統一暦54年
ちょっと前のヨーロッパを舞台にした革命(?)物語です。最高目標は、群像劇にする事、最低目標は完結……。
プロローグ
統一歴54年、私は兄を裏切った。
過去の傷を精算し、未来の展望を失った。鐘楼から飛び立った一群の鳥が夕陽を横切る。黄昏の光は港町の陰影を穏やかに描き出す。太陽は今にも、夜を連れてこようとしていた。駅舎の窓から入った夕陽は、僕の顔を焼くように照らした。その美しさに呑み込まれながら、僕は床に膝をついた。自分の中身がぐちゃぐちゃになって、全て流れ出ていく。抜け殻だ。もう涙も出ない。手に持ったナイフを線路に投げ捨てると、乾いた鉄の音が響いた。
始まりの朝
軋むドアを思い切り外に押しやると爽やかな風が吹き込む。短い髪の毛が風にはねた。手に持った珈琲を零さないようゆっくりとベランダに出る。床の冷たさがはだしの足に心地よい。顔を上げると早朝の街が目に飛び込んだ。坂の上に位置するこの下宿からは海までもを見通せる。私は美しい首都に、乾杯を捧げた。
朝の風は冬のように涼やかだが柔らかく、珈琲の湯気をゆらゆらと運ぶ。春は中途半端だが、だからこそ好きだ。冬の余韻を感じながらも夏の悦びに想いを寄せる幸せな季節だ。淹れたての珈琲に口をつけあくびをするとやっと目が覚めた。
「ああそうだ。フリードリヒを迎えに行かなきゃ」
急いで目玉焼きとパンを口に放り込み靴を履いて下宿の階段を駆けおりた。
階段を駆け下りる足音を聞き箒を置いて振り向く。
「おはようワルター」
寝癖を付けた青年は一瞬目を丸くしたが、すぐ笑みを浮かべ、挨拶を返してきた。相変わらずシャツとサスペンダーだけだ。だらしない出立ちに苦言を呈すと、
「上着が乾かなくて」
などともごもご言っている。
「初任の日までに乾くといいな。テオドール様に怒られるぞ」
首切られるかもしれないな、と冗談で言うと、
「嘘ですよ」
と戸惑われた。いつまでも素直なやつだ。
「今晩の栄転のお祝いとお前の甥っ子の入学祝い、みんな来てくれるって」
少し老いてきた無骨な手で肩を叩くと、嬉しそうに笑った。急ぎの用事を思い出したらしく手を振って去っていく。箒を手に取り掃除を再開すると、大きな鳥の影が石畳をよぎった。
ふいに太陽を失って、上を仰ぎ見るとワシが飛んでいた。その姿を遮るように僕を見下ろす影が目に入った。ぼくはもう一度、彼にごめんなさいと呟いた。
「謝らなくていい、だからそこを退きなさい」
「いや…嫌です」
背後に倒れる怪我人の手を握り拒否すると、憲兵帽に隠れる目が鋭くなった。威圧的な制服と、腰のサーベルはぼくを怖がらせる。でもこの人怪我をしているんだ…死んじゃうよ。
「もう一度言う。退きなさい。」
男の目がさらに鋭さを増し、光を放つ。口をひきむすんで、震えながらも彼を睨んだ。
「いい根性だ。わかった」
緊張した空気の中、野次馬の悲鳴が聞こえた。驚いて顔を上げると、ぼくに向かって振り上げられた拳が目に入った。ぼくは思わず目を閉じる。当たり前だ。こんな大柄な人に殴られるのは、きっと痛いだろう。反射的にギュッと身体を丸め、頭を庇う。
突如として石畳を蹴る靴音が聞こえ、次いで鈍い音が広場に響いた。恐る恐る目を開けると、目の前に頭を抱えて呻く青年の姿があった。誰かが僕の代わりに殴られたのだ。
「だっ大丈夫ですか?」
「痛い」
「あっ」
呻くその顔を見てワルター叔父さん!!と大声で思わず叫んだ。僕を助けてくれたその人は、僕の叔父だった。
「待ち合わせ、9時だよ!10分遅れ!」
「ごめん」
「……助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
すっかり青い顔をしたままへにゃ、と僕に向かって笑った。彼の顔を見て、急に憲兵が不思議そうな顔をした。憲兵は彼の顔を覗き込み、
「どこかで……?」
とつぶやいた。鋭いその目で、目の前にひざをつく青年を見る。
「この子が、何か失礼を働いたのでしょうか?」
暴力沙汰の理由を聞く僕の保護者を無視して、憲兵は考え込んでいる。ふと思い付いたように、男はワルターさんの前髪を掴んで上を向かせた。苦痛にゆがむ顔を見下ろして、
「その緑の髪、その顔立ち……。」
と呟く。
「お前、隊長の親族か。」
隊長の親族、という単語に周囲がざわめく。
「そういえば、弟が一人いると聞いた。彼か?もしそうなら、そこのチビの愚行は許してやる。」
「弟、ですか。」
「ああ。王宮に務める弟がいると。」
「彼には……もう一人弟がいるはずですが。」
「聞いた事がない。その様子だと違うようだな。」
