太郎とジュリエット

・第一章 

 世界で一番偉い人というのをご存知であろうか?
 そのやんごとなきお方は代々不可思議の能力とカリスマを受け継ぎ人類を裏で支配している。数世代に渡って磨き上げられた権能は他の追随を許さず、指先一つで世界を動かす。二度に渡る世界大戦の折にも各国の首脳を人形のように動かし、何かと血に彩られた近代史を、冷戦という膠着状態まで持っていったのは、かのお人の力によるところが大きいそうな。
 「それが我だ。どうだすごかろう」
 と件の世界で一番偉いと自称する少女が言った。
 少女を中心として謁見の間は亡羊たる闇に覆われ、ランタンの光がかろうじて闇の侵食を防いでいた。
 んな、馬鹿な。民主主義が徹底したこの世において、そんな絶対君主が存在する余地がどこにあるというのか――
 と言い返したかったが、残念ながら俺は一言も発言することは出来なかった。
 何しろ、今の俺は手足縛られて、黒く磨き上げられた冷たい床の上に放置されている状態にある。対して世界で一番偉い少女、彼女は壇上に据えられた豪華な椅子の上から芋虫となった俺を見下ろしていた。
 ゴシックなドレスに身を包んだ彼女は、金髪碧眼のお人形のようだ。陶器のような肌に可憐な唇、そして流れるような長い髪の毛。←ここ個人的にポイント高い。
 雑誌の表紙を飾ってもおかしくないような可愛らしさであるが、その眼差しは見つめられた者を威圧すような迫力があった。

 「そ、そうなんだ……」
 その峻烈なまなざしに耐えながら、俺は喉の奥から蚊のなくような声でかろうじて返答する。
 「ほう……」と世界で一番偉い彼女は感心したような笑みを浮かべながら、手元に置かれてある地球儀を軽く撫でた。
 「我のまなざしを受けて声をあげるとは、胆力はまずまずじゃの」
 と少女は満足そうに笑った。
 さすがこの世の最高権力者、笑い方も上から目線だ。
 というか、ここは一体何処なのか……縛られている体を無理に捻って頭をめぐらすと、自分の背後にも同じように闇が広がっている。
 この闇はどこかに繋がっているのか、それともただ無限の闇が広がっているだけなのだろうか? 無理矢理ここに連れ去られた俺の運命のように、その行き先は果てが知れなかった。
 「そう構えるな、ここは私のプライベートスペースじゃ。ここなら外からの雑音に悩まされることなく話をすることが出来るのでな」
 「で、その最高権力者が、一介の学生である俺に一体何の用事が……?」
 何しろ、学校の下校中に唐突に連れ去られ、何処とも知れない場所に拘束されているわけだから、俺はお白州につれてこられた罪人のように神妙にしているほか無い。
 そして、先ほどの意味不明の説明である。逆らってはいけない相手だと判断してとにかく下手に出ることにした。
 「最高権力者ではない、我は人類の最高責任者じゃ」
 少女は、やや誇らしげに答えた。
 「我は人類に関係するあらゆる運命に責任を持っている。責任をもつということは、全ての結果を背負う覚悟を持つことじゃ。ゆえに我は尊ばれ、唯一無二の聖上として多くの者に傅かれている。そなたを無理矢理さらってきたのは悪かったが、氏素性の分からぬ輩と二人っきりで対面するとなれば、側近どもからも反対があっての。煩雑ではあるが、我を慕う忠義の者たちからの言上であれば無碍にも出来ぬ。ゆえにやむおえず縛らせてもらったというわけじゃ、理解したか?」
 「…………」
 一応は筋道がたった説明だが、あまりの突飛な内容のため脳が理解を拒否していた。この沈黙はそのためである。
 「そう睨むな。私と対面したということは、これでそなたもお目見えじゃぞ、少しは社会に対して箔がつく。役得じゃな」
 「はあ……なんか、昔の旗本みたいですね……」
 今だ社会と没交渉である学生の身で箔をつけてどうなろうと言うのか……と思ったが、そういうことは言わないようにしよう。
 「少し話をするだけじゃ。五体満足で返してやるから安心するがよいぞ」
 初めてここに連れて来られた時は肝を冷やしたが、どうやらとって喰われる心配はなさそうだ。
 「分かりました。お話承ります」
 とにもかくにも、主導権は相手が握っている。騒いだところで、事態が好転するでもなし、ここは相手に従っておくことにした。
 もっともそうする以外には、俺にはなにもできなかったけど。
 
 「人類の危機である」
 いきなり話が大きくなり、俺はあっけに取られた。
 「その危機を説明するためには、そもそも人とは何か――その定義をはっきりさせねばなるまい。人と猿を分かつものとは何か?」
 「えっと……言葉を喋ること?」
 「DNAじゃ」
 ずいぶんと味気ない答えだ。もうちょっと哲学的な問答を予想してたのに。
 「人という種は、猿を起源とし、科学を進歩させ文明を築き上げた。しかし、現代に至って文明の発展はない。政治も経済も文芸もただ拡大再生産を繰り返すのみ。ハムスターの回し車のように、一歩も進まず、進展もなく、その労力はただ無意味な生産と消費を積み重ねるに止まっている」
 世界一偉い少女は背中に八尋の闇を背負いながら、唐突な文明停滞論を展開した。背後の闇と相まってなかなかの説得力を演出している。
 「もはや人の可能性は尽きた。その常識は空気として巷間に広がり、人々は希望を見出せずにいる。今や人類は停滞しているのだ。そのうち新しい人類が生まれて、人類の覇権は次代の人間にとって代わられるだろう。ネアンデルタール人がクロマニヨン人に駆逐されたように。人類の責任者である我がもっとも危惧すべき問題はそれじゃ」
 と言って、少女は言葉を切って遠くを眺めた。
 「んで……その話と俺が何の関係が?」
 「そして現代、遂に新しい人類が生まれた。その人の名を喜連戸鴇子という」
 「あー……」
 その名が出てようやく話がつかめてきた。
 喜連戸鴇子(きれどときこ)――因縁深きその名前。
 俺の幼なじみ……いや、はっきり言ってしまえば天敵である。
 「喜連戸鴇子、彼女は人類の新種である。このまま彼女の跳梁を放置すれば人類は恐るべき勢いでその覇権を脅かされ、ついに地球上から駆逐されるであろう」
 「たかが女一人におおげさな」
 「女一人と侮るなかれ」
 そう叫んで少女は手元の地球儀をからりと回し始めた。
 「堅牢な城も蟻の一匹で崩壊することもある。すでに新種の萌芽は現われているのだ。跳ねっ返りの革命勢力が体制側に押さえつけられるのは世の習いなれど、硬直化した体制が新勢力にとって代わられるのもまた世の趨勢。今は微力でも時を得れば大波のごとく襲い掛かり、旧人類を打倒せしめるであろう」
 ぴたっと回り続ける地球儀をとめて、少女は俺に向き直った。
 「新種が突然変異として、淘汰されるか、それとも種を残し大地を我が色に染めるかはこれからにかかっている。断じて遺漏はならぬ。新しいワインを新しい皮袋に入れてはならぬのじゃ」
 世界で一番偉い少女の説明を聞きながら、俺の脳裏には鴇子の整いすぎた顔が浮かんですぐに消えた。
 俺とて彼女が只者ではないことくらいはわかっている。だが、それはあくまで学生レベルの話であって、人類を駆逐するほどの傑物とはとても思えない。
 「そこで話はそなたに戻る。話というのはそなたに鴇子を制して欲しいのじゃ」
 「俺に?」
 じろりと睨むその笑顔にとてつもなく禍々しくものを感じ、俺はとっさに身構えようとしたが、体が縛られていたので何も出来なかった。
 「いかにも、一言でいえば鴇子とつがいになって欲しい」
 「はあ??」
 予感的中、嫌な予感というのはどうしてこう当たるのか。
 「そなたの血の濃さをもってその新種の血統を圧倒し、一代の突然変異として終わらせる。かつて不妊性の新種と交配させることによって、沖縄はウミリバエを駆逐した歴史があるが、それを踏襲しようというわけじゃ。人類の可能性を残すにはその方法しかあるまい」
 「ちょっ! ちょっと待ってくれ!」
 いきなりの話の展開に頭がついていかなかった。
 番うって要するに、結婚して夫婦になれということだよな。
 「なんじゃ? 鴇子が相手では不服なのか?」
 「大いに不服だ! いくら金を積まれたってごめんだね」
 「では五本でどうじゃ」
 この世の最高責任者という貴顕のわりには、意外と俗な言い回しをしっているなと思いつつ、俺は首をかしげた。
 「五万円?」
 「五〇〇億じゃ」
 「おっ……!!」
 あまりの金額を聞いて、俺はとっさにパワーストーンの広告に出てくるような札束風呂を思い出した。『惨めな人生を送っていた僕がこの石で人生が一変しました。宝くじもあたり合コンでも女の子にモテモテ、おかげでウハウハ(死語)の毎日です』というアレだ。もっと俺の場合は順序が逆だが。
 「断る!」
 ぐらつきかけた精神の天秤をとっさに均衡へと持っていく。
 鴇子と結ばれる――すなわち彼女を受け入れることに他ならない。
 そんな未来は絶対にありえない。断じてありえないのだ!
 
 「ふむ……」
 少女はしばし考え込んだが、やがてこちらを向き直り顔を至近距離にまで近づける。
 普段こんな距離にまで女子が近づいたことのない人生を送っているため、少し照れくさく思った瞬間、その瞳が強烈な瞬きを放った。
 「至上にして唯一、聖上なる人類の長たる我が命をもって、汝に命ずる」
 「……!!」
 彼女から発する言葉の絶対的な重みを感じて、俺は震えた
 「汝、喜連戸鴇子と番いめおとの契りを交わすべし、これは天命である! 我、特に輸す!」
 「んっ!!」
 肝が震えた。
 心に響く強烈な言霊、それは俺の最も深い部分を直撃し、そうすることが絶対の真理であるかのように俺に語りかける。
 「承知せよ! そなたが我が命にあがなうすべは無い!」
 「ぐぐっ……」
 凄まじい眼力だった。睨み続ける瞳を反らすことさえ出来ない。
 心の奥を鷲づかみにされたかのような、圧倒的な力が俺を捻じ伏せようとする。
 だが、俺は懸命にその流れに逆らった。
 「やだ……絶対に、嫌だね……」
 「くっ……」
 何度も何度も心の中で、嫌だと念じる。
 必死に抗命するが、俺の精神は荒ぶる川に浮かぶ木の葉のように翻弄されいく。
 くそ……このままでは……もう……
 もう限界だ。俺の運命はここで決するのか。
 この歳にして結婚とか、学生の身でそんな重苦しい人生は嫌だ、しかも相手が鴇子だなんて、絶対に小遣いくれないぞあいつ……
 「はあ……はあ……」
 と色々思っている間に、眼力は緩んでいた。
 「はあ……なんという奴じゃ……」
 それと同時に、俺は捉えられていた力から開放され、まるで憑き物が落ちたかのように体が軽くなる。
 「我の眼力に耐えるとは……そなた、よほどの頑固者じゃのう、いや違う……我の眼力では制しえぬ何かが託されていると見るべきか……」
 少女の眼の力もどうやら相当消耗するらしく、かなり疲れている様子だ。何やらワケの解らぬことをブツブツと呟いている。
 それにしても恐ろしい……危うく自分の意思をねじ伏せられるところだった。これがカリスマの力というものか。世界で一番偉いというその権能も、まんざら嘘でもないかもしれない。
 「金も脅しもダメか、ならばそなたは何も望む?」
 「何も望まないよ。世界で一番偉いか知らないが、俺と彼女の因縁に誰も関わって欲しくは無い、頼むから放っといてくれ!」
 これは偽ることなき本心だった。


 『そこにある花を摘んでもらえるかしら?』
 一人の少女がそう言った。
 頑是ない子供だったころのお話。
 俺と彼女がまだいがみ合う前の頃。
 いつもの中庭で遊んでいた俺に、鴇子はそう問いかけた。
 ここは喜連戸家の庭先。山の裾野に広がる庭の一角にある蹲踞(つくばい)の近くには桔梗が咲いていた。自分を主張するこなく控えめに咲く薄い紫の星型の花弁。
 一輪のまま、ひっそりと野に咲き。存在を主張しない控えめな花の態度が、孤独を感じさせる。そんな花を俺は手折ることができなかった。
 このまま無造作に子供の慰みにするには、罰があたりそうな予感がする。それは神社の狛犬や、路傍にある苔むしたお地蔵様に抱く畏れにも似ている。
 時に自然の造形物は、神さびた印象を人に与える。自然にあるものは、あるがままでないといけないのではないか? 幼いながらに、俺はそう思った。
 だが、彼女はそうは思わなかった。彼女は首を少しかしげて、
 『えい』
 と可愛い声と一緒に桔梗を手折る。
 それはもう―無造作に、無遠慮に、無定見的に。自侭に振舞う彼女を止められる人間は誰もいない。彼女は桔梗を髪に指して、くるりと振り返る。彼女の着ている水色の小袖が舞うように揺れた。
 『似合うでしょ?』
 不思議なことに彼女の髪に花を刺した途端、桔梗の薄い紫が鮮やかな色彩を帯びた。
 その現象をどういえばいいのだろう。
 自然と振舞う彼女に、ただ圧倒されて、俺は黙って彼女の顔を見つめたまま、何も言えずにいた。
 『どうしたの?』
 彼女は不思議そうに俺に尋ねてくる。
 その声には、罪悪感などこれっぽちもなかった。
 
 思えば、それが鴇子が俺に反感をもったきかっけなのかもしれない。
 花を摘み、自分を飾りたてる。そんな行為をいとも容易く行なう彼女に、俺は同意するのを避けたかった。彼女は美しい花を、自分のために消費した。
 女王のように、何の躊躇もなく、罪を顧みることもなく、おそらく今も感じてないだろうし、将来永劫、路傍の草花を思い出すことのない人生を生きるのだろう。
 その少女の名前は喜連戸鴇子という。
 
 喜連戸鴇子、二月二十一日生まれ、うお座のAB型。茶道部所属、成績は非常に良好。
 ふった男は星の数ほど、ふざけたことにふった女も二、三人くらいはいるらしいと風の噂で聞いた。
 才色兼備を絵に描いたような少女……いや、あまり認めたくないが確かに美少女である。だが、どんなに顔かたちが整っていようとも、性格に難があっては真の乙女とは言えない。
 
 学園での彼女の評判はすこぶる良く、男女年齢の別を問わず絶大なる人気を博している。常に他人から自分がどう見られているかを把握し、生来の卓越した洞察力をもって、先回りして相手の望むものを与える。休んでいる人間のためにノートをとってあげたり、学校の行事にも率先して参加する。教師の手伝いは自から進んで名乗りでて、重そうな資料もって教師と一緒に連れ立って歩く姿を、何度か見かけたこともあった。
 だが、そんな世上の評判は全て鴇子の本質を隠す仮面にすぎない。篤志に見えて酷薄、温厚に見えて陰湿。人は皆、彼女の性格を褒めるが、俺はこの十年以上の付き合いで、鴇子の慈悲に触れたことは一度たりともなかった。それどころか、鴇子はその類まれなる洞察力をひたすら俺を苛め抜くことのみ使用していた。
 そんな関係が幼い頃から続いてみれば、その関係も推して知るべしだ。
  
 鴇子の家は代々続いた老舗の「和菓子司 郎月庵」の一人娘である。俺の父親はかつて鴇子の親父の兄弟子であり共に和菓子の腕を磨いた関係だ。数十年ほど前、「郎月庵」の先代が病に倒れたした折、跡目相続の問題がたち上がった。
 通常なら先代の息子が跡を継ぐべきところだが、地道な和菓子作りに背を向け銀行員になってしまったため、弟子の中から跡を継ぐべき人間を選ばなければならない。
 多数の弟子から候補に挙がったのは、腕はいまひとつだが人当たりの良い鴇子の父親と、頑固で融通がきかないが腕は確かな俺の親父。
 和菓子の腕を考えれば、当然俺の親父に軍配が上がると周囲は考えた。だが、熟考した先代は和菓子一筋の親父よりも、商才のある鴇子の父親のほうを選んだのである。
 これからの時代を生き抜くためには、頑固一徹の和菓子職人よりも、才覚高い人間が必要だと考えたのだろう。
 先代は人を見る眼はあったようで、手軽に買える和風スイーツにパッケージングしてからというもの「郎月庵」のブランドはさらに飛躍し、日本各地のデパートにも出品する盛況ぶりだ。反対に独り立ちした親父の店は手作りの少数生産を続け、通好みの評価を得るに至っている。
 そんなわけで、俺の親父と鴇子の父親は水と油、仲良く腕を磨いた美しき修行時代は今や昔の物語。
 先代の法事や修行仲間の祝いの席などで、顔をあわす機会があれば、互いに金の亡者、旧態依然と反目しあう仲であるため、周囲も気を使って席を離しているほどだった。
 
 以上で俺と鴇子の複雑な立場はご理解いただけたと思う。
 商売敵の和菓子屋に生まれた幼なじみ。
 これがシェイクスピアならロミオとジュリエットの悲劇が幕をあけるところだが、運命の女神が文学的な修辞技巧をこらす前から、俺の鴇子の因縁を綾なす糸はゴルディオスの結び目の如く絡みに絡まり、もはや一刀両断するより他に方法はない。
 親の因果が子に報いというわけではないが、俺と鴇子もその因縁をきっちり引き継いでしまっているのが今の現況だ。あまり健全な関係とは思えないが、ここに至っては時を戻すことも出来なかった。
 とにかく、父親譲りの計算高さと、母親譲りの美貌を兼ね備えた彼女は学校では無敵だった。教師もクラスメイトも鴇子の善性を露ほども疑わない。鴇子の発言は常に真であり、異を唱える俺は教室の片隅へと追いやられた。
 小学校時代は教師にあらぬ嫌疑をかけられ、中学校では女子からも評判が悪く、おかげで高校でも乾いた青春を送っている。女にやられっぱなしでは男が立たぬと、上履きにマヨネーズを詰めたり、教室の机の中に毛虫をぎっしり詰め込んだり、時には自転車のサドルに瞬間接着剤を塗りたくった。
 断じて言うがこれはいじめではない。男子の面目を施すためのやむにやまれぬ義挙である。男が行動するときはつねに正々堂々と行動しなければならない。己の半生を和菓子に捧げた、職人気質の父親から、俺はそう教えられた。父の教えに間違いはあるまい。男子天道にそむくなかれ。お天道様が常に見ているのであれば、俺の正義はいつか証明される。ゆえに、正々堂々と名乗り出ることで忠実に教えを守った。
 が、結果はならず者の烙印を押され、周囲の信用をなくし続けている。特に女子に対しての評判は、年を重ねるごとに暴落の一途を辿っていた。
 やり返し、やり返され、正義である俺の側が一方的にダメージと憎しみを蓄積していく。歴史が教えるとおりその哀しきブルースは加速してゆくのみであったかに見えた。
 
 
 「ここ半年ほど、そなたと鴇子は言葉も交わしておらんそうじゃの」
 「それはまあ……」
 正確に言えば七ヶ月と一週間である。
 しかもその時の七ヶ月前の会話というのは、日直であった鴇子が先生からの言伝を伝えただけなので、これは会話というよりただの連絡だ。
 鴇子とは幼稚園からの付き合いだが、これほど長期間会話を交わさなかった時期は無い。小学六年の頃に鴇子が一週間ほど家族旅行に出かけたことがあったが、今はその二十九倍である。
 同じ学園で同じクラスなのだから、旅行と違い、距離の問題は無いに等しい。
 
 なのに俺も鴇子も互いの距離を測るのみで近づこうともしない。その理由は容易に推察することができた。
 要するにうんざりしてきているのだ、俺も鴇子も。高校生にもなってどうして子どもじみた応酬を続けなければならないのか。かといって、鴇子に親しげに近づきこれまでの因縁を水に流して仲良くやろうと手打ちにするほど、俺は人間ができていない。
 俺と鴇子は水と油どころか、信管とダイナマイトである。対立と言う意味では相性が良すぎた。接触すればまた何らかの火花が散ることは自明の理だ。
 であるから、互いを傷つける不毛に気づいた俺達が出来ることは無視するしか方法は無い。しかし、完全に無視できるほどお互いが積み重ねた時間は短くない。かみ合わない凹凸を心に模(かたど)ったまま、その隙間を埋めるでもなく、俺達は今を生きている。
 
 「それは停滞である」
 と少女は俺に宣言した。
 先ほどから床に転がされたままなので、自然と上から宣言するような形になるのは如何ともしがたいが、その言葉は妙に俺の心に響いた。
 「過去に囚われ何も成さぬでは健全な関係とはいえまい。そなたたちは関係を閉ざしてしまった。じゃがそこに鴇子が旧種と新種をわかつ本質が最大限に働いた理由がある」
 「子どもの頃を思い出してみよ、公園で我を忘れておにごっこやかくれんぼに夢中になって遊んだ経験は誰しも覚えがあろう」
 「えっと…………それ、一体何の話?」
 唐突に話題が変わり俺はあっけにとられた。
 「むろん鴇子の話じゃ、茶々を入れるでない」
 ごほんと咳払いして彼女は語り続けた。
 「それはこのまま時が永遠に続けばと思った幸福な記憶じゃ。だが、夕暮れは必ずやってくる。家に帰らねばならぬ時間は必ず訪れる。そなたと鴇子は親の迎えを無視してずっと遊びを続けている子どもじゃ」
 「子供……ね」
 確かにそうかもしれないが、あまり嬉しい例えでもなかった。
 「ゆえに、そなたは鴇子との関係を楽しんでいたのであろう?」
 「な……! そんなわけないだろ!」
 「正直に認めるが良い。子どもが夢中になるのは遊びと決まっておる。余人を挟むことなくお互いを傷つけあう、常識や世間体から開放され、感情にまかせて自由を謳歌する。それは遊びに他あるまい。楽しくなければそんな関係は続かぬものじゃ」
 少女の無遠慮な一言。それは俺の心の一番奥にある塊を掴れたような気がした。
 「そ、そんなことは決して……」
 声が震える。
 心臓の鼓動が速まり、高らかに宣言した少女の姿をまっすぐに捉えることが出来ない。
 子どもであることは認めよう。その関係にうんざりしていることも。
 だが、今の俺たちの関係は……
 「理解したか? そなたと鴇子は日が沈んでも家に帰らず、暗闇に囚われ遊びも出来ず、河原に立ち尽くす子どもじゃ。そうして等しく夜を分け合ったまま、そなた達は停滞を続けている」
 反論できなかった。
 俺と鴇子、確かに俺たちは二人で始めた遊びを終わらすことが出来ずにいる。
 「そうして闇はそなた達を侵食し、いつしか鴇子を人ならざる者へと導いた。そなたも我の目に耐えれることから、その片鱗が見受けられる。もはや新種が現れるのは時間の問題なのじゃ」
 俺は河原の暗闇に立つ鴇子の姿を幻視した。そこにはかつての可愛い笑顔はない。
 亡羊とした瞳で流れる水を見つめ続ける、それはいつしか虚無を写し、人ならざるモノへと変わっていく。
 
 「果たしてこのままで良いのか? そなたにも責任の一端があるのじゃ」
 「良くないな……それは……」
 「であろう?」
 ゆえに自称、人類の責任者たる少女は、鴇子と俺の関係を変わらせようとしている。
 俺と鴇子を子どもから大人へと。幼なじみから恋人へと。
 「確かに今のままでは不健全ではある。それは納得した」
 「うむうむ、己の置かれた状況を理解したようじゃな」
 と少女は満足そうに頷いた。
 「では、鴇子とそなたが契りを交わすこと。この旨承知したな?」
 「それは絶対に断る!」
 「……そなた、頑固じゃの」
 「俺と鴇子の二人で始めた遊びなら、終わらせるのも俺たちの責任だ。どんなに複雑でも因縁の始末をつけるのは俺たちだけの仕事だ。今更誰かに邪魔されたくない!」
 もはや意地となって俺は叫んだ。
 そう、これは意地である。
 俺たちは余人を挟むことなく今の関係を積み重ねた。ならばその間に醸成された怒りも憎しみも全て俺たちのものだ。他人の嘴を容れる隙間などなく、そのつもりもない。もし第三者の手を借りたとしたら、鴇子はその終わり方がどんなに都合の良いものでも断じて納得しないだろう。それは俺も同じことだった。
 「だから俺の方法で、俺のやり方で鴇子とは仲直りしてみせます。それで文句ないでしょう!」
 俺はこれ以上ない力を込めて、世界で一番偉いと自称する少女を睨んだ。

 「なるほどのう……そういうことか……」
 少女は面白そうにこちらを眺めている。
 「やはりそなたをここに連れてきて正解じゃな。実際に対面しなければ解らぬこともあるしの」
 「俺に鴇子を任せてくれるのを、承知してくれますか?」
 「よかろう。人類の運命はそなた次第というわけじゃ。それもまた人の選択じゃ」
 どうやら納得してくれたみたいだ。
 「しかし、解らないな」
 「何がじゃ?」
 「あなたが本当に世界で一番偉いと言うのなら、相手はたかが小娘一人、いくらでも処理しようがあるでしょ?」
 実際、俺はこうして拘束されて自由を奪われているのだし。その気になれば拉致監禁するくらいは簡単に思える。
 「それなのに俺をけしかけるとは、方法が雑すぎないかと思って」
 「その通りじゃが、人類の脅威といえでも母なる自然の胎動によって生まれた存在、私も自然の摂理の一部であるがゆえに、その分を犯すことはできん。そしてそなたも自然の一部であるというわけじゃ。新種が生きるも死ぬも、自然摂理に任せれば良いということじゃ」
 
 「すみません。さっきからさっぱりなんですけど……って言うか、あなたは神様みたいなものだと思ってましたけど違うんですか?」
 「あくまで人の延長上じゃ。我の名はアルファという」
 ずいぶんと簡素な名前だ。っていうかそれ名前というより型番みたいだな。
 「神とはアルファでありオメガである。つまり、いずれは滅するこの身ではとても辿り着けぬ境地じゃな」
 「はあ……」
 なにやら意味不明の禅問答を聞かされた心地だった。
 「ともあれ、ご苦労であった」
 「ということは……これで話は終り?」
 「うむ終りじゃ」
 あっけなく、終了を告げられる。
 ここに拉致されてからもはや命もこれまでと覚悟していたが、どうやら五体無事で帰れそうだ。
 ほっと一息つくのもつかの間、彼女は顔を近づけていた。
 「な、何!?」
 「そなたには何かと不都合をかけたの。これで許されよ」
 その瞬間唇が近づいたかと思うと、
 「んんんっ!」
 急に口をふさがれた。
 なんだ……これは……
 急に天地が逆さまになったかのような感覚。
 柔らかな感触が、甘い痺れを脳に伝える。
 これは……キスというものか!
 「んは……」
 少女の口からもれるなまめかしい吐息に、一瞬心を奪われる。
 「ふふ……目つきがいやらしいぞ、我に惚れたか?」
 「なっ! 一体何をぉ!!」
 「唾をつけたのじゃ、文字通りな」
 そう言って微笑む彼女は先ほどの妖艶さなどどこへやら朗らかな笑顔。
 まさしく女の子は魔女である!
 「ではさらばじゃ、次に会う時まで、体を厭うがよいぞ。どうせ大変な目にあうのじゃからの」
 「ちょ、ちょっとまって、それってどういう……!」
 と言葉を最後までつむぐこともなく、俺の意識は急速に薄れていった。
 
 
 

・第二章


 ○月△日 晴れ
  
 今日は部活の定例ミーティング。受験を控え、三年がそろそろ引退の時期にさしかかっているため、議題は自然と次の部長は誰かという話題になった。
 もっとも人事に関しては既に皆の心が固まっている。私が部長で副部長が瑞希、会計は一年生から掛井さんが抜擢された。私は仕事を任せるほうだし、瑞希に至っては部室で美味しいお茶を飲むことしか頭にしかない。働かない部長と副部長に囲まれて、彼女はさぞ苦労することだろう。あの子が困っている姿を見るのはちょっと楽しい。私も楽できるし。
 瑞希は帰り際に「鴇子王朝成立だね」と嬉しそうにしゃべっていた。三年生がいなくなり、部室で好きに活動出来る、その楽しみしか頭にないようだ。次の茶会は紅茶を淹れてみようと進言してきたが、流石に却下した。不覚にも部長としてこれが私の第一の仕事になる。
 
 上々の気分で家に戻ると、あいつが行方不明になったとの知らせがあった。
 店の人間も手伝って、方々を探し回ったが、本人は公園に居た。のんきに眠りこけていたのを店の見習い職人が見つけたらしい。普段は仲が悪いというのに、報せを受けてすぐに捜索を手配するとは父もなかなか度量が広い。
 と思ったが、実際はおじさまに貸しを作りたかっただけかもしれない。あの二人は本当に仲悪いし。
 深夜をまわっていたとはいえ、おじさまはあいつを伴って挨拶に来た。物陰に隠れてそっと観察していたが、あいつが小さい頃の面影とは少し違っているようにも見えた。
 父は礼を言うおじさまを鷹揚に応対したが、あいつを見つけた礼として、おじさまが先代から形見分けとしていただいた小皿を次のお茶会用に貸し出すよう、それとなく自分の希望を匂わせていた。
 おそらく父の狙いはそれだろう。何事もただで貸しを作ることがないし、おじさまもなんとも言えないお顔をしていた。やはりこの二人は仲が悪いと思う。
 
 あいつのことを考えながら眠ったせいだろうか、不思議な夢をみた。
 河原で私とあいつが二人で鬼ごっこをしている夢。小さい頃にはそんなこともあっただろう。何しろ付き合いは長いのだから、そこそこ楽しい思い出もある。
 だが、じきに日が暮れてあたりは茜色から暗闇へと変わっていく。
 私の傍にはもうあいつしかいない。
 だが、それでも私たちは帰ろうとしなかった。家から来るはずの迎えも来ない。
 じっと河原に立ち尽くしたまま、私たちは川に流れる水を見つめ続けている。
 いつまでも、いつまでも……
 
 私は、そんな夢を見た。
 
 
 ○
 
 「ちーす」
 翌日、俺が教室に入った瞬間、クラスメイトの面々はぎょっとした様子で俺の顔を見つめた。
 原因ははっきりしている。昨晩、周囲に迷惑をかけた罰として親父の強烈な拳を右頬で受け止めたため、今日の俺の右頬は派手に膨らんでいる。そのせいである。利き手で殴ったなら普通は左頬が腫れているはずだが、親父はこういう時でも職人だった。
 赤く腫れた右頬は絆創膏を貼った上でも目立つ。クラスメイトの眼にはさぞ痛々しく映ったことだろう。
 己の未熟を体で購うのは男子の本道とはいえ、遠くから腫れ物に触らないような微妙な距離感は少し居心地が悪い。原因を知りたいが気軽に尋ねてもいいものか、そう逡巡している男子連中の様子が手に取るようにわかった。女子は鴇子の教育が行き届いているため、もとから俺に話しかけないのでいつもどおりだ。くそ忌々しい。
 鴇子のいる席を見ると、彼女は少しこちらを見つめただでスルーした。そのせいで、周囲の空気が余計固まったように見える。どうせみんな、鴇子と俺の間で何かあったかと邪推しているのだろう。
 そんなことを考えていると、周囲の空気にはばかることなく、ごっさんが俺に話しかけてきた。
 
 「おっはよー、ねえねえ聞いてよ、私ね~……ってそれどうしたの!?」
 後藤瑞希(ごとうみずき)は、鴇子と同じ茶道部の部員である。仇名は先述の如く“ごっさん”。ややこしい仇名だが、まごうことなき女子である。
 鴇子の影響下にある茶道部女子の間では、俺の評判は甚だ悪い。ごっさんはそんな風評を当てにすることなく屈託なく俺に接してくれる貴重な女子だ。あと胸がでかい。これ重要。
 「転んだの?」
 「いや、違う。これは名誉の負傷と言うべきかな……」
 「じゃあ、喧嘩したの? 河原で殴りあいとか」
 「実は昨日、神に会ったんだ。ごっさんは神にあったことがあるか?」
 「ネットで見たよ。神展開とか神動画とか」
 「そういうジャンルじゃなくて……自分とはまったくレベルが違う存在に会ったんだよ。で、これはその結果」
 自分でも説明になってなかったと思う。
 ごっさんも俺が何を言っているのかわけが解らないだろう。
 「なんか誤魔化してない? デタラメ並べて煙にまこうとしてるでしょ?」
 「いや、本当だって」
 「んー、本当かなー?」
 とごっさんは顔を膨らませた。
 事実ではあるが、親父に殴られたことまで言う必要はないだろう。この歳で父親から折檻されたなど、外聞が悪いし。
 「本当のこと言ってくれたら、おっぱい触らせてあげるよ」
 「親父に折檻されました! さあ、触らせろ!」
 『おっぱい』それは男を惑わせる魔法の言葉。健康な男子であれば脊髄反射で反応してしまうのもやむ得ないだろう。
 女子数名がこちらを見て、怪訝な顔を浮かべている。またぞろ俺の品位と評判が下がっていくだろうが、今さらそんな些末ごとにはかまっていられない。何しろ『おっぱい』なのだから。嗚呼。
 「確かにおっぱい触らせてあげるとは言ったけど、それが今とは言ってないよ」
 「……!! はめられた……」
 くそっ! 簡単に術中にはまってしまった俺の単純さが憎い。
 「即答だったねー、そんなに私のおっぱい触りたかったの」
 「頼むからそれ以上言うな。今自分の馬鹿さ加減を反省しているところだ」
 「反省しなくていいよー。そういうところ好きだな私」
 唐突なクラスメイトの意見に、一瞬時が止まる。
 「単純って言うかー、簡単って言うかー、ストレートじゃん。そういうの安心するんだよね」
 「…………」
 本人は褒めているのだろうけど、馬鹿にされているようにしか聞こえない。
 「で、何だよ用件は? さっき何か言おうとしてなかった?」
 「あー、そうそう! それなんだけどね。実は私、今度副部長になるの」
 「へー、茶道部の?」
 「うん、トッキーが部長で掛井さんが会計だよ。誰が呼んだか鉄壁の布陣!」
 「鉄壁かなあ……鴇子は担ぎ上げられるタイプだから良いとして、ごっさんが副部長とは意外だ」
 「先輩はバランスがとれるからそれでいいんじゃないかって言ってたよ」
 「ああ、そういう考え方もあるか……」
 ど納得した。茶道部の先輩方も見る目がある。
 「副部長って一応権力だし、貰えるなら貰っておいたほうがいいじゃん? トッキーを傀儡にして私の王朝を築き上げるんだ。お茶の代わりに紅茶を淹れたり、私の好きなレーズンバターは部費で買い放題、羨ましいでしょー」
 「そんなに良いかぁ?」
 ごっさんも欲望に正直なところがあるが、あまり嫌味に聞こえないのが彼女のいいところ。やや子供っぽいけど。いや、子供はおっぱいなんて言わないか。
 
 ふと鴇子のほうを眺める。彼女はいつもと変わらず周りに女子を囲ませておしゃべりに花を咲かせている。
 見た所、いつもどおり不機嫌に見えた。
 「なあ最近のあいつ不機嫌じゃない?」
 一見穏やかそうに見えるが、鴇子に関してそれは間違いである。
 不機嫌な時はますます外面が良くなるのが鴇子の習性であり、それは長い付き合いの俺や、いつも傍にいるごっさんだだからこそ解る。
 周囲の壁を高くして余人の目から自分の姿を隠す。そういうの得意だからなあいつは。
 「気になるなら話しかけなよ」
 「いや、それはちょっとなあ……」
 仲の良かった麗しき子ども時代は過ぎ去り、相手は花も実もある女子高生、俺もリビドー溢れる男子高校生である。『ちょっとシャーペンの芯貸してくんない?』とスマートに話しかけられるほど、俺は世慣れていない。
 「はあ……相変わらずだなあ……」
 鴇子の友人である彼女はおそらく、心の底からのため息を吐き出した。
 「そんなことだから童貞こじらせて、女の子におっぱい触らせろーとか平気で言えるようになっちゃうんだよ」
 「どどどど童貞ちゃうわ!」
 「どもりながら言っても、説得力ないよー」
 「舐めるな、キスくらいは経験済みだ!」
 「え……?」
 ごっさんは目を丸くしてこちらを見つめたかと思うと、鴇子と俺を交互に見比べた。
 「ちょっと待て、なんであっちに目線が行くんだ?」
 「だって、え、ちょっと待って……本当に……」
 「ええまあ、アレはキスだったと思うけど……」
 「本当かな……? 悪いけど君が女の子と一緒にいる姿が想像できないんだよね。ゲームの中でとかじゃないの? 勝手に脳内補完されてないよね」
 「そこまで言うか……」
 そこまで疑われると、自分の記憶が怪しくなってくるな。
 まあ、確かにあれは夢の中だったような……
 あまりの女性の触れ合いが少ないので、脳がそのぬくもりを求めて、幻影を見せただけなのかもしれない。
 鴇子は俺のほうを見ずに周囲の女子と楽しそうに会話している。
 こちらの会話が届いているかどうかは解らなかった。
 
 「きっと勘違いだよ。女の子との接触があまりにも少ないから、記憶が脳内補完されたんだね。人間ってすごいなあ」
 随分な言われ方だが、そんな悲しい納得の仕方をされても、反論できるだけの根拠はなかった。
 あのアルファと名乗った少女。考えてみれば世界で一番偉いとか、鴇子が人類の新種だとか、ありえない内容ばかりだ。あれは夢だと言われたほうが納得できる。
 で、その鴇子と仲直りをしなければならないと俺は誓ったわけだが……
 正直に言うと、教室で優雅に君臨する鴇子を見ただけで俺は戦意を喪失していた。
 片や学園の女王、片や成績も平凡な目立たぬ一介の学生である。話しかけるだけで気が重い。あれは俺からしたら無理目の女という奴だろう。
 第一、ここしばらくは俺を存在しないかのように振舞う鴇子が、俺との対話を望むだろうか? 俺は数々の敵対勢力を対話のテーブルにつかせたスウェーデンの外交官に尊敬の念を抱いた。
 
 「いいかげん仲直りしたら?」
 「ごっさんまでそういうこと言うのな……」
 「既に誰かさんに言われた? でもそれ正解」
 ぐいとごっさんが身体を前に乗り出す。ゆえにその豊かな胸が眼前に強調される。
 ここらへんの距離感は鴇子と違う意味で遠慮がない。
 「俺と鴇子の因縁知ってるだろ? 余計なお世話だよ」
 「ダメだよきっとトッキーは話しかけられるの待ってると思うよ? こういう時は男の子が甲斐性見せる時だよ」
 「男は女に媚を売らんのだ」
 「前時代的ー」
 と呆れるようにごっさんは言った。
 「なんと言われてもそういう男は好かん、男の歓心を買うために圧化粧をする女も好かん。だからごっさんはナチュラルメイクのままでいてくれ」
 「解るのそういうの?」
 「そのリップ新しくしたろ? 似合ってるぞ」
 「ん……まあ、そうなんだけどね……結構見てるよねえ……ほんと……」
 何故かごっさんは言葉が小さくなる。先ほどの勢いも鳴りを潜めややうつむき加減だ。
 そうこうしている間に先生がやってきて、この話は有耶無耶に――
 
 ならなかった。
 
 
 「転校生を紹介する」
 入ってくるなり先生が言ったその言葉にクラスの連中はざわめいた。それも無理もない。この時期に転校生なぞ珍しい、普通は春の風物詩だ。
 「入ってきなさい」
 扉が開いて、一人の少女が入ってくる。
 その姿を見て、俺はあいた口が塞がらなかった。
 「北条マキナと言います」
 丁寧にお辞儀する優雅な少女。
 それはもうどこから見てもいいところのお嬢さんで……
 
 いや、違う!
 あいつだ。
 金髪で小柄でちょっと胸が貧しいけど、それを補ってあまりある美貌、まるで人形のような完成度。アルファと名乗る世界で一番偉い少女だ。絶対に間違いない!
 つーかマキナって何だよ。本名アルファじゃなかったのよかよ!
 「北条さんはお父さんのお仕事の都合で、急遽イギリスから戻られた帰国子女で……」
 担任の先生が何かを説明しているが、今の俺にとってはBGMに過ぎなかった。
 あれは夢ではなかったのか? 俺はちゃんと夢から現実へと帰還しているのか? あの空間でのやりとりはなんだったのか? 世界の最高責任者というあの自称は一体何なのか?考えれば考えるほど堂々巡りで答えが出ない。
 「日本の習慣には不得手なので色々教えてくださいね」と微笑んだ瞬間、男子たちの歓声が上がった。
 
 ごくりと俺は息を呑む。
 嘘だろおい……あれって夢じゃなかったのかよ……
 それじゃ、あの時のキスも本当に?
 「それでは君の席は……」
 「はいはいはいはい!」
 その瞬間、ロマンスの神に愛されたい男子どもが、一斉に手を上げた。
 「先生、俺の隣が空いてます!」「坂下君、君の隣の石和さんは風邪で休んでいるだけです」「石和なんて女子は死にました!」「勝手にクラスメイトを殺さないでください」「俺の隣がいいと思います!」「高野君、隣にいる日永さんを椅子から突き落とさないように」
 テンション高いなーこいつら。
 「先生、私は彼の隣を希望します」
 そう言ってアルファ改めマキナと名乗った少女は俺を指差した。
 「えっと……彼ですか……? あまりお薦めしませんけど……」
 はいはい、そうでしょうよ。鴇子との因縁のおかげで俺はいたいけな女子を苛めるゲスとして、あんまり良い印象持たれてないからなあ。
 「大丈夫です。私とは顔見知りですから」
 彼女がそう言った瞬間、嫉妬と怒りの交じった男子の視線が俺に集中するのを感じた。心底うざい。
 「今日からクラスメイトということで、よろしくお願いしますね」
 優雅な足取りでぬけぬけと隣の席に座る。ちなみに隣の席に座っていた草間さんはマキナことアルファのカリスマに恐れをなして自ら席を譲った。
 「は、はは……」
 どうにもこうにも、俺は乾いた笑いしか出来なかった。
 夢じゃなかったんかい!
 
 
 んで、休み時間中。
 「何をしにきたんだ、あんた」
 俺は先生が教室に出て行ったと同時に、押し寄せようとするクラスメイトたちの機先を制し、俺は電光石火の早業で彼女に詰め寄った。
 「だいたい、アルファって名前はどうしたよ? 帰国子女ってこの前バリバリ日本語喋ってたじゃない」
 「身分を隠しているのじゃ、その名を呼ぶでない。今は気安くマキナもしくは北条さんと親しみを込めて呼ぶが良いぞ」
 「あんたの席に座っていた草間さんは、落ちた消しゴム拾ってくれる程度の優しい人だったんだぞ。はいチェンジ!」
 「こうして世俗にまみれて下々の事情を知るのも、我が勤めなのじゃ」
 「越後のちりめん問屋かあんた」
 「最近の再放送は面白いのう。西村晃の元気な姿がまた泣けるわ」
 世俗にまみれまくっとるなこの権力者は。
 俺とアルファならぬ北条さんがしゃべっている間、クラスメイトたちは遠巻きにして様子を見ている。
 おそらくマキナのカリスマに遠慮して近づくのをためらっているのだろう。
 「そなた一人では難儀すると思ってサポートしに来てやったのじゃ」
 「手助けではなく監視のほうだろ?」
 「契約とはいえキスを交わした相手に……」
 「わ~~~~~~!!!」
 と俺は急いでマキナの口をふさいだ。
 
  
 ○
 
 「ねえねえ、何を話しているのかな、あの二人」
 嬉しそうに瑞希が私の席によってきて話しかけてきた。その表情から明らかに楽しんでいる様子が伺える。
 「もしかしてさっき言ってたキスしてた人って、あの子とかな」
 「さあね」
 瑞希は善き友人ではあるが、おせっかいが過ぎる所がある。こんな時は特に鬱陶しい。
 「あ、やっぱりさっきの私たちの会話聞いてたんだ」
 「そりゃ聞こえるわよ。あんなに大きな声でしゃべってたんだもの」
 「ふ~~ん」
 何よその笑みは。
 勝手にストーリーを構築していく友人に、私はやや辟易した。
 だが、追従する人間だけに囲まれる愚を自分は犯さない。対等の友人が少ない私にとって、こういう人間は貴重なのだ。
 あいつがどこの誰と何をしようとも私には関係ない。もはやあいつと私は家が同業者というだけで、何の関わりもない。
 もちろん、それをわざわざ宣言するほど馬鹿ではなかった。
 その時、あいつが机の上から消しゴムを落してたのが目に入った。
 手が伸びて床に落ちているそれを拾おうとする。その時に指でとんとんと二回叩く。
 それは合図だった。私とあいつしか知らない、子ども時代の秘密の符牒だ。
 「ん……どうしたの?」
 「ちょっとトイレ」
 「そういう時は花摘みって言おうよ」
 
  
 ○
 
 「うわ、あいつマジで出て行きやがった。」
 
 指先で二回トントンと叩く―
 
 これは鴇子と俺の間に通じる「外に出よう」という意味の秘密のサインである。子どもの頃、法事など大人の集まりに連れて行かれた時は、これを合図にして二人でよく会場を抜け出して遊んだものだ。
 もっとも、あいつがまだ憶えているのか自信がなかったのだが……
 もしかして、こっちが思っているよりもあいつは俺のことを気にしているのかもしれない。
 「さっそく効果あったかの」
 とマキナのどや顔がうっとうしい。
 「そなたのことじゃ、決意はしたもののどうやって声をかけるか思い悩み、二の足をふんでおったのだろう」
 「うぐ……」
 見てきたように言うなあ。まあ……その通りなんだけども。
 「早く行ったほうが良いぞ。何しろ自分の相手が知らぬ間に素性も知らぬ女と親しくなっていたのじゃ。これでは悋気もやまぬというものよ」
 「勝手にあいつの男にしないでくれ」
 「コイバナではないわ。パートナーという意味じゃ」
 「それもあんまり良い響きじゃないよね」
 「いいから早く行くが良い。時は止まってくれぬぞ」
 言われなくても行くつもりだ。
 俺が席をはずしたと同時に機会をうかがっていたクラスメイトたちが、アルファの周りに殺到した。皆、アルファに話しかけることに夢中で俺に注意をはらう人間はいない。好機とばかりに俺は、鴇子の後を追った。
 
 さて、この場合、鴇子はどこで俺を待つだろうか……
 
 
 おそらくそれは屋上に違いあるまいと想定し、屋上の扉を開けたところ、予想はものの見事に的中した。
 屋上の手すりに寄り添いながら、艶のある黒髪を風に靡かせ、彼女はそこに立っていた。
 少し見とれそうになっていた自分を叱咤して、俺は29週間ぶりに鴇子に話しかける。
 「や、やあ……久しぶりっ!!」
 我ながら無様な上、とてつもなく凡庸な挨拶であった。
 さて、対する鴇子の機嫌はどんなものだろうか??
 「久しぶりね。元気にしていた?」
 と鴇子は花のような笑顔を浮かべた。
 
 ああ、最高に機嫌悪いわこれ。
 
 不機嫌な時ほど、外見を見繕うのが鴇子という女であるから、これで機嫌がよろしいわけではない。
 これはよほど腰をすえてかからねば――と俺は腹に気合を入れる
 「久しぶりね、あの合図を使うなんて、随分懐かしいじゃない」
 「う、うん……そ、そうだね……」
 あ、いかんどもっている。
 平常心、平常心……
 「で、何なの? 私に何か用事かしら?」
 こういう時、ストレートに『機嫌が悪いのか?』と尋ねるのはいけない。
 もし、そんなことを訊ねたりしたら……
 
 『私の機嫌が悪いってどうして? 私が怒っているように見えるのかしらと』
 『いや……あ、はいそうですね、すみません』
 
 となるに決まっている。
 高校に入ってからというもの、こいつは極端に俺を避けている。いっそのこと、その原因をここで確かめるのはどうだろうか?
 
