リバーズ
エピローグ
長い間、暗闇の中を歩いていたせいか、木々の隙間から覗く僅かな光でさえ、目が眩むほど眩しく感じてしまう。
目の前に見慣れた川が広がった。細い糸のような光が水面に照らされ、きらきらと輝いている。歪な石に足を取られながら、川岸を進んだ。距離としては十メートルに満たなかったが、年のせいか膝がひどく痛む。腰をかがめて、透きとおった水をすくう。潤いの欠けた口内に流し込むと、酒を飲んだ後の水道水よりも美味く感じた。
水面に映る自分の顔はどこか疲れ切っているように思えた。深く刻まれた目じりのしわや、アーチを描くように垂れた白い眉。そして一貫性のない口髭に、顔を包み込むほどの潤いの欠けた髪の毛。これまで軽蔑してきた老人という存在に、自分も変わり果ててしまっていた。皮肉にも、外観とは裏腹に成熟しきれていない内面にはつくづく嫌になる。そうでなければこんなところに来るはずがない。
藻に注意しながら、川の中に足を踏み入れた。膝が震え思うように動かず、緩やかな流れでさえ油断できない。両手を広げバランスを取りながら進んでいく。あっという間に腰を覆うほどの水に浸かっていた。穏やかに流れていた先ほどまでとは一変して、水勢は勢いを増し、胴体が軽く飲み込まれてしまいそうである。
その場に立ち止まり、呼吸を整えた。記憶の中に眠る景色と目の前に広がる景色を照らし合わせ、ここが目的の位置であることは容易に確認できた。次第に言葉にできない積み重ねられた感情が沸き起こってくる。不条理な現実に反発するように練られていく憤りや哀れみ。この場所はそれらを綺麗に解放してくれる。
安穏とした空間がにわかにざわめきはじめた。そして目の前に広がる景色がぞうぞうと変化していく。それを確認すると無性に笑いが込み上げてきた。無情な風に吹かれながら、不気味に笑い続けた。
第一章
「もう一回やろうよ、お願い」そういって、雅也は手を合わせた。
これで何回目だろうか。負けず嫌いの雅也はウノの勝負をまた挑んできた。
「これで最後だって言ったろ、あきらめろよな」
ちぇっと舌打ちし、弟の雅也はカードを投げつけた。車窓に目を向け、ふて腐れているようだ。
「しけるなよ。じゃあ、これで最後だからな」そういうと、雅也は目を輝かせて、カードをきり始めた。
電車に揺られながら、延々とウノを続けるはめになった。喧嘩しながらもゲラゲラと笑い合い、周りの乗客から何度か注意された。両親はそのたびに僕らを小声でしかった。久しぶりに遠出ということで浮かれているのだ。夏休み最後の思い出を作るにはもってこいだった。
去年の今頃に、祖母は亡くなった。今回はその一周忌ということもあり、父の田舎に帰ることになった。
それまで祖母はいたって健康で「病院には一度も行ったことがない」と口癖のように言っていた。日が昇る前に起床し、炊事洗濯、そして畑仕事をこなしていた。元気の安売りとでも言おうか、はつらつとしている印象しかなかった。
しかし、たった一本の電話で祖母に抱いていたイメージが見事に崩壊した。「殺された」と弱い声での祖父からの電話だった。父親はその言葉を聞いただけでは、祖母が死んだ事実へと、関連できていない様子だった。父がしどろもどろしながら何度も問いただしていたことを鮮明に覚えている。
葬式では見たことのない親戚がたくさんいて、祖母のことよりもそっちに気を取られていた。祖母の死体を見たときは悲しいというよりも恐ろしかった。僕が初めて死に触れた瞬間でもあった。
飛び交う情報の中で祖母が強盗に殺されたことを知った。当時はそのことに対して、あまり関心がなかった。ただ悲しかったのだ。死因が病気でも、事故でも、殺人でも、祖母が亡くなったことには変わりなく、事実を受け止めることで精一杯だった。
一年が経過したが、まだ犯人は逮捕されていない。両親の会話から知り得た情報だが、警察は捜査を打ち切ったようだ。「迷宮入り」という言葉を聞いて弟と面白がったことを覚えている。不謹慎にもほどがある。
今日に至るまでに祖母に対する悲しみは完全に消えてしまっていた。思い出の中に眠る祖母の顔さえはっきりとしなかった。一周忌の重要性を感じられるはずもなく、電車に揺られながら、向こうでなにをして遊ぶかということだけを考えていた。
木造で作られた古い駅のホームが視界に入った。改装することなく、寂れたこの町を反映しているようで、その潔さには好感を持てた。
「あれ、おじいちゃんだ」と先ほどまで寝入っていた雅也がはしゃぎはじめた。
雅也の指差す方に視線を向けた。茶色を基調とした服装の祖父が凛とたたずんでいる。ホームの横に設置された駐車場で、僕らを待ってくれているようだ。雅也と手を振ると、祖父は片腕をあげ笑みをこぼした。
駅に着くと同時に、雅也は母親の手をひっぱり、祖父のもとにかけていく。威厳ある祖父の顔もこのときばかりは顔をほころばしている。
「よう来たな、疲れたろ」と祖父は雅也の頭を撫でた。
すると雅也は祖父の貫禄のある太ももに巻きつくように抱きついた。
