ビートダウン

朱瑠兎

  1. 1.
  2. 2.
  3. 3.
  4. 4.(END)

1.

 八月の第四週、そろそろ夏も終わりという頃。夕方になるとだいぶ涼しくなっているような気がする。
 学校が始まるまで数日となった。勉強は得意じゃなく好きでもないが、宿題を最終日までため込んで徹夜……なんてことは嫌なので、夏休み序盤から計画的に進めて終わらせておいてある。
 そのおかげで、夏休み終盤をのん気に過ごせている自分がいる。
 今日も某学園ドラマのオープニングで出てくるような土手を歩く。ゆったりと時が流れている感じが俺は好きだ。どれ、今日は水際を歩いてみるか。
 陽は西に傾き、きらきらと輝いている水面が美しい。
 河川敷へと下りようとしたその時、下から何かが――
 そして一瞬、気配と共に、甘い果実のような香りを感じた。
 
 ドンッ!

「ぐふ!」
 胸の奥をくすぐる香りの直後、その胸に重くて硬い何かが直撃した。
 一瞬呼吸が止まり――体が後方にふっ飛んだ。
 着地点はアスファルト。もし、このまま後頭部を打ちつけるようなことがあれば、命の危険すらある。
 俺は、とっさの判断で受け身の態勢を取った。
 あごを引く――目線はベルトの辺り、今はベルトを着けていなかったが、とにかく制服を着ている時にならそれがある場所に目線をやる。こうしてあごをしっかり引くことで、後頭部がまともに地面に直撃することを防ぐ。
 体がアスファルトにぶつかる瞬間、地面を手で思いっきり叩く。これにより反発力が働き、体へのダメージが和らぐ。
 ――やった。多少痛むのはしょうがないが、見事に体育の授業(柔道)で習った後ろ受身を成功させた。
 目の前に広がるのは終わりかけの夏の空……うん、意識もはっきりしている。
 我ながら誇らしい。アスファルトを強く叩いたせいで手のひらがビリビリと痛いが、最悪の事態になるよりはマシである。
 ゆっくりと起き上がってから、周囲を見回す。自分が無事なことを確認したら、やはり気になるのは俺をふっ飛ばしたものの正体だ。
 おそらく、ぶつかったのは人間だろう。相手も怪我していなければいいが……
 ところが、周囲を見回しても人らしき姿は見えない。せいぜい遠くの方で犬を連れて歩いている人、もしくは自転車をこいでいて、いかにも買い物帰りというおばさんくらいしか確認できない。
 下の河川敷の方を見ても人が転がっている様子はない。河川敷へと下りようとした俺と、土手へと上がってきた相手との激突なら、相手は河川敷に転がっていていいはずだ……
「ふーむ――って、いてててて!」
 漫画やドラマに出てくる探偵のごとく、あごに手を当てて考えようとしたら、手にずきんと痛みを感じた。
「うわあ……」
 両手のひらが擦りむけまくっている。血が全体にまんべんなくにじんでおり、それを目の当たりにしたせいで、いっそう痛みが増したように思えてきた。
 ――これはきつい。この際、命が無事だったのだから俺が何とぶつかったかなんてどうでもいい。今は、一刻も早く家に帰ってこの傷の手当をしなければ!

 帰宅すると、まず傷口を洗い、次に消毒をしてそれなりに処置を施した。
 夏の終わりに痛みを伴う奇妙な体験をしてしまったわけだが、そのまま夏休みは変わったこともなく終わってしまった。
 明日からは二学期が始まる。
 そしてそれは、この俺、勇見(いさみ)貴之の高校生活が、平凡な日々から戦いの日々へと変わる転換の日でもあった。
 
 九月一日。平均的な県立高校である北中島高校一年四組の教室に約四十日ぶりに入る。
 朝のホームルームが始まるまでの間、久々に会うクラスメイトとの会話が弾む。
 そんな会話の途中。クラスのお調子者の大山一也が仕入れた情報は、クラスの――それも、特に男子一同に緊迫した空気を張り巡らせた。
「うちのクラスに転入生が来るって話だぜ。しかも……女の子!
 可愛い子だといいよなあ……」
 新学期、転入生、しかも女の子。男子は皆これを聞いて、一瞬の沈黙の後に一気に話し出す。もちろん、その話題は転入生がどのような娘かという予想だった。
 無論、健全な男子高校生である俺もやはり楽しみになってしまう。
 ざわめきの中、担任の長洲(ながす)が教室に入ってきた。
「うーっす。だいたいみんな来ているようだな。新学期早々、欠席、遅刻もアレだもんな」
 長洲は相変わらずの野太い声で挨拶をする。だいたいチャイム通りに入ってくる中年の体育教師である。
「おう。新学期最初の話題はなあ、転入生の紹介だ。なんとそれも女子だ。
 だから男子は喜べよ。あっ、もちろん女子も喜ぶんだぞ。それじゃあ転入生! 教室に入ってきなさい」
 入って来たのは、まだ一言も声を発していないのに、実におとなしそうな印象を見る者に与える少女だった。高校生女子の平均くらいの身長に、セミロングの黒髪だ。
 俺は教壇の前から二つ目の席に座っているが、彼女が透き通るような白い肌をしているのが見てとれた。
 整った二重の瞳をしているが、ややうつむき気味。小さな唇をきゅっと締めて、さらに小さくしている。緊張をしているのかな?
「うーん。手芸部で編み物とかしてたらきっと……」
 一つ後ろの席で、一也が妄想を口にしているのが聞こえた。
「ええと、緊張しているようだが、みんなに自己紹介しない」
 長洲に促され、転入生は口を開いた。
「く、久野(くの)静花(せいか)といいます。父の仕事の都合で、八月に県外からこちらに引っ越してきました。まだ慣れていないことが多く、いろいろとわからないことだらけですが、どうぞよろしくお願いします」
 肌と同じで、透き通るような声で彼女が挨拶をした後、教室内はまたもざわつく。後ろの席にいる一也も、今度は独り言ではなく俺に話しかけてきた。
「おい貴之! かなり可愛くないか? はっきりいって期待以上だね! 個人的に、おとなしそうなのもよしっ!」
「ああ。完全に同意だ」
 まったくである。何と言うか、おしとやかそうで見た目もほっそりとした感じ。一也は手芸部で編み物をしている姿を妄想していたようだが、俺ならエプロンをして料理を作っている姿を浮かべてしまう。
「どうだね。前の学校に比べてこの学校は?」
「ええと……き、綺麗です」
 その後、長洲にいくつか質問をされてから久野静花は座席を指定される。俺からは離れた、窓際の列の後ろの席に座ることになったようだ。
「うわあ。遠いなあ……残念だ」
 一也がぼやく。
 確かに、ここからだと後ろを振り向かないと彼女は視界に入らない。俺だってやっぱり残念である。健全な男子高校生として、可愛い女の子が簡単に視界に入る方が嬉しいのは当然だ。
「おーし。転入生と話すのは始業式が終わってからにしろよお。
 これから始業式だからなあ」
 この日の一時間目は始業式になっているため、朝のホームルームが終わると全員体育館に向かうことになった。

 始業式が終わり、教室に戻る。転入生の久野静花はクラスの女子に囲まれ、質問攻めにあっていた。
「家は何丁目?」
「駅前のサワディ―カップってカフェに行った? うちの高校の女子御用達の店なんだよ」
「前の学校で彼氏いたぁ? 久野さんって可愛いんだし、いたんじゃないのぉ?」
 そんな内容の会話が聞こえて、窓際の方がキャイキャイと騒がしい。
 女子達がびっちりと密集しているため、男子達はなかなか近付けていけない。そんな中、我がクラスの特攻隊長でもある大山一也は、男子で彼女に話しかける一番乗りになろうと息巻いている。
 さらに、教室の扉側も騒がしくなっている。扉付近に固まっているのは、他のクラスの男子だ。うーん……まだ昼間は暑いというのにあんなに密集して……
 そしてその中の一人が、
「ねえ! こっち向いてよ!」
 と叫んだ。久野静花はそれに反応し、扉側の男子一同に向かってお辞儀。男子達はイェーだとかヒューだとか声を上げて喜んだ。
 男というのは馬鹿だなあ。と、自分も男だが感じてしまった。
「え? 久野さんって双子なんだ! じゃあ、隣のクラスにも転入生が来たっていうけど、それって双子の?」
「はい。私は双子の姉で、妹の名は舞花(まいか)といいます。二卵性双生児なので、似てないんですけどね」
「へぇー、珍しいねえ!」
 ほほう、双子か。しかも同じ学校の隣のクラスとは……
 これは確認してみようかなと思った所で、一也が俺の下へ駆けてきた。
「お、おい貴之、これはすごいぞ! 新学期早々、俺達はついている!
 び、美人双子姉妹が転入だなんて!」
 一也は転入生が双子だということを既に嗅ぎつけていたようだ。俺のそでを引っ張り、隣のクラスへ連れて行こうとする。
「早くしろよ! 五組だ!」
「ああ、五組にいるのは双子の妹の方らしいぜ」
 何度も言うが、俺も健全な男子高校生なのでこういったことを聞いて黙ってはいられない。二卵性だから似てないとはいえ、我がクラスに転入してきた久野静花の姉妹とあらば、相当可愛いに違いない。期待感を胸に、俺は一也と共に教室を飛び出した。
 
 一年五組の教室前。俺のクラスである四組同様、扉に男子が密集していた。
 先ほど俺のクラスの前に固まっていた男子の集団を見て、俺は馬鹿だなあと思ってしまったが、今は俺自身もその馬鹿をやっている。
 そしてなんとか、何人かを押しのけて五組の転入生を視界に入れることに成功を――
「う、うおっ……これは……」
 思わず、口から驚嘆の言葉が漏れてしまった。
 うちのクラスに来た転入生、久野静花と同じようにたくさんの女子に囲まれた少女。窓際の列の一番後ろの席で、クラスメイトから質問攻めに合っているその娘こそ転校生に違いない。
 なによりも、初めて見るタイプの少女なのだ。高校に入って初めて見るというより、俺は生まれてきて十五年になるが、この人生においてここまでの美少女は見たことがないというくらいの美少女。ああ……なんというか後光が差しているようだ。
「だろ? 貴之」
 俺を連れてきた一也も、その娘を見ている時はもはやありがたい物を拝んでいるかのような顔をしている。
 ふんわりとした長い栗色の髪。離れて見てもその大きな瞳は輝いているように見える。
 会話をしている最中に見せる笑顔は無邪気さに溢れている。椅子に座っていても背が低いのがわかり、元気にあふれたその表情と相まって抱きしめたくなるような愛らしさだ。
 双子の姉である久野静花も確かに可愛いが、その可愛さの種類が違う。
 姉の方はクラスの中に溶け込んでいそうで、その中で周りの女子と一段違う可愛さをうかがわせる感じなのだが、この妹は別次元だ。周囲をぐぐぐっと突き放す存在感で、浮いてさえいるような美少女っぷりはテレビの中のアイドルが飛び出て来たと言ってもいいだろう。いや、この転入生を前にしたら、そこらのアイドルでは太刀打ちできないかもしれない。
「ほーら久野さん。あなたの姿を一目見ようと、他のクラスの男共があそこに群れてるよ」
 彼女を囲む五組の女子の一人が、こちらを見て冷やかに言った。くやしいが、今は「群
れてる」と動物に対して言うような表現を使われても仕方がない……
「おっ、こっち向くぞ!」
 その女子の言葉を聞き、転入生はゆっくりとこちらを振り向く。そして、扉の方を見た彼女と一直線に向かい合った我ら野次馬ボーイズはごくりとつばを飲んだ。
「おーい、転校生さーん! お名前は? 四組の久野さんと双子なんだってえ?」
 我がクラスの特攻隊長である大山一也が、ここで本領を発揮した。振り向いた美少女に名前を聞きにいったのだ。
 だが、彼女はキョトンとしている。ぼーっとこちらを見ているようだが、その無表情な感じもやはり可愛い。
「――って、あれ?」
 一也の呼びかけから数秒、彼女の表情が変わった。
 急にしかめっ面になったというか、こちらの方をしげしげと見ている。
 窓際の方から、今教室の前で固まっている野次馬ボーイズの顔を一人一人確認しているように見える。
「おい……俺、なんか怒らせるようなこと言っちゃった?」
 教室、そして廊下にかけての空気が一気に張りつめたのを感じたのか、一也は不安そうになりながら俺に問いかける。そんなもの俺にはわからん。
 ガタンッ!
 これまた急に、その美少女は立ち上がった。それまで和気あいあいと転入生を囲んで談笑をしていた五組の女子達が一斉に彼女の席から離れた。
 無理もない。それまで天使のような愛くるしさを振りまいていた転入生が、突如として地獄の鬼もびっくりな殺気を放ち始めたのだから。
 野次馬ボーイズ一同もその殺気に飲まれて動けないでいる。美少女の表情は今、親の仇を見るような鬼気迫るものとなっていて、しかも心なしかその視線は密集するボーイズの真ん中、俺に向けられているような……
 彼女はくっとあごを引き、さらに睨みを利かせた。
 背中に強烈な寒気が走る。まるで刃物の切っ先を目の前に向けられたようにさえ感じた。
 そして――
「あんた達! そこをどきなさああああい!」
 その少女は、雄たけびと共にこちらに走ってきた。
 野次馬ボーイズは一斉に散る――彼女に睨まれ動けなくなった俺を除いて。
 突進をしてきたその少女の姿が俺の視界に入ったと思ったら、次の瞬間にはふっと消えた。そして――ふわりと、いつか感じたのと同じ甘い果実のような香りが俺の胸の奥をくすぐった。
 そうか……これは、あの夏休みの土手の――ごあっ!
 頭の中で何かが繋がったと思ったところで、脳内に浮かんできた全てを強烈な衝撃が吹き飛ばしてしまった。
「ア、アッパーカットォッ?」
 一也の声が横から聞こえた気がする。そうか、あごへのアッパーを喰らってしまったのか俺は――でもなんで? 誰が?
 それにしても、この感覚もあの時と似ている。体が宙に浮き、後方へと飛んで行く感じ。
 ああそうだ。今回も、後頭部を打つ前に受け身を取ればいいんだ。
 あごを引く――目線はベルトの辺り――
「ガッ!」
 もう少しできちんと受け身が取れたというのに、後頭部、背中、腰に衝撃が走った。
 なるほど、ここは屋外ではなく学校の校舎だ。廊下の壁に激突してしまったのか……
 周囲のどよめきが聞こえる。そりゃそうだよな、人間一人がふっ飛んだんだから。
「おい、やべえってこれ!」
「つーか……死んだ……?」
「……呼べよ。とにかく……」
「どーだ……れぞ…………よ!」
「ちょ……………………」
 あれ? 体なんて動かせるわけないのに、だんだんと喧騒から俺は遠ざかっているみたいだぞ?
 ああそうか。
 俺は、気を失いつつ……ある……の……か……
 
 気が付くと、天井が見えた――そして体全体に布団の感触?
 慌てて起き上がると、ここは保健室。そして俺はベッドで寝ていたのだとわかった。
 うーん。俺はやはり気を失っていて誰かに運ばれたのか。
「よかった! 気が付いたんですね!」
 突然横から女性の声がしたので、驚いて声がした方を振り向く。
「え? 久野――さん?」
 そこにいたのは我がクラスに来た転入生、久野静花だったのだ。俺が寝ているベッドの横に椅子を置いて座っていた。どうしてこの人が?
「あのう……な、なんで?」
 当然俺は彼女に聞いてみた。
「えーとですね……勇見君は気を失ってしまっていて、なんと言いますか……
 私がそれを運びまして――」
「運んだ? 久野さんが?」
「はい……」
 気を失っていたということは自分でもわかる。
 彼女が俺を運んだとは驚きだった。こんなか細い女の子が一般的な体格の高校一年生の男子を運ぶだなんて……
 だが、俺が知りたいのはそこではない。心なしか彼女は何か言い辛そうにしながら言葉を発しているようにも思えるのだが、よほどとんでもないことでも起きていたのだろうか。
 まあ、俺が思うにそれは――
「おーっす! 静花ここにいるんでしょー?」
 突然、保健室のドアがガラガラと開き元気な少女の声が聞こえた。
「あ! ま、舞ちゃん!」
 それを見て久野さんは椅子から立ち上がった。
 今、保健室に入ってきたのは俺の横にいる久野静花の双子の姉妹……たしか名前は久野舞花だ。そして、彼女こそ俺を……
「いやあ、先生達のお説教が予想外に短くてさあ。それもこれも静花があたしを――」
「いいからこっちへ来なさい!」
 ヘラヘラと語り出した久野舞花を、静花が怒鳴り付けた。横にいた俺もその迫力に思わずたじろいでしまった。
 話すのを止めた久野舞花はこちらへ歩いてくる。栗色の長い髪がなびき、その小さな身体が近づいてきて俺は少しドキドキしてしまった。
 保険の先生が今はいないようなので、久野舞花、静花の美人姉妹と俺しか保健室にはいないという状態である。これはおいしいシチュエーションに思えるのだが……
 しかし――
 殺気のこもった目でギロリと俺を睨んでくる久野舞花。
 さらにその舞花に対して、依然として怒りをあらわにした様子の久野静花。
 その二人を前にして何を言えばいいかわからないで固まっている俺。
 ――保険室内は一色触発といった感じの、ピリピリとした空気に満ちている。
 こんな状況ではさすがにおいしいと思えない……
「さあ、舞ちゃん。勇見君に謝りなさい!」
 最初にこの空気を破って口を開いたのは静花だった。
「何度も言っているように、あたしは武道家としての筋を通しただけだっつーの!」
「私だって何度も言っているわ。そんなの無茶苦茶な、舞ちゃんの自分勝手な言い訳だって」
 俺の方を見たまま言い放った舞花に対し、静花は間髪入れずに返した。
「あのう……久野さん? 俺もだいたい何が起きたか予想はついてるんですけど、とりあえず説明してくれますかね?」
 俺は二人の間に入り、柔らかな物腰で久野――静花の方に再度お願いをした。
 そう。どういう状況で今俺がここにいるかは、だいたいわかっている。
「はい……ごめんなさい。勇見君を失神させたのは私の妹でもある、こちらにいる久野舞花なんです……本当にごめんなさい。なんでも、彼女は勇見君に恨みがあるらしくて……
 いや、でもそれはおそらく言いがかりで――本当にごめんなさい!」
 ごめんなさいを三回も織り込みながら説明をしてくれた。
 やはりそうか。体が宙に浮いた瞬間に、一也の「ア、アッパーカットォッ?」という声が聞こえたのを覚えている。
 そして、そのアッパーカットを俺に放った奴の正体とは、あの時一年五組の窓際の席から廊下にいた俺のところまで走ってきた少女、久野舞花に間違いなかった。
 さらにもう一つ、俺の体がふっ飛ぶ直前に感じた甘い果実のような香り。あれは俺が夏休みの終わりに土手でふっ飛んだ直前に感じたのと同じものだ。
 おそらくその土手でのことが、久野舞花の主張する俺への恨みにつながる物だと思うのだが……
「ちょっと! なんで静花が謝るわけ? あたしを土手で突き飛ばした犯人であるこの男に、武道家としてそのお返しをしただけだっていうのに!」
「あ、土手ってやっぱり……」
「そうよ! あの学園ドラマのオープニングに出てきそうなあそこよ!
 ロードワーク中で隙だらけな時を狙うとは卑怯な……あんたそれでも男?」
 …………いろいろと言い返したいことが多過ぎて頭が混乱してきた。
「一応こっちも言っておきたい。あの土手でのことなんだが、あの日ぶつかってしまったのは確かだと思う。だが、俺はぶつかった後に起き上がって辺りを見回したんだが、河川敷には人らしき姿はなかったぞ」
 まず、これだけは言っておきたかった。このことはあの日、最も不思議な部分でもあったからだ。あの時は手の擦り傷がひどかったのに気づいて早々と帰ってしまったから、見落としていた可能性もあるかもしれないが。
「あたしはね……あの時川底にいたのよ!」
「えええええ?」
「ふっ飛んだショックで意識も危うかったし、おまけに道着が水を吸ってて……水もガボガボ飲んじゃって……それはもう……でもね、あんたの顔だけは覚えていたの。私が土手まで上がろうという時に、体がふっ飛ぶ瞬間、その顔が……」
 そう言って久野舞花はぎりぎりと歯を食いしばった。
 小さくて軽そうな彼女だが、いくらなんでも飛び過ぎだろう……というか、よく生きていたなと感心してしまった。
 第一、あの川は一級河川ではあるが、飲料用には当然適していなく……
「確かにあの日帰ってきた舞ちゃんはびしょ濡れでしたね。洗濯が大変だったなあ」
 それを聞いて、姉の静花がしみじみと口をこぼした。
 とにもかくにも、これで謎の九割は解けた。
 久野舞花はあの日土手でぶつかった俺の顔を覚えていて、俺を自分に不意打ちをした人間だと記憶していたのだ。
 そして、この高校に転入してきた初日に俺を見つけ、見事不意打ち犯に一撃を見舞ってやったというわけか。さらに、俺を殴り飛ばした所で久野舞花の姉である静花が止めに入り、俺を保健室まで運んでくれて今にいたるということだ。うん、理解した。
 でも……あの土手でのことはどう考えても事故だし、俺が一方的にこうして殴り飛ばされたのはどうにも腑に落ちないのだが――
「あん? 何よ? 文句あるの? こっちは武道家としての情けで、一発殴ったことであたしを川にふっ飛ばしたことを帳消しにしてあげてんのよ?」
「い、いや……特に……」
 またも無茶苦茶なことを言いながら、こちらを睨んでくる。ううむ、この殺気を前にしたらあまり余計な事を言わない方が賢明だ。
 火に油を注ぐべからず。俺は不本意ながらも反論はしないことにした。
 そして、話題を逸らす意味も込めて残った謎の最後の一割を聞いてみることに決めた。
「い、いやあそれにしても、アッパー一発で男子高校生をKOしちゃうとは……
 さっきも自分のこと武道家と言っていたけど、何か格闘技でもやっているのですかな?」
 相手の機嫌を取るような低姿勢の聞き方、しかも最後はおかしな敬語になっていた。
 我ながら情けないが、今言った通りこれは気になることだ。
 一年五組の教室で見せたアッパー。受けた俺も一瞬何をされたか判別に難しかったスピードと、一七二センチ、六十キロの俺を後方にふっ飛ばした威力。
 見た感じ一五十センチ程度の身長であろう少女が、軽々できることではない。
「ふっふっふっ……」
「え?」
 俺に質問をされた久野舞花は、両腕を組んで笑い始めた。理由はわからんが、とても自慢げな表情をしている。
「やはりわかった? あんたなかなか見込みがあるわよ! そう。あたしは久野流格闘術師範代にして、次期久野流格闘術総帥! 久野舞花よ! 久野舞花っ!」
 名前を二回も名乗って、堂々と彼女は言い放った。
「く、くのりゅう格闘術?」
 俺は格闘技、武術にそこそこ詳しいつもりでいるが、聞いたこともない流派だか格闘技の名前に首を傾げてしまった。くの? 久野?
「あの……勇見君。私達の実家は、格闘技の道場をしているんです……
 久野家に伝わるオリジナルの格闘術だから、久野流格闘術といって……」
 横から説明に入った静花はどこか恥ずかしげだった。
「はあ……」
 まあ、正体不明の武術だとはいえ、そこの師範代の一撃なら俺程度はやすやすと叩き潰されてしまうだろう。よし、これで全ての謎は解けた。
「さて、それじゃあ俺はそろそろ……ほら、俺を殴ったことで君の気が晴れたならそれで解決だろ。うん、思えばあれは俺に非があった! じゃあっ!」
 俺はベッドから飛び起きて、早口でそう述べてから帰る準備をすることにした。
 ――こんなこと言うのは本心じゃないし、このままじゃ釈然としない。
 しかし、もうこんな奴と関わるのはよした方がいいと思ったのだ。平気で男を殴り飛ばすような、久野流格闘術なる怪しげな武術の次期総帥を名乗る少女。
 適当に流して逃げるのが賢い選択だろう。
 この件はこれで終わりにして、明日からまた普通の高校生活を送るのだ! ああ、しかし今日のことの釈明はみんなにどうしようか――
「待ってください!」
 大声で引き止めたのは双子の姉、久野静花の方だった。
「はい?」
「今回妹がしたことは、やはり一方的な暴力です。勇見君を殴り倒した後、『どーだこの野郎! これぞ久野流格闘術の真の強さよ!』とまで妹は叫びました。
 社会の常識として、そして久野流格闘術の名誉のために、勇見君に謝るべきなのです!」
 今日一番の強い口調で久野静花は俺に言ってきた。クリンとした目で俺をしっかりと見つめてきて、強い意志がそこから見受けられる。
「いやあ、でも――」
「そうよそうよ! あたしも一発返したし、それでこいつもいいって言ってるんだから」
 俺が言い終わる前に、加害者である舞花の方がまたも勝手を言ってくる。
「舞ちゃんは黙ってなさい! それに、何が一発よ! 私が止めなかったら倒れた勇見君に追討ちをかけるつもりだったでしょ! いわゆるサッカーボールキック!」
「なぬっ……」
 そうだったのか、この久野舞花という少女……どこまで危険なんだ。
「とにかく。久野流格闘術の代表である父を含めて、今回の舞ちゃんのした非道な仕打ちについては一家揃って謝ることにします。勇見君、絶対に来てくださいね!」
 そう言って久野静花は、久野家の場所を記した手書きの地図を俺に手渡した。
 第一印象からおとなしそうという感じしか受け取れなかった彼女のその強い態度に、俺はなされるがままだった。
 そして、妹の久野舞花も不満なのを顔に出してはいたが、今は姉に従わざるを得ないようである。
 俺が保健室で気を失っていたのは一時間ほどだったらしく、すでに始業式後のホームルームは終わっていた。
 担任の長洲に挨拶をしてから家に帰り、昼飯を食べてから久野家に向かうことにした。
 久野静花から渡された地図の隅には電話番号が書かれていて、電話をしてみたら彼女が出た。今から行くと言ったら、来ても大丈夫とのことだ。
 自宅から久野家まではだいたい歩いて二十分程度、学校に行くのとそんな変わらない距離であった。さっそく俺は私服に着替え、家を出た。
 