 『なあ、お前はどうしてそこまで頑なに俺を拒むんだ? 俺、何かしたか?』
 『私の給食袋に蛙をつめたり、上履きの中に唐辛子の粉をまぶしたり、爆竹をなげつけたり……』
 『もういいです、ごめんなさい』
 
 うん、この質問もまずいな。心当たりがありすぎる。
 なんと言うことだろう、今鴇子を目の前にして俺が打てる手はそんなに多くない。
 考えてみたら未だ恋も女もしらないこの俺が、女子の心を開かせる軽妙なトークなぞできるわけがなかった。この鴇子という特殊で厄介な女を相手に、どうやって向き合えばよいのだろう?
 俺はそのことをまったく考えてなかったことに、今更ながら気がついた。
 
 「そうそう、あのマキナとかいう転校生さんって、どういう知り合いなのかしら」
 「え~~っと、あれはなその……」
 やべ、考えている間に向こうから様子を探ってきた。
 「友人だよ、単なる友人」
 「ふうん……」
 その“ふうん”という一言が単なる相槌なのか、それとも何か別に意味が隠されているのか、さっぱりわからない。
 そうして俺が逡巡している間にも会話は進んでいる。
 「とっても綺麗な人ね、まるでお人形みたい。私にも紹介してくれないかしら?」
 冷ややかな視線で俺を見ている。ますます鴇子が俺から遠のいたような気がした。
 
 ああもうごちゃごちゃ考えるのやめだ。どうせ腹の探り合いではこいつには勝てない。
 仲直りするには強行突破しかない!
 「と、鴇子……話があるんだ!」
 「どうしたの改まって?」
 俺は鴇子へのアピールのため、意を決して彼女の両手を掴み、じっと彼女の目を見据える。
 「え……ちょっと……」
 まっすぐに見据える鴇子の瞳が揺れる。俺はその機会を逃さなかった。
 「お友達になってください!」
 一瞬の静寂、ややあって鴇子が口を開く。
 
 「はい?」
 
 その瞳はかつてないほど冷ややかに、俺を映してた。
 「やあねえ、私とあなたは幼稚園の頃からのお友達じゃない」
 その声を聞いて俺は失敗したのだと悟った。
 おかしい、今の何がいけなかったのか。
 「それはそうだけど、そういうのじゃなくてだな……その……」
 「そういうのじゃなくて、何?」
 「あ、いえ、何でもありませんけど……」
 なんだこの迫力は? すごみが一段と増している気がする。
 キーンコーンカーンコーン……
 「いっけない次は移動教室じゃない。私先に行くわね」
 「あ、うん……」
 微笑みを残して時は去っていってしまった。
 
 
 
 「そなた馬鹿じゃの」
 「なんでだよ! 初めはお友達から、俺は間違ってないよな!」
 「間違っておるわ。最初から最後まで徹頭徹尾間違っておる!」
 今は昼休み。
 学生たちでごった返す学食の一角を陣取って、俺たちは反省会を開いていた。
 「お友達というのはそれで完結した関係であり、鴇子との関係をそれで留めたいという要求にほかならぬ。そこで質問じゃ、そなたと鴇子は友人になれる関係なのか?」
 「む、それ言われると……」
 俺と鴇子の関係は友人の範疇から外れているのは明らかだ。友情、努力、勝利は俺のテーマになりえても、裏切り、卑怯、勝ったと見せかけて油断したところに背面強襲が奴のスタイルだ。水と油は交わることがない。
 「無理だな」
 「そうであろう。友人という言葉で自分たちの関係を閉じ込めたくないのであろう。そんな女心じゃ」
 「女心……だと……」
 女心、それは男子にとって永遠の神秘。俺の目の前にフェルマーの最終定理のような、とてつもない難題が出現した気がした。もっともフェルマーの最終定理はアンドリュー・ワイルズによって既に証明済みではあるが。女心は数式を解くようにはいかない。
 「そうか……女心……」
 「そう女心じゃ」
 と満足そうにきつねうどんを啜るアルファ。
 「そうか、あいつも女の子だったのか……」
 俺のその発言に、アルファはあやうくきつねうどんを噴き出しそうになる。
 「ちょっと待て、そこから始めるのか?」
 「考えてみれば、鴇子にも心があったんだな」
 「あるに決まっておるじゃろ」
 アルファは落胆したような調子で俺を眺める。何でいちいち突っかかるかな。
 「で、お友達になって仲直りが出来ないとなると……どうすればいいんだ?」
 「うむ教えてやろう。その代わりここはそなたのおごりじゃぞ」
 「なんでだよ。自分で払えよきつねうどんくらい。世界で一番偉いんだろあんた」
 「その世界で一番偉い我から、ただでアドバイスを聞こうというのが図々しい。少しは我に敬意を示すがよい」
 「ち、わかったよ……ほら280円」
 ちなみに俺が食べているA定食はメインにコロッケ、スープ・サラダ付きで450円。学生に適したリーズナブルな値段設定で助かる。
 「んむ、では秘策を授けよう」
 「よろしくお願いします」
 「正面突破、策はいらぬ。本気で伝えたいならじっと相手の目を見て、抱きしめて好きと言えば専用BGMが流れてハッピーエンドじゃ」
 「280円返せ」
 「そなた、さっきから態度がぞんざいじゃな……」
 「出来るか、そんな恥ずかしいこと! ゲームの攻略聞きたいならネットで検索するわ!」
 「ゲームではなくこれは現実じゃ。選択肢が出てくると思うなよ」
 「だいたい、あいつは俺が行っても徹底的にスルーするんだよ。正面突破なんて無策に等しいだろ」
 「確かに鴇子はそなたをスルーしておる。それは私が見てもわかった。一つ尋ねるがそれは何時からなのじゃ?」
 「今年度の学期が始まってからだから……二年で同じクラスになってからだな」
 「ならばますます小細工は無用じゃ。やはりそなたの腹が定まらんのが問題じゃのう」
 あまりに自信たっぷりに言うアルファの口調に、俺は疑問を浮かべてしまう。
 「本当にそんな簡単なことでいいの……?」
 あまりも簡単に言いすぎだろこの人。素直に言うことを聞いていいのか、だんだん疑わしくなってきた。
 「大人のいうことは黙って聞いておけ」
 「あんたのどこが大人なんだよ。つーか同い歳じゃないならいくつなんだよ?」
 「レディに歳を聞くな。そういうところが子どもじゃな」
 といわれたら、反論はできない。
 「そなたは未だに自分を何者かはしらぬ。ゆえに分別がつかない、責任がもてない。それが子どもの特権じゃ。よってそなたに策はいらぬ。まっすぐぶつかれは必ず誠意は天に通じるじゃろう」
 「言いたいこといってくれるなあ……」
 そんなこと言われても、あの鴇子相手に無策ではとうてい太刀打ちできないと思う。
 俺はアルファの言うことにいまいち納得できなかった。
 
 
 そして放課後―
 家の手伝いをしなくてはいけない日ではあるが、俺は置いている漫画を取りにクラブに顔を出すことにした。
 向かう先は神聖ローマ帝国研究会、略して神ロ研は、文化系クラブの多くがそうであるように第三校舎の二階の一角に存在する。
 研究会と名のついているワリにその実体は神聖でもなく、ローマでもなく、ましてや研究会ですらない。当のクラブ員たちはたいていゲームに興じるか、益体もないおしゃべりに無為に時を過ごすかのどちらかで、年に一回ありあわせの資料で作った会誌を出すことで、学校に対して活動実体を誤魔化している。
 どこの学校にもニ、三は存在する活動内容超適当のゆるい部活だ。得るものは少ないが、自分にとっては家の手伝いをさぼる格好の口実なので重宝している。
 
 「ちーす」
 「確保ーー!」
 扉を開けた瞬間、たむろしている先輩と後輩たちからいきなり拘束された。
 「ちょっ! なんだよこれ」
 「先輩、すんませんマジすんません!」「あ、思ったより胸板ありますね」「やめろ、何処触ってんだよ! ズボンに手をかけるな」
 尊厳を守るために果敢に抵抗してたが、むなしく俺は縄にかけられ先日と同じように床に転がされた。最近妙に拘束され続けているが、こんなことには心底慣れたくない。
 部室に入るなり部員を使って拘束、こんな無慈悲な所行を平気で行なえる人は一人しかいない。
 「先輩、これどういうことっすか? どうして俺縛られてるんですか?」
 「先輩じゃねえだろ、ここに居るときは会長と呼べ」
 不機嫌な顔をして俺を見下ろす後藤先輩は、リーゼントと、前空きの学ランというバリバリの不良スタイルで、文化系の空気には馴染みそうもないドスの聞いた声で答える。
 彼は一年上の三年生で現在の部長。そしてこの部屋のボスである。
 後藤先輩が椅子に座ってこちらを睨み、床には地べたに寝かされ俺が横たわるこの構図は、最近どこかで見た光景と酷似していた。
 他の連中は申し訳なさそうな顔を並べて俺のほうを見ようともしないが、本当に申し訳ないと思うなら解放するのが本当の優しさではなかろうか。この世に愛はない。
 「会長、事情を説明してください」
 「ああん、説明しろだと? 縊るぞコラ、上から目線で調子のってんじゃねえ!」
 「や、上から目線はそっちでしょ。俺今から家の手伝いしないといけないんですけど」
 なんで不機嫌なんだこの人、他のクラブみたいにとっと引退してくれよマジで。
 「てめえ……あの北条とか言う転校生とどういう関係なんだ」
 「どうって……」
 まさか、キスした相手とは言えないよな。
 「いいかてめえよく聞け、俺はなぁ……」
 先輩は椅子から立ち上がって、ポケットにとぉ突っ込みながら俺に背を見せてから窓の外を眺める。そして窓から洩れる光を背負いながら、俺がいる後方を振り返った。
 「金髪が大好物なんだ!」
 「知らんがな」
 格好つけて言うことなのかよ、それ。
 「ああ!? なんつったてめえ! 俺の初めての純情なんだぞ! 初めて家にお持ち帰りて監禁して、嘗め回したいと思った運命の女なんだぞコラ!」
 「後藤先輩は愛情と性欲をはき違えています!」
 「ふざけんな、テメエみたいに端から彼女の居る奴に、俺らの気持ちはわからねえだろうよ! 俺らは余裕がねぇんだ!」
 後にいる後輩たちがひと括りにしないでくれと目線で語っていた。
 つーか鴇子は俺の彼女じゃない。
 「見た目は悪い、軽快なトークもできねえ、出会いもねえ、つーか端から寄ってこねえ! だったら監禁するしかねーべ!」
 「普通に告白してください! ていうか髪切れ!」
 「バッカおめー、リーゼントは男のロマンだべ!」
 後藤先輩はかつて猛威を奮った校内暴力時代を彷彿とさせる古式ゆかしき不良である。気合の入りまくったリーゼントにナイフのように鋭い目つき、このオールドファッションに女子が寄り付くはずがない。
 何ゆえこの時代錯誤な先輩が、曲がりなりにもこの学術的な部活に属しているのか……かつてその理由を尋ねたことがあるが『そりゃオメー、ローマつったらロマンだべ、夜露死苦』と凡人には理解不能の返答が帰ってきた。どうやら後藤先輩にとって「ロマン」とは重要なテーマらしい。
 「と言う訳で紹介しろや」
 「この場合、紹介した俺は監禁幇助になるんじゃないかなあ……」
 どうやってこの場を切り抜けるか、必死で考えていると、そこに救いの女神が現れた。
 「そこまでよお兄ちゃん!」
 「み、瑞希! お前どうしてここに!」
 「先生に頼まれて探しに来たの! 今日補習あるって言ってたでしょ!」
 そう、後藤瑞希ことごっさんは後藤先輩の妹であり、先輩が唯一頭が上がらない相手である。
 「で、でもよ今日はちょっと用事が」
 「用事ってこれ? 後輩をぐるぐる巻きにして地面に転がすことが補習より重要なの? このままじゃ留年しちゃうじゃない!」
 説明するまでもないことだが、後藤先輩は成績が悪い。そして一年下のごっさんは、兄が留年して同学年になることを防ごうと必死である。
 「で、でもよ男のロマンが……」
 「ロマンで単位は取れません! きりきり歩く!」
 「解った、解ったから蹴るなよ瑞希!」
 ごっさんは兄である後藤先輩に蹴りを放ち、ものの見事に廊下に放り出す。強い、そしてゆるぎない。
 殺人機械の異名を持つ後藤先輩は、その名前に恥じぬ数々の逸話に彩られたリビングレジェンドである。七曲峠八人殺し事件、明神公園乱闘事件、血染めの天井事件などなど数々のバイオレンスなエピソードにことかかぬ猛者だが、唯一自分の肉親である妹には頭があがらなかった。
 校内で畏れられている後藤先輩相手に、恐れることなく立ち向かう。彼女のあだ名が“ごっさん”なのはその勇姿に尊敬の念を抱いているのが一つ。もう一つは女の子として親しげに話しかけると、妹に過保護な後藤先輩が飛んでくるからに他ならない。
 「大丈夫君? 怪我とかない?」
 とごっさんは俺の縄を外してくれた。
 俺はようやく自由になったありがたみを噛み締める。
 「まったく酷いよねー、こんなにぐるぐる巻きにして何が楽しんだろ」
 「すまんごっさん、助かった」
 「あはは、良いって良いって。身内の恥はほっとけないもの」
 天使のような笑みで、俺に笑いかけるごっさん。アレとこれが血の繋がった兄妹だとはとても信じられない。
 「毎回毎回、よく付き合えるよねアレと」
 兄をアレ呼ばわりか……先輩もちょっと可哀相……いや自業自得かも。
 「昔は格好よかったんだよ。男らしくて逞しくて頼りがいがあって……はあ、アレがどうしてヤンキーロード一直線になるのか」
 「あの人のやることは、天災の一種だから。コレくらい覚悟してないと」
 「慰めになってないよ、そう言うの許してると調子に乗るんだから」
 「確かにヤンキーの典型だけど、面倒見は良いぞ」
 ああ見えても人望はあるんだよなあの人。時たま暴走することはあるけど、校外で揉め事が起きたときなどいの一番に現場にかけつけ鉄拳という名の仲裁を入れる。
 じゃなきゃ後輩たちをああも見事に統率して、俺を襲わせることなど出来やしない。
 「そうかな……そこら辺の男同士の友情ってちょっとわかんないけど」
 ちょうどいい所にごっさんがきてくれた、ここは一つ女心とやらを尋ねてみるか。
 「ごっさん一つ聞きたいことがある」
 「私そろそろ茶道部に行かないといけないんだけど」
 「重要なことなんだ。あ、お前らちょっと席を外してくれ」
 「先輩、度胸あるっすね」「性交をお祈りしてるっす。ちなみに誤字じゃないっす」「焦っちゃダメですよ。まずは天井の染みを数えるんです」
 と後輩たちは意味不明な言葉を残して去っていった。あいつら、何か勘違いしていやしないか?
 「えっと……その……」
 心なしかごっさんも何か挙動不審に見える。
 「いいよ、バッチコイ」
 とごっさんは自分を鼓舞すように自分に向き直った。
 「女の子と仲良くなる方法教えて欲しい」
 「…………それだけ?」
 「それだけって何だよ、俺にとっては緊急の問題なの」
 「はあ……ま、いいけど……」
 何か相手の期待を大きく外したみたいだが、何が原因なのかさっぱりわからなかった。
 「仲良くなる方法ね……で、相手はどっち?」
 急に不満そうな目つきでこちらを睨んでくる。兄である後藤先輩を彷彿とさせるその目つき。ちょっと怖い。
 「どうして二者択一問題なんだ?」
 「そっか、それを聞いてちょっと安心した」
 今日は感情の起伏が激しいな。これって俺のせいのなのだろうか、さっぱりわからない。
 「要するに、トッキーと仲良くなりたいわけでね、君は?」
 「平たく言うと、まあそういうことだな」
 あまり同意はしたくないが。
 「そっか……やっとその気になったんだね。うんうん」
 ごっさんは満足げに頷いた。
 「何か勘違いしてないか? 俺はあいつと仲直りしたいだけだ」
 「それは小さな一歩かもしれないけど、大いなる一歩だよ。ガガーリンみたいに」
 「それガガーリンじゃなくて、アームストロングな」
 「そんなの些細な違いだって。大丈夫、歴史は変えられる」
 「何言ってんだお前」
 言ってることがメチャクチャだ。どうやら、かなりテンション上がってきているらしい。
 「それではとっておきの秘策を授けましょう」
 「おう頼む」
 アルファと同じ言い方をしたのがちょっと嫌な予感がするが、まさかな……
 「押し倒しちゃえ♪」
 「出来るかそんなこと!」
 ああ、嫌な予感というのはどうしてこうも当たるんだ。まったく参考にならん!
 「だいたいそれ犯罪だろ」
 「そうかなあ、トッキーが相手なら、案外すんなりいくと思うけど」
 なるか、絶対に警察に突き出される。いや、あいつの場合は私刑だな。自分の全能力と立場を使って俺に容赦ない報復を始めるはずだ。
 「告白を飛び越えてまぐわえとか、やっぱ後藤先輩の妹だけあるよな」
 「それ、言わないで欲しいんだけど……」
 「だったらもう少しましな代案だしてくれよ。段階を踏んだまっとうな奴を」
 「それじゃあデートだね」
 「デートって言われても、いきなりハードル高くないか? まずは交換日記とか」
 「それ段階踏みすぎ。一昔まえの恋する乙女みたいなこと言ってたら、足踏みし過ぎて床板踏み抜くよ。交換日記してくださいって喜ぶ女がいると思ってる? 普通にメールでいいじゃん」
 「確かに面倒くさそうだな」
 「でしょ? だからデート、はい決まり! 一緒にどっか行って、ご飯も誘う。んで君がお金をだす」
 「俺が?」
 「相手はトッキーなんだよ、あの子が金を出すと思う?」
 言われて見るとその通りだ……
 あいつが金を払うところが想像できない。男を踏み台にしてその上を悠々と歩く。それが喜連戸鴇子という女だ。
 「くそ……モンパンの新作は諦めるか……」
 「ゲームより女の子を優先しなよ。そのままだと、君もトッキーも寂しい大人になっちゃうぞ」
 「しかし、デートか……」
 考えてみれば当たり前の結論だが、そもそも鴇子を交際対象と見ていなかったため、その当たり前に到達することが出来なかった。やはり第三者に意見を聞くのは大事だな。
 「う~~む……しかし、どうやって誘うかなあ……」
 「なんでも良いんだよ。女の子は誘われたら嬉しいもんだし」
 「なんか易々と相手の軍門に下るみたいで、格好悪いな」
 「なんでよ!」
 「出来れば相手に頭を下げることなく、仲良くなる方法を聞きたいんだけど」
 「はあ……本当に面倒くさいね、まだ抵抗あるんだ」
 「そうなんだよなあ、向こうが頭を下げてくれたら簡単なんだけど」
 「私は君のことを言ってるんだよ」
 ごっさんは厳しい口調で俺を批判する。やはり女子の味方は女子ということか。
 「もういい、私が決めてあげる。君は映画に誘いなさい、OK?」
 「いきなりだな」
 「だって、そうでもしないと進展しないんだもん! いい? 今は千載一遇のチャンスなんだよ? 多分だけどトッキーは今焦っている」
 「なんであいつが焦るんだ?」
 「君の傍に正体不明の転校生が現れたからに決まってるでしょ! しかもめちゃ可愛い女の子なんだよ、なにとーかいしてんのさ!」
 「わかったらかちょっと落ち着いてくれ」
 意味不明のテンションで俺はごっさんにわめきたてられる。女の子のこういう理屈の通じないところはちょっと苦手だ。
 「明日はトッキーを呼び出して、僕と一緒に映画に行ってくださいって言うの! コレ絶対!」
 「それで必ず誘えるのか?」
 「トッキーなら必ず行くよ。間違いない」
 「命かけるか?」
 「お兄ちゃんの命かけます」
 あっさり兄の命を俎上に乗せるとは、流石に修羅の妹だな。
 「わかった、そこまで言うならやってみるか」
 「そんなわけで明日は頑張ることいいね? 約束だよ」
 「わかったやってみる」
 「よし」
 ごっさんは満足げに笑った。
 「ところで何で映画なんだ?」
 「デート初心者には一番無難でしょ。その後に食事に行くとしても、共通の話題が出来るから盛り上がりやすいじゃない」
 なるほど……一応は考えてくれているんだな。
 「それじゃ、私部活行くから。何かあったらすぐに連絡してね」
 「おつかれさんした!」
 ごっさんが部室を去って、俺一人になってしまった。
 「デートかあ……」
 あれを誘うって難しいよなあ……
  
 
  学校から一駅離れた、ややさびれつつある商店街の一角に我が家である和菓子司『上善堂』が立っていた。
 母と父とで切り盛りしている町の和菓子屋。父が知り合いの和菓子職人から引退の際に居抜きで買い取った。一階は店舗兼調理場、二階が居住スペースになっている、
 頑な父は最近ようやくネットでの販売に乗り出したが、HPの作りからして時代に取り残された感が漂っていた。
 だがこの店の古めかしい雰囲気が嫌いではない。
 古臭いと一言で切り捨てるには簡単だが、家のあちこちには職人たちが丁寧に使いきった清廉な渋みが漂っている。
 頑固な職人から醸成される心地よい緊張感。丁寧に生地をこね、餡を裏漉しして、慎重に渋みを抜いたじょうよ饅頭。清潔に保たれた店内には、木目調の調度品が品の良さを演出する。
 決して派手ではない。目新しさもない。
 だが、のれんをくぐるたびに父と母は間違っていないのだと、俺は密かに頑なに自分たちのスタイルを維持するこの家を自慢に思っていた。
  
 裏の勝手口から作業場に入ると、不機嫌な顔で菓子を睨んでいる親父と遭遇する。
 「ふ~~む……」
 と矯めつ眇めつ、白餡を小麦粉と寒梅粉の生地で包んだはさみ菊を見つめている。その真剣な様子から、恐らく菓子の出来上がりに納得がいかないのだろう。
 「親父、ただいま」
 「おう、すぐに入れ」
 「うい」
 「返事は“はい”だ」
 「はいはい」
 「返事は一回にしろ」
 いきなり手厳しい。これ以上親父の神経を逆撫ですると拳骨が飛んでくるので俺は大人しく自分の部屋に帰る。
 
 俺は部屋に荷物を置き、手馴れた調子で作業着に着替え、作業場のある一階へと降りる。
 こうしていつもの準備をしているとアルファの出会いから始まった、ジェットコースターのような非日常から、ようやく日常へと帰ってきたように思えた。
 作業場の暖簾をくぐって、親父の下へと駆けつけると、親父は湯気の立つ小豆を漉している最中だった。湯気のたつ小豆に平気で手をつっこめるのは、手の皮が厚くなっているせいで、自分にはまだできない。
 「あれ? さっきのはさみ菊は?」
 「失敗した、あとで食っていいぞ」
 小さい頃からの習慣だが、親父の失敗作は俺のおやつになる。おかげでそれなりに舌が肥えた。
 「失敗って……良く出来てたと思うけど」
 「形はな。今度は材料から見直してやってみるつもりだ」
 和菓子というのは長年の研鑽の歴史があり、既に完成されたジャンルである――とは、門前の小僧がお経を読む程度に齧った俺の意見だが、異論を持つ人間は少ないだろう。
 うちの親父はその異論をもつ少ない人間の一人だ。幾多の先人たちが積み重ねてきた歴史を背負ってそれをおざなりにせず、頑固に守りながらも新しい一石を投じようとする。その熱意には頭は下がるが、その分商売には注意を払わないため、付き合わされる家族はたまったものではない。
 俺はまた親父の病気が始まったかとため息をついて、作業場の空気を湿らせた。
 「それじゃ、俺は店の方でてるから」
 「おう」
 既に集中域に達している親父は生返事だった。
  
 「おかえりなさい」
 暖簾をくぐって店の方に出ると、母は箱に出来上がった菓子を詰めながら店番をしているところだった。
 「ただいま、親父何やってるのあれ?」
 「お得意さまから、お茶会の席にって頼まれたんだけど、いまいち気に入らないらしいわ。今日はお昼からずっとあれよ」
 「マジで? 何やってんだ親父は」
 「ほっときなさい、和菓子はお父さんの一生の道楽なのよ」
 そう言う母の諦め方にも年季が入っている。独立した当初から傘張り浪人の妻を覚悟した母は、父を信じきって好きに仕事をやらせることを生きがいにしていた。
 よって母は父を止めようとしないし、もとより息子の俺が何を言っても聞き入れる人間ではない。頑固を押し通し一家を成すまでになったとあれば、周囲に許される空気を作る。事実、そんな父でなければ当世名人との評判は生まれなかっただろう。
 出来れば俺も父のように自侭を押し通し、周囲が許す空気を作るまでの人間になってみたい。鴇子なぞ生まれながらの女王様である。
 そんなことを母に言ってみると、母は笑って答えた。
 「あんたも似てるわよ、お父さんのそう言うところ」
 「俺が?」
 「ええ、やはり息子ね。お母さんできれば女の子がもう一人欲しかったの。鴇子ちゃんがお嫁に来てくれれば万事解決するんだけど」
 「無茶言うな。あの家が大事な跡継ぎ娘を手放すわけないだろ?」
 「そうねえ、暖簾分けって言っても、先代の縁で終わっちゃったものねえ。本当に残念だわ、あなたたちお似合いだったのに」
 「ない。そんな未来は絶対にありえないな。四十超えてる大人が夢見がちなこと言うなよ」
 確かに俺と鴇子の相性は良い。だがそれは喧嘩相手という意味でだ。
 もし鴇子を結婚相手に選んでみたとすれば、ウェディングドレスを着る前に三行半を叩きつけてくるだろう。
 「夢を見るのは子どもだけの特権じゃないわよ。この歳になってこそ親は子どもの将来に夢をみるものなのよ」
 「そうして、朗月庵の本家とも仲直りできればってか? 自分たちが出来なかったことを、子どもにかぶせてんじゃないよ」
 「それのどこが悪いのよ。親は子どもが壁を乗り越えて欲しいっていつも期待しているものなの。そうやって子どもを崖に突き落とすのも親の仕事なんだから」
 平然と言うなあ……この人。さすがはあの父と結婚しただけのことはある。
 「それに、あんたも本当は鴇子ちゃんと仲直りしたいんでしょ?」
 「……んなわけないだろ」
 「そうかしら? あなたたちとっても仲良しだったじゃない。女の勘だけど鴇子ちゃんだって、あなたのこと満更じゃないと思ってるんじゃないの」
 ニヤニヤとして母は解っているんだぞ、というその余裕が小憎らしい。
 会話はお客がやってきたため中断したが、母の発言は節穴にもほどがあると思った。
   
 忙しい時間が過ぎて、それなりに暇になってきた。
 時間は既に夕暮れ時、もうこんな時間に買いに来る客もいないだろう。
 「疲れたー」
 「だらしないわね。お客さんがいないからってだれないの。まだ営業時間内よ」
 母はレジの金を数えながらこちらを眺める。
 「こんな薄給で働かされてもなー。少しは時給あげてくれよマジで」
 「じゃボーナスをあげよう、ほら」
 母はそう言って封筒をそっと俺のほうに差し出した。
 「何これ映画のチケット」
 「新聞屋さんに貰ったのよ」
 「子ども映画祭りって描いてあるぞこれ」
 「あんた子どもでしょ」
 高校生を捕まえて子どもと言う……母親というのはどうしてこうも子どもの成長を直視しない生き物なのか。
 映画のチケットにはカンパンマンのイラスト、同時上映は女の子向けのファンシー映画、対象年齢はおそらく小学校の低学年までだ。
 こんなものに友人を誘ったら、笑われるに決まっている……
 「ん……」
 ふと俺の脳裏に閃きが走った。
 映画のチケット……これは使えるかもしれない。
 
 その時だった、あいつがやって来たのは。
 「ごめんください」
 聞き覚えのある声に振り向くとそこには……
 「と、鴇子!!」
 俺の天敵がそこに立っていた。奴の姿を認めたと同時に俺は瞬時に身構える。
 「お前、何しにきやがった!」
 「何って……おつかいかな?」
 くっ……敵地に踏み込んできたわりには余裕じゃねえか! いいだろう! その顔、すぐに恐怖で引きつらせてやるっ!
 「あんた、お客さん相手に何してんの!」
 と、飛び掛ろうとした瞬間、母の手刀が俺の脳天にヒットする。父と結婚しただけあって、なかなかに気が強い。つーかかなり痛い。
 「ごめんねー鴇子ちゃん。この子妙に意識しちゃってるみたいで、クラスでも変なことしてない?」
 意識なんてしてるか、敵意を持ってるだけだ。
 「いえ、そんなことありませんよ学校でもいつもお世話になってます」
 世話なんてしてねえし、されてもない。というか普段から目線も合わせないのに、息を吸うように嘘をつきやがるなこいつは。
 「母さん、どうしてあいつがここに来てるの?」
 「澄子さんから、今度のお茶会に使う器が足りないから貸して欲しいって連絡があったのよ」
 澄子さんというのは鴇子の母親だ。鴇子の母親だけあって和服の似合う美人だが、イタズラがばれて怒られるときはかなり怖かった。
 「オヤジが良く貸し出しに応じたな」
 確かにウチには暖簾分けされた時に、先代から贈られた茶器がいくつかある。
 だが、普段から仲の悪い親父が了承するとは意外だった。
 「この前、あんたを探すのに郎月庵の人たちにお世話になったでしょ、そのお礼よ」
 あれは俺のせいというより、アルファのせいでもあるのだが……つまり天災である。空から降ってきた隕石に当たったからといって、誰がその人の不注意を責められよう。
 「ちょっと待っててね、すぐ持ってくるから。この子が」
 「俺が?」
 「いいから行ってきなさい」
 とその時暖簾をくぐって親父が現れた。
 「おお、良く来た良く来た」
 「おじさまご無沙汰しております」
 と丁寧に外見を取り繕う鴇子。
 「うちの息子と仲良くしてもらってるそうだな、今後もよろしく頼む」
 流石に親父の前では、仲良くしてないなんていい出せない。こういう場面で取り繕うのは得意だよな、こいつ。
 「何を睨んでるんだおまえ、まさか苛めてないだろうな」
 「本当にこの子は、昔は何かにつけて鴇子ちゃんにつっかかってるんだから」
 父と母から集中砲火をうける謂れはないと思う。つか親父のせいで、俺と鴇子の関係はこんがらがっているんだが。
 「この子が変なことしたらすぐに言って頂戴ね、まさかこの歳で下品な悪戯なんてしないでしょうけど」
 「大丈夫ですよ。昔はともかく今は大切な思い出です」
 そう言いながら俺に投げかける視線は、余裕の嘲りを含んでいた。
 この場には俺の味方はいない。早々に帰ってもらったほうが良いと判断した俺は、言いつけどおりに茶器を取りに行くことにした。
 
 「…………」
 「………………」
 俺と鴇子はお互いに言葉もないまま、夜道を黙々と並んで歩く。鴇子が押して歩いている自転車がカラカラを空しい音を立てているのみ。
 俺は妙な気まずさに捕らえられたまま、胸ポケットにしまった映画のチケットを渡せずにいた。
 昼間に変に壁を作られたこともあるし、鴇子をデートに誘うとなると緊張する。そもそも女子に警戒を抱かれることなく会話できるスキルがあれば、俺と鴇子はもう少しまともな関係になっていたはずなのだ。ああ。
 彼女の横顔を見つめていると、ゆらゆらと揺れる長い髪が夕陽にきらめいていた。
 自転車を押しながら歩く姿は凛々しく、美しく、際立っている。
 幼い頃のあどけない様子はあまり残っていない、思春期を迎えた女子の顔だ。
 正直に言うと俺はこういう鴇子の顔は良く知らない。
 良く知らないがゆえに……彼女はどこか近づきがたいのだ。
 「ねえ」
 「な、なんだ?」
 「さっきからこっちを眺めているけど、どうかしたの?」
 不審に思った彼女が遂に俺に話しかけてきた。
 いつまでもこうしているわけにはいかん。俺は意を決して、鴇子と対決することにした。
 「鴇子、これをちょっと見て欲しいのだが」
 俺は胸のポケットから先ほど母から貰った映画のチケットをちらつかせた。
 「それは……!!」
 思ったとおり、反応した。
 そう、鴇子はこう見えて大の可愛いいもの好きである。親や友人に隠れてファンシーグッズやぬいぐるみ収集をしているのは子どもの頃から知っていた。
 しかも、鴇子の母はしつけに厳しくそういうジャンルにあまり理解がない。小遣いの使い道を親に報告しないといけない鴇子にとっては、この手のジャンルには飢えているはずである。三つ子の魂百までならば、鴇子は必ずこのチケットにくらいついてくる。俺はそう期待した。
 「カンパンマンと同時上映は現在、巷で女の子に大人気のピンキーノイズ、これを見に行きたくないか?」
 「あんた……どういうつもりなのよ?」
 「ほう、ようやく素に戻ったな」
 数ヶ月ぶりに鴇子の素顔を見れたような気がする。何しろ、子供の頃は俺に敬語を使って喋ることなんて、まったくなかったからなあ。
 「な、なんのことかしら……」
 「いいから素で話せよ。仮面つけるな気持ち悪い」
 俺がそう言うと、鴇子は普段の学校ではありえないほどの不機嫌な顔を俺に向けていた。
 「で、あんた何をたくらんでるの?」
 鋭い視線と厳しいの口調。完全に俺の知っている鴇子に戻った気がした。警戒されたままだが、こっちの鴇子のほうが俺はより身近に感じられる。
 「お前の素直な声をきかせてくれ。欲しいか欲しくないかどっちだ?」
 「そんなこと聞いてどうするつもり?」
 「いいから言えって。別に誰かに言いふらしたりしねえから」
 「…………」
 不審な顔を浮かべたまま、鴇子は何も言わない。俺に対してかなり不信感を募らせているみたいだが、こうなるととるべき手は一つしかない。
 「そうか、いらないか……じゃ、捨てるしかないかな?」
 と俺はチケットを掴んだ手をヒラヒラさせる。
 「ちょっ!?」
 「鴇子が行きたくないならしょうがないかなー、こんな機会、二度とあるとは思えないけど」
 「ぐ……」
 みるみる鴇子が苦悶の表情を浮かべていく。鴇子に対して確実にこちらが優位という状況はなかなかありえないので、かなり楽しい。
 「いいから言えって、本当は欲しいんだろ?」
 鴇子は出てくる言葉を慎重に飲み込みつつ、小さく蚊のなくような声で呟いた。
 「ほ、欲しい……わ……」
 「……!!」
 やば、ちょっと興奮してしまった。
 「ならば取引だ鴇子」
 「取引って……何をするつもりなの……」
 鴇子の目の色が警戒色を帯びる。別にオウムみたいに赤色に変わるわけでもないけど、そういうのは見ていてすぐに分かった。
 「今週の土曜、空いてる?」
 「はあ?」 
 
 
 ○
 
 おそらく、晴天の霹靂というのはこういう状況を言うのだろう。雲ひとつない澄んだ青空に、突然雷鳴が轟く。今の私の心象風景はまさしくそれだ。
 「一緒に映画を観に行かないかと、誘ってるんだよ」
 自分の要望を押し付けるように一歩近づく。
 「ちょ、ちょっと待って」
 幼なじみが一緒に映画に行かないかと誘っている。ああ、しかもそれは私がずっと見たかった、ファンシー映画『ピンキーノイズ』の劇場版。しつけの厳しい母からは絶対認められない使い道である上に、お小遣いの使い道を管理されている私にとって、喉から手が出るほど欲しいチケットだ。
 だが、ちょっと待って欲しい。
 今まで無視しあっていたこいつが、どうして急に映画に誘ってくるのか?
 遂に私の魅力に我慢できなくなったか……という考えもあるが、私は自分の美貌を過信したりしない。
 となれば、先ほどこちらをじろじろ見ていたのは見とれていたのではなく、この話を切り出すためにタイミングを計るために観察していたと考えるべきだろう。
 「それは、要するにデートということかしら」
 「そう思ってくれても構わない」
 といわれた瞬間、身体の一番奥が引っかかれた気がした。
 デート……あまり縁のない言葉、私とこいつにとっては特にそうだ。
 というか、いつもより強気じゃない。ひょっとして、何かを企んでいるのかしら?
 そうだ……でなければこいつが私をデートに誘ってくるわけがない。おそらく映画にかこつけて、私の弱みを握ろうとしているのだろう。そんな誘いに乗るわけには……
 「どうだ? これが欲しくないか」
 「くっ……」
 だが、欲しい!!
 心の底からあのチケットが欲しかった。常日頃から可愛いもの好きだが、そんなファンシーな趣味を持つことが周囲からは許されない私だ。罠と分かっていてもこの誘惑から逃れるのは難しい。
 それに、これを断るとこいつが次にどういう行動に移るか、分かったものではない。
 ならば……相手を飲み込むか?今はあいつが主導権を握りつつある。ならば一旦はあいつのペースに乗って巻き返すしかない。
 「いいわ付き合ってあげる」
 「そうか」
 私がそう言うと、ほっとした顔を見せた。私はやはり何か企みが進んでいるのだと確信する。何を企んでいるかは知らないが、そんな陳腐な罠を畏れる私ではない。
 「見送りはここまででいいわ。それじゃ、今週の土曜の9時半に駅前で」
 イライラした気分で私は自転車に跨る。こいつの前から早く去ってしまいたかった。
 「あ、ちょっと待ってくれ」
 「何?」
 「二人きりの時はあの敬語はやめてくれよ。身体が痒くなってくるからよ」
 「うっさい童貞」
 「どっ……! 女の子がそういうこと言っちゃいけません!」
 「それは女の子が言っちゃいけない言葉じゃなくて、あんたみたいな処女に過剰なイメージ持ってる童貞が聞きたくない言葉ってだけなのよ」
 「ぐ……」
 私の鮮やかな返しにあいつの声が詰まるのを見て、完全に勝利を確信した。
 「そういうキモイ言葉、誰彼なしに言うんじゃないわよ」
 「キモイとか言うなー! これはけじめだけじめ!」
 背後に悲痛な叫び声を聞きながら、私は自転車に野って颯爽と夜の町を駆けて行く。
 最後にささやかな仕返しが出来たので、少しは溜飲が下がる。
 
  
 ○
 
 翌日の昼休み。
 いつもであればみんなでお昼を食べに行くところであるのだが、今日は連中と別れて瑞希の前の席に座る。
 「どしたのトッキー、何か怒ってる」
 「解っているなら、私が大人しくしている間に自白して欲しいわね」
 「なに言っているのか解らないんだけど?」
 瑞希は首をかしげている。ぱっと見たところどうやら心あたりがないみたいだけど、信じていいのかどうかは少し悩んだ。
 「昨日、あいつからデートに誘われたの」
 「へえ……そ、そうなんだ、やったじゃんトッキー!」
 「本当に知らないの?」
 私は瑞希の心の内を読み解くように、瞳をじっと見つめた。
 「し、知らないよ本当に」
 しっかり目が泳いでいた。どうやら彼女は何かをしたらしい。
 「ふむ……」
 瑞希があいつを仲立ちしたのなら、裏を心配しないでいいだろう。
 どうせ、勝手な義務感を発揮して、私とあいつを結びつけようと考えたり過ぎないから。それは私にとってお節介だが脅威ではない。
 問題なのはあの転校生があいつと結託している場合だ。目的が読めない上に、向こうの正体が不明のため、どのように動くべきか判断がつかなかった。
 「で、何処に行くの? 新しく出来たモール? それとももっと落ち着ける場所だったら、美術館とかもいいよね?」
 「残念ながら子ども映画祭りよ」
 私はあいつから貰った映画のチケットを、瑞希の目の前でひらひらと振って見せた。
 「愛を語らうにはぴったりの状況だね、さっそくおめかししないと」
 「ファンシーアニメでどうやって愛を語るのよ?」
 「映画なら暗闇で二人っきりになれるじゃない!」
 ダメだ……、この友人は私があいつと映画に行くという事実だけで、頭が沸騰してしまったらしい。
 「で、何着てくつもり? あの緑色のサマードレスとかどうかな? この前買った新しいミュールとすっごく似合うと思うな」
 私の醸し出す不機嫌オーラを無視するかのように、瑞希はデートの服装を喋りだす。どうやらこちらの意図を考慮するつもりは、まったくないらしい。
 「だからそういうのじゃないんだって、あいつが相手ならジャージで十分じゃない」
 「絶対ダメだよ! 私の服貸したげてもいいから、おめかししないとダメ!」
 「サイズが合うわけないでしょ」
 と私は瑞希の胸を見て答える。このおっぱいめ!
 瑞希はしつこく私におしゃれを進めてくるけど、こういう時はこの子はちょっとうっとうしい。
 もっとも、私に面と意見してくる人間はそれなりに貴重なんだけど……
 「んしょっと」
 ドスンと重い音と一緒に机の上に、雑誌の山が積み重なった。
 「瑞希、何よコレは」
 「参考資料に決まってるでしょ」
 出てきたのはファッション雑誌の山、山、山。『夏の安かわレディースファッション特集』『この夏のトレンドはコレ!』『一味ちがうコーディネイトであの子と差をつけよう』等など、紙面には読者の気を惹こうと様々なコピーが踊っている。
 「……コレを読めってこと?」
 「デートに誘われたら、精一杯のおしゃれをするのは女の子の義務にして権利なの。女子よ常に可愛くあれ」
 瑞希は私の目の前に雑誌を掲げ、威風堂々と宣言した。ご高説は最もだけど、あいつが相手ではいまいちそんな気分にはならない。
 「だからジャージでいいじゃない」
 「そんな敗北主義は先生許しません! せっかく誘ってくれた男の子に失礼だよ! ほら、ショートパンツとシャツでカジュアル風に仕上げてみたりとかどうよ? 普段と雰囲気違うけど、トッキーならこういう服も似合うと思うけどな♪」
 瑞希はしつこく薦めてくるがまったく気乗りしなかった。
 何しろ、これはデートではなく取引なのだから。私はあいつにこれ以上弱みを握られないよう慎重に動かなければならない。そういうわけで瑞希とは別の意味で服装は厳選する必要があるだろう。
 そんなことを考えているうちに一つの雑誌が目に止まる。
 「ん? これは……?」
 「あ、それ? ハロウィンの仮装でそれっぽいの捜してるの。決して普段から着ているわけじゃないからね」
 「へえ……これ、使えるわね」
 と私はにんまりと微笑んだ。
 「瑞希、これ貸してくれない?」
 「ちょっとトッキー本気で言ってる?」
 「さっき私に協力するって言ってたじゃない」
 「そりゃま言ったし、確かに可愛いけど、本当にこれで行くの……?」
 「もちろん、これならあいつの度肝を抜くことが出来るでしょ」
 「えっと、デートなんだよね……なんか目的が違ってるような気がするんだけど……」
 
  
 ○
 
 「と言うわけでデートすることになったぞ」
 お昼休み、俺は昨日と同じようにしてアルファと食堂で対面している。
 「うむデートか」と満足げに微笑み、アルファはまたもやきつねうどんを啜っていた。
 「まずは祝着じゃの。これで仲が進展する第一歩じゃ。遺漏はならぬぞ」
 そして相変わらずの上から目線。
 人類の最高責任者という肩書きが本当であれば、一介の学生である俺ちアルファでは当たり前の関係ではあるが。
 「喜ぶのはまだ早いな。俺は一応あいつの幼なじみだ。あいつが俺にとってデートに相応しい装いでやってくるわけがない。きっと嫌がらせにジャージで現れるぞ」
 「嫌がらせじゃと? そなたどういう誘い方をしたのじゃ」
 「取引で」
 俺は鴇子とのやりとりをかいつまんで説明した。
 「最悪じゃ! まっすぐ申し込めと言ってであろう! よりによって女子を誘うのに脅迫まがいの脅し文句とは何を考えておる」
 「殺し文句を使えと言ったのはお前のほうだろうが」
 「殺すの意味が違うわバカモノ」
 アルファは心の底からため息ついて、俺に向き直る。
 「やれやれ、最初からこんなザマでは先が思いやられるのう」
 「良いだろ別に、デートには誘えたんだし」
 「よくないわ! その分ではちゃんとリードできるかどうか心配じゃの。だいたいプランは出来ているのか? 映画はよろしいがその後どこに誘うつもりじゃ」
 「ラーメン屋じゃダメかな?」
 「ダメに決まっておる! 飲み会の後ではないのじゃぞ、せめてもう少し会話が弾む場所を選べ!!」
 「まあその理屈は解らないでもない……だがな?」
 「何じゃ? 疑問があるら言っみるがよい」
 「あいつを喜ばせることを考えるのは、心と身体が拒否しているんだよ」
 「ガキめ。子どもの理屈を堂々と述べるでない」
 一言でバッサリだなこいつ。だんだん付き合うのが疲れてきた。
 「そなた本当にやる気があるのか? このまま鴇子を放置すれば現世人類は滅びの道を辿ることになるのじゃぞ」
 「それなんだけどさ、本当に信じていいわけその話? 俺にとっては鴇子と仲直りするって、ごく個人的な都合で動いているに過ぎないんだけど」
 目の前にいるアルファが特別な存在であることはわかったが、鴇子に関しては話が大きすぎてイマイチ信じることが出来ない。
 「ゆえに我はそなたをサポートするためにここに存在している。映画のチケットは役にたったじゃろ?」
 「あれお前の差し金だったの?」
 「ふふ……鴇子を誘うにはぴったりの条件であろう? 我の情報収集能力を見くびるではないわ」
 鴇子が隠している秘密まで、こうも簡単に暴いているとは。どうやって知りえたのかは知らないが、恐ろしいまでの情報網だ。
 「仕方がない、デートの前に特別レッスンじゃ。今日の放課後は開いておるな?」
 「え~~っと……今日はちょっとその家の手伝いが……」
 「嘘をつけ、そなたの家の手伝いは月水金の三日のみのはずであろう」
 「ホント、どうやって調べるのかなそういうの!」
 「諦めるが良い。いざとなればそなたと鴇子を無人島に置き去りしても良いのじゃぞ」
 「…………はあ」
 どうにもこうにも逃げられそうにない。
 俺はそっと天を仰いだ。
 
 
 
