嫌いっていえば?

少し昔の作品を。主人公と同じくらいの年齢の頃、書いたものです。ちょっとだけ修正しました。割と軽めです。

いつも待ち合わせ場所に遅れてくる理由を、深く考えないように、コンビニで適当なファッション雑誌を取って、読み耽った振りをする私。本当は、ふざけんなと、夏の日も一粒の汗もかかず、涼しい顔をしてやってくる浩の前で張り手の一発くらい食らわしてやりたい、などという激情を抱いているのだけど、浩の前では、漬物みたいにしんなりとした純粋な女子を演じている。いや、演じたいわけではないのだけど、あいつの前ではそうしてしまう。浩の目の前、いや、普通の女友達の前でも親の前でもそうしてしまう。要するに、私はびびりなのだ、人間に対して。非常に認めたくないのだけど、内向的な、という形容詞がしっくりくる女なのである。
実に、厄介だ。
二冊目の雑誌に手を取った時、背後から息の音が近づいてきて、首をぐるっと回して後ろを見たら、浩が立っていた。相変わらず背が、でかい。186cmもある浩の顔を見ようとすると、首が痛くなる。
「ごめん、待った?」
こういう常套句の中の常套句が、本当に嫌いなのだけれど、浩がにへらっと悪徳商法に軽く騙されそうな人の良さそうな笑顔を見ると、ついつい反応で同じ顔で笑ってしまう。にへらっというだらしなく乱れた私の横顔が、目の前の窓ガラスに映る。
「待ったよ」
「ごめん、ごめん。親戚の子がうちに来ててさ、一緒に遊んでたの。そしたら時間忘れちゃって」
お前、喫茶店で隣に座っていた子供が騒いでいた時、舌うちしたことあっただろう。ガキと絡むの面倒くさいって途中から教職を降りたくせに、いつから、子供大好きな好青年のキャラに転身したんだって。
色々浩に突っ込みたいことがあったけど、全て飲み干した。私の胃へと伸びていく食道は癌と診断されてもおかしくないくらい、黒ずんでいるだろう。

定番の恋人つなぎで手をつないで、私達は、浅く隆起したり、ほとんと陥没といっても過言ではないような凹んだところだったり、足の裏が疲れるような、うねうねとしたアスファルト道を練り歩く。時々、浩の手からすっと自分の手を抜く。浩は、こっちを振り向き、空いた手を開いたり閉じたり動かしたあと、ジャケットのポケットに突っ込んで、そっぽを向く。そのそっぽを向いた横顔が少し寂しそうで、それが私の優越感を満たし、ひたひたに満たされるよりちょっと手前で、私は浩への謝罪として、浩のやや太めの関節をした肘をぎゅっと握る。浩は、またこっちを振り向き、緩く歪ませて笑って、顎をくいっと上に向けて、どっか入ろうと言った。私は、どこがいい?と聞くと、浩は黙って遠い目をした。

結局、長い沈黙の末、私と浩はマックに入った。よく目にするけれど、通り過ぎるけど、そういや、付き合い始めてから浩と一度も行ったことがなかった。いつも、お洒落なデートを意識してか、昼間にチェーン店は避けるようにしている。そのせいで、私達の財布からは、野口英世が翼をばばばっと広げ軽快に、知らぬ経営者の懐のもとへと飛んでいく。