「……。」
「しかし、その緑の髪、グランヴォルフ家ではあるんだろう?」
「ええ、そうです。この子も。」
好機を捉えて肯定するその姿は、どこかつらそうだった。いつも底抜けに明るいかれの陰りに胸が騒いだ。
「ならその名に免じて許そう、さっさと行け。殴った事はすまなかった。」
「ありがとうございます。」
これ以上火の粉をかぶらないよう、急いで立ち去ろうとすると、
助けてくれ、と声がした。下を向くと、追われていた人がワルターさんのブーツを掴んでいる。そして、自分は禁書を本棚に置いていただけだと、弁解しだした。憲兵隊は民衆の恐怖だ。連行されれば、まず怪我はするし、生きて帰れないかもしれない。彼も必死だし、だからこそ僕も助けたかった。ワルターさんはハッと顔を上げると、本を一瞥して、憲兵隊に向き合った。
「なら、この人は無実では」
立ち去らないのみならず、抵抗したワルターさんに、男は苦々しい顔をした。
「時勢は刻一刻と変わっている。先ほど新たな法案が通った。知らなかったか?」
「どういう事ですか。」
「禁書の所持が、逮捕の対象になったと言う事だ。残念だったな。」
なんて事だ、とつぶやき、ワルターさんはゆっくりと立ち上がった。脳内でさまざまな感情が混ざり合っているようで、瞳が揺れる。ワルターさんは、申し訳なさそうに目を伏せると
「もういかなきゃ」
と僕の手をとり、群衆の中へと歩き出した。僕は小走りで彼を追う。
「急いで本を捨てないと、僕も危ない」
冷たい感触が頬に落ち、天を見上げると、晴天が曇天へと変わり行くところだった。重たげな雨雲が、海から雨を運んでくる。広場から人影が消えゆく。きっと、あの追われていた人の流した血も雨で洗い流されてしまうのだろう。掌に感じる叔父の温かみを求めて、僕は手を握りなおした。
掌から伝わる甥の不安を感じ取って、私は彼の顔を見やった。まだ子供の面影を残しているが、彼は聡明な少年だ。きっと先ほどの一連の事から多くをさとったのだろう。俯いて歩くその横顔は悲しげだ。彼には、知らなければならない事がある。そしてそれらの事実は彼を傷つけるだろう。
「あの、おじさん」
「ん?何」
おずおずと尋ねてくる甥に、笑顔で応対するが、心のうちは不安で波打っている。
「さっきの人、ワルターさんが隊長の親族、って言ってた。」
「うん、言ってたね。憲兵隊隊長はグランヴォルフの人間だ。」
「僕、知らなかった。」
「お前のお父さんが、隠したがってたからね。でもフリードリヒ、お前は何も気にしなくていいんだ。」
「うん。でも、それより……。」
一層真剣な顔でたずねてきたが、やっぱりいいと途中で口ごもってしまった。俯いてしまった彼を抱き上げようとすると抵抗された。前は喜んで抱っこされていた覚えがあるが、それは言わない事にする。以前実家に帰ったのは三年前だが、ずいぶんと大きくなったものだ。ずっしりとした重みに喜びを感じた。彼は立派に育つだろう。彼の父、つまり僕にとっての長兄のような誠実な人間に。
15年前に家を出てから、次兄には会っていない。一度もだ。私は彼を決して忘れないが、彼にとって私は無にも等しいのだろう。彼がどういった心境で今の立場にいるのかは何も知らない。私が知っているのは、彼が人々に忌み嫌われる憲兵隊長であることだ。そして新しい法案というものは、次兄が出したものだという事を。
目の前に沢山の選択肢が広がる。そして私は、いずれかを選ばなければならない。
(ああ、一体どれが正しいんだ……。)
折りたたみナイフをポケットに入れ直す。曇り空から一瞬さした光を目の端に捉え、私は家への岐路を急いだ。
叔父
本を積み上げると、埃が舞った。クリーム色の綺麗な紙にハサミを入れていく。窓の外から雨上がりの鈍い光が入り込む。パラパラ、パラパラと床に本の欠片が積もりゆくのを見て少年は顔を顰めた。湯気の立つカフェオレがごとんと置かれ、顔を上げる。
「フリードリヒ、手伝いありがとう。思ったより数が多くてね。」
「意外だな。」
「何が?」
「ワルターさん、こういう本読むんだ。」
「この本は、実家にあったんだ。トランクに詰めて、持ってきた。」
青年は懐かしそうに本の表紙を撫でた。
「ほかのは、若者の間で流行っていたからね。」
「反王政の本が?」
「そうだな……。そういう時期もあったんだ。私は社会思想どころじゃなかったけど。」
「いつくらいの話?」
「うーん。中等部に進む前だから、15年前かな。」
「そうだったんだ。まだ自由に売買されてたんだね。」