 そして放課後、アルファに連れられてきた先は、学校近くの街道沿いにあるファミリーレストラン『あんたれす』だった。扉をくぐると、何故かうちの同学年の連中が大勢たむろしているのが見えた。彼らは俺とアルファの姿を認めると、警戒の眼差しを向けている。
 「なあ、これから何かあるのか? なんでみんなこんなに集まってるんだよ」
 「そなた猪狩という学生を知っているか?」
 知ってるも何も、猪狩は俺にとっては裏切り者だ。かつては俺とは同じような幼なじみを持つ苦労を分かち合い、崇高なる友情を交わした友だった。しかし、奴は世俗の俗情に流されて幼なじみと交際を始めたらしい。
 俺にとってはかなり羨ましい……いや、同じ天を戴くことが出来ぬ背教の徒である。
 「ああ、猪狩ね。良く知ってるけど、そいつがどうかしたのか?」
 「本日はここでその猪狩君による恋愛話を聞く……という趣向らしい」
 「帰る」
 俺は後を振り返って出て行こうとしたが、すばやくアルファに首根っこを捕まれた。
 「そうはいかんぞ。そなたとその猪狩とやらは同じ立場であろう。であるならば、きっと参考になる話が聞けるはずじゃ」
 「冗談じゃない! あいつの話なんて聞いてられるか!」
 俺と同じく異性の幼なじみを持ち、苦労をわかりあったはずの猪狩はもはや裏切り者である。そんな男の話なぞ興味もない。だが、この言葉がいけなかった。
 「それはこっちの台詞だ!」「だいたい、なんでお前が女連れが来てるんだよ! 見せびらかしてんのか!」「帰れ帰れ! 女持ちに俺たちの気持ちなんぞわかるはずもねえ!」
 ファミレスにたむろしていた学生連中が一斉に俺を非難し始めた。
 「これはひょっとして……俺とアルファの関係が誤解されているのか」
 「うむ、どうやらそのようじゃの」
 平気な様子で頷いているが、俺にとっては大問題である。
 「おいおい、何を悠長に構えてるんだよ。こんなことが鴇子に知られたら」
 「ほう? 女房に浮気がばれるのが怖いか」
 「なわけねーだろ!」
 「だったら堂々としておれば良かろう。何をそううろたえる必要があるのじゃ?」
 「う……」
 そう言われると返す言葉もないのだが……どうも女性との関係を誤解されているというのはあまり気持ちの良いものではない。
 「静かにしろ、縊るぞお前ら」
 地の底から響いてくるような声に、男子たちは一瞬で押し黙った。こんな真似を出来る人間を俺は一人しか知らない。
 「てめえ、どういうことだコラ」
 後藤先輩、やはりあなたか!
 後藤先輩は一番奥の席に陣取り、まるで不良のボスのように周りを威圧していた。そして、間の悪いことに一目で機嫌が悪いことが解る。
 「誰じゃ?」
 「うちのクラブの先輩。めっちゃ怖い上にややこしい人」
 「ふむ……」
 俺とアルファがヒソヒソ話をしていると、
 「俺の目の前で女子とヒソヒソ話か……くくっ、見せ付けてくれるじゃねえか」
 ぎらつく目を容赦なく俺に向けて笑う。その様子は凶暴な肉食獣を連想させた。
 「やばい、相当不機嫌だわあの人」
 「人は他人の会話が聞こえないとストレスを受けるらしい。恐らくはそのせいかもな」
 あなたに惚れているんですとは言えないなあ。気になる女の子が俺と一緒に入ってきたんだから、疑うのも当然か。
 「まあ、ここは私に任せておけ。そなたに人たらしの極意を見せてやろうぞ」
 「あ、おい……」
 止める間もなく、アルファはつかつかと後藤先輩のほうに歩いて行った。
 大丈夫かなあ……あの状態の先輩は交渉が通じる相手ではないんだけど。
 
 
 「掃き溜めに鶴って奴か……あんた可愛いけどここじゃ場違いだぜ」
 「北条マキナと申します」
 アルファは後藤先輩の強烈な眼差しを優雅に受け止めて会釈する。まずは様子見の軽いジャブと言ったところか。
 「帰りなお嬢ちゃん。ここは男の社交場だ。あんたみたいなきれいどころが来ていい場所じゃねえ」
 対して、なぜか惚れた少女を相手に気合バリバリで睨んでいる先輩。そういう態度が女子に怖がられる原因になってるのに気づいてないのか?
 「お騒がせしてごめんなさい。でも私も後学のためにどうしてもお話を伺いたくて」
 相手をみて対応を変えるあたり鴇子に似ている。女の子は誰でも役者だ。だが、いくら先輩が単純でもそんな猫撫で声が通じるわけが……
 「ぐっ……可愛いじゃねえか」
 効いてる効いてる。思いっきり効果ありじゃないか。女の子相手だとほんとチョロいなこの人。
 「お願いです。私たちもここで猪狩君のお話を聞かせてください」
 「そ、そんな上目遣いで頼まれても……ぐうぅ!!」
 先輩は己を戒めるように、テーブルに置いてあった、名物のスコルピオンカレーに手を伸ばし一気に口に運ぶ。どうやら辛さで自分を取り戻そうとしているらしい。
 「はあ……はあ……ダメだな。今日のところは帰りな」
 先輩の口は往年のコメディアングループのリーダーのように腫れあがっているが、まったく笑える雰囲気ではない。惚れた相手にここまでポリシーを貫くとは、ある意味天晴れである。
 「なかなか頑固じゃのう」
 「無駄だと思うよ。この人融通利かない上に、男の一文字背負って生きてるんだよね」
 「じゃが気に入ったわ、根性があるではないか」
 アルファは何か思いついたようにほくそ笑んだ。あ、また嫌な予感。
 「ところで後藤先輩、何をお召し上がりになっているのでしょうか?」
 「コレか? コレはここの名物レッドスコルピオンカレーだ」
 それはこの店の名物、レッドカレーを限界ぎりぎりにまで辛さを引き上げた極悪メニューである。完食したものには五千円分のお食事券がプレゼントされるが、過酷な辛さに反して得るものが少ないため挑戦者は少ない。
 「よくそんなもの食えますね……」
 先輩のカレー皿は米粒一つ見えないほど、綺麗に平らげていた。
 「そりゃおめー、カレーつったらロマンだべ。要するに今日は男のロマンを拝聴する会だからよ。女に用事はねえってことよ」
 こういうこと堂々と言うから、女子に嫌われると思うんだけど………
 「そうですか、どうしてもご了承いただけませんか」
 「ああ、決まりだからな」
 後藤先輩が口にする決まりというのはあくまでも、後藤先輩のコモンセンスで決定される。決して一般常識に照らし合わせて適当という意味ではない。
 「とある国では、同じ食卓で同じモノを食べることで友誼を交わす習慣があります」
 「あんた何が言いたい?」
 後藤先輩の目が輝いた。なんとなくアルファが何を言おうとしているのかがわかる。
 「ギャルソン、私に彼と同じモノを」
 指をパチンと鳴らして、彼女は後藤先輩と同じ極悪レッドカレーを注文する。
 「マジかよ女の子が注文していいものじゃねえぞ!」「つか大丈夫なのか」「おい誰か止めろよ」「店長レッドスコルピオン追加入りました!」「うろたえるな! 奇跡はそう簡単に起こらないから奇跡って言うんだよ!」
 アルファの発言に、周囲がどよめいていく。
 「わたしがそのカレーを完食すれば、文句はありませんわね?」
 「あんた……そりゃあ……」
 後藤先輩はどこか満足そうに微笑みながら、彼方を見つめながら……
 「ロマンじゃねえか」
 と呟いた。
 
 
 そして二十分後。
 「ご馳走様でした」
 俺の目の前には見事完食したカレー皿が置かれている。不可能と思えた少女の挑戦、そしてまさかの完食である。周りの人間は目の前の事実が信じられないのか、あんぐりと口を開けたまま、けろりとした表情のアルファを見つめている。
 「これで認めていただけますか?」
 「ふ……」
 と後藤先輩はカレーを完食してもなお平然としているアルファを見て軽く笑った。
 「あんたいい目してるぜ。ぎらついてやがる」
 後藤先輩はそう言って頷きながら、元居た席へと戻っていく。後藤先輩が何も言わなかったために、周囲の雰囲気も自然と俺たちを認める形となる。
 「ほ……」
 どうにか無事に収まったか。
 「そんなにぎらついておるかのう?」
 「まあ、あの人の表現は独特だから……」
 こうなれば周りの男連中も、誰も文句を言うことはなかった。
 

 そうして、猪狩が現れるまでみんなで完食記念の写真を撮ったりして時間を過ごした。後藤先輩はアルファと並んでいるためかなり嬉しそうだ。後でこっそり俺のほうへやってきて「おめーこれマジだべ、つーか俺マジだからよーそこんところ夜露死苦」と俺に牽制をかけてきたりかなりうざかったが、そんなことをしている間に猪狩がやってきた。
 
 猪狩は俺を見た瞬間、
 「一番居て欲しい人が居るね」と呟いたので早々席を立ちたくなったが、立ち上がった瞬間、アルファに肘で小突かれ元の席へと帰還させられる。
 見た目の印象はこざっぱりしているスポーツ少年、サッカー部所属でそれなりに目立つ位置にいるため、女子の声援にはことかかない。
 俺とは同じ立場にいたはずの人間が、今や人も羨む彼女持ちである。これは間違いではないかとこの世の最高責任者に物申したい。
 「何じゃ?」
 いや、そう言えばこの世の最高責任者はここに居たんだっけ。
 「で、猪狩よどうすれば女が出来るんだよ」「やはりサッカーなのか?」「練習いいのかよお前」
 猪狩が席に座った瞬間、みんな口々に疑問を口にする。
 「静まれ童貞ども!」
 と後藤先輩の容赦のない一言が、精神的にみんなを黙らせた。
 「後藤先輩、あなたも来ていたんですか」
 普段は余裕のある猪狩も、後藤先輩を前にしてやや緊張しているみたいだ。
 「おうよ、オリャこの話を聞くためにわざわざ補習バックレてんだよ。ノイズはいらねえ、そろそろ始めようや」
 先輩は補習に行くべきですと誰もが言いたかったが、当然面と向かっていえる人間はいなかった。
 こうして微妙な空気の中、猪狩の経験談がスタートしたのである。
 
 
 「そもそも僕と彼女は家が隣同士で兄妹のようにして育ったため、どうしても女性とは見れなかったんだ。だが、ある日気づいてしまったんだよね……彼女の魅力に。今日はその話をしよう」
 と猪狩は静かに語り始めた。
 「それはある日借りてたDVDを返そうと彼女の部屋を訪れた時から始まった。僕の部屋と彼女の部屋は窓を挟んで行き来できるほど近い。そのため、ついいつものように窓を開いてしまったんだけど、彼女は折り悪く着替え中だったんだよ」
 その瞬間、何人かの人間が身を乗り出した。
 「要するに、僕は彼女の裸を見てしまった。感想? いやまずいと思った瞬間、彼女にぶん殴られたから、その時の記憶はほとんど残ってない」
 と言った瞬間、乗り出した全員がため息をついた。
 「だが僕はその時に気づいてしまった。彼女は幼なじみなどというあやふやな存在ではなく。一人の女性であることに。それからだ……僕がおかしくなってしまったのは。寝ても覚めても思い浮かぶのは彼女のことばかり、僕はその時から恋に目覚めたんだ」
 「いや、おまえ今でもかなりおかしいぞ」「おかしいつーか笑えるな」「猪狩ってマゾなのか」
 口々に感想を唱える皆を制するかのように、先輩がドンとテーブルを叩いた。
 「猪狩、続けろ」と促し、猪狩は言葉を続ける。
 「僕は悩んだ。この気持ちをどう伝えればいいのか。何しろ積み上げてきた年月はでかい。今まで幼なじみだった関係いきなり恋人になるのはどうすればいいのか? 正直に言うと僕は自分の気持ちに戸惑っていた、きっと彼女も困惑するに違いない。だが、このまま穏当な関係を維持するうちに彼女は他の男と恋におちて、僕ではない誰かと結婚する。そんな未来は耐え難かった。だから僕は意を決して自分の気持ちを伝えることにしたんだ」
 アルファが「ここらへん良く聞いておけよ」とそっと耳打ちしてくる。
 「本気というのは誠意を見せるという意味だ。惚れた相手には誠実に尽くす。これに限ると僕は判断した。だから僕はアルバイトした。そして金をためて指輪を買い彼女を、高台の公園に呼び出しプロポーズしたんだ」
 「おまえ飛躍しすぎじゃない?」とギャラリーの誰かが突っ込んだ。およそこの場にいる全員の心の内を代弁していると言えよう。
 「だが、彼女はうんと言ってくれなかったんだ」
 「そりゃそうだろ」と俺が突っ込む。今度はほぼ全員が頷いた。いきなり幼なじみから結婚である。ただでさえ高いハードルを自ら上げてどうするつもりなのか。
 「残念ながら彼女の心に僕の誠意は通じなかった、いや、そうじゃない僕は誠実さが足りなかったのだと気づいた。だから僕は愛の証明のため、高台から飛び降りたんだ」
 「マジで飛躍すんなよ!」「足大丈夫なのかよ、お前サッカー部だよな?」
 あまりの内容に聴衆の面々が猪狩に突っ込み返す。
 「その時は、樹木がクッションになって、幸運にも打撲で済んだ。サッカー部の練習はしばらく休んだけど」
 そう言えば、猪狩がしばらく足に包帯巻いていた時期があったことを俺は思い出した。てっきり事故かと思ってたのに……
 「以降、僕の愛の証明に心を打たれた彼女は僕と付き合うようになった……というわけだ。おしまい」
 以上が猪狩の恋愛経験談である。期待して聞いていた聴衆は一様に渋い顔を浮かべていた。
 「それってさ、面倒くさくなっただけじゃないの?」「同情が入ったと見える」「半ば脅しだよなあ……」という呟きがいたるところから聞こえてくる。その意見には俺も全面的に同意したい。
 「黙れ! 縊るぞテメエら!」
 その微妙な空気を切り裂くようにして、後藤先輩が立ち上がった。
 「俺ぁ感動した。惚れた女のためにマジで飛び降りる、それはロマンじゃねえか!」
 またロマンが出た。後藤先輩の頭の中では地球はロマンで回っている。その独特の論理について行ける者は皆無に等しい。
 「わかんねえかこの童貞ども! こいつはやり遂げたんだよ! 地球上の全員が否定しても俺だけは認める、猪狩よ、おめぇ……おめえマジ男だべ!」
 「先輩……ありがとうございます……」
 力強く握手を交わす二人。
 状況だけ見れば熱い男の友情と見えないこともないけど、周りの空気は白けきっていた。
 そして、その空気を払拭するように第三の人物がそこに現れたのである。
 「お兄ちゃん! ようやく見つけた!」
 「み、瑞希……! まずい、ここは任せた」
 「あ、ちょっと! 逃げるな!」
 ごっさんのすばやく靴を脱いで先輩のほうへと投げた。
 「ぐへっ!」
 投げた靴が窓から逃げようとした先輩の頭部にヒット。見事なコントロールと言えよう。
 「もうっ! どうして補習サボるのよ! 卒業できなくなってもいいの!」
 「違う瑞希、これは男のロマンなんだ! オメーも妹なら解るだろ!」
 「全然わかんないよ!」
 そうだろうなあ。
 ロマンで行動する兄と現実的な妹。ごっさんの苦労が忍ばれる。
 「まあまあ落ち着けごっさん、みんな見てるぞ」
 「へ……?」
 ごっさんはようやく俺の姿を認めて一時的に先輩を殴る手が止まった。
 「あれ? これって何の集まりなの?」
 ごっさんはようやく俺たちが集まっていることに気づいたようだ。
 「猪狩の経験談を聞いて、どうやったら女の子とお近づきになれるか参考にしようという集まりらしい」
 「ええ、とっても参考になりましたね」と微笑んでいる紅一点のアルファ。
 なるかあんなもの。
 「そうなんだ、今回は珍しくやる気なんだね。北条さんの影響なのかな」
 なぜかごっさんはアルファにつっかかる。
 「ご心配なく私は助言をしているだけに過ぎないので」
 「ふうん……」
 なにやら不満そうなんだけど……
 「とか言ってる間に、お兄ちゃんは逃げないの!」
 「ぐはっ!」
 逃げようとした後藤先輩をごっさんは、容赦なく首根っこを掴んでいる。肉親だけあってそこらへんは容赦がない。
 「ほら、きりきり歩きませい!」
 「ぐぅぅ!! 瑞希もうちょっと優しく……」
 「優しくしてるとお兄ちゃん逃げるじゃない!」
 引きずられていく後藤先輩、その背中には哀愁が漂っていた。
 
 
 
 「ダメだ特殊すぎて全然参考にならん」
 アルファと一緒にファミレスを出た瞬間、俺はそうこぼした。
 「そうか? 要点は押さえておるぞ」
 「え、どこが?」
 先ほどの猪狩の論理に、普遍性は見当たらなかったと思うが……
 「要するにじゃ、女子のハートを掴むためには、割りの合わぬパフォーマンスが必要……ということじゃな」
 「ふむ……」
 それは確かに一理あるかもしれない……
 だが、と俺は思う。その理屈で言えば、猪狩でさえ彼女を手に入れるには、高台から飛び降りるしかなかったわけである。
 鴇子は猪狩の彼女と比べても遥かに無理目の女だ。少なくとも性格はともかく容姿は優れている。となれば……俺は鴇子と結ばれるためにはどれほどのモノを失うのか。
 「ま、命は大事にな」
 「おいフォローはないのか」
 まあ、俺は別に鴇子と結婚したいわけでも恋人になりたいわけでもないのだ。そこまでの苦労はいらないだろう。
 
 
 

・第三章


 明日はいよいよあいつとの初デートだ。思春期の女子にありがちがのトキメキとか胸の高なりや愛だの恋だのと言った青春ドラマとはかけ離れたテーマで私たちはデートに赴く。それは取引である。
 私は自分の身を守るために取引に応じた。自分の趣味をばらされる恐れがあるとはいえ、あいつがこのような強硬手段に出てくるとは意外ではあった。こうとなればもっと早くに手段を講じておくべきだったかもしれない。
 それとこの期に及んで、あいつが何を考えているのかわからないのが不気味ではある。あいつの後に女の影を感じるのは、女子特有の勘というものだろうか? 直感を信じるべきならば、瑞希以外の女子があいつの周囲をうろつているのがわかる。そして私の直感は外れたことがない。
 
 あいつとのデート……それを考えると少し気が重い。
 そもそも私たちの因縁は何処から始まったのだろう? 幼い頃に出席した先代の法事の席、あるいは幼稚園の遠足に行った動物園だろうか? 今となっては思い出せないほどの昔である。
 だが忘れようとしても忘れられない事件が、一つあった。
 私の記憶の澱、脳裏にへばりつく私の決定的な汚点。
 
 あれは確か、先代であったおじい様の三回忌の法要の席だった。和菓子職人として名をはせていた祖父は、多くの弟子を育て、おかげでうちの法事は同門の弟子たちの交流会のようになっている。
 日ごろ犬猿の仲とはいえ、父も暖簾分けして独立した先代の兄弟子を招待せぬでは世間が通らない。
 そんなわけで、自然と法事の席は微妙な緊張感が場を支配していた。私といえば、お仕着せの服をきせられ、何も解らない子どものようにじっとしていた。
 大人の儀式など子どもにとってつまらない。愛想笑いに疲れた私は、あいつに合図を送るとそっと部屋を抜け出し庭の築山に隠れて、調理場から頂戴したお菓子をこっそりつまんでいた。
 喜連戸家が誇るこの日本庭園は今も健在である祖母の趣味である。綺麗に剪定された木々が雅趣を整え、落ち着いた雰囲気を絶やさない。
 春にはツツジ、秋には菖蒲と季節ごとに色を変える庭園は私のお気に入りの場所だった。祖母はよく野点を開き、客にお茶とお菓子を振舞っていた。考えてみればそれは家の菓子をアピールするパフォーマンスであったかもしれない。
 そうして隠れているとしばらくして、菓子の甘い匂いにつられてあいつが現れた。
 あの時の私たちは仲良く菓子を分け合って食べていた。同じモノと食べるものが兄弟と言うのであれば、あの時の私たちは、まさしく兄と妹のようだった。
 先生への愚痴、共通の遊び、秘密の共有。話す話題にはことかかない。私たちが築山の下に隠していたビー玉は、きっと宝物だったのだろう。そんな穏やかな思い出もあったのだと今更ながら気づかされる。
 
 
 調理場のほうから、父の怒鳴り声が聞こえてきたのはその時である。
 「ばか者! 『郎月庵』の宴席に菓子がないでは終わらんぞ!」
 あとで解ったことだが、職人気質の先代の弟子の間では、名人であった祖父の後釜に座った父の力量を怪しむ向きも多かったらしい。
 その風当たりをやわらげるために、菓子を食べさせることで、当代『郎月庵』の力量を納得させる……おそらく、父にはそんな思惑もあったのだろう。
 で、あればこの時の父の狼狽はかなりのものだっただろう。
 「でしたら、今から作り直せば……」
 「今ここに集まっているは、先代のお弟子ご一統様。半端なごまかしがきく相手ではない!」
 木々の隙間から激昂する父と、狼狽する職人の姿を見て、私はさっと血の気が引いてしまった。
 この菓子だ。
 どうしよう、もう二人でずいぶんと食べてしまった。
 今更名乗り出たところで収まるものでもなし、幼い自分でも菓子がないと、父がとても困ることは解ってしまい私は途方にくれてしまった。
 そのときである。「大丈夫」と一言いって彼が私の手をつかんだのは。
 「僕がやったことにすればいいよ」
 と屈託なく笑って、あっけに取られる私をよそにかれはつかつかと父の前に進んでいった。
 
 数回の問答があり、彼は奥の座敷に座らされた。
 息子の不始末を聞いて、おじ様が肩を怒らせながらやってきたのはそれから数分後のことである。
 おじ様は神妙に座っている息子を、じろりと一瞥した。
 「当代のお菓子を食べたというのは本当か?」
 「うん、美味しかったよ」
 おじさまの拳が飛んだと気づいたの、数瞬あとだった。はまさしく有無を言わせぬ勢いで、その場にいる全員があっけにとられて、止める間もなかった。
 「兄さん、やりすぎです! なにも子どもにそのような……」
 「子どもだからこそ、ことの善悪は叩き込まねばならん!」
 あまりの激しさに流石の父も二の句が告げなかった。
 「息子の不始末。幾重にもお詫びする。その代わりというわけではないが、お許しただけるなら厨房を貸してもらいたい」
 「厨房……? 兄さん一体何を……」
 「代わりの菓子を拵えたい。先代の名に恥じぬ菓子をきっと約束する」
 そうして拵えられた菓子はとても美味しくて、和菓子に食べ飽きた私もとろける思いがした。
 お客様の評判も上々、父も無事面目を施した。だが、他人の手を借りたということで、この一件は父の心にしこりを残しているように思える。
 大人の世界はこれで貸し借りなしと言うわけにはいかない。小さい頃には、これで仲直りすればいいのにと思ったが、それなりに成長した今では父やおじ様の気持ちが理解できる。
 喧嘩しても次の日に謝って仲直りなんて出来るのは素直な子ども同士だからこそ出来る技だ。大人が同じテーブルに座るには、当事者同士が話し合いして解決というわけにはいかない。歳を取るごとに関係は複雑になり、自分以外の場所までその影響が波及する。
 人は社会性を持つ動物であり、私たちは社会の関係性の中で生きている。様々なしがらみの中で生きている大人たちが、今までのわだかまりを全てなしにして当事者同士で話し合あって解決するわけにはいかない。
 特に父にとっては師匠筋のやり方に反対して独立した兄弟子なのだ。父の胸中は知らないが、立場的にも周囲に兄弟子のやり方を認めるわけにはいかないのだろう。上に立つというそういうことなのだから。
 
 そしてそれは今の私たちにも当てはまる。
 
 両親は私を愛していた。そして私は愛されるために努力した。
 何事も卒なくこなし、習い事は完璧に覚える。めんどくさい雑用は言われる前に手伝う。
 出来て当然、ただし自分の力をひけらかさない。子どもの分を超えないように可愛らしく笑うこと。大人のプライドを刺激しない程度に控えめに自分の優秀さを主張し、謙虚な態度でで賞賛を受ける。その努力は実っている。
 大人に対して気を使っている生き方。羨望されるという優越感。
 人の優位に立つには相手が何をして欲しいのかを理解し、そこをちょっと先回りすればいい。自分で言うのもなんだが、私は聡い子供だった。
 ゆえに私は賞賛されて当然、私は誉められて当然。だがあいつは違った。
 
 あの時、父の前に出て行ったあいつは私の理解を超えていた。損得の勘定をなしに行動することの意義は、私には未だに見出せない。
 私が怒られて当然なのに、あいつは父の怒りをそらしてくれた。もしかしすると、父は兄弟子の息子に対して遠慮したのかもしれない。だがその時の父が満足そうな顔をしていたのは忘れられない。
 私はあんなに努力をしていたのに、あいつはなんの計算もなく許され、認められたのだ。平凡でありながらその存在が、私と並び立つことが許されていたのだ。
 その時私は気づいた。自分の中にあるどす黒い感情に気づいた。それはおそらく憎しみというものであろう。
 私が彼と遊ばなくなったのはそれからである。中庭の築山の下から隠されたビー玉を取り出して部屋の机に隠した私はあいつと決別した。
 それからである。あいつと私が途切れることのない争いを始めたのは。
 
 
 
 ○
 
 そんなこんなで土曜日。
 俺はアルファの助言に従い、こざっぱりした衣装で鴇子の来るのを待っていた。滅多につけない、整髪料で身だしなみにもそれなりに気を使っているが、いつもより少々頭が重たく感じる。
 現在九時ジャスト約束の九時半まであと三十分ある。もし遅刻でもしたら、鴇子はこれ幸いと嫌味を言い続けることであろう。あいつはそういう女だ。
 ネチネチと小言を言われながらのデートなぞ楽しくもなんともないし、休日の過ごし方としてはあまりにも不毛である。格好がつくようにと急いだが流石に早く着きすぎた。もちろん鴇子の姿は影も形もない。
 駅前の広場にはこれから山登りに行くのか、登山の格好をした年配の客や、ジャージ姿の学生の集団、家族連れなどが駅に向かって歩いていく。
 初夏の陽射しが徐々に鋭さを増して、朝の冷たい空気をかきまぜていく。天気は快晴、空は青く澄みわたり、草の匂いのする風がこれから夏の到来を少しだけ匂わせていた。外にでかけるにはもってこいの季節と言えよう。
 が、そんなお天気だと言うのに俺の心は沈みきっていた。
 
 デート前の緊張感に気を落ち着けるようにして、俺はペットボトルのお茶をがぶ飲みする。
 「ふう……」
 気が重い。
 それはこれから慣れぬデートを行なうプレッシャーだけではない。
 俺はゴトーならぬ鴇子を待ちながら、俺は先日アルファの残した助言を思い出していた。
 
 
 「鴇子の能力とはセコンドサイト、妖精眼と称された魔眼の力じゃ。その力が旧人類にはもてなかった新種の最大の特徴である」
 ファミレスでの帰り道、アルファは唐突に鴇子の話を切り出してきた。
 「魔眼とか、どこのラノベだよ」
 いきなりの胡散臭い話に俺は思わず突っ込んでいた。
 この子はひょっとして世界で一番偉い女の子でも何でもなく、単なる重症の中二病患者なのかもしれない。いや、いきなりこんな話をすればそう考えるのが普通だ。と言うかだんだんそう思えてきてしまう。
 「この痴れ者が!」
 「あいたっ!」
 アルファの右手が俺のおでこにヒットする。
 「我に胡散臭い目を向けるでない、それと、女子の話を頭から否定するでない。教室でそんなことをしてみろ、ますますモテなくなるぞ」
 「ご忠告ありがたいけどね、俺に話しかける女子なんてほぼ皆無なんだよ」
 俺に話しかけてくるのは、神ロ研をメインとした少数の男子とあとはごっさんのみ。もっともごっさんは女子の中では特別枠なのだが。
 「ならば我で慣れておくがよいぞ。女子との会話をする秘訣はひたすら肯定して下手に出ることじゃ」
 「畏まりましたマドモワゼル、よろしければ話の続きをどうぞ」
 七重の膝を八重に折り、俺は恭しく話の続きを促した。
 「うむ、それでは話の続きじゃ。そもそも我がそなたと初めて会った時、我の眼を見てそなたはどうなった?」
 「あ……」
 俺はアルファの眼に睨まれて、身体が萎縮してしまった過去を思い出す。
 「それは対象の根源までもを透徹する能力じゃ。知るは支配に通じる。その眼にかかれば相手の動きを予想するも、操ることも容易いこと。本領を発揮すれば対象者に気づかれることなく、精神の根源を捉えることも可能じゃろう」
 あの時は己の一番重要な部分を捕まれたかのような圧迫感に苛まれて、身体がまったくと言っていいほど動かなかった。
 「それを鴇子が使ってるというのか?」
 「少し違うな、我と同じように使えつつあると言ったほうがよい」
 「魔眼か……」
 しかし、たいした力だと思うが、人類の新種という割りには地味な力だと思ってしまう。
 手を触れずに物を動かしたり、一瞬で遠距離を移動したりもうちょっとど派手な力を想像していたのだが……
 「そなたが何を考えているかは大体想像がつくぞ。新種と大げさに騒ぎ立てたわりには、地味な力じゃと拍子抜けしておるのであろう」
 「それが解ってて、どうしてそこまで鴇子にこだわる? すごい力だとは思うが、それで人類の未来が決定するとは思えないだけど」
 まあ、鴇子がその力を利用して独裁者としてこの世に君臨するのであれば話は別だけど。あいつの性格から言ってそれはない。
 「勘違いしてはならぬ。魔眼とは理解の及ばぬ人間が既存の理屈を当てはめた説明に過ぎぬ。この力の本質は単に眼力が通じるという話ではない」
 とそこまで言って彼女は俺に向き直った。
 「我々の精神は無意識という深い海溝に混沌という根源をもつ、一概に人の根源をとらえるという行為はその対象となる混沌に降り立つことじゃ。無意識という深い海溝に降り立ってもなお自我を維持しようするそれは聖人の悟りに他ならない。その時の鴇子がどういう存在になるかそなたは想像がつくか?」
 「いや……すまんまったく思いつかない」
 「そうであろう。闇を覗く時、闇もまたこちらを覗いている。混沌を見通す眼をもった存在になった鴇子には、そなたたちとまったく違った視界が広がっているはずじゃ」
 「ゆえに多くの人間の心という深淵を覗いてきた鴇子は人間を超えた何かであることは間違いないのではないということか」
 「その通り、それが新種である鴇子の本質じゃ」
 アルファの話を聞きながら俺は鴇子の横顔を思い出した。彼女が何か遠くを見つめているようで、何を見つめていたのか想像がつかなかった。
 鴇子は確かに俺が知っている鴇子とは違う人間になりつつあるのかもしれない。
 
 「なるほど、いろいろと理解した。だが、俺はお前にいいたいことがある」
 俺は冷ややかな目でアルファを見つめる。
 「何じゃ?」
 「そんな物騒な力を俺に使ったのかよ!」
 「まあ……そのほうが手っ取り早いと思ったのでのう……」
 「くっ……! こ、こいつは……」
 「あ、安心せい。もはやそなたを操るつもりはないのじゃ。実際そなたには我の眼は通じなかったし……」
 「出来たらやってたんかい!」
 こいつは俺をも操るつもりだったのか? だとすれば、やはり付き合い方は考えなければならない。
 「しかし、鴇子とのデートの時は用心しないなとな……気を抜くといつ心を抜かれて操られるかわからん」
 現にアルファの眼には危うく操られそうになっていたのだ。もし鴇子が俺をその眼を使って俺を操ろうとしたら……
 「今までの意趣返しに裸で商店街を駆け抜けさせたり、全校生徒の前で自作のポエムを朗読し始めたりしたら……」
 「ま、それは大丈夫じゃろ」
 「なんでだよ」
 「同じ力じゃと言ったろう? 我の眼に対抗できたのじゃから、鴇子の眼にも耐性があるはずじゃ」
 「あ……」
 確かに何度も鴇子には見つめられたが、俺は特に彼女に心酔することもなく生活をしている。
 「だけど、それなんでだ? アルファの時はあんなに激しかったのに」
 「そなたと鴇子は同じ精神を分け合う存在じゃからじゃ。供に人の及ばぬ岸辺に立ち、同じく川の流れを見つめ続け、遂には等しく夜を分かちあうようになった。それは社会との関係性を喪失していく作業にほかならぬ。言い換えればそなたが鴇子を作ったとも言えるのじゃ」
 「お、俺が……?」
 その言葉に俺は少し怖気が走った。
 俺と鴇子の積み重ねてきた年月がそんな不可思議な作用を働かせるとはとても思えない。
 もし俺が鴇子と同じ岸辺に立つのであれば、俺は何か超常の力を手に入れただろうか?
 「……」
 いやそんなことはない。
 俺は普通の学生だ。実家が和菓子屋をやっていることを覗けば何処にでも居る普通の男子高校生。みんなと同じように米を食べ、赤信号でも立ち止まる平均的な日本人だ。
 「ゆえにそなたは鴇子に耐性があり、その本質を維持しているのじゃ。我が鴇子の伴侶にそなたを選んだのは単に幼なじみであったからでも、酔狂でもないぞ。フランケンシュタインの製造者には相応の責任をとっても貰わねばのう」
 「だから俺に夫婦になれとか言い出したのかよ」
 「うむ、結局のところそれが鴇子を俗世に結びつけるには一番簡単な方法じゃからのう」
 満足げに頷くアルファ。
 そこのところだけ聞けば、アルファは俺と鴇子をくっつけようとしているおせっかいな世話焼き少女に過ぎないのだが……
 「以上の結論をもって、そなたは鴇子の心を聖から俗への質的変換を計らねばならぬ。女性のふとももを覗いて堕落した久米仙人の逸話にあるとおり、やはり色事というのは心の天秤を傾けるには最たる重しであるからの」
 「要するに忠実なる学究の徒であったファウストを堕落の極みへと誘うメフィストへレス、それが俺の役目なのか……」
 「なるほど、それは言いえて妙じゃな」
 アルファは嬉しそうに笑った。
 「自分で言っておきながらなんだけど、それは絶対に不可能な気がするな……」
 そもそも俺は鴇子とそこまで関係を密にすることを望んでいない。
 「そうかのう。ファウスト博士はメフィストへレスの誘惑を望んでおったはずじゃ」
 メフィストに誘われ広い世界を望んだファウストは、その見聞を得るのと引き換えに賭けをした。もし、ファウストが自分をその瞬間に生きることを望み『時よとまれ、おまえは美しい』と口にすれば、ファウストの魂はメフィストのものとなってしまう。
 広い世界を探求し、常に自然と対峙し続け理性の力でこの世の謎を解きほぐすため永遠の遍歴に出たファウストであったが、遂に最後にはその言葉を口にしてしまう。超常者として普遍の理から外れ、世界を俯瞰していたはずのファウストは、最後の最後で自分が世界の一部となることを望んだのだ。
 果たして、俺が鴇子にそう思わせることが出来るだろうか?
 「ま、とりあえずは次のデートじゃな」
 「そうだな。その力とやらには一応気をつけておこう」
 「そなたの耐性と我の眼を跳ね返した胆力があれば大丈夫じゃろう……たぶん」
 俺の目をそらしながらアルファが答えた。
 「たぶんって何だよ! そこはっきり言えないとこなのかよおい!」
 「よほどのこともでなければそなたは操れんじゃろう。もし、そなたが心を奪われて腑抜けになって戻ってきたのであれば……」
 「おう」
 俺は釈迦の垂らした蜘蛛の糸にすがる罪人になった気分で、身を乗り出す。
 「我が引導を渡してやるので安心するがよいぞ」
 そう言ってアルファはこれ以上ない笑みを浮かべた。
 全然安心できないんだけど……
 
 
 以上、回想終了。
 俺の意識は現実へと帰還を果たし、駅前の広場で鴇子を待ち続ける。
 その不可思議な眼力を聞いてからというもの若干……いや、かなり後悔しているのだが、今さらデートを前にして逃げ出すこともできない。俺が鴇子を新種へと進化させる原因を作ったと聞かされたらなおさらだ。
 ひょっとしたら、俺に責任を負わせることで鴇子に対する行動を縛ろうとしているのか……だとすれば、アルファは眼の力を使わずとも俺を操っていることになる。
 結局、危ない目にあっているのは俺自身じゃないか。あいつも安全な場所から好き勝手言ってくれる。
 ふと時計を見ると現在9時20分、鴇子はまだやってこない。
 駅前の広場にはベンチに座る老人夫婦と、これから何処かでイベントがあるのか、バス亭で時間をチェックしているゴスロリ姿の女性が見える。
 
 「はあ……」
 俺は本当に出来るのだろうか? このザマで鴇子と仲直りなんて……いや、話を聞いた後では、このデートを無事に終わらせること自体難しいように思えてくる。
 アルファは余程のことがなければと言っていたが、その余程を行なうのがあの鴇子という女である。鴇子が普通の凡庸な乙女であれば、俺はこんなに苦労しないで済んだのだ。
 「大丈夫かなあ……あの傲岸不遜で、慎み深いのは表面けだの常に自分中心の天動説女と仲良くデートなんて……」
 「天動説女って何よ?」
 意外な方向からかけられた声に反応し、俺は俯いていた顔を上げる。
 「え……?」
 しかし、そこには先ほどバス停で時間を見ていたゴスロリの女の子が居るのみ。
 レースの付いたゴシックドレス、髪を両側に結わえたツーサイドアップ。前髪を垂らして目元が隠れているため、その全貌は見えないが、整った顎のラインはかなりの容姿を持つ女性かと期待させた。
 そう、あの鴇子のように……
 「お、お前……ひょっとして……」
 「ふふ、大成功♪」
 そう言って女の子は髪留めを取り出し、髪を横にかき分けた。
 「と、鴇子!」
 垂らした髪の奥から見慣れた顔が現れる。それは紛れもなく我が幼なじみ鴇子である。
 「誰かに見られないように用心してたんだけど……ふふ、思ったより効果あるみたいねコレ」
 「くっ……まさか、ゴシックドレスで来るとは……」
 晴れ着と言えば和服で統一していたため、俺の記憶にも鴇子のドレス姿はお目にかかったことがなかった。
 「憶えておきなさい。パターン化された人間の脳は、認識を阻害するのよ」
 そう言って鴇子は笑った。
 「く……!」
 なんだよこれ、この格好は似合い過ぎだろ!
 いつもはストレートに伸ばしているはずの髪を左右に垂らし、髪がさらりと揺れるたびに俺の繊細な心を揺らす。
 紺を基調としたレースのついたロングドレスは、もうこれ以上ないくらいに、鴇子の落ち着いた雰囲気に似合っていた。
 畏れていた余程のことは起こったのである。正直、平常心を維持することさえ難しい。
 「もしかして……誰かに見られても誤魔化せるよう、変装してきたのかお前」
 俺は気持ちを整えて、ようやくそれだけの言葉を吐き出した。
 「その通り、私がこんな格好をするなんて誰も思わないでしょ?」
 確かに普段の鴇子は、着物を着て和室でお茶を飲んでいるイメージだからな……
 「設定もあるんだって、え~~っと……私は天壌無窮なる戯曲に歌われし12の魔を率いる貴族。地獄界の第八圏、第五の嚢にて亡者を罰せっしはこの我、災いの尾ことマラコーダであるぞ!」
 鴇子は左手を腰に右手でピースサインを作って目の前に持っていき指の間から瞳を覗かせる。どうやらキメポーズらしい。
 「なにそれ……?」
 「そんなアニメがあるんだって。私は良く知らないけど」
 どんなアニメかは知らないが、どえらいものを作ってくれたものだ。おかげでこっちは、今にも死にそうなほど胸が高鳴っている。これがネットでいうブヒるという奴か。
 「お前……実は結構楽しんでないか?」
 「まあね普段と違う自分を実感するって感覚、なかなか楽しいものよ」
 そう言う鴇子は勝ち誇った笑みで、こんな痛い女と一緒に歩ける? と問いかけてきている。確かにデートの相手がこれでは、俺の良識が疑われる。そうして俺と一緒にいる状態に負荷をかけようとしているのだろう……
 が、しかし、鴇子の場合は普通に似合っているのだ、似合いすぎているのだ。おかげで街ゆく男たちから嫉妬の交じった視線を感じる。鴇子はそれが解っていない。
 「我を召還せしはそなたであろう? さあ望みを言うがいい。汝の魂を秤にかけて、我は諸々の咎を感得せん」
 「ぐっ……」
 その瞬間ぐらりと視界が揺れる。
 きた……!
 アルファの時と同じく、自分の重要な部分を掴まれたかのような感触。
 普段ならともかく、俺の心は限界を突破しようとしている。
 もはや俺に購える術はない……
 
 
 
 ●
 
 「なんじゃ、なかなかめかしこんでおるではないか」
 そんな二人の姿をアルファが物陰から隠れて観察していた。
 デートは待ち合わせからの出会いの印象が、ことを大きく左右する。その点で言えば、鴇子の気合の入った衣装は基準点を大きく上回っていると言えよう。 
 「うっわあ……まったくトッキーたら、どういうつもりなんだろ」
 そして瑞希もまた、そんな二人の姿を物陰から隠れて観察していた。
 デートの成否は出会いの印象が、ことを大きく左右する。瑞希の観点から言えば、今の鴇子の格好は大きく基準から外れていた。
 「どこぞの同人イベントじゃないんだから、あんな格好で街を歩くなんて……」
 「そうですか? かなりおめかししていると思いますけど」
 「え……?」
 瑞希が横を見ると、噂の転校生マキナがそこに居た。
 しかも彼女が着ているのは、鴇子と劣らぬフリフリのゴスロリドレスである。いや、濃さという観点から見れば、金髪で西洋人のマキナのほうがはるかに似合っている。
 「えっと、北条……さん……?」
 「マキナで結構ですわよ。瑞希さん」
 「それ、普段着なの?」
 「おかしいかしら、私の田舎ではいつもこんな感じですよ?」
 どこの外国の田舎かは知らないが、日本の地方都市には場違いな格好である。しかし、上品に微笑んだ彼女からは余裕が感じられた。
 (そのドレスがフォーマルだなんて、どんな暮らししているんだろ)と瑞希は思った。
 「もしかして……あなたもトッキー達のデートの観察にきたの?」
 「他人の色恋沙汰に顔を突っ込むのは、洋の東西を問わぬ乙女のたしなみですから」
 「だよねー、こんな面白いイベントそうは見えないし」
 瞳に同じ光を宿した二人は、密かに同意の笑みを交わした。
 乙女の友情がここに結ばれたのである。
 
 「でもさでもさ、トッキーのあの格好、初デートには不向きじゃないかな?」
 「ご不満ですか? 鴇子さんには、似合ってるみたいですけど」
 「あんな変な気合の入り方されたら、男の子のほうが引いちゃうって」
 瑞希は必死で否定する。どうやら、彼女のファッションセンスは独特の感覚があるとアルファは判断した。
 「普通にサマードレスとかワンピースでいいと思うんだよね。見た目は髪の毛ながくて清楚系なんだし。いくら他人に見られたくないからって、ゴスロリはないと思うな」
 やや憤慨しながら瑞希が言う。
 その様子からデートで奇矯な行動を取る友人の未来を心底案じているのが解り、アルファはほほえましく思う。
 「確かに少々、周りの風景には一致してないと思いますけど……」」
 「でしょ? そういうものなのよ、ここはフェスでも、即売会の会場でもないんだから。あれは相手にプレッシャー与えちゃうもん」
 「なるほど……」
 確かにそうかもしれないと、アルファが頷く。
 となればこのデートは荒れるかもしれない。
 早々と立ち込めてきた暗雲に、彼女たちは祈るような気持ちでデートを見守った。 
 
 
 
 ●
 
 「ふふ……♪」
 声を掛けた瞬間の彼の驚いた顔を思いだすたびに思わず笑みがこぼれてしまう。
 思惑は大成功。
 これで誰かに見られても見破られる心配はないし、あいつの企みにのせられる前に主導権を奪えるはずだ。
 不本意な取引に応じた形になったが、私だってこの映画は見たい。少し恥ずかしいけど、好きな映画のためなら手段は選んでいられない。何しろステキなファンシーキャラたちがスクリーンで私を待っているのだから。
 思わずステップを踏んでしまうくらいに私は浮かれていた。

 「いい? これから観に行く映画はピンキーノイズと言って魔法の国からやってきた可愛いキャラと、女の子たちの心の交流を描いたとても心温まる素晴らしい作品なの。本来は子供向けだけど登場する女の子が可愛いから、大きなお友達にもファンが多いわ。あなたの役目はそれ目当てのオタク、私はしょうがなく付き合わされる痛い系のカップルということで……」
 「…………」
 「ん?」
 ふと気づくとあいつは、心ここにあらずという感じで私を見つめている。
 「ねえ、私の話聞いてる?」
 「ああ……聞いてる」
 どうしたことだろう? さっきから妙に反応が鈍い。
 本来であれば、カップルとか言った拍子に向こうから突っ込んでくるはずなのに。
 「どうかしたの? まさかチケットを忘れたとか言わないわよね?」
 「大丈夫だ、ここに持ってる」
 あいつは今までにないはっきりしたまなざしで私を見つめてきたので、私としたことが、やや意表をつかれてしまう。
 「そ、そう……それならいいけど……」
 奴の言動はストレートで迷いがなかった。もしや何か私の想定している以上の邪悪な罠を張り巡らせているのでは……
 「ん~~……」
 と思って彼をじっと見つめるが何も見えない。いつもの自分なら、なんとなく考えていることが察せられるのだが……
 「まあいいわ。そろそろ行きましょう。早めに行って良い席を取らないと」
 映画館に向かって歩き出そうとした瞬間、横から延びてきたあいつの手で歩みを止められた。
 「何よ?」
 「…………」
 やはり様子がおかしいわね? ひょっとしてこの衣装はやりすぎたかしら?
 と考えていると、あいつはとんでもないことを言い出した。
 
 「鴇子、やはり結婚してくれ」
  
 「はあ??」
 その瞬間、私の時は止まる。
 「いきなり何を言ってるのよ! っていうか『やはり』って何?」
 「そこはどうでもいいんだ!!」
 「……っ!?」
 「人が決意した時、事を起こすのはその時がベストなタイミングなんだよ! そうは思わないか鴇子?」
 「そ、それは……そうかもしれないけど……」
 何? ホントどういうつもりなのよこいつ!
 「いや、そうだな、いきなりはまずいか……すまない忘れてくれ」
 あいつが珍しく殊勝に頭を下げる。
 信じられない……
 無駄に高いプライドだけが取りえのこいつが、私に謝ってくるなんて……
 「今はとにかく映画だな。だが、お前と映画に見にいけるだけで、俺は幸せすぎて死にそうだ。もしかして死ぬかもしれない。だから、俺がもし無事で生きて帰ってきたら、その時は結婚してくれ」
 「え……あ、うん……」
 あっけに取られる私。
 今日のこいつはいつもと一味違う。まさかこちらの意表をついてくるなんて……
 「……!」
 そうか、そういうことね。
 そうやって馬鹿っプルのフリをして、私を恥ずかしさで耐えられなくしてやろうと、そういうわけね。上等じゃない!
 「さあ行くぞ、俺たちの運命の場所へと!」
 あいつは私の手を取った。しかも恥ずかしい台詞つきで、かなり痛い。
 だけど、その勝負のったわ! どちらが先に音を上げるか、勝負といきましょう!
 「そうね、行きましょう。私たちの運命の待つ場所へ」
 私は負けじと先ほどのポーズを決めた。
  
 
 ●
 
 「男の子ってちょろいねー、完全にトッキーの術中に嵌ってますねえ」
 「あの馬鹿モノ……我があれほど、注意したというのに……」
 「あれ? 今なんか口調が……」
 「いいえ、なんでもありませんわ」
 誤魔化そうと丁寧口調に戻したがもう遅かった。瑞希はアルファに向かって疑惑のまなざしを向ける。
 「怪しいなあ……なんか怪しい……」
 瑞希は不審な目をアルファに投げかける。
 「トッキーも気になるけどさ……マッキーと彼の関係も気になるんだよね私」
 「単なるお友達ですわよ」
 「彼のお友達になれる時点でもう普通じゃないんだよ。そこ自覚しよう」
 ひどい言われようではあるが、確かにその通りだとアルファは思った。焦って彼と接触をもったのが、まずかったかもしれない。
 「さっき注意したって言ってたよね? マッキーひょっとして後で糸引いてない?」
 「……さあ、何のことかしら?」
 核心に近いことを言われて、一瞬言葉が詰まる。
 「ぬぬぬぬ、やっぱり! その反応は当たりだね! 何かしたんだね!」
 「あ、ほらほら、二人が映画館に入っていきますよ。急いで追いかけないと」
 「あ、ちょっと待ってよマッキー! チケット購入しないと!」
 
 
 ●
 
 映画の終了のブザーと供に私たちは街へと出てくると、ほんの二時間ぶりの太陽の光が眩しく感じた。
 映画館の中では、あいつはまったく口を効かなかった。
 てっきり、君のほうが可愛いよとか、そっと手を握ってきたりとかそういう不埒な行為に及ぶかと思って覚悟していたのだがちょっと肩透かしだ。
 こいつのことだから、女の子とのデートの仕方なんてわからないんだろう。であるならば……次の行動は決まった。
 「映画、面白かったわね」
 普段では絶対に出さない甘えた声で、私はこいつに擦り寄っていく。
 ふふ……童貞のこいつには、この手のスキンシップには慣れてないはず。さあ、うろたえて無様な姿を晒すがいいわ!
 「そうか?」
 「面白かったじゃない! 自分から誘ってきたくせに寝てたの? ピンキーと早苗ちゃんの麗しい友情を観てなかったの? 一体あなたは何しに来たのよ!!」
 「お、落ち着け鴇子、みんな見てるぞ」
 「あ……」
 ふと気がつくと、周囲の目は私たちに注がれている。タダでさえ目立つ服装をしているのに、これは失態だった。
 「ご、ごめん……」
 好きな作品をスルーされて、思わず素の自分が出てしまう。しまったと思ったときにはもう遅い。こいつは恐らく勝利の笑みを……
 「すまん、ずっとお前の横顔を見つめていたからな。何しろ隣にお前が居るんだから、俺にとっては映画どころじゃなかったんだよ」
 いなかった。
 「二時間ずっと?」
 「ああ、二時間ずっとだ」
 ふーん……な、なかなか上手く返して来るじゃない。
 「お前が笑い、喜び、泣いている表情があまりに美しくて、俺は時間がたつのも忘れ、お前の横顔に見入っていたんだ」
 「な……」
 不覚にも私はその言葉に反応できなかった。
 「なんなのよそれ、ジョーク?」
 「嘘ではない本当だ!」
 急にずずっと近づき私の眼前へと顔を寄せて。私は圧迫される形になる。
 「ちょ、ちょっと……」
 そのまっすぐな視線で私を捉え、瞳の中には私が正面に写っているのがわかった。
 幼なじみである私の経験からすると、確かに嘘は言っていない。小さい頃からの付き合いだから相手が嘘を言っているかどうかは、簡単に読み取れる。
 だが、こいつが本気で私にアプローチを仕掛けてくることなんてありえるわけがない。
 結論、つまりこれはブラフね。甘言を弄して私を落とし、その後に本気になった私を手ひどくフッてその醜態を笑おうとしているのだ。うん、間違いない。これ絶対!
 「しかし二時間では短すぎたな。次は一緒にイントレランスを観に行こう。最初の編集バージョンで」
 「八時間も視姦されてたまるか!」
 「え?」
 「あ、ごめん、なんでもないのよ、(てへり)」
 と私は可愛くポーズをとる。
 くっ……屈辱!!
  