アホだ、私達。

「瑞穂は、就活どうなってんの」
ポテトを、ケチャップにつけながら浩は聞く。前置きとか、浩は考えない。ずばーっと躊躇なく、私が答えたくないことを質問する。
「どうなってるのかわかんない。だけど、卒業しても実家には帰んないと思う」
「なんで」
目線は私ではなく、ポテトの先を見ている。ぐりぐりとケチャップの中を回したり、ずっとポテトを半身浴させたり。浩は何かを考えているようにも見える。
「東京の方がいい」
「実家の方が楽じゃん」
 だって、実家に帰ったら、そこで暮らすことにしたら、あんたと離れるだろう、と言いたい言葉をジンジャーエールと共に、咽頭を通って胃の中におさめた。
「瑞穂ん家、老舗の煎餅屋やってるんだろ。後継げばいいじゃん。かっこいいじゃん。煎餅屋の女職人」
ほろっと、私の唇からジュースの水滴がひとつ落ちた。
何、煎餅屋って。そんなのいつ私が言った?煎餅なんて、焼いたことないし、第一そんな食わないし。ちょっと、一人で盛り上がるなって。あんたの友達の中の誰かと、もしくはその他、恋人の中の誰かと混合してるって。
本当に大雑把なやつだ。あんたは。
「私の親、普通の会社員なんだけど」
そう言ったあと、一瞬浩の顔から、さぁっと血の気が引いて、あ、これはその他恋人の方と混合してたんだと気付いて、俯いて黙々と平たいハンバーガーをかじった。
「わり。あぁ、裕貴と間違ったんだ。トシかな?あいつん家はバイク屋だったか」
裕貴、トシと、知らない名前が浩の厚い唇からぽろぽろとこぼれ落ちてくる。もしかしたら、女の名前なのかもしれない。裕貴は有紀で、トシは登志子とかいう名前なのかもしれない、なんて色々疑っている私。そして、ふっと息を吐いて、遠くを見る。こんな疑ったって、心すさむだけだって、しょうもない涙が出てくるだけだって。
そうやって、いつも私は、炭酸飲料みたいに、次々と湧きあがってくる多種の感情のあぶくを、一気に潰していくのだ。
「私の家、居心地悪いんだよね。親と一緒だと色々守らなければならない事とかあるし。そうやって、いいつけに従う子供に戻るのが嫌なんだ」
「え?あぁ、門限あるんだっけ」
「そう。泊りも禁止だし。お酒も飲んじゃ駄目だし。寝る時間は11時前って決まりもあるし」
規律の項目を並べ数えて、改めてうんざりした。一体なんのために、私の親はこんな家庭の法律を、一人の子に与えたのだろう。そんな修道女みたいな生活を我が子に施してやる事で、心も清純な淑女になるとでも思ったのか。その割には、お風呂からあがった時に裸で辺りをうろつき歩いたり、アイドルゴシップ雑誌を買い込んだり、ケータイゲームに熱中したりという自分達の俗的な行為を改めないのはなぜなのか。段々教育方法が雑な気がしてきた。
「交渉すれば?もう瑞穂もガキじゃないんだし。自分で考えて自分を律することもできるだろ?そんなに親に縛られる必要ないじゃん」
そうなんだけど。
急に浩が大人びて見える。きっと浩は『反抗期』という名目で、親と自分との距離間についての論議を思春期の内に済まし終えたのだ。ぼうっと思春期を呑気に終わらせた自分がふがいなくて情けない。
「瑞穂はさぁ」
と言って、浩は、じろっと私の顔を眺める。全く凹凸がないと言っていいほどの、のっぺりとした私の顔を、浩の視線が、目玉の白い部分さえも、丁寧に撫でまわすように見つめてくるので、実に嫌な感じがして私は眉を寄せて、目を伏せた。
「なんつーか、繭みたいだよな」
は、と口から息音とともに間抜けな声が出てくる。
「お蚕さんが吐く白い糸あんだろ?それで作られた楕円形の巣みたいなのあんじゃん?あれ」
浩はそう言ったあと、くわっと口を大きく開けて、欠伸をした。ピンク色の舌の奥に、小さな喉ちんこがぶらさがっているのがはっきりと見えた。

浩は私のことをどう思っているのだろうか。繭のような女と一緒に手をつないで、ブティックを回って、回転鮨屋に行って、居酒屋行って、しめにホテルに向かうまでの心情はどういうものなのか。
知りたいと思う気もするけど、あまり深く考えない。考えない、考えない。
ただ、私の体の上で動いている浩の腕を握って、まぶたをぎゅっと閉じて、声を殺しながら、単調だけど救われないような日が流れるのを待っている。
私達の恋愛は健康的じゃない。本質的なものではない。
気がつくと時計を気にしてたり、お互いの顔をじっと見つめあうのを避けたり、自分と相手の心の中を開けないようにしている。無意識に、たまに恣意的に。
時に任せ過ぎて、今に決着をつけようとしないから、だらだらだらだらっと関係が細く長く伸びてる。割り箸についた水あめをぐるぐると巻いたりひいたりしているみたいに、甘ったるい粘着性のある糸が私と浩の間を結んで、近づいたり離れたりしている内に、どんどんお互いの関係の中に空気の粒が入り込み、白く濁っていく。