祖父の軽自動車に乗るのは今回が初めてだった。これまではバスに揺られて行くことが恒例で、そもそも祖父が迎えに来てくれることじたい珍しいことだった。
「お菓子食べるか?」そういって祖父は鞄に手を突っ込んだ。
うん、とうなずきビニール袋に入れられたお菓子を雅也は受け取った。後部座席にお菓子を並べ、どれを食べるか選んでいるようだ。
「おやじまたパチンコに行ってたろ」ポツリと父が言った。訝しげに尋ねる父親の言 葉に祖父は不自然な咳払いをした。
「ばかを言うな。これは景品じゃない、近くのスーパーで買ってきたんだ」
「そうじゃないよ。おやじからたばこの臭いがするんだよ。吸わないだろ」
祖父はため息をつき、苦笑いを浮かべる。
「おふくろのことがあって、いろいろ大変だと思うけどさ、ほどほどにしとけよ」
ああ、とあしらう様に祖父は言う。父子の立場が逆転している様が可笑しくて、笑いをこらえるのが大変だった。気まずい雰囲気の中、雅也の口の中から漏れるお菓子を食べる下品な音が鳴り響いていた。
青い田んぼに挟まれたあぜ道を延々と進む。あまり整備されておらず、車酔いを懸念していたが、十分ほどで到着し、なんとか持ちこたえることができた。
久しぶりの祖父の家は手入れが行き届いておらず薄暗く不気味であった。まるで家全体が埃をかぶっているようだ。
祖父は鍵を開けて僕らを玄関に通した。祖母が亡くなって以来、鍵をかける習慣ができたことがどことなくさびしく思えた。
「にいちゃん、川に行こうよ。ほら海パンはいてきたんだ」そう言って雅也はズボンを少し下ろし、海パンを覗かせた。その自慢げな顔に対抗するように、僕もズボンを下ろし、海パンを見せる。
そのとき、居間から祖父の呼ぶ声が聞こえてきた。
「雅也、川に行くことは絶対に内緒だぞ」
すると雅也は、オッケー、と小声でいった。
「おーい、スイカ食べるか?」と再度祖父の声が聞こえてきた。
「いらない、後で食べる」雅也は返事をする。
「食べてからにしようぜ、まだ時間は腐るほどあるんだし」
「そんな暇ないよ、行こう」そう言って、雅也は僕の後頭部をペシっと叩いた。
「こら、待て!」逃げる雅也は追いかける。細い廊下を走ると軋む音が響く。雅也は裸足のまま玄関を飛び出した。
「あんたたち、遊びに行く前におばあちゃんに挨拶していきなさい」母親の通る怒鳴り声が、楽しい雰囲気を一掃した。
ぶつぶつ言いながら、雅也と祖母の遺影の前に座った。作法の仕方がわからずに、見よう見まねで、線香をあげて品物をそえる。狭苦しい遺影の中で、祖母は満面の笑みを浮かべていた。それを眺めているうちに、忘れかけていた祖母の思い出が際限なくあふれてくる。
「兄ちゃん行くよ、はやくはやく」雅也は急かしながら僕の腕を引っ張ってきた。引きずられながら立ち上がり「行ってきます」と叫びながら、家を飛び出した。
「夕飯までには帰ってきなさい」と母親の声が微かに聞こえた。
「盆は川へ行ってはいけませんよ」生前、祖母は口を酸っぱくして話した。なぜかと祖母に尋ねると「地獄の釜のふたが開くからよ」とまた意味のわからないことを言われた。祖母が死んだ今となっては、守る必要はない。
もやしっ子の腕のような細い木の枝を振り回しながら、薄気味悪い森の中を進んだ。
「雅也、川はみつかったか」
「こっちにはないよ」
「前に来たときはこの辺りにあったんだけどな」
「干からびたんじゃないの。温暖化のせいで、きっと蒸発してしまったんだよ」
「ばか、そんなことあるわけないだろう」
「だって、これだけ探してもないんだよ」
「しかたないだろ、昔に一度来ただけなんだから。あーのど渇いた、スイカ食べたい」
「それよりさ、僕ら迷ってないよね?」
「まっ、迷っているわけないだろ」
言葉がなめらかに出なかったのは、核心をつかれたからに違いない。
雅也は顔を凍りつかせ、足を止めた。不安げな雅也に、大丈夫だよ、と一応言ったものの、実際のところここがどこかわからず、目的地にたどり着ける見込みなど一つもない。それでも誤った結果を認めるわけにはいかなかった。
熱を帯びた光を屋根のような木々が遮断してくれたが、それでも体から噴き出る汗の量は尋常ではなく、体力は消耗していく。雅也は犬のように舌を垂らして、短い呼吸を繰り返している。
同じ道を繰り返し歩いているような錯覚に陥る。それは同じような景色が周りに広がっているからに違いない。さっきまでの焦りや不安もすべて解消されてしまっていた。意識がもうろうとしているため、判別が鈍くなっているからにちがいない。どうすればいいのか、解決方法を考えてみたが名案は浮かばず、とりあえず歩き続きた。
光の届かない蒼然とした森をただ闇雲に進んだ。のどに付着した水分もすでに蒸発してしまった。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
