Gloon's:風前の灯火編
1-01:夢その1・路面潜水艇
思案橋を抜け、海際目指してひた走る。
ごちゃごちゃ狭いこの町は、海まで一直線の斜面になにもかもが詰め込まれるように建ち並んでいる。家々も、綺麗なドブというほうがしっくり来るような細かな川も、幼稚園も学校も、どこか懐かしい異国の町並みを模した繁華街も。その隙間に身体をねじ込み、すぽんすぽんと転がり落ちるように海際目指して駆け下りる。なにぶん狭く道がのたくっているので、パチンコ台の中のパチンコ玉にでもなった気分だ。ころころころころ、町並みにひっかかりそうになりながらひた走る。
どうしようも無く息が上がってくるのが自分でわかる。わき腹もさっきから不穏な痛みを訴える。もはや開きっぱなしの唇を、蒸気機関の蒸気のごとき激しい吐息がうるうると湿らす。うオオン俺は人間火力発電所だ、いや、なにも生み出してないけど、排気するだけの生き物ですよボクなんて、なんてね。ちょっとした小動物の悲鳴みたいな呼吸を繰り返し、俺はひたすら走る、駆け下りる、逃げる、この町を。
熱帯夜だ。日もすっかり落ち、空には星々が燦ざめきまぎれもない夜の様相を呈しているのにこの暑さ、うだるような熱さ。おまけにこの人出が暑さに救いようのない拍車をかけている。今日は祭りだったか。もともと狭い路地に、やんややんやと老若男女がひしめき居並びうごめいているのだ。いただけない。実にいただけない。見ているだけでむんむんに蒸されてしまう。「見ているだけで」なんて涼しげな他人事を言ってみたが、実際進行方向はすべて黒山の人だかりなので自分も突入して老若男女有象無象のひとつになる他ないのだ。うううイヤだ、俺の身体はこんな人波に揉まれ耐えられるようにはできてない、しかし突入する他ない。目指すは海際、この町のもっとも淵を走る路面電車なのだ。
ええーい南無三!と老若男女有象無象の群へ飛び込んだ。同時に溺れかける。あっぷあっぷしながらイチャイチャと楽しげなアベックや、膝下に海草のごとくまとわりつくがきんちょどもを掻き分け掻き分け進む、いや泳ぐ。時に足を手ひどく踏まれ、また踏み、時に露骨に舌打ちなどされる。なんだとこの野郎舌打ちしたいのはこっちのほうだ人がこうも急いでいるのにイチャクソイチャクソ道を塞ぎやがって。と心の中だけは強気だが、実際ゆるゆるしずしずと祭りの夜を楽しんでいる人々の中こうも汗だくになって疾走しているのは俺だけであり、となると迷惑千万な異分子は間違いなく俺のほうである。わかっているけど急がなきゃ。何も好きで疾走しているわけじゃない。逃げているのだ。俺は逃げているのだ。この町から、あの男から。
急斜面に造られた町にはありがちなことで、海際のわずかな平地ほどいっそう華やいで都会じみるものである。勢い人口も砂糖に群がる蟻のごとく密集するというもので、それが祭りの夜となればそれはもう、もう、ホントのホントに大変なのである。足の踏み場もない。パーソナルスペースなんてものは存在しない。むしろ足が地面につくことがない。有象無象のあいだに身体がねじ込まれ、ずっと浮いているようなものである。ぎゅうぎゅうに蒸されふわふわ浮きながら、誰かの足を踏み踏まれ、罵倒され舌打ちされ、もうイヤだもう限界だもう蒸されてしまう、と根を上げかけたところでようやく地面が水平の兆しを見せた。人混みの汗と制汗剤と、祭りの熱気と火薬のにおいの向こうに、かすかな潮のにおいを嗅ぎ取る。精一杯あっぷあっぷと首を伸ばすと、海際のわずかな平地に鎮座する大通りの真ん中を、たらたらと這っていく路面電車が見えた。
あれを目指していたのだ。
あの寸足らずのバスのごとき小さな路面電車は、上りはまっすぐこの大通りを這い、国営の駅前通りへと向かうが、下りはいずれ大通りから這い出て海沿いに寄り添い、この町の外へと向かう。
せいぜい原付自転車ほどの速度で、幾度も幾度も路面に浮かぶ浮島のようなちんまりした駅に停車しながら焦れったく、しかし確実にこの町の外へと向かう。
この町から無事に出ればそれは逃げ切ったも同然だ。
最後の気力を振り絞り、やんやと騒ぐ人混みを振り切りえいやすっぽんと抜け出ると、大通りの半分、車線にして実に4車線ぶんを一息に駆け抜けた。途中いくつかの癇癪玉を踏みつけ、クラクションを鳴らされた気がしたが、人混みで思いの外時間を食ってしまった、もうなりふり構ってはいられない。大通りのど真ん中、浮島のようなちんまりした駅にちょうど滑り込んできた路面電車へ、俺は奇跡のようなタイミングで乗り込んだ。
背中でぷしゅうと、間抜けなため息のような音を立ててドアが閉まった。市営バスよりも短い寸足らずの車内には、見渡す限り乗客は一人もいない。当然だ。祭りの夜は祭りへ行くものだ。わざわざ町の外に出ようと思う者などいないに決まっている。無事乗り込めたと思うとどっと、町を駆け抜け人混みに揉まれたぶんの疲労がやってきた。俺は存分に乱れた呼吸を垂れ流したまま、銀色に車内を反射する手すりにすがる。ちょうど電車が動き出し、俺は車内を背にし、じりじりと離れていく窓の向こうの喧噪を眺めた。
「精霊流しは見に行ったかね」
ひっ。と、喉が情けない音を立てた。まるで潜めるように、とっさに呼吸を止めてしまう。心臓が喉元と耳元で、痛いほど激しく脈打つ。確かに誰も乗っていないと思ったのに。確かに誰も乗っていなかったのに。耳に覚えがありすぎるほどの、低い、ぬたりと響くその声は、当たり前のようになおも語りかけてくる。
「毎年毎年、よくもまあ飽きないものだ。二、三年ぐらい忘れてすっ飛ばしたって誰も文句は言うまい。そう思わんかね」
いやいや、祭りごとに命を懸けているような町内会の連中なら、確実に暴動くらいは起こすだろう。そもそもこれは、精霊流しは死者のための催しであって、なんて説明したらそれはそれでひどく冒涜的なことを返されそう。それよりもだ。確かに車内には俺一人だと思ったのに。いやそうだ、それで間違いない、確かに俺一人きりだったのだ、見てみろ運転席を。誰もいやしない。アナログを地で行くこの路面電車に自動運転のシステムなんかもちろんついちゃいない。運転席で運転手が四六時中世話していないと一ミリだって進めないような、そんな電車なのだ。もしもこれが現実であればの話だが。
なんだ、そういうことか、あーあ、こりゃあお手上げ。
俺は観念して声のするほう、車内へと振り返る。思いの外すぐ近く、振り返った俺の真正面に想像通りの男が座っていて、そのもはやお約束感に思わず乾いた笑いが漏れた。夏下駄夏足袋夏着物、帯には扇子が挟まっている。ひどい日本かぶれなのだ、この男は。忍者の存在だってまだ信じている。撫でつけた髪の上にはご丁寧にもカンカン帽まで乗っけていて、いや夜なんだから帽子なんかいらねーだろ、とは内心に留めた。この蒸し暑いのに、汗一つくっつけていない、汗の噴き出すところなど想像もつかないような蒼白な頬が神経質にひくつくのを見て、不思議と親しみすら感じる俺は少々おかしいかもしれない。まあ、嫌いではないし、むしろ好きなのだ、この男のことは。
「呉、どうかね」
「見に行くわけないよ、人が多いばかりでさ。アンタの言うとおり三年おきくらいでいいと思うね。そういうアンタは見に行ったわけ?」
「まさか!考えただけで蒸されてしまう」
「ホントだよ。実際茹だったね、俺はちょこっと通っただけだけどさ」
あの蒸し蒸しの人混みを思い出して自然と唇がひん曲がる。しかし俺の名前を呼んで見せた彼はもっと唇をひん曲げていた。こんななりでわりかし想像力豊かだから面白い。想像だけでそこまでイヤな気持ちになれるなら世話無いと思う。
「今宵は町は人、人、人で身動きもできない。息が詰まる。私は繊細なタチだから、あまり人混みに揉まれると具合が悪くなってしまう」
「だぁれが繊細だって?それ面白いと思ってる?」
「深海生まれの深海育ちだ。ご近所さんだって居たことなんかない。町内会もない。つまりデリケートでナイーブで大気圧に弱いのだ、わかったら精々優しくしてくれたまえ」
鳥肌が立つようなセリフとともに、突如室内灯が消え失せた。自分さえ見えないような暗闇に沈み込んだのは一瞬で、すぐさま背後の窓から青黒い光が射し込んだ。無数に踏みつけられ年季の入った電車の床の汚れさえ青黒く照らされ、窓枠や俺の影を一際暗く切り取っていく。そのもっと後ろに、そぞろ得体の知れない影が蠢いている。うんざりしながら振り返ると、そこは海の中だった。もはや遙か頭上に海面があるのが辛うじてわかる。それもじきにわからなくなると予想がつくほど、潜水艇よりもスムーズに、むしろ地上をえっちらおっちら這うよりスムーズに、路面電車は塩辛い水底へぐんぐん急速に潜っていく。
カンブリア期の生き物のような様相をした水棲生物が群をなして窓の外を泳いでいく。巨大な、わき腹に幾つもの目玉を備えたイヤに長い生き物が悠々と併走してくる。その巨大さと言ったら、目玉一つぶんの大きさにもこの路面電車のほうが負けている。その目玉のひとつひとつがぎょろりごろりと好き勝手蠢いて、青黒い光でこちらを照らしているのだった。間違っても水族館にはいない生き物だ。願わくばこの地球上のどこにもいて欲しくはない。そのバカデカいヤツメウナギの際には、死と再生を繰り返すクラゲのような生き物が小判鮫のように侍りながらネオンよりもどぎつい光を発している。分裂し、死んで萎びたり膨らんで生き返るたびにそれぞれが思い思いのネオン光を発しているのだ。光がうるさくてかなわない。窓の外、水底のほうを覗き込めば、水草とも生き物ともつかない中途半端な何かが淡い燐光を放ちながら海面に向かって必死に身体を伸ばしている。伸びすぎた身体は折れることも叶わず、ぎしぎしと苦悶に身体を軋ませるたびに淡い燐光を発しているのだ。水面が恋しいのにどうして水底に生まれついてしまったのか。しかしそのおかげで、いよいよ深海と言える域に潜っているのにも関わらず車内は趣味の悪い光で休み無く満ちている。この暗黒の世界を照らすのは、生命の終わりの神秘の光だ。
「これ、どこ行くの。って決まってるけどさ」
「お前こそ、どこへ行こうとしていた?あんなに走って、あんなに汗だくになって。意地らしいのう」
芝居がかった仕草で扇子を打ち開き、口元を隠して目だけで笑う。見てたのかよ、相変わらずイイ趣味してんなこんちくしょうめ。心の中だけで毒づいて追及するのはやめておく。追及され返して墓穴を掘るのがオチだ。そこまでコイツの趣味に合わせてやる必要はない。
窓の外の海水の色は急激に濃さを増し、限りなく漆黒へと近づいていく。すでに(意味不明な)生き物群の生息域は過ぎ、今や光も通さず静謐なばかりの海水のみが圧倒的な質量をもってこちらへ押し寄せている。それでもまだ潜る。この世の底、それよりももっと底を目指して。もっともこの海に底なんてあるのか定かではないけれど。電車が海に潜り水棲生物が残らずぎらぎら光っている世界だ、海が底なしでも何らおかしくはない。
しかしそんな妄想をすぐさま見透かしたかのように、足に着地の振動が伝わり、とうとう底についたことを知る。もっとも外は漆黒という他無い暗闇であり、ドアの上の非常灯だけが心許なく車内を照らしているのだ。
「やれ、やっと静かになった」
すぐ背後で、イマイチちぐはぐな男の台詞が聞こえる。音もなくドアが開き、しかしその瞬間凄まじいほどの海水がなだれ込んでくるなんてことはもちろん無い。ただ漆黒の闇がドアの形にぽっかり口を開けて待ちかまえている。暑さで全身を薄い膜のように覆っていた汗が、急に冷えてイヤな余韻を残して引いた。彼が俺の肩を抱く、降りるのを促すように、逃げられやしないとでも言うように。いやいやいったいどこへ逃げようというのか。降りたくないというわけでもなし、しかしそんなことをされると反抗心がむずむずするというもので。ちょっとばかしその場で踏ん張ってもよかったが、そんなものはこの男相手になんの抵抗にもならない。だから代わりに軽口だけは叩いてみる。
「俺はアンタが恐くてたまらないときが、ほんのたまにあるんだよ」
本当に言ってみたいことを、ふざけたふりを免罪符に言ってみるのが軽口だ。後になって目覚めてから気がついて、しくったなとは思った。あの野郎はもちろんそういうものだと心得ていたに違いない。だからあんなに愉快そうに笑っていたのだ。
「ほーん、お利口だな、撫でてやろうか」
「なに言ってんだよ気持ち悪いなホントふざけんなよなあ!」
唇をひん曲げて満足げに笑う彼のわき腹をつつき倒して、逃げるようにドアから飛び降りた。ふわりと着地した足を飲み込む砂の感触が、やはりほんの少しだけ恐ろしかった。
1-02:よもやそのとき-a
小さな不満は数あれど、それを享受するのも贅沢のうちかもしれない。「配られたカードで勝負するしかない」と、かのビーグル犬も言っている。たとえばこう考える。誰もが人生の最期に直面することになるだろうその“問い”に答えるとき、言葉に詰まらないでいられるだろうか?迷える子羊こと人間の、最も普遍的な問い--「これで満足か?」「“そこそこ良い人生だった”本当にそう思えるか?」
猶予はほんの一瞬、きっと取り繕う間もない。たとえばこれが長い学生生活を終えたときだとか、あるいは社会に出て数年経ったときだとか、そういった数ある人生の節目、己を省みるその時々にどれだけ思い出を飾り立て、また言い訳できたとしても--最期の一瞬だけはきっと真実が浮かび上がる。ごまかしようのない本音が。人生の価値は人それぞれ、どんな人生が至高かなんて決めようもない。しかし「ああ本当に最悪な人生だった」それだけが脳裏に浮かんでブラックアウトする人生が額面通り最悪であることにはまあ間違いないだろう。
ともかく、人生の最期に誰もが直面するその問いに打ちのめされたり、あるいは決まり悪く口ごもっているうちにご臨終なんて、終わり良ければ全て良しの反対を地で行くような結末を避けるためには、やはり配られたカードで頑張っておくに越したことはない。なにも至高の人生を目指す必要はない。猶予はほんの一瞬、つまりは最期のその一瞬やり過ごせればいい。「最高じゃないけど、まあそこそこ良い人生だったかな」とっさにそう思えれば結構、実際の生き様がどうであれ終わり良ければ、後味良ければ全て良し、だ。人生の最期に誰もが直面する、誰しも避けられない人生の最期、最低限のハッピーエンドを迎えるためには、やはり配られたカードで勝負しておくしかない。
そう、小さな不満は数あれど、だ。朝っぱらからちょっといい雰囲気になってきたかな?恋人未満くらいには言えるんじゃないかな?って女性とそれこそ喧嘩未満としか言いようがないもやもやした空気になったり、それをなんとか取り繕う前に仕事に出かけなくてはいけないタイムリミットを迎えてしまったり、そこでうやむやにしたまま出かけてきて本当に良かったのか?なんてあっさり家を出てきたわりにうじうじ思い悩んだり、そのくせ結局バスには乗り遅れたり、それでもなんとか始業時間には間に合ったのに庶務のオバチャンに「平池くんは朝はゆっくりなのね~」とかプチ嫌味を言われたり、エクセルなんて升目の入ったワードくらいにしか思ってない機械オンチの上司が気を利かせたつもりでマクロをいじって台無しにしていたり、窓口を間違えたジイさんの発憤をなだめるのに小一時間かかったり、その他小事件を乗り越えやっと退勤時間だと一瞬テンションが盛り上がるものの朝のもやくさった事件を思い出してプチ憂鬱になっていたら喫煙所にポイ捨てされていた空き缶を踏んづけて盛大にすっころんだり、尻の痛みと地面のにおいと空の高さにノスタルジィを感じたり、しかし想像以上に激化する尻の痛みにそんなノスタルジィはすぐさまかき消え憤りとそれ以上の情けなさにうっすら涙目になったり。なったり。
そう、小さな不満もといもやもやは数あれど、重要なのは人生の最後の瞬間にそれすら愛おしいと思えるかどうかだ。そう。人生の最後にね。最後の瞬間にだよ。
よもや今がそのとき?
古びた灰皿の脇、汚れたアスファルトの上にじかに横たわっている自分の身体を見下ろしながら、俺はそんなことを思った。待て。いったん待ってくれ、みんな落ち着いてくれ、いやみんなって誰だ。地面に力なく横たわっているもう一人の俺。意識があったら絶対しないようなひねりの利いた姿勢でぐったりと転がっている、俺。それはまごうことなき俺だが、しかし俺はその俺を見ているこの俺だ。我思う、ゆえに我あり、ゆえにややこしや。よくわからなくなってきた。なぜこんなことに、なぜこんなことに?
今日も今日とて数々の小事件を乗り越えそろそろ退勤、と相成った俺は、帰る前に一服しようとこの喫煙所にやってきた。堅実薄給の地方公務員である俺が勤めるこの地方都市市役所は、もうずいぶん前から世相と世間体を反映して表向き全面禁煙だ。ファック。なので喫煙所とは言っても、市役所裏のちんまり鬱蒼とした小雑木林に半ば埋もれ忘れ去られた古びたポール型灰皿の、その半径約2メートル弱の喫煙可能区域を我々喫煙者がそう呼んでいるだけなのであった。そんなしょぼくれた様相とはいえ、我々喫煙者に残された最後のセーフティゾーン、サンクチュアリには違いない。まあサンクチュアリのそんな有様が祀られている偶像の弱体化をあらわしているとも言える。そんな息も絶え絶えなサンクチュアリに空き缶がポイ捨てされていたのだ。僕は荒ぶる絶望と憤怒です。世は全面禁煙の様相、この灰皿がどれほど日々を戦々恐々と凌ぎ生き延びているものか、イマイチ理解できていない輩がいるらしい。こんな有様が安全衛生課の連中に見つかりでもすれば『管理ができないのなら!』と、ハイエナのごとき迅速さでぐうの音もでない灰皿撤去の理由にされてしまうに違いない。俺はおおいに発憤し、勢いよく踏み出し空き缶を拾おうとした、そして踏んだ、転けた、思いの外盛大にひっくり返った、尻餅をついた。
そして涙目になりながら起き上がり、立ち上がると、身体が付いて来ていなかった。
摩訶不思議、茫然自失、そして暗澹冥濛。力なくぐったりと、もっと言えばぐにゃりと横たわっているもう一人の俺を、デカルトこと俺は見下ろしている。言うまでもないが良い気分ではもちろんない。そう変哲はなくとも、『自分そのものの自分ではない何か』がそこに死体然として転がっているのだ、首筋のあたりが速やかにゾクゾクしてくる。なるほど、ドッペルゲンガーの類の都市伝説はきっとこの生理的本能的恐怖に訴えかけようという怪談なのか、と半ば現実逃避気味にどうでもいい真理へと至った。ともかく俺には一卵性双生児は向いてないようだ。いや、そこじゃない、そこじゃなくて。
これはやはりそういうことなのか。打ち付けた尾てい骨から衝撃が正しく背骨を伝播すれば、尻が受けた衝撃が緩和されることなくダイレクトに脳髄を叩きのめし死に至る、場合もある。これはやはりそういうことなのか。つまり尻餅でだって人は死ぬ。これはやはりそういうことなのか?人の生き死にに貴賤なんてない。まあそう語り継がれたくない死に様なのは確かだけど。
つまり今がそのとき?
よもや死んだ。どうやら死んだ。力なく地面にぐにゃっているまるで死体の俺。そしてそれを見下ろしている俺はデカルト、我思うゆえに我あり。自我の存在する場所はどうも脳細胞ではないらしい。いやもしかするとまだ死の間際かも。あるいはその瞬間かも。死んで、身体から魂がーーそんなものが本当に存在するなんて想像もしていなかったが、でなければ今この俺の存在をどう説明するのかーー脱出したその瞬間なのかも。ならば冒頭へ戻って、今がそのときじゃないか?その問いに答える瞬間だ。誰もが人生の最期に直面することになるだろうその“問い”、迷える子羊こと人間の、最も普遍的な問い--「これで満足か?」「“そこそこ良い人生だった”本当にそう思えるか?」
答えはイエスでもノーでもない。
『いやいや、今はそのときではない』だ。
冒頭でたいそうなご高説ご持論を垂れておきながら潔くないと思われるかもしれないが、そのへんの繊細な心情の機微はよい子のみんなもふいに身体から放り出される経験をしてみれば共感できるものだと思う、もしそういった機会があれば是非俺のことを思い出してくれ。冗談はさておき、死の瞬間というのはもっと、それこそ一瞬のものだと想定していた。だからこそ取り返しのつかないその一瞬を、すべてをあきらめて人生を総括しなければならないその一瞬をなんとかやり過ごさなければと思っていたのであって、こんなに猶予があるならそれは悪足掻きをしなけりゃ人間様が廃るというものだ。つまり話が違う。つまり今はそのときではない。つまり死にたくない。普通に死にたくない、冗談じゃない、断固認めるものか!