ごろんと浩の巨体が私の体の隣に転がった。私は毛布を引き寄せて、浩に背を向ける。二人の不安定な呼吸音が、静かな部屋の壁の隅々に跳ね返って響く。
「なぁ」
と、浩が私の背ではなく、天井の方へと声をあげる。
「瑞穂さ、なんでなんにも言わないの」
「なにか言った方がいいの。お腹の肉が増えたねとか言った方がいいの」
「そうじゃなくてさ」
私の毛布が引っ張られる。浩が身を寄せて、私の背にぺったりと体をくっつける。首の後ろに、鼻先が触れて、離れて、次に額があてられる。浩は、ぐりぐりと額を私の肩にあてて、うーん、と唸った。

「なんか、お前無理してるだろ」

珍しくこもった声で言うので、私は聞こえないふりをして、毛布をさらに自分の口元まで引き寄せて、おやすみ、と言って瞼を閉じた。

初めに好きだと言ったのは、どちらからという質問をよく私の友達から言われるけど、お互いに好きだと言った記憶はない。いつも、同じ講義を取っていて、やる気のなかった私達は一番後ろの廊下側の隅っこの席に座って、いつの間にか挨拶をするような仲になり、どちらかが教科書を忘れた時は一緒に見たり、欠席した時にはノートを貸してあげたりした。そうした事が積み重なって、連絡を取り合うようになり、大学の近くのインド料理屋に寄るようになり、映画を見るようになり、遊園地に行くようになり、いつの間にか手をつなぐようになった。
キスしたいんだけど、と、浩の部屋に初めて行った時言われて、それって恋人たちがするもんでしょうと返したら、俺らって付き合ってるんじゃないの?と言われ、そうだっけ、と考えているすきに、浩の唇が私の唇に触れていた。
上手くも下手でもない、キスをされている内に、次第に私は浩のことを好きになるのかもしれないという甘い予感を覚えた。それからというもの、浩の後について回り、腕組んだり、たまに好きだよ、ずっと一緒にいたいと思ってるよ、という恋人らしいセリフを口にしたり。そういう事をして、返ってくる浩のはにかんだ表情に胸をきゅんと鳴らしたりした。

だけど今は、初めの「きゅん」の10分の1すら胸に響いてこないのだから、私は段々冷めていってるのかもしれない。それは、浩も同じことだと思う。私を「きゅん」とさせる表情も仕草も声色も今では初めの10分の1より下回っている。


「先輩、冷めたなら冷めたって言えばいいじゃないですか。そんなにその男にすがりつく必要、あるんですか」
しれっとした口調で、貴一君は言う。貴一君とは、私の所属している「アジア研究会」というサークルの後輩であり、退部した今も度々顔を合わせては話しをする。彼は度が強い黒ぶちの眼鏡をかけていて、そのせいか瞳が小さく見える。その瞳を据えて、私を見る。
「今度言うよ」
貴一君は、本棚からを数冊取り出して、めくりながら。
「言うよ、って言って、いつも言わないじゃないですか、先輩。意志薄弱です」
私は、しゃがんで、下の段の東洋史書の題目をつつつと指先でなぞる。
「貴一君だって、元カノとどうなってんの」
「先輩には関係ない」
「だったら、貴一君にも私の事なんて関係ない」
上から、落ちてくる冷たい視線に気づかないふりをして、適当に目の前の本を拾った。
「そうですね」
そう言って、貴一君は私の背を通り過ぎて、図書室を出て行った。
我ながら大人げなかったかな、と思いながら濃い息を吐く。濃い息を吐いた後に途方もない気持ちになり、顔を見上げて、あぁ、と頬を両手で挟んで小さく呟いた。


