヤは魔族だ。人間とは相容れない生き物だ。自らを本能のままに生きる化物と言ったダイヤは、感情も心も持たないと言った。けれど、ルビィはそうは思わない。
 迷い、考え、決意する。それが心と言わず、何と言うのか。この後に及んで、如何して自分が助けなければならないのだと言うダイヤでは無いだろう。


「ダイヤ!」


 訴え掛けるようなルビィの声に、ダイヤは僅かに目を伏せた。
 竜巻に近付くに連れて、その飛行は吸い寄せられるように加速している。自殺行為と知りながら、引き返そうとしないその理由を、ダイヤに気付いて欲しい。壊滅間際の寒村から響き渡る悲鳴や絶叫を素通り出来ない意味を、知って欲しい。
 助けて、助けて、助けて、助けて。誰か、助けて。
 繰り返される救援を求める声に、エメロードは何の躊躇も無く手を伸ばす。ルビィはダイヤに抱えられたまま、その心の機微を見守ることしか出来ない。この状況で、人々を救う術があるとするならば、それは人間の手にあるのではない。
 人の事情も魔族の思惑も、全て呑み込んで噛み砕いて行く自然災害。どんなに優れた文明を生み出しても、どんなに特異な能力を持っていても、自然は何時だってその圧倒的な力で捻じ伏せて来た。偏に、それは時代の流れと同じだ。
 誰がどれ程に骨を砕こうと、強大な武力を誇っていても、変化しようとする時代の流れに逆らう者は皆等しく呑み込まれ消えて行く。
 唸る暴風に晒されながら、上空へと巻き上げられる家屋の残骸。傍の岩石にしがみ付く子どもの小さな掌が、ふつりと離れた。その刹那、エメロードの掌は確かに子どもの手を掴んでいた。
 混血と蔑まれ、病原体であるかのように避けられて来たエメロードの掌に、必死でしがみ付く子ども。その意味が、ダイヤには解る筈だ。
 ルビィは、突風の中で忙しなく羽ばたき続けるダイヤに問い掛けた。


「混血だなんて呼ばれて、たった一人で生きているエメロードが、誰も憎まずに平気な顔をして手を差し伸べるのは、如何して?」


 それが全ての答えであったかのように、ダイヤは顔を上げた。青い瞳に映る、夜明けを思わせる強い光にルビィははっとした。
 ダイヤはぽつりと、独り言のように呟いた。


「人間と魔族が相容れぬ存在ならば、エメロードは生まれなかった……」


 どちらでもないその存在が、どちらでもあるという答え。
 ダイヤはルビィを勢いよく岩場に投げ捨てると、大きく羽ばたいた。


「この竜巻、俺が最小限に抑えてやる。だから、お前等は一人でも多くの村人を避難させろ!」


 ダイヤは弾丸のように空へと翔け上がって行った。
 ルビィは岩場にしがみ付きながら、今にも飛ばされそうな村人の腕をしかと掴む。
 風に掻き消される悲鳴と共に、人間が上空に吹き飛ばされていく。
 助けたいとか、死んでしまえばいいとか、そんなことを思う余裕など欠片も無かった。ただ、死にたくないと願うだけで精一杯だった。けれど、それでも仇である筈の村人を救う為に自分の命を顧みずに奔走するエメロードを見れば、ルビィも立ち止まってはいられなかった。
 巻き上げる暴風の中、舞い落ちる桜花のように白い羽根が浮かんでいる。姿は見えないけれど、ダイヤも今、戦っている。
 小さな岩場の影で、団子状に固まる人間の集団にルビィは気付いた。中央にいる老いた長老を囲むように、村人が輪を作っていた。それでも風に飛ばされていく仲間に手を伸ばすこともなく、まるでそれだけが救いだというように老人を守る人々にルビィは狂気を感じた。
 一過性の竜巻ならば、この場所に待機するのが最良の判断かも知れない。けれど、これは違う。この村を滅ぼす為であるかのように留まり続ける竜巻に、人間が抗うことなど出来る訳が無い。


「早く逃げて下さい!」


 ルビィの叫びに、老人は胡乱な目を向けた。
 腐った沼のように淀んだ瞳は、ルビィとエメロードをじっと見詰めている。


「――貴様のせいだ!」


 突然向けられた叫びに、ルビィは息を呑む。


「貴様が禍を連れて来た! 貴様さえ、いなければ!」


 エメロードに向けられる憎悪が、自然災害への恐怖と共に一気に噴き出した。
 異口同音に繰り返される呪いの言葉。エメロードの掴んだ手を、子どもが振り払った。
 お前が悪い、お前のせいで、お前さえいなければ、死んでしまえ。
 鈍器で殴られたかのような衝撃を受け、ルビィは返す言葉を失っていた。――それでも。
 ルビィの手の中にある白い羽根が、目を覚ましてくれる。唇を噛み締めて俯くエメロードの掌がきつく握り締められる。ルビィは叫んだ。


「何を馬鹿げたことを、言っているの!」


 この状況で誰を恨んでも、誰を責めても何も変わりはしない。誰に祈っても誰に縋っても自分の命は守れない。


「人間も魔族も関係無い! 少しでも生きたいと思うなら、四の五の言わず逃げなさい!」


 その瞬間、猛り狂っていた風が緩んだ。僅かに差し込む光が朝日と気付いた時、遥か上空に翼を広げるダイヤの姿が見えた。
 どよめく村人が、互いの顔色を窺い合って動かない。長老の指示を待っているのだ。ルビィは苛立った。
 何故、自分で考えない?
 ルビィは嘗て、ダイヤにそう問い掛けられた。誰かに縋って生きるのは楽だ。何も考えず、何の責任を負うこともない。けれど、それは果たして生きていると言えるのだろうか。
 エメロードが何かを言おうと口を開いた。その刹那、大地を踏み締めていた筈の足がふわりと浮かび上がった。


「――エメロード!」


 風に吹き飛ばされるエメロードの腕を、ルビィは間一髪で掴んだ。岩場にしがみ付いたまま、己の意志で動こうともしない民衆を睨み、ルビィはその手を離すまいと力を込める。
 巻き上げられる家屋の残骸が、エメロードの体を強かに打ち付けて行く。蟀谷から流れる血液が上空へと舞い起こる。
 掌の感覚が消え失せ、限界を悟ったルビィの前に、再びあの白い翼が舞った。


「その手を離すな」


 びしりと言い放った力強い言葉に、ルビィの掌に力が戻る。一瞬でその場に立ったダイヤが、ルビィの腕を掴んでいた。
 美しかった翼は、所々掻き混ぜられたように逆立っている。体中にある裂傷の数々が、ダイヤがどれ程竜巻を抑え込もうと戦って来たのかを物語っているようだった。


「ダイヤ……!」
「本当に、使えねぇ奴だな。こいつ等を、逃がせって言っただろ」


 頬を流れる血液すら気にすることなく、ダイヤは不敵な笑みを浮かべている。
 ぼろぼろの翼を折り畳んで、ダイヤはエメロードへ手を伸ばす。けれど、エメロードの手は風に泳いでダイヤまで届かない。今にも泣き出しそうな顔で何度も腕を伸ばすエメロードに、ダイヤは笑みすら浮かべて言った。


「諦めんな。必ず、掴んでやるから」


 エメロードの顔が、泣き出しそうにくしゃりと歪んだ。
 震える腕が、吹き飛ばされそうな風の中で伸ばされる。ダイヤは、その手を掴んだ。


「俺達は、絶対にお前の手を離さない。だから、信じろ」


 この手は、絶対に離さない。
 先程、振り払われた子どもの掌を思い出し、ルビィは胸が軋むような痛みを覚えた。
 ダイヤは、この手を絶対に振り払ったり、離したりしない。何が起こっても必ずエメロードを助けるだろう。そう確信してしまうだけの奇妙な安心感がダイヤには、ある。
 エメロードの腕を掴んだまま、ダイヤは立ち往生する村人に目を向けた。


「この状況でまだ、人間とか魔族とか、……混血とか、そんなことに拘るつもりか?」


 青い瞳に映るのは憎悪でも憤怒でも無い。
 夜明けを告げる朝日に似た、希望の光だった。


「死ねば皆等しく土に還る。もしもお前等が、己の血を誇りたいのなら、恩は返せよ!」


 人間が、魔族が叫んでいる。この世界では起こりえないことを、平然と遣って退ける二人を前に、一人の子どもが足を踏み出した。
 傷だらけの小さな掌が、ダイヤの腕を掴んだ。それは、先程エメロードの腕を振り払った子どもだった。
 そして、それが切欠であったかのように一人、また一人と手が伸ばされる。繋げられた腕はまるで断ち切ることの出来ない鎖のように連なって、エメロードへと伸ばされていた。


――人間と魔族が相容れぬ存在ならば、エメロードは生まれなかった……


 ダイヤの声が、エメロードの胸に鮮明に蘇った。
 氷塊するように、エメロードの翡翠の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。人の鎖の後方で、エメロードを救おうと腕を伸ばすのはあの長老だった。
 突風は緩やかに、解かれるように霧散した。壊滅状態のオリーブの村が、その強大な規模と破壊力を物語っている。大きな爪痕を残した残骸の中で、エメロードは両手で顔を覆ったまましゃがみ込んでいた。
 荒れ果てた大地に染み込む涙の滴。散り散りになった村人は家族の安否を確認する為に忙しなく動き回っていた。


「何時までも泣いてんじゃねぇよ」


 乱暴に吐き捨てたダイヤは、一度大きく羽ばたいた。ぼろぼろだった翼は一瞬でその美しさを取り戻し、頬に貼り付く血を拭えば傷口はもう存在していない。
 ルビィはエメロードの傍に膝を着き、その肩を抱いた。
 その時、数人の取り巻きを連れた長老が、エメロードの傍に歩み寄った。


「お前に、渡すものがある」


 そう言って、老人は枯れ木のような指先で小さなネックレスを抓んで見せた。
 緑色の美しい宝石の嵌め込まれたそれは、涙で濡れるエメロードの瞳によく似ていた。


「お前の母親の、形見だ」


 手渡されたネックレスを受け取ったエメロードは耳を疑った。そんなものがある筈が無い。あったとして、彼等がそれを手渡す筈も無い。
 けれど、手の中に納まるそれは、遠い昔母の胸元で光っていた宝石に違いなかった。


「お前の母親は、数年前に病で死んだ。……最後の最後まで、お前のことを案じていたよ」


 あれ程恐ろしく感じた老人の淀んだ瞳が、何故か優しい光を帯びて見えた。エメロードは掌に収まるネックレスを握り締める。
 最後に見た母の姿も、声も思い出せない。それでも、手の中に納まった形見がその母の想いを訴えているようだった。


「嘘を、吐いていたのか」


 ぽつりとダイヤが問い掛けた。
 長老は僅かに口元を歪ませ、悪戯っぽく言った。


「お前さんには、解るまい」


 そうして背を向けた村人に、エメロードは涙を零し続けていた。
 世界には暗黙の掟がある。それに背くということは死ぬことだ。けれどそれでも、彼等はエメロードを殺さなかった。蔑みながら、目の届くところに置いていた。病で死んだ裏切り者のエメロードの母の形見を、今日この日まで守っていた。その、理由は。
 ダイヤには解らないだろう。ルビィは、くすりと笑った。

13,An indulgence.

13,An indulgence.



 旅は道連れ世は情け。そんな諺があったなと思い出すと同時に、それが真理であると気付いたルビィは心の弾む音を聞いたような気がしていた。
 オリーブの村から共に旅立つこととなったエメロードと肩を並べ、同性ということもあってか、久方ぶりに会話らしい会話をし、談笑するということをルビィは思い出した。いつも背を向け真っ直ぐに歩いて行くダイヤを追い掛けていたルビィにとって、エメロードは初めて出来た肩を並べられる友人であり、仲間でもあった。
 エメロードが旅立つことに関しても、それが道中を共にするということに対しても、ダイヤは何も言わなかった。興味感心が一切無いのだろう。妙な荷物が増えた程度にしか、感じていないのかも知れない。どちらにせよ、ルビィは魔族であるダイヤの心中を察する術を持ち合わせていなかった。ただ、言いたいことは包み隠さずはっきりと告げるダイヤが遠慮することなど有り得ない。不満ならば既に二人を置いて天空へと飛び立っていることだろう。
 荒涼たる岩砂漠は果てしなく続いている。食糧も満足に確保出来ない痩せた大地を踏み締める両足は棒のようになっているけれど、強靭な肉体を持つ魔族のダイヤが休もうと提案する筈も無い。強大な自然災害に遭遇してから一日と経っていない中で、疲労は既に頂点へ達しようとしていた。


「ねえ、ダイヤ」


 渇いた空気に、エメロードの美しい声が響いた。振り返ることも歩調も緩めることもしないダイヤの耳に、その声は届いているのか。
 だが、エメロードはそのままに続けた。


「丁度良い休息場所が、ありそうだけど」


 エメロードの視線の先、曇天の下に一本の煙が生き物のように揺らめいている。火の無い処に煙は立たない。火があるのは、生き物がいる証拠だ。其処で漸く、ルビィの鼻腔に香ばしい食欲をそそる匂いが飛び込んだ。
 同時に鳴いた腹の虫に、エメロードが苦笑する。ダイヤは半身に振り向くと、酷く冷たい目を向けた。


「行きたいなら、行けばいい。俺には関係の無いことだ」


 そうして背中を向け、ダイヤは歩き出す。エメロードは困ったように溜息を吐いた。
 ダイヤは冷たいと感じさせるだけの物言いをするし、態度をはっきりと見せる。けれど、それでもルビィ達がはぐれない程度の歩調で、飛び立つこともなくわざわざ危険を冒してまで大地を踏み締めているのは何故なのだろう。
 エメロードはダイヤに臆することなく、食い下がる。


「でも、この先何時休めるかも解らないわ。休める時に休むべきだと思うけど」
「……お前、癇に障るぜ」


 瞬間、ピリリと火花が散ったように感じた。苛立ちを隠すことないダイヤの口調は尖って行く。


「休みたいのはお前等であって、俺では無い。休みたいなら、勝手に休めよ」
「そうね。じゃあ、お言葉に甘えて」
「好きにすればいい。俺は行く」
「何をそんなに焦っているの? 急ぐ旅でもないんでしょう? それとも」


 エメロードの目が、鋭く光った。


「怖いの?」


 その瞬間、ダイヤの手が剣に掛かった。
 空気が張り詰め、ダイヤの目に燃え盛る炎にも似た殺気が浮かぶ。


「死にたいのか」
「言われて怒るのは、図星を突かれたからでしょう」


 これ以上、ダイヤの神経を逆撫でしないで欲しい。仲裁に入るべきと思いながら、その術を持たないルビィは右往左往するばかりだった。
 エメロードが譲る筈も、ダイヤが折れる筈も無い。八方塞な状況を変えたのは、他ならぬダイヤだった。


「――俺は、忠告した。行きたいなら、来い」


 そう言って、ダイヤは立ち上る煙の下へと歩き出した。
 呆気に取られるルビィに、エメロードは片目を閉じて悪戯っぽく笑う。一歩間違えばエメロードは目にも映らない速度と剣技で、惨殺されていただろう。猛獣使いと賞賛したいと思いながら、ルビィは苦笑交じりに歩き出した。
 立ち上る煙の下には、小さな集落があった。村と呼ぶのも烏滸がましいだろうそれは、数軒のあばら家の集合体に過ぎない。それでも活気に満ちた周囲に群れるのは、人間とは明らかな一線を引く異形の化物達だった。
 テントのような出店で、行列を成す魔族を相手に商売をするのは魔族だ。毒々しい色と模様で、しゃがれた声で見たことも無い巨大な肉の塊を売り捌いている。その賑やかなざわめきは雑音と化し、言語すらルビィには理解不能だった。


「死にたくなきゃ、その面を隠すことだな」


 冷たく吐き捨てたダイヤは、それまでの町での対応とは打って変わって深く被っていたフードを取り払い、凛と背筋を伸ばして化物の群れに突き進んでいく。その背中を見失わないよう、ルビィとエメロードはフードを目深に被って駆け足で後を追った。
 巨大な鉄柵の上で、これまた巨大な肉の塊が焼かれている。香ばしい匂いに鳴り続ける腹を押さえ、ルビィの目は釘付けとなった。
 此処が魔族の集落であることは、最早明白だった。人間が歓迎されないとは解っているが、それでも貨幣があれば食料も手に入るのだろう。不意にポケットを探ろうと手を伸ばせば、気配で察したらしいダイヤが皮肉そうに鼻を鳴らした。


「共食いでも、するつもりか?」


 言葉の意味が解らずにルビィが顔を上げる。その刹那、高らかに魔族の嗄れ声が響いた。


「さあ、次の商品は――」


 集落の中央、開けた広場を取り囲む魔族がざわめいた。競売でも行われているのだろうと思い、向けた目に映ったものをルビィは信じられなかった。
 人間だ。魔族の持つ太い鎖の先に、首輪に繋がれた人間の子供が二人。
 怯えるように身を寄せ合う骨と皮だけの乞食にも似た二人は兄妹だろうか。襤褸布を被ったような衣服とも思わぬ布を巻き付けて、取り囲む魔族の猛り狂う声に体を震わせている。
 仕切る紫色の蛙に似た魔族が、少女に値段を付けて行く。魔族の群れから上がる金額が増えるに連れ、広場は狂気に満ちて行く。
 ルビィは、思わずダイヤに縋った。


「な、何、が」
「見れば解るだろう。此処は魔族の集落で、人間を売買している」


 言われてみれば、魔族の集団の中に痩せた傷だらけの人間が鎖に繋がれて働かされている。
 老若男女問わず、休めば鞭で打たれ、皆一様に昏い目で歩き続ける。小さなあばら家の中では少女とも呼ぶべき若い女達が異形の化物に縛られ犯されている。小さな子どもが紐で巻かれ、大きな金網の上に乗せられる。
 魔族の唸りの中に、確かに悲鳴が、助けを求める声が聞こえている。
 共食いでも、するつもりか?
 ダイヤの声が脳内に蘇り、その意味を悟ると同時にルビィは口元を押さえた。空になった胃からせり上がるのは臓腑を焼くような胃液だ。けれど、吐き出すことすら出来ず、ダイヤに縋りながら震えるだけのルビィの背をエメロードが頻りに撫でる。その手もまた、震えていた。
 生きたままに焼かれる子どもの悲鳴が耳を劈く。肉の焼ける臭いが、ルビィの鼻腔を突く。ダイヤは言った。


「アリザリンの町では、人間が魔族を生きたままに切り刻んでいた。同じことだ」


 顔色一つ、眉一つ動かさずに言ったダイヤの声は平静と変わらない。
 ダイヤにとっては、同じことなのだ。人間も魔族も獣も植物も、皆同じことなのだ。ルビィは、堪らなくなって問い掛けた。


「ダイヤも、人を食べるの……?」


 恐ろしいと知りながら、訊かずにはいられなかった。けれど、ダイヤは平然と答える。


「まあ、調理法次第だな。丸焼きは好きじゃない」


 それはつまり、ダイヤにとっても人間は食糧の一つなのだ。
 ダイヤの腰に刺さった剣がルビィを切り裂き、喰らう様を想像して身震いする。それは恐ろしい妄想ではなく、有り得る現実だ。
 競り落とされた幼い兄妹の妹が、泣き叫びながら兄から引き裂かれ、魔族の下へ連れて行かれる。少女は奴隷として使われるのだろうか。それとも、生きたままに炎に焼かれるのか。ルビィはダイヤの衣を掴む手に力を込めた。


「助けたいか?」


 冷たい光を宿らせた青い瞳が、ルビィを見ていた。
 ルビィが頷こうとする寸前で、ダイヤはすっと目を細めて言った。


「そんな道理は無ェよな」


 否定を許さないような厳しい口調で、ダイヤは言った。


「この世は戦乱だ。魔族が人間を殺すのが悪ならば、人間が魔族を殺すのだって悪だろう。覚えておけ」


 凍り付くような冷たい目で、声で、ダイヤははっきりと告げた。


「どちらか一方が悪い戦争は無い」


 残された兄が、引き離された妹の名を幾度と無く呼びながら、それでも魔族は彼を売り捌いて行く。
 これが、当たり前なのだ。人間が魔族を殺すように、魔族も人間を殺す。納得しようと頭の中でダイヤの言葉を繰り返しながら、ルビィの頬には一筋の涙が伝っていた。
 オリーブの村での自然災害。掴み切れなかった人の命が、今目の前で当然のように奪われて行く。命が大切だというのはきれいごとだ。命は唯一無二ではなく、代替の出来る品物なのだ。
 けれど、それでも。


「でも、こんなのは嫌だよ……!」


 助けを求める声を無視することなんて、出来ない。それでも、自分に出来ることは何も無いのだ。
 人間と魔族が、共存出来る世界があればいいと願った。けれど、そんなものは理想論だ。ルビィの背を撫でるエメロードの掌だけが唯一温かく、優しかった。ルビィの肩を抱きながら、エメロードが「ルビィは優し過ぎるよ」と呟いた。
 ダイヤはルビィの頬を伝う涙を見て、問い掛ける。


「可哀想だと、同情しているのか?」
「違う……!」
「情けを掛けることが、お前の言う優しさか?」
「違う……!」
「独り善がりの正義を押し付けることが、お前の言う優しさか?」
「違う!」


 蔑むように、ダイヤはエメロードに目を向けた。


「お前はオリーブの村で、誰構わず人間を助けようとしたが、それが魔族だったなら助けはしなかっただろう」


 エメロードは答えなかった。否、答えられた筈が無い。
 ダイヤは黙り込んだ二人を睨んでいる。


「優しさと言えば、殺戮も正当化されるのか?」
「違う!」


 ダイヤは興味も無さそうに、鼻を鳴らした。


「優しさが免罪符になる世界なんてねーよ」


 それが真理と悟り、ルビィは発する言葉を失った。
 一見すれば若いダイヤも、ルビィの倍以上の時を生きている。この世界の冷たさも不条理も、エメロード以上に知っている筈だった。ダイヤは相手を傷付ける為に言葉を放つのではない。思ったことをそのままに言い放っているだけだ。ダイヤは酷く冷たいけれど、何時も正しい。
 と、その時。太陽が曇天の中に消えた。
 賑わっていた広場の中央から悲鳴が上がった。
 どよめく魔族の群れが、蜘蛛の子を散らすように解けて行く。乾いた岩場の上に、袈裟懸けに切り落とされた少年の死体が赤く染まっていた。
 悲鳴を上げて逃げ出す魔族と人間達、商品である子どもを惨殺された魔族が、剣を携える影に向けて叫んだ。


「てめぇ、何しやがる!」


 それが、その魔族の最後の言葉となった。
 背後に立つ影によって頭頂より一刀両断にされた肉塊が崩れ落ちる。広場の狂気は集落全体に感染し、辺り一帯は騒然となった。
 血の滴り落ちる剣を携える二つの影。明瞭にならない世界で、ダイヤが剣を抜き放つ鞘走りの音だけが鮮明に響いた。


「あはははははははははっ!!」


 笑い声だ。狂気に染まった、子どもの声。
 雲間に滲む日光が、子どもの姿を照らす。ルビィの目に、夜空に似た濃紺が映った。
 そして、彼方此方から上がる悲鳴と血飛沫。惨殺されて行く魔族と人間。逃げ惑う全ての生物を余す事無く斬り殺していくその様は死神のようだった。そして、エメロードの背後に銀色の刃が光った。
 鋭い金属音が高く響き渡る。
 振り下ろされた刃を受け止める一本の剣が誰のものかなど、考える必要すら無い。ダイヤの剣は子どもの剣を受け止め、弾き飛ばした。
 弾かれた子どもは猫のように飛び退いて、ダイヤからじりじりと距離を取って行く。


「人間の臭いだ」


 濃紺の長髪が風に舞う。愉悦に揺れる瞳も等しく濃紺だ。
 魔族の、子ども。青白い頬には血液が張り付いている。
 ルビィはその少女を目の当たりにし、背筋に冷たいものが走った。
 ダイヤと間合いを測る少女ともう一つ、同じ濃紺の短髪と瞳の少年が集落を縦横無尽に駆け抜けながら全ての命を搾取して行く。


「あんた、魔族だろ」


 少女が言った。ダイヤは答えない。


「何で人間なんかと一緒にいるの?」


 問い掛けた言葉がルビィの耳に届いたと同時に、その姿がダイヤに襲い掛かっていた。
 紺色の閃光が、火花を散らす。ダイヤが忌々しげに口元を歪めた。


「てめぇに、関係無ェだろ」


 糞ガキ。そう言い放った瞬間、ダイヤの剣は少女の体を貫いていた。
 口から零した赤い鮮血。少女が崩れ落ちる。遠くから返り血に染まった少年が駆けて来る。


「姉ちゃん!」


 血溜まりに沈む少女に手を伸ばそうとする背後で、ダイヤの剣は振り上げられていた。
 そして、一閃――。積み重なるように、少年もまた血液を吐き出して倒れた。
 何が起こっているのか、理解の追い付かない状況のままルビィは二人の子どもを見て思わず問い掛けた。


「殺したの――?」


 ダイヤは鼻を鳴らす。


「この程度で、死ぬかよ」


 返り血に染まる二人の魔族の子どもは、酷く幼い顔で呼吸を繰り返しているが、意識は無い。
 剣の血を振り払い、ダイヤは鞘に納めた。ぐるりと周囲を見渡し、舌打ちを一つ。血の海となった集落に、生き物の気配は無かった――。

14,The strong.

14,The strong.




「ほらよ」


 素っ気無い言葉と共に投げ渡された一切れの黒パンに、ルビィは空腹が満たされるかという生命維持の疑問以上に、それが人間の食糧であることに心底安心した。屍累々とした集落から離れ、血の臭いも肉の焼ける臭いもしない岩場に腰を下ろし、大きく溜息を零す。
 何が起こったのか未だに理解し切れていない。
 人間を売買し、家畜のように殺戮し搾取する魔族の集落。突如現れた二人の子どものような魔族の姉弟は、全ての生命をまるで遊びの一つであるかのように虐殺して行った。それを越える圧倒的な剣技で仕留めたダイヤは、返り血を浴びることもなく平然と人間の食糧に喰らい付いている。


「食わねぇのか」


 あの地獄絵図を目の当たりにして、食欲があるならまともな感覚ではないだろう。
 そう言いたいのを呑み込んで、ルビィは硬くなった手元の黒パンを握り締めた。同様に、与えられた食糧を弄ぶだけで一向に口に運ぼうとしないエメロードは俯いたまま言った。


「あの子達は……」


 それが誰を指しているのか解らず、首を傾げるダイヤは口に含んだパンを忙しなく咀嚼していた。
 エメロードが、魔族の、と付け加えたことで漸く理解したらしいダイヤが、眉一つ動かさずに平然と答える。


「さあな。その内に目を覚まして、また何処かで剣を血に染めるだろう」


 何かを堪えるように、エメロードは眉を寄せた。
 一見すると年端もいかぬ幼い子どもが、狂気に満ちた笑い声を響かせて同胞を殺戮して行く。其処にあるのは純粋な愉悦だけだ。食事を終えたダイヤはコップ一杯の水を喉の奥に流し込みながら言った。


「魔族は皆、本能のままに生きている。殺すことにしか価値を見出せない者もいる」
「でも、同じ魔族なのに!」


 思わず叫んだエメロードは、すぐに俯き言葉を濁した。
 ダイヤはそれも気に留めることなく、凍り付いたような無表情で遠くを見詰めていた。


「別に、全ての魔族が魔王軍て訳じゃねぇよ。本能のままに生きる馬鹿だっているさ」
「――ダイヤ、も?」


 ぽつりと問い掛け、ルビィは口元を噤んだ。
 どんな答えを期待しているのだろう。縋る相手を間違えている。そう思いながら、ルビィはダイヤの答えを待った。
 ダイヤは言った。


「生きたいように生きているという点においては、同じことだろうな。ただ」


 青い瞳が、きらりと光った。


「己で己自身を制御することだ。駆り立てる衝動のままに生きることに、俺は価値を見出せない」


 意外な答えだと思いながら、ルビィは続ける言葉を持たなかった。
 その時だった。ダイヤが剣に手を伸ばすと同時に、あの笑い声が高らかに響き渡った。


「――馬鹿みたい!」


 愉悦に満ちた弾むような声と共に、曇天の合間に覗く日光を反射した銀色が光った。
 ルビィの眼前に舞い落ちた白い羽根。銀色を抑え込んだダイヤの後方、殆ど垂直に脳天を割るような一撃が振り下ろされる。悲鳴も、瞬きも間に合わない刹那。今にも崩れ落ちそうな不安定な岩場を足場にしているとは思えぬ強い力で、ダイヤは剣を旋回させてそれらを弾き飛ばした。
 飛び退いた二人の藍色の瞳が嬉しそうに歪む。


「魔族の癖に」
「人間を守るのか」


 責め立てる口調に反して、その幼い面は嬉々としている。ダイヤは忌々しげに青い目を細めた。


「お前等に、俺を責める権利があるか?」


 そんな権利は誰にも無い。この二人の子どもにも、ダイヤにも、ルビィやエメロードにも、魔族にも人間にもそんなものはありはしない。
 ダイヤの剣は鈍い銀色を反射していた。


「ガキが、百年早ェんだよ!」


 その刃が一閃し、一瞬にして二つの刃を弾いた。
 高音を響かせた剣が岩場の奥へと転がり落ちていく。衝撃に痺れた掌を押さえる二人に、ルビィは如何することも出来ない。ダイヤのように剣を握ることも、避難することすら出来ない。
 二人は互いに顔を見合わせると、――吹き出すように笑った。
 腹を押さえ、目尻に涙を浮かべるその様は人間と変わらないのに。


「いいね、アンタ」
「殺してやりたい」


 その中には、消えることのない殺戮への衝動が猛り狂っている。
 二人の口元が弧を描く。ダイヤが舌打ちした。きっとこの子どもは、片割れが死んでも、首が飛ばされても、ダイヤの喉笛に喰らい付くくらいのことは平気でするだろう。
 武器を失った筈の二人の爪が異様な速度で伸びる。一瞬にしてそれは研ぎ澄まされた刃となった。
 それまでがまるで遊びであったかのように速度を増した二人が一気に間合いを詰める。ダイヤは一瞬、ルビィをエメロードを一瞥し、大きく翼を広げた。
 二人が瞠目し、呆気に取られる。ダイヤは、刃も爪も届かぬ天空から呆れたように見下ろしていた。


「俺を殺したきゃ、此処まで来やがれ」


 小馬鹿にするように鼻で笑うダイヤの口元が、微かに歪んでいる。――笑っている。
 命を狙われていながら、この状況を楽しんでいるのだ。空から見下ろすダイヤの心中が理解出来ず、ルビィは居た堪れなくなる。けれど、その瞬間。


「あはははははっ!」


 笑い声が響いた。それは狂気に染まらぬ、純粋な子どもの笑い声だった。
 ひぃひぃと、苦しそうに息継ぎしながら笑いこける二人に愕然とする。数秒前まで命のやり取りをしていた筈なのに、腹を抱えて笑っているのはどんな道理なのだろう。宙に浮かぶダイヤもまた、既に剣を収めている。


「何アンタ」
「最高だね」


 二人が武器を仕舞ったことを確認して、ダイヤはゆっくりと地上に降り立った。
 上空の吹き荒れる風によって乱れた銀髪を整えることもせず、ダイヤは一度鼻を鳴らして元の場所に腰を下ろした。戦意は互いに失せたらしい。魔族同士でしか解り合えない何かが、彼等の中に流れているのかも知れない。取り残されているルビィとエメロードがほっと息を逃がした。


「――へえ、旅をねぇ」


 興味深そうに言った少女が、藍色の瞳を爛々と輝かせる。
 すぐに打ち解けたエメロードの話を聞き逃すことなど無いようにと耳を傾ける二人は、まるで行儀の良い飼い犬のようだとルビィは思った。対してダイヤは不機嫌そうな顔でそっぽを向いている。
 二人は、ラピス・ラズリと名乗った。姉がラピス、弟がラズリだ。正真正銘の血の繋がった魔族の姉弟で、年齢は人間で言う十五歳程だと言う。
 この世に生を受けてからずっと、戦いの中に身を置いて生きて来たとラピスは語った。それは決して不幸な身の上話ではなく、何処か誇らしげに堂々と話す武勇伝のようだった。誰かの命を搾取する為だけに生きている。己の内に猛り狂う殺戮への衝動のままに生きる様は何処か潔くすらあり、美しかった。
 自らのことを語ったラピスは、それからまじまじとダイヤを見た。視線が居た堪れないのか不機嫌そうにダイヤが「何だよ」と言い捨てればラピスとラズリは無邪気に笑った。


「それにしてもアンタ」
「本当に魔族なの?」


 続け様に喋った二人を一瞥し、ダイヤはそっぽを向いた。
 ダイヤが魔族でないなんて、ルビィにはその質問の意味が解らない。少なくとも、人間は翼など持たない。ラピスとラズリは言った。


「白い翼を持つ魔族なんて、聞いたことない」


 確かに、とルビィは思う。
 ルビィの思い浮かべる魔族は何時だって恐ろしくて、醜悪で、凶暴な生物だった。嘗て出逢ったコーラルもそうであったように、魔族は人間が思う以上に美しい生き物なのかも知れない。ダイヤは答えなかった。
 黙ったダイヤに興醒めだとでも言うように、二人は再び、ルビィに向き直った。


「ねぇ、アンタ」
「俺達が怖くないのか?」


 その瞬間、二人の刃がぎらりと光ったように見えた。
 竦みながら、ルビィは二人と距離を取りつつ答えた。


「怖いよ」


 笑いながら人間だけでなく同族すらも斬り殺していくその鬼神のような戦いぶりも、人間を肉の塊としか見ていない魔族も、自分の故郷を滅ぼした強大な武力も怖くない訳じゃない。
 ただ。


「私は、ダイヤが怖くないだけ」


 全ての魔族がそうではないことを知っている。
 はっきりと答えたルビィに、二人は笑みを深くした。


「何だよ」
「人を悪者みたいに」


 軽口のように言う二人に陰は無い。欺瞞も駆け引きも存在しない、抜身の思いを二人はいとも簡単に振り翳す。


「弱っちい奴が悪いんだよ」
「弱者は徒党を組んで、強者を悪者にしたがるからな」


 何処か達観した物言いに言葉を失えば、二人は嬉しそうに笑うだけだった。
 其処で二人はふと上空を見上げた。


「この世界は間違ってる。私達は間違ってない」
「だから、俺達は全てを壊す」


 溢れる破壊、殺戮への衝動。それは津波のように押し寄せては全ての呑み込み消し去って行く。
 それまで黙っていたダイヤが、ぽつりと口を開いた。


「別にお前等が何をしてもしなくても、弱者は勝手に淘汰される」


 所詮、この世は弱肉強食だ。
 違いない。顔を見合わせたラピスとラズリが、嬉しそうに笑った。

15,Apoptosis.

15,Apoptosis.




 泥濘の中に沈むような倦怠感と、頭痛を覚える既視感にダイヤは目を覚ました。天上には濃紺の夜空が広がり、満天の星空は硝子片のように地上を照らしている。夢見が悪かったのだと、同族が聞いて呆れるようなことを考えダイヤは額の汗を拭った。
 燻るような焚き木の炎。自分がしなければ誰もしない火の番に、ダイヤはゆるゆると薪を投入した。
 魔族と過ごすのは久しぶりだな、とダイヤは自嘲する。ルビィと出会う前、自分はずっと独りだった。それを悲観することはないし、かといって誇りに思う訳でも無い。どうだって良かった。ただ、遠くへ行きたかった。
 警戒心も無く熟睡するラピスとラズリを見下ろし、ダイヤは肩を竦める。油断し過ぎだろう。数時間前には命のやり取りをした筈の相手の前で、こんなにも無防備でいいのだろうか。殺されない保障など何処にも無い。彼等も自分と同じように、どうだって良かったのだろうか。
 その時。
 ピィ、とまるで琴線を張るような鋭い音が闇に響いた。咄嗟に飛び退いたダイヤの足場が、ぐらりと崩れ落ちる。雪崩のように崩壊する岩場の異変に飛び起きた面々を意に介すこと無く、ダイヤは闇の中に沈む気配に目を鋭くした。


「――誰だ」


 腰の剣に手を遣れば、闇の中からあの音がした。
 空気を切り裂くような高音は、風を呑み込んで突き進む。それが矢であると理解すると同時に、ダイヤの頬に嫌な汗が伝った。
 矢の突き刺さった岩が崩壊する。燃えるような熱波を飛ばすその鏃を覚えていると思った。否、忘れる筈が無いと解った。
 闇に浮かぶ二つの血のように紅い光。


「……ガーネット」


 青白い肌、額に生えた小さな双角。魔王軍の四将軍が一人、ガーネット。
 青年と呼ぶに相応しい容貌に見合わぬ鋭過ぎる眼光はダイヤを見てはいない。視線の先にあるのは。


「――ラピス・ラズリ!」


 ダイヤが叫ぶのとほぼ同時だった。
 空気を裂いた二つの矢は、生き物のようにうねり、岩場で混乱する二人の魔族の額に突き刺さった。割れた額から赤い血液が一つの筋となって零れ落ち、二人の体は折り重なるようにして倒れた。
 声を上げる間も、無いまま。
 絶命した二人に呼吸は無い。状況が理解出来ず呆然とするダイヤとエメロードを一瞥することなく、ダイヤは白亜の翼を広げ一直線に駆け抜けていた。


「ガーネット!!」


 振り下ろされた白銀の刃は、掲げられた刃に防がれた。
 冷静な態度を崩さないガーネットと、ダイヤは真っ向から切り結んだ。
 ルビィは、一瞬にして覚醒した体を動かし、命を失った二人の手を握った。僅かに熱を持った体もやがて冷え固まるだろう。数時間前まで交わした会話が、見せた笑顔が失われている。
 ガーネットは爆ぜるようにダイヤの剣を弾くと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「お前に用は無い」


 それでも引かないダイヤの剣を往なしながら、ガーネットは表情を崩さぬままに言った。


「魔王様に弓を引きかねない危険因子は早急に処分する」


 それが当然だと言うガーネットに、ダイヤの青い瞳がぼう、と音を立てて燃え上がる。


「ふざけんな、ガーネット!」


 刃が稲妻のように振り下ろされる。耳を塞ぎたくなるような高音が響き渡り、ガーネットは心底解らないという顔をする。
 ダイヤは、己の内に湧き上がる衝動のままに叫んでいた。


「強さが罪になることなんて、無い!」


 火花が散るような鍔迫り合い。ダイヤの面が苦々しげに歪む。
 弱ければ殺される。強ければ消される。ならば、如何すればいいのだ。如何すれば生きられるというのだ。ダイヤには解らない。
 脳裏に浮かぶラピスとラズリは、子どもだ。己の力を制御することも、生きるということも解りはしない愚かな子どもだった。衝動のままに殺戮を続ける二人を、一体誰が責められる。彼等を生んだのは人間の負の感情でも無ければ魔族でもない。この、時代だ。


「その使い方を知らないことが、罪になるんだ!」


 その強さの使い方を、誰も教えてはくれなかった。命を奪うことが悪いことだと、誰も教えてはくれなかった。
 救いの手等差し伸べてはくれなかった。それでも、降り注ぐ裁きが同等なんで不条理だ。
 訴え掛けるようなダイヤの叱責に、ガーネットが苦い顔をした。それは至近距離だったダイヤでなければ気付けない程、小さな感情の機微だった。


「正論等、聞き飽きた!」


 弾かれた瞬間、見計らったかのようなタイミングで矢が空気を切り裂いて押し寄せる。紙一重で躱しながら空中へ逃れたダイヤの目に映るのは魔王四将軍、ガーネット。血の色をした瞳の奥に見える消え入りそうな炎を、ダイヤは知っている。
 もう二度と動くことの無いラピス・ラズリ。時代によって生かされ、時代によって殺される。まるで誰かの都合の為に生み出され、殺されて行く様はアポトーシスだ。
 ガーネットは目を伏せ、眉間に皺を寄せながら絞るような声で言った。


「正論で救えるものなど、何一つありはしない……!」
「それでも俺は、お前にそんな世界を与えたかった訳じゃない……!」


 勢いよく滑降したダイヤと、ガーネットの剣が交わる。刃が軋み、砕け散ってしまいそうな鬩ぎ合いに、終止符を打ったのはガーネットだった。
 大きく後ろに飛び退いたガーネットを追う事無くダイヤの両足は地面に縫い付けられたように動かない。舞い起こる砂塵が二人の間を吹き抜け、悲鳴のようにか細く鳴り響く。
 固く結ばれた口は開かれない。沈黙を守るダイヤを、侮蔑するようにガーネットが一瞥する。


「縁も浅い餓鬼の仇討に剣を振るうとは、お前も堕ちたものだな」


 仇討。黙り込んでいたダイヤが小さく復唱する。それまでの剣幕を消し去った無表情で、ダイヤが言った。


「……もう、いい」


 猫の体毛のように逆立てていた翼を丁寧に折り畳むと、ダイヤが目を伏せる。力無く両手を下げるその様は何時もの傍若無人ぶりを消し去っていた。絶望、嫌悪、諦念。
 口を挟むことすら憚られる痛い沈黙の中で、ルビィはダイヤの横顔を見詰めた。無表情ながらも、其処には確かに身を裂くような深い悲愴が刻み込まれていた。
 衝動のままに生きる魔族。其処に価値を見出せないというダイヤ。魔王軍に従うガーネット。彼等の間には浅からぬ因縁があることは火を見るより明らかだ。目を伏せたダイヤが再び翼を広げる。それはガーネットと切り結ぶ為に広げられたのではない。


「行くぞ」


 ルビィを振り返ってダイヤが言った。
 ラピス・ラズリの亡骸を抱えるエメロードの腕を軋む程の力で掴み上げると、ルビィを脇に抱えて大きく羽ばたいた。置き去りにされた二人の死骸は沈黙し、さらさらと零れる流砂に埋まって行く。悔しげにエメロードが腕を伸ばしたけれど、その手が届くことはない。
 ガーネットが背を向ける先で砂嵐が起こっているのが確認出来た。それは只の自然現象ではなく、夥しい数の魔族が武器を携えてこの地を目指していることの証明だった。
 伸ばし続けた腕を漸く引き戻したエメロードが、宙ぶらりんになりながら問い掛けた。


「あの軍勢は、ラピス・ラズリを狙って来たの……?」
「それだけじゃない。あの軍勢が狙っているのは――、俺だ」


 苦虫を噛み潰したような顔で、ダイヤが言った。
 放浪する魔王の末子。その存在の意味を、意義を、意図を全く知らない。今更ながらに気付いたルビィは、魔王軍から離れるように曇天の下を翔け抜けるダイヤに問い掛ける。


「如何して、追われているの?」


 口元を結んだダイヤは答えない。
 耳元で轟々と風が吹き抜ける。沈黙を保つだろうとルビィが小さくなって行く魔王軍に目を向けた時、聞き間違いかと思う程に微かな声が耳に届いた。


「――俺は、籠の鳥だから」


 独白にも告白にも似た声に返す言葉は無い。
 それは如何いう意味だ。問い掛けたかった言葉は形にならない。
 前を見据えるダイヤの目に何が映っているのか解らない。ルビィがそっと振り返った先で、ガーネットがじっと此方を見詰めていた。それは先程剣を交えた敵とは思えない程、慈愛にも似た縋るような悲哀に満ちていた。


「ダイヤ」
「ガーネット」


 青い瞳が、紅い瞳が交差する。
 どちらが呼び掛けたのか。振り返らないダイヤはただ前に進んで行く。大空を飛べる鳥に、地べたを這いずる蟻の気持ちは解らない。群れに生きる蟻に自由が無いように、独り大空を羽ばたく鳥の孤独は理解出来ないだろう。
 彼等の中に芽吹くものが何かなど、所詮一介の人間でしかないルビィには解らない。
 けれど、もしも、自由に羽ばたくことの出来る大空を失ってしまったら?



 曇天に消えて行く白亜の翼を見詰め、ガーネットが拳を握る。
 僅か三回切り結んだだけの掌が微かに痺れている。情け容赦無い殺気の籠った斬撃だった。


「剣の腕を、上げたな」


 ぽつりと呟いたガーネットの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
 背後に迫る魔族の軍勢はガーネットを視認すると、濛々と砂埃を巻き上げながらその場に跪いた。先頭の紫色の鱗を持つ蜥蜴のような魔族は、跨っている黒く滑る四足の蛇から降り立つと、口角を釣り上げて厭らしく笑う。


「あの魔族の餓鬼は始末しましたか」
「ああ、滞り無く」
「ガーネット様も勤勉な方ですな。あのような雑魚、我々ならば貴方様の手を煩わせることも無かったのに」


 そう言って、紫の魔族がラピス・ラズリを足蹴にする。その様を横目にガーネットが眉を顰めたことに気付きもせず、つらつらと得意げに言葉を続けて行く。


「それより、ダイヤ様は捕獲出来なかったのですね」


 捕獲?
 その単語にガーネットの目が鋭くなる。


「サファイヤ様もお怒りでしょう。愛玩動物が逃げ出してもう百五十年……。そろそろ籠の中に戻っていただかないと、魔王軍にも支障が出てしまいます」


 くつくつと喉を鳴らしながら軽薄な笑みを浮かべる。
 背後に従える魔族に視線を投げると、同じ厭らしい笑みを浮かべた魔族が頷いた。そして、一歩前に進み出ると、蝙蝠にも似た薄い翼を広げる。骨と皮だけの矮小な身体がダイヤの後を追うようにふわりと浮かび上がる。両手両足をぶら下げた灰色の魔族が微かに開いた口元から鋭い牙を覗かせていた。


「あの方に、自由は必要無い」


 断言するように落とされた言葉に、ガーネットの体は既に動き出していた。
 腰に差した剣は誰の目にも留まることなくすらりと抜き放たれ、一瞬の内に紫の魔族の首を跳ね飛ばした。
 声を上げることも出来ぬまま戦慄の走る魔王軍に視線すら向けず、動揺し振り返った空中の魔族に矢を向ける。首だけになった魔族が言葉を放つよりも早く、ガーネットの射た矢は空中の魔族の額を、ラピス・ラズリと同様に貫いていた。
 額から一筋の青い血液が零れ落ちる。空中から叩き落された魔族がごろりと転がったのを合図に、首だけになった魔族が声を張り上げた。


「気が触れたか!」


 ガーネットが、軽薄に笑う。


「正気など、とっくの昔に捨てて来た」


 魔族の軍勢が武器を構え取り囲んで行く。怒号が響き渡る。
 それでも、ガーネットは余裕の態度を崩すことなく笑っていた。


「もう二度と、あいつの空を奪わせはしない」


 振り返らないダイヤには届かないだろう。――否、届かなくていい。元より届いて欲しくなど無い。
 曇天の元に響き渡る怒号と悲鳴と雄叫び。その尾を微かに掴んだダイヤの翼が僅かに動きを鈍くした。


(……ガーネット)


 胸中で呼び掛けた声は届かない。思い浮かべる紅い双眸に、過去の記憶が蘇る。
 灰色の空、灰色の壁。伸ばした手は、届かない。

16,A moment.

16,A moment.




 ダイヤは何も言わなかった。
 魔王軍四将軍の一人、ガーネットの軍勢と遭遇して、ラピス・ラズリが屠られて、一時は激昂し剣を交えた。けれど、すぐさま元来の冷静さを取り戻し、その場を離脱した。ダイヤにどんな考えがあったのかは解らない。けれど、無言で痩せた大地を歩くダイヤは何かに急き立てられるような早足で、振り返ることなく前進していた。
 魔族に感情なんて無いと、以前、ダイヤは言った。あるのは本能だけと言って疑わないダイヤの背中を押しているものが感情では無く何だと言うのだろうか。何度も問い掛けようとして、口を噤んだ。私は、ダイヤのことを何も知らなかった。
 隣を歩くエメロードもまた、無言だった。ラピス・ラズリの死から立ち直ってはいない。彼等の子どものような無垢な心に触れ、それが呆気無く奪われ、これが現実なのだと突き付けられたのだ。誰かに縋ることなく、自身で立ち直ろうとするエメロードは強い人なのだろう。
 振り返らないダイヤに、エメロードが砂漠のような渇き切った声で問い掛けた。


「何処に、向かっているの?」


 ダイヤは振り返らないまま、歩き続けている。歩調を緩めることも、休むこともない。人間と魔族の体力の違いなど考えるまでも無いのに、その足を止めないのは、私達の存在をすっぽりと忘れてしまっている為だろう。
 思い出したように急に足を止めたダイヤが、振り返る。何の感情も読ませない何時もの無表情で、白雉のようにぽかんと口を開けた。私達の存在を失念していたことに、漸く気付いたのだろう。


「……此処から近いのは、スマルトの集落だな。排他的な人間の集まりだから、歓迎はされないだろう。だが、余所者という括りでは、人間にも魔族にも平等だ」


 再び歩き出したダイヤの歩調は緩められた。
 ダイヤの言う通り、岩砂漠を二時間程歩くと険しい山間にその集落は現れた。左右を切り立った崖に挟まれたその地は、何処か私の故郷を連想させた。閉鎖的で完結された世界。其処から足を踏み出そうとする人間はいない。外の世界へ興味を持つことも無い。
 藁葺屋根の連なる寂れた家々は人気が無く、集落全体がひっそりと静まり返っていた。それでも、微かに感じる人の気配に耳を欹てれば囁き合う村人の声が聞こえるようだった。
 痩せた大地を耕し、種を撒き、作物を育てる。山に足を踏み入れ獲物を探し、食料を得る。必要最低限の木材を切り出し薪とする。既視感を覚えきょろきょろと周囲を見回していると、珍しくフードを被らないまま歩くダイヤが言った。


「余所見するな。怪しまれるぞ」


 慌てて姿勢を正すと、漸くエメロードが口元を緩めて笑った。
 この集落の作りを理解しているような迷いの無い足取りで進むダイヤを追うと、その先にはぽつんと古びた小屋があった。まるで村八分にされているような家屋だ。違和感を覚えながらダイヤの横顔を見るが、相変わらず無表情だった。
 ダイヤは足を止め、小屋をじっと見詰めている。何か覚えがあるのだろう。初めて来たようには見えない。今度こそ問い掛けようと口を開くが、またしてもそれは言葉になることはなかった。


「久しいの、魔族の者よ」


 しわがれた声に振り向けば、腰を深く曲げた老婆が杖を突きながら立っていた。
 その背後にはずらりと村人が警戒し、敵意をを剥き出しに取り囲んでいた。ダイヤは老婆を一瞥すると、興味無さげに目を細める。


「そっちこそ。まだ生きてやがったか」


 旧知の仲であることはその言葉の節々から感じられる。一見すると若者のようなダイヤは、相対する老婆以上の長い時を生きているのだ。
 ダイヤの視線は小屋に向けられたまま動かない。老婆が言った。


「あの子なら、まだ其処に住んでいるよ」
「そうか」
「ただし、来るのが十年遅かったね」


 その言葉にダイヤが振り返る。けれど、老婆は意味深な言葉を残して半身になって言った。


「今夜は此処に泊まるつもりだろう? 小屋を一つ貸してやろう」


 そうして老婆が指差した先は、その寂れた家屋から程近いまるで倉庫のように質素な小屋だった。
 村人は老婆が歩き出すと、糸を引かれるように連なり去って行った。
 残されたダイヤは黙り込んで、老婆の指し示した小屋へと歩き出す。エメロードと顔を見合わせ、その後を追った。
 小屋の内部は古いながらも、手入れが行き届き埃一つ落ちてはいなかった。暖を取る囲炉裏が中央に位置し、簡素な台所には小さな竈が一つあるだけだった。その小屋が何の為に存在しているのかは解らないが、客人を予期していたかのように玄関には僅かながらも作物が用意されている。早々に囲炉裏の傍に腰を下ろし、フードを脱ぎ捨てた。
 自在鉤には小振りな鍋が吊るされている。ダイヤは慣れた手付きで囲炉裏に火を入れた。エメロードは竈の横の桶から水を汲み上げ、鍋を満たした。自分も何かすべきだろうかと逡巡すると、エメロードが苦笑交じりに席へ促してくれた。
 薪をくべながらダイヤは火箸で炎を弄っている。外が暗くなるに連れて、小屋内部の炎の明るさが際立っている。エメロードが簡単な野菜の煮物を作ってくれたが、ダイヤは終に箸を付けようとはしなかった。
 何かを考えているらしいダイヤの横顔を炎が照らしている。奇妙な沈黙が小屋の内部に、幕のように下りて行った。湯を沸かし、エメロードは白湯を配ってくれた。それを一口、二口飲み下すとダイヤはまた視線を炎に落とした。
 ガーネットと別れてから、何かがおかしい。エメロードも同じ考えのようで、炎に視線を向けながら静かに問い掛けた。


「……此処に来たのは、初めてではないのね」


 ダイヤは答えず、白湯を啜った。


「あの子、とは?」


 考え込むように、ダイヤは目を閉ざした。血の気の無い白い面は相変わらず無表情だ。
 そして、目を開けた時、その青い双眸は何かを決意したような強い光を放っていた。


「昔のことだ。此処から数キロ離れた岩場で、餓鬼を一匹、拾ったんだ」


 長命な魔族であるダイヤの指す昔が、どれ程の長さなのかは解らない。けれど、少なくともそれはルビィと出会う以前だった。


「薄汚い餓鬼だった。それに、傷だらけだった。特に理由は無い。何と無く、興味を持った」


 それはダイヤのよく起こす気紛れだ。
 小屋の中は薪の爆ぜる音が時折響くばかりで、ひっそりと静まり返っていた。


「手当なんて知らねーし、放って置く気も起きなかったし、近くに町でも無いかと飛んでみたら、このスマルトの集落を見付けたんだよ。そんで、餓鬼を連れて行ったら事情も解った」


 バチリと薪が爆ぜた。炭を作って行く炎の中に、ダイヤは薪を追加する。
 炎は静かにその大きさを保ちながら、周囲を照らしている。


「出迎えたのが、さっきの婆だ。もうちょっと若かったかな。杖も無かったし、腰も曲がっていなかった。訊いてみたら、その餓鬼は親に捨てられたんだそうだ。母親が出産と同時に死んで、父親がトチ狂った。そんで、集落の者で代わりに育ててたものの、父親が連れ去って虐待して捨てたんだそうだ」
「ひどい……」
「そうなのか?」


 首を傾げるダイヤには、それが悲劇とは感じられないのだろう。ダイヤは続けた。


「俺が餓鬼拾って集落に届けたもんだから、大騒ぎだ。俺は魔族だったしな。お蔭でその父親は餓鬼が魔族だとか言い出すし、人間共は俺を見て逃げ惑うし」


 火箸で炭を退けながら、ダイヤは酷く淡泊に言う。


「まあ結局、その父親、殺しちまったんだけどな」
「ダイヤが?」
「そう。急に襲い掛かって来たから、反射的に。人間共も叫ぶわ逃げるわ、てんやわんやだったな。まあ、それも次第に落ち着いて、餓鬼を如何するかって話になったんだ。この集落もあの父親を持て余していたんだろうな。餓鬼にも同情的だった。だから、俺が面倒を押し付けられることは無かったんだけど、餓鬼が妙に懐いてさ。俺が出て行こうとすると泣きながら縋り付いて来やがるんだよ」


 その子どもの気持ちなど、ダイヤには恐らく永遠に解らないだろう。
 心底不思議そうにダイヤが首を傾げる。


「置いて行っても良かったんだけどさ、何で俺に執着するのか気になって、ちょっとだけ面倒を見てたことがあったんだ。人間でいう一年くらいかな」
「一年間も?」
「お前等の感覚と一緒にするなよ。俺にとっては、瞬き程の短い時間だ」


 親を亡くし捨てられた子どもが、無条件に自分を守ってくれる存在に縋るのは当然のことだ。情緒不安定な中で一年もの間、自分の為に滞在してくれたのが人間でなくとも、依存するのも仕方が無いことだろう。
 けれど、ダイヤにはそれが解らないのだ。だから、気紛れといって中途半端なことをする。そして、それが悪いとも思わない。


「別に一年間ずっと此処にいた訳じゃないぞ。ちょくちょく立ち寄ってただけだ。ルブライトの時みたいにな。けど、その内立ち寄れなくなって、随分時間が空いてたみたいだな」


 その空白の時間に、何かが起こったらしい。
 ダイヤはそう言って、白湯を啜った。
 その時だ。木々のざわめきや、薪の爆ぜる音とは明らかに異なる人間の叫び声が集落中に響き渡った。それは耳を塞ぎたくなるような金切声で、眩暈がするような罵詈雑言だった。何かを強く打ち付ける鈍い音と、肉を打つ乾いた音。
 突然の状況変化にエメロードとルビィは勢いよく立ち上がった。ダイヤは目を伏せ、耳を澄まし状況を探ろうとしている。そして、何かを悟ったように力無く言った。


「負の連鎖か……」


 初め、その言葉の意味が解らなかった。
 ダイヤはゆっくりと立ち上がると、剣を腰に差して歩き出した。小屋の外は濃厚な闇が支配している。それでも響き渡る叫び声は明らかに幼い子どものもので、聞くに堪えない罵声は男のものだった。集落中の小屋からは村人が顔を覗かせ、音源へと視線を向けている。それは、先程見た寂れた家屋だった。
 家屋には僅かな明かりが灯っている。人がいることは明らかなのに、近付くことが恐ろしかった。
 此処で何が起こっているのか。それはダイヤの先程の話から察することが出来た。


「なあ、俺には解らないんだよ」


 フードを深く被ったまま、ダイヤはルビィの横を擦り抜けた。迷いの無い足取りで小屋の前に立つと、腰の剣に手を伸ばす。フードの下の表情は窺えない。けれど、笑っている筈も無かった。泣いているとも想像出来なかった。
 一閃――。銀色の閃光が闇夜に光った。一瞬で扉が切り倒され、灯りが大きく零れた。照らし出された家屋内部が鮮明なものとなる。
 凄惨。その一言に尽きる。
 まるで家探しでもしたかのように荒らされた内部。鬼の形相で棒切れを掴む男と、怯え身を丸くする少年。それはダイヤにとって、過去の投影に他ならなかった。
 男が、ダイヤを見据え目を見開く。ルビィの想像が正しければ、男は、ずっとダイヤを待っていた筈だ。だって、彼にとってダイヤは、失った保護者同様の存在だった筈だ。


「ダイヤ……?」


 剣を納め、ダイヤがつまらなそうに男を一瞥する。


「久しぶりだな、ジャスパー」


 ジャスパーと呼ばれた男が、口元に笑みを浮かべた。対照的に無表情のダイヤは剣から手を離さない。


「随分とでかくなったじゃねーか。人間の成長は早いな」
「……ダイヤは、全く変わらないな。二十年前のままだ」


 二十年――。
 ルビィが生まれるより前のことだったのだ。人間と魔族の違い。繁殖力、異能、思考回路、違いは無数にあるけれど、その中でも大きく異なるのはその寿命だった。それはつまり、人間と魔族の時間の流れの違いだ。
 ダイヤにとってはほんの僅かな時間の空白。けれど、人間にとって二十年は、子どもが大人になる程の長い時間だった。


「なあ、ジャスパー。お前、何をしているんだ?」


 何の感情も含まない淡泊な声で、切り捨てるような冷たさでダイヤが問い掛けた。

17,Love.

17,Love.