フリードリヒは黙り込んみ、そのままもくもくと手を動かす。彼はいつだって、考え込むと琥珀色の眼を伏せる。
「僕ね。ワルターさんは、主義だとか持たない人だと思ってた。」
「そうか。なんで?」
「だって、おじさんは。」
フリードリヒはそっと腕時計を撫でて、つぶやく。
「なんのしがらみにもとらわれてないじゃない。自由な人だ。」
残光が、床に長い影を作り出す。盤面のガラスが光を鋭く反射し、天井に跳ねた。手に持っていたコーヒーをベットサイドのテーブルに置き、ワルターはしゃがみ込む。琥珀色の眼をのぞき込んで、そのまま甥を抱きしめた。
「フリードリヒ、ごめんね。」
叔父の羽織る、織目の荒いカーディガンに顔を沈めると陽だまりの匂いがした。思わず笑顔になる。きっと毎日律儀にベランダに干しているのだ。
「私は、あの家から逃げ出してしまったから。お前は私を責めてもいいんだ。」
没落しつつある名家の悲しさは、確かに重荷だ。時に無性に悲しくなるほどに。清潔に刈り込まれた首元に手を伸ばし、叔父を抱き返した。
「何その罪悪感。でも言ってほしいなら、いうよ。許すよ。ねぇ、それよりコーヒーもう一杯ちょうだい。」
「ミルクは?」
「たっぷりと。お砂糖も。」
自分のためにコーヒーを入れに行く叔父をみて、心のわだかまりが溶けていく。この人がいるから、僕は突き進めるのだ。時に、感情的に心が揺れ動いてしまうのは、きっと僕が未熟だからだ。でも、その揺れを受け止めてくれるこの人がいるから、僕は大丈夫だ。もっとも、僕が生まれた時からずっとそばにいてくれたら良かったのにと願わないわけではない。豆を挽く匂いが漂いだす。僕は再び、本を壊す作業に戻った。最後の一冊が塵になったころに、僕はテーブルに呼ばれた。
分厚いチョコレートクッキーはカフェオレによく合う。片肘をついて、穏やかに僕を見守る叔父をじっと眺める。相変わらず、陽だまりのような人だ。どこまでも暖かい。
「その本は捨てないの?」
「これはね、捨てられないよ。父の持っていた本だ。」
「大丈夫なの?」
「ああ、心配ないよ。私は模範的市民じゃないからね。隠し場所なんていくらでもあるのさ。」
いたずらっぽく笑う叔父につられて、僕も苦笑いする。
「僕も、叔父さんみたいに自由でありたいな。」
「違う、私の在り様はそんな良いものではない。私はね、ただ拠り所をなくしちゃっただけだよ。」
「ふーん。難しいね。」
「フリードリヒは何を信じる?」
「数理の公式。」
「おおう……。難しいね。」
「そうかなぁ。」
「そうだ、明日図書館を案内しようか?」
輝くような笑顔がフリードリヒの顔に広がる。
「行く!行く!明日早起きするね?」
「そうだね。始発の路面電車に乗ろう。」
「路面電車?楽しみだな。故郷にはないもの。」
「あそこにあるのは汽車くらいだね。」
「近くにあるの?路面電車。」
「大通りに停留所があるよ。ここから五分くらいだ。」
二人で、明日の計画を立てているといつの間にか外が暗くなっていた。ワルターさんが立ち上がって、天井のランプをおろした。火薬を擦る音がして芯に火がともる。輪郭のはっきりしない暖かい光が部屋中に広がった。僕はため息をつく。
突然のノックの音に応えてドアを開けると、赤髪の女性が外で待っていた。お祝いが始まるから、呼びに来たのだという。綺麗ではないが、存在感のある女性だ。彼女の姿を見て、ワルターさんが嬉しそうに立ち上がり両手を広げる。
「久しぶり!」
そういうと、子供のように抱擁を交わした。
「ワルター、お久しぶりね。昇進したんでしょう。お祝いにこれてよかったわ。」
「フリードリヒちゃんも、久しぶり。」
「以前にお会いしたことが……?」
「ええ、おととしグランヴォルフのお屋敷で開かれていたクリスマス会だったかしら。アンニ=ブルックマンよ。」
「フリードリヒ=グランヴォルフです。ごめんなさい、僕……。」
「いいのよ。大きくなったわね。さぁ、下へ行きましょう。」
階下から伝わるざわめきに胸を躍らせながら、僕はドアを開けた。
小麦亭
祝いのざわめきを背に、僕をつれて叔父は小麦亭を後にした。重たい樫のドアをあけて、路地裏の階段に進む。この季節でも、夜はひどく冷え込むのだ。まるで石畳の隙間から冬が入り込んでくるよう。彼に手をひかれながら屋根裏に位置する下宿に戻ると、ベランダから街灯と家々の窓のきらめきが目に飛び込んだ。遠くで動く点のような灯は、きっと遠い国からきた船だ。靴を脱いで、ベットにくるまった。
よぉ坊主、と無遠慮に頭を撫でまわされ、驚くと笑われた。先ほどのパーティーでの話である。振り向くと、いかにも無骨な軍人、といった風情の壮年男性が立っていた。