とはいえこのままではオロオロくらいしかすることがない。仮に今こうして仕方なくオロオロしている俺が死の間際、魂が身体から脱出したその瞬間にいるならまだワンチャンありそうなものだがその生かし方もわからない。考えろ俺、そして行動せよ。あるのかどうかも定かではないがこのままオロオロしているうちにタイムリミットを迎えることになってしまえばせっかくの予想以上の猶予がパアである。それこそ惨めで未練たらしい最期になってしまう。とりあえずあんまり見ていると現実に負けてしまいそうなのでぐにゃっている自分の身体からはできるだけ目を反らしておく。考えろ俺、そしてどうにかしろ。死の瞬間に後悔しないための努力を魂が身体から抜けてからするのはどうも順序が入れ替わっている感が否めないが、頑張れ、うなれ俺の脳細胞!!(※ただし霊体)
「ひっ…ネエネエネエ!ミテミテミテ!」
「うーん?おやおやおやこれはこれはこれは」
不意に聞こえた複数人の声に、俺は思わず息を潜めてしまう。いや悪いことしてるわけじゃなし。息を潜める必要なんかないというに。視界から追い出していた自分の身体のほうを見やると、そのわきに立つ男が二人、いや三人。俺(霊体のほう)の存在はどうやら気付かれていないようである。やはり人間霊体になってしまうと誰の目にも映らないものなのか。ならば余計息を潜める必要なんかない。
「エッ?マネキン?」
「酔っぱらい?」
「いやいやこれはヤバそう、結構ヤバそう、もしもーし大丈夫ですかあ!」
三人はうぞうぞと俺(身体のほう)を取り囲み、脈をはかってみたりオロオロしてみたりしている。良かった助かった。どうやら事態は迅速に解決へ向かっている。物語的には物足りないかもしれないが、当事者としては一刻もはやく解決するに越したことはない。どうか救急車でも呼んでくれないか、運が良ければ蘇生できて、今回のことは良い臨死体験の思い出となるかもしれない。とはいえ、自分の身体の明暗も他人に託すしかないとは甚だ不便なものである。
1-03:よもやそのとき-b
何事も命あっての物種だ。命がなければ命乞いだってできない。たぶんね。例外があったとして、それはものすごく幸運な上に境遇・日頃の行い・人脈・それか頭、いずれかもしくはすべてがどこかクレイジーなヤツにしか巡ってこない例外だ。俺のようにきわめて凡庸かつ慎ましく生きる小市民は、まず日々是平穏に過ごすしかない。そのために、精勤に自分の仕事をこなし、たまーにエラい人のご機嫌なんかとっておくことはとっても大事。もしかすると臨時のご褒美なんかがあるかもしれないし。
それで今、俺たちはそのエラい人から支給された軽自動車でころころと街を駆けている。最近の軽自動車はどれも見た目のわりに広々とした内装だけれども、こうも異国情緒あふれる体格の野郎が三人も詰め込まれると圧迫感がなくもない。
「どういうコトかなア?」
「役所って、なンかボスの仕事に関係アル?」
「社長なんだからそのへんはいくらでも用事はあるだろ、ほら、確定申告?とか?」
ニット帽の下の目をギョロギョロさせながらハンドルを切り、「へー」とよく理解してなさそうな相づちを打っていうのがアシフ。隣で「アリエル難しい日本語知ってル~エラい~」とひたすら無邪気なのがエイド。難しい日本語知ってるのが俺、アリエル。日本語なら任せてくれよな、日本語チョー得意、なんてったって日本生まれの日本育ちだから。そう、日本人だから、戸籍の上でガッツリと。名前と母ちゃんゆずりのエキゾチックな顔面のおかげで日本人だと思われることのほうがまれだけど。
「お菓子持ってこなくてヨカタ?」
「誰に渡すんだよ。誰に会えって言われたわけでもねーのに」
「じゃあなにすンの?」
なおもギョロギョロ純白の白目を惜しげ無く見せつけながら疑問系のアシフ。自由の国の大都会で暮らしていたことをことあるごとに主張してくる彼は、それが嘘くさいほどに朴訥とした性格と牧歌的なオーラを発している。イヤに日本人的な価値観で土産物の心配をするエイドは過去を尋ねても「寒いトコで生まれた」としか言わない。闇。俺はアリエル、日本生まれの日本育ちで母ちゃんは美人のフィリピーナ(但し今は熟女)。
中央通りで路面電車と併走し、県庁通りを素通りする。目指すは市役所。特に明確な目的があるわけではない。我らが「ボス」が「市役所を気にしておけ」なんて曖昧きわまりないことを言うから、別件の仕事終わりに文字通り気にしにいくだけだ。まあ、俺なんかは公共料金を払い忘れたミズちゃん(俺の奥さん・かわいい)に頼まれたときくらいしか用がないけど、ボスのほうはなにかしら用はあるんだろう。よくわからないけど、なんてたって社長だもの、表向きは。
「ボスはたまに意味分からんコト言うナア」
「なにアッシー大胆不敵じゃ~ん」
「ボスにチンコロいたらダメよオ?」
「オイアッシーちゃんと行き先ワカテる?」
「エッ、どこ入るどこ入る?」
ザ・真面目(当三人組比)のエイドが慇懃無礼かつチクチクナビしだしたのでじゃあお前が運転すりゃいいだろと思うが、エイドは普通免許を持っていないのだった。ちなみに船舶免許は持っていらっしゃる。
俺たちのボスは、このへんじゃそこそこ有名な会社の社長である。人間エラくなると秘密が増えるのか、敵が増えるのか、それは定かではないし人それぞれと言えばそれまでだけど、そのおかげで俺たちのようなのが食っていけるのもまた事実なのである。今日も今日とて俺は呼び出され、ありがたくお仕事を頂戴つかまつった。そのスリリングな世間話まじりな歓談の終わり際、ボスは思いだしたように、取るに足らない些細なことだという調子でこう付け加えた。
『市役所があるだろう。あれを気にしているといい。なに、面白いことに興味がないなら結構、忘れてくれ』
さて、ここで問題となるのがボスの物言いはかなり、なんというか、奥ゆかしいということ。前の座席で案の定なんか揉めだした二人とか、呉ちゃん(俺の友達・ナマイキ)とかに聞いてみてくれればわかると思うけど。前述のように言われて額面通り、興味ねえなあとかそんなに重要な案件じゃないよなあと受け取って、ホントに忘れ去ろうものなら大変である。忘れた頃に『で?どうなってる?』とか聞いてくる。いちばん面倒くさい上司のパターンである。面倒くさい、なんたる理不尽、言葉にしてくれなくては伝わるものも伝わるものか!と言い返せたらそれは爽快だけど実際そんなことができるのは呉ちゃんくらいで、アイツはボスのお気に入りだしもともとの性質が命知らずのバカなので同列に考えてはいけない。同じくバカで我らが同列のアシフはケツハリセンを食らった。ケツハリセン。あのでっかい、紙のヤツね。たかがケツハリセンと侮ること無かれ、手加減とおとなげというものを知らない我らがボスのケツハリセンは一撃で生まれたての恐竜くらいならしとめるくらいの威力はある。アシフはそのショックで三日間悪夢にうなされた。だから、今回のこの何気ないつぶやきも決してスルーしてはならない。まったくもって何をしたらいいのか見当もつかないとはいえ、とりあえず現地に足を運んだという実績くらいは作っておかなければ即・ケツハリセン送りだ。
「ちょ、ちょ、ちょ、ここホント入っていいのオ?」
「ンフフフフ!!わかんない」
前の座席ではまだ二人がグダグダやっている。わかんないじゃねーだろお前がナビしたんだろうが。所詮エセ生真面目のエイドがこういう笑い方をしてるときはもう楽しすぎて頭がグダグダになってるときなので多分ダメだと思う。スモーク張りの窓ガラス越しに外を一応確認すると、なんとすでに市役所の敷地内であった。しかもかなり裏手のほう、これホントに入って大丈夫なのってくらい裏手のほう、いや絶対ここ関係者以外立ち入り禁止的なところでしょ。俺の当初描いていたビジョンとしては、大通りから車に乗ったまま、ちょっと市役所をチラ見して「なんもないよねー」ってそのまま通り過ぎる感じだったのに、ちょっとこれはガッツリすぎる。しかももし仮にここが立ち入り禁止で誰かに見咎められようものならちょっとかなり面倒くさい。だって俺ら怪しすぎるし、多国籍すぎるし、車はスモーク貼ってるし。
「ちょいちょいちょい、いったん止まれ、止まれアッシー」
「ホイ」
「ナンで?」
なんでじゃねえ、エイドはさっさとテンション下げんかい。
「これ絶対入っちゃダメなとこでしょ?」
「ホラ~だめよエイド」
アシフが肘でエイドをつつく。んふふふと笑うエイド。なに喜んでんだコイツ。
「もう閉館時間かも、入っちゃダメだたかも」
エセ生真面目エイド、あへあへしてるわりにそれなりの意見を述べてくる。しかし言っていることはごもっともで、確かにこの暗さこの人気のなさ、もうそういう時間じゃねえの?市役所の閉館時間なんかなじみなさすぎて知らんけど。ならなおのことさっさと出たほうがいい。
「じゃあタバコ吸ってカラ帰ろ」
「なんでだよタバコなんかここで吸えよ」
「車でタバコ吸うとケツバット、アリエル知らねえのオ?」
「マジか、殺しにかかってんなボス」
ハリセンであの威力だ。バットなんか確実に人の身では耐え切れまい。生後三ヶ月の恐竜くらいまでならしとめられる。ボスは手加減もおとなげも、そしてたぶん良心も持ち合わせていない。
仕方なしに車を降り、当然携帯灰皿なんか持っていないアシフのために速やかに灰皿スポットを探す。すでに侵入してしまっているうえにタバコのポイ捨てなんかしようと思うほどぼくたち悪党じゃないアルよ。それにしてもそもそも市役所というものは全面禁煙がデフォなのか、そんなものはありそうでなかなかない。味気ない古びた建物もあいまってホントに暗く閑散とした市役所裏手をうろうろして、結局車を停めた場所のすぐ脇に灰皿を見つけた。プチ鬱蒼とした木々に埋もれるように設置されてるもんだから気付かなかった。灯台モトクラシーとはこのことだと二人には教えておいた。
「あったあった~。ねえねえ今日飲みいこオ~」
「ミズちゃんがいいって言ったらね」
「じゃあミズチャンも一緒にいこオ~」
「俺もミズチャン会いたい会いたい、ちょっと恐いとこがカワイイ」
わかってんなエイド!そうなのちょっと恐いとこがカワイイのジャパニーズキュートガールなのミズちゃん!でも俺の奥さんだからそれ以上あへあへしてっと殺す。
密かな決意をし、やいやい言うアシフのケツを叩き(物理)さっさとタバコ吸いに行かせる。相変わらず建物の中にすら誰もいないかのように閑散としていて、ボスの言う曖昧な面白いことなんかなにもなさそうだし、俺たちは無駄に怪しいしで長居は無用だ。
「ひっ…!」
とか思ったそばからドラマチックな気配だよね。ごきげんで灰皿スポットへ歩いていったアシフが、一口も吸わないうちからタバコを取り落とした。どーでもいいけどオイオイ結局ポイ捨てになってんじゃねーか拾え拾え!って。しかしアシフは落としたタバコに目もくれず、大した距離でもないのに血相を変えて戻ってくる。見開いた目の純白の白目と地黒の肌のコントラストが鮮明、肌のほうは血の気が引いてるせいかよくわかんない色になってるけど。
「ネエネエネエ!ミテミテミテ!」
よくわかんない色のアシフはヒィヒィ言いながら俺とエイドの袖を掴み、またヒィヒィ言いながら灰皿のほうへ踵を返す。引きずられ、アシフの視線を追って前を見たエイドが「ひぅ」となんとも可愛らしい声を出した。身長190センチのバリトンボイスである。
「うーん?おやおやおやこれはこれはこれは」
果たしてほとんど木々に埋もれた灰皿、その脇に転がっていたのはくにゃりとへこんだ空き缶と、死体であった。
死体であった。
いやいや、死体かどうかは断定できないにしても意識のない成人男性が倒れているのは事実だ。スラックスにワイシャツネクタイって、お手本のような社会人スタイル。おしゃれヒゲ。両腕を覆うアームカバーのインドア感がおもっくそ屋外のこの状況になんともミスマッチである。ちょっと尋常じゃない光景である。重大事件感がある。そりゃアシフも変な色になる。エイドも可愛らしくもなる。
「エッ?マネキン?」
「酔っぱらい?」
「いやいやこれはヤバそう、結構ヤバそう、もしもーし大丈夫ですかあ!」
しゃがみこんで声をかけつつ生存確認、そりゃ小市民ですから!助け合わないとね!とりあえず脈と呼吸をば…確かめながら、ふとボスの言葉が脳裏をよぎった。
『市役所があるだろう。あれを気にしているといい。なに、面白いことに興味がないなら結構、忘れてくれ』
なるほど、なるほどお…。
こういうことかね。これがボスの言っていた『面白いこと』ならば、我ら三人は試されていることになる。ゾクゾクきちゃう。いえ、我々とて意識不明の成人男性を見つけたところで面白くも嬉しくもないのが普通の感覚だというのは重々承知の上ですが、少なくともボスは普通の感覚をしていない。していないけど、まさかこれだけで『面白いこと』だなんて満足するようなボスじゃない。つまり、これは『はじまり』に過ぎない。エイドのバカのおかげで『はじまり』に運良くたどり着けたに過ぎない。すべては次の対応にかかっている。
これからこの男をどうするか?
「救急車呼ぶ?」
最初の衝撃が過ぎ去ったのかアシフはどこまでも冷静で小市民であった。そうだよ。ここでそうするのが道理ってもんだよ。人情ってもんっていうか人として当然の範囲だよな、でもねえ。
「いやいや待て、それよりタバコ拾っとけ。ついでにそこの空き缶も、このにいちゃんが飲んだヤツかもしんねーし。あとどっちか手貸してくれ。このにいちゃん、タッパあって抱えきれない」
「ホイ」
「ボスが言ってたのってこのコト?」
ぐったりした身体を運ぶのはそうでないときの数倍労力がいる。うっかり落として傷なんかつけたら大変だし。エイドと二人でようやく抱え上げ、えっちらおっちらと車へ。まあ二人で横から支えてたら、万が一誰か見てたとしても酔っぱらいと思ってくれるんじゃないかなあ。タバコと空き缶を回収したアシフがすでに車のドアを開けて待機している。チームワークだけはいいんだ俺たち、でもそれが一番大事だよね、なーんて。
「さあな、その可能性を考えるとこうするしかねーよ。まあボスにはこのにいちゃんが生きてようが死んでようが問題ないだろうし」
そう、問題ない。そういうことは『ボス』にはあまり意味のないことだ。おまんま食べるためとは言え、人の分際でその価値観に追随しちゃう俺たちはなんて罪深いんだろうってわかってるよちゃんとね。でもほら言うじゃない。人間、地獄を信じていなけりゃわりとなんだってできるものだ。
1-04:身体を探しに行こう
身体を盗まれた、それも目の前で。
唖然、呆然、憤怒、そして暗澹冥濛。
俺こと平池誠一の一世一代のドピンチに救世主のごとく現れたやたら多国籍な三人組は、救急車を呼ぶでもなく、誰かに助けを求めるでもなく、あろうことか俺の身体を黒いスモーク張りのミニバンなんて怪しさの権化のような車に載せて走り去ったのである。天下の地方公共団体庁舎、市役所の敷地内でこの凶行!!信じられるか世も末である。ちょっと信じられない、夢だと思いたい、それを言うならひっくり返って魂抜けたとこから嘘だと言って欲しいが。
もちろん俺とて黙って盗まれたわけではない。
雲行きが怪しくなり始めたところ、具体的に言うとヒップホップで神に感謝してそうなソウルフルな外見の男がタバコと空き缶を回収し始めたあたりでんんっ?となり、やたら濃いヤツとやたらデカい金髪が俺の身体を抱え上げた時点でオイオイオイくらいにはなった。そんなやったらめったら動かして脳の血管でもイわしてたらどうしてくれるんだ!という心からの叫びはもちろん届かない。思わず伸ばした手は金髪の身体をすり抜けスカる。その感触が思いの外ぞっとしないものだったのでひるんでいる間に、俺の身体はいよいよ真っ黒な車中へと投げ込まれてしまう。もうどうにでもなれと最後まで車外にいた金髪の背中に手刀しまくったが、何が起こるわけでもなく、慈悲もなくドアは閉まり、真っ黒なミニバンは速やかに走り去ってしまった。唖然、呆然、憤怒、そして暗澹冥濛。乗り込んでやればよかったとも思うが、あの車の中に入るのはなにかとてつもなくイヤな予感がして踏み切れなかったのだ。どっちにしろ後の祭りだし。すっかり薄暗くなった庁舎裏で俺はため息をつく。それくらいしかやりようがない。
どうしたらいい、マジで。
もともとよくわからなかった自分の置かれた状況が、ここへ来てますますわからなくなった。もう正直、このまま幽霊として生きていくしかないのかなって思い始めている。…幽霊として生きていく?言葉のあやはともかく、結構みんなこんな感じなのかもしれないなって。みんなって、古今東西死に絶えていった人々のことな。こんな感じで、釈然としない感じで、オレ死んだのかなあ…?みたいな感じで、死んだのかあ…仕方ないかあみたいな、それでなあなあと幽霊やっていって、いつしか幽霊としても寿命が来て今度こそ消えて行くみたいな、そういう感じで…死後のおまけの余暇、諦観の日々…。
なんて諦めきれるわけがないので、俺は身体の追跡を開始した、徒歩で。
いや、実際体験してみればわかると思うけれど、自分に都合の悪いことなんて人間早々簡単に受け入れられないものだ。自らの生き死になんてその究極とも言うべきものだろう。それで諦めきれずにさまよっているのが俗に言う幽霊・亡霊の類では?というひらめきは小さいうちに意識のはるか奈落へ封殺しておく。何度でも言うけど『今はそのときではない』。自分の人生に満足できたか否かなんて、冗談じゃない。
ミニバンの行方など正直なところわかりゃしないので、俺はとりあえず大通りへと出た。いよいよあてどなくさまよう亡霊の様相ではないのか?との疑問が噴出しそうになるも先ほどのひらめきと同じ奈落へ封殺。今の俺を亡霊扱いしてみろ、次は貴様の番だ。身体から脱出した影響か、就職してからすっかりインドア派の俺がいつになくアクティブ、テンションは確実におかしい。帰宅ラッシュと飲みラッシュでむせかえるような人混みも意に介さずすいすい進める、そう幽体ならね。元気いっぱいのガキんちょが唐突に俺の足を突き抜けて走り去り、その直後母親らしき女性が怒号を上げながら俺の胸元から登場したときはさすがに面食らったけれど。
さてどうするか。
もしかしてニュースになったりしていないだろうか。『西浜通りで意識不明の20代男性を保護』とか、もしくは『死体遺棄の容疑でやたら多国籍な三人組を逮捕・遺体の身元は確認中』とか…。後者のありがたみのないリアリティに身震いしながら俺は何かそういう情報を発信していそうなものを探す。端的に言えば街頭テレビとか、電光掲示板とか。こんなときスマホの恩恵が身にしみる。やはり今の俺ではスマホの静電式パネルには反応していただけないのだろうか。幽体だからといってすり抜けるのは人ばかりで、壁抜けなんかはどうもできないようだからスカりはしないと思うのだけど。
アーケードを横切って素通りし、チェーン店じゃないステキに煤けたような居酒屋が建ち並ぶ路地に入る。こういう老夫婦がやってるような個人店は、小さなテレビを天井の角に構えていると相場は決まっているものだ。ぎちぎちと居並ぶ店の中には、中華街が近いからだろう、チラホラ中華料理屋も見受けられた。といっても西浜通りに居並ぶような由緒正しき大店ではなく、年季の入ったこじんまりした食堂といった風情の個人店ばかりで、それもこのぐらいの時間になると居酒屋の様相を呈しているようだった。
天井隅の小さなテレビを求め、居並ぶそれらしい雰囲気ムンムンの中華食堂の中の一つへテキトーに入ろうとした俺は、しかし入れなかった。薄い引き戸の向こうには何人かの話し声が聞こえ、かすかにテレビジョンらしき雑音もするのに入れなかった。のれんには営業中の札がおまけのように下げられ、その引き戸を引けばがらがらとノスタルジックな音がして軽快に迎え入れられるはずなのに、入れない。どうしても入れない。入り方がわからない。どうして戸を開けて入ろうなんて思えるのかわからない。いや、入りたいは入りたいんだけど。戸の開け方はもちろん重々承知しているのだけど。
閉じた戸の“入り方”がわからない。
そのとき、知らず硬直していた俺の身体を見知らぬ腕が突き抜け引き戸に手をかけた。背後に何人か、背広の中年男性独特のなんとも言い難い気配がする。どうも新しい飲み客の集団が来たようだ。その腕はさも当然戸でも言うように、いや実際当然なのだが、容易に引き戸を開け放った。わっと店内の活気が漏れ出てくる。あたたかい気配。いかにもリーマンといった風のおやじたちは、ぞろぞろ俺の身体を突き抜けて店内へ入っていく。
「はい、いらっしゃいませ。はいはい、いらっしゃいませ」
ひとりひとりに声をかける店のおかみさんの声が聞こえた。その途端、足がふっと自由になる。よかった。これで『入れる』。
彼らに続き、どことなく吸い寄せられるように敷居をまたごうとした俺の腕を、突然誰かがつかんで引き留めた。
「お兄さんはだーめ」
どことなくはしゃいだ声。何かのキャッチのような台詞。舌足らずとも言えるその声の若さで、店内へ消えたおやじたちの連れではないと、それだけはわかる。くっ、と腕を引かれる。すっかり『人はすり抜ける』ことが当たり前になっていた俺が、二の腕に沈むその明らかな指の接触にまごついている間に、引き戸は無慈悲に鼻先で閉まった。その瞬間、そのほんの一瞬だけ耐え難いむなしさに襲われてますます狼狽する。なんだ今のは。なんだ、俺は、どうしてしまったんだ。
「つーかうっわ、マジで触れちゃったよ!」
しかし後ろの正面の誰かさんにはこちらのセンチメンタルと狼狽なんてまったくもってお構いなしになっようである。腕をつかんだまま、まだはしゃぎ倒している。誰だ、知り合いか、そんなわけないよなと思いながら振り返ると、そこにいたのはやっぱり知らない男だった。
声の印象そのままに、ちゃらちゃらした茶髪をちゃらちゃら伸ばしている。少年と言うほど幼くないが青年というにもなんとも頼りない、にべもなく言えばプー太郎かつちゃら男っぽい。まだ柔らかそうな耳たぶをつぶつぶと無数のピアスが縁取っていて、単純に「痛そう」と思った。言うに事欠いてそれかといった感じだけども。しかしまあ彼に対する俺の思いを今一言にするならば、
「誰?」
「お兄さんさあ、カラダ、どこ置いてきちゃったの?」
こっちのいうことなんか聞いちゃいねえ。アブナげで意味深な台詞と涙袋の膨れた笑い顔。出会ってまだ数秒なのに、すでにそのニヤニヤ顔が癇にさわってしかたない。