遠くの方から徐々に雅也の呼ぶ声が近づいてくる。頭の奥の方に眠る意識がしだいに輪郭を帯びてきた。それと同時に、体中がだるく、のどの渇きを覚える。どうやら無意識に歩き続けていたらしい。
「大丈夫、ハハッ、千鳥足みたいでおかしいや」雅也は無邪気に笑う。汗で前髪は額にへばりついている。
すると、かすかに涼風を感じた。頬の汗にそれが触れると、ヒヤリと心地いい。
「川を見つけたんだ」雅也はうれしそうに上唇をなめた。
水面を走るように風が吹いていた。白い光がシャワーのように降り注いでいる。
「どうやら僕たちは同じところをぐるぐる回っていたみたいなんだ」胸を張り雅也は答える。
ふーん、と澄ました感じで相槌を打つ。
「目印になるように木の枝を地面に突き刺しておいたんだ。そしたら思った通りだよ」
「帰り道はわかるのか?」
「うん、一応、目印になるようなもの置いておいたから安心して。そんなことより、はやく泳ごうよ」
木陰で靴を脱いで、川岸を進んだ。「待ってよ」と言いながら、雅也もあとに続く。日に照らされた石を踏むたびに足の裏が焼けるほど熱かった。それでも、目の前に広がる川を前にして立ち止まるわけにはいかない。
水際で腰をかがめ、水に触れてみる。それほど冷たくはないが、体が慣れるまで少し時間がかかりそうだ。
「おいしいね」透きとおる水を飲んで雅也は言った。
「大丈夫かな、上流でしょうべんされてたら、たまったもんじゃないしな」
「いいから、だまされたと思って飲んでみてよ」そう言いって、雅也はもう一口飲む。あまりに雅也が美味しそうに飲むので、我慢しきれなくなった。
「ねっ、美味しいでしょ」
「普通かな」と素っ気なく答える。素直に、美味しいよ、と言えばいいものの変なプライドがそれを邪魔した。
雅也はうなじをぼりぼり掻きながら、首を傾げる。それでも、まいいか、という感じで雅也は川の中に飛び込んでいった。追いかけるように僕も続いた。
なめらかな水面を破壊するように、水中にもぐり込んだ。無数の空気の玉が弾けるように、水面に飛び出していく。
水中は驚くほど透きとおっていた。電車の中でゴーグルを忘れたことを悔やんでいたが、いらぬ心配だった。
「兄ちゃん、おかしいよ。なんか変だよ」
水面から顔を出すと、雅也は不安な顔を浮かべていた。視線は乱れ定まっていない。
「一匹も魚がいないんだ。僕ら以外の生き物を感じない」
目をつむり水に顔を落とす。そしてすぐに顔を上げる。雅也の言っていることはあながち間違っていない。
「絶滅したのかな?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、なんでいないの?」
さあ、と僕は首を傾げた。雅也もそれにつられて首を傾ける。
一瞬、二人の間に白々しい空気がただよった。僕らにまとわりつくように川は流れ、闇の中へ引きずり込まれてしまうのではないかと、不安になる。
「やっぱり、おかしいよ。この川……おかしいよ」雅也は両方の手のひらを気にし始めた。そして顔がこわばっていくのが窺える。
不意に、身体に違和感を覚えた。全身が震えているような気がするのだ。手のひらを見てもたいして変化を感じないが、細胞が小刻みに揺れているような感覚である。
「気持ち悪いよ、なにこれ?」
「雅也、落ちつけ。ここから出るぞ」
そう言い終える前に、雅也は甲高い悲鳴を上げた。そして尻もちをつくように倒れ込み、川を指差す。
「どうしたんだ?」
「か、か、かわが、逆に流れてる」
川が逆に流れる、そんなバカなことが起こるわけがない。
僕はそれを否定しようとした時、自分自身の目を疑った。雅也の言った通り、下流から上流に向かって川は流れていたのだ。
「立て、雅也、ここから離れるぞ」
「無理だよ、立てないよ」
僕は恐怖心をこらえ、必死で川の奥に進んで行った。思ったより前に進まず、何度か足を取られた。それでも少しずつ進み、なんとか雅也のところまでたどり着いた。
雅也は呆然としていた。僕はかまわず、雅也の腕をつかみ、引きずるようにして川岸を目指した。今にも倒れてしまいそうだが、ぎりぎりのところで持ちこたえることが出きた。兄として責任感が少なからずあった。
「足が動かないよ」
「しっかりしろ。もう少しで岸につくから」
恐怖や不安が涙となり、雅也の瞳から飛び出すように溢れていた。川岸まで数メートルもないが、距離が遠く感じる。足を踏み出すたびに、遠ざかって行くようにさえ感じてしまう。
「痛い、離してよ」雅也は僕の腕を振りほどいた。混乱していたため、加減するのを忘れていた。どうやら無事に川岸にたどり着いたようだ。
「大丈夫?」と雅也が不安げな顔で尋ねてきた。
すると安心感と同時に、底知れぬ恐怖が押し寄せてきた。奇怪な出来事に今になって戦慄しはじめた。
両膝をつき、地面に腕を立て呼吸を整える。髪から滑り落ちるようにしずくが熱せられた歪な石に垂れた。膝が笑い立ち上がることができない。
「ねえ、見てよ。川の流れが元に戻ったよ」
目をやると、上流から下流に流れている。