 気を取り直してデートを再会する。
 「不思議だな、鴇子と歩いているだけで、いつもの街の風景がどうしてこうも美しく見えるのだろう」
 「はは…………」
 あいつは相変わらず私の隣でロミオを演じている。ジュリエットは断じて私ではない。ゆえにそもそもこいつが私のロミオであるはずがなかった。
 それにしてもあの鬱陶しい演劇調の喋り方だけでも、なんとかならないものかしら?
 そもそもこの程度で女が喜ぶと思って居るの? そうだとしたら随分と馬鹿にされたものだわ。
 私は『ずっと見つめていたい』とか言われたぐらいで、簡単に靡くような女じゃない。
 だが、それでもあいつに主導権をとられているのは事実だ。
 「くっ……」
 ああ、よりにもよって、私の得意分野でこいつに一本取られるなんて……あまりの悔しさに拳をぎゅっと固めてしまう。
 腹の探りあいなら、いつも私がいつも勝っていたのに……見下していた相手に先んじられるとは……なんて屈辱なのかしら!
  
 「おい、どうした鴇子?」
 「はっ……」
 気が付くと、私は壁に向かって拳を打ち付けていた。
 「こ、これは、その……ワンインチパンチの練習よ! 懐にもぐりこんで、こうっ!」
 「なんでそんな練習を?」
 「そっち目指してるから!」
 目指してないわよ! 勢いで何を口走ってるの私は! 明日に向かって打つつもりなんてまったくない!
 「へえ……そうなんだ……」
 あんたも遠い目をして頷くな! 鵜呑みにするな!
 「てっきり、『郎月庵』を継ぐのかと思ったけど、意外だな。だけど鴇子が目指すなら応援するよ、頑張ってバイクじゃないほうのチャンピオンロードを目指してくれ」
 「う、うん、ありがと……」
 ああ、ほんの一瞬で女ボクサー志望にされてしまった。人の過ちって元に戻せないのかしら。ああ、ほんの数分でいい。おぞましい過去を洗い流してしまいたい。
 今日の私は私は調子を狂わされっぱなしだ。敵の企みが分かった以上、醜態を晒すことはできない。
 こいつのペースにのせられないよう、気を引き締めないと。
 
 
 「そうだ、これやってみないか」
 へ……?
 あいつが急に立ち止まったのはゲームセンターだった。その入口にはプリクラの筐体がでんと置かれている。
 「それって、もしかしてプリクラ?」
 「変なこと言うな鴇子は、洗濯機に見えるか?」
 今の私にとっては洗濯機のほうが数倍マシだろう。
 などと言ってる場合じゃない! どうしよう?
 誘いに乗れば、確実に物証を残すことになるわ……それだけは何としても避けないと。
 「だ、ダメよプリクラなんて!」
 「なんで?」
 「お婆ちゃんの遺言で、写真は魂を吸い取る道具だから気をつけろって」
 「鴇子のお婆ちゃんってまだ生きてるだろ?」
 「母方じゃなくて父方のほう!」
 「おじさんのほうってタキさんか? 小さい頃よく遊んでくれたよなあ……ってタキさんって亡くなったのか? 何時だよ!」
 しまった……そう言えば幼稚園の頃は夏には毎年、こいつの家族と一緒にお婆様のお家へ遊びに出かけたわね。昔から家族ぐるみの付き合いをしてたのをすっかり忘れてたわ。
 「ああ、母さん? さっき鴇子からタキさんが亡くなったって聞いたんだけど……うん、そうそうおじさんのお母さんのほうの、夏休みによく遊びにいったろ?」
 私は瞬時にあいつの手から携帯を奪う。
 「今のは嘘です! もうすっごい元気ですから」
 と言った瞬間電源を切った。
 「お、おい、いきなりどうしたんだよ」
 「大丈夫、とにかくお婆様は元気だから安心して」
 「お、おう……」
 ふう……あやうく狼少女にされるところだった。これもトラップなら侮れないわねこいつ……
 「それじゃ、入るか」
 「え、あちょっと……」
 私が止める間もなく、プリクラの筐体の中へと引き込まれる。
 「フレームどうする? 鴇子の好きなの選んでいいよ」
 「な、なんでもいいわよ。早くして」
 狭いなあここ……こうまでこいつと密着していると落ち着かない。
 それに完全に相手の間合いだ。これではどのような行動をとろうが逃げられない。
 こうなったら、写る瞬間に髪の毛を垂らして顔を隠すしか方法がない。うん、そうしよう。最悪顔がばれなければいいんだから。
 「それじゃ、撮るぞ。ほらこっち来て」
 今だ!
 タイミングを見計らって、私は髪止めをすばやく引き抜いた。髪の毛がはらりと落ちて私の視界をさえぎる。
 成功だ。悔しがるこいつの顔が目に浮かび私は勝利を確信した。
 「鴇子」
 その時のこいつの動きはあまりにも自然であったため、私は反応することが出来なかった。
 いや……と言うより悪意や敵意といったものには私は敏感だが、そういう感じではなかった……と思う。
 「せっかくの綺麗な顔なんだしさ、ちゃんと顔を見せたほうが良いって」
 「……!!」
 
 気が付くと、あいつの手が私の髪をかきわけていた。
 掌ごしにあいつの体温が伝わる。それは他人では決して近づけるのを許さない距離。ましてや女の命である顔を触れさせるなんて言語道断。
 だけど、どうしてだろう……相手はあいつなのに、ひどく落ち着いている自分がいた。
 パシャッ!
 「……っ」
 光が瞬いてプリクラが撮られる。
 その瞬間私は我に帰って自分がどこに居るのかを思い出す。
 そうだ、プリクラは……!
 「すまん。俺の手が邪魔してるなこれ」
 出来上がったプリクラは、あいつの手に阻まれて丁度私の顔が写ってない状態で仕上がっていた。
 「しょうがない。もう一度取り直すか?」
 「いい」
 私はキャンセルボタンを押そうとするあいつの手を遮る
 「いいのかコレで? 顔見えないけど?」
 「うん、これでいいから……」
 自分が何をしているのか、私は理解していなかった。
 本来なら証拠をのこすべきではないのに、だけど、どうしてもあの瞬間だけは、消していけない気がする。
 「頂戴」
 「え、うん」
 差し出した掌に半分に切り取ったプリクラがのせられる。
 私はそれをポケットにしまい込んで、これ以上考えないことにした。
  
 非常に疲れるプリクラも終了し、そろそろお昼の時間。
 「ところで、そろそろ腹が減らないか?」
 とあいつは呟いてきた。
 きたっ……!!
 私はこの瞬間を待っていた。
 映画の後はおそらく食事。となれば、どこかのお店に連れて行かれることぐらいは当然予想がついている。これは勝負なのだ。勝負とはルールを把握し、そのルールを決定する人間が勝利の美酒を味わう。
 例えば連れて行かれた店に、人を配置して私たちの姿をカメラに捉えたり、最悪のパターンはいくらでも想像できる。相手の示す順路に素直に従うほど私は甘くはない。迷路に入れば壁を壊すのが私という女だ。
 「そう言うと思って、お弁当を用意してきたわよ」
 少し重量のある流水紋の風呂敷包みを取り出した。ゴシックのコンセプトにはジャンル違いではあるが、他に適当な包みがなかったので致し方ない。
 「お弁当……だと……」
 驚愕しているあいつの顔。ここでようやく一歩リードかほくそ笑む。
 「お前それ、どっから出したんだ?」
 「……女の子には秘密が一杯なのよ。頼むからそこ突っ込まないで」
 「いや……なんて素晴らしい!」
 あれ?
 「お前もそれほどまでに、このデートに力を入れてくれてたのか!」
 「ちょ、ちょっと待ってよ! これってマジでデートなの?」
 「そう言ったろ? だいたい男と女が二人で出かけるんだから、デートに決まってるだろ!」
 「え、えーっと……確かにそうなんだけど……」
 面と向かって言われると少し恥ずかしい。男女交際は苦手だ、私も修行が足りない。
 「まさかお前がそこまでしてくれるとは……」
 こっちはこっちで本気で驚いているように見える。本気なのか、それとも私を偽ることが出来るほど、どこかで修練を積んできたのか……
 「さあ、近くの公園に行こう、今日は晴れているからきっと気持ちいいぞ」
 「え、ええ……」
  
 
 ●
 
 「単純だねえ男の子は」
 と隣の瑞希が言った。
 アルファと瑞希の二人は電柱の影に隠れながら、対象にばれることなくピーピングを実行している。
 「でも手作りお弁当ならポイント高いですよ」
 「にしてもさあ、マッキーって何者? 私、映画館を顔パスで入れるなんて思ってもみなかったよ」
 「あの映画館を運営しているグループの出身母体は私の家と関係があるのです。あらかじめ、手を回しておきました」
 「さらって言ったけどさあ……まさかそれって、今回の尾行のためパパにお願いしたの?」
 「謀は密を持って良しとするのが、私のポリシーですから」
 「そんなお金持ちが彼とお友達……なんかますます謎だなあ、君たちって」 
 
 
 ●
 
 大曲垣海浜公園はその名の通り海に面した公園である。
 江戸時代は北前船の寄港地として栄えたこの街の歴史を表すかのように、公園の中には再現された千石船が置かれている。
 公園の中は休日を楽しむ家族連れや、トランペットの練習をしている学生などでにぎわっていた。
 適当に歩いて空いているベンチに落ち着いた私は、早速お昼の弁当を開いた。
 
 「さ、召し上がれ」
 「おおっ!」
 あいつから狙った通りの歓声があがる。風呂敷から出てきたのは、母のコレクションから拝借してきた黒塗り南天蒔絵の三段重である。
 一の段には、鶏肉の旨煮、海老の黄身焼き、鴨の燻製、焼きかまぼこなど肉を中心に配置し、二の段には煮物と酢の物、メカジキの照り焼きと卵焼きと豆金時、三の段は黒胡麻ののた俵おにぎりと、香の物。
 朝から早起きして母から習った全てをぶつけた和風のお重弁当。少々作りすぎた感もあるが、相手の度肝を抜くに相応しい豪華な陣容と言えるだろう。蒲鉾や燻製は出来合いのものだが、他はすべて私の手作り。これで満足せぬ男などいないはずもない。
 
 「美味い! 美味いぞこれ!」
 と言いながら鶏肉の旨煮をおいしそうにほおばる。
 自分が作った料理を喜んで食べてくれるのは、相手が誰であっても気分がいい。
 「卵焼きは甘くしといたわよ。あなたそっちのほうが好きでしょ?」
 「お前、俺の好みを憶えておいてくれたのか」
 「だって昔遠足に行ったときは、お弁当の玉子が辛かったって交換してあげたじゃない」
 あれはまだ小学校の時分だったと思う。あの頃はまだあどけない私たちだった。
 「鴇子が俺のために……」
 ふと見ると、あいつの箸の動きが止まっていた。
 「どうかしたの? 味付け少し濃かったかしら?」
 そろそろ蒸し暑い時期にさしかかるため、普段よりも味を濃くしていたのだが、合わなかっただろうか?
 「違う、昔を思い出していたんだ」
 「昔……?」
 「よく遊んだよな……」
 「う、うん……」
 昔と言われて、私は走馬燈のように過去の情景が頭をめぐる。
 一緒に歩いた春の桜並木、一緒に遊んだ私の家の庭、一緒に泳ぎに行った海水浴場。
 今ではありえないと思えても、それは確かに私たちの過去であったのだ。
 「何時以来だろうな、俺たちが一緒に飯をくわなくなったのって」
 小学校の中ごろから、私とこいつはもう仲たがいをしていてたから……
 「たぶん、短く見積もっても六年……じゃないかしら?」
 自分で言っておきながら、あまりの時間の長さに私は驚いた。六年と言えば小学一年生だった子どもが中学に入ってもおかしくない。沖縄の古酒なら二本分、パルミジャーノチーズだって余裕に作れる年月だ。
 一言でいえるには色々ありすぎた時間、その間に私たちは高校生になった。
 「そうだね……久しぶりかも……」
 それを考えると、私たちはちょっと遠い場所に来てしまっている。もはや私たちは小さい頃の仲良し幼なじみではない。
 「すまん変なこと言ったな。大事に食べるからな、この弁当」
 「うん……」
 こいつがしんみりしているのも解る気がした。
 遠いのだ、六年のというこの年月が。
 何しろ、今まで生まれてきた時間のおよそ三分の一を占めるのだから。その間に私たちは子どものようにいがみ合い、感情をぶつけ合った。一体どれだけの労力を浪費し、どれだけのモノを失ってきたのだろう。
 もし……もし私たちがいがみ合うことなく、良好な関係を続けることが出来たのであれば、今頃どうなっていただろうか?
 どんな交友関係を築き上げ、何を心に秘めて生きているだろうか?
 そしてこいつとは、どんな間柄になっていたのだろう?
 私は夢想する。その穏やかに流れていく時間を。
 だが現実の私たちは、そうはならなかった。
 あの頃の、家の庭で遊んだ私たちと今の私たちが同じ存在であるはずなのに、いまいち実感がもてないのだ。だから彼は六年と積み重ねたあの頃の違いに――その六年の年月に思いを馳せたのだ。
 ゆえに彼は夢想する。ゆるやかに過ぎていく平和な時の流れを。ありえなかったもう一つの未来を。
 それはきっと、今この時、木漏れ日のもれるベンチで一緒にランチを分け合うような……
 
 「鴇子、お茶」
 「え……?」
 彼の声が私を現実へと帰還させた。
 「お茶なくなったから買ってくるよ。お前何がいい?」
 そして目の前にには現実の彼。
 「紅茶の無糖で」
 想像と現実のギャップに呆然とした私は、反応するのに時間がかかった。
 「和菓子屋の娘が舶来嗜好かよ、そこは緑茶だろ?」
 「だって、この服に似合わないでしょ」
 「それは言えてるかもな」
 納得したのか彼は去っていった。
 お弁当は順調に減っている。どうやらもくろみは大成功である。
 あいつも喜んでいるし、頑張って作った甲斐があったというもの……
 
 「って違うでしょ!」
 大きな声で私は青空に突っ込む。驚いた鳩が白い雲に向かって飛んでいった。
 一体何をしているの私は? あいつのためにお弁当を作って、一緒に食べて……そりゃデートだからそういうこともあるだろうけど……でもこれは普通のデートとは違う。
 私とあいつの関係はもっと殺伐とした……そう例えるならカジノで腹を探り合うディーラーとギャンブラーのように渇いた関係のはずであった。お互いに興味があるのは、手にするチップのみ。駆け引きを駆使し、時にはイカサマも使い相手の手からチップを掴み取る。ただそれだけが私たちの関係であったはず。
 それなのに……今の私は敗北を感じざるをえない。山積みになっていた私のチップは何処に消えたのだろう?
 ついさっきまで、ディーラーの私が完全な罠を張って、未熟な客に火遊びの怖さを教えていたはずである。私が勝ち、あいつが負け。そのたびに仮面の下で優越の笑みを楽しんでいたのが私のはずなのに……
 「それなのに、どうして私は、私は……!!」
 あいつとランチを楽しむことを……ちょっといいな♪ なんて思ってしまったのか! ああ! 気の迷いにも程があるわ!
 「はあ……はあ……落ち着くのよ鴇子、こうなったらお弁当に入れるかどうか悩んだあげく、結局使わなかった睡眠薬を今ここで……」
 「それは犯罪だよトッキー」
 聞き覚えのある声に思わず振り向く。
 「み、瑞希! あなたどうしてここに!」
 「私も居ますよ。ごきげんよう喜連戸さん」
 そこには私の良く知るクラスメイトと、良く知らないことになっているはずの転校生がいた。
 「そう……ひょっとして、つけて来るかと思ってたけど貴方たちだったのね」
 おそらくこいつ。
 このマキナとかいう少女……この少女こそが、今回の黒幕だ。
 でなければ、今日のあいつの行動は説明がつかない。
 
 「で、今日のこのデートはあなたが後で糸を引いていたというわけ?」
 「人聞きが悪いですね。少し彼のお手伝いをしただけですよ」
 私は常人なら卒倒するほどの敵意を向けて睨んだ。しかし、彼の女は何処を吹く風で平然と受け流す。
 それだけで相手が尋常の人間ではないことがわかる。
 「え、え? 何……なんで対決ムードなの?」
 「いい加減体裁を整えるのはやめたら? 私は仮面かぶりながら人間は信用しないことにしてるの。あなた北条マキナと言ったわよね」
 「はい、そうですけど何がご不審でも?」
 「あなた……本当はアルファという名前じゃないの?」
 「ほう……」
 仮面が取れてアルファが、笑みを浮かべる。
 「我の真名を知るとは、やはりそなた会っているクチか」
 間違いないこいついはアレだ。私の想像通りの存在だ。
 だが、私の知っているアレとはちょっと違っているみたいだけど。
 
 「え……っと、アルファって何?」
 「ハンドルネームみたいなものじゃ、気にするでない。それにしても……」
 彼女は私を見て楽しそうに笑う。どういう意図を持って、再び私の前に現れたのか……その真意がつかみかねた。
 私はぐっと構える。
 「なかなかの眼力じゃ。やはり新種は違うのう」
 「新種って? 何? 私置いてけぼりにしてない? なんでいきなり口調変わってるのよマッキー! ひょっとしてそっちが素なの?」
 「こちらの話じゃ」
 「瑞希、私はこの女と話があるの、ちょっと黙ってて!」
 「むぅ……」
 瑞希はいじけながら、地面に木の枝で落書きし始めた。
 「いいんだいいんだ私なんて……ここで一人でお絵かきしてるもん」
 相変わらず緩い子だわ……
 まあいい、今の問題はこの人類の最高責任者とかいうこのふざけた女だ。
 「あなたね、あいつをけしかけたのは?」
 「いかにもその通り。デートをするようにけしかけたのは、この我じゃ」
 私の問いに悠然と答えるアルファ。
 「あ、やっぱそうだったんだ……」
 後で瑞希が驚きの声を上げた。瑞希でさえ予想がついた問題だ。私が察知してないわけがない。
 「何が目的なのかしら? こんな稚拙な罠に私がひっかかると思ったの?」
 「目的も何も、デートすること自体が目的といえばいいかのう。言わば恋のキューピットじゃな」
 可愛らしくウィンクするアルファ。可憐ではあるが、そんな容姿に騙される私ではない。
 「私がそんな戯言を信じると思ってるの?」
 「人の善意を信じられぬとは、不幸じゃのう」
 「あなたが人間だなんて保障はどこにあるの? 人の形をした何かでしょ? そんな相手の言うことなんて信用できないの」
 「言うのぉ……心理戦はそなたの得意分野であろう? その卓越した洞察力をもって、何を考えているのか推理してみてはどうじゃ?」
 「そうだよ、トッキー頭いいなら解るでしょ。もっとも考える以前の問題だと思うけどな」
 なぜかアンコールワットを地面に描いていた瑞希が答える。っていうか絵上手いわねこの子。
 「今日の彼は裏表なしの直球勝負だよ、むしろ考えすぎるから、わかんなくなってるんじゃないかな」
 「む……」
 そういわれてみると、今日のあいつからはいつもの嘘をつく雰囲気が感じられないのよね。
 罠をかけようとするそぶりもないし、騙し討ちしようとする下品な品性も感じられない。
 二人の尾行を感じられたわけだから、私の直感が狂っているというわけではないと思う。
 すると考えられる可能性は……
 「あ……」
 あった……
 すべてに整合性を持つただ一つの解釈が。
 「やっと気づいたのトッキー」
 「うむ、やっと気づいたようじゃの」
 二人が得意になって笑みを浮かべている。
 
 「要するに、あいつわたしに気があるってことなのね」
 「うむ」
 「ん、まあ……そうなんだけどさ……」
 二人とも先ほどのニヤニヤはどこへやら、戸惑った顔を浮かべている。
 「そっか……あいつがその気になるなんてね……」
 「どうしたのよトッキー? なんか醒めてない」
 「別に」
 醒めているのではない。正しくは失望した。そう、わたしはあいつに失望している。
 私とあいつの関係って、恋愛になるような積み重ね方はしていないはずだ。それなのに、何をどう考えてあいつは私と付き合いたいとか思っているのだろうか。今まで私たちが多大な労力を時間ををかけていがみ合っていたのは、そりゃ確かに傍目からみると健全な関係とはいえないだろうけど、それはそれで嘘偽りない関係であったと思う。
 たとえ、憎しみでつながっていたとしても、それは私にとっては真実の絆だった。それをあいつを断ち切ろうとしているのだ。目の前の悪友と、正体不明の少女にのおせっかいにのせられて、長年の付き合いのある私との関係に外からの干渉を受け入れている。
 それは手ひどい裏切りであり、私にとっては唯一の敵だったあいつが、私に好意をむけている有象無象の一人になるということを意味するのに……あいつは気づいてないのか?
 いいのね? 私にそういう風に扱われても、あなたはそれでもかまわないと言えるのかしら?
 「ねえ、マッキー、さっきから様子がおかしくない?」
 「スイッチが入ったようじゃの」
 「スイッチって?」
 しかし、気にになることが一つある。
 このアルファと名乗った少女……
 「なんじゃ?」
 「あなた、あいつが私に好意をもっていると知ったら、私がどう判断するのか、解っていって伝えてきたわね」
 「さての、どう判断するかはそなたの自由じゃ」
 可愛らしいけど小憎らしいまでの笑み。私の反応を予想している笑みだと判断したと同時に、心のクリップボードに要注意の札をつけた。
 「とりあえず邪魔な我らは去るとするか」
 「えーいいの、あれほっといて。なんか微妙な雰囲気だけど?」
 一人事情を察知していない瑞希はおろおろしている。
 「あとは当事者同士の問題じゃ。我々の出る幕ではない」
 「そりゃそうだけど……」
 「それよりも、我はさきほどみかけた猫カフェの看板が気になるところじゃ。瑞希よ供をいたせ」
 「御意、案内つかまつりまする」
 ノリノリの口調で瑞希が答える。けっこうこの二人馬が合うのかもしれない。
 「それじゃ、あと頑張ってねトッキー。応援してるぞ」
 気を利かせたのかさっさと連れて行ってしまった。
 さて……どうしててやろうかしら。
  
 
 ○
 
 「う~~ん……」
 俺はさっぱりしない顔つきで海浜公園を歩いていた。
 どうも先ほどから記憶があやふやだ。
 鴇子と一緒に映画館に行って、弁当を食べていたことはおぼろげながらに覚えているのだが、どういう経緯で俺はこの公園にやってきたのか。
 何を喋って何を思ったのか、記憶はあるのだがリアリティーが抜け落ちている。まるで夢でも見ていたような感覚。己の存在が不確かでいまいち落ち着かない。
 あと、頭が妙にズキズキしているのはどうしてなのか、これも謎だ……
 「……ま、いいか」
 とにもかくにも、この手に持っているお茶のペットボトルは鴇子が俺に命じて買いに行かせたものに違いない。
 となれば機嫌が悪くなる前に、早くもどらないとな……
 俺は鴇子が居るベンチに向かって歩き出した。
 
 
 「おまたせ」
 俺は一人でベンチに座っていた鴇子、何事もなかったようにペットボトルを渡した。
 「ありがと」
 と、鴇子が笑顔でペットボトルを受け取ったあたりで違和感に気づいた。
 どうしてかわからないが、返事がありきたりといういうか、声に実感がともなってない。
 怪訝そうに鴇子の顔を眺めるが……
 「なあに? 私の顔に何かついている?」
 「いやなんでもない」
 と、穏やかではあるが、鴇子の心は分厚い壁に阻まれているような印象を受ける。
 こういう時の鴇子の顔をかつてどこかで見たような気がするのだが、いまひとつ思い出せない。
 はて……どこで、いや、どういう状況で俺は鴇子のこの顔を見たのだったか。
 
 
 「あ、あの!?」
 「は?」
 唐突に割り込んできた声に俺と鴇子は同時に振り返る。そこには女の子が深々と頭を下げていた。
 「先ほどは、すみませんでした!」
 「あれ……? 掛井じゃないか?」
 そう、彼女の名前は掛井香澄(かけいかすみ)、鴇子と同じく茶道部に所属する一年したの後輩。鴇子の周りにいる女子の中でも、俺と会話ができる貴重な存在である。というか、何で俺に頭下げているの、この子?
 「この不始末は幾重にもお詫びを、とりあえず、これ受け取ってください!」
 そう言って、白い布を差し出している。その間も掛井は申し分けそうな顔をして頭を下げたままだ。
 「え、なにこれ?」
 「私のパンツです」
 「いらねえっ! なんつーもん出すんだ」
 「わかりました上も脱げばいいんですね!」
 「脱ぐな、そんな重いもの俺は受け取れん!」
 俺は勢いよく脱ごうとしている掛井の腕を止める。
 「あ……」
 タイミングの悪いことに、急いで手を伸ばした俺は掛井にのしかかるような体勢になってしまった。
 「先輩……やさしくしてくださいね……」
 つーかその顔マジやめろ。いきなり雰囲気出そうとするな。
 「で、何でいきなり謝ってるんだお前」
 「え~~と実はですね。さきほど弟たちとキャッチボールしてたんですよ。そしたら、すっぽぬけたボールが運悪く、先輩の頭にぶつかっちゃって。私は逃げる弟を捕まえようとしていたら、先輩はどこかに消えちゃうし……それで急いで謝らないといけないなーって思って……」
 なるほど、さきほどの頭の痛みはそのせいか。謎が一つとけた。
 「先輩すみませんでした! 怒ってますやっぱ怒ってますよね」
 「いいよ別に、やったのお前の弟だろ。休みなのに弟の世話なんて大変だな」
 「いえいえ、当然ですよ投げたの私ですし」
 「弟じゃないのかよ!」
 「だって、一人で謝りにいくの怖いじゃないですか。やっぱ先輩怒ってます? 怒ってますか、レイプしますか?」
 「しねえよ!」
 公の場所で何を口走っているんだこいつは。
 「で、何をしているのかしらあなた達」
 やばい、鴇子がかなり不機嫌になってる。こんな機嫌の悪い鴇子をみたのは、あいつの自転車にアロンアルファを塗りたくって以来だ。それもそのはず、デートの途中に相手の男が、他の女の子と抱き合ってたら怒るよな。
 「わ、悪い……デートの途中なのに」
 「え、先輩デートだったんですか?」
 あ……まずい……と思った瞬間、鴇子もようやく知り合いに自分の顔を見られているのがまずいと気づいたのか、掛井さんから顔を背ける。
 「うわ、すっごい美人さんじゃないですか! やりますね先輩」
 「そ、そうかな……」
 どうやらあまりに普段のイメージとはかけ離れているため鴇子だとは気づいていないらしい。それ君のとこの部長さんですよ。
 「初めまして。私は掛井香澄っていいます。澄んだ香りと書いて香澄なんですよ。お前の目は曇ってるとか、よく言われますけどー」
 なんと的確な自己紹介だ。自分の所属する部活の先輩と気づかず、堂々と挨拶している。
 「そ、そう……よろしく」
 「彼女さんのお名前は何とおっしゃるんですか?」
 さて、この状況にどう答える鴇子? 
 「私の名前はマラコーダ。地獄の亡者を罰する十二の魔を率いる魔界貴族よ」
 「悪魔さんなんですか。先輩、交友関係広いですね」
 「いや、信じるなよ」
 バカにしているわけではないのは、好奇心に爛々と光る目の光でわかった。そもそも、掛井はとぼけて相手をバカにするほど陰湿なことが出来るタイプでもない。
 その証拠に、彼女は興味ぶかけに鴇子の周りをぐるぐるを回って眺めている。
 「でも、羽ははえてないんですね。悪魔さんなのに」
 「羽は第二形態なの。現世では力を浪費するからしまっているのよ」
 「今は第一形態なんですね、納得です」
 地獄の魔界貴族というバカな設定にも、掛井はあっさりと相手の言い分を信じ込んでしまった。この子の行く末が心配だ。
 しかし、変な流れになってきたな。まさか、こんなところで知り合いに遭遇するとは思わなかったし。ああ、どうしようこの空気。
 「ん、あれ?」
 と掛井さんが驚いたような声をあげる。
 「どうした掛井?」
 「この悪魔さんどこかでお見かけしたような……」
 まずい、さすがに気がついたか。と思ったその瞬間……
 「くっ……」
 と言いながら、苦しそうな様子で鴇子は片目を瞳を押さえる。
 「まずい、北北西から天使の波動が近づいてくるわ」
 いきなりのあまりの発言に、俺と掛井はあっけにとられてしまう。
 「悪魔はこの世を漆黒の闇に染めるために、天使はこの世を浄化するため、私たちは永遠の時を戦い続けているの。その戦いに終止符を打つため、私は戦場に赴かなくては」
 「天使さんって本当にいるんですか? 私も見てみたいです」
 「いけないわ、ここにいたら貴方も戦いに巻き込んでしまう。さようなら、そして、また会いましょう名もなき人間よ。次に会う時はその純粋なる魂を私の色に染めてあげる」
 そう言って、鴇子はあっという間に走り去ってしまった。去り際の鴇子の表情が苦悶に満ちていたのは俺と鴇子だけの秘密だ。
 「さようなら戦い頑張ってくださいねー」
 そんな鴇子の苦しみを知らず、と掛井のほうは暢気に手を振っていた。これは無垢なる魂が俗なる常識に勝ち得た数少ない記録であると、俺はここに記憶しておこうと思う。
 「あ、先輩! でも悪魔さんが勝ったら、この世は漆黒の闇に包まれてしまうんですよね。せっかくお友達になれたのに、応援できないってつらいです」
 「掛井、そこのソフトクリーム奢ってやる」
 「え、マジですか? やったー!!」
 曇りのない笑顔で喜ぶ掛井の笑顔を眺めながら、俺はずっとそのままでいてくれと思うのだった。
 それにしても、鴇子の奴、あとでフォローしないとな。
 
 

・第四章


 土曜日のデートから二日後の平日。すなわち、○ャンプの発売以外は何の楽しみもない休み明けの学校は、なんとなくだらけた空気が支配している。
 そんなよどんだ空気を掻き分け教室までたどり着くと、既にアルファが席についていた。
 「デートはどうじゃった?」
 「いきなりだなおい」
 口を開くのも億劫な俺は、早々にため息を吐き出した。
 「そう邪険にするでない。そなたと鴇子の間に何があったのかだいたい想像ついておる」
 ご機嫌な様子で笑顔を浮かべるアルファの顔をまっすぐ見ることができない。
 考えてみればここまでの展開はすべてアルファに乗せられた結果だ。思い通りに人を差配するその手腕は見事としか言い様がないが、こうまで思い通りだと少々しゃくな気もする。
 「なあアルファ。お前って綺麗だよな」
 「なんじゃいきなり、誉めても何も出ないぞ」
 「鴇子を口説く練習」
 「たわけ、女性にそのような言葉を迂闊に口走るでない」
 少し恥じて照れ照れの顔を見たかったのだが、こいつ少しも動揺しないな。
 動揺した格好を笑ってやろうと思ったのだが、完全にあてが外れた。どうやらほどの面の皮の厚さがなければ最高責任者とやらの職務は果たせないらしい。
  
 唐突に話は変わるが、後藤先輩が生きながらにして数々の伝説を残しているのは先述のとおりである。その有無を言わさぬ腕力と侠気は、チャンピオンあたりの不良漫画にしか存在しない哲学かと思われた。
 だが、それは確かに俺の目の前に存在する。
 古式ゆかしい不良として、その圧倒的な存在感は、他の追随を許さないし、そもそも後追いしようとする生徒すら皆無である。断っておくが、必ずしも後藤先輩は人気がないわけではない。確かに苦手な先輩ではあるが、俺にとっても嫌いな先輩ではないのだ。むしろ、どのような人生経験を経て成立しているのかわからない大時代的な不良スタイルを貫くロマン溢れるその姿勢を、密かに敬愛している生徒もいるくらいだ。
 だからといって、好んで近づいていくのもためらわれる。俺が後藤先輩に抱く距離感は、日本人が神のたたりを畏れて、敬して遠ざけるというニュアンスが最も近いのではないだろうか。つまり、対岸の火事を眺めている分は面白いが、後藤先輩の場合は八尋の大河を超えて、飛び火する圧倒的なポテンシャルを秘めているので、五体満足に後藤先輩と付き合うにはこの距離感が難しい。
 そんなリビング・オブ・レジェンドな先輩にいきなり前髪を捕まれたのは、俺がアルファと楽しく会話している最中の出来事だった。
 
 「よう」
 それはさやかやな朝に相応しくない、あまりにドスのきいた挨拶だった。この人は相変わらず空気を読まない。
 「おはようございます先輩。今日のジャンプ読みますか? 後藤先輩の好きなハンタはちゃんと載ってますよ、激熱っすよ?」
 いきなり現れた目が血走っている先輩をできるだけ刺激しないように、俺は人間の尊厳を守れる程度の挨拶を交わした。はっきり言いって超怖い。あまりの怖さゆえジャンプに伏字をつけるのを忘れるほどである。あと前髪と一緒に面の皮をひっぱられて、俺はかなり不細工な顔になっていたと思う。
 「おう、てめえちゃんと朝飯食ってきたか?」
 「…………! マジっすか?」
 「突撃隣の朝ごはん、しちゃうぞコラ! テメぇナメてんのか!」
 ここにまた伝説を記そう。
 【突撃となりの朝ごはん】コーナーは後藤先輩の自慢の腕力によって、その対象の吐しゃ物を検分しようという、殺人パンチの異名である。
 当然のことながら、時間帯次第で検分する対象は昼ごはんになったり夕ご飯になったりする。が、この場合、俺にとっては名前の由来など、どうでもよかった。
 一秒でも早く、この場から逃げたい! 一ミリでも遠くへ!
 「こう見えても後輩思いだからよー、てめえの健康心配してやってんだべ、そこんとこヨロシク」
 「いいえ、全然よろしくないです!!」
 「んだと、コラァ!!」
 ぐいとシャツの襟をつかんで、顔をぐいっと近づけると、後藤先輩の血に飢えた目が爛々と輝いていた。つーか近い、その特徴的なリーゼントのさきっぱが突き刺さるくらい近い。この距離感は危険だと、頭の警告灯が先ほどから盛んにレッドアラートを鳴り響かせていた。
 「な、なんでですか? なんで俺が?」
 「なんでじゃねえだろ、おめえ、土曜日何してたか言ってみろ!!」
 「土曜日って……」
 土曜日と言えば、そう昨日鴇子と一緒に……
 「あ、まさか」
 「そのまさかだコラ! てめえ、土曜に見知らぬ秋葉系女とデートしてたらしいじゃねぇか!!」
 「誰から聞いたんですか!」
 「掛井がめっちゃ喋ってんぞ! 既に嫁さんいるくせにロマン溢れることしてくれてんなあ、テメエはよぉ!!」
 「違います誤解です先輩!」
 掛井の奴……どうして女の子ってそういうこと喋っちゃうのかな! きちんと口止めしていなかった自分の迂闊さが悔やまれる!
 「じゃあデートしてねえのか」
 「いや……それは……」
 してないわけではないが、どう説明すればいいのか……まさかあれの正体は鴇子ですと言えるはずもなく、それ以外の理屈で先輩を納得させる自信がまったくなかった。
 「決まり、俺は今からお前を殴る」
 「なんでっすか」
 「俺が殴るんじゃねえ、俺のロマンがそうさせんだよ!」
 常人の俺にとっては、先輩のロマンには相変わらず理解が追いつかない。要するに、鴇子がいるのに他の女とデートしているが羨ましいってことだろうけど、そもそも俺と鴇子は付き合ってないのだが、今の後藤先輩にそのことを納得させるにはかなり難しそうに思われた。

 「まあまあ、そんなに激昂しては皆の注目を浴びますわよ」
 そのすごみが発揮される前に、アルファが助け舟を出してきた。
 「ち、あんたか」
 惚れた相手を平気で睨みつけるこの人はすごいと思う。
 「それに暴力はいけません。みなさん注目してますよ? 話し合いは紳士的に」
 アルファの指摘通り、クラスメイトの全員は何ごとかとこちらを見つめている。
 「ち……」
 忌々しく呟きながら、後藤先輩はその凶悪な手を俺から離した。
 というか、ごっさん以外に後藤先輩を止められる人間って初めて見たわ。
 「お前、眼の力使っただろ?」
 後藤先輩は断じて人目を気にして行動する人種ではない。でなければあの大時代なリーゼントを毎日セットして登校するなど、常人の神経ではできないだろう。ゆえに、当然の帰結として不可解な後藤先輩の行動はアルファのせいだと断定できる。
 「助けてやったのじゃから、礼の一つでも言ったらどうじゃ」
 「それもこれも、もとはアルファのせいなんだけどな」
 「男が細かいことを気にするな」
 とアルファはぷいとむこうを向く。
 こいつの行動も慈悲からではなく、後藤先輩の類稀なる暴力によって俺という手駒が再起不能になることを恐れたに過ぎないであろう。
 ま、それはともかく。
 「暴力ね、確かに暴力はいけねえよな。オリャこう見えても紳士だからよー」
 らしくない台詞をはいている後藤先輩。その言葉をよく噛み締めて、普段の自分の行動を振り返って頂ければと思うのだが、そんな奇跡はどんなに願っても叶いっこないだろう。
 「だがよ、けじめはつけねきゃなんねーよな」
 「けじめって何がです?」
 「誰が本命なのかここで言え」
 その言葉に俺はさっと血の気が引いた。
 「鴇子かあの秋葉系かそこにいる、それともそこにいる金髪ロリか」
 「金髪ロリじゃなくて北条マキナですわ」
 ととっさにアルファが訂正する。
 「な、なんでそんなこと!」
 「だから、けじめつってんだろ! そんだけ女に囲まれててよ、どこにおまえが行きたいのか男ならはっきりしろや! 一人の女を思う、それが男のロマンだろうがああ!」
 ほとんど言いがかりに近いとういか、もはや脅迫の勢いだった。
 だが、クラスの女子を眺めていると、珍しく後藤先輩に同調しているみたいで、頷いている奴らが何人かいた。
 「なに、あいつ二股かけてるの?」「サイテーね」「確かに誠意がない男はダメね」
 普段の噂が先行し、悪いイメージが定着しているため。当然のように女子が非難の目を向ける。女子の連中は、俺が問題を起こしていると判断しているみたいだ。
 「誰なんだ言ってみろ!!」
 再び襟をつかまれる。ちらりと横をみるとアルファはニヤニヤと笑っていた。どうやら今度は助けるつもりなどなく、高みの見物としゃれこむらしい。
 「言えねえってことはまさか、お前うちの妹を……」
 「いえ、それは絶対にないです」
 「じゃあ、誰なんだよ! 言ってみろおおおおっ!!」
 「くっ……」
 ここで何かと適当に答えて終わりにするのは簡単だが、この手の問題で自分の心を偽りたくない。つまらない男の娘プライドかもしれないが、
 誰と付き合いたいのか、それが自分の心に嘘でなければどうだろう?
 この三人とあえて選ぶとすれば……
 「鴇子……」
 「ああ?」
 「鴇子が本命です!」
 その時、鴇子が教室の扉を開けて入ってきた。
 
 「…………」
 彼女はこちらをしばし眺めている。周囲の人間も俺と鴇子の間の微妙な緊張を察知したのか俺たちの挙動に注目していた。
 だが、彼女はそんな周囲の視線など気にする風もなく、
 「おはよう」
 と優雅に微笑みを返し、自分の席へと座っていった。
 そう、何事もなく並べて世はこともなしと言う風に。だが、俺にとっては衝撃的な事件だった。鴇子が学校で笑顔を浮かべ挨拶するなど、過去の記憶を振り返っても一度もない事件だったのだから。
 「あ、あの……」
 いかに呆けていたとはいえ、もう少し気のきいた言葉が言えないのかと自分でも思ったが、鴇子はそんな俺を笑うこともなく。
 「なあに?」
 と優しく尋ねてくる。
 いつもの上から目線はどうした? 無視することもなく、軽蔑することもなく、何故俺に微笑みかける? 今まで無視をするかそれでもなくても俺と対峙する時は、何がしかの感情を秘めていたのに今はまったくそれを感じられない。俺と鴇子の関係はそんなものではないはずなのに!
 「い、いや、なんでもない」
 「そう、そろそろ授業だから、早く席についたほうがいいわよ」
 それは、確かに魅力的な笑顔だった。
 だが、それは鴇子ではない。鴇子の素顔ではない。
 
 「お兄ちゃん、何してるのよ!」
 「げ、瑞希!!」
 そして遅れてやってきたごっさんが後藤先輩に押さえられる。
 「私の靴隠したのお兄ちゃんでしょ、今日下駄はいてきたんだよ」
 「なるほど、妹に邪魔されないよう、工作していたのじゃな」
 とアルファが納得した様子でつぶやいていた。道理で都合良くごっさんの登校が遅いと思っていた。だが、そんなこと、今はどうでもいい。
 俺は思い出していた。先日のデートで鴇子が浮かべていたあの顔、あの笑顔。あれは今まで鴇子が俺に見せることのなかった顔は、鴇子が自分を偽るため、周囲の人間に向ける顔であったのだ。
 
 「でもよう下駄もけっこう、似合ってるじゃねえの?」
 「某じゃりん子か私は!」
 ごっさんが振り上げた下駄が後藤先輩の頭にヒットし、カランと床に転がる。その音は芝居の幕間の闇に響く一丁の拍子木のように心に染み渡った。
  
 
 『北京で蝶が羽ばたくと、ブラジルでは嵐が起こる』
 バタフライ効果で有名なたとえ話であるが、そもそも地球の大気循環システムでは赤道付近にはジェット気流が吹き上げ、それが両極、つまり北極と南極にむかって大きな循環の渦をなしている。北京の蝶がブラジルの天候に影響を与えるなど通常は成り立ち得ない話だと思っていた。だが今の俺の考え方はちょっと違う。蝶のはばたきであれ、人間の吐息であれ、初期条件のわずかな違いが長期的にみると大きな差へと発展するという考え方は、今の俺にとって非常に納得出来る話だ。
 そう俺と鴇子のように。
 俺たちの関係はどうだったのだろう? 俺たちは今のような互いに反発しあう人間関係に落ち着いたのは、そして鴇子が人類の新種としてアルファに認定されるまでに異能を兼ね備えたのは、一体どの時点からこの歪みが始まったのだろうか?
 どこかで蝶がはばたいた程度の、ほんのちょっとのボタンの掛け違いはどこから始まったのだろうか? 『朗月庵』の中庭の築山で菓子を分け合った時か? それとも、軽いイタズラで鴇子の髪の毛を引っ張って泣かせてしまった時か? それとも俺たちが商売敵の家に生れ落ちた時か? はたまた、両親が因縁を作ってうちの親父が『朗月庵』を出て行ったときか? その想像は果てしなく広がり、俺はその原因を特定することができない。
 いや正直に言おう、俺と鴇子がどこで何を間違ったのかそれは解っていた。解っているのだが……それを明言する勇気は俺にはない。
  