 歩いている最中、学校でのことをふと考える。
 仮にも生徒が転入生に殴り飛ばされ、失神してしまったという事実。けっこうな大事だと思うのだが、保健室から職員室に行き長洲にあいさつをしても「うん。まあ、アレだ。加害者にはしっかり反省してもらったからな。とりあえずまた明日だ」と言われただけだった。
 おいおい、もしや校内で起きた暴力事件を隠ぺいしようというのか? 俺だって大事にされて欲しくはないがそれはいかんだろ。
 まあ一応、長洲には一家揃って久野の家で謝罪を受けるという旨は伝えておいたが。
「あっ。勇見君。来てくれたんですね!」
 そうこうしているうちに、地図通り久野家に着いてしまった。
 出迎えてくれたのは双子の姉、久野静花の方だった。
「はひ……どうも」
 情けないことに「はい」が「はひ」になってしまったのは、彼女の姿を見てしまったからである。薄手のピンクのジャージ。下は七分丈で、上は袖まくりをしている。ほうきを手に家の前を掃除しているようだ。セミロングの黒髪を左右に一か所ずつ、ビーズの装飾が付いたゴムで結っている。
「あの、勇見君?」
「あ、その……」
 本当に情けない。俺はすっかり彼女に見とれていたのだ……しかしこれは、お年頃である健全な男子高校生ならばしょうがないことではないだろうか。
 ちょっとお洒落なジャージ姿が、正直言ってストライクゾーンだ!
「どうぞ来てくださいと電話では言いましたが、あいにく父は出かけていまして.……
 すぐ帰って来ると思うので、道場か母屋の方で待っていただけますか?」
「ああ、道場……か」
 彼女の背後にはこじんまりとした道場が建っていた。
 看板にはしっかりとした字で『久野流格闘術総本部』と書かれている。
 その隣には張り紙があり『キッズクラス(小学生以下対象)、一般クラス共に開講中!』と書かれてあった。本当に格闘技の道場を開いているんだな……
「じゃあ、道場の方で待たせてもらいますよ」
 うーん……なんだかわからないけど、この人を前にすると敬語になってしまう。
「はい。では、こちらへどうぞ!」
 掃除をいったん止めて、彼女は道場の入口である引き戸を開けてくれた。
「あ、ありがとうございます」
 靴を脱ぎ一歩足を踏み入れたその時、ドスンと重い音が耳に入ってきた。
「なんだ?」
 音に驚いていた俺の目に飛び込んできたのが、午前中に保健室で自らを久野流格闘術次期総帥と名乗った双子の片割れ、久野舞花だった。
「おー、本当に来たんだ。ま、上がれば?」
 その姿に、またも俺は言葉を失い――見とれてしまっていた。
 栗色の長い髪を後ろで一まとめ、つまりポニーテールにしている。その小さな身体には道着に包まれ、凛とした雰囲気が漂っている。
 ボロボロの等身大人形みたいな物が彼女の足元に転がっているが、これを殴り倒していたのだろうか。
「どしたの? 遠慮せずに上がんなって」
「ああ……」
 ぼーっと見ていた俺を、久野舞花は道場内に進むように促した。
 えーと、道場の中に入る前には一礼をしなくちゃいけないんだよな。
 久野流格闘術の道場は中に入れば綺麗なもので、青い畳が一面に敷かれていた。久野一家はここに夏休み中に引っ越してきたというのでまだ道場も新築なのか。
 道場の隅には、練習に使うミットやらグローブやらがごちゃごちゃに置かれている。
 壁には数枚の木札、道場主・師範の札の横に久野竜平(りゅうへい)と書かれた札。師範代の札の横に久野舞花と書かれた物もある。そして、その隣には久野静花の札だ。
「なに? きょろきょろしちゃって。こういう道場入るの初めて?」
 その小さい体で、下から覗きこんできた道着姿の美少女。絶妙な角度で目が合い、加えてポニーテールがふわりとなびいた様を目の当たりにすれば、年頃の男の子はみんな硬直してしまうだろう。今の俺は、まさにそんな感じである。
「ん? ああ、それは……」
 せめて緊張してしまっているのがバレバレにならないように、きっちり返答できるように努めた。――が、それがいけなかった。
 次に言ってしまった一言が、俺の運命を大きく変えてしまうことになったのだ。
「いやあ、うちの高校では男子は体育の授業で柔道やるしな。それに俺は、中二までグローブ空手やってたし」
 その瞬間、久野舞花が満面の笑みを浮かべた。それはとても不敵な笑顔で、思わず背筋が寒くなってしまった。
「なあんだ。あんた経験者だったんだ! しかも打撃系とはナイスね!」
 パッと俺から離れた久野舞花は、こっちに向かって親指を立ててポーズを取る。
 たしかに俺は格闘技の経験がある。
 小学校三年の頃、最寄り駅から数駅行った所にあった、この道場より少し大きいくらいの空手の道場に俺は親の薦めで入門した。礼節を知り、心身ともに鍛えられるからという理由だったのだが、いざ始めてみたら純粋に楽しかったことを今でも思い出す。
 俺がやっていたグローブ空手というのは、ボクシングに使うようなグローブをはめ、パンチと蹴りを主武器にした立ち技の格闘技だった。打撃の攻防というのは見ていてもスリリングだが、体感してみないとわからない楽しさもあると今でも思っている。
 しかし、勉強が苦手だった俺は高校受験のことも考え、中三に上がる前に道場を止めてしまっていたのだ。
「よーし。そうとわかったら話は別よ。
 勇見貴之とか言ったっけ? あたしと勝負しなさい!」
「ええっ?」
 そう言うと久野舞花は道場の隅にあった道具類を漁り、道着やらグローブやらを見つけてこちらに投げつけてきた。俺は反射的にそれらをキャッチしてしまう。
「ちょっと舞ちゃん! 何言ってるの!」
 勢いよく道場内に駆け込んで来たのは、姉の久野静花だった。妹の言った突然の俺への対戦要求が耳に入ったのだろう。
「あら、静花に聞こえちゃってたか」
「舞ちゃん! いい加減にしなさい。 あなたがした一方的な暴力を久野家一同で謝罪するために、こうして勇見君を呼んだのよ! それなのにあなたは勝負をするだなんて!」
「だってさあ。ここに来てから父さんも静花も全然あたしの相手してくれないじゃん。
 特に静花なんか、スパーリングはおろかミットだって持ってくれないし……
 はっきり言ってあたしは欲求不満なのよ!」
「もう! それがわがままだって――」
 妹のわがままに対し姉が説教をしようとした時、電子音が聞こえた。
「あっ、父さんからだ……」
 それは久野静花の携帯電話だったようで、彼女はそのまま電話に出てしまった。
「はい。父さん? え? バイトが見つかって、今夜からさっそく仕事を始める?
 だから今日はもう家に帰らないから――って、ちょっと!」
 電話は切れてしまったようだ。
 それにしても、バイト? 今電話をしてきたのはこの二人の父親だったようだが、ということは久野流格闘術とやらの道場主にして総帥だろ?
 それがバイトって……やはり道場の経営は大変なのだろうか。そういや、名前のある木札の掛けてある壁に久野家の人間以外の札はなかったし……
「えーと……これでは勇見君への謝罪の方は……」
 携帯を手にしたまま、久野静花は固まってしまった。
「それじゃあしょうがないわね。だったら今日は一戦交えてから御帰りいただくということで……」
「だからそうじゃないでしょ。とりあえず、あなただけでも勇見君に謝りなさい!」
「えぇー」
 なんだか、俺を置いてけぼりにして姉妹の言い合いが始まっているようだ。
「あのー、お二人さん? 謝罪とか云々はもういいから……」
 おずおずと俺は申し出た。
 そうだ。謝らなくてもいいから、あまり変な方向に話が行ってしまうのは勘弁だ。必死になって妹に謝らせようとしているお姉さんにはやや申し訳ないが。
「よろしい。勝負を受けてくれたら、あたしもちゃんと勇見君とやらに謝りましょう!」
 姉の気持ちも知らずに、この妹はまたも無茶苦茶を言い出した。
 しかも、「とやら」とはなんだ「とやら」とは!
「舞ちゃん! いい加減にしないと、本当に怒るわよ?」
「ならば、勇見君があたしに勝てたら、スペシャルなご褒美をあげようかしら」
 そう言うと久野舞花は自分の着ている道着の襟をつかみ、こっちを見てきた。その突然の色っぽい仕草に、俺は顔が急激に熱くなってしまった。まあ、健全な男子高校生なら普通の反応だろう。
「どう? あたしに勝てたら、胸でも、お尻でも、ふくらはぎでも、二の腕でも、そしてなんとっ! お腹だって好きに触らせてあげてもいいわよ!」
 ピクリとしてしまった。いや、全身が。
「ななななな! 舞ちゃん、何言ってるの!」
 顔を真っ赤にして怒り始めたお姉さんを尻目に、さらに彼女は挑発を続ける。
「あららら。もしかして、女の子にここまでの条件を出されてもあんたは逃げる気?
 それでも男? あ……もしかしてあんたそっちのケがあるとか……」
「――わかった。その勝負、受けてやろうじゃないか。
 そこまで言われて黙っていたら、男じゃないよな」
「え……勇見君?」
 俺はついに久野舞花の誘いに乗ってしまった。
 男としてのプライドはもちろん、今まさに帰ろうとしていた俺をそうさせてしまったのは、他ならぬ男の持つ下心――ぶっちゃけて言えば、健全な男子高校生なら誰もが抱えているエロパワーが噴出したからなのだ。
 自分中心に世の中が回っていると思っているに違いない無茶苦茶な性格である、この久野舞花というわがまま娘。しかし、そのルックスは浮世離れしていると言っても過言ではない、超絶美少女なのだ。
 そんな彼女にお触り(オヤジ臭い言い方だが……)できるチャンスが舞い降りたとすれば、中途半端な理性など全て消し飛んでしまうのが男のサガだろう。
「止めないでください。これは男のプライドの問題なんです……
 ですから、妹さんと勝負させてください」
 止めに入ろうとしたお姉さんを、俺は冷静に制した。すみません、真面目に言ったはいいけど、完全に下心で動いています……
「おーし! そうとわかったらさっそく勝負よ!
 静花、これは両者同意の上での勝負――学校であったような一方的な暴力とは違うわ!」
 さらりと学校で俺を殴打したことを一方的な暴力と認めているのに突っ込もうとしたが、次の瞬間には久野舞花は同情の隅に積んであった用具類を漁っていた。
「ほら、これを装着なさい! グローブは指抜きを使うけどいいわよね?」
 そう言って彼女は次々に見つけた物をこっちに投げてくる。道着、前面に透明なプラスチックがあしらわれたフェイスガード、そしてグローブは通常のボクシンググローブとは違い指の出た薄手の物――いわゆるオープンフィンガーグローブだ。
「んで、着替えるならあそこの用具室を使いなさい!」
 彼女が元気一杯に指さしたのは、今漁っていた用具類の向かい側の角。そこには扉がありどうやら小部屋があるようだ。
「用具室があるならちゃんとしまえばいいのに……」
 道場の隅に転がる無数のミットやらグローブに一瞥をくれてから、俺は四畳半程の小部屋に入り着替えを始める。
「ん……なんか、すげえ懐かしいな」
 用具室に置かれた鏡に映った道着姿の自分。なんだが照れくさかったが、自然と笑みが浮かんでしまった。
 道着自体は高校の授業で柔道を習っているために着方に問題はない。グローブ空手の時も普通に着ていたしな。
 うん。いきなり渡された道着だったがサイズは合っている。
 そしてフェイスガードの紐を後頭部で結んでから最後にグローブをはめる。
 両手の平をしっかりと握り、また開く。よし、グローブも大丈夫だ。
 用具室のドアを開け、俺は道場の中央へ向かった。
「おー、なかなか様になってるじゃないの!」
 俺と同じ装備をした久野舞花。腕をグルグルと回し、ウォーミングアップ中のようだ。
「あ、勇見君……」
 姉の久野静花は舞花から少し離れた所に立っている。だが、そこは普通……
「あの、そこに立ってるってことは、もしかして審判を?」
「は、はいっ! こうなってしまった以上はもう止められませんから……
 せめて、お互いに怪我のないように私が見届けないと」
 俺が聞いてみたら、彼女は少し恥ずかしそうに答えてくれた。そんな姿がなかなか可愛かったし、何より審判の必要性は着替えながらも考えていたのでありがたいことだ。
「それじゃあさ。ルールなんだけど、どうする?」
「やっぱこのグローブを着けているんだから掴みや投げ、寝技有りが自然じゃないか?」
「ふーん……問題は寝てから、グラウンドでの攻防よね」
 意外なことに、傍若無人な久野舞花もこれから行う勝負のルールに関しては真剣に考えているようだ。てっきり「ルール無用! どちらかが動かなくなるまで続けるのよ!」などと言ってくるかと思ったが……
「二人とも聞いてください。グラウンドでの打撃は危険ですので一切禁止とします。
 また、立っていても肘での攻撃や、フェイスガードを着けているとはいえ頭突きもダメです。その他、常識的に考えて危険な攻撃を含め、禁止事項とします。いいですね?」
 この試合の審判を務めてくれる久野静花が、早くも審判らしい動きを見せてくれた。悩む俺達二人に、動きを交えながら丁寧に説明を始めてくれる。おそらく審判を引き受けると心に決めてから、これらの禁止事項を考えていてくれたのだろう。
「勝敗はどうすんの?」
「勝負は五分の間に一本先取。打撃によりダウンしたら一本、大きくよろめいたりすぐに立ち上がったダウンの場合は技有り。技有り二回で一本です。
 投げられてダメージが大きいようでしたら、その時点で一本を取ります。寝技での決着は相手に技を極められたら口頭、もしくは床か相手の体を叩いてギブアップをしてください。それ以外の場合、私が危険だと判断したらすぐに止めますので……
 ルールとしましては、こんなところでしょうか。五分で決着が付かないようでしたら、技有りを取った方が勝ち。技有りが同数、両者無しの場合は引き分けにします。勇見君もよろしいですか?」
「ええ。完璧だと思います」
 相変わらずこの人には丁寧に返してしまう。この仕切りっぷりはたしかに完璧だと思う。
 ハチャメチャな妹を持つとお姉さんもしっかり者にならざるを得ないんだなあと理解できた。それにしてもこの久野静花――いや、尊敬の意味を込めて静花さんと呼ぼう。毅然とした態度でルールを説明する姿が素敵に見えて……
 そんな姉をどう思っているかは知らんが、俺の目の前にいるのは小柄ながら凶暴な妹、舞花だ。いやあ、向い合って見ると本当に小さい……本当にこんなのと試合して大丈夫なのか?
 冷静に考えたら、平均的な体格をした男子高校生と、平均より明らかに小さい体格の女子高生の試合だぞ?
「なあ、一つ聞いていいか。お前って体重はいくつなんだ? そうだな、ボクシングの階級わかるか? それで答えてくれ。ついでに俺はライト級くらいだ」
 あまりにも体格差が気になるので、俺は舞花に尋ねる。女性に体重をそのまんま聞くのもなんなので、格闘家らしくボクシングの階級で表してもらうことにした。
「んーと……ねえ静花! 四十五キロって何級?」
「ええと。ミニマム級……の既定体重よりもっと軽いかしら」
 デリカシーが無いと思われるのも嫌でわざと遠まわしに言ったのに、この女は堂々と自分の体重を公言してしまった。しかも、四十五キロとはなんてこった! 俺はだいたい六十キロと少しなので、十五キロも違うのか!
 それに身長だって、百七十四センチの俺よりも二十センチ以上は低いだろうし……
 ボクシングが細かく階級分けされているのも、体重差のある者同士の試合は危険であるということに他ならないからだ。俺は一気に気持が委縮してしまう。
「ん? なに? あたしなら大丈夫よ! どーんとかかってきなさい!」
 心配する俺の気持などお構いなしに、その小さい体で彼女はどーんと構えている。
 だが、これに関しては静花さんも俺に無言で合図を送ってくれているようだ。その落ち着いた目付きは「大丈夫」と言っているようだった。
「それでは、ルールを守って正々堂々と戦ってください!
 お互いに礼っ!」
 静花さんを見ているすきに、彼女の試合開始の合図を聞いて背筋が伸びてしまった。
「お願いします!」
 互いに向き合い、一礼。そして構えて臨戦態勢だ。これも久々の感覚である。
「始めっ!」
 道場内に響く静花さんの声。
 いよいよ勝負は始まってしまった。さて、どう攻めるか――
「はいやあああああっ!」
 とりあえず距離を取ろうと下がった俺の視界に飛び込んできたのは、対戦相手――舞花の足の裏だった!
「おわっ!」
 俺はオーバーなくらいに横っ跳びして緊急回避をする。
 開始早々いきなり跳び蹴り? というか、俺もよく避けられたな。自分で自分を褒めてやりたい気持ちだ。
「はあっ!」
 ホッとしているのも束の間、横に逃げた俺を追って舞花はパンチのラッシュを仕掛けてきた。
 突き突き突き突き突き突き……
 高速で、そして真っ直ぐに飛ばしてくる拳の雨あられ。
 上体を動かして回避したり、手で払う等の芸当は今の俺には無理であり、必死にガードを固めて舞花の連打を受け続けるしか選択肢は無かった。
「やめっ! 真ん中に戻ってください!」
 防戦一方になる俺の耳に入ってきたのは審判の静花さんの声だった。どうやら対戦相手の猛烈な攻撃に対し下がり続け、道場の壁際まで来てしまったらしい。
 彼女の声は連打中の舞花にもちゃんと届いたようで、俺の顔面(一応フェイスガードにより守られているが)に当たる寸前で拳は止まった。
「チっ」
 少し舌打ちをした後にクルリと踵を返し、再び試合開始の位置に戻る。
 恐ろしいのは、あれだけ連打し続けた舞花が息を乱しているように見えないところだった。
 これは本気で行かなければ怪我をするのは確実……
「それでは――再開っ!」
 静花さんの試合再開の合図。肝を据えた俺にとっては、今からが本当の試合だ。
「やあああっ!」
 またも突進してきた舞花。だが、ここで俺は冷静に迎え撃つ。
 右足を曲げ、膝を高く上げ――足先を突き出すように膝を伸ばした。蹴り技の中でもポピュラーなもの、前蹴りである。
 初心者では充分な威力を持った攻撃にすることは難しいが、対戦相手を突き放し距離を取るには有効な技だ。俺の目論み通りに舞花の突進は止まり、下げさせることに成功した。
 俺はここでやっと対戦相手の構えをしっかりと見ることができた。
 その構えは左足を前、右足を後ろに置いたオーソドックス。両手をグッと握ってあごの辺りで構えている。おそらく百五十センチ程度のその身体は、前後に素早く動きやすいように前傾姿勢でいるために、さらに小さく見える。
 久野流格闘術とやらがどういう武術かは知らないが、とりあえずこの久野舞花という少女は打撃を得意としていることが構えから見て取れた。
 攻めてこない俺に対し舞花は再び突っ込んでこようとしたが、俺がまた前蹴りを放とうと足を上げる素振りを見せると前に出るのを躊躇した。
 俺はさらに揺さぶってやろうと、左足でトントンとリズムを刻む。そうすると、やはり俺の狙い通りに舞花は突っ込んでこれず、歯がゆそうにしている。これはチャンス!
「おらあっ!」
 ジリジリと間合いを詰め、舞花の腹部めがけて前蹴り! 女の子の腹に向かって勢いをつけて蹴りを入れることに対し若干迷いが生まれたが、もはや男だ女だと言っている余裕はない!
 舞花は右腕で俺の足を払い落す。あ――
 ズガッ!
 そして、左の拳が俺の胸部に命中! 肋骨が折れたんじゃないかというくらいの衝撃が俺を襲った!
「ぐぅっ」
 なんとか踏ん張ってダウンは免れた。しかし、舞花の攻撃が止まらない。
 先ほどの同じパンチによる猛攻を、ガードがままならない俺はいくつも被弾してしまう。
 この状況から抜け出すには……掴みだ!
 俺は死に物狂いで舞花の襟を掴みにかかった。組んだ状態になれば当然打撃は出せないだろうし、体育で習っている柔道の投げを使い、寝技に持ち込めば――

 フニュッ……

 飛んでくる拳をかいくぐって出した俺の手は、襟を掴むには至らなかった。
 手のひらが、胸に軽く触れただけ――そう、女の子の――
「隙有りぃっ!」
 一瞬真っ白になった頭――その直後に側頭部にガツンと衝撃を感じた。
「技有りです!」
「な……あれ?」
 静花さんの声が聞こえ、俺は我に帰った。
 ああ、そうか。ボーっとしている隙に見事一発決められたわけか……
「へへーん。ガラガラだったよ」
「舞ちゃんのハイキックによる技有りですね。
 はい、両者中央に戻ってください」
 そうだ。相手は恐ろしい速さと連打を誇る久野流格闘術次期総帥なわけだが、それ以前に女の子だったんだよな……
 俺はふと、小学校五年生のある日のことを思い出した。
 当時通っていた道場の組み手の練習の時、たまたま俺とあゆみちゃんという女の子が男女一名ずつ余ってしまい、本来なら同性同士でやるのだが、俺達だけ男女で組み手をすることになったんだ。もう五年生なのだから、男の子は少し手加減してやれよと師範に耳打ちされてからその組み手は始まったんだよな。
 果敢に攻めてくるあゆみちゃんになかなか手が出せず、やっと出した俺の拳があゆみちゃんの胸にポニョンと当たり……見事に泣かれてしまったんだよな。
「それでは――再開っ!」
 あの日の思い出、そしてたった今触れてしまった舞花の胸について思い返していたが、試合再開の声によりそれらは吹き飛んだ。
 あの時のあゆみちゃんのように舞花は泣くことはもちろん、触られたことを気にする様子もなく俺へと向かって来る!
「おらああ!」
 恥じらいくらい少しは持てやっ!
 『女の子というものは、恥じらいを持ってこそ可愛いものでありけり』という俺なりの持論を打ち破った久野舞花の態度に対し、俺は激しい怒りを感じた。
 もはやいくら触ろうが気にはしない! 容赦なく拳を振るわせてもらおう!
 道場の中心で激しくお互いのパンチが、キックが交差する。
 そして打ち合ってみてさらにわかった。俺より十五キロは軽く、身長もずっと低い彼女が、打ち合いで俺と互角――いや、圧倒しているという恐ろしさ、強さが……
「しゃあっ」
 そんな打ち合いの中、俺は思い切って膝を上げた。
 距離の近い乱打戦では、ローキックやら前蹴りやらのキックの類は出しにくいものだが、モモを上げるだけで出せる膝蹴りは違う。中学一年の時、大会で乱打戦の中で出した膝が見事に相手に命中し勝利につながったことが一瞬頭によぎったのだ。
 上げた膝は、俺よりもずっと身長の低い久野舞花のあごに易々と命中し……
「――えっ?」
 彼女の顔を守るフェイスガードのあごの辺りに膝が当たった瞬間、蹴り上げた脚を見事にキャッチされてしまった。
「うわっ、おい……」
 離そうと俺は動くが、舞花は俺の脚を左脇に抱え離さない(そして道着越しに胸の感触が微妙に……)
 俺は片足だけという非常にバランスの悪い状態ではあるが、懸命に腕を振るい舞花に対しダメージを与えようとする。
 その刹那――フェイスガードのプラスチックの向こうで、舞花の微笑みが見えた気がした。そして次に、彼女の右手がギュッと握られ――
「一本! それまで!」
 
 気が付くと、道場の天井が見えていた。どうやら完全なダウンを奪われ、見事に一本負けとなってしまったらしい。
「ああ! 勇見君、大丈夫でしたか?」
 上体を起こした俺に、静花さんが駆け寄って来てくれた。
「ええ、なんとか大丈夫です……」
 俺はフェイスガードを外し彼女の呼びかけに答える。
「よかった……」
「いやあ、情けないです。最後の一撃なんか全然見えなかったし……」
「えーとそれはですね。舞ちゃんのオーバーハンドフックといいましょうか。
 勇見君が片足の自由を奪われ、隙だらけだったところに」
「なるほど。妹さん、強いんですねえ……」
 本当に強かった。いくら俺が格闘技から離れて一年半以上あるとはいえ、圧倒的な体格差、そして男女の差を破って見事久野舞花は俺を打ち倒したのだ。
「あんただってそこそこ動けてたわよ? 練習をしっかりすれば昔の感は戻るだろうし、もっと強くもなれるって!」
 当の勝者はフェイスガードもグローブも外し、整理運動のようなことをしながら俺に話しかけてくる。
「練習をしっかりすれば……」
「そうよ。だからさ、うちの道場に入門しない? 他の所に通うよりも、百倍強くなれることを約束するわよ!」
「ちょっと舞ちゃん! またあなたは勝手な!
 勇見君ごめんさない。本当は一家揃って謝罪するはずだったのに、今日はこんなことになってしまって……」
「いや、いいですって。ハハハ……」
 その場で言葉に詰まってしまった俺はとりあえずさっきの小部屋で自分の服に着替えた。
 そして必死に謝罪してくる静花さんをなだめ、しつこく入門を迫ってくる舞花を突き放して家へ帰ることにしたのだった。
 
 風呂に入っている時、夕飯を食べている時、そして食べ終わってすぐに自分の部屋のベッドに寝転んでいる今この時……ずっと道場での試合のことが頭から離れない。
 グローブを着けて、拳を握った感覚。
 耳に聞こえた審判の合図。
 相手の攻撃を受けた時の痛み。
 自分の攻撃が当たった時の感触。
 何もかもが久しぶりだった。そして……楽しかった。
 負けてしまったし、その内容は一方的なものではあったが、それでも充実していたように思えるのだ。
 それに、「練習すれば強くなれる」という久野舞花の一言……
 今、俺の胸の中に熱い何かが湧き上がっているような気がする。
 次の瞬間に俺はベッドから飛び起き、机の上に放ってあった二枚の紙を手にした。
 一枚は静花さんが書いてくれた久野流格闘術道場の地図と電話番号が書かれた紙。
 もう一枚は道場を出る時に舞花がポケットに無理矢理ねじ込んできた紙だ。
 俺は携帯を取り出し紙に書かれた久野家の電話番号を打ち込み、電話をかけた。
「もしもし……遅くにすいません。勇見です」
『え……あ、勇見君?』
 電話に出てくれたのは静花さんだった
「あ、静花さんでしたか」
『はい。あのう、なんでしょうか』
「――入門したいんです」
『え?』
「久野流格闘術の道場に入門したいんです。たった今決めました」
『あの、本当に――ですか?』
「本気です。今日はもう遅いですし、詳しくは明日学校で……」
『……わかりました』
 それだけ言って、お互いに電話を切った。
 不覚にも――と言えばいいのだろうか?
 俺は久野舞花との一戦で、格闘技への熱をぶり返してしまったみたいだ。
 痛い思いもするけれど、練習の成果が出て自分の思うように体が動いた時の喜びを味わっていたあの頃の熱が……
 携帯を置いたら俺は、舞花にもらった方の紙――道場の入門届を書き始めた。

2.

「おはようございます。勇見君」
「あ……お、おはようございます」
 次の日の朝、登校中に静花さんに声をかけられた。
「昨夜の話……本当なんですよね?」
 俺の顔を覗き込むように彼女は聞いてきた。ああ、可愛いな……それに、おしとやかな性格と丁寧な物腰も加わるのだから、間違いなくこの人はモテるに違いない。
「はい。入門させてもらいますよ。昨夜はあの後、両親にも話しました。
 そしたら二人とも賛成で、緩んだ生活に喝を入れてもらえとまで言われて……」
「フフフ……そうなんですか。そういうことなら、入門を歓迎します! 一緒にがんばりましょう!」
 そう言って静花さんは俺に極上の微笑みをプレゼントしてくれた。昨日のジャージ姿を含め、彼女にドキッとしてしまったのはこれでもう何回目だろう。
「そうだ! これ、入門届です! 今のうちに渡しておきますよ」
 俺は冷静さを取り戻して、鞄から昨晩書いた入門届を取り出す。学校でどうせ会うのだからと、わざわざ持ってきたのだ。
「ええと。入門届なんですけどね……舞ちゃんが『あいつの入門届は、あたしが渡したんだから、あたしに受け取る義務があるんだ!』って聞かないので、面倒でしょうが舞ちゃんに渡してやってください……すいません。舞ちゃんったら張り切りすぎて今日は私より先に学校に行っちゃって……」
「はあ……わかりました。そういや、もう一つ話しておきたいことがあるんですけど……」
「なんですか?」
 そう、これはしっかりと話しておかなければならないことだ。そして静花さんにも協力してもらわねばならない。

「ええー? 昨日久野さんの家に行っただあ?」
「てめえ、貴之ぃ! 抜け駆けってわけか?」
 一也を中心としたクラスの男衆は、俺の説明を聞いて激怒している。
 その内容とは、久野家に俺が出向き一家揃って正式に謝罪を受けたというものである。
 実際はほとんど謝罪など受けなかったわけだが、これ以上ことを荒立てたくないというのが本心なので、静花さんにも口裏を合わせてもらっている。嘘でもいいから久野家一同からきちんと謝罪を受けて俺も納得したことにして、この件は終了ということにしたいと彼女には登校中に申し出ておいた。
 それにしても、俺の話を聞いたほとんどの男達は俺が殴られたことに関する詳細より、俺が久野家に行ったという事実に興味があるようだ。まったく……少しは俺の体を心配してくれてもいいだろうに。まあ、気持はわからなくもないが。
 昼休みになったら俺は舞花のいる五組の教室へと足を運んだ。
 俺が姿を見せると五組の教室に若干の緊張が走った。だが、舞花が俺の入門届を笑顔で受け取った時、その緊張は一気に解かれてしまった。
「おしっ! 早速今日から稽古をするから、絶対来るのよ!」
 手にした入門届を確認してそう言った後、満面の笑顔を振りまいたのだ。
 この百万ドルの笑顔には、五組の教室内にいた連中はもちろん、目の前でそれを見た俺も言葉を失ってしまった。ああ、そうだった……この久野舞花という少女、性格や行動にかなりの問題はあるが、超絶な美少女だったんだよな……
「ん? 何ボーっとしてんのよ?」
「い、いや……その、道着とかはどうすりゃいい?」
「それなら大サービスで、全て無料で貸し出しちゃう! 昨日着たのをまた使いなさいよ」
「ああ、わかった……じゃあ」
 そうすると舞花は、後ろを向いた俺の背中をパーンと軽く叩いた。振り向くとそこに見えたのは、またもあの無敵の笑顔――
 一也達が俺をうらやむのも納得だと思いつつ、教室に戻るのだった。