「雅也、まだなにかおかしいよな」同意を求めるように僕は尋ねる。
「なにがおかしいの? 怖がらせないでよ」
「そんなんじゃない。なんて言うのかなあ……」
雅也は髪をかき上げる。そして濡れた子犬のように頭を左右に振り、水を飛ばす。
「あっ!」
「どうしたの?」
「髪だよ、髪!」
雅也は首を傾げる。
「髪が伸びてるんだよ。耳に毛がかかってるだろ」
雅也は耳に手をのばす。裏側の辺りをなぞり、毛の長さを確認する。そして目を見開き、口を大きく開いた。
「どういうこと? 何だか怖いよ」
先ほどまで短かった髪の毛が一瞬にして伸びた。そんなことがありうるのか。
「成長したのかな?」
「この短い間に、成長するわけないだろう。身長は変わってないし」
僕は目をつむり、顎に手のひらを付けて、これまでの経過を整理してみた。まだ動揺が続いているため、上手くまとまらないが、自ずと一本の線に導かれていく。
「もしかすると、未来にタイムスリップしたのかもしれない」
「まさかあ、冗談だろう」顔を引きつらせつつ雅也は無理に笑った。
整理した内容を雅也に伝えるが、どうも納得がいかないようだ。訝しげな顔を向けられると、自信がなくなっていく。
「もういいよ。日が沈まないうちに帰ろうよ」
身の毛がよだつ体験をしたにも関わらず、興奮しているような感覚でもある。今回起こったことは錯覚かもしれない。だが、雅也の髪の毛が川に入る前よりも確実に伸びている。これはいったいどういうことなのか。
それに、思わずタイムスリップとは言ったものの、今思うとばかばかしく思えてきた。現実にそんなことが起こりうるわけがない。それも科学的な力を借りずに自然の中で発生するなんて無茶だ。
「そんなところに突っ立てないで、帰るよ」と雅也はやかましく言った。
雅也の言葉で我にかえる。すでに雅也は背中を向け歩き出していた。
「ちょっと待てよ」と僕は小走りで雅也の方に向かった。
「あっ!」そういって雅也は立ち止まった。そして髪の毛に触れる。
「どうしたんだ?」
「散髪したの忘れてた。今朝行ったよね、床屋」
「ああ、でもそれがどうしたんだよ?」
「だから、この髪型は散髪する前のものなんだ」
歯切れの悪い説明にもどかしさを覚える。
「だからどういうことなんだ?」
「前髪が邪魔で母さんに切ってもらったんだけど、失敗しておかっぱみたいになったんだ。前髪が揃ってるだろう。これが嫌で、散髪屋に行くことになったんだ」
「だから、どういうことなんだ?」
「理解力ないなあ、わかるだろ」と雅也はイライラしながら、同じ説明を繰り返した。
「てことは、前髪が揃ってるから……」
「うん、未来にタイムスリップしたんじゃなく、過去に遡ったんだよ」
「やめとけよ、帰ろうぜ」
「大丈夫だよ、いいから見といて」
僕の言葉は届かず、雅也は再度川に足を踏み入れた。とうに雅也は泣き止んでおり、微かにうるんだ瞳からは好奇心が滲んでいるように見える。
「早くしろよ、先に帰るぞ」
「恐いんだろ、先に帰っていいよ」
「バカ言うな、そんなわけないだろう。心配してやってんだ」
「ほら、見て、川の流れの向きが変わった」
雅也が言い終える前に、体に異変が生じはじめた。先ほどと同様に、細胞が細かく震えている感覚だ。治まっていた恐怖と不安が、せきを切ったように溢れてきた。
「もういいからさ、出てこいよ。雅也に何かあって怒られるのはおれの方なんだからな」
しいて耳を傾けようとしない雅也に、思わず足もとにある手頃な石を投げてやろうかとよこしまな思いに駆られた。
「見てよ、やっぱりそうだったんだ。体が徐々に変化していくよ」
「いいかげんにしろよ、雅也」
「あれれ、兄ちゃん泣いてんじゃん。かっこ悪いなあ」
「ばっ、ばか、泣いてねえよ」と言いながら、目からこぼれていく液体を拭った。雅也に指摘されるまで気がつかなかった。自分では冷静を保っていたつもりだが、実際は動揺し、対処できないほどの混乱状態に陥っているのだ。
退化していく、という雅也の言葉通り体が縮んでいくのが手に取るように感じられる。風船から空気を抜いていく様子に似ているのかもしれない。
全身を揉むように触りながら、雅也はゆっくりと川岸に向かって歩いてきた。先ほどよりも幼い顔つきをしているせいか、その不自然さに見とれてしまった。
雅也の小さな足が、水面から上がり岸に足が触れた瞬間、川の流れが引くように下流に向かった。
「おかしいよ、この川おかしいよ」雅也は事の重大さに気が付いたのか、繰り返しそんな言葉を呟く。顔を引きつらせ、手のひらと川を交互に見比べている。
もしかすると僕らは大変なことを犯してしまったのではないかと、漠然とだが焦燥感を覚えた。うだるような暑さを肌に感じながらも、背筋は凍りつくように冷え切っていた。まるで、全身をめぐる血液がシャーベットにでもなったようだった。
「過去に遡ったんなら、今はいつなんだろうね? どう思う、泣き虫さん」
そう言われ、頭に血が上るのを感じた。ここで怒鳴ると、さらに惨めになるに違いないが、反射的に拳を振り上げていた。