 ダイヤの問い掛けに、ジャスパーは笑った。それは、泣き出しそうな笑みだった。


「何故、もっと早く来てくれなかった……」


 責めるような物言いに、ダイヤが小首を傾げる。それはまるで、凄惨なその状況が見えていないかのような何気ない仕草だった。


「何故? 俺の勝手だろう」


 突き放すようなその言葉は、ダイヤにとっては当たり前の返答なのだ。ルビィにはそれが解る。
 ダイヤは始めからジャスパーに思い入れがあって、此処を訪れていた訳ではない。ただ、人間に興味があっただけだ。気紛れに立ち寄っていただけの場所に、興味が薄れて立ち寄らなくなった。ダイヤにとっては瞬き程の僅かな時間、疎遠になっていただけに過ぎない。それが人間にとっての二十年で、ジャスパーにとっては心の拠所を失くしたも同然だっただけのことだ。
 擦れ違ってしまった――。否、初めから噛み合って等いなかった。


「なあ、教えてくれよ」


 ダイヤは至極平然と問い掛ける。


「如何して、自分の子どもを殴るんだ? その行為の意味は何だ?」


 それはきっと、純粋な疑問で、ダイヤには本当に理解出来ないのだろう。
 人間の複雑な心理作用なんてダイヤに解る筈が無い。ルビィは思った。ダイヤの言葉に責める意図は全くない。けれど、ジャスパーはそう捉えないだろう。


「そんなこと、俺にだって解らない!」
「何故、自分で考えない?」


 それは常に、ダイヤが人間に問い掛け続けたことだった。
 厳しい口調のダイヤに、ジャスパーが息を呑む。それは正しく、親に叱られた子どものようだった。


「俺には解らない」


 ダイヤは片足を下げた。それは、斬り掛かる寸前の踏み込みに良く似ている。
 嘗てジャスパーの父を殺したのはダイヤだ。そして、彼はまた、同じことを行おうとしている。
 咄嗟にルビィは、暴行された子どもを庇おうとした。目の前で父親が殺される様を見せる訳にはいかない。けれど、其処で緑色の双眸が閃光のように煌めいて見えた。
 エメロードだ。両手を広げると、ダイヤの前に立ち塞がった。


「止めて、ダイヤ」
「何のつもりだ?」
「殺さないで」


 不思議そうにダイヤは小首を傾げる。ダイヤにとって、エメロードごとジャスパーを殺すことなんて訳無いのだろう。
 それでも、エメロードは微かに指先を恐怖で震わせながら訴える。


「殺したって何にもならないわ」
「俺には解らないんだよ。親が如何いうものなのか、子を育てるとは如何いうことなのか。……尤も、解らなくたって良いけどな」


 すらりと抜き放った鈍色の刀身は、囲炉裏の炎を受けてオレンジ色の光を反射している。
 如何だっていい。言外にそう言い捨ててダイヤが目を細める。ダイヤは優しい。けれど、人間の命など取るに足らないと軽んじる様は魔族に他ならない。
 愕然と、ジャスパーが膝を着く。ダイヤは一瞬でエメロードの横を擦り抜けると、ジャスパーの首に剣先を突き付けた。
 ひゅ、と空気の抜ける音がする。バランスを崩したエメロードが座り込み、殺さないでと必死に訴える。嫌な緊張感が満ち、ルビィはただ傷だらけの子どもを抱きかかえた。
 ダイヤが言った。


「親ってものが何か、俺は知らない。だが、この状況が正解だとは如何しても思えない。殴ったり、虐げたり、罵倒したり、これが親のすることなのか」


 ジャスパーは答えない。ダイヤは続ける。


「正解か不正解かは、俺には解らない。だから、ケジメを付けに来た」


 剣の切っ先をジャスパーの首に触れさえ、ダイヤは言った。薄皮が切れたのだろう、僅かに血が零れ落ちる。
 止めて、とエメロードが叫んでいる。けれど、二人には聞こえていないのかも知れない。無表情のダイヤに、ジャスパーが俄かに微笑んだ。


「やはり、俺を救ってくれるのは、お前だな」


 そう言って、ジャスパーは刃に触れた。
 一瞬。ほんの一瞬だった。瞬きすら間に合わない動作で、ジャスパーは自らの首に刃を滑らせた。真紅の血液が噴水のように溢れ、ダイヤの剣だけでなく、その相貌すらも汚して行った。
 室内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
 崩れ落ちたジャスパーの口元には微かな笑みが浮かんでいる。子どもが何かを叫び、血塗れの父の亡骸に縋り付いた。ダイヤは終始無表情だった。
 呆然と膝を着くエメロードの瞳からは光が消え失せている。罵倒する気力も無いのだろう。


「俺を責めるか?」


 何も発しないエメロードに、ダイヤが問い掛ける。其処には罪悪感や後悔等微塵も感じられない。
 エメロードは首を振った。


「……いいえ。選んだのは、あの人だもの」


 ダイヤは首元に刃を当て、選択肢を与えただけだ。選んだのはジャスパーで、自らを殺す決断をしたのも彼だ。
 これが、ダイヤの言うケジメなのだろうか。ルビィは黙ったまま、惨状と化した小屋内部で立ち尽くしていた。
 様子を窺っていたらしい村人がぞろぞろとやって来て、ジャスパーの亡骸を子どもから引き剥がして行った。埋葬するのだろう。子どもの絶叫が夜空に響き渡っていた。
 乱雑に血を拭ったダイヤを先頭に、先程の老婆の自宅へ招かれた。長老という肩書を持っているらしく、小屋は周囲に比べ僅かに大きかった。
 老婆は囲炉裏の前に座り、ルビィ等も座るよう促した。
 薪が爆ぜる中、老婆が言った。


「ジャスパーがああなったのは、今から十年程前だよ。お前さんがすっかり寄り付かなくなって、寂しかったんだろうねぇ」


 懐かしむように、老婆が言う。ダイヤは扉に背中を預けたまま座ろうとしない。


「村の娘と結婚して、子どもが出来た。幸せそうな姿に、私達は安心していたんだ。でもね、出産現場に立ち会ったジャスパーは、血塗れの奥さん見て、気がおかしくなっちまった。生まれたばかりの子どもを殺そうとしたんだ。化物にでも見えたんだろう」


 何処か聞いたことのある話だと思った。それは奇しくも、ジャスパーの生い立ちに酷似していた。


「村人は必死で止めたんだけど、夫の豹変ぶりを見て、今度は妻が気を病んじまってね。結局、それから程無くして亡くなったよ」


 傷ましいと、ルビィは純粋に思った。
 老婆は続けた。


「遺されたジャスパーは、子どもと二人で暮らすようになった。だが、夜な夜な聞こえて来る子どもの泣き声、男の罵声に村総出で押し掛けたこともあった。ジャスパーが子どもを引き渡そうとしたこともあった。でもね、子どもが離れなかったんだ。どんなに殴られても、罵倒されても……。子どもってのは不思議でね、どんなに酷い親でも、庇おうとするんだよ。ジャスパーも無理に押し付けようとはしなかった。きっと……」


 其処で老婆は一つ息を吐いて、言った。


「きっと、あいつなりに、子どもを愛していたんだろう」


 抱き締める腕が無くとも、温かい料理が無くとも、傍にいることを許容する。それが、彼の愛だった。
 ダイヤは相変わらずの仏頂面で、問い掛けた。


「俺が十年前に此処に来ていたら、何か変わっていたか?」


 老婆は意味深に笑う。


「変わっていたかも知れないし、変わらなかったかも知れない。だが、あの頃のジャスパーを救えたとしたら、お前さんだけだったんだろうね」


 ふうん、と興味も無さそうに相槌を打つと、ダイヤは小屋を出て行った。
 残されたルビィは何と無く、問い掛けた。


「その頃のダイヤって、今とは違ったんですか?」
「少なくとも、見た目は変わっていないね。魔族は長命だから。ただ、あの頃に比べて、少し丸くなったような気はするよ」


 老婆が悪戯っぽく笑い、つられてルビィも口元を緩ませた。
 ジャスパーの亡骸は、空家の一つに安置された。明日の早朝には埋葬することになっている。ダイヤは小屋には入らず、壁面に凭れ掛かったまま空を見上げていた。老婆の元を離れ、一人佇むダイヤに何と声を掛けたら正解なのだろう。ルビィには解らなかった。
 エメロードは、黙り込むダイヤの横にしゃがんで言った。


「虐待を受けて育った子は、将来子どもに虐待をすることが多いんだって」
「自分が受けて来たのにか?」
「そう。それ以外の愛し方が、解らないんだわ」


 エメロードが苦々しげに言った。
 ルビィは彼女の横に座り込み、やりとりに耳を澄ませた。


「最期に、彼は自殺を選んだでしょう。きっとあれが、彼の愛だった」
「何だよ、その愛ってのは」
「相手を大切にしたいと思う気持ちのことよ」


 興味も無さそうにダイヤが適当な相槌をする。


「ジャスパーは突き放すことを選んだんだわ。このまま自分の傍に、子どもを置いておけないと思ったから」
「……人間様の御高尚な考えは解らないが、その愛とやらは随分と自分勝手で、曖昧なものだな」
「あなたにも」


 エメロードが顔を上げた。混血と蔑まれた緑色の瞳がじっとダイヤを見詰めている。


「あなたにも、あるでしょう」
「魔族に、そんなものがあると思うか?」


 怪訝に返すダイヤの眉間に、皺が寄っている。馬鹿馬鹿しいと体言しているようだった。
 エメロードは可笑しそうに笑い、そして、言った。


「あの突き放す愛を、教えたのはきっとあなただった」


 ダイヤは何も言わなかった。
 エメロードは暫しの沈黙の後、はっきりと言った。


「私、この村に残るわ」
「え?」


 声を上げたのはルビィだった。エメロードは困ったように眉を下げる。


「あの子のことが、気掛かりなの」
「ジャスパーの子か?」
「そう」


 虐待を受けて育った子どもは、将来虐待をするようになる。
 その言葉が脳裏を過り、ルビィは身を固くした。エメロードは目を伏せ、噛み締めるように言う。


「魔族の集落で売られていた子どもや、ラピス・ラズリ、ジャスパー……。世界は広大で、こんな悲劇もきっとちっぽけなんでしょう。でも、私もちっぽけな人間だから、彼等の傍に寄り添っていたい」


 彼女の言っていることが、ルビィには何と無く解るような気がした。
 有り触れた悲劇と、他愛も無い出来事だと思いたくないのだ。自分にも何か出来ることがある。何も無かったように素通りしたくない。
 混血と蔑まれ、人間にも魔族にもなれなかったエメロード。けれど、そんな彼女が優しく思慮深い人であることをルビィは知っている。


「居住の許可はもう頂いたわ。貴方達と旅が出来なくなるのは残念だけど……」
「まあ、好きにするといい。俺には関係の無いことだ」


 ダイヤがそう言うことも解っていた。ルビィは何か伝えなければと思うのに、何一つ気の利いた言葉が出て来ない自分に苛立った。ほんの短い間だったが、ダイヤが如何言おうとも一緒に旅をした仲間だ。別れの言葉も、祝福の言葉も、健闘を讃える言葉も出ては来ない。
 ぎゅ、と口を結んで俯いた。顔を上げたら、不必要なものが零れ落ちてしまいそうだった。
 そんなルビィの肩を叩き、エメロードが微笑む。


「きっとこの先、目を覆いたくなるような悲劇も、言葉を失う程の美しい景色も、貴方は色々見て行くんでしょうね。こんな時代で、こんな世界で、どちらが多いかなんて言うまでもないけど。何時でも、心に火を灯してね。貴方が闇に呑まれないように、ダイヤが道に迷わないようにね」


 そう言って、エメロードは悪戯っぽく片目を閉じて笑った。

18,Light.

18,Light.



 出立の朝は、眩暈がする程の蒼穹が広がっていた。痩せた大地に吹く風は何処か寒々しく、まるで誰かの死を悼んでいるようにも思えた。
 見送る村人の中に、短い間とはいえ共に旅して来たエメロードがいる。その隣に立つのはジャスパーの子どもだった。厳しい暴力を受けて来た子どもは傷だらけで、痩せっぽちだった。見送り等不要と言わんばかりに、早々に背を向けたダイヤは振り返らない。目立つ銀髪をフードの中に押し込め、静かに歩き出した。
 後ろ髪引かれるような思いで、ルビィはダイヤを追い掛ける。結局、見送る彼女に気の利いた言葉の一つも掛けることが出来なかった。そんなルビィの後悔を察しているかのように、エメロードは曇りの無い笑顔で手を振った。
 ジャスパーが埋葬されたのは、朝日が昇ったばかりの早朝だった。白んだ空の下で、固い大地を抉り、その亡骸を葬った。村の厄介者扱いかと思えば、誰もが彼の死を悼み、悲痛な表情を浮かべていた。けれど、ダイヤに対する視線は感謝に満ちていた。
 何かに掻き立てられるような早足で進むダイヤに、ルビィは追い縋る。背を向けた先で、彼等は姿が見えなくなるまで見送ってくれるのだろう。


「ねえ、ダイヤ」


 感情の無い横顔に声を掛けるが、振り向くことはない。それでもルビィは言った。


「ジャスパーは幸せだったのかな」


 死の瞬間、確かに彼は微笑んでいた。まるでダイヤが救世主であるかのように、裁きを受ける罪人のように刃を自らの首に滑り込ませた。
 ずっと、死にたかったのだろうか。死にたいと思いながら、如何して生きようとするのだろうか。ルビィには解らない。死ぬことは恐ろしいことで、許されないことだと思っていた。
 振り向くことの無いダイヤが、静かに言った。


「俺に、人間の感情が解ると思うのか」


 侮蔑するような物言いで、ダイヤが鼻を鳴らす。魔族であるダイヤには当然のこととは思うものの、ルビィには如何してかその言葉が不貞腐れた子どもの言い訳染みて聞こえた。
 何かに掻き立てられるようなダイヤの背中を押すのは、恐らく苛立ちだろうとルビィは想像する。理解出来ないことが、腹立たしいのだ。ジャスパーを追い込んだ二十年の空白は、長命なダイヤにとってはほんの僅かな時間の流れでしかなかった。その価値観の違いを、ダイヤはきっと理解出来ない。
 そして、理解出来ないことを苛立つダイヤは、人間を理解したいのだ。
 ダイヤは何かを思い出したように、口を開く。


「……ジャスパーを拾った時。あいつ、死にたいって言ったんだよ」


 不機嫌そうにダイヤが言う。


「もう死に掛けみたいなもんだった。放って置いたってどうせ死ぬのに、わざわざ俺に言ったんだ。聞いてやる義理も無いし、死にたいなんて考えたことも無かったから、興味が出たんだよ」


 それが何時もの、ダイヤの気紛れだった。相手の意思も無視して、自分の思うように行動する。


「あいつ、集落に連れて帰っても、ずっと殺してくれって言うんだよ。そしたら、あいつの父親が出て来て、襲い掛かって来て、返り討ちにして……。また、死にたいって言った」


 周囲の話を聞く限り、ジャスパーは親の愛を知らない子どもだった。それでも、子どもは親を愛するし、守ろうとする。
 誰にも必要とされず、ただ一つの居場所を失ったジャスパーが死にたいと願う気持ちが、ルビィには想像出来る。けれど、ダイヤはそうではないのだろう。


「騒ぎが落ち着いて、さっさと出て行こうとしたら、ジャスパーが縋って来た。殺してくれって」


 心底不思議そうに、ダイヤが言う。


「死にたいなら、勝手に死にゃいいだろう。何でわざわざ俺に頼むんだ。そう言ったら、勝手に助けたお前が責任を取れなんて、抜かして来やがった」


 言葉は苛立っているのに、その口調には怒り等微塵も感じられない。ダイヤが続けた。


「しょうがねーから、約束したんだよ。何時か必ず、俺が殺してやる。だから、それまで生きてろって。それから、ちょくちょくあの集落覗いてたんだ。ジャスパーは俺の顔見る度に、妙に嬉しそうに約束を確認してた」


 親の愛を知らず、居場所を見失ったジャスパーが、縋り付いた先が魔族であるダイヤだった。彼等の言う凡そ一年の間、ダイヤがどの程度顔を覗かせたのかは解らない。けれど、その頃のジャスパーにとってはそれが救いで、希望で、光だった。
 何時でも心に火を灯してね、とエメロードが言った。人は、何か一つでも縋るものがあれば生きて行ける。溺れる者が必死に掴んだ先が魔族だったとして、一体誰が責められただろう。


「それから二十年。人間にしてみれば、随分長い時間だったみたいだな」


 あの長老の言う通り、もしもダイヤが十年前に訪れていたら、何が変わっただろう。
 きっと、その時にジャスパーは死を望んだのだろう。そして、ダイヤも拒みはしなかっただろう。けれど、二十年という時を経て、ジャスパーは親となり、子を生した。――そうだ。ダイヤが十年前に訪れていたなら、あの子どもは存在し得なかった。
 突き放しながら、暴力を浴びせながら、ジャスパーが必死に愛した子どもだった。ダイヤがジャスパーを愛していたとは思えない。けれど、彼を支えていたのはダイヤとの約束だった。殺してやるから、生きていろ。そうして生きることを口に出して許容してくれる存在が、ジャスパーにとっての救いだったのだろう。


「人の命は短いな」
「そりゃ、ダイヤに比べたらそうでしょう」


 見た目がルビィと殆ど変らないとしても、魔族は人間よりも遥かに長命だ。
 ふと気になり、ルビィは問い掛けた。


「二十年もの間、何をしていたの?」


 大方、興味が薄れて、疎遠になっていたのだろう。答えを想像しながらルビィが待っていると、ダイヤはその予想を裏切るようにはっきりと答えた。


「逃げていたんだ」
「え?」
「魔王軍から。ラピス・ラズリの時に、見ただろう。あれに、ずっと追われているんだ」


 遠く砂嵐を巻き起こしながら進軍する魔族の群れ。鱗や牙、毒や甲羅を持つ異形の軍。そして、それらを率いていた紅い目の魔物。
 ダイヤが言った。


「一か所に留まれば、奴等を誘き寄せることになる。……お前の村のようにな」


 自分の村が滅んで行く様を、ルビィは鮮明に覚えていた。家屋の残骸に潰された両親、燃え盛る木々、泣き叫ぶ子ども、血塗れの屍――。
 山奥の寂れた村を襲撃するには、余りに強大な軍勢だった。人間の殲滅を目論む魔王軍の一部が偶然村を見付け、人を殺戮したものと思っていた。けれど、あの魔物はダイヤを追って来たのだ。
 ルビィが言葉を失って立ち尽くしていると、ダイヤが感情の読めない青い瞳で問い掛けた。


「俺を恨むか?」


 ルビィは首を振った。
 ダイヤが望んで引き寄せた訳ではないと知っている。それどころか、それを考慮して近付こうとしなかった。すぐにでも飛び立とうとしたダイヤに縄を打ち、その場に繋ぎ止めたのは村人だった。
 ただ、ルビィは知りたかった。


「如何して、追われているの」
「魔物は人間のように、簡単に子を生すことは出来ない。その中で、魔王の後継者は僅か七名。末席の俺を疎んでいる輩も多いだろう」


 後継者争い。何とも人間臭い理由だと思いながら、ルビィは言った。


「じゃあ、あのガーネットという魔族も、後継者の一人なの?」


 ダイヤは首を振った。


「いや、ガーネットは魔王の血筋ではない。魔王四将軍の一人だから、まあ、エリート様ってところだな」


 ダイヤにとってガーネットは部下に当たる魔族だ。けれど、その間柄は主従関係とは異なる、浅からぬ因縁があるようにルビィには感じられた。それを問い掛ける前に、ダイヤが言った。


「俺に、自由をくれた」


 ぽつりと零されたそれは、何処か独白のようだった。
 ルビィの知るダイヤは何時だって、自分の思うように行動し、羽ばたく自由の象徴だった。けれど、嘗てはそうではなかったのかも知れない。ルビィには想像も付かないが、ダイヤにもきっと幼少期があった筈だ。大空を羽ばたく鳥だって、生まれた瞬間から羽ばたけた訳では無いのだから。
 自由を与えたというガーネットに、ダイヤは今、追われているのだ。恐らく他の後継者によって、ガーネットは嗾けられた。
 ダイヤを見れば、魔王等という地位に興味があるとはとても思えない。それでも、殺し合いをしなければならないのだろうか。


「ガーネットも、殺すの?」


 その瞬間、ダイヤは何かを堪えるように眉を寄せ、口を閉ざした。それきり、その件には一切言及しなかった。

19,The choices.

19,The choices.




 ぐにゃりと、視界が歪んだ。
 凍り付くような寒風の中で、痩せた大地を進む足取りは、まるで足枷でも付いているかのように重かった。体中を包む倦怠感でも、弱音を吐く相手すらルビィには存在しなかった。何かに掻き立てられるように前進を続けるダイヤは振り返らない。当然、ルビィを気遣うことも無い。
 こんな時、エメロードがいたなら、何か言葉を掛けてくれただろうか。居もしない仲間を思い浮かべる程度には、ルビィの神経は消耗していた。まずい、と思った瞬間、視界は傾き、目の前には固い地面が迫っていた。其処で暗転。微かに、ダイヤの怪訝な声が聞こえた気がした。

 ルビィが目を開けた先には、見慣れない節目だらけの天井が広がっていた。
 久しく触れなかった柔らかな寝床。静かな室内に人の気配は無い。何処かから漂う食物の匂いに、腹の虫が空腹を訴えて鳴いた。
 ぐるりと視線を巡らせるが、ダイヤの姿は無い。ベッドの傍には大きな窓が、一杯に光を取り入れ存在している。此処は何処だろうと立ち上がろうとして、再び視界が歪んだ。脳内を木槌で叩かれているかのような鈍痛に眉を寄せる。此処は何処だろう。己の最後の記憶を振り返るけれど、現在の状況に繋がるものは何も無かった。
 その時、扉が軋みながら開かれた。


「やあ、目が覚めたようだね」


 現れたのは白衣を纏った青年だった。漆黒の髪と瞳が、魔族ではなく人間であることを物語っている。その手に抱えられた食事をルビィが見詰めれば、青年は苦笑交じりにサイドテーブルへ置いた。
 糸のような細い目が印象的な、長身痩躯の青年。ルビィは問い掛けた。


「此処は……?」


 青年は穏やかに微笑んだ。


「此処はベンゼンという町で、僕はアクアマリンというこの町唯一の医者だ。そして、この場所は病院の一室だよ」
「病院……?」
「そう。病気や怪我を癒す場所だ」


 ルビィは再度、ぐるりと周囲を見回した。これまで大きな病気も怪我もしたことのないルビィにとって、病院とはまるで聞き慣れない単語だった。そもそも、ルビィの生まれ育った村にそのような施設は存在しなかった。
 アクアマリンと名乗る青年は、糸のような目を歪めて言った。


「君は過労で倒れたんだよ。随分と苦労して来たんだろう」
「過労……」
「長い旅をして来たんだろう?」


 長い旅。ルビィはこれまでの旅を振り返る。
 魔族であるダイヤと、人間であるルビィの体力はまるで違う。それでも、ダイヤを追って旅を続けて来た。それは一年にも満たない短い期間であるにも関わらず、それまで村で過ごして来た時間を上書きする程の日々だった。
 過労も当然かと、ルビィは肩を落とす。アクアマリンは労わるように笑みを浮かべ、食事を差し出した。


「お腹が空いただろう?」


 正直な腹の虫に赤面しながらも、ルビィは感謝の言葉を述べる。空腹も当然だった。
 手を合わせると、アクアマリンはどうぞ、と嫌味無く食事を促す。人好きのする笑みに安心を覚え、温かい食事に手を伸ばした。
 数日ぶりの温かい食事に何故だか涙腺が緩み、自覚する以上に疲弊していたことを思い知る。涙ぐむルビィに、黙って微笑むアクアマリンの優しさもまた、その涙腺を緩めることになった。
 皿が空になり、手を合わせる。アクアマリンは微笑みを浮かべたまま、平らげられた食事の片付けを始めようとする。ルビィは、懸念していたダイヤの行方をその背中に尋ねた。


「ダイヤ……、いえ、銀色の髪と青い目をした魔族を知りませんか?」


 すると、アクアマリンは振り返った。


「ああ。少し、町を見て来ると言っていたよ。直に戻るだろう」
「そうですか……」
「彼は、面白いね」


 アクアマリンの言葉に、ルビィは首を傾げた。アクアマリンが言った。


「君を背負って、血相を変えて、此処に駆け込んで来たんだ。助けてくれ、ってね」
「ダイヤが?」


 俄かには信じ難いアクアマリンの話に、ルビィは怪訝に眉を寄せる。ダイヤなら、捨て置いても何ら不思議は無いだろう。けれど、これまでのダイヤを振り返れば有り得なくも無いと思った。
 真偽の程は定かではないけれど、今すぐにダイヤに会いたいと思った。
 アクアマリンはルビィの反応を満足そうに眺めると、言った。


「兎に角、君は暫く安静にしていなさい。もう一眠りするといい」


 甘やかすようにルビィを撫で、アクアマリンは部屋を出て行った。
 静かで温かい室内に、誘われるようにルビィは再び眠りに落ちた。こんなにも穏やかな時間は随分と久しぶりのような気がした。これまで知らずの内に神経を張り詰めていたのだろう。
 そして、どれ程眠っていたのか窓の外はすっかり暗くなっていた。室内ばかりが蝋燭の灯りに照らされて明るい。相変わらず静まり返った室内をぐるりと見渡すと、見慣れた銀髪が視界に映った。


「ダイヤ?」


 剣を抱えるようにして、壁に背を預け瞼を下ろしている。眠っているのだろう。初めて見るダイヤの寝顔をまじまじと凝視する。
 魔族が長命で、ダイヤがどれ程の時を生きて来たのかルビィは知らない。けれど、こうして目を閉ざすダイヤは何処か幼さを感じさせた。まるで、子どものようだった。
 気配を察したのだろうダイヤが、ふっと目を開いた。青い瞳にオレンジ色の炎が映り込む。茫洋とした視線をルビィに向け、ダイヤはふっと肩を落とした。


「テメェ、面倒掛けやがって」


 口を開けば悪態だ。けれど、それがダイヤらしいと何故だか安心する。
 ダイヤは欠伸を一つ噛み殺し、立ち上がった。


「ダイヤが、此処に運んでくれたんでしょう?」
「それが如何した」
「ありがとう」


 言えば、ダイヤがきょとんと目を丸くする。それがらしくないとルビィは笑った。
 不満げにダイヤが言う。


「別に、気紛れだ」
「そっか」


 不貞腐れた子どものような物言いが、何処か微笑ましい。
 魔族は恐ろしいものだ。鋭い牙や爪、鱗や毒を持つ異形の種族。長命で強靭で、人間を襲い喰らう。けれど、全てが恐ろしい訳ではない。ダイヤは冷たい物言いをするけれど、其処に悪意は欠片も無い。
 優しいと、純粋に思う自分は甘いのだろうか。ルビィには解らない。


「医者は、暫く寝ているのが良いと言っていたぞ」
「そうみたい。でも、一か所に留まってはいられないんでしょう?」
「そうだな。……なあ、そろそろ潮時だと、思わないか」


 すっと目を細め、ダイヤが言った。


「お前の村が滅んだのは、俺の責任だ。だから、お前が俺に付いて来たいという思いを拒絶するつもりも無いし、勝手にすればいいとも思う。だが、人間と魔族は違い過ぎる。……ジャスパーのように、俺が意図せずとも、傷付き、死ぬこともあるだろう」


 ダイヤが何を言おうとしているのか、ルビィは理解するまでに時間が掛かった。脳が麻痺したように動かず、現実感を帯びない。


「人間と魔族が全く相容れないとは思わない。だが、共存出来るとも思わない」
「そんなこと無い!」
「……その証拠に、お前はぶっ倒れたんだろう」


 ルビィの反論を封じるように、ダイヤはきっぱりと言い捨てた。ダイヤはルビィを労わっているのではなく、そう感じたから述べているだけだ。
 自分の存在が煩わしくなったのだろうか。ルビィは知らずの内に拳を握って黙り込んでいた。何か反論したいけれど、どれもが感情論であることも気付いていた。ダイヤの言うことが正論であることも理解している。けれど、それでも。
 黙り込んだルビィを一瞥し、ダイヤが言った。


「お前が完治するまでは、俺もこの町に残ろう。魔王軍が近付けば早々に去るつもりだ。よく考えておけよ。姿形が似ていても、俺は魔族で、お前は人間だ」


 そうして上衣を翻し、ダイヤが出て行く。向けられた背中にはあの白亜の翼は無い。
 何かを訴えたいと思うけれど、何の言葉も出て来なかった。そうしている間にダイヤは姿を消していた。
 残されたルビィは、ぎゅっと拳を握ったまま固く目を閉ざした。


(ダイヤは魔族で、私は人間だ)


 この旅は、それを痛い程に知らしめてくれた。自分はダイヤのように飲まず食わずで長時間歩き続けることは出来ない。そして、追われ続けるダイヤは自分の為に安全な空の旅を捨てる羽目になっている。ダイヤは自分の我儘に付き合ってくれていただけだ。それももう、終わりの時が来たのかも知れない。
 エメロードなら、如何しただろう。いない嘗ての仲間を思い浮かべる。
 何時でも心に火を灯してねと言った彼女なら、如何言って慰めてくれただろうか。

 夜が更けて行く。
 今夜は眠れそうにないと、ルビィは思った。

20,Distrust.

20,Distrust.




「顔色が優れないね」


 何時の間に夜が明けたのか、朝食を持って現れたアクアマリンは相変わらず穏やかに微笑んでいた。
 結局、一睡も出来ないままだったルビィは力無く微笑んだ。
 ダイヤと永遠に一緒にいられるとは思っていなかったし、願ってもいなかった。けれど、別れを告げるような言葉を聞くまでは、この旅が終わること等考えたことも無かった。ダイヤと別れて、自分は如何したらいいのだろう。


「私……」
「ああ、話なら幾らでも聞くよ。ただ、先に朝食にしないか?」


 そうして提示された色とりどりの果物と、こんがりと焼けたパン。湯気の昇るスープも食欲をそそる。ルビィは強張っていた肩を落とし、朝食にあり付くことにした。
 食事を平らげると、アクアマリンは食器をサイドテーブルに避け、ルビィの話を聞く姿勢を取った。真摯な態度は医者らしく好感が持てる。ルビィはその様に安心感を覚え、口を開いた。


「アクアマリンさんは」
「ああ、アクアでいいよ。この町の人は、皆そう呼んでいるんだ」


 そう言って、アクアマリンは魔族と旅をする余所者の自分にも平等に接してくれる。飾らない優しさに、ルビィの涙腺は緩んでいた。


「アクアさんは、人間と魔族は共存出来ないと思いますか?」


 ルビィの言葉が指すものが何か解っただろうアクアマリンは、暫しの逡巡の後に、答えた。


「僕はこれまで魔族と出会ったことが無いから、肯定も否定も出来ない。でも、あの銀髪の魔族と君の関係を見ていると、それは不可能ではないように思う」


 ルビィが倒れた時、ダイヤは血相を変えて此処へ駆け込んだという。それが真実なのか如何かルビィには解らない。けれど、アクアマリンが嘘を吐く理由も存在しなかった。


「彼と、何かあったのかい?」
「……今まで、一緒に旅をして来ました。ううん。私が、ただ追い掛けていただけです。でも、今回、私が倒れたことで、この旅ももう終わりにした方がいいと言われて……」


 昨夜のダイヤの言葉を思い出し、涙腺の緩んだ目から滴が零れた。
 自分にはダイヤが必要だった。広大な世界を旅する上で、自衛の手段を持たないルビィがこれまで生きて来れたのはダイヤがいたからに他ならない。けれど、ダイヤはそうではない。一人でも長い間旅をして来たのだ。ルビィの存在は枷でしかなかった。
 アクアマリンは零れ落ちた涙を優しく拭い、言った。


「そうか……。確かに、医者としては過酷な旅を勧める訳にはいかない」
「そうですか……」
「どちらにせよ、今は肉体と共に精神も弱っている状態だ。この状況で正常な判断が下せるとは思えないな。ゆっくり休んで、体が癒えてから考えても良いだろう?」
「そう、ですね」


 ダイヤは、時間が許す限り、自分の怪我が癒えるまでこの町に留まると言った。
 調子を取り戻してから、考えても遅くは無いだろう。アクアマリンの言う通り、疲れで気も滅入っているのかも知れない。促されるようにベッドに潜り込めば、昨夜の不眠の為かすぐに睡魔は訪れた。沈み行く意識の向こうで、アクアマリンが出て行く足音が聞こえる。ルビィは意識を手放した。
 そして、再び目を覚ませば窓の外は闇が広がっている。昼間の町は活気に満ちているのだろうか。未だに見えない風景に思いを馳せながら、窓の外の闇を見詰める。すれば、静かに扉が開いた。
 現れたのは、ダイヤだった。草臥れた上着を纏って、今日も相変わらずの仏頂面だ。


「何だ、起きてやがったのか」
「まあね。こんな時間に、如何したの?」
「別に」


 定位置のように壁に背を預け、ダイヤは剣を抱え座り込む。
 ふと、考える。ダイヤが此処に宿泊しているとは思えない。夜行性でないダイヤは、夜には就寝している筈だ。ならば、何処に宿泊しているのだろう。


「ねえ、ダイヤは何処に泊まっているの?」


 問えば、ダイヤは胡乱な眼差しを向けた。


「何処だって良いだろう。お前に、関係あるか?」
「関係無くはないでしょ。もしも何かあったら如何すればいいのよ」


 不機嫌そうに、ダイヤが舌打ちした。


「何か用があったら、あの医者に言え」
「アクアさんのこと?」
「そうだ」


 その物言いは、ダイヤがアクアマリンを信頼しているとは思えなかった。けれど、ルビィを預ける程度には信用しているのだろう。
 奇妙な関係を感じ、ルビィはふとダイヤの腕を見た。上着に隠された細腕には、無数の切傷があった。見覚えの無い傷だ。そもそも、ダイヤは驚異的な治癒力を持っているのだから、怪我をしていること自体が珍しい。目を凝らせば、まるで皮膚を剥がされたかのように筋肉の筋や血管が浮かんで見えて驚愕する。
 気付いたダイヤがさり気無く腕を隠す。思わず、ルビィは問い掛けた。


「その傷、如何したの?」
「ちょっとした揉め事だ。まあ、数刻もすれば癒える」


 その言葉の通りに、傷は跡形も無く癒えるのだろう。
 けれど、何か釈然としない心地でルビィが見詰めていると、ダイヤは目を背けた。


「俺のことより、テメェは如何なんだよ。治ってんのか」
「大分ね。私のこと、気にしてくれてるの?」
「お前が治ったら、俺はさっさとこんなところ離れられるんだよ」


 ダイヤらしい物言いに、ルビィは笑った。ぶっきら棒で、歯に衣を着せないけれど、其処に悪意は無い。ダイヤは優しいと、ルビィは思う。それが独り善がりではないと、この場にエメロードがいたなら共感してくれだろう。
 笑ったルビィを不思議そうに見遣り、ダイヤは立ち上がった。


「人間は訳が解らないな。如何でも良いが、さっさと寝て、治せよ」


 そう言って、ダイヤは部屋を出て行った。
 ダイヤの言う通りだ。今の自分に出来ることはしっかり栄養を取って、沢山眠って、身体を癒すことだけだ。眠ろうとベッドに沈み込む。けれど、同時に扉が再び開いた。立っていたのはアクアマリンだった。その手には夕食だろう食事がある。


「ゆっくり休めたかい? 夕食だよ」


 微笑みを浮かべるアクアマリンに安堵する。
 当たり前のように食事を与えてくれるアクアマリンに感謝しつつ、ルビィはダイヤの怪我を思い出した。


「ねえ、アクアさん。貴方、医者なのよね?」
「そうだよ?」
「厚かましいお願いとは思うんだけど、ダイヤが腕に酷い怪我をしていたの。治癒力は人間の比では無いけれど、良かったら治療してあげてくれないかな」


 すると、アクアマリンは一瞬、妙な顔をした。
 不意を突かれたように微笑みを消し去ったその面に、ルビィが驚く。


「アクアさん?」
「あ、いや。僕は人間専門だからね、魔族の治療は出来ないんだよ」
「そっか。そうよね。無理を言ってごめんなさい」
「此方こそ、力になれなくて申し訳無い」


 困ったように微笑むアクアマリンはそれまでの優しい青年だった。
 何か違和感を覚えながら、ルビィは食事を終え、就寝した。闇の広がる町の何処かで、ダイヤもまた眠っているのだろう。昨日見た幼さの残る寝顔を思い浮かべ、ルビィは穏やかな気持ちで眠った。
 翌日、目を覚ますと既にダイヤがいた。相変わらず壁に背を預け、剣を抱えている。窓の外は既に夜が明け、遠くでは活気に満ちた人々の声がした。ダイヤは深く眠っているのか目を覚ます様子も無く、深く項垂れていた。
 珍しいなと思いながらベッドを降りても、ダイヤは目を覚まさない。そっとその顔を覗き込み、ルビィは目を疑った。
 右目を隠すように、包帯が巻かれている。昨日は無かったものだ。視線を巡らせれば、昨日の腕の傷は完治しているが、新たな傷が出来ている。
 ダイヤはちょっとした揉め事だと言った。けれど、魔族であり強大な力を持つダイヤが、毎晩こんな怪我をしなければならない理由とは一体何だろう。また、ダイヤの目に包帯を巻いたのは一体誰だろう。この町唯一の医者はアクアマリンだ。彼は魔族は専門外だと言っていた――。
 違和感を覚え、ルビィが沈黙していると、ダイヤの一つの目が開かれた。何も変わらない美しい青い瞳の下に、深い隈が刻まれている。不眠不休で数日歩き続けても顔色一つ変えないダイヤが、こんな隈を作る理由は?


「ねえ、ダイヤ」
「何だ」
「その目、如何したの?」


 誤魔化しを許さない真剣な口調で問うが、ダイヤがすっと目を細めて面倒臭そうに言った。


「怪我したんだ。まあ、明日には治るだろう」


 その言葉の通り、ダイヤの傷はまた跡形も無く癒える筈だ。
 けれど、それでいいのだろうか。ルビィには解らない。
 立ち上がったダイヤは身体を上着ですっぽりと隠し、部屋を出て行こうとする。また次来る時には、新たな傷があるのだろう。そんな確信にも似た予感を覚え、ルビィはその腕を掴んで引き留めた。細い腕だった。


「……何だ」
「何か、私に隠し事をしていない?」
「如何して俺が、お前なんかに隠し事をする必要があるんだ?」


 その言葉は尤もなようで、違和感の塊だった。
 ダイヤは乱暴に腕を振り払い、出て行った。
 そして、入れ違いにアクアマリンが現れる。糸のような目を歪め、微笑みを浮かべている。運ばれて来る食事に異常はない。医者というのは間違いないし、好感の持てる好青年なのだろう。けれど、何かが引っ掛かる。
 ベッドにいないルビィを不審に思ったのだろうアクアマリンが顔を覗き込む。


「如何したんだい?」
「ねえ、アクアさん。如何して、私の治療をしてくれるの?」
「如何してって、僕は医者なんだから、当たり前じゃないか」
「でも、この食事も、場所も、薬もただでは無いでしょう。如何して、私なんかの為に此処までしてくれるの。何か、理由があるんじゃないの?」


 一息に言い切れば、アクアマリンは口角を釣り上げた。それは、これまで見たことの無い意地の悪い笑みだった。
 仮面が剥がれたのだと瞬時に悟った。後ずさるルビィに、アクアマリンが言う。


「僕だって、君のようなただの人間に興味は無いよ。何の見返りも無く、治療する筈も無いさ」


 アクアマリンが、可笑しそうに言った。食事は何でも無いようにサイドテーブルに載せられた。
 違和感。不信感。どんな言葉で表せばいいのだろう。胸の奥に何か黒い淀のようなものが突っ掛っているようだ。黙ったルビィを一瞥し、薄ら笑いを浮かべてアクアマリンは出て行った。

21,The cost.

21,The cost.



 幾分か、身体は楽になった。
 十分な休養の甲斐があったのだろう。夜も更けた闇の中、ルビィは足音を立てまいと静かにベッドを降りる。周囲は相変わらず静まり返り、何処かで犬の遠吠えが聞こえるくらいの平和な夜だった。
 ダイヤがいない。
 時間帯は不規則ながらも、一日に一度は顔を見せる筈のダイヤが現れないことは妙だった。加えて何かを隠しているような素振りと、増える傷跡。決して自分から答えはしないだろうと悟り、ルビィはダイヤを探すことにした。
 この部屋以外をルビィは知らない。扉を押し開ければ闇に染まった一本の通路が細く長く伸びていた。
 意を決して足を踏み出す。昼間は暖かい町も、夜になれば冷たい風が吹き付ける。通路は室内とは思えない程、まるで洞窟のように底冷えしていた。慌てて室内から自分の上着を引っ掴み、羽織る。ダイヤも、室内だというのに上着を手放さなかった。傷を隠す為だけでなく、防寒の意味もあったのだと今更気付く。
 通路は蝋燭の小さな灯りが僅かに照らすのみで、気温とは異なる寒さがルビィに纏わり付いた。


(ダイヤ)


 何処に行ったのだろう。通路の奥、また扉がある。外界へ繋がっているのだろうかと察しを付けて押し開けるが、その先はまだ屋根に守られた屋内だった。
 アクアマリンは此処が病院だと言ったけれど、随分と大きな施設だったのだと思い知る。この調子では、夜の間にダイヤを見付けるのは難しいかも知れない。扉を後ろ手に閉め、開けたホールのような室内を見渡す。ダイヤの居場所等、見当も付かない。手応えの無さに肩を落とす。その時だった。
 聞き間違いかと思う程の、微かな声がした。
 風の音にも似たその声は、地を這うように低い、呻き声だった。


「ダイヤ?」


 耳を澄ませば、その声が聞き間違いでないことが確信出来た。確かに聞こえるダイヤの声。それも、苦しげな喘ぎ声だ。
 声を頼りに歩を進める。ルビィが行き着いたのはホールの片隅にある、古い小さな扉だった。
 音を立てないよう、押し開ける。その先には、地の底まで続くのではないかと思う程の長い階段が待っていた。これまで歩いて来たどの場所よりも暗く寒い空間に身震いする。けれど、物寂しげな風の音の中で、確かにダイヤの声がする。
 気休め程度の灯りの中、踏み外さないよう慎重に一歩一歩階段を下って行く。何処まで続いているのだろう。下層に近付くに連れて体感温度が急激に低下して行く。震え立ち止まりそうになる足を動かしてくれるのは、ダイヤの声だった。
 階段が終わると、冷たい石の床が待っていた。空間を区切る壁は無く、だだっ広い広間のようだった。その奥の壁際、オレンジ色の灯りが照らしている。見覚えのある背中が、身体を屈め蠢いている。


「……う、」


 ダイヤの声が、した。
 白衣の背中――アクアマリンの前には、簡素なベッドが置かれている。柔らかな布団も、暖かな毛布も存在しないそれは正しく手術台のようだった。ベッドの傍、冷たい地面に何かが無数に落ちている。羽根だった。
 ベッドからだらりと伸びた細い腕は、切り刻まれたように傷だらけだ。白亜の羽根を染める真紅の血液が、地面に血溜まりを作っている。忙しなく腕を動かすアクアマリンの手には、オレンジ色の光を反射する鋭い刃が握られていた。
 それが、何の迷いも無く、振り下ろされる。切り付ける。刻む。皮膚を剥がす。肉を抉る。ダイヤの呻き声も喘ぎ声も、何もかも無視して自分の欲望のままに傷付けている――。


「ダイヤ!」


 思わず声を上げた。その瞬間、アクアマリンが勢いよく振り返った。
 白衣の奥で、固く目を閉ざしたダイヤが身体を投げ出すように横たわっていた。包帯で隠された右目は昨日のままだった。此処まで来れば、ダイヤの怪我が何なのか、ルビィにも解ってしまった。アクアマリンが医者だからと言っても、まさか治療とは思えない。


「ダイヤ!」


 ルビィの声に、ダイヤが僅かに反応を示す。それでもその目は開かれない。
 駆け寄ろうとするルビィを押し留めるように、アクアマリンが刃を向けた。


「よく此処が解ったね」


 世間話でもするような穏やかさで、アクアマリンが言う。けれど、ダイヤの返り血を頬に貼り付けたその様に狂気すら感じる。糸目を歪ませ微笑むアクアマリンは、これまで見て来た穏やかな青年のままだ。


「ダイヤを、離して……!」


 無造作に広げられた翼も傷だらけだった。深い隈も、扱けた頬も、これがたった数日の変化だとは思えない。
 如何して、もっと早く気付いてやれなかったのだろう。ルビィは唇を噛み締めた。
 アクアマリンは可笑しそうに喉を鳴らす。


「断る。彼はね、君の治療と引き換えに、僕の実験動物になることを選んだんだよ。謂わば、これは彼が望んだことなんだ」


 ルビィは、言葉を失くした。
 傷だらけの腕、包帯に覆われた右目、血塗れの翼、刻み込まれた深い隈。全てが、ルビィの為に負った傷だった。
 ダイヤは魔族だ。人間の為に傷付く理由なんて無いだろう。事実、ダイヤもルビィを突き放すような言動を取っていた。――けれど。


「ダイヤ……!」


 けれど、それだけではないのだ。ダイヤは冷たい。厳しい言葉も、素っ気無い態度も、相手の気持ち等微塵も配慮しようとしない。けれど、それだけでないことを、ルビィは知っている筈だった。
 平然と微笑むアクアマリンが、心の底から憎いと、思った。感情のままに強く睨み、ルビィは叫んだ。


「如何して、こんな酷いことをするの!!」


 すれば、アクアマリンは驚くこともなく微笑み言った。


「だって、魔族だろう?」


 彼が何を言っているのか、ルビィには解らなかった。アクアマリンは自分の言葉を疑う事無く、つらつらと言葉を紡いでいく。


「人間の敵だろう。それに、幾ら傷を負っても、すぐに治癒するじゃないか」


 ほら、とアクアマリンはダイヤの腕を掴んで見せた。確かに、其処には昨日あった傷が跡形も無く治癒している。
 微かに、ダイヤが呻いた。それでも開かれない瞼が、彼の疲労を物語っているようだ。ルビィが休養している間、ダイヤはずっとこの場所にいたのだろうか。冷たくて暗い、まるで牢獄のようなこの場所に。そして、生きたまま身体を切り刻まれ、血を流し、碌に睡眠も食事もしないまま、自分を気に掛けていたのだろうか。
 刃を翳すアクアマリンに近付けぬまま、不利な体勢と解っていても、ルビィは叫ばなければならなかった。


「ふざけないで!!」


 空間をびりりと揺らしたその声は、怒声と呼ぶに相応しかった。


「確かに、傷は癒えるわ。ダイヤの治癒力なら、傷跡すら残らないでしょう。でも、痛みは感じるわ。傷が癒えても、受けた苦しみは消えないんだよ!」


 人間だから、とか。魔族だから、とか。
 異なる種族だ。相容れないこともあるだろう。共存は理想論かも知れない。けれど、それでも、ルビィはダイヤの傍にいたかった。
 自衛の為ではなく、自己満足の為でなく。ただ、傍にいたかった。


「貴方、医者でしょう! 如何してそんな簡単なことが解らないの!」


 叫んだ瞬間、アクアマリンはふらりと距離を詰めた。その手に握られた鋭い刃が、振り上げられた。
 ルビィは、丸腰だった。自衛の手段すらないけれど、対峙したその凶器から目だけは決して逸らさないと誓った。真っ直ぐに睨み付けるルビィを、光の無い胡乱な眼差しでアクアマリンが見遣る。


「お前のような餓鬼に、僕の崇高な研究が理解出来るものか!」
「人質を取って、無抵抗のダイヤを苦しめた貴方のことなんて、理解したくもない!」


 凶刃が振り下ろされるその刹那、ずぶりと、肉を刺し貫く鈍い音がした。
 その生々しい音は、アクアマリンの腹部を貫いていた。


「なっ……」


 腹部から突如生えたかのような刃は、オレンジ色を反射して夕陽のような光を放っている。切っ先から真紅の血液が、ぽたぽたと滴り落ちている。ゆるりと振り向いたアクアマリンの視線の先に、片目を包帯で覆われたダイヤが、苦悶の表情で立っていた。


「お前、動ける筈が……!」
「人間と一緒にするんじゃねぇ……」


 崩れ落ちたアクアマリンの後ろで、ダイヤが膝を着いた。その足元には血溜まりが広がっている。


「ダイヤ!」


 駆け寄ろうとするルビィを、ダイヤは掌で制す。


「お前、身体は、大丈夫なのか」
「私より、ダイヤの方が!」
「俺はこんな怪我じゃ死なない。でも、お前はそうじゃないだろう」


 眉を寄せ、ダイヤが言った。


「此処で治療を続けないと、お前、死ぬんだろう?」


 ダイヤの言葉に、ルビィは全てを理解した。
 ルビィが倒れたのは、単なる過労だ。休養すればすぐに治る。けれど、アクアマリンは病気だとでも言って、ダイヤを騙し、実験台としてその身を提供することを強要したのだ。ルビィの様子から状況を悟ったダイヤは、苦々しげに視線を落とした。
 呻き声を上げるアクアマリンが、手にした刃を強引に振り回す。痛むのだろう腹部を押さえ、立ち上がることも出来ない。それでも、ダイヤに追い縋ろうとする様は狂気そのものだった。


「待て、お前は、僕の」
「俺は、誰のものにも、ならない!」


 剣を杖にして、ダイヤが言った。
 立っていることすらままならないのだろう重傷で、ダイヤが何度も大きく呼吸する。アクアマリンだけが、忌々しそうにダイヤを見ている。


「絶対に、逃がさないぞ」


 その時、階段の上から大勢の人の声が、足音が響き渡った。状況に気付いた町の人間か、アクアマリンの協力者が駆け付けたのだ。
 ルビィはダイヤに肩を貸し、脱出しようと足を踏み出す。痩せっぽちの身体は想像するよりも遥かに軽いけれど、抱えて走れる訳では無い。加えて、出口は階段の上だ。背後からはアクアマリンが凶器を持って迫る。絶体絶命の状況で、ダイヤはルビィの腕を掴んだ。


「しっかり、掴まってろ」


 絶え絶えの息で、ダイヤが言った。血塗れの翼が開かれる。ボロボロの羽根が抜け落ち、新たな羽根が現れる。
 ダイヤが大きく羽ばたいた。空間に満ちた生臭い腐った空気を一掃するように風が起こる。ルビィの身体は浮かび上がった。ダイヤは一直線に上昇した。その姿に、駆け付けた人々は驚愕し、恐怖し、武器を我武者羅に振り回す。武器を避けるように身を翻しては壁に衝突し、それでもダイヤは羽ばたき上昇する。その目に何が映るのだろう。激しく回転する視界の中で、ルビィは必死にダイヤの背中を見詰めていた。


「――ぐ、」


 羽ばたきと共に零れた血液が、ルビィの頬を濡らす。
 人垣を越えた階段に落下したダイヤが、ルビィを抱え込んで転がった。呼吸すら辛いように起き上がれないダイヤの下から、抜け出したルビィがその身体を揺らす。


「ダイヤ、ダイヤ!」


 ダイヤは起き上がらない。翼は力無く投げ出され、意識も朦朧としているのか返事すらない。
 階段の下から、人々が追い掛ける。迫る怒声に、ルビィは肩を貸すように立ち上がった。
 逃げなければならない。咄嗟に傍の扉を開いた。途端、凍り付くような寒風と鼻を突くような異臭がルビィを襲った。
 視界は拓け、遮る物の無い景色には広大な闇夜が広がっていた。目が眩むような切り立った崖だった。遥か下方では、荒波が岩場に打ち付けては砕かれていく。激しい潮騒が、背後より迫る人々のざわめきを打ち消そうとしている。それはルビィにとって、初めて見る海だった。山で生まれ育ったルビィには、それが如何いったものなのか等解る筈も無かった。そして、迷う暇も無かった。
 不規則な呼吸を繰り返すダイヤを、アクアマリンに引き渡す訳にはいかない。そうすれば、今度こそ本当に殺されてしまう。


「……ダイヤ」


 死ぬつもりも、殺させるつもりも無い。
 覚悟を決めるように名を呼べば、ダイヤの冷たい掌が応えるように震えた。


「迷っている時間は無いぞ」
「解ってる」
「俺も流石に疲れちまった。もう暫く、飛べそうにない」


 青い瞳が、荒れた海を見据えている。


「覚悟は決まってんだろ。――必ず、守ってやる」


 弱々しい声なのに、力強い口調だった。ルビィは肩の力が抜けたように微笑んだ。
 足が竦むような高所だ。落下した先が水面であっても、この硬度では岩場と変わりないだろう。死ぬかも知れない。否、生き残れる可能性の方が限りなく低い。――けれど、こんなところで諦めるつもりは毛頭無かった。
 追い付いた人間が、二人に手を伸ばす。その刹那、導かれるようにルビィは大地を蹴って、二人は空中に浮かび上がっていた。

22,The origin.

22,The origin.




 淀んだ空気が、肺を腐敗させて行くようだ。底冷えする暗闇は、まるで出口の無い洞窟のようだった。
 周囲には霧のような灰色の煙が満ちている。空気すら毒に侵された空間で、ルビィは視線をぐるりと旋回させる。光の差さない闇の中、目に映るものは何も無い。足元どころか自分の掌すら見えない。
 此処が何処なのか、自分が何をしていたのかも解らない。突然、声が聞こえた。


「ガーネット!」


 身を裂くような、悲鳴にも似た声が響き渡った。それは聞き間違う筈のない、ルビィにとって最も身近な魔族の声だ。
 ぽつりと、オレンジ色の光が灯る。照らし出されたのは、宝石のような青い瞳、透き通るような銀色の髪。牢屋のような強固な格子の奥で、魔族の子どもが必死に訴えている。幼いけれど、確かな面影がある。
 ダイヤだ。ルビィは、確信する。
 何が起こっているのだろう。ダイヤに駆け寄ろうとするが、まるで凍り付いたように体が動かない。声すら発することの出来ないルビィは、牢屋に囚われたダイヤに近付くことも出来ない。当然、ダイヤは気付くことも無く、ただ声を振り絞るように叫んでいる。


「ガーネット!」


 その声に含まれるものは何だろう。
 ダイヤの視線の先、見覚えのある魔族の青年が座り込んでいる。


「ダイヤ……」


 力無く吐き出された言葉。黒い短髪と紅い瞳。眉の無い額に小さな角が生えている。
 ダイヤが繰り返し叫んでいるのは、彼の名前だ。ガーネット。魔王四将軍の一人。
 座り込んだガーネットは、身動き一つ出来ないように縄に打たれていた。その面は傷だらけで、纏う衣服も乱闘でもしたかのようにボロボロだった。


「ガーネット!」


 牢屋の奥、闇の中で何かが蠢いている。暗闇から伸びた奇妙な触手が、ダイヤの足に絡み付く。のた打ち回るような不気味な触手は湿気を帯び、粘着質な液体を纏いながらダイヤの身体を包み込んで行く。
 ダイヤの口が開かれ、そして、悔しげにそれは閉じられた。縋るように格子を掴んだ手は解かれ、ダイヤの身体は闇へと引き摺られて行く。何かを諦めたようなダイヤの掌は、もう伸ばされない。けれど、その途端、縄に打たれたガーネットが勢い良く立ち上がった。


「ダイヤ!」
「――もう、いい」


 力無く、ダイヤが言った。今まで聞いたことも無いような、弱り切った声だった。


「もう、いい。もう、俺は何も望まない。だから、お前は、お前だけは――……」
「ふざけんな、ダイヤ!」


 両手を封じられたまま、ガーネットが体当たりをするように格子に駆け寄った。ダイヤの身体はずるずると闇の中に引き摺られていく。その奥に何があるのか等、ルビィには解らない。けれど、得体の知れない恐ろしい化物の息遣いが聞こえるような気がした。
 ガーネットが、声を上げる。


「強がってんじゃねぇよ、この馬鹿野郎!」


 格子を殴り付けるような轟音。ガーネットの怒声が尾を引いて響き、やがて消えた。その瞬間、俯いていたダイヤが顔を上げた。
 まるで、行先すら見失った迷子のようだった。青い瞳が、泣き出しそうに歪む。力無く投げ出されていた腕がゆっくりと持ち上がり、縋るように再度、伸ばされた。


「  」


 ダイヤの口元が、何かを伝えるように動き出す。声にならない言葉は、それでも確かにガーネットへ届いたようだった。ガーネットの顔が苦痛に歪む。――否、ダイヤと同じように、泣き出しそうに歪んだのだ。
 縄で打たれたガーネットが、複数の魔族に引き倒される。武器を携えた魔族はそれをガーネットに押し当て、恫喝するように声を荒げた。
 引き倒され、引き摺られるばかりだったダイヤが叫んだ。


「ガーネット!!」


 その声が合図だったかのようにうつ伏せのダイヤの背中から、ぶわりと白亜の翼が現れた。それは腐敗した周囲の空気を一掃するように風を巻き起こし、絡み付く触手を引き離し、武器を携える魔族を吹き飛ばした。
 唸る強風に、灯火が掻き消される。再び訪れた闇の中で、青い双眸だけが煌々と輝いていた――。


 ぽたん。ぽたん。ぽたん。
 水面でも見ていたように視界が歪み、崩れて行く。そして――、ルビィの視界は突如として明るくなった。


「――気が付いた?」


 ぽつりと零された覚えの無い声に、ルビィは目を向けた。そして、自分の身体が錆び付いたように軋み動き辛いことに気付く。視界がぼやけている。随分と長い間、眠っていたようだった。
 霞む視界の中、周囲の奇妙な明るさで小さな影が映った。


「何? 如何したの、人間」


 歌うような軽やかな口調で、鈴のような美しい声が問い掛ける。けれど、其処には何処か小馬鹿にするような意地悪染みた響きが含まれている。
 ゆっくりと視界が慣れ、影が像を結ぶ。透き通るような水色の光が満ちた空間。身の丈程の岩場の上に、一人の少女が腰掛けていた。彼女が人間でないことは、一目で解った。桃色の波打つ長髪、輝くような橙の瞳、白磁のような滑らかな肌、そして、人間にはある筈の両足は其処には無く、まるで魚類のような尾が生えていた。


「貴方は……」
「何? 見て解らないの?」


 声を上げて笑うその様は、無邪気な少女のようだ。
 エメラルドの鱗を煌めかせ、少女が指差し揶揄する。ダイヤと同じように、この魔族に害意は無いのだろう。


「貴方、魔族でしょ。そのくらいは見れば解るよ」
「じゃあ、他に何が知りたいの? 名前?」


 少女は、美しい微笑みを浮かべながら言った。


「シトリン。私の名前」
「私はルビィ。此処は何処?」
「見たら解るでしょ」


 そう言って、シトリンは両手を広げた。その背後――、否、周囲は水色の光に満たされ、大小様々な魚群が悠々と横切って行く。幻想のような美しい風景だ。見覚えも無い。
 黙ったルビィに、シトリンはすぐさま答えた。


「此処は海の中」
「海――?」


 記憶を失う前、最後の記憶は、闇に染まる海に飛び込んだ瞬間だった。
 自分が海の中にいるということは、理解した。けれど、海とは大きな水溜りだ。人間は水面下で呼吸出来ない。ならば、此処にいる自分は死んでいるのだろうか?
 シトリンが言った。


「此処は海の中だけど、呼吸の出来る場所もあるの」
「そうなの?」
「此処はオパール様の治める水中庭園。水生でない魔族が生きられるように、空気の満ちた空間を造って下さったのよ」


 ぐるりと見渡す此処は正に楽園だった。人間と魔族の戦争も無く、飢餓や貧困も無い。寒さに凍えることも無く、熱さに喘ぐことも無い。美しい景色の中で、魚類はのびのびと泳ぎ回っている。
 ルビィは、はっとして顔を上げた。


「――ダイヤ!」
「は?」
「銀髪で、青い目をした魔族がいたでしょ!? 酷い怪我をしているの!」
「ああ、ダイヤ様なら、眠っていらっしゃるわよ」


 平然と答えたシトリンは、何でもないように微笑んでいる。
 ルビィは一先ず安心し、大きく肩を落とした。その様子を見ていたシトリンの目がすっと細められたことに、ルビィは気付かなかった。


「あんた、何者?」


 シトリンは、訝しげに目を細め言った。


「ダイヤ様が魔王様の元から逃亡して百五十年。それまで何百何千という魔王軍の追跡を振り切って、世界を転々としていらっしゃったけれど、その間、何をなさっていたのかは誰も知らないの」
「百五十年!?」


 魔族が人間よりも遥かに強靭で長命であることは知っていた。若く見えるダイヤも、ルビィより遥かに長く生きていることは解っていた。けれど、まさか、百五十年。想像も付かない程の長い間、ダイヤは一人で生きて来たのだ。
 ルビィの反応を冷ややかに見遣り、シトリンは息を吐いた。


「まあ、人間が知っている筈も無いわよね」
「それより、ダイヤは何処なの!?」
「ダイヤ様は眠っていらっしゃるってば。当分、起きられないでしょうね。酷く疲れているようだったもの」


 けれど、生きている――。
 シトリンの言葉から考えれば、ダイヤは魔王の末子として悪い扱いはされていないだろう。だが、以前、ダイヤの言っていた言葉を思い出す。魔王軍に追われていると言ったダイヤが、魔族の元で無事に解放されるのだろうか。


「ダイヤ様は、サファイヤ様に引き渡すことになるでしょうね」
「サファイヤ様っていうのは……?」
「そのくらい知っているかと思ったけど。ダイヤ様の腹違いのお兄様よ。魔王様の後継者で、最も有力とされているの」
「そのお兄さんに、如何してダイヤを引き渡すの?」


 シトリンが、呆れたように大きな溜息を零した。


「ダイヤ様は、サファイヤ様のお気に入りらしいわよ。だから、百五十年前もダイヤ様を――」


 其処でシトリンは口を噤んだ。その目はルビィの後方へ向けられ、ぴくりとも動かない。導かれるようにルビィも振り返る。光を背中に浴びた影が、言った。


「お喋りが過ぎるわよ、シトリン」


 それは日輪にも似た美しい金髪だった。光を受けては跳ね返す白い肌と、この楽園を包む海と同じ水色の瞳。整った顔立ちはいっそ作り物のようだった。完璧な微笑みを浮かべた唇は、紅を刷いたようだ。
 純粋に、美しいと思った。


「オパール様……!」


 先程、シトリンの話に出た名前だった。この美しい水中庭園を造り上げた魔族。シトリンの口ぶりからして、それなりに高い身分と能力を持ち合わせている筈だ。
 ルビィがじっと見詰めていると、シトリンが言った。


「態度に気を付けなさい。この方は、魔王四将軍のお一人、オパール様よ」
「魔王四将軍――」


 思い浮かぶのは、ガーネットだ。其処で同時に思い出す。眠っている間に見たあの映像は、夢だったのだろうか。それとも、嘗て起こった現実だったのだろうか。ルビィには解らない。
 オパールは黙ったルビィを探るようにじっと見詰めていた。



「魔王様には七名の後継者がいらっしゃるの」


 幻想的な美しい風景の中、シトリンは尾びれで水を蹴りながら進んで行く。海底を歩くルビィとの間には境界線があるようで、シトリンの傍には近寄ることが出来ない。薄い膜の奥、軽やかに語るシトリンの表情は明るい。


「さっきも話したけど、その長兄がサファイヤ様で、最有力候補と言われているわ」


 先導するシトリンを追うように、オパールと呼ばれる美しい魔族が堂々と闊歩して行く。
 ルビィもまた、二人に従って歩いて行く。語り手となったシトリンは時折振り向いては、悪戯っぽい愛らしい笑みを浮かべている。


「サファイヤ様は、天下無双と呼ばれる程の力を持っているそうよ。それは通常の物質的な力とは一線を引く、魔法と呼ばれる力なんだって。私は見たことが無いから、如何いうものかは解らないんだけど」


 まるで空想を語るかのような楽しげな口調で、シトリンが言った。


「それは山を吹き飛ばし、軍隊を退け、海を乾かし、大地を荒野へ変える程の力だと言われているの」
「そんなものが本当に存在するの?」
「本当のことよ」


 シトリンの話を黙って聞いていたオパールが、そっと言った。耳触りの良い美しい声だった。


「サファイヤ様は本当に恐ろしい力を持っている。それこそ、ただ一人で人間を殲滅することも出来るでしょうね」


 表情の無い横顔が、それが真実だと何よりも物語っているようだった。


「人間が今生きていられるのは、サファイヤ様が遊んでおられるからよ」
「遊んでいる?」
「そう。ダイヤ様を使ってね」


 着いたわよ。シトリンが言った。
 到着した先は、白を基調とした丸みを帯びた建物だった。地上では見たことのない造りをまじまじと見詰めていると、薄い膜から顔を出してシトリンが急かす。そして、膜を越えた瞬間、魚類の尾びれは人間と同様の二本足へと変わった。
 歩き出すシトリンを追って建物へ足を踏み入れる。白い壁と白い天井に囲まれた内部は、外観以上に広かった。迷いの無い足取りで進むシトリンは、やがて一つの部屋に辿り付く。真っ白の扉は金色の金具に縁どられ、それが通常以上に格式高い部屋だとすぐに解った。
 オパールが一歩進み出て、静かに扉を押し開けた。大きな窓から光を取り入れた室内は、海底とは思えない程に明るかった。そして、その窓辺の中央、真っ白のベッドで見覚えのある青年が眠っている。


「ダイヤ!」


 投げ出された翼、傷だらけの細腕は胸の前で手を組み、下肢は毛布に隠されている。血の気の無い白い面には無数の傷と、深い隈と、血の沁みた銀髪が張り付いていた。
 思わずルビィは駆け寄るが、深い眠りに落ちているのかダイヤはぴくりとも動かない。一見、それは死んでいるようにも見えた――。


「ダイヤ……!」
「生きているわよ。この程度の怪我じゃ、死にはしないわ」


 さも当然のようにオパールが言った。


「怪我はやがて癒えるでしょう。ただ、夢を見ているのよ」
「夢?」
「そう。この水中庭園に掛かっている微弱な魔法が、ダイヤ様へ影響を与えてしまったみたいね」


 昏々と眠り続けるダイヤの額に掛かった銀髪を、オパールの細い指先が払った。
 聞き慣れない単語にルビィが目を向けると、オパールは言った。


「水中庭園は、棲む場所の異なる魔族が共生出来るように、意識共有の魔法が掛かっているの。きっと、ダイヤ様の中に大勢に意識が流れ込んでしまったんだわ」
「すると、如何なるの?」
「脳が情報を処理し切れなくなって、人格が破綻するか、脳に重篤な障害が残るか。……ダイヤ様のように、夢に囚われるか」


 傷ましそうに顔を歪めるオパールからは純粋な労りが滲んでいる。昏々と眠り続けるダイヤに対する素振りの一つ一つが、彼が大切だと、愛おしいと言っているようだった。
 彼女にとってダイヤは何者なのだろう。ルビィはまた、疑問を一つ覚える。そして、ふと思い出しルビィは問い掛けた。


「さっき、私も夢を見ました。子どもの頃のダイヤと、ガーネットさんがいました。ダイヤは牢屋に入れられて、ガーネットさんを庇おうとして、背中から翼が……」


 その瞬間、オパールが傷ましげに目を細めた。


「それは多分、ダイヤ様の過去の記憶でしょうね。意識共有の魔法が掛かったんだわ」


 夢の中で見たあの光景は、ただの夢ではなく嘗て起こった現実だった。
 ルビィが黙り込んでいると、オパールがそっと言った。


「ダイヤ様を、助けたい?」
「当たり前よ!」


 叫ぶように答えれば、オパールが口角を釣り上げて笑った。


「なら、やってみなさい。――ダイヤ様の夢の中へ、送り込んであげるわ」
「……如何して?」
「何?」
「如何して、人間の私を助けてくれるの?」


 問えば、オパールは目を伏せ微笑んだ。


「人間でも、魔族でもどっちだって良いの。私はダイヤ様を救いたいだけだから」


 言うと同時に、オパールはルビィの前に掌を翳した。白い掌から、何処か懐かしく温かい光が広がって行く。それはルビィを包み込み、ダイヤまでも浸食して行く。
 その光の眩しさに目を閉じた瞬間、周囲はそれまでの景色を失っていた。

23,Happiness.