 家に帰り俺は道場へと向かった。稽古開始は五時頃からだと静花さんから聞いたため、余裕を持って十五分前に道場には着いた。
 昨日のように静花さんは道場の前を掃除しておらず、ちょっと残念に思いながらも道場内に一礼をして入る。
「よく来たわね! 着替えたらさっそく稽古開始よ!」
 すでに中では道着に着替えて仁王立ちした久野舞花が待っていた。ちょっと気になったのは、彼女以外道場の中に人がいないことだ。
 とりあえず昨日と同じ道着を手渡され、用具入れの小部屋で着替える。そういやこの道場、更衣室はないのかな?
「よーし、それでは始めましょうか」
「ちょっと待て、他に人は来ないのか?」
 着替え終わると、道場の真ん中に座るように舞花に促され正座したわけだが、俺は彼女に聞いてみた。
「今の所、一般クラスに入門してんのはあんただけよ。キッズクラスは三人くらいいるんだけどね」
「はあ……」
 この道場は大丈夫なのだろうか? 舞花、静花さん姉妹の父親でもある久野流格闘術の総帥という人も、バイトをしていると聞いたし。
「それでは稽古を始めます。あ、稽古中はあたしのことを『師範代』もしくは『先生』と呼ぶように? わかった?」
「わかった」
「では、お互いに礼! お願いしますっ!」
 向かい合って一礼。こうして必然的にマンツーマンの稽古が始まった。
 だが準備運動を終えると、なぜか舞花――先生は黙ってしまった。口元に手を当てて、何か考えているようだ。
「おい先生、どうしたんだ?」
「いや、練習メニューをまだ考えてなくって……」
「なんだって?」
 いったいどういう内容の稽古となるのか少し興味があったのだが、まさか考えていないとは……この先生は何を考えているのだろうか。
「あんた経験者なのよね? ならミット打ちしましょ、ミット打ち!」
 疑いの目をした俺に焦ったのか、舞花先生は道場の隅の用具類に駆けて行き、そこからミットを取り出した。
「まあいいけど……それで、最初は何を打つ?」
「とりあえずパンチッ! ワンツーよワンツーッ!」
 長方形のミットを二つ、両腕にそれぞれハメた舞花は打って来いと構えた。
 指示どおりに俺は左、右とワンツーを打ち込んでいく。
「まだまだ弱いっ! あんたの実力はそんなもんじゃないはずよ!
 もっと腰を使って、全身で打つのっ!」
 身長差があるためミットを高めに構えた舞花の顔は見えないが、ミット越しに檄を飛ばしてきた。それを聞いて俺は、腰のひねりを意識して、さらに強いパンチを放った。
「まだいけるはず! ミットを親の仇だと思い、魂込めて来なさい!」
 俺の両親は人から恨まれるようなことはないごく普通な人達なのだが、とりあえずパンチを放つ時により力を込めてみた。
「よしよし、さすがは経験者ってところね。その調子でどんどん来なさい!」
 舞花先生の甲高い声が響く。それにしてもさすが指導者というか、身長は百五十センチ程度で体重も俺よりずっと軽い女の子が、ミット越しとはいえ大の男のパンチを受けてもビクともしていない。
 打ち続けるうちになんとなく昔の感覚を思い出して来たような気がして、パンチを放つ時に打ちやすいよう体の動かし方というものがだいぶつかめてきた。
「おーし、次はガンガン連打をかまして来いっつー話よっ!」
「おうっ、怪我すんなよ――なっ!」
 俺もパンチを打ち続けているうちに調子づいてしまったのか、ノリノリでミットに連打を叩き込んでいく。やはり、昔の感覚が戻ってきているようにも感じるのだ。
「おらあ!」
「ぐあっ!」
 だが、そんな俺の顔面に突然――何か適度な硬さをした物体が激突した。
 それは、今まで俺のパンチを受けていた先生、久野舞花の腕に着けられていたミットの感触だった。
 いったい何を考えているのか、この先生は突然ミットで俺を殴りつけてきたのだ!
「てめ……何すんだよ!」
「あちゃー、やっぱり反応できないか」
「当たり前だろ! 普通ミット打ちしていてそんなこと想定する奴いねえよ!」
「いや、ムエタイのトレーニングなんかじゃ、ミット受けるトレーナーが攻撃してくるらしいのよ。スパーリングしてるみたいな感覚? みたいな?
 格闘マガジンの先月号に載ってたんだから間違いないわ!」
「だからって突然やるなよ!」
 俺の抗議に聞く耳を持とうとせず、舞花先生は両手のミットをぶつけポンポンと音を立てながら再び構える。
「やかましい! 練習中は先生の命令は絶対――これは久野流格闘術の教えの一つよ!
 さあ、続き続き! もう、パンチだけではなく蹴りを使ってきていいから!」
 俺もさすがに腹が立ち、渾身のハイキックを舞花先生のミットへと叩き込む。予想はしていたが、彼女はこの一撃に動じることはなく逆にミットで押し返して俺のバランスを崩しにかかってきた!
「どっせぇい!」
 そして、裏拳――いわゆるバックハンドブローを、いやバックミットブローを繰り出してくる。
 反撃をある程度予測していた俺は焦らずにガードをして、後方に飛んで距離を取る。
「ちぃ!」
「おい。先生なら俺が今から出す技、しっかり受けてみろ!」
「なんですって? 上等よ、かかってきなさい!」
 俺の挑発に予想通り先生は乗ってしまったようだ。
 今から出す技――この距離があればいける!
「おおお!」
 そう、助走をつけての大技――飛び膝蹴りだ。英語で言えばフライングニーと呼ばれ、個人的にこれで勝負を決めるなんて世界一カッコいいことじゃないかと以前グローブを握っていたころから思っていたものだ。
 短い時間だが全力で助走、跳躍、右脚を折り曲げ、膝を突き出し……
 インパクトォッ!
「甘い!」
「えっ――」
 次の瞬間、俺は頬を床に付けていた。何が起きたのかすぐにはわからなかったが、どうやら俺の魂を込めた飛び膝蹴りは失敗に終わったことは確かのようだ。
「全然ダメ。殺気が足らないわね……」
 そう上から物を言うのは久野舞花先生だった。
 そうだ、俺の飛び膝蹴りは舞花先生のミットで体ごと払いのけられてしまったのだ。
「膝という人体の中でもかなり硬い部分、つまり強力な武器を絶対に相手の体にぶち当ててやるんだ……そういう気迫がまったく伝わってこなかったわ。先生は非常に残念です」
 そうしみじみと語りながら舞花先生はミットを外してしまう。というか、練習でそこまで殺気を込めるなんて、俺にはできそうもないのだけど……
「ぐえ!」
 舞花先生は俺の頭に外したミットを落とし、こう言い放った。
「今から先生が本当の飛び膝蹴りってやつを見せてあげるわ。走馬灯が見えるレベルの殺気を込めてあげるんだから! わかったら立つ!」
「えええええ?」
 こうして俺は無理矢理起こされて、ミットの着用を強制される。
 その後、三十本以上は舞花先生の飛び膝を俺は受け続ける羽目になった。
 最後の方は実験と称し、道場の端から端までの距離で助走をしての飛び膝蹴りをされもうわけがわからなかった。
「どう? これぞ飛び膝蹴りの真髄よ……はあ……」
 息を乱しながらも、舞花先生は得意げだ。そして、これはきちんと稽古が成立しているのだろうかという疑問が頭をよぎった。当然だ。
「久野流格闘術って何なんだよ?」
 思わずそう口にしてしまった。これは昨日から思っていたことでもある。
 というか俺は、自分が入門する道場がどのような武道、格闘技を教えているのかわからない状態で今まで飛び膝蹴りを受け続けていたわけなのだ。
 師範代にして時期総帥と自称する久野舞花の戦闘スタイルから推測するに、おそらく打撃系の格闘技であることが予想できるわけだが、名前からして古武術のような感じもする。
「ん? 何? 久野流格闘術の歴史を聞きたいわけ?」
 俺の声が聞こえたのか、舞花先生は俺の顔を覗き込んでそう聞いてきた。ふいに近づいてきたその顔に、一瞬心臓が口から飛び出そうになる。
 やはり、彼女は少し現実離れした美少女だ。こういう不意打ちは体に悪い……
「ああ、教えてくれ。自分が習っている流派のことくらいきちんと知っておきたい」
 俺は動揺を悟られないように、努めて冷静にそう返した。
「なかなかいい心がけじゃないの。じゃあ、師範代にして時期総帥の私が教えてあげましょう。久野流格闘術、およそ三十五年の激動の歴史を……」
「さ、三十五年?」
 いきなり俺は拍子抜けしてしまった。てっきり戦国時代、もしくは江戸時代くらいから続いている古流武術だという可能性も考えていたのだが、三十五年なんて俺の両親の歳より若いじゃないか!
「何よ。文句あるの?」
「い、いや、続けてくれ……」
 俺の突っ込みに対し、舞花は鋭い眼光で睨みつけてきた。身の危険を感じたため続けてもらうように促す。
「この久野流格闘術を立ち上げたのはあたしのお爺ちゃん、久野修平よ。若かりし頃のお爺ちゃんは昭和の激動の時代を過ごしていたわ。その中で日本の格闘技、武道の変化を見てきたの。ただの観客としてね」
 昭和の日本の格闘技、武道――たしかにその当時を生きていない俺でも少しは知っている。
 敗戦に打ちひしがれた日本国民は、プロレスでは大きな外国人に勝つ日本人レスラーに熱狂し、ボクシング世界王者の誕生にも歓喜していたと聞く。
 東京オリンピックでは柔道が競技として認められたり、その後にはキックボクシングでも国民的ヒーローが生まれたことなども有名である。
「それを見ていたお爺ちゃんは決めたの。俺もやってやるって! 自分の見てきた様々な格闘技、武道を凌駕する最強の流派を立ち上げるんだと決めたわけよ。男・久野修平、三十五歳の夏だったらしいわ……」
 朗々と語る舞花は、何か胸にこみ上げる物があるようだった。
「元々格闘技が好きで、ボクシングや空手、柔道の経験があったお爺ちゃんだったんだけど、それらのノウハウを活かしてすぐに久野流格闘術の看板と道場を立ち上げちゃったのよ! すごい行動力でしょ?」
 すごい行動力というより無謀だと思う。だが、歴史を語っている舞花の目はさん然と輝いており、異論を挟めそうな状況ではない。
「その後も、お爺ちゃんは様々な格闘技を研究しながら自らを、そして久野流格闘術を高めて行き、その未来を二代目――つまりあたしの父さんに託したわけよ。今は隠居の身で田舎に帰って古流武術の研究を行っているんだけど、たまに田舎から研究成果の一部が郵送されてくるのよ。お爺ちゃんから父さんへ、そして父さんから私へ、久野流格闘術の系譜は受け継がれる……熱いわね!」
 遠い目をしながら舞花は語り終えた。薄ぼんやりとだが、久野流格闘術というものがなんとなく見えてきた気がする。
 久野流格闘術とは、格闘技好きの男性が立ち上げた何でもありの自己流格闘技ということなのだろう。歴史を聞いたはいいが、それでもいまいちわけがわからないということは否定できない……
「説明ありがとうございます、先生。これからも精進します」
 やや棒読みだったが、舞花へのご機嫌取りのためにそう言っておくことにする。悦に入っている彼女を刺激するのは危険だと判断したからだ。
「よろしい。それでは、今日の練習は終わりとしましょうか!」
 俺達は――とはいっても二人だけだが、道場の真ん中で向かい合って礼をした。
 小部屋で着替えて道場から出ようとすると、いきなり背後から声をかけられる。
「ちょっと、ちょっと! うちでご飯食べていきなさいよ!」
「え?」
 予想だにしなかった舞花からの誘い。でも、なんでだ?
「同じ場所で汗を流してから同じ釜の飯を食えば、道場の結束は強固になるとお爺ちゃんは言っていたわ! だからそれを実践すんのっ!」
 そう言って満面の笑みを浮かべている舞花。
 ――はっきり言って断りにくい。
 その理由は、逆らったら何をされるかわからないという抑圧的なものではない。性格にやや問題が見られるが、こんな美少女からうちで食事をしていかないかと誘われたら、断れる理由がないだろう。食事をしていかないかと言って俺に向けてくれた笑顔は正直、直視できないほど可愛い……
 恥を忍んで言わせてもらえば、道着に身を包んだ天使のようだ……
「わ、わかった。お言葉に甘えさせてもらおうじゃないか……」
 言葉の端もどこか弱々しくなってしまい、俺は完全に舞花のペースなってしまっていたのだった。格闘技の試合で表せば、手も足も出ずに敗北寸前と言えるのではないだろうか。

 一応家には夕食は久野家でご馳走になる電話をしたが、電話に出た母は是非そうしてきなさいとのことだった。
 道場の裏にあった久野家の母屋は至って普通の二階建て住宅だ。
舞花の誘導で家の裏口にあたる所からおじゃまさせてもらい、中に入ると和室に案内された。
大きめのテーブルには箸が三膳置かれている。
「あんたが今日夕飯食べてくことは静花にも練習前に伝えておいたし、遠慮なく食べてっていいんだからね? じゃ、あたしは着替えてくるわ」
 そう言うと舞花は和室から出て行ってしまった。とんとんと階段を上がる音が聞こえたため、おそらく二階に上がって自分の部屋にでも行ったのだろう。
 うーむ。何か気まずい。
 よくよく考えれば、転入初日から男子の注目を集めまくった美人姉妹の家に上がり込んで、今は彼女達と一緒に食べる夕飯を待っているわけだ。
 階段をのぼる音ではないが、とんとんとことが進み過ぎていっているような気がして、こうして一人になって初めて緊張をしてきてしまった。
 健全な男子高校生のほとんどは、女の子と友好を深めるチャンスを常に期待しているものだが、いざそのチャンスがやって来た時に平常心を保てるのは少数だと俺は考えている。
 というか、今の俺がまさにそうだからだ。
「あ――いらっしゃい、勇見君」
 そんな俺の平常心をさらに保てなくしてしまうものが現れた。
 和室の入口に立っているのは、双子姉妹の姉――静花さんだった。
 エプロンを着用しており、両手で茶碗などが乗ったお盆を持っている。
 これにはやられてしまった。俺は彼女がうちのクラスに転入してきた初日、その姿を初めて見た時に、そのおしとやかで優しそうな印象から彼女のエプロン姿を妄想してしまったのだ。
 その妄想が今現実化し目の前に……
「あの、勇見君?」
「――はいっ!」
 その鮮烈な映像を前にして、俺は肉体も意識も一瞬硬直してしまっていた。
 静花さんはお盆を置いて俺を気にかけてくれている。
「すいません。なんか急にお邪魔してしまって……」
「いいんですよ。舞ちゃんだけじゃなくて、私も楽しみだったんですから」
「え?」
「勇見君は今日から同じ道場で練習をする仲間になるんですから、気持ちよくお迎えしたいじゃないですか」
 エプロン姿の静花さんの笑顔は、安心感に包まれるというか柔らかい空気を醸し出してくれており、俺はすっかり心を奪われている。
 同じ美少女でもやはり妹の舞花とはタイプが違うと実感する。
 二卵性双生児の美少女姉妹! なんかすごくいいぞ!
「父は今日もバイトがあって帰れないそうなので、私達三人で食べましょうね」
「ああ、はい。わかりました」
 なんかちょっと安心したぞ! お父さんすいません!
 俺が心の中で一人舞い上がっていると、どたどたとした音を立てながら舞花が部屋に入ってきた。下はグレーのスウェットパンツ、上は黒地に白い文字で「覇王」と書かれた半そでシャツという姿で、これはこれで彼女の元気な性格に合っているように思える。
「何よ! まだ準備できてないの?」
「だったら舞ちゃんも手伝ってちょうだい。向こうからおひつを持ってきてくれる?」
 入ってくるなり不満を漏らした舞花に対し、静花さんは極めて冷静に指示を出した。双子の姉と妹という関係ではあるが、精神年齢にはだいぶ開きがありそうな気がする。
「すいません。舞ちゃんったら騒々しくて」
「いや、そんな……」
「じゃあ私もまだ運ぶものがありますから、失礼しますね。勇見君はどうぞゆっくりしていてください」
 もはやお姉さんというか、お母さんのようである。やはりこの人には「さん」付けが相応しいと思ってしまった。
 舞花がおひつを、静花さんがおかず類を運び終えるといよいよ食事となる。
「勇見君、これくらいでいいですか?」
「はい。それくらいで」
「ご飯はいつもたっぷり炊いていますから、遠慮せずにおかわりしてくださいね」
 静花さんがおひつから大盛りのご飯をよそってくれて、俺はそれを両手で受け取る。
 今日の献立は、鯖の塩焼き、ホウレンソウのおひたし、つぶした里芋とひじきを混ぜたサラダ、そして白米、ワカメと豆腐の味噌汁、お新香の三点セットである。
 全体に和風で、派手さはないが非常に美味しそうである。全部静花さんが作ったのだろうか?
 さらに、さあ食べようという直前に静花さんが慌てて持ってきた、わさび漬け、鳥そぼろなどのご飯が進む品々も嬉しいところだ。

「それでは……」
「強さの源、それは美味しい食事にあり! 貴之、これも久野流格闘術の教えの一つだからよく覚えておきなさい! ――いただきますっ」
 静花さんが全ての配膳を終えると同時に、舞花が一気にまくし立ててから食べ始めてしまった。すごい勢いでおかずを、ご飯を口に運んでいる。
 しかも、俺のことを呼び捨てにしていた。
「じゃあ、私達も食べましょうか」
「そうですね。いただきます」
 苦笑する静花さんに連れられて、俺も目の前の料理に手を付ける。
「うまい……」
 いざ食べてみると、どれもこれも本当においしかった。鯖の焼き加減もちょうどよく、味噌汁もはっきり言ってうちでいつも飲んでいるのよりおいしい。ダシが違うってやつなのだろうか?
 特に驚かされたのはヒジキと里芋のサラダで、酢をほんのり利かせてあって俺好みの味である。静花さんが勧めてくれた鳥そぼろもご飯に合い、ついつい三杯も食べてしまった。
「ふう……ごちそうさまです」
 すっかりお腹いっぱいになったら、食後に静花さんはお茶を淹れてくれた。本当によくしてもらって、申し訳なくなってしまう。
「ちょっと静花! トマトジュースが無くなってるわよ! 無塩の!」
 ちょうどいい濃さのお茶を飲んでいると、突然舞花ががなる。ご飯を五杯もおかわりして、いち早く夕食を終えて部屋から姿を消した舞花は、戻ってくるなり大慌てだ。
「舞ちゃん、あなたが今朝全部飲んじゃったんじゃないの?」
「だったら買っておいてよ……しょうがないから、ちょっとコンビニ行って買ってくる!」
 そう言うと舞花は慌ただしく家を飛び出して行ってしまった。
「ほんと舞ちゃんったら……あの子、トマトジュースを健康のために毎日欠かさないんです。しかも無塩以外は体が受け付けないと断言するこだわりようで」
「なるほど。あの性格だと、たしかにうるさそうですね」
 俺がお茶をすすりながら返すと、静花さんは俺の顔をジッと見て少し怪訝そうな顔をした。
「どうしました?」
「あの、勇見君ってどうして私に敬語を使うんですか?」
「え……」
 口元に手を当てて、やや上目遣いで聞かれているのだから堪らない。だが、ここは正直に言うことにする。
「なんか静花さんって落ち着いている雰囲気があるし大人だなあって思うんで、自然にそうなっちゃうんですよ。今だって俺にさっとお茶を淹れてくれたし……その、なかなかできることじゃないと思います……」
 なんか言っている自分が恥ずかしくなってきてしまったが、静花さんもそれを聞いてかなり気恥ずかしそうにしている。
「自分ではそんな風に思ってないんですけど、やっぱり母が亡くなってから一家の家事をほとんどやっちゃってますから……単に慣れているだけですよ」
「あ――」
 静花さんはさらりと言ってしまったが、俺は閉口してしまう。
 そうだ、やはりこの一家にはお母さんはいないようだ。
 食事前に静花さんが「私達三人で食べましょう」と言った時も、ちょっと引っかかっていたのだが……
「ごめんなさい……」
 俺はすぐに謝った。舞花がトマトジュース(無塩)を買いに行ってしまったため、この家に今は俺と静花さんの二人っきり――気まずさが二倍だ。
「いえ、いいんですよ。本当に気にしないでくださいね。てっきり舞ちゃんから聞いていたと思ってたんですけどね」
「ああ、俺が聞いたのは久野流格闘術の歴史だけで……」
 二コリと笑って返してくれた静花さんに俺は頭を下げる。俺が舞花から聞いたのは久野流格闘術のおよそ三十五年に及ぶ歴史で、彼女達の家族の詳細は教えてもらっていない。
 しばしの沈黙の後、静花さんは湯呑を置いて話し始めた。
「歴史ですか。どこまで舞ちゃんから聞いたんです?」
「ええと――お爺さんからお父さんに久野流格闘術が引き継がれて、その系譜は舞花へと続くっていうところまで……」
「んー。舞ちゃんらしい言い方だなあ」
 静花さんは苦笑しながらこう続けた。
「勇見君、舞ちゃんがなんで久野流格闘術次期総帥を名乗るようになったかは聞きました?」
「いえ。聞いてないです」
 一呼吸置いてから静花さんはまた笑顔を見せた。
「じゃあ、久野流格闘術の歴史の補足をしてあげますね。というよりも、舞ちゃんと私が格闘技を始めたきっかけのことなんですけど……聞きます?」
「お、お願いします……」
 特に断る理由もない。重ねて言えば、彼女の好意を無下にできるはずがない。
「最初に言っておくと、私も舞ちゃんも小学校に上がるまではほとんど格闘技に興味がなかったんです。あ、でも舞ちゃんは昔っから活発な性格だったんですけどね!」
「へえ、意外だなあ」
 俺はてっきりこういう道場を持つ親の下に生まれた子は、小さい頃から練習にはげんでいたのかと勝手に想像していた。特に舞花の方は、物心つく前からサンドバックを蹴っていたと思っていたが……
「きっかけは母が亡くなったことなんです」
 ここで静花さんの表情がやや曇った。だが、すぐに変わりない様子で話を続ける。
「母は私達が小学校に上がってすぐに交通事故で亡くなったんです。買い物の途中で信号無視をした車にはねられて、私と舞ちゃんが病院に向かった時にはもう手遅れだったみたいで」
「静花さん……」
 俺は黙っているしかなかった。
「息を引き取る寸前に、母は私と舞ちゃんに向けて『私がいなくなっても、どうか強く生きて欲しい』と言っていたんです。それを父から聞いた私達は、本格的に久野流格闘術の稽古に参加するようになりました。強くなるためには、そうするのが一番だと思ったから……」
 なるほど、そんな理由があったのか。母の言い残した言葉を受けて、強くなる努力を始めた姉妹の健気さを俺は感じたような気がする。なんかこう、胸が熱い……
「けどちょっとだけ、舞ちゃんはその気持ちが強過ぎて大変なんですけどね!」
「ははは……それは身にしみてわかりますよ」
「あははは。一応これが、私と舞ちゃんと久野流格闘術の歴史ってとこですね」
 静花さんがそう言うとお互いに笑い合った。たしかに舞花の方は強くなろうという気持ちが強過ぎて無茶をやるようになってしまったようだが、今の話を聞いたことで見方が少し変わりそうだ。
 そして俺は、話を聞いていて浮かんだ一つの疑問を静花さんに投げかけた。
「あの、静花さんも格闘技をやっているんですよね? 強いんですか?」
 静花さんはキョトンとしてしまった。ただ、これは聞いておきたかったことだ。グローブよりも鍋つかみをはめていた方が似合うであろう彼女が、妹の舞花同様にすさまじい打撃を振るうとは思えないが……
「私も舞ちゃんと一緒に習っていますけど、今では練習時間は舞ちゃんの方が全然多いですし、私はキッズクラスの子を教えたり道場の掃除を中心にしていますから……」
「へえ、そうなんですか。たしかに静花さんは他にも忙しそうですもんね……」
 よし、予想的中だ。考えてみれば当たり前のことで、彼女は一家の家事を任されているのだからそんなに練習に時間を割けないはずである。というか、舞花の奴も少しは手伝ってやれと言いたいものだ。
 その後、しばらくして舞花がトマトジュース(無塩)を買って戻ってきて、それを健康と強さのためにと一杯飲まされてから俺は家に帰ることにした。
 帰り道、歩く体に今日の練習のダメージがけっこうあることに気付くも、つくづく俺は他の男子から恨まれることを経験してしまったなあと思うのだった。
 それにしても、あのひじきと里芋のサラダは本当においしかった。あれは是非我が家の食卓にも並ばせたいくらいだ。
 家に帰ったらさっそく母に教えてみようと思い、少し足を速めるのだった。

 次の日、予想はしていたが筋肉痛がひどかった。やはり体がなまっていたことを実感しつつ、重い足取りで学校へ向かうのだった。
「おっす貴之!」
 教室に入ると、一也が真っ先に声をかけてきた。朝から本当に元気な奴である。
「お前、久野さんとこの道場に入門したんだって?」
「情報が早いなお前は。たしかにそうだけど……」
 さすが我がクラスの特攻隊長。相変わらずこういった情報はすぐに手に入れてしまう。
「それにしても、転入してきた美人姉妹は格闘系だったのかあ。まあ、だいたいお前が殴られた現場にいりゃあわかったけどな」
「おいおい。たしかに隣のクラスの妹はバリバリの武闘派だが、うちのクラスに来たお姉さんの方は違うだろ。たしかにあの人も家は道場だけど」
 そうだ。俺は昨日、静花さんは道場に身を置いているとはいえ、おしとやかで家庭的な女性であることをこの身で知ったのだ。一也、そして男子一同から恨みを買いたくないためそのことを言うのは避けるが。
「え? お前知らないの?」
「何がだよ」
 一也はギョッとして俺の方を見てきた。いったいどうしたというのだろう。
「うちのクラスの久野さんもめちゃくちゃ強いぜ。
 ――あ、そうか。お前、あの時気を失っていたから知らないんだな」
 こいつはいったい何を言っているんだ? 静花さんがめちゃくちゃ強いだと?
「おい、それについて詳しく教えてくれ!」
「わかったから顔を近づけるな! ちゃんと話すから!
 お前が殴り飛ばされたあの時、もちろん俺もその場にいて――」

 一也の口から聞く、あの日俺が気を失ってからの出来事とはこうだ。
「どーだこの野郎! これぞ久野流格闘術の真の強さよ!」
 俺に一撃必殺のアッパーカットを見舞い、舞花は高らかにそう言い放ったらしい。そういえばこれは静花さんからも聞いたことだ。
 その後、ぴくぴくと動いている俺を見て、まだ意識があると判断した舞花は追討ちをかけようとさらに一歩近付いたそうだ。恐ろしい女である。
 舞花が右腕を振り上げ俺にとどめを刺そうとした時、彼女の横に影が現れたという。
「がああああ!」
 次の瞬間、舞花は悲鳴を上げていたそうだ。原因は、振り上げた右腕をがっちりと何者かにつかまれ、しかもあらぬ方向に曲げられていたからだったとのこと。
 格闘技を見るのが好きな一也いわく、あれはもう完全な立ち関節の技であったそうだ。
「舞ちゃん! 何をやっているの!」
 舞花を止めた人物こそ、彼女の双子の姉――久野静花だったのだ。
 まさか!
 暴挙に出た妹を叱りつけてから静花さんがいったん腕を離すと、二人の口論が始まったそうだ。おそらく、俺が保健室で見た光景とそこは同じ内容であろう。
 そして、口論が発展し舞花が静花さんに殴りかかってしまったそうだ。この時、舞花からはどぎつい殺気が放たれていたらしい。
 だが静花さんは、飛んできた舞花のパンチを冷静にさばき、腕と制服の襟を掴んで――なんと舞花を投げ飛ばしてしまったという。嘘だろ?
 舞花は床に叩きつけられてしばらく置き上がってこられなかったそうだが、ここで静花さんは驚くべき行動に出た。
 倒れている舞花の手首をつかみ、極めて冷静に次の動作――寝技に入った。かけた技は、肘の関節を逆に伸ばして極めるというかの有名な技、腕ひしぎ逆十字固めだったというのだ!
 そのまま極め続ければ腱にダメージを負うことになり、肘関節の脱臼を引き起こすという危険な技でもあるが、静花さんは舞花の腕をぎりぎりと極め続けたらしい。
 それほどこの技は恐ろしいのだが、何よりも恐ろしいと思うのは容赦なくそれをかけ続けた静花さん本人だ。本当に彼女がそんなことをしたなんて……
 その時の静花さんが放っていた殺気は、止めに入ろうとした柔道部をはじめとした体育会系の猛者達、そしてうちの担任の長洲を含めた体育教師達も出て行くのに躊躇させたそうだ。

「で、周りが完全にドン引いたところで、ようやく技を解いたんだよ。そしたら久野さん、少し恥ずかしそうにして『うちの妹が大変なご迷惑をおかけしました』ってさ。あの時の表情は可愛かったけどな……それが逆に……」
 一也はそうして口ごもってしまった。一也自身もその光景を目の当たりにしてただならぬ恐怖を感じたのだろう。
「あ、おはようございます」
「おっ! おはよう! へ、へへへ……」
 その横を、鞄を手に持った静花さんがペコリと頭を下げてから通り過ぎていった。
 一也は一瞬ビクッとしてから、引きつった笑顔で挨拶を返すのだった。この様子、本当に彼女に対して怯えているようだ。
 静花さんは、我がクラスが誇るお調子者をここまでさせてしまったというのか。ここは俺が直接彼女に聞いてみる必要がありそうだ。
 昼休み、俺は一人で何も持たずに教室から出た静花さんの姿を追った。どうやら学食へと向かったようである。
 食券を購入し、かけ蕎麦を受け取った静花さんに俺は偶然を装って声をかけた。どこかストーカーっぽくも思えるが、例の真相を聞き出すためには致し方ない。
「あ、静花さん。今日は学食ですか?」
「勇見君? ええ、学食があると聞いたので利用してみようかと」
「そうですか。俺も今日は学食と決めてたんですけど、もしよかったら俺のぶんの席を取っておいてくれませんかね? なにせ今から食券買うんで……」
 かなりわざとらしいが、これも作戦だ。おそらく静花さんならこの申し出を断ることもないだろう。
「いいですよ」
 案の定静花さんは嫌な顔をせずに返事をしてくれた。作戦通り!
 俺はチンジャオロース定食の食券を買って受け取ると、奥の丸テーブルに座って小さく手を振っていた静花さんの方に向かう。
「急にご一緒しちゃってすいません」
「いえいえ。どうせ私も一人で来たんですから」
 またも白々しい俺の一言に対し、静花さんは笑顔で返してくれた。だが、この時彼女が言った「私一人で来たんですから」の部分が引っかかる。
 そう、静花さんはこの日も、そしておそらく昨日もずっと一人だったのだ。一也から聞いた腕ひしぎ逆十字の件で、静花さんは周囲の人間からすっかり恐れられてしまっているのだろう。
 経緯はどうであれ、クラスに馴染めずに孤立した転入生になってしまっていることは明らかだ。この状態を昨日の時点で気付いてやれなかった自分が、なんとも情けない。
「あ、おいしい……」
「そうですよ。俺も学食だと思って最初は甘く見ていたけど、食べてみるとけっこういけるんですよ」
 こんなに可愛くおしとやかに蕎麦を食べる静花さんがクラスに溶け込めないのは、腕ひしぎの件があったとはいえ俺は理不尽に思えてなれない。
 この状態の打破に力を貸せないものかと思い、俺はついに話を切り出した。
「あの、静花さん。静花さんは転入初日、俺に襲いかかった舞花を止めてくれたんですよね?」
 静花さんの箸が止まった。
「は、はい。あの、その――」
「あの時止めに入った静花さんの様子を見て、みんなあなたに恐怖を覚えてしまったってことを、今朝友達から聞きました」
 少々直球で言い過ぎただろうか。だが、静花さんはゆっくりと言葉を返してくれる。
「はい。舞ちゃんって、あの性格ですから昔から無茶をすることが多かったので私はいつも止める役なんです。でも、大暴れする舞ちゃんを止めるには私も本気になるしかなくて……」
 そうか。やはり静花さんも本気になると相当強いんだな。なんせあの舞花を抑えることができるんだから俺より強いことは確実だ。
 だが、その強さを発揮してしまったせいでそれを見た周囲がどう思ったかは、もはや言うまでもない。悲しみに満ちたその表情から、彼女自身もそれがわかっているようだ。
「みんなにちゃんと説明すれば、わかってもらえるんじゃないでしょうかね? いや、安易な考えかもしれませんけど」
 俺はそんな風に打開策を言ってみたが、静花さんは少し困った顔をする。
「そんなこと……」
 打ち出した俺が言うのもひどい話だが、ちょっと静花さんにそれは無理かもしれない。基本的に静花さんはおとなしくて、どちらかというと引っ込み思案な雰囲気がする人だ。
 開けっぴろげに自分が武道をやっているから暴走する舞花を云々みたいなことをみんなに説明することは、おそらくできないだろう。
 この後、俺も静花さんも黙って食事をするしかなかった。
 中学の時、この高校への学校見学で食堂を見て「あのテーブル席で女の子と食事ができたらなあ」と実に可愛らしい憧れを抱いた俺。その憧れが今現実になっているというのに、全然楽しい雰囲気がしない……最悪だ。
 この状況を打破するしかないと、俺の中に変な使命感が今激しく沸き立つのであった。

