雨のち晴れ、ところにより人々

 市街地の道路に沿って葉桜が延々と続く。とどのつまり、それらは重力に逆らえず、ゆらゆらと舞い落ちる。
 視界に映っていた人々が慌ただしく走りはじめた。どうやら雨が降り始めたらしい。肩に触れるとすでにぐっしょりと濡れていた。雨粒は大きく生ぬるさを感じる。
弟の待つ保育園まで少し距離があった。ずぶ濡れの状態で迎えに行くことに少しだけ引け目を感じた。傘を買うべきかどうか迷ったが、目の先にコンビニがあったのでやむなく買うことに決めた。
 道路の向こう側に、ビルに併設されたコンビニはあった。歩道橋を渡らなければならない。足もとに気をつけながら階段を上ると、歩道橋の中心に人が群がっているのが見える。彼らは携帯を天にかざしながら歓声をあげていた。雨脚が早くなったので先を急いだ。
 傘は残りわずかしかなかった。安いビニール傘と高価な黒い傘の二者択一。すると背の高い女性がビニール傘の残りの一つを手にとった。黒い傘がすがるように僕を見つめていたので、しかたなくそれを手にすることにした。レジに目を向けると傘を買う人であふれかえっている。列に並ぶことが煩わしかったので、立ち読みをして時間をつぶすことにした。適当に雑誌を広げると、得体の知れない評論家が話題の時事問題に苦言を呈している。単純な問題でさえ、難しく捉えて提示する。庶民からそれらを切り離すことが彼らの仕事なのだろうか。
 ガラス越しに外の様子を確認してみたが、一向に雨は止む気配を見せず、一定のリズムで降り続いていた。
 外がやけに騒がしくなった。先ほどの連中がその原因らしい。若干人数が増えているように思える。雨に濡れながら、彼らは浴びるように酒を飲んでいた。酒瓶を回し飲みする様がなにかの儀式に思えた。はっきりとは聞こえなかったが「飛び降りろ、飛び降りろ」と叫んでいた。
 先ほどと同様、このビルの屋上に向かって携帯を構える姿が窺える。そして歩道橋にいた若者が店内で暴れ始めた。誘発されたように奇声を発している。店員は対処に困りながらあたふたしていた。マニュアルがない彼らは生きる屍と同然である。
 不意に胸倉をつかまれた。集団の一人に違いない。二十代後半の男性だった。彼は息を荒げながら僕を睨みつける。視線を逸らしつつ、彼らと関わりたくないという一心で僕は抵抗した。彼の呼吸は乱れ、酒臭い息が鼻を突く。
「芸術だよ。これから芸術になるんだ」
 自らの緊張感を高めるように彼はそういった。不安と恐怖で声を発することができない。
 彼は首を振り周りの様子を確認する。すると店の外から仲間の一人が彼を呼んでいる声が聞こえた。彼は手で合図を送る。そして強引に僕を壁際に押し付けた。背中のある一点に激痛が走る。原因は背後のトイレに設置されたドアノブに違いない。ひどく痛む。
 これ以上の痛みが僕を待ち受けていると思うと、平常心でいられなくなった。殴られるのか蹴られるのか、はたまた隠しているナイフで刺されるのか。恐ろしくて、思わず目を閉じる。
 不意に白く粘り気のない液体が頬を伝う。そして男は僕を睨みつけ、悪声を発しながら走り去った。
 頬を袖で拭い、それが何か確認する。飛んできたのは唾だった。その唾の状態から、彼が緊張していることは明らかだった。結局、ドアノブの痛みしか残らなかった。
 一瞬の出来事だった。孤立無援の中、平然を装うことでいっぱいだった。ただ、彼に対して余憤は残らなかった。なんとなくだが、これから起こりうることが予測できたからだ。すでに彼に同情しているのかもしれない。
 これ以上長居すると、害を被るのは時間の問題なので傘をあきらめた。最短距離をとり、店をあとにする。
 店を出て、すぐ横に設置してある傘置きが目に留まった。同じようなビニール傘が数本あるので、無断で借用してもばれはしないだろう、とよこしまな気持ちを抱く。少しばかりの罪悪感にさいなまれながら、周りの様子を確認して、すっと手を伸ばした。
 その時、怒号のような歓声が上がった。彼らのほうに目を向けると、ビルの屋上に向かって歓声を上げ、狂喜乱舞している。手を合わせ、ありがたそうに拝んでいる奴までいた。彼らの視線の先にいる集団を崇拝しているようだった。