23,Happiness.




「ガーネット?」


 以前見た、灰色の霧のような煙に満ちた薄暗い瞬間。この場所が魔族の根城とされる魔王城なのだろう。
 ルビィは周囲をぐるりと見渡した。恐らくきっと、自分の姿は誰にも見えないし、聞こえない。これはダイヤの記憶で、自分は干渉すら出来ないただの傍観者だ。


「ガーネット……」


 幼い、子どものようなダイヤが不安げに視線を彷徨わせている。まるで、母親を見失った迷子のようだと思った。
 ダイヤもこんな顔をするのかと、静かに驚いた。窓の無い僅かな蝋燭の灯だけが照らす廊下で、ガーネットを呼び続けていたダイヤがぱっと目を輝かせた。宝石のような青い瞳は、闇の中にいても尚、煌々と輝いている。


「ガーネット!」


 子犬のように駆けて行く先には、探し求めたガーネットがいた。
 ダイヤ程ではないけれど、現実のガーネットに比べ僅かに幼い。


「ダイヤ、お前何処にいたんだよ」


 何処か表情を硬くしていたガーネットが、安堵の息を漏らす。跳び付いたダイヤを抱き留めるガーネットは笑みを零した。ダイヤだけでなく、あの鉄面皮のガーネットの知らない一面を垣間見る。だが、同時に悟る。ルビィは、ダイヤのことを何も知らない。
 ルビィが知る二人は、浅からぬ因縁を持っているようだった。けれど、過去の二人を見ればそれは、憎悪だけではないのだと解った。


「ガーネットを、探していたんだよ」


 そう言って、ダイヤが泣き出しそうに顔を歪ませた。
 ガーネットはダイヤを愛おしむように撫でる。


「お前は探さなくていいんだよ。俺が、お前を必ず見付けてやるんだから」


 そうして、くしゃりと二人が微笑む。
 むず痒くなるような幼い二人の遣り取りに、ルビィは知らずの内、笑みを零していた。ダイヤが笑うところを、ルビィは知らない。何時だって仏頂面で、周り全てが敵だというような鋭い眼光を放っていた。


「行こう、ダイヤ」


 ガーネットに手を引かれ、ダイヤは背を向ける。其処にあの白亜の翼は存在しない。
 ダイヤは必要時以外は、翼を丁寧に折り畳んでいる。けれど、それは忽然と消え失せてしまうものだった。もしかすると、ダイヤの翼はルビィが思う以上に儚く、脆いものなのかも知れない。
 嬉しそうに歩いて行く二人の背中を眺めながら、ルビィは静かに微笑む。何時だって仏頂面で、感情すら解らないと言うダイヤにも、喜怒哀楽が存在するのだと確信した。
 歩き出した二人の背中を、誰かが射抜くように見詰めている。振り返ったルビィの目に映ったのは、群青の髪と銀色の瞳を持つ魔族の青年だった。それは凍り付いたような瞳で、愉悦に満ちたように口元を歪めた。途端に背筋を走った悪寒にルビィは身体を震わせた。未だ嘗て感じたことの無いようなその魔族の放つ空気は、例えるなら――絶望。それに似ていた。


「なあ、ガーネット」


 手を引かれるダイヤが微笑む。


「俺達、ずっと一緒にいられるかな?」
「何だよ、急に」
「俺、ガーネットとずっと一緒にいたいんだよ」
「何で」


 問い掛けるガーネットは訝しげに言った。けれど、ダイヤは意にも介さずに答えた。


「だって、俺、ガーネットが好きなんだよ。一緒にいると楽しくて、嬉しいんだ」


 そう言って笑うダイヤを、ガーネットが撫でる。その掌も、視線も、全てが相手を、ダイヤを愛おしいと言っているようだった。


「きっと、一緒にいられるよ」
「本当?」
「ああ、約束だ」


 ガーネットが、微笑む。
 それは泣き出したくなるような二人の幸せな日々だった。
 ダイヤは、ガーネットは願ったのだ。一緒にいることを。だた、それだけだった。他には何も望まなかった。何でも無い日常を重ねて行けたら、彼等は幸せだったのだ。



「何だよ、これ」


 無造作に投げ出されたそれは、何の変哲もない一本の剣だった。幼いダイヤがそれを拾い上げ、不思議そうに見ている。
 ルビィは周囲を見渡す。場面が切り替わったのだ。
 見詰める其処は、屋外だった。けれど、太陽を覆うような鉛色の雲と、噎せ返るような灰色の濃霧が陰湿な空気を醸し出している。魔王城の中庭だろうかと見当を付け、ルビィは夢を傍観することに決める。どうせ、自分の力で覚醒することは出来ないし、夢の中の彼等に干渉することも出来ないのだから。
 剣を見詰めるダイヤの正面には、やはり、何処か幼いガーネットが腰に手を当て立っていた。


「剣だよ、剣」
「そうじゃなくて、如何してこれを俺に渡すのかってこと」


 呆れたようにダイヤが言う。この頃のダイヤは、ルビィが驚く程に表情豊かだ。
 ガーネットが答えた。


「自衛の為だよ」
「何で」
「お前は、魔王様の後継者の一人だろ。他の後継者の方々が、お前を狙わないとも限らない」
「そんなもの、俺は全く興味無いのにな」


 さらりと告げたその言葉は真実なのだろう。ダイヤが望んで後継者になった訳でも、魔王になりたい訳でも無いのだ。
 今度はガーネットが、呆れたように息を吐いた。


「どちらにせよ、お前は弱いからな。俺が守ってやれない時もあるだろう」
「余計なお世話だよ」
「お前には牙も爪も、鱗も毒も無い。ただ、傷の治りがちょっとばかり早いだけだ。これじゃ、人間と変わらないな」


 その通りだった。この頃のダイヤには、あの翼は存在しない。
 小馬鹿にするように言うガーネットも、ダイヤのことを思っての行動だろう。渋々と言った調子で剣を構えるダイヤに、ガーネットが眉を寄せる。


「お前、剣を持ったことがあるのか?」
「ある筈無いだろう。全部、お前の真似だ」


 ダイヤがはにかんで笑う。初めてとは思えぬ慣れた手付きで、ダイヤが剣を振り下ろす。空気を切り裂く鋭い音が、ルビィの耳元まで届いた。
 驚愕に目を見開いていたガーネットは、嬉しそうに口元を歪ませた。


「なら、話は早いな。俺が稽古を付けてやる」
「お前で相手になるかな」


 軽口を叩くダイヤが、笑う。
 銀色の髪と、青い瞳。それ以外はまるで人間のような魔族の子ども。けれど、彼は魔王の末子だった。
 剣をぶつけ合う度に、高音が鳴り響く。火花が散るような激しいぶつかり合いに干渉する者はいない。稽古とはいえ、剣は触れれば切れる本物だ。二人は真剣を振り翳しながら、互いに手加減するような素振りも無く、何処か楽しそうに口角を釣り上げる。
 在りし日の、二人の姿だった。
 一頻り剣をぶつけ合い、二人は倒れ込んだ。額に汗の滴を貼り付かせ、大きく深呼吸をしている。


「良いよ、お前。センスあるよ」
「そりゃ、どうも」


 倒れ込んだまま、ダイヤは空に手を翳す。鉛色の広がる空が眩しい筈も無い。けれど、ダイヤはすっと目を細め、言った。


「なあ、ガーネット」
「何だ?」
「知ってるか? この世界の何処かには、天辺が見えないくらい高い山とか、光すら届かないくらい深い水溜りとか、地平線の広がる無限の大地があるんだって」
「ああ」
「何時か、行ってみたいな」


 それが夢物語であるように、ダイヤの言葉は現実味を帯びない。ガーネットは、小さく言った。


「行こうぜ」
「え?」
「何時か、一緒に行こうぜ」


 がばりと飛び起きたダイヤが、目を瞬かせた。そして、吹き出すように笑う。


「珍しいな。お前が、そんな冗談を言うなんて」


 冗談じゃねーよ。ガーネットが身を起こす。


「勝手に諦めて、自己完結してんじゃねーよ。本当に欲しいものは、自分の手で掴み取れよ。魔王様の末子なんだろ」
「ガーネット……」


 ダイヤが、言った。


「じゃあ、約束な」


 すっと向けられた拳は、人間で言うところの指切りだろう。
 拳をぶつけ合い、二人が笑う。再び寝転んだダイヤが、悔しげに言った。


「羽根があればいいのにな。そうしたら、お前を連れて何処へでも行けるのに」


 水面に波紋が広がるように、二人の姿は掻き消されていく。場面が切り替わるのだろう。
 けれど、ルビィは握り締められたダイヤの拳をじっと見詰めていた。

24,The prayer.

24,The prayer.




 そして、場面は移り変わって行く。それは水泡に包まれるように、烏の羽根が舞い起こるように。
 次に現れたのは、あの時の群青の魔族と、ダイヤの姿だった。
 ダイヤは縄に打たれ、起き上れないように地に伏せている。何が起きたのか解らないルビィは、その光景を凝視するしか出来ない。
 群青の魔族は愉悦に口元を歪ませる。


「お前は、可愛いな」


 その口振りに、ルビィは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 ダイヤは地に伏したまま、群青の魔族を睨んでいる。


「縄を解け! 俺を、ガーネットの元へ帰せ!」
「帰せ? 如何いう意味だ?」
「俺の居場所はガーネットのところなんだ!」


 声を上げたダイヤは、自分の言葉に何の迷いも疑いも無い。それこそが真実で、揺るぎない事実だと信じている。
 群青の魔族は、三日月のように口を歪めた。其処に得体の知れない、恐ろしさを感じた。何を言っても理解されない、理解出来ないような絶望的な壁があるようだ。ダイヤが表情を強張らせる。群青の魔族は、その腕を伸ばし、ダイヤの胸倉を掴み上げた。


「お前の居場所? ある筈、無いだろう。お前は俺に管理され、飼育され、屠殺される為に生きているんだ」


 其処にもまた、何の迷いも疑いも無かった。
 至近距離で視線を合わせ、群青の魔族が愉しそうに微笑む。同じ魔族であるダイヤすら理解の出来ないものを、人間のルビィが理解出来る筈も無い。其処にあるのは純粋な嗜虐性のみだった。
 それでも、ダイヤは声を上げる。


「違う! 俺は、ガーネットの傍にいるんだ!」
「なら、お前に教えてやろう」


 群青の魔族が掌を翳した。その瞬間、ダイヤの右腕がぶつりと、切り離された。ぼたぼたと零れ落ちる血液に、ダイヤは声を上げることすら出来なかった。思わずルビィは口元を覆う。次の瞬間、ダイヤが声にならない声を上げた。
 止め処無く流れ落ちる血液は、宙吊りになったダイヤの足元に血の湖を作って行く。人間と何も変わらない紅い血液だ。群青の魔族は、それすら愉しくて仕方が無いというように高らかに声を上げ嗤っている。
 明らかな体格差、実力差。絶望的な状況、未来。それでも、群青の魔族を睨むダイヤの視線は強かった。絶望の無い強い意志の籠った目だった。
 強い視線を向けられ、群青の魔族から表情が消える。ダイヤが叫んだ。


「お前なんか、怖くない!」


 息も絶え絶えなのに、その言葉に嘘は無かった。其処で初めて、群青の魔族はつまらなそうに眉を寄せた。
 再び掌を翳した瞬間、ダイヤが地面に叩き付けられた。出血の止まらない腕を押さえ、ダイヤが呻き声を上げる。それすら興味が無いように、群青の魔族はダイヤの首根っこを掴んで引き摺って行く。


「離せ!」


 群青の魔族は振り返らない。痛みに喘ぎながら、ダイヤが必死に叫んでいる。


「――ガーネット! ガーネット!!」


 姿の見えないガーネットを探すように、ダイヤが必死に手を伸ばす。けれど、其処にガーネットはいない。
 ガーネット。引き摺られながら、ダイヤは叫び続けていた。
 其処で、場面は転換する。浮かび上がる無数の水泡、吹雪のような花弁の嵐。変わって行く場面の中で、ダイヤのガーネットを呼ぶ悲痛な声だけが響き続けていた。
 次に現れたのは、目も覆いたくなるような惨状だった。切り取られた腕の止血すらされぬまま、ダイヤは血を流し続けている。其処は強固な牢獄だった。格子の奥でダイヤが呻き、そして、悲痛に叫んでいる。
 ダイヤは傷だらけだった。人間なら、疾うにこと切れていただろう。翼の無い背は切り付けられ、傷口は抉られ、見たことも無い醜悪な魔族が愉悦に表情を歪ませ、ダイヤを嬲っている。ダイヤはただ、手を伸ばすだけだ。


「ガーネット」


 掠れた声に、それまでの力強さは無い。ただ、名を呼ぶことだけが救いであるように、壊れた人形のように手を伸ばし続けている。
 助けてと、そんな言葉すら知らぬようにダイヤが呻く。その姿は、前回の場面に比べ成長していた。それはつまり、この惨状は一日二日のことではなく、恐らく人間にすれば何十年という間続けられたということだった。
 一体、どれ程の間、この場所で暴行を受けて来たのだろう。それでも傷跡一つ残らない程に、ダイヤの治癒力は高い。切り離された腕以外の古傷は存在しなかった。
 それでも、痛みは感じるし、苦しさは残る。誰もそれを理解しない。


「ガーネット」


 そうして、ダイヤは闇に向って呼び掛ける。その時だった。


「――ダイヤ!」


 その声が響き渡ったと同時に、ダイヤの青い目に確かな光が宿った。暗闇の奥で、真紅の双眸が輝いている。


「……ガーネット?」


 掠れた声で、ダイヤが呼び掛ける。青い瞳には、確かに待ち続けた相手が映っている。
 一体、どれ程の長い間、彼を呼び、待ち続けたのだろう。強固な格子の奥から、ダイヤが手を伸ばした。


「ガーネット!」


 喉から血を吐くような叫びだった。それだけが救いだというように手を伸ばすダイヤに、ガーネットは近付かない。――否、動けないのだ。
 それは以前見た、ダイヤの夢のままだった。縄に打たれたガーネットは身動き一つ出来ない。そして、傷だらけの身体は見れば瀕死と呼ぶに相応しかった。


「ガーネット!」
「ダイヤ!」


 呼び合う二人の間には、越えられない牢獄の格子がある。それでも手を伸ばすダイヤを、声を上げ続けるガーネットを、一体誰が笑えるだろうか。
 後は以前のままだった。暗闇の中、得体の知れない触手に引き摺られるダイヤ。魔族に刃を向けられ、恫喝されるガーネット。そして――、ダイヤの背からはあの白亜の翼が現れ、周囲の魔族を吹き飛ばし、打ち付けた。ダイヤは他の魔族のように、鋭い爪や牙、強力な毒や鱗を持たない。唯一あるのは穢れ一つ無い白亜の翼だけだった。けれど、その翼は、空を飛ぶ為でなく、自由を求める為でなく、友達を救う為に広げられたのだ。ただ、それだけの為に。
 かつん、かつん。硬質な地面を打つ乾いた音が反響する。暗闇から現れたのは、あの群青の魔族だった。


「素晴らしい」


 格子の奥のダイヤを眺め、群青の魔族は恍惚に呟く。ダイヤは地に伏したまま、青い目で鋭く睨み付けている。
 群青の魔族は、格子を握り言った。


「お前は、美しいな」


 うっとりと囁いた瞬間、ダイヤやガーネットは勿論、ルビィは全身に鳥膚が立った。
 群青の魔族が掌を翳す。そして、其処から放たれた閃光は一瞬にしてダイヤを吹き飛ばし、壁に叩き付けた。耳を塞ぎたくような轟音の中で、白亜の羽根だけが静かに舞っている。
 意識を手放したのか、ダイヤは打ち付けられ身動き一つしない。縄を打たれたまま、ガーネットが声を上げる。


「ダイヤ!」


 群青の魔族が、凍り付くような眼差しでガーネットを見下ろしていた。
 其処で、場面暗転。記憶を持つダイヤ自身の意識が途切れた為だろう。闇の中に灯火が光るように、仄明るく浮かぶのはガーネットの姿だった。
 強固な牢獄の中、ダイヤの目の前にはガーネットが倒れている。血溜まりの中に沈むその様は、一見すると死んでいるかのようだった。顔色を変えたダイヤが、泣き出しそうに顔を歪ませ、掠れるような声で叫んだ。


「ガーネット!!」


 ガーネットは起き上がらない。反応すら見せない。その傍には返り血を浴びた群青の魔族は、愉悦に口元歪ませ立っている。
 襤褸雑巾のようなガーネットを、群青の魔族はまるで路傍の石でも扱うように蹴り付けた。


「止めろ! ガーネットに、手を出すな!」


 ダイヤが縋り付くように叫ぶのも、意に介さないように群青の魔族が嗤う。嗤う。嗤う。


「さて、ダイヤ。此処で問題だ」


 瀕死のガーネットも、絶望に染まるダイヤも、群青の魔族には何の問題でも無いようだった。
 平然と問い掛ける群青の魔族。ダイヤは唇を噛み締め、言葉を待つ以外に方法は無い。


「この男はお前を此処から出す為、俺に抗議して来たんだ」
「ガーネット……!」


 群青の魔族が、言った。


「如何する、ダイヤ?」


 問い掛ける群青の魔族。ダイヤは俯き、振り絞るように言った。


「ガーネットを……、ガーネットだけは、助けてくれ」


 ダイヤの表情は見えない。けれど、笑っている筈も無かった。
 群青の魔族が、満足そうに微笑む。


「ならば、選べ。お前にとって、この男は大切なんだろう?」
「そうだ」
「お前をその牢獄から解放し、この男を救う方法がある。……今此処で、この男を殺すか、記憶を消すか」
「記憶……?」


 ダイヤが訝しげに眉を寄せる。


「お前と過ごした日々、全ての記憶をこの男から消す。そういうことだ。記憶を失ったこいつが、その後、生きていたいと思うか如何かは別の話だがな」


 群青の魔族の提案は、余りにも非道だった。
 それでも、ダイヤは択ばなければならなかった。この場所に監禁されるよりも、ダイヤにとっては大切なものがあった。だからこそ、ダイヤは俯き、奥歯を噛み締める。
 群青の魔族が、愉悦交じりに言った。


「選べ。過去か、未来か」


 ガーネットを今此処で殺すか、ダイヤと過ごした記憶を消すか。
 その選択は、ダイヤにとってはこれ以上に無い程に難しいものに違いなかった。ガーネット以外に居場所を持たないダイヤにとって、その記憶を消されることは居場所を、生きる意味を失うことに等しかった。けれど、ガーネットが生きられる未来を捨てることも出来ない。
 ガーネットが此処で死ぬか、自分の生きる意味が此処で死ぬか。非道な選択を、ダイヤは此処で下さなくてはならない。ダイヤの選ぶ答えが、ルビィには解るような気がした。


「俺は、未来を選ぶ」


 嗚呼、とルビィは思う。
 ダイヤは、賭けたのだ。この場所でガーネットが消えることよりも、長命な魔族が生きて何時かその記憶を取り戻してくれることを。終わることは容易いけれど、続きを選ぶ困難の中で、絶望が希望に変わることを願ったのだ。
 それが例えどんなに辛く苦しい道だとしても。


「俺は、ガーネットに生きていて欲しい。それを例え、ガーネットが望まなくても」


 青い目は、何の迷いも無い。その覚悟が痛い程にルビィには伝わって来た。
 自分の命か、ガーネットの命か。そういう選択肢だったなら、ダイヤには迷う理由すらなかっただろう。ダイヤの願いはただ一つだった筈だ。
 富も名声も何も求めてはいなかった。ダイヤが、ガーネットが願ったものはただ一つだった。


――俺達、ずっと一緒にいられるかな?

――お前は探さなくていいんだよ。俺が、お前を必ず見付けてやるんだから


 一緒に、いたかっただけだった。
 ぼろりと、ルビィの目から涙が零れ落ちた。何十年にも及ぶ暴行でも、唯一の居場所を失う悲しみでも、非道な選択を強いられた中でも、涙一つ、泣き言一つ零さないダイヤの代わりに、ルビィは涙を零す。
 願ったものは、誰かに否定されるような間違ったものだったのだろうか。嗤われるような馬鹿げたものだったのだろうか。彼等の願いを、誰が否定出来るのか、誰が嗤えるのか。


「いいだろう」


 群青の魔族が、嗤った。それはダイヤの覚悟も、ガーネットの思いも理解しようとしない冷たい微笑みだった。


「お前の愚かな選択に免じて、その腕を戻してやろう」


 そうして掌を向けられた瞬間、失われた腕が現れた。ダイヤはそれを何の感慨も無く見詰めている。
 軋むように、牢の扉が開かれる。群青の魔族が言った。


「さあ、逃げるが良い。俺を楽しませてくれよ?」


 そして、今度はガーネットに向けられた翳された掌が、禍々しく光る。記憶を失ってしまうだろうガーネットに、ダイヤが言った。


「ガーネット。また、逢おう」


 其処で、暗転。
 何一つ見えない闇の中、ダイヤの声だけが響いていた。
 次に浮かび上がったのは、魔王城ではなかった。荒涼たる岩砂漠。見上げる程に大きな岩山の天辺で、満月を背に翼を広げたダイヤが立っている。その視線の先にいるのは、やはりガーネットだった。現在の姿に程近い二人の姿に、ルビィはその時系列を理解する。


「お前が、魔王様の末子、ダイヤか」


 弓を構えるガーネットの目には、あの頃のような温もりは無い。ただ、目の前の魔族を敵と見做している。
 ダイヤもまた、無表情にそれを見下ろしていた。


「そうだ。……お前の、名前、俺は知っているぞ」
「それが如何した。俺は魔王四将軍が一人、ガーネットだ!」


 武装したガーネットが吼える。


「サファイヤ様の命で、お前を連れ戻しに来た!」
「連れ戻す? ――何処へ」


 俺の居場所は、お前の隣なんだよ。
 声にせず、ダイヤが呟く。ガーネットは気付かない。
 矢が放たれた。それは恐ろしい速さで空気を切り裂き、ダイヤへと一直線に向かって行く。けれど、ダイヤは一太刀で切り落とし、不敵に笑った。


「相変わらず、馬鹿正直だな。動かない的ばかりを相手にしているからだ」
「ちィ……」
「腰の剣は飾りか? 来いよ」


 静かに、二人が構える。それは、在りし日の二人に良く似ていた。
 剣が交わされる度に、ガーネットが訝しげに眉を寄せる。記憶が無くとも、体が覚えている筈だった。ダイヤに剣を教えたのは、ガーネットなのだから。


「俺はもう、あそこには戻らない」
「時間の問題だ。全部、無駄な抵抗なんだよ!」
「無駄じゃない。――約束したんだ」


 銀色の刃を真横に翳し、ダイヤが鋭くガーネットを睨んだ。今まで一度として、向けたことのない視線だ。
 込められたのは憎悪ではない。一つの、覚悟だった。


「本当に欲しい物は、自分の手で掴み取るしかない」


 青い目が、刃の切っ先のように光った。
 静かに構え直したダイヤに表情はない。翼は広げられ、次の一撃に備えている。対峙するのは、ダイヤの望んだあの頃のガーネットではない。
 二人が切り結んだ瞬間、まるで雨粒ように覚えのある声が上空より降り注いだ。


――憎め


 ガーネットが、ビクリと肩を震わせる。


――憎め、恨め、呪え
――逃がすな、捕えろ、引き倒せ、縛り付けろ


 姿の見えない何者かが、強い口調で命令する。ガーネットは表情を強張らせ、剣を足元に落とした。
 状況を理解出来ないまま、ダイヤは思わず駆け寄った。


「ガーネット!?」


 その肩に触れるが、ガーネットは膝を着き顔を上げない。
 声は止むこと無く降り続いている。そして、静かにガーネットが顔を上げる。その紅い双眸に光は無く、まるで地の底を覗くようだった。


「ガーネット、」


 呼び掛けた瞬間、ガーネットの持つ剣が横薙ぎに振り切られた。防御も出来ず、斬撃を受けたダイヤが後方に吹き飛ばされた。腕を切り付けられたのだろう、鮮血が滴となって零れ落ちている。
 虚ろな眼差しを向けるガーネットが、正気であるとは思えなかった。ダイヤは、姿の見えない声の主に向って叫んだ。


「出て来い、サファイヤ!!」


 途端、降り注ぐ声は愉悦交じりの笑い声に変わった。それは聞き間違う筈の無い、あの群青の魔族の声だった。
 頭を押さえながら、剣を携えるガーネットは立っていることすら辛そうだった。忌々しげに、ダイヤが訴える。


「ガーネットに、何をした!?」


 くつくつと喉を鳴らし、群青の魔族――サファイヤが答えた。


「俺は命令しただけだよ。命を懸けて、ダイヤを捕えろと」
「命を、懸けて?」


 ダイヤは目を見開いた。
 目の前にいるのは、自分との記憶を持たないガーネットだ。そして、彼はサファイヤによって人形のように操られている。
 如何して?
 声にはせず、ダイヤが呟いた。
 如何して?
 如何して?
 如何して?


「ガーネット!!」


 青い目が、泣き出しそうに歪む。ダイヤは、人形のようなガーネットを縋るように見詰めていた。


「俺はただ、お前に笑っていて欲しかっただけなんだよ……!」


 それはまるで、贖罪のようで、祈りのようだった。
 サファイヤの声が、容赦無くダイヤの上に降り注ぐ。


「俺が憎いか? 殺したいか? 恨め、もっと呪え! それが、俺の力になる!」


 ダイヤの拳が、軋むように握り締められた。


「お前に自由等無い! 思考すら拘束され、俺の手元で飼い殺しだ!」


 ダイヤが――、顔を上げた。青い双眸には依然として、揺るぎない覚悟が浮かんでいる。
 次の瞬間、ダイヤは翼を広げた。ふわりと浮かび上がったダイヤは、姿の見えないサファイヤに向けて言った。


「あの時、俺は未来を選んだ。その未来を守る為なら、俺は何だってやる」
「また逃亡生活か?」


 命懸けで追って来るガーネットを守る為に、救う為に、終わりの無い逃亡をダイヤは選択した。


「やってみろ。ただし、お前を追うのはガーネットと、数百もの軍勢だ。一か所に留まることは出来ないだろう」
「いいさ、飛び続けてやるよ。――渡り鳥のようにな」


 白亜の翼が羽ばたかれ、抜け落ちた羽根は雪のようにガーネットの頭上へ降り注ぐ。
 上空を睨むガーネットの視線は鋭く、まるで親の仇だとでも言うようだった。それでも、ダイヤは願ったのだ。


「約束だ」


 そうして、ダイヤが拳を向ける。当然、二人のそれが重なり合うことは無い。
 それでも、ダイヤは笑って見せた。強がりであることは誰の目にも明白だった。満月に向けて羽ばたくダイヤを追える者がいる筈も無い。剣を杖にしたガーネットだけが、忌々しげに睨んでいた。

25,Daybreak.

25,Daybreak.



 花弁が舞い落ちるように、雪が降り注ぐように視界は浸食されていく。やがて、ルビィの目の前には見慣れたダイヤが現れた。


「ダイヤ」


 人形のように死んだ面で、ダイヤは青い双眸をまっすぐに向けている。その視線は合わない。何を見ているのだろうと、ダイヤの視線の先を探るが其処には何も無かった。
 真一文字に結ばれていた口が開かれ、言葉を吐き出す。


「ガーネット」


 これまで幾度と無く聞いて来た、彼の親友の名前だった。けれど、視線の先は闇に包まれ何も見えはしない。
 其処で、ルビィは理解する。ダイヤの願いはたった一つだった。けれど、その願いを訴える相手はもう何処にも存在しないのだ。それでも祈らずにいられないダイヤを、誰が笑うだろう。誰が責めるだろう。縫い付けられたように、直立不動のダイヤは何を思うのだろう。
 腕を切り取られても、何十年にも及ぶ暴行の中でも、親友に刃を向けられても、居場所を失い飛び続けることになっても、ダイヤは弱音一つ吐かなかった。彼が弱さを見せられる場所はもう、何処にも無いのだ。


「――おい、何してんだ」


 たった今気が付いたというように、ダイヤはルビィを見た。其れは何時もと変わらない仏頂面だった。
 ダイヤはつまらなそうに周囲をぐるりと見回し、問い掛ける。


「此処は何処だ?」
「貴方の、夢の中よ」
「ふうん。水中庭園にでも嵌ったか」


 瞬時に状況を正確に把握し、ダイヤが顔を上げた。


「悪かったな、引き込んじまって」


 何でもないように吐き捨て、ダイヤはそっぽを向いた。
 あのダイヤが、謝罪した? ルビィは目を丸くする。けれど、ダイヤは気にした風も無く言った。


「もう十分休んだ。起きる時間だ」
「ダイヤ……」
「俺の夢で何を見たかは知らないが、夢は夢だ。さっさと忘れちまえ」


 あれが全て夢だったとダイヤは主張するのだろうか。ルビィは訝しげに見る。


「ねえ、ダイヤ」
「何だよ」
「――苦しかった?」


 ルビィは平静を保ちながら、問い掛けたつもりだった。けれど、声は震えていた。
 本当に泣きたいだろうダイヤの心中を想像し、ルビィの双眸からは涙が溢れ出る。ダイヤは無表情でそれを眺め、答えた。


「解らない。考えたことも無かった」


 過去を振り返り、涙を流す余裕等無かったのだ。何時だって神経を張り詰め、迫り来る魔王軍から逃れ、一か所に留まり休むことも出来なかった。剣を抱えて蹲るように眠るダイヤは、どんな夢を見ていたのだろう。翼を広げ飛び立つダイヤに、何が見えていたのだろう。ルビィには解らない。解らないから、解りたいと切に思った。


「私、馬鹿だから、貴方のこと、何も解ってあげられなかったね……」


 ルビィの目から、涙がぼろぼろと零れ落ちる。ダイヤは何時だってその身を挺して守ってくれたし、人間のことを解ろうとしてくれた。それに対して、自分は一体何をしてやれただろう。
 その様をじっと観察していたダイヤが、静かに動き出す。呆れられても、怒鳴られても、手を上げられても当然だと思った。ダイヤに人間の心なんて解る筈も無い。けれど、ダイヤは右手をそっと差し出し、ルビィの頬を伝う涙を掬った。


「お前が泣く必要は無い。俺は解って欲しいとは思わなかったし、解ってもらおうと行動も起こさなかった」


 安っぽい労りではなく、ダイヤは事実のみを述べている。けれど、無視することも可能だったダイヤが立ち止まり、涙を掬い取る理由をルビィは解っていた。
 つまり、ダイヤは優しいのだ。本能のままに生きる魔族でありながら、その衝動を押し留めるだけの心の強さを持ち合わせている。


「夢でも事実でも、もう過去のことだ。同情も懺悔も、結局は自己満足だろう。余所でやれ」


 突き放す物言いなのに、ダイヤはそのまま立ち去ることは無い。
 その冷たい言葉の奥には、ルビィへの気遣いが隠れているような気がした。これまでも、ダイヤは歯に衣を着せぬ物言いで、冷たく突き放すばかりだった。けれど、それは相手を傷付ける為では無い。もしかすると、彼なりの労りだったのかも知れない。


「さあ、夜が明ける。夢はお終いだ」


 ダイヤが言うと同時に、闇に包まれていた世界は静かに白み始める。夜明けの清々しい空気が肺に満ちて行く。ダイヤは背を向け、何処か遠くをじっと見詰めていた。
 夢の世界が終わる。ルビィの意識が途切れる刹那、ダイヤの声がした。其れは幾度と無く聞き続けた、彼の親友の名前だった。





「――ダイヤ様」


 声に反応し、ルビィが身を起こす。其処はあの白い部屋だった。
 ベッドに沈むダイヤを、オパールが覗き込んでいる。立ち眩みを起こしながら、ダイヤの顔を見ようと近付く。ダイヤは既に覚醒して天井をじっと見詰めていた。其処にあの包帯は存在せず、宝石のような美しい双眸があった。


「オパールか……」
「はい。お久しゅう御座います」
「世話に、なったな」
「とんでも御座いません。それよりも、出過ぎた真似を致しました。申し訳御座いません」


 オパールはその場に跪き、許しを乞うた。ダイヤはそれを片手で制す。


「いい。俺の失態だ。顔を上げてくれ」


 言葉に従うように、オパールが顔を上げる。ダイヤは魔王の末子、オパールは魔王四将軍の一人。見慣れぬ遣り取りではあるが、これが本来の姿なのだ。
 ダイヤはゆっくりと身を起こした。


「水中庭園に流れ着いたのか。幸運だったな」
「はい。此処なら、通常の魔王軍は入れません。如何か、十分に身体を休めて下さい」
「そうしたいところだが、嫌な予感がするんだ。オパール、遠視は健在か?」
「はい」


 会話に入れないルビィはシトリンに目配せする。けれど、シトリンはダイヤをじっと見詰め、僅かに頬を紅潮させていた。
 その様に呆れ、ルビィは肘で小突く。


「何、見惚れてんのよ」
「だって、あのダイヤ様よ。顔も、声も、振る舞いも、全てが完璧だわ」


 そうだろうか。ルビィは眉を寄せる。
 二人がこそこそと耳打ちし合っている間に、オパールは目を閉じ、言った。


「ダイヤ様。ガーネットは、あの場所にいます」
「……何故だ」
「理由は解りません。ですが、血塗れで、身動き一つしません。息はあるようですが……」


 ダイヤが、ぎゅっと拳を握った。そして、身を起こし立ち上がった。
 身体の傷は全て痕すら残さず癒えている。けれど、あのような夢を見ながらして十分な休息を取れているとは、ルビィには思えなかった。


「行くのですか?」
「ああ」
「貴方の知るガーネットはもう、いないかも知れません」
「それでもいい。俺は、あいつに生きていて欲しいから」


 その青い目は、既に覚悟を決めたように前を見詰めている。状況を理解出来ないまま、ルビィが慌てて問い掛ける。


「ダイヤ、何処に行くの」
「お前は知らなくていい。知らなくていいし、付いて来なくていい」
「如何して!」
「死ぬからだよ」


 びしりと言い放ったダイヤに、迷いは無かった。
 それまで黙っていたシトリンが、小首を傾げ問い掛けた。


「ダイヤ様は、如何して人間と旅をしているのですか?」


 出立の仕度を始めていたダイヤは、虚を衝かれたように目を丸くした。
 そして、――笑った。それはルビィが初めて見る、ダイヤの現実の笑顔だった。


「誰かと旅をするのが、俺の夢だったんだ」


 その『誰か』が指すものをルビィは知っている。ダイヤが言った。


「こいつ、此処で預かっていてくれないか?」
「人間を、ですか?」
「そうだよ。人間と魔族、相容れないことは多い。共存なんて、平和呆けした馬鹿の理想論だ」


 ダイヤははルビィへ一瞬視線を投げ、訝しげなオパールを真っ直ぐに見詰めた。


「そうして否定し拒絶することは容易い。でも、一度それを受け入れてみろ。価値観が引っ繰り返るぜ?」


 そう言って、ダイヤが悪戯っぽく笑う。こんな顔も出来たのかと、ルビィは感心する。
 仕度を終えたダイヤに、オパールが申し出た。


「海面まで送ります」
「ああ、助かる」


 自分抜きで進んで行く遣り取りに、ルビィは慌てて抗議した。


「ねえ、勝手に進めないで! 私一人で如何しろって言うのよ!」
「俺がいなきゃ、自分の未来一つ択べないのか?」


 心底不思議そうに、ダイヤが言った。


「俺が死ねって言ったら、死ぬのかよ。違うだろ? 答えを誰かに求めるな。自分で考え、自分で責を負い、自分で判断し、自分で生きて行くんだ。そうじゃなきゃ、何の為に存在しているのか解らないじゃないか」


 ダイヤの言葉は何時だって真っ直ぐで、道標のようにルビィを導いてくれる。
 何時でも心に火を灯してねと、エメロードは言った。――ダイヤこそが、光だった。


「じゃあ、行こうか」


 ダイヤは迷いの無い足取りで、部屋を出て行こうと歩き出す。従うようにオパールがそっと後を追う。
 このまま消えていなくなってしまうような気がして、ルビィは叫んだ。


「ダイヤ、必ず帰って来なさいよ!」


 振り返り、ダイヤが微笑んだ。消えてしまいそうに儚い笑みに、ルビィは胸が軋むような痛みを覚える。
 何も答えることなく、ダイヤは出て行った。扉の閉まる音が、尾を引いて響き渡った。

26,Dash.

26,Dash.



 もしも、この世が戦乱でなかったら、一緒にいられたかな?

 気泡に包まれ海面へ着いたと同時に、ダイヤはその薄い膜を破って羽ばたいた。羽根を休める場所も無い大海原には、水生の生き物が身を隠し生活しているのだろう。地上で生きられない魔族は、水中や地中に逃れる他無かったのだ。
 水面に顔だけを覗かせたオパールが、心配そうに此方を窺っていた。ダイヤはゆっくりと羽ばたきながら言った。


「なあ、オパール。百五十年前のこと、覚えているか?」


 問えば、オパールが苦々しく表情を歪めた。
 百五十年前、ダイヤが魔王城から逃げ出した時のことだった。ガーネットを失ったダイヤに行く当て等、何処にも無かった。ただ、逃げなければならなかった。羽を休める場所も方法も知らず、どれ程の間飛び続けたのかダイヤにはもう解らない。疲弊したダイヤが海へ転落した時、救ってくれたのはオパールだった。
 魔王四将軍の一人だったオパールは、ダイヤの状況を知りながらも安全な水中へ匿ってくれた。微温湯のような其処でダイヤは身体を休め、傷を癒し、また羽ばたく為の方法を教えてもらった。


「勿論、覚えています。あの頃のダイヤ様は、ボロボロでしたから……」


 当時のダイヤを、オパールは思い返す。
 広げられたばかりの翼は無理な飛行で、所々羽根が抜け落ちボロボロだった。そして、その目に光は無く、そのまま消えてしまいそうだった。
 休息も食事も、当時のダイヤには有り得なかった。心を許す場所も存在しなかったのだ。だからこそ、オパールは無理にでも食事をさせた。ダイヤの身体は食物を受け付けなかった。けれど、人間の成長過程を辿る離乳食のように、ダイヤは消化と嘔吐を繰り返しながら回復して行った。


「お前には、何時も助けられているな」
「そんなことは御座いません。私にとっては、ダイヤ様が生きておられるということが、何よりの救いでした」


 ダイヤが水中へ転落した頃、オパールは実の息子を戦乱によって失った。魔王軍の幹部であった息子は、些細な失言で魔王の逆鱗に触れ、処刑されたのだ。その悲報を受け、悲しみに暮れたオパールは水中に引き籠っていた。そんな時に、ダイヤが現れたのだ。
 死んだ息子の代わりというように接している内に、情が芽生えた。裏切り行為と知りながら、ダイヤを渡す気にはなれなかった。


「貴方が、私の生きる希望でした」


 羽ばたき続けるダイヤに向け、オパールは切に訴える。死地に向かう嘗ての息子のように、ダイヤを行かせることは胸が張り裂けるような苦しみだった。もう同じ悲しみを味わいたくは無い。
 ダイヤは微笑んだ。


「ありがとう。俺は、此処に辿り付けなければ死んでいただろうな」


 他意も無く、純粋にダイヤは言った。その自分の命を軽んじるような言葉は、間違いなくダイヤの本音だった。
 だからこそ、オパールは伝えなければならなかった。


「ダイヤ様、生きて下さい。死んではいけません」


 ダイヤは目を伏せた。答えられる訳も無かった。
 死にたいとは思わない。けれど、死んでも構わないと思う。――命を懸けてでも、手に入れ得たいと思うものがある。取り戻したいものがある。


「私に、二度も息子を失う悲しみを、味わわせないで下さい」
「息子、か」


 ダイヤに母親の記憶は無い。考えたことも無かった。ダイヤの育ての親はガーネットだ。物心付いた頃から傍にいて、守って、育ててくれた。
 けれど、もしも、母親と呼ぶのならば。


「俺にとっての母親は、きっとあんただったよ」


 そうして微笑むダイヤの言葉に、嘘は無かった。オパールは俯いた。涙が、溢れている。
 平和な時代ならば、共に過ごせただろう。けれど、戦乱でなければ出会えなかった。何を恨む、何を憎む。時代は坂道を転がり落ちるように戦乱へと嵌り込んでしまったけれど、それ以外の道が有り得るのかも知れない。


「じゃあな」


 ダイヤは大きく羽ばたいた。餞別だとでも言うように、水面には無数の白亜の羽根が浮かんでいる。
 オパールはその姿が見えなくなるまで見送っていた。
 荒涼たる大地、痩せた岩砂漠、大海原、天を突く山々。ダイヤはこれまで、多くの景色を独りで見て来た。姿を隠し、同胞から逃れ、親友を人質に取られ、休む間も無く飛び続けた。けれど、今は違う。親友を助けに行くのだ。
 腰に剣は差してある。体力は万全と言えないけれど、十分だ。
 魔王城に近付くに連れて、瘴気と呼ばれる腐った空気の臭いが強くなる。嘗てはダイヤもこの中で生きていた筈なのに、外界を知り、日光や吹き抜ける風を知れば二度と戻りたいとは思えなかった。通常の生物は瘴気に耐え切れず死ぬだろう。魔王城は光の差さない死の砂漠の中心にある。魔族でさえ無傷で砂漠を越えることは出来ない。翼を持たなかった当時のダイヤが、魔王城を脱出出来なかった要因の一つだった。
 まるで岩山のような強固な砦だ。内部は迷宮のように入り組んでおり、主である魔王の元へ辿り付くことは容易では無い。実の息子であるダイヤすら、魔王の顔すら見たことが無かった。魔王軍の大半は、同じだろう。顔すら知らぬ相手に従う理由が、ダイヤには解らない。
 その魔王軍は、魔王城を護衛するように周囲を固めている。
 蟻の巣に似ていると、ダイヤは思う。突けば溢れる兵隊蟻だ。三下の雑魚に構う暇は無い。


「な、あれは!」


 上空を翔けるダイヤに気付いた魔族が、指差し声を上げる。ダイヤは剣を抜き放った。
 曇天の下に、鋭い鞘走りの音が響き渡る。瞬時に放たれた矢は視界を黒く埋め尽くして行く。
 此処を脱出した当時ならば、撃ち落とされる他なっただろう。けれど、今は違う。立ち向かうことが出来る。自衛することが出来る。
 空中で、ダイヤは見えない床を踏むように片足を起点に勢い良く旋回する。生み出される風は円を描き、襲い来る矢を一本残らず空中へ巻き取って行く。気流に呑まれた矢が静かに向きを変え、吹き飛ばされた。それは弓を構える魔王軍へ向け放たれていた。
 悲鳴。自らの放った矢を受けた魔王軍がばたばたと倒れて行く。それでも第二波、第三波と続く矢の雨。切りが無いとダイヤは更に翼を羽ばたかせる。白亜の羽根を舞い落しながら、生み出される竜巻は矢だけでなく魔王軍さえも呑み込み吹き飛ばして行く。それは一つの自然災害に似ていた。


「邪魔をするなあああ!」


 ダイヤが吼える。青い目には百五十年前から変わらない一つの覚悟がある。
 雑魚と称する魔王軍を蹴散らし、固く閉ざされた城門に切り掛かる。金属製である巨大な扉は、ダイヤの生み出す強大な気流を持ってしても開かない。


「無駄だ!」


 斬撃を弾かれたダイヤに、魔族が叫んだ。揶揄するような響きを持っている。
 けれど、ダイヤは距離を置き、剣を構え直す。


「無駄か如何か、やってみなきゃ解らないだろう!」


 ガーネットに教わった構えで、ダイヤは再度剣を振り上げる。
 当然のように弾かれた剣を、魔族が嘲笑う。


「その扉は、これまで一度として破られたことはない!」


 そんなことは、知っている。百五十年前のダイヤは、内側から逃げ出したのだ。この砦にも似た城は、外界より現れる敵に備え建てられている。魔族の本拠地だ。自分一人で破れる程、脆くはないだろう。
 けれど。


「一度も破られたことがないから、何だ。三下は黙っていやがれ。俺は、絶対に諦めない」


 脳裏に浮かぶのは、何時だって親友の笑顔だ。自分を導いてくれた掌だ。
 ダイヤは構える。大勢の敵に背を向けながら、見詰める先は強固な扉だけだった。


「本当に欲しいものは、自分の手で掴み取るしかないんだよ!!」


 悲鳴にも似た絶叫で、ダイヤは剣を振り上げた。銀色の光が一閃したと同時に、地を揺らすような轟音が鳴り響いた。
 これまで一度として破られなかった強固な城門が、ただ一人の魔族によって切り倒された。城内から漏れる僅かな明かりが、ダイヤの相貌を照らし出す。光を反射する銀髪は、まるで夜明けを告げる朝日にも似ていた。


「馬鹿な!」
「城門が破られたぞ!」
「早く、魔王様に報告を――」


 雑音のように騒ぐ魔王軍には一瞥もくれず、ダイヤは翔けて行く。
 嘗て暮らした魔王城は、百五十年の時を経て、何も変わりはしない。薄暗く、陰湿で、瘴気に満ちている。当時はそれでも構わなかった。たった一人の親友がいたからだ。
 覚えのある道を翔け抜けても、懐かしい等と間違っても感じたりしない。点在する灯火を頼りに、地下へ進むダイヤに魔王軍は化物でも見るかのように指を差し、逃げ惑う。
 地下へ向かう程、瘴気は濃く満ちて行く。肌が泡立つのは、純粋な寒さだけではない。百五十年前、サファイヤに吹き飛ばされた右腕が痛むような気がして、自分の弱さに嫌気が差す。
 滑り込むように角を曲がった瞬間、気配を感じてダイヤは動きを止めた。


「よう、ダイヤ様」


 日輪にも似た金髪、蕩けるような蜜色の瞳。
 見覚えのある魔族の青年。通常ならば敵である筈なのに、悪意を感じない。ダイヤは剣の切っ先を向けた。


「お前は……」
「忘れちまった? しゃあないか。百五十年前だもんな」


 誰だっただろうか。脳を急回転させて記憶を辿るが、思い出せなかった。純粋に、興味が無かったのだ。
 青年は苦笑交じりに、肩を竦めて見せた。そして、演技掛かった動作で恭しく頭を下げ、名乗った。


「魔王四将軍の一人、トパーズと申します。王子様」
「そのトパーズが、俺に何の用だ。邪魔するなら、お前も殺す」


 剣を向けるダイヤにも、眉一つ動かさずトパーズが言った。


「百五十年の時を経て、随分と物騒なことを口にするようになったな。嘆かわしいことだ」


 何も答えないダイヤに、トパーズは溜息を一つ零して道を空けた。


「あの可愛らしかったダイヤ様は、もういないのか。残念だ」
「気色悪いこと、言ってんじゃねーよ」
「まあいいさ。邪魔するつもりは無いから」


 呆気無く道を譲るトパーズを訝しげに見遣りながら、ダイヤは翼を広げた。
 敵じゃないなら、邪魔をしないならそれでいい。羽ばたき疾走するダイヤの背中に、トパーズの声が突き刺さる。


「頑張れよ、ダイヤ」


 遠い記憶の中で、確かに聞き覚えのある声だった。振り返る余裕等無い。ダイヤは地下へ急いだ。

27,Escape.

27,Escape




 酷い血の臭いだった。
 瘴気に耐性があっても、血の臭いに慣れることは無い。気休めのような蝋燭の灯は、百五十年前と同じ場所に点在している。頭で解っていても、まるで自分が過去に戻って来てしまったのではないかと錯覚してしまう。
 魔王城地下牢。地上からどれ程深い場所に位置しているのか、ダイヤは知らない。天空を羽ばたくことは出来ても、地中へ潜る術をダイヤは持たない。けれど、其処はダイヤの生まれた場所だった。そして、大きな転機を迎えるに当たって重要な場所でもあった。
 此処は、ダイヤが最後にあの頃のガーネットと逢った場所だった。
 翼を持たず無力だった当時の自分は、碌に抵抗も出来ず、闇の中に潜む得体の知れない触手に引き摺られるばかりだった。届かないガーネットを呼び手を伸ばすばかりだった。けれど、今はもう、違う。


「ガーネット」


 呼び掛ける先は、闇に沈んだ牢獄だった。強固な格子は、百五十年の時を経て尚、錆び付くことも無く存在している。
 嘗てこの中に閉じ込められた自分は、翼を手に入れ、自由になった。――けれど、其処には大きな代償があった。
 闇の中、僅かに身じろぐ黒い塊。血塗れ、瀕死。その足は立ち上がれるのか。その腕は弓を引けるのか。その目は前を見られるのか。そんなことは、如何だって良かった。ダイヤは、彼が生きてさえいればそれで良かった。


「ガーネット」


 そっと触れる格子は、氷のように冷たかった。黒い塊が身を起こす。
 掠れるような声が、微かにした。


「……ダイヤ?」


 闇の中、血のように紅い双眸が煌めいている。
 不思議そうに目を丸めるガーネットは、まるで嘗ての親友のようで、在りもしない幻想に縋りたくなってしまう。見っとも無く泣き叫んで縋り付きたい思いを寸でで堪え、ダイヤは完璧に笑って見せた。


「久しぶりだな」


 血塗れのガーネットと対峙するダイヤは、同胞である筈の魔族の返り血を全身に浴びている。生臭い姿でありながら、吐き出される言葉は自身が思う以上に穏やかだった。
 だが、ダイヤと対照的にガーネットは目を吊り上げ、今にも噛み付きそうに叫んだ。


「何故、此処に来た!」


 激昂し怒鳴り付けるガーネットは、重傷を負っていても尚、猛獣と呼ぶに相応しい獰猛さだった。
 それでも、ダイヤは微塵も臆することなく微笑んでいる。


「決まってるだろ。お前を、助けに来た」


 一言一句聞き間違うことの無いように、ダイヤははっきりと言った。呆気に取られたように、ガーネットが肩を落とす。


「何故……」


 信じられないものを見るような目で、ガーネットが問い掛ける。ダイヤは答えを探し、首を捻った。
 目の前にいるガーネットは、嘗て共に過ごした親友ではない。記憶を失くし、兄の命を受けて自分を捕えようとする魔王四将軍の一人だ。あの紅い瞳に映るのは親しみや慈しみではない。憎悪や敵意だ。――だけど、それでも。


「お前に、生きていて欲しいんだよ。お前が、大切だから」


 ガーネットが何時か記憶を取り戻すのではないかなんて、馬鹿な期待はしない。叶わなかった時に傷付くのは自分だ。
 親友はもう二度と戻らない。それでもいいと、ダイヤは択んだのだ。親友の存在ではなく、ガーネットの命を選択したのだ。
 訝しげに目を細めるガーネットに、ダイヤは苦笑する。どうせ、何も解らない。それでも良かった。


「行こうぜ、ガーネット」


 傍に掛けられた鍵を手に取り、扉を開ける。軋みながら開いた闇の出口を、ガーネットは茫然と見詰めている。


「こんなところに、何時までもいる必要は無いだろ」
「出る訳には、行かない」
「何故? サファイヤが怖いか」
「サファイヤ様を恐れない魔族等、存在しないだろう。大体、お前だって、右腕を切り落とされた癖に」


 其処まで言って、ガーネットは口を噤んだ。ダイヤは、その言葉を拾い上げ、驚愕に目を見開いた。
 右腕を切り落とされたのは、百五十年前だった。当時のことを、ガーネットが知っている筈が無い。――記憶が戻ってでもいない限り。


「ガーネット、お前、まさか」


 何時からだ。ダイヤは過去を振り返る。
 歓喜か、驚愕か。震える足取りのまま、ダイヤは扉を越え、ガーネットに肩を貸す。ばつが悪そうに目を逸らすガーネットを無理に立ち上がらせるが、その足元に作られた大きな血溜まりにダイヤは目を奪われる。暗闇で気付かなかったが、傍目に見る以上の重傷だ。すぐに手当てが必要だった。
 自力で立つこともままならないガーネットを背負い、ダイヤは歩き出す。


「……何時からだ」


 問い掛ければ、背中でガーネットが微かに笑ったようだった。


「お前が知る必要は無いな。まあ、一つ言うなら、トパーズのお蔭だ」
「トパーズ?」


 この地下牢へ向かう途中に出会った、魔王四将軍の一人。日輪のような金髪に、蕩けるような蜜色の瞳をした青年。
 傍目には武闘派に見えなかった。けれど、目に見えるものが全てではないと、ダイヤは知っている。
 不思議そうに問い掛けるダイヤに、ガーネットは息絶え絶えながら言った。


「何だ、忘れちまったのか? あいつの魔法は」


 その、瞬間だった。
 目の前が真っ白に塗り潰された。強烈な爆風に身体は壁に叩き付けられた。耳を劈く爆風に眩暈。立ち上がることどころか、何が起きたのかも解らない衝撃の中でダイヤは嘔吐しそうに咳き込んだ。
 強烈な爆発によってあの強固な格子は拉げ、熱風によって蝋燭は瞬時に溶けた。明暗の激しさに視界は真っ黒に塗り潰され、酷い耳鳴りに平衡感覚さえ失われ立つことも儘ならない。臓腑を焼くような激痛にダイヤが喘ぐ。けれど、その手は確かに親友の手を掴んでいた。


「ガーネット、」


 懐かしい掌は、長い戦乱で武器を振るって来た為か固くなっている。けれど、確かに温かい生きた掌だった。
 この手は、何が起きても離してはならない。掌に力を込めるダイヤの耳に、乾いた足音が届いた。
 かつん、かつん。着実に距離を縮めるその足音は急がれることなく、独自のリズムを刻んでいる。百五十年前、確かに聞いた足音だった。
 それが誰なのか、ダイヤは知っている。途端、全身が粟立った。突如現れた灯火に、闇が僅かに払われる。橙に照らされたのは、群青の髪と銀色の瞳を持つ美しい魔族だ。百五十年前から、何も変わらない。


「ダイヤ、逢いたかったよ」


 魔王の後継者、最有力候補。否、事実上、次期魔王。それがダイヤの腹違いの兄、サファイヤだった。
 この魔族は、何者なんだ。底知れぬ強大な力を感じ、ダイヤは思わず後ずさった。得体の知れない魔法という力も、百五十年の時を経て変わらない容姿も、自分への異常な執着も、何もかもが恐怖の対象でしかなかった。
 殺そうと思えばいつでも殺せたのに、奪おうと思えば何もかも奪えたのに、消そうと思えば何もかも消せたのに、愉悦の為に百五十年もの間泳がせ、長く続く戦乱すら興味を示さず自分を玩具にして来た。
 怖い。――純粋に、ダイヤは思った。それは守るべき対象であるガーネットに、無意識に縋る程の恐怖だった。


「やっと、帰って来たのか。待ち草臥れたぞ」
「違う。奪われたものを、取り返しに来たんだ」


 声を震わせながら、ダイヤがやっとのことで答える。背中に庇ったガーネットは壁に叩き付けられ意識を失ったのか、反応が無い。
 この地上深くで、翼が何の役に立つだろう。意識の無い重傷のガーネットを庇って、剣を振るえるだろうか。
 平静を装いながら、震えて立つことも儘ならないダイヤは問い掛ける。


「何で、ガーネットにこんな真似をした。お前の従順な部下だっただろう」
「従順だったよ、記憶が戻るまでは」


 三日月のように口角を釣り上げ、サファイヤが言った。


「百五十年前と同じだよ。お前の為に反抗し、結果敗れたんだ」


 想像はしていた。そうでなければ、ガーネットが此処にいる理由は無かった。
 右手に炎を浮かべながら、サファイヤが左手を構えた。その瞬間、灯った小さな光は弓矢のようにダイヤの右肩を鋭く射抜いた。
 悲鳴を上げる間も無かった。血液がぼたぼたと零れ落ちても、ダイヤはその場から動かない。肩を射抜かれても、その手は離さない。自分の為に貧乏籤を引いて来たガーネットが、これ以上傷付く必要なんて無い。


「ダイヤ。お前は俺の大切な大切な、愛玩動物なんだよ」


 うっとりと、サファイヤが言った。
 弟どころか、同胞とすら見ていない。それが当然のことであると疑わないサファイヤ。解り合えることは永遠にないと確信する。


「俺は誰のものにもならない!」


 叫んだと同時、サファイヤが陰湿な笑みを浮かべる。同時に放たれた光の矢は、ダイヤの左脛を撃ち抜いた。呻き声すら噛み殺し、ダイヤが蹲る。周囲に血液を飛び散らせ、ダイヤはサファイヤを睨んだ。
 美しい相貌であるにも関わらず、その笑みは常軌を逸して恐ろしく不気味だった。


「躾が足りないみたいだな。その死にぞこないを殺せば、多少は大人しくなるか?」


 サファイヤの掌は、ダイヤの奥、ガーネットを捉えている。上がらない右手はそのままに、左手を広げて庇おうとする。けれど、同時に気付く、サファイヤは、ダイヤを貫通させ、ガーネットを殺そうとしているのだ。
 何だ、この魔族は。何者なんだ。
 高い知能、高い技能。けれど、理性は何も無い。己の本能のままに行動している。彼を突き動かすのは闘争本能ではない。――苛烈な嗜虐性のみだ。