「私の父よ。ヘルマン=ブルックマン」
と、アンニさんに紹介されふと気が付いた。僕だってちょっとは新聞を読む。
「じゃあ、あなたは、先の対戦の英雄だっていう……?」
「英雄だって?ヘルマンが?!」
おっさんたちが騒ぎ立てる。
「おう、英雄さ。お偉いさん方にとってはな。でも実際は何もしてないんだよ、フリードリヒ。」
「何もしてないなんて」
右目をふさぐ、その傷は……と聞こうとして口をつぐんだ。
「まぁなんだ、首都は楽しいところだ。俺も娘とともに14,5年ほど前にこっちに越してきたが……。」
「それで僕はアンニさんと、ヘルマンさんの事知らないんですね。」
「今13歳だっけか?なるほどな。困ったことがあれば聞けよ。ワルターは頼りないからな。」
「まったく、ひどい言い様ですね!?」
本当はな、とても頼りにしてるんだ。君も安心していいよ、と帰り際にこっそり打ち明けて帰ったのは僕とヘルマンさんだけの秘密だ。
主役二人を抜きにしてパーティーはまだ続いているようで床板越しにまだざわめきが聞こえる。それを子守歌に、僕は夢の世界へと入っていった。
甥の寝息を聞きながら寝る準備をしていると、ドアから影が差し込んだ。
「こんばんは、ワルター兄さん」
振り返るとそこには双子の弟が背筋を伸ばして立っていた。仕立てのいいスーツに、綺麗に整髪された髪。姿勢は正しく表情は挑発的だ。よくもまぁ一卵性の双子でここまで差が出たものだと思う。
「ヘクター、泊まってくの?僕はもう寝るから……。」
「いや。迎えを呼んだ。」
「じゃぁなんでこの部屋に。」
「ここは落ち着くからね。」
「本当に、何の用なの。」
「聞きたい?」
「ああ。」
「はい、これ。」
スーツの内ポケットから折りたたまれた紙をすっと出す。
「なにこの。」
「テオドール様からの言付け。」
「郵便で送ればいいのに。」
「時として郵便屋ほど信用ならないものはないのさ。まったくね。」
「懐疑的だな。明日読んで返信を渡しに行くよ。」
「いや」
何処からか取り出した紙巻煙草を口にくわえたと思うと、紙を擦る音とともに硫黄の匂いが漂った。小さなオレンジ色の炎が暗闇に浮かび上がる。口の端から煙をくゆらせ、
「今すぐ読んでくれ。読了後燃やすよう言い遣っている。」
と燃え盛るマッチの先を近づけてきた。
「マズいのか。」
「ああ、マズいのさ。」
ガサ、と折り畳まれた上質紙を開く。マッチの灯りが透けて王家の紋章が浮かび上がった。ブルーブラックのインクで記された字体は紛れもなくテオドール様、この国の皇子のものだ。直筆とは珍しい。前に直筆の手紙を送られたのは、数年前だ。あの時は本当に面倒なことに巻き込まれたと思っている。何故一介の軍人である私が放蕩王子を迎えにトルコまでいかないと行けなかったのだ。その時の事を思い出しふと背筋が寒くなった。しかし、兎にも角にも筆記体で書かれた文字を目で追う。
「確かにこれは、すぐ燃やさなきゃな。」
予感が的中した。とりあえず情報を頭に叩き込んで火の中に差し出した。燃えカスがチリチリと床に落ちる。黒く光る革靴が残り火を踏み潰す。
「一日。一日返事を待つよ。」
「受けると思うのか、この話。」
「さぁ。兄さん次第だ。」
「こんな事したって……」
「無理強いはしない。でも、彼の頼みだ。一考はしてほしい。」
ふと外を眺めると、ベランダを強い風が海へと吹き降ろしていく。ろうそくの光が強く揺れ、かき消される。港の船は、もう停泊して灯を消したようだ。夜に浮かび上がる車のヘッドライトが流れるように表通りにたどり着くと、人を乗せどこかへ去っていった。夜はまだ長い。
統一歴
学術的興味と睡眠欲には相関性がないと思う。意欲と眠気は反比例しない。今日も僕が非常に興味を持つ分野の講義が睡魔に踏み潰され頭が餓死しそうだ。黒板には白い文字が並ぶ。年号、地図、意義……。先生の淡々としたバリトンボイスはただの睡眠剤だ。 僕はもう諦める、おやすみなさいごめんなさいさよなら近代史……。ふわふわした世界に誘われていくとふわふわして心地よい。うつらうつらしていると、先生に急に起こされた。
「この……において……グランヴォルフ……であり……。」
「おい、フリードリヒ。フリードリヒ・グランヴォルフ、お前の家のことだぞ。」
叩かれて顔を上げると、興味深げに嘲笑を含む視線が全方向から突き刺さった。晒し者だ。
「すみません……。」
「入学早々居眠りか。まぁいい。続きを読んでくれ。」