次、いつ会えるの、と電話で浩に尋ねるとごにょごにょ、もそもそと何かを喋った後、ごめんという声が返ってきた。
「ゼミで飲み会あるんだ。俺のゼミ、皆内定決まったからさ」
「浩のゼミ、優秀なんだね」
なんだか厭味ったらしい口調になってしまった。
「瑞穂、お前ひがむなよ。皆好きな仕事に決まったわけじゃないし。ネット内ではブラックと噂されている企業に就くやつだっているし。本店が愛知にあるから途中から飛ばされるかもしれないやつだっているんだし。俺のゼミ生だって色々大変なんだって」
鼻から息を吐く音が聞こえる。
「なら、いつ会えるの」
黙る浩に、おい、と心の中で突っ込みを入れる私。本当は会いたくもないんじゃないの、と言いたい私。本当は他の女の子と一緒に遊んでいた方が楽しいんじゃないの、と言いたい私。だけど、言ってしまったら負けてしまう気がして、全てを飲み込む私。
「ごめん、わかんない」
そう言われて、ふと目の前が薄暗くなった。震える唇から、そう、わかったら連絡して、と掠れる声で、無理やり締めくくって、電話を切った。

お互いに、わかっている。無理だって、これ以上続けることは。

大学の駐輪場で、自転車に鍵を差しこむのに手間取っていたら、後ろから、あ、と声がして振り向くと貴一君の姿があった。高い所から白い灯りが注がれるけれど、鬱蒼とした山に囲まれているこの土地では慰め程度であり、辺りは依然として濃密に暗くて、薄く細い貴一君はその背景に同化しそうなくらい、夜の影に負けていた。
「先輩、何がちゃがちゃやってるんですか」
「鍵が」
「壊れたんですか」
私は、貴一君に鍵を差しだした。貴一君は暫く寄り目になるくらいその鍵を眺めていた。代わりに差して、と言うまで貴一君はぼうっとしていた。貴一君はいとも簡単に鍵穴に鍵を差しこみ、回した。
「なに、どこも壊れてないじゃないですか」
貴一君は首をひねり、私を見上げた。私は貴一君の事をじっと眺めていた。この子ならいくらでも眺めていられるのが不思議でならなかった。
「どうしたんですか、先輩」
もし、私が貴一君の胸に顔を寄せて、細い腰回りを抱いて、ずっとこうしていたいの、なんて言ったら、どういう反応をしてくれるだろうか、等と変なことまで考えてしまっていた。
「いや、なんでもない。私、疲れちゃって」
「家に帰ったら、ビタミンを沢山取って、さっさと寝てください。では」
そう言って、貴一君は、自転車を押して去ろうとした。あまりに、冷たい態度だったので、私はちょっと!と貴一君を呼びとめてしまった。貴一君は立ち止まり、振り向き、もさもさのモップのような黒髪の頭を掻いて、
「なんですか。はっきり言ってください。先輩いつもそうやって、もごもごもごハムスターみたいに口の中に重要な言葉を詰めたままじゃないですか。出し惜しみせずに言ってください」
ほうっと顔が熱くなった。そんな風に年下の子に見られていたのなんて、少し恥ずかしかった。けど、いつも見てないようで私をちゃんと見ていてくれた、その貴一君のクールな優しさがありがたかった。