「止めろおおお!」


 悲鳴のような、ダイヤの声が地下に響き渡った。
 翳された掌から放たれたのは、目が眩むような光だった。網膜すら焼き尽くすような光にダイヤは思わず目を閉ざす。例えこの場所で死んでも、ガーネットの手だけは離さないと誓った。
 爆音――。
 爆風が周囲を吹き飛ばし、強烈な熱気が物質を溶解させる。身を丸めたダイヤは、自分の身体が無事であることに気付いた。


「何だ、お前」


 訝しげなサファイヤの声に、ダイヤはそっと瞼を上げた。白く霞む視界に、太陽のような金色が映った。
 地下に太陽がある筈が無かった。闇に慣れた目に映るのは、先程擦れ違った敵の筈の、魔族だった。


「お前」


 サファイヤの魔法を受けて無傷でいられる筈も無く、美しかったその出で立ちは見る影も無い。一瞬にして崩れたぼさぼさの金髪は、それでも尚美しかった。ダイヤは、その魔族の名を呼んだ。


「トパーズ?」


 ダイヤは、彼を知らない。
 けれど、彼は知っているようだった。トパーズは苦痛に顔を歪ませ、言った。


「何を、諦めてやがる。此処まで来て引き下がったら、この百五十年全てが無駄だろうが!」


 振り絞るように叫んだトパーズの真意は解らない。だが、ダイヤはその言葉に身体に力が戻るのを感じた。
 右腕は上がらない。左足は動かない。けれど、大丈夫。この背中には、翼がある。大空を羽ばたく為でも、此処から逃げ出す為でもなく、友達を救う為に得たダイヤだけの力だった。


「諦めてなんか、ねーよ!」


 ばさりと広げられた白亜の翼は、まるでそれ自体が光源であるかのように輝いて見えた。眩しげに目を細めるサファイヤの口元は恍惚に釣り上がっている。けれど、ダイヤには興味も無いことだった。
 動かないガーネットを左腕に抱え直し、ダイヤが大きく羽ばたいた。それはサファイヤの巻き起こした爆風を打ち消す程の気流を生み出し、腐った空気を一掃する。
 闇に舞う羽根は光を反射し輝いている。ダイヤの身体は僅かに浮かび上がっていた。


「お前、敵じゃないんだな」
「この状況で、敵に見えるのかよ」
「それもそうか」


 ダイヤは、そっと笑った。左脇に抱えたガーネットは動かない。出血が激しい。早く、速く。


「この場を、任せていいか?」
「断ったら、代わってくれるのかよ」
「それでもいい。お前がガーネットを守ってくれるなら」


 はっきりと答えたダイヤへ、トパーズは信じられないものを見るような目を向ける。
 何だ、こいつは。サファイヤとは異なる得体の知れないものに、トパーズはぞっとした。腹違いとはいえ、魔王の実子だ。理解出来るものではない。
 トパーズはダイヤに目も向けず、言った。


「お前が逃げる一瞬を、作ってやる。俺も逃げる必要があるからな、それ以上は無理だ」
「十分だ。一瞬あれば、何処へでも行ける」


 大きく羽ばたきながら、ダイヤはタイミングを計る。愉悦に笑みを浮かべるサファイヤに聞こえぬよう声を潜めながら、二人はその瞬間を待っている。
 ばさり、ばさり。
 ダイヤの羽ばたきが聞こえている。
 ゆらり、ゆらり。
 サファイヤの掌で炎が揺れる。
 ぽたり、ぽたり。
 ダイヤから、ガーネットから血液が滴り落ちる。


「――行くぞ!」


 サファイヤの向けられた掌から、光が溢れる。それが放射状に鋭く伸びると同時、トパーズの翳した手の前に、目に見えない壁が現れた。それはサファイヤの打ち放った光を跳ね返すことは出来ずとも、動きを止めるように壁へ呑み込む。
 一瞬、サファイヤが驚いたように目を見開いた。その一瞬を、針で突くようにダイヤは翔け抜けた。突風のようにダイヤはその脇を抜け、地上へ続く階段を翔け上がって行った。

28.慟哭

28,慟哭




 突風のように螺旋階段を翔け上がって行く。舞い落ちる白亜の羽根と、滴る鮮血。追い掛ける大勢の魔族の兵を、翻るように躱して行く。
 ダイヤの脇には、ぐったりと力を抜いたガーネットが抱えられている。百五十年前とは逆の立場だった。重傷も気にならないように、進むダイヤの羽根は力強く空気を掻き分けて行く。右肩と左足を撃ち抜かれた傷は既に癒え始めている。ダイヤ自身の治癒力は魔族の中でも著しく高い。対照的にガーネットばかりが出血を押さえられずにいた。
 早く、早く、早く。
 速く、速く、速く。
 祈るように、縋るようにダイヤは前だけを見詰めて行く。放たれる矢は、翼によって生み出される風に吹き飛ばされる。何者も干渉出来ないような驚異的な速度で、ダイヤは進み続ける。今は一刻も早く、安全な場所へ避難し、ガーネットの手当をしなければならない。
 階段を抜けた先、薄暗く陰気な回廊へ辿り着いた。溢れ返る魔王軍を、羽ばたきによって一掃し、ダイヤは加速した。
 騒ぎに気付いたのか、脇に抱えたガーネットが僅かに反応を見せた。速度は緩めぬまま、ダイヤは中庭を横断し、侵入時に突破した城門を目指す。相変わらず厚い曇天は光を遮断し、瘴気が満ちている。ぐったりしていたガーネットが顔を上げ、ダイヤを見た。


「……ダイヤ?」
「もうちょっとで、魔王城から出られるよ」


 そう言ったダイヤの口元は、微かに弧を描いている。
 痩せ我慢でないそれは、自然とダイヤの表情に表れていた。けれど、ガーネットは口を開いた。


「俺を、」
「――置いて行けなんて言っても、俺は聞かないからな」


 ガーネットの吐き出すだろう言葉を予測し、ダイヤが口を尖らせる。
 前だけを見据える青い目に迷いは無い。ダイヤが言った。


「お前を連れて、飛ぶことが俺の夢だった」


 羽根が欲しいと願ったことがあった。地下牢ではなく、百五十年前のダイヤにとってはこの魔王城こそが牢獄だった。
 この場所から、逃げ出したかった。ガーネットを連れて、飛び立ちたかった。願うばかりの弱い子どもだった。でも、今はもう違う。親友を連れて飛び立つ力を得たのに、今更目の前の願いを捨てることなんて出来ない。
 ガーネットが口を噤んだのを幸いと、ダイヤは羽ばたき加速する。目の前にはあの城門が迫り、蟻のような魔王軍が犇めいている。


「俺の、邪魔をするな!」


 目にも留まらぬ速度で羽ばたかれた翼が生み出す風の波は、魔王軍を重なり合うようにして打ち倒して行った。
 ダイヤは滑り込むようにして城門を突破した。追い掛ける魔王軍の怒声等追い付きはしない。ただ、ダイヤの背に向って銀色の閃光が迫っていた。抱えられたガーネットが感付き、声を上げる。


「ダイヤ、後ろだ!」


 声に反応し、ダイヤが身を翻す。羽根を掠めた閃光は、先程見たサファイヤの魔弾だった。
 内心冷や汗を掻きながら、ダイヤは大空へ向かって翔け上げる。続け様に数発放たれた魔弾を、勢いよく回転しながらダイヤが紙一重で躱す。死を隣り合わせにした状況でありながら、ダイヤは鼓動が高鳴るのを感じた。全ての魔族が持つ強烈な闘争本能だった。
 交戦したいと、脳が訴える。けれど、脇に抱えた重さがそれを押し留めてくれる。


「あいつは、逃げられたんだろうな」


 サファイヤが追って来るということは、トパーズが彼を押さえられなくなったということだ。
 一瞬の隙を作った後は逃げると言っていたけれど、胸の中に嫌な予感が掠める。ダイヤの呟きを拾い上げて、ガーネットが答えた。


「まあ、あいつなら大丈夫だろ。要領良い奴だから」


 その言葉を信じるしかないダイヤは、曇天を突き抜けた。
 太陽は既に沈み、満月が大きく浮かび上がっていた。曇天の上に広がる幻想的な夜空は、地上の戦乱など知らないように美しく存在している。
 静まり返った周囲に、ダイヤの羽ばたきだけが聞こえていた。予想外に上がった息を整えながら、ダイヤが言った。


「ガーネット」


 脇に抱えたガーネットが、顔を上げる。
 ダイヤの白い面を、月光が照らしている。星を鏤めたような煌めく青い双眸に、ガーネットは目を奪われた。ダイヤが、くしゃりと顔を歪めて笑った。百五十年前と変わらない、親友の笑顔だった。
 百五十年。人間は勿論、弱い魔族ならば死に絶える程の長い月日だ。けれど、二人は時を経て再会することが出来た。
 羽ばたき続けるダイヤの翼は、何処かぎこちない。ガーネットに気付かれたと知ると同時に、ダイヤはゆっくりと高度を落とした。分厚い雲を突き抜け、再び現れた其処は魔王城から離れてはいるが、死の砂漠だった。
 足を取られる砂漠に脚を下ろし、ダイヤはガーネットを背負った。翼は既に消えている。
 先程のダイヤの突入による騒ぎの為か、それともトパーズが撹乱でもしているのか、魔王城からは火の手が上がったようで曇天が紅く染められている。湿った風が瘴気と灰を連れて来る。
 降り注ぐ灰は静かに降り積もり行く雪の華のようで、幻想的な景色は何処か廃退的で、世界の終焉を思わせた。ダイヤは歩き出す。
 薄い靴底から感じる砂や岩石の感触が、今にも閉ざされそうな瞼を、衰退して行くような愚鈍な神経を覚ましてくれる。魔王軍の追跡か、乱闘騒ぎか、地の底を揺らすような轟音が今も響き渡り、破壊と再生を齎す時代のうねりが感じられるような気がした。
 酷使した身体の彼方此方が軋み、傷は癒えた筈なのに足を踏み出す度に痺れるような疼痛が入った。ダイヤは、重力に従って落下しようとする落第者を背負い直し、一瞬で凍り付きそうな吐息を極寒の空気に吐き出した。
 魔族すら生存出来ない死の砂漠に、一人分の足跡が刻まれて行く。積雪すら望めない乾いた大地だ。命を生み出すことも、育むこともない死の世界。視線の先に映る世界は何処までも灰色で、曇天によって月光は完全に遮断されていた。


――酷く、冷たい。


 ダイヤは身震いする。翼を持つダイヤは、歩行には余り適していない。
 終わりの見えない砂漠。目的地すら見えない。重荷を背負って、当て所無く歩き続ける。
 百五十年前、魔王城から逃げ出した時をダイヤは思い出す。あの時も、酷く凍えていた。寒くて、冷たくて、怖かった。何かに縋り付きたいと願った。助けてくれと祈った。けれど、回帰し溶けて消えてしまいそうな自身の存在意義を、耳元に届く微かな息遣いが繋ぎ止めてくれる。
 背負い込んだ同胞の僅かな心音が、立ち止まりそうな足を急かすように動かしてくれる。ぐったりと体重を預ける様は死体のようだが、背中から伝わる温もりがその命の存在を示してくれる。
 ガーネットは、生きている。
 そんなことが、ダイヤには泣き出したくなる程、嬉しかった。


「ガーネット」


 目頭が、焼け付くように熱かった。そのまま眼球が溶け出してしまうような気がした。
 呼び掛ければ、背中でガーネットが返事をするように僅かに身じろいだ。呼び掛けても碌な返事を寄越さないその無愛想な態度は、何年、何十年、何百年経っても変わることがない。其処に冷たさしか残さないでいてくれたなら、自分は決してあの鳥籠の外に出たい等と願わなかった。ガーネットが存在しなければ、生きたいとは祈らなかっただろう。


「ダイヤ」


 その声が自分を呼ばなければ、手を伸ばしはしなかった。この命が尽きる其の時まで、牢獄のようなあの場所で蹲っていられた。
 人間程の自己治癒力しか持ち合わせなかったガーネットが、指一本動かせないだろう重傷を負いながら、歯を食いしばって言葉を繋ごうとしている。噛み殺された呻き声の間に、ガーネットの懐かしい声がする。


「何故、だ」
「何が」
「何故、俺を」


 ぽつぽつと、灰色に染められた世界を、劣る鮮血が紅蓮に汚して行く。ダイヤは、自分の治癒力を分け与えることが出来たらいいのに、と切に願う。一刻も早く手当をしたいと思いながらも、翼を広げる余力も無かった。
 ガーネットが、言った。


「何故、俺を、助ける」


 お前が大切なのだという答えでは納得出来ない、頭の固い親友だった。
 心底解らないと酷く悔しそうに吐き出された言葉に、ついダイヤは笑った。体中を包む倦怠感や酷使した翼の鈍痛を堪えながら、口元にだけ浮かべた笑みは、自分でもぞっとする程、穏やかなものだった。


「理由が、そんなに大事かよ」
「何」
「友達を助けるのに、そんなに理由が必要なのか」


 ガーネットが、息を呑む気配がした。
 ダイヤは顔を上げ、曇天に舞う灰をぼんやりと眺める。


「なあ、ガーネット。覚えているか。お前が俺を見付けてくれた日を、名前を呼んでくれた日を、伸ばした手を掴んでくれた日を、外の世界へ背中を押してくれた日を。……この百五十年、俺は一度だって忘れたことは、無かった」


 耳が痛い程に静かな世界で、微かに聞こえる息遣いと拍動。
 返事なんて無くていい。ただ、其処にいてくれるだけで良かった。願ったものは百五十年前から変わっていなかった。
 掠れる声や、弱々しい心音や、消えそうな声にダイヤは気付いていた。気付いていて、気付かない振りをして来た。絶え間なく流れ続ける血液も、不規則に途絶えがちな呼吸も、全ては一つの結論へ導かれている。


「お前が大切なんだよ。それ以上の理由なんて、俺には無いんだよ」


 其処で、ふつりとダイヤは立ち止まった。先の見えない荒涼たる砂漠で、羽ばたける翼を閉ざしたまま、ダイヤは俯いた。
 指先が震えていた。心臓がいやに騒ぎ立てる。ダイヤにはその意味が解らない。ガーネットが、言った。


「俺にとっては、お前が生きる意味で、――希望だった」


 頑固で、真面目で、融通が利かなくて、貧乏籤ばかりを引いている。
 不器用で、厳しくて、優しい、――ただ一人の、親友だった。


「ガーネット……」


 絞り出すように、縋るように、吐き出すように、願うように、ダイヤが言った。それが、届かない願いだと解っていても。


「頼むから、どうか、死なないでくれ……!」


 絞り出すようなその願いが叶うことは、無い。
 風が止むように活動を終えた心臓に、ダイヤは崩れ落ちた。不規則な呼吸は、吸い込むばかりで吐き出すことが出来なかった。肉体的でない痛みが体中を駆け巡る。


「ガーネット……」


 歩行も呼吸も止めてしまいたくなる。こんなことは初めてだった。
 背負い続けるガーネットの腕はだらりと垂れ下がっていた。それが再びダイヤに伸ばされることは、未来永劫無いのだろう。
 返事がないと解っていても、ダイヤはその名を呼び続ける。希望の無いこの世界で、呼び続けることしか、出来ないのだ。


「あ、ああああ、ああああ……」


 慟哭。天を突くような悲鳴が、曇天の下に響き渡った。
 陽の光が差さないこの悪夢ような世界。ずるりと背中から、ガーネットの死骸が滑り落ちた。ダイヤはそれだけが救いだと言うように、強く強く、抱き締めた。百五十年――否、ダイヤが生まれた時から傍にいてくれた、親友だった。


「ガーネット!」


 返事が無いと、解っている。理性では解っている。
 けれど、それでも縋り付いてしまう。何もかも無駄だと解っているのに、それでもダイヤは祈るように死骸を抱き締めていた。


「ガーネット!!」


 声にならない声が、喉を引き裂くように溢れた。
 悲鳴にも似ていた。怒号にも似ていた。泣き声にも似ていた。それ以外、ダイヤに胸の内を制御する方法は無かった。


「あああああああァッあああああああああああああああああああああああぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああァアアァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあぁああああああああああああああああああああああああああああああああァァアァああああああああああアアアあああああああああああああああああ!!!!」

 その瞬間、ダイヤの意識はふつりと途切れた。生物の存在出来ない死の砂漠で、金色の魔族がダイヤを抱えていた。
 トパーズだった。人形のように頭を垂れたダイヤの頬を伝うものを、トパーズは呆然と見詰めている。


「……もう、いい」


 今は眠れ。届かないと解っていながら、トパーズは祈るように言った。

29.そして君は夢から覚めた

29,そして君は夢から覚めた




 ダイヤが瞼を押し明けた其処は、百五十年前と同じ地下牢だった。
 点在する灯火、冷たい石畳、強固な格子。全てが記憶の通りだった。けれど、ふと顔を上げた先、牢の中に誰かがいることに気付く。
 水中庭園の意思共有魔法の影響を受けているのだろう。ならば、これは一体誰の記憶なのだろうか。ダイヤには解らない。語り手無く進む物語はダイヤの興味も干渉も必要としない。それは偏に時代の流れにも似ていた。
 橙の灯りに照らされる影は、細く、消えてしまいそうに儚い。透き通るような銀色の髪を川のように流し、此方に背中を向ける様は女性のようだった。かつんかつん、と。ダイヤは背後からの足音に振り返る。闇の中から現れたのは、ダイヤの知らない少年だった。否、ダイヤが知らなかった頃の少年だった。


「ガーネット」


 届かないと理解していながら、思わずダイヤは呼び掛けた。
 ダイヤの知らないガーネットの幼少期。小柄で痩せっぽちで弱々しい。けれど、その紅い眼光だけは変わらず、貫くように鋭い。ガーネットは牢の前に立つと、言った。


「アレキサンドライト様」


 呼ばれたのは、牢の奥に座る女性だった。銀糸の髪を梳きながら振り返るその相貌は、目を疑う程に、美しかった。
 何より美しいのは、その宝石のような青い瞳だった。水中庭園の奥底を思わせる澄んだ美しい青は、其処に何の感情も見せず、ただ純粋に煌めいている。触れれば消えてしまいそうな儚い美しさだった。ダイヤは過去の映像を凝視しながら、胸に覚える奇妙な感覚に気付く。
 女性は、何かを大切に抱えていた。それは人形のようだった。けれど、よくよく見ればそれは生きた赤子だった。女性は形の良い口元に弧を描き、赤子をガーネットへ見えるように抱え直す。
 すっと目を細めたガーネットは、すぐさま其処へ跪いた。


「此度は、御出産、おめでとう御座います」
「……顔を上げて、ガーネット」


 言葉に従うように、ガーネットは顔を上げた。紅い瞳に映る女性は赤子をじっと見詰めていた。


「他人行儀な祝辞等、いらないわ。……身籠ってから、私は何度、この子を殺そうとしたことか」


 言葉の端々に滲むのは、隠しようもない憎悪だった。けれど、その赤子を抱く腕からは微塵も感じられない。まるで、その子が唯一無二の存在で、愛おしいと言っているようだった。
 ガーネットはすっと目を細め、問い掛けた。


「何故、そう為さらなかったのですか。……憎き魔王様の、末子でしょう」


 聞き覚えのある言葉に、ダイヤは耳を疑う。女性は答えた。


「それも良かった。けど、不思議なの。あの怨めしい魔王の血を引いていると知っているのに、この子が愛しくて堪らないの……」


 まるで、それが許されないことであるように、女性は赤子を掻き抱いた。ガーネットばかりが苦く顔を歪めている。


「予言を授かりました。――その子は、時代を替える歯車の一つである。全てを滅ぼす絶望と、全てを再生する希望を背負っている。……魔王様は、その子を殺すよう指示するでしょう」
「……ガーネット」


 女性は立ち上がり、格子の前まで歩み寄った。その両足は鋼鉄の枷に絡め取られていた。
 その牢がまるで鳥籠のように思え、ダイヤは唇を噛み締める。女性は言った。


「剣を貸して」
「……殺されるくらいなら、いっそ、母君であるアレキサンドライト様が……」


 絞り出すように、ガーネットが言った。


「その子も恨みはしないでしょう」


 ガーネットが目を伏せたその瞬間だった。女性は自らの腹に刃を突き立てた。
 夥しい程の鮮血が、まるで噴水のように噴き出した。赤い血液は牢を沈め、ガーネットを赤く染め、赤子を濡らした。女性は震える手で、赤子をガーネットへと手渡す。騒ぎに気付いた赤子が激しく泣き喚いた。
 見たことも無い程に蒼白となったガーネットが、言葉を失くし人形のように棒立ちとなっていた。女性は鮮血に塗れながら、噛み締めるように言った。


「……これで、我が一族の血を引くのは、その子だけになった。ならば、魔王も容易くその子を殺せまい」
「アレキサンドライト様……?」


 この世の終わりだと言うように泣き喚く赤子を、女性は愛おしむように撫でた。その手もまた血塗れだった。
 状況を理解し切れていないだろうガーネットに、女性は言った。


「その子の名前を考えたの。……ダイヤモンド。世界で最も強く美しい石の名前」


 女性が、笑った。


「ダイヤモンド……。いえ、ダイヤ。どうか、生きて。生き抜いて。貴方は私の、希望だから――……」


 ぷかり、ぷかり。
 水泡が視界を埋め尽くし、鮮血を消し去って行く。どれだけ苛烈な出来事も過ぎ去ってしまえば、こんなにも簡単に消える幻想にも等しいのだ。ダイヤはその場に膝を着き、両手で額を押さえた。
 アレキサンドライトと呼ばれたあの女性は、恐らくきっと、否、間違いなく、ダイヤの母親だった――。
 ダイヤの知らないガーネットの記憶。ダイヤの知らない母の記憶。消えて行くだけの水泡。もう二度と戻らない過去。それはきっと、走馬灯と呼ばれるものだ――。


「――ガーネット!!」


 勢いよく身を起こしたダイヤが居たのは、水中庭園だった。穏やかに流れる空気と、静かな空間。けれど、ダイヤは気を失う前の記憶を寸分足らず忘れてはいなかった。
 慌てて見回す其処に、意識を失う前と同じく血塗れのガーネットが倒れている。


「ガーネット……」


 そっと伸ばした指先が震えている。触れた先は氷のように冷たかった。
 いない。もういない。何処にもいない。返事も無い。伸ばされる手も無い。それは未来永劫、変わることは無い。
 気が触れたようにその名を呼び続けるダイヤの傍に、ルビィがいた。傷だらけ、血塗れで現れたダイヤの身に何が起こったのか等何も知らない。けれど、行先すら見失った迷子のようなダイヤの傍から離れることが出来なかった。
 返事が無いと解っていても、ダイヤはその名を呼び続ける。希望の無いこの世界で、呼び続けることしか、出来ないのだ。


「ああああ、あ、あ……」


 俯いたダイヤの頬を、大粒の涙が伝った。ルビィは目を疑う。――泣いている。あの、ダイヤが。
 縋るように、祈るように、願うように咽び泣いて、二度と目を開くことのない友達を呼び続けている。
 人間よりも遥かに強靭で長命な魔族。大いなる武力と揺るぎない強い意志を持った生まれながらの王が、ただ一人の友達の為に泣き叫んでいる。


「如何して、」


 ぽつりと零された問い掛けに答える者は無い。


「こんなことなら、何も望まなければ良かった……!」


 身を引き裂くような悲哀、悔恨、憎悪、憤怒。人が魔族を生み出したとされるあらゆる負の感情が、本能しか持たないという魔族のダイヤの中で溢れ、混沌と掻き混ぜられていく。
 何が、違うのだろう。
 人間と魔族は、何が違うのだろう。
 蚯蚓のように這いずりながら、ダイヤは、酷使され言うことを聞かない両足に引き摺られ転倒する。膝を着いたダイヤが、動かないガーネットを離すまいと必死に抱き締めた。己の内に猛り狂う衝動を抑え込むかのように、その掌の皮膚を破く程に強く拳を握った。零れ落ちるそれは、人と何も変わらぬ、紅い、血液だった。
 傲慢で、冷酷で、残虐な一面を持ちながら、友達の為に奔走し、信念の為に傷付いて、同胞の為に涙を流す――。


「ダイヤ……」


 ルビィが伸ばした手に、ダイヤが縋ることはない。ダイヤは未だ、動かないガーネットを抱き締めている。
 ダイヤの青い瞳から、溶けてしまいそうに止め処無く、透明な滴が流れ落ちる。嘗て彼がそうしたように、ルビィが指先で掬い取ったそれは熱を持っていた。


「貴方は、何を望んだの?」


 傍に膝を着き、諭すように、呼び掛けるように、ダイヤの嗚咽を掻き消さないように静かに問い掛ける。
 俯いたダイヤの青白い頬には無数の涙の粒が張り付いていた。


「ずっと、外に行きたかったんだ」


 掠れるような声で告げたダイヤは、血塗れガーネットの亡骸を握り締め離さない。


「世界を見てみたかったんだ。……鉄格子の間に見える大空を、吹き抜ける風を、照り付ける光を、舞い落ちる花を、降り注ぐ雪を、ずっと……」


 紅く染まった銀髪は輝きを失って、その面を覆い隠すように垂らされている。
 ルビィがダイヤの記憶の中で見た、あの凍えるような鳥籠の中から、ダイヤが憧れたもの。人は当たり前にあるその存在の価値に気付けない。


「貴方にとって、世界って何だった?」


 問い掛ければ、ダイヤは顔を上げぬままに言った。


「……醜悪で、不条理で、無慈悲で、冷酷……。それが、世界だった。そんなものの為にこいつを失うくらいなら、ずっとあの鳥籠の中にいるべきだったのかもな……」


 百五十年の時の中で、ダイヤが出会ったもの。
 傷付けばすぐに治癒するその掌を再度引き裂き、ダイヤが懺悔するように言葉を紡いで行く。


「そうすれば、何も失わず、何も知らず、ただ憧れていられた」


 たった独りきりの鳥籠で、与えられるもの全てを享受して、何も望まず呼吸を繰り返すだけの存在。
 連れ出したのはガーネットだった。その手を取ってくれたのは、世界を教えてくれたのはガーネットだった。けれど、ダイヤが本当に望んだのはきっと知識なんかじゃなくて、伸ばした手を掴んでくれる、傍にいてくれるたった一人の友達だった。


「私も、外に行きたかった」


 ルビィは、俯いたダイヤの頭を抱えるように抱き締める。子どものようだと思った。


「私が見た世界は残酷で、恐ろしくて、……哀しかった」


 滅ぼされた故郷も、人と魔族の共存を願い死んでいったコーラルも、疑心暗鬼の末に同胞を殺し続けた人間達も、人間と魔族の間に生まれ蔑まれたエメロードも、時代生かされ時代に殺されたラピス・ラズリも。
 でもね。ルビィは言った。


「でもね、本当は温かくて、優しくて、美しかった。……それを、貴方が、ダイヤが教えてくれた」


 傲慢で冷徹で、ぶっきら棒で無愛想で。
 けれど、――温かかった。


「貴方が、私の世界だった」


 目を伏せたルビィの目から、涙が零れ落ちた。貰い泣きだなんて、子どものようだと自嘲した。けれど、涙は止まらなかった。
 祈っても縋っても願っても変わらない世界だ。子どものように泣きじゃくるダイヤは、ルビィに比べれば遥かに長い年月を生きて来た。けれど、そんな彼が世界を冷たいと称する理由をルビィはほんの少しだけ解ったような気がした。
 ダイヤは、優し過ぎる。でも、そういうダイヤでなければ、ルビィは此処にいなかった。
 こんな時、どんな言葉を掛けたら良いのだろう。ルビィには解らない。泣かないで、なんて言えない。この百五十年耐え続けて来た涙を止める権利なんて無かった。けれど、その姿は余りに辛かった。


「ダイヤ様」


 透明に輝く気泡を纏いながら、足音一つ立てず、日輪のような美しい金髪を後ろに靡かせ歩く。前を見据え逸らされない水色の瞳には強い意志が浮かんでいた。オパールは、衣服が汚れることも厭わずダイヤの傍に膝を着いた。


「ダイヤ様、良くぞお戻りになられました」


 恭しく頭を下げ、オパールが微笑む。けれど、ダイヤはガーネットを抱えたまま微動だにしない。
 オパールはガーネットの死骸をそっと撫でる。


「ガーネット、間に合わなかったのね……」


 固く閉ざされた瞼も、滴り落ちる血液も、冷たく固まるその身体も、全てが一つの結論に結び付いている。
 ガーネットは死んだのだ。もう二度と目を覚まさない。その事実は永遠に変わらない。だが、ダイヤだけがそれを受け入れられないのだ。
 オパールが言った。其処には慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいる。


「ダイヤ様、貴方は私の願いを叶えて下さいました。今度は、私の番。……貴方の願いを、教えて下さい」
「――一緒に、いたかったんだ」


 誰と、だなんて問うまでも無い。
 答えないまま俯いたダイヤを愛おしむように撫で、オパールは掌をガーネットに翳した。其処から溢れ出る金色の光は粒子となって蛍ように舞い上がる。
 それは太陽というよりも、流星に似ていた。
 ダイヤはゆるゆると顔を上げ、感情の籠らない目でオパールを凝視する。


「オパール?」
「……ありがとう、ダイヤ。私の息子……」


 美しい水色の瞳から、蕩けるように透明な滴が零れ落ちた。
 糸が切れた人形のように、ぱたりと翳されていた掌が落下する。力無く投げ出されたそれを、ダイヤは呆然と見ていた。思わず手を伸ばした先、オパールは静かに熱を失い始めていた。それは、肉体の死だった。
 死んだ?
 夢か現実か判別も付かない世界で、ダイヤはただその掌を見詰めている。
 何が、起こっている。何故、オパールが、死ぬのだ。
 解らない、解らない。ダイヤにとってガーネットは唯一無二の親友だった。そして、オパールは母親にも等しかった。如何して自分は、己の肉親とも呼ぶべき同胞の死骸に囲まれている?


「――ッ」


 喉の奥から何かが漏れそうになり、ダイヤは思わず喉を押さえようとした。その強張った指先を、誰かが弱々しく握った――。


「……ダイヤ……」


 それは、永遠に届かない筈の声だった。
 恐る恐るダイヤが目を向けた先、血のように紅い瞳に驚愕に染まった顔が映っていた。

30.Hope.

30,Hope.




 この世は等価交換。何かを得る為には何かを失わなければならない。
 生きて行く中では常に選択を強いられる。悩み抜いて決断を下しても、最期に残るのは結局後悔しかないのかも知れない。
 ルビィは、ただ見ていた。
 透明な棺に納められたオパールの遺体と、それをただただ見詰めるダイヤの伏せられた横顔。傷だらけのガーネットは、その様を無表情で眺めているばかりだった。ルビィは、起き上ることも儘ならないガーネットの隣で、ただそれ等をぼんやりと見ている。
 この世には不思議なことが溢れている。魔法等と言う想像も付かない程に強大な力も存在する。その原理等、ルビィは知らない。けれど、結局その魔法すら等価交換なのだ。オパールが最期に放ったのは、そういう魔法だった。


「おい」


 視線すら此方に向けぬまま、ガーネットが言った。周囲にいるのはルビィだけだった。
 ガーネットはルビィの反応等気にすることなく、問い掛けた。


「俺を、恨むか?」


 同じような問いを、以前も受けた。その時はダイヤだった。
 ガーネットの口調には、憎悪も悔恨も無い。ただ、触れれば壊れてしまいそうに儚い、何処か寂しく悲しい迷子の泣き言のように聞こえた。
 ルビィは、答えた。


「如何して、私が貴方を恨むの?」
「――ダイヤは」


 ルビィは目を伏せ、言った。


「如何して? ダイヤが願ったのはたった一つだった。貴方と、一緒にいたかったって……」
「その為にあいつが負って来た代償に、それは見合うものなのか」


 ダイヤが負って来た代償――。
 百五十年の孤独。母と呼ぶに等しいオパールの死。それ等全てがガーネットの存在一つで帳消しになるのだろうか。それが彼の問いで、迷いで、悲しみだった。その苦痛を、ガーネットは共に背負って遣ることは出来ないのだ。
 ルビィは言う。


「私には解らない。ダイヤと旅をして来て、私も幾つも疑問を抱いたけれど、その答えを出すのは今である必要は無いんじゃないかな」


 即答出来る問いばかりではない。長い年月苦しみ抜いて出る結論もある。死ぬ時に悟る答えもあるだろう。
 ガーネットは力無く「そうか」と言い、黙った。
 周囲は、深海とは思えぬ程に温かい光に満ちている。オパールが造り上げた水中庭園は、その名に恥じない程に幻想的で美しい世界だった。目に見えぬ膜に隔てられた空間は、生息地の異なる魔族が共に生きられるよう、意思共有の魔法が掛けられている。それは言葉に依存しない綺麗な世界だった。
 膜の向こう側では、名も知らぬ魚群が横切って行く。美しい珊瑚礁が世界を彩っている。争いの無い世界。
 ガーネットは、再び問い掛けた。


「お前は何故、魔族と旅をしている?」


 人間と魔族は相容れない生き物だ。二つの種族が世界の覇権を賭けて争う戦乱で、今も殺し合いは続いている。
 疑問は当然だった。けれど、ルビィは何でも無いことのように答えた。


「私は世界を見てみたかった」


 小さな寂れた山村が世界の全てだったルビィが、旅立った理由はそれだけだった。
 明晰な頭脳も無い。自衛出来る力も無い。強力な異能も無い。ダイヤのように羽ばたく翼も無い。けれど、それでも、ルビィは世界を見てみたかった。純粋な好奇心だった。


「ダイヤに問われるまで、私は考えたことも無かったの。魔族とは、人間とは何か。生きるとは如何いうことか」
「その答えは、何時か出るのか」


 ルビィは首を振った。


「解らない。でも、一つ思ったことがある」


 其処で漸く、ガーネットがルビィを見た。美しい紅い瞳は血の色、命の色だった。
 ルビィは紅い双眸をじっと見詰め、言った。


「人間と魔族が解り合えないなんて、私は思わない。ダイヤは、魔族に感情なんて無いと言ったけど、そうは思わない。だって――」


 ルビィは、顔を上げた。視線の先には、憔悴し切ったダイヤがいる。


「ダイヤは、優しい」


 感情のない生き物だったなら、ダイヤは百五十年も苦しみはしなかった。
 ただの一度も羽根を休める事無く飛び続け、傷付くことも厭わず腕を広げ、独り膝を抱えて蹲る。ダイヤがもしも、何も感じない氷のような生き物だったなら、こんな思いはしなかったし、あんな顔をすることも無かった筈だった。
 ガーネットが言った。


「そうだな……。あいつは優し過ぎる」


 肯定を示し、ガーネットが問い掛ける。


「この戦乱の始まりを、お前は知っているか?」


 唐突な問いに戸惑いつつも、ルビィは答えた。


「世界の覇権を賭けて、争っているんでしょ?」
「そうだ。だが、これは、二つの異なる種族の生存競争なんだよ」


 ガーネットが言う。


「魔族は人間の負の感情から生まれた存在だ。だから、種によっては人を襲うし、喰らう」
「……ダイヤから、聞いたことがあるわ」
「人間から見れば、この争いは当然の防衛なのだろう。だが、魔族からも見てもそれは同様だ。……手前等の都合で勝手に生み出されて、持って当然の衝動を責められて、虐殺の対象にされたんだ」


 強い憎悪の念や、嗜虐性から生まれた魔族が、人間を襲うのは当然だった。けれど、それを弾圧しようとする人間の何と因業なことだろう。
 人間は魔族を一辺倒に悪者と言うけれど、その殺戮衝動を持ち合わせない魔族だっている。


「ダイヤが言っていただろう。強さが罪なることはない。その使い方を知らないことが、罪になると――」


 ガーネットが、噛み締めるように言う。
 本能のままに生きたラピス・ラズリを殺したのはガーネットだった。人間も魔族も関係無く殺戮し続けた彼等にも、殺す以外の選択肢があったのかも知れない。そうして、ガーネットは失われた命を悔いているようだった。


「俺は魔族、魔王軍の者だったからな。人間は皆等しく敵であるし、殺戮の対象で、それ以外の何者でも無い。どちらかが滅びるまでこの戦乱は終わらないと信じていた。だが、そうではないのかも知れない」


 静かに、ガーネットが言った。


「滅ぼし合う以外の選択肢が、もしかすると存在するのかも知れない。……お前達を見ていると、そう思う」


 其処で、ガーネットが僅かに目を見開いた。ダイヤが能面のような無表情で、此方へ向かって歩いて来ていた。
 ガーネットとは異なる圧倒的な治癒力により、ダイヤの傷は一つ残らず癒えている。それでも、その相貌に滲む疲労感は拭えない。ダイヤは青い目を真っ直ぐ向け、言った。


「ガーネット」


 その名を呼び、目の前まで歩み寄るとダイヤは強い光を目に宿して言った。


「俺は、魔王を討つ」
「……正気か?」
「如何だろうな……。もう、解らなくなっちまった」


 肩を竦め、悪戯っぽくダイヤが笑う。


「敵討ちをしようとは思わない。後悔しても、失われたものは戻らないからな。後悔はあっても、俺は今あるものを犠牲に出来る程、割り切って生きることは出来ない」


 オパールのように。
 ダイヤが言った。


「過去が戻らないなら、俺は前だけを見ることにするよ。閉じ籠って苦悶するよりは、全力疾走の末に行き倒れた方が生産的だ」


 強い目だと、ルビィは思った。同時に、優しい目だとも思った。
 過去を捨てるのではない。過去を背負う為に、前を向くのだ。それが出来るから、ダイヤの優しさは弱さではなく、強さでいられるのだろう。
 其処で漸く、ガーネットが強張った表情を崩した。


「お前らしいな。いいさ、行くと良い。その先にどんな答えがあるのか、見届けてやる」
「……一緒に、来てはくれないのか?」


 その問いに込められた縋るような祈りに、気付かないガーネットではないだろう。けれど、ガーネットが言った。


「今の俺では、お前の重荷にしかなれない」
「その重荷こそが、生きる意味ではないのか?」
「或いはそうなのだろう。だが、お前は何かに縛られるのは嫌いだろう?」


 不敵な笑みを浮かべるガーネットに、ダイヤはくすりと笑った。


「そうだな。縛られるのも、閉じ込められるのも嫌いだ」
「そうだろう。百五十年も背負って来たんだ。もういい加減、自由になれ。お前はお前の為に、生きるべきだ」


 其処でダイヤが不思議そうに首を傾げる。


「俺は何時だって、自分の為に生きて来た。お前の隣が、俺の居場所だったんだよ」


 当たり前のことのように、ダイヤは迷いの無い目で言う。ガーネットが言った。


「それだけで十分だ。飛び疲れた時には、此処に帰って来い。帰る場所さえ見失わなければ、それで十分だから」


 渡り鳥だって、飛びっ放しではないだろう。止まり木だって必要だ。
 これまでのダイヤに無かったその帰る場所があることが、どれ程の救いになるのか彼は知らない。ダイヤが笑う。


「帰る場所があるというのは、幸せだな」


 たった一つでも縋るものがあれば、生きて行ける。それは人も魔族も同じだとルビィは思う。
 何かを分け合うように、与え合うように二人が笑う。そういう関係性を羨ましいとルビィは純粋に感じた。
 その時、ダイヤの背後より一つの影が現れた。


「――よう。すっかり、元気になったみたいだな」


 金色の短髪と蜜色の瞳を持つ魔族が、口を尖らせて面白く無さそうに言った。
 トパーズ。二人がその魔族の名を呼ぶ。ガーネットが言った。


「世話になったな、トパーズ」
「ああ。お蔭で、当分は隠居生活だな」
「好きだろう?」


 軽口を叩き合う二人を、ダイヤとルビィは見ているばかりだった。
 トパーズが言った。


「何だ、まだ、俺のこと思い出せないのか」
「……俺の知り合いか?」


 ダイヤの言葉に、トパーズががっくりと肩を落とす。


「まあ、百五十年前だからな」


 ダイヤが魔王城を飛び立った百五十年前。その言葉にダイヤが訝しげに目を細める。ガーネットが言った。


「こいつは空間隔離の魔法を使う魔王四将軍の一人だ。俺の記憶を封じたのも、蘇らせたのもこいつだよ」


 その言葉に、ダイヤの目が細められる。


「お前が?」
「おいおい、感謝なら兎も角、そんな風に睨まれる謂れは無いぜ。俺だってサファイヤ様の命令に従っただけなんだからな」


 ダイヤは鼻を鳴らす。


「命令をしたのが誰であれ、決行したのはお前だろう。その件に関して恨みはしないが、何も感じない訳では無い」
「百五十年前、もしも俺の魔法が存在しなかったなら、ガーネットは地下牢へ半永久的に閉じ込められることになっていたんだぞ?」


 さらりとトパーズが言った。ダイヤは興味も無さそうに目を細める。


「もう終わったことだ」
「その通りだな」


 ガーネットが共感を示す。


「百五十年前、俺は地下牢へ幽閉されることになっていたなら、すぐにでも自害していた。そうすれば、ダイヤの重荷になんてならなかった」
「……だから、もう終わったことだろう。これ以上の議論は不要だ」


 はい、解散。
 軽口を叩くようにダイヤが笑う。こんなにも表情豊かなダイヤを、ルビィは微笑ましく見ていた。百五十年もの孤独の中で張り詰めた糸が、漸く解かれたのだ。浮かれもするだろう。
 ダイヤは頭上を見上げた。下半身を魚類の尾へ変化させたシトリンが、此方を何処か嬉しそうに見下ろしている。


「行くの?」
「ああ。……オパールのことは」


 気まずそうに言葉を選ぶダイヤに、シトリンは楽しげな声を返す。


「オパール様は、常々仰っていたわ。自分が死ぬ時は、きっとダイヤ様の為だと。それから、死は終わりではない。其処から始まる何かが必ずあるって」
「そうか……」
「この場所は、トパーズ様の魔法で、オパール様の亡き後も守られ続けるでしょう」


 シトリンが尾びれを揺らし、目に見えない膜の奥で微笑む。


「伝言よ、ダイヤ様。……生きなさい。そして、貴方の望む答えを見付けなさい。貴方は、私の希望だった」


 そうして、シトリンは美しい微笑みを浮かべ泳ぎ去って行く。尾びれの輝きが鏤められた星のように揺らぎ、消えて行った。

31.生命の樹

31,生命の樹




 噎せ返るような湿気に、ルビィは眉間に皺を寄せる。周囲は湿気と、深い緑に包まれていた。
 水中庭園を後にし、ルビィは再びダイヤと共に旅立った。怪我の癒えぬガーネットを魔王の手の届かない水中庭園に残したダイヤは、柄にもなく後ろ髪引かれるような牛歩で翼を広げようともしなかった。百五十年の孤独の末に取り戻した居場所から、今度は自ら旅立つと決めたのはダイヤだ。それでも、離れてしまえば、再び失われるかも知れないという恐怖は拭えないのだろう。
 振り返りたいだろうダイヤが前だけを見て歩く理由は、自身の下した決断の為と言うだけでは無かった。


「息苦しいなー」


 間延びした暢気な声が、後ろで零される。
 魔王四将軍の一人、トパーズ。金色の短髪と蜜色の瞳をした魔族だ。結果的に魔王軍を裏切る形となった彼が空間隔離という魔法を使って、あの水中庭園を守っているという事実があり、旅を共にすることで何時でも異変に気付くことが出来ることから、ダイヤはトパーズを連れて再び旅立つことを決めたのだ。
 エメロード以来の仲間、それも協力的で戦力になる存在にルビィは頼もしさを感じる。だが、ダイヤはそうではないのだろう。
 百五十年前、ガーネットの記憶を封じたのはトパーズだった。恨みはしないが、何も感じない訳では無いとはダイヤの言葉だ。それはそうだろう。
 トパーズはまるで何も感じていないかのように、鼻唄交じりに歩いている。
 魔王城のある大陸から海を挟んだ小さな孤島を歩いていた。これまで見て来た痩せた大地とは全く異なる緑溢れる島だ。其処此処から生命の気配がし、色取り取りの草花が誘うように咲き乱れている。無数の果実が夢のように樹木にぶら下がっているが、得体の知れないものを口にする程、ルビィは不用心ではない。


「此処は豊かな島なのね」


 ルビィは、周囲を見回しながら言った。果実を啄む小鳥を見れば、それが毒を持っているとは思えない。
 空腹を感じるが、一向に手を伸ばそうとしないダイヤとトパーズに倣って歩いて行く。ダイヤが言った。


「何を持って豊かと称するかはそれぞれの価値観だ」
「だからさぁ」


 トパーズが言った。


「お前、固過ぎるよ。真面目か。そうだねーって言っておけばいいだろ」


 お気楽なトパーズに、ルビィは苦笑する。
 感情を面に出さないダイヤと旅を共にして来たから、魔族とはそういうものだと思っていた。けれど、ダイヤは魔族の中でも真面目で頭の固い優等生なのかも知れない。
 トパーズの言葉に気を悪くしたように、ダイヤが目を細める。


「お前の適当な言葉で、ルビィが何も考えず得体の知れない果実に手を出し、中毒死したら如何責任を取るんだ?」
「そんなの知ったこっちゃねーよ。旅は自己責任だろ」


 まるで、水と油だ。責任感の強い真面目なダイヤに比べ、トパーズはお気楽で無責任なのだ。
 ダイヤのそれは、百五十年の孤独で培って来たものだ。常に追われ、自衛し、安心して眠ることも出来なかったダイヤが、トパーズのような思考を出来る訳が無い。


「なら、お前が食え」
「何でだよ。俺は別に腹減ってねーよ」


 暖簾に腕押し、柳に風。浮雲のようにゆらゆらと姿を変え、飄々とトパーズが笑う。
 エメロードとは異なる賑やかさに、ルビィは笑みを浮かべる。ダイヤに対して、こんな風に軽々しく突っ掛って行く者は今までいなかった。


「大体、此処は何処なんだよ。ダイヤ、ちょっと飛んで見て来いよ」


 こんな風に、ダイヤを顎で使おうとする者も今までいなかった。
 ダイヤは苛立ったように眉を寄せる。


「生命の樹」


 ぽつりと、ダイヤが言った。


「この島には、生命の樹がある」
「何だよ、それ?」
「詳しくは知らないが、生命の樹は生物に繁栄を齎す存在だそうだ」


 ほら、とダイヤが前方を顎でしゃくる。
 突如、視界は拓けた。進路を塞ぐかのように群生していた木々は道を開け、正面には大木を囲むようにして広場がぽっかりと存在している。小鳥の囀りも遠ざかる広場の賑やかさに、ルビィは眩しそうに目を細めた。
 広場は、人間の活気に満ちている――。
 魔族であるトパーズは咄嗟に身を隠し、広場を見て感歎の声を上げる。けれど、ダイヤは何時ものフードを被って正体を隠すことなく、訝しげに広場を睨んでいた。


「如何したの?」
「……いや」


 ルビィへ短く言葉を返し、ダイヤは歩き出した。広場からは香ばしい食物の匂いが溢れている。
 嘗て、ルビィは魔族の集落に入ったことがあった。其処では人間を家畜のように屠殺し、奴隷として売り捌いていた。目を疑う地獄絵図だった。けれど、その広場は人間に溢れている。
 ダイヤはフードを被った。トパーズがそれに倣う。
 此方に気付いた青年が、目を見開き笑みを浮かべる。


「お、旅人か」


 畏怖し虐げるのではなく、まるで歓迎するような物言いで青年が笑う。その声に気付いた周囲の人間が、活気に満ちた顔で集まって行く。
 青年はフードの下をそっと覗き、言った。


「魔族の者か。珍しいなー」


 何でもないことのように青年が言う。周囲の人間も同様だった。その対応に毒気抜かれたように、ダイヤとトパーズはフードを脱いだ。二人の出で立ちに恐怖する者は無く、女は黄色い声を上げる。
 歓迎する集落の人間は明るい。こんな風に、人間が魔族を当たり前に受け入れる様を見るのは初めてだった。


「良い時期に来たなー。今日から丁度、収穫祭が始まっているんだ」
「収穫祭?」


 ルビィの問い掛けに、青年が目を向ける。


「あんたは人間か。そうそう。一年の収穫を、生命の樹に感謝するんだ。酒も食べ物も無料だからな。たっぷりと楽しんで行くと良い」


 そう言って、青年は人込みに混ざって行った。
 どうやら、この活気は祭りによるものらしい。嘗て魔族の集落へ入った時を思い出し、身を固くしていたルビィは肩の力を抜く。トパーズは早速傍の机に並べられた果実を手に取り、口へ運んだ。


「……毒は無さそうだぞ?」


 トパーズの言葉に、ルビィも同じ果実に手を伸ばす。ダイヤは何も言わない。
 口に運べば、瑞々しい果実の触感と甘さが口の中に広がった。体に異変は、無い。


「美味しい……」
「なあ?」


 トパーズと共に咀嚼を続けるが、ダイヤの表情は何かを思案するように曇っている。トパーズは机上の果実を一つ取ってダイヤへ投げた。


「何、小難しい顔してんだ。食える時は食っておけばいいんだよ」


 安楽的だが、正論だ。
 ダイヤは訝しげに眉を寄せつつも、果実に噛み付いた。ダイヤが咀嚼する様をルビィはじっと見詰めていたが、異変は無かった。


「なあ、美味いだろ。いいじゃねーか、それで」


 そう言って、トパーズは空腹を満たすべく人込みの中へ迷いなく突き進んで行った。
 残されたダイヤは手中の果実を見詰めている。


「……毒でも、入ってるの?」
「いや」


 ダイヤが首を振る。こんな姿は初めてだった。
 ルビィに比べ遥かに博識なダイヤも、迷う時があるのかと密かに感心する。ダイヤの視線は果実から上がり、広場中央の大木を見ている。恐らくそれこそが、生命の樹なのだろう。常軌を逸した大木ではあるが、見掛けは普通の樹木だ。
 其処で、ぽつりとダイヤが言った。


「以前来た時は、魔族の集落だった」


 その言葉の意味が解らないまま、問い掛ける間も無くルビィは歩き出したダイヤを追った。
 広場は何処も彼処も祭りに浮かれ活気と賑わいに満ちていた。ダイヤの姿に驚く者はいるが、畏怖し避ける者はいない。既に人込みに溶けてしまったトパーズも同様なのだろう。
 此処には争いが無い。ダイヤは、何を持って豊かと称するかはそれぞれの価値観だと言った。けれど、飢餓に餓えることなく、寒さに凍えることなく、差別に怯えることのないこの場所は豊かで恵まれているとルビィは思う。
 広場を突き進み、ダイヤは大木の前に立った。見上げても天辺の見えない大木に、自然の強大さを思い知る。自然の前では、人間と魔族の諍いも実にちっぽけなものだ。
 ダイヤは幹に手を添え、問い掛ける。


「何が起こっているんだ……?」


 大木は何も答えはしない。けれど、その青々とした葉だけが風に揺れさざめいていた。
 祭りは夜も変わらず続いていた。周囲が闇に包まれると、幾つかの巨大な火が焚かれ、人々はそれを中心に輪を作って踊り始める。溢れる歌声と楽しげな笑い声に、ルビィは膨れた腹を撫でながら口元を綻ばせ見ていた。
 相変わらず小難しい顔をしているダイヤに、一つの果実が投げ寄越される。顔を上げた先には、それまで姿を見せなかったトパーズが立っていた。両腕一杯に抱えた果実や肉、酒の類に微笑ましく思う。此処にトパーズがいなかったら、ルビィはとても祭りを楽しく見物等出来なかっただろう。
 すっかり祭りを満喫しているトパーズに、ダイヤは苦言を呈す。


「気を抜き過ぎだ。何時何処で何が起こるか解らないんだぞ」
「お前は気を張り過ぎだよ。ちょっとくらい楽しんだって罰は当たらない。ガーネットは解放されて、お前は魔王軍から逃げるばかりでなく迎え撃てるようになったんだから」


 その通りだった。もう逃げるばかりではなく、襲い来る敵を容赦無く斃すことが出来る。
 けれど、ダイヤの表情は晴れない。


「何をそんなに小難しい顔してんだか」


 トパーズは溜息を零した。二人の性格は余りに違い過ぎる。
 ダイヤは言った。


「なあ、この収穫が何処から得られるか、お前は知っているか?」
「そんなの、周辺の森だろ。これだけ生い茂っているんだから」
「じゃあ、肉は? この集落には家畜がいないのに」


 その言葉に、ルビィはトパーズと共に周囲を見回した。トパーズは答えた。


「森にいる獣を狩ったんだろ」
「この集落には武器の類が存在しない。あっても、食物を切り分ける小さなナイフ程度だ」


 ダイヤに言われて初めて、その違和感に気付く。得体の知れない気味の悪さに、ルビィは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 トパーズは僅かに眉を寄せるが、気にした風も無く言った。


「そんなの、如何だっていいだろ。此処には美味い食べ物があって、腹いっぱい食ったところで誰も咎めない。餓えに苦しむ集落があれば、その逆だってあるさ」


 そんなものなのか、とルビィは肩の力を抜く。けれど、ダイヤは自衛するように腕を組んでいた。

32,Adver sary.

32,Adver sary.




「あいつ、堅物だよなぁ」


 生命の樹が気になると、ダイヤがその場を離れたのは数刻前だった。
 残されたルビィに、トパーズが言った。けれど、それは不満を口にするようではなく、まるで面白くて堪らないと言っているようだった。
 ルビィに返す言葉は無かった。山奥の寒村で生まれ育ったルビィの周囲は保守的な人間ばかりで、寧ろ、ダイヤが革新派に感じられるくらいだったからだ。けれど、トパーズのような魔族から見ればダイヤも十分な堅物なのだろう。


「あんなに頭が固くて、よく此処まで生きて来れたよな」
「ダイヤは頭が固いんじゃなくて、警戒心が強いんじゃない?」


 ルビィが言えば、トパーズは目を丸くした。そして、嬉しそうに表情を崩す。


「そりゃ、そうか。百五十年だもんな。そう簡単に警戒なんて解けないよな」


 トパーズは柔軟だ。長命な魔族から見れば赤子にも等しいルビィの言葉に耳を傾け、受け入れようとする。
 嬉しそうに笑うトパーズに、ルビィは問い掛けた。


「貴方は、何者なの? 如何して魔王軍を裏切ってまで、ダイヤの味方をするの?」


 トパーズは瞠目し、すぐさま笑みを浮かべた。口角を釣り上げた何処か不敵な笑みだった。


「楽しそうだったから」
「それだけ?」
「うん、そう」


 嘘だ。ルビィは思った。


「貴方はガーネットと親しげだった。でも、ダイヤは貴方の事を覚えていないようだった」
「俺とあいつが会ったのは、百五十年前だぞ。そりゃ、忘れもするさ」
「ダイヤは百五十年前のこともしっかり覚えていたわ」
「ああ、水中庭園の意思共有の魔法か……」
「其処に、貴方の記憶は無かった」


 この集落が気味悪いと言うのなら、トパーズも同様だった。
 ルビィは更に言葉を重ねる。


「貴方は空間隔離の魔法で、ガーネットの記憶を封じたのよね。それと同様のことを、ダイヤにも行っているんじゃない?」


 今も。
 迷いなくびしりと言ったルビィに、トパーズが口角を釣り上げる。


「何故? 俺が如何してそんな真似をする必要があるんだ」
「理由は解らない。あくまで私の想像だけど、ダイヤの中に、貴方にとって不都合な記憶があるんじゃない? それを思い出されることを懸念して、傍で見張っている……」


 勢いのままに放った言葉に、ルビィは思わず口を噤んだ。
 これが事実でもそうでなくても、口にするべきでは無かった。此処にいるのは敵か味方かも解らない魔族なのだ。
 けれど、トパーズは笑みを崩さない。


「それも面白いな。だが、ガーネットの俺に対する態度を如何思う? あのガーネットが、正体不明で得体の知れない俺みたいな魔族を、ダイヤの旅へ同行することを許すかな」


 確かに、ガーネットがトパーズへ向けるそれは信頼だった。トパーズの魔法は空間隔離であって、記憶操作では無い。
 黙り込んだルビィの頭を優しく撫で、トパーズが言った。


「ルビィは、ダイヤが大切なんだな。これ以上傷付いて欲しくない。だから、俺へ牽制しているんだろう?」


 ルビィは何も言わない。


「いいさ。好きなだけ俺を疑ってくれて構わない。その方が、俺も安心してダイヤの傍にいられる」


 何かを想起させるトパーズの柔らかい笑みに、ルビィは目を疑う。
 少なくとも、敵だとは思えない。けれど、味方だとも断言出来なかった。百五十年もの間、ガーネットの記憶を封じ、孤独に苛まれるダイヤを放って置いたのだ。助けようとすれば出来た筈なのに、この掌の返しようは不気味としか言えない。
 ルビィが黙っていると、何時の間に戻って来たのかダイヤが目の前に立っていた。


「楽しそうな話をしているな。混ぜてくれよ」


 その無表情からは、感情の機微など読み取れない。苛立ちも不審も困惑も無い。何時もと同じだ。在るがままを受け入れる覚悟だけが浮かんでいる。
 トパーズは意味深な笑みを浮かべ、何も答えない。ダイヤが言った。


「過去のことはもういい。今更何を言っても変わらないからな」


 失われた命も、時間も、全ては過去だった。ダイヤは続けた。


「過去を疑うなど、時間の無駄だ。疑うべきは思考回路だ」
「どういうこと?」
「善悪が立場で変わるように、価値観がそれぞれ異なるように、敵か味方かも考え方一つで違うってことだ」


 何かを察しているようなダイヤの言葉に、ルビィは問いを重ねようとした。――その時だった。
 大地を突き上げるような轟音。大きな揺れにルビィは座っていたにも関わらず倒れ込んだ。隣のトパーズも同様に、巨大なその揺れに身を伏せる。ダイヤだけが瞬時に翼を広げ、大地より浮かび上がった。
 大きな揺れが一度起こったかと思うとそれはすぐに止んだ。数秒――。何が起こったのかと祭りに賑わっていた人々は恐怖し慌てふためく。その数秒の大地の沈黙の後、地盤は悲鳴を上げながら罅割れて行く。
 瞬時に広がって行く亀裂はルビィの目の前まで迫った。ダイヤはそれが届く寸前にルビィの腕を掴み引っ張り上げる。
 バキバキと巨大な生物の骨を砕くような耳を塞ぎたくなる音。トパーズは自分の周囲に光る壁を形成した。空間隔離の魔法だろう。けれど、その亀裂はまるで島全体へ影響を齎すようにトパーズの足元を容赦無く崩して行く。ダイヤは空いた手にトパーズの腕を掴んだ。
 祭りは、大地の悲鳴と共に亀裂に呑み込まれて行く。底の見えない暗闇に家屋が、篝火が、人が吸い込まれて行く――。


「な、何――!?」


 地震と呼ぶには余りに強大だった。
 ダイヤの目は、呑み込まれる集落ではなく、生命の樹を見据えている。見れば、大地の亀裂は生命の樹の根本より発されているようだった。強大な揺れも地盤沈下も何でもないように、生命の樹は直立し動かない。地盤が崩れると、その闇の中に張り巡らされた太い根が浮かんで見えた。
 亀裂は広場を越え、森をも呑み込んで行く。人や木々の悲鳴が響き渡る。巨大な根に運良く飛び付いたあの青年が、必死に助けを求めて手を伸ばしている。


「ダイヤ!」


 その青年の姿も、ダイヤには見えているだろう。けれど、助ける義理も余裕もある筈は無かった。
 巨大な根は軟体動物の腕のように青年を振り払い、いとも容易く闇の中へ叩き落して行く。周囲は闇に満ち、生命の樹の根本だけが切り取られたように大地が存在している。
 島そのものが闇に沈んでいる。大地の沈んだ其処に海水が勢いよく流れ込んで行く。
 自然災害。人間や魔族の力等及ばぬ恐ろしい力は、この世の終わりのようだった。流石のトパーズも笑みを浮かべる余裕は無く、顔を蒼褪めさせ底の見えない暗闇を見下ろしている。
 周囲の轟音はやがて静まり、ダイヤの羽ばたきだけが響いていた。


「……何なんだ、これ」


 トパーズが言った。
 其処にはまるで初めから島など存在しなかったかのようだった。夢でも見ていたのか。
 ルビィが縋るようにダイヤの腕を掴んでいると、突然、生命の樹は静かに光を放ち始めた。それは日溜りのような温かさで点滅し、静かに根を動かし失われた大地を拾い上げて行く。
 粉々に砕かれた大地が、ゆっくりと再生して行く。
 信じられない光景にルビィが黙っていると、ダイヤが言った。


「――魔族だ」
「はあ?」


 トパーズが眉を寄せる。けれど、ダイヤの視線は生命の樹から動かない。
 再生して行く大地。呑み込まれた筈の木々が地盤を突き破って生えて行く。丸裸だった大地は静かに緑を取り戻していた。ダイヤは大地に二人を下ろすと、直立不動の生命の木を指差した。


「この島全体が、生命の樹という魔族なんだ」


 生命の樹は、何事も無かったように静かに揺れている。
 大地に脚を下ろしたトパーズが、崩れるように座り込む。


「成程ね……。食虫植物みたいなもんか」


 数十年餓えることの無い収穫を与える代わりに、築き上げた集落そのものを喰らう――。
 その何と強大なことか。たった一度の捕食の為に、この生命の樹は数十年に渡って生物を繁栄させ続けている。
 その時だった。消えた筈の亀裂が、びしりと地面を走った。それは人間であるただ一人を狙い定めたように、ルビィの足元だけを陥落させた。足場を失ったルビィが重力に従って落下する。
 あ、と声を上げる間もない。
 けれど、その手をダイヤがしかと掴んでいる。


「集落そのものを呑み込んで置いて、まだ足りないのか」


 ルビィを引き上げようと、ダイヤが力を込める。けれど、地中から伸びた根がルビィの足へ触手のように巻き付いて行く。
 ルビィが必死にもう一方の足で根を蹴り付けるが、それはびくともしない。トパーズが仄かに光る掌を向ける。其処から放たれた光は触手のような根を切断した。
 だが、切り離された端から新たな根がルビィを捕食しようと体中に巻き付いて行く。


「切りが無ェな」


 トパーズが舌打ちする。その触手が、ルビィだけでなくダイヤをも呑み込もうと伸ばされて行く。
 それでもダイヤは動じない。その手を離そうとはしなかった。横目に気付いたトパーズがダイヤへ伸びる根を吹き飛ばした。そうしている間にも根はルビィを包み、地中へ引き摺り込もうとしている。


「――ダイヤ、手を離せ!」


 トパーズが叫んだ。蠢く根に巻き付かれながら、ルビィにもその声は届いていた。そして、それが最良の判断であることも理解している。
 島全体にも及ぶ巨大な魔族。到底太刀打ち出来ないその力に、このままではルビィだけでなくダイヤすらも呑み込まれるだろう。だが、ダイヤがその言葉に従う筈無いことも、解っていた。
 ダイヤが、言った。


「嫌だ」
「ダイヤ!」


 その言葉を予期していたルビィは、そっと掌の力を抜いた。死にたいとは思わない。けれど、ダイヤを道連れにしたくはない。
 諦めるように離されたその掌を、より強い力でダイヤが握り締めた。


「この手は、絶対に離さない。勝手に諦めてんじゃねーよ、クソガキ!」


 ダイヤの怒号が響いた。殆ど反射的に、ルビィはダイヤの掌を掴み返す。
 幾重にも巻き付かれたルビィの姿は既に見えず、根はまるで球体のように呑み込んで行く。ルビィの手を掴むダイヤの腕を侵食しようとする根を、トパーズが切り離し続けている。
 状況は何も変わらない。それでも、ダイヤは諦めないのだろう。――なら、如何して自分が此処で諦める必要があるのだろうか。


「ダイヤ!」


 くぐもった声が、確かにダイヤに届いた。根に巻き付かれたルビィはその圧力で呼吸すら儘ならない。
 苦しい。苦しい。苦しい。
 それでも、この手は離されない。死ぬなと、生きろと訴え掛けるようだった。
 ダイヤは目を伏せ、何かを思案するように黙った。そして、ぱっと上げられたその目には強い覚悟が映っていた。


「……トパーズ、代わってくれ」
「はあ?」
「このままじゃ共倒れだ。大本を叩くしかない」
「大本って、生命の樹か――?」


 見上げても天辺が見えない程の大木だ。武器等、腰に差した一本の剣のみ。
 トパーズは、自分が行くべきだと訴えようとした。空間隔離の魔法を使えばその幹を切断することが出来るかも知れない。だが、同時に気付く。この島全体が生命の樹という魔族である以上、翼を持たないトパーズは辿り付くことが出来ないのだ。
 二人が此処を離れてしまえば、ルビィは地中に引き摺り込まれる。選択肢は、無かった。
 ダイヤが翼を広げた。月光を反射する白亜の翼は、それ自体が光源のように輝いて見えた。


「選択肢がもう一つあるぞ」


 トパーズは、言った。


「この人間を見捨てて、脱出する」
「――出来ないよ、お前には」


 確信を持って、ダイヤが微笑んだ。トパーズが眉を寄せる。


「何故、そう思う?」
「お前は俺の敵になりたい訳ではないだろう?」


 反論を認めないように、悟った声でダイヤが言った。
 トパーズは忌々しそうに舌打ちをして、ダイヤの腕を侵食しようとする根を切り放った。現れたルビィの小さな掌を、トパーズが代わって強く握った。


「時間は無いぞ。俺にも優先順位がある。危ないと思ったら、俺はこの手を離す」
「時間は掛からない。――頼んだぞ、トパーズ」


 ダイヤはルビィの手をそっと放した。不安に震えた手を、トパーズが代わって強く握り締めている。
 最早、ルビィには声等届かない。ダイヤは大きく羽ばたいた。周囲は水を打ったように静まり返り、闇に沈んでいる。ダイヤは弾丸のように飛び立った。

33,Tide.