 学食から教室へ戻る最中、ふとこんなことを思った。
 舞花は周囲から怖がられていないのだろうか?
 なにせ二学期初日の事件で、一番最初に手を出した人間は舞花なのだ。
 あの性格なわけだし、隣のクラスの連中からしたら猛獣が自分のクラスに放り込まれたのと変わらないと言える。
「うおおおおお!」
 そんな舞花のいる五組の横を通ると、野太い声が中から聞こえた。
 もしやと思い中を覗いて見えたのは、教卓の横で腕を押さえて悶絶している男子の姿。その周囲には他の男子、歓声を上げる女子、そして女子に囲まれてふんぞりかえっている舞花の姿……もしや、また騒動を?
 俺は隣にいる静花さんと教室へ飛び込もうとしたが、どうも様子が違うことに気がついた。
「久野さんすごーい!」
「よ、よおし! 次は俺が挑戦します!」
「よろしい、かかってきなさい」
 歓声の中で、今度は違う男子が教卓の上にドンと腕を置いた。たしか彼の名前は伊藤君といったはずだ。そして舞花も腕を置き彼の手を握った。
 もしやこれって……
「じゃあ、お互いに準備はいいかな。
 レディ――ゴーッ!」
「どっせいっ!」
「ぎゃあああ!」
 そこで行われていたのは腕相撲だった。流れ的には舞花に対して男子が次々に挑戦をしているといったところだろうか。よく見れば、腕をおさえて苦悶の表情を浮かべつつもどこか幸せそうな男子達の姿が教室に散見される。
 舞花にたった今敗北した伊藤君も、痛む腕をさすりつつも、してやったりといった顔をしているではないか。
「なるほど……」
「え、何かわかったんですか?」
 静花さんは首をかしげるが、俺はわかってしまった。きょとんとした顔の静花さんに説明をしてあげることにしよう。
「この騒ぎの発端は、男共の下心が原因ですよ。おそらく舞花のことだから自分が久野流格闘術の師範代で次期総帥であるとアピールしていたんでしょう。そして自分が強いこともアピールして、そこに目を付けた下心丸出しの男が……」
「あ、なんとなくわかった気がします」
「おそらくそいつは、そんなに強いなら腕相撲してみないかと舞花に言い出したんですよ。
 当然舞花はその勝負に乗り、これで合法的に美少女と手を握れるという寸法です」
 それを聞いて静花さんは少し言葉に詰まった様子である。男という生き物に呆れているのかは知らないが、ともかく俺の推測は正しいはずだ。
 しかし……五組のこのテンションはどうだろう?
 転入生の超絶美少女と手を握れて喜ぶ男子と、男女問わず盛り上がっているギャラリー。
 そして、その中心にいて勝利の笑顔を浮かべている舞花。
 彼女が周囲から恐れられているとは到底思えない。
「久野さんマジ強いね!」
「これで男子も女子相手にデカい顔できなくなるんじゃない?」
「く、久野さん! 次は俺の相手してください……」
 舞花は今、クラスの中心で笑顔に囲まれている。俺の予想がここでは外れて、舞花のはちゃめちゃな性格が功を奏しているのだ。
 しかし、この光景を前にすると余計に静花さんがかわいそうに思えてくる。
 双子の姉妹で二人揃って転入してきたのに、周りからの扱いがこうも違ってしまっているなんて不憫でならない。
 だいたい、静花さんは俺を舞花の追討ちから助けてくれたんだ。情け容赦ない攻撃を妹に加えたのも事実だが、そうでもしなければ舞花は止められないと彼女は言っていた。
 これは舞花と手合わせした俺自身がそう思うんだから間違いない。
 本当に、どうにかならないものだろうか……
「舞ちゃんが新しいクラスに馴染めているなら、私も嬉しいです」
「せ、静花さん……」
 ああ、自分の状況も心配せずにこんなことが言えるなんてこの人は……
「あ! 勇見君、昼休み終わっちゃいますよ。行きましょう」
 今時こんな子も珍しいよと、おっさん臭いことを思いつつ静花さんの後を追う俺だった。

 この日、稽古はなかった。というか、まだ一般の部(中学生以上)の生徒が俺しかいないため、正式な稽古のスケジュールを決めかねているという。
 そんなことでこの道場は大丈夫なのだろうか?
 家に戻ってから、一也達から遊ばないかと連絡が入ったため駅前に向かうことにした。
 合流後にゲーセンで遊び、次はどこに行こうかと歩きながら議論をする。
「カラオケは?」
「いや……野郎だけで入るカラオケほど空しい事はない」
「そうか? 一也だけじゃねえの?」
「まあ、女の子はいないよりいる方がいいけどさ……」
 一也が持論を述べたことで、俺達のテンションはやや落ちてしまった。
 今いる四人の中で、彼女がいる者は一人もいない。別に珍しいことではないと思うが、やはりさびしいのは確かだ。
「ん? あれ、うちのクラスの内村達じゃね?」
 解散ムードが漂ってきたとこで、一也が何かに気付く。公園の横を歩いていた俺達の視界にうちのクラスでもやや目立つ女子のグループ、内村さん率いる四人が入ってきた。
「四対四……」
 誰が言ったのかわからなかったが、そんな声が聞こえた。
「おし、行くしかないだろ。女の子と入るカラオケほど楽しいものはない!」
 我らが特攻隊長一也は、すでに声をかける気満々。他の二人も止める気はないようだ。
 一也のお調子者キャラがたまにうらやましくなるのはこういう時だと俺は思う。
 しかし、我が学年でも可愛い子揃いと言われる内村さん達が俺らなんかの誘いに乗ってくれるだろうか? いや、乗ってくれればもちろん嬉しいのだが……
「おーい! 内――」
「きゃあっ!」
 一也が声を出している最中に、とんでもないことが起きた。
「なんだ? 危ねえじゃねえかこの!」
 彼女達がちょうど公園の入口付近を横切ろうとした時、公園から勢いよく飛び出してきたスケボーの男にぶつかりそうなったのだ。内村さんはスケボー男との激突は避けたが、その場に尻もちをついてしまう。
「なによ、危ないのはそっちでしょ? もう、信じらんない!」
「んだとこら!」
 内村さんはすくっと立ち上がりスケボー男に抗議をするが、彼は聞く耳を持たない様子だ。内村さんの言うことの方が正しいと思うが、この場は丸くおさまりそうにない。
「やばい! 小突かれた!」
 これは非常にピンチかも知れない。内村さんがスケボー男に小突かれ、またも転びそうになる。しかも、スケボー男の仲間と思われる二人組が公園から出てきた。
「貴之、やばいだろこれ……」
「なんか内村さん達、プレッシャーかけられてるぞ」
 男三人の圧力に、内村さんもすっかり黙りこんでしまっている。
 やはり、ここは……
「た、助ければ俺達――ヒーローだぞ?」
 一也が下心丸わかりなことを言うが、声は震えている。
 当たり前だ。俺だって格闘技をやっているし助けはしたいのだが、喧嘩は正直言って怖い。
 スケボー男達三人はきちんとは見えないが、おそらく大学生くらいで体格は三人ともデカい。
 ――やばい! あれこれ考えてる間に、とうとう肩をつかまれた!
「あれ、勇見君?」
 勇気を持って一歩踏み出そうとした瞬間、後ろから聞き覚えのある声がした。
「く、久野さん?」
 俺より先に気付いたのは一也だった。なんとそこには、静花さんが立っていた。
 道場で合った時と同じピンクのジャージ姿で、両手にはスーパーの袋をぶら下げている。
「あ、静花さ――いや、今はちょっと大変で、その……」
 情けないことに、俺はパニックでしっかり返事ができていない。
「あ――」
 どうやら、俺が伝えるより先に静花さんは確認してしまったようだ。
 男達三人に囲まれ、肩をつかまれて身体を揺すられている内村さんの姿を。他の子達にもこのままじゃ危害が及びそうだ。
「痛い! 痛い!」
 これは本当にやばい。内村さんの隣にいた女子、宮本さんが髪を引っ張られている!
 ちくしょう、なんて奴らだ……これはもう躊躇している場合じゃない!
「――勇見君。これ、持っていてください」
 突然俺の両手にずしりと重い物が乗っかった。
 それは二つのスーパーのビニール袋。中にはジャガイモ、ニンジン、糸こんにゃく、豚肉……今夜は肉じゃがか? 袋の内容物に目を奪われていると、俺の横をピンクのジャージ姿がよぎって行った。
 もしや静花さん――
「その手を放しなさい!」
「久野さん!」
「なんだあ、お前?」
 静花さんはスケボー男達の注目を一気に集めた。内村さん達も当然それに気付く。
「うるせえ――よっ!」
 男のうちの一人が静花さんに向かって腕を振り下ろした。
「ぎゃあああああ」
 静花さんはその腕をつかみ、ここからではよく見えないがおそらく男の手首を内側に思いっきり曲げているのだろう。リストロックってやつか?
 悲鳴を上げている男を地面に払い捨てると、静花さんは横にいたもう一人の男のパーカーの袖に手を伸ばし、もう片方の手で相手の反対側の袖もつかむ。
「えっ……」
 つかまれた男のバランスが崩れたかと思うと、静花さんはそいつに足払いを決めていた。体を地面に強打した男は静花さんが手を放しても起き上がってこれない。
 ――ここまで、ほんの一瞬の出来事だった。
 残った男はうめく仲間二人の姿を見て、静花さんに向かっていけない模様だ。
 ああ、なるほど。今この男は、目の前に突然現れた少女に尋常じゃない恐怖を抱いているのだ。
 俺だって彼女から離れたここにいるのに、それを少し感じている。
 ――彼女が放っている背筋が凍るような何か――殺気、といえばよいのだろうか。
「わ、わかった。俺らが悪かった! あ、謝るよ!
 ご、ご、ごめんなさあいっ!」
 それだけ言うと、倒れた仲間達を無理に起こして男は逃げ出した。背中を、手首を押さえながら残りの連中も去って行く。
 俺は今になって静花さんのところへ駆け寄った。情けない話である……
 静花さんは半ベソをかいている内村さん達をなだめている。
「ありがとう、久野さん……」
 内村さん達は頭をペコペコと静花さんに下げる。俺らは今になって彼女達の所へ駆け寄っていくのだった。
 静花さんは控えめな笑顔で迎えてくれた。
「この前もそうだったけど、久野さんってめっちゃ強いんだね! すげえって本当に!」
 一也はわあっとまくし立てるが、すぐに固まってしまった。さすがのこいつも今の自分のテンションがこの場に合わないことを理解できたようだ。
「い、一応うちが道場ですから……小さい時から稽古をしているので少しはやれます。
 でも、また皆さんの前でお見苦しい所を……」
 一也の発言に対し、静花さんは声をすぼめて説明する。内村さん達に絡んできた男を撃退した本人なのに、どこかバツが悪そうなのは仕方がないことだろう。
 なにせ彼女は自分の強さを学校で披露して周囲を震え上がらせてしまっていたのだ。それに近いことを再びやってしまったのだから、気持ちが落ち込んでいるのも当たり前である。
「何言ってんの久野さん! あなたは私達を助けてくれたんだよ?」
「私らは格闘技とかやってないけど、こういう時に使うのは正しいことなんじゃないかな?」
「うん、すっごいかっこよかったよ!」
 そんな静花さんを励ますかのように、内村さん達は彼女に一歩歩み寄るのだった。
「そうですよ、静花さん。誰かを守る力があるっていうことに、恥じたり負い目に感じることはないです。今もそうだし、あの時だって静花さんは俺を助けてくれたんじゃないですか」
「勇見君……」
 俺は静花さんから渡されたビニール袋を返し、内村さん達に続いた。
 我ながらいいフォローができたと思う。今言った言葉はもちろん本心だ。
 これに近いことを、格闘技を始めた小学生の頃に師範から言われた記憶があるし、やはり格闘技、武道というのは誰かを助けるために使うものだと思う。
「ねえ、久野さん。私ら今からカラオケ行くんだけど、一緒に行かない? 助けてくれたお礼に久野さんの分は私らが払うよ!」
「ドリンクもフードメニューもおごっちゃうよ」
 静花さんは笑顔を見せるも、申し訳なさそうにこう返した。
「お礼なんてそんな……それにごめんなさい。今からお夕飯の準備をしなければいけないので」
「んー、じゃあまた今度誘うね。じゃあ、携帯のアドレス交換しとこうよ!」
「てか夕飯の準備? 偉くない?」
 そんなこんなでアドレス交換会がその場で行われてしまい、我々男グループは完全にその場に取り残されてしまっている感じだ。
 そんな中、一也が俺に耳打ちをしてくる。
「なあ貴之、さりげなく『じゃあ、俺らとカラオケ行こうぜ!』っていうのはありかな?」
「少なくとも、俺だったら絶対にそんなことは言い出せないけどな」
「――うん、やめとくよ」
 さすがに一也も断念したようだ。他二名もそれを咎めるつもりはない様子。
 内村さん達を助けに行けなかった俺達にそんな資格はないと、全員自覚しているのだ。
 ただし、俺は静花さんがこの場に現れなかったら彼女の代わりに男達に立ち向かって行ったことは確実だったと言い訳をしておく。いや、本当に……
 静花さんが一礼して自宅へ帰って行くのと、内村さん達がカラオケに向かって行くのをそれぞれ見送ると、俺達は公園の前で解散するのだった。
「情けねえよな。本当に……」
 誰かを守るための力。それは正しい。
 静花さんに偉そうに言った俺はそれを体現できなかった。
 この日、寝る前に改めてそれを思い起こしてしまい、軽く自己嫌悪に陥ってしまうのだった。

 次の日の朝、登校すると教室が騒がしかった。どうやら、静花さんの周りにクラスのみんなが集まっているようである。
 昨日の内村さん達を助けた件がすでにクラス中に広まっているようで、静花さんは朝から内村さん達を中心にみんなから称えられっぱなしのようだ。
 何となく近づきがたい感じなので俺はそれを横から見るだけにしておいた。
 静花さんは恥ずかしそうにしながらも笑顔をみんなに見せているようで、クラスメイトとの接し方が昨日までとは百八十度変わったことが確認できる。
 今はもう、クラスに溶け込めている。これで静花さんと校内で話せる時間はグッと減ると思うと少しさびしいが、彼女が楽しい高校生活を送れて行けそうなのでけっこうなことだ。
 ――って、俺は何様のつもりなのだろう……

 昼休み、舞花から予想外の呼び出しを受けた。
 学食を利用してみたいから案内しろとのことらしい。
 そんなのクラスメイトにやってもらえと思いつつも断ったりしたら後が怖いので、コンビニで買っておいたパンを手にしつつ嫌々だが案内することに決めた。
「うわ! 何これ、かなり充実してない?」
 今日のメニュー一覧を見て興奮する舞花。そう言うなり、券売機へ突撃しさっさと料理をもらいに並び始めてしまった。
「貴之、あんたは席を取っときなさい!」
 当たり前のように俺に席取りをしておくよう命令する舞花。しかも、並んでいる列から叫ばれ、かなり恥ずかしかった。
 しかたなく俺は昨日と同じ丸テーブルに腰かけ、料理を受け取ったままうろうろしている舞花を手招きする。
「う……」
 舞花の持ったトレーには中華丼(味噌汁、サラダ付)と天ぷら蕎麦が乗っている。身体の割に食い過ぎじゃないか?
「何ジロジロ見てんの? まあいいや、いただきます!」
 そう言うなり舞花はガツガツと中華丼を食べ始める。俺も仕方ないのでパンを開封しかじり始めた。
「おい、食堂の案内くらいクラスメイトにさせろよ」
 食べている途中の舞花に、俺は物怖じせずに抗議をした。最初はしょうがないと思っていたが、さすがに席取りまで図々しく頼まれては腹が立ってくる。
「んや、ふぃきたひこほがあっふぇさ」
「食べながら喋るな!」
 俺が一喝すると舞花は味噌汁を一気に飲み干し、口中を空にしてこう言ってきた。
「いや、聞きたいことがあってさ。静花のこと」
 急に舞花の顔が真面目になる。その大きな瞳で急にこちらを見つめられては、どきっとしてしまう。
 俺もいきなりのことで何と反応していいかわからなかったので、とりあえず話してもらうことにした。
「昨日、静花があんたのクラスの子をチンピラから助けたんだって? ババババーって投げたりひねったりして。なんか、学年中で話題になってるわね」
「ああ、そのことか。うちのクラスでも朝からヒーロー扱いされてるぞ。いや、女子だからヒロインっていうのかな」
「んなことどうでもいいのよ。あんた、その現場にいたんでしょ? 何もできなかったって噂もあるけど」
 そう言うと舞花は、その美少女っぷりを台無しにしてしまうようにガツガツとかっ込んで中華丼を食べ終え、天ぷら蕎麦の器に手を伸ばしすすり始めた。
「まあ、噂通り俺は何もできなかったよ。やっぱ道場の門下生として情けないとか思うわけ? そりゃあ、自分でもわかってるけど……」
 舞花が昼飯時に俺を呼びつけてわざわざ問い詰める内容と言ったら、このことしかないだろう。こいつのことだから何もできなかった俺を咎めるに違いない。
「いや、そりゃあんたが情けないのは事実だけど……あたしが言いたいのは静花のことだって言ってんじゃん」
 舞花はこちらをまた見てくる。今度は、ギロリと睨みつけるといった感じで俺は思わず身を引いてしまった。
 しかし静花さんのこと? いったい舞花は何を俺から何を聞きたいのだろうか。
「ねえ、やっぱ静花は強かった? あんたの目から見てどう感じた?」
 ドンっと手にした器を置くと、再び舞花は真面目な顔で見つめてくる。しかも今度はテーブルから身を乗り出しグググっと顔を近づけてきた。こ、これはやばい……
「あ、ああ……あの時の静花さんはたしかに恐ろしく強いと思った。なんというか、静かだけど鬼のような強さだったって言えばいいかもしれない」
 俺はあの時の率直な感想を述べてみた。あの時の静花さんを見て思った印象は今言った通りである。静かに、確実に、相手をひねり、投げ払った彼女の姿はそれはもうすごかった。
「ふーん。やっぱそうかあ」
 舞花は身を引いて再び天ぷら蕎麦をすする。食べながら何かを考え始めた様子で、先ほどまでとは違いおとなしく食事を進めている。
「なあ、それがなんで……」
 こいつが真剣な眼差しで聞いてきたこと。
 静花さんの強さがどうかということで、それを聞いて舞花はどうするというのだろう。
「あ」
 わかったかもしれない。
 ――静花さん、つまり姉妹である彼女への対抗心?
 こいつのやたら強さにこだわる性格からして、一番身近な同世代の人間である双子の姉に対してそういった気持ちが沸くのは当然だと俺は思ったのだ。
「お前、やっぱり静花さんとどっちが強いかで張り合ってるわけ?」
 パンを口に運ぶ途中でそう言ったら、舞花の動きが止まる。
 やばい。これは地雷だったかも……
「んーとね。昔っから強さは五分五分じゃないかと思うわけよ。父さんからもあたしら姉妹の力量は同じくらいだって今も言われてるし」
 だが、意外なことに舞花はさらりと返してきた。食べるペースを落としてさらに続ける。
「でもね。相性があるのよ、わかる? 私は静花に対して相性が悪いの」
「相性? それってもしかして、ファイトスタイル?」
「――うん。わかってるじゃないの」
 俺も格闘技をやってけっこうになるし、だいたい察しはつく。久野姉妹のファイトスタイルは対照的だと思う。
 舞花とは手合わせをしたことがある。静花さんに関しては一也から聞いた転入初日の話にあった情報とスケボー男達を撃退している一瞬の場面を見ただけだが、舞花が姉妹の相性を悪いといったことでわかったのだ。
 簡単に言えば久野姉妹のファイトスタイルは、舞花は打撃系、静花さんは投げや間接技を用いる組み技系に分類されるということだ。
「静花につかまれたら、まず逆転は無理なの。悔しいんだけどね……」
 そりゃあそうだろう。あの一瞬で繰り出した関節技や足払いを見たら、俺だってそう思ってしまう。
「お前って寝技とかできないの? 防御の技術とかさ……」
「寝技の防御? 相手につかまれたら、力で無理矢理引っぺがせばいいんじゃないの?
 ていうか、こっちが不利な体勢になる前に殴り倒せばそれで済むってのがあたしのポリシーなんだけど」
 ああ、ダメだこりゃ。こいつのあまりにもストレートな性格ならこんな解答をするんじゃないかと予想したが、まさか本当にそうくるとは……
「あのなあ、間接技や絞め技はそんな力任せじゃ防ぎきれないんだぞ?
 昔から言うだろ。柔よく剛を――」
「うっさい! たとえばチョークスリーパーをかけられたって、持ち上げてから体重を乗せて叩きつけてやればいいの! あと、今日は稽古だから家に帰ったらすぐ来なさいよ!
 いいわねっ?」
 そう吐き捨てると、舞花は勢いよく立ちあがって食堂から出て行ってしまった。俺はあいつが置いていった空の食器を返却してから教室に戻ることにした。
「はあ……」
 よくよく考えれば、転入してきた双子の美少女姉妹と連日食堂で昼食を一緒にするなんて、校内中の男子生徒を敵に回してしまいそうな経験を俺はしてしまったわけだ。
 それなのに、ほとんど胸が弾むようなものではなかったのが悲しい……
 そんなことを思いながら教室に戻る途中、他の男子生徒からの視線が痛かったのをわずかながら感じたのだった。

 学校も終わり舞花の命令通り道場へ向かう。
 だが、道場に舞花の姿はなく出迎えてくれたのは静花さんだった。
 今日は淡い水色のジャージ姿で、これも非常に似合っている。
「すいません。舞ちゃんったら、ちょっとロードワークしたい気分だとか言って、さっき出てっちゃいました」
「あいつ……」
 自分から道場に来いと言っておいて、どこまで自分勝手なのだろう。これでは入門者が俺しかいないのも納得というものだ。
「勇見君が来たら、準備運動とウォーミングアップをしておくように伝えてと舞ちゃんは言ってたんですけど……すいません、私からも注意しておきますから……」
 静花さんは申し訳なそうに妹のわがままについて謝ってきた。これではあからさまに不機嫌な顔を見せることなど俺にはできない。
 しかたないので俺は黙々と準備運動を行った。
「静花さんは柔道技が得意なんですか?」
 準備運動を終えてなんとなく手持ちぶさたになった俺は、道場の用具を整理していた静花さんに、軽い気持ちでこんなことを聞いてみた。俺が直接見た静花さんの放った技に足払いがあったが、これは柔道の技にあるはずだ。
「まあ、得意といえば――そうかもしれません。少なくとも打撃よりは……」
 突然聞かれて静花さんは少し驚いた様子だったが、ちゃんと答えてくれた。
「久野流格闘術にも組み技の攻防があるんですね。てっきり打撃がメインの格闘技かと思ってました」
「久野流格闘術っていうのは、色々な武道、格闘技を経験していた祖父が思いつきで開いた流派ですから、基本的に雑種の格闘技だって父さんの知り合いから言われました。実際その通りなんですよね」
 なるほど、雑種か。いい呼び方かもしれない。
「じゃあ、寝技とかも当然あるわけですか」
「はい。柔道、ブラジリアン柔術、サンボ、レスリングとか、打撃の無い格闘技の研究も昔から祖父はしていましたからね。あと、痴漢撃退用の護身術も取り入れていると聞きました」
 うーん。これでは雑種というより闇鍋のようである。
 とはいえ、一瞬にして男二人を地に伏せ、さらにあの舞花の暴走を止めてしまう静花さんという実践者がいるのだから、決して侮ることはできない。
 ここで俺の中に、静花さんの腕前への興味が沸いてきた。
 組み技については、週一で体育の授業内で柔道をやっているだけの経験しかないが、純粋に静花さんの技を体で受けてみたいと思ってしまっている。
 そのくらい俺が生で見た静花さんの技は鮮やかだったのだ。
「静花さん。俺をちょっと投げてみてくれませんか?」
「え?」
 相次ぐ俺の突然の言葉に、静花さんはとうとう声を出して驚いてしまった。
「体育で柔道をやっていることもあって、けっこう興味があるんですよ。投げ技に」
「そんな……」
「俺なら大丈夫ですよ。クラスでも上手い方ですし、組み手ではいつも柔道部の連中とやってます。きちんと受け身はとれますって」
 そう。自分で言うのもなんだが、俺はクラス内でも柔道をやれば上位に入る自信がある。
 格闘技経験があることを知られているため、投げの練習や組み手の時には柔道部がいつも相手をしているのだ。そのため、週一の授業とはいえ鍛えられていると思っている。
「じゃあ、少しだけ……」
 そう言うと静花さんは俺がさっき道着に着替えた小部屋に入っていった。もしかして、彼女もあそこで着替えるのだろうか?
 そんなことを思うとドキドキしてくる。健全な男子高校生なら、クラスメイトの女子と着替えに使う部屋を共有しているなんてわかったら、もう……
「お待たせしました」
「おお……」
 ガラリと小部屋のドアが開くと、そこから出てきたのは道着姿の静花さんだった。
 よく使い込まれていると思われる道着に身を包み、少しもじもじとしているその様は非常に愛らしいし、何より新鮮である。
「じゃあ、ちょっと投げてみますね」
「お、お願いします!」
 お互いに礼をして、さっそく組み合う。
 とりあえず右足を踏み込んだ瞬間、顔が静花さんの方に引き寄せられた。
「あ、これ……」
 いつか感じた甘い果実を思わせる香りがふんわりと感じられた。そして、それは本当に体が宙に浮くようで――
「ぐふ!」
 いつの間にか俺は床に叩きつけられていた。そうか、投げられてしまったんだな。それはもうふんわりと……
「ああ! 勇見君、大丈夫でしたか?」
 静花さんは身をかがめて俺の心配をしてくれる。そんな彼女を見上げているこのアングルはなかなか素晴らしいと思ってしまう。
「は、払い腰でしたか? 今のは」
 さすがに、シャンプーは姉妹で同じのを使っているんですか? とは言えなかった。
「はい」
 体を静花さんに一瞬で引き付けられ、決められたのは払い腰だった。相手の上半身をきちんと引き付けてしまえば、力を使うことなく投げられると体育教師が言っていたがまさに静花さんがやったのはそれだった。
 俺は身を起こし、改めて彼女の技のすごさを称賛する。
「すごいですね。投げられてみてわかったけど、うちの柔道部の奴より綺麗に投げたんじゃないですかね」
「そんな……私なんかまだまだですよ」
「謙遜しないでくださいよ! じゃあ、他の技もかけてもらっていいですか?」
「わかりました。しっかり受け身とってくださいね?」
 静花さんは照れ臭そうな顔をしながらも、そう言ってまた俺と組んでくれた。
 そこから先はもう圧巻だ。
 あの日見せた足払いや、内股、大内刈りに小内刈りなどを続けざまにくらい、最後には豪快ながら綺麗に、一本背負いまで決められてしまった。
 静花さんの申し出で投げられないように頑張ってみてくれと言われたが、健闘空しくほいほいと投げられてしまう俺。体格差と男女という性差を利用し、つまりは腕力でどうにかしようとするも、やはり投げられてしまうのだ。
 変な言い方をすれば、俺はもう彼女に身をゆだねるしかないといった感じで……
「じゃあ、これくらいにしておきましょうか」
 俺の息がかなり切れ切れになっているのを静花さんは察したのか、そんなことを言ってくれた。恐ろしいことに彼女はほとんど汗をかいた様子がない。
 ああ、これぞ柔よく剛を制すだと身をもって感じる。
「それじゃあ、最後にもう一度だけ。今度はもう少し粘ってみますから」
「ふふふ。そうですか」
 しかし俺もどこか意地になってきてるのか、最後の一本を申し出た。静花さんも楽しそうにしてそれを受けてくれた。うん、本当に彼女は優しい人だ。
 俺と静花さんがそうして四つに組んだ時、道場の入口から大声が聞こえた。
「あーっ! あんたら、何やってんのよ!」
 それは、ロードワークから帰ってきた舞花だった。道着姿の俺、そして静花さんを目にして、どうやらいきり立っている様子である。
 ちなみに舞花はロードワーク用なのかはわからないが真っ赤な色をした軽そうなジャージを着ている。
「ウォーミングアップしとけと言ったけど、勝手に組み手しろとまでは言ってないんだから!」
 そう怒鳴る舞花に俺は何か反論しようとしたが、先にムッとした表情をして返したのは静花さんだった。
「舞ちゃん! 勝手なのはあなたの方でしょ?
 勇見君を稽古に呼んでおいて、自分のロードワークのために待たせた舞ちゃんの方が悪いわ」
「何よ静花ったら。あたしの相手はしないくせに、新しく男が来たらそいつとポンポンやっちゃうわけ? この尻軽女! 泥棒猫! アバズレ! 雌豚!」
 舞花は静花さんの反論に聞く耳持たずといった様子で、すさまじく誤解を生みそうな言い方で激しく言い立ててきた。
「舞……ちゃん」
 さすがにそれは言い過ぎだろうと俺も割って入ろうとしたが、横から強烈な殺気を感じたため動きが止まってしまった。
 背筋が冷たくなり横を向くと、殺気の出所はやはり静花さんだった。
「あのー、静花さん?」
「わかったわ、舞ちゃん。一本くらいなら相手をしてあげる……」
 やばい。静花さん――完全にキレている……
 転入初日、周囲を震え上がらせた殺気とはまさにこれのことなのだろう。
「とりあえず、グ、グローブはめましょうよ! なんなら俺が審判をやりましょうか?」
 しかし、ここで何もしないのは男ではないと俺は思い、こんなことを申し出た。
 止めるのは完全に不可能な状況なので、せめて安全のための配慮をしようととっさに思ったのだ。昨日の件のように、何もしないままでは男がすたりっぱなしである。
「私達姉妹の組み手に、そういったものはいらないんです。お気遣いなく」
「そーよ。あんたはどいてなさい」
 だが、俺の申し出は双子の姉妹にステレオで却下されてしまった。
 静花さんは極めて冷静な声でボソッと、舞花は手首をグリグリと回しながら実にワクワクとした様子でそれぞれ言ったのだった。
「は、はい」
 異様な空気に圧倒され、俺は道場の壁際による。くそっ、情けない……
「えりゃあああああ!」
 そうこうしているうちに舞花が静花さんに襲いかかった!
 数歩駆け寄ったところで舞花は勢いよく飛び上がり――
「飛び横蹴り?」
 某変身ヒーローが見せるジャンピングキックを、舞花は見せたのだった。
 静花さんは上手くそれをガードして、着地した舞花を掴みにかかろうとするも、舞花はまるで猫のように低い姿勢のまま横っ飛びをした。
 それを追う静花さんだったが舞花はすでに攻撃態勢を整えており、静花さんのボディに強烈なパンチを見舞った。
「くう……」
 グローブも何もつけていない裸の拳、それが腹に叩き込まれるのだからたまったもんじゃない。しかも、とんでもない速さでそれが来るのだから、想像しただけで恐ろしい……
 苦悶の表情を受けながら静花さんは舞花に手を伸ばす。
 ジャージの襟に伸びた手を舞花はチョップで払いのけると、ローキックを放つ。
 そのまま静花さんの横に回り、顔めがけてジャブ。これは軽めに打ったように見えた。
 静花さんはジャブをさばくと今度は相手の袖を取ろうとしたようだった。シャッと手を振るが舞花が上体をのけ反らせながら前蹴りを腹部に放ってきたためそれは叶わなかった。
 放った足をすぐさま下ろし、またジャブ。静花さんは舞花に組めずにいる。
「舞花が打撃で優勢? いや――」
 固唾を飲んで見ていた俺は、どっちが戦いを有利に進めているか考えてみることにした。
 普通に考えれば、バンバンと得意の打撃を出して相手の攻撃を許していない舞花がリードしていると見られるだろう。
 だが、舞花と手を合わせてきた俺はどこか違和感を覚えるのだった。
「はあっ!」
 また舞花は前蹴り。今度は腹部より下、静花さんの股関節の辺りを狙って放ったようだった。
 ああ、やっぱりそうだ。
 舞花は静花さんに絶対に袖や襟を取られまいと、警戒をしているのだ。
『静花につかまれたら、まず逆転は無理なの。悔しいんだけどね……』
 あいつとの学食での会話でそんなことを聞いた気がする。
 組み技の姉と打撃の妹、打撃に偏った妹は姉に対して相性が悪い。それを舞花本人の口から俺は聞いていたのだ。
 今、舞花が放っているジャブや前蹴りも相手を倒すためのものではない。相手につかまれないため、距離を取るために繰り出しているのだ。
 俺とやった時のような、思いっきり踏み込んだフルスイングの打撃では空振りした時などにつかまれるリスクが大きいから迂闊には出せない。
 その証拠に、舞花らしい勢いのある攻撃は最初の飛び蹴りしか放ってはないではないか。
 手数は舞花の方が多いが、相手を追い込んでいるのは静花さんなのかもしれない。
「あ――」
 お互いに手を出さなくなった状態が少しだけ生まれた。
 このままジリジリと距離の取り合いになるかと思ったのだが、静花さんが動く。
 腰を落とし一瞬のうちに舞花の懐へと飛び込むと、両腕で舞花の足を抱え込んだ。
 舞花はそのまま倒されてしまい、体をバタつかせるも静花さんに馬乗りになられてしまった。
「ああああああ!」
 必死に抵抗をして脱出を試みるもついに静花さんが攻撃を始めた。
「いででででででっ!」
 右手で舞花の腕をつかみ抵抗を無力化し、左手で舞花の頬をぎりぎりとつねっている!
 つねり攻撃はシンプルだが非常に痛い。あらゆる格闘技で禁止されていると言っても過言ではない、個人的には噛みつきと金的などに次ぐ究極の反則技ではないかと思っている。
「ギュブ……ギブギブ! まいったあっ!」
 舞花がそんな悲鳴を上げたところで、静花さんは手を放して舞花から離れた。
「さあ、舞ちゃん。勇見君と私に謝りなさい」
「ご、ごめん……」
 静花さんに言い付けられて、舞花はシュンとしながら謝罪をした。つねられた頬をさすりながらで、その姿はあまりにも痛ましく感じてしまう。まあ、こうなった原因は他ならぬこいつ自身にあるから自業自得と言えるが。
「――着替えてくる」
 舞花は頬をさすりながらそう言って、母屋の方へと姿を消した。
「ごめんなさい。お見苦しいところを見せてしまいましたね」
「はあ……」
 そう言った静花さんから殺気は消えていて、いつもの笑顔に戻っている。
 もしかしたら、本当に怖いのは舞花より静花さんなのかも知れないと、この時俺は確信したのだった。
「もしかして、静花さんって舞花よりずっと強いんじゃないですか?」
「組んだり、寝技に持ち込めば私が有利になりますけど、基本的に私と舞ちゃんは同格ですよ。今だって舞ちゃんがリスクを恐れずに飛び込んできたら私が負けていたと思います。
 舞ちゃんのスピードに、私は対応しきれませんから……」
 静花さんはさらりとそう答える。言われてみれば、舞花の攻撃をさばいた手を気にしている様子だし、息も上がり気味のようだ。
「あと、久野流格闘術ってつねり攻撃もありなんですか?」
「祖父の記録では、噛み付き攻撃や頭突きよりも便利だとありました。なんでも柔道の達人と喧嘩した時にこれで窮地をしのいだとか……でも、こんな攻撃、私は舞ちゃんにしか使いませんけどね」
 静花さんはまたニッコリと笑った。うん、俺は絶対に静花さんからつねられたくはない。
「それにしても、あれだけやられてからじゃ、あいつも今日の稽古はやりづらいでしょうね」
「そうでもないですよ。舞ちゃんって切り替えがすごく早い子ですから」
「ああ――」
 たしかにあいつの性格ならわからないでもない。そして、静花さんの方も何というか、オンとオフの切り替えが早いと思ったのが、それは胸にしまっておくことにした。
「おーし貴之! 稽古を始めるわよ!
 もうウォーミングアップは終わってるんだから、すぐミット打ち!」
 道場のドアが開き、道着を着込んだ舞花が威勢よく声を上げて入ってきた。
 静花さんにつねられた頬はまだ赤いが、完全にいつもの舞花に戻っていたのには俺も感心をしてしまう。
 もちろん、この日の稽古も壮絶を極め、帰る頃にはへとへとになってしまった。
 
