雷獣

私は旧知の元へ向けて歩いていた。
私の身寄りは全て死に絶え、
また私に職の世話をしてくれることになっていた友人達も片端から死んでしまって、
残る頼りはその旧知ただ一人のようである。
いきなり押しかけて、門前払いを食らっても何でも構わない、
とにかく頭を下げて、職を紹介してもらえるまで食い下がろうと、私は悲壮な決意で先を急いだ。
すでに幾つもの磯を伝い、峠を越えて歩いたけれども、旧知の元はまだまだずっと先らしかった。

ある日、私は何もない平坦な野原の一本道を黙々と進んでいた。
空が恐ろしく晴れていて、雲ひとつない中を、鳶とも鷲ともつかない鳥が、大きく円を描いて飛んでいた。
野原は、遠くに連綿と繋がる山脈を抱いていた。
連なる山の中には、頂きに雪をかぶっているものもあったし、またそうでないものもあった。
雪をかぶっていない山はどれも貧相で、なんだか肩を狭めて遠慮しているように見えた。
また、かぶっている山はそれに比べれば堂々としているようだけれど、一方で虚勢を張って懸命に自分の弱みを押し隠しているようにも見えた。
それらの山は一様に、風が吹くと身を縮こまらせておうおうと鳴いた。私はその鳴き声に向かって歩いた。

そのうちに、日が傾いて、山の向こうへ落ち出した。
すると真っ直ぐだった野原の一本道が急に右へ大きく曲がって、小さな村へ出た。
人気のない暗い道の所々に家の明かりが流れて、それが池の水面のように揺れている。
その明かりを踏み伝って歩いていると、獣の絞め殺される甲高い声が、不意に遠くから響いてくるように思われた。
私はぎくりと立ち止まって耳を済ませたけれど、声はそれぎり止んでしまった。
人間の声のようにも聞こえたがよく分からない。とにかく遠くであった。

私はその村のはずれの屋敷に宿を取った。
外から見ると、山小屋のような貧相なたたずまいであったけれども、中へ入ると土間が十畳、奥の居間は二十畳もあった。
屋敷には古ぼけた亭主が一人で住んでいた。
私が土間へ立って宿を請うと、奥から愛想よく揉み手をして出てきて、
「ささ、こちらへ、どうぞこちらへ」
と、土間から居間へ上がる、その縁に私を座らせた。
そうしていそいそと居間の奥へ立って、何やら支度を始めた。
しばらくすると、汁の煮える音と、旨そうな匂いが漂ってきた。
奥を見ると、居間のちょうど真中の囲炉裏に、肉や野菜の山ほど乗った大きな鍋が、白い湯気を立てていた。
「さてさて、どうですかどうですか」
と亭主が愛想笑いを浮かべながら戻ってきて、私の隣に座り込んだ。
私はほくほくした気持ちで亭主に微笑んだ。
「すみませんね」
「いえいえ、さてね、どうですか、まあ」
亭主は愛想笑いを保ったまま、揉み手をしたり、その手を時折ぱん、と叩いたりした。
そうして私の隣にいつまでも座っていた。

私は鍋の匂いを嗅ぐうちに腹が減ってきたのだけれど、亭主はなかなか上がれと言ってくれない。
囲炉裏を見ると鍋はちょうど頃合に差し掛かった辺りで、薄く茶色に染まった肉と、しんなり柔らかくなった野菜とが何とも言えずに旨そうであった。
私は少しいらいらしながら、
「それにしても今日は寒いですね」
と促す気持ちを込めて言ってみた。すると亭主は、
「いやさ、私は今日一日、家の中に引っ込んでいましたからね、まあそれほどでもないですよ」
と頓珍漢なことを言った。
私は何て愚鈍な男なのだろうと腹が立ってきたが、あんまり強く要求すると亭主がかえって臍を曲げるかも知れないと考えて、どうにか我慢した。

