花咲く山
昔、越後国のとある山麓の村に、色の白く唇は桜桃のように艶やかな美しい童子が、母親と二人で暮らしておりました。母親はこの童子に名を与えず、それゆえに何か不都合なことがあれば、仕方なしに太郎、太郎と童子のことを呼んだのでした。
童子はどうして自分に名がないのかを不思議に思うことはしませんでした。童子は自分がいつの生まれで、次の年でいくつになるのかも知りませんでしたが、それを母親に尋ねることもありませんでした。
日頃うつむいてばかりいる母親は、まるで何かに憑かれたような形相をしていて、顔を上げれば誰と構わず睨み付けるばかりの女でしたが、その顔かたちは宮中の姫君にも劣らず、天女のような輝きを秘めておりました。そのため、童子は自らの母親のことを大層愛していたのでした。
ある日のこと、いつものように山から山菜や木の実などを採って帰ってきた童子は、家のどこにも母親の姿が見えなくなっていることに気がつきました。
夜になっても帰ってこなかったので童子は外へ出て村中を探して回りましたが、結局母親を見つけることはできませんでした。明くる日が訪れても、またその明くる日が訪れても、母親は一向に帰ってきません。
童子はひとり、家の中で考えます。
これは、鬼の仕業に違いない。前に、村の人たちが話していた。山の上にはいつからか人の首を食べる鬼が棲みついていて、村から美しい女をさらってはその首から下だけを麓の方へ捨てているらしい。
実際に、山の方から首のない亡骸が運ばれてくるのを、童子は何度か目にしておりました。
はて、自分はあの山で鬼などという奇怪なものに出会ったことは一度もないが、山頂の方まで足を運んだこともない。
いずれ、山の麓で母親の首から下が見つかるのだろう。そうなる前に、自分が鬼のところへ行って、母親を取り戻さなければならない。
童子はすぐに家を出て、山に入り、まだ自らが足を踏み入れたことのない山頂を目指しました。日が沈んで、辺りには深い闇が立ち込めましたが、童子はずいずいと先へ進んでいきます。童子には月の光さえあれば、それで十分なのでした。
鬼の棲家を求めて歩き、歩き、やがて童子はそれまでに見たこともない一面の花畑に出くわして足を止めました。
何の色ともわからない花弁が、ゆら、ゆらと風もないのに揺れております。ぞっとするほど美しく、おそろしい光景に、童子もまた魂を奪われたようになってゆら、ゆらと花のように揺れるのです。
「ねえ、ぼうや。かわいいぼうや」
不意に、風鈴の音のように高く涼しげな声が童子を呼びました。
見れば花畑の隅に、愛しい顔が大層美しく咲いて、童子を見ているのでした。
おどろいた童子は瞬く間、呼吸も忘れてかたまってしまいましたが、我にかえると重い体を引きずり、引きずり、その首のもとへ歩み寄ります。
「だあれ」
美しい首は、ころころと笑います。それは確かに童子の知る母親の首のはずでしたが、そこには童子の知らぬうぶな少女の笑顔が咲くばかりでありました。
「自分は、おっかあの子であろう」
「おっかあとは、だれのこと」
「それはあなたことであろう」
「わたくしは、わたくしですわ」
黒々と艶めく瞳を、三日月のように細めて、少女はころころと笑います。
後はものも言わず、童子は息をひそめて、ただひたすらに首を見つめるばかりになりました。
いつしか童子は、先ほど花畑に魅入られたときのように、女の首から目を離すことができなくなっておりました。
それからどれくらいの間、首に囚われていたのでしょうか。
「その首も、じきに花となろう」
金属の軋むような声に、童子はようやく顔を上げました。
「首こそ美しいが、さて」
振り向くと、いつからそこにいたのでしょうか、大きな鎧がゆら、ゆらと花に紛れて揺れているのが見えました。
この鎧が鬼なのだろうか。童子は美しい女の首を背にかばい、鎧を睨みつけました。ですが鎧はひるんだ様子もなく、童子のそばまで近づいてくると、兜を女の首へ傾けます。
「お前は、この首を食らうのか」
童子は鎧から目をそらさぬまま、そう問いかけました。
「食らうは、この山だ」
鎧もまた、首に兜を傾けたまま、童子に答えました。
「山が食らうとはどういうことだ。お前は鬼ではないのか」
そこでようやく鎧は兜を童子の方へと向けました。
「この山にな、こうして首を植えるのだ。しばらくすると、土が肉やら骨やらといったいらぬ外見を全て食らってしまって、やがて花だけが遺される」
「その花とは何なのだ」
「痕跡であろう」
「どうしてそのようなことをする」
童子の問いかけに、鎧が答えることはありませんでした。
「お前の名は、何という」
そして鎧の問いに童子が答えることもまたないのでした。
「そうか」
童子はそう呟くと、女の首を山へ置いたまま、村へと下りてしまいました。
美しいあの首は、どのような花を咲かせるのだろう。その痕跡も美しいのだろうか。そればかりが絶えず童子の頭を支配するのでした。
三月が経ちました。
この頃になると、山菜や木の実を採りに出かけるついでに花畑まで登り、女の首を日が暮れるまで眺めることは、すっかり童子の日常となっておりました。
皮膚も髪も剥がれ落ちた女の首は、そろそろ完全に土へと消える頃だろう。腐敗は驚くほどにはやく、まるで本当に山が食らっているかのようだと、童子はときおりそらおそろしくなることもあるのでした。
その間に、あの不気味な鎧とも幾度となく言葉を交わしました。童子は母親を殺したこの鎧を憎いとは思わないのでした。むしろ童子は鎧に親しみを感じてすらおりました。ときおり童子は、鎧と自分とを見間違えることがあるのでした。
「そう何度も通えば、いずれお前も山に食われるであろう。俺のように」
「お前は身体を持たないのか」
「今は鎧が、俺の身体だ」
鎧を脱げば、遺されるのは一輪の花か、あるいはそれすらも咲かず何も遺らないのかもしれない。
そのようなことを呟く鎧を見て、童子はどうにもこれが自分と別の存在とは思えなくなるのでした。
あの鎧は何者なのだろう。鬼と言われれば、鬼なのかもしれない。いいや、だが、何者でもないのか。
童子は考えました。あの鎧は、山で死にたがっているのだろう。だが同時に死ぬことをおそれているのだ。死んだ後の花を想って、苦しんでいるのだ。
明くる日、ついに女の首が朽ち果てて、後に赤黒い不気味な花が咲きました。
それを見た童子の顔は真っ白になりました。かたく唇を噛みしめたまま、花を睨みつけて、目からははらはらと涙がこぼれます。
鎧は腰に下げていた酒を花にかけながら、どこか嬉しそうな声でこんなことをいうのでした。
「ああ、やはり穢れてしまったか。あれほど美しく、天女のような輝きを秘めた女も、鬼と契ればこのように変わり果てるか。満足だ。俺は、満足だ」
童子は咄嗟に花をつかむと、そのまま根元から引き抜いて、ばくりと食べてしまいました。
するとどうでしょう、童子の涙は血のように真っ赤に染まり、雪のようであった白い肌はまたたく間にふつふつと煮えたぎると、地獄の海を思わせるおそろしい色に変わり果ててしまいました。つやめくお米のようであった小さな歯は獣のような牙となり、頭からは黒々とした太い角が皮膚をつきやぶって生えてきます。
鬼となった童子は次に死ぬことを考えました。
ですが、死んでしまった後では自分が花を遺せたかどうか知ることができません。
鬼は切なくなって、赤い涙をいつまでもいつまでも流し続けました。
花咲く山