 つかみかけた傘を放す。もうどうでもよくなった。流れるように僕は歩みを始める。このような現象がいつまで続くのか見当もつかない。
 不意に背中越しになにかを感じた。そして鈍い音が響く。震動がアスファルトを伝わり、地面に触れている方の足に届いた。歩道橋から悲鳴に似た歓声が上がる。飛び降りろ、飛び降りろと彼らはコールしている。
 そしてまた鈍い音が響いた。重なるように鈍い音は続く。
 振り返り、音のする方に視線を向けると惨たらしい死体が三つころがっていた。即死だったろう。真っ赤な血は車道にまで流れ、車が通過するたびにさらに飛び散っている。そのうちの一人は先ほど胸倉をつかんできた男だった。片方の目玉は正常な位置にはなく、数メートル先から悲しそうに彼を見つめていた。
 歩道橋にいる一部の集団がビルに向かっていく姿が見えた。それに対して、また歓声が上がっていた。僕は踵を返し、歩みを再開させた。
 雨が少しだけ強くなった気がする。冷たくも感じた。そして鈍い音とともに、また大きな歓声があがった。今聞こえたのは雨の音か、血の飛び散った音か、僕には見当もつかなかった。
 

 雲の隙間から細い光が射し、保育園の運動場にできた水たまりをきれいに照らしていた。雨の中を園児が走りまわっていたことが、運動場に散らばる無数の足跡から窺うことができた。
 先ほどの惨事がうそのように、ここは静かだった。日本にも安らげる場所がまだあったのだ。この瞬間にも、どこかで誰かが死んでいると思うと気持ちは落ち着かなかった。
「遅いよ、兄ちゃん」
 待ちくたびれた様子で大介がかけてくる。砂場で遊んでいたのか、爪の中は黒く汚れていた。その手で目を擦ろうとしたので、僕は軽く注意する。大介はふてくされた顔をしたが、すぐに笑った。
 教室から薄化粧の女性が現れた。「みえこ」という名札を胸に付けている。大介がいつも話す保母さんに違いない。お世辞にも美人とは言えないが魅力的な女性だ。フェロモンのかわりに母性が溢れているようなのだ。
 早々に大介の迎えが遅れたことを謝罪した。すると、穏やかな笑みをこぼして、「気にしないでください」といった。そして、少し真剣な表情をこちらに向けて、次のように話した。
「少しだけ話があるのですが、お時間はよろしいですか」彼女は遠慮がちに言った。       
 僕は小さくうなずいて、大介に少しだけ遊んでいるように告げる。大体の内容は見当がついた。先日から大介の様子がおかしいのだ。食欲がなく、元気がなかった。トイレにこもり、ひとりで泣いていることもあった。大介の空虚な笑顔を見るたびに胸が痛んだ。
 みえこという女性は言葉を選びながら大介の園内での様子について話した。「彼を見ていると本当につらいの、でも彼はもっとつらいはずよ」と彼女はしきりにいった。「まだ両親の自殺について話してないんですよね」
 僕が小さく頷くと、彼女は続けた。
「園児たちは親の話に関心がないようで聞いていることがあるんです。それで、ある園児があのことを知ってしまい、幾分いろんなことに興味のある年頃ですから、面白半分で大介君に話してしまったんです。私たちは不覚にも何もできず、否定し続ける大介君を見守ることしかできませんでした。それ以来、大介君は……」
 そういって、彼女は涙を浮かべた。彼女なりに大介のことを心配してくれているようだった。
「大介には今日話すつもりです。それでいいのかはわかりませんが」
 彼女は、お願いします、と二度った。そして細い涙が頬を伝う。
 彼女は大介を呼んだ。そして大介に黄色い帽子をかぶせて、さようなら、と子守唄のようにささやいた。
 みえこ先生さようなら、と大介は手を振る。僕は頭を下げて、保育園をあとにした。
 突然雨が降り出した。家まで少し距離があるので僕は大介を背負い走った。一瞬光が視界をふさぎ、数秒後けたたましい音が響いた。大介はかみなりが苦手だった。家に着くまで僕の背中に顔をうずめていた。
 その間、二つの死体が路肩に転がっていた。そしてビルの屋上から四人ものひとが飛び降り、タイミングよくかみなりの音と重なった。大介は背中に飛び散った血に気づいていないようだった。

 