ふと、せまい道の向こう側へ目をやった。そこは小さな雑貨屋で、営業時間はとうに過ぎている。照明を落とされたショーウィンドウは鏡のように、あたりを暗く反射している。その暗い鏡に映っているのは通り過ぎ行く人々と、今まさに入れなくなった中華食堂と、そして、見えないなにかをつかむように、奇妙に腕を伸ばしているちゃら男くんの姿だけだった。
1-05:中華昼飯処好渇堂-a
プラスチックのグラスと、磨り硝子風プラスチックの水差し、それからラー油とか皿うどん用のソースやら酢やらの小瓶。それらが置かれたテーブルは店のおばあちゃんによってしっかり拭かれているのに厨房からの熱気と油でいつもぺたぺたしている。壁いっぱいに貼られた手書きのメニューは気まぐれに追加されたり消えたりする。だから来るたびに精一杯店内を見回してお目当てのメニューを探さなくてはならない。昼だろうが夜だろうが、飯時だろうがそうじゃなかろうが、なぜかいつも客入りは同じくらい。席が半分埋まる程度。こういう老夫婦がこじんまりやっているような食堂は『昼飯処』という看板ながら夜は居酒屋と化し、そして天井の角に小さなブラウン管テレビがあるものと相場は決まっている。チャンネルはたいていプロ野球。それ以外の番組にあわせていてもいつのまにか戻されている。どうやらチャンネル権は店の旦那ではなく、常連の老爺どのの誰かにあるらしい。
「こんなことしてるバアイ?」
「でもこのままボスんとこ行ったらもう朝まで食うタイミングねえよ、たぶん」
「ビール飲んでもイーイ?」
「エイド話聞いてた?ボスんとこ行くの。それでも飲むんだったらどーぞ?」
神妙な顔つきになったエイドがおとなしく『マダム、ちゃんぽん三つ』と注文する。隣のテーブルをわしわし拭いていたおばあちゃんが「マダムだってよ、やだわ」と照れながら厨房へ引っ込んでいく。かわいい。つーかどさくさに紛れて俺たちのぶんも勝手に決めやがった。とりあえずビール三杯みたいな感じで注文しやがった。ぜんぜんちゃんぽんの気分じゃないのに。どっちかというと皿うどん派だし。
「エビチリが良かったんですケド?」
「じゃあ頼めばァ?どっちも食べればいいジャン??とりあえず頼んだだけだし???」
「とりあえずでちゃんぽんなんか頼まれたらもうお腹いっぱいなんですケド?」
アシフが正論言ってる。雹でも降るかな。
「つーか違うわ、それにしたってご飯食べてるバアイ?だってさ」
珍しく調子よく正論を続けようとするアシフには悪いがシッと睨んで黙らせる。そのさきは言わなくてもわかってるから言わんでよろしい。この手の店には珍しく、裏口に駐車スペースを持っている好渇堂。今、この瞬間、そこに鎮座している我らがミニバンの中には成人男性(簀巻き)が。確認したかぎり心肺停止の死体ということで間違いなさそうだけど、何かの拍子に息を吹き返して暴れられても面倒なので簀巻きにしておいた。あと車中でごろごろころがって傷だらけになったらカワイソウだし。なんでちゃっちゃと簀巻きにできるような道具を都合良く持ってるのかって?秘密だよ。
ちっちゃなテレビの中ではお約束通りプロ野球の試合が中継されている。ちょうど点が入りテレビを見つめていたエイドにぐっと力が入る。そこまでスポーツのたぐいに詳しくないエイドが毎度なんとなくで選んで応援するチームは、毎度負けるというジンクスがある。そんなに思い入れがあるわけでもないので、応援されて負けるほうはたまったものではないだろう。
「さっさとボスに渡したほうが良くナイ?」
「職質されたらと思うと落ち着いてチャンポンも食えナイよ!」
ばあちゃん(マダム)がお盆にのせて運んできたちゃんぽんを受け取りながらいきり立つエイド。「スパシーバ、マダム」って、なんでコイツさっきからちょくちょくモテようとしてるんだ?ばあちゃんに。頬を押さえて喜ぶばあちゃんを見るにつけ効果はテキメンぽいけど。かわいい。
ともかく、放られたオモチャと思わしきあの“簀巻き”をそれこそ忠犬よろしくボスの元へ持って行かないのにはワケがあった。浅ましくそして真っ当たるワケが。心肺停止とはいえ、あの場で救急車を呼ばないあたりでみなさんお察しの通り、我々は社会的に見てあんまりイイ子ではない、てへ。それこそがお偉い様ことボスが我々に求めている在り方であり、しかしそうなると逆に悪巧みは尽きないというもので。
「ボスに持ってくのもいいけどさあ、渕屋に持ってくのもアリかなって…」
俺の言葉に、二人は麺をすすりながら思い思いの反応をする。
「渕屋?ああブッチーね。あーネ」
「なるホド。その手があったか」
悪い子には悪いお友達がいる。そして悪い子は時に、ボスの言うことすら聞かない、おつかいすら遂行しない、そういうものである。
「ブッチーなら、コレ、はずむだろしネ」
コレコレ、と指で輪っかを作っていやらしく笑うアシフ。そう、『簀巻き』を引き渡すだけなら、渕屋のほうが破格値をつけてくれるだろう。ボスと渕屋では、価値観が違いすぎる。普通、ああいう『簀巻き』の類をできるだけ穏便に手に入れようと思えばそこに係る苦労は計り知れないものだ。だから渕屋は破格値をつけてくれる。だがボスは違う。ボスにとって『簀巻き』を手に入れるのは大した問題ではない。ボスにとって『簀巻き』程度ではそんなに魅力と希少価値にあふれるものとは思えない。
まあ、そこが引っかかると言えば引っかかるんだけど。
「だいたいボスが『簀巻き』程度でどうこう騒ぐと思ウ?」
「思わナイよ、だから渕屋に売っちゃっても平気」
あまりに二人がすんなり渕屋方向へ意志を固めつつあるので、言い出しっぺのくせに不安になってきた。いや、むしろ『簀巻き』程度で騒がないから問題なのでは?『簀巻き』くらいで騒がない、『簀巻き』くらいいくらでもどうとなるボスがわざわざ持ってこいと言うのだから、それは今車中にいる『簀巻き』じゃないと絶対だめな理由が何かあるのでは…。いや、実際には『簀巻き』持ってこいなんて言われてないんだけど、元はと言えば『市役所を気にしとけ』としか言われてないんだけど。それを先回りして先回りして勘ぐってるだけなんだけど。いや~渕屋案、魅力的なんだけどな、破格値とか、こんな機会めったにないし。
「アリエル、顔のいろおかしい」
「いや、やっぱ渕屋はやめよ。おとなしくボスに持ってこ」
「んだよアリエルびびりかア~?」
外国人とは思えない勢いでちゃんぽんをすするアシフ&エイドに煽られても、一度萎んでしまった俺の悪い子心は奮起しない。そうだよビビりだよ!不確定要素が多くてどうにもできない、ボスが相手ならなおさらだ。ボスと渕屋ならボスのほうが恐い。どっちも恐いけど。
「まあアリエルが言うならボスにシヨ」
「要らないって言われたらブッチーに持ってこ」
あっさり。スープの最後の一滴まで飲み干した二人はまたもころりと意見を変えた。コイツらちゃんと考えてんのか、と思うけど、二人は二人でビビるところもあるのだろう。どこまでも危なげでオイシイほうへ楽して転がっていきたいけど、ビビる気持ちはもちろんあるのでホントにやばそうなことは止めて欲しい。世の小悪党なんてみんなそんなものだ。
店の表口が開いて中年スーツのオヤジ軍団が入ってくる。いかにも仕事終わりの飲み会然としている。開いた戸から、どこか開放感あふれる喧噪が流れ込んできた。いよいよそういう時間帯なのだ。何時に来たってだいたい客の入り具合は一緒のこの店も、じきにそこそこのにぎわいを見せるだろう。
「じゃあさっさとボスんとこ持ってくかネ」
「マダム、お会計。おいしかった、ありがとハラショー」
「ハイハイ、やだもう、車のお客さんは裏口から出てね」
会計にきたばあちゃんが照れまくる。だからなんでコイツはばあちゃんにモテようとしてんの?ばあちゃんの乙女心弄んでんの?厨房のじいさんにチクってやろうか。天井の片隅の小さなテレビの中では、相変わらずエイドの応援していたほうのチームが負け込んでいた。
1-06:中華昼飯処好渇堂-b
■
夜毎みる夢。
夜中に目覚めると、ベッドから50センチ浮いていた。
なんとも言えない浮遊感。眠りについた時より高めの視界。夢うつつの違和感。とりあえず寝返りを打とうと横を向くと、視界の隅のほうに少しヒゲの伸びた自分が寝ていた。さすがにギョッとする。絶句。意味がわからない。寝ぼけた頭でしばし呆然とし、それから自分がベッドではなく、ベッドの上に寝ている自分の数センチ上空に寝ていることを理解したのだった。
――これは…あれだ、幽体離脱ってやつだ。
元来の性格と夢うつつの鈍い頭のおかげと言っていいのか、俺はこのオカルトな体験に大して取り乱しも盛り上がりもしなかった。『幽体離脱』という単語に思い当たることで、軽くアハ体験をすませた程度である。そのまま再び寝入る体制に入った。それにしたって夢の中で眠ろうとしているという、いわゆる夢中夢とも言えるわりとややこしい事態なのだが、眠い頭はそんなこと一ミリも気にかけない。加えて俺は寝付きと寝相だけは他人に誇れるレベルで良い。すぐに寝入ってしまう。
実際、翌朝目覚めたときには俺はちゃんとベッドの上で一人に戻っていたし、そもそも夜中の出来事もおぼろげにしか覚えていなかった。ちょっと面白い夢だったかな、程度。
ただ、その後もたびたびそんな夢を見るようになり、そして翌朝には決まって一睡もできた心地がしないのだった。
■
「まあまあ、立ち話もなんだから」
今時ナンパでだって使われない超絶古典的キャッチ台詞にホイホイついていく成人男性ってどうかと思うよな。まあ俺のことなんだけど。そんなだから尻餅で魂抜けるし挙げ句身体盗まれるんだよって言ってやりたくもなる。まあ俺のことなんだけど。
それで俺は先のちゃら男くんと向き合って座っている、インザ『中華昼飯処好渇堂』。磨き抜かれたテーブルはそれでもなお厨房からの油でぺとぺとし、奥のテーブルでは先ほど俺を置いて入っていったスーツオヤジ軍団がとりあえずビールで乾杯をしている。予想通り天井の角に据え付けられたテレビ。その真下の席である俺たちの周りにはあまり人がいない。おそらくそのテレビを見るのにかなり見上げなくてはならないためだろう。真下の席なんかどう頑張っても画面を観ることなどかなわない。唯一得られる音声に耳をそばだてると、ちょうど試合が終了したところで、もともとあった点差が9回裏でますます広がって試合終了したらしい。成人男性の死体のニュースは聞こえてこない。
「すごい~俺、幽霊と相席しちゃってるよ。フェイスブックで拡散しちゃおっかな~、いやいや、しないって、フェイスブックなんかやってないから安心してよ。ていうか写んないか、写真、写んないよね?」
馴れ馴れしく騒々しくまくし立てるちゃら男くんの前には水。俺の前には無い。席についたときこれまた想像通りの老婦人、この店のおかみさんがついでくれたものだが、人の良さそうなばあちゃんに華麗にシカトキメられるのはかなりこう心にクる体験だった。ばあちゃんが去った直後ちゃら男くんにプークスクスされたのでさらに心がささくれた。飲めないからいいが。だんだんわかってきたことだが、この身体はモノをつかもうとすればすり抜ける。とはいえ、壁をすり抜けられるかと言えばそうではない。中途半端にめりこんだところでそれ以上は進めなくなる。幽体だからといってできることが増えるかと言えばそうでもないらしい。むしろ逆だ、不便が増している。そして先の入り口での一悶着。なぜだか俺は、この店に『入れない』と思った。
「それはだって、よく言うじゃん。『そういうモノ』って、『招かれなきゃ入れない』の」
テーブルに肘をつき、身を乗り出して俺の顔を覗き込んだちゃら男くんがそう言った。意味深な台詞。相変わらずニヤニヤした彼の表情は、どこかこちらを面白がって煽る風でもある。
俺だって本当ならこんなちゃら男くんについてこうなんて思わないさ。
『まあまあ立ち話もなんだから』、まさかナンパは無いにしたって男だって危ない、ホイホイついて行ったらマージンの気になる高額な絵なんかを売りつけられるかも。もしくは最後に恐いお兄さんたちがぞろぞろ出てくる楽しいお店に連れていかれるかもしれない。しかし状況が状況だろう。なにか知ってるふうな意味深な台詞のオンパレード。あまつさえ写真映りまで気にするようなこの態度。なにより、この危機的で孤独で正直打開策も見えないような状況で、誰もが俺を視界に映さず身体をすり抜けていく状況で、彼だけが俺を見いだし腕を掴んだ。
これでついて行かなかったら嘘だろう。藁どころかおがくずにだってすがりたい。もしも彼が親切で善良な人間なら身体を探すのを手伝ってくれるかもしれないし、という下心も確かにある。すでにかなり煽られ気味なので『善良な人間』という線は消えつつあるんだけど。しかしなにより、このオカルティックな状況に詳しげな人間に出会ったのだ、まずはやはり、これだけは確認しておかないと。ずばり。
「俺ってやっぱり死んでるんすかね?」
「え?そんなん知らないけど。だって俺死んだこととかないし」
迷える子羊(幽体)こと俺の魂の疑問(言い得て妙)はちゃら男くんによってばっさり切り捨てられた。がっくし。なんだよ使えねえなと一瞬でも思ってしまったのは心がささくれているからなので許して欲しい。
「むしろ俺のほうこそ聞きたいんだけど~?やっぱお兄さん死んでんの?だって身体ないじゃん、幽霊だよね?死んでるんだよね?どうして死んじゃったの?これからどうなるの?成仏の予定は?」
にやにやにや。そのものすごく煽られてる気分になるニヤつき顔をやめてくれないか。しかし呆れた、詳しいどころか、これではまるで野次馬ではないか。しかもコイツ、俺が死んでるものと決めてかかってきやがる。そう見えるかもしれないけど、客観的に第一印象は(もし見えるのならば)幽霊かもしれないけど、俺は死んでない。俺が死んでないことを裏付ける状況証拠は何一つ無いけれど、身体が持ち去られ行方不明の今、俺が死んでいるという状況証拠(有り体に言えば死体)もないので俺は死んでない。死んでないったら死んでない。おうちにつくまでがえんそくですとはよく言ったもので、人間、成仏するまでが人生である。
「俺は死んでない」
「いやいや、どうみても幽霊じゃん?」
「ちょっと魂が身体から脱出してるだけだ、死んではない」
「いやいや、死んでる人はね、みなさんそうおっしゃるんですよ」
「みなさんて、俺みたいなのって結構いんの?」
「それも知らないけど?今のはネタ的に言わなきゃかなーってだけで。幽霊とか見たことないよ~」
前例があるなら話が早いと前のめりになるも、またもばっさり切り捨てられる。期待させるのもいい加減にして欲しい。
「じゃあわかんねえだろ。やっぱ死んでないだろが」
「えぇ~本当かな~?身体ないのに~?ぜったい幽霊だと思うけどな~やっぱ幽霊って自覚ないもんなんだね、コワ~イ!」
にやにやにや。コイツ本気で言ってんのかただ煽りたいだけなのかわかんねえな、イライラしてきた。早くもホイホイついてきたことを後悔しかける。そんな俺の空気を察したのか、ちゃら男くんはムッと不満げな顔をした。よくもまあ表情豊かなことで。それは結構なことだが、わずかに混み合い始めた店内はそれなりに活気づいている。俺はともかく、周りの人々からすればコイツ一人でかなり楽しそうなアブナい野郎なんじゃないか?と思い当たり、そう思うと多少は気が晴れた。
「つーか感謝してよね。お兄さん、あのまま一人で入っちゃってたら、今度は出られなくなるところだったんだから」
「は?」
「当然じゃん、『入り方』わかんなかったでしょ?じゃあその逆もおんなじに決まってんじゃん。死んでないにしたって、その身体でここから出られなくなったらもう完全に地縛霊としか言いようがないよね~」
うまいこと言ったとばかりにはじける笑顔のちゃら男くん。よくもゾッとすることをさらりと言うものである。ふと、あの扉が閉じたときの言いようのないむなしさがぶり返し、俺は思わず顔をひきつらせた。
「言ったでしょ。要は『招かれないと』出入りできないんだって、だって『そういうモノ』だから。そのへんって結構ガバガバみたいだけど。まあ、店の外から『いらっしゃい』なんて言ってくれる人、いる~?いないよね~?」
入るときはともかく。
確かに、先ほど店に入ろうとしたときは店のばあちゃんがオヤジ軍団ひとりひとりに『いらっしゃい』と声をかけていた。なるほど入るほうはタイミングさえ合えば容易いのか。確かにガバガバである。しかし外から『いらっしゃい』なんて声をかける店員はいない。いったん入ってしまうと、あとからどう出ようとしても。
「だあいじょうぶだって。帰りはちゃんと俺が一緒に『出て』あげるから、ね」
やられた。
忌々しくもウインクしてみせるちゃら男くんに、そんな思いが脳裏をよぎった。つまりもう『入って』しまった俺は、唯一俺の存在を把握できるちゃら男くんにおとなしく追随するほかないということである。中座しようにも店を出ることは叶わない。それこそ『誰か』が先に外へ出て『招いて』くれなければ。最後に恐いお兄さんたちがぞろぞろ出てくる店よりよほどタチが悪いではないか。恐いお兄さんたちならば、押しのけてむりくり突破脱出できれば万に一つくらいは可能性がある。ちゃら男くんはにやにや心底楽しそうに俺を眺めている。手をつけられないままのグラスは、中身と室温の温度差で汗をかき、テーブルの表面をしとどに濡らしている。
どういうつもりだ、この男は。
腹を決めなければならないと思った。決めざるをえないというほうが正しい。裏を返せばこのオカルティックな状況にやたら詳しいちゃら男くんは少なくとも、店を出るまではつき合ってくれるということである。ならひとつくらいこの状況を打開できるようなネタをもたらしてくれないと困る。なにせわからないことが多すぎて、ちゃら男くんの登場で解決するどころかますます増えているのが現状だ。とりあえず解決が叶いそうな疑問から潰していかなければ。
「…なんでお前は俺のことが見えるんだ」
「わっすごい、幽霊っぽい、すっげ言ってみたいその台詞!」
「…」
「まあまあ、そんな顔しないでよ恐いよ」
いちいち思いついた軽口言わないと気が済まないタイプかコイツ。人生楽しそうだが軽口たたかれるほうとしてはたまったものではない。そもそも幽霊じゃないというに。
「それは俺がいわゆる『見える人』だからだよ~」
数分前、『幽霊とか見たことない』とかほざいた舌の根が乾かないうちにこの台詞。二枚舌もここまでくると見事なものである。
「いや、いやいや嘘なんかついてないって!幽霊は見たことないけど、『そういうモノ』なら見たことあるもん、たくさん!魂とか?」
「一緒だろが」
「魂と幽霊は違うでしょ、やだな~お兄さん」
そんな『またまたぁ』みたいな感じで言われてもなんのことだかさっぱりわかんないんだけど。まあいいや、そのへんはとても一朝一夕では理解できそうにない。そもそも果敢にも理解を試みているこの話題全般が、自分の存在がこんな状況でなかったらそれこそ半信半疑おもしろ半分、明日には忘れている姿勢でしか聞かないような話だ。
「じゃあ、俺の身体にすり抜けないで触れるのは…」
「ああ、それはね、これこれ、ダダーン!」
ちゃら男くんはまるで子供がよくできた宿題でも見せびらかすかのように、テーブルの下に仕舞っていたほうの手を出した。ひらひらと揺らめかすその右手には、黒い手袋をはめている。もっとよくよく見れば、それはティッシュ箱様のボール箱に大量に入ってたたき売りされている、手からはずす時あたりがタルカムパウダーで真っ白になるタイプの、まあ有り体に言えば使い捨てのゴム手袋にしか見えない。それを見せびらかされたところで「で?」としか言いようがないのが正直なところだ。おじさんわかんないけど、たぶんだけど、ファッションとして成立しているとも思えない。
「これをはめてるとね、『そういうモノ』にちゃんと触れるんです、すごいでしょお?あんまりすごいんでガメ…借りてきたとこにお兄さんがいたから、ちょうどいいやって」
さりげなく軽犯罪行為を自白したちゃら男くんは、ゴム手袋の右手を掲げてどこまでもドヤ顔である。あまつさえ「えいっ」なんて言いながら俺の鎖骨のあたりを小突いてくるのでイラつきの積み重ねで昇天しそうになった。あぶない、こんなくだらないことで昇天してたまるか、笑えないだろこの状況で。小突くだけ小突き、スッと逃げようとした手を捕まえた。確かにすり抜けることなく、手の中に留めることができる。薄いラテックスの心許ない感覚、その向こうに皮膚の感触だとか、体温だとかは残念ながら感じない。しかしすでに『すり抜ける』ことが当たり前として染み着き始めていた身としては、その実体ある感覚は至極心強いもののように感じられる。ラテックスの感触の黒い手のひらをたどり手首の裾のところを越えると、指先はあっけなくちゃら男くんの手首をすり抜けた。
「つまり?この手袋ならなんかそういう…非科学的なものに触れることができると」
「ま、だいたい、そういうことでいっか。…つーか自分で自分のこと非科学的なものって言っちゃうの?お兄さんマジ尖ってんね?」
「…」
「痛ぇっ!!」
おもむろに、目の前の黒い手のひらを殴りつけた。結構な強さで。結構な大きさの声で叫んだちゃら男くんに、わずかなりと店内の視線が集まる。その視線にヘラリと笑みを返し、逃れるように小さくなりながら「痛っ、いっ、いぅ」と大げさにうめくちゃら男くん。スッ。
「なにすんのマジで!いったいんだけど、ねえ、お兄さん!」
「確認確認。なるほど、便利な手袋だな」
「そんなんやさしく触れば、つーか最初は優しく触ってたじゃん!すげー叫んじゃったよ、絶対アブナいヤツだと思われたし」
いや、そのへんは一人で店に入って注文もせずに満喫してる時点でもうアウトだろ、たぶん。
「アンタ十中八九死んでるんだから!みんなに見えてないんだから!自覚して!」
「だから死んでないって言ってるだろ」
「ったく、根拠もなしによく言う」
根拠というほどのものではないが。俺は喫煙所のくだりからこれまでの経緯を洗いざらい白状した。このちゃら男くんとの出会いが俺のそう遠くない未来に吉と出るか凶と出るか、それはまったくわからないけど、出し惜しみするものでもないというか、状況ではないと思ったからだ。それこそちゃら男くんでも藁でもおがくすでも、おなもみでもすがりたい。おなもみってなんだっけ?