33,Tide.



 ダイヤが生命の樹と呼ばれるこの場所を訪れたのは、凡そ百年前だった。その頃は、生命の樹の周囲は魔族の集落が広がっていた。
 人間を餌として、奴隷として扱っていた訳ではなかった。当時は、其処にある食物が何処から収穫されていたのか等考えたこともなかった。目の前にある食物で腹を満たし、すぐに飛び去った。それが百年の間に滅び去り、人間の集落へと変化する等、誰が想像出来ただろう。
 生命の樹は百年前と変わらず、天辺が見えない程に巨大だった。それは魔王城の鋼鉄な門扉にも似ていた。
 大きく羽ばたき、生い茂る巨大な葉を見詰める。一枚一枚は掌程の大きさなのに、数え切れない程に存在している。夥しい葉が生物のように風に揺らいでいる。ダイヤは腰に差した剣を引き抜いた。月光に照らされた生命の樹は、不気味に思えた。
 ダイヤは嘗て、砂嵐という自然災害と対峙した。魔族の思惑も人の事情も関係無しに呑み込むそれは恐ろしい力だった。もしも神というものが存在するのならば、それこそが神の力なのだろう。時代の流れも同様だ。逆らう者は呑み込まれ、消されて行く。
 だが、ダイヤに怯えは無かった。引き下がるという選択肢が無い以上、立ち向かうしか無い。


「なあ、生命の樹。お前に意思はあるのか?」


 答えを期待していなかったダイヤだが、何処からか声が聞こえた。


――私に話し掛けて来たのは、お前が初めてだ


 異口同音に響くその声は、若い女のようで、無邪気な子どものようで、老人の嗄れ声のようだった。
 ダイヤは羽ばたき、一定の距離を保ちながら言った。


「そりゃ、そうだろう。誰も生命の樹から返事があるとは思わない」


 漣のように、葉が揺れる。ダイヤは目を細める。


「この島全体がお前の身体であり、捕食場だったんだな。見事だ」


 善悪を問うことはない。生命の樹は、自身の為に他の生物を捕食しているだけだ。それはダイヤも人間も同じだった。
 百年前と同じように通り過ぎるだけならば、干渉等しなかった。ダイヤは剣を構える。


「お前は一体どれ程の長い時を生きて来たんだ? 人間や魔族の繁栄をどんな目で見て来た?」


 茂みが揺れる。笑っているようだと、ダイヤは思った。


――お前のような若造には見当も付かないだろうな。人間や魔族の繁栄等、興味も無い。ただ、熟した頃に捕食するだけだ


 それが、この生命の樹の生命活動なのだろう。咎める余地も無い。けれど、ダイヤは引き下がる訳にはいかなかった。


「価値観はそれぞれだろうが、その遣り方は素晴らしいと思う。感動すら覚えるよ」


 率直な賞賛を送り、ダイヤは続ける。


「頼みがある。……今、お前が地中に引き摺り込もうとしている人間を、解放してはくれないか? 大切な仲間なんだ」


 きっと、今もルビィは闇に落ちようとしていて、トパーズは必死に食い止めているのだろう。
 焦る気持ちを抑えながら、ダイヤは静かに問い掛ける。生命の樹がさざめいた。


――笑止。人間一人と言えど、例外は無い。貴様等も同じく私の栄養になるがいい


 交渉は、決裂した。解り切っていたことだ。
 ダイヤは目を伏せる。生命の樹は変わることなく、異口同音に叫び続けた。


――熟し過ぎた実は腐り落ちるのみだ。貴様も私の栄養にしてやろう!


 その瞬間、風に揺れていた無数の枝が明確な意思を持ってダイヤへと突き進んだ。槍のように鋭い枝先は、ダイヤを貫こうと蠢く。だが、ゆるりと顔を上げたダイヤは身を翻し、白亜の翼で羽ばたきながらその切っ先は一刀両断に斬り落とされた。
 その程度が痛手になるとは思えない。生命の樹は攻撃の手を休めることなく、ダイヤを貫く為に動き続ける。躱しながらダイヤは、巨大な幹へ突進して行く。急所が何処にあるとも思えない。けれど、枝葉を切り落とすだけでは何の意味も無い。
 幹へ鋭い剣戟を浴びせたと同時に、ダイヤは羽ばたき距離を置く。幹に残った傷は周辺の樹皮に呑み込まれて行った。


「……お前、勘違いをしているよ」


 ばさりと羽ばたけば、空気が僅かに揺れ動く。ダイヤは言った。


「植物は、次の芽を出す為に実を落とすんだ」


 この島で繁栄した生き物は、全て生命の樹の掌の上で踊らされていたに過ぎない。けれど、彼等にも生活があり、幸せがあった。それが無価値だったなんて言われたくない。
 それは嘗てのダイヤとガーネットだった。サファイヤの掌の上で踊らされていた百五十年に、意味が無かっただなんて言われたくはない。少なくとも、自分達にとっては価値があったのだ。苦しくて悲しくて、辛くて逃げ出したかったけれど、向かい続けた結果が今ならば、其処に意味が無いなんて誰が言えるだろう。


「腐り落ちる果実を、お前が搾取し養分へ替える。そして、何も無くなった土地へ噂を聞き付けた生物が集まり、繁栄する。……見事だ。だが、其処に繁栄した生物は、お前の栄養になる為に生きている訳では無いだろう」


 ダイヤは言った。


「お前の遣り方は素晴らしい。否定するつもりは無いが、俺にも譲れないものがある。邪魔をするなら、俺はお前も斃して行く」


 ざわざわと、枝葉が揺れ動く。不気味な静けさは、嵐の前触れだとダイヤも気付いていた。
 声がした。


――ならば、抗って見せるといい!


 その瞬間。それまでの攻撃が遊びであったかのように、目にも留まらぬ鋭い斬撃がダイヤを襲った。
 瞬きすら許されないような鋭い攻撃を、ダイヤは紙一重で躱して行く。近付くことすら出来ないダイヤに勝算は無かった。けれど、手を拱いていても状況は何も変わらない。近付いたところで、何が変わる――?
 防戦一方のダイヤを嘲笑うように葉が揺れる。人間も魔族も関係無く呑み込む自然災害にも等しい存在だ。
 勝てるか如何かを自問自答する間も無い。打ち勝つ以外の選択肢は無い。此処で負けることは、死ぬことだ。世界は常に厳しく冷たい。
 その時だった。ぽつりと、ダイヤの頬へ滴が落ちた。頭上は鉛色の雨雲が埋め尽くしている。
 植物にとっては恵みの雨だ。防戦一方で、天は生命の樹に味方している。万事休すか、とダイヤが目を伏せたその瞬間、稲妻のように脳裏に一つの考えが過った。
 時間は無い。これは賭けだった。
 ダイヤは勢い良く羽ばたき、生命の樹から大きく距離を取った。それを逃亡と捉えた樹が嗤う。ダイヤは頭上の雨雲をじっと見詰めた。
 出来るか如何か、考える余裕は無い。ダイヤは大きく羽ばたいた。両翼から生まれた強い風は気流となり、上空へと巻き起こる。竜巻ではない作為的な上昇気流だった。地上より巻き取られた気流は雨雲へ突き刺さる。
 雨雲はむくむくと成長し、巨大な塔のように積み重なって行く。
 雨雲は積雲となり、上昇気流によって積乱雲へと変わる。それこそが、ダイヤの狙いだった。


「剣戟は、お前に届かないだろう」


 ダイヤの頬を、巨大な雨粒が打ち付ける。周囲は夜の闇に紛れ不気味に湿気を帯びていた。
 休む間も無く羽ばたき続けるダイヤの意図に気付かぬまま、生命の樹は槍のように枝を走らせた。ダイヤは空中を転がるように躱し、尚も空へ気流を送り続ける。


「目には目を、歯には歯を、……自然災害には自然災害を」


 積乱雲は、周囲へ低く唸り始めた。
 ピシャン。耳を塞ぎたくなるような轟音が、ダイヤの耳に届いた。強烈な閃光と共にそれは落下する。稲妻だ。網膜を焼く強い光に、ダイヤは思わず目を背ける。
 其処でダイヤの意図を読み取った生命の樹が声を荒げた。


――落雷如きで、私が焼かれると思うのか!


 ダイヤは笑った。


「さあな。だが、これ以外、俺には攻撃手段が無い」


 ごろごろと唸る積乱雲。雷は高所へと落ちる。周囲に生命の樹以外は存在しない。
 確率は限りなく高かった。ただし、確証は何も無い。
 唸り続ける雷雲は、周囲へと稲妻を走らせる。生命の樹は一刻も早くダイヤを殺そうと枝を突き伸ばして行く。積乱雲が発生した今、上昇気流を生み出す必要の無いダイヤは生命の樹の攻撃を躱すだけだ。
 時間が無い。ダイヤが駆り立てられたその瞬間だった。
 視界を白く染める程の閃光が、天上より走り抜けた。それは神の裁きであるように、生命の樹へ轟音と共に突き刺さった。
 悲鳴を上げる間も無い。生命の樹は雷に打たれ、その幹を貫かれた。枝葉は濡れていたにも関わらず灯火のように発火した。


――馬鹿な、何故、燃える


 生樹は燃えない。当たり前のことだった。
 だが、徐々に炎に呑み込まれるその様が全ての答えだった。


「永く、生き過ぎたのさ」


 生命の樹は強大な力を持っている。けれど、無限ではないだろう。魔族である以上、寿命も存在する。
 幹が幾ら潤おうとも、枝葉の先にまで養分は回らない。


「栄枯盛衰というだろう。お前も、終わる時が来たのさ――」


 炎に呑み込まれ、生命の樹はばきばきと音を立てて燃えて行く。それはまるで悲鳴のようで、呻き声のようだった。
 枝葉が燃え落ちて行く。周囲は昼間のように照らされていた。ダイヤは、生命の樹が焼け落ちて行く様をじっと見詰めていた。
 やがて、燃え尽きた生命の樹は豪雨に打たれ消火されて行く。雨と雷を落とし切った雲は消え、夜空は星空へと変わった。ダイヤは炭と化した生命の樹を一瞥し、窮地の二人の元へ舞い戻った。
 ルビィは、生命の樹が焼け落ちたと同時に巻き付く根より解き放たれた。トパーズは地上の亀裂よりルビィを引き上げ、ぜいぜいと呼吸を繰り返す。其処へ、白亜の羽根を舞い落しながらダイヤが降り立った。


「……終わったのか」
「ああ」


 トパーズの問いに、ダイヤは静かに答えた。
 長い間、強靭な根に巻き付かれたルビィは気を失い、だらりと四肢を投げ出していた。ダイヤはほっと息を漏らす。トパーズは、炭と化した生命の樹を見遣り、言った。


「意図的に雷雲を発生させて、焼いたのか」
「ああ。それ以外に、斃す術は無かった」


 トパーズは苦笑した。ダイヤの中に、逃亡の選択肢は始めから存在していなかった。
 愚かだと思う。馬鹿らしいと思う。けれど、美しいと思う。トパーズは苦笑交じりに言った。


「これが日常じゃ、命が幾らあっても足りないな。毎日命懸けか?」
「当たり前だろう。それが、生きると言うことだ」


 きっぱりと言うダイヤを瞠目しながらトパーズが見遣る。ダイヤが訝しげに言った。


「永く生きる間に、生きるという本当の姿を忘れてしまったか?」


 揶揄するように言うダイヤに、トパーズは口を尖らせる。
 ダイヤはルビィの隣で、倒れ込むように四肢を投げ出した。


「生命の樹も、呆気無いものだな。死ねば皆等しく土に還る」
「後悔しているのか?」
「後悔も何も、俺にはこれ以外の選択肢は無かった」


 それでも、何かを悔いるようにダイヤが言った。
 何と言葉を掛けるべきかとトパーズが逡巡する。その時、トパーズの目は奪われた。


「……おい、見ろよ、ダイヤ」


 トパーズの視線の先をダイヤは追う。炭と化した大木に埋もれるように、活力に満ちた苗が芽吹いている――。


「そうか……」


 力無く、ダイヤが言った。


「生命の樹か。偉大だな。――勝てそうも、無い」


 腕で双眸を覆いながら、ごちるようにダイヤが呟いた。トパーズはそれを微笑みながら見ていた。

34,Jade.

34,Jade.




 しとしとと、啜り泣くような雨が降っている。
 水面は静かに波立って、曇天の下、まるで嵐の前の静けさを思わせる。トパーズの空間隔離の魔法は、空中に光の通路を作り出した。雨も波も干渉出来ないその回廊は灯台の放つ光のように何処までも伸びている。ダイヤのように翼で宙に浮くのではなく、魔法によって空中を歩行するというのは不思議な感覚だった。
 何時でも先頭を歩いて来たダイヤは、その方法が気に食わないかのように仏頂面で最後尾をだらだらと付いて行く。誰かに行先を決められていることが気に食わないのだろうと見当を付け、ルビィは微笑ましく思いながらトパーズと先を行く。
 自分達が何処へ向かっているのかは知らない。トパーズだって目的は無く、ただ海を越える為の最短距離を造り上げているだけだ。
 そもそも、この旅に目的は無かった。嘗てダイヤの続けた百五十年の孤独な旅は終わったのだ。彼を縛るものはもう何も無い。なら、自分達は今何をするべきなのだろうか。水中庭園に留まれば、サファイヤの侵攻は避けられないと旅立つことを決めたのはダイヤだ。それは一度は失った唯一の居場所であるガーネットを守る為だった。渡り鳥のように飛び立ち、唯一の居場所へ定期的に帰還する。これは謂わば逃亡だ。けれど、これまでのように逃げ続けるだけでなく、ダイヤは迎え撃つことも出来るようになった筈だ。
 今、ダイヤは何を思うのだろう。後尾のダイヤへ視線を投げようとしたルビィは、トパーズの声に動きを止めた。


「これから、ある町へ行く」


 これまでの飄々とした態度を消し去り、緊張した固い声でトパーズが言う。


「其処で、ダイヤに来て欲しい処がある」


 ちらりと向けた視線の先、ダイヤは興味も無さそうに冷ややかに見遣った。


「どうせ、目的地も無い」
「そう言ってくれると思っていた」


 その返答に満足したように、トパーズの歩調は解り易く早くなった。二人を置いて行きそうになる程の踊るような足取りに毒気を抜かれ、ルビィは苦笑交じりに立ち止まる。追い付いたダイヤに、ルビィは目を向けた。


「トパーズ、嬉しそうだね」
「そりゃそうさ。あいつの目的の第一歩だ」


 ダイヤの言葉に、ルビィは違和感を覚えた。


「トパーズの目的って?」


 問い掛けても、ダイヤは答えなかった。
 やがて光の回廊は海を越え終着点に辿り付いた。到着した其処は青々とした美しい草原だった。晴天ならばどんな景色だったのだろうと想像を膨らませるルビィに構う事無く、トパーズもダイヤも淡々と歩き出す。
 草生す平原、咲き誇る花々。曇天の下ではどんな景色も曇って見える。落胆しつつ後を追うルビィを、先行するダイヤが急かしていた。
 草原を進んだ先、巨大な煉瓦造りの壁に囲まれた町が現れた。これがトパーズの目的地だろうかとルビィが見遣れば、彼は静かに首を振った。


「ここはフェナジンと呼ばれる人間の町だ。貿易が盛んで、魔族への偏見も無く共存している。そういう意味では、ルビィにとっての理想郷に最も近い町かも知れないな」


 嫌味無く言ったトパーズは、此処で休憩を挟むつもりらしく真っ直ぐに向かって行った。
 人間と魔族の共存――。ルビィの願いを、ダイヤは理想論だと切り捨てた。けれど、有り得ない未来ではないと否定はしなかった。
 煉瓦のような強固な外壁は侵入者を阻もうと立ち塞がっている。この町が恐れている脅威とは何だろうか。ルビィは天高い外壁を見上げる。


「何の為の外壁なのかな。魔族と共存出来るなら、この町の人間の恐れるものは一体何?」


 ダイヤが言った。


「思想、だろうな」


 意味が解らず、ルビィは首を傾げる。けれど、そんなルビィを気にもせず二人は巨大な門扉へ向かう。
 鋼鉄の扉は固く閉ざさているが、それは地響きと共に開かれた。
 その先にあったのは、アリザリンの都を思わせる活気に満ちた街並みだった。犇めき合う人々の表情は明るい。そして、その人込みの中には異形の種族、魔族が平然と紛れていた。頭一つ分程も突出した異形の影は、街並みに溶け切っている。トパーズの言うルビィの理想郷。そうして視線を巡らせると、ダイヤが言った。


「何だ、これは」


 訝しげなダイヤは、すぐさま口元に布を当てた。意味が解らず目を向けるルビィを庇うように前へ進み出ると、ダイヤが言った。


「何が理想郷だ。地獄絵図じゃないか」


 ダイヤの言葉が理解出来ない。けれど、それに同調するようにトパーズが言う。


「以前来た時は、こんな状態ではなかったんだがな」


 悔しげに言うトパーズと、不機嫌そうに眉間に皺を寄せるダイヤ。
 活気に満ちた街並みを睨むその視線の鋭さにルビィは困惑する。人と魔族が共に生活する理想郷だ。トパーズの言う理想郷に嘘偽りは無い。そう思うのに、魔族のダイヤとトパーズには違うものが見えているようだった。
 訝しげなルビィに気付いたダイヤが言った。


「お前、何が見えている?」
「……何って、」
「お前の目に何が見える?」


 ルビィは視線を巡らせ、静かに答えた。


「賑わう街並みと、自然に溶け込む人間と魔族……」


 その言葉に、ダイヤは溜息交じりに言った。


「幻想だ」
「どういうこと?」
「トパーズ、これも魔法か?」


 トパーズが答える。


「いや。その気配は無い」
「なら、この状況は何だと言うんだ」


 厳しい口調で追求ダイヤに、トパーズは困ったように眉を寄せた。
 ルビィの耳には変わらぬ都の喧騒が届いている。けれど、魔族である彼等には違うものが聞こえているようだった。訝しげにルビィが見遣れば、ダイヤは口元を結び、静かに答えた。


「この町は廃墟だ。少なくとも、それが本質だ」
「そうは見えないよ。だって、其処此処に人と魔族が……」


 ち、と舌打ち。ダイヤが言った。


「信じろとは言わないが、目に見えるものが全てではないぞ。強要はしないが、せめて口元は覆っておくといい」


 ダイヤらしい物言いに、ルビィは素直に従った。
 歩き出す二人をルビィは黙って追い掛ける。擦れ違う人を避けるルビィとは違い、二人はやはり其処には何も存在しないかのように一直線に進んで行く。ルビィは自分の視界を疑った。ダイヤの言葉の通り、この目に見えているものが幻想ならば、此処には何があるのだろうか。
 進み行く二人はやがて、一つの住居の前で足を止める。有り触れた煉瓦造りの建物の一つ、玄関には瑞々しい植物が植木鉢に収まっている。それすらも幻想なのだろうか。ルビィはそっと手を伸ばすが、確かに其処には植物が存在している。少なくとも、ルビィはそう感じた。
 ノックすらせず、トパーズは扉を押し開けた。簡素な室内に気配は無い。けれど、隅々まで掃除の行き届いたその部屋には確かに生活の匂いがする。竈は先程まで火が点いていたように温かく、光を取り入れた大きな窓は賑やかな街路を映し出している。これ等全てが幻想等と、ルビィには如何しても思えない。
 トパーズが言った。


「ジェイド、いないのか?」


 呼び掛けに応える者はいない。
 周囲をぐるりと見回したダイヤが、ある一点を見詰めて言った。


「地下だ」


 その視線の先は部屋の隅、何の変哲も無い板張りの床だった。
 けれど、合点行ったようにトパーズが歩き出す。視線の先に辿り付くと、突然、トパーズの身体は床下に沈んだ。
 目を疑うルビィの目には、下半身が床下に消えたトパーズがいる。けれど、ダイヤは何の疑問も無いように後を追う。ルビィだけが動けずに立ち止まったままだった。
 ルビィに気付いたダイヤが眉を寄せる。


「何、突っ立ってんだ。其処にいたいなら、好きにしろ」
「何を言っているの? 其処には何も無いのに――」


 その言葉に、ダイヤは何か気付いたように顔を上げた。視線は天上を見遣り、ルビィに向けられる。


「視覚に騙されているんだよ。仕方無ぇな」


 ほら、とダイヤがルビィの手を取る。人間と変わらぬ血の通った温かい掌だった。
 導くように手を引くダイヤは、迷いなくトパーズの元へ向かう。トパーズの姿は既に床下に消えていた。やがて、後を追うダイヤも床下へ沈んで行く。底無し沼を連想し、ルビィは手を引かれるまま身を固くした。けれど、踏み出した足は確かに床を叩いた。それは、階段だった。
 視覚は相変わらず板張りの床を映している。けれど、触覚は固く冷たい階段を捉えていた。ちぐはぐな自分の感覚にルビィは混乱するが、ダイヤはぐいぐいと手を引いて歩いて行く。
 床を越えた先には薄暗い階段があった。僅かな蝋燭の灯りが照らし出す空間は、嘗てダイヤの夢で見た魔王城の地下牢のようだった。
 地上とは異なる冷気に肌が泡立つ。ルビィの手を引くダイヤの掌が微かに強張っていた。翼を持つダイヤにとって地下は相性が悪い上に、過去の惨劇を想起させる場所に他ならなかった。
 トパーズの先導する階段を下った先には小部屋のような空間があった。草臥れた小さなベッドと、古びた木製のサイドテーブル。石造りの壁に囲まれた空間にあるのはそれだけだった。湿っぽいベッドは、僅かに盛り上がっている。


「……ジェイド?」


 トパーズが問い掛けた先、ベッドの中で何者かが身じろぐ。煤けた布団の下から覗く春の新緑のような緑色の髪。魔族であろう何者かが顔を覗かせる。翡翠のような透き通る瞳が、此方を訝しげに見ていた。
 一見すると、それは若い青年だった。胡乱な眼差しで此方を見遣るその様は、まるで何もかもに疲れ切ってしまっているようだ。
 魔族の青年――ジェイドが応えた。


「久しぶりだな、トパーズ」


 その顔を見て、トパーズが目を細める。


「こんな地下に引き籠って、何をしているんだ。この町の有様は何だ。一体、何があったんだ」


 矢継ぎ早に詰問するトパーズに、ジェイドは皮肉そうに口角を釣り上げた。


「因果応報さ」
「何?」
「身の丈に合わない愚かな願いを抱いた結果が、この町の有様なのさ」


 諦観を抱くジェイドに、トパーズは要領を得ないと尚も問い掛ける。


「どういうことだ。一から説明しろ」


 やれやれというように、ジェイドが身を起こす。寄れた衣服から覗く肌には、大小様々な黒点が無数に存在していた。毒々しさすら感じるその様にルビィが思わず後ずさろうとするが、ダイヤがそれを許さない。口元に布を当てたまま、ダイヤが言った。


「病か」


 その言葉が正解であるように、ジェイドが頷く。


「教えてやるよ。異種族の共生を願った憐れな魔族の末路を――」


 ジェイドは語り始めた。

35,Languid.

35,Languid.




「フェナジンの都。そう呼ばれていたのは、人間の暦で言うなら六十年程前のことだ」


 静かに語り始めたジェイドの頬を、蝋燭の灯りが橙色に照らしていた。
 聞く体勢を取ったダイヤとトパーズ。ルビィは自分が異物であるような居心地の悪さに身じろぐ。ジェイドは続けた。


「フェナジンは機械文明の発達した人間の都だった。この町の起源は、魔族との戦争の為に機械を生産する工場だ。その名残が町を取り囲む強固な壁だ」
「機械?」
「そう。始めは武器を大量生産する為のものだった。それが次第に機械そのものを武器として生み出すようになった」


 魔族を滅ぼす為に生み出された機械。けれど、それはルビィの見た賑やかな町並みと掛け離れたものだった。
 ジェイドが言った。


「だが、人間の生み出した機械は、魔族の持つ魔法という力に敗北した。工場は壊滅し、兵士は殲滅された。人々は疲弊していた。……そんな頃、ある魔族が一人、この町へ行き着いた」


 語り続けるジェイドの面に感情の機微は無い。相変わらず疲れ切ったような胡乱な目をしている。


「魔族はぼろぼろだった。魔王軍の者でありながら、人間との戦いに傷付き、敗走した為に軍にも戻れずに彷徨っていたんだ。町の人間は今更魔族を恐れはしなかった。けれど、交戦する気力すらなかった。人間は長い戦いに憔悴し切っていたから、死に掛けた魔族を憐れに思ったんだろう。町を滅ぼした魔族の者と知っていながら、人間はそいつの手当を始めた」


 自分達にこそ必要であった食料を分け与え、温かい寝床を用意し、甲斐甲斐しく世話を焼いた。見返りを求めぬその行為は気紛れでしかなかった。けれど、そうしている間に人間達にも生きる気力が沸いた。
 ジェイドはそう言って、更に続ける。


「魔族は傷が癒えても、人間を襲おうとはしなかった。それどころか、人間の為に作物を育て、住居を直し、共存しようとしたんだ。受けた恩を返すようにな。……町は圧倒的な人手不足だった。人と魔族は力を合わせ、町を再建し始めた。その中で、魔族が提案したんだ。戦争の為の機械を、生きる為に使うことは出来ないかと」
「生きる為に?」


 トパーズの問いに、ジェイドが頷く。


「始めに作られたのは、田畑を耕す機械だ。重労働から解放された農家は喜んだ。魔族は知恵を振り絞り、次々に機械を作って行った。作物を収穫する機械、布を織る機械、煉瓦を敷き詰める機械……」


 そうして生み出されたそれは、嘗ては殺戮の為に生み出された機械だった。


「フェナジンは次第に活気を取り戻し、噂を聞き付けた弱い魔族が集まり、都と呼ばれるまでに拡大した。魔王軍が侵攻したこともあったが、あの強固な壁がそれを阻んでくれた。お前等には想像も付かないだろうが、街路には人間と魔族が争う事無く共存し、街路には出店がずらりと並んでいた。民は餓えに喘ぐことも、寒さに凍えることも、暴力に怯えることも、貧富の格差も無く平和に生活していたんだ」


 訝しげなトパーズとダイヤには信じられないだろう。けれど、それはルビィが見ているものだった。


「その平和が終わったのは六十年前。……武力を持たぬ弱い魔族であった筈の少女が、ある異能を発動させた。それは意図しない、事故だった」


 其処で漸く、ジェイドは鉄面皮を苦痛に歪ませた。


「街路で倒れたその魔族の少女を、誰もが当然のように助けようと手を差し伸べた。そして、次の瞬間、少女の周囲の人間や魔族はばたばたと倒れて行った。少女は蹲ったままだ。何事だろう、助けようと駆け付けた者も同様だ」
「何故」
「毒だ。……当然と言えば、当然だった。鋭い牙も爪も無い弱い魔族が身を守る為に、そうした異能を持つのは自然の摂理だった。平和ボケしていた町の者は気付かなかったんだ」


 ジェイドが苦く笑った。


「強固な壁に囲まれた町中を、少女は助けを求めて駆け回った。結果として毒はフェナジンの町の中に余す事無く蔓延し、外界に放たれることなく留まり続けた」
「……その間、お前は何をしていたんだ」


 鋭く、トパーズが問い掛けた。ジェイドは苦笑交じりに答える。


「機械を作っていた。地下水を汲み上げる機械や、年老いた人間や魔族が座って移動出来る椅子のような機械を、この地下でずっと……」
「地上の異変には気付かなかったのか?」
「昔から集中すると、周りが見えなくなるからな。空腹を感じて地上へ出た時にはもう、町は死滅していたよ」


 トパーズは黙った。周りが見えなくなるというジェイドでなくとも、この地下にいたのでは地上の異変に気付くことは難しかっただろう。


「死に掛けの魔族から状況を聞いて、俺は慌てて毒を放った少女を探したんだ。だが、俺が駆け付けた時にはもう少女は自責の念からか、自ら喉を引き裂いて自害していたよ」


 それが、六十年前。以来、ジェイドはこの地下に籠っている。
 救いの無い昔話に、ルビィは苦い顔をする。トパーズが言った。


「お前を蝕んでいるのは、その時の毒か?」
「いや、俺は元々魔王軍にいた者だからな。毒にはある程度耐性がある。これは、魔法を使い続けた結果だ」


 ジェイドは皮肉っぽく嗤った。


「弱い、愚かな魔法だ。――幻想を見せる、独り善がりな魔法さ」


 其処で、ルビィは理解する。
 これまでルビィが見て来た賑やかな街並みは、ジェイドが願った人間と魔族の共存する平和そのものであり、過去の映像なのだ。そうしてジェイドは、誰の為でも無く自己満足の為に町中を幻想で包み込んだ。
 そして、使い道の無い機械をこの地下で考案し続けるジェイド。――なんて、愚かで、空しく、憐れなのだろう。けれど、その行為を誰が責められるだろう?
 ダイヤが、言った。


「今すぐに、魔法を止めろ」


 びしりと言ったダイヤの目は鋭く、厳しい口調だった。


「お前が如何なろうが知ったことじゃない。だが、苛々する。六十年間、お前は蹲って、終わったことを後悔して、引き籠っていたのか」
「……返す言葉も無いな」


 ジェイドが苦笑を浮かべた。ダイヤは尚も叱責するように言った。


「弱い魔族が身を守る為に、毒を持つのは当然だろう。それを自然の摂理と呼ぶなら、町が栄え滅ぶのも当然だ」
「ああ、正論だ」
「解っているなら、さっさとこの下らない魔法を止めろ」


 ダイヤの言うことは何も間違っていない。百五十年の孤独を知っているダイヤだからこそ、言えることだ。失ったものが戻らないことも知っている。後悔し蹲ることが何も生み出さないことも解っている。――けれど、誰もがそう出来る訳では無い。
 ジェイドは諦めたように微笑むばかりで、一向に立ち上がろうとしない。当然だ。ダイヤは興味を失ったようにルビィの手を離し、踵を返した。
 憤ったように階段を音を立てて登って行くダイヤ。追い掛けるべきかと逡巡するルビィに、トパーズが言った。


「放って置いてやれよ」
「でも……」
「独りになりたい時だってあるさ」


 何かを悟ったように、トパーズが言う。


「怖いんだよ、ダイヤは」
「怖い?」
「今のジェイドの姿は、ダイヤの有り得た未来だ。……水中庭園で、オパールが命と引き換えにガーネットを蘇生してくれなかったら、ダイヤもこうなっていただろうさ」


 その言葉に、ルビィも理解した。
 直視出来なかっただろうダイヤの弱さを垣間見る。もしも、あの時、ガーネットが死んでいたら――?
 それこそがダイヤにとって最大の恐怖だった。絶望の中で見た夢を、ダイヤは今も恐れている。トパーズはくるりとジェイドを見遣る。


「町のことは残念だったな。今すぐに割り切れと言うのは酷だろうが、ダイヤの言葉は正論だ。このまま閉じ籠って幻想を見続け、町と心中するのもお前の自由だ。止めはしない」


 でもな。トパーズが言った。


「でもな、これは有り触れた悲劇の一つでしかないんだよ。解るだろ? この戦争が終わらない限り、弱者は虐げられ、フェナジンの二の舞になるだろう」
「それは、脅しか?」


 ジェイドが見遣るが、トパーズは意味深に笑うだけだった。


「俺は自分の考えを言っているだけだ。このまま閉じ籠って町と心中して、何が残る。それこそ、町の住民は犬死だろうが。過去は変えられないが、未来は自由だ。奴等の死を無駄にするなよ」
「終わったことだ。もう、何もかも」
「なら、付いて来い」


 一向に立ち上がらないジェイドに、痺れを切らしたようにトパーズはその腕を引っ掴んだ。魔法を酷使した為に浮かぶ黒色の斑点等、何でも無いかのように強引に手を引いて行くトパーズ。ルビィは階段を翔け上がる二人を慌てて追い掛けた。

36,Period.

36,Period.




 フェナジンの都は、相変わらず活気に満ちている。
 ルビィは界隈を見渡しながら、それがジェイドの作り出す幻だとは如何しても思えなかった。擦れ違う人々のざわめきも、瑞々しい作物も、外界からの刺激を受け取る全ての器官が、それが現実だと訴えている。――けれど、それは幻なのだろう。
 嘗ての繁栄を寸分足らず再現出来るまでに、ジェイドは過去へしがみ付いている。現実味を帯びたこの幻の存在こそが、彼の町への執着を感じさせた。彼が語った昔話。魔王軍でありながら人に介抱され絆されたという青年は、ジェイド本人だろう。人が死しても尚、恩に報いたいと願うジェイドは魔族というよりも、愚かで空しい人間のようだった。
 トパーズはジェイドの手を引き、町を見渡せる教会の上へと上り詰めた。ルビィに見えるのは繁栄した人間と魔族が共存する都だ。


「ダイヤ!」


 トパーズは、欄干から身を乗り出して声を上げた。呼び掛ける先、小高い住居の屋根にダイヤが立っている。
 傍では風見鶏が強風に身を震わせている。強固な外壁の為に街路は殆ど無風だが、実際、町の外は冷たい風が吹き付けていた。教会の鐘突き場も同様だった。ルビィは風に泳ぐ髪を片手で抑え、町を見下ろすダイヤを見た。
 呼び掛けられてもダイヤは見向きもしない。聞こえていないのか、無視しているのかは判別出来ない。広げられた白亜の翼が、日光を反射して眩しく光る。久方ぶりの日光に眩暈を起こしたジェイドが欄干に手を突き、ダイヤを訝しげに見ていた。


「白い翼……。まさか、あいつ、アレキサンドライト様の……」
「そうだ」


 聞き覚えの無い名前に、ルビィが眉を寄せる。


「アレキサンドライト様?」
「ルビィには――否、人間には関係の無いことだ」


 軽口を叩くように、トパーズが悪戯っぽく笑う。
 信じられないというようにジェイドが驚愕に目を見開いた。ダイヤは町をじっと見下ろしている。


「何をするつもりだろう……?」
「決まっている。この町を、本来の姿に戻すのさ」


 トパーズが声を上げた。


「やっちまえよ、ダイヤ!」


 その声に、漸くダイヤが振り向く。相変わらずの無表情で、青い瞳からは感情等読み取れない。
 けれど、大きく広げられた翼が一度、羽ばたいた。


「ジェイド」


 決して大きな声では無かったけれど、それは確かにジェイドの元へと届いていた。


「これは俺の自己満足だ。だから、恨んでいい。憎んでいい」


 ばさり、ばさり。強風を物ともせず、ダイヤは羽ばたく。
 何をするつもりなのか、ルビィには見当が付いていた。
 強固な壁に囲まれたこの町は、地下室に閉じ籠っていたジェイドと同じだ。変化に怯え過去の幻想にしがみ付き、其処から歩みを止めてしまった。そして、終わりの無い時をただ空虚に存在している。それは果たして、生きていると言えるのだろうか?
 ダイヤが羽ばたく度、空気が流れそれは大きな塊を生み出して行く。唸るような強風は嵐のようだった。欄干を握り締め、ジェイドが泣き出しそうに表情を歪めている。


「止めてくれ……!」


 絞り出すようなそれは懇願だった。けれど、今更聞き入れる気も無いだろうダイヤは、賑わう街並みをじっと見詰めている。
 風が獣のように唸り、牙を向く。それは此処で生活する人や魔族を蹂躙する強大な自然災害のようだった。ダイヤの放った空気の塊は町に墜落し、有象無象を容赦なく吹き飛ばす。


「止めろおお!」


 ジェイドの悲鳴が響き渡った。それを嘲笑うように、風は全てを呑み込んで行く。
 高台にいる筈のルビィですら吸い込まれそうな強烈な引力だった。強風は賑わっていた界隈を翔け抜け、機械仕掛けの門扉を強引に抉じ開けた。長い間風の吹き溜まりであった町は腐った空気が蔓延していたのだ。それまで賑わっていた筈の人や魔族は強風に驚く事無く、正しくそれは幻想のように消え失せた。
 吹き付ける風の中で、ルビィは確かに見た。整備された住居は雨風を凌げぬ程にボロボロで、生物の気配も食物の臭いも何処にも無い、既に死に絶えたフェナジンの都の本当の姿を――。


「これ、が……」


 吹き付けていた風が静かに消えて行く。残されたのは、廃墟と呼ぶに相応しい街の亡骸だった。
 人も魔族も存在しない。其処此処へ無秩序に建てられた無数の墓、崩れた家屋の残骸、乱れた街路、腐り枯れた植物の死体。ダイヤとトパーズには、初めからこの姿が見えていたのだ。ダイヤの称した地獄絵図の意味を理解する。


「う、うう……」


 ぽたり、ぽたり。
 ジェイドの緑色の瞳から、透明な滴が零れて行く。人間と変わらぬ涙だ。
 こうした魔族の姿を見る度に、ルビィは疑問に思うのだ。誰かの為に血を流すダイヤ、涙を零すジェイド。人間と、一体何が違うのだろう。
 町に蔓延する毒の残骸と共に幻想を吹き飛ばしたダイヤは、死に絶えた街並みを静かに見下ろしていた。幻覚は視覚や聴覚、嗅覚等へ働き掛けて作り出される。風によって打ち消したその行為はきっと、ダイヤにしか出来なかった。
 ジェイドの行為は不毛だった。けれど、それを誰が否定出来るのか。町が死に絶えてから、ジェイドは長い時をこの町で過ごして来た。町民の墓を其処此処へ建て、供養し、――過去へ縋った。それが自身を蝕む毒だと知っていても、そうしなければ生きられなかった。
 ふわりと、風が優しくルビィの頬を撫でた。欄干に着地したダイヤが、咽び泣くジェイドを見下ろしていた。


「そうやって、何時までも泣いていろ」


 侮蔑するような冷たい物言いに、恐らくきっと意図は無い。ダイヤは思うことをくちにするだけだ。


「現実逃避も大概にしろよ。始まりが在れば、終わりも在る。この町の生きた証を、自己満足の薄っぺらい嘘で誤魔化すな」


 確かに悲劇があったのだろう。それは長い時を生きたジェイドが、過去に縋り閉じ籠ってしまう程に。
 けれど、此処にあったのは悲劇だけではない筈だ。どんな終わりがあったとしても、生きた証すら消し去ってしまうのでは、余りに空しい。
 黙ったジェイドに背を向け、ダイヤは翼を丁寧に畳み込む。白亜の翼は忽然と消え失せ、ダイヤは何事も無かったように上衣を翻して階段を下って行った。
 残され、トパーズがやれやれと悪態吐く。


「遣り方は強引だが、間違ってはいない。あいつは正しい」
「……でも、正論が正解とは限らない」


 ルビィの思わぬ返答に、トパーズが目を丸くした。
 顔を伏せるジェイドの傍で、ルビィは言った。


「私の故郷も滅んだの」


 ジェイドが、僅かに顔を上げた。ルビィは感情の無い目で続ける。


「ダイヤを追う魔王軍の侵攻によって、一夜で滅ぼされた。両親も同胞も皆無残に殺された」
「……ダイヤが、憎くないのか?」
「魔王軍の侵攻を避ける為に離れようとしたダイヤを、理不尽に拘束したのは村の人だったもの。人間だけの村だから、異物を受け入れらなかったんだね」


 丸腰のダイヤを拘束したのは、村人だった。それでも、あの強靭な翼があれば逃走も殺戮も可能だったダイヤがそうしなかった訳を、恐らくきっとルビィは知っている。
 ダイヤは、知りたかったのだ。百五十年の孤独の中で見た人間と魔族を、自らが傷付くことも厭わず深く知ろうとした。結果、ガーネットの率いる魔王軍が侵攻し、村は滅ぼされたのだ。


「それに、魔王軍の侵攻を食い止め、生き残った村人を逃がす為に独りで戦ってくれたのも、ダイヤだった」


 当時はダイヤの抱える事情等知らなかった。けれど、あの頃のダイヤは対峙したくないガーネットに、恨みこそすれ守る義理も無い人間の為に剣を向けた。


「私、その時に思ったんだ。人間と魔族。一体何が違うんだろうって。……目の前にある命を、守りたいと思う気持ちはきっと同じだって。誰かの為に傷付くことも厭わず、自分のことのように涙を流す。それは、人間も魔族も同じだよね?」


 問い掛ける口調でありながら、ルビィは答えを求めていなかった。思想の違いは、個々の違いだ。それを押し付け合った結果が戦争だろう。
 それまで黙って聞いていたジェイドが、問い掛けた。


「何故、旅を?」
「知りたかったの。人間とは何か、魔族とは何か。世界とは何か、生きるとは何か、知りたかったし、見てみたかった」


 単純で幼稚な理由だった。けれど、それは事実だ。
 何かを考えるように逡巡するジェイドに、トパーズが言った。


「どうせ、行く当ても無いだろう? 一緒に来いよ、ジェイド」
「……そうだな。俺も、見たみたくなったよ」


 涙を拭い、ジェイドが不敵に笑った。


「アレキサンドライト様の忘れ形見の行く末をな」


 視線の先、爽やかな風に吹き抜ける街路を歩く背中が見える。振り返らないが、牛歩で進むダイヤだった。
 ルビィは聞き慣れないその名を胸に刻む。アレキサンドライトと呼ばれる物が何者なのかは知らないけれど、恐らくダイヤにとっては深い縁の者なのだろう。ルビィは少しずつ小さくなるダイヤを追い掛け、勢いよく階段を駆け下りた。

37,Nightmare.

37,Nightmare.




 運命のあの日、濃紺の夜空を嘗めるように火柱が上がった。それは紅い悪魔と化して故郷を、肉親を呑み込んだ。
 悲鳴、怒号、嗚咽。母を探す幼子、異種族を恨む老人、四肢の欠けた屍のような若者。地獄と言うものがあるのなら、きっと、あの夜、私は地獄を見たのだろう。
 何も出来ずに狼狽えるばかりだった。炭と化した柱の下敷きになった母親を救い出すことも、泣き叫ぶ子どもへ手を差し伸べることも出来なかった。私は無力だった。如何しようも無いくらい、無力だった。


「――おい」


 天地が引っ繰り返るような転落感に、意識が急浮上する。視界は満天の星空に埋め尽くされていた。
 ルビィは身体を起こした。水中に潜ったかのようにびっしょりと汗を掻いている。
 トパーズの案内する道すがら、周囲を見渡せる草原で野宿していた。寝ずの番をしていたらしいダイヤの前では、焚火が所在無さげに燻っている。傍ではトパーズが大の字に寝転び、ジェイドは卵のように身を丸くしていた。
 平和な夜だ。ルビィは額の汗の粒を、手の甲で乱暴に拭った。


「私――、」
「魘されていたから、起こした」


 ダイヤは焚火から目を逸らさず、素っ気無く言い捨てた。
 周囲に敵の気配は無いのだろう。眠そうに青い瞳は微睡んでいる。ルビィはそっと息を逃した。


「……ありがとう」
「別に」


 言葉はぞんざいだが、ダイヤは優しいと、ルビィは思う。――まるで、人間のようだ。
 けれど、其処で頭を振る。これまでルビィが出会って来た人間は、狡猾で、醜悪で、差別的で、恐ろしかった。それは純粋な闘争本能に則って生きる魔族が美しく思える程に。
 ルビィには解らない。けれど、目を向けようともしないダイヤに、問い掛けた。


「これから、何処へ行くのかな」
「さあな。その内、解ることだ」


 そういうダイヤには、行先の見当が付いているのだろう。けれど、それを口にしようとしない態度に疎外感を抱きつつ、ルビィは空を仰いだ。
 流れ星でも見られそうな美しい満天の星空だ。人は死ぬと星になると言う。魔族も、そうなのだろうか。死ねば夜空を彩る美しい星となり、永遠に共に存在していられるのだろうか。
 ふと思い出し、ルビィは問い掛けた。


「星に名前があるって、知ってる?」
「星? どれも一緒だろう」


 興味も無さそうにダイヤが言い捨てる。ルビィは夜空を指差した。


「あの明るい四つの星を繋いだ四辺形、その北東にあるのがアンドロメダ」
「どれがどれだか解らないな。程度に違いはあるが、同じ星だ」


 情緒が無いとルビィは口を尖らせる。星は時刻や方角を知ることにも利用されるが、気紛れに旅をするダイヤには意味を成さないものなのだろう。ルビィとて、決して詳しい訳では無い。
 アンドロメダは女性なのだと、故郷で老人が教えてくれた。その姿を想像も出来ない夜空を見上げ、ルビィは母を思い出す。
 家屋と共に焼け、炭をとなった母。伸ばされた手は誰にも取られる事無く、息絶えた。その最期が一瞬であったことを祈る以外、今の自分に出来ることは無かった。


「ダイヤに、お母さんはいる?」
「何なんだ、さっきから随分と喋るな。さっさと寝ろよ」
「いいじゃない。眠れない夜だってあるわ」


 呆れたような目を向け、ダイヤは渋々と言った調子で口を開いた。


「俺に母親がいるか如何かは知らない。まあ、魔族である以上、何処かの魔族の胎から産まれたんだろう。顔も名前も知らないし、会ったことも無い」
「……トパーズ達が、アレキサンドライト様と呼んでいるのは?」
「知らない。少なくとも、俺は会ったことが無いからな」
「会いたいとは、思わないの?」


 ルビィの言葉に、ダイヤは一瞬、口を噤んだ。
 以前、水中庭園の意思共有の魔法で、ガーネットの過去を垣間見た。アレキサンドライトと呼ばれる銀髪と青い目をした、白い翼を持つ魔族。恐らくきっと――、否、あれが自分の産みの親だった。
 けれど、ダイヤは彼女の最期を知っている。自分を守る為に、自ら命を絶ったのだ。


「物心付いた頃から、俺にはガーネットがいた。だから、興味も無かった。それは今も変わらない。俺にとっての肉親は、ガーネットだけだ」


 噛み締めるように、ダイヤが言った。ばちりと薪が爆ぜる。
 物音にジェイドが反応するが、目を覚ますことは無かった。


「お前は、会いたいのか?」


 其処で漸く、ダイヤはルビィを見た。対照的にルビィは目を伏せる。


「……会いたいよ」
「そうか」


 それ以上、ダイヤは何も言わなかった。労りの言葉を、ダイヤは持たない。同情もしない。けれど、突き放しもしない。
 ダイヤが言った。


「人の一生は短いな。高々数十年。それも、ちょっとした怪我や病気で終わりだ」


 百五十年以上もの長い年月を生きて来たダイヤには理解出来ないだろう。
 けれど、その寿命も無限ではない。何時か終わる時が来る。


「お前も何時か死ぬだろう」
「ダイヤもね」
「勿論。でも、俺はお前の死を見送らなきゃならないな」


 魔族と人間の違い。孤独だったダイヤの百五十年に何があったのかルビィは知らない。けれど、その中で出会った人間も多いだろう。出会った数だけ、ダイヤは見送って来たのだ。親しかった友人も、憎んだ敵も、その全てを見送り、受け止め、此処にいる。
 そう思うと、ダイヤの過ごした百五十年は酷く尊いものに思えた。彼にとっては苦しくて泣き出したくて、それでも逃げることの出来ない地獄のような日々であったとしても。


「ダイヤも親しい人を見送ったことがある?」
「親しいかは解らないが、知り合った人間の死を見届けたことは数え切れないな」
「どんな風に、死んでいったの?」
「戦場で首を切られた者、心臓を貫かれた者、毒死した者、病気で長く苦しんだ者、老衰した奴もいたか……」


 感情の無い青い瞳に、焚火のオレンジ色の炎が映り込む。過去を思い返すダイヤは、何を感じているのだろう。
 ルビィは問い掛けた。


「ダイヤは、如何したの?」
「如何も何も、見ていただけだ。死ぬのは自然の摂理だよ。……抗ったこともあったが、結末は何時も同じだ」


 人は必ず自分よりも早くに死ぬ。それは揺るぎない事実だった。ルビィもまた、そうだろう。
 友人を守ろうと奔走したこともあったのだろう。けれど、結局最後は自分を残して人間は死ぬ。それは諦観では無く、如何しようもない事実への理解だった。抗って現状を打破出来ても、結末は変わらないのだ。それでも、時に自分の意思に従って、諦めることなく抗おうとするダイヤを純粋に尊敬した。離されると解っている手を何度でも掴もうと手を伸ばすその強さを、自分は真似出来るだろうか。ルビィには、解らない。


「ダイヤは、強いね」
「何が」
「私なら、人と関わろうと思わないよ。だって、自分が傷付くって解っているもの」


 ダイヤは、ふう、と溜息を零した。


「人間はごちゃごちゃ考えて面倒臭いな。結末が解っているものに、如何して一々傷付く?」
「でも、ダイヤは抗ったんでしょう?」
「俺はただ、自分が後悔したくなかっただけだ」


 あの時、こうしていれば良かった。ああしていれば良かった。そう考えるくらいなら、今出来る最善を尽くす。
 当たり前のように、ダイヤが言う。それが、人間に出来るのだろうか。少なくとも、ルビィには出来ないと思った。


「後悔したことは、無いの?」
「あるよ。あるから、立ち止まりたくないんだ」


 それは、百五十年前の自分の無力さに対する不甲斐無さだった。
 ダイヤは過去に囚われない。切り捨てるのではない。受け入れて前を見ているのだ。


「お前は、何を後悔している?」


 問い返され、ルビィは口籠った。
 故郷を滅ぼされた夜、自分に出来たことがあったのではないだろか。母を失い泣き叫ぶ子どもを抱き締めて、もう大丈夫だよと言ってやれば良かった。瓦礫の下から母を引き摺り出して、埋葬して遣りたかった。後悔は尽きない。
 ダイヤが言った。


「後悔するなとは、言わない。……俺もあの時、ガーネットを失っていたら、今頃如何なっていたか解らないからな」


 目を伏せ、ばつが悪そうにダイヤが言う。


「忘れる必要も無い。何時も胸に刻んでおけ。ただ、立ち止まるな。其処から得られるものは、何も無いからな」


 諭すように、穏やかにダイヤが言った。
 出会った頃には、想像も出来なかった。冷酷に見えるダイヤが、本当は懐深く優しいこと。人間だけでなく同族すら圧倒する程に強いダイヤが、実は繊細で傷付き易いこと。けれど、それらを受け入れて歩き出せるだけの強さを持っていること。そんなダイヤを尊敬し、こんな風に穏やかに話が出来る日が来るなんて想像も出来なかった。


「……もう、寝ろ。明日も早いぞ」
「うん。……おやすみ、ダイヤ」


 ルビィは、頭まですっぽりと布を被って眠りに着いた。
 夢を見た。
 村を呑み込んだ赤い炎の中で、白い翼が舞っていた。後悔で立ち止まりそうになる自分の手を引いて、こっちだと導いてくれる。青い瞳は相変わらず真っ直ぐ此方を見詰めて、問い掛ける。――何故、自分で考えない?

 悪夢はもう、見なかった。

38,Child.

38,Child.


 吹き付ける寒風が物悲しく鳴いている。草原を抜けた先、森に囲まれた寂れた小さな町は、タートラジンと呼ばれている。魔族の存在しない純粋な人間だけの町だった。
 魔族に対して排他的な町を知るトパーズとジェイドは進入を避け、薄い壁の外で待機している。怖いもの知らずか、高を括っているのか、ダイヤは何時ものフードを深く被り、人間の群れに紛れ込んでいる。
 タートラジンの街路は人間が僅かに行き来する。これまで見て来た都と呼ばれる町に比べ、寂れているとルビィは感じた。けれど、故郷に比べれば遥かに恵まれている。貧富の差は少なく、寒さに凍えることも、餓えに喘ぐことも無いのだ。人間同士の差別も無い。けれど、其処此処を闊歩する鎧を纏った兵隊が際立っていた。
 民間人は兵隊を恐れることは無い。けれど、兵隊は壁の外を警戒し武器を携えている。物々しい雰囲気を感じ、ルビィはダイヤの傍に身を寄せ声を潜めた。


「何かを、警戒しているみたいね」
「今更なことを言うな。人間が警戒するものなんて、一つしかないだろう」


 至極尤もな言葉に、ルビィは返す言葉を持たなかった。
 時代は戦乱だ。浮雲のように自由に旅をするダイヤと共にいると忘れてしまうが、人間と魔族は世界の覇権を賭けた戦争を何百年も続けている。魔族は、人間にとって天敵だった。
 街路を進むと、疎らだった人がどっと増えた。所謂商店街なのだろう。人々の顔も明るい。
 その手前、ダイヤは足を止めた。


「……この先には入れないな」


 そう言って顎をしゃくる先、出入口では兵士が一人一人の顔を確認している。旅人らしき風体の者も多いことから、町民以外も入ることは可能の筈だ。それが、魔族で無ければ。
 顎に手を添え、何かを逡巡するようにダイヤは俯く。そして、言った。


「お前、行って来いよ」
「はあ?」


 フードの下で、青い目が細められた気がした。


「審査が厳しいからな。俺は入れない」
「何で、私が!」
「別に行かなくても、俺は困らない。お前が飢え死にするだけだ」


 そうだったと、ルビィは息を吐く。
 魔族であるダイヤもトパーズもジェイドも、空腹はそれ程感じない。人間であるルビィだけが定期的な食糧を欲し、休息を必要とするのだ。
 ほら、とダイヤが手を伸ばす。反射的にルビィは、それを受け取った。
 小さな小袋に纏められたそれは、人間の銀貨だった。


「俺は此処で待っていてやるから、さっさと必要な物を買って来い」
「……解ったよ」
「釣り銭、誤魔化されるなよ。無駄遣いもするな」
「解ったってば!」


 まるで子どものお使いだ。ダイヤに悪意が無いことは解っている。
 ルビィは渋々といった調子で歩き出した。振り返る先で、ダイヤがフードを被ったまま壁に凭れ掛かっている。此方を見ようともしないが、意識は向いているようだった。
 タートラジンの商店街は賑わっている。森で得ただろう果物や獣の肉が店先に積まれている。売り捌く威勢の良い声が其処此処から響き、界隈をより賑わわせていた。
 さて、とルビィは小袋の中を覗く。銀貨が数枚。ルビィの故郷では通貨が存在しなかった。けれど、これまでのダイヤの遣り取りを見て覚えている。
 必要な物は、当面の食糧だ。ダイヤに手渡された銀貨で買えるだけの食糧を買えば良いのだ。
 ふと、足を止める。独りきりになったのは、随分と久しぶりだった。
 周囲は人間しかいない。武器を携える兵士はいるが、彼等は人間を守る為に存在しているのだ。魔族でない自分は守られるべき存在で、命を脅かす者もいない。
 足を止めてじっくりと見ると、人々はそれぞれに異なった動きをしていることに気付く。商品を売る者がいれば、買うものもいる。兵士もいる。手紙を配る者もいる。子どもの手を引く女もいる。煉瓦を積む男もいる。それぞれが自分の役割を理解し、全うしている。こうして、この町は、世界は回って行く。
 自分の役割は、何だろう。ルビィは考えた。
 ――その時だった。
 どん、と鈍い音。ルビィの腰程の小さな子どもが衝突し、勢いよく通り過ぎて行った。あ、と気付いた時には手の中の小袋が無くなっていた。


「――だ、誰かその子、捕まえて!」


 叫び声に、人々が好奇の目を向ける。けれど、子どもは人々の間を縫うように擦り抜け、あっという間に消えて行った。ルビィもまた、必死にそれを追い掛ける。だが、既に子どもの姿は無い。
 辿り付いた商店街の路地裏で、ルビィは膝に手を突いて息を整えていた。


(……如何しよう)


 一度、ダイヤの元へ戻るか?
 否、戻っても、ダイヤはこの商店街へ入れない。幾ら魔族であるダイヤでも、出来ないことがあるだろう。
 嫌味の一つくらい言われるだろう。嫌だな、と目を伏せた先、壁に穴が空いていることに気付いた。子ども一人くらいなら十分に通れそうな穴は、古びた空箱によって巧みにカモフラージュされている。
 膝を着き、穴を覗き込む。薄暗い奥は見えない。
 ごくりと、生唾を呑み込む。この先に、何があるのだろう。丸腰の自分に何が出来るか解らない。でも――。
 ルビィは、身を屈めた。穴は細身のルビィですらぎりぎり通れる程度のものだった。薄暗いトンネルを四つ這いで進んで行く。賑わう商店街の傍とは思えぬ静寂な空間だった。
 トンネルは、唐突に終わった。


「あっ」


 声が、した。
 光に慣れない目に、小さな影が映る。其処にいたのは、みすぼらしい小さな子どもだった。けれど、その少年は間違いなく小袋を持ち去ったあの子どもだった。


「貴方は――?」
「おい、ジルコン!」


 子どもが、慌てたように声を上げた。まるで追われた野鼠のように、子どもはあっという間に物陰へ逃げ込んで行った。
 周囲は張りぼてのようなあばら家が乱立している。整備などされないそれらは風が吹けば崩れてしまいそうだった。
 呆然と周囲を見回すルビィの前に、一つの影が躍り出た。


「てめぇ、何者だ!」


 棒切れを構えた少年が、此方を睨んでいた。
 ボロボロの衣服、汚れた帽子、傷付いた面。痩せっぽちながら、その相貌は強い眼光を放っている。
 この目を知っていると、ルビィは思った。不意に、声が脳裏を過った。


――何故、自分で考えない!