 日本各地で飛び降り自殺が起こり始めたのは心地よい春先のことだった。
 朝のラッシュでごった返すオフィス街に、前触れもなく、ビルの屋上から人が飛び降りた。無地のTシャツにジーンズをはいた若い男だった。路肩に止めた乗用車のフロントガラスに彼は落下した。一瞬にして無地のTシャツは真っ赤に染まった。いたたましい光景に目撃者は身を震わせ、ガラクタに変わり果てた男性を同情した。
 初めは単なる自殺と思われた。しかし飛び降り自殺は後を絶たず、にわかに増加していった。
 度重なる自殺には一つの共通点が存在した。それはある芸術家を尊敬していることである。そこから連鎖自殺と判断された。とある専門家は「ウェルテル効果でしょうな。つまり模倣したり後追い自殺をすることによって、その芸術家に近づきたいのでしょう。ふんっ、くだらん」と得意げに語っていた。
 この現象をマスコミが見過ごすわけがない。自殺者の遺族に取材陣は殺到した。報道陣の前で泣きながら訴えるものや、取材等を拒否するもの。またテレビやインターネットでは様々な憶測が飛び交った。これらの問題を取り上げたことによって、さらに飛び降り自殺は脚光を浴びることになる。
 マスコミを介してこれらの行為を美徳と主張し始めるものも現れだした。その発言は連鎖自殺やウェルテル効果を一掃するものだった。ある者はこのように語った。
「彼らのとった行動を僕は評価しています。最高の作品に仕上がったのではないでしょうか。うらやましい限りです。美徳を感じましたね。僕も近いうちに自殺をするでしょう。もちろんビルの上から飛び降りるつもりです。作品は破壊することによって完成するんですよ」髪を肩まで伸ばした男は単調なトーンで語った。
 翌週、彼は報道陣を集めた。そこは閑静な住宅街にたたずむ廃墟と化したビルの敷地内。現場は緊張感が漂い、野次馬は高揚していた。
「いったい彼らは何をしようとしているのでしょうか」とアナウンサーは言い、カメラはビルの屋上にいる集団を捉えた。柵をこえて地面を見据えている。背景は次第に消えていき、一人の男にズームされる。髪を肩まで伸ばした例の男に違いない。
 ビルの下では警察が空気式マットを配備していた。そして彼らを興奮させない程度にスピーカーを使い説得し始める。
 警察の作戦では、彼らの気を引きつけ、その隙に裏手から屋上に向かっているようだ。難航しながらも、着実に仕事をこなしていく様に一同舌を巻いた。
 報道陣、視聴者、そして野次馬。表面的には警察を応援していたが、内心は最悪の状況を期待していた。それは怖いもの見たさでもあり、また彼らの語る芸術というものへの関心でもあった。進展しないまま、時間は経過していく。
 タイミングを見計らって、警察は屋上の扉を開けた。突然のことだった。
 集団はそれを確認すると、呼吸を整え始めた。警察は指示通りに作戦を決行する。
 だが、後一歩のところで失敗に終わった。
 次の瞬間、いっせいに彼らは足場をけった。
 そして思い思いの方向に飛び込んだ。空中で、奇声を発しているものや、瞑想しているものがいる。髪を肩まで伸ばした男はすでに気を失っているようだ。落下速度は加速する。
 地面に吸い込まれるようにぶつかっていく。そして放射するように血が飛び散る。猛獣の好みそうな攻撃的な色だった。悲鳴が上がり、僅かに歓声が聞こえた気がした。
 いくつもの死体が散乱していた。ただのアスファルトがキャンパスに変貌した瞬間だった。
 こんなもの芸術などではない、とはっきり否定できる者など誰一人いなかった。


 傾いた木造の家に雨はしみ込むように降り続いた。
 事前に風呂を沸かしていたので、帰宅してすぐ入るように大介に告げた。そのすきに大介の服を洗濯しなければならなかった。先に水洗いをして、不慣れな手つきで洗剤を入れる。家事をこなしていくうちに様になってきたが、まだ要領を得られなかった。
 水に揉まれるように衣服は泳いでいる。リズムよく回転する渦を見つめていると飲み込まれそうになった。風呂につかりカウントダウンしている大介の声も遠くに聞こえる。意識が不規則に旋回し始めた。