「えっと……そして、ろく国は解体……されローズ家を王家とした新しい国家に再、編、成、された。」
「ありがとう、母語でないにしてはいい発音だ。さて、ここで諸君らに質問だ。これは統一歴何年の話だ?国の精鋭たる君達にはわかるだろう。」
「挙手する者はいないのか?まぁいい。フリードリヒ、答えろ。」
「統一歴、の1年目だと思います。」
「元年、の方がより良い表現だが正解だ。6国の統合の事を全般的に「統一」とよぶ。統一戦争、反統一反乱など、この「統一」という名称が付けられた関連事件は多い……。」
また眠くなってきた。隣の席に座るローズ家の遠縁だというガキ大将のデイブが耳に口を近づけ聞き捨てならない言葉を囁いてきた。入学初日から何かと絡んでくるのだ、こいつは。
「グランヴォルフにとっては没落歴56年ってとこだな。」
ニヤニヤした顔がたまらなく腹に据えかねる。お前んとこは成り上がりり56年だな、と返したかったが品位を損なう事になるのでやめた。それに、こいつは嫌な奴だけれど、ローズ家に対する確執はない。むしろヘクターさん、僕のおじ、のおかげで次期ローズ家当主との親交は深いくらいだ。
「この統一のきっかけとなった事件は何だったか知っている奴はいるか?」
「はい、敵国の侵入です。」
「正解だ。長い事敵対していた隣国の攻撃が激しくなり、一国一国では対応が難しくなった。そのため、統一することにより国力の増大を目指したのた。まずは、軍国として名の知られたグランヴォルフ国がローズ国に降った。これをきっかけとして他5国もローズ家を中心に編成される事を認めた。さて、区切りもいいし今日はここまでにしよう。よい週末を。」
遂に睡魔と授業から解放され待ちわびた放課後だ。寮にすぐ帰るのもいいけど、なんとなく街に繰り出したい。今の時間なら、ワルターさんは中央広場にいるんじゃないだろうか。デイブが遊びに誘ってきたので中央広場に行きたいというと、連れて行ってくれると言う。こいつは僕と親しくしたいのかいやがらせしたいのか、どっちなんだ。
学舎の門をくぐると、今日も晴天であった。晴れやかな空に見守られながら、中央広場までの道を下って行った。
ブルックマン家にて
出窓に作りつけた書き机に座って万年筆の先から物語を綴る。これを読んだ子供たちを、続きを待つ子達の心と冒険欲を満たすように。私の中の物語が誰かの想像力を満たすと言うのならそれほど光栄な事はない。何故児童書を描くようになったのかは覚えていないが、物書きとしての原点は私の物語るのをキラキラした目で覗き込む彼の姿だろう。あの瞳を思い出す度、書く事の喜びを思い出す。私の幼馴染みである彼、ワルターグランヴォルフは、私と同じくそろそろいい歳だが未だに少年のようだ。いい意味でも、悪い意味でも。完成原稿を乾かしてお茶を淹れ、階下で昼寝している父をお茶に誘うと、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あら、フリードリヒちゃん。学校終わったの?」
「お久しぶりです。ええ、さっき。それで、あの、ヘルマンさんいますか?」
「おう、どうした」
ソファで寝ていた巨体がもそもそ起き上がって私の背後から声を発した。
「お聞きしたいことが。」
「アンニ、彼にもお茶を。」
「持ってくるから、さきにお話していて。」
父のヘルマンが老体をゆっくりと起こして、暖炉の脇に座った。ほのかに香る紅茶を一杯と、一掴みのクッキーを青い陶磁の皿に入れて彼らの前に差し出した。フリードリヒが居心地悪そうにしている。今日の空はとても青くて、気持ちいい。広場にもきっとオープンテラスが出ているだろう。だから、私は出かける事にした。
フリードリヒが訪れたすぐ後、頼みの綱にしていた娘は大事な用があると言ってふと出掛けてしまった。男手一つで娘二人を育て上げたが、なにぶん無骨な武人なもので子供の相手が得意なわけではない。内気そうな少年と暖炉のそばに腰掛けたまま、なんとなく本題に入れず今に至る。
「ヘルマンさん、その写真は?」
フリードリヒがソファに座って紅茶を啜りながら尋ねてきた。写真立てをフリードリヒに寄越すと、彼は不思議そうに見入っていた。
「これはな、俺の旧い友人達……。ああそうか。君にとっては、アンナとヘレ、この二人は祖父母に当たるのかな。」
「僕のおじいちゃんたち?若いね。」
「ああ、若かったとも。俺も若かった。」