貴一君と私は、大学の近くのインド料理屋に入った。よく浩と行ったことのあるお店だ。
夜遅いということもあり、人の入りは少なく、私と貴一君は奥の方の壁に面して設置されてあるテーブルに横に並んで座った。
「貴一君、辛いもの大丈夫?」
「お店に入ってから、その質問は遅くないですか。好きでも嫌いでも食いますから、大丈夫です」
本当は嫌いなのだろうか、と一瞬思ったけど、きょろきょろ店内を見渡す彼の顔が心なしか、うきうきしている様子だったので、私は気にせず、注文をした。
「店員さん皆インド人なんですね」
「そうなの。彫り深いよね」
「瑞穂さんを見てから、店員さん見ると、変な感じしますね」
そういう貴一君の背中をぱしんと軽く叩いた。
「怒らないでくださいよ。悪意あって言ったわけじゃない。俺、濃い顔よりも瑞穂さんみたいな、やすりで100回くらい擦った顔の方が好きですよ」
褒め言葉には到底聞こえない表現だったけど、とりあえず、ひそめた眉を元に戻した。
ナンと銀色の器に入ったカレー、そして豆のスープが運ばれて、私達は二人とも同じく背を丸めてかぶりついた。傍からみたら、ただの貧乏カップルのように見えるだろう。
辛っと貴一君が、口を大きく開けて、舌を出し、コップの水をぐいぐいと飲む。その横から、私は貴一君に言う。
「私たち、もう駄目みたい」
貴一君は、ナプキンを口元にあてて、小さな瞳を丸くして、こちらを見る。
「浩、もう会えないみたい」
「良かったじゃないですか」
手に持ってたナンを無理やり口の中に押し込む。奥の方まで押しこんだわけではないのに、急に喉が詰まって、涙が出てくる。
「正直、そういう男、縁切った方がいいですよ。自分のために」
そういう男って、貴一君は浩のことをどれくらい知っているのか。少し、かちんときた。
「瑞穂さん以外の女いるって時点でなめられてますよ。その男に」
くぅっと怒りがこみあげてきて、それが涙に変わり、ぽろぽろと頬を転がっていった。塩っ辛い滴達が歪んで震える唇を濡らしていく。貴一君が、その私に気づき、あーあ、という面倒くさい表情をして、リュックのポケットからティッシュとハンカチを取り出して、私のテーブルの前に出した。
「泣く程の男でもないでしょう」
「浩のために泣いたわけじゃない。アホな自分のために泣いてるの」
「はぁ、そうですか」
力なく貴一君は、笑って、ズボンのポケットから煙草の箱とライターを取り出してきて、私に気兼ねなく、一本吸った。まだ器には、カレーが残っている。
「煙草吸う人、私嫌い」
ちっとも慰めてくれないことに対する負け惜しみのように、厭味ったらしく言う。
貴一君はお構いなしに、ぷかぷか煙をふかしている。けほっけほっと大げさにせき込んで見せても、貴一君は、ぼんやりとした目をクリーム色の壁にむけながら、口に煙草をくわえている。女の子に好かれたいとか、微塵にも思っていないこの態度、むかつくけど、嫌いにはなれない。むしろ、好きだ。
「男の人は、女一人では足りないんでしょう」
「そんな名言吐いたの誰ですか。どこの国の大統領ですか」
「なんとなく、自分の中でそう思っていたの」
貴一君は、はっと息で笑って、私を上から見下ろした。
「だから彼氏さんの事、許していたんですか。先輩、人が良いのはいいけど、ストレス溜まりませんか、そういう考え」
だって、と言いかけて、口を噤んだ。
「貴一君はどうなの、元カノ」
避けられると思ったけれど、聞いてみた。同じく痛みを持って欲しいと思って聞いてみた。すごい嫌な人間だなと思うけれど、彼を私と同じ惨めな位置に立たせたかった。
「前と変わりません」
「元カノとやってるの?まだ」
こちらに虚ろな瞳を向けた。それを聞いてどうする、という軽い非難めいた瞳をしていた。ちりちりと先端が焼けて灰になってくる煙草を、灰皿に押し付けて、はい、やってますよ、と低い声で答えた。なんとも言えない空しさと悲しさが私の胸を押して、貴一君の方が、私の悲しみよりも深い気がして、思わずまた涙が出て来た。

アホだ、私達。

外を出ると、もう冬の匂いがした。乾いた風が、頬を切るように走り、思わず寒くて、貴一君の肩と腕にしがみついた。やめてくださいよ、もう、と、うっとおしそうに貴一君は私のことを払い、それでもしつこく絡んでくる私の腕と手と根性に負けて、貴一君は私の腕に自分の腕を素直に絡ませた。
「ありがとう」
と呟いたら、貴一君は藍色の空に浮かぶ孤高の満月の方に目をやって。
「身も心も寒いのはお互い様ですから」
と、意味を考えるとさらに惨めになることを言った。
貴一君、と呼びかけて、貴一君は振り向いた。口角が自然と上がっていて、少し余裕のあるすっきりした表情だった。
「元カノの事好きなら、好きって言ったらいいじゃん」
貴一君は、鼻先で笑って、また夜空の方を向いた。
「彼氏いるなんて関係ないよ。奪っちゃいなよ。君ならできるよ」
悪魔のような囁きが、貴一君の今の立場に置いて、正当だと思えてしまった。