 父親が自殺したことを大介には黙っていることにした。どのように説明していいのかわからなかった。初めはしつこく聞いてきたが適当に相槌を打ちはぐらかしていた。大介はふてくされた顔を浮かべるが必要以上に聞いてはこなかった。心の奥を見透かされた気がした。都合のいい嘘をつくこともできたが、父親の罪深い行為がうやむやになりそうで、それだけは避けたかったのだ。
 みえこという保母さんの話では、すでに大介は知っているようである。園児の抽象的な言葉を抽象的に解釈したと想像できるが、とらえ方次第で取り返しのつかないことになりかねない。現に悪い方向に向かっている。語彙力の少ない頭で、それらを整理することは困難だろう。それでも大介は答えを見つけようとしているにちがいない。父親との思い出と照らし合わせながら、大介は葛藤しているのだ。
 父親の作業場で大介が泣いている姿を頻繁に目撃した。大介のさみしさで飽和された空間は酸素が少しだけ薄く感じた。僕にばれないように大介は膝を抱えながら震えていた。そんな時どのような言葉をかけてあげたらいいのか、よくわからないでいた。元気出せよ、泣くなよ、俺だって辛いんだぜ、といった幼稚な言葉しか浮かんでこない。
 罪悪感にさいなまれるたびに、不覚にも自殺したくなった。そうすればどれだけ楽になるだろうかと考えた。しかし、その後のことを想像すると恐ろしくて空しくなった。
「兄ちゃん、パジャマはどこ? 」
 脱水を始めている洗濯機から目を右に移すと、大介がバスタオルで頭を拭いていた。風呂場の戸を開け放しているため、洗面所は加湿されている。作り笑顔を浮かべ、タオルを渡す。大介の顔を見ると兄としてしっかりしなければならないとつくづく思う。
 インスタントラーメンを作り、質素だが夕食にした。水の分量を間違えスープが薄くなったが、大介は文句を言わずに食べてくれた。大介は保育園での話を始めた。楽しそうに脈絡のない話を広げていく。滑り台から落ちた友達の話やクレヨンを飲み込んだ女の子の話。そしてマンションの屋上から飛び降りた園児の話。その話に関しては、噂話だけどね、とつけくわえた。心臓が大きく鼓動している様を悟られないように、平常心をよそおう。勘のするどい大介は異変に気づいているかもしれない。
 大介は保育園の黄色いバックからクレヨンを取り出し絵を描き始めた。最近よく見る光景である。気を紛らわすように没頭している姿を見ると、ひどく胸が詰まる。
 大介はいつも輪郭から描く。画家である父と同じだ。お世辞にもうまいとは言えない絵だが、今にも動き出しそうで躍動感がある。
 どうやら父親を描いているらしい。なんとなく姿をイメージできるが抽象的すぎる絵である。大介の瞳から見た父親はこのように映っているのだろう。子供の描く絵こそ芸術だ、という人もいるくらいだ。これから様々な経験を経て、その感性は失われていくにちがいない。それを持続できる者が真の芸術家なのかもしれない。
 父親の絵を描き終わり、そのとなりに亡くなった母親を描き始めた。母親の背中には羽が生えていて、空を飛んでいる。あらゆる感情を殺して描かれた絵に、僕は心を打たれた。そして両親に無性に会いたくなった。
 楽しそうに絵を描いている姿を見ていると、明日への不安が少しずつ解消されていく。未来が明るく広がっていくようにも思える。しかしそのような方向に物事が発展していくことは決してないのだ。暗い闇の中でさえ、当たり前のように人は飛び降り自殺をしている。それを芸術という価値観に変えてしまった張本人はあの世で何を創造しているのだろうか。


 引き金となった原因は、芸術家の八木一郎が飛び降り自殺をしたことと深く関係している。彼が絵かきとして評価され始めた矢先のことだった。
 八木一郎が手がけた絵画の数々は、現在高額な価格で取引されている。その中でも彼の描く肖像画は高く評価され一億円をこえる作品すら存在する。決して巧いとは言えないが、妖艶かつ暴力的な彼の絵は観るものをとりこにさせた。陰気で歪な彼の絵にはどことなく愛が滲んでいる。
