透明な世界でふたり

 「おはようごさいます、博士。今日は西暦○年4月1日です。とてもよい天気で、空には雲ひとつありません。朝食の用意は出来てございます。食事中の音楽として××などいかがでしょうか?春の芽生えをゆったりとしたリズムで歌い上げた一曲でございます」
抑揚のついた音声で、ロボットの『H∧L』は博士を出迎えた。
「いいよ」
博士は穏やかに応じた。H∧Lの手をかりて席につき、博士は朝食のパンとコーヒーに手を伸ばした。
 若い頃の猛勉強と無理がたたったせいか、博士は目が見えない。そんな彼を補助するために、博士は自身の手でロボットのH∧Lを作り上げた。
博士自信の膨大な知識と、自ら学習するAIを搭載したとはいえ、H∧Lは当初博士の望むこととはかけ離れたことばりしていた。
朝食の準備をお願いすれば、人類のあらゆる時代の朝食の変遷を語り始め、季節の移ろいを尋ねても、常に同じだと発した。
「申し訳ありません」
博士から間違いを指摘される度にH∧Lはそう発した。
「いいよ」
その度に博士はそう応じた。

 博士の趣味は読書と音楽を聴くことだった。内容は哲学から娯楽まで幅広かったが、特に博士のお気に入りなのは季節の移ろいを題材にしたものだった。
読書は、目の見えない博士に代わってH∧Lが読み上げた。音楽は博士のリクエストに応じてH∧Lが選曲することもあったし、H∧L自身がピックアップすることもあった。最近は、H∧Lの選曲する曲を聴くことの方が多くなっていた。
本にしろ、歌にしろ、H∧Lが発すると博士の頭のなかにはその場面場面がすでに失ってしまった色彩を伴って再生された。それが時々どうしようもなく博士の胸を掻き乱した。喪失した色への渇望を呼び起こした。
 この日の朗読は色鮮やかな蝶たちが、青空のもと自由を謳歌するという幻想的な文学だった。
「博士、いかがでしたか。H∧Lはこのまま次の朗読に移行してもよろしいでしょうか」
H∧Lが問いかける。
「いいよ」そう答えねば。
 
 だが、博士はぐっと口を結んだ。いつもの答えではなく、博士は別の答えを口にした。
「H∧Lよ。わたしのH∧Lよ。どうかわたしの目を治してほしい。かつてのように赤を、青を、黄を、緑を、白を捉えて離さなかった頃のようにもどしてほしい」
初めての反応に、H∧Lは瞬間固まった。しかしH∧Lはかつての『H∧L』ではない。学習し、賢くなった。大切で、愛しい博士を傷つけない最適な答えを導きだし、発した。
「申し訳ございません。H∧Lには出来かねます」
思いがけない返答に博士は息をのんだ。
「H∧Lよ。それがおまえの導いた答えなのだね」
「はい。博士。H∧Lには博士の目に再び色を添えることは出来かねます」少しの沈黙。そして、H∧Lは発した。「申し訳ございません」
「いいよ」
博士は柔らかく微笑んでそう応じた。皺の刻まれた目尻には透明の涙がにじんでいた。

 




 H∧Lは思う。博士の焦がれる『色』とはどのようなものだろうかと。それを知る術はもはや書斎のなかに埋もれる書物のなかにしかない。文章のなかに記された『色』というものの記述を頼りに、H∧Lは歌を歌い上げる。本を朗読する。
 もうこの世界に『色』はない。厚い雲が塞ぎ、地上に光は刺さず、緑は姿を消し、はるか昔に蝶たちは消し炭となって消えた。
 博士の焦がれる『色』は、もう、この世界には存在しない。それでもH∧Lは今日も歌う。『色』に溢れたかつての世界を、歌う。

透明な世界でふたり

透明な世界でふたり

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-25

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