カリスマ読者
ネットカフェやマンガ喫茶はいつも混んでいるので、直樹はよくブックカフェを利用する。一般的には書籍全般を扱うところが多いが、この『カフェ図書委員』は小説限定の店であった。ここなら料金も格安だし、何しろ空いている。おかげでゆっくりできる、と言いたいところだが、直樹の本を読むスピードは尋常ではなかった。
学生の頃、就活には何か資格を持っていた方が有利だろうと考え、親に金を出してもらって、本を速く読む技術を教える塾にかよっていたのだ。もっとも、本が速く読めたところで就職にはまったく役に立たず、未だにフリーターである。また、速いと言ってもせいぜい一冊三十分程度だから、この技術で食べて行けるほどでもない。
それでも、速く読むクセがついてしまっているので、どうせ暇つぶしだからゆっくり読もうと思っているのに、気が付くと猛スピードで読んでいた。書籍販売が営業主体の店なら、とっくに追い出されていただろう。だが、『カフェ図書委員』は一時間いくら、その間は何冊読んでもOKという、カラオケボックス方式の料金体系なので、最初に申告した時間が終わる頃になると、席まで店員がやって来る。
「お客様、お時間です。延長されますか?」
顔色の悪い中年男性の店員に声をかけられ、直樹は引き込まれていた小説の世界から、無理やり現実に意識を戻した。
「え、ああ、もう出ます」
その時、ふと、店員が胸に差しているネームプレートが目に入った。
「へえ、小湊川って、小湊川源次郎と同じ苗字ってあるんだ」
「何ですって?」
見ると店員はワナワナ震えている。名前にコンプレックスか何かあって、怒らせてしまったようだ。
「あ、失礼しました。ぼくの知ってる小説家に同じ名前の人がいるので、つい」
「こ、小湊川源次郎の、な、何を読んだんです」
「別に悪気はなかったんです」
「そうじゃない。何を読んだんだ?」
「えっ。確か『あんたにおれの何がわかる』というハードボイルド小説で」
「で、で、どうだった。読んでみて」
「はあ、面白かったですよ。最後に、友人の制止を振り切って主人公が出て行くところは、ちょっと泣けました」
「ああっ!」
店員は今にも倒れそうになっている。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと、待っててくれ。あ、いや、待っていてください」
店員はヨロヨロと店の奥に歩いて行き、「店長、店長、大変です!」と叫んだ。
直樹は今のうちに逃げた方がいいと考え、席を立とうとしたが、店員が初老の女性を連れて戻って来てしまった。女性は小声で店員に「そんなことあるはずないわ」と言っている。半ば強引に店員に連れて来られたようだ。直樹の前に立つと、少し恥ずかしそうに頭を下げた。
「店長の桜田門と申します。すみませんねえ、小湊川が失礼なことを言ったみたいで」
「はあ、いえ、そんなことありません。でも、桜田門というお名前を聞くと、つい、ミシェル桜田門を思い出してしまいますね」
今度は店長の番だった。腰が抜けたようにヘナヘナとその場に座り込み、「ミシェル、ミシェル」とうわごとのように繰り返している。
「すみません。変なことを言ってしまって。ミシェル桜田門というのは『わたしには何でもお見とおしよ』という小説を書いた人で」
すると、店長と店員は顔を見合わせ「本物よ」「本物です」とささやきあった。
「あのー、もしかしてお二人は」
すでにポロポロと涙をこぼし始めていた店員が大きくうなずいた。
「そうです。わたしこそ小湊川源次郎。そして、店長は桜田門幸恵こと、ミシェル桜田門です」
店長も泣きだしていた。
「ああ、生きていて良かった。こうして本物の読者様に出会えるなんて。思い起こせば十年前、主婦作家として華々しくデビューしたものの、処女作の『わたしには何でもお見とおしよ』以後、まったく本が売れなくなり、それでもいつか再起するチャンスを待とうと、このカフェをやっていて本当に良かった」
「わたしもです、店長、いや、ミシェル。『あんたにおれの何がわかる』がついに絶版になった時には、もうわたしの作家人生は終わったと思ったものです。ああ、そうだ、ミシェル。仲間たちも呼びましょう。きっと、この読者様なら、彼らの作品も読んでいてくださるはずです」
「そうね。でも、読者様だって忙しいと思うわ。あっ、いいことを思いついた」直樹の方を向き「今後あなたがこの店に来られたときは、いつでも無料にします。好きな時に、好きなだけいてくださってかまいませんわ」
「はあ」
直樹は二人が気の毒で本当のことが言えなかった。二人の本を読んだのは、学生の時かよっていた本を速く読ませる塾だった。塾生たちが予備知識を持たないよう、きっと誰も読んだことがないであろう、売れない小説をテキストに使っていたのだった。
(おわり)
カリスマ読者