 出会った頃の、ダイヤの叫びだった。
 そうだ、この少年は、ダイヤに似ている。目も髪も、顔付きも体型も、何もかもが違うのに。そのやけに鋭い眼光だけが似ている。まるで餓えた獣のようだ。
 少年は自分に敵意を剥き出しにして、棒切れを此方へ向けている。臨戦態勢の少年に対して丸腰ながら、ルビィは怖いとは微塵も思わなかった。その少年に、今では見ることのないダイヤの噛み付くような敵意を見た。
 ルビィは、自分が酷く落ち着いていることに気付いた。目の前の少年が、ちっとも怖くなかった。


「私は、ルビィ。さっき、あの子にお金を盗られて――」


 あばら家に隠れて此方を窺う少年を指差す。すると、棒切れを持った少年ははっとしたように目を向けた。
 そのままいきり立って少年を掴み上げると、強く怒鳴り付けた。


「お前! 好い加減にスリは辞めろと言っただろう!」
「う、うえええん!」


 叱られた子どもが、声を上げて泣き出す。少年は溜息を零し、子どもが隠し持っていた小袋を取り上げた。
 それまでの剣幕を消し去った少年が、ルビィの元へ歩み寄った。


「……悪かったな。これ、」


 そう言って手渡されたのは、失った筈の小袋だった。ダイヤから預かった銀貨はそのままだった。
 ばつが悪そうに棒切れを下げ、少年が言った。


「俺はジルコン。こいつの、こいつ等の親だ」


 そう言ったジルコンの後ろには、ぞろりと子どもの群れがあった。
 大して年も変わらないだろう彼等が親子だとは、到底思えない。ルビィの怪訝な眼差しに気付いたジルコンが、言った。


「本当の親じゃねーよ。親代わりだ」


 ルビィは其処に、ダイヤとガーネットの姿を重ね見た。
 彼等は、似ている。
 ジルコンは棒切れを肩に担ぎ、言った。


「こいつのことはしっかりと叱って置くから、兵隊に突き出すのは勘弁してくれ。見た所、お前は町の人間じゃないんだろ?」


 ルビィは頷き、問い掛けた。


「貴方達、子どもだけで生活しているの? 大人は?」


 その問い掛けに、ジルコンは舌打ちした。まるで、当たり前のことを訊くなというような態度に、ルビィは一瞬たじろぐ。
 ジルコンが言った。


「大人なんていねーよ。いらねーし。俺達は、親に捨てられた孤児の集まりだからな」


 背を向けたジルコンに、ルビィは声を掛けられなかった。
 失言――。気付いた時には、もう遅い。追い掛ける権利すら、ルビィには無かった。
 どれ程、その場に立ち尽くしていたのかルビィには解らない。気付けば日は落ち、周囲はオレンジ色の光に包まれていた。我に戻ったルビィは、ダイヤのことを思い出す。今も、検問の傍で自分の帰りを待っている筈だ。
 抜け穴を通り、薄暗い路地裏の先。商店街が変わらず賑わっている。彼等は、知っているのか。この抜け穴の奥で、親に捨てられた子どもが大人の助けを借りず、彼等だけで身を寄せ合い生きていることを、彼等は知っているのだろうか。
 疑問を抱えながら、ルビィは必要な物資を補給して行く。パン、果物、肉、衣類。魔族であるダイヤ等に必要でない物だ。けれど、人間であるルビィには必要不可欠だった。これ等を手に入れることが出来たのは、ダイヤのお蔭だ。彼の収入源が何かは知らないが、自分一人では決して手に入れることは出来なかっただろう。ジルコンのように、自力で生きることも出来ない。
 大荷物を抱えて戻れば、ダイヤがフードの下で口を尖らせて「遅い」と文句を零した。重い荷物を代わって持とうとはしない。当然だ。この荷物は、ルビィだけが必要な物資だ。


「……ねえ、ダイヤ」


 少し先を歩くダイヤを追いながら、ルビィは問い掛けた。頭には先程の子ども――ジルコン達が過る。


「ダイヤは今まで、如何やって生きて来たの?」


 質問の意図が解らないというように、ダイヤは少しだけ首を傾げた。顔の殆どを覆うフードの下の表情は読み取れない。
 ルビィは補足するように付け加える。


「城から出た後、貴方は独りきりだったでしょう」
「ああ」


 合点行ったようにダイヤが相槌を打つ。周囲の人は疎らで、旅人の風体である二人には見向きもしない。
 ダイヤは答えた。


「始めは人間の群れの中で、素性を隠して生きていたよ。通貨さえあれば、人間の集落は遣り易かったからな」
「通貨を如何やって手に入れたの?」
「如何だったかな……。奪ったこともあるし、盗んだこともあるし、簡単な仕事で稼いだこともある」


 珍しく考えながら、ダイヤが言った。
 ルビィには想像も出来なかった。このダイヤが、人間の中に混じって生きて来たのだ。けれど、それも当然だとルビィは気付く。魔王城から逃げ出して、当時のダイヤにとっては魔族そのものが敵だった。人間の群れで素性を隠して生きるしか、他に道は無かった。
 幾ら長命で頑強な魔族と言えど、空腹も疲労も感じる。それが例え人間程ではないにしろ、物資を得る必要があった。
 ルビィは問い掛けた。


「今、持っているお金は?」
「覚えてない。盗賊から奪ったような気もするが」


 興味も無さそうに、ダイヤが言う。一般論では、それは間違った行為なのだろう。
 人のものを盗ってはいけない。けれど、それを口にする権利はルビィに無い。黙ったルビィに、ダイヤが言う。


「汗水流して手に入れた金も、血で血を洗い得た金も、金は金だ」
「……うん、そうだね」
「金が何処からか沸いて来る訳ではないし、誰かが養ってくれる訳でも無いからな」


 真理だと、ルビィは思う。きっと、此処には境界線がある。ダイヤとジルコンは、向こう側の人間だ。誰かに頼ることをせず、自力で生きて来た。自分の信じるものを、自分の信じるように、自分の力で掴み生きて来た。
 黙ったルビィに、ダイヤが振り返ろうとした。――その、一瞬だった。
 振り向いたダイヤの喉元を、銀色の刃が通過した。それを間一髪、後方へ交わしたダイヤが猫のように飛び退いて距離を置く。
 疎らだった通行人は漣が引くように消えて行く。二人の間に割って入った黒い影は、剣を携えダイヤを睨んでいた。


「お前、人間ではないな」


 否定を許さない強い口調だった。避けた拍子に、ダイヤの被っていたフードが落ちる。
 夕陽に照らされるのは、魔族の証である銀色の髪と青い瞳だった。


「何だ、お前」


 敵意を剥き出しに、ダイヤが腰を低くする。片手は既に剣を掴んでいる。
 黒い影に従うように、大勢の気配が押し寄せる。それは全て武装した軍隊だった。囲まれたとルビィが気付いた時には、ダイヤは既に剣を抜き放ち、影と切り結んでいた。
 高音が、穏やかな街並みに反響する。現実味を帯びない状況を、民衆が互いの顔色を窺いながら傍観している。
 影が言った。それは切れ長な目で睨む、壮年の男だった。


「魔族がこの町に紛れ込むとは……!」


 仇であるように言い放つ男に、ダイヤが口角を釣り上げる。


「もう、出て行くよ。邪魔したな」
「そうはいかぬ!」


 言い放つと同時に、男の剣が振り抜かれた。ダイヤが剣を受け止める。
 軋み合う剣。屈強な男と、痩身のダイヤ。傍目には勝負は明らかだが、ダイヤは明らかに余力を残している。目の前の男を殺すつもりは無いのだろう。
 男が剣を滑らせた。それがダイヤの肩を撫でるように振り抜かれたと同時、ダイヤは翼を広げた。大きく飛び退いたダイヤは片膝を着き、男の様子を見ている。
 その時、男が指笛を鳴らした。甲高く響いた音と同時に、周囲からは金属音が響き渡った。鎖を引き摺るような音が其処此処へ響くと同時、夕空は牢獄のような網に覆われていた。


「何のつもりだ」


 苛立ったダイヤの口調に、男が嘲笑う。


「この町に侵入した魔族は、決して逃がさぬ!」


 距離を置いたダイヤに、男が飛び掛かる。舌打ちでも零したいだろうダイヤが、苦々しくその剣戟を受け止めようと低く構える。
 受け止めた――、筈だった。
 嫌な音がした。軋むような音だ。ダイヤの剣が悲鳴を上げ、崩れ落ちる。予期しなかった事態に、ダイヤの反応が一瞬遅れた。その隙を見逃さず男がダイヤに痛烈な一撃を食らわせた。腹部を裂くような横薙ぎの一撃は、ダイヤの衣服と共に肉を裂き、街路を鮮血に染めた。
 咄嗟にルビィが悲鳴を上げそうになった。けれど、ダイヤが鋭い視線でそれを制す。


(逃げろ)



 青い瞳が、確かにそう訴える。
 このままダイヤを置いて行く訳にはいかない。――だが、此処に残って何になる?
 壊れガラクタと化した剣を投げ捨て、ダイヤは切り裂かれた腹部を押さえる。高い治癒力を持つダイヤならば、やがて癒える傷だろう。けれど、それでも流れる血液が一瞬で塞がる訳では無い。


「その程度か、化物め」


 この男には、ダイヤがどのように見えているのだろう。ルビィは抗議したい心地だった。
 ダイヤが何をした。危害を加えたか。人心を惑わしたか。ただ、歩いていただけだ。
 ダイヤは口角を釣り上げ余裕の態度を崩さない。空は塞がれ飛ぶことも出来ない。剣は折れ戦うことも出来ない。それでも、何故笑うのか。
 その瞬間だった。
 ダイヤの翼が大きく羽ばたいた。生まれた風は暴風をなり、周囲を一掃する。巻き起こる砂塵の中で、ダイヤは一瞬にして状況を把握していた。街路を打つ大勢の軍隊の足音。きりがない。そして、判断は一瞬だった。


「走れ!」


 砂塵の中、ダイヤの声がした。ルビィは殆ど反射的に、ダイヤの元へ駆け寄ることを諦めて走り出した。
 暴風の中で動けない軍隊。ダイヤは翼をその背に納めると、ルビィとは反対方向へと駆け出して行った。

39,Zircon.

39,Zircon.



 ダイヤは、無事に逃げられただろうか。
 そればかりが気に掛かる。既に日の落ちた町の片隅で、ルビィは膝を抱えていた。傍には旅に必要な物資が乱雑に置かれている。
 あの状況では逃げるしかなかった。とてもダイヤの傍には行けなかった。ダイヤは大丈夫だろう。町の外にはトパーズ達もいる。町から出ることくらい、ダイヤには容易いだろう。
 何故だか、置いて行かれるとは考えなかった。きっと、ダイヤは迎えに来てくれる。
 それでも、見知らぬ街に突然放り出され、たった一人きりで膝を抱えている孤独感は、じわじわとルビィの精神力を削って行く。
 ダイヤなら大丈夫だ。そう思うのに、今も網に覆われ飛ぶことの出来ない空と、剣を失い丸腰になったダイヤのことが気掛かりで仕方が無かった。もしも、もしもダイヤが捉えられていたら如何すればいいのだろう。あの医者――アクアマリンのように、ダイヤを実験動物として扱うかも知れない。そうなった時、自分に助けられるだろうか。
 今も町中は軍人が行き来し、警戒している。これは逃げ切ったダイヤを捜索しているのか、仲間と判断された自分を追っているのか。解らない。解らないことが、只管に怖かった。
 その時だった。闇に包まれた路地裏から、まるで溝鼠のように息を殺して子どもが数人這い出て来た。見覚えのある少年は、膝を抱えるルビィを見て目を丸くした。


「あれ、お前、昼間の」


 ジルコンだった。猫のような丸い目で、ルビィを訝しげに見ている。


「お前、こんなところで何やってんだよ。今日は魔族が町に紛れ込んだからって、兵隊が警戒しているんだ。不審と思われたら、如何なるか解らないぞ」


 ルビィよりも明らかに年下でありながら、諭すようにジルコンが言う。
 十歳程だろうか。体躯に見合わずその言葉は大人びている。ジルコンはルビィに手を差し出した。


「ほら、さっさと家に帰れよ」


 他意は無いだろうジルコンの物言いに、ルビィは知らず涙を流していた。ジルコンはぎょっとして、狼狽しながら言った。


「お前、何、泣いてんだよ!」


 動揺するジルコンを前に、ルビィは涙を拭う。張り詰めていた緊張の糸が緩んでしまったかのように、涙が止まらない。
 ジルコンが、殊更優しく問い掛けた。


「お前、帰れないのか?」


 頷いたルビィを、ジルコンが如何理解したかは解らない。だが、ジルコンは暫し逡巡する素振りを見せると、顔を上げて行った。


「しょうがねーなぁ。付いて来いよ」


 その言葉と共に、ルビィは立ち上がる。乱雑に置かれた荷物は、引き連れた子どもが一つ残らず拾い集め抱えていた。
 手を引かれながら進む先は、彼等の現れた路地裏だった。だが、よく見れば外壁の一部に穴が空き、子ども一人分が通れるようになっている。昼間に見たものと同じだとルビィは思った。これは彼等専用の通路なのだろう。
 漆黒に包まれたトンネルを慣れたように進んで行く。そして、視界は拓けた。
 其処は、昼間に見たあばら家の集落だった。今は僅かに篝火が周囲を照らしているが、死んだように静まり返っている。


「こっち」


 ジルコンが手を引く。小さいが、幾つもの肉刺や胼胝の潰れた固い掌だった。
 向かう先は、やはり今にも崩れそうなあばら家だった。板を張り合わせただけのような壁と、扉代わりの襤褸布。ジルコンは迷いなく進んで行く。内部は思うよりも広く、明るかった。ジルコンが現れると、何処から出て来たのか小さな子ども達がわっと押し寄せた。


「ジルコン、早かったね。如何したの?」
「ちょっとな。それより、……スピネル!」


 呼ばれたのは、やはり小さな子ども、ぼさぼさの髪をした少女だった。手足は棒のように痩せ細っているが、表情は子どもらしく明るい。
 弾むような足取りで駆け寄るスピネルに、ジルコンは言った。


「こいつの面倒、見てやってくれ」
「うん。解った」
「じゃあ、俺は一仕事行って来るから」


 ジルコンはルビィを押し付けて言った。


「こいつはスピネル。小さいがしっかり者だ。困ったら何でも言え」
「でも」
「何があったか知らねーが、困った時はお互い様だ。大人は頼りにならないからな」


 そう言って、ジルコンが悪戯っぽく笑った。
 一秒でも惜しいというように、ジルコンは仲間だろう少年達を引き連れ、また出て行った。残されたルビィは、肩を落とす。傍には持って来た荷物が置かれるが、子ども達があっという間に群がっていた。
 スピネルはそれを気にする風でも無く、ルビィに手を差し出して言う。


「宜しくね。……ええと」
「あ、私は、ルビィ。宜しく」


 手を取り、二人は握手した。
 状況の変化について行けないまま、ルビィは促されその場に座った。スピネルは群がっていた子どもを一度叱り付けると、ルビィに向き直る。荷物の食べ物は既に無くなっていた。


「ごめんね。皆、何時もお腹を空かせているから」
「ううん。私こそ、急にお邪魔して……」


 人懐っこく笑いながら、スピネルが言った。


「何があったかは聞かないわ。だから、楽にしてね」
「ありがとう……」


 スピネルの純粋な優しさに、口元が綻ぶのが解った。
 ふっと息を吐くと、やはり、ダイヤのことが胸を締め付ける。それを知ってか知らずか、スピネルが言う。


「今日は兵隊が多いから、ジルコン達、ちょっと心配だな」
「……魔族が、いたって」


 なるべく知らぬ風を装いながら、ルビィは言った。すると、スピネルがそれまでの笑みを消し去り、眉間に皺を寄せて言った。


「そうなの、そうなの。兵隊もたっぷり給料貰ってるんだから、しっかり仕事して欲しいよね。魔族を取り逃がすなんて!」


 その言葉に、ルビィは内心安堵の息を漏らした。どうやら、ダイヤはまだ捕まっていないらしい。
 けれど、スピネルは言った。


「でも、時間の問題でしょうね。町の出入口は封鎖されたし、空も塞がれた。手負いだって聞いてるし」
「そうなんだ……」
「町に魔族が潜んでるなんて、怖いよね」


 同情するように、スピネルは言う。思わず、ルビィは言った。


「でも、悪い魔族じゃないかも知れないよ」
「え?」
「人間を襲いに来た訳じゃ、無いのかも……」


 言えば、スピネルは少し考え、答えた。


「逃げた魔族はそう言っていたらしいけど、そんな訳無いよ」
「如何して」
「人間を襲わない魔族なんていない」


 そんなことない、と否定しようとしたルビィに、スピネルが言う。


「だって、私のお母さんは魔族に殺されて、食べられたんだから」


 何でもないことのようにスピネルが言う。ルビィは言葉を失っていた。
 子どもだけで生活しているこの子達が、胸の内に何の葛藤も抱えていない筈が無い。自分の配慮が足りなかったと肩を竦ませるルビィに、スピネルが笑って言う。


「でも、今はジルコン達がいるから、いいんだ。だから、そんな顔しないで」
「ごめん。私……」
「だから、大丈夫だよ」


 自分よりも小さな子どもに、撫でられながらルビィは自分が酷く惨めに思えた。
 自分は、無力だ。これまで幾度と無く痛感して来たことだった。
 そうしている間に、ジルコンが戻って来た。両手一杯に袋を抱えている。散っていた子ども達は彼等の帰還を喜び、迎え入れる。質素でみすぼらしい暮らしだ。けれど、温かい。
 和気藹々とする彼等は、配給するように食料を配って行く。彼等がそれを何処から手に入れたのか、ルビィは解るような気がした。
 こんな夜に、まさか人から貰える訳も無かった。一般的には許されない行為なのだろう。けれど、そうとしか生きられない人間がいるのだ。
 ジルコンは一仕事終えたというような晴れ晴れとした表情で、何も敷かれない床に座り込んだ。


「兵隊が多くて大変だったぜ」
「魔族は未だ未だ捕まっていないの?」
「みたいだな」


 ジルコンとスピネルの遣り取りを横に、ルビィは思案する。
 このまま、此処にいていいのだろうか。何か行動を起こすべきでは無いだろうか。ダイヤを、探しに行くべきか。
 思案していると、ジルコンがルビィを見た。


「お前も暫く此処にいた方がいいよ。兵隊がピリピリしてるし、魔族もうろついてる」
「でも、」
「気にするな。子どもは皆、家族も同然なんだから」


 朗らかにジルコンが笑う。
 このまま、隠していていいのか。今逃げている魔族は自分の仲間で、兵隊が警戒しているのは自分達のせいだと、白状するべきなのか?
 自問するが、答えは出ない。ダイヤがこれまで幾度と無く問い掛けて来たことを思い出す。何故、自分で考えない?
 でも、解らない。如何すればいい。ダイヤなら、如何する。
 答えの無い問いを繰り返す間に、夜は次第に更けて行く。就寝の用意を始めた子ども達を、ジルコンは目を細め、まるで眩しいものを見るように見守っている。


「……こいつ等さ」


 子ども達が皆寝静まったことを確認し、ジルコンは言った。
 傍ではスピネルが寝息を立てている。


「親を、魔族に殺されたんだよ」
「……皆?」
「そう」


 一つ息を吐いて、ジルコンが言った。


「お前はこの町の人間じゃないから、知らないだろうけど。今から十年くらい前、この町の傍で魔族と戦があったんだよ」
「戦……?」
「そう。それで、人間軍は敗走して、魔族はこの町まで攻め込んで来た。その頃は軍隊も無かったから、町はあっという間に侵略された。大勢の人間が殺されたり、連れ去られたりしたんだって」


 ルビィよりも幼いだろうジルコンにとって、それは人伝に聞いた御伽噺のようなものだろう。けれど、彼等はその関係者だった。


「俺達の親も殺された。スピネルのお母さんは、目の前で腸を食われた。そうやって町が滅ぶ寸前、近くにいた傭兵団が来て、魔族を遣っ付けてくれたんだ。その傭兵団が今も町に残って、軍隊になったんだよ」


 掛ける言葉が、何一つ浮かばなかった。同時に、ルビィは思う。自分は何時もそうだ。気の利いた言葉一つ掛けられず、相手の心情も察せず何も出来ない。無力で、薄情で、愚鈍な人間だった。
 何故、考えないのか。ダイヤは常にそう問い掛ける。けれど、何を考えたらいいのかが解らない。如何しようも無く、無力だった。
 黙り込んだルビィの頭を撫で、ジルコンが言う。


「そんな顔、するなよ。もう終わったことなんだから」


 終わったことだと、如何して割り切れるのだろう。ジルコンにしても、ダイヤにしてもそうだ。
 傷跡は残るだろう。痛みは残るだろう。それでも何故、前を向けるのか。


「辛いことを、思い出させてしまって、ごめんなさい」


 力無く口にしたルビィに、ジルコンは目を丸くする。そして、くしゃりと笑った。それは年相応の無邪気な笑顔だった。


「お前、良い奴だな」
「良い奴なんかじゃないよ」
「そうかな。だって、こんな昔話を真剣に聞いてくれて、自分のことみたいに悲しんでくれる」


 そういうお前に、救われる奴がきっといるよ。
 ジルコンが微笑んだ。

40,Determine.

40,Determine.




 ジルコン達は、ルビィは思う以上に逞しい子ども達だった。指示された通り正確に動く彼等は、最早孤児の集団ではなく、軍隊にも等しかった。
 彼等の手伝いが何か出来ないかと、恩返しにならないかと、ルビィはジルコンの仕事を手伝うと進み出た。喜んで賛成する訳ではなかったが、ジルコンはルビィの同行を許可した。その程度には、信頼されているとルビィは判断する。
 子ども達は、ジルコンの指示に従って正確に行動する。一人が囮となって気を引き、その隙に物を盗む。行為そのものは悪なのだろうが、彼等の技巧は素晴らしかった。店先の食物を盗まれたと言うのに、店主は気付きもせずに客と談笑している。それを繰り返すこと十数回。あっという間に大量の食糧等の物資が集まっていた。
 子ども達を纏めるのはジルコンだ。彼は子供離れした頭脳で、仲間を動かす。機転を利かせて作戦も変更する。仲間の命を第一と考えていることが、傍目にも解る程に慎重だ。


「如何だ、すごいだろう!」


 戦利品を肩に担ぎながら、ジルコンが躍るような足取りで言った。
 隠れ家へ向かう子ども達は軍隊に見付からぬように分散している。ルビィは苦笑交じりに頷いた。
 その反応に気を良くしたらしいジルコンが鼻唄を唄い出す。単純で可愛らしい子どもだ。背負っているものは大人以上に重いけれど、それでもこうして朗らかに笑っている。
 彼等の専用通路のある路地裏へ入り込んだ時、周囲が騒然となった。
 騒ぎの中心は、商店の賑わう表通りだ。ジルコンは気配を押し殺しながら、外壁からそっと顔を覗かせて様子を窺う。
 まさか、仲間が捕まったのか?
 ジルコンの顔に焦りが滲む。けれど、其処にいたのは彼の仲間ではなかった。


「いたぞ! ――魔族だ!」


 声を上げる軍隊の言葉に、ルビィは反射的に街路を覗いていた。
 空から注ぐ日光を反射し、銀髪が美しく輝いた。透き通る清流のようだった。
 ダイヤだ。
 駆け寄りそうになったところで、ジルコンが庇うようにルビィを路地裏へ押し留めた。


「やっと姿を現したか、魔物め」


 忌々しげにジルコンが言う。
 街路に飛び出したダイヤが、負傷したのか腕を押さえて猫のように身を低くしている。腰に剣は無く、翼もしまい込まれている。何かに吹き飛ばされたのだろう。周囲は砂塵が舞っていた。
 突如、姿を現したダイヤの存在に人々が恐れ戦き逃げ惑う。彼等の胸には、嘗て起こった魔族による虐殺の記憶が鮮明に残っている筈だ。
 ジルコンもまた、殺意にも似た眼差しを向けている。大勢の敵意、殺意に晒されながらダイヤは立ち上がり、能面のような無表情で周囲をぐるりと見回した。視線を受けた民衆が悲鳴を上げる。当然の反応だ。
 ダイヤが無害であるとは、ルビィにも言えない。けれど、まるで病原体のように、化物のように恐れるのは異常だ。確かに強力な力を持つ異形の種族なのだろう。けれど、彼は人間以上に強い信念と理性を持っている。
 足元の汚れを払いながら、ダイヤは言った。その正面には、昨夜対峙したあの兵士がいた。紅いマントを棚引かせる様を見れば、もしかすると彼は兵士を率いる団長なのかも知れない。


「成敗してくれる!」
「成敗って」


 ダイヤが、小馬鹿にするように笑った。


「おめでたい人間だな。自分が、正義だって?」


 その問いに、今にも切り掛かりそうな男は動きを止めた。
 ダイヤは構える事無く問い掛ける。


「相手の素性も知ろうとせず、町に侵入した魔族だから皆殺しか?」
「何が悪い!」
「俺が仮に、死と同時に周囲を爆破させる能力を持っていたら如何するんだ」


 仮定を上げても意味が無いことだ。ルビィは冷静に思うが、軍隊の動きを止めるには十分だった。
 兵士はダイヤを取り囲む班と、民衆を避難させる班に分かれそれぞれが己の仕事を理解し熟している。周囲を囲まれ、上空にすらダイヤの逃げ場は無い。その絶体絶命の状況でも、ダイヤは、笑うのだ。


「正義だなんて言葉を平然と吐く奴、俺は信用出来ないな」


 そう言って、ダイヤは地面を蹴った。浮かび上がるような軽やかな動きに、男の反応が一瞬遅れる。その隙を逃すまいとダイヤは男の右肩に手を添え、独楽のように勢いよく旋回した。遠心力を加えた強烈な一撃は男の後頭部に当たり、反動で兜が落下する。
 後頭部を押さえた男がふらふらと歩き出す。身体を支える為の無意識の行動だろう。ダイヤはその男に足払いを掛ける。いとも簡単に転んだ男の喉元を足で押さえ、ダイヤは鼻を鳴らした。


「世の中、善悪で判断出来ることなんて少ないぞ。この町の掟に従って安寧を得ているお前等は、家畜と一緒だ」


 酷い言い様だが、否定出来なかった。
 男が先頭不能と判断するや否や、周囲を取り囲んでいた兵士は一様に弓を構えた。ダイヤが一瞬、まずいという顔をする。
 空は飛べない。剣は無い。風で吹き飛ばすか? だが、そうして飛ばされた矢が何処へ飛ぶのか解らない。一瞬の逡巡、矢は、放たれていた。
 空気を裂く無数の音。軍隊は勿論、民衆すら仕留めたと思っただろう。ルビィは堪らず、ジルコンを押し退けて声を上げていた。


「ダイヤ――!」


 その瞬間、青い目がきらりと輝いた。
 青い目に映ったのは足元の男の剣だ。矢が届く刹那程の時間に気付き、引き抜き、構えた。そして、鼻先まで迫った鏃を、一本の剣で粉砕して行く。人間には到底不可能な速度の芸当だった。民衆には何が起こったのかすら理解出来なかっただろう。
 ダイヤの周囲には歪み切った鏃が、近付くことを拒絶する結界のように落下していた。
 剣を手にしたダイヤに、兵士が焦りを見せる。彼の剣戟の凄まじさは、知っている筈だ。けれど、それでも攻撃を止めぬ兵士達が第二の矢を構えている。ダイヤなら、それを簡単に振り払うことが出来るだろう。――そう解っているのに、ルビィは自分の足を押し留めることが出来なかった。
 兵士に囲まれたダイヤも、ルビィの存在に気付いている。声を掛けないのは、其方へ意識を向けさせ、危害を加えさせない為だ。


「こんな使い古された陳腐な武器と戦法で、俺を討ち取れると思っているのか?」


 敵意を剥き出しにするダイヤに、取り囲む兵士が一瞬戦く。元は傭兵だという彼等であっても、ダイヤとは踏んで来た場数が違う。
 一本の剣だけで大勢の兵士を圧倒しながら、ダイヤが微笑む。その瞬間、ダイヤの背後に影が沸き上がった。それは銀色の閃光となってギロチンのように振り下ろされた。――刹那、飛び退くようにして躱した。勢い余って砕かれた石畳が悲鳴を上げる。
 身を低くしたままダイヤは、その影を睨んだ。影は大きな鎧を守った兵士だった。


「魔物め……」


 忌々しげに、男が吐き捨てる。ダイヤは立ち上がった。
 剣を向け、対峙する。糸が張り詰めるような緊張感が周囲を満たして行く。互いの出方を窺い、その緊張が切れる瞬間、同時に二つの影が地面を蹴った。高音が響く。二本の剣が交わり、激しく競り合う。軋むような音が周囲に広がって行く。
 ダイヤは、兜を深く被った男をじっと観察する。壮年の人間の男だ。掌から伝わる剣戟の重さに、彼の強さを実感する。ダイヤは知らず笑っていた。それは全ての魔族が持つ闘争本能だった。青い瞳に、炎が灯る。
 戦うことが、楽しい。力を振るうことが、嬉しい。今この場で剣を握り、人間と争うことがこんなにも喜ばしい。そういった本能を、ダイヤはギリギリで圧し留めている。本能に身を任せてしまえば、この場にいる全ての人間を虐殺してしまう。
 それでも、いいんじゃないか?
 一瞬、そんな考えが脳裏を過る。
 だって、人間じゃないか。否、魔族だって同じだ。如何して俺が、関係の無い奴等の命の心配までしなければならないんだ。
 ダイヤの掌に力が籠る。それを感じ取っただろう男が、驚愕に目を見開いた。弾かれる。男はそれを本能で察知した。けれど、それと同時に、周囲より一斉に矢が放たれた。
 それは一分の隙も無いよう、一斉に暴風雨のように放たれた。ダイヤの背中に翼が現れる。対峙する男も、迫る矢も全て吹き飛ばそうとしていた。それで終わりだ。だが。


「ダイヤ!」


 ぱちん、と。シャボン玉が割れるような音が脳内に響き、ダイヤは思考を止めた。
 一見すれば絶体絶命の状況だった。其処に小さな影が躍り出る。――ルビィだった。
 ダイヤを庇うよう両手を広げ、文字通り矢面に立ち塞がった。ダイヤにとってそれは意味の無い、ともすれば蛇足と呼ぶべきものだった。
 放って置けばいい。その思考を、理性が押し留める。


「退け、ルビィ!」


 広げられたルビィの腕を引っ掴み。翼の下に抱え込む。
 降り注ぐのは、容赦のない鋭い鏃の雨だ。魔族のダイヤとて、無事では済まないだろう。悪態吐きながら、ダイヤは覚悟を決める。野次馬と化した民衆から悲鳴が上がった。
 その瞬間、何処からか現れた光の壁が一直線に伸びた。それは小さな空間を築き、襲い来る矢を一つ残らず弾き飛ばして行った――。
 訪れない痛みにダイヤが目を見張る。蛍のように静かに発光するその空間を、知らない筈も無い。二人を囲む小さな部屋は、周囲から隔離され何者にも干渉することは出来ない。
 石畳を打つ乾いた音が、反響して行く。


「何、面倒事に巻き込まれてんだよ」


 金髪を揺らしながら、蜜色の瞳で蕩けそうに微笑んでいる。トパーズだ。ダイヤは、ふっと肩の力を抜いた。
 新たな魔族の登場に民衆が、兵隊がざわめいた。トパーズは周囲を一瞥し、辟易したというように息を零す。


「ジェイド」
「ああ」


 声を掛けられたジェイドは掌を翳す。身構える兵を意に介さず、ジェイドは掌から白い光を放ち始めた。
 ジェイドの魔法は、空気を媒介として幻想を見せる。ダイヤが、それを声で制した。


「止せ、ジェイド!」


 従うように、ジェイドも光を収めた。既にトパーズの魔法も消えている。
 ダイヤは翼を丁寧に畳んだ。その下から、身を小さくしたルビィが現れる。


「もう、いい……」


 そう言って、ダイヤは膝を着いた。昨夜受けた傷が深かったのだろうかと、ルビィが慌てて様子を窺う。けれど、傷は既に癒え、やがて痕すら消えるだろう。
 疲弊し切った様子のダイヤを心配そうにジェイドが覗き込む。ダイヤは俯き、表情は見えない。


「疲れちまった。行こうぜ」


 顔を上げたダイヤは、少し笑っているようだった。それは余りに彼らしくない表情だった。ルビィは肩を竦ませる。
 立ち上がり、膝を払ってダイヤが言った。


「邪魔したな」


 それだけ言い残して、この町で受けたことを何もかもを無かったことにしようとしている。ダイヤは背を向け、民衆の元から歩き出していた。
 呆気無い魔族の退場に、拍子抜けとばかりに民衆が囁き合う。


「何だったんだ、結局」
「あの魔物、何もしなかったな」
「兵隊が追い掛けなければ、こんな騒ぎにもならなかったんじゃないか」


 民衆の囁き合いが、一つの答えを提示している。


「あいつは、悪い魔物じゃなかったんじゃないか?」


 ルビィは頷きたかった。声を大にして叫びたかった。
 兵隊は一晩中、丸腰のダイヤを追い回した。何の危害も加えなかったダイヤへ、一方的に暴力を振るった。ダイヤは何もしていないと、皆に訴えたかった。けれど、その権利はルビィに無い。
 立ち去ろうとするダイヤの背中を、ルビィは追い掛けようとした。人込みの中から、声がした。


「ルビィ!」


 呼ばれた先、振り向いたところでジルコンが立っていた。数人の仲間を引き連れている。その中には、スピネルの姿もあった。
 疑惑に満ちた目を向け、ジルコンが問い掛ける。


「お前、魔物の仲間だったのか……?」


 裏切られたというように、ジルコンが傷付いた顔をする。
 この子はもう十分に傷付いた。これ以上苦しむ必要なんて無い。手を差し伸べたいと、切に願った。
 先を歩いていたダイヤが足を止め、振り向く。感情の読めない無表情で、ダイヤが何かを言おうとした。その言葉の先が、ルビィには予想出来るような気がした。


「そうだよ」


 ダイヤを遮ったルビィの声に、ジルコンが、スピネルが言葉を失う。ルビィは無表情に、突き放すように言った。


「黙っていて、ごめんね」
「何で……、何で魔物の仲間なんてしてるんだよ!」


 悲鳴にも似たジルコンの叫びに、ダイヤはもう何も言わなかった。既に背を向け、歩き出している。
 ルビィもまた、立ち止まる訳には行かなかった。


「全ての魔族が悪ではないよ」
「そんなの、嘘だ!」
「貴方にも、何時か解る」


 先程の、民衆の囁き合いが全ての答えだ。
 これ以上の言葉は不要だとルビィも、ダイヤ達を追って歩き出す。動揺し行動を起こせない兵隊と、野次馬の中でジルコンだけが振り絞るように声を上げる。


「裏切り者!」


 けれど、ルビィは振り返らない。
 前だけを見据え、歩き続ける。歩調を速めればすぐにダイヤへ追い付いた。
 ダイヤはやはり、何も言わない。町で何があったのか興味が無いのか、今は訊く気が無いだけなのか、トパーズとジェイドも何も問い掛けはしなかった。ルビィは言った。


「……さっき、私を町に残そうとしたでしょう」


 ダイヤは黙ったままだ。
 あの時――、追い縋るジルコンに、ダイヤはルビィを押し留めようとしたのだ。こいつは人間だ。俺達とは関係無い。だから、危害を加えるな。此処に置いてやってくれ。そういった意味を込めて、ダイヤが口を開いたことは明白だった。
 図星を突かれたからか、機嫌が悪いのか、ダイヤは口元を真っ直ぐに結んだままだった。
 ルビィは声を低く、唸るように言った。


「もう二度と、私を置いて行こうとしないで」


 以前も、ダイヤはルビィを突き放そうとした。
 ルビィを守る為に、自分の身を差し出したこともあった。理由は解らない。ダイヤにだって、解っていないだろう。けれど、確かな事実が一つ、ルビィには解っている。ダイヤにとって、ルビィはどうしようもなく弱い存在なのだ。守らなければ生きていけない存在と、そう捉えている。そして、ルビィは自分の無力さも痛感していた。
 それでも、ルビィは訴える。


「何処に身を置くかは、自分で決める。私は私の意思で、貴方と一緒に行きたいの」
「……後悔するぞ」
「しない」
「じゃあ、」


 ダイヤの腕が伸び、ルビィの頭をくしゃりと撫でた。


「泣くんじゃねーよ」


 ぶっきら棒に、ダイヤが言った。
 裏切り者と言った、ジルコンの声が頭から離れない。裏切ったつもりなんて無かった。傷付ける気なんて無かった。一緒にいてあげたかった。
 それでも、この道を捨てることは出来ない。択んだのは自分だ。
 頭を撫でたその掌が、ジルコンと重なる。ルビィは頬を濡らす涙を、乱暴に拭った。

41,Dispute.

41,Dispute.




 雨が降っていた。
 しとしとと、泣けない誰かの為に空が涙を零しているようだ。ルビィは隣のダイヤを盗み見る。青い瞳は鉛色の空をぼんやりと眺め、此方へは決して向けられない。彼の思考は解らない。
 砂漠を越え、海を渡り、荒野を抜ける。やがて空気は乾き、身を震わす寒風が吹き始めた。止まない雨に、一休みとばかりにルビィ達は大樹の元で雨宿りを始めた。
 トパーズの空間隔離の魔法を使えば、雨に濡れることも無く歩き出せただろう。けれど、トパーズは雨が珍しいかのように掌で雨粒を受け、笑っているばかりだった。先を急ぐ旅ではないのだから、そういうこともあるだろう。傍でジェイドは膝を抱え、行儀良く座っている。
 それまで黙っていたダイヤが、唐突に口を開いた。


「そろそろ、お前の目的を話せ」


 それが誰へ向けられた言葉なのか、ルビィには解らなかった。
 ダイヤは変わらず曇天を見詰めている。それまで関心を示さなかったトパーズが、振り向くことも無く言った。


「目的地に着いたら、話すさ」


 歌うような軽やかな口ぶりだった。まるで、この先に楽園が待ち受けているかのような希望を孕んでいる。
 けれど、ダイヤは青い目をすっと細め、口調を尖らせた。


「俺の行先を、お前が決めるな」
「どうせ、行く当ても無い旅なんだろ?」
「それはお前が行先を決める理由にはならない。その場所に俺を連れて行きたいなら、目的を話せ」


 其処で漸く、ダイヤはトパーズに目を移す。
 トパーズは笑っている。子どもの悪戯を許容するかのような、慈愛に満ちた微笑みだ。それすら癇に障るようでダイヤは睨み付けた。


「お前、何か勘違いしていないか。俺は、お前を信用していない」
「ガキの頃、散々遊んでやっただろ」
「知らない。もしもそれが事実なら、俺が覚えていないのではなくて、お前が記憶を封じたんだろう」


 確信めいたダイヤの言葉に、ルビィも黙って頷いた。その可能性は、ルビィも感じていた。実際に問い掛けたこともある。
 はぐらかすか、騙し通すか。トパーズが困ったように笑う裏に、得体の知れない思惑が蠢いているようで不気味だった。だんまりを決め込んだジェイドは、我関せずといった調子で目も向けない。それでも、耳は傾けているようだった。


「なあ、人間の脳には、自分の心を守る為に過去の記憶を忘れさせる機能があるらしいぜ」
「俺は人間じゃない」
「ああ、お前は魔族。それも魔王様の末子だ」


 要領を得ない言葉に、ダイヤの苛立ちが手に取るように解る。
 それでも、トパーズの笑みは崩れない。全てが予定調和であるかのような余裕だった。
 ダイヤが言った。


「過去に興味は無い。封じたなら、もうそのままでいい。何も困らないからな」


 捨て鉢のような言葉だが、ダイヤの本心だろう。


「だが、目的がはっきりしないのは、如何にも落ち着かない」
「怖いからだろう?」


 挑発するように、トパーズが返す。ダイヤは目を細めるだけで、答えなかった。
 何が怖いのだろう。ルビィは思う。ダイヤの怖いものとは、何だろう。そう考えて、行き着く答えは一つだった。


「ガーネットを奪われるのが、怖いからだろう?」


 ぴくりと、ダイヤの眉が跳ねる。
 ガーネット。ダイヤにとって唯一無二の友人で、育ての親でもある。ダイヤにとっては帰る場所であり、居場所だ。
 一度は命を失ったが、今は水中庭園で重傷の身体を休めている。そして、現在、その水中庭園を守っているのはトパーズの魔法だった。
 これは人質だ。優しげな微笑みの裏に隠れている何かが垣間見えたような気がして、ルビィは身震いする。


「あいつはそんなに弱くない」
「でも、今は大怪我をしているからな。俺が魔法を解いた先に、魔王軍が攻め込んで来たら一溜りも無いだろう?」
「……」


 ダイヤが、黙った。弱味を真っ直ぐに突いたトパーズの言葉に、何も返せなかったのだ。
 そして、言葉を放棄したダイヤは立ち上がり、腰の剣に手を伸ばした。今にも斬り掛かりそうに身を低くする。臨戦態勢のダイヤに、ルビィはぎょっとしつつ距離を取る。


「ガーネットを引き合いに出すということは、宣戦布告と取っていいんだな」
「いやいや! 冗談だよ、冗談」
「笑えない冗談だ。その首、掻っ切ってやる」


 ダイヤが剣を抜き放とうとする寸前、黙っていたジェイドが口を挟んだ。


「言っていい冗談と、言ってはいけない冗談があるぞ。お前のは後者だ。性質が悪過ぎる」


 その場を収めるように、ジェイドは間に立った。


「ダイヤも、剣をしまえ。安い挑発に乗るな」


 ダイヤが大きな舌打ちをして、その場に胡坐を掻いた。
 機嫌を損ねたらしくダイヤは大樹に背を預け、そっぽを向いている。トパーズは苦笑いしながら「あちゃー」と呟く。


「悪かったよ、ダイヤ」


 多少は反省しているのだろう。トパーズは眉を下げて謝罪を口にする。それでも臍を曲げたダイヤは見向きもしない。
 ずっと、不安だったのかな。ルビィは思った。水中庭園を出た後も、ずっとガーネットの身を案じていたのだろうか。自分が傍にいられないこと、守ってやれないこと。ずっと、それを考えていたのだろうか。
 向けられたダイヤの後頭部、銀色の髪がさらりと揺れた。振り返ることも、謝罪を受け入れることもしない。


「俺が悪かったよ。機嫌直せよ、ダイヤ」


 ダイヤは、何も言わない。
 子どものようだな、とルビィは思う。百五十年以上も生きているダイヤが、人間にしたらどれ程の年齢になるのか解らない。けれど、いじけたその後ろ姿は子どものようだった。
 ジェイドが言った。


「そっとして置いてやれ」


 流石に、トパーズもばつが悪そうに息を漏らす。
 ぽつりと、言った。


「……アレキサンドライト様の故郷へ、連れて行きたいんだ」


 振り返らないダイヤの背中へ、トパーズが吐き出すように言った。
 度々耳にするその名前が、誰を示すものなのかルビィは知らない。


「誰?」


 声を潜め、ルビィはジェイドに問い掛ける。
 ジェイドは息を漏らすように答えた。


「ダイヤの母親だ」


 瞬間、耳を疑う。ダイヤは以前、母親のことなど知らないと言っていた。
 あれは嘘だったのか。触れられたくないことなのか。ルビィは黙り込む。けれど、漸く振り向いたダイヤがぶっきら棒に言った。


「母親のことなんて俺は知らない。余計な世話だ」
「お前の為にする訳じゃない。俺の自己満足だ」
「……何故?」


 ダイヤが訝しむように問い掛ける。トパーズは笑った。


「アレキサンドライト様は、俺の――、否、俺達の育ての親だ」


 達、が誰を示すのかルビィは解らない。ダイヤも同様だろう。
 ジェイドが言った。


「俺とトパーズ、ガーネット。他にもいるが……、アレキサンドライト様は弱い魔族の子どもを守ってくれていたんだ」


 懐かしむように語るトパーズの目に、何が映っているのかルビィは知らない。
 トパーズが言う。


「アレキサンドライト様は、ある特殊な魔法を使うことの出来る一族の長だった」
「特殊な魔法?」
「多くは知らん。だが、あの方が手を翳すと病も怪我もたちどころに消えてしまった。あれは、癒しの魔法だったんだろう」


 魔法。ルビィには想像も付かない異能だ。
 だが、トパーズの空間隔離、ジェイドの幻術、そう言った魔法を実際に見て来たことから、それは夢物語ではない現実であることを知っている。
 トパーズは、退屈そうなダイヤの横顔へ向けて訴える。


「お前はアレキサンドライト様の血を引く、一族最後の生き残りだ」


 その言葉に、ダイヤが訝しげに目を細める。


「……で?」


 ただ一つの音に、目に見えない筈の感情が無数に込められていた。
 不信感、不快感、嫌悪感。胡乱な眼差しは、旧友に向けるそれではない。間違ってもガーネットには向けないだろう剥き出しの敵意に、トパーズが僅かにたじろぐ。ダイヤが言った。


「それが、何だ。俺に魔法が使えると?」


 ダイヤが魔法を使ったことはない。使えないのだ。
 白亜の翼、驚異的な運動能力、圧倒的な治癒力。他の魔族に比べ、どの程度かは解らないが、人間に比べれば遥かに強靭な肉体を持っている。それがルビィの知る、魔族としてのダイヤだった。
 もしも魔法が使えたのなら、今頃、此処にはいなかっただろう。
 癒しの魔法――。そんなものが使えるのなら、ダイヤは何より先にガーネットを癒した筈だった。
 溜息を呑み込んで、諭すようにトパーズが訴える。


「可能性がある、ということだ。アレキサンドライト様の故郷へ行けば、お前も魔法が使えるようになるかも知れない」
「必要無い」
「如何してだ。癒しの魔法があれば、ガーネットも……」


 其処でダイヤが、目を伏せる。長い睫が影を落とす頬には、僅かに疲労が滲んでいるような気さえした。


「傷はやがて癒える。それに、大き過ぎる力は争いを呼ぶだけだ」
「それが如何した。この世は戦乱だぞ。力を制すには、――力しかない!」


 勢いよくトパーズが、立ち上がった。
 雨脚が強くなり、厳しい寒風が金色の髪を揺らす。その蜜色の瞳に、青白い炎を見たような気が、した。


「生きる為には戦わなくてはならない! 守る為には力が必要だ! 俺はもう二度と……、アレキサンドライト様を失った時のような思いをしたくない!」


 何時だって、飄々として本音を読ませないトパーズの本性が、こんなにも激しいものだったと誰が予想出来ただろうか。
 怒鳴り付けるように叫ぶトパーズの面は険しく、今にもダイヤへ噛み付きそうだった。それでも、ダイヤは目を伏せたまま態度を崩さない。


「お前はこのまま逃亡を続けるだけか? 何時まで!? サファイヤ様が本気になったら、お前もガーネットも、今のままでは皆殺しだ!」


 それでもいいのか!
 必死に訴え掛けるトパーズの言葉に、ルビィは胸が軋むように痛んだ。
 彼の言葉は真理だった。力が無くては大切なものを守れない。けれど。


「毒を以て毒を制す遣り方は、新たな毒を齎す」
「この世は弱肉強食だ。世界の摂理だ。この百五十年、お前は一体何を見て来たんだ。まるで、世間知らずの甘言じゃないか」
「いたちごっこだろうが、それは」
「何が悪い。世界はそうして回って来た」
「俺は、それじゃ嫌なんだよ」


 青い瞳が、真っ直ぐにトパーズを見詰めていた。
 揺るがない、嘘偽りの無い強い口調だった。


「時代は巡る。歴史は繰り返す。――本当に? 本当に、それだけか? 他の選択肢は、道は有り得ないのか?」


 不意に、ダイヤの目がルビィへ向けられ、逸らされた。
 一瞬に巡らされた視線の意味は解らない。だが、ダイヤは問い掛ける。


「争いしか有り得ないのか? 滅ぼし合う以外の選択肢は無いのか? 共存を願う人間がいる。争いを求めない魔族がいる。それが一つの可能性だと思うのは、俺だけか?」


 トパーズが、黙る。尚もダイヤが言った。


「世間知らずは認めよう。俺は何も知らなかった。だから、この百五十年、ずっと魔族と人間を見て来たんだ」
「見て来た結果が、人間と魔族の共存か? お前、正気か?」


 睨むような鋭い視線で、トパーズが問う。
 ルビィにとっては、ダイヤの言葉は十分理解に足るものだ。短い旅ではあったが、そう強く想う。
 だが、トパーズ――否、魔族にとってはそうではないのだろう。人間もまた、同様の筈だ。長く争い続ける人間と魔族が共存出来るのではないかなんて、御伽噺だ。世間知らずの甘言なのかも知れない。――それでも。


「何故、自分で考えない?」


 ダイヤが、幾度と無く問い掛け続けて来たことだった。


「……ずっと、それが不思議だった。何も考えず、目先の欲を満たすことだけを願い、命を消費し続ける。人間と魔族、何が違う。思考を放棄した生き物なんて、家畜と一緒じゃないか」
「そういう考えが無かった訳ではない。実現出来ない思想だから、廃れたんだ。ジェイドのいた町と、同じように」


 トパーズの鋭い口調に、ジェイドが目を伏せる。


「お前が人間と魔族の共存を願うのは構わない。だが、実現には力が必要だろう。違うか?」
「違う。方法論の話だ」
「人間と魔族が議論して協定を結ぶか? それこそ夢物語だろう! 人間と魔族の間にある溝は、お前が想像する以上に深い。魔族は人間の負の感情から生み出され、奴等に好き勝手に蹂躙されて来た。虐殺の歴史だ。それを今更、許せと? 誰が賛成する! 同胞の仇が、丸腰で目の前にいる。手には切れ味の良い刃。如何する? 答えは簡単だ!」


 捲し立てるトパーズに、ダイヤが言い返す。


「俺も解り合えるとは思わない。だが、争うことに意味を感じない。お前は敵討ちが目的なのか? 何が望みだ。人間を滅ぼした後、次は魔族の中で争いが起こるぞ。そうして全てを滅ぼして……、一体何になる?」
「魔族は滅ばない。優れた指導者がいればな」
「サファイヤが頂点となれば、間違いなく恐怖支配だ。悪意の目は其処此処で芽吹き、それを蹂躙し、大地を血で汚すか?」


 皮肉そうに、ダイヤが鼻を鳴らす。


「それとも、お前が指導者になるのか? それがお前の望みか?」
「違う。俺は指導者の器ではない」


 トパーズの真意が見えず、ダイヤが目を細める。それでも、彼の言葉を一言一句聞き逃すことの無いように、理解しようと耳を傾け続けている。
 トパーズが、言った。


「俺は――、ダイヤ、お前を王にしたい」


 今度こそ、ダイヤは理解出来ないものを見るように目を見開いた。
 こいつは、何を言っている? ダイヤの目が揺れる。
 歌うような軽やかな口ぶりで、トパーズが高らかに語る。


「アレキサンドライト様と魔王の血を引くお前なら、王に相応しい。否、お前以外に誰がいる」
「……俺に、人間を滅ぼせと言うのか?」


 ダイヤの形の良い眉が寄せられ、眉間には皺が刻まれる。だが、気にもしないトパーズが笑みすら浮かべていた。


「滅ぼせとは言わない。だが、統治は必要だろう」
「統治? 支配の、間違いだろう」


 まるで、敵に遭遇したかのようにダイヤが距離を取る。
 剣を抜きはしない。けれど、その目は恐ろしいものを見るかのようだった。


「ダイヤの理想があるのなら、それを叶えたら良い。俺も尽力しよう。その為に、俺はお前を王に推す」
「馬鹿な」
「何故?」


 自分の言葉を信じて疑わないトパーズは、恍惚と笑みを浮かべている。
 怖いと、ルビィは率直に感じた。人間と魔族が解り合えないとは思わない。だが、全ての魔族と人間が解り合えるとも、思わない。ただ、この魔族――トパーズとはきっと、解り合えない。それは水中庭園で、サファイヤを見た時と同じ感情だった。
 対峙するダイヤの目は険しい。何かを必死に考え、――つい、と、視線をジェイドへ向けた。


「ジェイド。如何、思う?」


 普段なら決して見せないだろうダイヤの姿に、ジェイドも困ったように眉を寄せる。
 此処にガーネットがいたなら、後ろにでも隠れたかも知れない。ジェイドが言った。


「……狡い言い方だが、俺はどちらの意見も解るし、共感出来る。だからこそ、それが今此処で答えの出る問いとは思わない」
「先延ばしにして、如何する」
「結論が欲しいなら、答えよう。俺もダイヤ、お前を王に推す。お前が言うように、サファイヤ様が王となれば、それは正しく地獄を見るだろう。だからこそ、俺はお前に、王となって欲しい」


 ガーネット。独り言にも似たダイヤの声が、ルビィの耳へと確かに届いた。
 ガーネット。ダイヤが縋る先は、それしかない。


「……ルビィ」


 視線を向けず、ダイヤが言った。
 そして、すぐにその言葉を自身で打ち消す。


「否、何でも無い。忘れてくれ」


 そうして目を逸らし、ダイヤは黙り込んだ。
 何かを深く考え込んでいるのかも知れない。全てを放棄したのかも知れない。ルビィには解らない。
 雨脚はやがて衰え、滴は雪へと変わった。周囲の音を吸い込みながら降り積もる雪の中、トパーズばかりが意味深に笑みを浮かべていた。

42,Snow.

42,Snow.




 雪夜は静かだ。全ての音が吸い込まれて行く。
 周囲に光は存在しない。灯火のような焚火が音も無く燻るだけだ。
 上衣にすっぽりと身体を埋め、ルビィは考えていた。
 ダイヤを王へと推すトパーズとジェイド。だが、二人の目的は異なる。少なくとも、トパーズは戦乱を収める事を目的とはしていない。何故、ダイヤを王へ推すのだろう。育ての親の忘れ形見だから。それだけが理由とは思えない。トパーズは自己満足と言っていたが、本当にそれだけだろうか。
 恍惚と笑みを浮かべるトパーズを思い出す。今は先程の剣幕も消し去り、穏やかに眠りに入っている。
 ダイヤは、如何だろう。人間と魔族の共存は難しいが、不可能ではない。少なくとも、ダイヤはそう考えている。だからこそ、一方を滅ぼすだけの遣り方を愚かだと論じているのだ。
 一方的な虐殺は禍根を残す。だから、現状維持か。このまま争いを続けた先に、何があるのか。結局、何時かは勝敗が付き、一方は虐げられるのだろう。答えの出ない問い。いたちごっこ。ダイヤの言葉がぐるぐると頭の中で回る。
 何故、ダイヤは王となることを望まないのか。理想の実現には、それが一番手っ取り早い。水中庭園では、ダイヤも魔王を討つと宣告していた。それはつまり、自分が王となることではないのだろうか。


(ダイヤが、王様……)


 強靭な肉体、自由の翼、揺るぎない意思。
 ぶっきら棒で、冷たく、歯に衣を着せぬ物言いは相手を思い遣ることをしない。けれど、友達の為に身を挺し、涙を零すことの出来る優しい魔族だ。――ダイヤが王になるのなら、それは理想に最も近いのではないだろうか。
 一方的に人間を虐げはしないだろう。相手の思想を重んじるダイヤならば、人間と魔族の共存出来る世界を、実現出来るのではないか。
 考え込んでいる間に雪は降り積もり、木陰を輪のように避けながら周囲を白銀へと染めて行く。一向に睡魔は訪れず、答えの無い問答ばかりを延々と繰り返している。


「おい、ルビィ」


 積雪に掻き消されそうな声が、確かに、した。
 顔を上げた先で、赤い光に照らされたダイヤの白い面があった。


「俺は此処を発つ。お前は、如何する?」
「……如何して? 何処へ行くの?」
「気紛れだ。トパーズの思惑に興味が無い。とりあえず、水中庭園へ行って、ガーネットの顔でも見に行こうと思う」


 普段のぶっきら棒な物言いの影に、別の何かが隠れているような気がした。
 ルビィは問う。


「如何して、ダイヤは王様になりたくないの?」


 静かに問えば、ダイヤはばつが悪そうに目を逸らした。蒸し返されたくない話なのだろう。口を尖らせながら、言い捨てた。


「お前には関係無いだろう」
「あるよ。だって、この世界の問題なんでしょ?」


 言い返せば、ダイヤは逡巡するように少し黙った。


「ダイヤが王様になれば、理想も実現出来るんじゃない?」
「理想?」
「ガーネットと、一緒に生きられる世界」


 其処で、ダイヤが驚いたように目を丸めた。そして、――綻ぶように、微笑んだ。
 ルビィに向けられる美しい笑みに、心臓が大きく脈を打つ。ダイヤが言った。


「それは、俺が王様にならなきゃ、叶わないのか?」


 泣き出しそうだ、と、思った。
 もしかすると、ダイヤは自分が思う以上に魔族としては幼いのかも知れない。人間にしたら二十歳にも満たない年齢なのかも知れない。初めて、そんなことを思った。


「……翼が欲しかったんだ」


 唐突に、ダイヤが言った。訴え掛けるような、震えるような声だった。


「ガーネットを連れて、世界を見て回る為に、翼が欲しかった。でも、俺が翼を漸く得たのは、ガーネットを守る為だった。……光も届かない瘴気に満ちた魔王城の地下牢で、引き倒され傷付けられるガーネットを、守ろうとしたんだ。初めて、力が欲しいと願った。自分の居場所を守る為には、戦うしかない。そう、理解したから」


 水中庭園で見たダイヤの過去を、思い浮かべる。あの陰鬱な空間は、今もダイヤの中に、鮮明に残っているのだろう。
 懐かしむように静かに語るダイヤの横顔には、疲労が滲む。どんな大怪我もすぐに癒える程に治癒力の高いダイヤが、如何して、それ程に疲れているのだろう。


「戦った結果が、百五十年の孤独だ。……トパーズが、誰かを失った時のような思いは二度としたくないと言っただろう。俺だって、あんな日々はもう二度と過ごしたくない」


 これまで、ダイヤが百五十年の孤独を振り返って弱音を吐くことなんて一度もなかった。けれど、辛くなかった筈が無い。
 辛くて、苦しかった筈だ。戦い続けた日々を、もう二度と繰り返したくない。――そうだ。ダイヤはもう、戦いたくないのだ。


「俺は解らないんだ。ずっと、考えていた。人間と魔族が共存出来るかなんて、如何だっていいんだよ、本当は。……どいつもこいつも、自分の欲望の為に他者を傷付けることを厭わない。身勝手だと振り返りもしない。思考することさえ放棄して、命を消費するだけだ。愚かだと思った。下らないと思った。――でも、ずっと羨ましかったんだ」


 初めて吐露されたダイヤの本音に、ルビィは返す言葉を持たなかった。
 ダイヤのそれが、当たり前のことであると受け入れてやりたかった。間違ってなんていない。そう、言ってやりたかった。だけど、そんな無責任なことは言えない。ダイヤは魔王の末子で、世界の覇権を賭けたこの戦乱、時代の鍵だ。


「戦乱も何時か終わるだろう。一方を滅ぼすかも知れない。共存の為の協定を結ぶかも知れない。結末は解らないが、終わりはやがて来る。その時、俺は、如何したらガーネットと一緒にいられるだろう」


 本当に――。
 ルビィは、理解する。本当に、ダイヤはそれだけを考えて、生きて来たのだ。その為に人間と魔族を知ろうとした。その為だけに。
 何か一つを目的とする生き方は潔く美しい。けれど、その反面で酷く脆い。ガーネットを失えば、其処で終わりだ。
 答えの出ない問答を続けて来たのはルビィだけではない。ダイヤも同じだったのだ。けれど、それはルビィよりも遥かに長い、永い間、続けて来たことだ。そして、未だに答えが出ない。諦められないから、答えが出ない。


「仮に王様になって、人間と魔族が共存出来るようになっても、争いが無くなる訳ではない。規模が変わるだけで、争いは続いて行く」
「……そんなの、解らないよ。本当に争いが、無くなるかも知れない」
「無理だな。味方がいれば、敵もいる。当たり前だろう。誰もが皆、大切にしているものが違うからな」


 だから、飛び続けるのか。ルビィはトパーズの叫びを思い返す。争いから逃げ、飛び続けるのか。何時まで?
 きっと、ダイヤは何時までも飛び続けられるのだろう。ガーネットがいれば、それだけで十分なのだ。それは余りに無関心で、身勝手で、純粋な強い思いだった。


「答えが出ない以上、俺は探したい。トパーズの思惑には興味が無い。ジェイドの考えは理解出来るが、俺には関係の無いことだ」
「……私は、ダイヤに王様になって欲しい」


 その言葉を予想していたように、ダイヤが苦笑する。


「嫌だ」
「如何して。ダイヤになら、ガーネットと一緒にいられる世界を、作れるかも知れない」
「作れないかも知れない」
「ダイヤ!」
「仮定の話なんざ、意味が無い。最期は結局、自分が如何したいかだろう。違うか?」
「違わない……」


 自分に、ダイヤを論破出来る訳が無い。ルビィは諦観する。
 ダイヤは立ち上がった。青い目は凍て付く氷のようで、水中庭園を照らす光のようでもあった。降り積もる雪を眺める横顔に迷いは無い。意思は揺るがないのだろう。ダイヤが決めたことだ。自分にどうこう出来るものではない。
 やれやれと、ルビィも立ち上がる。ダイヤは翼を広げた。雪にも似た白亜の羽根が、ひらりと舞った。


「幸せって、雪みたいなものなんだって」
「雪?」


 舞い落ちた羽根を視線で追い掛け、ルビィは頷く。今は亡き母の受け売りだった。


「静かに降り積もって行くものなんだって」


 興味も無さそうに相槌を打ちながら、ダイヤは掌を翳す。空から零れた雪の結晶が、掌で溶けて、消えた。
 ダイヤは、何も言わなかった。人間の感情の機微なんて、解らないだろう。幸せを雪に例える感情も知らないだろう。けれど、ダイヤが何を思ったのかも、ルビィは知らない。


「解る気がするよ」


 翼を広げたダイヤが、蕩けるように微笑んだ。――その瞬間だった。
 闇を切り裂く黄金の閃光が走った。ダイヤが身を翻す。鉄を打つような高音が響いたと思った時には、背後から地響きのような轟音がした。咄嗟に振り向いた先、雨宿りしていた大樹が、まるで海面に沈み込むかのように雪原へ倒れて行くのが見えた。
 鋭利に切り裂かれた木の断面。否、切り裂かれたのではない。切り離されたのだ。
 腰の剣を掴むダイヤの前に、掌を翳す影が一つ。それが誰かなんて、目を凝らさなくとも解っていた。


「ダイヤ……」


 闇の中で、猛禽類を思わせる蜜色の瞳が光る。獲物を狙う獣の目だ。
 トパーズの翳された掌に、金色の光が蛍のように漂っている。ダイヤは身を低くしたまま、対峙する。紙一重で躱した一撃は、ダイヤの上衣を一部切り離している。魔族――それも魔王の末子とは思えぬ白い細腕が上衣の隙間から覗く。


「如何して、解ってくれない?」


 嘆くように、トパーズが言った。それまで見て来た彼が道化の振りをしていたのだと思う程に、今のトパーズの目は狂気染みている。
 ダイヤが返す。


「お前だって、解ってはくれないだろうが」


 答えの出ない問答。無駄な討論。解り合えないことなんて、解っていた。
 それでも、解りたいからダイヤは訴えるのだ。


「戦乱を如何にかしたいなら、すればいい。如何して、お前の理想に俺を組み込む必要があるんだ」
「お前がアレキサンドライト様の子どもだからだよ」
「そんなこと、俺は知らない」
「知らないなら、理解しろ。お前には生まれた責任があるんだ!」


 蛍のような光は、一瞬にして線のようにダイヤへと走った。それぞれの点を繋ぐ薄い板状の光が無数に放たれる。
 転がるようにダイヤが躱せば、地面に光の板が突き刺さった。まるで、ギロチンのようだった。
 再び光を集めるトパーズへ、ダイヤが言葉で訴える。


「トパーズ! 俺は、」
「もう、お前の世迷いごとは聞き飽きた!」


 金色の閃光が闇夜を翔ける。広げた翼を消し去り、ダイヤが激しく転がりながら紙一重で躱す。降り積もった雪を巻き起こしながら、ダイヤの衣服は白く染まっていた。
 それでも、ダイヤが口を開く。それを塞ぐようにトパーズが光を放つ。


「ダイヤ!」


 ルビィの声は届かない。地面に突き刺さった光の板は、数秒と持たず、霞むように消えた。
 ダイヤは、柄を握りながらも剣を抜かない。理由も解っている。ダイヤは、戦いたくないのだ。


「トパーズ!」


 魔法を放ちながら、トパーズが口角を釣り上げる。翳された手とは異なるもう一方に、静かに光が集まって行く。
 二倍――。ルビィが驚愕する。けれど、違う。トパーズの浮かべる嫌な笑みの正体は、そんなものではない。


「お前の封じた記憶、戻してやるよ」


 光は、焼け落ちるように消えた。
 対峙していたダイヤが突如、悲鳴を上げた。雪にも解け込まない悲痛な叫びが木霊する。何が起こったのか理解出来ないまま、ルビィは崩れ落ちるダイヤに駆け寄った。周囲には霧が漂い始める。
 心臓の上を握り締めて蹲るダイヤに外傷は無い。治癒力の高いダイヤならば、傷等、大した障害でもないだろう。なら、この苦しみ方は一体何だ――?
 呻き声を上げるダイヤの目は見開かれ、透明な滴が止め処無く流れ落ちる。臓腑を焼かれているかのような異様な苦しみ方だ。
 涙を零しながら口元を覆うダイヤが、堪え切れなかったように顔を伏せた。瞬間、その喉の奥から吐瀉物が吐き出された。地面に流れ落ちる液体は、鼻を突くような刺激臭を伴う。胃液だ。
 噎せ返り、嘔吐し、呻き、蹲る。ダイヤが此処まで圧倒されることは初めてだった。霧の中、トパーズの高笑いが響き渡る。
 丸まったダイヤの背を撫で、ルビィは叫んだ。


「ダイヤに何をしたの!?」


 くつくつと、猫のように喉を鳴らしてトパーズが嗤っている。可笑しくて堪らないと、如何にか笑いを堪えるようにしてトパーズが言った。


「だから、封じていた記憶を、解き放ったんだよ」
「封じていた記憶……?」
「そうだ。俺が封じていたのは、ダイヤが魔王城の地下牢に囚われていた五十年の記憶だ」


 五十年。ルビィには想像も付かない程の時間だ。
 トパーズが嗤う。


「ルビィには想像出来ないだろうな。サファイヤ様の愛玩動物として、虐待の対象だったダイヤの過ごした五十年が、どんなものだったかなんて」


 足元から悪寒が込み上げるように、ぞっとした。何の躊躇も無く、腹違いとは言え実の弟の腕を斬り落とすような男だ。片腕を失い、ガーネットを人質に取られ、抵抗する術も無く閉じ込められたダイヤが、五十年もの間、何をされたのか。
 あのダイヤが泣き叫ぶような記憶だ。ルビィに想像出来る訳が無い。
 嘔吐し蹲るダイヤは動けない。トパーズの掌に光が集まって行く。止めを刺すつもりだ。直感したルビィは、咄嗟に庇うようにダイヤへ覆い被さる。トパーズは嗤っている。


「殺しはしない。お前には次期魔王様になって貰わなければならないからな」


 見開かれたダイヤの目に、金色の光が映り込む。
 トパーズなら、腕を落とすくらい、するだろう。否、四肢を切り落としても未だ足りないかも知れない。翼を持つダイヤの自由を奪う為に、死なない程度には傷付ける筈だ。


(いいの、これで?)