 八木一郎が絵を描き始めたのは大学に入ってからである。それまで筆を握ったこともなくひたすら勉学に励んでいた。なにか目標があった訳ではない。思慮分別することなく、親の敷いたレールの上を進んでいただけだった。
 大学では特定の友達を作らずに一人で行動することが多かった。協調性が欠けていることは自覚していた。仲間意識や連帯感といったたぐいが苦手だった。話しかけられたとしてもぎこちなくなり話が続かない。雰囲気や容姿が異なる彼らが、全く違う生き物に感じて仕方がなかったのだ。
 暇な時間は決まって図書館に足を運び、好きな作家の好きな作品を繰り返し読んでいた。エアコンのあたらない隅の席が気に入り、先客がいない限り愛用した。「僕が犬ならマーキングしてるね」と彼はよくひとり呟いた。ここでめくるページの乾いた音がたまらなく好きだった。
 ある日、彼は知らない女性に声をかけられた。女性と話すのは久しぶりで、思わずどぎまぎしてしまった。その女性は彼が読んでいる本とまったく同じものを手に持っていた。
 彼女は断りもなくとなりに座り軽妙に話し始めた。彼は相槌することで精一杯だった。彼女の顔を直視できずに首元に目を向けていた。
 どんな会話をしたのか、まるで覚えていなかった。ただ彼女が去る時に名前を聞くことができた。「葉子よ」と彼女は答えた。お世辞にも綺麗とは言えないその女性に八木一郎は惹かれていた。一種の錯覚のようなものなのかもしれない。これまで女性と交流する機会に恵まれなかった八木一郎にとって、十分すぎるほど異性を感じることができたからだ。ひそかに八木一郎は運命のようなものを感じていた。不思議な感覚であった。
 帰り際「またね」と彼女は言った。それに対して八木一郎は不器用に手を振った。後に、この出会いが様々な人の運命を左右することになるとは、誰も想像できなかっただろう。
 それから二人はともに行動するようになる。積極的な彼女と消極的な彼はとても相性が良かった。休日は決まって、共通の趣味である美術館に足を運んで絵画を鑑賞した。彼女には黙っていたが、美術館に足を運ぶようになったのは親の勧めだった。そんなこととはつゆ知らず、「気が合うね」と彼女はよく言った。その時ばかりは、常に気品のある物腰の彼女が子供のように浮かれていた。けだかい品位を失った彼女も彼にとっては魅力的だった。「ふーん」と頷きながら、彼女は腕を組み作品を眺める。時に涙があふれて冷たい大理石に涙を落とす。そんなとき、八木一郎は両手の人差し指と親指を重ねてフレームを作り、彼女に合わせる。それに気づいて照れる彼女がどの作品よりも美しく思えたのだ。
 彼女は美術サークルに所属していた。退屈そうな彼を無理やり誘ったのは彼女のほんの出来心だった。初めは乗り気ではなかったが、初めて描いた作品が評価されて、ついその気になってしまったのだ。それ以来、取り憑かれたように絵を描き始める。
 彼の描く作品の大半は彼女をモデルにした肖像画だった。もちろん八木一郎が彼女にお願いしたのではなく、彼女が強引に引き受けた。
「モディリアーニね。そっくりだわ」八木一郎の絵を見ながら、葉子は得意げにいった。
 疑問符を頭上に浮かべたような顔を彼は作った。
「えっ、なんだって。モディーニリ? 知らないな」
「アメデオ・モディリアーニよ。知らないの。イタリアの画家よ。『大きな帽子を被ったジャンヌ・エピィテルヌ』は傑作よ」
知らないことがばれるのを恐れ、とりあえずピカソやゴッホといった彼の知っている画家を挙げてみた。
 すると、手のひらを口に当て、彼女は嘲笑する。すべてお見通しのようである。
「おいっ、動くなよ。もうすぐ休憩にするからさ」狼狽する彼を見て、彼女はゆっくり長い髪をかきあげて、焦らした。甘い香りが風に乗る。
「あなたの絵が評価されているのは、少なからず彼のおかげよ。それほどそっくりなのよ」
「おれの絵が似ているんじゃなくて、お前がそのモデルと瓜二つなんじゃないのか」
 ふてくされた顔でぼやいた。それに対して彼女は腹を抱えて笑う。
「技術的な話をしているんじゃないのよ。同じ哀愁を感じるの」そう言って彼女は未完成の作品を覗いた。そしてうんうんと納得するように頷く。あながち彼の意見も間違っていない気がした。
 