 漉し器の上に茹で上がった小豆を置いて、水をあてながら慎重にヘラで漉していく。
 一粒一粒、丁寧に丁寧に。
 俺は学校帰るとすぐに作業場に移り、そうしてもくもくと作業を続けている。いつもは事細かく注意をしてくる父が、一瞥しただけ何も言わなかった。そのほうが俺も気兼ねなく作業に集中できるのでありがたい。
 ただひたすら、自分を没頭させていく作業が気持ちよかった。 
 そうしてしばらく作業を続けていると、
 「出来た」
 と親父が新作の菓子を渡してきた。
 目の前にあるのは以前、親父が出来上がりが納得できないと唸っていた「はさみ菊」である。
 一見したところ何か改良されているようには見えないのだが、ひょいとつまんで口に入れると上品な甘さが口に広がった。
 美味い。
 くどすぎず、甘すぎず、それでいて口に優しい味。お茶がすすむことは受けあいだ。
 「美味いだろう?」
 菓子を口に入れた納得した俺の表情を見て、親父はようやく笑顔をこぼした。
 「なるほど、材料から変えてみたとは言ってたけど……でも、これ……」
 あんまり変わってない?
 これでも幼い頃から菓子を食べ続けたのだ。だが使っている砂糖も寒梅粉も以前のものとそんなに変わらない。
 「金をかけるなら馬鹿でも出来る。腕でカバーするのが職人だ」
 と親父は諭すように言った。
 おそらく手間をかけたのだ。丁寧に作り直した。ただそれだけの違いがどんな魔法をかけたのか、以前とはまったく違う質感を菓子に与えていた。なるほど、親父が名人と言われるのも納得される。
 「親父はどうして菓子を作ってるの?」
 「決まっている。菓子が好きだからだ」
 単純明快だが、非常に納得できる理由だった。
 「お前はどうしたいんだ?」
 「え?」
 唐突に親父から切り出された一言が、俺の心に響く。
 『お前はどうしたいのか?』
 古今東西を問わず、思春期の若者が抱える永遠のテーマである。夢はあるか? 就きたい職はあるのか? 例え将来への展望があったにしても、可能性という曖昧な言葉に全存在をかけて突っ走れるほど俺は覚悟の出来た人間でもなかった。
 ああ、余はいかにして生きるべきか?
 「じっくり考えろ。おまえはまだまだこれからだ」
 そう言って親父は、菓子を持って出て行ってしまった。後には俺一人が残される。
 
 親父の質問に答えることも出来ず俺は呆然と立ち尽くしていた。
 その理由は『俺はどうしたいのか?』という質問が、『俺は鴇子とどうしたいのか』に変換されて心に響いていたからだ。俺は鴇子とどうなりたいのか、将来どうしたいのか?
 今日の鴇子の笑顔が脳裏に浮かんで消えた。というのは俺の喪失感を現した詩的な表現ではなく、不意に母から声をかけられたせいであることをここに明記しておく。
 「ちょ、ちょっとあんた」
 珍しく母が慌てた様子で、猫を抱えながら作業場に駆け込んできた。
 「何? ってか圭一郎こっちに入れちゃだめだろ」
 圭一郎とは母が最近餌付けして、家に居つくようになった猫である。俺の指摘にはたと気がついた母は慌てて、抱えていた圭一郎を廊下のすみへと追いやった。
 そもそも飲食店に動物はご法度なのだが、母に負担をかけていることを自覚している父は渋々ながら黙認している。加えて、猫好きに対して理屈は通じない。
 「あんたにお客さんよ」
 「客?」
 一体誰かと思っていると、見覚えのある金髪の少女が暖簾をくぐって現れた。
 
 客はアルファだった。
 しきりにお茶菓子を勧めながら、俺との関係を伺おうとする母を根気よく階下に追い返し、今は二階にある俺の部屋。ぶすっとしながら俺はアルファを眺めていた。
 「圭一郎というのじゃな、この猫は」
 「ああ、名前は母の好きな映画俳優からとったらしい」
 なぜか圭一郎はアルファを気に入ったようで、膝の上で丸くなりアルファの撫でるがままに任されている。
 「ふむふむ、我のひざが気に入ったようじゃな、うりうり」
 圭一郎は『にゃあ』と気の抜けた声をあげて、空気を和ませた。
 「いつまで猫とじゃれあってるんだよ。話があるんじゃないのか?」
 「鴇子とのことじゃ」
 だと思ったよ。
 「上手くいっているようじゃな」
 「どこが?」
 「いや、上首尾じゃの。この上なく」
 アルファは相変わらずの余裕たっぷりの笑顔でそう呟く。
 「お前、俺を苦しめて楽しんでいるだけなんじゃないのか?」
 「いつの世でも、他人の惚れた腫れたを楽しむのは女子の特権じゃ。我もこう見えても女の子じゃからの」
 ああ、そうだろうよ。他人がすったもんだしているのは楽しいものだ。だけどそれが当事者であれば、話はまったく変わってくる。
 「腫れてはいるけど、惚れてない」
 「嘘をつけ」
 アルファが猫を撫でる動作をやめて、半身ほど前に顔を突き出してくる。
 「汝はすでに言葉にだした。本当は自覚しているのであろう?」
 「…………」
 透き通った目を俺にむけ、いつものように心の突き刺さる一言を俺に投げた。
 「人は言葉に引きずられる生き物じゃ。汝はそれを口にだしてしまった」
 相変わらずの上から目線、相変わらずの余裕で、
 「本当は気づいているのあろう? 自分の本心にの」
 彼女は残酷な言葉をつむぎだした。
 「ほんのわずかなボタンの掛け違いによって、人は人を殺したり、恋に落ちたり、喧嘩をしたり、自慢の金髪を売り払ったり、父から受け継いだ大事な懐中時計を質に入れたりする。最後のは『聖者の贈り物』の引用じゃが、あの物語は一見おろかしい行為が二人にとっては最上の行為であったと結んでいる」
 アルファはそこで言葉をきって俺に向き直った。
 「だとすれば汝と鴇子はどうであろう? 互いに憎みあい反発しあうこの関係は他人からみれば不毛な行為じゃが、汝らにとってはこの上なく最適な関係であったかもしれぬの」
 「最適って喧嘩しあう関係が? それは違う。俺はそれが嫌だったから、仲直りしようとしたんだ」
 「うむ。それは人としては当然の行動じゃな。誰でも争うのは疲れる」
 そう俺は疲れていた。鴇子との関係に。
 「だから改善しようとしてたんじゃないか? お前だってそのことには賛成だから、あれこれアドバイスしてきたんだろう?」
 
 そう、こんなことを考えているのも、俺は少し後悔をしていた。お互いに喧嘩相手でいることが、暗黙の了解であった感は否めない。それこそ俺が鴇子の特異点を維持していた条件である。そして鴇子もそれを望んでいた。だからその立場を勝手に放棄した俺を鴇子は怒り、無視しはじめた。他のクラスメイト同様に、俺に挨拶を交わし笑顔を浮かべる。誰にも優しい笑顔を浮かべる。それは誰にも優しくないという意味と同義である。
 無視、無関心では何のドラマも関係性も見出せない。要するに俺は鴇子の興味の対象から外れたのだ。それは俺と鴇子の関係性が絶たれたことを意味する。
 「じゃが、今の状態が不満か? 鴇子の興味が外れたことがそんなに惜しいのか? 単なる喧嘩友達のままで汝はそれで満足だったのか?」
 「それは……」
 俺は言い返せなかった。
 「であろう? ゆえにここから始まるのじゃ。汝と鴇子の関係を再構築するにはそれしか方法があるまい」
 要するに……こいつは俺と鴇子がこうなることを見越していたということか……
 「ちっ……何から何まで掌の上で嫌になってくる……」
 となると、当然あのことも……俺と鴇子がすれ違っていった原因も当然知っているだろうな、こいつは。
 「そう嘆くでない。破壊の後に創造ありじゃ」
 「簡単に言うなよ……これ以上は絶対に無理だって」
 「そうか?」
 「そうなんだよ。絶対無理だ」
 だって……だって鴇子は……
 「あいつには許婚がいるんだよ」
  
 
 一言で言えば疲れている。
 鴇子が俺の扱いを変えて、父には将来の問いを投げかけられ、アルファに俺の本心を指摘されて……
 いろいろあった一日だったな。非常に濃厚であったが、結局は自分のどうしようもない現状を確認しただけという、実りの少ない一日だった。
 「許婚か……」
 言葉に出した瞬間、現実が重くのしかかる。まさしくアルファの言うとおり、人間は言葉に引きずられる生き物だ。
 だからこそ、俺と鴇子はその存在を忘れたかのように振舞っていた。
 鴇子の許婚は菓子メーカーの御曹司だ。商売の拡大を狙っている親父さんとしては、この縁を最大限に活用したいはず。よって、鴇子の婚約が解消されることはないし、鴇子はそもそも、その手の決定には嫌とは言わない。親の意向に唯々諾々と従う大人しい性格ではないが、あいつはそれ以上周囲の期待に背くことを病的に恐れる。鴇子が婚約を拒否することなんて絶対にない、要するに、どう考えても絶望的なこの状況を覆すことは俺にはできない。
 「………………」
 そう絶望的だ。俺はとっくに絶望していたのだろう。
 何もできない、何もなせない。鴇子がこの婚約をどう思っているのか俺は聞いたことがない。そもそも、簡単に自分の心を吐露する奴ではないが、俺にとっては重大事であることはここでいい加減認めようと思う。
 そう、俺は嫌だ。鴇子が見ず知らずの男と結婚するのが、身の毛もよだつほど嫌だ。
 だから俺と鴇子は子供じみた関係を続けていた。それしか俺と鴇子が二人の関係に埋没する手段はなかった。誰から言い出したわけではなく、自然とお互いにいがみ合い、反目しあうこの関係こそ、現状を覆せない俺たちの最適解だったのだろう。だが、遊びはいつか終わる。
 家に帰って現実と向き合う日が必ず来る。そして、その日は決して遠くない。
 「くっ……」
 涙がこぼれそうになる。
 どうして俺は何も出来ない子どもなのか? お伽話のように格好良く姫様をさらってハッピーエンドを迎えることはできないのか? 俺が好んで読んで読むアニメやゲームでは、主人公とヒロインが抜き差しならぬ現実に差し迫った場合、主人公は一念発起して超人的な力を発揮するか、あるいは周囲の大人を凌駕せしめ、結婚式のヴァージンロードから花嫁を奪取してめでたしめでたしの幕となる。
 だが、これは現実だ。ご都合主義のハッピーエンドが大衆に受けるのは、動かしがたい現実を一時でも忘れることは出来るからに違いない。でも、忘却の彼方に追いやることは出来ても、現実という厄介なトゲはいつかは顔をだし、現実を忘れた愚か者を一刺ししようと待ち構えている。完全に消し去ることは出来ないのであれば、物語の力はほんとうにはかなく、ただひたすら空しい。それを認めるのが、俺はひたすら怖かった。
 確かにガキだな……俺は……
 鴇子と一緒にありもしない空想に遊んだ。本当のことを言うと、あいつは今でも憎い奴だけど、俺はそれと同時に愛おしくも思っている。
 愛の対義語は無関心であるから、この感情は相反せず同時に存在する。混乱せずにすんでいるが、かといってもてあましていないわけでもない。
 俺は鴇子のことが好きなのだろう。
 だから俺は遊び続けた。鴇子と一緒に子どものように遊び続けた。
 それが鴇子に出来る唯一の抵抗であることは知っていたから俺は教師に嫌われても、父から拳骨を貰っても、お小遣いをへらされてもクラスメイトの女子から嫌われ、教室の隅へと追いやられて、灰色の青春を送ったとしても……
 俺は鴇子とくだらない争いを続けていたんだ。
 
 
 そしてまた俺はこの場所に立っていた。
 初めてアルファと出会った時と同じく、あの暗闇に浮かんだ謁見の間。
 中央に鎮座まします玉座の前方に広がる小さな広間にぽつぽつと角燈が灯り、かろうじて闇の侵食を防いでいる。俺は視線を広間の周囲に広がる闇へと向けたが、相変わらずその闇の広がりはどこまで続いているのか、見当をつけることさえ難しかった。まさしく墨をひたしたように、果てしなく広がる冥色の闇。
 「あまり見ないほうがいいわ」
 振り返ると、いつの間にかアルファが玉座に座っていた。
 「知ってる? ロシアの炭鉱夫の間では、闇の中には自分と同じ顔をした悪魔が潜んで、しばしば人を惑わすと伝えらているの」
 と彼女は言葉を切って微笑んだ。
 「つまり、闇は人を写す鏡と言うわけね。これはそういう寓話よ」
 「なんだって俺をここに呼び込んだんだ」
 「違うわ私は呼んでない。ここに踏み込んだのはあなたの意志」
 「なに……?」
 その時、俺は気づいた。
 いつものアルファと様子が違う……いや……
 「おまえ……アルファじゃないのか?」
 姿かたちや着ている服の趣味はそっくりだが、まず口調が違う。そしてなにより、目の光が違う。
 だがその身にまとう空気は、明らかに人とは異質な雰囲気をかもし出していた。アルファの時は瞳を除いただけで気圧されるような、威力を感じたが、こいつの澄んだ瞳は果てしなく広がり、まるで捉えどころがない。
 「クスクス……ご明察ね」
 そう言って、彼女は無邪気に笑った。まるで子どものように。
 「私はオメガ。アルファではなくオメガ。アルファと同じく人類に責任を持つ者よ」
 「オメガ……?」
 俺は過去にかろうじて覚えている聖書の有名な一節を思い出した。
 「私はアルファでありオメガである……か」
 「あら、よく知ってるわね。そう私たちは二人にして一つ。完全にして唯一の存在。でも今はちょっと特殊な技能を持ってるだけの、人と同じく限りある命よ」
 嬉しそうに微笑む。アルファが毅然とした大人なら、オメガはまるでイタズラ好きの子どものような印象を受けた。
 「で、そのオメガに尋ねたいんだが……」
 「いいわよ。なんでも聞いて。ここに来た人間にはそうするだけの権利があるわ」
 権利ね……なにやら思わせぶりなことを言い出すが、今はそれどころではなかった。
 「ここはどこだ? 俺はどうしてここに来たんだ?」
 「ここは私のプライベートスペースよ」
 「アルファのじゃないのか?」
 「正確に言うとアルファと私のよ。そしてもう一つの質問の答えは、あなたが自分の足でここまで歩いてきたのよ」
 「歩いてきた?」
 あまりに意外な答えに俺は愕然とした。
 「もちろん、ものの例えよ。実際に歩いてきたわけじゃないわ。でも、あなたはここに足を伸ばすことが出来る特別な存在になりつつあるの。ほんとにステキねあなたたちって」
 今、彼女は俺にとっては聞き過ごすことの出来ないことを言ったような気がするのだが……どうしてか頭が追いつかない。
 「というわけで今のままでは時間を浪費するだけでしょうから、道に迷った子羊なあなたに、私から説明してあげる。ここは人とそれ以外を分かつ場所よ」
 人とそれ以外を分かつ、その表現は俺にとって見過ごすことができない。
 「例の新種とかそういうことか?」
 「そうよ、良く解ってるじゃない。もっとも今までアルファがあれこれ言ってたから、余程のお馬鹿さんでもない限り気づいちゃうわよね」
 俺が首を傾げてていると、オメガは一方的に言葉を続ける。
 「あなたは新種になりつつあるのよ」
 新種……それはすなわち鴇子と同じ存在。人とは違う何か別のモノ。
 「あなたは強く願った、だからそれが私に届いた。届いた願いはかなえてあげなきゃダメじゃない? この世の最高責任者としては」
 そういうオメガと名乗る少女の言葉に、俺はなんとなく嫌な感触を受けた。
 「俺の願いは……」
 「誰かさんと結ばれたいという願いよ。だから私が願いをかなえてあげる」
 そういって、オメガは俺の頭をつかみ、まっすぐに俺の瞳を見据えた。
 「おい……」
 この間合い……覚えがある……これは、ひょっとして!
 「動かないで」
 そしてまた俺は急に唇をふさがれたのであった。
  
 

・第五章


 変な夢を見た、
 アルファのそっくりさんが出てきて、俺に鴇子と結ばれる願いを叶えてくれるという夢だ。夢は願望の裏返しというが、つぐつぐ俺は鴇子のことで絶望しているらしいことがわかって、自分の思いもよらない繊細さに余計惨めになったりした。
 初恋は実らないというが……いつまでもずるずると叶わぬ想いを引きずるのもよくない。
 腹に力を込めて布団から這い出し、母親からのアルファの正体を探る詮索を巧みにかわしながら朝食を食べ、家を出た。
 天気は快晴、夏の日差しが強まりつつある。もはや初夏といっても差し支えない天気だった。
 
 俺が校門まで歩いてきたとき、自分の異変を感じた。
 はて……どうもおかしい。
 心が透けて見えるという表現はよくあるが、そんな他人の心の動きが見えるようになっているこの感覚は、どう説明すればいいのだろう?
 通学路には複数の登校途中の学生たちで混雑していたが、校舎に向かって歩く学生達の心の動きが、色彩を帯びているように思えた。その考えは教室へと入ると確信へと変わった。
 たとえばいつも神経質な館林は青い感情をゆらめき、先日、飼っていた犬が天寿に召されたと嘆いていた相模さんは、黒い影を背負っているかのように見えた。
 彼女が出来てこの世の春を謳歌している猪狩は、ピンク色の甘ったるいオーラを漂わせて不快なことこの上ない。彼女と待ち合わせ、手を握って中庭をつっきる際には、弾幕シューティングのラスボスの如く、桃色の破壊光線を周囲に振り撒き、繊細な男子たちのハートを撃墜させている。傍目から見ていても鬱陶しい。
 だが、どうやらこの色合いの意味がわかってきた。悲しい時や落ち込んでいる時は寒色系に近く、楽しい時、幸福に感じている時などは暖色系になるようだ。
 まるで何か特殊なフィルターを通したかのように、そんな文字通りの人間模様が観察できるは一体どういうことだろうかと首をかしげていると、アルファがやってきた。
 
 「楽しそうだなお前」
 ちなみに、アルファが背負っているのは明るい黄色、黄金にやや近い威圧的な光を放っている。ゴットかこいつは。
 「手に入れたようじゃな」
 「やっぱこれはお前の仕業なのか?」
 「さあて……どういう説明をすべきか……」
 そんなことを言っている間に……
 「…………」
 鴇子が教室に入ってきた。相変わらずそこに居るだけで存在感がある。
 ちなみに鴇子の感情の色は読めなかった。
 「っ…………」
 俺のほうをじっと見つめてから、なにやら驚愕の表情を浮かべている。
 「おっはよー、ってどうしたのトッキー?」
 鴇子を見つけたごっさんが、不審げに声をかける。
 「あ、いえなんでもないわ」
 「ふうん……?」
 ごっさんに声をかけられようやく自分を取り戻した鴇子は、いつものように取り巻きに囲まれ優雅に会話の花を咲かせている。
 それにしても鴇子がああいう風に、自分の感情をみせるなんて珍しいな。ひょっとして教室まできて、今日は靴下の左右を間違えてはいて来たことに気づいたとか……
 「感情の色じゃ」
 「なんて?」
 唐突にアルファが語りだした。
 「既に察しが着いているかもしれぬが、今そなたが見ているのは人の感情の色じゃ。詳しい説明が欲しいじゃろう?」
 一も二も無く俺は頷き返した。
 
 「それでは説明してやろう」
 「よろしく頼む」
 放課後、俺を連れ出して誰も居ない屋上へと上がってきたアルファはこの現象の詳しい説明を開始した。
 「全てを透徹する魔眼の話を覚えているかの?」
 「確か鴇子が持っている能力とか……」
 「うむ、今そなあが見ている風景はその力によるものじゃ。人の本質を見通す新しき知覚、真に開かれた眼をもち、誰よりも新しき世界を認識する。その端緒がその目に顕現してきる。人は誰しも肉体の檻から抜けられぬ、肉と言う物質からは抜けられぬ。ゆえにそれぞれの思考や意識はその肉体に縛られる。自分で選択したその意識ですら、肉体の決定を追随したに過ぎん。肉体からの真の意味で解き放たれた人間なぞこの世に存在しない」
 とアルファは言った、いつものように大きな主語を使ってくるが、初めに聞いたときより人類とか新種とかいう単語がしっくり入ってくるのは、俺が相当毒されてきた証拠だろうか?
 「だが、その目を持つ人間は違う、それは人類に稀に現れる聖人や救世主と謳われる超人の証じゃ。その目は全てを透徹し、人の処理を超える情報量を受け入れ、誰よりもいと高きに……」
 「ちょっと待った」
 「なんじゃ」
 「アルファさ……それって新種の話だよな……」
 「じゃからそう言っておる。そなたと鴇子は同じ精神の頂に到達したのじゃ」
 なかば予想していたが……やはりそういうことなのか。
 「鴇子も俺と同じように世界が見えている……と?」
 「感じ方は人それぞれじゃからの、同じように見えているかは知らぬが、おそらくそれは表現の違いであって質の違いではあるまい。そなたが他人の感情が見えるのは、新種としての能力の本質ではなく、そこらへんの能力はおまけに過ぎない」
 「じゃあ、鴇子の心が見えなかったのは?」
 「同じ高度にいるのだから、塔の高みから見下ろしている人間は見えても、隣にいる人間まで見通せるわけがない。どうじゃ? 人類と同じ高みに上った気分は?」
 気分はと言われても……
 「正直困惑してて、どう表現すればいいのやら……一体俺はどうしてそうなっちまったんだ?」
 「もう一人の私に出会ったのであろう? あのオメガに」
 「そうそう、あの女の子のことも聞こうと思ったんだよ! 何なんだよあいつ、双子?」
 「双子ではない、同位体といったとこかの……私と同じ起源を持つが、別の道に分かれていったもう一つの可能性じゃ」
 「???」
 なんか……高度すぎて言ってることがわからないんだけど。
 「我々は神でもないが人というわけでもないということじゃ。ゆえに人では理解が追いつかぬ、左様了見することじゃな」
 解ったような解らないような……とにかく目の前にいる金髪ロリ娘は、人ではないということだけはわかった。今更確認するものではないけどな……
 鴇子が無色なら、アルファは七色の光を背負ってその光の移り変わりも留まる事を知らず移り変わっていく。今までみた光は直感で喜びや悲しみが感じられた。だが取り留めなく流れていくその光の流れは、様々な感情が入り乱れ、何を読み取って良いのかさえわからない。
 「お前ってなんなの?」
 「人類の最高責任者と言うとろうが」
 人のよりも上位に経つ存在、人の可能性を超えた存在。だが、とふと考える。神ではないとすれば……それは件の新種という存在ではないだろうか?
 「お前が本当にわからなくなってきたな……」
 考えてみればこいつはどこに寝泊りしているのかも、どういう立場なのかも良く解らない。君子は怪力乱神を語らずという故事にならうのであれば、これ以上理屈や常識にに合わぬことをあれこれと思い巡らすことはよくないはずなのだが、目の前に実際にいるのだから、どうしても無視できない。
 「我は偉大なる一つより別れたる等しき昼を分かつアルファであり、汝がであったのは等しき夜を分かつオメガである」
 俺のいぶかしむような視線に気づいたのか、アルファは自分を語りだした。
 「なんだそれ……?」
 「そういう存在なのじゃ。我ら姉妹は起源を同じくするちょっと変わった人間じゃ」
 それがどういう意味か、俺にはちょっと解らなかったが彼女の本質をあらわしているのだろうと、言葉よりも深い領域で感じることが出来た。
 「別の女に興味を示している暇はあるまい。そういうことをしていると余計な爆弾に火がつくぞ」
 そう言ってアルファは、まるで恋人のようにぴたりとくっついてくる。
 「何をしている?」
 「女に寄り添われているのに、もう少しまともな感想はないのか、この朴念仁め」
 「と言われてもなあ……」
 こいつのことだから、何か考えがあって引っ付いてきているとしか思えないのだが。
 「あ……」
 不意に嫌な感じがして俺は後ろを振り向いた。
 「……!」
 予感的中! 鴇子だ!
 屋上の入口に鴇子の顔が見えたと思ったら、すぐにただならぬ気配を察知して階下へと降りていった。
 「おい! ちょっと待て!」
 「悋気は女の慎むところというが、男の七つ道具でもあるわけじゃ。この色男め」
 「お前、なんてことしやがる!」
 先日、衆目を前にして告白したようなだし、鴇子の性格上きっと気分を害しているに違いない。俺は言い訳を考えながら、アルファを無視して、鴇子が消えた階段へと走り出した。
 向かう先はもちろん茶道部。
  
 「トッキーなら帰ったよ」
 「はあ」
 茶道部訪問を告げて鴇子を探そうとすると、ごっさんがぶっきらぼうに教えてくれた。
 それならそれで、早いところ追いかけるべきなんだが、何故だかごっさんが俺を離してくれなかった。
 「正直に言って、トッキーは自分勝手だと思うんだよね。相手を放置していおいたくせにさ、いざその時がきたら逃げ回るなんてちょっと虫が良すぎるんだよ」
 「それはいいけど、あいつ部活休んでいいのか? 部長なのに」
 「良くないよ。でも、どうせトッキーに文句言える人間なんていないしね」
 なるほど、ここは女王の支配地域であったか。
 鴇子の影響をモロに受けている茶道部の部員たちが、遠巻きにしてこちらをチラチラと見ているのは、あまり気持ちのいいものではない。その視線に棘を感じられるのは決して勘違いではないだろう。事実、連中からは血の濁ったような不気味なオーラが見てとれた。
 何しろ俺は公衆の面前で鴇子への好意を口にした勇者であるし、鴇子の姦計によって俺の評価はあまりよくない。そんな男が何を今更何をしに来たという感じだ。
 「聞いてる?」
 「聞いてるよ。俺そろそろ鴇子を追いかけたいんだけど」
 「ちょっと待って、その前に確かめたいんだけど」
 と、ごっさんは言葉をきって、俺を真正面に見つめる。
 「トッキーのこと本当に好きなんだよね」
 俺はややためてから、その答えを口に出す。
 「好きだよ」
 自分でも、思った以上にすんなり言葉にできたことに驚いた。
 「じゃあ付き合うの?」
 「…………」
 付き合える……かなあ……あいつと。
 今まさに俺達の関係は雪解けを迎えている。だが、歴史を振り返ってみても、冷戦からデタントの時代に突入したからといって、世界平和が訪れたわけじゃない。
 天使が第七のラッパを鳴らして俺と鴇子のアルマゲドンが始まる前に、なんとか仲直りしようと努力してきたつもりではある。そのはずなのだが、正直いってあいつを二、三発なぐってやりたいと思う気持ちが完全になくなったわけでもないのだ。
 「正直、あいつの泣いた顔が見たいな」
 そんな今の心情を包み隠さず答えたら、待っていたのは批難の嵐だった。
 「何考えてんのさ、好きな子相手にそんな愛情表現しか出来ないの君たちは」
 「でも、鴇子もきっとそう言うと思うぞ」
 俺と鴇子の憎しみは根が深いのだ。余人には、その精神の海溝を窺うことすら難しい。
 「すまないけど、ごっさん俺、早く行きたいんだけど」
 「待って、ここって居心地悪い?」
 「そりゃまあ、言ってみれば敵の本拠地だからな」
 「でも、現状はこんなものだよ。トッキーがこの学校ですっごく人気あるの知ってるでしょ?」
 「まあ……確かに」
 男に告白された回数は数知れず、隠れて想いを寄せる男の数もさぞかし多かろうと思う。
 そんな人間からしたら、俺なんてケーキにまとわりつく羽虫の様に忌々しい存在だろう。
 「流石は撃墜王なんて呼ばれるだけはあるな」
 「最近じゃ決して落とさないから不沈戦艦なんて言われてるみたいだよ。正直、トッキーに告るのってきついと思う。だいたい君ってトッキーが本命のくせにマッキーとも仲良くしてるしさ。そういうのよくない」
 「え、あいつとの関係ってそう見られているのか」
 「いつも二人でヒソヒソ話してるじゃない? 何話してるの?」
 「人類の行く末についてだよ」
 「誤魔化さないでちゃんと答えてよ! そういう不実な態度をとるからトッキーだって不安になるよ」
 誤魔化すも何も、本当のことなんだけど説得できる自信はなかった。
 「ともかくさ、トッキーに避けられてるし、告白した割には他の女の子と仲良くするような、不埒モノって評価が今の君なの」
 「そこから一発逆転はかなり難しそうだな……」
 普段の俺の評価から考えると妥当な線だけど、今更ながら、俺の人望の無さにあきれ返る。とはいっても、これも鴇子が暗躍した結果でもあるのだが。
 「あたしはやるなって言ってるんじゃないよ。君たちは友達だから応援してあげたいもん。ただ、やるならやるできちんと足元見てからのほうがいいって言ってるんだよ」
 「ああ、そういうことね」
 相変わらずおせっかいというか……人が良い。
 「わかった……でも忠告はありがたく受け取るが、それでもやることは決まっているので変わらないけどな」
 その瞬間、おもいっきり頭をはたかれた。
 「い、痛いぞおい」
 いきなり手が出るあたり、バイオレンスさは後藤先輩の妹なだけあった。
 「ぜんっぜんわかってない! 君たちは自分たちの関係にこだわりすぎなの!」
 いきなり怒りの形相で俺を非難してきた。
 「トッキーと君がいつまでも子供じみた喧嘩してるから、そんなことばっかりしてるから、君たちは今みたいにこじれちゃってるんでしょうが! 君の目的はそれを解消して普通の恋人同士になることでしょ? 違う!?」
 「ん……まあそうだけど……」
 恋人という言葉にひっかかるが、ここは素直に頷いておくことにした。
 「だったらもっと周りを良く見てよ。トッキーもそうだけど全然周りの人間見てないもん。最もトッキーはわざと無視してるし、それを許される力は持ってる。でも、そんなんじゃダメなの! 君達は、恋人になった後でも二人だけの世界に閉じこもっちゃうつもり?」
 「それは……ないと思うけど」
 でも、確かにごっさんの言うことには説得力があった。
 俺と鴇子に友人がいないわけでもないと思うが、鴇子のこと以外はどうでもいいという気分がないわけでもないのだ。かなりありえない仮定だけど、もし俺と鴇子がくっついたらイチャイチャカップルになり、さぞ周囲をイラつかせるだろう。
 それは、本質的に俺も鴇子も自分たち以外の人間なんてどうでもいいと思っている証拠だ。俺と鴇子だけで完結する人間関係……それは非常に不健康だし、良くないことだけは確かである。
 「そうだな……すまない変なこと言って」
 「別にいいよ。解ってくれたなら、それで」
 そう言ってごっさんはため息をついた。まるで出来の悪い弟とたしなめる姉のようだった。
 
 
 ごっさんの忠告を考えるに……「恋人になりたいのなら、鴇子だけじゃなくて鴇子の周囲も納得させろ」と言いたかったのだろう。
 今まで鴇子との喧嘩にあけくれ、周囲の人間への無関心を貫いていた俺としてはなかなかに堪える。一人の人間関係を大事にするあまり周りを無視していたことに、俺は気づいていなかった。それでも平気な顔をして、学校に通っていたのだから、俺は自分が思っているより、他人に冷たい人間なのかもしれない。
 「周囲の人間か……」
 ぱっと思い浮かぶのは学校の関係者ではなく……
 「おじさんとおばさんだよな」
 それは学校の関係者などより、はるかに厳しい障害に思えた。
 
 
 行動が早いのが、向こう見ずな若者の特徴だ。
 と言うわけで、俺は友人の忠告に従い。鴇子の家のまえまでやってきた。
 目の前にある喜連戸家は海鼠塀に囲まれ、古い建築物によくある威容を誇っている。古めかしい和風建築は住んでいる人間と同じような頑固さを保持しているかのように見えた。
 あいもかわらず代わり映えのしない家である。『朗月庵』という屋号のわりには、家の規模は庵どころか屋敷であった。
 鴇子の親父さんたちには顔をあわせ辛いので、家の裏側へと回る。昔は何度も遊びに訪れ、勝手を知りたる他人の家。屋敷の裏手は小山になっており、そちらから藪をくぐりぬければ中庭に侵入可能であることは既に熟知していた。そのルートは、かつて俺が鴇子の家に遊びに行くのに使っていた懐かしい思い出があるが、まさか侵入するのに使うとは思ってもいなかった。
 
 藪をこいで雑木林を潜り抜けると鴇子の祖母自慢の日本庭園が見えた。久しぶりに見るこの庭は幼い頃の記憶とまったく変わらない、古めかしい雰囲気を残したまま、まるで時が止まったかのようにそこにあり続けていた。
 「さて……鴇子の部屋は……」
 庭に面した二階端の鴇子の部屋には、灯りが点っているのが見える。何から何までありがたいと思って俺は、物置から失敬してきた梯子を使って窓の近くに立てかけた。脳内BGMに『ミッション・インポッシブル』のオープニングを流しながら、俺はそっと窓から中を覗いてみた。
 
 部屋の中には、机に向かっている鴇子が見えた。しかも、かなりの至近距離で。
 「ちょっ……」
 いきなり目が合った。
 「よう」
 勝手に侵入してあまりの挨拶ではあるが、驚いて梯子を踏み外さないだけ上出来だといえよう。
 「どうやって入ってきたのよ! 鍵は?」
 「どうやってって……いつもどおりだよ」
 「いつもどおりで十年前の話じゃない……」
 「それより入っていいか? そろそろ体勢が辛いんだけど」
 鴇子は少し忌々しそうな顔をしながら、
 「早く入って、そこだと人に見られるでしょ」
 一瞬のうちに他人に見られるリスクを計算して、俺を部屋に招きいれた。おそらく、拒むと俺が騒いで家の人間にばれるかもしれない、その可能性を考慮したのであろう。
 
 「で、何を考えているのよあんた」
 「う~~ん……」
 久しぶりにみる鴇子の部屋は、かなり女の子らしさがグレードアップしていた。
 古めかしい家に相応しく、和風テイストで統一された小物類。使い古された黒壇の学習机には似つかわしくないパソコンが存在感を際立たせている。
 「話聞いてる?」
 鴇子は不満そうな声をあげた。いつもと違い、大分感情がわかりやすくなってきているのは珍しく思う。
 「いや、昔とかなり違っているなと思って」
 「当たり前よ、あなたがここに来てたのはもう十年以上前の話なんだから」
 「流行の男性アイドルのポスターとか、イケメンばかりが出てくるアニメの抱き枕とか、あるかもしれないと思って楽しみにしてたのに」
 「あるわけないでしょ馬鹿馬鹿しい。そういうの趣味じゃないの」
 「ゴスロリは趣味なのか?」
 壁のハンガーラックにかけられているゴシックドレスを指差すと、途端に動揺しはじめた。
 「ちょっ! 見るなっ!!」
 ああ、そういえば、あの服ってデートに着てきた奴だな。
 この部屋の和風趣味から考えると、あまり鴇子の好みっぽくない……とすると……
 「お前あのデートのために、その服をそろえたのか?」
 「そうよ、わざわざ気合いれて用意してきたんだから、感謝しなさいよね!!」
 いやがらせに感謝しろと言われてもなあ……
 「で、いきなり他人の部屋に入ってくるなんてどういう了見なの?」
 こういう質問をしてくるあたり、鴇子はかなり切羽詰っているように見える。
 そんな鴇子を見るのはかなり久しぶりだ……要するに、鴇子は今の俺のように感情の色を見抜けない。よって、鴇子のアドバンテージはない。
 「…………」
 「な、何よ……」
 鴇子はやや脅えた顔をする。
 同じ条件になったいま、今のこいつはもう新種特有の力は発揮できない。俺の心を読めないただの普通の女子だ。だが、力に頼っていた鴇子にとっては、感覚の一つを閉ざされただけでかなり動揺しているはずである。
 「お前に話がある」
 「い、言っておくけど……変なこと考えているならすぐ人を呼ぶわよ!」
 「呼べるのか?」
 「くっ……」
 鴇子が苦しそうな表情を浮かべる。
 他人の評判を気にする鴇子のことだ、親にでさえ自分の仮面をかぶり続けてきたこいつにとって、俺との関係を邪推されるのは避けたいと思っているはずだ。感情の色が読めなくても。こいつの考えくらいはすぐに読める。そうでなければ鴇子と渡り合うことはできない。
 だが、新種の力に頼り続けていたこいつはどうだ?
 「侮らないで、自分一人でもこれくらいの準備をしているんだから」
 と言って、鴇子はスタンガンを取り出す。
 「物騒なもの持ってるな」
 「一応護身用にね」
 「逆にこっちが脅されているように感じるのは、俺の勘違いか?」
 「か弱い乙女が男と談判してるのよ。スタンガンくらいいるでしょ」
 とっさにこの状況に対応できるあたりは流石である。たとえ新種の力をつかわなくとも鴇子は鴇子だ。油断をすればただではすまない。……と、そう思わせたいと彼女は考えている。
 「…………」
 おそらく、あのスタンガンを使うつもりはないだろう。ただ俺に主導権をとられないように、自分の保有する武力をみせつけただけだと思う。
 博打でいえば、見せ金、はったり、単なるフェイクでしかない。いきなりスタンガンを向けるとは、ちょっとアレだけど、俺達の今までの関係を考えれは当然だとは思う。
 当然だとは思うけど……やはり、うんざりする、こういう関係は……
 「鴇子」
 「近づかないで!」
 今までに無い焦った様子で俺にスタンガンを向ける。電流の流れる無機質な音が、俺の耳朶に響いた。
 「勘違いするな……俺は話し合いに来たんだ。そういうのを、もうやめにしないか?」
 「は?」
 鴇子は、眼を大きく見開き、しばし呆けた様子で虚空を見めていた。
 そして、ややあって……口を開く。
 「何を言ってるの?」
 「お前といがみ合うのやめたいんだよ。要するに仲直りな」
 「だから、何を言ってるのかって聞いてるの!」
 それは拒絶の言葉のように思えた。
 「じゃあ聞くけど、いつまでこんな馬鹿なこと続けるつもりだ? 俺達もう高校生だぞ? 昔みたいに、水鉄砲かけあったり、いがみ合ったりする年でもないだろ? 顔をあわせれば嫌味を言い合って、陰でお互いを罵り合って、そういうのもううんざりするんだよ」
 「…………」
 「お前が気に入らないって言うのなら、俺の負けでいいからさ……とにかく、こういうの疲れるからいい加減俺達も大人になって……」
 「…………ゃ……」
 「え?」
 「絶対にイヤ……」
 「いやじゃないだろ」
 と俺は呆けている鴇子のスタンガンを奪うように掴んだ。
 「あ、ちょっと返して!」
 もみ合って、お互いの腕をよっつに組み合う形になる。鴇子の顔が近づいてちょっと動揺したのは、あまり表にだしたくなくなった。
 「こういうの持ち出してどうするつもりだ? もう子供の喧嘩じゃないだろ? お前はこれを使ってまで俺を叩きのめしたかったのか?」
 「それは……」
 これを使うのは鴇子の本心ではないはずだ、それくらいは解っている。子供っぽい意地の張り合いで始まった俺達の喧嘩は、長い間続けていくうちに負けられなくなった。
 ただの子供の意地……ただそれだけだ。
 「いいかげんに気づけよ、こういう喧嘩はな……俺達はもう似合わない歳になったんだよ」
 まだ大人とも言えないけど、俺達はもう高校生だ。だったら高校生には高校生らしい付き合い方というのがあるはずだと思う。
 確かに子供の頃みたいな遠慮のない付き合いというのは、気軽で簡単で、鴇子が拒否するのもわかる気がする。
 だが、それもいつかは卒業しなければいけない。年相応の落ち着きと礼儀をもって相手と接すつべきだろう。面倒ではるが、歳をとるというはそういうことだと俺は思う。
 「そ、それでも……」
 鴇子が口を開く。
 その声は震えていたが、今まで聞いた鴇子のどんな音よりも美しく聞こえた。
 「それでも私は……」
 
 「何をしている」
 その瞬間時が止まった。
 気づかなかったのは不覚だが、いつの間にか、鴇子の親父さんが苦虫を潰したような顔で、ドアを開けたまま仁王立ちをしていた。
 明らかに怒っている顔だ。と俺がようやく気づいたのは数瞬のタイムラグがあった。
 「何をしているのかと聞いている」
 「え……あ、その……」
 その時の俺の格好といえば、(鴇子から奪った)スタンガンを片手に、鴇子に覆いかぶさるように腕を押さえている。どこからどう見ても……俺がスタンガンを持って鴇子を襲っているようにしか見えない! 
 「えっとこれは……その……」
 こいつからスタンガンを奪って、説得するためにもみ合った結果なのだが、これまでの喜連戸家との関係からして、果たして信じてもらえるだろうか?
 