「昔ほどあいつのこと好きじゃないから、それはできませんよ」

無表情な貴一君の横顔を、私は熱くなった目で、じっと眺めていた。どんなに眺めていても、貴一君の感情を読み取ることができなかった。


言いだし始めたら意外と簡単に解決することは、いくらでもある。

例えば、読みたい本の前に佇んでいる人に、すみませんとひと声をかければ、よけてくれて解決する。ところが私は、すみません、その一言が言えずに胸に秘めたまま、佇んでいる人の後ろに亡霊のように佇み、相手がよけるまで待っている。相手がそのまま気付かずに通りすぎてくれれば幸いだけど、背後の視線に気づき振り向いた相手が私に驚き、すみません、と申し訳なく言って立ち去る時は、なんとも言えない自己嫌悪に陥る。
それは今の状況に、すごく似ている。
本屋に寄って、文庫本を数冊買った後、エスカレーターで降りようとした私は、目の前の下の段に、およそ186cmくらいの巨大な男が立っているのに気付いた。浩、と声をかけようとする前に、隣にミルクティー色の髪の毛を巻いた女の子が立っているのに気付き、目線をもっと下の方へ降ろしていくと、手がつながれているのがわかり、軽いめまいを覚えた。
すぐに引き返そうと思ったけど、彼女の方が先に振り向き私と目が合い、暫く金縛り状態で体を固くしていたら、彼女が怪訝そうな表情を見せた。どうした?と浩が呟いて、私の方を向いて、目があった。その時の浩の顔を一生忘れることはないだろう。ぱかっと口を開いて、すごく間抜けな顔をしていて、どんぐりのような大きな黒い瞳がバタフライくらいの激しさで白目の中を泳いでいた。
私は、背を向け、下降する段に逆らって、上に昇っていった。心臓が体の全てを乗っ取ったように、ジンジンと痛いくらいに鼓動が暴れ、麻痺しかけた全身を響かせた。
閉まりそうになる、エレベーターに慌てて駆けよって、滑りこむように中に入った。呼吸音と心音に交って、鞄の中でケータイが振動した。触り、取り出すと、浩からの着信だった。私は、電源を切って、エレベーターが下まで降りてくるのを真上の数字が点滅するのを眺めながら、祈るような心地で待っていた。

家に帰りケータイを開くと、メールが入ってあった。

Fm:浩
Sub:Re:
ごめん、瑞穂。
話したいので、電話下さい。待ってます。

話すことなんて、ないでしょ。あっても一つしかないでしょ。
あぁ、と声をあげて私は畳の上に敷いたカーペットにごろんと転がった。テーブルの上には、電話を待っている浩(ケータイ)がいる。
何がそんなに私は嫌なのだろう。浩のこと、そんな好きでないはずなのに、なぜ別れを切り出すのが惜しいのだろう。
きっと、浩は私にとって、保険のようなものだったのかもしれない。寂しい時、側にいる人、将来、共にいてくれる人、自分でも好きになれない自分を好きでいてくれる人。その人が、浩だった、というだけだったのかもしれない。
それはきっと、浩にも伝わっている。だから跳ね返ってくる。恋人とは、友達とは、関係してくる人とは、全て自分を映す鏡のようだと思った。

浩に電話をする前に、思わず貴一君の電話番号を探してかけた。
「はい、なんすか」
ついさっきまで寝ていたような鼻声だった。
「ねぇ、とうとう私達終わるかもしれない」
はぁ、と貴一君は呟いて、ひとつ間を置き、良かったじゃないですか、と生欠伸をしながら答えた。
「怖いよ、貴一君」
涙声で、すがるように言う。貴一君は、へぇ、そうですか、と面倒くさそうに、のんびりと相槌を打って、ちっともこちらの逼迫とした心情が伝わっていないようである。悔しくて、出てくる涙を拭き、鼻水を、すすりあげる。
「だって先輩。このままずるずる引っ張っていたって碌なことないですよ。俺みたいに」
そう言って、ちょっと口を噤み、また続けて。
「離れなくなったら、どうするんですか」
私は黙った。貴一君の後ろで、猫の鳴き声のような甘い声がして、一瞬ひやっとした。彼の背後に女の子がいるような気がして、ケータイを持つ手が震えた。
「貴一君、どうしたら」
「それは、先輩が決めてください。俺が決めることじゃないでしょ」
全く、どんな状況でも、正しい事をそっけなく言う貴一君を恨めしく思った。