話を聞き終えたちゃら男くんは、予想外にしばし黙り込んだ。何かそのオカルティックな知識か、よもや琴線にでも触れることがあったのだろうか。いや、さんざん煽らればっさり切り捨てられているのでもはや期待はしないけど。飲まれもしないグラスが、汗もかききって透き通っている。注文しないばかりか水も飲まないこの一人客を、せわしく働いている店のばあちゃんはどう思っているのか。やがて顔を上げたちゃら男くんは、平素のニヤニヤ顔を大復活させていた。
「それじゃ死んでも死にきれないね、尻餅て」
そこかよ。まあそこだよな。不名誉きわまりないし納得からほど遠いポイント。
「まあ、最重要事項は身体探さなきゃってことだよね。こういうのって自分の死体見つけて『死んでる』って納得しなきゃ成仏できないのがセオリーだし?」
「だから死んでないって」
「死んでないならなおのこと早く探さなきゃじゃね?どうなっちゃうんだろ~?こわ~い気になるな~見てみたいな~。ね、お兄さん、身体探すの手伝ってあげよっか?」
ちゃら男くんがぐいと身体を乗り出す。心底面白そうにニヤつきながら。なーにが『手伝ってあげよっか』だ。野次馬の匂いがぷんぷんする。むしろ野次馬臭しかしない。そりゃこのまま一人でさまよったってどうにもならないのだが(この店から出ることすらままならないのだが)、こうもおもしろがり野次馬がりを露骨にされると眉根も寄る。寄りまくる。
「そんな顔しないでって。だってお兄さん部屋の出入りだって一人じゃできないじゃん。お兄さんのこと見えて話せて触れる俺がいなきゃ、困ると思うけどな~。その三人組っていうか、死体見つけたら通報してあげるし、俺」
「そう、野次馬丸出しで言われるとうなずき辛いんだよ」
「やだな親切100パーセントだって!まあ、仕方ないじゃん。誰だって自分が死んだらどうなるのかは、できれば死ぬ前に知りたいじゃん?」
とうとう露呈したそのクソ自分本位な本音によほどもう一度殴ってやろうと思ったが、「未知との遭遇~」なんていいながら人差し指を差し出してくるのに心底呆れ果ててそんな気も失せた。それを言うならE.T.だろうが。合わせた人差し指の先にゴム手袋のつるつるした感触。その先にあるはずの体温は感じ取れない。I'll be right here.そうだ。俺はまだここに居る。
1-07:身体を探しに行こう・改
■
やはり夜毎みる夢。
目覚めると、またもやベッドの上で眠る自分の数センチ上空に浮いていた。またこの夢か。もしかしたら夢ではないのではないか?とは微塵も考えない。夢としか考えようがないだろう、この状況は。
近頃は、ほとんど毎晩繰り返され最早慣れ切ってしまって、普段ベッドの上でするように、何もない空中に手をついて起き上がり床の上に降り立った。とはいえ裸足の足に感じるはずのフローリングの感触はどうも心もとない。立っている、というよりも「このへんが床の高さ」という感覚で浮いているというほうが近い気がする。
ベッドの上で寝ているほうの自分を見下ろす。髭の伸びた寝顔は心なしか青ざめている気がする。が、そもそも辺りが薄暗いのでなんとも言えない。自分の顔の造作に不満があるわけではないが、それはかのビーグル犬公が言っていたように「配られたカードで勝負するっきゃない」からであって、わざわざ幽体離脱を利用してまで眺めたいほど好きでもない。見ているのは首だ。首の後ろから伸びる、弱い光ともやでできたケーブルのようなものだ。それはベッドで眠る俺のうなじからニョキニョキと伸び、眠る俺を見下ろす方の俺のうなじへと繋がっていた。それは暗闇でようやく見えるほどにかすかな光で、カーテンをすり抜けた月光に負けてところどころ不明瞭になっている。自分のうなじをまさぐると確かに髪とは違う何かが生えていた。付け根をつまむと、背骨を通る神経を直に掴まれるような、ヤバそうな痺れが駆け抜けた。
――幽体離脱のセオリーでいけば、これは切れたらヤバいやつだな。
そう思ったあたりまでで、もうその夜の記憶は曖昧なのだ。
■
「だあいじょうぶだって」という約束どおり、ちゃら男くんは俺をきちんとエスコートした。結局水すら手をつけずに席を立ったちゃら男くん(と俺)だが、店のばあちゃんは嫌な顔一つせず、それどころか「また顔見せてね」と親しげにちゃら男くんの腕に触れる。どうやら知り合いらしい。ちゃら男くんがばあちゃんとなにやら盛り上がっているあいだ、俺は店の表口、入ってきたその戸口に向かい合った。横着な酔っぱらいがきちんと締め切らず、わずかに開いているソレ。身体を横にすれば、そのままで出ることも叶うだろう。平素なら。けれど無理だ。ひどい圧力と怖気が、俺という存在を拒絶している。実体ある存在が当たり前に受け入れられるこの世のルールが、俺というよくわからないイレギュラーを受け入れるのを拒絶している。言い表すならそんな感じがした。
「『どうぞ』、お兄さん」
いつのまに会話を終えたのか、戸口の隙間を押し広げ、先に敷居をまたいだちゃら男くんがその黒い右手を伸ばしてくる。そのどこかまじないめいた台詞を理解した瞬間か、それとも手が差し出された瞬間か、定かではないしその両方かもしれないが、あっけなく圧力は消え、俺はなんの感慨もなく店の外へと踏み出した。
すっかり夜の帳が降り、つまり一応歓楽街の端くれであるこの路地は明るい時分と比べようもなくやにわににぎやかになっていた。道行く赤ら顔たちは、ちょうど一次会が終わって二次会の店を探しているのだろう。そんな時刻らしい。二次会は一次会の店より狭苦しくてチェーン店には無い空気の緩さのある店がいい。それでこういう路地は時間を追うごとに人口密度を増していくことになる。海まで切り立った斜面に無理矢理規格以上の都市を詰め込んだようなこの街ならなおさらだ。加えててんでばらばらにネオンや照明看板のたぐいに照らされて、狭い路地はもはやにぎやかさの洪水となっていた。いきおい、俺の身体もよっぱらいたちに容赦なくすり抜けられていく。
「なんかウケるね、ソレ」
「もう慣れてきた。なかなか悪くないんじゃないか?人混みのうっとおしさもないし」
「お兄さんヨユーだね、もう身体要らないんじゃない?」
いるわボケ。特になんの打ち合わせもなくアーケード街のほうへ歩き出すちゃら男くんを追いかけながら、脳裏をよぎったのは今朝の痴話喧嘩にもならないようなやり取りだ。例の『恋人未満』とのやり取りである。もともと揚げ足取りばかりするような仲だから尚更だ。下手にでて相手を喜ばすおべっかよりも、揚げ足取りのほうがするりと出てくる。だからあんな言葉が出てくる。だからあんな言葉も出てこない。そして柄にもなく満ちてしまったあの居心地の悪い空気を払拭するには、つまり、もう一度彼女に話しかけるためには、身体がいる。
「なに、急に黙っちゃってさあ。心細くなっちゃった?」
これで言い得て妙なのだからとっさに返せない。相変わらずのにやにや顔にむくむくと湧く腹立たしさでそれが紛れるのだけが救いだ。
「だあいじょうぶだって。身体、見つかるって。成仏できるって」
おい最後なんつった。ちょっとふつーにイイ子なこと言ったかと思えばすぐこれだ。にやにやにや。ホントになぜここまで煽られなければならないのか。この調子を天然でやっているのなら、これまでの人生さぞハードモードであったことだろう。
「…その失礼な感じ素でやってんの?」
「え~さっき急に殴ってきたの誰よ、そっちのが失礼でしょうが。でもいいじゃん、だってどうせアンタが成仏するまでの刹那的なつき合いだもん、お互い気ィつかうことなくね?」
「お前、手、出せ」
「やだよ絶対殴るじゃんなんで殴るのやだよ!」
殴らない殴らない、となだめすかし、恐る恐る差し出された手を力の限り握りしめた。「痛っってぇ!!はなして、はなして!」と仰け反り「うそつき!大人のすることじゃねえよ!」とピーターパンも真っ青な言い分をわめき散らすちゃら男くんのなれなれしさに圧倒されて忘れがちだが、初対面なのだ。初対面の人間の死を願うことこそ大人っていうか人のすることではない。
「ホントにいい加減にしろよな。あんまり殴るなら帰るよ俺」
「帰れよ」
「ええ~、困らないお兄さん?」
「なんとかなるだろ」
「ウソウソ、帰らない帰らない、早く行きましょうぜおやびん、俺が第一発見者になってあげる」
死んだらどうなるのかはできれば死ぬ前に知りたいと彼は言った。そうだろうか。そんなものは死ぬときに知ればいい。そんなものを生きているうちから知ってしまったら、生きていくのに邪魔になる。そう思うのは俺だけなのだろうか。
「つってもまあ、手がかりも打開策もないけど?どうしよっか。その“三人組”が良識人だって信じて、病院でも行ってみる?案外運んでくれたのかもしれないよ?ニュースになってるかも」
「調べてくれよ、スマホとかで」
「俺ピッチしかもってないもん」
その現代っ子って見た目で?といぶかしんでいると、「俺携帯代とか払ってもらってるんだけどさ~ゲームに課金しすぎ~って没収されちった。小学生かよって、金なんか腐るほど持ってるくせによ~」とかなんとかなんだかアブナいパラサイトのにおいがしたので深くはつっこまないことにする。端的に言えばツバメでもやってんのかって言動である。
「運ばれるならそこの市民病院しかないでしょ、わざわざ調べることないって、どーせ虱潰しに行くしかないんだよ?」
「はあ。使えねえな」
「うははは!理不尽。ん~じゃあさ、ソレ、たどって行ってみる?」
ソレ、とちゃら男くんが指さしたのは俺、もとい俺の後方のなにかのようだった。追って振り返るも、ネオンの明滅に照らされなおも明滅を繰り返す路地にひしめくのは酔っぱらいばかりでめぼしいものは何もない。もうひとつため息をつこうとして、ふと視界の隅に違和感を覚えた。たとえば軽い飛蚊症の白い光の粒をむなしく追うような。たとえばそういった、見えるはずのないものが見えてしまうような。ひとつ違和感を覚えればあとはもう芋蔓式だ。導かれるように首の後ろへ手をやって、そのまま固まった。「ん?なに?」とちゃら男くんが目を輝かせているが正直知ったことではない。それどころじゃない。
何か生えている、俺のうなじから。
髪ではない。襟足は何の変哲もなく刈り上げられているから、こんなふうに触れようがない。髪よりもっと太い何かだ、とは思うものの、それに触れる感触は水をつかむように心許ないのだ。判然としないそれを指先で慎重につまむと、背骨の奥までヤバそうな痺れが走った。おそるおそる、たぐり寄せるように、それをつかんだままの手を身体の正面へ回し降ろす。いっぱいいっぱいの視界の端で、ちゃら男くんがにやにやしている
果たして手の中にあったのは、夢と同じ、か細い光と靄でできた光のケーブルのようなものだった。淡い燐光を放つそれは、街のネオンが強く瞬くたびに光に負けて見えなくなる。明るい場所では見えないのだ。どおりで喫煙所では気付かなかった、あれは動転していたせいもあるかもしれないが。しかし触れていれば、依然としてそこにあるというのは心許ない感触だけで十分にわかる。それはどこまでも長く、たっぷりと余裕を持って長く、建物や曲がり角へも綺麗に沿って長く、俺の背後の遙か彼方へ伸びて行っているのだ。
「お兄さんさあ、もしかしてまだ死んでないんじゃない?」
ちゃら男くんが口を開く。だから死んでないって言ってるだろって。ついさっきまでそれは、そのほとんどを願望が占めていた台詞だったけど。
「それ、身体とつながってるでしょ。こういう場合そういうセオリーだよね~。それがどっかで切れてなきゃまだ、」
生きてる。
さっきまであんなにケンシロウよろしく死んだことにしたがってたちゃら男くんがここへきて盛大に手のひらを返す。ていうかやっぱお前にはコレも見えるのか。ていうか。
「ホントは心当たりあったりして~?こうやって幽体離脱チックになっちゃうことに」
「いや、だって、こんなことが起こるなんて思わないだろフツー…」
「起こるでしょ。そのくらいフツーにありえるって」
煮え切らない俺に、ちゃら男くんはそれこそフツーのトーンで言い切った。なんでお前がそんなこと言い切れるんだ。俺を見るちゃら男くんの目はネオンと俺の命綱の明滅を受けてちらちらと輝いている。とりわけ光が強くなるたびに、その瞳はぞっとするほど白んで色を失う。さながら俺の、実体のない命綱のように。わずかばかりの黄色みだけが、虹彩の中で濁って渦巻いている。まるで人間離れした、
お前はだいたい、何者なんだ。
昨日まで生きてきた人生の中で、お前のような人間に出会ったことは一度もない。昨日までの人生で培われた価値観に、今の俺も、お前も当てはまらない。ありえない、おそろしい、風前の灯火のようなこの状況に現れて、ニヤニヤと期待と不安をまき散らし、あげく「そのくらいフツーにありえる」と言い放つ。そうやって根拠のない安堵をちらつかせる様は、まるで悪魔的ではないか。でも、そうだろうか、と頭の片隅で思う俺もいる。それはどこかすがるようでもある。すがっていることを茶化しごまかしながら、すがっているようでもある。俺が藁でもおなもみでもすがりたい気持ちの何パーセントぶんくらいには、こいつにもそんなものを感じないでもない。それこそ、気のせいかもしれないけど。
酔っぱらいのひしめく路地で、しばらく俺たちは無言だった。もっとも周りからはちゃら男くんが一人立ち止まりうつむいているように見えるのだろうけど、似たような体勢でそれからゲエゲエやり出すような酔っぱらいが一人や二人ではないので誰も気にしない。むしろ若干避けていく。今、俺の手の中で明滅し、街にあふれる光に確かにコンマ数パーセントかは貢献し、そして彼の虹彩を不気味に明滅させているものは、ひとつの生命の終わりかあるいは悪足掻きの神秘の光だ。
「…ていうか、お兄さんやっと気付いたね!そのうなじのヒモ」
「…あ?」
「いや~だって、お兄さんは自分の後ろだからわかんないかもしんないけど、俺はさあ、ね?つーかそもそもソレが目に入ってあれ?この人?って思ったんだもん。で、お兄さんはいつ気付くのかな~って思って黙ってたんだけど、全然気付かないからさ」
「…」
「てへ」
「…手、出せよお前、おら、手」
「ヤダヤダ、っとに勘弁して下さいよホント、殴るんでしょ?さすがにわかってんだけどマジで、殴るんでしょ?」
当たり前だ。
1-08:暗夜行路-a
第三眼鏡橋近くでエイドを下ろし、俺とアシフの二人と簀巻き一つを乗せたミニバンはひたすら海を目指す。すっかり夜の様相の街並みを通り過ぎるときのあの、飴細工が糸引くようなネオンの応酬は、さすが名夜景に数えられる街なだけはあるというものだ。目にうるさいくらいだ。それこそ東京だとか、関西のほうだとか、もっと近くて天神なんかみたいに圧倒的な人口密度がひしめいたりしてはいないのに、とても騒々しく感じる。そもそも街並みが騒々しいんだ、この街は。全体的に古めかしい。モダンやレトロと言えば聞こえはいいが、ようは前々前時代的な表情の建物ばかりが市街地にさえ居並んでいる。左を向けばこの国の足跡の名残り、右を向けば教会群を筆頭に西洋式の瀟洒な館群、後ろを向けばすぐそこに中華街が迫る。そんなやたら多国籍な異国情緒あふれる街並みが、海まで一気に切り立った斜面の中に無理矢理詰め込まれているのだ。しかも埋め立ててもなおやたらに複雑な海岸線のおかげで、そんな斜面が湾を挟み、幾重にも向かい合っている。これで騒々しくなければなんだというのだろう。そもそも、前々前々前々時代、この国が総力をあげて頑なに引きこもっていた時代でさえ、この迷路のような海から有象無象をひっきりなしに招き入れ、魑魅魍魎としていた街なのだから。
「エイドがいつ船の免許取ったか、アリエル知ってル?」
「知らん。地元にいたときじゃね」
「エイドの地元って…ウクライナかア~」
「は?アイツ俺にはロシア出身とか抜かしてだんだけどぉ」
「ダイジョブよ、ノルウェー出身とも言ってたヨ」
「なにが大丈夫だよ。ノルウェーか、鮭釣ってたんかな」
「今度実家から送ってもらオ」
うひひひとか、さも楽しげにアシフが笑う。相変わらずエイドの出身地は非公開らしい。そこは闇だから。エセ生真面目エイドの貴重なアピールポイントでもあるから。あと出身地大喜利みたいな、うん。
第三眼鏡橋でエイドを降ろしたのは、普通車運転免許さえ持っていないエイドが唯一持っている免許をフル活用してもらうためである。川縁にはこれまたボス所有の小型船舶が停留してあり、ボスの元へ向かうにはそれしか足がない。ヘリでもチャーターできるなら話は別だけど。陸路では決して行けない。ボスの根城、もとい邸宅は、この複雑に入り組んだ湾内に点在する小島のひとつにぽつねんと鎮座しているのだ。さながら東洋型縮小版モンサンミッシェルのごとく。まず立地が嫌みなほど洒落ている。さすがは金持ち、シャッチョサンである。
「これだからボスんとこ行くのメンドいのヨネ」
「おい、そういうこというなよ」
「いい子ぶんのかよアリエル、ゲロ吐くくせに!」
「それはゴメン?でもボスってどこに耳あるかわかんねえし地獄耳だし」
「アリエル、そういうコト言うナ?」
力まかせに小突くと、アシフは甲高い声を上げて笑った。夜になるともういよいよ外の様子が判然としないスモーク貼りの窓からなんとか現在地をうかがう。そもそも後部座席の俺はともかく、運転してる張本人のアシフは現在地なんかばっちり把握してるだろうが。とうに繁華街は抜け、この街のメイン通りで路面電車の線路を有する淵欠通りも渡り抜け、駅周辺のおしゃれなデートスポットではないほうの殺伐閑散とした海辺に差し掛かっている。きらびやかな駅周辺とは一変し、なんともうら寂しく、掘っ建て小屋未満の劣化した窓ガラスがパリパリに割れているような建物が建ち並び、明かりなどは一つもない。小さな船着き場が無造作に居並ぶおかげで、海岸線は刃こぼれしまくった包丁の輪郭のようにがたがたしている。もしくはミニマムリアス式海岸、ミニミニフィヨルド。そのすべてが、すぐそばの真っ黒な海から吹き寄せる潮風に容赦なく晒され色味を失い、もう何十年も近寄る者などいないことを存分に主張してくる。この街の子供たちは、中学生くらいまではゲーセンとカラオケとこのあたりに近づくことを夏休みの友にて禁止される。まあね、明かりもねえし、人気もねえし、埋め立てられた海岸特有の急に深くなるような海に落っこちたって、誰も気づきゃしねえだろうし。
月明かりもないのにそこかしこに落ちている影が、ヒクヒク波打っているのに気付いてしまうかもしれないし。
「アッシー、徐行徐行!こういう道では徐行って車校で習ったろ?」
「ホイ。安全運転ナ。…車校で習ったカナ?そのころまだ日本語ビミョーだったからウル覚えダヨ」
よく受かったな。
減速し、つられて二人とも黙ったことで静まりかえる車内。車内だけじゃない。もともと外は人類滅亡後のごとく静かだ。いきおい息が詰まる。ヒクヒクと蠢く影。気のせいかも、いやあるいはわりと夜風があって、そのせいで影を落としている大元の何かがなびいているのかも。なにが影落としてんのかも不明だけどな。今、我らがミニバンがミシミシ踏みしめている舗装の剥げかけた小径には、おおよそそんな形のものは見あたらないのに、いやな感じに細長い影が幾重にも連なって落ちているのだ。その正体が動いてしかるべきものなのか、予想すらできない。…でもやけに生き物めいた動きだなあいやな予感しかしねえなあ。
そのときタイヤが砂利かなにかをひいて、ぱきんと音を立てた。静寂を打ち破るその小気味よい音に、アシフがひくりと薄い眉を動かす。間を置かずにもう一度、ぱきん。まあ、これだけボロボロな道路だったらな、かつてアスファルトだった砂利なんかいくら転がっていてもおかしくはない。なんて思っていたらすぐさまもう一声、ぱきん。ぱきん。ぱきぱきぱきぱき!