 この日は職員会議だかなんだかで授業が早めに終わり、その分稽古も早く始めることになった。俺は舞花と準備運動を終えいつものようにミット打ち。静花さんは道場の外を掃除している。
 それにしても、ここの正式な道場主である久野流格闘術現総帥――つまり姉妹の父親はなぜ道場にいないのだろうか?
 さすがに不振に思って今日の稽古前に静花さんに聞いたのだが、やはりバイトとのことらしい。いくら門下生がほとんどいなくて経営が厳しいとはいえ、こうもバイトに明け暮れていていいはずがないだろう。
「おぉい! ちゃんと集中っ!」
「グへッ!」
 道場主の不在をまだ頭に入れたままミットを殴っていた俺の腹に、舞花は前蹴りを飛ばしてきた。ガードがまったくできず、まともにくらってしまったため俺はその場にうずくまる。
 鋭く、迅速に、一点を狙った素晴らしい前蹴りだった。腹部を襲う、突き刺さるような痛みがそれを証明している……
「こんにちは」
 そんな俺の耳に、聞きなれない声が入ってきた。道場の入り口の方からか?
 立ち上がり痛む腹部をさすりながら声のした方を確認すると、そこには俺より少し上くらいの歳に見える青年が立っていた。
 背丈も俺よりも高く、黒のジャケットとVネックのシャツを着込んで不敵な笑みを浮かべている。まさか道場破りというわけではないだろうが……
「何よあんた。格闘技やってんの? 道場破り? それなら歓迎なんだけど」
「舞ちゃん! 違うわよ! この人はお客様で――」
「そう、そんなことはないですよ。でも同業者ということは確かですが……」
 急に嬉しそうになってミットを外し始めた舞花を、静花さんが止めに入る。そりゃそうだろう。変な奴を掃除中の静花さんがすんなり通すとは考えられない。
 それにしても同業者? 青年はどこか尊大な態度で話を続けた。
「今度駅前に格闘技の道場がオープンするんです。私はそこの関係者の者で、近所の同業者さんに……あ、僕の名前は水原高春(たかはる)と申します。お見知りおきを」
「え、駅前の道場? それってあの五階建ての?」
 それを聞いて声を上げたのは俺だった。
 駅前で格闘技の道場っていったら、あのフィットネスクラブのような建物のことなのだろうか。近日オープンの張り紙と、自宅に投函されたチラシでその存在は知っていたが、その道場の名前って――
「おお、すでにご存じのようでしたか。剛王館(ごうおうかん)の中でもかなり大きい部類に入るんですよ」
 やっぱりそうか。
 剛王館といえば、日本の格闘技人口を底上げしたと言われるくらい全国に広まるメジャーな道場だ。もともと空手の道場としてスタートしたのだが、現在ではテレビで見ることができるプロ格闘家も多く輩出している、というかそういった選手達が活躍している様々な大会を主催しているとんでもないところだ。
 幼稚園児からお年寄りまで門下生は幅広く、アマチュアの大会もたくさん催しており、俺が昔出ていた大会も剛王館が主催だった。さらには女性向けのフィットネスや、サウナスーツにトレーニング用品のブランドまで持っており、現在は道場というよりも格闘技の総合商社と呼んだ方がいいだろう。
 ともかく、そんな一大メジャー道場の支部が近所にやってきたということは、この久野流格闘術道場は大ピンチに違いない。
「あの、水原ってもしかして館長さんの名前じゃ……」
「そうですよ。館長である水原高慈(こうじ)は僕の父です!」
 名字でピンと来たのだが、やはり館長の息子だったか。と、なるとやはり彼は次期館長ということに……そう思うとなんだかすごいぞ。
 なにせ、この国の格闘技事情を語る上で無視することができない、剛王館の頂点に君臨するなんてセレブ決定ではないか。
「ちょっとちょっと! 総帥代行のあたしを差し置いて話をしない!」
 いつ総帥代行になったかは知らないが、舞花が突然割って入った。どうやら置いてけぼりにされていたのに耐えられなくなったようで、俺と水原高春の間に飛び込んできた。
「あたしは久野流格闘術総帥代行の久野舞花よ。総帥である父が不在なので挨拶ならあたしにするがいいわ」
「あ、そうですか。あなたが……ねえ」
 彼は舞花の名乗りを受けて、舞花の姿をジロジロと見る。自分よりずっと背の低い少女を前にして苦笑を隠せないといった表情をしている。
「見ての通りあたしは門下生と稽古中だったわけ」
「ほう。この道場ではプライベートレッスンを行っているんですね。門下生の多いうちではなかなか難しいんだよなあ」
「ちがうわよ。今のところ一般クラスの門下生はこいつ一人だけなの」
 舞花はそう言って堂々とした態度を取る。
 なぜ自信満々なのだろう。というか、俺を指さすな。
「はあ……」
 水原高春はそれを聞いてため息を吐いた。そりゃそうだろう。全国トップの剛王館からしたら、こんな小さな町道場なんて蟻んこみたいなもんだ。
「あ、あとキッズクラスにも三人いてね! みんな覚えも早くてすごいんだから!」
「へえ……」
 もはや彼はため息と相槌が一緒になってしまっている。こっちも見ていて辛い状況だ。
「まあ、これから本格的にうちがこの町で活動を始めたとして、どのような形になったとしても恨まないでもらいたいですね。競争社会ですからそこは覚悟をお願いしますと、総帥に伝えておいてください」
「は? それってどういうことよ?」
 説明する必要はないでしょうと言った顔で、水原高春は舞花を見下ろしている。憐れみと嘲りが混じったような、人を嫌な気持ちにさせる目つきだ。
 そういえばこの水原高春という男、さっきからどこか喋り方が嫌味で、俺でも少しピクッとしかねない。剛王館館長の息子ということを鼻にかけている節が感じられる。
「言っとくけどねえ。久野流格闘術は最強よ? あんたのとこには数では負けてるかもしれないけど、戦ったら負けないんだからね!」
「ほほう……。ならば、道場対抗戦でもやります?」
「ちょっと舞ちゃん!」
 うわ、なんだこの展開は。すごく嫌な予感が……
「ああ、言ったわね? 言ったわね? 言ったわねえ?
 ねえ貴之も聞いたでしょ? 聞いてたわよね、今のこいつの言葉!」
 俺に振るな。確かに聞こえたが。
 興奮した舞花は俺の返答も聞かずにさらに続ける。
「あたしがこの拳で、あぐらをかいてるあんたら剛王館を蹴り飛ばしてやるわよ?」
 拳で蹴り飛ばすとは日本語がおかしくないか。だが、舞花の言葉に対し水原の方もまったく臆せず返してきた。
「けっこうですよ。やはりこんな小さな道場とはいえ、この町での競争相手になるのであれば早めに叩き潰しておきますかね。まあ、巨象に向かう蟻がどうなるか結果は火を見るよりなんとやら……」
 うん。こいつもどこか決定的に性格に問題があるな。さしずめ嫌なおぼっちゃまキャラといったところか。
「あの、待ってくださいってば!」
 ここで二人の間に割って入るのは常識人の静花さんだ。争い事を基本的に好まない彼女なら止めに入るのも当然か。
「そんな。勝手に対抗戦だなんて――」
「ご安心を。まだ僕は高校三年生ですが、剛王館内での権限はそこらの支部長よりも強いですから」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
「静花! 久野流格闘術としては売られた喧嘩は買うのが信条でしょ! 総帥代行として対抗戦の申し出を今ここで受諾します!」
 対抗戦についてその場でがんがん話を進めている二人に挟まれ、静花さんはおろおろしているばかりだ。俺も話に入って彼女を手助けしてあげるとしよう。
「おい舞花。対抗戦をやると決めたはいいが、この道場はまだろくに人数がいないだろ」
「何言ってんの、あんたとあたしと静花がいれば充分よ!」
 最悪だ。
 人数不足というそもそもの大問題を突っ込んでみたら強烈なカウンターをくらった。いや、『対抗戦』という単語が聞こえた時点で薄々気づいてはいたがまさか本当に……
「それでは、対抗戦の詳細については後日改めて決めましょうか。総帥にもこのことはよろしくお伝えください。またお会いする時を楽しみにしていますからね……では、さようなら」
 そう言うと水原は一礼をしてから道場から出て行った。
 静花さんは無茶を言い出した舞花に説教を始めているが、もちろん舞花は聞く耳を持っていない。水原も乗り気になっている以上、もはや静花さん一人がいくら頑張ってもこの流れは止まらないだろう。
 こうなったら、この道場の、そして久野流格闘術の総責任者が首を横に振るのを期待するしかない。
 つまり、今の俺は相変わらず無力。まだ見ぬ久野流格闘術総帥に、常識的な判断をしてもらうことを祈る他なかったのだった。

3.

 水原が道場に来てから二日後。今日は日曜日だ。
「――そうですか。わかりました。はい、問題ないです」
 朝食後、静花さんから電話がかかり俺は道場に行くことになった。対抗戦のことについて総帥――つまり二人の父親から話があるというのだ。
 ついに久野流格闘術総帥と顔を合わせることになった。この日が来るまで入門した道場の責任者と話すどころか、姿すら見ていないなんてずっと異常だと思っていたがついにその時がやって来たというわけだ。
 いったいどういう人なのだろう。年頃の娘二人に道場をあずけ、ほぼ毎日バイトに明け暮れているなんて、どうにもまともな人とは思えない……
「やっぱ、怖いよなあ」
 自転車をこぎながら色々と想像をしてみたが、最悪のパターンはどちらかというと舞花寄りの親父さんということだ。
 我こそは最強也、我ら久野流格闘術こそ最強の証也。といった感じで、目の前の敵を容赦なく屠らんとする地上最強の生物路線の人だったとしたらどうしよう。
 だったら対抗戦にも駆り出されてしまうのは必然だろうし、断ろうとすればどんなことをされるのかと思うと恐ろしくなる……
 どうか同じ娘でも、静花さん寄りの人間であることを願ったところで、もうすっかり見慣れた久野流格闘術道場が見えてきたのだった。

「父は母屋の方にいます。日曜日なのにお呼び立てしてすいません……」
「いいんですよ。俺も総帥に会ってみたかったですし」
 いつも通り笑顔で出迎えてくれた静花さん。舞花の方はダミー人形をボコボコにすることに集中しているため、こちらに挨拶一つない。さしずめ対抗戦へ向けた特訓中といったところだろうか。
 夕食をご馳走になった時と同じ和室に案内されると、そこには全身が鋼のような筋肉で覆われており、丸太と見間違えてしまう太い腕、地獄の鬼も震えて逃げ出す修羅の形相をした大男――ではなく、いたって普通の男性が座っていた。
「こんにちは……」
「おお、君が勇見君か! はじめまして、俺が久野流格闘術総帥、久野竜平。今後ともよろしくね! あ、竜平はドラゴンの竜に、平べったいの平って書くんだ。久野流格闘術だけに久野リュー! とか言ってね。――オホン、まあ座ってくれよ」
 異様にノリが軽いその男の人は、俺が座るなりグイッとテーブルの上に置いてあったお茶を飲み干した。挨拶と共に飛ばした冗談が不発だったため少し恥ずかしそうにしている。
 それにしても、イメージと全然違う。鬼どころか、格闘技をやっているようにも思えない普通のお兄さんといった感じなのだ。中年、壮年というよりは完全に青年と呼んだ方が自然で、おそらくそれは娘達と同じ非常に整った顔立ちをしているからなのだろう。
 もう九月も下旬に差し掛かるというのにこの人はアロハシャツを着ているのだが、そこからのぞく腕も俺と同じくらいの太さでほっそりとしている。
「あの、総帥はおいくつなんですか?」
「ん? ああ、今年で三十五になるよ。それに総帥なんて呼び方はしないで、親しみを込めてリューさんって呼んでくれたまえ」
 うわ。すると大学生くらいの歳ですぐ姉妹を授かったというのか? うーん……
「じゃあ、竜平さんって呼ばせてもらいます……。今日はいったい何のお話で?」
「ああ、勇見君にご挨拶がしたくてね。この度は我が久野流格闘術に入門してくれてありがとう! あと、うちの舞花が転入初日にご迷惑をおかけしたみたいでゴメンね!」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします。まあ、舞花の奴から迷惑受けてるのは転入初日に限った話じゃないですけど……」
 しまった。
 ついつい舞花への愚痴をこぼしてしまった。しかも、父親の前で呼び捨て……
 竜平さんはこちらをジーッとこちらを見ている。や、やばいかもしれない。
「あはははは! 言うねえ! いやあ、そこのところは本当に申し訳ない。
 でも、根は悪い奴じゃないんだよ」
「はあ……」
 とても三十五歳の大人とは思えない感じで竜平さんは無邪気に笑う。
「それにしてもね、勇見君は今時見上げた根性を持った若者だよ。なし崩し的に入門したのに、よく根を上げずに稽古に来てるよね。ぶっちゃけ、俺なんかより全然!」
「あ、ありがとうございます。でも、道場の責任者がそんなこと言っていいんですか?」
「いやあ。俺なんて格闘技の道場やってる家に生まれて、後を継げば就職考えなくてラッキーとか思ってたからね。ほんと、そんなノリだよ。
 まあ、今は経営が大変で連日バイトの日々だけど……」
 たははと竜平さんは笑う。姉妹のどちらかに似ているのかと思っていたが、どうやら顔立ちが整っているとこ以外は全然似通ったところがない人だった。
「どうだい、学校であいつ等は上手くやってる? あ、これは父親として聞いておきたいってことなんだけど。たしか静花とは同じクラスなんだよね?」
 俺が言葉に詰まっているのを察したのか、竜平さんはさらに話を振ってきた。
「静花さんはすっかりうちのクラスに溶け込んでますし、舞花も――いや、舞花さんもクラスのみんなと腕相撲したりして毎日楽しそうですよ」
 それを聞いて竜平さんはうんうんと頷いている。父親なのだから、やはり娘の学校での様子が気になるのだろう。
「そうかあ、それならよかったなあ。
 で、話は変わるけどさ。勇見君はぶっちゃけ、どっちが好みなのよ?」
「――ぶっ! ゲホッ……ゲッ!」
 突然そんなことを聞かれ、飲もうとしていたお茶を噴き出してしまった。
「うちの姉妹はどっちもタイプが全然違うと思うんだけどさ。勇見君的にはどうなの?
 親馬鹿じゃないけど、どっちもなかなかのもんだけど思うんだけどなあ」
 わかる、それはわかる。久野姉妹は間違いなく美少女姉妹だ。それは疑いようがない。
「いや、それは……。どちらも素敵なお嬢さんで――」
「おおっと、そう逃げるのかあ? 男らしくないぞ勇見君!」
「もう、お父さん! 何を言ってるの!」
 いきなり静花さんがふすまを開けて入ってきた。片手でバランスよくお盆を掲げ、上にはお菓子が乗っている。
「ははは、すまんすまん。やっぱ娘達と同年代の男の子には聞いておきたくてなあ」
「まったくもう……」
 静花さんはプリプリと怒りながら、俺と竜平さんの湯飲みにお茶のおかわりを淹れてくれている。それは非常に慣れた手付きで、こういった姿を見せられたらやはり男は――
「静花はこうやって家庭的だからいいんだよ。ほっといても男は見つかるさ。
 でも舞花の方は、顔は抜群だけどあの性格だろ? だから勇見君にはあのじゃじゃ馬を任せたいかなあなんて……」
 ガチャーンと音を立てて静花さんが急須をひっくり返した。俺も一緒にひっくり返ってしまいそうになる。いったい何なんだこの人は……
「いい加減にしてくださいよお父さん! そんなことより、勇見君に例の話はしたんですか?」
「ああ、対抗試合のことね。静花はせっかちさんだなあ……」
 彼女の登場により話は正常な方向に戻り、一番聞きたかったことについて聞くことができそうだ。
「単刀直入に言うよ勇見君。今回の対抗戦の話、うちとしてはやる方向で決めたんだ。
 剛王館側も是非かかってこいとのことでね、当日はうちの道場でやることになりそうだよ」
「ええ?」
 俺は静花さんの方を見たが、彼女は俺と目が合って無言でペコリと頭を下げた。止められなくて申し訳ないってことなのだろう。なんてこった……
「うちからは舞花と静花が出るのが確定で、勇見君は自由参加ってことでいいんだけど、どうする?」
 竜平さんはさらりと言うが、本当にやるのか? どうやら出場を強制される流れではなさそうなのがありがたいが……
「ちょっと待ってください。俺が出る出ない以前に、剛王館と本当に戦うんですか? よく向こうが受けましたね」
 そうだ。久野流格闘術側は、すでに無茶苦茶やる気の舞花と、ノリの軽いこの竜平さんが勝負をすると決めてもおかしくはない。だが剛王館は全国に名を轟かす一大組織だ。いくら館長の息子である水原高春が言い出したこととはいえ、易々と看板の名に影響が出るような対抗戦をするとは思えない。
「俺と剛王館の館長って、実は昔っからの悪友でね。一昨日の夜に電話してみたらあいつもすごいノリ気でさ。是非やろうってんだなこれが!」
「ええ? あ、悪友って……」
「そうなんですよ。私達姉妹も小さい頃に何度かあったことあるんです。お父さんより迫力はあるけど、とっても気さくな方だったと覚えています」
 横から静花さんがそんなことを教えてくれた。ついていけない部分があるが、どうやら話は対抗試合をやることが確定したってことは変わらないようだ。
「あっちは女子のトップクラス呼ぶって言ってたけど、勇見君が出るなら男子も出すって――まあ、十中八九あのバカ息子だろうけどね」
 水原高春か。他人をイラつかせることに関してはなかなかのものを持ったあの男が相手なら――って、俺はまだ出るとは言ってないぞ!
「無理強いはしないよ。もし勇見君が出ないと決めて舞花がそれに反対しても、俺が父親としてビシッと言い聞かせてやるから安心してくれ」
 竜平さんはちょっと真剣な面持ちでそう言った。うん、ここはやはり辞退の方向で――
「それじゃあ……」
「よしっ! 試合は次の土曜日だから、明後日くらいまでに決めてくれればいい!
 だから勇見君、今はこれで勝負だっ!」
 竜平さんは俺の返事に聞く耳も持たず、後ろの方にあった黒い物体――ゲーム機を持ち出した。勝負ってまさか……
「舞花は負けると機械に八つ当たりするし、静花は家事が忙しくて暇がないし、ここ最近対人戦やってないんだよ! あ、格ゲーだけどできるよね? ダメならレース系もあるよ」
「はあ、それならまあ……」
 唐突にゲームを持ち出されたが、俺は受けてしまった。ゲーセンにはよく行く方だし、格ゲーはもちろんやる。はっきり言ってこういう勝負なら歓迎である。
「じゃあリビングに移動だ! 静花が昼飯作ってくれるから、それまで徹底的にやるぞ!」
 仕方ない、返事はゲームが落ち着いてからにすることにしよう。

「あー、負けたっ」
「竜平さん、そんな投げばっか狙っちゃバレバレですって」
 仲間内でもゲームの腕は真ん中くらいの俺と、竜平さんは五分五分といったところだった。ただ、やたらこの人は投げ技ばっか狙ってくるので、俺は対投げ用の返し技に終始するだけで勝率を伸ばせてしまっている。
 竜平さんが言うには、昔の格ゲーは投げ技が最強最悪だったらしい。
「くそ……勇見君、俺はキャラを変えるぞ?」
「はいはい」
 本当にこの人は三十五歳には思えない。今だって、まるで学校の先輩と遊んでいるような感じだ。
 キャラ変更後は逆に俺の方が押されがちになり、こっちも少々熱くなってしまう。
「うぬっ。勇見君、このコンボを防ぐとはやるな!」
「このキャラ、近場のゲーセンでも使用頻度高いんで対策はわかってますって!」
「二人共、ご飯ができましたよ」
 投げ一辺倒だった戦法をやめた竜平さんはなかなかやる。俺の使用キャラは空中で隙が出やすいためそこを狙われてしまう。
「ああ、またっ!」
「はっははあー! 今度は俺の勝ちだなあ」
「あの、ご飯が……」
「キャラ変更はいいです。このままいきましょう」
「おお、熱くなってきたようだね勇見君。ガンガン来なさい!」
「…………」
 ピッという音とともにテレビの画面が暗転した。
「アアアアア!」
 後ろを振り返ると、静花さんが仁王立ちしている。片手にはリモコンを握っているようで彼女がテレビを消してしまったようだ。
「もう! ご飯ができたって言ったでしょ! 冷めないうちに食べちゃってください!」
「はい……」
 この時の静花さんは鬼の形相とまではいかなくとも、大の男二人を一瞬にして従わせてしまう迫力があった。間違いなく、いいお母さんになることだろう。
 テーブルには焼うどんが盛られた皿が四つ並んでおり、香ばしい醤油の匂いが食欲をそそる。静花さんの手作りならばこれも絶品に違いない。
「ああ、お腹空いたあ!」
 そして、どすどすと音を立てながら舞花が登場。汗に濡れたTシャツ姿で、年頃の男子としては目のやり場に困ってしまう。ちなみに。下は道着のままだ。
「あれ? あんた来てたの?」
「おう、親父さんに呼ばれてな……」
「ふーん」
 やはり舞花は稽古に夢中で俺が来ていたことに気づいていなかった模様。まあ、想定の範囲内だ。
「それじゃあ――強さの源、それは美味しい食事にあり! 貴之、覚えてるわよね?」
「ああ」
「よろしい! いただきますっ!」
「いただきまーす」
 こうして久野家プラス俺の昼食となった。もしかして、久野家では毎回舞花がこのようにお祈りにも似た掛け声をかけているのだろうか?
 醤油味がベースで、野菜がたっぷりの焼うどんは非常においしい。はっきり言ってこんなおいしい焼うどんは生まれて初めてだ。
「貴之さあ、親父から試合のこと聞いたの?」
「舞ちゃん、食べながら話さないの!」
 大量のうどんをすすりながら、舞花が聞いてきた。もし、ここで変に誤魔化したり「出るわけないだろ」などと言ってしまったら、テーブル越しにこいつは飛びかかってきかねない……
「いや、その……」
「舞花、勇見君はたしかにうちに入門してくれたが、何もかも強制できるわけじゃないんだよ。彼には明後日までに返事を出してもらうから、舞花の方から言い寄るのはやめときなさい。いいね?」
「うーん。まあ、しょうがないっかな」
 意外や意外。返事に詰まる俺を竜平がフォローしてくれた。それはとても優しい父親といった感じの口調で、少し印象的だった。
 そして、舞花がそれを聞いて素直に従ったことが一番予想だにしなかったことでもあった。
「ところで勇見君、突然だけど午後からキッズクラスの先生やってくれないかな?
 舞花の手伝いをするだけで簡単だからさあ。ね、頼むよ!」
「え?」
「俺と静花は剛王館に挨拶に行くついでにルールの確認とかしてくるから、舞花一人じゃ不安なんだよね」
「生徒の親御さんには道場には常時指導者が二人以上いますって、お伝えしているんです。安全面で信頼を得るためなんですけどね」
 うーん。午後からの予定は別にないけどいきなりそんなこと……
「バイト代として五千円出すけど?」
「あ、やらせていただきます」
 即決。普段バイトをやってない俺にとって、この臨時収入はありがたいに決まっている。
「あたしの指示にちゃんと従うのよ? 久野流格闘術の名に恥じない働きをするように!」
「へいへい」
 舞花に生返事をしていると、隣に座っていた竜平さんが耳打ちをしてきた。
「舞花を剛王館に連れて行ったら、あいつは暴れかねないだろ? あのバカ息子がうちに来た時も殴りかかる寸前だったそうだし、連れて行くのは危ない……」
「なるほど……」
 ああ、やっぱりこの人はお父さんなんだなとそれを聞いて実感した。娘の性格をよくつかんでいらっしゃる……
 それはそうと、舞花と二人で先生をやるということに対する不安が徐々に膨れ上がってきているわけだが、いったいどうなるのだろう。