体に血が通っていない気がする。いつも待ち合わせしているコンビニの前で、浩を待ちながら、ふとそう感じた。手が冷たく痺れて、うまく動かない。
目の前に、浩が現れた時、私は可哀相な気持ちになった。あまりに浩の顔色が悪くて、いつも綺麗にセットしてある髪の毛もぺしゃんこになっているし、目は落ちくぼんでいるし、唇も渇いていて、色も薄かった。このまま道の真ん中で倒れて死んでしまうのではないかとも、思った。
「どこで話そうか」
いつものように、決められない浩は、私にそう聞いた。私は、歩きながら、話そうという提案をしたら、浩は何も反論せず、震えるように頷き、前へと長い足を運ばせた。
商店街で囲まれた道を歩きながら、長く続く沈黙をお互いに共有し合った。浩から話しを切りだしてくれると頼ってずっと黙っていたけれど、どこまでも続く無言に耐えきれずに、私から切りだした。
「ねぇ、浩」
浩はびくっと肩を上げて、こちらを怯えた目で見た。あまりに情けない表情だったので、失望に似た感情で、次につなぐ言葉を失いそうになった。
「好きな人、いるの」
浩は、唇を震わせて、ぱくぱくと口を動かし、ただ空気を噛んでいるだけで、何も言うことができなかった。
「いいよ、私傷つかないから。正直に、言っても」
「好きというか、あれは遊びだよ」
「他にも、いるんでしょう」
顔を背けて、浩は、沈んでいく太陽を眩しそうに目を細めて見ていた。私は、感傷的なオレンジ色に染め上がった商店街を、途方もない気持ちでぼんやりと見ていた。
「本当は前から、知ってたんだろ。お前」
下を向いて、浩は言った。まるで子供みたいな言い方だった。
「私が知っていることを知っていたの」
「馬鹿にすんなよ、俺を。態度でわかるよ。俺がケータイ持つ時の瑞穂の視線の冷たさっていったら」
ひとつ間を置いて、私の方を見て、申し訳なさそうに、「酷かった」と呟いた。
「俺だって辛かったんだって」
浩は、言い訳を、続ける。
「だって、お前、冷めてるんだもん。何をしてやっても、ちっとも嬉しそうな顔をしないし、強張っていて、無理していて。一緒にいて辛かった。俺、そんなにつまんない男なのかって」
驚いて、浩の顔を見た。浩は、俯いたまま、何度も乾いた唇を舌で舐めた。私は浩の横顔を見ながら、浩といた記憶をたどる。そんなに、無理していたんだろうか、浩の横にいる私は。
「瑞穂は、どうなんだよ」
不意に、浩は言う。お前だって、俺にやましいことの一つや二つはあるだろうと言いたげな顔を私の方に見せる。どうって、と言って、私は言葉が続かない。私の心情を語っているように、足元の影は、ぐんぐん薄く細く伸びていく。けれど、決して浩の影とは重ならない。
「お前、サークルの仲間の方が、気が楽なんだろ」
ぽつんと言った浩の声は、周りの人混みの中に消えて行く。私と浩の間に、おばさん二人が入り寄り、何か得にも損にもならない事をくっちゃべって、またすっと抜けて行った。
「どうしてそう思うの」
「わかるよ。俺。結構お前を見てきたんだから」
「そうやって、私の方に話しを向けて、浩、自分の事を話すのを避けてる?」
「面倒くせえな、そんなんじゃねぇよ。瑞穂だって答えてよ」
鼻から、ふうっと薄い息が出てくる。サークルの皆のことを思う。貴一君のことを思う。彼らへの愛を思う。愛という感情の第二層まで入りこんで、それ以上深く考えたくなくて、厚く重い蓋をして閉じる。
「楽かもしれない」
曖昧だけど、正直に、言ってみた。浩は、俯いたまま、歩幅が狭くなって、段々私の後ろに遅れて歩いている。ショックだったみたいだ。
「浩だって、その子の方が楽なんでしょう」
振り向き、乾いた声で言う。
「あぁ、そうだよ」
「私よりも好きなんでしょう」
「それはわからねぇよ」
「なんで」
「わかんないから、言いようがないよ」
次第に浩の声が小さくなり、肩は落ちて、頭は垂れ、このまま浩の体が溶けて、影の中に吸い込まれていきそうなくらい、頼りない男に見えた。
「好きだったよ、お前のこと」
何を今さら、と思いながら、私は笑い、悲しくなり少し寂しくもなる。
「嘘じゃないよ。好きだったよ、瑞穂の顔も、声も、手も、少しの仕草も、全部、好きだったよ」
 本気で言ってるんだろうか、それともこのまま、私を引きとめたいから、空しい駆け引きを続けようと思っているのだろうか。どっちにしろ、今の浩は惨めすぎて、どんな甘い言葉を言われても一瞬の胸のときめきさえ、鳴ることはない。
 だけど、と言って、浩は少し顔を上げて、充血した赤い目をこちらにむけた。泣くのなら、浮気とかすんな、馬鹿。