 交際は順調に進み、自然な流れで同棲することになる。一人暮らしをしている彼女の家に転がり込む形になったので、彼は居候のような身分だった。窮屈な世間より、1DKの彼女の部屋の方がずっと広く感じた。親が高い金を出して敷いたレールより、彼女が畳の上に敷いた薄汚い布団の方がよっぽど彼を満たしてくれた。
「そろそろあれだな」と言葉を濁しながら八木一郎は切り出した。そして、葉子を両親に紹介したい、と彼は言う。「待ちくたびれたわ」と彼女は笑った。交際期間は優に一年を超えていた。
 両親に彼女がいることは告げていた。母親はそれを聞いて思いのほか祝福してくれているようだった。実家に帰るたびに彼女を紹介してくれるようにと催促された。母親の理想を知っていただけに、彼女のことを聞かれると返答に困った。母親の理想と実際の葉子はまるで対立するかのように違うものだった。
 それから数日後、葉子を両親に紹介することになった。実家に帰省するのは久しぶりで、知らぬ間に家は改装されていて、懐かしさをさほど感じなかった。
 ただいま、と玄関のドアを開けた。奥からエプロンで手を拭きながら母親が駆けてきた。そして「いらっしゃい」と頭を下げる。居間に通されると、父親は胡坐をかいて退屈そうに新聞を読んでいた。目が合った瞬間、お互いの神経が張り詰めた気がした。
 両親は観察するように彼女をまじまじと見つめた。その様子は欠点を探しているようにしかみえなかった。終始彼女は表情を引きつらせていた。彼女に対する熱意を感じてもらえれば、それだけで満足だった。自立した自分を見てほしかったのかもしれない。
 そんな八木一郎をしり目に、両親の態度は豹変していく。彼女はずっと小刻みに震えて、両親の嫌味、侮辱に耐え続けた。それでも気に入られるよう努力する彼女に申し訳なかった。次第に両親の口数は減り、沈黙になった。そんな空間に耐えられなくなり、頃合いを見はからって、お開きすることになった。
 帰り際、「二度とこの家の敷居をまたがないでね」と母親はいった。父親はそのとなりで頷いている。
 葉子は頭を下げて「そのつもりです」と対抗した。いつのまにか震えは止まり、彼女は凛としていた。自分が認めてもらえないことを悟り、開き直ったに違いない。
「私たち結婚しますから」それが本気かどうかわからなかったが、彼女はきっぱりとそういった。
 母親は苦り切った表情を浮かべ、強くドアを閉める。そして鍵をかけた。
 家を後にして、八木一郎は葉子の手を取った。そして「駆け落ちをしよう」と深く考えもしないで葉子に告げた。真剣な眼で彼女は視線を向けた。八木一郎は微動だにしなかった。辺りは静寂に包まれた。まるで休館日の美術館のようだった。
 バカね、と彼女は笑って同意してくれた。

「結婚式も新婚旅行もあきらめようね」と葉子は言った。婚姻届を出した帰り道だった。八木一郎も同じ意見だったが、首を縦にだけは振らなかった。これから葉子を守らねばならない、そして一男としての意地だった。
「そのうち連れてってやるよ」八木一郎がそう言うと、ありがとう、と葉子は嬉しそうに首を縦に振った。
 それから八木一郎は本格的に絵を描き始める。絵で生計を立てることの難しさを十分に知っていたが、彼の意志は固く根拠のない自信があった。賭けでもあった。そんな彼を葉子が献身的に支え続けた。生活がどんなに苦しくても、二人は楽しくてしょうがなかった。
 籍を入れて間もなく待望の第一子が誕生した。葉子の収入が亡くなり、いっそう家計は回らなくなったが、二人は幸せだった。
 八木一郎は飯も食わずに絵を描き続けた。髪は肩甲骨のあたりまで伸び、頬はこけていく。そんな彼を見て「あなた、筆みたいよ」と葉子は時折小馬鹿にした。
 八木一郎の絵は少しずつ評価されていく。タッチや色づかい、そして構成は素人の域にさえ達していなかったが、彼は独自のスタイルを確立していった。技術ではない、オリジナリティーこそ絵描きにとって最も重要なことだった。