そのうちに鍋は頃合になって、いよいよ旨そうな音と匂いが、私の空っぽの腹に木霊し出した。
もしかすると亭主は鍋のことを忘れているのかも知れない、私はそう案じて、
「いい匂いだな」
と思い切って言ってみた。
けれども亭主は聞こえたのか聞こえていないのか、判然としない態度で、へえ、と生返事をしたきり、こちらを見てにやにやしながら、しきりに手を揉むばかりである。
何かこちらがするのを待っているのか知ら、そう思いを巡らせるうち、心づけか、と思い当たって、私は懐に手を入れようとした。
すると亭主がこの時だけ恐ろしく素早い動きで入れかけた私の手を押さえ、
「いえいえ、お代は一切頂きません」
と、驚いたような、恐縮したような様子で言った。
私はますます訳が分からなくなって、どうしたものか頭を回転させた。
そうしているうちに鍋は頃合を過ぎ始め、肉は硬くなり出し、野菜もしなり切ってぐずぐずになり出していくのがありありと分かった。
今すぐにでも食べなければ全部駄目になってしまう、と私は泣きたいような気持ちになって亭主の顔を見た。
どうすれば居間へ上がって鍋を食わせてもらえるのか、考えようと思っても、気ばかり焦ってちっとも頭が働かない。
取り立てた他意もない様子で愛想笑いを浮かべ、手を揉んでいる亭主の顔が、腹立たしくもあり、また恨めしくもあった。

やがて亭主は、
「いやさ、そういえば」
と独り言を言って立ち上がると、居間を横切って奥の勝手口らしいところから外へ出て行った。
私は立ち上がり、居間の縁に手をかけて、伸び上がるように囲炉裏の鍋を覗いた。
鍋の中ではもう汁が半ば干上がって、肉も野菜も縮み切り、小さく固まってしまっている。
これではせっかく用意した鍋も台無しだ、私はそう思って居ても立ってもいられないのだけれど、言われてもいないのに勝手に上がりこんで鍋の様子を見に行っているところへ亭主が戻ってきたらどうしようと思うと、なかなか居間へ上がる踏ん切りがつかなかった。
私はじりじりした気持ちで亭主の帰りを待った。
亭主はなかなか戻らなかった。
時々しびれを切らして、これだけ長いこと帰らないのだからまだしばらくは戻らないだろうと思い切り、居間へ上がろうかとも思うのだけれど、そうすると何だか急に、今にも戻るような気がし出して、また思い止まった。

そんなことを繰り返すうちに夜がすっかり更けてきて、土間の底冷えがひどくなった。
外は雨が降り出したらしい。
さあさあと、木のさざめくような気配がひっきりなしに外を流れて、時折稲妻が音もなく屋敷の中を照らした。
私は上着にくるまって震えながら、詰まらないことになったと思った。
職を求めてただ一人の旧知を訪ねる途中、ようやく見つけた宿でこんな待遇を受けるのはただひたすらに詰まらない。
そう考えると、胸の奥に何とも言えない唐突な感情が込み上げた。

よし喰ってやる、私は斬って捨てるような勢いでそう考えると、土足のまま居間へ上がって、ずかずかと鍋に近づいた。
鍋はもう汁が完全に干からびて、煮え残った野菜の芯やかちかちに硬くなった肉の切れはしが真っ黒に焦げて底にへばりついているばかりである。
私は構わずそれらを毟り取っては口に放ってばりばりと噛み砕いた。
味も何も分からない。
ただひたすらに焦げた野菜を齧り、硬い肉を舐った。
そうしてたちまち平らげて、ほうと息をついて顔を上げると、いつの間に戻ったのか、亭主が私の向かいに座ってこちらを見ていた。
私は息を飲んでその場に凍りついた。
一体いつから見られていたのか分からない。
亭主の顔はさっきまでとは打って変わって何の表情も感情もなく、木偶か屍のようである。
私が鍋の中身を食べている間、その顔で身動きもなくずっと見つめられていたのかと思うと、冷たい手で背中を撫でられるような心地がした。
とにかく何か言わなければ、私はそう思って口を開きかけた。
その瞬間、ひと際強い稲光りが閃いて、真っ白な光が差し込み、屋敷の中を強烈に照らし出した。
途端に屋根をつんざくような雷が鳴ったので、私は声にならない叫びを上げて立ち上がった。
そうして、立ち上がったきり茫漠と震えるばかりで何もできなかった。
稲妻が立て続けに光り、銅鑼を打ち鳴らすように雷が鳴り散らした。
それに合わせて色のない亭主の目玉が電球のようにぴかぴかと明滅した。

雷獣

雷獣

職と鍋と雷について書かれた短い話。

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-04-09

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