川の流れと一体化した時間の流れ。実際にこんなことがあり得るのか。そんなことを考えながら、来た道を引き返した。
雅也は嗚咽を漏らしながら、僕の一歩後ろを歩いた。すると、後ろから小石が僕の横を通り過ぎていった。
あの川から森を抜けるまで、さほど時間はかからなかった。雅也のいうとおり、僕らは同じ場所を歩き続けていたに違いない。もしかするとあの川に踊らされていただけなのかもしれない、とそんな風に考えられなくもなかった。
夕雲にもたれるように日は西に傾き始めていた。自然と急ぎ足になる。
本当にタイムスリップしているのだろうか。退化しているだけでなく、時間すらも遡っているのだろうか。そうすると、今はいつなのだろうか。
だが、目の前に現れた祖父の家を目の当たりにして、半信半疑だったものが確信へとかわった。雅也も目を皿のようにして呆然としている。
数時間前に見たものとは異なり、面目一新したかのようにきれいな家がそこにはあった。
「タイムスリップだよ、すごいね兄ちゃん」
「ああ、不思議だ」
ほんの数秒見とれてしまっただけだが、すごく長く感じられた。頭では理解しているが、まだ信じられないでいる。
裏に回り、勝手口の扉を開ける。居間に上がる前に、桶に溜められた水をすくい、泥だらけの足の裏を洗った。濡れた足のまま畳を歩く。多少の罪悪感に苛まれた。
「お母さん、お腹すいたあ」
「バカ、いるわけないだろ、過去に遡ったんだから」鼻息を荒らし僕は言う。
雅也は、なるほどと言わんばかりに、手のひらに握り拳をのせる。
「あっ、たしかスイカがあったよね」
「だからそれもない」
「じゃあ、おじいちゃんにもらったお菓子持ってくるね。二、三個残しておいたんだ。その前にトイレ、漏れる漏れる」そう言って、雅也は襖を開け奥に進む。詳しく説明してあげてもいいが、どうも煩わしかった。
囲炉裏に沿うように横になる。自然と瞼が閉じられ、呼吸が深くなった。川に浮かぶ笹船のように意識は奥深くへと流れていく。まだ半信半疑である今日の出来事が回想された。断片的な映像だが、それを思い浮かべると、せきを切ったように疲れが出てくる。このままだと眠りにつきそうだ。邪念を払い体を起こす。それだけの動作で節々が痛んだ。
とりあえず、親に電話をかけることにした。こんな時間にこんなところにいたら心配しているに違いない。それに今がいつなのかはっきりさせておきたかった。
年季の入ったダイヤル式の黒電話があった。手入れが行き届き未だに光沢感がある。使い方がわからず、少し戸惑った。
すぐに「はい、もしもし」と母親のよそ行きの声が聞こえた。その声を聞くと、少しだけ安心した。
母親に聞かなければならないことを整理する。今はいつなのか。このような不思議なことがありうるのか。
とりあえず、母親に自分の名前を告げた。そして祖父の家にいることを伝える。すると、受話器から深いため息が聞こえた。
「てっきり市民プールに行ったんだと……雅也も一緒なの?」と不安げに尋ねてきた。
うん、と僕は答える。
「それより、なんでそんなとこにいるの?」
「それは後でこたえるよ。ところで今は西暦何年?」
「なに言ってんのよ、五年生になったんだからしっかりしてよね。それより今日はどうするの、そっちにお泊りするの?」
思わず、手から受話器が滑り落ちた。コードが伸びきり床に触れるか触れないかのところで揺れている。
間違いない、一年前だ。僕たちは一年前に遡ったんだ。
今年、僕は六年生になり、雅也は四年生に進級した。つまり、一年前に遡ったということになる。
不確かだったものが、一本の線に導かれた。しかしすべてが解決されたわけではない。それを踏まえた上での新たな疑問が浮かんでくる。
足元で揺れている受話器から母親の声が僅かに漏れてきた。「もしもし、聞いてるの? ちょっとおばあちゃんに代わってくれる、ねえもしもし……」と精一杯叫んでいる。
腕を伸ばし受話器を手に取った。そしてそのままフックに戻し、電話を切る。
おばあちゃんという言葉を聞いて不思議な感覚に陥った。死んだ祖母が生きている。うれしさと同時に不快な感情を覚えた。自分はとんでもないことをやらかしてしまったのではないかと改めて感じた。
その時、雅也の悲鳴が聞こえた。語尾はビブラートしているように震えている。
一瞬、体が硬直して動かなかった。だが、すぐに雅也のもとに向かう。部屋数がそれほど多くないため、目的の場所はすぐに分かった。
敷居をまたぐように、雅也は尻もちをついていた。そして逃げるように後ずさりしている。目を見開き、嗚咽を漏らしている。
「どうしたんだ。おい、雅也しっかりしろ」雅也の肩を持ち激しく揺らす。
すると、雅也は部屋の中心に向かって指を差した。追うように視線を向ける。
そこにはうつ伏せの状態で人が倒れていた。背中にはナイフが刺さり、そこから血が流れている。まさに上流から下流に向かって流れる川のようだ。
