雨音
春霞のただよう季節となりました。去夏の暮れにあなた様と庭へ植えた桜の木も、春の息吹につぼみを膨らませ、ようよう色を儚くしてはほころびの日を心待ちにしているようです。そちらでは私を弔う焼香の霞がただよう頃でしょうが、あなた様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
こうして遺書を書くのは初めてのことですので、作法も分からず、手紙と同じように忌み言葉は避けるものかしらとも考えたのですが、このような書を忌み言葉なしに綴るのは大層難しいことのように思われました。あなた様は格だとか式だとかいうものをよくお好みになられる性質のお方ですので、私も相応の言葉選びを心がけてはいるのですが、思うようにはいきません。乱筆乱文となってしまうこと、何卒ご容赦くださいませ。
さて、この度は急な私の死で大層お騒がせしてしまい、本当に申し訳なく思っております。すでにそちらの私は冷たく(あるいは火中で熱く)なっていることと思いますので、文での謝罪となってしまうことをお許しください。ただ、そういったご迷惑を覚悟の上での結果であったと、あなた様にはどうか知っていただきたいのです。あなた様にだけは私の死が決して悲しいものではなかったことを、これから永い船路に出ようとする私の心が日の出を待ちわびる幼子のように、海を照らす橙のように、熱い輝きに満ちていることをご理解いただきたいのです。
あなた様は、常から夭折を夢み、死は事象そのものではなくて動機が重要であることを恍惚として論じておられましたね。これこそが私の死の動機です。いいえ、勘違いはなさらないでください。私があなた様の夭折の夢を解さないことは、かねてより言葉にしてのとおりです。私はあなた様の夢のために命を絶たれるのです。
三年前の春を覚えておいででしょうか。私とあなた様が初めて言葉を交わした季節です。雨が降っておりました。空は白く、あなた様の頬も陶器のように色をなくして、無限の彩を秘めた漆黒の瞳だけが涙に濡れて艶めいておられました。雨が降っておりました。広い教室の喧騒も、先生のお声も、全てが雨に変わりました。雨音の揺れが、一つ空席を挟んだ向こう側の彼の、目の淵に極めて微妙な緊張でおりずにいる涙をふとこぼしてしまうのではないかと不安で、瞬きも忘れて、その透明なきらめきの行方を見守っておりました。
決壊は一瞬でした。ふと、きつく結んでいた桜桃色の唇を緩め、彼は頬に紅の兆しを宿して瞼を震わせました。どなたを見留めたのでしょう。半ば茫然と、それでも決して瞳から逃さぬように追う彼の方へ、私は空席の半分ほどそっと身を寄せました。右手にはかばんから取り出した薄桃色のハンカチを持って。
「頬が濡れてますよ」とそう申し上げた私を、あなた様が振り向いて、万華鏡のような美しいその瞳に映してくださったときの歓びを、私は今でも昨日のことのように覚えております。あなた様は再び唇を結び、少し警戒した面持ちでしたが、すぐに口元へ羽のような笑みをお作りになると「雨なので」と穏やかな声でおっしゃいました。私は「止みますよ」と微笑んで、確かに頬を上手に持ち上げられたかしらと考えながら、なるだけさりげなく、自然を心がけて前を向きました。私の頬を、あなた様がまだ見つめてくださっていることを知って、私はそこへ私の全てが集まっているかのような錯覚を起こし、ひたすらに手の中のハンカチを握りしめるのでした。おそらくはあの日が私とあなた様の始まりであり、 あるいはあなた様の夢の死でもあったのでしょう。確かにあのとき、あなた様は死を愛す顔をしておられました。死に愛された美しさを、雨の影に秘めておられました。
あれほど美しい影を、私は見たことがございません。あなた様の一途な恋に、死が応えた一瞬の気まぐれ。彼の目の淵の涙のように、極めて微妙な緊張で結ばれた奇跡。ええ、そうです。その奇跡を壊してしまったのが他でもない私であったことを、私は認めなければなりません。
影が二度あなたを照らすことはございませんでした。あなた様の望みに反して、そのお身体は頑丈で、病一つせず今に至るわけです。ますますあなた様の恋は叶い難く、それ故に想いは強くなり、あなた様はご自分と死とをまるで運命づけられた悲劇の恋人同士のように語られるのです。その度、私の胸がどのような色で爛れるか、あなた様はご存知ないでしょう。私は死を憎み、あなた様が健康であればあるほど恋敵から引き離すことができると、あなた様を生へ導くことだけが定めのように考えております。ですが、それははたして正しいことだったのでしょうか。本当にあなた様を愛しているのならば、あなた様と死とを巡り合わせ、その美しい融合を叶えてさしあげることが妻である私の務めではなかったのでしょうか。
夜が更ける度、罪に染まっていくような心地がいたしました。朝、目覚めたあなた様が「ああまた死ねなかった」と呟く度、それは私の業のように思われました。希望と絶望とが私とあなた様とを襲います。そうして過ぎていく日々が、私は何だかそら恐ろしくなったのです。愛するとはどういうことなのでしょう。本当の幸せというものは、一体どこにあるのでしょう。
幸い、まだ私とあなた様との間には子がおりません。幼子はあなた様だけではなく、私の足かせにもなることでしょう。今だけです。今ならば私は、あなた様のために世を捨てることができるのです。
私の死は、あなた様の抱く死への夢がそうさせたことでございます。私はあなた様がいかに私を愛してくださっているか、眼差しの温もり、指先のしなやかさ、そして何より死を夢と諦めたお心から確信しております。あなた様は愛する妻を、あなた様ご自身の夢のために失うのです。死の影を逃したあなた様へ、私は雨を贈ります。そうして私はあなた様から色を奪い、再びその瞳が万華鏡のように輝きだすのを、あるいは、本当に夢みていたのは私だったのかもしれませんね。
雨音