「あのね、ヘルマンさん。その、お手数でなければこの時代の事を僕に教えてください。僕、それを聞きにきたの。」フリードリヒの琥珀色の瞳が一瞬きらめいて、鋭い光を放った。こんな眼を、どこかで見た事がある。きっとあの時の戦場だ……。理由を究明して、知識を求める者の眼。彼の真に意図するところを把握しきれないままにぼそぼそと語りだした。
「自分語りになってしまうがいいのか?」
「ええ。ヘルマンさんが見てきた事が知りたい。」
「
これは、統一戦争の前の写真だ。統一戦争は知っているか?」
「確か……。六国の統一が行なわれる前に、ローズ家とその他五家の間で行なわれた戦争ですよね。」
「それで正解だ。さしずめ、ローズ家による征服戦争って所だ。五大家はあくまでも自治を貫きたかったからな。その中で、グランヴォルフがローズ家の参加に入り、ローズ家側として他五家と戦った。」
「だからグランヴォルフは、裏切り者って言われるのですね。」
「俺もその戦争にグランヴォルフ側で参加したのさ。軍功を得、勲章を得、友を失った。娘達と、僅かばかりの栄誉。その他は失ってばかり。失ってばかりだ…。伸ばす手の先を掠めて去っていく、去っていく……。
」
フリードリヒがじっと耳を傾けている事を思い出しふと恥ずかしくなって立ち上がった。
「すまん、老人の感傷だ。」
「いえ、貴方は英雄なんですよ。ぼくたちの。お話きけてうれしいです。差し支えなければ、もっと教えてください。いろいろと気になっている事があって。この首都に来てから、僕には分からない事が多すぎる。」
「なにせ、いろいろあったからな。」
「統一戦争の後、何があったんですか。きっと僕が、知っておかないといけない事なんでしょう。」
「何故そう思うんだ?」
「周りが隠すからです。父も母も、祖父母の事を話したがらない。ワルターさんまでも、僕に話してくれない。近いうちに何かが起こりそうなのに……僕は一つも知らないの。」
紅茶カップを握りしめてうつむきながら彼はぽつぽつとそう語った。
「何の前兆があるんだ?」
「ワルターさんと、検閲隊のお兄さんの間で何か。」
「そうかワルターか。あいつ、父親似だったからな。」
暖炉の上に飾ってある他の写真のホコリを払いながらふと我が人生に思いを馳せると、遠き日に消えていった友人達の顔すら思い出せなくなっている事に気がついた。
アンナにヘレ、そして私の愛した人。ヘルマン、君には失望した。とヘレが呟く。背筋に寒気が走る。売国の果てに、勲章を貰うとは。と彼は吐き捨てるように言葉を私に刺す。私の声はもはや彼らには届かない。私は自らの思う正しい事を成し遂げた。だのに、我が親友はそれを裏切りと呼ぶのだ。「私は途中から傍観者だったから、分かるところまでしか話すことはできない。まず君の祖父母と私、そして私の妻は幼なじみだった。私にとっては六国の統一が目指すべき未来であったが、他の三人にとってはそれぞれの国の自治が求めるべき者だったのだ。すれ違いの果てに、私は若かりし頃の全てを失った。彼らは自治を求め革命を試みたが失敗し、国外に亡命したんだ。この一連の動きは暴動として歴史に記録された。マイナスイメージだ。これが、周囲が君にこの事を伝えない理由だろう。」
「教えてくれたって、よかったのに。」
「傷つけたくなかったのだろうよ。亡命後、君の祖父に変わって君の父が当主になった。両親を一度に失って、君の父さんも、オットーも、ワルターもヘクターも辛かっただろう。ワルターが首都に飛び出してきたのはこの頃だ。」
「じゃあ、その暴動が、ワルターさんとオットーさんの不仲の原因?」
「断定はできないがその可能性は高いだろうな。」
「そっか……。ヘルマンさんありがとうございます。」
「本人か、ヘクターに聞くんだな。」
「そういえば、きょうヘクターさんが会いにきてくれるっていってました!あの、広場のこの店ってどこにあるんでしょうか。」
彼はごそごそと鞄から折り畳んだ手紙を取り出した。
兄と弟、そして兄
四角く切り取られた空は雲ひとつない晴天だ。広場の騒めきが反響して美しく響く。夜が来るのに備えて店を畳み始める人々の間を縫って、角の酒飲み場へ繋がる階段に足を踏み入れた。オレンジの光が傾いて連なる段々を写し出す。古い木材の生み出す音を伴いながらヘクター=グランヴォルフ、僕の叔父との待ち合わせ場所へと向かった。何分、ここはいわゆる「大人の社交場」という奴なものでぼくはおそるおそるドアノブに手をかけた。一息吸って、手に力を入れようとすると背後から大きな手が僕の手の上から力を入れて酒場へのドアを押し開いた。
「ようこそ、エル・プラサへ。」