「おっ、おばあちゃんだよ。この…あの…えっと…」しどろもどろしながら雅也はそう口にした。
「雅也、向こうに行ってろ」僕は雅也の首根っこをつかみ、思いっきり引っ張った。
部屋が荒らされていることを確認しながら、祖母に近づく。床に広がる血を避けながら辺りを一周した。畑仕事をするための作業着に、つぎはぎだらけのモンペ。それだけで間違いなく祖母であると確認ができた。できることなら顔を確認したかったけど、怖くてできなかった。
「強盗に殺されたんだよ」
「バカっ、こっちに来るな」祖母に近寄ろうとする雅也に対して腕を伸ばし制した。
「もう平気、大丈夫だよ」と雅也はケロッとしている。
「そういう問題じゃないだろ、それより警察に連絡しなくちゃ」
「ここから逃げたのかな? 窓が開いてるよ」窓から頭を出して雅也はキョロキョロと首を動かした。雅也の行動や言動が癪に障る。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。やらなければならないことがあるのだ。
祖母の死体に目を向ける。不思議なもので悲しみや悼むといった感情は一切ない。ただ不快さだけが体を支配していく。数奇な運命に弄ばれているとしか考えられなかった。
「警察に電話してくるから、おじいちゃんを呼んできてくれないか」
雅也は返答せず、眉を曇らせ何かを思案している。
「おい、聞いているのか?」
「うるさいな、ちょっと黙ってよ」
「おばあちゃんが死んでるんだぞ」
「わかってるよ、それより川に行こうよ」
突然の雅也の言葉に思わず胸倉を掴んでいた。雅也は僕の手首をつかみ、「放してよ」と苦しそうに言う。
「勘違いしないでよ、遊びに行くわけじゃないんだ」
「じゃあ、どういうことだよ。説明しろ」
「おばあちゃんを甦らすんだよ」
雅也の発した言葉が理解できず、思考をめぐらせてみる。けれど点と点は線にならず途方に暮れる。そんな僕を見兼ねて雅也は僕の手を掴んだ。
「行こう、タイムスリップするんだよ」
「ちょっと待てよ、そんな無茶苦茶な」
「いいから、おばあちゃんを助けるんだ」
断りもなく雅也は走りだした。
目的の川にたどり着くまでの間に、これまでのことを整理してみる。まずは祖母が死んでいたこと。ナイフが背中に刺さり、血はまだ乾いていなかったので、どうやら殺された直後に遭遇してしまったらしい。部屋は荒らされ窓が開け放たれているところから、例の犯人は盗みを働きそこから逃げだしたようだ。警察はこれらの情報から犯人は強盗犯と推測したにちがいない。どうせ犯人は捕まらないのだから、警察に連絡したところで無駄に終わるだろう。それなら、雅也の言うことは理にかなっているように思う。ただ、それがどういう結果を生むのかは予想もできない。
森の入口を抜け、二度同じ間違いをしないよう慎重に目的の川を目指した。迷わないように事前に目印を付けておいたことが功を奏し、難なくたどり着くことができた。
先ほどと変わらない川が目の前に広がった。顔を上げると時化空が露わになり、鬱塞とした気分になる。
僕は川の中に足を踏み入れた。
すると、雅也は僕の手を握りしめてきた。顔を向けると、雅也は今にも泣き出しそうだった。
鬱蒼とした木々がざわめき始め、川の流れが逆になり、視界がぼやけ出したのだ。そして体を器とし、細胞がふるいにかけられている感覚に陥る。
薄く黄色い光が空から降り注ぐ。それは肌に突き刺すように熱く、ひりひりと痛む。そして時折吹く風や太陽を遮る入道雲はまるで処方箋のように感じる。
結果、同じ道を二往復したため、精神的に参ってしまった。祖母を助けるという大義名分を立てたが、ほんの少しだけ面倒くさいという邪な感情が芽生えていることも事実だ。それでも祖父母の築いた家を目の前にすると恍惚としてしまった。
「どうする、すでに強盗がいたら厄介だぞ」と僕は雅也の顔に近づけて言う。
「もう、心配症だなあ。裏口から入って様子をみようよ」
動揺している僕をよそに雅也からは不安が微塵も感じられなかった。この度胸には理屈抜きで羨ましく思う。そして判断力も感心させられる。その判断が正しいのかはわからないが、時々嫉妬してしまう。
勝手口から足を踏み入れた。運よく誰もおらず、気配すら感じられない。雅也はわざとらしく忍び足を決め込む。
「どうする、中の様子確認してこようかな」小声で雅也に耳打ちする。
「もう少し様子を見た方がいいんじゃない。下手に動くとこっちが殺されちゃうよ」
「その方がいいかもな、じゃあもう少しここで様子をみよう」
「ねえ、それより勝手口の戸を閉めた方がいいんじゃない」
「閉めてこいよ、お前の方が近いだろ」
「いやだ、兄ちゃんが行けよ。最後に触ったのはそっちだろ」雅也は目線を逸らし、唇を尖らせている。むきになっている証拠だ。
「じゃあ、そっち見張ってろよ」と僕は雅也に指示し、四つん這いの姿勢で、勝手口に向かう。なめらかに戸は動かず、傾いた状態のまま無理やり閉めることになった。結果、ガンッと、音が響く。