 
 「これもどうぞ、うちのお野菜ってね田舎から送ってきてもらってるの。どう? おいしいでしょ?」
 と鴇子の母親である澄子おばさんは、嬉しそうに俺に話しかける。
 「はあ……」
 何故か俺は鴇子の家のリビングで、夕ご飯をいただいていた。
 あれから、親父さんの説教が始まるかと思いきゃ、俺を見つけたおばさんによって強引に連れられて、こうして居間でご飯をいただくことになっている。
 対面には親父さんと澄子おばさん、俺の隣には鴇子という布陣。何もしらない子供の頃なら、気安いまま飯を頂くことも可能であろうが、あれから何年も経って個人の自我が発達したこの年齢にあっては他人の家の団欒は少し緊張を強いられる。
 「久しぶりよねえ、みんなで一緒にごはんを食べるなんて何年ぶりかしら、ね、あなた」
 「ああ」
 親父さんは先ほどから仏頂面で眼光が鋭い。料理に手をつけず猪口で酒をちびちびやりながら、じっと俺を見つめて監視を怠らない。後に背負った黒いオーラは禍々しいほどの殺気を放っていた。
 「ごめんなさいねえ。この人嫉妬してるみたいなの」
 対しておばさんは神々しい虹色のオーラを放っていた。俺を歓迎しているのは態度からも察せられる。
 「男友達が遊びに来たくらいで、大人気ないわねえ」
 とこっちに同意を求められても困る。当然の如く鴇子は助け舟を出してくれない。
 「はあ」
 としか答えられない自分の人生経験の不毛さが悔やまれる。
 だいたい親父さんが仏頂面なのも、年頃の娘の部屋に知った顔とはいえ男が忍び込んでいたのだから無理もない。こうして大人しく机に座っているのは、家庭の体面を保とうとしている努力の表れだろう。その苦渋が刻まれた顔を皺からは、家庭団欒の和を保とうとする父親の苦悩が透けて見て取れた。
 というか、おばさんのほうはそんな軽いノリでいいのか、娘の貞操の危機かもしれなかったのに。
 「大丈夫よあなた、彼は鴇子を襲うような不埒な男じゃないわ」
 「わかっとる。わかっとるがな! 親しき仲にも礼儀くらいあるだろう、挨拶の一つくらいあっても当然じゃないか!」
 はい、至極ごもっとも。
 「す、すみません、どうしても鴇子と話をしたくて……」
 「いいのいいの気にしないで、昔みたいにいつでも遊びにきてくれていいんだから」
 と、おばさんが取り成してくれるのはありがたいが、余計に親父さんの怒りの炎に油を注いでいるようにも見える。
 「ふん……まあいい」
 と猪口を置いて、親父さんは俺を値踏みするように睨みつける。
 「学園での様子はどうだ? 元気にやってるのか」
 「は、はいおかげさまで……」
 「鴇子ったら、学校でのことちっとも話してくれないのよねえ」
 「……」
 隣に居る鴇子がぴくっと反応した気がした。
 おそらく家族から自分を語られることに慣れていないので、ちょっと動揺しているのではないだろうか?
 「どうなんだお前達は、仲良くしているのか?」
 その問いかけは、かなり難しい。
 父親としては、娘の学校生活が気になるのは当然だとも思う。
 だが、最近の俺達は多少は関わるようになってきたが、その前はさんざんいがみ合ってからの、しばらくの没交渉期間がつづき、現在は険悪というよりは対立しているような関係に落ち着いている。
 間違っても仲が良いとは言えない。それもこれも幼い頃からの因縁を引きずり続けた結果だ。未だに俺達が子供じみた関係を続けていることを、鴇子の両親の前で開陳するのは、少々恥ずかしい思いがした。
 「…………」
 殺気を含んだ視線で睨んできたあたり、鴇子も同じ思いらしい。
 「も、もちろん仲良くしてますよ」
 と、無難に答えておく。
 「ええ、幼なじみですから」
 と、鴇子も無難にあわせてきた。
 「そうか……これからも友人として仲良くやって欲しい」
 その時の親父さんの声は、はやや棘が隠れているように聞こえた。
 
 
 「これ、持っていきなさい」
 と帰り際、玄関まで見送れたとことでおばさんから、風呂敷に包まれた荷物を渡される。
 持ってみると、ずしりと思い。
 「これは?」
 「この前うちがあなたのお父様から借り受けた器よ。割れモノだから扱いには注意してね」
 ああ、そう言えば、この前貸し出してたのを思い出した。
 「良かったわ、あなたが鴇子に会いに来てくれて、もう来てくれないかと思ってたから……」
 「まあ、敷居が高いことは確かですけど……」
 「はあ……やっぱりそうなのね……」
 と、おばさんはしばし悩んで言葉を切った。
 「私達のこと恨んでる?」
 「恨んでるってどうしてです?」
 「鴇子のこと……あの子、許婚がいるのよ」
 そもそも、この婚約は是が非でも欲しいと、向こうから話を持ってきたらしい。商売の取引相手ということもあり、鴇子のおじさんは無碍にはできないと聞いていた。
 「そのことで、貴方達の関係が悪くなったんじゃないかと思って……」
 おばさんは、どこか諦めているかのような口調だった。
 「はあ……」
 としか俺は答えることが出来ない。
 親同士が決めた結婚。家という重み。そもそも鴇子を嫁にだして、その後の跡継ぎはどうするのかという疑問もあったが、子供の俺がそれらの重い話題を口にするには少々経験が足りない気がした。そもそも、他人の家の事情に口を挟むことも躊躇われる。
 「いけないわよね、こういうことあなたに話しちゃ……ごめんなさいね」
 「いえ……」
 そんな俺の戸惑いを察したのか、おばさんは俺に謝ってきた。
 「頼みますから、あの子と仲良くしてやって頂戴ね。あの子、あなたと一緒なら子供になれると思うのよ」
 
 
 珍しく鴇子が見送りすると殊勝なことを言い張ってきたので、俺は鴇子と一緒に夜道を歩いている。もっとも、仲の良い幼なじみを取り繕うための演出に過ぎないであろうことはわかっていたが、俺にとっては鴇子と一対一になれる貴重な機会。
 一方の鴇子は仏頂面で俺に話しかけてこない。話があるならそっちからしろという、無言のプレッシャーを感じて俺はレディーファーストの精神を発揮しようと試みた。
 「なあ鴇子」
 「なによ」
 喜連戸家の居間でご飯をいただいた時と比べて、態度がそっけない。
 こんな状態の女の子に気安く話しかけるほど人生経験を積んではいないが、童貞を理由にしてばかりでは前に進めないので、俺は鴇子の父親によって途切れていた用件を続けることにした。
 「話し忘れてたんだけど、屋上のことなんだが……」
 「ああ、あんたが屋上であの女とよろしくやってたことがあたしと何か関係が?」
 いきなり会話のハードルを上げてくる。
 「いいから聞けよ、あいつとは何もない」
 「それはあなたの好きな相手に言ってやったら?」
 「だから今言っている」
 その時、鴇子の足が止まった。
 暗がりで鴇子がどんな顔をしているのか見えない。それがちょっと不安に思えたが、俺は言葉をつむいでいく、
 「俺はお前が好きだ。だから誤解しないで欲しい」
 「………………」
 反応なし。
 その瞬間、俺達が積み上げてきた歴史が走馬燈のように脳裏に流れていった。
 はじめて喧嘩して、親父に殴られたこと。鴇子の下駄箱にマヨネーズをつめて、先生に叱られたこと。その報復で、鴇子によって俺が鼻くそを食べる趣味があるとデマを流されたこと。
 やってはやりかえされの、子供じみた喧嘩の連鎖が延々とつづき、そしていまぷっつりと切れた音が聞こえた。願わくば、鴇子もその音を聞いていて欲しいと、俺は願った。
 「鴇子……だからもう一度いうぞ」
 おそらく、鴇子はこの時の自分の顔を見られたくないだろうから、俺はそのまま言葉をつむぐ。
 「喧嘩はもうやめよう。俺と仲直りしてくれ」
 「……んで……」
 鴇子が小さい声でつぶやく。
 「何だ?」
 「今更遅いわよ! そんなの!」
 そう叫んで、鴇子はもと来た道を走って帰っていった。
 一応、一世一代の告白だったんだけどな。
 だけと気分はそう悪くない。あいつに言えなかったことをようやく言えた。
 長い間心に埋まっていたつっかえ棒がとれたみたいに、心は晴れ晴れとしていた。
 『仲直りしよう』たったこれだけの文章を口にするために、俺は青春の大部分を浪費した。
 他人から見れば他愛ない成果かもしれない、だけど俺にとっては途方もなく難事業を成し遂げた、そんな達成感で胸が満たされていた。
 そのせいか、家に帰ると親父は男の顔になっていると褒めてくれた。
 
 
 その夜、また夢を見た。
 「また、あんたかよ……」
 目の前にはあのオメガと名乗る女。
 そしてアルファと初めて出会ったあの異空間。
 アルファと同じ格好だが、かの目が覚醒してからというもの、その身にまとうオーラを見ると誰だか判別できるようになっていた。仏の後光のような金のオーラは同じだが、それはアルファよりは威圧的に光輝く。アルファの光はどっちかとというと、荘厳な感じがして、決して人に圧力をかける類のものではなかった。
 それになにより、このふてぶてしい表情。二人ともかなり顔立ちが整った女の子であるが、その鋭い目つきは鴇子に似ていた。つまり……ちょっと苦手な感じがするんだよな、この子……この前だっていきなりキスされたし。
 「また会ったわね」
 と冷たい声のオメガ。前回はかなり機嫌が良かったが、今回はそうでもないらしい。
 俺は簡単に懐に入り込まれないように、警戒しながら、体を半身にして、足を開き斜め横のスタンスをとり、急に襲われても対応できるよう構えた。
 「この前は唇を捧げたのに、その態度、ちょっと失礼じゃない?」
 「あれは捧げたっていうより強奪だったけどな。お前んとこの関係者ってあれか? キスが別れの挨拶なのか? ひょっとしてロシア系か」
 念のために逃げ場を探した。ランタンのオレンジ色の光が謁見用の玉座と、申し訳程度の装飾品を照らすのみで、周囲は茫漠とした闇が広がっている。さながら闇に浮かぶ小島のようだった。
 「いい気になってるんじゃないわよ」
 オメガがかなり不満そうな口ぶりだった。
 「いきなりだなおい」
 「ここで幼なじみと手を手をつないで、仲直りー♪ なんて映画にしては安っぽすぎるわ! なにそれ? 恋愛ドラマの主人公にでもなったつもり? 残念、面白くもなんともないから!」
 「おい、お前を楽しませるために、こっちは苦労してんじゃねえぞ!」
 いきなり現れて、文句を言われてはさすがに俺も面白くない。
 「こっちは、それを楽しみに色々ちょっかいかけてるのよ! もっとギャラリーを楽しませないさよ! つっまんない男ねえほんとに!」
 「やっかましい!」
 俺も対抗して声を張り上げる。
 「お前らのような意味不明な奴らに付きまとわれて、こっちだって迷惑してるんだよ! それになんだよちょっかいって、なんでお前ら鴇子と俺の関係にくちばしを入れてくんだよ!」
 「私を責めるのは筋違いね。私はあなたたちの願いに応じて新種としての自覚を得るために、ちょっと手助けしてやっただけなんだから」
 「あなたたち?」
 「そうよ、あなたが望んだことは鴇子も望んでいる。だから私はここに居るの。初めに会った時に言ったでしょう? 私はあなたたちを結ばせるために、ここにいるんだから」
 そう言って彼女は俺の不肖をなじるかのように、にやりと笑った。
 「にしては言ってることが滅茶苦茶のような……」
 「鴇子と和解する? 負債を帳消しにしてやるから彼女になれってこと? 上から目線で女の子の頭を撫でてやったら、さぞかし気持ちいでしょうね。でもそういうの全然似合わない上に、ムカつくのよ」
 「そういうつもりじゃない、俺は鴇子を……」
 「恋人にしたいんでしょ?」
 「それは……」
 「言葉にする勇気もないくせに、あなたはどこに着地するつもりなの? そんな不覚な男が恋愛しようとしても、女は不幸になるだけよ?」
 「ぐ……」
 それは……なかなか厳しい指摘だった。
 「あなたが鴇子を好きなのは知ってるわ、だからこそ、貴方達は最後まで子供じみた喧嘩を続けるべきよ! それが一貫してるってこと。矛盾がなく隙がない。数式のように無矛盾性に満ちた完全無欠の結論。そのかいあってあなた達は新種という人類のネクストレベルに到達しようとしているのに、その美しさをあなたは自分で捨てようとしている。それがどれだけもったいないことかあなたにはわかってるの?」
 「また新種か馬鹿げた結論だ! 俺にも鴇子にも関係ない! これは俺たちが手を付けるべき問題だから他人はとやかく言うな!」
 「いいえ、言わせてもらうわ。だって相手はあの鴇子なのよ? あなたが憎み続けた人生最大の敵なのよ? 敵に敬意を抱くのはいいでしょう。でも、だからといって、仲直りしてはダメよ! あなたたちはこれまでの応酬で培った憎しみを帳消しに出来る? 出来るわけがないわ、だって、憎しみを消すってことは、その中で育まれた愛情をも否定することなんだから」
 「ぐっ……」
 反論したい……だが、オメガの発言にどこか納得してしまっている自分がいる。非常に腑に落ちる。しっくりくる。あまり信じたくないが、当たり前の事実を喋っているように思えてならない。
 「忘れているようだから思い出させてあげる、殴り殴り返されがあんたたちの関係よ! だからあなたはさっさとあの女に喧嘩を売ってきなさい」
 「お前を楽しませるためだけにか? ごめんこうむる」
 「いいえ、自分で選ぶのよ」
 自分が先ほどまで眼をそらしてきた事実を照らされて、俺は思い知らされたような気がした。
 「あの子と愛情を語り合いたいだなんて、とんだオママゴトね、あなたは鴇子との関係を清算したいようだけど、それはこれまでの喧嘩のケリをつけるって意味なのよ?どっちが上で、どっちか下か勝ち負けを決めるのよ。あなたにそれが出来るの? それとも、鴇子に負けを認めさせるの? どっち?」
 「それは……」
 プライドが疼く。
 勝利か、それとも敗北か。
 「なあなあで終らせた関係なんて不健全じゃない。あなたちは、例えその繋がりが憎しみだけしかなかったとしても、その関係は誠実だったの。敵として誠実であり続けたじゃない。鴇子もあなたも自分の望む関係になれたじゃない」
 「………………なんだよお前……」
 「何って何が」
 「アルファとは違うのか?」
 「アルファね……あの人は、ハッピーエンドがお望みのようだけど、私は違う。私は私のやり方であなたたちを番わせてあげる。鴇子とあなたのカップルには、愛情よりも憎しみがふさわしいと思うわ」
 確かにそうかもしれない。だが……
 「俺はそうは思わない」
 「あら……」
 オメガは、意外そうな顔をした。
 「そもそも、あいつと喧嘩を続ける理由なんてないんだ。たとえ親父たちが仲が悪いからって、それを継承する意味もない。だけど、俺たちは憎しみ合ってその関係に埋没した。だから、ほかの人間と交流することを忘れて。ただ、自分たちの関係で完結している、それこそ不健全だろ」
 「ふん……」
 そう、それこそ俺の当初の目的だ。
 普通の幼馴染なら、それこそお互いに遊んだり、疎遠になったりもしただろうけど、俺たちの関係は普通じゃなかった。特別な関係。だがその関係性を維持する代わりに、憎しみ合いを重ねて過ごしている。
 これは異常だ。異常であるなら是正しなければならない。
 「お前が俺のやり方に不満があるのはわかった。だが、もう口をはさむな、これは当事者の問題だ」
 「言われて見ると、確かに私は傍観者にしかなれないのよね……」
 とオメガはため息をつく。
 「だから、決めるのはあなたよ。私はちょっと手を貸したりアドバイスをするだけ。その労力の分文句も言わせてもらうけど」
 「俺のやることはもう決まっている。だからもう助けはいらないし、文句は言うな」
 「そう、じゃあ頑張りなさい。鴇子と仲良しごっこで満足できるのならね」
 

・第六章


 翌日学校に行くと、様子がおかしいことに気づいた。
 こそこそを俺の顔を見ては内緒話をしているが、視線を合わせようとしない。背後のオーラは昨日の鴇子の親父さんのように濁っている感じがする。こういう時はこの眼の力は便利だけど、正直居心地が悪い。その原因が判明したのはお昼休みのことだった。
 「鴇子の家に、不法侵入したらしいな」
 「は?」
 屋上で飯を一緒に食べていたら、いきなりアルファにそんなことを言われて、ちょっと固まってしまった。
 「一応尋ねておくが……」
 「冤罪だ!」
 「じゃろうな」
 「いや……冤罪というわけでもなかったか……予想以上に悪く見られているな俺……」
 周りの視線がいつもよりはるかに刺々しい。鴇子の根回しにより俺への反感が募っていく様子が感じられる。あいつはこの学園の女王だし、直接何も言わなくても取り巻きがそういう空気を作ってくれる。普通に話してくれるのはごっさんぐらいだ。
 しかし、この手のやり方は気に食わない。
 
 「昨日は鴇子の家に行ったのか?」
 「ああ、一応説明しておくけど行ったよ……その時、無作法したのは事実だけど……」
 アルファに俺は昨日の出来事をかいつまんで説明した。
 「そういうことがあったのか……事実無根というわけではないのじゃな……」
 「しょうがないだろ、あの家は直接行くには敷居が高いんだよ」
 「だからって、迂闊に虎穴に飛び込むでない。女を篭絡するには、もう少し手練手管というものがあろう」
 「自分から動けとか言ってたくせに」
 「やらなくていい危険を冒すべきではないと言ってるのじゃ、結局は鴇子の両親は受け入れてくれたのであろう?」
 「うん、それはまあ……ね……」
 おばさんは俺を快く受け入れてくれたけど、でも親父さんのほうはどうだろうか? 態度がかなり刺々しかったし、あの後に渦巻いていたどす黒いオーラは忘れられない。
 そんなことを考えていたら、いきなり聞き覚えの無い声に呼びかけられた。
 「ちょっとそこの!」
 「なんだあんたら」
 振り返ると、複数の女子が入口付近に立っていた。
 こちらを睨みつけて、敵意を隠さない様子。というか黒くて禍々しいオーラを背負っているためまる解りだ。先頭に立つ女の子には見覚えがある、たしか鴇子の関係者だろう。
 「どなたですか?」
 と理由をしらないアルファが問いかける。
 「私達は喜連戸さんの友人よ」
 さきほどから戦闘モードまるだしの先頭に立つ高身長の女子が、口火を切った。
 「あやつに、ごっさん以外の友人がいるようには見えんがのう。そなた、知っておるか?」
 「あいつは確か三組の宇津井だよ、友人というより取り巻きだけどな」
 鴇子の傍で対等な関係を維持するのは、かなり難しい。俺がその証拠だ。
 ごっさんがああも自然体で、鴇子に接しているのはおそらく人徳のなせる技だと思う。あの絶妙な間合いの取り方と、毒っ気のなさは、ちょっと見たことがないレベルだ。精神が清らかな乙女はかくも麗しい。
 「ちょっと! 人が話しかけてるのに何、無視してんのよ、あんた!」
 そしてこちらはあまり精神が清らかではない乙女だ。もっとも鴇子は産業廃棄物レベルだったけど。
 
 「宇津井さんだったけ? で、俺に何の用事?」
 「決まってるでしょ! 今日、喜連戸さんが休んでる理由についてよ!」
 「ああ……」
 予想通り、鴇子が休んでいるのは、俺が鴇子の家に不法侵入してショックを受けたからと想像しているらしい。馬鹿め、あいつがそんな安い理由で学校を休むほど繊細なタイプか? あいつの傍にいながら、そんなことも解らないのかこいつは。
 「あんたのせいで、喜連戸さんは傷ついてるのよ」
 「なんとかいいなさいよ!」
 「男のくせに、言い訳もできないの?」
 途端に後に率いる有象無象が俺にほえかかり、抗弁する気力をなくしそうになる。
 「それさ、何かの間違いじゃないの?」
 「とぼけないでよ! 私はちゃんと掛井さんから聞いたんだからね! あんたが不法侵入してきたって」
 掛井のやつ……なに喋ってやがるんだ。
 「だからってあいつが休んでいる理由がどう繋がる」
 「不法侵入してきた相手と同じクラスなんて、女の子なら誰でも怖がるわよ!」
 「そこまで鴇子は喋ったのか? 怖いって」
 「は? あんたの頭使いなさいよ! それくらい想像できるでしょ!」
 激昂する宇津井の顔をみて、俺はまたかと心の中でため息をつく。大体のところ数の勢いに一方的にやり込められる、そんな構図はこれまで幾度となく味わってきた。
 自分の正義を疑わない連中が、自分が決して傷つかない場所から総攻撃をしかけてくる、ネットの炎上にも似た心理。相手のトドメを刺すまでけっしてその手を休めたりしない。正直いって面倒くさいし、関わりたくない。
 「まあまあ、ちょっと待ってください」
 と見るに見かねたのか、アルファが間に入った。
 「聞くところによると、喜連戸さんが彼のせいで休んでいるのは推測にすぎないのでしょう? 彼を責めるのはいささか勇み足かと思いますが」
 「何よあんた」
 「申し遅れました、転校生の北条マキナといいます」
 宇津井の睨みにも怯むことなく、アルファは冷静な態度を続ける。
 だが、そのことが余計に火に油を注いでしまったようで、彼女達はさらに激高した。
 「北条さん? あなた、こいつとどういう関係なのよ」
 「友人ですわ」
 「だったら黙っててくれない? あなたには関係ないでしょ」
 「そうよ! あんた、ちょっと評判いいからって調子に乗ってるんじゃないの?」
 女の子たちは、一緒にいるアルファまで狙いをつけてきた。
 「なぜ私が糾弾されているのじゃ?」
 「すまん……とばっちりだ……」
 何しろあいつらにとって、鴇子は正義。それに反抗する俺は決まって悪者で、小学校の学級会ではよくつるし上げられたものだ。
 そう……俺はその時、いつも一人だった。
 「…………」
 「? どうした、調子が悪そうじゃのう」
 「いや、ちょっと……」
 女に囲まれているこの状況、どうも昔を思い出してしまう。
 それはかつて俺が鴇子にコテンパンにされた苦々しい思い出。俺は昔を思い出していた。一人でいる怖さ、一人でいる心細さ、一人でいる寂しさを。
 あの時の俺は、今のように強くなかった。複数の女子に囲まれ、その勢いに屈服した。どきんとまた胸が疼く、呼吸が乱れる、心臓の鼓動が早くなっていく。
 「しっかりするのじゃ、あんな有象無象に押されるでない」
 「わ、解ってるよ……」
 とは言いながら、俺は完全に腰が引いていた。
 このままではいかんと自分を奮い立たせ、一歩前に歩き出す。
 「あ、あのっ!?」
 「何よ」
 「……!」
 だめだ……すぐに心が萎縮する。
 「文句があるならちゃんと言いなさいよ! 情けないわね!」
 「いや……えっと……」
 そんなつもりはない。毛頭ないのだが、いつの間にか俺の身体はすっかり萎えている。
 「はあ? 何それ聞こえないんですけど?」
 激しい声が心を締め付ける。その怒りの混じった目つきがひどく怖く思えた。普段なら、これくらいの逆境は慣れっこなのに。
 そうだ、忘れていた。誰かに強く言われたら萎縮する。俺はそんな子供だった。
 鴇子に反撃できるまでの胆力を蓄えられたのは、それでも鴇子は俺を挑発してきたからだ。これでもかと俺にダメージを与え、それは俺の中に暗い澱のようなヘドロとなって貯まっていき、いつしか許容量を超えた。
 そうして、俺と鴇子のやり返しやり返されのバトルがはじまった。
 その前は俺と鴇子は普通の幼なじみだったのだ。関係が変わったのは……確か、朗月庵の法事の席であいつが、理不尽に俺の責めてきてからである。鴇子がきっかけで、俺は、いや、俺達はこの理不尽な関係が始まった。すべてはあいつげ原因なんだ!
 「……!」
 あいつを憎む、ようやく俺はその根源的な理由を見つけた。
 ドクンと心臓が鼓動する。
 これは復讐だ、あの女への。呪われた自分の人生への復讐……
 オメガと名乗ったあの女の言葉を思い出した。
 あいつのいうとおりだ、俺と鴇子は憎しみあう仲った。今更それを無かったことになんて出来るはずがない。仲直りしてどうなるのだろう? どちらかが倒れるまで続ける、それが鴇子に対するけじめの付け方ではないか?
 その瞬間、体を萎縮させていた重みがスッと消えて、体が軽くなった気がした。
 「ちょっと、この期に及んでだんまり? もしかして逃げるつもりじゃないでしょうね?」
 「黙ってれば許されるなんて思ってるの?」
 いいだろう。怒りはもう充分だ。行動するには充分な動機だ。そろそろ反撃を開始しよう。
 「まずさ……何をそんなに怒っているのかな? 君らに咎められる理由なんてないんだけど?」
 俺は宇津井の目をまっすぐに見据えて言葉をつむぐ。
 「私は友人だからよ」
 「だから何? 俺と鴇子は幼なじみだけど」
 「そんなの今は関係ないでしょ!」
 「だったら君も関係なくない? あいつが文句言うならまだしも関係の無い人間にどうして糾弾されないといけないの?」
 「い、いいのよ友人だし、友達を心配するのは当たり前でしょ?」
 それまで得意だった宇津井の勢いが一瞬弱まる。
 綻んだ理屈の穴を攻撃しようと、俺はここで一気に揺さぶりをかける。
 「鴇子の友人?」
 「そうよ、友人だから。喜連戸さんを心配するのは当たり前じゃない」
 「心配してるからって。寄ってたかって、つるし上げるのが友人のためになるとでも思ってるの? だいたい俺のせいで鴇子が休んでるって情報は、誰から聞いたんだよ?」
 「そ、それは……掛井さんから」
 相手が徐々に怯みだした、掛井が余計なことを言ったことはとりあえず頭の隅に置いておいて、ここぞとばかり俺は畳み掛ける。
 「で、でもあなた喜連戸さんの家に侵入したってのは……」
 「ああ、侵入したよ。したい話があったからね」
 「ほ、ほら見なさい、やっぱり変態なんじゃない!」
 「だけどその件に関しては、鴇子の親父さんに謝ったし、昨日は一緒に飯食って帰ってきたよ」
 「え……」
 「家の人には謝ったし、許してもらえた。この一件はもうとっくにカタはついてる」
 不意に宇津井を筆頭する女子達がざわつきだす。
 「マジで?」「ちょっと話が違わない」なんていってるけどもう遅い。
 「それで? もう一度聞くけど、第三者から俺が鴇子の家に忍び込んだって聞いただけで、どうして鴇子に何の関係もない君が、この件で俺を糾弾してくるの?」
 「あ……それは……」
 「そもそも、俺のせいで休んでるって聞いた掛井の推測? あいつどう言ってたの?」
 「それは……その……」
 「は? 聞こえないんだけど!?」
 「ひぃ!」
 びくっと震えている宇津井は、既に涙目になっていた。ちょっと脅しすぎたかな……と少し罪悪感がかすめたが、すぐに心地よい衝動に埋め尽くさせれていく。
 「で、そっちのあんたらは、どういうつもりなの?」
 と俺が強い口調で問いかけると、女子の皆さんは一斉に掌を返してきた。
 「私達も宇津井さんから聞いただけで……」
 「えっと……詳しいことは何も……」
 女子の連中の非難するような視線が、宇津井に集まりあっという間に構図が逆転した。
 まさに、人を呪わば穴二つ。
 「要するに、推測だったわけね」
 「ご、ごめんなさい」
 「私達はその……宇津井さんに乗せられて……」
 簡単に掌返すなあ、この女子たち怖い。
 「ちょ……」
 もはや宇津井の周りには誰も味方が居ない。先程までの俺の苦境がよく理解できただろう。だけど、まだ足りない、もっともっとだ! 心中の飢えを満たすために、相手が泣き叫ぶまでこの衝動は止まらない。そうすることが当然だ。なぜなら、俺には復讐の権利があるからだ!
 「そもそも友人だから俺を糾弾するって言うなら、鴇子が君達に相談してからだよね。その上で文句を言ってくるならまだわからないでもないけど。いきなり人のこと憶測で非難しといて、許されると思ってるの?」
 「あ、あの……その……」
 「友達って主張するならさあ、アイツに確認してこいよ!」
 「だって喜連戸さんって……時々、近づかないよう言われたし」
 「その命令に従ったってことね。それって本当に友達なのかよ?」
 「あ……ああ……」
 宇津井は完全に、涙目になっている。
  
 「うらああああああああっ!」
 突如として、野獣のような咆哮が唐突に空気を切り裂いた。
 「あなたは……」
 「後藤先輩!」
 空気を読まない代名詞たる後藤先輩は、周りの女子の視線をきにもせずに間に割り込む。もっとも、女子もかなり脅えていたが。
 「女になんて口きいてんだこれああああ!!」
 突如視界が真っ白になった。全てが光に包まれた穏やかな彼岸の景色が見えたかと思うと、突如左頬からの鈍い痛みが現実へと引き戻す。
 「げほぉ!」
 激しい痛みによって後藤先輩から殴られたと気づいたのは、ほんの数瞬だった。その間に俺は確かにあの世の景色を見たのだ。これはおそらく、後藤先輩のフィニッシュブローの一つ、一秒天獄(ワンミニッツアフターライフ)である!
 これをくらった相手は拳のあまりの衝撃により極楽が見えたかと思うと、その刹那、痛みにより現実へと引き戻される。破壊と仏性を兼ね備えた恐るべきパンチである。後藤先輩はまるで暴力もまた救済といわんばかりに、この殺人パンチをふるい、名だたる不良を調伏しまくってきた。そして、この拳をくらった人間はかなりの確率で先輩に服するようになる。
 俺も厭離穢土欣求浄土の悟りが垣間見えた気がした。まさしく大往生である。
 ちなみにこの手の伝説はまだまだたくさんあるので、後述する機会もあるかもしれない。
 「ぐっ!」
 吹き飛ばされた体が二転三転して、俺はようやく現実へと帰還を果たす。
 すげえ痛い、頬がひりひりする。
 「あの……彼を助けに来たのでは?」
 それまで、ことの成り行きを静観していたアルファが呆れたような声で問いかける。
 「女に暴言吐く奴は許せねえんだよ、だがそれ以上に!」
「ひっ!」
「大勢で一人をかこむ、その根性が許せねぇ! 喧嘩の仕方がわかってねえみたいじゃねえか、オメェーら!」
 後藤先輩はひと睨みで、それまでいきり立っていた女子たちを黙らせた。
 先輩のマイルドどころではないヤンキー顔が眼前に迫り、みるみる宇津井が脅えていく。人間の形をした大理不尽の塊、いわば人の形をした厄災のようなもので、その本質は自然災害に等しい。女でも手出しをしないという保障はまったくない。
 「ちょっと待ってください先輩! 相手は女の子ですよ!」
 と俺はとっさに後ろから後藤先輩の背中を抱いて止めようと試みる。俺が止める義理もなかったが、いくらなんでも目の前で獣の餌食になろうとしている人間がいたら、止めに入るのが人の道だ。
 「だったらどうした? 今は男女平等の世の中だろうが!」
 怒った獣に理屈は通じない、解っていたことだけど。
 「な、何よ! いくら後藤先輩でも関係ないなら黙ってて欲しいんですけど」
 「んあああ? てめえ俺に喧嘩売ってんのか? この学園で俺に関係ねえことなんてねぇんだよボケ!」
 「ひっ」
 あまりの眼の鋭さに宇津井も、腰が引けている。その一方で、俺は後藤先輩を抑えるのに必死だけど、そもそも俺と後藤先輩では力が違う。必死に止めようと羽交い絞めしている俺をものともせずに、じわじわと宇津井に近づいていく。
 「いいから逃げて! 逃げてくれ!」
 「で、でも……」
 「この人、女でも平気でグーで殴るんだぞ! その顔ジャガイモみたいにされたいのか?」
 「ひいぃ!」
 悲鳴をあげて宇津井が下がる。先頭に立っていた女子が崩れると、後の有象無象の女子達も続いて一気に屋上から去って行った。
 ふう……悲劇はなんとか避けられたか。
 「おい、いつまで掴んでる」
 「あ……」
 俺はといえば、そこでようやく自分が何をしでかしたのか理解した。
 三度の飯より人を殴るのが生きがいである後藤先輩から、喧嘩の機会を奪ったのである。
 「先輩、怒ってます?」
 「その答えはお前が腕を放してから教えてやる」
 「絶対に怒ってるでしょ!」
 「怒ってねえ!」
 「いや、絶対に怒ってますよそれ!」
 「怒ってねえっつってんだろが、ボケ!」
 後藤先輩は、獣の膂力で無理やり俺を振りほどいたかと思うと、振り向きザマに見事なフックを放った。
 「はぐっ!」
 見事頬にクリーンヒット。
 口を切ったのか、舌に鉄臭い味が広がる。
 「ま、けじめはつけねえとな」
 「あ、ありがとうございまふ……」
 完全に殴られ損ではるが、この程度の体罰など当たり前に思えてくるから、この人は恐ろしい。
 「キツイ先輩じゃのう」
 「解ってるなら止めろよ」
 「男同士の世界に女の口出しは野暮というものじゃ」
 と、アルファは妙に物分りのあるところを見せた。
 「ふん、わかってんじゃねえか」
 先輩もしきりに頷いている。一応、うちのクラブは文系なのだが、後藤先輩からの理不尽に耐えているうちに、どんな体育会系よりも男気の度合いが遥かに上をいくようになってしまっていた。何を思って上げなくてもいいパラメーターをのポイントをしきりに積み上げていくのか、今度じっくり考えてみたくなってくる。
 そんなことよりも、だ……
 「先輩が割って入ってきてくれたことは感謝しますよ」
 「ふん」
 後藤先輩は、照れくさそうに鼻を鳴らした。
 蛮勇を誇る後藤先輩だが、この人は侠気の度合いもまた激しい。俺が女の子の集団から糾弾されるのを見て、義を見てせざるは勇なきなりの理屈にのっとり、体が勝手に動いたのであろう。こういう時に真っ先に駆けつけてくる人だからこそ、敬まれもする。おせっかいであはるが、この人の面倒見の良さもまた人一倍である。
 「勘違いすんなよ、決して女がムカついてたからじゃねえ、オメーも喧嘩の作法がわかってなかったみたいだったしな」
 「あ……」
 俺はさっきまでの激昂していた自分を思い出す。
 「落ち着いたみたいだけどよ、オメー、ちょっとやばいぜ。さっき完全にキレてたろ?」
 「はい……」
 恥ずかしいことだが、さっきの俺は完全におかしくなってた。昔の自分に戻っていた気がする。激しい怒りに自分の身を任せることが、ただただ気持ちよかった。それはかつて鴇子とガチで喧嘩をしていたあの頃の俺、そのものだった。
 俺は夢で会ったオメガの言葉を思い出す。自分と鴇子は喧嘩を続けるべきだと、あいつは主張していた。バカな……今更あの頃に戻ってたまるものか。
 「オメガの策略にのせられたのかしら」
 「策略?」
 「そうやって、あなたの負の感情を増幅させて、暴走させるのがあの子の目的なのでしょう」
 「暴走した先には何があるんだ」
 「あなたと鴇子の憎しみを連鎖させていくのがあの子の狙いなのでしょう」
 後藤先輩の一秒天獄(ワンミニッツアフターライフ)……言いにくいなこれ……をくらわなければ、俺は感情にまかせるままに、宇津井を責め立てていたかもしれない。
 「何話してんだオメーら」
 後藤先輩は俺たちの会話がわからないのか、首をかしげていた。いきなり不機嫌になられても困るので、俺は咄嗟に話題を代えた。
 「それにしても、よくここが解りましたね」
 「掛井って一年いるだろ。あいつから聞いたんだよ」
 「そうだ、掛井だ!」
 わざとかどうかわからないが、全てあいつの伝達ミスから始まったんだ。あいつに一言文句を言ってやらないと、気がすまない。
 「先輩、掛井はどこに?」
 「掛井なら、そこにいるぞ」
 と、頭をめぐらせば入り口あたりに……
 「ひっ!」
 と引っ込む頭を見つけた。
 「ちょっと待てコラアッ!」
 逃げようとしたので、俺はとっさに穿いていた靴をぬいで、掛井の後頭部へと投げつける。靴は見事に後頭部にヒットして、掛井はけたたましい音をたてて倒れた。
 「ひ、酷いです、乙女の頭にあんまりです」
 「おらっ! きりきり立つんだよ!」
 あまりに見かねたのか、アルファが口を挟んでいた。
 「気持ちはわかるが、あくまでも冷静にな。さっき我が言ったことを忘れるなよ」
 「解っている。冷静に殺してやるよ」
 当たり前だがこいつを、無事に帰すつもりなどさらさらなかった。
 「まったく解っとらんではないか!」
 「先輩が見てるぞ、素をだすな」
 「く……!」
 と、アルファは後藤先輩のほうを振りかえり苦笑する。
 それはいいとして、問題はこいつである。
 「さて、掛井よ。何か申し開きはあるか?」
 「えっと……その……」
 「なければ、即有罪だ!」
 「べ、弁護士の立会いを要求します!」
 「却下だバカモノ! 貴様には弁護士を呼ぶ権利も黙秘権もない!」
 俺は掛井のコメカミへと両手を拳ではさみ、グリグリと押し付けていく。
 「あいてててて、痛い痛い! ぐりぐりしないで! そこ、だめです!」
 やたらと艶っぽい声を上げ始めたので、離してやることにした。
 「まったく命冥加なやつだ」
 「時代劇みたいなこと言わないでくださいよ先輩、ここはどこのお白州ですか」
 「正直に答えないと本気で石でも抱かせるぞ。おまえ、鴇子から何を聞いて、宇津井に何を伝えたんだよ」
 そうやってじろりと睨むと、掛井は後ろめたいことがあるのか、途端に眼を泳がせる。
 「わ、私はただ……喜連戸先輩が疲れているから、休むって伝えただけで……」
 「それだけで宇津井はああも勘違いしたのか? どうせ、いらんエンターテイメントを発揮してあることないこと付け加えたんだろ。この関西人気質め」
 「うちの生まれは博多ばい。西日本やからて、ひとくくりにせんでよ!」
 「黙れ。漫才に付き合う暇はない、とっとと洗いざらい喋らないと刑を執行するぞ」
 「えっと……その……記憶にございませんというか……」
 「後藤先輩、よろしくお願いします」
 「どおれ」
 と後藤先輩が一歩進んだ途端に、掛井は怯みあがった。
 「ひいいい! 勘弁してつかあさい、許してつかあさい! いくらなんでも人間凶器はなかろうもん!」
 「女の子に暴力いけません」
 とアルファが庇うように、間に入り込む。
 「ううううっ、北条先輩ぃ……ぐすっ……」
 「あら、私のことは知ってるのね」
 「はい、ロリで綺麗な先輩がいるって噂になってましたから……ぐす……」
 「信頼してもらえるのなら、事の次第を話して頂けないかしら? 大丈夫よ、決して悪いようにはしないから」
 とアルファはまるで子供をあやすように話しかける。
 「ありがとうございます。こんな私に優しくしてくれるなんて、喜連戸先輩とは大違いです。あの人優しく見えても私にはいつも態度がきついんですよ。全部話します」
 とまあ、そういう次第で掛井が語りだした。
 後藤先輩が脅した後に、アルファがフォローを入れる。言うなれば飴と鞭、北風と太陽。こうやって役割分担しておけば、どんな相手も気を許しやすい。ヤクザまがいの方法だけどまあよしとするか。
 「今日は新聞配達のバイトが終ってから、学校に行く途中に喜連戸先輩に会ったんです。顔色が悪そうだから、救急車呼びますかって聞いたら、苦笑してました」
 「おまえは一々大げさなんだよ」
 「それで、おなかがすいてたから、朝ごはんをデザート付きでおごってもらったんですよ。その見返りに、今日は学校をサボるから、適当に病欠しろって伝えておくように頼まれました。だから、私が言ったことは秘密ですよ」
 「やはり仮病か」
 「あの女、学校をサボるなんて許せねえな!」
 「らしくないことを言いますね。先輩だって、よくサボってるじゃないですか」
 「途中から抜けるのはいいんだよ」
 相変わらず後藤先輩の理屈はよくわからない。
 「で、体調悪そうですねって尋ねたら、昨日は先輩が家に押しかけてきたって言ってましたから、きっと手篭めにされたのかと推測して」
 「具合が悪いのを俺のせいにしたと」
 「ひぃ! 暴力反対!」
 咄嗟に掛井はアルファの後に隠れるが、小さい背中にはみ出しているため、非常にアンバランスだ。まあ、さっきさんざん折檻したからそれでいいか。
 「で、鴇子は今どこにいるんだ?」
 こうなったら、あいつに直接面談しないときがすまなくなってきた。
 俺の悪い風評を広めたことや、宇津井をけしかけてきたのは、あいつらしいけど、また同じことを繰り返すつもりかと思うとうんざりする。第一、鴇子には昨日直接気持ちをぶつけたつもりなのに、その返答がこれか。誠意を裏切られたようで気に食わない。
 「残念ですけど、それはいえません、ニュースソースの秘匿はジャーナリストの義務ですから!」
 「そうなの?」
 と事情の知らないアルファが振り返る。
 「ちがう、こいつは茶道部だ。新聞部でもあるまいに、格好つけるな。あいつは何処にいる」
 「パフェ奢ってもらったんで、それ以上のことは言えません」
 「安い奴だなあ」
 「馬鹿にしないでください! パフェってパーフェクトの意味なんですよ! つまり、あれほど完成されたスイーツはないってことです」
 パフェってことは、どこぞの喫茶店がファミレスだろうが、候補が多すぎる。
 やはり特定するために、もう少しこいつから情報をしぼらねばなるまい。
 「どうしても言えないってことか?」
 「それはもちろん、女の約束ですから」
 「じゃ、その奢ってもらったパフェというのは?」
 「すこるぴおんの劇甘デリンジャーパフェです。クリームとラズベリーソースが絡まった絶品ですよ、おススメです」
 「そのファミレスにいるわけだな」
 「ってあれ?」
 これで鴇子の居場所がわかった。それにしても簡単にひっかかる奴だな。
 「彼女に会うつもりですか?」
 とアルファが疑問を呈する。
 「当たり前だろ。あいつに文句言わないと気が済まない」
 「ちょー待っちゃってん! 後で文句ば言われるとはうちなんやけど!!」
 「そうか、死なないようにな」
 「フォローしちゃらんね! 先輩らしく!」
 そういって、掛井が肩をつかんでがくがくと揺らしてくる手を振り払う。
 「じゃあ対鴇子のスペシャリストである、俺が助言しといてやる」
 「きゃー! 先輩頼もしい!」
 「黙って聞け。正座な」
 と俺は掛井をコンクリの上に正座させる。
 「はい、座りました」
 「よし、じゃあよく聞け」
 ごほんと咳をして、俺は掛井をにらみつける。
 「逃げろ」
 「え? それだけ?」
 「それだけだが何か?」
 「もっとこう……何かあるでしょう? プロのクレーム対処係並みの手練手管が!」
 「基本的にあいつの怒りを沈めることなんて無理なんだよな。なだめようとしても、余計に怒るだけだし」
 「祟り神レベル!?」
 「いっそ、腹でも切れば」
 「そんな! 来世まで逃げたくなかー!!」
 と泣きながら掛井は走って屋上から消えていった。
 「はあ……」
 なんだか、余計な時間を過ごしてしまった気がする。
 
 「気を取りないして行くか……」
 「それは結構。ですけど、何を話すつもりなのか、ちゃんと決めておくべきです」
 「何を?」
 「思い直してほしいのですけど、あなたは一度仲直りを断られているんですよ。その失敗を踏まえたうえで、何らかの工夫はあってしかるべきでしょう?」
 「ぬ……」
 「さもなければ、おそらくあなたはああなってしまうでしょうから……」
 「あれ?」
 とアルファが指をさす先には……
 
 「っしゃあ! 殴り込みかー!」
 チャゲアスの『YAH YAH YAH』を謳いながら、後藤先輩はどこからともなく取り出した金属バットをフルスイングしていた。
 「ちょっと待って、殴りに行くんじゃありませんから!」
 「そもそも、金属バッド担いで、公の場所を歩くのは不許可ですわ」
 「俺はこのスタイルで電車乗ってんぞ?」
 「……ちなみにそれはロマンなんですか?」
 「おでかけには金属バッド! 常識だろうがよーおめー!」
 それはあなたの中のだけの常識ですと、叫びたかった。が、先輩がバッドを担いでいることを思い出してやめておいた。
 「だいたいよー、対決しに行んじゃねえのかよ」
 「鴇子の場合、言葉で殺さないと意味は無いんです。暴力振るってもこっちが悪者にされるだけですよ!」
 「だから俺をつれてけ」
 「先輩、話聞いてましたか?」
 「バックにケツ持ちがいたほうが、話し合いもスムーズだろ? ゾクのナシのつけ方と同じだ」
 「む……」
 確かに……一理ある。しかし、後藤先輩の意見はいつも一理があるだけあって、始末に悪い。
 「さっき見てたけどよ、オメーのキレ方ってあやういんだよな。ありゃ完全に人格変わってたぜ」
 「確かに、後藤先輩の心配もわかりますわね。先ほどのあなたは明らかに何かに憑かれていたようでした。第三者がいたほうがスムーズかもしれません」
 「そ、そうかな……」
 自分ではそんな自覚はまったくなかった。ただ、当たり前のように目の前の厄介を処理しただけにすぎなかったのに、二人からここまで言われるのはかなり意外に思えた。なにより暴力をコミュニケーションに使用する後藤先輩だけには言われたくなかった。
 「そんなに酷かったかな、俺……」
 「ええ、酷いものだったわ」
 「おめーよ、余計なこと考えてっから、そういうことになるんだべ。そもそもキレどころ間違えてねえか」
 「先輩がそういうこといいますか? しょっちゅうキレまくってるくせに」
 「俺はいいんだよ! そもそも俺はキレて当たり前なんだべ、だけどお前は違う!」
 「はあ……」
 「キレるってのはよー、自分の怒りのレベルが上がるとか強くなったとか思ってんじゃねえか? 勘違いすんじゃねえよ、相手がビビっただけで、そもそもキレる前のテメーも後のテメーのレベルはまったく変わらないわけよ。そりゃー相手をビビらすなら構わないがよ、その後はテメーの手で終らせるまで引っ込みつかなくなるぜ、オメーこのまま喜連戸と喧嘩腰でぶつかって、ケリつける気があんのかよ」
 「あ……」
 「喧嘩だからよー、やっぱ勝つの負けるのはいつもついてまわるわけよ。そこんんところ解ってるならやってみたらいいじゃねえか。ムカついたから殴る、顔が気にくわない、喋り方が気にいらねえ、生理的にムカつくでも、妹に説教されたでも、朝食のパンがバターを塗ったほうが落ちてイラついたでもよ、殴る理由は何でもかまわねえ、喧嘩なんだからよ!」
 「最後のは八つ当たりでは?」
 「それが喧嘩ってもんだろ。基本的に理屈にあわねえから殴り合うんじゃねーのか?」
 「言われてみれば……」
 後藤先輩らしいと言えばらしいが、もっともな話である。
 「喧嘩ぐらいよ、テメーの好きにしたらいい。テメーらの因縁知ってる限りはよ、殴り合いでもケリがつけられるだけ上等じゃねえか」
 「乱暴な言い方ですが、一理ありますわね」
 「だべ、おりゃーいつでもマジだからよ」
 と、後藤先輩はアルファに褒められて、少し照れくさそうに笑う。
 「…………」
 そうなのだ、後藤先輩の喧嘩信条はかなりはっきりしている。普通子供の喧嘩というものは、親や教師の介入がはいって、うやむやになったり、そのうち疎遠になってお互いが憎しみあっていたことすら忘れてたりする。後年、お互いが成熟したら笑い話のタネになったりもする。
 だが、俺と鴇子はそうはならない。なぜなら生活に費やすすべての労力を、お互いが憎しみ合うことに傾けてきたのだから。一方、後藤先輩の場合は勝つか負けるかケリがつくまでやる。この人は決してなあなあではすまさない。それが喧嘩としての作法であると主張する。
 俺と鴇子の場合はお互いが決定的な打撃を与えたことはなかった。それはお互いがこの関係を維持するための最低保障を暗黙の了解として、ひたすらに労力を消費するにとどまった、そうやって続く、永遠の憎しみの絆。それが俺と鴇子の関係だった。敵は一人だけでよく、また味方は一人もいない。誰もいない世界に二人だけで俺達はゲームをプレイしている。
 それはよく考えると、やっぱり寂しいのだ。
 俺には友人は少ないけど、一応、後藤先輩も心配……してくれているのかどうかわからないけど、ごっさんもいるし、アルファもいる。尊敬する父や母もいる。掛井は天然だからアテにはしてないけど、悪い奴でもないし、それなりに人付き合いはできるようになった。
 鴇子はどうだろう? あいつはごっさん以外に、友人と言える存在がいるのであろうか?
 いない。
 まったくといって一人。マッターホルンのあの美しい頂のように一人気高くそびえる孤峰。それが喜連戸鴇子という女だ。
 だが、最近はあいつと会話が増えてきた。
 殴り合ったり、相手を貶める以外の表現ができるようになってきた。
 まだ間に合う。俺たちが当たり前の人間らしくなれるはずだ。オメガのいうような憎しみの絆に陥るのを回避するには、まだ間に合う……そう、これは仲直りなんだ。
 なんてことを俺は二人に説明した。
 「要するにこれは、ボーイミーツガールということじゃな」
 とアルファはドヤ顔でつっこみを入れる。そして、いつの間にか話し方が素に戻っている。
 おそらく、途中でめんどくさくなって、とうとう自分を偽るのは止めたみたいだ。
 「じゃ?」
 と変な語尾に突っ込みをいれたのは、先輩のほう。
 「それも、トラディショナル・ボーイミーツガール、ロミジュリじゃ」
 「ロミオとジュリエット?」
 「実家が仲たがいしているのもそうじゃろ? バッチリはまってるの。お互い隠れて慕いあっているのもそうじゃ」
 「だったら俺と鴇子は最後に死んじゃうじゃねーか! バッドエンド直行かよ!」
 「それを回避するための新種じゃ。そのための汝じゃ。そして、そのためのアルファであり、オメガである」
 まるで聖書の一冊のようにアルファは口を開く。
 こいつが大して役に立ったことなんて今まであっただろうか?
 「なにやら不愉快な想像をしているようじゃの」
 「そう思うのなら、実際に何かしてみろよ。お前のアドバイスって役にたたないし」
 「若者のくせに年寄りを働かせるでない。見たくもない現実を教えるのは年長の役目じゃ」
 「…………」
 要するに自分でなんとかしろといいたいのね。
 アルファもオメガもアレコレ言うけど、実際に俺には手をだしてこない。それは彼女達が傍観者であることを自覚しているのだろう。俺の預かりの知らない所では、何かしているかもしれないけど、この件に関して俺も鴇子も当事者意識はかなり強いし、仮に動いても何も出来ないだろう。よって、彼女たちの言うとおり、鴇子をどうにかできるのは俺しかいない。
 それよりさっきから静かになっている後藤先輩のほうが、今は気になるのだが……
 「…………」
 後藤先輩は呆けるようにしてアルファの横顔をながめている。アルファがネコを被っていたことがそんなにショックだったのか。
 「やべえ、ロリババアとかマジやべーわこれ……」
 どうやら、ストライクだったようだ。この人の趣味って本当にわからないなあ……
 
 その後、ついてきそうな先輩とアルファと押しとどめ。俺は鴇子の元へど急いだ。
 場所はあの猪狩の話をみんなで聞いた街道沿いのファミレス。
 あいつにどんな顔をして会うべきなのか、少し考えながら歩いた。
 