 午後二時半。道着に着替えさせられて、ミットを磨いている所に元気な声が聞こえた。
「おーっす!」
「こんにちわあ」
「お、おっす……」
 道場の入り口に並ぶ三人の少年少女の姿が見えた。
 見るからにワンパク小僧といった坊主頭の少年。
 クリクリとした目でこっちを見てくる背の低い可愛い女の子。
 そして、背は三人の中で一番高いのだが、声が少し小さめだった眼鏡の少年。
 この子達がキッズクラスの生徒なのか。すでに道着姿のちびっ子達を見て、少し昔を思い出してしまった。って、俺もまだ高一だ……
「お、今日は三人揃って来たんだ。みんな仲が良くて先生嬉しいぞお!」
「舞花せんせえ、隣のお兄さんは誰ですかあ? 彼氏ですかあ?」
 女の子が元気よく近寄ってきた。間延びした声だが、飛んでもないことを聞いてきやがった!
「違うわよ。こいつは勇見貴之っての。一般の部の門下生で、彼氏じゃなくて弟子!
 ユリったら、そんなことばっか言ってたらお母さんが心配するよ?」
 舞花は笑顔でさらりと流した。あれ、なんか……
「コータロー! ちゃんと先生のハイキック見て練習してきた?」
「うん! クラスのみんなに見せたらカッコいいって言ってたぜ!」
 ワンパク小僧が携帯を操作して画面を見せてきた。画面の中では舞花がダミー人形にハイキックを叩き込んでいる動画が流れている。
「こら! あんたのためにわざわざ素晴らしいハイキックを撮らせてあげたんだから、見せびらかすだけじゃダメなんだからね!」
 そう言うと舞花はコータローという少年の頭をコツンと叩く。そして二人で大笑い。
「あ、ユーキったら帯が変になってるよ。ちょっと見せなさい!」
 舞花は眼鏡の少年に駆け寄ると彼の帯に手をかけ、ギュッと締め直してあげた。身長はすでに少年の方が高く、舞花の身長の低さを改めて感じる。
「じゃあ、三時には少し早いけど始めましょっか!
 今日はこの貴之先生が、みんなのためにミットを持ってくれたり技の練習台になってくれたりします! それじゃあ真ん中に集合っ!」
 俺と舞花の前にキッズクラスのみんなが集まると、互いに礼。元気の良い掛け声と共に稽古が始まった。
 久野流格闘術のキッズクラスでは、グローブ空手とほぼ同じ内容のことを教えると竜平さんから聞いたので教える側になってしまった俺としてはありがたかった。
 俺自身も実践している内容のため、子ども達にアドバイスを与えやすく、和やかながらもしっかりと舞花の指示の下、練習メニューを進めていけている。
「――って、舞花。一般クラスでもこれくらいしっかりメニュー組んでくれよ」
 コータローのミットを受けながら、ユリちゃんとユーキの組み手を見ている舞花にそんなことを言う。
「あんたは経験者でしょうが。この子達はまだ入門して一カ月も経ってないのよ?
 あ、ユリ。ちゃんと姿勢を正して打たなきゃダメよ! ユーキ、腰がまた引けてる!」
「おす!」
「お、おっす……」
 経験者だからって練習メニューをおざなりにしていいわけでもないと思うが……
 やれやれと思ってコータローの方の見ると、彼は実に熱心な顔で、それはもう一心不乱と言ってもいいくらいにミドルキックを打ち続けている。
 俺自身、他人を評価できるほど腕が立つ人間でもないが、コータローはなかなか筋がいいんじゃないだろうか?
「もっと腰を入れて、体全体で蹴りを放つんだ。軸足を中心に、しっかり回すこと」
「おっす!」
 これは俺が昔っから言われていた言葉。ただ足を上げただけじゃないかと思われそうな蹴りを放っていた俺は、先生に何度もこれを言われていたんだ。
「よし、いい感じだ!」
「貴之、次はユリのミット受けてあげて。コータローは少し休憩したらあたしにかかってきなさい!」
「おっす!」
 まだまだ稽古は続いていき、五時頃になりやっと終了となった。
「ほーら。今日もおやつよ!」
 礼を終えると舞花はパタパタと母屋の方まで走っていき、ゼリーがたくさん乗ったトレーを運んできた。数は五、どうやら俺の分もあるようだ。
 そういえば、俺が昔通っていた道場でも稽古後にアイスが配られたりしたな。ヘトヘトになった体に甘いものがすごく嬉しくって、手に持っただけでそれまでの疲れが吹っ飛びそうになったもんだ。
「げ……なんじゃこりゃ」
 カップを覗くと、奇怪な色をしたゼリーが入っていた。複数の色を混ぜ合わせるのに失敗した絵の具のようで、カップを手にしてみると固まりが弱いのもわかった。
「やっぱ、栄養が付くと思ってトマトジュース入れたのが失敗だったかなあ……」
 舞花もカップを手にぽつりと呟く。よく見ると片手には市販の手作りゼリーの素の空き箱もある。どうやらこれを作ったのは舞花のようだった。
「お前、箱に書いてあるだろ。水以外の液体や一部の生の果物を入れると固まりにくくなりますって」
 しかもその箱には『メロン味』と表記してあった。写真には透き通った奇麗な緑色のゼリーが写っており、これにトマトジュースを注ぎ込んでは変な色になるのは当然か……
「うーん……味はいいに決まってるんだから食べてみてよ!」
「やれやれ――うぐっ!」
 こぼさないように気をつけてゼリーを口に入れると、複雑ですごい甘さが俺を襲った。よく見れば、子ども達もゼリーを口に運んだ後に何とも言えない表情でゼリーとにらめっこをしているではないか。
「なあ、もしかして砂糖加えたか?」
「うん。練習後はうんと甘いものがいいと思って、いっぱい入れたわ」
「あのなあ……こういうのは砂糖を加えなくてもいいようにできてんだよ。つーか、もっと箱の説明をよく読んでから作れ!」
 そうだ。事実、箱にも『粉を溶かして冷やすだけ!』と書かれている。
「うっさいわねえ。師範代のやることにいちいち口出すんじゃない――のっ!」
 次の瞬間、不気味な色が俺の視界を包み、冷たく不可思議な感触に見舞われた。
「あ……」
 顔に手を当てたことでそれが何かわかった。
 あろうことか舞花は、俺に出来そこないのトマトメロンゼリーをぶつけやがったのだ!
「てめえええええ!」
「何よ? やる気?」
「アーハッハッハッ!」
 子ども達はみんな爆笑。さすが小学生、こういうのは大好きみたいだ。
 俺が舞花に叩きのめされたところで、子ども達は一礼をして帰っていった。なんだかんだで、みんなあのゼリーもどきを残さず食べてしまったのが驚きだ。
 これで道場に残ったのは俺と舞花の二人。静花さんと竜平さんはまだ帰って来ないため、今日のバイト代を竜平さんから頂くまで待たせてもらうことにした。
 手持ち無沙汰なため道場の掃除をなんとなく開始。ゼリーもどきの残骸が落ちた部分を念入りに拭きつつ、舞花の方をちらっと見てみた。
 道着の上だけを脱いでTシャツ姿、汗のせいか生地が少し張り付いて目の行き場に困る状態で――やばい! 目が合った!
「どうだった? 一日先生の感想は」
 急いで顔を背けた俺の耳に聞こえたのは、落ち着いた口調の舞花の声。おそるおそる顔を向けると、雑巾片手にちょこんと座って舞花はこっちを向いている。――俺の思春期丸出しの目線には気づいていないようで安心した。
 一日先生の感想か。それはまあ……
「ちょっと恥ずかしかったけど、楽しかったよ。うん、間違いない」
 そうだ。バイト代を抜きにしても、やってよかったと今は思えている。
 言いようのない、不思議な充実感に心が満たされているというか、とにかく自分のためによかったというのは間違いがない。
「それならよかった! まあ、あたしから見ても合格点上げてもいいかもね。むしろ感心しちゃったもん」
「ありがとよ。俺だってお前がちゃんと先生やってたから驚いたさ」
「へっへっへっ」
 それを聞いて舞花はどうだと胸を張った。だが、ちょっと照れ臭そうに見えたのは気のせいだろうか。
「まあ、あいつらが一生懸命なんだし、それに応えてやらなきゃダメだよな」
「そうなのよ! みんな本っ当にいい子なのよね。コータローは、親御さんが元気良すぎるからうちでそれを発散させたいって言って最初に入門してくれたんだけど、あの通り稽古でも元気いっぱいだし。ユリはお母さんの方が安く済む習い事ってんでうちを選んで、最初は乗り気じゃなかったけど今は格闘技の楽しさに目覚めてるわ!」
「ユーキは?」
「あの子の根性もすごいわよ。ユーキは背の割におとなしいせいで、学校でちょっといじめられてたの。でも、それを克服したくて夏休みに自分からここの門を叩いたんだから!」
 あいつ、いじめに合ってるのか。弱気な性格なのはなんとなくわかったがまさか……
「で、格闘技やるようになって変わったのか?」
「ユーキの親御さんから聞いたんだけど、うちで稽古をするようになってから家でも元気になって、明らかに変わったみたい。どうも学校の方でも上手くやってるみたいよ」
 へえ。そりゃあすごいな。格闘技をはじめていじめに打ち勝ったなんて漫画やテレビの世界の話みたいだ。
「いじめっ子達をやっつけたわけか。やるなああいつ」
「んー、いじめてる奴を殴り飛ばしたんじゃなくて、一言やめろよってはっきり言っただけなんだって! あたしは玉砕覚悟でボコボコにしてやれってアドバイスしたんだけどねえ……」
 それならますますすごい話だ。明確な拒否反応を示すだけでも、とても勇気がいることなんじゃないのかそれって。
「道場で稽古したことで勇気が身に付いたんじゃないかな。たぶん」
「そう! そうなのよっ! つまり、あたしのおかげってやつ? いや、もちろん一番偉いのはユーキ本人なんだけどね」
 舞花は俺の一言に対して嬉しそうに床を叩きながら吠える。
「あの子達にとって、例えどんなに小さなことでも久野流格闘術が役に立ってるなら、こんなに嬉しいことってないでしょ? 誇らしいことってないわよね?」
 舞花はそう言うと少し溜めてからこっちをまた見る。真っ直ぐに大きい瞳がこちらに二個向き、頭が動いたことで栗色の髪がふわんと揺れる。その上、舞花はこの時夕日を背にしていたため、道場の窓から注ぎ込んだ光と相まってなんとも言えない艶やかさを放っている。
「ねえ。貴之もそう思わない?」
 そう言った後に、九月の夕日よりもキラキラとしている笑顔を舞花は俺に見せた。
 それを特等席で、しかも独占して見ることができた俺は言葉を失う。
 この道場には今俺と舞花しかいないせいで、さらには言葉が出せていないおかげで、心臓がドックンドックンと荒々しく高鳴っているのがハッキリとわかる。
 やばいですよ、竜平さん。あなたの娘さん、反則過ぎますよ。
 完全にその笑顔にやられた俺は正気を失いかけ、舞花の問いかけに対して首をコクコクと縦に振っているだけだ。
「そんな道場が今度、その誇りをかけて剛王館と戦うわけ。絶対に負けるわけにはいかないわよね!」
 俺は首を縦に振る。
「いつも通っている道場が、先生であるあたしが、対抗戦で負けることがあればあの子達はがっかりしてしまうわ!」
「ああ。そうだな」
 俺はやっとまともに相槌を返せるようになった。
「よし! それなら貴之も対抗戦に出てくれるわよね?
 一緒に剛王館をぶちのめしてやりましょう!」
「もちろんだ。任せろ!」
 ――え?
「本当? 武士に二言はないはずよね?」
「え、え、今のはその、ノリで……」
 やばい。舞花の笑顔攻撃で俺は一種の催眠状態にあったのだろうか。対抗戦への出場を認めてしまった!
「ありがと!」
「ぎゃっ……」
 なんと、あろうことか舞花は、俺に向かって飛び込んできた。八月の最終週の河原、そして舞花の転入初日に鼻をくすぐった香りがまた鼻をくすぐり――
 今度は痛みではない。超が付くほどの美少女が胸に飛び込んでくるという心的なショックにより、俺は気を失いかけ……
「ただいま。――って、キャアアアア! 舞ちゃん! な、な、何やって……」
「おお、勇見君! できればそういうことは道場以外の場所でやってくれれば――」
 朦朧とする意識の中、扉の開く音とそんな声が聞こえたような――気がした……

 次の日、月曜日だがこの日は祝日で休みだ。昨日の肉体的な疲労と心的ショックの影響で、昼ごろに目が覚めてしまった。――とはいえ昨日の記憶は正直おぼろげである。
「あ、これ……」
 見慣れない茶封筒が机の上にあったので手に取る。それは竜平さんから帰る際にもらった昨日のバイト代だった。
 中の現金を確認したことで、一気に記憶が戻ったような気がした。
 特に鮮明なのが、急きょ久野流格闘術キッズクラスの先生をしたことと、それが終わってからのことだ
「…………」
 なんでだろう。なんでこんなにも、浮かんでくるのだろう。
 子ども達に熱心に指導をしていたあいつの姿。普段俺に対して無茶苦茶をやってくるのとは違う、別の姿が。稽古が終ってから、あまりにもひどい出来ではあったがゼリーを作って持ってきた時のあいつの姿が。
 自分がやっていること、そして自分の道場を誇らしげに語るあいつの嬉しそうな表情が。
 あの時――それは眩しく、とっても輝いていた久野舞花のことばかりが、俺の中で思い起こされるのだ。
「なんでだよ……」
 俺は一度頭を整理して、なぜあいつのことばかり浮かぶのかを徹底的に考え直してみた。
 この際、あいつとの出会いからを順に思い返すことにする。
 八月の終わりに激突し、九月の始業式の日に再会し殴り飛ばされ、謝罪を受けに行ったと思ったら変な条件で試合を受けてしまいそのまま道場に入門することになった。会う度に、話す度に無茶苦茶な奴だと感じつつ、それでも俺はあいつのいる道場に足を運んで稽古をしてきたんだよな。もちろん、とっても家庭的で常識のある静花さんの存在も忘れてはいけないわけだが……
「……うん」
 まいったな。本当にまいった。
 こうして思い返してみると……
 それほど嫌なものでもなかったと思えてしまっている。
 いや、むしろハプニングが有りながらも、楽しかった毎日だったんじゃないのか?
 それに、高校受験を前にして止めた格闘技をまた始めたというのも、そもそもあいつとの試合のおかげなんだよな。そこに至るまでの過程がやや非常識だったが、ともかく楽しさを再び感じることができたんだ。
 そうだ。二学期が始まってから、暇がないというかつまらない日々を送ってはいないんじゃないだろうか。
 久野流格闘術、そして久野舞花との出会いによって、平々凡々だった高校生活が一気に高速回転し始めたのは確かなのだ。
 認めざるを得ない。いや、否定してはいけないようにすら思えてきた。
『あの子達にとって、例えどんなに小さなことでも久野流格闘術が役に立ってるなら、こんなに嬉しいことってないでしょ? 誇らしいことってないわよね?』
 昨日、舞花が言っていたことが一字一句完璧に頭の中で再生された。
『ねえ。貴之もそう思わない?』
 うん。俺もそう思う。すごいことだよそれは。
 あの時は上手く返せなかったが、今になってあいつに向かってはっきりと言ってやりたくなってしまった。
 そして、もう一つ余計なことを足してやるんだ。
「俺にとっても久野流格闘術はめちゃくちゃ役に立ってる。最高だよ」
 だから対抗戦にも出てやるさ。こういう時に恩返しができなきゃあ男じゃないぜ。
 自分で言うのもなんだが、久々に熱い想いってやつが湧き上がってきてしまっているんだ。
 ――きっと。
 俺は着替えを急いで済ませ、昼飯も食べずに外へ出る。わき目も振らずに真っ直ぐと道場に走って行った。
 それはもちろん、改めて出場の意志を久野家のみんなに伝えるためだ。

「本当に、出てくれるんだね」
「はい。俺でよければ是非」
「そっか」
 昨日と同じように竜平さんと和室で二人っきり。しかし竜平さんの顔はとても真剣で、こちらも少し緊張してしまう。
「何度も言いますが、俺の意志です。心からやってみたいと思えるんです」
「……わかったよ。君の目を見りゃわかる」
「目、ですか?」
「今の勇見君の目は、何かに目覚めた男の目さ。強い決意を胸にしていなきゃ、そんな目はできないよ……」
 さすが久野流格闘術総帥。決める時は決めてくれるんだな。
 俺の想いを真剣に受け止めてくれて、とても嬉しい。
「――ぷはあっ! よし、じゃあサクサクっと試合の詳細について確認しよっか!
 そしたらまたゲームやろう!」
「へ?」
 竜平さんは突然顔を崩し、足を崩し、ペーパーを取り出した。なんだなんだ?
「いやいやいや。あんま勇見君が真面目な顔してるからこっちも力入れちゃったよお。でもさすがに限界かな。そろそろお互いにリラックスして話そうぜっ。ねっ?」
「いや……まあ、はい」
 昨日の第一印象と同じ軽いお兄さんに姿を戻してしまった竜平さん。やっぱこの人……
「勇見君が出ると決まったので、今回の対抗戦は三対三の勝ち抜き方式になるね。これはすぐにでも剛王館に連絡を取っておきたいところだな」
 ほう、勝ち抜き戦か。あまり聞いたことはないなあ。
 竜平さんはそういうなり携帯電話を取り出してポチポチと操作しだした。
「あ、気にしないで。剛王館の方にメール送ってるだけだから。君が出場するってね。
 君が出ることでおそらくあのバカ息子の出場も確定だろうなあ」
 メールで連絡するのか。いったい送り先は個人なのか事務所かどっかなのか……
「で、試合のルールなんだけどね。一ラウンド目は五分、二ラウンド目は三分で延長はなし。変則二ラウンド方式だ。試合は打撃をもらってダウンを奪われたら、五カウントでKO負け。カウントに関係なく一ランド中に二回ダウンしてもその時点でKO負けだ。関節技でもかけられた側がタップをすることで一本が決まる。それ以外の場合でも、主審が危険と判断したらその時点でテクニカルノックアウトってのが決まるね。時間内に試合が決まらなかった場合は、主審と副審二人での判定を行う。もちろん、引き分けはなしだ」
「なるほど。でも、審判はどこから派遣されるんですか?」
「俺は君達のセコンドに着くから、今回は全員剛王館で審判の資格を持っている奴等さ」
「え? それじゃあフェアじゃないんじゃ?」
 俺の懸念に対して、返信が来たのか振動する携帯を手に取りながら竜平さんはこう返す。
「安心しなよ。相手は俺の悪友で今じゃ全国にその名を轟かす剛王館の館長だぜ? そんな小細工をする人間じゃないってことは俺が保証するよ。うん、間違いない」
 竜平さんはさっきまでと変わらぬ軽い口調でそう言い切った。だが、その軽さの裏に絶対の自信があるように――思えたり思えなかったり。
「はあ……」
「で、君がよく知っておかなきゃいけないのはここからさ。試合そのものの形式としては、まず立った状態でのパンチと蹴りが認められている。それに加えて投げ技や寝技も解禁――いわゆる総合格闘技ルールってやつだね。つまり試合中にはオープンフィンガーグローブを着用してもらうことになる。んで、反則技は肘打ち、頭突き、金的、噛み付き、あとまだ出場選手はみんな高校生ってことで寝た相手への打撃は全面的に禁止――ん? 難しい顔をしてどうしたんだい?」
「だって総合格闘技って……未経験ですし……」
 その通りだ。俺は格闘技の経験はあるが、それはグローブをはめての空手つまりは立って戦う格闘技のことを指す。投げ技や寝技でなら体育で週一の柔道があるが、その道の競技者には到底勝てるレベルにはない。
 そもそも総合格闘技というのは一局面に優れているだけよりも、その名称の通り総合的にあらゆる局面で優れているものが強いというのが俺の認識だ。
 テレビで見るプロの世界でも、立ち技だけ優れている選手が階級下の選手にあっという間に転がされて関節を極められたり、いきなり総合格闘技に転向した寝技、間接技のエキスパートが打撃できりきり舞いにされているのはよくあることである。
 つまり、総合の試合で勝つには充分な総合格闘用の練習と、それなりの試合経験が必要なのだ。
「安心しなって勇見君。剛王館の方だって今は多角的にやってるけど元は空手の道場さ。あのバカ息子だって、ほとんどグローブ空手の経験しかないんだよ。それに、試合当日までは付け焼刃になるけど、俺がきちんと指導してやるからさ!」
 竜平さんはそう言ってケラケラと笑った。この人は本当に……
「まあ、頑張ってみます。ところで、あのバカ息子――いや、水原高春以外の剛王館側の選手はどんな風になるんですか?」
「あっちもうちと同じで男一人、女二人の構成さ。そこは合わせておくように決めてあるんだ。向こうの女の子達は俺も知ってる子達で、君や舞花達と同じ高校生だよ」
 ん? 試合って三対三の勝ち抜き戦なんだろ? だとすると……
「あ、また難しい顔だね。もしかして女の子が相手になるかもしれないことが不安ってわけじゃないだろうね。そこは安心、おそらくうちの舞花達と同レベルかそれ以上の強さだろうから、君も思いっ切りやってくれていいんだよ。向こうも了承済みさ」
「そうなんですか……でもそれを聞くと益々不安ですね。娘さん達と同じかそれ以上なんて勝てるかどうか……」
 その通り。俺は久野姉妹にコテンパンにやられているのだ。
 舞花からはいつもボコボコにされ、静花さんとは一度組み手をしたがいいように遊ばれてしまっている。それと同等以上の女子が相手では勝てる見込みなど、情けないことだがなさそうだ。
「よおし! それを含めて今からみんなで練習だ! 今日はゲームなんてやらないから承知しておくように!」
 いや、こっちはゲームをやろうなんて一言も……
 竜平さんは突然立ち上がり、さらにその場で脱ぎ出してしまった。そして襖を開けて静花さんの名を呼び、道着を持ってくるように言った。
 驚いたのは突然竜平さんが脱ぎ出したことよりも、脱いだことで露わになった竜平さんの見事な腹筋だ。それはまるで板チョコや奇麗に組まれたタイルのように形が揃っていて、同性の俺が見ても惚れてしまうくらいの美しさだった。

 結局そのまま稽古をすることになってしまった。
 ちなみに俺が対抗戦に出るということは竜平さんの方から稽古前に姉妹に伝えられ、それを聞いて舞花は当たり前よねと首を縦に振り、静花さんは驚いた後に何度も俺に本当ですかと聞いてきた。もちろん、本当です本心ですと返したが。
「よしっ! 勇見君にも容赦なく稽古を付けてやるからな! 一同、礼っ!」
 こうして稽古は始まり、組み手を中心に行うことになった。そして案の定、竜平さんは強かった。打撃も組み技もどっちも強いのだが、舞花のようにスピードや爆発力がすさまじい本能で戦うファイターというわけでもなく、どちらかいえば静花さんに近いしっかりとしった技術がその強さの根底にあるタイプの格闘家なのかなと感じた。
「やはり勇見君は打撃偏重な戦闘スタイルだ。ぶっちゃけ、勝負は今週の土曜なのにそれ以外の技術が実戦で使えるくらいに身に着くはずがないさ」
 だから、久野姉妹との組み手をバリバリこなしてその都度確認することで体に無理矢理覚えこませるくらいでいいと、竜平さんは言った。もちろん、時折竜平さんとも組み手をする。
「いたたたた!」
「はっははー! すごいだろ!」
 竜平さんとの何回目かの組み手になった時、竜平さんはいきなり俺の方に向かって前転をしたかと思うと、あっという間に俺の足首を掴み、引き倒し――関節技を極めてしまった。いわゆるヒールホールドだ。
「お父さん! 何やってるんですか!」
 その光景を横で見ていた静花さんが割って入る。今まで静花さんは舞花のミドルキックをミットで受けていたため、突然彼女がその場から離れたことで舞花はキックが空転してこけてしまった。
 そんな風に笑顔を交えながらの稽古は続いた。夕方頃になりやっと終了し、帰る時に明日からは学校が終わったら毎日来るようにと舞花に言われた。
 
 そんなこんなで、筋肉痛を苦にする暇もないくらいに火曜日から金曜まで本当に毎日稽古漬けとなった。
 日増しに目がギラギラとしてくる舞花に恐怖を覚えつつ組み手。しかし静花さんとの組み手のおかげもあり五回に一回はこいつを投げられるようになった。
 静花さんとの組み手では、最初は俺の方が打撃を出すことに躊躇してしまっていたが、静花さんの方から遠慮せず飛ばしてきてくださいと言ってきてくれた。
 舞花と静花さん、そしてたまに現れる竜平さんと姉妹が行う組み手を目にした時は、その息の詰まる攻防に思わず目を奪わてしまった。
 決戦を明日に控えた金曜日は、久野家で夕飯をご馳走になる。この日の献立はトンカツで、明日の勝利へのゲン担ぎなのだという。もちろん、味は最高だった。
 久野家の皆様に見送られての帰り道、本当にここ数日は大変だったなあと振り返る。
 しかし、こうして一人になると感じるのは身体的な疲労よりも精神的なプレッシャーだ。
 先月までの俺では、考えられないような状況になってしまっているわけだしな……
 だが――
「絶対に、勝ってやる……」
 どうやらここ最近、自分でも不思議になるくらい熱い何かが燃えているみたいだ。
 自分らしくないかもと思いつつも、悪くはないなとも苦笑をする。
 そして、何を思ったのか拳を夜空にかかげてみた。

4.(END)