すると雅也は人差し指を唇にあて「しー、うるさいよ」といった。
文句言うならお前が閉めたらいいだろう、という言葉はひとまず胸の中にしまうことにした。
再度、四つん這いの姿勢で土間の中を進む。かっこ悪い姿勢だが、今は気にしている場合ではない。犯人を捕まえなければならないのだ。いや、捕まえなくても祖母が助かればそれだけでいい。自分に課せられた任務をまっとうすることが先決なのだ。
その時、背後で足音が聞こえた。
振り返ることができず、思わず呼吸を止め、体は硬直する。雅也逃げろという言葉を思い浮かべるが、あっ、うっ、というヘンテコな単語しか発せられない。
足音は徐々に近づいてくる。そして戸が開かれる音がした。
部屋にじりじりと足を踏み入れる気配を感じる。
目の前の雅也が突然泣き出した。むせぶのをこらえ、唇を噛みしめている。そしてせきを切ったように笑みをこぼした。
「あんたたち、こんなところでなにしてるんだい?」
聞き覚えのある声だった。そのさび声を聞くと、心の隅の方にしまった感情が沸き起こってくる。
振り返ると、頬を土で汚した祖母が立っていた。額からは汗が垂れ、泥だらけの手でそれを拭っている。
先ほどまで死んでいた人が生きている事実を信じられないが、そんなことどうでもよかった。祖母が目の前で立っているのだ。
「あれれ、二人ともなんで泣いているのさ」気が気でない様子で祖母は口にした。
次の瞬間、飛びつくように雅也は祖母に抱きついた。同じように僕も抱きつきたかったが、変なプライドがそれを邪魔した。祖母の懐かしい匂いがする。
「おばあちゃん、大丈夫? 怪我してない? 」
「変な子だねえ、ほら、この通り元気いっぱいだよ」そう言って腕にこぶを作る。
よかった、と雅也は無邪気に笑う。
「畑仕事が長引いちゃってねえ、今日は遊びに来てくれたのかい?」
祖母の問いに雅也と眼で合図を送る。祖母に入らぬ心配をさせぬよう十分に言葉を選ばなければならない。
「うん、夏休みだから遊びに来たんだ。どう驚いた?」わざとらしくならないように僕はいった。
「驚いたとも、二人の顔が見れて本当によかったよ。あんたたちは私の生き甲斐だからね」
くしゃくしゃなにして祖母は笑う。顔を引きつらせて僕も笑った。
「ところで、おばあちゃん、怪しい人見なかった?」
「うーん、怪しい人ねえ。強いて挙げるならあんたたちかな」顔をほころばせながら祖母は言う。
「冗談じゃないよ、こっちは心配してるんだよ」と雅也は口を尖らせる。
「ありがとう、でも本当に誰もいないし、見てもいないんだよ」
「でも……」という雅也は視線を落とす。
「もういいだろう、黙ってろよ」
「こら、ケンカはよしなさい。あんたはお兄ちゃんなんだから」諭すように祖母は言う。
雅也の肩を持つ祖母に恩をあだで返されたようで僅かに空しさが広がる。
「それより、今年収穫したトウモロコシがあるんだけど、食べるかい? 去年と違ってこれがまた甘いのよ」といって、袖をまくり上げて、下ごしらえをはじめた。
安穏とした空気が漂い始めた。やらなければならないことは山ほどあったが、それがなにかは思いつかなかい。祖母の懐かしい顔を見るたびに不思議な気持ちになる。そして同時に、背中から血を流した祖母が頭をかすめて心は揺れ乱れた。
その日、強盗は現れなかった。どうやら祖母は救われたらしい。僕らは未来を変えてしまったのだ。それでもいつ祖母が殺されるのか分からないため、気は落ち着かなかった。雅也と懸念していたことをあざ笑うかの如く、ありふれた時間は過ぎていった。
翌日、始発で帰ることになった。祖母は夜が明ける前から朝ごはんの支度をしてくれて、そのうえお小遣いをくれた。祖母は至れり尽くせりもてなしてくれた。
帰りの電車は始発ということもあり思いのほか空いていた。雅也の口数も少なく、互いに黙考していた。
家に着くまで雅也は僕の手を握っていた。汗ばみ方や不意に強く握ることで、雅也の緊張の度合いを手に取るようにわかった。
「このことは内緒だよね」玄関の前で立ち止まり雅也は人差し指を唇にあてる。
「ああ、誰も信じてくれるわけないし、話すだけ無駄だからな」
「二人だけの秘密だね」ニヤッと雅也は笑みをこぼした。
「バカ、なにおもしろがってるんだよ」
「ごめんなさい、だけど僕たちはおばあちゃんを助けたんだよね」
ああ、と僕は頷いて玄関の扉を開けた。
「ただいま、帰ったよ」と雅也は元気よく家の中に入った。だが、返答はない。
雅也に続いて、家の中に入る。家の中は閑散としていた。風に揺れる風鈴の音がやかましく感じる。
「まだ寝てるのかな?」と雅也は不安げな顔を浮かべる。
「そんなわけないだろ。もう昼過ぎだぞ」
「誰もいないの?」と雅也は問いかけながら進む。しかし反応はない。
リビングの真ん中に位置するソファーに荷物を下ろした。雅也は無造作に荷物を投げて、両親を探している。
「二階から何か聞こえない?」同意を求めるように雅也は尋ねてきた。
耳を傾けると、かすかに話し声が聞こえる。