 過去の悪夢に囚われたまま、身動き一つ出来ないダイヤを、守ることも出来ない。
 トパーズと戦う術も、この場所から逃げ出す手段も無い。このまま嬲られるのを、見ているだけでいいのか。ルビィの目に、ダイヤの剣が映る。気付いた時にはもう、それを抜き放っていた。
 ギロチンのように頭上より落下する金色の刃。空気を裂く奇妙な音が響く。ルビィは、空を仰ぎ剣を構えた。
 トパーズが嘲笑うように言った。


「無駄だ! 剣なんかじゃ防げないぞ!」
「――やってみなければ、解らないわ!」


 戦わなければ、守れない。
 悪夢のような刃は、魔法で作られたものだ。只の鉄の塊が、太刀打ち出来る訳が無い。それでも、逃げる訳には行かない。
 迎え撃つように備えたルビィの腕は震えている。怖くない筈が無い。だが、その掌に、白い腕が伸ばされる。


「退け」


 死人のような白い面で、ダイヤが言った。平静とは明らかに異なる掠れた声で、震える腕でルビィを引っ掴むと遠心力を加えて、投げ飛ばした。ふわりと空中に飛ばされたルビィの目に、膝を着くダイヤが映る。俯いたまま、その口元は確かに弧を描く。


「ダイヤ――!」


 容赦なく落下する刃。ダイヤはだらりと両腕を投げ出していた。
 終わりだ。霧の中で、トパーズが確信の笑みを浮かべる。ルビィの目が絶望に染まる。――その瞬間。
 ピィィと、まるで鳥の鳴き声にも似た高音が何処かから聞こえた。それは風の中、空気の隙間を縫うように闇を翔け、落下する光の刃に突き刺さった。――矢だ。それは強烈な熱気と共に、青い火花を散らした。ビシリと、刃が罅割れる。
 落下する刃は空中で粉々に砕かれ、流星のように零れ落ちては闇の中へ溶けて行った。
 訝しげに、トパーズが濃霧の先を睨む。空気の流れが見える。やがて鮮明になる世界。蹲ったままのダイヤが、胡乱な眼差しでその影を見ていた。


「何で、こんなとこ、に、」


 消え入りそうな声で、ダイヤが問い掛ける。

「ガーネット……」


 真っ赤な弓を構えたガーネットが、闇の中に立っていた。

43,Aid.

43,Aid




「嘘だ」


 嘆くように、ダイヤが言う。
 周囲には霧が立ち込めている。此処にいないジェイドが、幻想を見せているのかも知れない。その存在を信じないかのように、ダイヤは目を伏せ蹲る。
 此処にいる筈が無い。ガーネットは今、水中庭園で身体を癒しているのだ。こんな短期間に癒える傷では無い。
 雪原に投げ出されたルビィは勢いよく身を起こし、弓を構えるガーネットを見る。目を凝らしても、これが幻想だとは思えなかった。
 けれど、自分にはジェイドの幻影を見破れない。なんて、無力だろう。ダイヤに、今目に見えているものの真贋を伝えることも出来ない。
 だが、ガーネットはきりきりと弦を引き、トパーズをしかと睨んでいた。その紅い目は嘗て見た彼と同じ、燃えるような命の色をしている。


「お前、ダイヤに何をしている」


 ガーネットの声だった。ダイヤは、顔を上げない。肩で大きく息をしながら、心臓の上を握り締めている。
 トパーズに表情は無かった。


「お前、よく追い付いたな」
「寄り道が多いお前等と違って、俺は真っ直ぐ此処へ来たからな」


 臨戦態勢を解かぬまま、ガーネットが言う。沈み込むような重く硬い口調だった。


「ダイヤから離れろ。魔法を使う素振りを見せたら、すぐに殺す」
「……穏やかじゃねーなぁ、ガーネットは」


 ガーネットの目が、睨むように細められた。


「穏やか? 当然だろう。自分が何をしているのか、解っているのか」


 トパーズが吹き出すように笑った。


「魔王様の御子息様ってか? 裏切り者の癖に」
「裏切り者はお互い様だろうが」


 ガーネットには、強い光があった。それは目の前の同胞を、旧友ではなく、敵と見做した確かな殺意だった。
 意識が混濁しているのかダイヤの目は虚ろだった。それでも、弓を構えるガーネットを見極めようと面を上げる。その呼吸は酷く乱れ、今にも止まりそうだった。視線を向けぬまま、ガーネットが言った。


「ダイヤ。ゆっくりでいい、息をしろ」
「ガー、ネット」
「俺は此処だ」


 ダイヤが、ゆっくりと、息を吐き出す。綿のように白い息が闇に浮かんだ。
 濃霧にも混じる呼吸は静かに安定していく。ガーネットの言葉を信じたのか。縋るしかなかったのか。ルビィには判断が付かない。


「おい、人間! ダイヤを頼む」


 ガーネットの呼び掛けが自分に向けられたものと、ルビィは一瞬迷った。しかし、拮抗するこの状況でダイヤに駆け寄らない訳にはいかなかった。膝まで埋まりそうな積雪を蹴り上げ、ルビィはダイヤの元へ走った。
 ダイヤは真っ青だった。凍えるように双肩はがくがくと震えている。ルビィは必死に呼び掛けた。


「ダイヤ、ダイヤ!」


 ぽたり、ぽたり。
 大粒の冷や汗が頬を伝い、顎に到達する。滴は落下すると雪の上に消えて行った。
 けれど、ダイヤが顔を上げる。荒い呼吸を繰り返しながら、眼差しは確かに平静のそれへと戻って行く。


「ガーネット」


 ゆるゆると、ダイヤの手が剣へと伸ばされる。戦えるとは、到底思えなかった。
 それでも、戦わなくてはならないのだ。幾らダイヤが、戦いたくないと願っても、争いは何時でも目の前に舞い降りる。その力が無くても、命は常に脅かされる。願いは踏み躙られ、誰かの首輪が追い掛ける。


「戦うの……?」


 問い掛ければ、ダイヤが目を伏せた。
 全ての魔族が持つ闘争本能。その苛烈な衝動を押し留めてでも、ダイヤは戦いたくないと願った。武力では守り切れないものを、知っているからだ。けれど、武力が無ければ守れないものも知っている。


「覚悟を決めろ」


 叱り付けるように、諭すように、吐き捨てるように、言い聞かすように、その一言に全ての思いを込めて、ガーネットが言った。
 二人の間に、目に見えない無数の糸が見えるような気がした。
 そして、それを断ち切るかのように頭上には金色の刃が出現した。トパーズの口角が吊り上る。ガーネットの指先は弦を放っている。悲鳴のような音を上げ、空気を突き進む矢は強烈な熱気を放ち、周囲の雪を昇華して行く。
 パリン。硝子の割れるような音が、した。巨大な刃に突き刺さった矢が、噎せ返るような熱気を生み出し、全てを溶かして行く。
 炎の魔法――。ルビィは目を見張る。
 膝を着くダイヤは、立ち上がらない。柄を握ったまま、抜き放つことも出来ない。それが一つの契約であるかのように、抜き放つことを躊躇している。


「覚悟なら、決まっている。俺は、ただ」
「自分の道を、誰かに委ねるな。目的があるなら、手段を選ぶな。もう道は、一つしかないんだよ」


 その、道とは?
 ダイヤが、ぎゅっと目を閉ざす。目にも留まらぬ速さで弓を射ながら、ガーネットが言う。


「魔王が死んだ」


 それは、状況を凍らせる程の言葉だった。ただ一人、ガーネットだけが言葉を放つ。


「お前の兄、サファイヤが魔王となることが決まった」


 薄ら笑いすら浮かべていたトパーズの面が、さっと血の気を失う。


「馬鹿な。何故、今」
「詳しくは知らん。天命とも、暗殺とも言われている。だが、事実だ」


 がくりと、トパーズが膝を着く。
 あのサファイヤが、魔王に――?
 ならば、共存は有り得ない。これから始まるのは一方的な虐殺だ。逃げ場など無い。地獄が待っている。


「ダイヤ……」


 虚ろとなった蜜色の瞳が、ダイヤへと向けられる。縋り付くような悲しい色だった。
 ダイヤは目を閉ざしたまま、動けない。


「ダイヤあああ!」


 目が眩むような、黄金の光が頭上より降り注ぐ。
 天の川すら連想させる無数の刃。ガーネットが弓を向けながら、苦い顔をする。全てを撃ち落とすことは難しいだろう。
 絶体絶命の状況だった。だが、その時、周囲に漂っていた濃霧が静かに形を作り始めた。霧は確かな意思を持ち、構成されて行く。ルビィの横には、白く冷たい壁が立っていた。否、横だけではない。後ろにも壁がある。けれど、道が無い訳では無い。これは。


「迷宮――」


 ジェイドの声がした。


「お前の空間隔離は厄介だからな。広範囲まで術を施すのに、随分と時間が掛かったよ」


 ジェイドが、不敵に笑う。ガーネットは弓を肩に担ぎ、ダイヤの元へ駆け寄った。
 壁に阻まれトパーズの姿は見えない。声も無い。頭上に光った無数の刃は、ジェイドの作り出す幻影の壁に掻き消された。


「この中なら、狙いも定まらない。……この迷宮を抜けるには骨が折れるぞ」


 せいぜい頑張れ、トパーズ。
 吐き捨てるように言って、ジェイドが嗤った。
 立ち上がらないダイヤに肩を貸し、半ば引き摺るようにしてガーネットが歩き出す。幻影を作り出した本人であるジェイドが道を示してくれる。ルビィは目を閉ざしたままのダイヤを覗く。
 呼吸はしている。意識があるのかは解らない。


「ダイヤ……」


 呼び掛けへ返事は無い。
 ガーネットはジェイドの先導する道を一心不乱に進む。白い壁は氷のように冷たい。相変わらず、幻術とは思えない出来栄えだった。


「ガーネット」


 薄目を開けたダイヤが、言った。早足に進むガーネットは唸るように返事をする。
 虚ろな目には、何が映るのだろう。突然、呼び起こされた空白の記憶。其処に何があったのか等、誰も知らない。
 ダイヤが、言った。それは泣き出しそうな、問い掛けだった。


「お前は、俺を憎んでいるか……?」


 ルビィにとっては想像もし得ない問い掛けだった。だが、ガーネットは解っていたかのように、表情を崩さず答えた。


「憎んだことが無かったとは、言わない。お前に嘘は吐きたくないからな」


 雪を蹴飛ばしながら、ガーネットは止まらない。
 ジェイドの作り出す光が道を照らすだけで、周囲は変わらず夜の深い闇に支配されていた。


「アレキサンドライト様――、お前の産みの親は、俺の育ての親だった。俺にとって最大の恩師だ。生きる力を、希望を与えてくれた」


 表情の無いガーネットは、黙ったままのダイヤに語り掛ける。


「あの方が、命と引き換えに生かしたのが、お前だ。泣き叫ぶばかりで無力な赤子だった」


 複雑に入り組んだ道は、進んでも進んでも白い壁ばかりだ。出口があるのかどうかすら解らない。
 ガーネットが言う。


「何でこんなガキの為に、アレキサンドライト様が死ななければいけないんだ。そう思ったこともあった。でも、お前の成長を傍で見ている内に、憎しみなんて無くなっちまったんだよ。お前は覚えていないだろうけど、俺は全部覚えているよ。お前が俺の手を握った日、笑い掛けた日、立ち上がった日、名前を呼んだ日。……生意気に反抗して来た時は、ぶん殴ってたけど」
「覚えてるよ……」
「憎しみなんて、長くは続かないんだよ。過去を思い出して何を考えているか知らないが、お前が疑うなら俺は何度だって言ってやる。お前が大切なんだ。魔王の末子だからじゃなく、アレキサンドライト様の忘れ形見だからじゃなく、ダイヤだから、大切なんだ」


 一言一句、聞き間違うことのないようにガーネットが、はっきりと言う。


「だから、俺はお前が窮地なら何時でも駆け付けるし、蹲るなら何度でも引き上げてやる。ダイヤ、お前は俺の希望だったんだ。そして、これからもだ」


 ガーネットの歩行は揺るがない。それは彼の持つ意思の強さによく似ていた。
 ダイヤは黙っている。目を伏せたままだ。その頬に涙が伝っていたことも、滴がガーネットの肩を濡らしていたことも、冷たいだろう彼が黙っていたことも、ルビィは隣で見ていた。

44,Doubt.

44,Doubt.




 追手の気配は無い。
 キノンと呼ばれる人間の町は、舞い落ちる白雪の下で死んだように静まり返っている。ダイヤは上衣で身体を覆い隠し、引き摺られるように町へ進入する。ルビィは、俯き顔の見えないダイヤへ視線を投げながら雪原を踏み締めて行く。
 両足が鉛のように重かった。力無く歩行する一行は、まるで死に場所を求める屍の群れだった。一行の周囲を包む霧は月光を弾き輝いている。ジェイドの魔法、空気を媒体をした幻術だった。彼の話では、光や匂いを用いて刺激を受け取る生物全てに働き掛け、ジェイドの想像した物を見せる。魔法自体は微弱なものであり、他者を攻撃するものではない。だが、トパーズを撒いたあの時のように使い方次第では十分な戦力となるだろう。
 ジェイドは周囲に働き掛け、一行の姿を掻き消している。否、旅人に見せているのかも知れない。どのみち、人気の無い周囲には関係無いことだろう。


「ガーネット」


 掠れるような疲れ切った声で、ダイヤが親友の名を呼ぶ。
 ぼろぼろのフードの下、微かな月光を浴びたダイヤの青い瞳が蝋燭の灯りのように煌めく。


「見えるか、これが世界の現状だぞ」


 何を訴えるのか、ルビィには解らない。
 ダイヤは噛み締めるように、吐き出すように、訴え掛けるように言う。


「魔族と人間が世界の覇権を争っているなんて、一部の武力を持つ魔族や兵隊が勝手にほざいているだけだ」


 血の気の無い白い面で、更に白い息を吐き出しながらダイヤは口を開く。


「人間の大多数は、武器を持つことも出来ない民間人だ。脆弱な人間共が戦う相手は魔族では無く、己の生活を脅かす貧困や飢餓だ。暗黙の掟となった魔族への非干渉へ従順に守ることで、異論を許さない排他的な群れの中、自分の立場を守っているんだ。そして、一部の力を持った人間が、自らの懐を潤す為に根も葉もない誇張表現で魔族を恐ろしいものだと認識させ、戦争へ焚き付けている」


 表情を変えないガーネットへ、ダイヤの言葉は届いているのか。
 今にも崩れ落ちそうな疲弊し切った身体で、ダイヤは足を止める事無く、言葉を続ける。


「魔族の大半は、己の衝動を制御することも出来ない愚かな獣だ。空腹を満たす為に喰らい、喉の渇きを潤す為に飲み干し、殺人衝動に従って脆弱な人間を蹂躙している。知性を持った魔族は、彼等に己を制御することは教えない。馬鹿は扱い易いからな。だが、その知能も己の支配欲、嗜虐欲を満たす為だけに揮われる。自分を顧みることは無い。如何に手下を従え、人間を屠殺出来るか思考するだけだ」


 ふと、ダイヤは足を止めた。身体を起こした反動で、フードが静かに落ちる。
 粉雪の舞う中、月光を浴びたダイヤの銀髪が宝石のように輝いていた。完成された絵画のような不可触の美しさで、ダイヤは酷くつまらなそうに言った。


「何が間違っている? 何が許されない? これは、世界のあるべき姿だ」


 前髪に貼り付いた雪を払い、ダイヤが言う。


「貧困に喘ぐのも、暴力に怯えるのも、衝動に支配されるのも、欲求へ従うのも、全て自然の姿だ。この世が戦乱というなら、尚更だ。勝者がいれば敗者が生まれる。いずれ、そんな世界を統治しようとする強者が現れるだろう。地獄のような日々が始まれば、生物は結託して革命を起こす。やがて王を討ち、国家を形成する為に法を作り出す。町は栄え、貿易が始まり、生活は豊かになり、欲求が生まれる。足りない、もっと欲しい――奪ってでも!」


 鋭い視線が向けられる。誰も、何も言わない。


「また、戦争が始まる。勝者と敗者が生み出され、弱者は迫害され世界を呪って更なる争いを起こす。これが、世界だ!」
「その流れを絶ち切る為に、優れた指導者が必要なんだろうが!」
「何故、断ち切る? これは自然の摂理だ。食物連鎖が生物の均衡を保つように、人間と魔族の均衡を保つものが戦争なんだよ」


 ルビィは静かに目を閉ざす。今、目に見えているものがジェイドの幻想であっても見破ることが出来ない。ならば、彼の言葉を聞き逃すことの無いように目を閉じよう。吐き出されているのは、無責任に王へと推すガーネット等への、百五十年の旅路で到達したダイヤの反論だ。


「指導者なんて、都合の良い藁人形だ。保身の為に媚び諂い、不利になれば切り捨てる。俺を王へ推すということは、身勝手で愚かで醜く救いようのない世界の摂理の元へ巻き込むということだぞ。世界の為、俺に犠牲になれと言うことだぞ」


 泣いているのかも知れないと、ルビィは静かに思う。否、ダイヤは泣いたりしない。
 ダイヤはもう、戦いたくない。大切な親友と穏やかに生きて行きたい。彼の言う戦乱の世で、それは如何しようも無く甘く現実味の無い理想だった。けれど、夢見て、何がいけないのだろう?
 祈って何が悪い? 願って何を責める? 訴えて何が許されない?
 味方をしたいと、ルビィは思う。けれど、既に現状はダイヤの理想を叶えられるような平穏な世界ではないのだ。
 それまで黙っていたジェイドが、諭すように言った。


「否定はしない。巻き込もうとしていることも、犠牲にしようとしていることも、結果を見れば事実だろう。歴史は繰り返し、戦争は終わらない。それは事実だ。だが、それを運命と、人は呼ぶんだよ」


 それは罪を許す聖職者のようだった。
 断罪されるかのように、ダイヤが忌々しげに目を細める。


「運命だから、仕方が無い? 運命だから、諦めろ? 如何して! まるで思考を放棄した家畜じゃないか!」
「好い加減にしろ。お前の駄々に付き合っている時間は無いんだ」


 溜息交じりに、ガーネットが言う。
 ほら、と肩を貸すように腕を伸ばすが、ダイヤはそれを取らなかった。
 理解されないことが悲しいのではない。理解しようとしないことが、悔しいのだ。ルビィは言った。


「何処が、駄々なの? ガーネット達は難しい言葉を並べているけれど、結局は都合良くダイヤを使おうとしてるだけじゃない」


 ルビィの反論を意図していなかったのか、ジェイドが僅かに目を見開いた。


「大勢の為の犠牲として、ダイヤを祭り上げるの? 戦争だから仕方無いって? この為に、貴方達はダイヤと一緒にいたの?」


 否定の言葉を祈りながらも、ルビィには解っていた。
 ダイヤが魔王の末子でなければ、今此処にはいなかっただろう。ガーネットも育てはしなかっただろうし、トパーズも守りはしなかった。
 ガーネットはダイヤが何者でも構わない、ダイヤだから大切だと言った。本心だろう。否、本心であって欲しい。そうでなければ、ダイヤの百五十年は無意味で、彼の心の行き場が無くなってしまう。
 彼等の思想を変える為でなく、ダイヤの心を守る為にルビィは訴える。


「如何して、願うことすら許されないの? 如何して、貴方達の都合をダイヤへ押し付けるの? 貴方達にとって、ダイヤって何なの?」


 畳み掛けるような詰問に、ジェイドは黙った。圧倒されたとも、返す言葉が無かったとも、馬鹿らしいと呆れたようにも見えた。
 重く苦しい沈黙が、凍える寒風と共に胸へ突き刺さる。唇が凍り付き、言葉を吐き出せなくなる前にと、背を焼かれるような焦燥感でルビィは問い掛ける。


「王にする為にダイヤと共に過ごしたなら、如何して、思考することを教えたの?」


 己の衝動のままに生きる大勢の魔族のように、欲望を制御する理性等、与えなければ良かった。思考する力を奪い、自在に操ることの出来る人形のように育てたら良かった。情等、移さなければ良かった。彼が固執するような関係性等、築かなければ良かった。
 けれど、ガーネットはそうしなかった。ダイヤが正誤を判断出来るような思考力を養い、意思を貫くだけの心を育て、己の思うように生きる為の力を与えた。それは、何の為だ。


「――もう、いい」


 沈黙を打ち破るように、ダイヤが呟いた。風に掻き消される声は、道端に倒れる屍のようだった。


「始めから、俺は歯車の一つだったんだろ」


 何かを悟ったように、ダイヤの面から感情は消え失せている。正しく、血の通わない人形のようだった。


「全部、思い出したよ。魔王城に囚われた五十年、陰気な牢の中で俺を散々可愛がってくれたのは、トパーズだった」


 静かに、ダイヤは目を閉じた。
 あのダイヤが、膝を着き、嘔吐し、咽び泣くような過去の記憶だ。ルビィには想像も付かない凄惨な時間が、ダイヤにはあった。そして、それは先程まで隣にいたトパーズによって与えられたものだった。
 ガキの頃、散々遊んでやったろ。
 何でもないように笑ったトパーズを思い出し、肌が粟立った。害意や悪意は無かった。彼にとって、それは純粋な遊びの一つだったのだ。


「産まれ落ちたその瞬間から、否、胎に宿ったその時から、俺は歯車の一つだった。只の道具だった。憎悪や羨望、期待や憤怒を向ける都合の良い捌け口だ。世界を導くなんて仰々しいことを言って、都合の良いように操る為の人形だった。とっくに解っていたんだ。でも、可能性に縋りたかった。なあ、ガーネット」


 薄く目を開けたダイヤが、憐れむようにガーネットを見た。青い瞳が煌めき、何処かそれは泣いているようにも見えた。


「やっぱり、お前は優し過ぎるよ」


 風が強くなっていく。目の前にいる筈のダイヤの姿が、霞む。


「俺は、お前とずっと一緒にいたかったんだ。お前と広い世界を見てみたかった。その為の方法をずっと探していた。だけど、独りで飛び続ける間、世界の摂理に気付いた。歴史は繰り返す。時代は歯車であり、摩耗すれば捨てられる。俺はその、歯車だった」


 姿が見えない。表情が見えない。それでも確かに声は届いている。


「情を移すべきではなかったな、俺も、お前も、トパーズも。道具だと、割り切って生きていけたら、一番楽だったのにな」


 語り掛けるように、諭すように、染み込ませるよう殊更丁寧にダイヤは言葉を紡いでいく。
 理解も共感も求めてはいない、独白のようだった。


「ルビィ。お前にとって、魔族とは、人間とは何だ?」
「……同じ、命だよ」
「そっか」


 吹雪の中、ダイヤの姿が確かに見えた。それは雲間に差し込む光のように、鮮烈な青い瞳を浮かび上がらせる。


「魔族とか人間とか、世界とか時代とか、俺は知らん。思想や種族の違いも対立も戦争も、俺は興味無い。でも、俺は人間を信じてみたい」


 何故、とジェイドの口元が声にならない言葉を吐き出す。
 その動作も目聡く察していただろうダイヤは、問いには答えず薄く微笑むだけだった。


「アレキサンドライト――母の、故郷へ行こう」


 さらりと吐き出された言葉の意味を正しく理解した者は、恐らく、此処にいなかった。
 誰もが困惑し、その言葉の真意を探ろうと思考する。問い掛ける術を端から鋭利な刃で切り落とすように、ダイヤは全ての言葉を絶対零度の微笑みを以って遮断した。
 猛吹雪の中、風前の灯火の如くダイヤの姿が霞む。これまでの議論を忘れたかのようなダイヤの言葉の変わりように疑念は尽きない。それでも、問い掛ける言葉等ありはしなかった。

45,Possibility.

45,Possibility.



 大粒の雪が、まるで光の結晶のように眩く輝きながら舞い落ちて行く。
 この世界の無情さを儚むように、不条理を嘆くように、残酷さを贖うように降り注いでは消えて行く。絶え間なく落ちる雪の華は大地に到着すると共に、幻のように消えてしまう。ルビィは切り立った崖に囲まれた集落を見詰める。白い建物は外敵を拒否するように沈黙を守り、死んだようにひっそりとしている。
 ダイヤの母、アレキサンドライトの生まれ故郷。そして、ガーネット等にとっては懐かしき思い出の地だった。
 ベニバナと呼ばれるその地は、現実感を帯びない奇妙な空気が漂っていた。ルビィは振り返る。其処には目に見えない壁が存在するかのように吹雪が遮断されている。境界線の此方は春のように明るく暖かい。


「此処は、変わらないな」


 独白のように、贖罪のようにガーネットが言った。故郷を懐かしむようではなく、言葉は空虚に響いた。
 集落に生き物の気配は無い。だが、大地の其処此処では緑が芽吹き、色とりどりに花を咲かせている。ガーネットはそれが当たり前の風景の一部であるように目も向けず、目的地が予め決まっているように迷いなく真っ直ぐに進んで行く。


「綺麗なところね」
「不気味なところだな」


 ルビィの呟きに、ダイヤの吐き捨てられた言葉が重なった。ばつが悪そうにダイヤが目を逸らす。
 価値観が違うのだ。見えている世界が同じでも、感じ方は違うだろう。冷めた目で歩き出すダイヤを、ルビィは追い掛ける。


「フェナジンに似ている」


 ダイヤが言った。それは、ジェイドが嘗て暮らした町の名前だった。
 過去を投影し続けた幻想の町――。ダイヤの声は、何処か寂しげに聞こえた。
 振り返る事無く歩き続けるガーネットは、集落の中央に聳える教会にも似た塔へ進んで行く。切り取られたような両開きの木製の扉がある。窓には美しいステンドグラスが嵌め込まれ、光を反射して水面のようにきらきらと輝いていた。
 扉が、開け放たれる――。途端、草原のような清々しい空気が流れた。
 清涼な空気を胸一杯に吸い込み、ルビィは胸を撫で下ろす。これが幻だとは、思えない。
 塔の内部は光に満ち、細部にまで繊細な装飾が施されていた。何処の国の城にも劣らないだろう豪奢な造りだ。此処に住んでいる者の位の高さを感じさせる。
 柔らかな絨毯は鮮やかな紅でありながら、嫌味無く室内を飾っている。燭台に並んだ細長い蝋燭は内部を照らす為ではなく、その光自体が調度品であるように設置されていた。


「此処が、アレキサンドライト様の館だった」


 螺旋階段の下に立ち、ガーネットが言った。
 振り返ったガーネットの紅い瞳が、蝋燭のように煌々と揺れる。故郷に戻った喜びとも、戻れない過去への悔恨とも取れる何処か儚い光だった。
 ダイヤに表情は無い。否、どんな顔をしたらいいのか解らないようだった。周囲の美しい装飾へ目を向けることも無く、ガーネットを伏せ目がちに見ている。


「アレキサンドライト様は、俺達の育ての親だった。ダイヤの言う通り、全ての魔族が戦争を望んでいる訳では無いし、武力を持っている訳ではない。だが、闘争本能も武力も持ち合わせなかった魔族の子どもが平穏に生きられる程、世界は優しくない」
「そういう子どもを拾って、世話をしていたんだろう? ――己の、兵士として育てる為に」


 侮蔑するように、ダイヤが言った。
 ガーネットは何も言わなかった。随分と、穿った物の見方をするなと呆れたようでもあった。


「どんな思惑があったか等、俺達は知らん。今となっては、知る術も無い。だが、今の俺達がいるのは、アレキサンドライト様のお蔭だった」


 螺旋階段を、ガーネットが一つずつ登り始める。
 ユズリハのような、扇のような階段は天上へと伸びて行く。外観とは異なり、内部から見るとその階段の先は霞んで見えず、正に雲を突き抜け天界まで続いて行くようにも見えた。
 美しい金色の欄干に手を添わせ、ダイヤが後を追う。振り返らないガーネットは背中を向けたまま、言った。


「この町――ベニバナは、アレキサンドライト様の一族が暮らしていた。銀色の髪と、青い瞳、白亜の翼を持つ一族だ」


 それは正に、ダイヤと同じだった。
 けれど、然程驚く様子も無くダイヤは、他人事のように相槌を打つ。


「人間か魔族という分類ならば、魔族なのだろう。だが、闘争本能も殺戮衝動も、武力も持たない彼等は排他的ではあったが、人間のようだった」


 ガーネットは階段を上って行く。淀みない足取りだった。
 訝しげに目を細め、ダイヤが問い掛ける。


「そんな弱い種族を、何故、魔王は求めたんだ。気紛れか」
「気紛れ――というよりは、興味だろうな。他の魔族とは一線を引くその清廉な生き様や、美しい容姿、強靭な治癒力、加えて、アレキサンドライト様の持つ力は特殊だった」


 ルビィは、嘗てトパーズから聞いた話を思い出した。
 ダイヤの母、アレキサンドライトは特殊な魔法を使った。彼女が手を翳すとどんな傷も病もたちどころに癒される――。


「他者を癒す力か」


 代弁するように言うダイヤに、ガーネットは背を向けたまま首を振った。


「解らない。だが、あれはもしかすると、時間を操る力――もしくは、創造する力だったんじゃないだろうか」
「創造?」
「恐らくな。彼女は怪我や病を健常な状態へ戻す力を持っていたか、新たに創り出すことが出来たのだろうな」


 確証はないと言うガーネットだが、その口ぶりは確信を得ていた。
 夢物語を聞かされているように、酷くつまらなそうにダイヤが問い掛ける。


「よく解らないが、何故、魔王ともあろう者がそんなものを欲しがる」
「創造する力。解り易く言ったつもりだったが、伝わらなかったようだな」


 ダイヤを侮るような物言いで、ガーネットは目も向けずに言う。


「創造主――。そう言えば、解るか?」
「馬鹿な」


 彼等の言う意味が解らず、ルビィばかりが首を捻る。
 何を言っているのか解らない。置いてけ堀のルビィに、後ろでジェイドが内緒話をするように耳打ちした。


「アレキサンドライト様は、我々が神と呼ぶ力を持っていたんじゃないかと、思っているのさ」


 神――。
 ルビィは息を呑む。御伽噺だ。馬鹿げている。ダイヤの否定に、ガーネットは何も反論しない。確証は無いのだ。今では確かめる術も無い。


「魔王はアレキサンドライト様の力を求め、ベニバナを襲撃し、彼女一人を残して殲滅した。アレキサンドライト様を捕え、子を産ませた」
「それが、俺だって言うのか。子を生す理由が解らない」
「彼女の力を引き継いだ手駒が欲しかったのかも知れないし、気紛れかも知れない。そんなことはもう解らない」


 終わりの見えない螺旋階段は、それほど上った訳でもないのに呆気無く終わりを見せた。
 染み一つ無い白い壁に、嵌め込まれたような両開きの木製の扉があった。踊り場すら存在しない階段の終わりで、ガーネットは迷いなく扉を開く。
 あの、春の新緑にも似た清涼で生命力に満ちた空気が流れる。建物は密室であるのに、空気は淀む事無く流れ続けている。


「お前は、如何したんだ」


 扉の中へ足を踏み入れたガーネットの背中へ、ダイヤが問い掛ける。
 内部はやはり、昼間のように明るい。部屋自体が光り輝いているように眩かったが、優しい光だった。


「ベニバナが襲撃され、一族が皆殺しに遭い、アレキサンドライトが捕えられ、お前は如何したんだ」


 ガーネットが苦笑したのが、空気で解る。まるで、痛いところを突いてくれるな、と言っているようだった。


「餓鬼だったからな。アレキサンドライト様の召使いとして、魔王城で生きるしかなかった」


 弁解するようなガーネットに、ダイヤとてそれを責めはしなかった。
 扉の中に家具は無い。正面に聖母を讃えた大きなステンドグラスがあるだけで、四方を白い壁に囲まれた無の空間だった。窓から入る光が白い床に美しい絵画を投影しているようだ。乾いた足音を響かせ、ガーネットが進む。
 さて、とガーネットが振り返る。口元は微かな弧を描いていた。


「此処へ行くと言い出した理由を聞かせてくれ」


 ダイヤは無表情だった。
 ガーネットではないが、問い詰めたくなる程度には、ダイヤがこの場所へ行くと言い出した経緯は疑問だった。ダイヤは表情を崩さない。ガーネットは問いを重ねた。


「自己顕示欲も支配欲も、お前には無いだろう。武力も求めてはいないし、母親への興味も無い。なのに、何故此処へ?」
「……確かに、俺はこの世界の覇権なんて如何だっていい。戦いたくなかっただけだ」
「失うことが、怖いんだろう?」


 否定を許さないように、ガーネットが言った。だが、ダイヤは眉一つ動かさずそれを肯定する。


「そうだ。百五十年かけて取り戻したものを、好き好んで失いたいと思うか」


 当たり前だと、ダイヤが言い捨てる。
 ルビィも、静かに頷いた。ダイヤが戦いたくない理由はそれだけだった。否、それ以外に有り得なかった。
 ガーネットは、目を伏せ苦笑する。


「ルビィが前に、如何してダイヤが自分で思考するように育てたのか、問うただろう。何故、操り人形のようにしなかったのかと」


 流すように、ガーネットがルビィを見遣り、ダイヤへ戻す。


「そんなことは当然だ。俺は、お前が大切だったからな。お前以外に、大切なものなんて、無かったんだよ。自分の未来を自分の思うように生きて欲しかったんだ。幸せになって欲しかったんだから。だが、お前の中で俺の存在がそんなに大きくなるとは、思わなかった」


 予想外だと言葉は示しながらも、何処か嬉しそうでもあった。子どもの成長を喜ぶ親の顔だった。
 ガーネットは困ったように笑いながら、ジェイドへ目を向けた。


「ジェイド。悪いが、俺はダイヤの気持ちが痛い程に解るんだよ。俺だって、ダイヤを戦地へ送りたくは無い。傷付くと解っているからな。こいつが望まないなら、王になんて推したくも無い」
「ガーネット」
「だが、状況はそう言っていられないんだ」


 今度はダイヤに向き直り、ガーネットがはっきりと言う。


「お前は魔王とアレキサンドライト様の血を引いてしまった。魔王の後継者候補である以上、策略を巡らす魔族に利用されるだろう。アレキサンドライト様を崇拝する者に、祭り上げられるだろう。そして、サファイヤは異常な執着を持ってお前を追っている。逃亡している間に、サファイヤなら世界を滅ぼすだろう。そうなれば、もう逃げ場は無い」


 ぎゅ、とダイヤが唇を噛み締めるのが、見えた。
 反論の余地は無い。ダイヤとて、解っていただろう。そう思い至って、ルビィは、以前の彼等の問答の意味を知る。あれはガーネットが嘗て言った通り、ダイヤの駄々だったのかも知れない。
 正論も正解も解っていて、否定されることを知っていて、反抗したのだ。ダイヤの、ガーネットに対する甘えの一つだったのかも知れない。予定調和の遣り取りだったから、ダイヤはいとも簡単に掌を返したのだ。


「人間と魔族が相容れないとは、俺も思わん。だが、共存出来るとも思えない。同族間ですら不可能だろう」
「……解っている」
「けれど、お前は武力による支配を望まない。違うか」
「……違わない」


 叱られた子どものように、ダイヤは俯いている。ガーネットが相手でなければ、こんなダイヤは一生お目に掛かれなかっただろう。


「殲滅や支配以外の選択肢があると、お前は考えている。その可能性を、百五十年の中で見た。そして、その方法の手掛かりが此処にあると思っているんだろう?」


 ダイヤは答えなかった。だが、ばつの悪そうなその目が何よりも雄弁に肯定を示していた。
 青い目が、ゆっくりと上げられる。


「……トパーズの空間隔離の魔法を見て、思ったんだ。拒絶する壁ではなく、受容する扉――。そんな魔法があったら良いんじゃないかって」
「受容する、扉?」


 ルビィの問い掛けに、ダイヤは渋々頷いた。


「全ての人間と魔族が共存するのは無理だ。だが、共存を望む者もいる。ならば、棲み分けるしかないだろう。望む者が望む通りに生きたらいい」


 人間と魔族を切り離すことを壁とするなら、ダイヤの言うそれは正しく扉だった。
 ジェイドが、苦笑する。


「其処で洗脳を思い付かないところが、ダイヤの甘さだな」
「俺はもう、――あんな思いはしたくない」


 洗脳には、苦い思い出があるだろう。ダイヤは目を逸らす。
 可能性。希望。それを求めて、ダイヤは此処へ来た。ガーネットはそれを予想していたように笑っていた。

46,Demand.

46,Demand.




 拒絶する壁ではなく、受容する扉。
 そんな魔法がもしも存在するのなら、否、創り出せるのなら――?

 天空より舞い落ちる雪は大粒でありながら、積雪は無く豊かな大地が広がっている。栄枯盛衰のこの世の理を覆すように、ベニバナの町は時間を止めてしまっている。主の不在を知らぬ館は、不可触の美しさを永遠に保ち続けるのだろうか。魔法によって守られた水中庭園のように。
 ダイヤの訴える可能性は、夢物語だった。現実を知らぬ世間知らずの世迷いごとだった。けれど、それはダイヤが百五十年の末に導き出した結論で、唯一の可能性だった。ダイヤはガーネットとジェイドを連れ、ベニバナに遺された魔法に関する資料を読み漁っている。全ての物事に犠牲が付き物ならば、これから払う犠牲は一体何だろうか。ルビィには、想像も付かなかった。
 一朝一夕で創り出せる魔法ならば、戦乱はこんなにも永く続かなかっただろう。ダイヤの言うところでは、これは戦乱ではなく平常な世なのだという。人間と魔族による覇権戦争、生存競争。言い方や捉え方は様々なれど、争いが其処此処で勃発していることに変わりは無かった。二つの種族の世界を隔てる壁があったところで、戦争は規模や形を変え続いて行く。ダイヤはそう言う。だが、扉があれば、望まぬ戦いは激減するだろう。
 彼等が今していることは、果たして本当に意味があることなのだろうか。彼等の努力を否定するようなことは言いたくは無いが、疑問は残る。問えば、自分で考えろと一蹴されるに違いない。

 と、その時だった。
 幻想にも似た降雪の中、陽炎のように影が躍った。
 蝋燭の灯が、風に揺れるような心許無い弱く細い影だった。見間違いかとルビィが目を擦ろうと腕を上げた瞬間、音も無く金色の閃光が一気に距離を詰めた。
 何処かで金属が割れるような澄んだ音がしたと、思った。金色の光はルビィのすぐ傍を駆け抜け、地割れのように大地を切り裂いた。否、隔離したのだ。
 この金色の光を、知っている。
 ぞわりと肌が波打つ。それは状況を理解した故の反応ではなく、殆ど本能的な生存の危機に晒された生物の恐怖だった。
 影は、此方に掌を見せ付けるようにして立っている。ばさりばさりと、風に揺れる上衣の衣擦れが聞こえるようだ。
 襤褸布のようなフードが落ちる。煤けた金色の髪が風に揺れる。蜜色の瞳が、獲物を捉えた猛禽類のように光る。秀麗な相貌の口元が、確かに弧を描いていた。


「トパーズ……?」


 あの雪原で、幻想の迷宮の中を彷徨っている筈だ。
 だが、目の前にいるのは間違いなく魔王四将軍が一人、トパーズだった。


「ダイヤは何処だ」


 答え等求めていない冷たい声が吐き捨てられる。
 何時だって飄々として、頼り甲斐のあるトパーズ。それが偽りだったとは今も思わない。けれど、目の前にいるのは殺戮衝動と憎悪に囚われた魔族だった。
 どれ程の間、あの迷宮を彷徨ったのだろう。表情豊かだった彼の頬は扱け、目の下には墨を塗ったような隈が深く刻み込まれている。
 金色の光が掌に集められる。ルビィは咄嗟に腕を盾に身を守ろうとするが、無意味であることも悟っている。
 空間隔離の魔法。それは正しく、拒絶する壁だった。金色の光は一枚の壁となり、ルビィを囲むように突き立てられた。
 風も降雪も拒絶する壁は、ルビィの左右後方を塞ぐ。退路を失ったルビィは腕を下ろし、眼光鋭く正面のトパーズを睨むことしか出来ない。強がりであることは誰の目にも明白だった。
 圧倒的武力、魔法の前で、人間はこんなにも無力だ。魔族が本気になれば人間等、赤子の手を捻るが如く殲滅されるのだろう。
 蛇に睨まれた蛙のように身動ぎ一つ出来ぬまま、ルビィは静かに歩み寄るトパーズを見詰める。


「お前に出逢わなければ、ダイヤは、共存等という妄想に囚われることは無かった」


 酷い八つ当たりだ。ルビィは思わず言い返す。


「私がいてもいなくても、ダイヤの考えは変わらなかったわ」
「違う。お前が」


 その時、トパーズの瞳に映った昏い光を何と例えたら良かったのだろう。
 憎悪、怨恨、殺意、恐怖、憤怒、悲哀――。そのどれもが正解で不正解だ。獲物を捕え巣穴に引き摺り込もうとする蟻地獄、嵌ったが最期二度と抜け出せない底無し沼。恐怖にルビィの双肩が震えた。


「お前が悪い。お前のせいで。お前がいなければ。お前なんて」


 トパーズらしかぬ稚拙な呪いの言葉だった。けれど、言葉に収まらない巨大な殺意がびしびしと肌に突き刺さる。
 再び、掌が翳される。逃げ場を失ったルビィに止めを刺す為に、光が集められていく。


「――トパーズ!」


 ガーネットの声だった。招かれざる客に対する驚愕故か、言葉が掠れていた。
 目を向ける余裕も無く、ルビィはトパーズと対峙する。


「ダイヤは、貴方の思い通りになんてならないわ。ううん。誰かの思い通りになんてならない」


 時間稼ぎのつもりも、駆け引きのつもりも無かった。ルビィの本心だ。


「何が望みなの? ダイヤのお母さんはもう、いないのに」
「お前に、何が解る!」


 金色の光が放たれたと思った。だが、それはルビィに到達する直前で、ガーネットの熱波を伴う鏃に破壊された。
 金色の粒子が風に舞う。トパーズは邪魔が入ったことも気にならないのか、余裕が無いのか、鬼のような形相で声を上げる。
 ガーネットが叫んだ。


「もう、止めろ! この人間を殺すことに何の意味がある!」
「邪魔するなよ、裏切り者!」


 侮蔑するように言い捨てるトパーズの声は、旧友へ向けるものでは無かった。
 トパーズが、解らない。
 明るく陽気で、ダイヤの為にその身を危険に晒すことも厭わない。けれど、百五十年前の魔王城の地下牢ではダイヤを長きに渡って苦しめた。ガーネットを守る為に魔法を行使し、ダイヤの為に魔王軍を裏切る。
 彼の本性が読めない。相反する行動の理由は一体何なのだろう。
 本能的な殺戮衝動、闘争本能。己を制御する強靭な精神力、理性。強大な武力、知力。稚拙な呪いの言葉。全ての人間と魔族が解り合えないとは思わない。目の前の魔族と解り合えるとも思えない。けれど、解りたいと、願った。


「トパーズ!」


 空気を裂くか細い音が、微かに聞こえた。
 ガーネットの放った矢は高温の熱波により周囲の雪を溶解させ、一直線に突き進んで行く。トパーズは集めた光を引き延ばすようにして、矢を迎え撃った。
 凄まじい爆風と共に、ルビィの身体は後方を塞ぐ金色の壁に打ち付けられた。
 呼吸困難に咳き込みながら、ルビィは膝を着く。トパーズはガーネットを目標に定めたのか、その掌をルビィには向けない。
 何を言えば良い。何をすれば良い。何をしたら救われる。如何したら、この手はトパーズに届く。


「ダイヤを出せ!」


 この振り絞るような叫びを知っている。呪うように唸りを上げるトパーズの声は、まるで。
 まるで。

 人間のようだった。


「トパーズ!」


 ルビィの声は、届かない。大地を握る手は届かない。
 理解出来ない。解り合えないと、ガーネットはその弓を構える。同族間、旧友ですら解らない彼の心が、ルビィには何故だか透けて見えるような気がした。ちりちりと脳の奥が燻る。底に沈殿した記憶の中で蘇るのは、ガーネットを失った時のダイヤだった。
 膝を着き、涙を零し、絞り出すように初めて零された弱音を、愛しいと思ったのだ。強靭な肉体と強大な武力を持った魔族が、まるで弱く儚い人間のように見えた。人間と魔族、何が違う?
 解りたい。解り合いたい。解って欲しい。
 罪人が神へ贖罪を求めるように、幼子が母へ縋るように、トパーズの声は此処にいないダイヤへ向けられている。
 トパーズとガーネットが、人間には及ばぬ魔法という恐ろしい力で争っている。ルビィに間へ入る力は無い。それでも、この声が届くと信じたい。
 弓を構えたガーネットが僅かに呻く。脇腹を押さえる所作と、額に浮かぶ脂汗が彼の怪我による不調を物語っている。それを好機とトパーズの目が光る。勝負は決したとばかりに光が放たれる――。


「トパーズ!」


 ルビィが叫んだと同時に、トパーズが動きを止めた。
 何かが、翔け抜けた。ルビィの目には、銀色の閃光にしか見えなかった。
 視界を覆い隠すような雪の中、銀色の髪が風に踊る。ごぽりと、トパーズの口から夥しい量の赤黒い血液が溢れ出した。


「ダイ、ヤ」


 銀色の髪に、鮮血が飛び散る。白い頬も返り血を浴びている。
 ダイヤに表情は無い。トパーズが崩れ落ちた。
 鈍色の剣が、トパーズの腹部を貫いている。膝を着いたトパーズを受け止め、ダイヤは目を瞑った。


「終わりにしよう、トパーズ」


 最期の一撃、ありったけの力を放つように、トパーズの掌から金色の光が零れ落ちる。
 天空には幾つもの光の粒子が浮かび、流星群のように降り注いだ。
 目を覆いたくなるような惨状――。ガーネットが何かを叫ぶ。ダイヤは動かないトパーズを抱えたまま、静かに膝を着いた。


「すまない」


 それが何に対する謝罪だったのか、ルビィには解らない。
 ダイヤの周囲が、淡く光る。それは空気を侵食するようにじわじわと範囲を広げ、終には降り注ぐ光の雨を呑み込み、消し去ってしまった。
 跡形も無く消えたトパーズの最期の一撃。光の壁は粉々に砕かれたのか吹雪の中に散って行った。
 トパーズを地面に横たえ、ダイヤが振り返る。返り血を浴びた相貌は恐ろしく――、そして、美しかった。


「ダイヤ、今のは……」


 ガーネットの問いには答えず、ダイヤは黙って剣の血を払う。
 積雪の無い大地がトパーズの血を、何事も無かったように吸い取ってしまった。


「もういい。もう十分だ。もう解ったから」


 ダイヤが苦悶に表情を歪め、訴える。
 誰に何を訴えているのかは解らない。だが、ルビィの胸の内には行き場の無い怒りが燃え上がる。


「如何して!」


 怒りは言葉となり、迸った。


「如何して、殺したの!」


 ダイヤの足元には、トパーズの亡骸があった。トパーズだったもの。もう二度と動かないもの。永遠に取り戻せないもの。
 ずっと、トパーズは叫んでいた。本心は解らない。もう誰にも解らないだろう。
 俯いたダイヤが、静かに顔を上げる。青い目は氷のように冷たく、透き通って見えた。


「他に方法は無い」
「そんなこと、解らない。でも、あったかも知れない。死んでしまったら、可能性は零になってしまうのに……!」
「もう、終わったことだ」


 淡々と言葉を述べるダイヤに、感情の機微は感じられない。
 ダイヤが剣を腰に戻す。鞘走りの澄んだ音が空しく響いた。


「トパーズの声が、お前には聞こえなかったのか」


 訝しげに目を細め、ダイヤが問い掛ける。白い世界で、ダイヤの受けた返り血だけが残酷な程に浮かび上がって見えた。
 ルビィは答えた。


「聞こえてたよ。私には、助けてって、言っているように聞こえたよ……」
「見解の相違だな。俺には、殺してくれと、言っているようにしか聞こえなかった」


 助けてくれ。殺してくれ。それもまた、相反する感情だ。
 トパーズが何を願ったのかは解らない。もう永遠に解らない。今度はルビィが問い掛ける。


「殺してくれと言ったら、殺すの?」
「何が言いたい。お前が理想論を語るのは自由だし、咎める気も無い。だが、それを俺に押し付けるなよ」


 無感情のがらんどうの瞳が、虚ろにルビィを見ていた。


「何が悪い。何が間違ってる。何が許されない。何を責める。行為か、理由か、過程か、結果か」
「ダイヤ?」
「もう、いい」


 くるりと、ダイヤは背を向ける。
 幾度と無く見て来た、自由の象徴――白亜の翼が広げられる。雪の溶けるその幻想的な美しさに一瞬、息を呑んだ。その遅れが全ての失敗だった。


「ダイヤ!」


 叫んだのは、ガーネットだったのか、ジェイドだったのか、ルビィだったのか。
 ダイヤは大きく羽ばたくと、空中へと浮かび上がっていた。そして、その身体は一直線に空の向こうへと突き進んで行く。
 脇腹を押さえたガーネットが、小さくなって行く背中へ向けて手を伸ばす。届かない。届かない。もう目にも映らない。
 肉眼では捉えられなくなったダイヤの姿に、誰もが言葉を失った。何が起こったのか、理解出来なかった。残されたトパーズの亡骸だけが、一連の出来事を現実と知らしめている。


「何があった」


 普段冷静なガーネットが、感情を必死に押し殺しながら呻くように言った。
 後方で立ち尽くしているジェイドが、悔しげに歯噛みしながら答えた。


「創造の魔法を、見付けたんだ」


 拒絶する壁ではなく、受容する扉。ダイヤの求めた魔法だった。
 それが何故、ダイヤが独りで離脱しなければならない理由になるのだろうか。ルビィはジェイドの言葉の続きを待つ。


「人柱だ」


 嗚咽を噛み殺すように、ジェイドが言った。

47,Blue sky.


47,Blue sky.