 しばらくして第二子が誕生した。女の子のような男の子だった。八木一郎も気合いが入り、腱鞘炎になりながらも絵を描き続けた。その年、初めて賞をもらうことになった。その影響もあって少しずつ絵は売れ始める。しかし、まだまだ単価は低いため、家族を養うほどの稼ぎはえられなかった。葉子が体調をくずし始めたのは、その頃だった。
 体調が悪化しても、葉子は体を酷使し続けた。朝食を作りパートに出かける。そして帰宅した後、家事をして内職を遅くまでこなす。それでも葉子は笑顔を絶やさなかった。
 ある日、八木一郎は洗面所の隅の方に付着した血の痕を見つけた。彼が所持している油絵具では表現できないほど鮮やかな色だった。葉子の血に違いないと彼はすぐに気がついた。そんな彼女の病状を知っていながら、彼は見てみぬふりをした。葛藤の末、出した答えだった。「いつか成功して楽にしてやる」という根拠のない言葉を、八木一郎は葉子にくり返し唱えた。
 ある日、一番下の子の顔に血を吐いてしまい、葉子は気が動転していた。洗面所に連れて行き、汚れが落ちるまで洗った。油汚れのように細胞の奥までしみ込んでいるようだった。自分の身を案ずるよりも、苦しんでいる息子がかわいそうで仕方がなかった。そんな葉子を見ながら八木一郎は辛くなった。未来を見据え孤独感にさいなまれ、現在が過去のように感じてしまう。皮肉にもそれらは絵を描くための素晴らしいイメージとなった。
 病状は悪化していった。それでも葉子は明るくふるまう。葉子が明るく振る舞えば振る舞うほど、八木一郎は自己嫌悪に陥り、胸がいっぱいになる。
「ご飯の味がまったくわからないわ。だって血の味しかしないのよ。むしろ鉄分が採れているのかもね」葉子は楽しそうにそういった。息子たちも笑っている。そんな光景を見て八木一郎は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
その翌日、葉子は亡くなった。


 よく言えば、ピカソの作風が変わったように、八木一郎も新たなステージに踏み込んだに違いない。前作とは異なり、慢心と愚弄が入り混じり、そして快楽の一種であるかのような作風に落ちついた。葉子の死が彼の人生観や価値観を変えてしまったにちがいない。
 しかしながら、皮肉な運命としか言いようがない。葉子のために頑張ってきたことが、今になって作品は高騰し始めたのだ。
 葉子を描いた肖像画は売れに売れはじめた。決して彼はニーズにこたえようとしているわけではなく、買い手が自らの判断で必要としているのである。また業界の、ある評論家が賞賛したことで、またたくまに評判は広まっていった。作品の魅力を聞かれて返答に困る疎い買い手も少なからずいたが、彼らの虚栄心をくすぐる作品にまでひとり歩きしていたのだ。
 価格が上がるにつれて、八木一郎は葉子に対して申し訳なく思った。あの世から陰口を叩かれているのではないかと、不安にもなる。
「神様はどうせ男なのよ。だから女は大変。『男尊女卑』は神様の口癖だったりしてね」と葉子はよくいっていた。彼女の言葉はいつも核心をついていると、感心していた。
 八木一郎は身をけずりながらキャンパスに向かった。飲み食いせずに、風呂にさえ入らない状態が何日も続いた。体臭と油絵の混じり合った臭いは独特で、からみつくように滞在し、臭覚の機能を停止させる。まるで町工場に閉じ込められたようだった。八木一郎の精神状態は崩壊していくように思えた。自分の描いた葉子の肖像画と、当然のように会話している姿を何度も見受けられた。そんな彼を見て、子供たちは気兼ねなく近づくことができなくなった。
 ある日、八木一郎は大掛かりな準備を始めた。十平方メートル以上の白いキャンバス。そして高所作業車。ブームは伸縮可能で、その先に設置してあるゴンドラに乗り込むと高さ三十メートルまで上昇していく。それはまるでキリンのようなシルエットである。毎晩、調合した油絵具を空き瓶に詰める作業をひたすらし、油絵具の数は百種類を超えていた。
 数日後、人里離れたとある広場に彼は立っていた。以前その場所は自衛隊の訓練施設だった。現在は空き地に変わり果て、一応柵が設けられてはいるが、たいして意味を成していないようだ。無断で借用しても別にたいして問題はない。