振り返ると、そこには不遜に微笑む、ワルターさんにそっくりな、もう一人の叔父が堂々と立っていた。彼がワルターさんの双子の弟であるヘクター・グランヴォルフだ。顔は似ているが中身は鏡に写したかのように左右あべこべだ。仕立てのいい服をきっちり着込んだ彼の背を追って暗い階段を駆け上がった。
案内された隠れ個室で、手探りで会話を進める。彼がどのような目的で、何を思って、ぼくを呼び出したのかがわからない。見抜くような目、抜け目ないその言動。いつの間に頼んだのか、ワインと、エッグ・ノッグが運ばれてきた。白く泡立つ暖かい飲料を口に含むと、鼻腔の裏までミルクとアルコールの匂いが漂う。少し気を緩ませてぼーっとしていると、ドアが閉ざされる音が響いた。
「音が漏れちゃうからね。」
フッとランプの光量が落ちた気がする。
「……なんの話をする気ですか。」
不穏な空気を感じてぎゅっとアルミのコップを握りしめた。
「なんのこと?」
にっこり微笑む顔が恐ろしい。
「落ち着かないだけ。」
「……はい。」
「ねぇ、フリードリヒ。元気だった?」
「はい、お陰様で元気です。」
「兄さん…ワルターは?」
「……お元気ですよ。」
「首都は綺麗な場所でしょ。」
「はい、驚きました。」
「栄えていて、歴史もあって…。」
「ええ。」
「でも、暗い歴史もある場所だ。」
「ヘクターさん。」
「フリードリヒ。この街でね、暴動が起こるよ。」
「……。ヘクターさん、ぼくに何を話すつもりなんですか?」
「その暴動はワルターが起こすのさ。私も……共犯だ。君も知っておいたほうがいいだろう。」
「知って、どうしろっていうんです。」
そう答えると,これは頬杖をついてふと目を閉じた。天井のランプの色に照らされて陰影が濃くなる。
「
ワルター=グランヴォルフの独白
薄靄の中で揺蕩うように生きていけば全て終わるのだと、そう思っていた。時代の変節に拠り所を亡くした思想は千里を惑う。何かを盲信したいのに、懐疑心がそれを許さない。手に持つ紙切れが風に吹かれて、表通りに散っていった。
真剣な顔をしたヘクター、王子の顔、時代、号外、私の手の傷、このナイフ。こんな晴れた午後に似合わない思案が駆け巡る。一瞥して去る両親の顔、手を握り合って泣いた幼馴染みの顔、回り回る階段、次兄の冷たい顔、祖父の骨ばった手。革命という単語に付随するフレーズだ。15年前から私は一歩も進めていない気がする。いっそヘクターのように神を信じ主を信じ生きれたらこの薄氷を歩くような気持ちは薄らぐのかもしれないとは思う。しかし、あいにくそんなに折り目正しい人間ではない。いつだって、どこかに取り残されている。どこかに取り残されて、行き場を無くすのだ。
努めて、柔らかな手の感触を思い出す。僕にとってのわずかな光だ。12の私と繋いだ手、16の私の手を取ってくれた、その両手。どん底にいた時はいつだって彼女がいた。家出同然で首都に飛び出て数年目、私の精神は酷い栄養失調だった。故郷は僕の帰れる場所ではなくなっていたし、首都に頼れる人がいるとは知らなかった。士官学校の寮の重たいドアが開いて光の差し込んだ時の事をよく覚えている。僕の父の親友であり、幼馴染みの父であるヘルマンさんの笑顔に私は咽び泣いたように思う。そのまま連れて行かれた邸宅で待っていたのは、暖かい御飯と幼馴染みのアンニ=ブルックマンだった。私の顔をみて私にビンタするなり泣きだし怒る彼女を見て、自分が誰かに欲されていた事に気付いたのだ。その瞬間、ずっと重たくのしかかっていた闇が晴れた。救ってくれたのは彼女だ。何度も救ってくれたのは、彼女なのだ。
クーデターに、参加するか否か?それがテオドール王子から届いた問いだ。一週間後の晩餐会で、憲兵隊長と彼を庇護する現王が揃う。その時、彼らを襲撃して亡命させようと。そして、護衛隊長である私が参加すれば成功確率はあがるのだと。ぐしぐしと頭を掻きむしって、机にへたり込んだ。
「何だって、僕にこんな難題を出すんだヘクター。」
「兄さんに出してるんじゃあない。護衛隊長殿に出した問いだ。」
「でも僕は僕だ。」
いつの間にか背後に現れたヘクターに返答する。
「ねえ兄さん。迷っているようだから一つ、いや二つかな言わせてくれたまえ。軍上層部に繋がりがあって、王宮に出入り自由。王子の信頼もあって地理に明るい。そんな人間、数人もいない。そして何より検閲隊隊長は僕たちの…兄だ。兄さんとオットー兄さんの間で何があったのかは知れないけれど、これが出来るのは兄さんしかいないんだってことを覚えてて欲しい。テオドール皇子は、」
「……テオドール皇子は王に値する方だ。僕だってそう思う。だから悩んでるんだ。」