不意に雅也は僕の手を掴んだ。そして巻きつくように僕の腕にしがみ付く。
出来るだけ音が鳴らないように階段を上った。二階に上がってすぐ物置同然の空き部屋が設けられており、その向かいに僕らの部屋がある。そしてその奥に両親の寝室はあった。
母親は寝室のドアに背を付け座っていた。
「お母さん、どうしたの?」雅也は不安げに尋ねる。
数秒の間があり母親は立ち上がった。気が動転しているらしく足元はふらついている。お母さん、と雅也は再度問うが返答はない。
寝室からは父親の話声が聞こえてきた。どうやら母親はそこに耳を傾けているようだ。
「あっちに行ってなさい」母親は目線を合わせずに声のトーンを抑え言う。
「でも……」と母に近づこうとする雅也の肩を掴み、僕は首を横に振る。仕方なく雅也は承諾した。
その時、ドアが開いた。顔をひきつらせた父親は首を横に振った。「殺された。おふくろが殺されたんだ」
空気は淀み、すべてのものが混沌としてゆく。
「何いってんの、おばあちゃんならさっきまで一緒にいたよ。ほら、一万円も貰ったんだ」
雅也は財布から、しわしわの千円札を取り出した。
「嘘でしょ、冗談でしょ」と父親のもとへ走る雅也を母親は両手を広げ制した。
父親は動揺を隠しながら実家に帰省するための準備を始めた。絶えずため息をついている。前回、祖母の訃報を聞いた時と同様、気が動転しているようだ。
一足先に父親だけ実家に向かい、僕らは翌日の朝に家を出た。道中、母親が祖母のあらましを話してくれた。しかしそれは無機質な言葉で「おばあちゃんが死んだのよ」という単純なものだった。
陰惨な事件に集落全体が沈んでいるように思えた。反面、白々しく様子をうかがいにくる野次馬や自慢げに噂を広める者で賑わっている。悲しみが土の中にまでしみ込み、手入れの行き届いた庭は哀愁が漂っていた。
父親は右往左往し、祖父はうなだれているように見えた。
祖母の鼻の穴には白い綿が詰まっていた。けれど全く苦しそうな顔をしておらず、いつものように笑っているようにも見えた。
「おばあちゃんの体には触るなよ」と事前に母に言われていた。それでなくとも生臭い悪臭が鼻をつきそそくさとその場を離れた。
「もう解剖したのかな?」誰もいないことを確認して雅也は尋ねる。
「しないらしいぞ、じいちゃんが断ったんだってさ。と言っても、前回殺された時の情報だけどな」
「へえ、そうなんだ。でもなんで解剖しないの?」
「知らないよ、それなりの事情があるんだろ」
「そうかもしれないけど、おばあちゃんは殺されたんだよ。ちゃんと調べた方が犯人もすぐに見つけられると思うけどな」
「確かにそうだけど、背中にナイフが刺さってたんなら、そこまで調べなくても判るんじゃないの。検視くらいでさ」
「でも、なんか怪しくない」雅也は訝しげな顔を浮かべる。
うなじの辺りをボリボリ掻きながら、「何が怪しいんだよ」と僕は尋ね返した。
「もしかしたらさ…………おじいちゃんが殺ったんじゃないの」
と雅也は言い、てへっ、と舌を出した。なんちゃって、で済まされるわけがない。
周りの大人は未だに連絡の取れていない親戚に連絡したり、葬儀屋と共に枕飾りを手伝っている。祖母を葬る儀式は整いつつある。前回の経験を踏まえてそれっぽくなっていることはなんとなく分かった。
「そんな根拠のないこと言うなよ、罰が当たるぞ」と僕は雅也を叱った。
すると雅也は祖父の方を一見した。祖父は相変わらず祖母の横で泣いている。そして雅也の顔が綻んでいくのが窺えた。
「冗談だよ、冗談。おじいちゃんとおばあちゃん仲良かったもんね」
ゆっくりと僕は頷いた。そして口を開く。「おばあちゃんを甦らせにいかないか」
「うん、うん」と雅也は二回頷いた。
川に向かい、同じように時間を操作した。ある程度は時間をコントロールすることができるようになった。正確ではないが、時間を遡らせるために必要な条件を見つけたのだ。
川岸から足を踏み入れ奥に行くほど、比例するように時間が早く流れること。
太陽の位置や川の流れの速さで経過した時間を把握できること。
この他にも、まだ条件があるかもしれないが、今はこれくらいしかわからない。上流や下流に、何らかの仕掛けがあるかもしれないし、それを確認する余裕はまだないのだ。
それでもまだあの川に足を踏み入れるたびに慄いてしまう。震えが止まらない。
一方、雅也は楽しんでいるよう思う。恐怖からくる好奇心にとりこになってしまったのかもしれない。
祖母の左肩を鷲づかみし、もう一方の手に握りしめたナイフで背中を一突きした。崩れるように祖母は倒れ、ハスキーな悲鳴を上げる。犯人は慌てた様子もなく部屋を荒し、窓を開け、逃走した。
犯行現場になるであろう部屋の押し入れから、一部始終目撃することになった。タイミングを見計らって、飛び出すつもりだったが、足がすくんで何も出来ずにいた。
犯人は強盗ではなかった。祖父だった。
リバーズ
この作品は四年前に書いた物です。
二章に続きます。