人間いたるところに…

 たとえ自分の意に沿わない部署であっても、人事異動は拒否しないのがサラリーマンの心得である。それを断わるなら、辞める覚悟をしなければならない。『社史編纂室勤務を命ずる』という辞令を見ながら、栗本は頭の中で転職先を考えていた。
(どちらかといえばまだ若い方だから、探せば何かあるだろう。人間いたるところに青山あり、とか言うじゃないか)
「まあ、室長は急がなくていいと言ってくれているから、実際に異動するのは、今の業務の引継ぎが完了してからでいいよ」
 人事課長はほとんど栗本の顔を見ずに、そう告げた。
「はあ」
 つまり、引継ぎさえ終わればいつ辞めてもいいぞ、という意味だろうと栗本は思った。
「じゃあ、心機一転、がんばってくれよ」
 形だけの励ましの言葉を背中で聞きながら、こんな仕打ちをされるほどのミスを自分がしたのかどうか考えてみたが、何も思い当らなかった。

 一週間後、栗本が社史編纂室に出勤したのは、ただ単に転職先が見つからなかったからである。とりあえず、ここで時間稼ぎをしながら職探しをしようと考えたのだ。
『社史編纂室』と書かれたドアを開けると、想像した以上に狭いオフィスに、室長らしき人物がボーッとした表情で座っていた。
「栗本です。お待たせしてすみませんでした。思ったより引継ぎに時間がかかりまして」
 室長は栗本の父親ぐらいの年齢で、ボサボサの頭をかきながら、うれしそうに笑った。
「おお、待ってたよ。室長の田村だ、よろしく頼む。きみのデスクはそっちだ。お茶やコーヒーはこっちにあるから、適当に飲んでくれ」
「はあ、ありがとうございます」
 栗本のデスクには『社史草稿第一部』と印刷された小冊子が置いてあった。
「まあ、とりあえず、今日はそれでも読んでてくれ」
 田村はそう言うと、また、ボーッとした表情に戻った。特に何かを始める様子もなく、時々思い出したように湯呑でお茶を飲む。覚悟していたが、これが社史編纂室とやらの実態なのだろう。
 栗本は仕方なく、草稿を読み始めた。栗本の会社は、先々代の社長が裸一貫から創業したもので、草稿はその人物の生い立ちから始まっていた。だが、その文章は社史というような無味乾燥なものではなく、躍動感にあふれ、セリフも多用されて、まるで冒険小説のようだった。
 最初は時間つぶしのつもりだった栗本は、すっかり物語に引き込まれ、読み終わって気が付くと終業時間になっていた。昼食に行くことさえ忘れていたのだ。
「どうだったかね?」
 静かな田村の言葉に、栗本は興奮して答えた。
「す、すごいです!めちゃめちゃ面白かったです」
 田村はちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめ、後ろの棚を指差した。
「草稿は第十五部まで書いたが、やっと会社を立ち上げた時代に到達したばかりだ。わたしはじっくり考えて書くので時間がかかるんだよ。だが、わたしもこの歳だ。定年までに書き上げられそうにない。そこで、人事課長に頼んで、若くて文章のうまい人を推薦してもらった。きみにはすまないことをしたと思うが、続きを書いてもらいたいんだ。引き受けてくれるかね?」
 栗本は大きくうなずいた。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
(おわり)

人間いたるところに…

人間いたるところに…

たとえ自分の意に沿わない部署であっても、人事異動は拒否しないのがサラリーマンの心得である。それを断わるなら、辞める覚悟をしなければならない。『社史編纂室勤務を命ずる』という辞令を見ながら、栗本は頭の中で転職先を考えていた…

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-23

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