「まあ、出てはもらうけどあんたの出番は来ないと思いなさい!
 あたしがあいつらを全員粉砕してやるんだからね」
 対抗戦当日、道場にはすでに道着に着替えて剛王館の一向を待つ久野家プラス俺。
 ウォーミングアップを一通り終えた舞花は、俺にそんなことを言い放った。
 舞花はこの対抗戦で久野流格闘術側の先鋒を務める。
「もう、舞ちゃんったら勇見君はせっかく出てくれるのに……」
「あん? 静花だって貴之は大将でいいって言ったじゃん!」
「それは……」
 その通り。静花さんは舞花が先鋒をやると決めた途端に、ならば自分は二番手――つまり中堅をやると申し出たのだ。「ほらほら、二人共喧嘩してないで。相手さんがお見えになったようだよ」
 竜平さんの一言で、道場内に緊張が走る。
「おー、東京にいた時よりでっかい道場じゃないか」
 道場の入り口から聞こえたのは野太い声。その声の持ち主は、格闘技関係の雑誌やテレビでも何回か見たことのある人物だった。
 剛王館館長、水原高慈。全国に広がる巨大組織の頂点に君臨するその男性は、その地位にふさわしい偉丈夫だった。
 黒い高そうなスーツの上からでもその筋骨隆々っぷりが見て取れる。ネクタイをしていないのは、していないというより首が窮屈になってできないからなのではないだろか。
「ま、東京よりのびのびできてるよ。コーちゃん」
 コーちゃんとは高慈という名からとったあだ名だろうか。テレビなどでは『水原館長』と呼ばれているが。
「うちの連中はアップ済みだ。おい、入ってこい」
 水原館長の一声で、道場内にまずバカ息子――いやいや、水原高春が入ってきた。
「やあ。お久しぶりです」
 一礼した後、嫌味な笑顔でこちらを一瞥する。くそ、親父さんとはえらい違いだ。
「どけ、通れないだろう」
「あ、すまない……」
 そんなバカ息子を背後から威圧したのが、道着に身を包んだ長身の少女――というより、百八十センチはあるモデルのような美少女だった。毛先をあそばせたショートカットで、目力もすごい。
 道着姿のモデルというのもおかしなものだが、ある意味舞花と同じくらい現実離れした雰囲気を持つ女の子という感じだ。
「よろしくお願いします」
 深々と一礼をすると、彼女は道場に一歩踏み入れただけで外の様子を窺った。
 そして表に向かって声を張る。
虎奈(こな)様! お急ぎください!」
 コナサマ? しばらくすると、道場の中にもう一人の少女が入ってきた。
「失礼。外から見た造りを見てて……」
 その少女は先に入ってきた少女よりは幾分小さく、静花さんと同じくらいだろうか。
「どうもこんにちは。外からも拝見しましたが、いい道場ですね」
 彼女は鈴の振るような声で、一礼をした後にこちらに振り向く。
「――んっ!」
「…………」
 俺の隣にいた舞花は身構え、その隣の静花さんに至っては、一歩その場から下がってしまった。そう、たった今入ってきた彼女と目が合ったからだ。
 当の俺も、その場に釘付けにされたような感覚に陥ってしまっている。一瞬、体の機能が全て停止したような錯覚に襲われ、次の瞬間にはひどく心臓が高鳴っていた。
 なんなんだこれは?
「早坂虎奈と申します。今日はよろしくお願いしますね」
 彼女が名乗って、水原館長と話を始めたところでようやく不思議な感覚から解放された。
 舞花は未だに早坂虎奈と名乗った少女の方を凝視しており、殺気をビンビンに張っている。ジリジリと構えたままで、早くも臨戦態勢といった感じだ。
 だが、そうなるのもわからなくない。それくらい彼女は、未だかつて感じたことのない殺気――と呼べばよいのだろうか。何か独特な気を放っているのだ。
 普通に見れば俺達と同じくらいの年頃の少女。剛王館の他の二人とは違い道着の下は鮮やかな朱色の袴を履いており、こちらも現実離れした美少女だ。
 切れ長の目に、離れていてもわかる白い肌。その美貌は、まるで日本刀のそれに近い……って、我ながら鳥肌ものの例えだ。
 見る者をはっとさせる美貌といえば横の久野姉妹、そして先に入ってきた長身の少女も変わらないが、この早坂虎奈についてはそれだけではすまないのだ。その証拠に、同性である久野姉妹が気圧されてしまっている。
「こんにちは」
 突然、すっと俺達の前に立ちはだかったのは長身の美少女。その長身のせいでこちらを見下ろしており、舞花が闘志剥き出しでいるのを察しているのか、やや目つきがきつくなっている。
「本日、剛王館で先鋒を務めます長見(ながみ)純です。よろしくお願いします」
 やはりその語気は鋭く――え? 長見純?
 小学生、そして中学生の時にも聞いたことがある名前だ。
 剛王館が主催するグローブ空手の大会に何度も出場し、その度に優勝していたという天才少女。昔俺の通っていた道場にいた女子で一番強かった子が、全国大会の予選で彼女と当たり、二十秒で一本負けを喫したことがあったのも覚えている。
 まさか、あの長見純が目の前に……
「え? あんたがそっちの先鋒?」
 立ちはだかる長見純に食ってかかったのは我が道場の先鋒にして自称総帥代行の舞花。
 だが、その身長差は絶望的なものがある。
「ええ、今言った通りですが」
「あたしも先鋒よ!」
「おやおや。見学の小学生かと思ったがまさか……」
「な、なんですってえ?」
 舞花と対峙したことで、かしこまった態度から急に変わり、ニヤニヤとしながら舞花を小馬鹿にした口調となった長見純。
 それにしても、なかなか言ってくるなあ。ひと際背の低い舞花を、目線も態度もだいぶ下に見ているといった感じだ。
「背が低いのは認めるけど、実力の方はチリ紙付きなんだからね!」
「折り紙付きだろう。それに、そういうのは自分で言うもんじゃあないぞ」
「……ぶっちゃけ、あたしはあんたなんかに興味は無いわ!」
「ほう。まさかお前、虎奈様に……」
 なんだか不穏な空気が流れ始める。
 なんということだ。道場の中には文句の付け様がない美少女が四人もいるのに、さっきから殺気立った雰囲気にしかなっていないのはどういうことだ。
「はーい。それじゃあ始めるぞお!」
「ほれ、さっさと並ばんか」
 竜平さんと水原館長が声をかけると、二人は睨み合いを止めて渋々道場の中心に足を運んだ。
「それでは、これより剛王館と久野流格闘術道場の対抗戦を始めます!
 本日の主審は私、丸田――」
 主審、副審の紹介とルールの説明が済んだ後、お互いに礼をする。
 舞花の前には長見純が、そして静花さんの前にはあの早坂虎奈が立っている。ついでに俺の前には水原高春が立っており、戦う順番もこの並び順通りのようである。舞花は、目の前の長見純に今にも飛びかからんばかりの臨戦態勢だ。隣り合っている静花さんはそれはもう不安そうな様子だ。
 挨拶が済むと道場の両端に各陣営が座し、両道場の先鋒がバンテージとグローブの確認を副審達からそれぞれ受ける。
「舞ちゃん。頑張ってね」
「おうよ」
「舞花。いつもの通り、アドバイスは最低限しかしないからね」
「オッケーオッケー」
 姉妹、親子のやり取りは意外にも淡白だった。腕をぐるぐる回しながら舞花は道場の真ん中までゆっくり向かっていった。
「あの、竜平さん。セコンドなのにアドバイスは最低限って……」
「いいんだよ。舞花はどうせこっちの言うことなんてほとんど聞かないしね」
「でも、相手はあの長見純ですよ。竜平さんも彼女の実力は知っているんでしょう?
 それにあのリーチ差……大丈夫なんですかね」
「ああ。大会荒らしとして小学生の頃から名を馳せた、長見純ちゃんだろ。生粋の打撃系美少女だよね」
 いや、たしかに美少女だが……
「ほら、もう試合が始まるよ。勇見君も座ってなさい」
「……はい」
 竜平さんに制されて腰を下ろし、道場の中心を見やるとすでに試合開始直前だった。
 おそらく長見純の身長は百八十センチ以上はあるだろう。それに対して舞花は三十センチ以上は低く――やはりすごいリーチの差だ。それはもう圧倒的、絶望的ともいえる。
「それでは、お互いに礼! ――ファイッ!」
 舞花は、いきなり跳躍した。
 飛び膝蹴り。だがそれはガードされ払い飛ばされる。
「あーあ、またいつもの癖だ」
 竜平さんはぼやく。舞花の相手をこの短い期間で散々してきている俺は、その癖がなんなのかわかった。
 その癖とは、舞花は勝負の初めに必ずと言っていいほど大技を放つのだ。
 それは飛び前蹴りであったり、軽く助走をつけての後ろ回し蹴りであったり、飛び込み様のアッパーカットであったり、今のような飛び膝蹴りである。
 舞花の激しく、無鉄砲な性格がはっきりとわかるファーストコンタクト時の癖だ。
「ちぃっ!」
 払い飛ばされた舞花は受け身を取って着地。体勢を立て直したところで初めて長見純が攻撃を放った。
 長い脚で、刈り取るようなハイ――いや、ミドルキックだ。
 それを腕で受けた舞花は横に転がる……ダウンか?
「――ぞ、続行ォ!」
 なんと舞花は、二回三回転がったらそのままの勢いで立ちあがってしまった。舞花は何事もなかったように再び構える。
 そしてローキック、それに合わせて長見はストレートパンチ。その身長差から、斜め下に向かって打っているようだ。
 舞花はそれをキャッチし、その手を放した瞬間に相手の懐へ飛び込む。
「おお……」
 そして巻き起こったパンチの雨あられ。
 思わず声を上げてしまった。いつか俺も食らった、矢継ぎ早に飛んでくる連打だ。果たしてこの間、舞花本人は呼吸をしているのか不思議に思ってしまう。
「舞花! 右だっ!」
 数秒の間舞花が連打を続け、長見はそれを受けるばかりだったが、突然竜平さんが声を上げた。いつもの竜平さんらしからぬ怒声。
 それは、右フックだった。舞花の猛攻を受けていた長見純がたった一発返したそれで、さっきまで攻勢に回っていた舞花の手が止まり、その小さな体がよろめいた。
「くうっ」
 続けて前蹴り。俺も舞花と初めて手合わせした時に、突っ込んでくるあいつをどうにかするために放ったことがある。
 しかし、長見純が出したそれは相手の突進を止めるとか、距離を取るとか、そんな生温いものではなかった。相手を破壊しにかかる、まるで槍で相手の体を貫くような前蹴りだった。
 舞花は両腕を掲げ、あごめがけて飛んできた長見の足先を受け止めるが、後方に吹き飛ばされ尻もちをついてしまう。すげえ……人間の体を浮かせる前蹴りって……
 倒れはしたがガードをしていたため主審からダウンは宣告されず、立ち上がるように指示を受ける。
「続行!」
 主審の宣言の直後に動いたのは長見の方だった。
 ずんずんと歩み寄り、小突くようにジャブ。彼女は左足を前にするオーソドックススタイルで、牽制の意味も込めているであろうジャブは左手で出された。
 またジャブを放ったところで、今度は右ストレート。完全にKOを狙って打ってきたに違いない、重そうな攻撃だ。言っちゃ悪いが、その身長も相まって本当に女子か疑わしくなる。
 舞花は回り込んでそれを回避し、飛んできた長見の右腕をつかんだ。
「お――」
 つかんだ後、長見が抵抗を見せた瞬間に舞花は手を放す――というより、突き飛ばすといった感じだった。
 それを受けて長見は後ろに向かって少しよろける。
 そこへ、渾身の右ストレート。これが、この試合初めてのクリーンヒットになった。
 長見は舞花の追撃の左フックをガードし、体をそのまま流して自らも左フックを放つ。
 舞花はそれを首を傾けただけで回避し、無茶な体勢のまま長見の左腕の下を通るように右のボディを繰り出した。
「落ち着け! 距離を取るんだ!」
 後ろから飛んできた水原館長の声が届いたのか、長見は後退し距離を取る。舞花は追いかけようとするも、前蹴り――今度は相手を突き放すためのそれに阻まれてしまう。
 この時から、両者はジリジリと距離を測り合うだけとなり、手が止まった状態となった。
「勇見君。見たかい? 舞花の今の動き」
「はい……なんつーか、すごいです」
 ボキャブラリーが乏しすぎるぞ、俺。しかし、これはもうすごいとしか言い様がないのだ。
 試合開始直前に竜平さんがやたら落ち着いていたのも、舞花がここまでやれるとわかっていたからだろうか。
 俺が再び試合している二人の方を見ると、両者の距離がさっきよりも縮まっていた。
 だが、なかなか互いに手を出さず、見ている方としては息が詰まる。間合い地獄ってやつだろうか。
 俺は視線をそのままに横の静花さんに声をかけてみた。
「静花さん。どうです? この試合、ここまで見て」
「……思った以上に長見さんが強いですね。もう、落ち着いて見ていられない状態です」
 静花さんは小さな声だが返してくれた。チラリと横目で見てみると、両手をももの上でギュッと握っているのがわかった。
 さてこの間合い地獄からどう動くのだろうか。
 俺の見立てでは、リーチに勝る長見が牽制のジャブを出してそこから活路を見出すか、舞花が痺れを切らして相手の懐に飛び込んでいくかのどちら――
「りゃああああああああああ!」
 勝負は動いた。一歩、そしてもう一歩踏み出した彼女は、跳躍。空中で体がクルリと前転し、その長い脚が対戦相手の頭頂部に振り下ろされた。
 長見純の、胴回し回転蹴り。予想だにしなかった、百八十センチ以上はある長身から繰り出された、ド迫力の大技であった。
 舞花は頭上で両腕を交差させてそれをガードした。もし、あのまま直撃していたとしたらゾッとしてしまう。
 斜めに交差した舞花の腕はまるでハサミのような形になり、がっちりと長見の足首を挟み取っていた。長見は両肩を床に着けたまま起き上がれずにいる。
「くっ――そおっ!」
 自由になっている方の足を突き出して舞花に離させようとするも、それは裏目に出た。
 舞花は一瞬で長見の足を持ち直し、脇に抱えるようにした。長見はなおももう片方の足をバタつかせるが、舞花を引き離すには達しない。
 これがプロの試合ならば、この体勢から寝ている相手を上からボコボコにできるのだが今回のルールではそれは禁じられている。
 これからの展開がどうなるかが気になるところだ。舞花はどうするつもりなのだろうか。
 こちらの位置からでは舞花は背中を向けているためその表情を見ることはできず、そのため何を狙っているかよくわからない。
「ねえ父さん。ヒールホールドってどうすんだっけ?」
「へ?」
「ええええええ?」
 なんと舞花は、いきなりセコンドの方を振り向き竜平さんにヒールホールドのやり方を聞き出した! 竜平さんは呆気に取られ、俺なんか思いっきり声を上げてしまった。
「はいやめ! ほら、離して!」
 そうこうしているうちに一ラウンド目が終わり、主審が二人を引き離しそれぞれセコンドの元へ戻った。
「舞花……いくらなんでも試合中に聞くことはないだろう……それだったら普段から練習しといてくれよ……」
 竜平さんは舞花の顔や腕をチェックする。怪我などは見られないようだ。しかし終始呆れた様子で、やはりラウンド最後のアレが影響しているようだ。
 たしかに舞花は稽古の中でもまったく寝技を練習している様子はなかったし、下手したら俺に一本を取られてしまうくらい寝技の技術は皆無なのだ。
 それが舞花の性分で直しようはないのかもしれないが、これが相手に知られたら……
「舞ちゃん。二ラウンド目は、長見さんは寝技で来る可能性が高いわよ」
 俺が思っていることを静花さんが舞花に代弁してくれた。相手のセコンドはあの剛王館の館長なのだ。舞花に寝技の技術が無いのをすでに察し、長見にそれに応じた指示をインターバル中にするに違いない。あの長い手足での寝技……これはまずいことになったかもしれない。
 残り三分。舞花が防戦一方にならなければいいが……
「おい、久野舞花とか言ったな!」
 すでに椅子から立ち上がっていた長見純が突然こちらに向かって声を張り上げてきた。
 舞花はそれを聞いてキッと睨み返す。
「私の得意分野は打撃だ! だから、次のラウンドも打撃だけで勝負する!」
 驚いた。インターバル中の、相手への堂々の打撃勝負宣言だ。
 剛王館の面々、水原“バカ息子”高春を除いた、水原館長と早坂虎奈の二人はそれを達観している。水原館長に至っては笑みすら浮かべているようだ。
「だってさ。舞花、どうする?」
 竜平さんは少し声を弾ませて舞花に聞いた。
「オッケイッ!」
 舞花は飛びっきり元気よく返事をした。目に込めた力は保ったままだが、その表情は歓喜に満ちているようだった。
 ああ、ダメだ。熱いなあ。
 俺もここ数日で熱い何かが湧き上がってきたとか思ってたが、全然ダメだ。こいつらにはまったく敵わない。というか、ぶっ飛んでやがる――清々しいくらいに。
 あの長見純にも意地があるんだろう。自分よりずっと背の低い少女を相手に、思いの他苦戦。しかも、自分の得意分野という打撃戦においてだ。
 きっと彼女は、舞花に負けず劣らずの気の強さの持ち主だ。だから、この試合のラスト三分間を寝技に逃げるわけにはいかない。得意の打撃でこの久野舞花をねじ伏せなければ、彼女のプライドが許さないのだろう。
「というわけで、行ってくるね」
「ああ。頑張ってこい」
「気をつけてね」
「……頑張れよ」
 俺は少し吐き捨てるようにそう言った。なぜそんな風になったかというと、こんなに熱くなれるこいつをちょっとうらやましいと思ってしまったからなのかもしれない。
 ――今だって、その小さな背中から歓喜のオーラのようなものが見えそうなのだから。
「ファイッ!」
 主審の二ラウンド開始の合図と共に、俺の中にあった嫉妬心は消えてしまった。
 正確に言えば、目の前で始まった壮絶な光景にそんなちんけな感情など消し去られてしまったのだ。
 舞花は再び開始早々の飛び膝蹴り。長見はそれに合わせて膝を上げ、足先を跳ね上げるようにして前蹴りで舞花を迎撃した。
 転がされた舞花は起き上がり様に飛び込みパンチ! まるでネズミ花火のような暴れっぷり――いや、ネズミ花火は顔面まで飛び上がって来ないから、それより悪質だ。
 舞花のパンチは長見のあごをかすめるも直撃には至らず、カウンターの膝蹴りが舞花の腹部に命中した。
「ああああああああああああ!」
 それでも舞花は下がらずにまたも鬼のような連打。それらの軌道は見ようによってはやぶれかぶれに出しているようにも見えるのだが、長見はそれを嫌がり顔に何発かもらってしまっている。
 しかし、そこは打撃勝負を宣言した張本人だ。被弾率が上がるのを無視して自らもパンチを返し始めた。
 フックとストレートが、ストレートとフックが、フックとフックが、時にはアッパーなんかが、空をビュンビュン切り裂いたり、ガードの上から炸裂したり、そして何発かは相手にクリーンヒットする。
「グッ……」
 額で長見のストレートを受けた直後だった。舞花は首を横にずらし、ほんの一瞬溜めを作ってから長見のボディに強烈なパンチを見舞った。長見純の長身が、くの字に曲がる。
「――やあっ!」
 相手の頭が目に見えて下がったため、舞花はその場でほぼ垂直に飛び――――膝蹴り!
 この試合三回目にして、伝家の宝刀飛び膝蹴りがあの長見純のあごを捉えたのだった。
 舞花はすぐさま長見から離れる。と、同時にあの長身がバタリと倒れ込んだ。
「ダウン!」
 この試合初めてのダウンの宣告。カウントが取られ、長見は懸命に踏ん張って立とうとする。
 だが、彼女が片膝になった状態になったところでカウントは五まで数えられてしまった。
 主審はノックアウトを宣告し、舞花の腕を上げ彼女の勝利を宣言した。
「しゃあっ!」
 主審から手を放されると舞花は歓喜の雄たけびと共に、なんとその場で開脚ジャンプ!
 着地後、呆然と座り込んでいる長見純に駆け寄って彼女に手を差し伸べた。
「ありがと! 久々に気持ち良くなるくらい戦えたよ」
 長見は数秒間硬直して、やっと正気に戻ったようで舞花に自分の手を差し出した。
「――こちらこそ。うん、よかった」
 少し恥ずかしそうにしながらも、笑顔。うーん。顔は所々腫れているがやっぱり息を飲むような美少女だな、彼女は……
 長見はやっと立ち上がり、これでまた二人の身長差がすごいものだと再確認できた。
「はい、真ん中に戻って!」
 主審の号令で両者は真ん中で礼。改めて舞花の勝利が宣言されて、この対抗戦の一戦目は久野流格闘術の勝利と決定したのだった。
 試合を終えた両者は、こちらに聞こえないくらいの小声で何やら話をしてから各々の陣営に戻ってきた。
 ここから次の試合まで五分間の休憩だ。
「ナイスファイトだった。痛いとこはないかい?」
「んー、おでこがジンジンするだけかな」
 舞花がそう言うなり静花さんがアイスパッドを舞花の額に当てる。
「舞ちゃんは相変わらず冷や冷やさせるわね」
 そう言いながら左手でパッド、右手で汗拭きタオルのスーパーセコンドっぷりを見せている静花さん。
「舞花、さすがみんなの先生って感じだったぞ。ユーキ達もあんな試合見たら鳥肌立てちゃうだろうな」
「へっへっへーん」
 俺もそんな風に労いの言葉をかけてやった。おせじでもなんでもなく、素直な感想である。
 むしろ、鳥肌を立てちゃうのはそんなことを言った張本人だった。
「舞ちゃん、疲れてない?」
「なーに言ってんのよ! まだまだウォーミングアップが終わったって程度よ!」
「それって戦った相手に失礼なんじゃ……」
「ははは」
 次の試合までの束の間の談笑。
 試合開始まであと一分といったところで、それは止まってしまった。
 視線――剛王館陣営の方からだ。
 うん、それはきっと……
 舞花は両手を目の前で握って、小刻みに震わせている。
 その震えを止めようとしているらしく、奥歯を食いしばっているような表情を見せている。
「これって……」
 その姿を横で見ていた俺は思い出す。これに似た経験が自分にもあったことを。
 試合の前、それに臨む人間を襲う――緊張、焦燥、そして恐怖だ。
 それらに飲まれれば、試合で思ったような動きができなくなるもので、自分の情けなさを痛感することになる。
 生まれて初めて試合に出た時、中一の時に全国レベルの選手と大会で当たった時、前の道場をやめると決め、尊敬していた先輩と本気の組み手をすることになった時――
 一言で表せば、ビビっていたのだ。
 しかし、あの久野舞花が俺と同じような状態に陥るだって?
 どうしたんだよ。腕をぐるぐる回して、目をギラギラさせて、目の前の相手をぶっ倒そうとしに行くのが、お前なんじゃないのかよ。
「なあ、舞花。さっき長見ちゃんと何話してたの?」
 沈黙を破ったのは竜平さん。舞花の肩にポンと手を置いて話しかける。
 舞花は竜平さんの方を見ようとせず、そのままの状態で二、三秒してから口を開いた。
「――んーとね。『決して負け惜しみで言うわけじゃないけど、ここで私に負けておいた方が良かった』って言われたの。なんでって理由を聞いたら、『次の相手は、私の百倍強いから』だってさ。戦ったら間違いなく絶望することになるらしいわ」
「ふーん。そりゃ大変だ」
 舞花の次の相手。剛王館二番手。舞花の視線の先に正座をしている――小柄な少女。彼女は、舞花をビビらせている原因――
 早坂虎奈。
「それでは両者前へ!」
 そうこうしているうちに主審が次の試合を始めようと声を上げた。
「っしゃあああっ!」
 舞花はドンっとその場で足踏みしてから、道場の中央に向かう。悔しいことに、この時俺は頑張れよの一言をかけるタイミングを逃してしまった。
 一方の早坂虎奈といえば、特に何をするわけでもなく静々と歩みを進めるだけだった。逆に、この落ち着いた様が恐ろしく感じられる。
「それでは、お互いに礼! ――はじめっ!」
 久野舞花対早坂虎奈――その試合の火蓋が、遂に切って落とされた。
 
 試合開始の掛け声の後、舞花はいつもように相手に飛び込んでいくかと思いきや、今回ばかりはそうでなかった。両腕を上げて構え、そのままの体勢でその場から動かず上体を揺らしている。
 一方の早坂虎奈といえば、悠然とそこに立っているだけで構えようともしない。
「ああ、こりゃあキツいね」
 竜平さんはボソッと漏らした。俺もその『キツい』理由とやらがなんとなくわかった気がしたが、一応竜平さんに聞いてみる。
「それって、どういうことです?」
「舞花の表情――見りゃわかるでしょ? ハハハ、すごいね。両者動かずして、もうどっちが優勢か決まっちゃってるよ」
 ああ、やっぱりそうか。
 あの舞花の、苦虫を噛み潰したような表情。前に出ていない――いや、出ることができないための歯がゆさが、そんな表情を作らせているのだろう。
 試合開始の合図と共に相手に飛び込み大技を当てにいくという無鉄砲、無計画極まりない舞花らしい初手が出ていないのだから、それは明らかだ。
「ファイッ!」
 主審が一向に動かない両者に声を荒げた。試合に動きがないとこうやって煽られるわけだが、早坂はまだ動くことがない。
 一方の舞花は、遂に動いた。
「おりゃああああ!」
 獲物に飛びかかる獣のように、早坂虎奈に向かっていく。
 飛び込み様のストレートパンチ。それが相手の顔面に突き刺さらんとした時――
「ダ、ダウン!」
 舞花がうつ伏せになって倒れていた。
「いえ。今のは、足払いによるスリップですよ」
 主審のダウンの宣告に、冷静に異議を唱えたのは早坂虎奈だった。そう、舞花を道場の畳に這わせた側の人間が、だ。
 その瞬間は、時間の流れがゆっくりと感じられた。
 飛び込んできた舞花の攻撃を、ほんの少しだけ真横に移動して早坂は避けた。
 その避ける動作を行ったのとほぼ同時に、彼女の足が横を通過していく舞花の足を払ったのだった。
 足を払われた舞花の体は床と平行になる。そして、早坂にポンと背中を押され――
 落下した。
 宙に浮いていたとはいえ、床から一メートルと少しくらいの高さだったのだろう。
 それなのに、まるですごい高さから急降下したような勢いで、舞花は床に叩きつけられたのだ。これって……合気道か何かの技なのか?
「うう……」
 舞花はなんとか立ち上がった。主審は早坂の指摘した通りダウンの宣告をスリップに変更したが、舞花にダメージがあるのは明らかだった。
「ぞ、続行! ファイッ!」
「うあああああ!」
 試合は再開された。舞花は雄たけびを上げ、またも早坂に飛びかかる。
 だが、今の雄たけびは痛々しく感じられた。試合前から気圧されていた相手へ持った、恐怖にも近い感情を気合いで振り払っているように俺は思えたのだった。
 そして、次の瞬間に俺は――そして隣にいた静花さんも、竜平さんですら絶句することになる。
 舞花が次々と繰り出す鬼のような連打が、一発も当たらないのだ。
 ガードをされるとか、受け流されるとか、そういうレベルではない。
 一発たりとも早坂虎奈に触れることがないのだ!
 顔面へボディへ肩口へ、様々な軌道で飛んで行く舞花のパンチを、早坂は頭をずらし、上体を反らし、すり足で動き、全て紙一重で回避してしまっている。
「に、人間じゃねえ……」
 あの舞花の高速の連打を一発ももらわないなんて信じられない。自然とそんなことを口から漏らしてしまった。
 早坂の表情は非常に涼しげで、余裕しか感じられない。必死に拳を振り回す舞花を前にして、薄ら笑いさえ浮かべているように見えた。
「……ぐっ!」
 その薄ら笑いから一転――彼女の眼光が、得物を捕らえようとする肉食動物のそれのように見えたのだった。
「ダァーウンッ!」
 遠目からでも、その迫力に圧倒されてしまった俺は、舞花が倒れていることに気付くのに数秒遅れていた。
 まだこの試合一回目のダウンだったが、カウントは数えられておらず、すぐさま主審は試合を止めた。
 試合結果は舞花のKO負け。舞花は床に倒れ込んだままで、剛王館側が連れてきたリングドクターと竜平さんが駆け寄る。俺も立ち上がるが、こういう場合何をすればよいかわからず、横にいた静花さんにも止められる。
「大丈夫です。父さんはこういった場合の対処には慣れていますし、今日は剛王館の方もいます……」
「静花さん……」
「決まり手は、左ジャブからの右のフックでした。恐ろしいくらい的確で素早い連打――だったと思うのですが」
 とは言うものの、結局静花さんもばっちり見られたわけではなかったようだ。
 ただ、舞花が一発も相手に入れることができずに完敗をしたというのは揺るがない事実であり、次にこちらから出て行かなければならないのは静花さんということもすでに決まっている。
 しばらくすると舞花は目を覚ましたようで、竜平さんが舞花の体を慎重に抱え上げこちらに向かってきた。
「竜平さん! 舞花は大丈夫なんですか?」
「ああ、そこまで気にすることもないって。なんせ舞花は昔っからやんちゃだったから、頭をぶつけて失神するなんて珍しいことじゃないのさ。ま、ちょっとKOされる前後の記憶が飛んじゃってるみたいだけどね」
「記憶が……」
 よくKOの壮絶さを表現するために「意識が吹っ飛ぶ」というが、実際に意識と同時にKOされた前後の記憶が飛ぶということはあるし、テレビで見る格闘技イベントでもそのような光景は目にする。
 とはいえ、まさか自分の目の前でそんな事態が起きるとは思いもしなかった。いや、格闘技とはそういう危険性のあるものだと頭では理解していたが、まさか……
 俺は改めて格闘技の、そしてこの事態を引き起きた張本人にして、今の試合の勝者――早坂虎奈の恐ろしさをまざまざと感じるのだった。
 竜平さんは舞花を母屋の方で介抱すると言って道場を去ってしまい、次に早坂へ挑む静花さんはセコンド皆無の状態となってしまう。
 俺は大丈夫なのかと心配に思うが、当の本人は問題としていない様子だった。
「私も舞ちゃんと同じで、あまり試合中に父の指示を受けないんです。こんなところだけは、姉妹揃って同じなんですから不思議なものですよね」
 静花さんは、彼女にしては珍しい悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「でも、静花さん。相手はあれだけ強くて……本当に大丈夫なんですか?」
「見守っていてくれる人がいるなら、それだけで戦えます」
「え?」
 見守っていてくれる人? 久野流格闘術側の人間って今いるのは静花さんと――
「貴之君が……仲間が一人でもいるなら心強いですよ。じゃあ、いってきますね」
 主審の呼ぶ声が聞こえ、いよいよ次の試合が始まるようだ。しかし、俺の頭の中では静花さんの口から発せられたある言葉が渦巻いていて、それがよくわからずにいた。
「ファイッ!」
 気がつくと、主審が試合開始の掛け声を上げていた。
 その声に目が覚め、俺は頭をクリアにして道場の中央に集中する。
 さて、この試合はどのようになるだろうか。
 静花さんは組み技を中心とした技術の使い手で、どちらかといえば相手の出方を見て、受けに回るタイプである。それは俺や舞花との組み手から見た分析だが、間違っていないと思う。
 一方の早坂虎奈。まだ先ほどの舞花との一戦しか見ていないが、やはり相手の動きを見てから技を返すタイプだったように思える。突撃してきた舞花への足払いを決めるまで、彼女は攻め込まなかった。勝負を決めた一撃KOのパンチも、舞花の連打をしばらく避け続けて最後に放ったものだった。
 当の二人はというと、試合開始からしばらくして、いまだにファーストコンタクトはない。
 だが、静花さんが開始の位置から徐々に詰め寄っているように見える。剣道のすり足のようにジリジリと近付き、両手は開いたまま前に構えている。組み手の時には見せなかった動きで、自ら先手を取りにいっていると見ていいだろう。
 静花さんの体全体から、凄まじい覇気が発せられているように感じられ、見ているだけで緊張がする。一方の早坂は動かず、相変わらず構えてもいない。
 この息が詰まる時間に終止符を打ったのが、後手に回っているように見えた早坂虎奈が動いた時だった。
「ダウン!」
 飛び込み様の右フック。とはいえ、俺はインパクトの瞬間をまともに確認できず、静花さんが腰からストンと崩れ落ちるのが見えただけなのだった。
「ワン、ツー、スリー、フォー……」
 静花さんは立ち上がった!
 やはりこの早坂は、格が、そして次元が違う。もはやわけがわからない強さといっていい。
 立ち上がって審判から試合続行の意思確認を受ける静花さん。幸い続行可能なようで、審判の問いかけに対してしっかりと反応している。
「ファイッ!」
 静花さんは試合再開直前にこちらに向かって親指を立てる仕草をして、自分は大丈夫だとアピールをした。
 俺はそれを見て頷くことにした。というか、そうせざるを得なかった――彼女の試合を見届ける、仲間として。
 ダウンを奪った早坂は、何やら自らの右の袖口を左手でつまみ、静花さんに見せつけているようだ。その表情はどこか相手を嘲け笑っているように感じられるが、意図がわからない。
「こら、早坂。挑発行為はやめなさい」
 そうしていると、剛王館陣営から声が飛んできた。セコンドの水原館長が今の早坂の振る舞いに注意をしたようだ。
「――申し訳ありません」
 早坂は水原館長に軽く頭を下げて、次に静花さんにやや深めに頭を下げた。
 今の袖口を見せつけた行為が挑発? どういうことだ?
 静花さんは険しい顔をしてグッと早坂を見据えている。その表情から、完全に心情を読み取ることは俺にはできないが、今の早坂の行為にイラッとくるものがあったのかもしれない。彼女が拳をギュッと握っているのがうかがえたので、一層そうだと思えたのだ。
「ファイッ!」
 そうこうしているうちに試合は再開された。今度は少し大きなステップと共に早坂の懐へ飛びこんでいく静花さん! おいおい。口出しはしないと思っていたが、少し大胆過ぎやしないか?
 早坂は腰を落として迎え撃つ様子。そして、迫る静花さんにまたも右のフックを放つ!
「うおおおお!」
 次の瞬間――俺は目の前で起こった光景に対して、思わず我を忘れて叫んでしまった。
 早坂の右フックは、確かに静花さんの顔面に炸裂した。しかし――それは完全に振りきれていない。
 静花さんの左手が、早坂の右の袖を握っていたのだ。そして、彼女の右手は……早坂の道着の襟をしっかりと掴んでいた!
 そうか! 静花さんの狙いはこれにあったのだ。
 下手したらKO負けというリスクを冒してまで、静花さんは自分が技を仕掛けるチャンスを――文字通り掴み取った。
 一回目の試み、つまりこの試合のファーストコンタクトの時には失敗に終わった。早坂は静花さんの狙いに気付いており、あの挑発をしたのだ。この袖が取りたいのだろうと静花さんに見せつけたということか……
 だが二回目にして、見事に静花さんは早坂の右フックをキャッチした。まさに、静花さんにとってはギリギリの駆け引きだったわけだが、ともかくこれで攻撃のチャンスが巡ってきたことになる。
 一瞬の間に静花さんの左手は早坂の右手首から右の肩口に移った。よし、これならもう投げる体勢になっている! やってやれ! 静花さん――
「うあっ?」
 いざ早坂を投げようと体を捻った後――静花さんが倒れ込んでいた。
 そこに至るまでの過程は、俺ごときでは目で追い切れなかった。静花さんの右腕を早坂の右手が掴んだところは見えた気がするが……そして、くるりと静花さんの体が宙を回ったような……
 静花さんはうつ伏せになるような形で道場の床に顔を付けている。早坂は静花さんの右腕を両腕で抱えて組み伏せている姿勢だ。静花さんの右腕は道場の天井に向かって真っ直ぐと伸びているようで――これって、脇固めって技か?
 早坂の右の脇ががっちりと静花さんの二の腕を挟みこんでいる。たしかこの技って、きちんと極まったら相当やばいと聞いたことがあるのだが……
「私の打撃を受け止めたことは、素直に賞賛します。でも……そこまででしたね。残念ながら、あなたの技量では私を投げることはできない。うん、それだけです」
 試合中にも関わらず、早坂はよく通る声で悠々と語り出した。剛王館陣営に目をやると、水原館長はやれやれといった顔をしてはいるが注意する気はないようだ。
「ぐっ、ぐぐ……」
 静花さんは苦悶の表情を浮かべながら早坂の技を解こうとしているが、技をかけている本人は微動だにしない。この光景を目の当たりにするだけで、両者の間に埋めようのない実力差があることがわかるような気がする。
「えーと……あなたと先ほどの打撃系のおチビさんって、姉妹なんでしたっけ。うん、そこそこに堪能させて頂きました。強いて言えば、殺気はあなたの方が上でしたかね」
 涼しげな顔で早坂は続ける。静花さんは特に反応をしないようで、まだ抵抗を試みている。
「このままいけば、肩と肘が壊れるんですけど、どうします?」
 今の発言の語調も、先ほどまでと変えることなくゆったりとしたものだった。
 そうだ――この脇固めという技、かけ続ければ肩が外れ、肘関節が破壊されると聞いたことがあった!
 ここまで試合中に語り続けていた早坂に唖然としていた主審が、静花さんにギブアップの意志を口頭で尋ねた。静花さんは首を横に振り、まだ試合を続行する様子。
 ここで俺も、慌てて背後にあった物体の存在を思い出し、それを掴む。それは白いタオルだ。
 これを試合をしている二人の所へ投げ込めば、セコンドの判断でこちら側――つまり静花さんの負けを認めたこととなる。いわゆる、タオル投入によるテクニカルノックアウトってやつだ。
「静花さん!」
 俺はタオルを握りしめたまま彼女の名前を叫ぶ。今度はこちらから彼女に呼びかけるのだ。
 静花さんは俺の声に反応を見せ、言葉ではなく目で自らの意志で伝えてきた。
 自分はまだやれる。続けさせてくれというような強い闘志に溢れた眼光が、タオルを投げ込もうという気を躊躇させる。本当は、静花さんの意志とは関係なしに投げてしまおうと思っているのだが……
「あらら、ずいぶんと粘りますね。仕方がありません――」
 ギブアップをする様子がない静花さんに対して、早坂は呆れたといった口調で一言つぶやき、少し手元を動かした。
「ああああああ!」
 早坂の手の位置が変わると、あっという間に静花さんが悲鳴を上げてしまった。恐ろしいことに早坂は、肩と肘に加え、容赦なく三ヶ所目の手首を極めにかかったのだ!
 今まで聞いたことがなかった静花さんの悲鳴は、もはや俺にタオルを投げさせることをためらわせなかった。
 主審の視界に入る位置に、俺が投げたタオルがはらりと落ちると、すぐさま主審は試合を止めた。こうして、静花さんの負けが決定したことになる。
 肩を主審に叩かれ、早坂は静花さんの体からすっと離れて開始線に戻った。
 静花さんも立ち上がり、無言で開始線に戻って試合終了の宣言を聞いた。
 剛王館側に一礼をしてから静花さんはこちらに戻ってくる。
 彼女と目が合った時、俺はおずおずと声をかける。
「あの……その、ごめんなさい」
 まず口にしたのは、静花さんが強い瞳で試合を止めることを拒否していたにも関わらずタオルを投げてしまったことの謝罪だ。
「でも、俺は静花さんのためを思って……あのままじゃ、静花さんが――」
「わかっていますよ。気にしないでください。実は、貴之君なら私の意志とは関係なく止めるかなあなんて思っていました……」
 俺の弁解が詰まったところで、静花さんは試合前の時のように悪戯っぽく笑って言う。しかし、当たり前といえば当たり前だが、言葉の端々に元気がない。
「そう、ですか……そういえば、腕は大丈夫ですか?」
 どこか気まずいので、話題を静花さんの腕の具合に変えた。
「それなら平気ですよ。――早坂さんってば、相手を破壊しないギリギリの加減っていうものを心得ているようでしたから……」
 静花さんは技を受けていた方の腕をさすりながら、自分の戦っていた相手について重々しく語る。
「やっぱり、彼女は別次元の強さですね。悔しいですけど、私達姉妹は早坂さんには完敗でした。だ、だから――」
 だから、貴之君には次に出て欲しくありません。――と、最後は聞き取れない小声で静花さんは言った。
 うん。まあ、そうだよなあ。当たり前だ。
 静花さんが負けたということは、久野流格闘術の三番手にして最後の選手。つまり俺が、あの早坂虎奈と戦うことになるわけだ。
 俺がこの道場に入門して以来、俺は舞花と静花さんを完璧な形で打ち負かしたことは一度もない。それは揺るぎない事実であり、ここまで完璧だと恥ずかしいという気持ちすら最近では起こってこない。
 その俺が勝つことのできない久野家の双子姉妹を、あっという間に一捻りしてしまった早坂虎奈だ。三段論法は格闘技の世界において禁物だが、早坂と戦えば俺の敗北は火を見るより明らかなものだろう。
 だが、しかし――
「静花さん。俺はやりますよ」
「…………」
「舞花も、静花さんも頑張ったんです。最後に残った俺も、同じようにやるしかないでしょう。静花さんも言ったじゃないですか――俺もこの道場の仲間だって!」
 ああ……我ながらかなり熱く、恥ずかしいことを口走ってしまった。
 だが、紛れもなく今の言葉は本心から出たものだ。
 同じ道場で汗を流し、稽古が終われば語らい、おまけに同じ釜の飯まで食らっている俺と、久野家の人達。昔道場に通っていた時にも感じた、『仲間』という意識は当然彼女達との間にも芽生えている。静花さんはそれを口に出して言ってくれた。舞花や竜平さんもそう思ってくれているだろう。
 だから――
「俺にも、仲間と戦ったって証を残させてください!」
「貴之君……」
 静花さんは俺の目を見て、少し間を置いてからにこりと微笑んだ。
「わかりました。それなら、精一杯頑張ってきてください。じゃあ今度は、私があなたを見守る番ですね!」
 ここで俺は格好をつけて、何も言わずに一回頷いてから静花さんに背中を向けた。
「――行ってきます」
 試合の開始線に向けて一歩を踏み出すのと同時に、彼女にだけ聞こえるように出陣の言葉を述べた。我ながら、決まりすぎじゃないかと思ってしまった。
 うーん。こう無理に格好をつけて気を逸らせておかないと、とてもじゃないが試合には臨めないよなあ……
 正直に言えば、静花さんにああは言ったが――内心はめちゃくちゃビビっている。
 開始線につくまでに足がすくんだり、腰が引けたりはしていないようだが、あの早坂虎奈と戦うことが近付いてくるとなると――帰りたくなる。
「剛王館! 開始線に来て!」
 主審はまだ開始線についていない早坂をこちらに呼び寄せた。
 あれ?
「早坂ぁっ! これがお前のメインイベントだぞ!」
「虎奈様! 頑張ってください……」
 先の二試合にはなかった、剛王館陣営の早坂を駆り立てる声援。
 そういえば、どことなくこちらへ向かってくる早坂の足運びが重いような……
「ええ、それではこれより――」
 主審による試合前の説明を聞いている間、早坂はこちらに目を合わせて来なかった。
 何やら、先ほどまでと打って変わって彼女から背筋も凍るような殺気を感じられない。どこか余裕がない面持ちというか……よく見ると、額に汗が?
 もしかして、スタミナでも切れているのか? それとも、どこか怪我をしたとか?
 いや、怪我をしているのなら剛王館陣営は彼女を試合に送り出さないだろう。
「それでは――構えてっ!」
 目の前の対戦相手について考えているうちに、とうとう試合が始まる。頭を切り替え、ふうっと息を吐いてからいつも通りのオーソドックスの構えに入る。
 臨戦態勢になって対峙をしても、やはり早坂に威圧感はない。
「ファイッ!」
「貴之君! 頑張って!」
 主審が上げた開始の合図、そして静花さんの声が聞こえた。
「うおわああああ!」
 舞花よろしく、俺は叫ぶ。あとはもう体を動かすだけだ。
 拳を出せば、空を切るだろうか。それとも掴まれてそのまま倒されるだろうか。最悪、カウンターを合わされて一撃KOを喫するか――
 迷っていてもしょうがない! どうせ何もしなくても負けてしまう!
 もしかしたら腰が引けていたかもしれないが、俺は左ジャブを放った。
「じょ、場外っ!」
「ああっ! 虎奈様……」
 俺の左ジャブは案の定早坂にかすりもしなかった。早坂は俺が一歩踏み出すのと同時に、その体を大きく後方に飛んだのだ。それはバックステップなんてものじゃなく、ワイヤーアクションのような大ジャンプだった。
 俺はあまりの出来事に構えを解いてしまった。
「虎奈様、お気を確かに! 相手は先の二人よりはずっと弱いですよ!」
 さっきから早坂の名前を叫んでいる長見純。何やら勝手に俺の実力を見立てているようだが、残念ながら反論の余地はない……
 そんなことより問題は早坂だ。お気を確かに? やはり彼女は本調子ではないのだろうか。
 さっきから、この道場に入ってきた時や試合で見せていた威圧感というか殺気が、全く感じられない……
「ファイッ!」
 試合は再開された。再び構え、俺は意を決してジリジリと距離を詰めていく。早坂はそれを見て、素早いステップで俺から距離を取る。どことなく、対戦相手を誘い込む動きというより、ひたすら逃げているだけという印象を受けてしまう。
 第一、早坂の顔がどこか引きつっているのだ。距離を詰めるのを止めて表情をうかがった時に、目がチラッと合ったが彼女は顔を背けて、再びバックステップで大きく離れる。
 ――まるで、俺に対して恐怖心を抱いているようにさえ思える早坂の動き。これはいったいどういうことなんだろう……
「早坂! このままじゃお前の負けだぞ!」
 遂に水原館長が声を張り上げた。攻撃を仕掛けない早坂に対し一喝をしたのだ。
 それを聞いて早坂は足を止めて、こちらを見据える――
「うっ!」
 来た! あの強烈な殺気だ! 一瞬、全身が硬直してしまう。
 そして、その隙を狙い――早坂が飛び込んでくる!
「うわあああ……あ?」
「ん、んぎぎぎぎ……」
 足がすくんで、さらには悲鳴を上げてしまった俺だったが、目の前で起きている光景に拍子抜けした。
 おそらく早坂は、静花さんからダウンを奪った飛び込み様の右フックを俺にも打とうとしたのだろう。
 だが早坂は、俺の目の前で着地したはいいが、フックを当てずに腕を振り上げたままなのである。その顔にははっきりと汗が浮かんでいて――というか、尋常じゃない量が流れている。こいつ、本当に大丈夫か?
「貴之君、今がチャンスですよ!」
 軽くパニックになりかけていた俺の耳に、静花さんの声が届く。
 うん。もしかしたら、早坂に攻撃を当てるチャンスなのかもしれない!
 いったい早坂に何が起こっているのかわからないが――いかせてもらう!
「はあ!」
「あっ」
 果たして彼女を投げられるのか自信は無かったが、とりあえず襟を掴んでやろうと俺は手を伸ばした。
 しかしそこは早坂虎奈。振り上げていた右手で、掴みにかかった俺の手を払いのけたのだった――が、俺の手が触れた瞬間に、彼女の顔から一気に血の気が引いていく。
「にゃ、にゃふうううううううう……」
 次の瞬間、早坂はまるで全身の骨がなくなったかのようにぐにゃりと床に倒れ込んだのだ。
 な、なんだこれ?
「え、これは……えーと。ダ、ダウーンッ! ワン、ツー、スリー――」
 俺と共に倒れた早坂を見下ろしていた主審は、ようやく審判としての判断を下した。どうやらダウンらしいが、いいのか? いや、実際倒れてはいるが……
「フォー、ファイブッ……ノックアウト! 勝者、久野流格闘術!」
 なんと、勝ってしまった。あれだけ強かった、早坂虎奈に……
「って、ちょっとちょっと! だ、大丈夫か?」
 よく見ると、倒れていた早坂は白目をむき、口から泡をふいている! 顔面蒼白のままで、完全に意識はないようだ!
「ぐああああ!」
 尋常じゃない様子を悟った俺は、彼女に一歩近づき意識の有無を確認しようとした。だが、彼女の体に手を伸ばそうとした時、横から強い衝撃を受け吹っ飛んでしまう。
「虎奈様に触れるなあっ!」
 痛みをこらえて体を起こすと、剛王館の一番手にして先ほどまで早坂に声援を飛ばしていた長身の美少女、長見純が鬼の形相で俺を見下ろしていた。どうやら、俺はこいつに蹴り飛ばされたようだ。
「ちょ――」
 俺が何か言い返すより先に、彼女は早坂の体を抱きかかえに走り、名前を呼び続ける。
「虎奈様! 虎奈様! くそ……この弱点さえなければ、こんなことにはならないのに!」
 長見は顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。ああ、何がなんだかわからない。
「勇見君だったかな。いやあ、すまなかった」
 呆然としている俺の目の前に、剛王館の水原館長が現れる。
 俺はこれを絶好の機会に思い、この意味不明の状況の説明を頼むことにした。
「あの、早坂さんっていったい……」
「あいつはね。極度の男性恐怖症なんだよ」
「へ? 男性恐怖症、ですか?」
「剛王館の女子――いや、日本全国の格闘家の中でも早坂はおそらく五本の指に入る天才さ。寝ても立っても何をさせても、同年代じゃ敵はいない紛れもなく最強の女子高生なんだ。でもね……唯一にして最大の弱点が、それなんだよ。男に触れただけであいつは気を失ってしまうんだ」
 なんだそりゃ。いや、そういう事情があるなら俺が彼女に勝てたのも納得できるのだが、唐突過ぎてリアクションに困ってしまう。
「君を今蹴り飛ばした長見は、早坂と同じ年で相当強いんだがね。一度早坂にコテンパンに負けてから付き人みたいなことをやっているんだよ。早坂の圧倒的な実力に惚れ込んじゃったんだろうなあ。長見が自分に課した仕事の中には、今みたいに男の手から早坂を守ることも含んでいるんだ。だからあいつも、悪気があってやってるわけじゃないってことを承知して欲しい。私が剛王館を代表して君に詫びるよ。――すまなかった」
「い、いやいや! 頭を上げてください!」
 剛王館を代表してと言ったが、館長は実際に剛王館のトップじゃないか! それが俺程度に頭を下げるなんて! 俺はすぐさまその謝罪を受けて、長見の蹴りに関しては許すことにとした。水原館長はお礼を言いながら頭を上げた。
「今回の道場対抗戦が、早坂の弱点克服のために役に立つのかと思ったらやっぱダメだったかあ……一筋縄じゃいかないなあ」
 ひとり言をつぶやくようにして、水原館長は去っていく。そして、早坂の顔を一度覗き込んでから、こちらへ振り向いた。
「次にこっちから出る私の息子なら、君とはいい勝負ができると思うからせいぜい頑張ってくれよ」
 ああそうだ。まだ試合は残っていたんだよな。
 久野流格闘術道場と剛王館による、あまりにも規模に差がある両道場の対抗戦。そのラストを飾る、俺と水原高春の試合がまだあったのだ。

