引き金を引いたのは声

私は爪を見ていた。


そうすれば自分の存在が周りから気付かれないとでもいうように。

机の横を誰かが通りすぎる。
狭い視界から黒いスカートが完全に消えてしまうまで、私は手をぎゅうっと強く握りしめながら息を止めた。
あの足は、誰だろう。
バスケ部のあの子かな、それとも陸上部のあの子かな。
私が、人の顔を見れなくなってから、どれくらい経っただろう。
三日?一週間?
それとも、もっと、何年も前から?

真っ黒の制服に、真っ白の靴下に上靴。
足だけだとみんな一緒に見える。


嘘、本当はちゃあんと気付いてる。
あの子は、帰宅部で私と帰る方角が同じのあの子だ。
三日前か、一週間前、もしかしたらもう何年も前の話なのかもしれないけど、私、あの子と一緒に帰ってた。

嫌いな先生とか、かっこいい同級生とか、どれだけ話をしても足りなくて、また明日ね、って言ってたんだ。

どうしてだろう。
私だってみんなと同じ制服を着てるのに。
私だってみんなと同じ教室にいて、何にも違わないはずなのに。

だけど、みんなが楽しそうに笑ったり遊んだり騒いでいる中で一人だけ。

私は爪を見ていた。

ねえ、


「何か困ってるんじゃない?先生に話してみて?大丈夫よ、先生あなたの味方だからね」

優しそうな柔らかい、そして少しだけ小さな声で先生が繰り返す。
大丈夫だからね。と。

でも、先生、私なんにも大丈夫じゃありません。
帰り道にこうして職員室に呼ばれるのが、どうしようもなく惨めだし悲しいし苦しいし、もうずっと泣きそうなのか泣いているのかも分からないままなんです。

それに先生、私はちゃんと気付いてます。

他の先生が通る度に、話すのを止めたり全然違う話を始めることにも、一度だっていじめ、って言葉を使わないことにも、先生があの子達にあだ名で呼ばれるたびに嬉しそうな声で困ってみせていることにも。

私がひとりぼっちでいることを知っている人がいる。

先生とこうして話すたびに、気のせいじゃないんだなあ、これは夢じゃなくて現実で、明日も今日と同じ時間が待ってるんだなあってことを思い知るんです。


頭がぼんやりと熱くなった頃、私はやっと先生に帰ることを許された。
そうして職員室から出る時、私の視界の端をきらりと光るものが掠めた。
毎日、少しずつ強くなっていくその光の意味をきっと私は知っている。

今日は明日で、昨日。

私は今日も爪を見ている。
周りの笑い声が頭の中で響いてもう何も聞こえない。
心臓はずっと痛いままだ。
鼻の奥なのか目の奥なのかは分からないけれどすごく熱い。

あとどれだけ我慢したら、私はこの教室で笑ってもいいんだろう。

職員室の光のことを思い出す。
この頃は思い出すんじゃなくて、ずっとそれだけを考えているような気がする。

誰かが笑うたびに、私のことを話しているんじゃないかって思ってしまう。
そんな訳ないって思う自分と、そう思っていた方が楽だって思う自分が、少しずつ体の中で離れていく。

ガタッ

誰かが私の机にぶつかって、ペンケースが落ちた。
コロコロとペンが転がり出て私は慌ててそれを拾う。

誰も手伝わなくていいように。
誰も手伝ってくれくても、それが当然だって思うために。

くすくす、あはは、楽しそうな声が周りから降ってくるのが、本当に惨めで泣きそうになった。
でも泣いてしまうと誰かに気付かれてしまう。
痛いぐらいに歯をぎゅうっと噛み締めて私は椅子に座った。


頭の中、視界の隅をチカチカと光る、私の最後の逃げ道。
本当の本当に最後の切り札、新しい明日への鍵。


そしてまた、

「ねえ、また帰りに職員室に寄ってね。少しまたお話しましょう」



先生、知ってますか?
先生がそうやって私を職員室に呼ぶたびに少しずつ、良いことと悪いことの境目がぼやけていくような感じがするんです。


誰か、私を止めて。
それは良くないことだよって言って、私の声を聞いて、ここにちゃんと私が存在しているか確かめて。


わたしをすきになって。

どうしてなの。

「本当にどうしてあなたそんな風なの」

いつもより小さい、他の人には一人言に聞こえるような声で先生が私に言った。

みんな嫌なことがあっても我慢してるのに、自分らしくいられなくても周りに合わせて生きてるのに、みんな、笑ってるのに。

どうしてあなただけ一人で暗い顔をしてるの。

いつもの優しく聞こえる言い方じゃなくて、怒ったような苛つきを抑えるような声だった。

でも。
先生、私だって出来ることならみんなの輪の中に入りたいよ。
もう一度やり直していいなら次はなんだって我慢するしなんだってするよ、本当に私、きっとどんなことでもできると思う。
でも、無理なんでしょう?


先生、私は自分がどんな声だったか忘れそうなの。
みんなみたいな笑い方だって分からなくなってしまったの。

逃げるように部屋から出る途中、いつも見ていた光を手に握りしめた。
そして幸か不幸か私がスカートのポケットの中に滑り込ませたものに気付く人はいなかった。

誰もいない階段を二段飛ばしに駆け上がる。
そして着いた扉の前。
後ろから誰か来ていないか耳をすませるけど、心臓の音が大きすぎて他の物音は何も聞こえない。

ポケットに入れた手を出す。
手のひらで光る鍵には小さなプレートが付いていた。
掠れた字を、分かっているくせにもう一度確認する。
もし違っていたら意味がないから、もし私が思うとおりなら、意味なんて関係のないものになってしまうから。


でも何度見ても、その鍵が開けることのできる扉は、私の目の前にあった。


(屋上)

簡単でしょう?

やることは分かってる。
鍵を差し込んで、回して、ドアノブをひねる。
そして、あとは、あとは。


分かってるはずなのに手が震えて、鍵を落とさないように握るだけで精一杯だった。
足にも上手く力が入らないし、心臓が全身に散らばったみたいに色んなところでどくどくと、脈を打ってる音が聞こえる。


ああ、だめだ、私にはそんな勇気はない。
今ならまだそっと鍵を戻せば誰にも気付かれないだろう。
それに明日になったら何かが変わって、またみんなと話せるかもしれないし。
また、笑えるかもしれない。

ドアに背を向けて階段を降りようとしたとき、下の廊下から笑い声が聞こえた。
あの子達と、先生の、楽しそうな笑い声が。


その声を聞いた瞬間、なんだか全部が頭の中でぐちゃぐちゃと混ざりあって、さっきまで考えていたことがよく分からなくなって、私はドアノブを回した。

体はもう震えていなかった。



ねえ、どうしてなの
今日は明日で、昨日
簡単でしょう?

ごめんなさい、もう爪は見たくない。

引き金を引いたのは声

引き金を引いたのは声

今この瞬間、どこかにいる誰かの目を通して書きました。 それがあなたでも、あなたの大切な誰かでもないことを願います。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-28

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  1. 私は爪を見ていた。
  2. ねえ、
  3. 今日は明日で、昨日。
  4. どうしてなの。
  5. 簡単でしょう?