「付いて来い!」


 何時になく切羽詰まったガーネットの声に、ルビィは自分が呆然と立ち尽くしていたことを知る。
 上位を翻したガーネットが駆け出す。降雪の続く空は鈍色の雲に覆われ、既にダイヤの姿は何処にも見付けることが出来ない。翼を持ち、大空を翔るダイヤに、追い付けるもの等ありはしない。
 翼を持たぬ私達は、地べたを駆けて行くしかない。
 姿も見えぬダイヤに、ガーネットは文字通り必死に追い縋る。ルビィは後を追おうとして、後方で縫い付けられたように動かないジェイドに気付く。
 顔面蒼白となったジェイドが、虚ろな目で暗い空を見ている。否、その目には何も映っていないのかも知れない。


「人柱って……?」


 ガーネットを追うことを諦め、ルビィが問い掛ける。呆然自失状態だったジェイドは、胡乱な目を向けた。


「小さな、箱だった」
「箱?」


 ジェイドが静かに頷いた。


「白い木箱だ。アレキサンドライト様の館の、書斎で見付けた」
「何が入っていたの?」
「真っ白いハードカバーの本だった。開いた瞬間、白い光が霧みたいにダイヤを包み込んで、消えた。……恐らく、アレキサンドライト様が遺したのだろう」


 ダイヤの母親である魔族の女性。
 顔も知らない彼女が遺したものが何と無く解るような気がした。


「創造の魔法……」


 ルビィの呟きに、ジェイドは神妙に頷く。


「そうだ。望むものを作り出す、アレキサンドライト様だけの魔法」


 ジェイドの言うことが真実なら、それ程に恐ろしい魔法は無いだろう。
 想像した分だけ創造する魔法。使い手次第で絶望にも希望にもなり得る。正しく、それは創造主、延いては神の領分だ。


「ただ、力には代償が伴う。……以前、ダイヤが言っていたのは、この事だったんだな」


 大き過ぎる力は、争いを呼ぶ――。
 悔しげにジェイドが言った。


「創造の魔法は、命を削って行使される。脳への負担、精神の摩耗。大いなる力は使い手の中で膨張を続け、浸食して行く。この町に降り注ぐ雪は、アレキサンドライト様の苦肉の策だったんだ」


 ジェイドが、天を仰ぐ。絶え間なく降り注ぐ大粒の雪は、大地に到達すると跡形も無く消え失せる。
 これは全て、アレキサンドライトの遺した魔法。膨張を続ける魔法を消費する為に、永遠にも思える降雪を齎した。
 幻想的に見えた降雪が、真実を知ると酷く儚いものに見えた。暴走する力を少しでも消費し、自身を守ろうとしたのだ。けれど、アレキサンドライトは死に、彼女の亡き後も魔法は途切れる事無く雪として降り注いでいる。
 ルビィは、口を結んだ。そして、意を決して問い掛ける。


「その魔法が、ダイヤに……?」
「恐らく、そういうことだろう」


 なんてことだ。ルビィは口元を覆う。
 ダイヤの中に、膨張し続ける魔法が引き継がれた。行使しなければ使用者を摩耗させる毒。
 何故、ダイヤがこの場を離脱したのか、ルビィには解らない。


「望むものを作り出す魔法……」


 望むもの。アレキサンドライトが、望んだもの。
 ふと頭を過ったのは銀色の髪、青い瞳、白い翼を持つ魔族――ダイヤの横顔。
 まさか、ダイヤは。


「ダイヤは、魔法によって作り出された……?」


 背筋に冷たいものが走った。
 創り出された一つの命。何の為に、創り出されたのか。


――もういい。もう十分だ。もう解ったから


 絞り出すようなダイヤの弱音、泣き言。
 全てを、理解したのだ。自分が何の為に生み出されたのか、創り出されたのか、理解した。アレキサンドライトの魔法によって創り出されたダイヤは、果たして、魔族と呼べるのだろうか。
 人間でもない、魔族でもない。誰かの思惑の為に、歯車の一つとして創り出された命。


「酷い……!」


 既にダイヤも、ガーネットもいない。
 けれど、ルビィは見えない筈の背中を探し求める。
 アレキサンドライトの魔法によって創り出された命。魔王の血も、彼女の血も引いてはいない。何の責任も義務も無く、ただ利用されるだけの存在。そんなダイヤに――何を求める?
 誰を憎めば、誰を呪えば、誰を責めれば救われる。呆然と立ち尽くすばかりのルビィには、吐き出す言葉さえ選択出来なかった。
 どれ程の時間が経ったのか。
 ダイヤの消えた空の下、小走りにガーネットが駆けて来るのが見えた。額に汗を張り付けたガーネットが、息も絶え絶えに呻く。ジェイドが蒼白のままに問い掛けた。


「ダイヤは……」
「追い付けなかった……」


 当たり前だ。翼を持つダイヤに、追い付ける筈が無い。
 だが、ガーネットはその紅い目に確かな希望を浮かべて顔を上げた。


「あれを、取りに来たんだ」
「あれ?」


 ガーネットの言葉を復唱し、ルビィが問う。ガーネットは頷いた。


「ダイヤに追い付けるとは思わないが、追い掛けることの出来る乗り物だ」


 上衣を翻し、ガーネットが駆けて行く。ジェイドと顔を見合わせ、どちらともなくルビィは駆け出した。
 ガーネットの向かった先は、アレキサンドライトの館だった。白亜の壁に囲まれたその建物は、彼女の持つ強大な魔法を知った後ではまるで牢獄のように見えた。
 世界の端、ベニバナと呼ばれる街に閉じ込められたアレキサンドライト。
 魔王の末子として、魔王城の地下、牢獄に閉じ込められたダイヤ。
 憐れだと、不憫だと、空虚だと、ルビィは思う。何者にも捕えられない自由の翼と、強大な武力と、人間以上に優しく豊かな心を持ちながら、誰かに利用されるばかりの彼等が、酷く可哀想だと、ルビィは思う。
 勢い良く駆けて行くガーネットが、唐突に立ち止まる。正面にあるのは何の変哲も無い白い壁だった。だが、ガーネットは腰に差した矢筒から一本の矢を取り出すと、それを壁に向かって構えた。
 引き絞られた弦より放たれた矢は、高温の熱波と共に壁へ突き刺さる。壁は、見掛けの頑丈さとは裏腹に呆気無く崩れ落ちた。壁の奥は大きな空洞が、怪物の口腔のように広がっている。薄暗い洞穴の中には、大人数人が乗れる程の籠に括り付けられた布袋があった。それが一体何なのか、ルビィは解らない。


「気球だ」


 ジェイドが言った。
 迷い無く仕度を始めたガーネットの背中を見詰める。大きな布袋は数本の頑丈そうなロープで籠へ繋がれている。
 ガーネットは頭上へ向け、再び弓を構えた。
 放たれた矢は天井を熱波によって溶解させ、轟音と共に突き進む。矢が駆け抜けた先、天井には大穴が空き、青空が覗かせていた。そのまま布袋を広げ、ガーネットは掌を翳す。
 トパーズが魔法を放つ時と同じ構えに、ルビィは一瞬身体を固める。ガーネットが掌を翳すと、布袋は生き物のようにむくむくと触れ上がった。籠が、ふわりと浮かぶ。
 空を飛ぶ乗り物だ。ガーネットが、視線で促す。


「乗れ。――行くぞ」


 不安を拭えぬまま、ルビィは促されるまま籠へ乗り込む。
 内部は外見に寄らず、広く乗り心地が良かった。ガーネットが掌を翳すことで浮上し、進行する。青空へ浮かび上がる。それはまるで、ダイヤに連れられて大空を翔けた時に似ていた。


「本当は」


 絶え間なく熱波を放出しながら、独り言のようにガーネットが言った。


「本当は、ダイヤと一緒に飛ぶ為のものだった」


 目を伏せ、ガーネットが言う。
 それが、全てを物語っているとルビィは思う。
 他の誰でも無い、ダイヤが大切だとガーネットは言った。その言葉に嘘偽りは全く無い。
 ダイヤが、ガーネットと一緒にいたいと願った。その為に百五十年――否、二百年もの苦痛を耐え続けた。
 一緒にいたかったのだ。それだけが、彼等の願いだ。


「飛べるよ、必ず」


 ルビィの言葉に、一瞬、ガーネットが視線を向けた。
 すぐに逸らされた目はダイヤの消えた青空を睨んでいる。
 気球という乗り物の構造上、ダイヤに追い付く程の速度は出ないようだった。だが、それでもガーネットは可能な限りの最高速度で空を行く。ダイヤの姿は、依然として見えない。
 気球内は、ガーネットの放出する熱波以外の音は無く、重苦しい沈黙が支配している。ルビィは籠に背を預け、景色に目も向けず、沈黙を守る彼等に問い掛ける。


「ダイヤは、創られた命だったの?」


 懇願にも似た問い掛けに、答えたのはガーネットだった。


「解らない」


 正直な言葉だっただろう。ガーネットは続けた。


「アレキサンドライト様が、自らの膨張する魔力を消費する為に、創り出した存在かも知れない。魔王とアレキサンドライト様の血を引いて生まれた子どもかも知れない。事実は解らない。もう、確かめる術も無い」


 空を見詰めたままだったガーネットが、ルビィに目を向けた。その紅い瞳は、燃え盛る紅蓮の炎のようでありながら、崩れ落ちる氷山の一角にも見えた。


「人間と魔族、どちらも同じ命だと、お前は言ったな。――なら、ダイヤは?」


 質問の意味するものが解らず、ルビィは沈黙する。
 ガーネットは問いを重ねた。


「もしも、ダイヤが創られた命だったなら、如何する。誰かの身勝手な理由で創り出された、人間でも魔族でもないダイヤを、お前は同じ命だと言えるか?」


 命は平等ではない。掛け替えの無いものではなく、代替出来る代物だ。立場一つでその価値は大きく変わる。
 けれど。


「ダイヤが人間でも魔族でも、それ以外でも構わない。ダイヤだから、大切なの。……貴方もそうでしょう?」


 問い返されても、ガーネットは答えなかった。答える必要すら、無かった。
 解り切った問いだった。それでも、口にせざるを得ない程に、追い詰められている。
 再び口を結ぼうとするガーネットに、ジェイドが変わって問い掛けた。


「ダイヤの行先が解るのか?」
「もう、あいつには行き場が無い。追い詰められた末に行き着く場所は、――魔王城以外に、有り得ない」


 魔王城――。
 ダイヤが絶望の辛苦を味わい、百五十年の孤独が始まった場所。
 確信を持って、ガーネットが言う。


「膨張する魔力を持て余して、行き場も失ったダイヤが如何するのかなんて、解り切ったことだ」


 その意味も、ルビィには解っていた。


「前に、ダイヤに訊いたことがあったの。これまで、辛かったかって……」
「ダイヤは、何て?」
「解らない、考えたことも無かったって、言ってた」


 それは否定よりも肯定よりも、悲しい答えだとルビィは思う。
 本当の悲劇は、それを悲劇と受け入れられないことだ。魂の内側で死ぬことだ。五十年の投獄生活、百五十年の孤独な逃亡生活。たった一つの微かな希望に縋り生き続けたダイヤが、漸く救われた筈なのに。


「辛かったのかな。泣きたかったのかな。逃げたかったのかな。――死にたかったのかな」


 解らない。同族ですら、全てを解り合うことは出来ない。それでも、解りたいと切に願う。


「ねえ、如何思う? ダイヤは本当に――」
「もういい」


 ガーネットが、掠れるような声で、言った。
 消えそうに儚い、絞り出すような呻き声だった。


「もういい……!」


 伏せた紅い瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
 泣いている。ガーネットも、涙を流すのだ。人間と同じように。


「生きたかったんだよ……!」


 嗚咽雑じりに、ガーネットが言う。


「ただ、生きたかったんだ。何で、何でそれが許されない! 如何してだ!」


 零れた涙が、頬を伝い落下する。
 慟哭にも似た叫びが、残酷な程に青い空へ反響するようだ。


「人間も魔族も自分勝手に生きているのに、何で、ダイヤだけが、許されないんだ! 何が悪い! 何が間違っている!」


 この叫びを、知っている。
 同じだ。ダイヤとガーネットは、同じなのだ。


「ダイヤのところへ、行こう」


 青空を睨むガーネットに、ルビィは言う。


「行ったところで如何なるとも、思えないがな」


 諦念にも似たガーネットの言葉は事実だった。
 膨張する魔力に呑み込まれるダイヤは、それを行使する手段を持たない。アレキサンドライトすら魔力を持て余し、終には命すら放棄するに至っている。


「それでも、行かなければならないよ。ダイヤを独りにはしたくない」


 もう、二度と。
 何かを察知したようにガーネットが顔を上げた。頬に涙の粒を貼り付けたまま、静かに、頷いた。

48,Magic.

48,Magic.




 酷い重低音が、耳鳴りのように鼓膜を侵して行く。
 曇天の下、魔王城へ続く道程は進むに連れて薄暗くなる。命を産むことも育むことも無い死の世界は、砂漠と化して周囲の空気を乾燥させていく。魔王城から流れ出るという高濃度の瘴気は下方に漂い、魔族にとって命の水とも等しいが、人間にとっては毒でしか無い。
 気球に揺られる追走は一見すれば長閑だが、周囲は異常とも言うべき状態だった。
 細く伸びた炭のような枯れ木が帯のように群生している。黒い森と化した砂漠を見下ろし、ガーネットとジェイドが揃って息を呑む。彼等の相貌は驚愕に染まっていた。枯れ木は一方からの強烈な風に当てられたのか奇妙に歪んでいる。通り過ぎ様、ジェイドが手折った緑の無い細木の内部は空洞だった。


「……まるで、道標だな」


 吐き捨てるように、ガーネットが言った。
 おどろおどろしい森沿いに気球は進む。酸素が薄く、ルビィは運動後のように呼吸が荒くなっていた。
 砂漠は黒岩を砕いたかのような鈍色から、血のように不気味に紅く染まって行く。何処からか吹き付ける強風が枝先を震わせ、悲鳴のような音を響かせていた。
 次第に空気は鉄の臭いを帯びて行く。其処此処に死骸が溢れ返っていても不思議でない程の血腥さに、ルビィは顔を顰めた。


「何が、起きているの……?」


 不安に胸が押し潰されそうだった。ルビィは助けを求めるように問い掛ける。
 ジェイドが何かを答えようと口を開いたその瞬間、真正面から強烈な風が吹き付けた。煽られた気球は、ガーネットの操作も虚しく大きく揺られ、木の葉のように墜落した。地面に到着する寸前、ジェイドに抱えられルビィは籠を脱出した。
 着地した砂漠は衝撃を吸収し、粒子を宙へ舞い起こす。
 血が染み込んだかのような生臭さとは裏腹に、粒子は干からびたように乾いていた。気球はぐしゃりと潰れ、ガーネットの放っていた炎によって燃え盛る。轟々と唸る紅蓮の炎と熱波によってルビィの黒髪が舞い起こった。
 ガーネットの安否を気遣うより早く、その姿が影となって浮かび上がる。


「ガーネット!」


 煤に汚れたガーネットが、小さく咳き込みながら現れた。
 汚れた顔を拭い、ガーネットは空を見上げる。時刻すら予測出来ない不気味な曇天は紫色に染まっていた。


「移動手段が、無くなっちまったな」


 保身よりも先行きを案じるガーネットの表情は冴えない。
 燻る気球の亡骸と、周囲の黒い木々の幹を見遣る。上空からは解らなかったが、幹には苦悶に歪んだ人間の顔のような模様が浮かんでいた。断末魔すら聞こえて来そうな人間の顔が、幹びっしりに犇めいている。


「何、これ」


 思わず、ルビィは口元を覆った。
 木々の隙間から漏れる空気の音が、悲鳴のようだ。地面は所々蟻地獄のような穴が空いている。


「だから、道標だよ」


 酷く素っ気無くガーネットが言った。言葉の意味が解らずルビィが見遣れば、代弁するようにジェイドが答えた。


「膨大な魔力が漏出して、影響を齎しているんだ」
「これが……?」


 ルビィの脳裏に浮かぶのはダイヤの横顔だった。
 突然、膨大な魔力を押し付けられたダイヤが、それを持て余すことは想像に難くない。そして、その結果がこの周囲への禍々しい影響だった。


「魔法って、何なの?」


 それはルビィにとって当然の、純粋な問いだった。
 人間には想像も付かないような万能の力でありながら、使用者を選び、自然界に恐ろしい影響を齎す。
 何の為に存在するのだろう。何故、そんなものが生まれたのだろう。全てに意味があるのなら、それは一体何の為なのだろう。
 ジェイドが、言った。


「突然変異だ」
「突然変異?」


 復唱するルビィに、ジェイドが頷く。足取りは、黒い森に躊躇無く突入したガーネットを追っている。


「同種族でも、個体差が生じるだろう。規模は異なるが、同様の存在だ」


 ルビィが怪訝に目を細める。
 個体差、という言葉に不満はあるが、この際追及することに意味は無い。
 ジェイドは歩きながら続けて言った。


「運動能力、思考能力、生まれ持った能力はそれぞれ違うだろう」
「それはそうだけど……」
「多分な」


 背を向け歩き続けていたガーネットが、言葉を挟んだ。


「人間と魔族は、同じなんじゃないか?」


 ガーネットが振り返る。言葉は疑問形ながら、その目には確信が浮かんでいた。


「人間と魔族は恐らく、同一線上の生物で、進化の途中なんだよ。どちらが劣等種族か如何かは解らないが」
「つまり、魔族と人間は同じ種族だって言っているの?」


 それなら、この長い戦乱は一体何だと言うのか。
 世界の価値観すら崩しかねない仮説は危険思想と言っても間違いではない。


「ダイヤが良い証拠じゃないか」


 ガーネットを援護するように、ジェイドが言う。


「翼を持つだけで、能力自体は人間と殆ど変らない。姿形は人間に比べれば異形かも知れないが、魔族と呼ぶには余りに人間に似過ぎている」
「そんなの、」


 彼の口振りがダイヤを貶めているようで、つい反論し掛けるが、ルビィは寸でのところで口を噤んだ。
 人間と魔族、何が違うだろう。青い瞳と銀色の髪が魔族である証拠だなんて、お粗末な話だ。特にダイヤは、その翼も魔法も後天性のものだった。
 ダイヤの存在こそが、進化の過程の凝縮された図なのだ。ジェイドは、そう言いたいのだろう。


「人間は、滅ぶべき劣等種族なの……?」


 ジェイドは否定も肯定もしなかった。
 ガーネットが代わって答える。


「解らない。それはきっと、時代が決めることだ」
「時代……」
「なあ、お前は如何思う?」


 横顔だけで振り返って、ガーネットが問い掛ける。


「人間に比べ、魔族の肉体は強靭であるし、能力も優れている。魔法の存在は、人間を滅ぼそうとする天の意思のようじゃないか?」


 ぐにゃりと歪む黒い幹。地の底を覗くような深い溝。擂鉢状に穿たれた砂漠。縦横無尽に駆け巡る強烈な寒風。
 世界そのものが悪意を持って襲い掛かって来るような恐ろしさを感じ、ルビィは肩を震わせた。この地獄を思わせる環境への影響が天の意思ならば、ダイヤは人間にとっての死神なのか。


「解らないよ――」


 何の養分も有りはしない砂漠に芽吹いた異質な木々が、強風に薙ぎ倒される。皮だけの死に絶えた筈の木が悲鳴を上げる。それを悼むように風が虚しく鳴く。
 立ち止まったルビィに、容赦無く風は吹き付ける。空は日が暮れるように暗くなり、何処か遠くで雷鳴が響いているようだった。
 ただただ、恐ろしいと思う。
 人間を滅ぼし得る力も、自然界にまで齎される影響も、――命すら創り出す存在も、恐ろしい。


「解らないけど、そんなの信じたくないよ」


 ルビィは俯いた。涙が零れそうだった。
 魔族が人間の進化した姿という仮説は、十分にあり得ることなのだろう。けれど、魔法という力が人間を滅ぼす為にあるなんて信じたくない。
 だって、それじゃあ。


「だって、それじゃあ、ダイヤが人間を滅ぼす為に生まれたみたいじゃない――」


 耳に蘇るダイヤの声は、今にも泣き出しそうだった。
 ルビィの言葉にガーネットが唇を噛んだ。否定も肯定も、感情論以外で今のガーネットには出来なかった。
 その時、正面から吹き付ける風が噎せ返るように濃厚な血液の臭いを運んだ。咄嗟に口元を覆ったルビィだが、縫い付けられたように立ち止まったガーネットの背中に目を大きく見開く。
 何事だと隣に並んだ先、前触れ無く途切れた黒い森。再び現れた荒涼たる血腥い砂漠にはどす黒い一筋の川が流れていた。ガーネットの足元には小さな池が出来上がっているが、生物等存在する筈も無い。
 粘性を持つ液体は、まるで、血液のようだ。視線は川を遡って行く。これが血液ならば、どれ程の生物からそれを搾り取ったのだろうか。想像も付かない。緩やかな流れの中、地中から正体不明のガスが噴き出しているのか音を立てて気泡が割れる。川上には、遠目にも解る程に巨大な岩の建築物が天を突くように聳えていた。


「あれが、魔王城――?」


 建築物の屋根は鋭く尖り、避雷針の役割を担っているのか絶え間なく落雷する。
 周囲は肌を突き刺すように冷たい風が吹き付けているのに、ルビィの頬には汗の滴が滑り落ちる。川のせいなのか息苦しい程に空気は湿気に満ちているのだ。
 川岸には、魔族と思われる異形の腕が打ち揚げられていた。二の腕から先は存在せず、常軌を逸した力で捩じり切られたとしか思えない乱雑な切り口だった。そして、その死骸は川を遡る程に増えて行く。


「まさか、ダイヤが殺したの?」


 トパーズを討ち取った時の情景が、ルビィの網膜には鮮明に焼き付いている。
 苦々しげに、ガーネットが言う。


「少なくとも、ダイヤの意思ではないだろう。剣による傷ではないからな」


 急ごう。
 顔色悪く、ガーネットが言った。無言でルビィもまた、頷く。
 川沿いを早足に、魔王城へ進む。瘴気の満ちた魔王城に人間は立ち入れない筈だった。だが、魔王城の傍まで到達すると共にルビィは自身の生存の理由を知る。
 魔王城は既に、廃墟と化している――。
 柱は、黒い森の木々と同様に歪んでいる。其処此処に巨大な穴が空き、巨人の鉄槌が下ったかのように拉げているところもあった。これが魔族の本拠地であり、それ等を統べる王の住まいだとは思えなかった。
 壁には打ち付けられ原型を失った魔族の死骸が、壁画のように張り付いている。血の滴る臓物から、それ程時間は立っていないと予想出来る。余りにグロデスクな映像が濁流の如く視界へ飛び込み続けた為か、非日常的な光景に対してルビィの感覚は既に麻痺していた。恐ろしいと心が感じるよりも、脳がダイヤを探せと本能へ訴え掛ける。
 血液が膜のように足元を埋め尽くしている。砂漠に血の川が出来上がる理由も納得出来た。魔王城にいた魔族全てが、文字通り血祭りに上げられたのだろう。
 ダイヤの意思とは関係無く、暴走した魔力が魔族を皆殺しにしたのだ。
 人間を殲滅する為に生まれたのが魔法という力ならば、この矛盾は一体何なのだろう。問い掛けたところで、ガーネットもジェイドも答えられる筈も無かった。
 ぽたん。ぽたん。
 魔族の死骸から零れ落ちる血液の滴が、床を染めて行く。既に地獄絵図だ。この先に何があったとしても驚きはしない。足元に波紋を広げながら先を急ぐガーネットを追い掛けるルビィの足が、ふと、止まる。
 ぽたん。ぽたん。
 等間隔な水音が聴覚を侵して行く。頭が狂いそうだ。
 ぽたん。ぽたん。


「あ、」


 吐き出そうとした言葉は、形にならない。
 悲鳴にすら、ならない。
 王の間だろう広間の奥、鎮座する玉座。その正面によく見知った細い背中があった。白く美しかった翼は紅く染まっている。両手もまた血塗れながら、剣は腰に差されたまま抜き放たれた気配すらない。
 血溜まりと化した床を突き破るように、めきめきと植物が伸びて行く。腕のように太い蔓は血を吸った為か変色し、毒々しいまでに鮮やかな花が場所を選ばず咲き乱れている。狂ったかのような花の臭いに自然と眉が寄る。
 ダイヤは、振り返らない。
 薄暗い室内を、外界の落雷が時折照らす。


「ダイヤ、」


 ガーネットの呼び掛けに、ゆっくりと、ダイヤが振り向く。
 返り血を浴びた、死んだように無表情のダイヤの横顔が稲妻に照らされる。死角になっていた彼の正面、玉座には魔族を統べる王――サファイヤが足を組んでいる。この状況が愉しくて仕方が無いと言うように、口元は弧を描き表情は愉悦に歪む。
 白い稲妻に照らされ、サファイヤと呼ばれる魔族の群青の双眸が光る。


「何で、此処に来たんだよ」


 抑揚の無い淡々とした声で、ダイヤが言った。
 弾かれるようにルビィが声を上げた。


「ダイヤを、独りにしたくないからだよ!」
「もう、遅い」


 すっ、とダイヤの目が細められる。


「此処へ来るまでに、世界にどんな影響が齎されたのか、見ただろう?」
「……見たよ。魔族が、」
「魔族だけじゃねーよ」


 吐き捨てるように、ダイヤが言った。


「人間もだ。俺が通り掛かっただけで、疫病が蔓延しているみたいにばたばたと倒れて行った。死体は炭になるか、魔族のような異形と化すかだった」


 なあ。
 ダイヤが、言う。


「もしも、もしも、」


 懇願するように、ダイヤの声が掠れた。
 ぐしゃりと歪んだその願いは、糸が断たれるようにぷつりと途切れた。
 白い稲妻に似た閃光が、一筋の槍のようにダイヤの胸に突き刺さった。ごぽり。ダイヤの口元から、臓物を溶かしたように紅く黒い血液が溢れた。ダイヤが、夢でも見ているかのようにゆっくりと膝を着き、崩れ落ちる。
 血溜まりの中へ、うつ伏せに倒れたダイヤを中心に輪が広がった。その奥で、掌を向けたサファイヤが嗤っていた。

49,Answer.

49,Answer.




 声を上げる間も無い。
 目を閉ざしたダイヤは、倒れ込んだまま起き上る素振りも無い。胸に空いた穴は塞がらず、絶え間なく血液が流れ続けている。
 ダイヤにとって、その程度の傷が致命傷になる筈が無い。そう思うのに、一向にダイヤは起き上がらない。


「うわあああああッ」


 喉を引き裂くような絶叫と共に、ガーネットが弦を引き絞る。放たれた矢は緩い放物線を描き、サファイヤへと突き進む。
 けれど、矢は見えない壁に阻まれたようにその足元へ落下した。弓を投げ捨てたガーネットが無防備にダイヤへ縋り付く。だらりと腕は力無く下がり、今も血液が止め処無く流れる。胸に空いた穴は大きく、臓器すら血と共に流れ落ちてしまいそうだった。
 一心不乱にダイヤを呼び掛けるガーネットへ、サファイヤが掌を向ける。
 脳が思考するより早く、ルビィは動き出していた。
 丸腰のまま、サファイヤの前へ両手を広げて躍り出る。盾どころか衝立にすらならないだろう。それでも、立ち止まる訳にはいかなかった。
 掌が淡く光る。その光に照らされたサファイヤの愉悦に歪んだ相貌が、ぞっとする程に美しいことを知る。そして、ルビィはその美しさを、知っていた。
 瞬きすら間に合わない一瞬で、ルビィの身体は跡形も無く吹き飛ぶ筈だった。だが、その魔法は強烈な風圧によって吹き飛ばされた。
 魔法でも、武力でも無い。他の誰でも無いダイヤが、親友と共に生きる為に得た、ダイヤだけの力だった。
 風圧に消し飛ばされた魔法と、真正面からの風を受けたサファイヤが腕を盾にする。視線は真っ直ぐ、潰えた筈の命に向けられていた。


「この程度で、死ぬ筈も無いな」


 嘲笑するように吐き出されたサファイヤの言葉に、ルビィは振り返る。
 薄暗い広間で、酷く澄んだ青い瞳が光っている。広げられた翼は元の白さを取り戻しているが、胸に空いた穴からは今も血が流れている。
 表情は無い。けれど、青い瞳に浮かぶ光は確かに強く輝いていた。


「言っただろう、サファイヤ。もう、お終いなんだよ」


 ごぽり。
 足元が巨大な生物の呼吸器であるかのように、気泡が浮かび上がる。地震のような揺れにルビィは膝を着いた。
 廃墟と化した魔王城が軋むように揺れ、天井から瓦礫が音を立てて落下する。
 ごぽり。
 浮かんだ気泡が割れると同時に、床が地中へ引き摺り込まれる。擂鉢状に歪んで行く床に大量の血液が吸い込まれる。


「ダイヤ、何を!?」


 ルビィが叫ぶ。ダイヤが、笑った。何故だかルビィにとってその微笑みは、胸が軋むような痛みを覚えさせた。


「なあ、人間と魔族って、何が違うんだろうな」


 弱々しい声で、ダイヤが問い掛ける。
 ダイヤの身体が淡く発光し、結界を作るように周囲を照らし出して行く。白い光は春の日差しのように温かかった。それがまるで、ダイヤそのものを表しているようだった。
 サファイヤの掌から、幾筋もの魔弾が放たれる。けれど、それは淡い光の中で燃え尽きるように消えて行く。
 驚愕に目を見開くサファイヤへ、今度はダイヤが掌を向けた。魔法が使える筈が無い。だが、其処から放たれたのは鏡に映したようなサファイヤと同様の魔弾だった。
 サファイヤの身体を突き抜けた魔弾は、玉座を貫き、魔王城そのものを揺るがす。愉悦に歪んでいたサファイヤの口から、血液が零れた。


「なあ、如何思う」


 答えを、求めていないだろう。
 ダイヤの頬に、透明な滴が伝った。
 傍に跪いていたガーネットの肩を押し、光の外へ追い遣る。成す術無く、ガーネットが尻餅を着いた。


「ダイヤ、」
「ごめんな、ガーネット」


 くしゃりと笑うダイヤの頬に、涙がまた一つ落ちる。
 玉座で、サファイヤは奇妙な形で鎮座している。人間でいう心臓を貫かれても、強靭な肉体を持つ魔族は容易く死にはしない。
 だが、もしも、サファイヤの肉体にすらダイヤの持つ魔力が影響を齎していたとしたら――?
 殆ど反射的に、ルビィは自身の両手を見た。何の変化も無い、愚かで、小さく、弱く、醜い人間の掌だった。
 光の中心で微笑むダイヤへ手を延ばそうとも、ガーネットの腕は届かない。もう、届かないのだ。ダイヤの青い目は全てを理解し悟ったように、穏やかな光を映している。
 ルビィは、両手で拳を作り、問い掛けた。


「ダイヤは、如何思う?」


 それはダイヤとは異なる、答えを求める問いだった。
 ダイヤは逡巡する間も無く、簡単に答えた。


「同じ命だよ」


 種族の壁も、強さによる格差も無い。
 弱肉強食という世界の理に淘汰される、平等で残酷な時代に生きる同じ命。それが、長い旅の末に行き着いたダイヤの、本当の答えなのだろう。
 ルビィは言った。


「私も、そう思う。人間も、魔族も、――ダイヤも、同じ命だよ」


 如何か、この言葉がダイヤに届くようにと願う。
 この腕が届かなくとも、この想いが通じなくとも、如何か、知って欲しい。
 ダイヤが魔族か人間か、創られた命か否か。そんなことは知らないし、もう真実は永遠に解らない。けれど、ルビィには何と無く、解るような気がした。ダイヤが、全てを受け入れるよう穏やかに微笑むからだ。


「貴方は魔族――アレキサンドライトと、サファイヤの、実子ね?」


 殆ど否定を許さない口調で、ルビィは問い掛ける。
 言葉を失ったガーネットとジェイドの顔が驚愕に染まる。当然だ。これまで彼――サファイヤが、ダイヤへして来た仕打ちを鑑みれば到底信じられることではない。
 だが、サファイヤとダイヤは、似過ぎている。
 もしもアレキサンドライトが魔法によってダイヤを創り出したというのなら、憎き魔王の血を引くサファイヤに似せる必要は無かった。魔法で創り出せるのならば、自らの胎を痛める意味も無かった。真実は解らないけれど、ルビィには何故か確信があった。
 ダイヤが、乾いた笑いを漏らす。虚しい、自嘲めいた笑いだった。


「そうだよ。多分、な」


 ルビィは、水中庭園で見たダイヤの記憶の中のサファイヤを思い出す。
 ダイヤへの異常な執着――。それは、トパーズと同じだ。
 突き放す愛があるように、縛り付ける愛もあっただろう。強靭な肉体と武力を持ちながらも、心は酷く歪なその不完全さこそが、魔族が魔族たる所以なのではないか。ルビィは、思う。


「如何して、一緒にいられないんだろう?」


 ぽつりと、ルビィの瞳から涙が零れた。
 ダイヤが願ったのは、それだけだった。ルビィが願ったのも、同じだった。


「ダイヤ……」


 地面が溶解するように、ぐずぐずと音を立てる。
 周囲が、ダイヤを中心地として液体状に吸い込まれて行く。崩壊する魔王城の中で、ダイヤだけが切り取られたように美しかった。


「創造の魔法を、使うんでしょう?」


 空間隔離の魔法が施されたかのように、ダイヤを取り囲むのは光の壁だ。
 もう、誰の手も届かない。ルビィは縋るようにその壁へ手を添えた。叩けば割れてしまいそうに薄いのに、届かない。


「ごめんな」


 宥めるように、諭すようにダイヤが謝罪する。
 酷く申し訳なさそうに眉を寄せるその表情は、魔族とは思えぬ程に、――人間らしかった。
 ルビィは首を振った。


「ダイヤが謝ることなんて、何一つ無いじゃない」
「約束を、守ってやれなかった」
「約束?」
「タートラジンの町で、言っただろう。もう二度と、置いて行こうとしないでって」


 あんな一方的な口約束を覚えているダイヤの意外な律義さに、ルビィは、思わず笑った。
 透明な壁によって隔絶されたダイヤに、それまで黙っていたジェイドが問い掛ける。


「これが、お前の結末か?」
「ああ。――不満か?」
「当たり前だろう!」


 ジェイドの拳が、壁を叩く。壊れる筈の無い壁へ向けられた力はそのままジェイドの拳へと返る。それでも、ジェイドは叩くことを止めない。


「俺は、こんな結末を望んだ訳じゃない!」


 人間と魔族の共存を願ったジェイドの希望が、ダイヤだった。
 何も成さぬまま消えることが、ダイヤの結末なのか。怒鳴るようにジェイドが声を上げる。ダイヤが答えた。


「まだ、終わりじゃない。言っただろう」


 言葉の意味を掴み兼ねたジェイドが訝しげに眉を寄せる横で、ガーネットがするりと壁を越える。
 ダイヤの隣に並び立った紅目の魔族は、ジェイドとルビィを真っ直ぐに見ていた。


「拒絶する壁ではなく、受容する扉……」


 理解したように、ジェイドが言った。
 ダイヤが、頷いた。


「お前は、此方側には来られないよ。もう択んだんだろう」


 壁の向こうは、魔族の世界だ。
 人間の世界とは異なり、力が支配する酷く単純で残酷で、平等な世界。ジェイドは人間との共存を択び、ガーネットはダイヤを択んだ。
 そして、ルビィには其方側へ行くことが出来ない。ダイヤの創るその世界で生きる力が無いからだ。淘汰される弱者にとっては扉ではなく、強固な壁でしか有り得ない。


「それでいいの?」


 戦いを求めなかったダイヤへ、ルビィは問い掛ける。既に傷口からの出血も止まり、傷口も癒えてしまったダイヤが言った。


「いいよ。多くは望まない。なあ?」


 ダイヤは、ガーネットへ笑い掛けた。ガーネットもまた、それを肯定するように頷く。
 その親友の為に、育ての親の為に、ダイヤは長い間苦しんで来たのだ。魔族だけの世界で、戦いだけの日々で、ガーネットがいればそれで十分だとダイヤが笑う。それでいい。もう十分だ。何も望まないとダイヤが訴える。


「さあ、お別れの時間だぜ」


 ダイヤの言葉を合図に、光の壁が広がって行く。魔王城すら光の中に取り込まれ、壁はルビィを避けるように全てを包み込んで行く。


「ダイヤは、ダイヤは如何なるの? このままでは、増大する魔力に呑み込まれてしまうんでしょう?」
「解らない。だが、自分の始末は自分で付けるよ。――じゃあな」


 一瞬。苛烈な光がルビィの視界を白く染めた。


 眩しさに目を閉ざしたルビィが、再度目を開けた時、其処にはもう、何も無かった。

50,END.

50,END.




 目が眩むような白い空間は、あらゆる黴菌の侵入を許さない無菌室だった。
 染み一つ無い白いベッドの上で、死人のように白い面の青年が、白雉の如くぼんやりと外を眺めている。嵌め殺しの大きな窓の奥には、突き抜けるような蒼穹が広がっている。
 季節は、春だった。麗らかな日差しに、花々の優しい香りが漂うような気がする。
 青年の瞳は、蒼穹と同じく透き通るように青かった。そして、短く揃えられた髪は銀色だった。
 静寂に包まれた部屋に、ノックの音が転がった。


「ダイヤ、起きているか?」


 無地の白い作務衣を纏い、銀髪の青年が起き上る。
 さらりと流れた銀髪が、日光を反射して輝く。軋みながら扉が開いた。


「やあ、調子は如何だ?」


 黒髪を揺らし、白衣を羽織った青年が現れる。穏やかな微笑みを浮かべる面と、脇に抱えたバインダーへ目を遣り、銀髪の青年はふっと溜息を零した。


「そんなの俺が知りたいね。なあ、如何なんだよ」


 吐き捨てるように、侮蔑するように銀髪の青年が言う。面に浮かぶのは皮肉めいた嘲笑だった。
 対面する青年は医師だった。胸元に張り付けられたネームプレートには、ジェイドという名前と共に彼の所属先、その素性が証明されている。
 白い病室に溶けてしまいそうな銀髪の青年を見遣り、医師は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。そして、バインダーを手元へ引き寄せ、青年と見比べた。

 患者の名は、ダイヤモンド。十七歳、男性。
 医師――ジェイドが研修医として当病院へ配属された頃から入院している。当時は一般的な個室にいたが、近年は無菌室を中心として其処から離れることは無い。
 病名は無い。世界で初めての症例に、治療法は無く、現在の治療は対症療法の域を出ない。

 ジェイドは、青年に言った。


「その様子なら、調子も良さそうだな」


 青年は不満げに鼻を鳴らした。
 ダイヤモンド――ダイヤの抱える症状は二つ。一つは先天性の免疫不全による感染防御機構の異常。つまり、外界からの刺激に弱く、紫外線により肌は焼き爛れ、小さな切り口からの出血は重篤な多量出血へ繋がる。年齢を重ねるに連れて症状は悪化し、日常生活も難しくなる。恐らく、ダイヤモンドは二十歳まで生きられないだろう。
 そしてもう一つ。それこそが、ダイヤモンドがこの場所で生きる最大の理由だった。
 青年は白い面を窓へ向け、動かない。横を向いた作務衣の背中が、歪に盛り上がっている。それはまるで、脱皮しようとする蝉のようだった。
 後天性の奇形。ダイヤモンドの身体、主に背中の一部は少しずつ変異している。それだけではない。彼の細胞は外界からの刺激によって変異し、肉体的な異常を齎す。感染に対する抵抗力は弱いが、肉体的な強度は常人のそれを上回る。まるで、ダイヤモンドの変異は人間の進化を凝縮した図のようだと、ある学者は言った。


「なあ、ジェイド先生。退屈なんだ。このままじゃ病気よりも暇で死んじまうよ」


 頭の後ろで腕を組み、背凭れに倒れ込むようにしてダイヤが言った。
 十代の後半――。人間にとって重要な青春と呼ばれる時期を病院で過ごすダイヤへの同情は禁じ得ない。そんなダイヤへ朗報だと言うように、ジェイドは口を開いた。


「お客さんが来ているよ」
「誰?」
「ガーネット」


 その名を告げた瞬間、ダイヤが弾かれるように身を起こした。
 ベッドが軋むように鳴いたが、気にも留めずダイヤは蒼い瞳を爛々と輝かせている。


「ガーネット!」


 ダイヤが子どものように、扉の向こうへ呼び掛ける。
 曇り硝子に浮かぶ人影は、静かにドアノブを捻った。


「よう。元気にしていたか?」


 紅い目をした精悍な男は、ダイヤを見ると気安げに手を上げて挨拶をした。
 ガーネット。二十六歳、男性。ダイヤにとっては育ての親であり、唯一無二の親友でもある。
 ダイヤの産みの親、つまり母親は出産と共に逝去した。父はダイヤとは異なる先天性の疾患によって世話をすることは出来ず、近付くことも出来ない。父――サファイヤは、先天的に帯電する体質を持っていた。彼が常に放つ微弱な電磁波は常人には影響が無いが、ダイヤにとっては生命の危険を伴う程に致命的な影響となる。名義と資金提供だけが、父親であるサファイヤの出来る最大の援助だった。
 身体を起こすだけで、立ち上がることの出来ないダイヤは今にも宙に舞いそうに浮かれていた。犬ならば千切れんばかりに尻尾が振られていただろう。ガーネットは春先らしい淡い色彩の衣服を纏い、声を上げて来客を喜ぶダイヤをどうどうと往なしている。


「何だよ、ガーネット。来るならもっと早く言ってくれれば良かったのに!」
「驚かせようと思ったんだよ」


 喜びを隠し切れず、否、隠そうともせずダイヤが口先だけでガーネットを責める。
 傍に歩み寄ったガーネットは、慈しむようにダイヤの背を撫でる。歪に盛り上がった背中。肩甲骨が少しずつ隆起しているのだ。それはまるで、翼のように。
 ガーネットはそれを不気味がるでも無く、まるで当たり前の器官の一つであるかのように受け入れている。病院関係者の中にもダイヤを畏怖する者は多く、学者は彼を研究対象と見做している。育ての親と言っても、まだ若いガーネットはダイヤと血の繋がりを持たない。彼の父、サファイヤからの膨大な報酬が目当てだと下世話な噂を流す輩もいるが、今のガーネットを見れば到底信じられる筈も無かった。
 ガーネットはダイヤの傍の椅子を引き寄せ、どかりと座った。


「調子は良さそうだな」
「まあな。身体は元気だよ」


 不貞腐れたように、ダイヤが答える。
 病室は所謂無菌室だが、外界から齎される病原菌を排除する為に来客は着替えを行う必要が無かった。ダイヤの免疫不全、防御機構異常は、現在の医療科学では解明されない。ダイヤの身体は外界からの刺激を受けて確実に損壊されているのに、その要因が特定されていない。紫外線によって焼き爛れる肌も、春の日差しではまるで影響を受けないどころかプラスの作用すら働く。呼吸器を侵す空気も、創り出される空気の流れ――風さえあれば、呼吸は正常になる。外界から持ち運ばれた病原体も、ダイヤにとって好ましい環境さえ整っていれば死滅させられる。
 それでも、ダイヤの生きる世界は常人とは異なる。分け隔てなければダイヤは生きられない。否、ダイヤを隔離しなければならなかった。
 進化の縮図と呼ばれるダイヤの存在が、一般世間に知られれば、どんな影響が齎されるか。医療科学業界だけでなく、もしかすると人類へ直接的な影響が現れるかも知れない。


「外は良い天気なんだろう?」
「そうだな。日差しが暖かかった」
「いいなあ」


 ぽつりと零された言葉に、一瞬、ガーネットが息を呑んだ。
 羨望の言葉に隠された諦念。生まれてから殆ど全ての時間を病院で過ごしたダイヤに、外界を想像することは出来ないだろう。今更、外の世界へ出たところで浦島太郎のような存在で生きられる訳も無い。
 この狭い病室以外に、ダイヤの居場所は無いのだ。
 それでも、羨望を捨てないのは、ガーネットが来るたびに語る外界の話の為だった。彼が語る程に美しい世界ではないけれど、ダイヤの期待を裏切らぬ為にガーネットはきれいごとを告げ続ける。


「諦めてんじゃねーよ」


 憎々しげにガーネットが言った。


「治せよ、しっかりと。それで、一緒に世界を見に行こうぜ」
「……ああ、そうだな」


 治す。――ダイヤの症状に対して、治療という言葉が果たして正しいのかは医師であるジェイドにも解らない。
 ダイヤが窓へ向かって手を伸ばす。歪に盛り上がった肩甲骨が、背中に影を落とした。


「羽根があればいいのにな。そうしたら、お前と一緒に何処へでも行けるのに――」


 ジェイドは目を伏せた。ダイヤの命は恐らく短い。余命宣告をするのはきっと、ジェイドだ。
 窓へ伸ばされたダイヤの手は――、そっと、取られた。


「行けるよ」


 小さな掌が、ダイヤの手を包み込む。
 春の日差しの中で、小さな影が浮かび上がる。眩んだように青い目を細めたダイヤは、息を呑んだ。喉の奥が奇妙に鳴る。呼吸器の異常では無い。心理的な作用だった。
 病室に作り出された人工的な風が、ダイヤの髪を揺らす。青い瞳が驚愕に見開かれた。


「お前、」


 ダイヤの声が震えた。
 日差しに照らされ、黒い髪が輝く。大きな黒い瞳に、驚愕に染まったダイヤの顔が映る。
 彼女の名前を知っている――。
 呆然としていたガーネットが、思い出したように言った。


「そうだ。お客さんが、いたんだ」


 ダイヤ手を取った女性が、微笑む。


「初めまして。学者をしているルビィと申します」
「学者」


 訝しげに復唱したダイヤへ、ルビィもまた、応えるように頷く。


「そう。貴方を、此処から連れ出しに来たの」
「連れ出す? 俺はもう、何処にも行けないんだろう?」


 学者なら解っている筈だと、ダイヤが嗤う。
 けれど、ルビィは首を振って否定した。


「何処へでも行けるよ。貴方の身体は病に侵されている訳では無く、進化の途中なの」
「進化? これが?」


 忌々しげにダイヤが言う。


「免疫不全、防御機構異常、後天性奇形……。常に新鮮な空気と風、適度な日光が無ければ呼吸すら儘ならない。これが、人間の進化か?」
「そう。貴方の身体は人類の中で最も早く、時代の変化に適応しようとしているの」
「適応、ね。屋内にも屋外にも、俺の居場所は無いんだ。完璧な管理の元でしか、生きられない」
「本当に?」
「何?」
「本当に、そう思う?」


 何か確信を持って問い掛けるルビィに、ダイヤ思わず黙った。
 自分がどんな気持ちで十七年を生き、どれ程の覚悟で外界を諦め、どういう思いで短い命を受け入れたのか、彼女に解る筈が無い。そう、思うけれど。
 ルビィの横から、するりと前に進み出たガーネットが言った。


「色々話したんだけどな、お前の身体に、適した環境を探そうと思うんだ」
「どういうことだ?」
「だから、そのままだよ。狭い個室で、お前の身体に合わせた環境を作るのではなく、広い世界で、お前の身体に合う環境を探そうと思うんだ」
「無茶だ」
「だが、他に方法も無い」


 そうだろう、とガーネットはジェイドに問い掛けた。
 完璧な管理を行うこの無菌室でも、ダイヤが二十歳まで生きられる可能性は低い。
 もしも、他に方法があるのなら、それはこの狭い個室にあるのではなく、広い世界にある筈だ。
 ジェイドは己の医師としての矜持と葛藤しながらも、静かに頷いた。けれど、ダイヤは納得出来ないと喚くように訴える。


「外に出た瞬間に死んじまうよ。俺の身体は外界の些細な刺激に反応して、致命的な症状を引き起こす」
「一概にそうとも言えないだろう。お前の身体は現在の医療科学では解明されないところが大きいし、適度に自然と接することが生命維持に繋がっている」


 諭すように、ガーネットが言った。
 それでも信用出来ないと、否定の言葉を吐き出そうとするダイヤに、詰め寄るようにしてガーネットが言った。


「ごちゃごちゃ難しいこと考えてんじゃねーよ。此処で一生を終えたいのか? 外に出たくないのか? お前の望みは何だ?」


 重ねられた問いに、ダイヤの瞳が灯火のように揺れる。
 そっと顔は伏せられ、震える唇が確かに言った。


「世界を、見たい」
「――なら!」


 ガーネットが、ダイヤの空いた手を取った。


「行くぞ!」


 それは死地への旅立ちかも知れないし、可能性と言う名の希望かも知れない。医者として何が正しいのか、ジェイドには解らない。
 縋るようにガーネットの手を握るダイヤは俯いたまま顔を上げない。白いシーツに、涙の跡が落ちる。
 ルビィが言った。


「主治医として、可能であれば貴方も同行して頂きたかったのですが」


 既に否定の形を取った言葉に、ジェイドは苦笑した。


「ああ。残念だが、俺は行けないよ。ダイヤの他にも多くの患者を抱えているし、それに――」



 ジェイドの、翡翠のような瞳が、ルビィを見た。


「それはもう、俺の役目じゃないだろう?」


 確認するように、ジェイドが言う。今度はルビィが苦笑した。


「そうですか。では、バトンタッチということで」


 ルビィが微笑む。学者と言う彼女ならば、ダイヤを任せても安心出来る筈だ。
 涙を拭ったダイヤが、目元を赤く染めて此方を見ている。十七年の月日を過ごしたこの病院――否、この鳥籠から飛び立とうとしている。


「ダイヤ。飛び疲れたら、何時でも帰って来いよ」
「ありがとう、ジェイド」


 その時、騒がしく扉が再度開かれた。
 現れた青年は蕩けるような蜜色の瞳で、縋るようにダイヤを見て言った。


「おい、ダイヤ! 今の話、本当か?」
「ああ」


 転がり込んで来た青年――トパーズは、ダイヤと同じく当病院の長期入院患者だった。
 長年闘病して来た戦友とも呼ぶべき存在が旅立とうとしているのだから、焦るのも当然だ。けれど、ダイヤの決意は揺るがないようで、自力で立ち上がることすら難しい、痩せ細った両足をベッドの傍に垂らした。


「無理するなよ。今、車椅子を」
「いや、歩く」


 ジェイドの申し出を断り、ダイヤはガーネットに肩を借りながらゆっくりと立ち上がった。
 彼が立ち上がるところを、随分と久しぶりに見たような気がする。痩せ細った足は体重を支えられず震えるが、ガーネットが力強くそれを支えていた。
 一歩。ダイヤの足が踏み出される。骨が軋むような嫌な音がした。
 また一歩。今度は揺らぐことの無い確かな一歩だった。


「辛い旅になるかも知れないぞ」


 この後に及んで、トパーズが彼等の決意を鈍らせるようなことを言う。だが、ダイヤが笑顔すら浮かべて答えた。


「それでも、いいんだよ」


 向けられた笑顔が、ジェイドに、既視感を覚えさせた。
 それが何か等、もう誰にも解らない。
 歩き出した彼等を止める者はいない。その後ろを追い掛けるルビィが、扉を出る前に小さく会釈した。
 曇り硝子にダイヤの姿が浮かぶ。肩甲骨の奇形が、まるで、広げられた翼のように見えた。

 無菌室を出ても、案の定、ダイヤの体調は崩れず歩行も安定していた。日々進歩する現代医療の粋を集めても、ダイヤの生命を維持することは出来なかった。完璧な環境を人工的に作り上げた結果がダイヤの今を保障しているけれど、この先のことは解らない。ダイヤの身体は、日々変化している。肩甲骨の奇形も、やがては皮膚を突き破るかも知れない。そうして変化し続けるダイヤの症状に、医療が追い付く保障は無いのだ。
 今のダイヤを生かすものは医療かも知れない。けれど、未来のダイヤを生かすのはきっと、この世界だ。
 ダイヤは、人類の進化の縮図なのだ。
 そう論じた学者の説を、ルビィは殆ど確信にも似た思いで肯定している。そう考えると、これまで牢獄のような個室で生きて来たダイヤの十七年がとても尊いものに思えた。


「なあ、ルビィ、さん」


 敬称を付けるべきか逡巡したらしいダイヤが、ガーネットに支えられながら振り返る。
 白い面を春の日差しが照らし、青い瞳が宝石のように煌めいて見えた。ルビィは返事をする代わりに薄く微笑む。ダイヤが言った。


「前にも、あんたに逢ったことがあるか?」


 ルビィ、二十四歳。性別、女。
 自分よりも僅かに幼く、世間知らずだろう青年が小首を傾げる。ルビィははぐらかすように言った。


「下手糞な口説き文句ね」
「そんなんじゃねーよ」


 気を悪くしたように、ダイヤが砕けた口調で言った。


「ただ、そんな気がしただけだ」


 ダイヤとしては、ルビィの返答が肯定であっても否定であっても構わないのだろう。
 凡そ同年代の青年に比べると純粋で幼いダイヤを、微笑ましく思う。ルビィは答える。


「もしかすると、逢ったことがあるのかも知れないね」


 それが思い出すことも出来ない遠い過去なのか、想像も付かない遥かな未来なのかルビィにも解らない。
 ダイヤが、ガーネットの支えを離れて自力の一歩を踏み出す。春の日差しから力を得ているかのように、その足取りは力強い。とても長い間寝たきりであった重症患者だとは思えなかった。
 開け放たれた窓から吹き込んだ一陣の風が、銀髪を舞い起こす。
 眩しい日差しの中で、ルビィは一瞬の幻を見た。
 縒れた上衣を翻す銀髪の青年。煌めく水面のような青い瞳。広げられた白亜の翼。振り返る白い面には、確かに、微笑みが浮かんでいた。


「何してんだよ、置いて行くぞ」


 何時か何処かで見た――見るかも知れない光景が、幻と呼ぶには強い現実味を持ってルビィの目に映る。
 吹き抜けた風の奥で、笑っている青年の背には歪な肩甲骨がある。日に焼けていない白い顔を見遣り、ルビィは、笑った。


「今、行くよ」


 もう、置いて行かないよ。
 青年の幻が、そう言って笑ったような気がした。

番外編 R.I.P.

R.I.P.




1、ガーネットとダイヤモンド


 ダイヤが産まれた時から、周囲には敵しか存在しなかった。

 アレキサンドライト様が逝去された後、その一族の血を引く唯一の子どもを狙う輩は多かった。赤子のダイヤは、生きることが不幸であるかのように泣き叫ぶばかりで、俺は大変手に余していた。こいつさえいなければ、と思うことは一度や二度ではなかった。
 食事、排泄、睡眠。当たり前のことが何一つ出来ない。不平不満を言葉に出来ず、全て泣き喚いて訴える。正直、煩わしかったのだ。それでも、アレキサンドライト様の忘れ形見だと言い聞かせて、俺にしては随分と辛抱強く関わったと思う。けれど、彼が自己主張を繰り返す内に、――放り出してしまった。
 もういい。面倒臭い。何で俺が面倒見なければいけないんだ。勝手にしろ。お前なんて知らない。
 そんな言葉を吐き捨てて、魔王城の一角、ダイヤを放り出した。ダイヤは相変わらず泣き喚くばかりで、俺に何一つ言葉で訴えようとしなかった。所詮、この世は弱肉強食だ。赤子と言えど、弱い存在は生きる価値すら存在しないのだ。そう自分に言い聞かせて、泣き喚くダイヤの声を背中に受けながら俺は立ち去った。
 背後に、無数の気配を感じていた。ダイヤを狙う複数の魔族が、傍に歩み寄ったのだろう。火が点いたように泣き喚くダイヤも放って置いて、俺はその場を離れようと思った。
 ダイヤの引いた血は強大だった。魔王様とアレキサンドライト様の血を引くダイヤは、赤子の末子と言えど魔族にとっては喉から手が出る程に欲するものだっただろう。俺はそれも解っていて放って置こうとした。もう、うんざりだ。如何して俺が子守なんてしなければいけないんだろう。俺は魔王軍の一員として、人間を殲滅する為に武器を手にする必要があった。俺の腕は赤子を抱く為では無く、人間を屠る為の武器を握る為にあるのだ。
 ダイヤが泣き喚く。それでも、群がる魔族は引かないだろう。それだけの、価値がダイヤにはある。
 俺がいなくともダイヤは育つ。アレキサンドライト様をダイヤが覚えていないように、ダイヤも成長するのだろう。そう、言い訳をした。けれど。


「――と」


 声が、した。


「がー、と」


 泣き叫びながら、幼い子どもが何かを必死に訴えている。
 様々な策略の為に伸ばされた手の中で、ダイヤが必死に訴えている。青い目が縋るように、俺へと向けられていた。小さな手が、剣も握れないような弱い掌が俺へと伸ばされている。他の誰でも無い俺へと訴え掛ける。


「がー、とぉ」


 ダイヤの呼ぶそれが、俺の名前だと気付いたのは少ししてからだった。
 置いて行かないで。此処にいて。お前が必要なんだ。御前じゃないと駄目なんだ。助けて。一緒にいたいんだよ。
 そう言った思いを全て詰め込んで、縋るようにダイヤが、俺の名を呼ぶ。



「がー、とぉ……!」



 ぽろぽろと零れ落ちる涙は、透き通るようだった。

 紫色の鱗を持つ魚類のような魔族が、ダイヤを抱き上げる。いよいよダイヤは火が点いたように泣き喚いた。

 嗚呼、と心の中で感嘆する。

 ダイヤモンドと、アレキサンドライト様は名付けた。この世で最も強く、美しい鉱石の名前だ。


「がーとぉ……」


 此処に来て。
 それは脳から直接下された命令のように、俺を突き動かした。
 気付いた時、俺は剣を抜き放ち、ダイヤを抱きかかえていた。ダイヤに手を伸ばした魔族の者は全て戦き逃げて行った。その程度の覚悟で、この子に手を伸ばすなと言ってやりたかった。けれど、腕に抱えたダイヤが俺の服を握り締めて、文字通り必死に叫ぶ。


「がーとぉ……」


 お前は、本当に魔王様とアレキサンドライト様の子どもなのか?
 そんな疑問を抱く程に、ダイヤは弱い存在だった。けれど、それでもいいと、思った。


「何だよ、それ」


 名前くらい、言ってくれよ。
 そんな願いを込めながら、ダイヤを抱き締めていた。――小さかった。武力に対して何の抵抗手段も持たない弱い存在だった。けれど、その身に見合わず俺へと伸ばされた手は強かった。崖から落ちる手前のような強い力に俺は俄かに驚いた。
 泣き喚くばかりのダイヤが、俺の名前を知っていたこと。守られるだけだったダイヤが、思いの外、俺を強い力で掴むこと。策略を巡らす魔族を泣き喚いて警戒すること。俺は何も知らなかった。ダイヤが面倒臭い生き物だったとばかりに、蹲って放り投げていただけだった。


「俺の名前は、ガーネットだよ」


 そんなこと、言っても解る筈が無いのに。
 それでも、ダイヤが泣きながら必死に俺の名前を呼ぼうとする。
 俺は、その時になって漸く気付いた。縋る母も亡く、父も無く、自分で生きる術も無いダイヤが縋る先は俺しか存在しないのだ。だから、必死に訴えるのだ。置いて行かないで、と。此処にいて欲しいと。
 俺は、ダイヤを抱き締めていた。零れるダイヤの涙もそのままに、抱き締めることしか出来なかった。
 お前しかいないんだ。お前が居てくれないと困るんだ。お前が、大切だから。
 全ての言葉を泣き声の中で訴えるダイヤを、初めて、愛しいと思った。アレキサンドライト様や魔王様の存在なんて関係無く、愛しかった。他の誰でも無く。代替できる誰かでなく、俺が大切だと全身で訴えるこの弱い子どもが、如何しても愛しかった。
 ダイヤが、訴える。


「がーっとぉ……」


 俺の服を縋るように掴む弱い存在だ。けれど、――。
 ダイヤが、愛しかった。守ってやりたかった。それを他の誰にも譲りたくない。俺はダイヤの一番で居たかった。親を持たない彼が縋る唯一の居場所であるように、俺はダイヤを抱き締めていた。小さかった。剣も握れない。自分の身も守れない。そんな存在を守るように、俺は抱き締めていた。
 お前が大切なんだよ、他の誰でも無く、お前だけが。そう訴え掛ける存在を、誰が蔑ろに出来るだろうか?


「うるせーんだよ……」


 苦し紛れの言い訳のように、俺は口にしていた。


「呼ばれなくたって、解ってるよ」


 お前が、俺を必要としていることくらい。
 解っていたんだ。お前が、俺がいないと生きられない存在だってこと。


「ごめんな……」


 縋り付くダイヤを抱き上げ、腕の中にしまい込む。この弱い存在が、誰にも傷付けられないようにと願った。
 守ろう。この子を、何に換えても守ろう。
 きっとこの子は、将来、魔王の後継者として様々な策略に巻き込まれ、利用されようとするだろう。でも、俺はこの子が望む未来を望むように生きられるよう、この子を守る。その為に強くなろう。――そう、誓った。


★garnet(生命力、活力、秘めた情)




2、トパーズとガーネット


アレキサンドライト様が、御逝去された――。

 訃報を告げる鐘の音の中、その言葉は刃のように俺の心臓を貫いて行った。周囲が悲哀に包まれ涙を零し俯く中で、俺はそれが現実だとは如何しても思えなかった。今、目に見えている世界が全て夢だったんじゃないかと思った。否、思いたかったのだ。
 呆然と立ち尽くしたまま、俺は途方に暮れていた。羅針盤を失った帆船のように、目的も無く波間を漂うだけの無力な存在だった。
 かつん、かつん。
 聞き慣れた硬質な音が、啜り泣きのように俺の耳に届いた。やがてそれは、床を嘗めるような摺り足へと変わる。
 ガーネットが立っていた。人形のような無表情で、血の気の無い青い面で、体中に真っ赤な返り血を浴びて立っている。その片腕には、小さな命が収まっていた。
 銀色の髪、長い睫、白い面。涙を睫に留めて、静かに寝息を立てている。それが誰か等、問うまでも無く解っていた。隕石のように引き寄せられ、俺はその小さな顔を覗き込んだ。目を覚ます素振りも無く等間隔の穏やかな寝息を立てている様は、まるで呑気な人間の赤子のようだ。けれど、その顔立ちは、何の確証が無くともアレキサンドライト様を連想させた。


「この子は……?」


 問えば、ガーネットが答える。


「ダイヤモンド。アレキサンドライト様の、忘れ形見だ」


 感情の籠らない硬い声で、ガーネットが言う。こいつが今、何を考えているのかなんて解らない。
 忘れ形見。アレキサンドライト様は、亡くなった。――この子どもを、守る為に!


「トパーズ!」


 ガーネットの悲鳴にも似た声が、鼓膜を刺すように揺らす。伸ばされた掌が、俺の腕を掴んでいた。
 爪を立てるように俺の手は赤子の顔へ伸びていた。無意識だった。ガーネットの声にはっとして、自分の手を呆然と見詰める。俺は今、何をしようとしたんだろう。
 まるで白昼夢のようだ。訳の解らない状況だと思った。だが、俺は明確な殺意を持って、この子どもを、殺そうとしていた――。


「止めろ、トパーズ……」


 ガーネットらしかぬ懇願するような声に、圧倒される。


「如何して?」


 理解出来なかった。だって、この子が、アレキサンドライト様を殺したんだ。こいつがいなければ、アレキサンドライト様は生きていた。
 こいつさえ、いなければ!
 消え失せた筈の殺意が、炎のようにめらめらと燃え盛る。ガーネットは、赤子をしかと抱きかかえたまま訴えた。


「この子は、アレキサンドライト様の残された、ただ一つの希望なんだ」
「希望? こいつがいることで、生まれる争いが幾つあると思っているんだ。予言を聞いただろう。破壊と再生を背負う歯車の一つだ。こいつさえ、いなければ――」
「トパーズ!」


 ガーネットが声を上げた。


「この子の前で、そんな話をするな……」
「黙れ!」
「この子に何の罪がある? 子どもに生まれる場所は択べない。産むことを選んだのはアレキサンドライト様だ。魔王様の末子として、これから様々な策略に巻き込まれ、利用され、或るいは道具として扱われることだろう。それでも、アレキサンドライト様は、この子を希望と言った。俺はその言葉を、信じたい!」


 憔悴し切った力の無い面で、ガーネットが必死に訴える。
 信じたい。信じられるのか?
 魔王様の末子だぞ。サファイヤ様の弟だぞ。破壊と再生の歯車と予言を受けた不吉な子どもだぞ。この世を壊し、創り変える程の力を持つかも知れない赤子なんだぞ。それでも、信じたいと言うのか?
 馬鹿らしい。理解出来ない。


「この子は希望なんだ。俺にとっても――」


 ガーネットが、赤子――ダイヤモンドを抱き締める。
 信じたい? 違うだろう。信じることしか、出来ないんだろう。
 アレキサンドライト様の遺したこの子に、縋ることでしか自分を保てないんだろう。なんて脆弱な男だ。だけど、それは俺も同じだった。赤子に全ての罪を擦り付けて、自分を保とうとしている。


「なあ、ガーネット……」


 涙を頬に張り付けて、静かに眠るばかりのダイヤモンド。
 守られるばかりの、弱い存在。けれど、その小さな掌は、ガーネットの服を強く握り締めて離さない。


「この子は、希望となり得るのか? 全てを滅ぼす絶望になるかも知れない」
「解らない。だが、絶望になんて、絶対にしない」
「お前が育てるのか?」
「そうだ」


 強く頷いたガーネットの意思は固く、どんな言葉でも覆すことは出来ないだろうと確信した。それを裏付けるように、ダイヤモンドの掌も解かれることはない。この子は、生まれながらに解っている。その手を伸ばす先を、意味を、理解している。
 魔王様の末子。アレキサンドライト様の忘れ形見。この子どもの進む未来がどんなものであるのか、俺には解らない。


「……ならば、しかと見届けよう。この子の、行く先を」
「トパーズ……」
「だが、この子どもが道を違えるのなら、俺はそれを何としてでも阻もう」


 強く睨み付ければ、ガーネットが息を吐くように笑った。


「そんなことには、ならないよ」


 掠れるように吐き出された言葉に含まれる意味に、気付かない程、浅い間柄ではない。
 道を違えさせはしない。お前に殺させはしない。お前の手を染めさせはしない。そう言った彼らしい強過ぎる責任感で、吐き出された言葉だ。
 声に目を覚ましたのか、ダイヤモンドが薄目を開ける。それは、魔王城では決して拝むことの出来ない、突き抜けるような蒼穹と同じ色をしていた。

★topaz(希望、知性、繁栄)

bird of passage.

bird of passage.

魔族と人間が世界の覇権を争う戦国時代。 傲慢だが優しい翼を持つ魔族の青年との出会いにより、 小さな山村で細々と掟の中だけで生きる少女が世界へ旅立つ。 ※個人サイトより重複投稿しています。

  • 小説
  • 長編
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  • 冒険
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更新日
登録日
2015-09-29

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  51. 番外編 R.I.P.