「アッシー止まれ止まれ!」
「ホイ。ナニかな?なんか踏んじゃってるカナ?」
「やな予感しかしない」
「ア~後ろに死体乗せてルし、ラップ音みたいナ」
それを今言うなよ、という気持ちをこめてアシフを睨むと「アリエルってビビリよネ~」となんとも腹立たしい煽りが返ってきた。その態度から見るに、元ニューヨーカーの都会っこはきわめてドライで面白味のない超常現象否定派であるらしい。俺だって信じちゃいないけど、信じていなくたって、日本で生まれて日本で育てばこういった状況にある種の恐れを抱くものでしょーが。後ろ、ミニバンなのでまさに俺の座る後部座席の背もたれを隔ててすぐ後ろには、確かに死体もとい簀巻きが乗っている。まさか信じてないけども。もしこれが『そういう現象』だったら、もうとっくの大昔に遭遇してなきゃつじつまが合わないもの、まさか信じちゃいないけども。やっぱり不気味なものは不気味だ。理屈と、そういう本能的な恐怖はやっぱり違うじゃん。
「ナニか踏んでル?」
「待って…つーか前のほうがよく見えるだろが」
「夜目利かないの、ニューヨーカーダカラ、都会っこナノ」
どうにもお気楽なアホは放っておき、俺はおそるおそる窓の外を覗き込む。こうしているあいだにも、車体の下から「ぱきっ」だの「みしっ」だの、いやな感じしかしない音が絶えずにいるのだ。もう車は微動だにしていないのに。
スモークを貼った見づらいことこの上ない窓から、精一杯目を凝らす。ネオンなんて届かない、今宵は月明かりすらない、そんなアスファルトの地面に落ちている、幾重もの黒い影。それは我らが乗車中の車体の下にもタイヤの下にも満遍なく隈無く伸びている。ヒクヒク蠢いて見えたのはやはり気のせいだったのだろうか、今はそんな風には見えない。ぱきん、とまた音がした。なんの音だホントに。確かに車体の下から聞こえはしているのだけど。ぱきん、ばき。タイヤの下までほとんど黒い絨毯のように伸びている影は、劣化しまくったアスファルトのせいかひび割れて見える。みしみし、ばきっ。目を凝らしていると、どうもヒビが広がった。稲妻が空に走るように、亀裂がすばやく走り大きくなった。砂利を踏みつける音じゃない、亀裂が広がる音だったのだ。でも、なぜ?なにに亀裂が入っているんだ??ばきっ、ばきっ。もっともな疑問に満ちる俺の胸中などお構いなしに広がり続ける亀裂が、とうとう走りきってつながった。
バシッ
その瞬間、亀裂のつながった部分が剥がれ落ち、信じられないことに地面に穴が開いた。そしてこれまた信じられないことに、その穴から溶岩のようにドス赤い奈落が覗く。剥がれ落ちた黒い地面の破片が、真っ赤に口を開けた奈落にどこまでもどこまでも、果てなく落ちていくのがわかる。え?夢?という感想は車体がガクン!と激しく傾いたことでとりあえず吹っ飛んだ。さすがのアシフも「ウップス!?」と叫ぶ。いやな予感しかしない。後ろのほうへ傾く車内でバランスを取りながら今一度窓のほうへ身を乗り出すとその瞬間、亀裂だらけの地面が一気に崩落を始めた。
「アッシー出せ出せ出せ出せ!!!!」
言わずもがな、すでにアシフはMT車かという激しさでチェンジレバーを操作しアクセルを踏み込んでいた。オフロード走行用でもない軽の自家用AT車じゃなかなか聞けないような勇ましい嘶きを上げるミニバン。さらに真っ赤な口を開けた奈落へ飲み込まれるようにガックンガックン傾く車体。今、何度くらい?ちょっとした心臓破りの坂道くらい?もう恐怖で直視できないが、おそらく真っ黒な地面の崩落する音と思われる名状しがたき破壊音はよりすさまじく、激しくなっている。『突然地面に真っ赤な穴が開き、落ちそう』という、とてもアンビリーバボーで南無三な状況に追い込まれ、ついつい正気を失いそう。なんとか堪えてなるだけ前方へ体重移動する。讃えよこのささやかな努力。
「なにこれなにこれ、なによこれ!どおなってんのお!?アッシー頑張ってぇ!!!」
「どうなってンの?なんで後ろ重いノ?なんの音??アリエルちょっと外出て押してクレヤ?」
「バッカ無理に決まってんだろ!!もお、頑張れってホラあ!!!!」
イマイチ状況を飲み込めずイマイチ危機感の無いアシフとなおも傾き続ける車体、海獣に食べられる小船の断末魔のごとき破壊音にシビレを切らした俺は、後部座席からサイドブレーキを跨いでフロントガラスへタックルかました。成人男性一人分+火事場の勢いの体重移動を受け、車体がわずかに前へつんのめる。助手席の足下に俺が落っこちる衝撃でダメ押し。その瞬間、アシフがもうエンジンがかわいそうになるほどアクセルを踏み込み、我らがミニバンはようよう落ち窪んだ地面から抜け出した。
「油断しないで!走って!走って!安全な場所へ行くまで止まらないで!」
「なに?なんだったノ?」
「そのままだよ!落ちそうだったんだよ!穴に!」
「穴ァ~??」
久方ぶりに水平となり進み始めた車内で、未だこの態度なのがこのアシフである。驚き。俺は助手席の足下から這いだし、乗り出して後方を確認した。…んもうスモーク邪魔くせえな!まるでこの世のものとは思えなかった地面崩落現場は遠ざかっていくばかりですでによく見えない。なんかモヤモヤしてるし…なにがモヤモヤしてるんだ…?黒いモヤモヤが、ちょうど地面が崩落したあたりに渦巻いてて…なんか伸びてない?伸びてきてない?きのせいかな?
「エイドもう着いたかなァ?つーか、フロントガラスって意外と丈夫ネ」
「…」
イマイチのんきにもほどがあるアシフのほうを、見たのが間違いだった。だってスゴい、今の危機的状況を切り抜けたのに共有できないってやっぱ、腹立たしいじゃん?顔見て一言言ってやろうと思って。前をしっかり見、安全運転を心がけるアシフの横顔、の背景。
運転席に窓ガラスの向こうに何かいる。
それは真っ黒で、細長く、海底に生える黒々とした海草のようにヒクヒクはためいているが根本ははるか後方で見えず、触手と言うよりは実体の無い影のようで、窓ガラスにぺっとりと貼り付いたかと思うとぐるんっと一つしかない目を開けた。そう、目だ。ぎょろぎょろと、ピンポン球ほどの大きさの一つしかない目玉が、ぺっとり貼り付いて車内を窺っている。ぎょろぎょろする黄色い眼球と目が合いそうになり、とっさに目を逸らした。
「アッシー…。もうちょいスピード出して、絶対に、横見ないで、スピード、出せ」
「ホイ。横?」
見るなっつてんだろがダボが!!なんとも軽快にひょいっと窓の外を見たアシフは、なんとも軽快に前方へ視線を戻し、うっすら笑った顔のまま、ぐいぃぃぃんとアクセルを踏み込んだ。
「目が合った…!目が合っちゃたヨ…ッ!!」
「なにしてんのお、ねえ…?見んなっつったよねえ…!?」
「オーマイガーッ…!ジーザス!ジーザス…ッ!!」
なんか半泣きで主の祈り唱え始めた。スピードはぐんぐん上がっている。真っ暗でギザギザな海岸線を、得体の知れない触手に追いかけられながら走る走る鞭打たれた競争馬のごとく。だめだ。状況が理解の範疇を超えた。知らない、あんな生き物知らない、知らない。しかも、どうやら一本じゃない。影のように実体のない触手達は、無数に数を増やしながら次々に追いついてくる。スピードを上げ続けてもものともしない。きっとあの地面が崩落した赤い穴から生えているんだろうに、どこまでもスイスイ音もなく伸びて追いかけてくる。そのどれもがぎょろぎょろした黄色い目玉を持っていて、我先にと、ミチミチ押しのけ合うようにして車の中を覗き込んでくる。その熱狂ぶりはすさまじく、押しつけられる触手達の身体が軋み、窓ガラスと擦れたむき出しの目玉がギイギイまるで鳴き声のような音を立てた。
もし、この圧力で窓ガラスが割れたら。
考えたくもない、でも、考えちゃう。後部座席のその後ろの簀巻きに意識が行く。やっぱり、こういうものを乗せてるから、こういうことが--いやいやいや。
「あっ、アレ!エイドじゃん!」
運転席はもうダメだが、助手席のほうの窓ガラスはまだ幾分余白を残していて小さくその様子が見えた。打ち捨てられた船着き場でギザギザした海岸線、そのちょっと離れた暗い海上を、一隻のちいさなモーターボードが突き進んでいく。闇夜に紛れる暗い色の船体。短く刈り込んだ金髪の長い人影、エイドだ。川下の停舶所から河口を出、海岸線沿いに回り込んだエイドが追いついてきたのだ。迷路のような湾内に浮かぶボス邸へ向かうには、ボートでもクルーザーでもなんでもいい、船を使わなくてはならない。そしてこの車を乗り捨てていく都合上、指定の船着き場から簀巻きを乗せなくてはならない。船着き場とそのボート自体を使うのは俺たちばかりではないので、わざわざ途中で船舶免許持ちのエイドを降ろして合流、というしちめんどくさい手順を踏まなくてはならない。とにもかくにもエイドはすぐそこまで来ていて、どうにか冷静になって見ると合流場所である指定の船着き場もすぐそこに迫っている。でも、どうするんだこのすさまじい物量の触手を引きずり疾走している状況で。止まるのか?船着き場に着いたら止まるのか?ていうか、エイドはこっちの様子に気付いているんだろうか?
「どうするアリエル、着くケド、と、止まる?」
「つーかコイツらエイドに気付いたらどうなるんだ…?俺らは車内だけど、エイドなんかほぼ外じゃん、あれ、剥き出しじゃん」
「犠牲になってもらウか…」
「やむをえん…非常に残念だがやむをえん…」
所詮小悪党。あっさり身内の一人を窓の外の名状しがたき目玉ちゃんどもに捧げる決意をする。さすが人でなし。エイドが犠牲になるか、窓ガラスがとうとう割れて俺たちが犠牲になるか、二つに一つならば、致し方ない。
しかしまあそこはお約束で、そのどちらにもならなかった。やけに静かになったな、と気付いていやいや窓を見やると、貼り付く目玉ちゃんたちの数が明らかに減っている。数と最初のインパクトが薄れてくるとその動きのおどろおどろしさも薄くなる。きょろきょろしながら、また一本、一本と離脱していく目玉たち。とうとう最後の一本が後ろへ流されるように離れていき、あわてて後方を確認するも、なんの変哲もないうら寂しい海辺のあぜ道が続いているだけだった。
折りよく目的の船着き場に着き、疲れ切ったようにタイヤが軋んでミニバンは停車した。月明かりすらなく。外はただ真っ暗で、もちろん影などない。振り切ったのだろうか、追いきれなくなったのか?無事に、逃げ切ったのか?そもそもアレなに?なに?
アシフは何も言わない。絶賛放心状態で宙を見つめている。パニックに陥っていた割に、なかなか的確なドライビングだったな、ちゃんと車校で学ぶこと学んでんな、とよくわからない感心をしていたら、突然窓ガラスを叩かれて俺とアシフは飛び上がって抱き合った。
「「アーーッ!!!!ワーーーッ!!!!」」
「うっせ!うっせ、うっせえ!!!ナニしてんの、早くシロ!」
まあ冷静に見ればエイドなんだけど。はや懐かしの声。耳を押さえて顔をしかめたエイドにドアを蹴られ、おそるおそる外に出る。なんともなかった。車体をくまなく調べたが、お約束みたいに手形が残ってるとかそんなこともなかった。まあ目玉ちゃんたち、手なんかなさそうだったけど。エイドにくっそ「なんだコイツ」みたいな目で見られたけど。
「ナニ?どしたの?なにかあった?」
「エイドお前船から俺たちの車見えなかったの…?」
「見えたヨ!だから、時間ぴったしだなって思ったノニ、ぜんぜん降りてこない」
「なんともなかった…?」
「ねえよ。ナニコレ恐い話でもはじまんの?」
「いや…」
どうやらエイドには我らがミニバンが吹き流しのごとく引き連れていた目玉ちゃんたちは確認できていないらしい。見えてないってこと?俺たちだけ見えたってこと?えっ、いよいよ心霊現象じゃねえか。
「なんでもイイケドサ、早く船に乗せちゃわないと、簀巻き」
「おう…」
いや、いいや、気にしないどこう。気にしても恐いし、考えても意味がわからなくてなおかつ恐いし、ならもう気にしないでおくしかない。深く考えないでおくしかない。幻覚だよ、きっと夢だよ、地面の崩落も、ミニバン落下未遂も、追いかけてきた名状しがたき目玉ちゃんたちも。なにより今はもっと恐いことがある。今もなお後部座席のその後ろに乗ってる簀巻き、あれを運んでしまう前に誰かに見咎められることだ。
開け放しのドアに半身を差し込み、今なお運転席で宙を見つめているアシフに話しかけた。
「はやいとこやっちまうか。オイ、アッシー手伝えよ」
「待っテ…」
「なんだよ」
「腰抜けちゃってるカラ、待っテ…」
よく今まで運転できたな。
半泣きのアシフと、わけがわからずイラつき気味のエイドと、現実逃避気味の俺と。晴れ渡った夜空には月明かりすらなく、影も作れないほどの星明かりが申し訳程度に俺たちを照らしていた。
1-09:暗夜行路-b
とりあえず当面の方針として、このうなじから伸びるぼんわり光るケーブルを辿って行かない手はないだろう、という結論で落ち着いた。夢(だと思っていた毎夜の出来事)と照らし合わせてみても、このケーブルの先には身体があるはずであると。そう言われてみると俄然そんな気がしてくる。
「今の今まで気づきもしてなかったくせに。んなもん首から生やしといて」
ブウブウ音がしそうな顔でちゃら男くんが水を差す。「もうこれ脱いどこっかな」と、古びたゴム手袋を嵌めた両手をかばい合うように擦り合わせている。この野郎は要らないことしか言わないし、そのくせ早めに申告してほしかった事柄に至ってはニヤニヤ見ていただけ、というのが判明したので少々懲らしめてやった。これで懲らしめてやらなかったらいつ懲らしめるというのか。学生かプー太郎かアブナいパラサイトか知らないがいい大人なら報連相くらいちゃんとしていただきたい。
「でも良かったじゃ~ん。あとはこれ辿ってけばいいんだもん。太さから言ってそんなに離れてないんじゃね。もう見つかったも同然でしょ」
そしてちゃら男くんのほうも「このぼんわりした光るケーブルは身体と魂を繋いでいる」説に関しては、なんらか以上の確信を持っているようなのだった。いや、またテキトー言ってるだけかもしんないけど。もう信じねえ。
本当に何者なんだろうか、コイツ。
改めて疑念が持ち上がる。何故、俗に言う幽霊状態で誰の目にも映らない俺を見ることができるのか、見える人だからだとかほざいてたけど。何故、あらゆるものをすり抜け干渉できないものに触れることができる手袋なんて到底一般常識とは無縁そうなものを便利グッズ的なノリで所持しているのか。普通じゃない。明らかに普通ではない。そもそもこの流動する現代社会においては赤の他人に気を留めて声を掛けることすらごく稀少な事象だろう。それをここまで首をつっこんで、その後の言動もうっすら悪魔的だったり。そして今も俺がごちゃごちゃ考えているうちに率先して光のケーブルを追い歩き出しているなんて、普通じゃない。明らかに普通ではない、んだけど。
「うーん、やっぱり市民病院のほうに行ってるね~。やっぱり案外病院に運んでくれてんじゃない?世の中そんな悪い人ばっかじゃないって、うは」
何故か俄然やる気を出し、跳ねる勢いで先を歩くちゃら男くんに遅れない程度には急いで歩いた。路地からアーケードに入り通り抜け、路面電車を追うようにして淵欠通りに出る。ぼんわり光るケーブルは、そのどの壁にも地面にも、すれ違う通行人にも触れ合わないよう絶妙な高さに浮かんでいるのだった。俺本体はバカスカ無遠慮に通り抜けられまくってるのに。なにより、こんなに長く伸びるものだったのかと半ば心配になるも、それはピンと張ることすら一度もなく、むしろたわむ余裕すらもってたっぷりと伸び続いているのだ。
この街はそのほとんどを斜面が占め、海の際のわずかしか平地が無い。必然的に街で一番大きな淵欠通りは海沿いを走り、駅だの大型エンターテイメント施設だのアーケード街だのはそれに侍るように行儀良く建ち並び、入りきらなかった住宅街やらなんやらは少しずつ斜面の方へ押し出され今や頂上に迫る勢いである。目指す市民病院も海のすぐそばに建っていた。一等地に建っているだけあってかなり大きな総合病院で、海を阻む、聳える壁のように仰々しい。斜面の上からなら一目瞭然、ここら繁華街のような平地でもある程度近づいてしまえばどこからでも見える。夜もすっかり深まった今、見える窓は全て黄色くつぶつぶと光っている。
「ていうかお兄さんさあ、せっかく身体に戻れても抜け癖ついてたりして。もう心当たりある?もしかして」
「…」
「あれ?シカトかよ」
「お前、名前は?」
立ち止まり、こちらを振り返ったちゃら男くんは、露骨に「なんでそんなこと聞くの?ボク驚いてます」という顔をしていた。ですよね、という気持ちと、白々しい、という気持ちが半々。別に名前が聞きたいわけじゃない。それこそナンパじゃないんだから。この非日常過ぎると言わざるを得ない状況が少々解決の兆しを見せたことで、余裕のできた頭はスルーしていた疑念を膨らませ始める。お前は何者なんだ、この状況はなんなんだ、お前は一体どういうつもりなんだ、もっと、わかりやすい答えを持っているんじゃないか?そんな感じのことをいい加減明らかにしてほしくて、まあうまく言葉にはできなくてそんな問いかけになってしまったのだけど。
汲み取れないことはないはずだ。汲み取る意思があるかは別としても。
「はぇ…なに?お兄さん、俺に興味津々な感じ?やぁだぁ~」
「…」
「…いやいやいや、なに?俺、今更疑われちゃってる感じなの?ウソでしょ?」
疑うってそんなつもりじゃないし、そもそも何をだ。弁解じみた問いが口を突きそうになったが、そのまま喋らせてみるのもいいかと思い直す。どうせ要らないことばかりべらべら喋ってしまう男だ。思いがけないことも喋ってくれるなら万々歳だ。
「もしかしてお兄さんの魂抜けちゃったの、俺のせいだと思ってる?俺が実は人間じゃなくって、お兄さんの魂抜いちゃったって?」
なるほどそういった可能性もあるのか、と純粋に感心した。確かにちゃら男くんがそういったことのできる非常識的な存在で、俺の魂が抜けてしまうよう小細工したあと偶然を装ってあの中華飯屋で声をかけたのだとしたら世話はない。尻餅ごときで仮死状態という不名誉極まりない状況への説明もつく。同時に、これまでそういう可能性を考えなかった自分の愚かさにも思い至った。ちゃら男くんの表情からはその真偽は窺い知れない。常通りニヤニヤしているばかりだ。ただ、当初は半身をひねって振り返っただけだった体勢は今や完全に向き直り、どうにもこちらに乗り出し気味にすらなっている。
「でもさ~疑うにしてもちょっと遅くない?ここまで一緒に来ちゃって、そのうなじのヤツも俺に先に気づかれちゃってさ~。俺がホントに悪いヤツだったらお兄さん、今頃どうなってるんのよ?」
図星を突かれた。わざわざ数歩こちらへ引き返して来たちゃら男くんが、視線を合わせるためにニヤニヤしたままこちらを睨め上げてくる。ニヤニヤニヤニヤ、相変わらずのその態度には苛立つが、それだけだ。コイツは信じてはいけないなという確証も、信じてもいいかなという油断も得られない。決めかねて耐えかね、視線をずらす。ピアスが無数に打ち込まれた耳が目に入る。耳たぶに二つ、カフが一つ、それから軟骨の隆起の影の見えにくいところに一つ歪なデザインのピアスが打ち込まれているのが気になった。ピアス自体の色が暗いし、そもそも影になっているので何を模しているのかわからない。いよいよ目をこらそうとしたところでちゃら男くんは一つため息をつき、いきおいぱらぱらと雪崩れてきた髪でその耳は覆い隠されてしまった。
「真面目だねお兄さん。俺のこと信じなくてもいいよ、会ったばっかでそんなの期待しねぇし、どうせすぐお別れだしね。でもさ、そんな疑わないでよ。信じなくていいから。どうせほんのちょっとの付き合いなんだからさ~軽~く考えてよ」
「…」
「俺ヒマだから付き合ってるだけだし、マジで。その証拠っていうか、悪いことも手助けもしてないでしょお?見てるだけじゃん、プラマイゼロじゃん」
「手助けしないのと腹立つ態度で若干マイナス寄りだけどな」
「オーケーわかった、今からなるべく手助けする。隣人を助けよだもんね、人類皆兄弟だもんね、くあーめんどくせ!」
「もう帰れよお前」
「ウソですってばおやびん」
「ここまで来といてそんな殺生な」なんて言いながら再び歩き始めたちゃら男くんはもうこの話を終わりにするつもりらしかった。ちゃら男くんの言い分はもっともな気もするが、丸め込まれた感も否めない。考えてみればそれも仕方ない。なにしろ俺にはカードが少ない。こうして魂が身体を抜け出てしまうことなんて夢ならまだしも現実にはあり得ない、と昨日までは思っていた。対して向こうはそんなのは普通にありえると言う。その認識差からしても知っていること、持てるカードの数の差が圧倒的なのは明らかだ。配られたカードで、持っているカードで勝負するっきゃない。それでダメならそれこそ運命としか言いようがない。既に半分死にかけているも同然なのだから。
「…俺の名前は『くれ』だよ」
「…あ?」
「三国志の『呉』って、あの字で『くれ』って読むんだよ。お兄さん、考え込んじゃって可哀想だから名前くらい名乗ってやるよ」
「それはどうも…」
「まあ偽名かもしんないけどね~ウソウソ!また疑わないでよめんどくさいから!」
だいたいわかってきた。やっぱりこの男は思いついた軽口は口に出さないと気が済まない性分らしい。お前のその性分のほうがめんどくさいわ、と思う。ああ、めんどくさいめんどくさい、やめやめ。元来、俺だって真面目に考え込む性質じゃない。ことなかれ、それが無理ならなるようになれ主義なのだ。そう、なるようにしかならない、最期にはね。
とはいえ名乗られてしまったからには名乗ったほうがいいのかと、そこだけ考えあぐねていると、ちゃら男くん--もとい呉が振り返り、釘を刺すようにニヤけた。
「あ、お兄さんは名乗らなくていいからね。身体が無いときに、信用できない人に名乗るのはやっぱ危ねぇし、抵抗あるよね?」
…なんだその悪魔じみた忠告は。本気で言ってんのか?冗談か?そもそもどういうことだ?…やっぱりどういうつもりなんだこの男は?
