傾国
私は靴作りの職人になるために、遠い故郷に妻と子を置いて修行へ出てきた。
そこで師匠に仕え、毎日一所懸命に靴底を張り替えたり、ミシンを使って皮を縫い合わせたりしていたけれど、いつの間にかそんな仕事は何もやらなくなって、画家になるという志を立てていた。そうして通りに椅子を置いて座り、日がな一日、手習いに道を行く人々の耳や鼻を描いて過ごした。
そのうちに見知らぬ女が近づいてきて、私の椅子の脇に紙幣を置いたから、似顔絵を描いてくれということか知らと思って、慌てて画板に画用紙を掛けてふと見たら、女はもういなかった。何も描かないのに代を貰うのも気分が悪いと思ったから紙幣はそのままにしたけれど、それからは耳を描いても鼻を描いても、油断をしたらその暗い穴の中からさっきの女がひょいと顔を出してまた新たな札を置いていきそうな気がして、どうにも落ち着かない。
私は筆を置き、膝の上に頬杖をついて女のことを考えた。気づかないうちに、いつか女の耳か鼻を描いたのかもしれない。私の方では耳か鼻しか見ていないから誰のものを描いたのか知らないけれど、女の方では描かれたことに気づいたのだろう。それだから女は、画代として私に金を持ってきたのであろう。そう考えれば合点のいかないことはないけれど、それにしては代が多すぎる。今度女が来たら、文句を言って返さなければらないと思って私は女が再び現れるのを待ち構えた。
そうしてろくろく筆も手につかず、通りの人に目を凝らして過ごすうち、私の気づかないうちに強い雨が降って、画板も画用紙も筆も、全て濡れてだめになってしまった。女の置いていった紙幣も、濡れ崩れて跡形もなく消えていた。そうなるとますます意地が出てきて、私はいっそう注意深く通りの中に女の姿を求めたけれど、女はいつまで経っても現れなかった。
そのうちに椅子がぐらぐらしてきて、はじめのうちは構うものかと思ったけれど、だんだんぐらつきがひどくなって、椅子全体が沈んでいくように感じられ出したので、さすがにおかしいと思って尻をどかしてのぞいてみたら、今まで椅子と思って座っていたのは、一緒くたに丸まって土気色になった妻と子であった。そうして妻と子の頭には、合わせればちょうど筆一本分になりそうな量の毛の、毟り取られている痕があった。
そこまできて、私にもようやく事の次第が飲み込めだした。
女は傾国の末裔だったのだ。
国の主をして堕落させ、全てのものを失わしめるという恐ろしいいきものの魔力に、私は触れてしまったらしい。恐ろしい傾国の力で、私は妻子も芸術も財産も、全てのものを失ってしまった。それでいて傾国は私に何ら構うことなく、また私から何の利益も楽しみも得ることなく、今頃私とは全く関係のない土地で飄々と暮らしているのだ。
私は自分の顔が音を立てて青ざめていくのがわかった。女に対する意地も執念も全てがいっぺんに消し飛んで、急いで立ち上がろうとしたけれど、足はすでに枯れ木のように痩せ衰えて、寸分も動かれなかった。私は泣き出しそうになりながら自分の足を見た。枯れ木のような足の周りには、ズボンも靴下もぼろぼろになって朽ち果て、跡には履いていた靴の、皮の切れ端が、わずかにこびりついているだけであった。
それを見ているうちに、自分は当初のまま大人しく師匠に仕えて靴職人になっていれば良かったのだと、その時になってようやくわかった。
傾国