「お前は、好きじゃないだろう?俺のこと。お前のことを見ていると、真綿でじわじわと首を絞められるような心地がして、すっげぇ気持ち悪いんだよ。嫌いなら嫌いってはっきりと言えよ」

 それっきり、私と浩は別れた。すっきりした別れじゃないけど、切りがついた気がした。私の心の中で、不思議なわだかまりができた。不器用だったのだ、と思った。浩も私も。
 一体、私が浩を好きではないって、なんで浩は思うのだろう。嫌いだなんて、思うのだろう。
ちょっとした疲れた顔とか、忙しくて取れなかった電話とか、やたら増えて行く記念日を覚えられなかったとか、そういうのから、好きとか嫌いとか、判断されて、判断して、本当馬鹿馬鹿しくて。全くもって、私達、不器用で。
 好きって言えるくせに、嫌いって言えなくて。愛してても、嫌いって感情抱く時だってあるのに、嫌いって、別に傷つけることだけにある言葉でもないのに。嫌な感情を溜めちゃって、溜めちゃって、喧嘩することすらできなくて。本当、私達不器用だ。アホだ。
 
あいつのこと好きだったのに、アホだ、私。 

 大学のキャリアセンターで、おじさんと私の全くもって出口がみえない進路について、相談したら、途中で横道にそれてしまい、世間話に花を咲かせて延々と談話していた日のこと。
キャリアセンターの入り口の所の企業情報パンフを眺めていたら、後ろに何やら、陰鬱な影の気配がして、振り向いたら、貴一君が悄然と立っていた。
「どうしたの、貴一君」
「え、普通に進路相談ですよ」
「そんな風には見えないくらい、背に霊しょってるよ」
貴一君は、顔を上げて、前髪をくしゃくしゃっと掻いて。
「振られただけです、ただ単に」
元カノ?とこしょっと、貴一君の側に寄って、囁いたら、貴一君は小さく頷いた。
「第3の男ができたそうです。あらゆる立場に置いて、その男の方が俺より優位なので、俺はもう必要ないらしいです。きっぱり言われて、なんにも言い返せなかった」
「良かったじゃない。すっきりして」
そう笑って言ったら、貴一君は悔しそうにくぅっと押しつぶした声を出した。
「先輩」
「なに」
「嫌いです」
あはっと笑って、貴一君の頭を撫で撫でしてやったら、益々貴一君は顔を歪めて、私を睨んだ。そして、
「嫌いだから、この前のインド料理より高くて辛くて上手い飯、奢ってください」
と、辛い約束がつながれた。
受付の人から貴一君の名前が呼ばれて、貴一君は私に礼もせずに、手も振らずに、相談口の方へ歩いていった。
私は、鞄の中の財布を取り出し、中身を確認して、貴一君にメールで、「全部奢れないけど、3割は私が持ってあげる」などと、面倒くさいことを打ちこんで、軽い足取りで大学の外に出た。外の空は澄んだきれいな青、嫌いではない始まりの青。ふうっと洩らした息が白くて、もうそろそろ、きりっとした新しい冬が目の前に現れることを予感する。下手くそな私達に、まんべんなく現れる予感がする。そんな、予感がする。

嫌いっていえば?

当時の私は、リアルさを出したかったんだと思います。

嫌いっていえば?

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-09-22

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