「怪我などは――ないですよね?」
「はい。問題はないみたいです」
 俺なんかじゃ手も足も出ないと思っていた早坂虎奈が、まさか触れられただけで失神するほどの男性恐怖症だとは驚きだった。それは、早坂に敗北を喫した静花さんも同じだったようで、俺以上にコメントに困っている様子なのだ。
「とにかく今は、次の試合に集中しましょう!」
「そうですね……俺にとっちゃ、これからが本番だ」
 今一度グローブの具合をチェックし、道場の中央に歩み出す。
 この対抗戦最後の試合。両道場の大将――俺と水原高春が向かい合った。
「ええ、それではこれより――」
 今日でもう五回目となる主審によるルール説明。向き合う水原高春は俺より身長は高く、百八十センチ近くはあるだろうか。手足の長さにも明らかな差が見えるのが不安材料だ。
「いやはや、長見さんが全員片付けると思ったんだけどなあ……」
 水原はグローブをポンポンと叩きながら苦笑する。こいつ、こちらにわざと聞こえるように言ったのか?
「それでは構えて!」
 こちらに目を合わせ、水原は軽く笑みを浮かべてから手の位置を高くして構えた。右足が前、左足が後ろのサウスポースタイルだ。俺とは逆の構えで、相性の悪い相手になりそうだ……
「ファイッ!」
 試合開始直後、水原はすぐさまジャブを放ってきた。
「くっ!」
 いきなりの攻撃に反応できず、それをまともにもらってしまった俺は頭を揺らされる。続けて飛んできた二発目のジャブはかろうじてガードし、水原から距離をとることにした。
 サウスポー選手の放つ右のジャブ、しかもリーチで勝っている水原のそれは、想像以上に俺のことを突き放す。さて、どうすればいいか……
 水原は笑みを浮かべながら俺に絶妙な距離まで近づいて、またも右のジャブを放つ。そしてすぐに離れる。
 くそ、いやらしい戦い方だ!
「ちっ!」
 俺は玉砕戦法を試みた。ジャブが飛んできた瞬間に一気に距離を詰め、向こうの攻撃をもらうのを省みず――奴の懐に飛び込むのだ!
 ジャブはもらうが、少し左に体を流しながら水原に手を伸ばす! その時――
「甘いね!」
 右のジャブを素早く戻し、水原の左ストレートが俺の頬にめり込んだ。
 のけ反った俺の腹部にまたも衝撃が走る――今のはミドルキックだろうか。
「貴之君!」
 静花さんの声が聞こえた。俺は痛みをこらえ、がっちりとガードを固めてその場に踏ん張った。やばい……この水原高春は、剛王館館長の息子という地位に甘えたおぼっちゃんで、実力はそれほどではないと正直思っていた。しかし、いざ試合をしてみると、そのリーチとサウスポーの構えを活かした堅実な戦い方をするではないか。
 ガードの上からジャブを数発もらい、時折ローキックやミドルキックも受けてしまう。もはやサンドバック状態だ……
「あ……がっ!」
 ガードの隙間をかいくぐり、鋭いボディへの一撃が腹部に突き刺さった! 俺は倒れそうになるが、決死の覚悟で奴の道着の一部を掴みにかかる。
 なんとか上着に手がかかったが、腕力で振り払われ体が流れる。ちくしょう、もうフラフラだ……
「ふっ!」
「ダーウンッ! ワンッ――」
 死角から飛んできたのか、それとも単純に見えなかっただけなのかはわからないが、側頭部に強烈な衝撃が走って俺は倒れたようだ。
「ツー!」
「ああっ、貴之君……」
 どこか遠くから、次のカウントが聞こえたような気がする。そのさらに遠くから、女性の声がした。これは静花さんの声だろうな……
 意識が遠のく中で耳に入る声――思えば、二学期が始まってすぐにこれと似た経験をしていたんだよな……
 人生とは不思議なもので、あの時の加害者と今日まで一緒に汗を流すことになり、同じ道場の仲間として試合までしちゃってて……
「スリー!」
 まったく――
「フォー!」

「おらああああ! 貴之ぃっ! 何やってんだこらあああああ!」

 え?
「ファイ……」
 カウントが途中で止まった。
 いやいやいや――それより問題は、その前に聞こえてきた怒声だ。遠くから聞こえてきたようではなく、脳みそに叩き込まれたような大声だった。
 声のした方向を振り返ると、舞花が立っていた。
「次期総帥の……このあたしがスカウトした人材が、このあたしが認めた人間が、負けるなんて……許さないんだからねえええええ!」
 早坂虎奈にKO負けをして、介抱のために竜平さんに母屋に運ばれた舞花が久野流格闘術陣営に堂々と立っているではないか。
 はっきりと見える。彼女は両手をプルプルと震わせ、大きな目に涙を少し浮かべながら俺を睨みつけている……
「君、まだ続けられるか?」
 舞花に気を取られていたところだったが、横から主審に声をかけられた。まだ続けられるかって? えーと……
 ああ、そうか。俺、立ち上がったんだ。
 ダウンを喫して意識が飛びかけるも、美少女に名前を呼ばれて復活って――
「出来過ぎてるだろ……」
「えっ、なんだって?」
「はい。続けられます。試合を再開してください」
 俺は主審にはっきりと返答した。
 ああ、本当に出来過ぎてるよ。まるで漫画みたいだ。
 だが……こうなったら、やらなきゃ男じゃないだろうが!
「ふっ。あのハイキックをもらって立ち上がるなんて、すごいじゃないか。あの可愛い総帥代行さんの呼びかけのおかげかな? いやあ……」
 水原は呆れた様子で声をかけてきた。ああ、もう勝手に言いやがれといった感じだ。
 俺は奴の目をキッと見据えて、再び構える。
「――ファイッ!」
「おあっ?」
 俺は再開の掛け声と共に飛び膝蹴りをぶちかました。水原は正面からガードをするが、かなり驚いた様子。どうだ、お前の言った可愛い総帥代行お得意の奇襲攻撃だ!
「はああっ!」
 水原はミドルキック。だが、俺は構わず突進する。
 そして、渾身の右ストレートを放った。水原はそれをもらってバランスを崩し、この試合初めての俺の有効打となった。うん、手ごたえは確実にあった。
「おりゃああああ!」
 隙ができた水原に、俺はバックハンドブロー。残念ながら空転したが、水原はまたも下がる。
「貴之君! 来ますよ!」
 静花さんの声が聞こえた。体勢を立て直した水原が、再び右のジャブを連発してきたのだ。
 高めに構えた手のひらで、その何発かを払いのけることに成功する。疲労とダメージは溜まってはいるが、だんだんと奴のジャブが見えてきたような気がするのだ。
「くそ……!」
 今度は水原の方から強引に距離を詰めてきた。打点の高い膝蹴りは繰り出してきたが、しっかりとあごを守って受け止める。
 ここからはもう乱打戦だ。お互いにガードが甘くなるが、気にせずに腕を振るいまくる。
「はあ、はあ……」
「うぐっ!」
 鼻っ柱に水原のストレートが直撃した。俺はフックを返す。
 このフックのおかげで水原やや下がり、若干こちらが優勢になる。
 なんだ。水原もたしかに強いのだろうが、舞花の鬼のようなラッシュに比べればまだまだじゃないか。
 それに、あいつに比べれば精神的に迫ってくるようなものもずっと弱い!
 うん。生意気を言わせてもらえば……負ける気がしないっ!
「おりゃあああ!」
 よし、これでもう最後にしよう。久野流格闘術に入って鍛えてきた全てを、ここで絞りつくす――
「ダーウンッ!」
 全身全霊を込めて打ち込んだ俺の攻撃は、水原にクリーンヒットした。
 奇しくもその一撃は、舞花が俺を学校で殴り倒した時と同じ、アッパーカットだった。
 主審は大の字で倒れた水原の顔を覗き込むと、カウントをしないで試合を止める。
 ということは――
「勝者! 久野流格闘術!」
 一瞬の沈黙の後、俺は崩れ落ちた。
 どうやら勝利を掴み取った達成感より、疲労感の方が上回ってしまったようである。
「おっしゃああ! やったじゃないの貴之っ! さすがあたしが見込んだ男!」
「舞ちゃん! 貴之君は試合を終えたばっかりなんだからやめなさい!」
 舞花がへたり込んでいる俺に飛びついてきた、俺の状態などお構いなしにケタケタと笑いながら背中を叩きやがる。静花さんも駆け寄り、舞花を引きはがそうとする。
 双子の美少女姉妹にもみくちゃにされるなんて、健全な男子高校生なら感涙ものの出来事だろうが、残念ながら今の状態じゃまともにそれを感じれない……
「さ、みんなで整列だ。勇見君、立てるかい?」
 竜平さんに促され俺は立ち上がる。この時、静花さんはもちろん舞花までが肩を貸してくれた。
 向かい合う久野流格闘術と剛王館の面々。
 長見純は、こちらをほとんど見ないで隣の早坂虎奈の様子を気にしている。
 当の早坂はいまだ青白い顔のままで、うつむいている。
「本当なら……本当の実力を出せれば、虎奈様はあんな奴には負けないのに……」
 何か言われているようだったが、今は気にしない。
 水原高春は先ほど意識を取り戻したようで、敗北したことを受け入れ意気消沈といった感じだ。
「それでは、今回の道場対抗戦は久野流格闘術の勝利ということに決まりました。
 一同、礼っ!」
 ああ、今になって勝利を実感できた気がする。そう、これは俺一人の勝利ではなく、久野流格闘術の仲間と共に掴んだ勝利なのだ。
「うわ……すげえ青春っぽい……」
「あん? あんたなんか言った?」
「い、いや! なんでも……ねえよっ!」
 我ながら、すごく恥ずかしい感想が口から漏れてしまったぞ……
 だが、それは紛れもなく本心から出たものだし、堂々と恥ずかしがってやろうと今は思うことにした。

 対抗戦の翌日。この日は日曜日だったが、全身を襲う痛みで終日寝っぱなしだった。
 本当はあの後に祝勝会を竜平さんは企画していたそうだが、俺を含めみんな疲労の色が濃かったため中止となったのだ。これは全員納得ずくのこと。
 それでも夜に、竜平さんから激励の電話が改めてあった。ちなみに竜平さんは今日、昼間っから悪友である水原館長と再開を祝して飲みまくっていたそうだ。
 正直勝てると思ってなかったとか、館長の息子である高春は負けたことで一からビシビシ鍛え直すことにしたとか、色々なことを聞いた。その中には、早坂虎奈はあの極度の男性恐怖症故に、女子高に通っているというプチ情報もあった。
 舞花と静花さんも、今日はキッズクラスの開講を中止して一日中休んでいたらしい。そういや、あいつらにも勝利の報告をしてやらないとな。一日先生をやった仲だし……
 電話を切る前、最後に竜平さんは対抗戦に出てくれて本当に感謝しているということを俺に伝えた。そして、娘二人も月曜日に学校で感謝の念を伝えたいと言っていたそうだ。
「感謝の念ね……」
 何か照れ臭いなあと思いつつ、完全に疲れと痛みを消し去ろうとこの日も早めに寝ることにして、ベッドに寝転んだ。

 月曜日。教室に入るとすでに静花さんの姿があった。
「あ、貴之君……おはようございます」
「おはようございます」
 静花さんは照れ臭そうにしながら、あいさつを交わした後に話を切り出した。
「今日のお昼休み、空いてますか?」
「はい。学食にでも行こうかなあとかぼんやり考えてたくらいで」
「よかったあ……」
 俺から今日の昼休みの予定を聞き、ほっと胸をなで下ろした。
「今日は、貴之君にお弁当を作ってきたんですよ! そ、その……土曜日のお礼に!」
「ええ? 本当ですか?」
 なんだって? それはむちゃくちゃうれしいサプライズだ!
 と、同時に――一也を筆頭として教室にいたクラス中の男から、殺意に満ちた視線を浴びていることに気付く。
 すまない。本当にすまない。――だが、今はこの幸せに溺れさせてくれ……

 昼休みになった。さすがに教室で一緒に食べるのは色々と気が引けるので、手ごろな空き教室に二人で入って弁当を食べることにした。
 おいおい。これって本当にいい感じではないか? この年頃の男子なら、誰もが憧れるシチュエーションのオンパレードじゃないか! 手作りのお弁当に二人っきりの空き教室って……
 もちろんお弁当も最高の味で、もしかしたら俺は高校生活の中でピークを迎えているのではと思ってしまった。
「本当に貴之君には感謝の気持ちでいっぱいなんです。それに、貴之君の戦う姿には純粋に感動しちゃいました」
「いやあ、俺なんてまだまだですよ……」
 楽しい会話が続くが、俺を持ち上げてくれる言葉ばかりで少々背中がかゆい……
「竜平さんからも、お礼は電話で言われたんですよ。酒が入っていたせいか、ところどころが聞き取りにくかったけど……」
「それはお恥ずかしい限りです。そういえば、酔った勢いで私達にも色々言ってきて昨日は困りましたよ」
「へえ。例えばどんな?」
「剛王館に勝ったしこのまま全国制覇だとか、次は世界だとか、貴之君には婿に来てもらおうとか――」
「え?」
 何か最後にすごい内容が聞こえた気がするが、気のせいだったろうか。
「わわわわっ! 今言ったことは忘れてください! 私、それを聞いて『ちょっといいかも』なんて思ってなんか全然ないですから――って、だからといって貴之君とそういうことになるのが嫌とは思ってなくってうわわわわわっ!」
 静花さんはすごい勢いで錯乱状態に入った。何を言っているのかよくわからない状態だが、やはり爆弾発言があったような気が……
「私。飲み物で頭冷やし……じゃなくて! 飲み物を買ってきますね! 貴之君はいちご牛乳でいいですよね? 行ってきます!」
 そうまくし立てると静花さんは顔を真っ赤にしながら教室を飛び出していった。
「…………」
 今はおとなしく待つことにしよう。戻ってきた時には、彼女も正気を取り戻しているだろうし。
 しばらく窓の外をぼんやり眺めていると、教室に誰かが入ってきた。静花さんにしちゃやけに早い気がするが――
「ま、舞花?」
「静花がすごい勢いで出てきたからまさかと思ったけど、ここにいたんだ」
 そう言ってつかつかと近寄ってきた舞花は、実に真面目な面持ちだった。
 普段は見せない真剣な表情をした彼女の突然の来訪に、俺は一瞬ドキリとしてしまう。
「な、なんだよ」
「あんたに言いたいことがあってさ……もう、本当に探したんだから……」
 強い意志のこもった大きな瞳は、まっすぐとこちらを見ている。
 や、やばいぞこれ……
「こういうことって、ちゃんとした姿勢で聞いて欲しいの。だから、立ってくれない?」
 俺はすぐさま立ち上がった。今の舞花は、反論ができる雰囲気じゃない。
 それにしても、『こういうこと』ってなんだ?
「舞花。何が言いたいんだよ」
 おい、まさかとは思うが……
「あんたに、申し込みたいことがあって。うん、土曜の夜から言おうと決めてたの」
「…………!」
 きた! おいおいおいおい。これってもしかして、もしかするんじゃないか?
 申し込むってあれだろ? 付き合って欲しいってことじゃないか?
 なるほどねえ……自分で言うのもなんだが、納得できる部分はある。
 出会いこそむちゃくちゃだったが、一緒に道場で稽古に励み、同じ釜の飯を食った仲。しかもそれが年頃の男女なのだから、恋愛感情が芽生えてしまってもおかしくはないだろう。
 土曜の夜から告白しようと決めてたってことは、対抗戦での俺の勇姿を目の当たりにして告白をすることに踏ん切りがついたってとこだろう。
 そうなるとあの出会いの仕方も今を思えばロマンチックだったのかもなあ……
 いや、そういえば静花さんの存在もある! もし俺と舞花が付き合うことになったら、彼女はどう思うだろうか? やばいなあ……高校生活どころか、人生におけるピークを俺は今迎えているのかもしれない――
「貴之っ!」
「はいっ!」
 つ、遂にくるぞ。

「あたしと戦いなさい! 今、ここで!」

「えっ?」
 なんだ……そりゃ。
「あんた、あたしと静花が手も足も出なかった早坂虎奈に勝ったんですって?」
「いや、おい……」
「あたしが指導したなら強くなるのは当たり前だけど、まさかそこまで強くなってるとはね……これは指導者として、そして一人の武道家として見過ごすわけにはいかないわ!
 さあ、あんたの成長したところをあたしに見せなさい!」
 こいつ、どこか勘違いしているぞ。いや、死ぬほど恥ずかしい勘違いをしていたのは俺の方だったのかもしれないが……
 ともかく、俺が早坂虎奈に勝てたのはあいつが極度の男性恐怖症だったからだ。もしかして、その勝った理由のところだけ聞いていないのか?
「ちょっと待て! 俺が早坂に勝てたのは――」
「でりゃああああ!」
 俺は本当の事情を説明しようとしたが、舞花は容赦なく飛びかかってきた。
 転がるようにして横に回避したが、そのせいで舞花は机に突っ込んで静花さん特製の弁当がむちゃくちゃになってしまった!
「遠慮なくかかってきなさい! ここが学校でも関係ないのよおおお!」
 立ち上がった舞花は再び襲いかかってくる! やばい、完全にキレてる……
「――いたたたた!」
「せ、静花さん!」
 俺に向かってきた舞花の横から、影が飛び出した。それは静花さんで、タックルをかました後に瞬時に体勢を移行し、舞花に脇固めをかけた。
「舞ちゃん……あなた、毎回毎回ちょっとやりすぎよ……」
 静花さんも完全にキレている! 舞花の腕があらぬ方向に曲がっているのだが……
「静花さんもやりすぎです! ほら、舞花も謝れって!」
 
 舞花が無茶をやって、静花さんが止めに入り、俺はその光景を前にてんやわんや。
 これはすっかりお決まりのパターンになってしまって、毎回本当に大変だ。
 だが、大変だけれど嫌じゃない。
 間違いなく、それはそれで楽しいものなのだから。
 だから今日も道場に行こう。

ビートダウン

ビートダウン

生まれて初めて書き上げた長編小説です。 書いた当時は格闘技ブーム、自分も大好きでしてプロ・アマ問わず様々見ておりました。 なので選んだ題材は当然格闘技、できる限りリアル路線……ということで書いた作品になります。 至って普通の高校生の男の子が主役なので、血飛沫が飛ぶようなことはございません。 ご家族揃って読める爽やかな作品になっております。 ちなみに、どうせ書き上げたなら新人賞に応募してみようとライトノベル新人賞に投稿してみましたが、1次通過はしたもののその後落選致しました。 格闘技が題材は難しい、だとしても必殺技とか無いし地味、試合の描写多すぎ、 などと色々講評を頂き、その通りだなあと思ったものです。

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