「うわあ~マジで真面目なんだねお兄さん、すぐ考え込む。気楽に行こうよ、ほら、もう着くし」
促されて見上げると海を阻む壁のような建物が眼前に迫っていた。夜も深いにも関わらずほとんど窓から黄色い明かりが漏れ、忙しない活気が染み出してくる。ふと、首の後ろに嫌な予感が走った。気のせいかもしれないし、前を行く呉の手が一瞬、光のケーブルに触れたからかもしれなかった。
「きな臭くなってまいりましたね~」
市民病院の正門脇に立って、呉はニヤニヤとつぶやいた。ニヤニヤしながら俺の方を窺って、きゅっと口をつむる。正しい。それで正しい。なんらかの歓迎されないトラブルが発生した状況下において、すぐさま気の利いた改善策を思いつかないならとりあえず歯は見せてはいけない。とりあえず唇は引き結んで、神妙な顔つきで周囲の空気に同調しておくに限る。
二人の予想(という名の希望的観測)なら、俺の行方不明で意識不明の身体は件の三人組によって病院にでも搬送されているはずであった。俺(魂)の首から生え身体と繋がっているはずの光のケーブルはそれを裏付けるように市民病院のほうへ伸びていたのだし、最早確信していたと言っていい。そうして俺と呉は光のケーブルを辿って辿って市民病院までやって来たのだ。
果たして光のケーブルは、病院の中へ突入することなく、外塀の外へ逸れて暗く狭い路地に吸い込まれているのだった。
「なーんか、俺の予想ってことごとく当たんねえな~もう黙ってよっかな」
「そうしてくれ」
「ちょっとね、ちょっとだけなら黙れるけど」
病院に着きさえすれば解決するとすっかり思い込んでいたものだから、混乱すらしている。どういうことだ。いや、どうもこうも病院内には身体はない、ということだろう。そしてこの狭い路地を抜けた先の方が、身体がある可能性はすこぶる高いと。そうとなると少し、まさにきな臭くなってしまわないか。だってこの先って、海だぞ海。しかも整備されていない、半ば放置されたある意味無法地帯のほうの海岸だ。
「ここでさらに希望的観測をするなら~、身体だけ歩いてどっか行っちゃった説~な~んて」
「…そんなこともあり得るか?」
「いや、無いね。あるわけないじゃん信じないでよもお。例外は無いことは無いけどまず99割無いね。ほぼ100割だね。ガチありえない」
「…」
珍しくキリっとした顔なのに頭悪そうなこと言ってるな~とは胸中に留めた。ともかくあり得ないというのは痛いほど(痛々しいほど)理解できた。考えてみればそれはそうで当たり前だ。俺の実感として意識アイデンティティはここに存在しているのに、身体のほうも意思を持って歩いちゃったりしているとなるともう、ちょっとわけがわからない。キャパを超えてしまう。
きな臭い。きな臭すぎる。やっぱり普通に怪しいんじゃねえかあの三人組。世の中そんな悪い人ばっかじゃないって言ったの誰だよ、ホントに、どこにあるんだ、俺の身体――戻れるのか?
「ま、やっぱりコレ、辿ってくしか無いよね…」
「…」
「お兄さん平気?顔色悪くね?まあ身体無いけど」
「…」
「いって!…よし、じゃあ行こうぜ」
よくも笑えない冗談をかますものだ。素早くその手にビンタすると、呉は追撃から逃れるようにひょこひょことまた先を歩き出す。光のケーブルに触れないギリギリを撫で、臆せず辿って行く後ろ姿をしばし見つめる。まあ、他人事だからなあ。当事者の俺こそ、率先してこの光の行き着く先を見極めなければならないだろう。いかに怖かろうが。この生きているのか死んでいるのか、恐ろしい試験結果を待っているような心地、耐え難い心地、それでも自分の、魂の行き着く先を見極めなくてはならない。それは逃れられない。最期には、誰も。
正門を素通りし、外塀に沿って細く暗く路地を進む。夜も深まり、光のケーブルは十分に光ってはいるのだが、辺りを照らすことはなく数歩先を進む呉の後ろ姿すら心もとない。そもそも病院が馬鹿でかいので、外塀に沿って行くだけでもかなりの距離があり、大通りの喧騒はあっという間に彼方へ消え去って行く。聞こえるのは、伸び放題になった雑草を呉が踏みつける音と、次第に大きくなる夜の海の音ばかりだ。
「しっかしもっと照らしてくんねーかな、コレ、せっかく光ってんのに。お兄さん、ちょっと力んだりしたら光強くなったりしない?」
「するかよ」
「試してみればいいのに~こんな機会そうそう無いのに~」
相変わらず無駄口軽口を叩く呉は尻ポケットから小さな携帯――もといピッチを取り出して前方を照らそうと試みたようだった。しかしすぐに「げ、メールきてる」とポチポチやりだす。アホらしくなって光のケーブルに視線を落とした。今のところ変わりなく、たっぷりと光り伸び続けている。間違っても切れたりする様子はない。海の匂いがどんどん濃くなる。ごおごお言う波の音が、まるでこちらに襲いかかってくるような錯覚に陥る。
そうしてようやく外塀の終わりが見えてきた。終わりと言っても、光のケーブルも外塀も沿って曲がっているようなのでまたしばらく塀伝いに歩くのだろうか。
「あそこ曲がったらコレ、切れてたりして。ブチッて」
「やめろ」
「ごめんごめん」
本当に恐ろしいほど思いやりのない男だなコイツ、覚えとけよ。果たして角を曲がった先には変わらず光のケーブルが続いていて、俺はほっと息をついた。そこまで思い詰めさせた呉にいい加減腹が立ったが、どうせ考えなしに口に出してるだけだと思うと怒る気にもならない。ただどっと疲れる。
光のケーブルはそれから少しずつ病院の外塀を離れ、整備されていない海辺の方へとどんどん突き進んで行った。砂利の多い砂浜かと思えば中途半端に埋め立てられ、打ち捨てられた廃墟のような小型船が着けていたり、とにかくごちゃごちゃと荒れかえっている。たまに建っている掘っ建て小屋未満の建物は全て劣化した窓ガラスが割れていて、普段から近寄るものなどないのだというのが窺える。俺だって生まれてこのかたこの街に住んでいるが、こんなところには立ち入ったことがなかった。用もないし、それに、こういうところには近づくなと子供が言われて育つ場所そのものだからだ。
ふと人の気配がした気がして、俺は俯きがちになっていた首を巡らせた。呉も海の方へ目を凝らしているが、なにかあるようには見えない。気のせいか、はたまた呉の気配か、なにしろ闇が濃い所為でなにもかもざわめいて見える。
「お兄さん、こっち」
不意に呉が俺の腕を掴み、「静かに」のジェスチャーをしたまま目を凝らしていた方へと歩き出した。静かに、と言われても魂だけのこっちは騒いだって問題ないと思うんだけど。問題あるほうの呉はお前はアサシンか何かかと問いたくなるほど完璧に気配を殺し、あばら家の一つの陰にしゃがみ込む。倣って、そんな必要はないのかもしれないが陰にしゃがみ込んだ俺に、呉は口をピタリと噤んだまま、視線だけで向こうを見るように促した。
そこは埋め立てられたのかほんの小さく拓けた場所になっていて、船が着けられるようになっている。実際、遠目暗目には見えづらい、暗い色のモーターボートが一艘つけられているのだった。そして陸地の方にはいかにも怪しいスモークを貼った黒のミニバンが停まっている。なんて嫌な予感しかしないんだ、と俺は思ったが、さらに最悪なことに、俺のうなじから伸びた光のケーブルはどう見ても、そのバンの中へ繋がっているのだった。
…マジかよ。
きな臭いどころではない。事件性の薫りしかしない。何が起こってるんだ。何に巻き込まれてくれちゃってるんだ俺の身体!なにしてくれてんだあの三人組は!思わず狼狽して振り返ると、真剣な顔でピッチを弄くっている呉と目があった。
「おい、あれどういう!」
「しっ、声でけえよ」
「いや俺の声はデカくたっていいだろ、聞こえないんだから」
「あっ、そっか~」
へらりと笑う呉に笑ってる場合かという多少の苛立ちと呆れを感じたが、それにより幾分平静さを取り戻したのも事実だ。素直に感謝しておこう、心の中だけで。呉はピッチをしまい、わずかに身を乗り出してボートとバンを確認した。
「お兄さん、どう考えてもやべえことに巻き込まれてんじゃん、何やってんの~」
「俺だって聞きたいよ…」
「自分の身体、こんなこんな揺さぶって~?どうしよっか、警察――やべ、人だ」
さっと引っ込んだ呉に代わり、俺は堂々と身を乗り出した。モーターボートから男が一人出てくる。船から降りたタイミングで、黒いバンの助手席のドアも開いた。身体を拉致っていったのはやけに多国籍な三人組だったが、そのうちの二人なのかどうか、この距離と暗さではどうも判然としない。二人は何か二言三言交わすと、連れ立って後部座席の方へと回る。助手席から降りた男がドアに手をかける。思わず緊張した。別に、なんなら二人のすぐ隣に並んで観察したっていいのに、逆に隠れたい心地にすらなった。
男が車内にほとんど身体を差し入れ、やっとで引きずりだしたものは――ぐるぐる巻きに簀巻きにされた俺の身体だったのだ。
「簀・巻・き…!初めて見た俺、簀巻きにされた人ナマで…!」
「笑えねえよ…笑えねえだろ…これ繋がってるし…マジか…」
光のケーブルは間違いなく、ぐるぐる巻きの簀巻きに繋がっている。今にも笑い死にそうな呉を殴る気にもならない。これがホントの心神喪失状態。
「どう考えても人身売買の現場を見ている…」
「お兄さんの身体、売れそうだもんね~やだ!ヤラしい意味じゃないわよ!成人男性の諸々のパーツ!世界中でモテモテよ!」
「マジで…船に載せられようとしている…」
「船?待って船はヤバイ」
呉が今一度身を乗り出した。何がヤバいのか、これ以上のヤバい事態はちょっとよして欲しい。怪しい男達は簀巻き俺を船に載せようとしているが、いかんせん少人数なのが災いしてかなり難航しているのが窺える。
「ヤバイってなによ」
「水は色々とヤバイんだって。それにモーターボートってことはそのまま船乗り継いでかなり遠くまで行っちゃうかもでしょ、警察なんか行ってたらその間にブチッですぜおやびん、船は阻止しないと…」
「ならどうすんだ」
「お兄さん、ポルターガイストでも起こせない?」
ドッと疲労感と絶望感に襲われた。そんなもの起こせるわけないし、それは呉だってわかり切っているだろう。つまりどうしようもないということだ。幽霊状態の俺は何もできないし、ならば呉が果敢に怪しいメンズに立ち向かってくれたとしても3対1だ。売られる成人男性が一人増えるだけに違いない。そもそもそんな頑張りをこの男に期待できそうにない。まったくもって期待できない。「じゃあやっぱお兄さんが成仏するとこ見さしてもらおっかな」くらい言い出しそうである。そんなことを言い出すかはさておき、頑張りを期待できないという点についてはまあ仕方ないと思う。自分に置き換えてみれば、今日出会っただけの男のために命なんか張ってやる筋合いはないという話だ。至極納得できる。そんな俺の思案を察したのか、呉は以外にも殊勝な態度で釈明をしだしたのだった。
「いや、なるだけ役に立つって言った手前役に立ちたいんだけどさ、ダメなんだよ。俺はダメなんだこういうのは」
「まあ腕っぷし強そうには見えないけど」
「いやそういうわけじゃないけどさ?とにかくこういうのは俺じゃダメなんだよね。まあ、だからさ、お兄さん――」
「身体、貸してあげよっか?」
向こうでは怪しいメンズ二人があまりにもたもたしているので、しびれを切らしたのか運転席からも男が降りてきて加勢をはじめた。気になって仕方がないその動向への興味を、俺は一瞬ごっそり奪われた。
「は?」
「だから、俺の身体貸してあげる。そんであいつらに特攻したらいいじゃん?不意打ちすりゃなんとかなるって」
「…?は?ちょっと待って言ってる意味がぜんぜんわからない」
「時間ねえよ、はやく決めて。決めたら名前教えて、早く」
「決めてって…名前?いや、そんなことして平気なわけ…?」
「平気だって、保証するって、信じてよ俺のこと、ここまで着いてきちゃったんだからさ、頑張るってば、ほら早く!」
思考がまったく追いつかない。つまり、俺が呉の身体を借りてあの三人に殴り込むという解釈で問題ないんだろうか。いやそこまでして殴り込みたくないの?結局殴り込んでるのは自分の身体なんだよって、いまいち腑に落ちないけど。他にも俺だって腕っぷしに自信はねえよとか、信じろって、さっき信じなくていいって言っただろとか色んなことが同時に脳内を巡りなに一つまともに考えられない。しかし、三人にグレードアップした怪しいメンズは今にも簀巻き俺をボートに載せてしまいそうであり、せかしてくる呉の目には何とも表現しがたい説得力と強さがあり、簀巻き俺とこの俺の間には確かに魂を繋ぐ光があり、未練が、今朝の不安げな表情が鮮明に脳裏をよぎる。それは、未練という言葉ではとても足りないと思ったはずだ。そう思ったはずだ。そうだ。死にたくない。微塵も、死にたくない。時間がない。
「お兄さん、早く」
「…平池誠一」
「よし、平池さん。“入っていいよ”」
その瞬間、俺は呉の目を見た。月明かりのせいか、虹彩の部分が明るく光ってほとんど黄色に見える。あの色だ。明滅するネオンのもとで、かすかに濁って渦巻いていた色。そう認識した途端強い目眩のような視界のブレに襲われて、あぶない、呉の方へ倒れてしまう、と、俺は遮二無二手を突き出した。
そして気づけば何やら狭苦しい、妙な空間にいた。身体はギチギチでほとんど自由がなく、視界の下半分まで真っ暗で見上げるようにしなければ外が窺えない。そのやっとで窺える半分の視界もボヤけにボヤけまくってとても良好とは言い難い。とはいえ、さっきまで呉と隠れていたあばら家の陰であるのは間違いない、と辛うじて判別できる。
「さて」
呉の声だ。だがぐわんぐわんと妙に響く。それに近い。どこで喋ってんだ。視界がすっくと持ち上がる。立ち上がったらしい。ゴム手袋の両手がゆっくり組み合わされる。関節をならしているらしい。らしいらしいって、身体の動きが他人事だ。水の中で勝手に四肢がたゆたい動いていくような…。それにしては意思のある動きだ。誰か、他の人の意思が。…呉の意思が?