 
 「いらっしゃいませー、お一人ですか?」
 元気よく俺に話しかけてきた店員に、ツレがいるのでと案内を断り中に入る。
 喫煙席はスルーして、禁煙席のフロアへと歩を進めると、窓側の机の並びの隅のほうに、文庫本を広げて、一人で四人掛けのテーブルを占拠している鴇子の姿が見えた。
 本を広げて、一人たたずむ黒髪の乙女。見た目の雰囲気はそんな感じだ。
 文庫本を読み入ってる鴇子の姿は正直、絵になった。まるで映画のワンシーンのように、おさまりがいい。その美しき世界を壊してはいけないような気がしてくる。
 眼を通して伝わってくるオーラは、暖かな青を示していた。機嫌はおそらく、悪くない。
 「…………」
 鴇子のオーラが見えているということは、俺の能力が上がっているということなのだろうか? だとしたら、鴇子が俺をああいう陰険な手を使って攻撃してきた理由も察しが着くというものだ。
 その姿を遠巻きにして眺めたくなる気持ちを振り払って、俺は鴇子の体面に座った。
 「あら……」
 俺に気づいた鴇子は文庫本をたたんだ。本のタイトルは『すばらしき新世界』。イギリスの小説家オルダス・ハクスリーの代表作だ。しかし、タイトルに反して内容は暗い。確か、機械文明の過度な発達により、人間が尊厳を失っていく姿を描いたと、昔ごっさんからすすめられたことがある。ジョージ・オーウェルの『1984』と共に、ディストピア小説の傑作といわれているそうだ。まあそれはいいとして……
 「掛井が喋ったの?」
 といかにも不機嫌そうに俺を睨みつけながら鴇子が口を開く。
 「カマかけたら、あっさり喋りやがった。あんまり苛めてやるなよ」
 「嫌よ、腹いせにこれからお茶会の菓子は、あいつだけ塩昆布にしてやるわ」
 「掛井なら喜んで食べそうだけどな」
 「だったら、盛り塩ね。犬みたいにはいつくばって舐めればいいのよ」
 掛井が四つんばいになって、皿の上に乗った塩を舐めている姿を想像ちょっと興奮した。
 「おい、話をそらすなよ」
 「ち……乗ってこなわね」
 はき捨てるように言いながら、ぷいっと横を向く。子供のようにふてくされるように見えて、俺を避けていることを隠しているように思えた。
 「おい、こっちを見ろ」
 「…………」
 黙ってお互いを見詰め合う。しばし流れる、緊張した空気。
 「何よ」
 「そんなに俺が怖いのか?」
 そう、怖いのだ。俺に脅威を感じるからこそ恐れ、卑怯な手段も使ってくる。
 何も思ってなければ、先日のように無視するはずだ。
 「は? 怖い?」
 威嚇するかのように、眼を大きく開き俺を睨みつける。
 今日の鴇子はかなり表情が豊かに思えた。
 「寝言言ってるの? 貴方程度が私をどうにかできると考えてるなら、脳みそ洗って出直してきても無駄なレベルね。いっそこの場で死んで来世からやり直したら? なんだったら、私が窓をあけてあげるから、あなたはそこから飛び降りればいいわ」
 よくもまあ、ここまで人を悪し様に言えるものだ。少し感心する。
 「そういう、ガキみたいな真似はやめろよな」
 「私達法律上はまだ成年じゃないわよ。私をどうにかしたいなんて思ってるなら条例違反ね、この犯罪者」
 「だからといってガキでもねえだろ」
 本気のこいつと会話してると、徒労感にさいなまれる。ちっとも向こうの扉が開いているような気がしない。それでも俺が諦めないのは、背後のオーラに温かい光が灯っているからだ。おそらく、鴇子はかなり機嫌がいい。俺が鴇子を探しにきたことを、好ましく思っているのかもしれない。だから俺は話をさらに先に進める。
 「鴇子!」
 「何よ」
 「話があるから、とりあえず窓を閉めろ、店員さんこっち見てるぞ!」
 「ファミレスの窓って簡単に開くのね」
 そんな感想はいらんからとっとと座れと言いたい。
 鴇子はソファに座りなおして、こちらに向き直る。
 「で、何よ。私と仲直りしたいとかまたふざけたこと言うつもりなら、回れ右して帰って」
 「…………」
 仲直りというのなら、この前断られたところだ。素直に言っても聞き届けてくれない。
 鴇子の気持ちもわかる。実際のところ、オメガの言うとおりだ。
 俺から鴇子に優しく友好を呼びかけても、承知するはずが無い。もし、立場が逆でだったら『なにスカしてんだよ、このヤロー』とか言って、差し伸べてきた手をはたき返す。
 お互いが憎しみを積み重ねたのに、それが俺達の一番の絆なのに、俺はそれを否定した。
 俺は自分の負けでもいいから仲直りして欲しいと言ってしまった。鴇子が怒るのももっともだ。だからもう、俺はこれまでの鴇子との絆を否定しない。その絆が憎しみで結ばれていたとしても、否定はしたくない。だから、本気で正直に、俺の今の気持ちを伝えようと思う。
 「俺はお前が好きだ」
 「あっそ……」
 まずは軽いジャブ。背中のオーラの色がぱっと明るくなった。ただし、表情は変わらず。
 最もな態度であると思うので、この反応は予定通り。単なる好きでは、こいつは落せない。
 「頼む! 俺と結婚……」
 「ちょ……!」
 一生の一度の言葉に、流石に鴇子が気色ばんだ。
 「け、結婚……して……」
 顔が赤い。緊張で胸の鼓動が早まる。頭の中では、ここ十年の来し方行く末が走馬燈のように流れていった、人間が死ぬ一瞬の間に見るアレだ。要するに鴇子へのプロポーズは死と同じくらいのストレスが掛かる。けだし、結婚とは人生の墓場である。
 「くれなくていい! つーかしたくない!」
 「はあ?」
 鴇子があっけにとられる顔をしている。
 「何それ? このタイミングでそういうこと言う? あなた私のことが好きなんじゃないの?」
 背中のオーラがあっという間に真っ黒になった。今度は表情と気持ちが一致している。
 つまりこいつは俺を怒る時だけは、正直になれるってことだな。
 「お前、俺と仲直りしたくないんじゃなかったのかよ」
 「だからと言って、目の前で結婚したくないなんて、言われて喜ぶ女の子がいると思う?」
 「まあ……自分の気持ちに従うとやっぱそうなるんだよな」
 「やっぱり窓を開けようかしら」
 「待て待て、最後まで聞け」
 「正直に言ったらやっぱりそうなんだよ。お前が好きだし、もうお前のことしか見えないし、正直俺はお前しか見ていない。生活の中心はお前なんだ。だけどよ……」
 「…………」
 背中のオーラが灰色になっていく。
 これは恐らく迷い……だろうか? 喜ぶべきか怒るべきか微妙な心境。
 「やっぱり、お前のことはムカつくんだよ! 俺だって仲直りしてくれって言うまで、相当葛藤したし、我慢して言ってる。正直、このグラスの水をおまえにぶっかけたくてうずうずしているんだ」
 「最低のくどき文句ね」
 「自覚してる、どうあがいても俺達は憎しみあっているほうが似合っている。俺だってそうしたほうがいいと気づいている。でも、お前が好きなんだよ」
 「…………」
 「好きだから怒らせたい。興味を引きたいから、イタズラしたい心境なんだよな」
 「あんたも子供じゃない」
 「そうだ。でもそれを認めないと一歩も進めなくなる。だから仲直りだ」
 「ふうん……」
 鴇子はため息をついて、後のソファにもたれかかる。
 「まあ、言いたいことは解ったわ。でも、言っておくけど、私もあんたと結婚なんて、生理的というより生物的に無理だから」
 生理的ですらないのかよ。
 「新種かどうとかそういう話がしたいのかお前は」
 「そんなのどうでもいい。あの子たちとあんたが裏でこそこそしていたは知ってるし、新種がどうとかほんっとどうでもいい!」
 大きく息を吸って、俺を睨みつける。
 「重要なのはあんたよ! あんたは何がしたいの?」
 「だから仲直りだよ」
 「やっぱり生まれ変われば? ほらこっち」
 「だから窓を開けるなって」
 窓を開けようとする鴇子を止める。さっきから店員さんたちの視線がかなり痛い。
 「そういう諸々のことは横に置いといて、とりあえずは仲直りしたいってことだよ」
 「あっさり言わないで。全然信用できない」
 「勘違いするなよそれで終わりにしない。第一俺はお前と別れるつもりはない。俺とお前でこの関係にケリをつけよう、その後で俺と結婚してくれ」
 「プロポーズのつもり? 喧嘩売ってるようにしか聞こえないんだけど?」
 「だってなあ……」
 「何よ」
 「お前の怒った顔って、すっごく綺麗だから」
 「…………」
 それもまた偽らざる気持ちだった。鴇子は綺麗で美人で、初恋の人だった。恋愛よりも複雑な絆で結ばれ、うんざりするほどの子供じみた応酬の果てに関係を築いていてきた。
 そう、俺達はもう、因縁めいた憎しみの絆でとっくに結ばれていたいんだ。この前はそれに気づかず、一方的に仲直りと言ってしまった。
 だから、この仲直りはどうしても俺と鴇子の離縁状……みたいな文脈になってしまう。
 重要なのはその後なんだ。絆がきれたら、後に俺達には何も残らない。
 ゆえに、俺達が絆を持ったままで居られるように、俺は結婚という答えを選んだ。
 「私には婚約者がいるのよ」
 「解ってる。でも、それがどうした? 恋愛的な意味じゃないけどお前は俺以外と結婚できるのか?」
 「確かにそうだけど……消去法って嫌いよ」
 「安心しろ、本当のこと言うと俺も同じだ」
 「安心できないわよ。痛みわけだからって大目にみろって?」
 「さっき言った好きというのも本当だ」
 「ん……」
 ようやく背中のオーラが暖かな光を発するようになってきた。この眼はなかなか便利だな。
 「その理由じゃダメか?」
 少し考えてから、鴇子は……
 「……いいわよ」
 と微かな声で囁いた。
 「何て……?」
 「水、ぶっかけてもいいって言ったの」
 「…………いいの?」
 「すっきりさせる必要があるでしょ。今回は私の負けだしケジメをつけたいならそうさせてあげる」
 鴇子は負けたと言うわりには、ふてぶてしく宣言した。
 「それは確かにそうだけど……」
 「だったら早くしなさいよ」
 背中のオーラは暖かく白い光のまま落ち着いている。ということは本気……だろうか?
 女の子に水をかけるのは外道の所行だが、俺も鴇子には遠慮したくない。鴇子のいうことももっともだし……これからの新しい関係を築くためには、一旦この不毛な戦いを終らせる必要があるだろう。
 「それじゃ、遠慮なく」
 と俺は水の入ったグラスをつかんで、横に薙いだ。
 「と、そう来ると思ったわ!」
 鴇子はいつの間にか机の下に用意していたグランドメニューで水をガードし、素晴らしいタイミングで俺に張り手を放ってきた。
 「ぐっ!」
 カウンターが効いている……なかなか痛い。
 「きったねーなお前!」
 「ありがとすっきりしたわ」
 鴇子の気持ちと行動が一致しないってことを忘れていた。
 こいつの背中のオーラが光っているといえどもまったく安心できないみたいだ……この能力ってそんなに万能じゃないかも。
 「くそ……安心してたのに」
 「何が見えていたかは知らないけど、その眼に振り回されるようじゃまだまだね」
 と嬉しそうに鴇子が笑う。騙された。こいつは新種の能力に関して先輩だったんだよな。
 「人をビンタしておいて、よく笑ってられるな」
 「あなたの背後から楽しそうな光が見えるの。本気で怒ってないでしょ。っていうかむしろ喜んでない?」
 「……俺はマゾじゃねえぞ」
 「実はマゾだったりして」
 と鴇子は楽しそうに。本当に楽しそうに笑っていた。
 表情とオーラが珍しく一致した瞬間だった。それを見て俺も口元が緩んでしまう。
 張り手で笑いあうとはいかにも俺達らしい、けじめのつけ方だった。
 「それじゃ行きましょうか。エスコートしていただける。旦那様」
 「旦那様……?」
 「ええ、結婚するなら旦那様でしょ?」
 旦那様―俺への呼び方にしては鴇子の口から出てきた言葉とは思えない。まるで天上の音楽が如きその妙なる調べにますます頬が緩んでしまう。
 「あれ? 旦那様じゃいやだった?」
 「もちろん! あ、いやそうじゃなくて……もちろんというのは結婚することに関してであって! 決して嫌なわけじゃないから。むしろ嬉しいっていうか……え、マジで?」
 「マジよ」
 「っ……!」
 これが鴇子か?
 普段から美人だとは思っていたけど……こいつ、素直になるとこんなに可愛くなるのか?
 「だから挨拶に行きましょう」
 「は?」
 「お嬢さんを僕にくださいって奴よ」
 「え……今から?」
 「私と結婚してくれるんでしょ? だったら、逃げられないわよね?」
 ニヤニヤしている鴇子。
 明らかに、これから修羅場に臨む俺の様子を楽しませようという腹だろうが、こちらも覚悟がまったくなかったというわけではない。
 楽しませてやる。俺が笑わせてやる。
 それで気が済むなら、いくらでも割りのあわないパフォーマンスを実行し、ピエロを演じよう。
 崖から飛び降りた猪狩のことは、もう笑えなかった。
 俺もあいつも単なる馬鹿だ、大バカモノだ。その場の衝動で人生の一大事を決しようとしている。だが、好きな女子を目の前にして馬鹿をやる以外に、俺のような知恵も力も地位もコネも権力もない男子には何が出来るだろう?身体を張ってパフォーマンスするしかない。言葉に尽くせぬなら行為で示そう。俺にはお前が必要だと、背中で存分に語ってやろう。お前の気が済むまでな!
 「行くか」
 俺は差し出された鴇子の手をとった。
 「……?」
 その手の中に紙が一枚挟まっている。
 「レシート?」
 「男の甲斐性よね、あとよろしく」
 鴇子は支払いを俺に押し付けて、悠々と先に外に出て行った。
 まあ、あいつはそういう奴だよな。
 
 
 
 ついに俺は主人公となる日が来た。
 勇者でもなく、世界を救うヒーローでもなく、猪狩と同じように、あの割の合わないパフォーマンスを演じることになるのだ。目的はただ一つ、好きな女のために。
 
 展開が速くて申し訳ないが、鴇子の家にやってきた俺達は挨拶も早々に中へと通される。
 出迎えたおばさんは、鴇子が俺を連れ立って帰ってきたのを見て、非常に嬉しそうに歓迎してくれた。
 「案外と簡単なものだな」
 「問題はここからよ、ここから」
 その通り。親父さんに挨拶しないと何も始まらない。
 「案内はしてあげるけど、私は手助けしないわよ」
 と、鴇子は板張りの廊下を歩きながら言った。
 「私が欲しいなら自分の手で掴んでみなさい」
 鴇子の声は楽しげな調子ではずんでいた。
 
 俺はそのまま喜連戸家の数ある座敷の一室に通された。
 座敷の真ん中には艶やかな光沢を放つ年代モノの食卓。俺と鴇子は並んで座り、その体面には親父さんがどんと座って難しい顔をしている。
 「はいお待たせ~沢山食べてね」
 と言いながらおぼんをもってやってきたおばさんは冷えた麦茶と冷たい草もちを振舞う。さっきから笑顔がすごい、背中のオーラも光輝いている。対して親父さんの表情は曇りばかり。胸中にいかなる思いが渦巻いているのかオーラを見ずとも想像できる。
 俺は全員が揃ったのを見計らって、話を切り出した。
 「え~~本日はお日柄もよく」
 「そういうのはいいから」
 と横に座っている鴇子は肘鉄をくらわしてきた。かなり痛い。
 出だしの軽いジョークのつもりだったのに。
 「で、話というのは?」
 見かねた、対面の親父さんが切り出してきた。
 「鴇子さんと結婚させてください」
 と言った瞬間、おばさんは嬉しそうに笑い、親父さんは眉間に皺を寄せた。
 「すまないが、もう一回言ってくれないか?」
 「鴇子さんと、結婚を前提としてお付き合いさせてください」
 「いきなりだな……」
 「もちろん今すぐではありません。大学の卒業を待って結婚します」
 「最短で進学したとしても……あと五年と半年か」
 「望むなら入り婿でも」
 「兄さんの店のほうはどうする?」
 「親父は俺が職人になってくれたら、どこで菓子を作っても文句は言わないでしょう」
 「経営者としての仕事もあるぞ」
 「勉強させていただきます。そのために大学の進路を選ぶつもりです。さし当たっては、城西大学の経済学部へと進もうかと」
 「ふむ……」
 「相応しくありませんか?」
 「いや、娘婿の進学先としてなら充分だが……」
 おそらくそう言うだろうと思っていた。それなりの難関大学で、経営に関しても勉強できるなら、そこが最適だ。
 「あわせて、菓子の修行も続けるつもりです。その際には『朗月庵』で働かせていただけないでしょうか?」
 「経営者が現場に立つ必要はないぞ」
 「それはもちろんですが、複数の職人を差配するに足る人物になるには、現場での修行も必要かと。うちの父もお義父さんも、キャリアはそこから始まったわけですから」
 お義父さんと読んだ瞬間、親子さんの眉間がピクリと動いた気がした。
 「うむ……それはその通りだが……」
 ここまではまあよし。実際のところ、俺も和菓子の修行は親父からしこまれているし、知識や経験もある。友達が少ないために、打ち込めるものがそれしかないから成績も悪くは無い。もとより、神ロ研の活動は学業妨げるほどのものでもなかった。
 同じ年代の男子で考えれば、和菓子屋の跡取りとしてこれ以上のない物件であることは、親父さんも納得しているはずだ。だとしたら後の問題は……
 「むぅ……」
 と親父さんは腹のそこからのうなり声をあげる。
 「いい話だと思うわよ」
 「そうは言うがな、お前……」
 「孝之さんのこと?」
 「う、うむ……あちらの約束が先なんだぞ」
 「それはそうなんだけど……あちらさんもどこまで本気なのかしら」
 「それがわからんから悩んでいるのだ」
 とまあ、当然のことながら、この話題がでてくるわけだ。
 「大丈夫なの、本当に?」
 と隣の鴇子が小声で耳打ちしてくる。
 「安心しろ、我に策ありだ」
 と俺は笑って答えた。
 「僭越ながら、よろしいでしょうか」
 「うむ」
 とおじさんは俺に話を続けるように促す。
 「既に婚約者がいる鴇子さんに、結婚のお願いをする……これが無作法にあたることは、百も承知しております。しかし、私はむしろそのことを危惧しております」
 「……?」
 と対面のおじさんたちは不思議な顔をしている。
 「どういうことだ」
 「というのは、鴇子の人格に関してです」
 「人格……だと?」
 「はい、さらに失礼を承知で言わせていただけますが……」
 といって俺は言葉を切り、万感の思いを込めて口を開く。
 「鴇子さんの夫が、私以外の人間に務まるでしょうか」
 「む……」
 「それは……」
 二人ともますます難しい顔をした。鴇子の人格が尋常では扱えないくらい難しいものであることは、この二人の両親なら承知のはずだ。親父さんたちはおそらく、大学にいかせる間に花嫁修業なりで多少の矯正をほどこすつもりだろう。
 だが、三つ子の魂百までの言葉通り、鴇子は鴇子以外なにものでもない。たとえ矯正ができたように見えても、その辺かは表面的なものでしかない。
 鴇子が婿を迎えるというのなら、それなりに仮面を被る必要がでてくる。親として、鴇子にそんな負担はかけたくない。俺はそんな親父さんとおばさんの心をくすぐった。
 そのままの鴇子を受けとめ、夫として愛情を育める人間が俺以外にいるだろうか? 
 「これが秘策?」
 「効果覿面だろ」
 と自信満々に言ったが、鴇子はかなり不満そうな様子だった。
 「鴇子には妻となるに相応しい教育は施している。心配は無用だ」
 と、おじさんは反論したが、その顔もやはり苦しそうだった。おじさんも鴇子がどんな性格なのか、解りきっている。
 「確かに鴇子なら出来るでしょう。でも、それはもう鴇子ではありません。俺は今のこいつが好きなんです」
 「む……」
 おじさんの顔がますます濃厚な苦渋とともに歪んでいく。
 「こいつは他人を振り回してばっかりで、誠実さのかけらもないくせに外面ばっかりは良くて、その優れた能力を自分の欲望をかなえることにしか使わないし、初めてのデートにコスプレ着て嫌がらせをするくらい性悪で……」
 「ちょっと! それいつ終るのよ!」
 鴇子が怒りの声をあげる。
 「そんな性格でも……俺はストレートなこいつが好きなんです」
 鴇子を含む全員がはあっけにとられていた。
 まさか親に結婚の許しにきた男が、結婚相手をこき下ろすとは思いもしなかっただろう。
 「娘をもらいにきた男の言葉とは思えんな……」
 「喧嘩売ってるの? ねえ」
 と鴇子も機嫌が悪い。
 「でも、確かにそうね……」
 「結論はさておき、鴇子の人格云々に関しては一理ある」
 「そこ認めちゃうんだ……」
 「親だからな……お前が本当はどんな人間かくらいは知っている。お前が私達の期待にあわせるよう努力してきたことも」
 「ん……」
 鴇子は自分の性格がバレていることに、複雑な顔をしている。鴇子もやはり人の子なのだ。親に素のままの自分を認めてもらいたい、受けとめてもらいたい。だが、この家の格式を考えると、そんな自侭も許されなかった。 
 「いいじゃない」
 と、おばさんが口を開き全員の視線が集中した。
 「わたしはね、やっぱりこれから家族になろうって人に、そこのところ誤魔化しちゃだめだと思うのよ」
 おばさんからの援護射撃。いける! 流れはこちらに傾いている!
 「おい、お前……」
 とおじさんはあっけにとられている。
 「確かに結婚を許しにもらいに来た人間とは思えない挨拶だったけど、でも気持ちはきっちり伝わってきました」
 と、おばさんは俺に穏やかな笑みを浮かべる。
 「あなたは、ちょっと歪んでいるみたいだけど……鴇子のことが本当に好きなのね」
 「はい、正直、自分でもどうかと思いますが……散々悩んだりもしました。でもやっぱり鴇子のことは諦め切れません。それだけは否定できない。どうか素のこいつを見てください。そんな鴇子と付き合う俺を認めてください! 俺はこいつが魅力的に見えて仕方がないんです!」
  
 し~~んとした。空気がただよう。嵐のあとの静寂が訪れた。
 「………………」
 雰囲気はあるけど、それを口にするには誰もが恐れて口にだそうとしない。
 どちらでもいい、言って欲しい。たった一言でいい。「許す」と言って欲しい。
 「いいかと思うんだけど……」
 とおばさんが口を開いた。
 「お前……」
 とおじさんが驚いた声を上げた。
 「確かに彼の言うとおりよ。鴇子が普通の結婚生活を送るには鴇子の全てを受け止める人間が必要だと思うの」
 「正気か? だが、こいつは鴇子と……喧嘩したいたのだろう?」
 「彼は確かに、鴇子と争っていたけど、でも鴇子との関係を途切れさせることはなかったわ。この子たちは自分達なりのコミュニケーションをしていたと思うの」
 「それを言われると……」
 「だからね、後はあなたたちの気持ち次第だと思うの」
 「おまえの気持ちは解った。だが……」
 と親父さんの目が鴇子に注がれる。
 「一応鴇子の気持ちも聞いておきたいだが……」
 全員の目が鴇子に集中した。
 鴇子にしては珍しい態度だが、周囲の空気を推し量るかのように、おずおずと口を開く。
 「いいの?」
 「私はいいと思うの。結婚って二人の気持ち次第だと思うのよね。さもないと、私達みたいに余計な苦労を背負いこむことになるでしょうし……」
 妙な発言だと思った。おじさんとおばさんは二人とも両想いだったと聞いたが……
 「ごめんね鴇子。私達の期待を押し付けてしまって……もう、あなたの好きにしていいのよ」
 「ふざけないでよ!」
 「と……」
 「とき……こ……?」
 横を見ると、鴇子が怒りの形相で立ち上がってきた。いきなりの鴇子の反応に親父さんたちも驚いて……いや、おじさんのほうは苦々しい顔のままだ。
 「どうして……今更そういうこと言うの?」
 「今更って……でも、私は良かれと思って……」
 おばさんは慌ててとりなそうとする。
 「私はお父さんとお母さんのために、今まで自分を磨いてきた、老舗の跡取り婿を迎える相応しい嫁になるように、ずっとずっと努力してきたのに……それなのに、どうして今更それを否定するの?」
 鴇子の怒りが部屋に充満していく……だが、その声には魂切るような悲壮感があった。
 「『朗月庵』に相応しい子女となれって言ってきたじゃない……それなのに、どうして私のやってきたことを否定するの? だったら初めから期待しないでよ!」
 「鴇子! やめなさい! お母さんになんて口をきくんだ!」
 と鴇子は自分の言った内容を初めて理解したかのように驚いた顔をみせる。
 そこで俺は初めて鴇子が泣いていることに気づいた。
 自分の本音を、ありのままの自分を両親の前に曝け出した鴇子は、俺は幼い子供のように思えた。そして、その涙は例えようもなく美しいと感じた。
 「……!!」
 鴇子は止める間もなく、表情を隠すようにして、走り去っていってしまった。
 「えっと……」
 「…………」
 部屋に気まずい沈黙が流れる。
 「あの……大丈夫ですか?」
 枯れススキのようにたたずむおばさんは、まるで生気を感じられない。流石に、ちょっと心配になってきた。
 「…………」
 「あの……澄子さん?」
 反応が無い……これ、やばくないか?
 「ダメね……私……」
 とようやくおばさんが口を開く。
 「娘の気持ちくらいは理解できると思ってたのに……全然ダメだったわ……」
 内容が重過ぎる。どうやって慰めればいいのか……
 「ごめんなさい、暫く一人にさせてちょうだい……」
 そのままおばさんは、頼りない足取りで部屋を出て行った。
 「あの……追いかけなくていいんですか?」
 「心配するな。澄子は君が思っている以上に気丈だ。それよりも……」
 と親父さんは俺に頭を下げた。
 「鴇子を好きでいてくれてありがとう」
 「え……あ、はい……」
 俺は唐突だったので、気の利いた返しもできなかった。
 だが、この場で頭をさげるということは、すなわち……
 「手を見せてみなさい」
 不審に思いながら、両手を差し出すと、親父さんはその手をとってじっと見つめて、指で押したり様子を確かめはじめた。
 「ふむ……皮が厚くなったな」
 「あんを扱ってますから」
 熱いあんこを扱うと和菓子職人の手は自然と分厚くなる。そうして熱にも負けない熟練の手を作っていくのだ。加工のために熱い飴細工を扱う洋菓子職人も、事情は同じようなものらしい。
 「修行している証拠だ。職人の手になってきたな」
 とここで親父さんは今日始めて、俺に慈しむような顔をみせる。
 その時の親父さんは、俺がはじめて菓子を作ったときの親父の顔に似ていた。
 「修行をしていた私の手に似ている。今はすっかりなまってしまったが、あかぎれや細かい傷でいっぱいだった」
 「えっと……」
 「修行時代の話だ、兄さんと私がまだ純粋に菓子の腕を磨き会ってた頃の昔。私達は澄子を取り合って似たような悶着を起こした」
 「悶着って……おじさんとおばさんは相惚れだったんじゃなかったんですか?」
 「違う、そもそも澄子と仲が良かったのは、兄さんのほうだったのだ」
 そう言って、おじさんは自分の口から昔話をはじめた。
 
 
 あの頃の兄さんは、菓子作りに独自の道を見出そうとしていた。だが、それは朗月庵の菓子ではなかったために、師匠とよく衝突していた。
 だが、師匠はそんな兄さんの向上心を否定していたわけではない。師匠を超えられぬ弟子などいないほうがいい、そんな風に考える人だったからな。
一方の私は菓子をもっと安価で、お客様に提供しようとしていた。兄さんの工夫が職人の思考にとどまったが、私は商売として工夫した。兄さんは確かに腕のいいだけ職人だった。掛け値なしの天才だ。あれから私がいくら修行しても兄さんにはかなわなかっただろう。
 だが、老舗の和菓子屋を切り盛りするにはそれだけでは足りない。先代が娘婿に望んだのは、腕よりも商才だったのだ。
 
 確かに望んでない結婚であったのは確かだ。澄子もおそらく望んではいなかっただろう。だが、澄子はよく尽くしてくれた。妻として母として、女将としても不詳は何もなく、いつの間にか澄子が隣にいる生活が当たり前になっていた。
澄子のほうも私の妻としての仮面をかぶりつづけ、その顔を自分のものにしたのだ。でなければ、長年連れ添い、娘を生み、育て、ああまで愛情を注げるものか。
 さきほど、お前との婚姻に許可をだしそうになったのもその仮面を被っている自分を思い出しそうになったのだ。『朗月庵』の格式も家の歴史も関係ない。そんな選択が当たり前の世界に生きてもいいのではないか、ついさっきまで、私は本気でそう思っていた。
 待て、速まるな……残念ながら、状況が変わった。鴇子だ。
 あそこで鴇子が怒ったことは当たり前な話だ。私達は鴇子に期待をかけて育ててきた。この家の歴史を背負う相応しい子女として育ててきた。
 娘は私達が思っているよりも、この家のことが好きになっているらしい。
 うむ、鴇子はこの家を愛している。あれが周りの期待に背くことを病的に恐れるのも、家を愛しすぎたせいかもしれぬ。澄子が私との結婚生活に馴染んでゆく姿を、傍で見ていたせいかもしれぬ。わかるか? 家というのはこういうものだ。家風は人に醸成されて、また人格に香りを出す。長年続いたこの家の香りは当然強い。そして住む者に生きがいを与える。
 ゆえに、家というものはそんなに容易いものではない。重代に染み付いた家の歴史というのは、個人で自由に出来るほど軽くは無いのだ。

 鴇子は優しい子だ。家の歴史を捨てられない。喜連戸の家を離れても後ろ髪はひかれよう。
 そして、お前が好きなのと同じように、この家を愛している。だからお前と争い始めたときは私はそれを知っていながら、止めることができなかった。
 そもそも、私たちに男子に恵まれていれば、このようなことを言わなくてもすんだだろう。だが、こればかりは天からの授かりものだ。澄子も気にしていたが、その分鴇子には愛情を注ぎ、期待をかけた。その結果……少し人格に問題があることは認める。あれは傍若無人に振舞うことが当たり前のように思っている節があるからな。私の悪い影響であることも認めよう。鴇子はおそらく……務めて父の後継者たらんと私を真似たのだ。
 もし、もう一人生まれていれば避けられた悲劇かもしれない。
 だが子供は鴇子は一人、人の心を二つに分けることはできない。
 あの子はこの家に望まれているのだ、自分で選ぶことなく、この家に認められた。先代から娘婿に指定された私のようにな。私はその事実は尊いと考えている。鴇子もそう考えている。
 ここまで言えばわかるだろう。すまないが、お前と鴇子の仲を許すことはできない。
 許すことはできないのだ。家を継ぐ。そのための鴇子なのだおそらく、鴇子はお前のことは好いているだろう。でなければ私に話をもってくることもなかったはずだ。
 だが、それでも鴇子は私達を選んだ。自分でも気づいていないのかもしれない。自信の存在の基(もとい)となる根源的な何かに、鴇子は素直に従った。
 父として、鴇子が自分自身を全うできるように私は手助けしてやりたいと思っている。
 相応しき婿を与え、この家を継ぎ次代の礎となれるようにな。こうしてお前が鴇子と結婚したいと言いに来るとは……私は因縁を感じずにはいられない。
 だが、どんな誠実な願いと言えども、それだけは叶えるわけいかないのだ。
 どうか、お帰りいただこう。
 
 
 その後、俺はどうやって部屋を出たのかさえ覚えていない。
 鴇子とは結ばれることはない。そんな現実が巌のように俺にのしかかってくる。
 個人の感情よりも、もっともっと重いものに、俺はぶつかってしまった。
 時に理不尽に振舞ったかと思えば、とてつもない幸運を運んでくるその複雑な現象を人は運命と呼ぶ。
 背後で喜連戸の家の扉が閉まった瞬間、俺は確かに運命の歯車が軋む音を聞いた。

・第七章


 『愚行権』という言葉がある。
 他人から見てみれば、愚かな振る舞いに見えても。その行動の価値判断は行動した自身にしかくだせないとする考えだ。アニメでよくある「ここは俺にまかせて先に行け」と言ったせいで、そのあと死んでしまう展開。例えるなら、死罪が待っていたとしても主君のあだ討ちをした赤穂浪士。生涯をかけて隧道を掘り続けた男や、他人に馬鹿にされながらも木を植え続け、ついには禿山に森林を戻した男もいた。
 みんな馬鹿にされたり、他人から見れば不必要なエネルギーを使い人生を浪費しているように見える。もしかして、道半ばにして倒れるかもしれないのに、他人の意見は気にしなかった。勇気があり覚悟もあった。もっと賢く生きられないのかと人は言うかもしれない。
 だが彼らは一貫してやり遂げたのだ。突き詰めると、人の幸せは他人には決められない。
 俺が鴇子に求婚するのも周りからみたら馬鹿のように見えるかもしれない。というか、俺と鴇子の仲の悪さをしっている学校の連中は馬鹿だと思うだろう。
 しかし、自分の中に息づく確かな鼓動は、鴇子に向かって走れと俺に囁いてた。
 『鴇子になんて興味ねえよ、あんな性格ブス』とか言っていた一年前の自分がいたら殴ってやりたい気持ちだったが、今はそれが正しかったのではないかと思っている。
 なにしろ、俺と鴇子はどうあがいても結ばれる運命ではなかったのだから。
 何度も俺との仲直りを拒否した鴇子が、今はとても正しく見える。
 結局のところ、俺と鴇子は結ばれない。
 鴇子は正しかった。俺は間違えていた。
 俺は分不相応な望みを抱き行動した報いとして、他人に嗤われるだろう。だが、そんなことより、今は自分の見通しの悪さに腹が立っている。
  
 そう言えば、鴇子はどこに? 
 ふと歩みを止めて考えるといつのまにか、自分の家とは反対方向に歩いていたことに気づいた。親父さんも心配している節はなかったけど……俺は少し心配している。それよりなにより、原因を作った俺が見つけだすのが筋だと思った。
 
 そんなことを考え、とりあえず公園へと向かおうとすると、ポケットに入れているスマホが振動した。スマホの液晶画面にはごっさんの名前が表示されている。
 いま、ごっさんと喋る気分ではない。
 と言うわけでしばらく放置しているのだが、一向に振動が終る気配がない。
 電池の残量も心配なので、俺はいやいや通話のディスプレイボタンを押す。
 「はい」
 『さっさと出てよ! 今どこ? 何してるの?』
 ごっさんの声に混じって、その背後から調子の外れた『津軽海峡冬景色』が聞こえてきた。あいにくとこっちの心象風景も冬景色である。
 「そっちはカラオケか?」
 『質問してるのはこっち! トッキーと何かあったの?』
 「……もしかして、鴇子といるのか?」
 『いるよ、急に電話でカラオケに呼び出されてさ、さっきからエンドレスでサイモン&ガーファンクルの『スカボローフェア』歌ってて、超怖いの』
 よりにもよって……その選曲か……
 あれはサイモン&ガーファンクルのヒットナンバーとして有名で、映画の『卒業』にも使われている。
 確か、恋に破れた若い男を歌ったものだが……今それを歌うか?
 『これってやっぱり、そういうことなのかな』
 「鴇子に伝えろ『Love is over』のほうが似合ってるって」
 『やっぱり何があったんだね』
 「まあな……一言で言うと、失恋した」
 色々とあった。だけどそれを全部説明するのが難しい。
 『失恋して、これを唄っているってことは……』
 「ん、どうかしたか?」
 『なるほどねえ……やっぱ、そういうことかな……うん、そうだよね』
 不思議なことに、ごっさんの声が妙にはずんでいる。
 「おい、一体どうかしたのか?」
 『いいから早くトッキー迎えに来て。新町の東商店街にあるカラオケだから』
 そう言うと、電話は切れた。
 途中から態度が変わったのが気になったが、当事者としては無視するわけにはいくまい。
  
 近場だったので電車に乗る必要もなく、目的地のカラオケ屋まで数分で辿りついた。
 受付で追加分の料金を払ってから。指定された部屋まで歩くと、その前にごっさんが立っている。
 今日の彼女の服装は、ノースリーブのブラウスに裾がひらひらしているフレアスカート。学外で見る彼女の服装は少し新鮮だった。
 「やー早かったね」
 ごっさんは俺を視界に発見すると、かつてないくらいにこやかな笑顔で近づいてくる。
 「でさでさ、トッキーと一体何があったわけ、そこんとこ詳しく!」
 ややウザイと感じたが、俺は今までの一連の出来事をごさんに話した。
 「ふうん……やっぱりそういう意味か……」
 「あいつはどうしてるんだ?」
 「相変わらずAKBじゃないほうの意味でヘビーローテーションしてるよ。可愛いもんだね」
 可愛い……だと?
 「そんな感想を抱く曲じゃないと思うが」
 「そうだねー当事者だもんねー、男の子は大変だ。うんうん」
 としきりに頷いている。
 「なあ……あいつが歌ってるのって『スカボロー・フェア』なんだよな」
 「そうだよー、悲しいけどいい歌だよね」
 「…………」
 なんだかすれ違いがあるような気がするけど……
 「『スカボロー・フェア』って失恋した男の歌だろ?」
 「そうだよ」
 「さっきあいつの家に行って、結婚を前提に付き合いたいって親父さんたちにお願いしてきたんだぞ。その後にそういう意味の歌を唄ってるって怖くないか?」
 「私も初めはそう思ったけどさ、前後の状況を確認したらちょっと意味が違うかなーって思って」
 「何が?」
 「サイモン&ガーファンクルのほうはそういう意味にとれるんだけど、元々の歌詞のほう、知らないでしょ?」
 「あれオリジナルじゃなかったのか」
 「そうだよー、元々はイギリスの古い歌で、失恋した男にその相手の女が塩水と海砂の間の土地を見つけて、そこを羊の角で耕して、胡椒を植えろとかそういう感じで無茶振りする歌なの」
 「ろくな女じゃねえなそいつ」
 「違うんだよね、真実の愛ってやつは困難に満ち溢れている、それでもあなたは私が欲しいのって問いかけなの。これは愛し合うことの不条理を唄いつつ、それにも負けないで欲しいっていう応援歌なんだと私は思うんだね」
 「…………」
 そうなんだろうか……ごっさんの話を聴いて、少し希望が胸に去来する。
 「でも、鴇子がそれを知って唄っているのかどうかは解らないけどな……」
 「知ってるに決まってるよ。前にお茶のお稽古で、先生が話してたもの」
 だから……ここまで詳しいのか。
 「にしても鴇子がそういう乙女らしいパフォーマンスをするとは思えないのだが……」
 「だからさっさと行って来たら? そういうの確かめ合うためにも、君達二人には会話が必要だよ。私は消えとくからさ、ささ、ずいっと奥へ」
 と言って、ごっさんは鴇子が唄い続けているであろう部屋の扉を指差した。
 いくしかないか……
 
 部屋の中には透き通るようなソプラノが響いていた。
 意外と中は広い。二人で利用しているなら小部屋で十分なのに、部屋はうなぎの寝床のように長い。八人程度なら何なく座れるような長いソファが壁に沿って両側に伸び、その先には、こぶりのステージが備え付けられていた。
 部屋の照明を落として、スポットライトを浴びたまま、鴇子はステージに立っている。そして流れている切々とした歌声……俺はしばし、自分の立場も忘れて、鴇子の歌に魅了された。
 鴇子の歌声は、山から流れる雪解け水が砂漠を潤わせるように、俺の心に染み渡る。
 哀切を帯びた悲しい響はどこか艶っぽく。その歌は悲しい色に満ちているはずなのに、希望を捨てずにお互いを想いあう恋人たちの一途な純情を募らせ、強く強く心を揺さぶる。
 何かを失った者だけにしかだせない歌声で、彼女は俺に語りかけている。
 悲しみの極まった人間にのみ許される、神聖な儀式。
 今の鴇子には芸術の神が降りている。そのようにしか思えない。
 決して自分の本心を正直に話さない、いかにも鴇子らしいパフォーマンスのように思えた。
 
 そして歌が終る。鴇子がマイクを口から離した途端、世界は現実の色彩と取り戻した。
 「お見事」
 心から鴇子の歌を賛美するように、俺はぱちぱちと手を叩く。
 観衆は俺一人だけだが、彼女は満足したように微笑んだ。
 「瑞希は?」
 「帰った」
 「あいつ……お金払ってないわね」
 「おまえの部活って人に金を払わせる決まりでもあるのか」
 「そんなことないわよ。今日の私は機嫌がいいから。ここは奢ってあげる」
 と言いながら、鴇子はテーブルの上にあるスナック菓子の入ったバスケットに手を伸ばし、ぼりぼりと食べ始める。
 俺にも勧めてきたので、丁重に断った。
 「で、お父様はなんて?」
 「断られたよ」
 「そう……」
 やはりあまり驚いていない。鴇子にとっては解りきった結論だったのだろう。
 「お父様なら、そう言うと思ったわ」
 とぽいとバスケットを放り投げた。
 「なんか……大丈夫かお前」
 何かが振り切れたのか、普段の鴇子とは思えないくらい行儀が悪い。どこか、やけっぱちになっているようにも見える。話の途中で中座して、こんな場末のカラオケボックスまで走ってきて、延々と『スカボロー・フェア』を唄っているのもおかしい。
 「大丈夫よ、まだ大丈夫」
 「まだ……?」
 「ちょっと似合わないことしようと思っているの、だからこれはその影響なのよ」
 と聞いて、俺はいやな予感がしてさっと身構える。
 「そんなに警戒しないでもいいわよ。私はね、そろそろ、あなたに本心を打ち明けようと思うの」
 「は!?」
 鴇子が本心を打ち明けるときた。あの鴇子が。
 例え地獄の釜の蓋があこうとも、決して動ぜず、泰然と冷たい微笑みを浮かべるのが鴇子という女であるはずが、この方向転換はどういうことだろう? 確かに今日の鴇子はいつもとちょっと違う。
 俺は、後藤先輩が博愛精神に目覚めるの同じぐらいの違和感を覚えた。
 俺の驚きを無視して、さらに鴇子は続ける。
 「本当のことを言うとね……私はあなたに告白されて嬉しかった。お父さまたちの前で交際を許しに行った時も、デートの時に私に好意を示してくれた時も、正直に言うと胸が久しぶりにときめいたわ。自分が……こんなに甘い気持ちになれるなんて思ってもみなかった。自分の気持ちを解放して、あなたについていく。家の行く末を考えるより、それはとっても素晴らしいことのように思えたの」
 とここで言葉を切って悲しげに俺に眼を合わせてくる。
 「でも……私はそう思える自分が怖かった。あなたと一緒に居ると、今までの私の人生が価値のないものだと思えてしまう。家のこととか関係なく、喜連戸鴇子自身の幸せを追い求めることが、自分の人生に必要ではないのか? 私は誰かにそう告げられることが、とっても怖かったの。だからあなたを避けていた」
 鴇子が何を言おうとしているのか、俺は薄々ながら気が付いていた。
 おそらく、それを言われたら俺は決定的に立ち直れなくなる。輝かしい未来を信じられなくなる。俺の信じてきたものは本当に壊れてしまうだろう。
 聞きたくない。
 だが、真摯な鴇子の表情を見ていると、耳をふさぐことは出来なかった。
 なぜなら彼女は本気になっている。
 俺のために、あれだけ隠していた本心を包み隠さず告白している。
 そして鴇子は決定的な言葉を口にする。
 
 「ごめん、あなたとは一緒になれないわ」
 
 ああ……鴇子。
 お前はそういう女だと解っていたはずなのに、答えは薄々気が付いていたはずなのに。俺は奈落の底に突き落とされていた。
 振られたあとで、自分がどれだけ鴇子のことを好きになっていたかがわかる。
 俺は彼女を愛している。だが、その方法は知らない。彼女も知らなかった。
 「お母様の言葉に反応して怒ってしまったあの時、はっきり解ったの。私はあなたを選べない。家を捨てる事が出来ない。この生き方しか選べない。私達の恋は結ばれる事がないの」
 「鴇子……」
 「だから、私はあなたと特別な関係になりたかったのよ。憎しみあうのもまた愛情なのよ。あなたが好きよ」
 このタイミングで彼女から初めて本心を述べられた。
 やった、両想いだ。俺は鴇子を愛し、鴇子も俺のことを愛している。
 だが、数日前の自分ならまだしも、今はそのことを素直に喜べない。
 個人の感情がどうあれ、動かせない現実があることを知ってしまったからだ。
 「絶望の色をしているわ、あなたの背景がわかる。あなたが見えるわ。あなたは現実に絶望している」
 「そうだ……」
 俺達は追い詰められた。どん詰まりだ。どうあがいても俺達の関係が発展することはない。そのことはもう素直に認めるしかない。
 「素敵……」
 そう言って、鴇子は俺の両頬を掴むよう両手を添えた。鴇子の瞳は悲しみの色をたたえているのに、何故か彼女は笑っている。
 いつの間にか、彼女は笑っていた。
 ぞっとするような笑顔で、とても美しい顔で、笑っていた。
 「くくっ……くくくくくっ……」
 そうだ笑うしかない。こんな状況にきたらもう笑うしかないのだ。笑えるほどの悲しい現実。これは傑作だ!
 ピエロを演じて本当にピエロになった男は、さぞ滑稽だろう。俺と鴇子の物語はボーイミーツガールでもなく、ロミオとジュリエットでもない。単なる俺の妄想だ! 道化の一人芝居だ! 笑え! 笑えよ” 観客よ! 天よ! ご照覧あれ! 無様な俺を思いっきり笑ってくれ!
 「ははははははははははは!!」
 笑い声が響く。無明の闇へと響き渡る。しじまを破り、西方十万億土を超えて、耳を聾する大音声で三千世界が満たされる。鴇子も笑う、俺も笑う。素晴らしい! 二人の気持ちは今一つになった。なんて素晴らしき相互理解だ。世界は笑いで満たされている。
 そして、気づいた。
 俺達があの夢の中の世界に立っていることに。アルファとオメガに初めて出会ったあの場所に。
 
 そうだ……
 俺達はこうしてこの場所に辿りついたのだ。
 「ああ、素敵……素敵よあなたは! 私達は結ばれない、決して! 未来永劫! どうあがいても無理なの!」
 鴇子も興奮している。
 それもそのはず。俺達はここにたどり着くために生きてきたのだから!
 「キスも出来ない、手もつなげない。それでもあなたは私が欲しいの?」
 「ああ、欲しい……大好きだ鴇子」
 「そうよね、同じ気持ちに同じ絶望! でも本当は気づいているんでしょ? そのためにどうすればいいのか!」
 
 俺は気づいていた、ここにいたる俺達の因果、その全てがこの場所へといたる道しるべになっていることに。
 「なっ……!」
 唐突に金色のナイフで切り出したように闇が開ける。
 そして、光の中から現れるアルファとオメガ。
 聖衆来迎のように神々しい光を背負いながら、彼女達は現れた。
 闇が払い光が満ちる。目の前の景色が一片するほどの一大ページェント。太陽が夜明けを打ち払うように、世界が一変した。
 「等しき夜と等しき昼を分かち合う運命の子供らよ」
 とアルファが叫ぶ
 「運命の時はきたれり!」
 とオメガも叫ぶ。
 「お前ら……」
 このタイミングで来るかこいつら……
 どういう原理なのがまったく解らないが、俺はどういうわけかひどく落ち着いていた。
 ここで彼女たちが現れたことに、どういう意味をもつのか……なんとなく解りかけてきた。なぜなら、そうでなければこの場所へはたどり着けないからだ。
 「ここは我らが家、運命がたどり着く場所。救われなかった魂の集積場所よ」
 「とうとう、自分の意思でここにたどり着いたか……一回目は我の助けで、二回目は無意識で、三度目の正直というか自からここに足を向けるようになるとはの……」
 アルファは苦々しげな表情だった。
 「ダメダメ、そんな顔をしてももう手遅れよお姉さま。勝負は私の勝ち、彼女達は現世のしがらみを越えて結ばれるの、それこそ、この世で唯一の絶対の形。もっと喜びなさいよお姉さま、この日を迎えるために私たちは存在したんじゃないの!」
 「勝負……だと?」
 光からたち現れた二人はなにやら不機嫌な様子だった。
 そういえば、この二人が同時に揃って現れたのは初めてだと気がつく。
 