沈黙が広がる。
「答え、もうちょっと待てよ。今日の夕方5時、広場で。」
「うん。」
「無性に会いたいんだ……アンニちゃんに。」
盲信して
今日という日を、何千回何万回と繰り返しさえすれば私の今世はつつがなく終わる。しかし、だからこそ求めてしまうのだろう、飢えを満たすような何かを。その漠然としない何かを見出したのは、彼の中にであった。そちらに手を伸ばせど、向こうから手を取ってくれねば成立しない何か。漠然とした甘い何か。私はその名を知っているようで知らないのだ。
この子の父である男はワルターの兄であり、国家の主では無くなってしまった家を立て直すために方々を駆けずりまわっている。そんな中でよくここまで素直でいい子に育ったものだとしみじみ感じ、溜息をついた。この子の素朴な強さはワルターによく似ている。
1歳で出会い、共に育ち、11の歳に離別し、16の時に再会した。再会した時には、彼は人生のどん底にあってその持ち前の明るさを失っていた。私も彼も同時に親の片方を失い、暗い淀みの中にいた。互いに立ち直せたのは双方の助力によるものだろう。手を取り合ってあの暗い場所から抜け出したのだ。
彼といれば、何だってできる。幼い時の肝試しも、初めてのパーティーも、なんだって彼といれば出来た。これからもきっと。その自信がある。きっと彼と私は二つで一つなのだ。欠けた何かを埋め合う存在なのだ。けれど彼は、何処かで止まってしまっている。
彼より程度の高い男など星の数ほど居る。私に興味を寄せる男だって、片手で数え切れないほどいる。美しい赤髪、黄金の眼、深い知恵。それでも私を満たし私が満たせるのは彼しかいない。彼しかいないのに。
その日
懐から取り出されたそれは、強すぎる太陽光を跳ね返してきらめいた。折りたたみナイフ。それが、ワルターさんがオットー叔父につきつけたモノであった。ワルターさんの身体はしなやかに、それでいて獰猛に躍動し目の前の獲物へと刃をきらめかせた。緊張が漂い、数秒の事なのに何時間もたったような感覚をうける。飛ぶ汗が、きらめいて、ワルターさんの顔は怒りにゆがみ、オットー叔父の瞳が徐々に見開かれる、その様子を僕は何もできずに柱の陰からただ見ていた。刃渡り数センチのナイフがオットー叔父の首元へと近づいて、僕は思わず目をつぶった。
カラン…。次の瞬間、聞こえてきたのは金属がコンクリートに衝突する鈍い音だった。
「………………それでも、僕は、兄さんの事が嫌いになれない。」
嗚咽交じりに言葉が発せられる。ワルターさんの眼尻からあふれては零れ落ち、頬を伝っては床に落ちる大粒の涙は夕陽の光を吸い込んでオレンジ色だった。ぼた、ぼた、と涙は握りしめた手にもたれた。
「大嫌いだ、恨んでいる。あんたは間違ってる。僕を階段から突き落として、民も突き落とす。権力が大好きで、周りの人間の事は軽んじる。そんな、兄さんが大嫌いだ。」
「お前が私の何を。」
「でも!!!!!それでも、僕は兄さんが嫌いになれないんだ。昔のあなたに戻ってほしいと、何度思ったか。願ったか。でも。でも。あなたは僕のにいさんなんだ。こんな事できない。ねぇ兄さん。もう一度いうよ。…………亡命してくれ。亡命してください。」
「ワルター。」
「……。」
「ワルター、これを全部お前がやったのか。」
「……。」
「もうわかっていると思うが言っておこう。私はお前が大嫌いだ。意思もなく野望もなくたんぽぽの綿毛のように流されるだけのお前が。だが……そうだな。見くびりすぎていたかもしれない。」
確執を超えて
夕陽が海のはるか彼方へと消えていった。駅のホームに長く、よどんだ影が二つ伸びている。ワルターは崩れ落ち、かろうじて膝立ちの状態を保っていた。その瞳の焦点はゆらめき、世界との距離を測りかねている。暗色の動向に、オレンジの柔らかな光とともに差し込むのは立ちすくむオットーの姿だった。
「お前は俺の事を恨んでいるのか?」
ぽつ、と耐えかねたようにオットーが問をもらしてワルターの返答を待つ。問を振られた彼は、片腕を強く握りしめてまたうつむいた。刻々と時がたつ。駅舎の大時計が刻む長針の音以外の音はまるで夕陽に吸い込まれてしまったかのようであった。
「恨んで……。」
顔をあげて、ワルターは言った。
「恨んで、ないよ。」
それでも僕は、そして君に
ワルター
オットー
アンニ
統一暦54年
読んでくださってありがとうございました。隔週更新です。
5月のコミティアで出しました。半年経ったのでhttps://slib.net/65632にて公開してます