「平池さん、俺ちょっと頑張るから。おとなしく応援しててよね」
ぼやぼやした意識の中で、俺は確かに自分の口が呉の声でそう言うのを聞いた。身体が勝手に走り出す。ここは呉の中だ。確かに俺が呉の中に入っているのだ。しかしこれは少し、だいぶ、想像と違いすぎるだろう。
1-10:人に取り憑いてみよう
待って待って、どういうこと、これ、俺が入った意味あんの――。
結局殴り込んでる身体も意志も呉じゃん、俺、入んなくてよかったじゃん。とりあえずそんな文句を言いたかったのだけど、呉が走り出してしまうとそんな追及をする余裕はおろか、何が起こっているのか把握することさえほとんど不可能になってしまった。というのも、もともとブレブレぼやぼやだった視界は移動をはじめた途端、ハンディカメラを全力でシェイクしながら撮った映像を観ているような凄まじい様相となり、呉が一歩一歩地面を蹴りつけるたびに地球上に生きとし生ける全てのモグラが自宅地下に押し寄せて来たかのような突き上げが繰り返され、尋常じゃない吐き気すら起こった。今、端的に言えば俺は呉に「取り憑いてる」状態なんだろうが、呉の身体の憑き心地はオフロードを無理矢理走行する軽自動車よりなお悪い…テレビアニメの疾走する巨大ロボットに乗って戦うパイロット達は、酔ったりしないんだろうか?と常々疑問だったけど、きっとああいう二足歩行する巨大ロボが現実に存在すればこんな乗り心地に違いない…半ばくだらない走馬灯のような思いを馳せて俺は吐き気を堪えた。ちなみに堪えきれなかったらどうなるのだろう、呉が吐くのだろうか、それはそれで最悪、とかマジで最悪な考えばかりが瀕死の思考回路を巡る。
「そいっ!」
「うっぷすっ!」
突如重力の方向が真横に変わり、足下から圧縮されるような衝撃のあと急降下してもう真剣に気を失いたいと思った。…出ちゃうよ呉くん。どうやら呉は怪しいメンズのうち一人の急襲に成功し、背後からのドロップキックをお見舞いしたようだった。小憎たらしい顔してやることがえげつない。お見舞いされたメンズ①がどうなったのかはちょっとわからない。ついでにあの三人組なのかどうかもやっぱりわからないし。残りのメンズがひどく慌てふためき何やら叫んでいるのは窺える。と唐突に、ギャン!だかいう爆音と共に凄まじい以上に凄まじい衝撃に襲われ面食らった。痛い。猛烈に痛い、顔面が。どうやら呉が反撃にあったらしい。ていうか俺は四肢ひとつ動かせないのに一丁前に痛みは共有なのかよ。理不尽すぎる、と訴えたいが訴える手段もそんな余裕もない。
「いっっってぇ!!…そうだよ不意打ちできても2対1だもんな…ダメかも、とほほ」
おい今ボソッとなんつった。カッコつけたわりに諦めるの早すぎだろうが。もうちょっと頑張ってくれよ、おじさんは吐きそうです、強烈な取り憑き酔いに早々に心が折れそうです。
「あー!あー!あー!うわー!」
「ウルサイ!アナタウルサイよ!人クルよ!」
うわなんかコイツ急に叫び出したぞ、追いつめられて心が壊れてしまったのか、人のことは煽りまくるわりに割りと繊細なメンタルだったんだなかわいそうに、と自分の口が叫び出した感覚を他人事のように心配する。まあ、自分の口って感覚だけどまごうことなく呉の口だしな、ややこしいことに。遠くヤメテヤメテというカタコトと、口を塞ごうと伸びてくるメンズの手を感じ取った。やたら騒いで人が来るのを期待しようというのが呉の次の作戦らしい、破れかぶれすぎる。ここまで来るのに病院正門のある大通りからどれだけ歩いたことか、叫んだくらいで誰かに届くとは到底思えないが――。
「うあー!あー!それ!返せ!あー!」
「ダメヨ!コレ私がミツケタもの!私の!」
「ああー!違う!先見つけたの俺!おれ!」
「ウソ!!」
そりゃあ嘘だろう。ていうか口喧嘩かよ。平和的だな。
とはいえ腕を掴まれてる感じはするので、もみ合いは続いているのだ。相変わらず視界は最悪でおぼろげだけど。と余裕こいていたらどうもまた殴られた。痛い。酔った。吐きそう。最悪だ。もうどっちが殴っていて殴られているのかもぐちゃぐちゃでわからないが、どっちにしたって俺の気分は最悪だ。それこそ簀巻きにされて滝壺に投げ込まれたらこんな感じ。ちょっとマジでヤバいけどマジでこれ吐いたらどうなるのかな?やっぱり呉が連動して吐いて、起死回生の一撃になったりしないだろうか?いやもっとマシな起死回生がいいけどさあ。
「だから痛ぇよ!!ズルいだろが二人がかりでそんな……アリエル?」
「…ンオ?呉ちゃん?」
知り合いかよ!!怒りも酔いも心頭、とりあえず吐かなくて良かった、心境はまさしくツッコミの修羅と化す俺をよそに、お互い知り合いと分かった呉とメンズ②は揉み合いを解いてエヘエヘ照れ笑いなんかをしている。おい、笑ってる場合かよ。お前の知り合いだろうが俺にとってはにっくき誘拐犯でしかない。まあ、真剣に殴り合ってた相手が知り合いだったらちょっと照れるよね、気持ちわからないでもないけど。
「アリエルってことは…やっぱエイドじゃ~ん」
「お~ジャンボ~」
「じゃあコレ、アッシーか。うわ、マジゴメン?」
「いーよ、仕方ない仕方ない」
全員知り合いかよ。一人はすでにノックアウトしてしまって地面に伸びているらしい。足もとよく見えないけど。仲間が一人ノックアウトされておいて「仕方ない」で済ませるとはなかなか心が広いのか…薄情なのか。というより全員知り合いならやっぱりコイツ、呉、怪しいんじゃねえか。グルなんじゃねえの。ぞっと、誰のものか判然としない背筋に鳥肌が立つ。俺はまた、丸め込まれようとしているのでは…。
「呉チャーン、なにしてるのー?」
「アリエルたちこそ何やってんだよ~?そんな…そんな見ず知らずの死体なんか持って…?」
「コレ?イイモノ見つけたからー、ボスにドウスル?って聞こうと思ッテー」
「や!や!や!それはやめて、それはやめよう」
「ドシテ?」
「その人俺の知り合いだから。お願い、ね?」
「オーマジデ?」
マジでマジでと言う呉に、「マジかー呉チャンが言うならなー仕方ないなー」とあっさり引き下がる気配の怪しいメンズ②――もといアリエル。そんなあっさり引き下がれるもんなの?平気なの?とこっちが心配になる。人身売買めいた簀巻き俺の扱い、スモークを貼ったバンとモーターボート、「ボス」という単語…どう考えても一筋縄でいかない感じがするんだけど。端的に言えば深く関わりたくない感じ、堅実薄給下っ端の公務員の端くれとしては。
「返してくれるって、平池さん。良かったじゃん」
かなり扱いの悪い傍観者に徹していた俺は、急に会話を振られて我に返った。視界の激震とやめったらやったらな衝撃も収まると、流しかけてた疑問がふつふつと復活を始める。色々問い詰めなくてはならないことが山積みだ。
『これ俺が入った意味あったのか』
「ん?呉チャンなに?」
「ちょ、急にしゃべんないでくれる?俺、一人会話してる可哀想な人みたいじゃん」
『あ、声は出るんだ』
「もー!しゃべんなって!」
自分の言葉が呉の声で発され、怪しいメンズその他と何やら話し込んでいたアリエルが律儀に反応した。うわー変な感じいやな感じ。それにしたって何も説明しないでおいて「しゃべんな」は横暴だろう。『呉の身体を貸してやるから、自分の身体を取り返したいなら自分の意志でなんとかしろ』という話だと、急ごしらえの思考回路で納得したから受けたのに。結局暴力に晒されるのは自分の身体なのに、そこまでして殴り込みたくないものだろうかと一抹の疑念はあったけれど。それがどうだ、入ったところで指先ひとつ動かせないし、結局呉のドロップキックと口喧嘩と顔の広さで解決した感しかないし、『俺が呉の身体に入る』というプロセスが果たして必要だったのか疑問しか湧かないのが現状だ。
「あ、そうか、そりゃ普通に考えてそう思うよね~ごめんごめん」
『あとこれ、ちゃんと出られるんだろうな。なんか光のケーブルもどっか行っちまったし、折角身体が戻ったって出られないんなら…』
「大丈夫だいじょーぶ。もうホント、いい加減信じろよな~保証するって…あー来た来た」
みちみちと砂利まじりの砂の鳴る音がして、辺りがヘッドライトに照らされた。車の乗り入れられる道などあったかと訝ったが、よくよく考えれば怪しい黒いバンが乗り入れているのだから獣道ならぬ車道は存在するのだろう。明らかな第三者の登場に、アリエル以下怪しいメンズ達が目に見えてビビり慌て始める。そんな彼らに「だいじょーぶだよ、渕屋くんだよ」とよくわからないフォローを入れる呉。いや、この場でいちばん不安でフォローが欲しいの俺だけどな、とひとりごちたくなるのをなんとか大人のプライドのみでギリギリ堪えた。
みちみちと乗り入れた車が黒いバンの真後ろで停まる。コンパクトな業務用のワンボックスだ。ボヤけた視界の中でも、車体のあらゆる箇所がベコベコに凹んでいるのがわかるほど、かなり年季が入っている。顔の筋肉が勝手に釣り上がる心地がして、呉がどうしようもなく楽しそうなのに気づいた。何笑ってんだコイツ。
そうこうしている間にワンボックスの運転席のドアが開き、男が一人降り立った。デカイ。すごく髪が長い。すごく彫りが深い。その男の容姿を一言で表すならば、“デカイ外人のメタラー”まさしくそれだ。
デカイ外人のメタラーは無言で俺を――呉を見下ろした。ド迫力。俺には呉があの何も言われなくても煽られてる気分になるようなニヤニヤ笑いを浮かべているのがわかる。この無言の圧力…もしかしてこの見ず知らずのメタラーさんはご機嫌斜めなのでは――俺がそんな危惧をしているのとは裏腹に、呉は満面の笑みでメタラーに歩み寄っていく。
「渕屋~!お迎えごくろ、」
「てめえなに手袋ガメてくれとんじゃコラぁ!!」
メタラーの脚が振り上がり、あっ長い!と思った次の瞬間に尻を中心に凄まじい衝撃が走った。口から出た悲鳴が呉のものか自分のものか判然としない。ほらな、こんな気がしたんだよ。
業務用ワンボックスの荷台部分、つまり座席もクソもない部分に呉(すなわち俺)と何故かアリエルが、これまた何故か未だ簀巻きのままの俺の身体を挟み向かいあって座っている。こうして見るとアリエルはいかにもオリエンタルなハーフといった顔立ちをしていた。彫りが深く憎めない顔立ちだが、とにかく濃い。それにしても簀巻きにされた自分をまじまじと眺めるのも変な心地がする。これ、心臓は動いているのか。目元が辛うじて覗くほどに雁字搦めにされているので苦しそうだ。解いてやってほしい。と平池は伝えたが、即座に却下された。
「だって今解いたら平池さんの身体、バランバラン転がるでしょ。す~ぐ着くから、ね」
「呉チャンの中、違う人入ってる?オモシロ」
「アリエルさ、なんでさっきからカタコトなの?」
「初対面の人がいる場ではカタコトで喋ることにしてんの。この顔だとカタコトの方が優しくしてもらえるんだって、マジで。オンナノコとか~」
「で、でた~ハーフあるある~そして惜しげもなくネタばらし」
アリエル日本語ペラペラなのかよ…。思わず呉の口で呟くと、「アリエルは生まれも育ちも日本だよ」「ワタシノ母、リトルマーメイド大好き、だからワタシ『アリエル』言ウノ」とさらに信憑性のよわよわな追い打ちがかかる。ていうかもうカタコトはやめろ。
しばらく走り、ゴトゴト進むワンボックスのせいでかすかに酔いがぶり返したところで呉が運転席に乗り出した。相変わらず視界はボヤけていて、外の暗さもあいまってどこを走っているのかはわからない。先ほどご機嫌斜めでこちらの尻を蹴り飛ばしてきたメタラー外人は今や上機嫌でカーラジオに合わせ口ずさんでいる。座席を掴む呉のゴム手袋を嵌めた手が視界に入り、呉が中華飯店で軽犯罪行為を露呈していたのを思い出した。
「渕屋、手袋ガメてごめんちょ」
「商売道具だぞ、アホが」
「いっぱいあるくせに、けち」
「何か?」
「いいえ」
これは第一印象から思っていたことだが、メタラー外人こと渕屋の目力ハンパない。こわい。
「…具合はどうよ」
「へーきへーき、ま、着いたらよろしくね」
「金払えよ」
「うっほほ、何言っちゃってんのこの人、友達の頼みに。笑っちゃうね」
真顔で引っ込み座り直した呉に、聞かなければならないことがたくさんあった。なによりいちばんはすぐ目の前にある身体にちゃんと戻れるのかということだ。だがそれら全ての疑問を押しとどめるように、呉の手が自分の心臓を――俺にとっても心臓と感じられる箇所を抑える。
「平池さん、いろいろ言いたいことあるだろうけどあとちょっと辛抱してね。自分の身体じゃない身体に入ってるの、しんどいっしょ?まずは身体に戻してもらおうぜ。それから全部説明してくれるよ――そこのアリエルが」
「ワタシ何も知ラナイアルヨ」
「吉田テメエふざけんなよ」
アリエル、フルネーム吉田アリエルかよ。
決して乗り心地のよくないワンボックスと他人の身体の酔いに耐えながら、俺は運転席脇のデジタル時計に目を凝らす。もうすぐ日付が変わる。長い長い夜がようやく終わろうとしていた。
1-11:魂のない人
デカイ外人のメタラー(※第一印象)・渕屋の運転するワンボックスは、広めのガレージに吸い込まれて停まった。渕屋はエンジンを切り、カーラジオから流れていた曲を引き続き口ずさみながら降りていく。馴染みのある場所なのか、呉とアリエルも特に何か疑問を呈すでもなく車内から簀巻き簀巻きの俺を降ろす作業に着手した。
「くそっ、重て~、平池さん長いから余計重てぇよ」
「ぶっちゃんあの野郎、一番力あるくせに手伝わねーもんな」
自分の身体に対してぶちぶち言われるの、地味にダメージ食らう。屈辱。しかし呉の手を通して持ち上げる自分の身体は確かにクソほど重いのだ。まあ死体は重いというしな――縁起でもないことが一瞬脳裏に掠める。そんなことを考えていると、呉とアリエルはようやく二人がかりで簀巻きの俺を抱え上げた。ガレージから出るのかと思ったが、そのままガレージの奥へ進んでいく。一番奥には扉があり、既に開かれていた扉をえっちらおっちらくぐると狭苦しい階段が頭上へ伸びていた。どうやらこの階段を経て、二階以上の住居スペースへと続いているようである。
「作りが完全にラブホ」
えっちらおっちら、縦になったり横になったり、簀巻きの俺を抱えなおし、階段を踏みしめ、結局縦になって先を行くアリエルがぼそりと溢した。ぼんやりした視界でどことなく感じる既視感の正体を探していた俺はアハ体験を得て、一人でバツが悪くなった。
「んだな。一昔前のラブホの廃墟を改造したシリアルキラーの隠れ家って感じ」
「ヒィ~」
「今日なんかガチで死体が担ぎ込まれてるしな」
「ヒィ~!殺ラレル!口封じサレル!お家に帰してクレヤ!」
「お前らヒトん家来るたび同じネタで喜んでんじゃねーぞ!」
階段上で玄関のドアを開けて待っていた渕屋がドスのきいた声を出す。喜んだアリエルが「ヒィ!」なんて仰け反ってみせるので呉の腕にかかる重みが一気に倍増した。あぶねぇ落とすわ、じゃねえ落ちるわ俺の身体が、もうややこしい。
室内に入ると、ぼやけた視界の中で蛍光灯の白い明かりが絶好調に乱反射しまくり、もともとぼやぼやした視界の中にいる俺にはほとんどなにも見えなくなってしまった。しかしもちろん呉はそうではないらしく、室内をうろうろとしているのがわかる。手に掛かる重さが無くなり、簀巻きが降ろされたのだというのもわかった。「アリエル、それ開いとけよ」と言うのは渕屋の声。「それ」とは簀巻きのことか。アリエルがなにかぶつくさ言っている。文句を垂れているトーンのようだが、どうか丁重に開けてやってほしいと思う。しかしアリエルは死体(ともとれる俺の身体)を「イイモノ」としてどこかへガメようとしていた張本人なのだ。あまり期待はできないかもしれない。まだなにかぶちぶち言っているし。
対して呉は先ほどから黙ったままで、しばらく室内を歩き回っていた。かと思うと何かに触れ、それに乗り上げるようにして座りだらりと四肢を投げ出す。背もたれのある椅子のようだ。歯医者や耳鼻科の診察台か、床屋の洗髪台のようながっちりとした座りごこちがなかなかいい。ここだけ照明の雰囲気が違う感じがするな、と思っていると、視界にぬぅっと渕屋の顔が現れた。
「平気か?」
「俺は平気。平池さんは?」
『…平気だ』
「意識あんのか、すげぇ」
「いや今更かよ」
「前代未聞じゃん」
この状態での「平気」とは一体どのような状態を指すのか、と一瞬考え込みそうになったが、とりあえず「平気だ」と答えておくことにした。渕屋の反応と「前代未聞」という言葉が気になるけど。身体に戻れるならもう、なんだって平気だ。渕屋があの古びたゴム手袋と同じかあるいは似たものを手に嵌めていくのが見える。なんとなくわかってきた。呉の中にある俺の魂を取り出すのも、取り出した魂を再び俺の身体におさめるのも、勿論あの不思議な手袋の本来の持ち主もこの男、渕屋なのだろう。だとしたら呉以上に得体の知れない男ではないか。その得体の知れない男に頼るしか、現状すでに頼りまくっている状態なのだが。
「平池さん、わりと普段から抜けちゃってるみたいだから、鍛えられて?耐性ついてんじゃね」
「普段から抜けるぅ?はーんそりゃすごいねぇ。…はあいそれじゃあ呉くん痛かったら手を上げてくださいねぇ」
「それってなにかしら痛いってことですか!?やだ~!」
内容がよく読めない会話に気を取られていたが、突如飛び込んできた「痛い」という単語に思わず身構える。身構えたってなにもできやしないのだが。乗り出してきた渕屋の片手に肩を掴まれたところで呉の視界が下がり、だるだるのパーカーを着た呉の腹部が目に入る。黒いゴム手袋をした渕屋の手がそこに触れ、なんだ触診でも始めそうなもっともらしい手つきだな、などと変な感心をしていたら、次の瞬間その手がズブッと腹に沈み込んだのでギョッとした。
「うぅ」
呉の口からため息程度の呻きが漏れるのがわかったが、平池自身は何も感じられない。確かに今目の前で、渕屋の手に腹の中をまさぐられているはずなのだが、モニター越しに映像を見ているかのように他人事に感じられるのだ。――もっともこれは呉の身体なのだから、他人事と言えば他人事なのだが。
「うひ、ちょ、ちょ、そこ触ったらアカンとこや!オエッてなるオエッて!」
「なんで関西弁だし。すぐ終わるから我慢してくださいねぇ」
「ヤバイヤバイやばば、オエッ」
先の船着き場での茶番では痛みが共有されたのだからエズきも共有されそうなものだが、そんな感覚もまるでない。じゃあやっぱり、さっき吐いてしまっても起死回生の一撃にはならなかったということか。まあ音声だけでも、さすがにゼロ距離とも言えるこの状況でエズかれていい気もしないけど。それどころか、俺は徐々に自分の存在が呉の中で小さくなっていくのを感じていた。どう言えばいいものか、視野は狭く暗く遠くなり、呉の身体が途方もなく大きなものに思え、意識もはっきりしなくなってくる。呉がオエオエ騒いでいるのもどんどん遠くなっていく。わんわんと耳鳴りがしているような、していないような、何も聞こえてすらいないような、天地も不明瞭、意識も自我も不明瞭、限りなく無に近づく感覚。あれ、これはヤバイんじゃないか、というようなこともなにが?なんのはなし?とよく考えられなくなってきて、ぐるぐるぐる、そして、
「見つけた」
ああ捕まってしまった、というよく分からない感想を抱いたあと、意識が一瞬途絶えた。
「はい目ぇ開けて」
言われて、素直にパチリと目を開けてしまう。目の前に渕屋の顔。いつの間にそのメタラースタイルの長髪を結い、ギャザー型のマスクを装着したのか、ますます漫画に登場するような闇医者然としている。なんかさっきより明るいな、と思っていると、ゴム手袋の指が二本突き出された。
「これ何ぼん」
「…二本」
「よし、声も出るな」
再び言われて、咄嗟に喉に手をやる。何気無く答えた声は呉の声ではなく、慣れ親しんだ自分自身の声だったからだ。流れで顎に手をやると伸びかけの髭がジョリジョリした。これがまた懐かしい感触でしっくりくる。思わず両手で顔を撫で回していると、ずっと見ていた渕屋が鼻で笑う気配がした。一瞬ムッとするも、まあ自分の顔こねくり回す野郎とか俺でも笑うわ。
「お疲れさん、ちゃんと身体に戻してやりましたよ」
「よっ!ぶっちゃんカッコいい!さすがだね!仕事早いね!」
「お前が金払うんだぞ」
「ぶっはは、なあにを仰るのか、怖いわこの人」