 「勝負……? 魂の集積場所?」
 「解っているくせに、この場所にたどり着くことががどういう意味をもつのか、あなたはもう知っているはずよ」
 とオメガが続ける。
 「新種としての力に目覚めた……ということだろう?」
 知っていることのようにも思えるが、俺は今、自分で考える力を放棄していた。
 何故なら認めたくもない結論が、俺の目の前に展開されているところをすんでのところで、思いとどまったからだ。
 「いかにも、我ら運命に分けられた子供が住む。黄金分割の部屋じゃ、等しき夜と等しき昼は今こそ交わる時が来た……いや、来てしまったのじゃ……新種の力がどういうものか、説明をしたのを覚えているか?」
 「眼の力……だろ? 他人の気持ちが色でわかるという……」
 「それは表面でしかないわ。他人の存在をも一元的に処理する脳を持つ人間は、誰よりも暗く深き精神の海溝へとたどり着くことが出来る、それがここよ、この場所なの!」
 「眼で見る、ただその行為が世界にフィードバックを起こす。それは自らの脳が世界のあらゆる因果律エンジンと定める行為にほかならぬ。つまり世界を思い通りに書き換える力じゃ。ここでこそ、精神は物質を超越する」
 「それこそ私たちが待ち望んでいた奇跡。新種としての力の顕現。もちろん宇宙規模の改変が出来るとは思えないけど、それもあなたの認識次第。たとえ地球上すべてというローカルな範囲であっても、あなたは全てを思いのままに世界を作りかえられる。まさしく人を超越した新しき種よ」
 新種、新しい種、新しき人。
 たとえ新しくても、人というからには生命があり、運命に縛られる人間のはず……
 「一体……それのどこが人なんだ?」
 俺には神の如き全能を聞かされた気がした。
 「神と呼んでも差し支えないならそう呼ぶがいい。今ある物理法則が気に食わぬなら、新しい宇宙を作ってみるのも一興かもな」
 「そしたら、この世はどうなる?」
 「あまりおすすめできんが、この世界は確かに不完全であり、歪みと不条理が存在する。そなたにその意志があるなら、対称性は保たれ、エントロピーが減少し、初恋が実り、世の格差と不条理が一掃された好都合な世界を作ってみるがよろしかろう。繰り返し言うが、おすすめはせぬがな」
 「そんな力を与えて一体……俺に何をしろと……?」
 それまで黙っていた鴇子がふいに、口を開く。
 「解っているでしょう? あなたはそのためにここに来たのだから」
 「ここに……?」
 「そうよ、私たちの遊びを終らせるのよ」
 光が強く輝く。空が黒から藍色に色彩を帯びていく。
 「鴇子……?」
 「ようやく望みがかなう! 私たちの素晴らしい人生が始まるのよ! 愛し合っていた私たちが、どうして憎しみ会うまでに到ったのか? 諸々の因果は消滅して、新しい可能性の卵が孵るのよ!」
 鴇子のオーラが増大する、天を摩する光の身柱。周囲の闇を切り裂いてそそり立つ、一筋の光明。その先にはまるで、アンドロメダの大運河のような光の大渦巻が現れた。
 闇はすでにその威容を失っていた。まるで、太陽を向かえる直前のような藍からオレンジへのグラデーションの中に暁の空が広がる。
 天の光がすべての星であり、星に運命が宿っているのならば、あの大渦巻きは今を生きるすべての命と、消えていったすべての命が渦巻く因果の大螺旋。命の軌跡を示す大星雲。今の俺の目には一人一人の生命の瞬きが見える。それぞれの命が綾なす物語が、一瞬の光芒となって俺の眼に飛び込んでくる。
 人、動物、そして植物、その他諸々の生物たち。それぞれの一生が複雑に絡まりあって、大いなる連なりを成しているのが眼に映る。洪水のような情報量が、新種の眼を通して処理され、理解していく。
 「これが……新種の力……」
 まさしく全能に匹敵する、全てを透徹した力が、俺に宿っていることを自覚した。人のままであったら、視界に入っただけで脳が焼けるほどの情報量を俺は平然と処理していた。
 「わかるでしょう? 自分が何者になりつつあるのか」
 鴇子は大渦巻きを指差しながら、笑っていた。
 「ああ……」
 いかにもその通り、俺は……いや、俺達は人を超越しつつあるのだ。
 だからわかる、すべての因果の果て、あの渦巻きの先に何があるのかが。
 「さあ……一緒に行きましょう」
 鴇子が俺の手をとる。その手つきはとても優しく、生来の鴇子の性格が素直に現れているように思えた。鴇子の背中の光は渦と同じように、虹色の輝きを放ち、とても美しい。
 「一緒に行きましょう、あの先へと運命の彼方へと。大丈夫、宇宙を変えようなんて私は思わない。私たちにまつわる因果律をほんの少し歪めるだけ」
 「ほんの少し歪める……?」
 その歪めるという単語が心にひっかかる。だが、俺にかまわず鴇子は続ける。
 「そうよ、ほんの少し歪める。ただそれだけで私達が結ばれる、私達が望ましい世界が待っているの。だって、あなたはそれが望みなんでしょう? 私たちの子供じみた無益の争いをやめさせて、私と結ばれるためだけにここまで頑張って歩いてきたのでしょう?」
 「それは……そうだけども……」
 「私はあなた好みの女になるわ。喧嘩したり罵倒したり、あなたを貶めるために嘘泣きしたりもしない。素直に恋心を告げられる乙女になれるの、それこそ私の望み」
 「お前……」
 鴇子は本心を告げるといった。この後に及んでまさか嘘はつかないだろう。
 にしても俺は、ここまで素直な鴇子を見たのは久しぶりだ。まるで子供の頃の俺達に戻ったかのように、屈託なく俺に笑いかける。
 俺は想像する。鴇子と手を繋いで登校する姿を、一緒に昼飯を食べる姿を。デートに行っても、これは罠なのかと気を張りあう必要もない、穏やかで当たり前の恋人と過ごす日々。
 それは確かに、俺が追い求めてきたものではなかっただろうか?
 「一緒に行きましょう、今の私たちならそれが出来るのよ。だって、この時のために私たちは罵り合ってきたのじゃない」
 「この時のため……」
 「そうよ、私は解ったの。あなたとは今のままでは結ばれない。だからこうすることが必要だったの! 私たちが対立することには意味があったのよ!」
 光を背負った鴇子の姿が、初めて出会ったときのアルファと重なった。
 「ち……違う……」
 対立することに意味はない。殴り合いでしか認めることができない関係などなんの可能性がある。
 「意味があったというがそれは違う。俺達のあの喧嘩に何の意味もない」
 俺は咄嗟に否定した。
 「俺はそのままのお前が好きだ、だから親父さんに頭を下げて頼みにいったんだ! 俺達が解決しようとしていたのは、全て現実の話だ! なんだって俺達が付き合うのに、世界を改変したりする必要がある? 恋愛話がどうしてSFになる? つーかなんだよあの渦巻きは、帰ってもらいなさい!」
 恋愛問題だというのにスケールが大きすぎるきがしてならない。俺はどうしてもそこに違和感を覚える。何より、納得できない理屈を聞かされた気がした。
 「今の状況が気に食わないからって、俺達の気分で世界の運命を変えていいのか? 誰しも厄介ごとを抱えて生きているけど、周りが気に食わないからって自分で動かず、周囲を変えるのか? そんなのやっぱり間違っている!」
 「そうじゃ、よく言うたわ」
 俺に呼応するように、アルファが賛同の声を上げた。
 「そもそも世界を改変するだの、新種の力は人に余る。大きな力は責任が伴うものじゃ。世界の運命など、人に背負いきれるものではない。世界をどうこうできる存在などもはや人ではない」
 
 空に渦巻くあの巨大な光の螺旋に向かったが最後、俺は人ではない何かになってしまいそうな予感がする。その後、果たして今までと同じように鴇子と一緒に日常を過ごすことが出来るのか、いまいち確証が持てない
 「俺もそう思う、人の望みを得るために人を捨てる必要はない」
 「はあ? 今更何を言ってるの?」
 とオメガが笑う。
 「人を捨てるもなにも、そもそも、あなたはもう死んでいるじゃないの」
 「は?」
 「聞こえなかった? あなたはもうこの世にいないのよ」
 「……生きてる、けど?」
 一体、オメガは何を言ってるのか? 俺は普通に生きて生活をしている。その事実は疑いようもない。
 「だったら、御覧なさい、頭上に渦巻く星々が人の命を宿すものなら、あなたの星はどこにあるの?」
 「どこってそれは……」
 と俺は自分自身で自分の運命を探そうとしたが……
 「あ、あれ……?」
 無かった。
 どこにも、俺が俺である証明の光を放つ星がなかった。
 「そう、ないの! 今更気がつくだなんて、馬鹿ねあなた」
 「嘘だ、そんなはずはない!」
 ここには地上に生きるすべての運命、そして生きていたすべての命が集まっているはずだ。光は命にやどる可能性。つまり俺の眼の力はその人にやどる可能性の光を捉えていたことになるが、今その話はどうでも良かった。
 一代で身を起こして、大企業の社長となった男の光は恒星のように強く輝き、その周囲には、男に自分の運命の影響を与えられた光が集まっている。まるで、巨大な惑星の周囲を公転する衛星のようだった。その反面、つつましい光を放つ星は、光と同じように慎ましやかで平凡な人生を送っているし、弱々しい光は今にも命運が尽きそうな病人だった。
 こうして眺めていると、それぞれの星の近くには、その伴侶や、子供、企業の社長ならその社員など、影響を強く受けるその人の光が伴っているのがわかる。
 であるなら、俺と鴇子は?鴇子の周囲には俺の星が光り輝いているはずだ。俺は鴇子の背中と同じように、明るく虹色に光る星を探した。
 「いた……」
 あの光は鴇子だ。ひときわ大きく輝く虹色の超新星の周囲に、俺が見知った人たちもいた。鴇子の親父さんもおばさんも、『朗月庵』の職人達も、クラスメイトやよく鴇子にくっついている取り巻きの人間たち。
 しかし、俺の星がなかった。いくら探しても、俺の光が見えない。
 あるはずなのに、鴇子と同じように新種の証としてひときわ大きく虹色の光を放っているはずなのに……
 「無い……」
 俺の光はどこにも無かった。
 これは……どういうことだ?
 「ないでしょ?」
 鬼の首をとったつもりか、オメガは勝ち誇るような笑みを見せた。
 「どこにもないの。つまりあなたは死んでるの」
 「いや、でも、だって……俺はここにいるし、こうして生きてるし」
 「でも、死んでいるのよ、あなたには可能性の光がない、他の人間と関わりをもてない。つまりは、死んでいるのも同然よ」
 死んでいる? この俺が? まったく理解できない。
 「そんなわけあるか、これは何かの間違いだ!」
 「だっだら……尋ねるけど」
 
 「あなたはどうして名前が無いの?」

 その言葉に、体がびくっと震える。
 何か、自分の全てをひっくり返されたような、決定的なことを言われたような気がした。
 「気づいている? あなたやお前としか呼ばれてないでしょ? 人称でしか呼ばれていないのよ。あなたのご両親でさえ、あなたを名前で呼んでないじゃない」
 そう言えば、そうだ……だが、だからといって……
 「あなたは一体何者? どこのどなたさん? この質問にあなたは答えられる?」
 「お、俺は……」
 俺は和菓子屋のせがれで、鴇子の幼なじみで、神ロ研の部員で、高校生で……それから……それから……
 思い出そうとする。自分の存在を思い出そうとする。
 だが、しかし、いくら自分の頭の中にあるプロフィールをめくっても、俺の名前は記載されていない。そもそも自分の名前を思い出そうとする時点で、自分の状況がかなりおかしいことに気づいた。オメガの言うとおり、俺は名前を呼ばれた記憶が無い。
 「名前……」
 空に眼を向けても、俺の光を放つ星はどこにも見当たらない。
 俺はただ、呆然と空を眺めることしか出来なかった。
 「もう一度言うわ、あなたは死んでいるの」
 
  
 ○
 
 それはまだ、私たちが仲が良かった昔のこと。
 
 あんまり認めたくない事実だが、その日、私はあいつが尋ねてくるのを密かに待っていた。
 学校でバドミントンの授業があるので、その練習を兼ねて遊ぶ約束をしていたからだ。あいつは私のサーブの打ち方がなっていないと注意し、自分が教えてやろうと自身溢れる姿で笑っていた。よくある間違いだが、バトミントンではなく、バドミントンであり、正しくは『ト』に濁点はつけない。
 ところがあいつは、バトミントンだと言い張って自説を曲げなかった。
 そんな些細な間違いが私との喧嘩に発展した。
 父とあいつの父親との確執が極まってた頃でもあり、私は父親の気持ちがそれとなく影響し合っていたのか、かつてない激しい言い争いをしてしまった。だから、あいつが本当に来るのかどうか、判然としなかった。どんな顔をすればいいのか解らなかったので、出来ればこないで欲しとさえ思っていた。
 謝ればいいのだろうか? それとも怒ればいいのだろうか? あの時の私はあいつに対する心構えができていなかったのだ。だが、考えても仕方がない。練習をしないわけにもいけないので、私は納屋からシャトルとラケットを取り出し、一人で蔵の壁を使って壁打ちをしていた。
 しばらく、一人ラリーを続けていると、家の様子がおかしいことに気づく。
 大人たちが騒がしい。
 職人たちが仕込みもしないで、さっきから廊下を早足で行き来している。この時間はいつも全員、調理場で御菓子を作っているはずなのに、型どりにつかう木型を振り回して慌てている者もいる。道具の始末に煩い先輩の職人が、それを見てももなぜか咎めず、それより重要な何かに気をとられているような様子だった。
 ……とても不吉な予感がする。
 不審に思った私は、慌てている店員を一人つかまえて、なにかあったのかを尋ねた。
 しかし、何かを隠しているのか言いよどむ苦しそうな顔を浮かべるばかりで、さっぱり要領を得なかった。
 そのうち父がやってきて、職人から私を遠ざけるように調理場に戻れと指示を出した。
 「実はな鴇子……よく聞いて欲しいのだが」
 そして、父は私に難しい顔をして口を開いた。
 予感は当たった。父の口から衝撃的な事実を告げられる。
 「交通事故?」
 「信号待ちをしていたところに、トラックが突っ込んできて……即死だそうだ……」
 あいつの手には、バドミントンのラケットが握られていたらしい。おそらく、私と遊ぶためのものだ。私は最初、父が何を言っているのか、意味がわからなかった。
 「あいつが死んだ?」
 父親は苦しそうに頷く。
 あいつが死ぬ、魂がぬけて、死体となる。そして死は、永遠の別れ。早すぎる……
 では私との約束はどうなる? 私と遊ぶためにここに向かっていたはずのあいつは、どうなる? 
 私にサーブの打ち方を教えてくれる約束ではなかったのか? ここがあいつと私の終着地点なのか、喧嘩したまま別れて、それで終わりなのか? 認めたくない、そんな未来は認めたくなかった。
 だから私は自分の力をつかった。
 それがいけないことだと知りながらも、自分を止めることなど到底できなかった。
 「何を言ってるの? お父さん」
 「鴇子?」
 「あいつは死んでないわ、ほら」
 と私が指をさす。
 「お前……いったい何を……」
 「よく見て、あいつがそこにいるでしょ?」
 彼が象られる。私の言葉のままに、私の見たままに、私の思うがままに。私は世界と対峙してその理を把握する。彼は存在する、私と遊び約束を守るために、存在し得るのだ。なぜなら私がそう望んだから!
 「あ……」
 その時、私の父親の目に写ったのはまぎれもないあいつだったのだろう。
 私にも見える。
 彼はその場に立っていた。彼はこの世へと帰還したのだ。
 そうして彼は名前をなくし、仮初の命で生きながらえる。私は自分が特別な存在であることを自覚した。
 バドミントンのサーブの打ち方を、私はまだ知らない。
 
 
 〇
 
 「と言うことなのよ、了解したかしら?」
 とオメガが笑っていた。
 「さっきの映像は?」
 鴇子もアルファも黙っている。彼女達は鎮痛な面持ちで沈黙を保っていた。
 「鴇子を通して時間と空間のパスをつなげて投影したの。あれはまぎれもなく、数年前の鴇子とあなたよ」
 「そりゃ確かに、鴇子とバドミントンで言い合いした記憶はあるけどさ……」
 死んだ時の情景と、復活を目の前で見せられて、俺は以外にも冷静だった。
 「どうだったかしら? ロードショーのご感想は?」
 「魂消(たまげ)たな」
 渾身のシャレである。こんな時にユーモアを忘れない自分を褒めてやりたい。
 よく見ると、鴇子はかなり微妙な顔をしていた。こんな時にくだらないこと言うなと、表情で突っ込んでいる。
 「文字通りあなたの魂が消えたわけだけど、その割には驚いてないわね」
 「うん……なんか……実感できてしまうんだよな」
 『お前は死人である』と説明されたら、納得できてしまう自分がいた。それを実感できるのは、やはり俺が仮初の命なのだろう。
 そして鴇子が、俺をこの世に縁を結びなおしたのだ。
 「俺は、死んでいたのか……」
 「そのとおり! だけどあなたは不完全な人間、名前なしの出来損ない! だからこそこの世に縁がなかった! でも、今なら全てを打ち消して結びなおすことも可能なのよ!」
 ならばこそ、俺が鴇子と結ばれない理由も納得できる。
 「鴇子は既に新種の力を使ってしまっている。でも、今のあなたなら鴇子の望むことが出来る。人じゃないあなただからこそ、人を超えられるのよ!」
 「アルファは……知っていたのか? 俺が死んでいたことを……」
 「無論じゃ」
 「なのに俺と鴇子を結ばせようと?」
 「じゃが、そなたが新種の力に完全に目覚める前に、鴇子をモノにするやもしれん。不可能を可能にするやもしれぬ。鴇子を死人と結ばせれば、新種を残す可能性は死ぬことになる。ゆえにそなたに賭けたのじゃ」
 「自分勝手な話だな……」
 だが、アルファはこの状況を利用したにすぎない。彼女に当たるのも何か違っているように思えるが、だからと言って不快な気持ちは消えなかったが……
 「でも、残念ながら賭けは失敗したのよ。だから今は私の出番、人類の責任者の立場として言わせて貰えば、これでいいのよ!」
オメガが笑う。我が意を得たりと、笑いながら、独擅場を演じている。
 「だから……俺に選べと……」
 「そうよ! 新しき人はきたれりってわけね!」
 「……!」
 事実を聞かされても驚かなかった俺が、今更ながら混乱してきた。
 俺は一体どうすればいい? 自分のすすむべき道はどこにある?
 「しっかりしろ! わしを睨み返したあの胆力はどうしたのじゃ」
 「無理よお姉さま。自分が死んでいるなんて聞かされて、平然としていられる人間なんていると思う? そもそも。人にそれを求めるお姉さまが傲慢なの」
 「なんじゃと?」
 「人は弱いのよ。お姉さまと違って、私はそのことが良く解るわ。お姉さまの勝手で人がそう都合よく動くなんて、思わないことね」
 「おのれ……言わせおけば……」
 アルファが悔しそうな顔をする。
 だが、今の俺には姉妹喧嘩には興味がなかった。
 オメガのいう事が全て真実とするならば、俺の全ては無駄だったのか?
 「可愛そうに……」
 いつの間にか俺の傍にきていたオメガが、そっと手を差し伸べてくる。
 「オメガ……」
 「貴方は良く頑張った、でもダメなの、どうあがいても運命を覆すことはできない。ハムレットは死ぬ、マッチ売りの少女は凍死する。ネロは天に召される。ロミオとジュリェットは死に別れる。不条理よね、そうでしょう? どれだけ努力しても、ちっともままならない、いったい誰がこんなくそったれな世界を作り上げたのかしら! だから新しき人よ来たれりなの! 今までの世の中を壊して、新しい世を開く! この世には救世主が必要なのよ!」
 「たわけ!」
 オメガの得意な声に、アルファが突っ込み返す。
 「たとえどれだけ力を持とうとも、それは反則じゃ! 今現在運命を享受し、あるいは購って生きる命への侮辱じゃ! 自分の境遇が気に食わぬからと、周囲を作り変えるなど、そもそも子供のわがままに過ぎぬ!」
 「何を言ってるのよお姉さま」
 今度はオメガが反対の声を上げた。
 「自分を救う手段があるのに、それを放棄するの? 解決する方法があるのに、それを手前勝手な倫理感で縛ることこそ傲慢よ!」
 「傲慢ではない! これは、全ての命あるものが貫くべきけじめしゃ! 人は揺りかごから離れ、自分の足で生きるべきじゃ! そもそもこの世は繊細微妙なバランスで成り立っている、誰もが何らかの役割を担って、この世界は存在している。それを自分の都合で作り変えるなど、生命に対する冒涜に過ぎぬわ!」
 「でも、その役割に気がつかなかったら?そしてその役割に気づいても、自分の使命に納得がいかなかったら? 誰もがキリストになれるわけがないのよ、お姉さま」
 「人はキリストになる必要はない。聖人らしくあろうとすれば良いのじゃ」
 「それがどれだけの犠牲を強いるのか、解ってて言っているなら、やはりお姉さまに人類は対する責任なんて背負えないわ!」
 「同じ夜と昼を分かち合う妹よ。そなたは背負った荷の重みを忘れておるのじゃ!」
 互いににらみ合い。一歩も引かない。
 この二人の関係は俺と鴇子に似ているような気がしてきた。
 互いに相容れない。そしてその争いをおそらく途方もない昔から続けている。
 それこそ、俺達が生まれる前……ずっとずっと昔から。人類の責任をかけて争っている。
 そうでなければ、精神が物質を超越するというこの場に立っていられるはずがない。
 「あんたたちって一体何者なんだ?」
 「人類の責任を背負う者、初めに言ったとおりじゃ」
 「そして、人の望みの行きつく先がここ。その積み重ねが私達よ、私達を産んだのよ」
 「いかにも我らは、等しき絶望と等しき希望に分けられた運命の姉妹。人の行く先を見届ける者」
 「あなたと鴇子が結論を出せずに、争い続けたパターンが私たち、新しい種へのなりそこね」
 「お、俺もお前たちのようになるのか? 人間だかなんだかわからない存在に!?」
 俺達が恋愛を争ったように。
 二人も人類の行く末という荒唐無稽なものを巡って争い、こんな誰も知れぬ場所までやってきている。
 「そうなるかもしれなけど、あなたたちはどうかしら?」
 「いずれにせよ、遥かに過去の出来事じゃ、我らがどこから来たのか、そんなことはもう忘れてしまったし、そなたもどうでもよかろう!」
 「その通りね」
 とそれまで黙ってアルファたちの喧嘩を眺めていた鴇子が口を開く。
 「問題はどこから来たのかではない、どこに行くのかなのよ」
 そう言って鴇子は指差す。
 その先には光渦巻く大星雲。星がまたたくメールシュトーム。人ひとりの命など、こんな大宇宙の前では塵にも等しいはずなのに。実際、そう思えるのに、俺達はその常識を覆そうとしている。この身に宿る小さい可能性で、この世の理を覆そうとしている。
 「あの中に吸い込まれたら、普通は死にそうだな」
 俺は、ポーが書いた大渦巻きに飲まれた男が登場する短編小説を思い出した。
 「でも、死なないわ、流れに呑まれる前に、私たちが流れとなるから」
 観念的な言葉で鴇子が答えるのは、新種に進むという上の次元の話で、おそらく人の言葉では表現できないのだろう。
 「さて、そろそろ時間よ。物語には幕引きが必要よね」
 とオメガ。
 「そうね……」
 と鴇子。少し離れて、アルファは苦々しく俺達を見つめている。
 「お願い、私の手をとって。あそこまで連れて行って」
 そうなれば……きっと俺と鴇子は、俺と鴇子以上の存在になる。
 「………………」
 
 
 選択の時が来てしまった。
 正直に言うと、鴇子の手をとって、あいつと一緒にアセンションだかなんだか知らないけど、新種へと発展するしか方法はないと思う。
 だが……だがしかし!
 本当にそれでいいのか?
 死に直面した俺が結ばれる方法はもはや、それしかないはずなのだが……
 「なあ……もし、俺が断ったらどうなるんだ」
 「どうって、何もならないわよ」
 「現状維持ってこと?」
 「そうじゃ、鴇子の新種の力は消えて、そなたは死人として土にかえり、人々からはそなたの記憶が消える」
 「それじゃ、俺が損じゃないか!」
 「正しい現状とはこうじゃ。灰は灰に土は土に。死人は死人に帰る。この場にて死を思い出したそなたが、通常の状態で現世に顕形できるわけがない。ネタが割れたら、手品は仕舞いじゃ」
 「ちょ、ちょっと待て……」
 鴇子がここに来て、初めて鴇子がうろたえる表情を見せる。少しいい気味だとは思うが、自分の命とは比較できない。
 「彼が死ぬ……?」
 「そうよ引き換えに、あなたたちは失敗の教訓を得るわけだけど、その教訓を生かす機会は永遠に失われるわけね。すなわち、命短し恋せよ乙女ってね」
 「それは、若干意味が違うような……」
 まあ、今はそんなことはどうでもいい。
 要するにここを出ると俺は死ぬってことだ、クソ!
 「オメガ、私に今ここでそれを説明するのは少しルール違反じゃないかしら?」
 「勘違いしては困るわね、世に永遠に生きるものなし。それが理。そのルールを曲げたのはそもそもあなたのほうじゃない」
 「それはそうだけど……でも……」
 「何をうろたえているの? 自分と一緒に来てくれないかもしれないって? 彼がそんなミスジャッジを犯すはずがないじゃない。だって、自分の命が掛かっているんですもの」
 その時、すがるような眼を向けてきた鴇子の視線を、俺は真正面から受け止めることはできなかった。
 これだけ、弱気な表情をみせる彼女は非常に珍しいが、この状況に驚いているのは彼女だけではない。喜連戸家に許婚のお願いにあがってから、鴇子とのカラオケ屋での再会、唐突にこの場所への場面転換に、俺が死んでいた事実が発覚し、幼なじみからアセンションに誘われる。
 一体なんなんだこのイベント目白押しは。頭が混乱してくる。鴇子にとっては予想外の出来事が起きているが、俺にとっても同じことだ。人生の先はまったく見えない。いや、俺にとってはもはや人生の時間は残されていなかった。
 
 「そろそろ私たちの物語を終らせましょう」
 鴇子の悲しい瞳が、涙で揺れていた。
 俺達の遊びもいよいよ終わりを告げる。その時が近づいてきているのだ。
 「初めは花が欲しかった、ただそれだけだったわ」
 「鴇子……」
 「覚えている? 庭に咲く桔梗が欲しいとあなたにお願いしたあの時のことを」
 「ああ……覚えているとも」
 考えてみれば俺達の断絶は、あそこから始まっているのかもしれない。
 「でも、あなたは与えてくれなかった」
 「そうだな」
 美しく咲く星型の桔梗。けなげに咲く、一輪の花の命を惜しんで、俺は鴇子を飾るために自然を壊す罪を犯せなかった。
 たとえ、鴇子の不興をかうかもしれなくとも、俺は自分の節を曲げなかった。
 「でも、もう花はいらない。あなたさえいれば何もいらない」
 全ての虚飾をすてて出てきた、真実の言葉。
 ここは精神が物質を超越する世界。ならばこそ、鴇子の告白には言霊がやどり、真実の響となって世界を満たす。
 彼女はゆっくりと俺に手を伸ばす。
 「さあ、私を選んで」
 涙を流しながらも、声ははっきりとしていた。まるでその罪を自覚しているかのように、眼から涙が流れる。
 鴇子が流す涙は、恐れのためでもない。それは常識への決別。それまで過ごしてきた来し方行く末の思い出、今まで積み重ねてきた歴史。その時間を惜しんだのだ。
 常識を離れて、俺たちは天上を舞うあの大渦巻きの天元を越える。誰も到達したことのないどこかへ。
 その距離の隔たりを、膨大な時間を感じずには居られない。
 ああ、俺達はちっぽけだ、大宇宙の芥子粒だ。微粒子に過ぎない俺達が、その自然の胎動を超える分を犯す。火を恐れる獣のように、本能からくる忌避感が俺の心に躊躇を与えようとする。ミクロからマクロへ、有限から無限へ、一瞬から永遠へと! 「人よ危ぶむ無かれ」と言うが、この跳躍はさすがに人のレベルを超えていた。渦巻く混沌を超えて、完全なる秩序へとたどり着くためには、神を敬して遠ざける良識を今こそ捨てなければならない。全て鴇子のために!
 「何を躊躇しているの?」
 オメガが俺に語りかけてくる。
 「あなたは鴇子がいれば何もいらないのでしょう? そう叫んだことを忘れたの? あの絶望を忘れてしまったの? 神がいないなら、あなたがこの世の神になりなさい!」
 ああ、その通りだ。エレエレサバクタニ(神よどうして我を見捨てたもうた)だ。救いの神が天上より降りてこないのであれば、誰かが神の如く振舞わねば地上に救いは無い。
 「ならぬ!」
 アルファが反論する。
 「この世に神はいない。だが、創造主という前提なしにこの世に我々を立たせるものこそが神と謂われるものの正体じゃ。神は存在するが実在を求めてはならない、神の介入を期せずして生きよ! たとえ死の影の谷を歩もうとも、我々は神の御前(みまえ)で、神とともに神なしに生きる」
 
 二人の言葉はそれぞれ俺の心に響いた。一方で追い詰められた現実からの脱出方法。すがりつきたい希望。一方では、峻厳にして絶対的な原則。人として生きるために守らなければならない摂理。理性は警告を告げているが、本能は解決してくれる神を求めていた。神が不在の世界なら、自分が神になれば良いとオメガが言う。アルファは神を求めるなと、人に節度を求めている。
 どうしよう……双方ともが正しく聞こえる。俺には判断がつかない。
 
 俺は鴇子が好きだ。だが、このままでは俺達は永遠に結ばれない。
 それ以前に、アルファの言葉が本当なら、おれ自身が消えてなくなる可能性がある。
 現実面での解決が不可能であれば、非常の手段に走るのは、致し方ない……だが、この方法はいささか非常すぎやしないだろうか? 全世界とか全人類とか、そんな言葉だけではまかないきれない、果てしなく大きな原理を曲げることになるのだが……それは果たして正しいのか?
 その後に俺達は本当に、俺達のままでいられるのか?
 どうする?
 鴇子と結ばれるために、新たなるアダムとイブになるか? それとも……
 「…………」
 その時、天がかすかに揺れた。
 俺が世界を改変する力のある新種であるなら、俺の心の揺らぎはすでに外の世界に影響を与えていたのかもしれない。心の動揺を反映するかのような細波。それは水面に一滴の波紋が広がっていく光景に似ている。
 光が一つ、流星となって落ちていったのが見えた。
 空から落ちていった星が雫となりて、星が渦巻く天球に波紋を揺らしたと思ったら、無数にある星雲の一つから、ささやかな光が生まれ、無数にある星の一つとして輝き始める。
 命が流れ落ち、また生まれ輝き始める。
 そのはかなき一滴では、表面を揺らすことは出来ても、大渦巻きの流れを変えることなど出来やしない。それが人の限界であり、人の宿命であるはずだった。
 だが、美しい。
 無名の命が大いなる螺旋へと帰るこの光景は、何万年、何億年と続く命の営みの歴史。
 その一つ一つが星であり、一つ一つがささやかながら、可能性を秘めている。
 
 美しい。
 そう思ってしまった瞬間、俺の答えは決まった。
 全ての命がそうであるように、俺はあの大いなる流れに帰る。
 「花はもういらないか?」
 「ええ、一緒に来て欲しい。それだけが私の望み」
 「そうか……」
 その時、俺の体が光りだす。
 「なにを……しているの……」
 鴇子の顔に動揺が走る。鴇子に心配をかけまいと俺は優しく語りかける。
 「それでも、俺は……」
 ようやく解った。俺の光がどこにあったのか、俺の存在は誰によって規定されていたのか。
 それは俺だ。おれ自身が光となって、魂魄が物質を超越して、現世に存在していたのだ。
 俺の体から放つ光はやがて俺の手の中に、水色の桔梗となって現れる。
 「お前に花を捧げよう」
 俺は桔梗の花を、鴇子の黒髪にそっと添えると、髪飾りのように収まった。
 黒髪に添える水色の一輪の花。俺が鴇子に捧げる、命の全て。
 「俺は一緒に行くことはできない。だからせめて、命の花を、俺の命の形、俺の全て、それをお前に捧げる」
 「……どうして?」
 「気づいたんだ、お前が傷ついていたことに。お前は、俺が生きていくために俺と喧嘩して、この世に俺が存在する縁を作ろうとしていた。俺の心はお前のものだ、だけど、もう亡霊に付き合って生きる必要は無い」
 どうして鴇子があんなにも俺との喧嘩を続けようとしたのか、俺の仲直りを拒み続けたのか、それはもう解っていた。全ては俺のためだったのだ。
 そのために、彼女は新種への道を開き、世界を改変するまでの力を得た。まさしくアルファの言うとおり、フランケンシュタインの創造主は俺だった。ならばこそ、俺はその責任をとらないといけない。
 「それを私に捧げると……あなたは死んでしまうのよ? なのにどうして!」
 すがりつくような眼。
 「わかっている、でもな……」
 これはお前に捧げる俺の本心。お前だけに捧げる唯一の心。
 
 「死ぬほど好きなんだ」
 
 そう呟いた瞬間、空にヒビが走った。まるでそこに透明のガラスのドームがあったかのように、空に浮かぶ星々の世界がひび割れていく。
 
 
 「バカッバカッ! この大バカ!! せっかく助かったのに! せっかくここまで来たのに! 一体何を考えてるのよ!」
 ガクガクと俺の肩を揺らしながら、鴇子は詰め寄ってくる。
 彼女らしくない語尾の少ない言葉だったが、それだけに彼女の発言は本心から出るものだと信じられる。
 俺は彼女に真実の言葉で迫った。だから彼女も俺に真実の言葉で語りかけてくる。
 「すまないな……鴇子……」
 俺は選んだ。
 自分の命よりも鴇子を選んだ。
 新種として真に覚醒して、あの星々の向こうに行き着くよりも鴇子一人の命を惜しんだ。
 だから、お前と行けなかった。
 「…………!」
 そして、鴇子も俺の目をみた瞬間、俺がそれを選択したとわかってしまった。
 世界を回天させるほどに、関係が極まった俺達に言葉が不要だった。
 「どうして……どうして死んでしまったのよ……!」
 そうだ、鴇子……
 お前はずっとそれを言いたかったんだろう?
 「私を残して、どうして……」
 鴇子は新種として覚醒し、俺の魂魄、魂と呼ばれるものを実在化させ、精神が物質を超越する奇跡をずっと続けていた。
 だが、その積み重ねがついには神の如き奇跡に手が届くまでに到った。
 「たとえ仮初の命だったとしても、お前と喧嘩して過ごしたこの十数年は長かった。途中で退場する俺が言うことじゃないが、その思い出をお前に押し付けることになるだろう。それは悪いと思っている」
 俺はそっと鴇子の顔に手をあて、人差し指で、そっと涙を拭う。
 「もう、こうやってあなたと話すことは出来ないのよ? それでもいいの?」
 「そうだな……でもな、きっとその涙が俺達の思い出を洗い流してくれる。鴇子、お前には、涙は別れの時に流せる人生を過ごして欲しい」
 鴇子よ、愛しき君よ。
 キスさえ出来なかった俺達だが、君の愛情は本物だった。今はそれを確かめることが出来て、本当に満足している。
 「もういいわ……」
 と鴇子は俺の手を掴んで、下におろす。
 「あなたに約束する。次からは一人で涙を拭うことにするわ」
 「うん……」
 そうだ、鴇子、それでいい。
 俺はもう君の涙を拭うことができない。
 だから鴇子、君は俺を忘れて前へ歩き出してくれ。
 
 
 「……っ……!」
 鴇子が何かを喋った気がした。
 だが音が何かに遮られているようで、はっきりと聞こえない。周りの風景がにじむ。意識が徐々に曖昧になっていく。
 俺は消える。
 死んだ人間だからこそ、あの大いなる螺旋を超えて旅立つことが出来る。生身でたどり着くことが出来ないどこかへ、俺は今子、鴇子を連れずに一人で旅立つ。
 「ち……いち……!」
 鴇子が何かを叫んでいる。おそらくそれは俺の名前でいまだ何モノでもなかった俺の名前。
 世界で一つだけの俺の存在を表す指標。俺が俺であるための証。
 だが間に合わない、消えてゆく、俺の存在の全てが消えてゆく。
 だが恐怖はない。
 短い生涯だったはずなのに、俺は何かを残せたのではないだろうか。
 自分は何のために存在するのか? 自分がどこから来てどこへ行くのか? 自分とは何者なのか? 
 その答えは、全て鴇子が教えてくれた。
 「悠一!」
 鴇子の声が心に響く。
 そうだ、悠一だ。
 門田悠一(かどたゆういち)。
 それが俺の名前。
 和菓子屋のせがれで、頑固な親父と、苦労人の母親、その一人息子。好きなものは、明治屋のコロッケ。嫌いなものは生のトマト。トマトソースは好き。好きな音楽がサイケデリックミュージックなのは母の影響。学校では神ロ研に属し、特に親しい友人はごっさん、掛井、後藤先輩。これが俺のプロフィール。門田悠一の全て……
 「いや……一つ忘れていた」
 「何? 何が言いたいの?」
 鴇子が一言もいいのがすまいと、俺の体を支えようとする。
 だが、掴む先から消えていく。焦っている鴇子が、戻れ、お願いだから戻ってと痛切な声で繰り返す。
 ああ、いいんだ鴇子……
 俺はこうなる運命だったのだから。
 それよりも聞いてくれ、さっき気づいたんだ。
 俺の俺である証を……
 「好きな人……喜連戸鴇子……」
 「……!」
 自分が何者だったのか。
 最後の最後で俺はその答えを知った。
 
 
 
 ●
 
 そうして、彼は去っていった。
 一人の人間として、門田悠一としての名前を思い出し、個人として死んでいった。
 一人の魂が空に帰る。一つの光となって、大いなる螺旋に吸い込まれていくその神聖な光景を、私は敬虔な気持ちになって見送っている。
 あの状況で、驚くべき精神性を発揮した魂に敬意を表し、一人の人間に頭をたれていた。まさしく彼は世界を救ったのかもしれない。
 「嘘……信じられない……」
 オメガのほうは、目の前の事実を受け入れられないのか、呆然と魂が消えていった空を見つめていた。
 俺が新種の力を使って、あの星々の彼方へと行き着くと信じていたのだろう。
 「信じたくなくとも、これが現実じゃ。喜連戸鴇子と、門田悠一の物語はここで終わる。これは、ボーイ・ミーツ・ガールではない。別れ話ということじゃな」
 「お姉さま……」
 「オメガよ、我が妹よ。おぬしの敗因は人の力を読み損ねたからじゃ。おぬしは人の弱さを熟知していた。じゃが、人の儚きを知ると同時に人の強さも理解すべきじゃったな」
 そう、人は弱いし、どうしようもなく愚かではあるが、時に比類なき強さを見せる。
 不条理へと立ち向かう勇気をもって、自分の足で立ち上がり、たとえ一人になっても世界と対峙して、その気高さを貫こうとする。
 「あの誇り高き姿を見たであろう! たとえ自分の命が亡くなると知っても、己と貫く。こういう人間が居る限り、我は決して人類に絶望せぬ。人を導くに神はいらぬ! どんなに愚かしくとも、ただ一人、勇気ある義人がいればいい!」
 「そんなの……そんなのまったく、理解できないわ! 定められた運命で死んでいく、それが人間の限界なの! それを超えようとする手段を、自ら放棄するなんて……」
 「知らぬが仏と言うであろう。知らぬからこそ神の如きその座につくことができるのがそなたじゃ。人類を終らせる役目を背負ったそなたには、人の強さ、その本質が理解できぬのであろう」
 そう、私の妹はここより先に行くために人類を終らせる、私はここにとどまるために人類を続かせる。そのためにそれぞれ責任を持ち、それぞれの願いの積み重ねる。異なる力のベクトル。その線は交わることがない。
 「わかったわ……私たちは徹底的に分かり合えないということがね」
 「それは同意しよう。そなたは我とは別の道を行く者じゃが……」
 「何よ」
 「こうして会えたのは楽しかったぞ」
 「ふん……」
 とそっぽを向くその姿は、年相応の子供のように見えた。
 ここは精神が物質を超越する場所。ゆえに、我らはここで生まれた。人類の責任者として、それぞれの願いが集約した魂の形。
 それが我ら運命の姉妹。願いという命を運ぶ、アルファであり、オメガである。
 世界に刻み付けられた鋳型として存在する、唯一の姉妹だ。
 普段はなかなか出会うことがないが、久しぶりに会えるのはやはり嬉しい。顔が少し綻ぶ。
 「ぬ……?」
 気がつくと鴇子が傍に立っていた。
 張り手されたと気づいたのは、体が横に倒れてからだった。
 「ぐっ……」
 左の頬がヒリヒリする。強烈な痺れが頬に残った。
 「ちょ! ちょっと鴇子! 一体何してるのよあなた!」
 オメガが慌てて私の傍にやってきて、様子をのぞき込む。
 「な、なかなか痛かったぞ……」
 「あなたが……あなたがいなければ……」
 なるほど、それが鴇子の怒りか。
 「あなたがいなければ、上手くいってたのに! あなたが悠一を殺したのよ! あなたが利用したんでしょ! そうでしょ!」
 「それは違うわよ鴇子! お姉さまも私も自分の役割に忠実だっただけ! それに最終的に死を選んだのは彼自信よ! 勝負はついたの! それ以上暴れて、彼の死を汚すつもり?」
 「言うな、アルファよ。我が妹よ」
 「言葉に出来ぬ怒りを受け止めるのも、人類の責任者たる我の務め。そのために我は存在しているのじゃ。張り手の一つくらい当然のものと受け入れようぞ」
 「ぐ……あなたは……」
 「八つ当たりでも構わぬ、じゃがそなたはこれからどうするのじゃ? 彼は去っていった。だが新種としての力は失ってはおらぬ。このままここにとどまり、自分独りの力であの渦巻きの先を目指すのか?」
 「それは……」
 鴇子はやや逡巡したが、やがて口を開いた。
 「帰るわ、自分の家へ」
 鴇子がそう宣言した瞬間、空間が閉じられた。
 今こそ遊びは終ったのだ。
 
 
 
 ○
 
 校外の山すそにある霊園の一角に、その墓は立っていった。
 季節は初夏を迎えようとしている。
 墓の隣に埋葬された人物の一覧があった。
 
 門田悠一。
 
 因縁深きこの名前。
 彼と別れてから、私は現実へと帰って来た。
 不思議と学園の連中は彼の名前を覚えていた。だが、死んだ話をすると、どうも記憶が曖昧なようで、その詳細ははっきりしない。
 これはおそらく、新種として私が力を使った残滓なのだろう。世界にその存在を、鋳型のように魂を落とし込む。その力が微かながら残っていたのだろう。
 もっとも今の私はその力は失われた。力を失う前に、また彼を復活させる手段もあったのだろうけど……それはどう考えても、死んだ魂への侮辱だとしか思えなかった。
 以前の自分なら、何の躊躇もなく、その力を自侭にふるったのに、結局彼の存在が私自身を、私という存在を既定した。
 あの気高き振る舞いをみて、新種の力を魅力的に思えなくなった。彼のために使えない力など、何の意味もない。そして力を求める理由を無くしたと同時に、私は新種の力を失ったのだ。考えてみると、彼がいたからこそ、新種の力が私に備わったのであり、彼がいなくなれば消える。当然の帰結だ。
 
 「悠一……」
 そっと彼の名前を呟いて、私は彼の墓碑銘をなぞる。
 「悠一……悠一……」
 名前を呼ぶと愛しさが募る。悲しみが込みあがってくる。
 だが、いくら名前を呼んでも抱きしめてくれる人はもういない。あの、私の涙を拭ってくれた優しい指使いを思い出して、私は泣きだしそうになる。
 「ごめんね、大丈夫、大丈夫だから……」
 両足に力を入れ、大地を踏みしめる。悲しみをぐっと堪える。その強さは彼が与えてくれたものだ。
 門田悠一。
 死ぬほど好きになった恋をして、彼は本当に死んでしまった。
 私は彼の墓前に、そっと和菓子を備える。
 家の庭にある築山の中で私と彼が分け合った菓子と同じものだ。今回は家の菓子でなはく、私が職人から作り方を聞いて、自ら作った菓子である。
 体面や虚飾を捨てさり、身一つで私にぶつかってきてくれた彼には、朗月庵の職人がこしらえた出来上がった菓子より、多少で味が落ちても、自分の手作りの菓子を供える。それが彼に対する礼儀だと思った。彼との出会いと別れによって私は様々な教訓を得たが、これはその一つだ。私はその教訓を永遠に忘れたりはしないだろう。
 
 「報告があるの。許婚の件だけど……やっぱり、断ることにしたわ」
 家の体面や周りの期待に応えることを考えていた私にとっては、これは大きな心の変化だった。
 両親は反対するかもしれない。家の商売に悪い影響を及ぼすかもしれない。だけど、私は自分の気にのらない結婚はしたくない。不誠実な道を歩みたくない。それになりより、彼の愛情に触れてからと言うもの、どうしても悠一以外の男性に寄り添う気分にはなれなかった。
 「難しいと思うけど……でも、決めたの。頑張るから、そこで見ててね」
 私は家に縛られない自由を得たいと思った。新種の力に頼ることなく、健全な方法で私の可能性が広げていきたい。そう思うようになったきっかけも、おそらく彼が与えてくれたものだろう。
 「また会いに来るからね。それじゃ……」
 私は彼の恋人になれなかったけど、彼は確かに私の心に足跡を残した。
 これから生きていくうちに、彼の居ないこの世を嘆く時もあるだろう、悲しさに押しつぶされそうな時も来るだろう。
 だけど、私は負けない。泣かない。たとえ倒れても、再び立ち上がってしぶとく前に進む。取り巻きも、学園での評判ももういらない。彼がそうであったように、私は私の命を貫いて生きようと決めた。
 私の髪には、彼が捧げてくれた桔梗の髪留めが光る。
 
 終
 

太郎とジュリエット

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太郎とジュリエット

簡単に言うと、ロミジュリの現代版です。 文学というよりコメディです。 主人公が長年接触をしてなかった 幼馴染ヒロインとの仲直りに奔走する話。 家の因縁もあり、主人公の天敵で、そのうえ仲が良いとはかぎらなかったので、 仲直りは非常に難航することになります。 ※注意 男の娘や妹はでてきません!

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ・第一章 
  2. ・第二章
  3. ・第三章
  4. ・第四章
  5. ・第五章
  6. ・第六章
  7. ・第七章