どこからか沸いて出た呉が全力で渕屋に絡んでいるのをスルーし、俺はほとんど寝転がっていた椅子から降り立った。本当に歯医者や耳鼻科の診察台のような椅子だった。大地を踏みしめる感覚。いや大地ってもコンクリの床だけど、おそらく二階の。脇の丸椅子には渕屋が腰掛け、さらにその脇の作業台から部屋の奥にかけて用途のよくわからないギラギラゴテゴテした器具が雑然と並んでいる。何者だよマジで。ユニットバスに使われるような撥水性の安っぽいカーテンをめくると、殺風景だがごく普通のリビングのような部屋とその窓が目に飛び込んできた。カーテンの開きっぱなしになった窓の向こうは白み始めている。明るいと思ったのはこれか。一瞬意識が途絶えただけだと思っていたが、実際には数時間は経っているようである。まだ暗さを残す窓は鏡のように室内をよく映す。ちょうど夕方、居酒屋の前で見た銀行のウィンドウのように。違うのは、そこに俺の姿がちゃんと映っていることだ。市役所を出たときの姿のまま、まだ呆然とした様子で窓を眺める俺の姿がそこにはちゃんと映っていた。
どっと力が抜けた。
恥ずかしいことに涙すら出そうな心地になった。
温かい湧き水のような安心感がじんわりと身体中に染みた。
良かった。
――生きてる。
「平池さん、ちゃんと身体確認した?ホントに自分の身体?足の指とかちゃんと全部ある?コイツにガメられてるかもよ?」
「おいおいおいおめーらと一緒にしてんじゃねぇぞ」
「平池さんをアリエルみたいな悪人と一括りにしてやんなよ!真面目な社会人だぞ!」
「お前に決まってんだろが!俺の手袋ガメただろ!」
そんな感慨は数瞬でナチュラルボーンアオラー(生まれながらのアオラー)呉が掻っ攫っていった。アリエルは悪人なのか、そうだよな。渕屋にヤカラのごとく絡みまくる呉は、相も変わらず無駄に溌剌としている。かと思えば、首筋から肩にかけてをやけに芝居がかった仕草で撫でさすり、ムカつくほどのわざとらしさでため息をついた。
「アリエル御一行めちゃくちゃだったわ。知り合いで良かった~途中でやめてくれたもんね、念のため渕屋呼んどいたのに来んの遅ぇーし、正直あのままだとボコボコにされてたね」
そのわりにやけにつるりとした顔である。思い返せば結構な勢いで殴られたのに、痣一つない。そんなものだろうか。あいにくそんないざこざとは無縁の人生を送ってきたのでわからないけれど。
「平池さんはなんかずっと俺のこと疑ってるし?」
「ごめん…いや、ありがとう」
「いーって。平池さんだって知らないヤツ信じるの嫌だったでしょ。でも良かったね、俺、基本超いいヤツだし、超お人好しなの、ね!」
呉は同意を求めるように渕屋の肩を叩く。まあ総評ではそういうことになるんだろうが、いかんせんこの態度が鼻につくのでどういう反応をしたものか、渕屋の反応を参考にしようと目をやる。しかし渕屋は何故か苦虫を噛み潰したような顔をして、渋々頷いただけだった。
「オラ、アリエル起きろ!」
「んあ!?ミズちゃん?」
「おめーの嫁じゃねえよ!」
部屋の隅のソファで堂々と眠っていた悪人らしいアリエルを呉が揺り起こす。ていうかアリエル既婚かよ、悪人のくせに。
ようよう起き上がったアリエルの前に呉が仁王立ちした。
「おらアリエル、まあだいたい察しはつくけど、なんで平池さんの身体持ってたのか説明してあげて」
「おわっ、はじめまして」
「あ、はじめまして」
所在ないので呉の隣に立っていると、露骨にビクついたアリエルに挨拶された。俺としては全然はじめましてではないし、アリエルにしても全然はじめましてじゃねえだろが、とは思ったがそこは大人なのでとりあえずはこらえる。
「なんでって…市役所の裏にこの人が倒れてて…どうも死んでたから…死体を見つけたらあれでしょ?正攻法でいったら警察、ダメ押しで救急、ちょっと警察に会いたくないな~って気分で、ついでに恩を売っときたいなって気分だったら渕屋かボスでしょ?」
「余計なこと言うな…!」
名前を出された渕屋が歯を剥き出しにして唸った。え?なに?死体の処理に困ったらこの渕屋かどこぞのボスなの?超怖いんだが?ぜんぜん理解したくない。堅実薄給下っ端の公務員の端くれとしては。
「…だって!そういうことだって!あんまり深く突っ込むのは勘弁してやってくれる?…平池さん、夜が明けたらごくフツーの公務員に戻るわけだし?」
「…」
なんかこれ、説明してやると称してまた丸め込まれてないか。あまり深く突っ込むとホント後悔しそうなのは確かだけど。正直身体を拉致ってややこしい事態にしたアリエルたちを然るべき場所に突き出したい気持ちは無いでもないが、肝心の死体が無事復活してしまってるので突き出されたほうもハア?と困るばかりだろう。小市民的にことなかれで行くには、身体ももう戻ったことだしこのままフェードアウトするのがいちばん良さそうなのだ。――という結論に至るところまで予想されていそうなところが癪なのだが。
いや、待て。
どうしても気になることがあった。身体が戻った今、それは些細なことかもしれないが、どうしても引っかかっていることが。それにこの疑問は突っ込みすぎてもいないだろう。ただの、素朴な疑問なのだから。
「さっき奇襲かけることになったとき、呉くんは――」
「あら?平池さん質問?ていうか“呉くん”て」
へらりと笑う呉を見返す。何笑ってやがる、お前のことだぞ――という思いが強くなる。
「呉くんははじめ渋ってた。俺はそれを呉くんが――誰だってそうだが――喧嘩が嫌だからだとか、見ず知らずの俺のために体張りたくないからだと思ってた。だから俺に“身体を貸す”って言ったんだと。魂だけで自分じゃどうにもできない俺に身体を貸してやるから、あとは勝手にしろってことかと思った。それだってすごい善意だと思ったから、俺はお言葉に甘えて呉くんの身体に入ったわけで…」
「…」
「でもなんだ?俺は呉くんの身体に入っても指先ひとつ動かせないまま、結局実際に立ち回ったのは呉くんだし、殴られたりもしてる。それはすまないと思うし、ありがたいと思うが…ならどうして俺が呉くんの身体に入る必要があった?そんな必要があったか?俺は入らず、最初から呉くんがそのまま行けばいい話じゃないか?」
ずいぶん久しぶりに喋った気がして、喉がカラカラに渇くのを感じた。実際には久しぶりともそうでもないとも言い難いけど。夕方から、深夜をまたいで夜明けまで。今この手を動かすのは実に半日ぶりだ。
アリエルは寝起きの頭で長台詞を読み込めないのか眉間にシワをよせている。渕屋は後方の丸椅子に座ったままなので俺には様子が窺えない。当の呉はうっすら笑った顔のまま、空中の何もない場所を見ていた。どうにもダーティな連中なのはわかった。目を瞑ろう。どうも住む世界が違うようなので、善悪もろもろの価値観が違うのはどうしようもない。それでも、呉がいなけりゃ今頃俺は順当にお陀仏しているか地縛霊しているか、ふたつにひとつに違いないのだ。ムカつくところもかなりあったが、感謝したいじゃないか。信じてないわけじゃない。疑ってるわけでもない。ただ感謝して別れるのに、少しスッキリしておきたいだけなのだ――。
「魂が無いから」
俺の疑問に答えたのは呉ではなく、もちろんアリエルでもなく、丸椅子に座ったままの渕屋だった。振り返ると、渕屋はアリエルを威嚇した険しい顔のままで俺を見、呉を見ている。その表情には確かにかすかな苛立ちがあったが、その声音はどちらかというと呆れかえっている、というほうが近い気がした。
「アンタの今夜の経験自体が、俺からすりゃ前代未聞の信じがたい事件なんだけどな。まあ百歩譲ってそれは置いといて。アンタは今夜、身体を無くしていろいろと不便な思いをしただろ?理不尽としか思えない制約を受けただろ?逆だって同じだ」
おそらく自分の根幹が暴露されているというのに、呉はヘラついたまま動きもしない。アリエルはもう存在を限りなく消しておくことに決めたようだった。俺は聞くしかない。渕屋のあの目力の強い、灰色の目に見据えられながら。なにしろ聞きたいと願ったのは他でもない俺自身だからだ。
「魂が無いから、アンタでも誰でもいい、身体に魂を入れる必要があった。じゃなきゃ、できないことだらけだ。逆に言えばコイツには魂が無いから他人であるアンタの魂だって入れたんだ。そんだけだ」
――「ここでさらに希望的観測をするなら~、身体だけ歩いてどっか行っちゃった説~な~んて」
「…そんなこともあり得るか?」
「いや、無いね。あるわけないじゃん信じないでよもお。例外は無いことは無いけどまず99割無いね。ほぼ100割だね。ガチありえない」――
“例外は無いことは無い”まあそういうときは得てしてその例外をこの上なく知っているときだよなって、今更。
呆然と呉を見る。呉はやはり表情を崩すこともなく、何もない空中を見つめていた。
1-12:ルール①戦闘力ゼロ
あとほんのわずかも経てば太陽も覗くだろうという空はくすんだマリンブルーで、海から立ち上る乳白色の朝靄に包まれている。じゃぶじゃぶに水分を含み、無駄にのどに優しいような空気を俺は思う存分吸い込んだ。それこそ一晩分というほどに。
「身体が戻って空気がうめえ!」
燗に障る裏声でアテレコしてくるのはもちろん、隣を歩く呉である。数時間前彼は結局茶番となったとはいえ結構な勢いでボコボコにされたというのに、その顔は何事もなかったかのようにつるりとしている。それも関係のあることなのだろうか。
呉には魂が無い。
渕屋の暴露のあと、いよいよ問いつめようとした俺をさえぎって、呉は『駅まで送ってあげるよ、もうすぐ始発出るから』と促した。この無神経の塊のような男にも触れられたくないことがあるのか、まあそりゃ、人間なら誰しもひとつやふたつ。と頭では理解しているものの納得が追いつかず、一縷の望みを託して渕屋を見やるも、彼は既にしかめまくっていた表情をいっそう歪め、立ち上がって部屋の片づけにかかってしまった。目の前に餌だけつるされてすぐにひっこめられてしまった心地だが、態度で示されてしまってはお手上げである。つっこんで聞くのは躊躇われる。なにせ俺にとって彼らは命の恩人に他ならず、借りだけは山ほどあるのだ。結局連日夜毎の幽体離脱で抜けやすくなっていたところに尻餅の衝撃で抜けてしまったというのが真相のようだし。借りだけは山ほどある。ちなみにアリエルには貸ししかない。それで結局、俺の口は気になることとは別のことばかり話す羽目になる。
「なんか久しぶりに眠れた気がするんだよ」
「ああ、抜け癖ついてたらそりゃあね」
「眠ったつもりはこれっぽちもないんだが」
「いやいや、どっちよ」
ここ最近、例の幽体離脱の夢(今件を鑑みるに夢ではないらしい)を見るようになってから、眠ったはずなのにまるで眠った気がせず、地獄の目覚めとしか言いようがない日々が続いていた。逆に昨晩は体感的には一睡もしないまま夜が明けているのに、久しぶりにぐっすり眠った後のような朝のすがすがしさ的なものがある。俺の身体的には昨夜一晩仮死状態であったわけだし、くわえて渕屋が俺の身体に魂を戻す奮闘をしていた数時間は本当に意識を失っていたわけだし、眠っていたと言えなくもないのかもしれない。そういえば呉にしたって徹夜明けとは思えないほどピンピンしている。渕屋のもとで俺が気を失っている間、正確には何時間かもわからないが、眠りでもしたのだろうか。それとも、眠らなくたって平気なのか、魂が無ければ。そもそも身体と魂、どちらが眠りを欲しているものなのか。どちらも欲するものなのか。というか、やっぱり。魂が無いって、やっぱり。もしかしてやっぱり、
「…あのさあ、さっきは渕屋がなーんか機嫌悪くて怖ぇから流したけど、『魂が無い』ってここに無いってだけだから」
呉は何か察したらしい。とんとん、と自分の胸を指しながら、声色の深刻さとは裏腹に、相変わらずニヤニヤと笑ってはいるが。
「身体の中に無いだけで、ちゃんと俺の魂はこの世に存在してるから。…ちょっと別のとこに置いてるだけっていうか」
「…どうやって?」
「おぉっと~!?ぐいぐい来るね~そんなに気になっちゃう~?やだもうこの知りたがり屋さんめ~!でもこれ以上は企業秘密ってやつだわ。おにーさんコレ払えんのん?ん?」
下品なハンドサインをずいずい突き出してくる呉にイラつくな、イラつくな…と精神力を総動員し、結果、俺はなんとか引き下がった。つーかそんなぐいぐいいってねーし。
「まったく渕屋も言葉が足らねえよな。あの言い方じゃ俺が死んでるみたいじゃん。ゾンビじゃん」
「あ、死んでないんだ、びっくりした」
「いや最初に言ったよね?俺まだ死んだこと無いって。だから最初、平池さんに野次う…ついて行ったんだし」
確かにそんなことは言っていた気がする。『誰だって自分が死んだらどうなるのかは、できれば死ぬ前に知りたいじゃん?』そんなことを。
魂が身体の中に無いのなら、普通なら、死んでしまうのではないか?昨夜、光のケーブルだけで繋がった自分の身体を思い出す。まるで死体のようだった。実際、心臓だって止まっていただろう。この光のケーブルが切れたらアウト。そんな確信がずっとあった。そんな心細いような恐ろしい確信がずっと。身体の外にあって、身体はそれこそ他人のもののようにどうすることもできないものだった。呉の身体には、その光のケーブルすら生えていない。昨夜から一度だってそんなものは見かけない。魂を置いても平気で、歩いて行ってしまう身体。呉曰く、99割ありえない例外。
くすんだマリンブルーだった空が、次第にサーモンピンクの様相を呈してくる。まだかろうじて眠りの中にある町並みを覆う朝靄、それをかきわけるように進んでいく。この街特有の、きめ細やかに入り組んだ路地。その数は膨大なもので、子供の頃から何年何十年と歩き回っていても、まだ通ったことのない、なじみのない路地が無数にある。
「で、魂が入ってない身体っていうのは、いろいろルールがあるみたいなんだよね~。そのへんはまあ、わかるっしょ?昨日平池さんも身体なくなっていろいろ大変だったから。まあそうそう前例があるわけじゃないし、ていうかぶっちゃけ俺くらいしかいないから。どんなルールがあるかは俺の経験則でやってくしかないんだけど。昨日、平池さんに俺の身体に入ってもらったのはまあ、そのルールのひとつだよね」
「あ、はいそこを知りたいって言ってるんだけど。言っとくけどお前の身体、すっげー憑き心地悪かったからな」
「へーそんな感じなんだ…。ちょい平池さん、こっち向いてみ」
おい今なんかテキトーじゃなかったか?と訝りながらも素直に呉のほうを向くと、まさに呉が拳を握りしめ振りかぶるところだった。制止する間もなく、フルスイングした拳は俺の顎にクリーンヒット、見るも鮮やかなアッパーカットである。殴られた、理由もなく。ひどい。と思えば人間、身体は勝手に動くもので、アッパーカットを決めた体勢のまま余裕ぶっこいていた呉の胸倉を俺はすみやかにつかみあげ吊し上げた。
「ちょちょちょちょちょっと待って待って待ってくださいよ平池さんん…!」
「何を?何を待つの。憑き心地最悪って言ったのが気に入らなかったのかな?でも急に殴られたのをへらへら笑って許すような、そんな大人には俺はなりたくないんだよ…」
「待ってって!マジで!痛くないでしょ!?俺が今殴ったとこ!なんともないでしょ!?」
言われて、愕然とした。確かに。痛くない。痛くないどころか、衝撃も、拳の当たった感触の名残りすらない。あれだけ見事に殴られたというのに、完全なるノーダメージ。なんともないのだ。まるで本当に何事も無かったかのようだ。確かにきれいなアッパーカットが決まったというのに。この目でそれを見て、その瞬間は確かに殴られたと確信したというのに。呆然と胸倉をはなすと、呉はスススッと1、2歩距離を取り、ホントすぐ暴力に訴えるよな社会人のくせに、だの聞き捨てならない理不尽をぶつぶつ垂れた。しかし目が合うと取り繕うようにニヤニヤする。よわい。
「“魂の無い身体は、ヒトに危害を加えることができない”」
俺はダメなんだこういうのは。昨夜、アリエルご一行に出くわした呉はそんなことを言った。とにかく俺じゃあダメなんだと。確かに、これではどうしようもないだろう。腕っぷしどうのこうの以前の問題で。
「俺、戦闘力ゼロなんだよね。だからマジで、もうちょっと優しくしてくれてもいいんじゃないスかねぇ~」
そんなことさえ呉は、相変わらずあの人を煽るようなニヤニヤ笑いで言ってのけるのだった。
狭く鬱蒼とさえした路地を抜け、路面電車の線路の走る大通りへと出る。空はだいぶ明るくなり、大通りにはちらほらと活気と喧噪の気配が芽生え始めている。路面にうかぶ島のような小さな駅には、さすがにまだ人気はなかった。時刻表を覗きこんだ呉が『あと10分くらいだね~』などとのたまう。送ってくれるとは言ったが一体どこまで送ってくれるつもりだと懸念していると、『俺も帰るんだってば。平池さんとは逆の方向だけど。逆はまだしばらく来ねえから』と釘を刺された。
これから路面電車に乗り、バスに乗り換え、家に帰る。そう、家に帰るのだ。時間的余裕を考えると、帰宅してすぐ出勤することになるのが多少憂鬱だがかまわない。そんなちいさな不満さえ、身体が見つからなければ抱くことすらかなわなかったものだ。きっと少しぎくしゃくしたままになっている恋人未満とどう接すべきかという悩みも。そのまま消え失せるところだった。本当にどうなることかと思った。本当にいろんなことが起こった。今となりで遠く路上に電車の有無を伺っている男、彼の得体の知れなさと天性のアオラーっぷりに振り回された。目星をつけた場所に身体が無くて二度もがっかりした。人身売買(仮)の現場を初めて目の当たりにした。他人の身体へ取り憑くのは最低の心地だと知った。理不尽に渕屋に蹴られた、エトセトラエトセトラ…人生はちいさな不満と悩みの積み重ね、だがそれを享受するのも贅沢のうちであり醍醐味のうちだろう。
「そろそろ向かい側のホーム行っとくかな」
「おい、呉くん」
「その“クレクン”ってなんかめっちゃくすぐったいんですけど~」
「その、いろいろありがとな、本当に感謝してる、殴ったりしたけど」
「いいって、いいって。こっちこそありがとうだからさ。殴られたりしたけど」
「お前だってさっき盛大に殴っただろが」
「だから痛くなかったでしょ!こっちはアリエルに殴られて一応超痛かったよ~すぐ治るけど」
アリエルは知らねえ。と思いつつまた疑問符が浮かぶ。こっちこそありがとうとは?考えてみてもすぐには思い浮かばない。結局俺は呉の当初の期待に添えず、死んでいなかったわけだし。遠く路上に路面電車の姿が見えた。やべっ、だか言ってそそくさと線路を渡りきった呉は、こちらを振り返ると、あの人を絶妙にイライラさせるニヤニヤ笑いを浮かべる。そういえば気になることがあと一つだけあった。
「さっきあの、渕屋くんが俺のこと『前代未聞』とか言ってたけど」
「ああ。だって魂って分かりやすく言えば揮発性だから。身体から出たらすぐ霧散して消えちゃうから。だから魂剥き出しの状態で一晩無事だったってのが信じられないんじゃねえの?」
「マジで」
「マジで。だから幽霊なんか見たことないって」
最後にとんでもないことを聞いてしまった。昨夜の身体が行方不明の時点で聞いていたらストレスで死んでいたかもしれない。これからはなんとしても安易に抜け出さないように、尻餅なんかつかないように気をつけなければ。
思わず真顔になるも、自分の口にしたことの大仰さに気付いていないのか呉は相変わらずへらへらしている。まあ、彼はなんてったってその魂が無い身だ。多少のことはそれこそ「フツーにありえる」と思えるのだろう、きっと。
「じゃあね、平池さんお元気で。また身体失くしたら渕屋んとこにおいで~また探してやるよ」
「いやそんな何回も失くさねえだろ」
「いやいや、なんかまた失くしそうな気がするもん平池さん、うっかりしそう。二回目以降は有料だし渕屋のケツキック付きだから」
「縁起でもないこと言うな!」
電車が入ってきた。乗り込む俺を、窓の外の呉がヒラヒラ手を振り、ニヤニヤと見送る。本当に最後までイライラさせることに余念がない。あれが無意識なのだから恐ろしい。そんな敵を作りまくりそうな生き方で平気なのか、戦闘力ゼロのくせして。
動きだした電車の中で、俺はため息をついた。やめだ、やめだ。次に電車を降りれば日常が待っている。俺のちいさな不満と悩みと、愛しさに満ちた日常が。
願わくば、またアイツに会うようなことが無いように、平穏に生きていけますように。
これから始まる何の変哲もない一日の予定をなぞりながら、俺はなんとも名状しがたい心境から、少しだけ笑った。
Gloon's:平池さん編おわり
Gloon's:風前の灯火編