 そこに真っ白なキャンバスが敷かれてあった。そして高所作業車はその手前に置かれている。異様な雰囲気がうっすらと漂い始めた。噂を聞きつけ、有数のギャラリーが集まった。各業界の著名人や美術関係者。そして一般人が大多数を占めていた。八木一郎が何をしようとしているのかと、様々な憶測が飛びかった。
 八木一郎は高所作業車の先端に設置してあるゴンドラに乗り込んだ。ブームは伸びていき、ざわめいていた場内がにわかに静まり返る。期待と不安が緊張感を高めていった。
 上空で風を楽しむように肺を膨らませる。吐き出された二酸化炭素は遠くの方へ運ばれていく。目をつむって瞑想しているように見える。閉ざされた瞳の奥で彼は何を感じているのか。暗闇の中で見つめているものは一体何なのか。そこに葉子はいるのだろうか。
 事前に用意していた油絵具の入った瓶を手に取る。見るからに闇のような黒色だった。獲物に狙いを定める狩人のように、ポイントを探している。微調整を繰り返し、そしてある一点に標準を合わせた。ギャラリーは食塊を胃に送り込むように強く息をのむ。
 八木一郎は腕を振り上げた。そして白いキャンバスに向かって投げ落とす。宙で揺れながら瓶の中で液体は踊る。キャンバスとの距離は徐々に縮まっていく。そして、それらは儚く散り、キャンバスに闇を運んだ。
 価値を正確に見出せるものは誰一人いなかったが、自信の欠けた歓声が起こる。八木一郎を理解しているのは自分だけだと言わんばかりに、得意げな顔を浮かべている。
 白いキャンバスに広がった黒い模様を見つめながら各々考察していた。そんなギャラリーをしり目に次の瓶が投下された。燃えるような赤い色だった。僅かに黒い色と重なる。また歓声は上がった。このような作業が延々と繰り返された。
 油絵具をキャンバスに投げ落とす作業は延々続いた。瓶が重なっていくたびに、八木一郎は興奮していく。豹変しているようにも見える。吠えるように叫び、落ち着きなく動く。白いキャンバスは様々な色で埋め尽くされていた。何層にも重なった色の雰囲気や、八木一郎が成した世界観は観る者を魅了した。ギャラリーは飽きることなく、次の一手に期待を膨らませた。彼の創造する過程すら芸術であった。
 八木一郎が瓶を投下するたびに、なにかを計っているように思えた。距離やタイミング、そして空中を彷徨う気流。彼の額からは油のような汗が垂れていた。それを確認するたびに、なぜかギャラリーは胸騒ぎを覚える。
 用意した油絵具は底をつき、八木一郎は作業をやめた。平坦だったはずのキャンバスは凹凸になり表情を作っている。一貫性のない模様が描かれた作品には壮大な世界が広がっていた。
 八木一郎はゴンドラの中から作品を覗きこんだ。彼の眼にはどのように映っているのだろうか。想像していた通りに仕上がったのか。そしてギャラリーと一別するようにうっすら笑顔をのぞかせると、にわかに風が止まった。
 次の瞬間、八木一郎はゴンドラから飛び降りた。芸術が始まったのはこの瞬間だった。
 歓声に似た悲鳴が聞こえた。風を切る音が鳴り響き、八木一郎はキャンバスへと距離を縮めていく。誰も目を背けようとはしなかった。
 そして耳をつんざくようなけたたましい音が響いた。彼はキャンバスの上で、つぶされていた。鮮やかな赤い色が規則的に広がった。すると静まり返っていた場内がせきを切ったように沸いた。ひとときの快楽を誰もが味わう。そして迎合するように賞賛した。歓声は鳴りやまない。
 複雑怪奇な世界がキャンバスに広がっていた。その上にルールなどあるわけがなく、認められない価値観さえ許されてしまう、そんな独特のオーラが辺りを包み始めた。ギャラリーは言葉を失い、焦燥感に駆られる。これまで培ってきたものがすべて否定されているように感じた。
 八木一郎が飛び降りて数時間経過したが、誰もがその場から離れようとはしなかった。待ちうけている現実におびえながら非現実的な世界にしがみつくように。キャンバスと死体のありきたりな組み合わせに過ぎないが、前衛的ともいえる新しい芸術が生まれた瞬間だった。


 雨は止んでいるようだった。雨の粒が屋根を伝い地面に落ちる音がかすかに聞こえる。
 目を擦りながら大介は欠伸をした。目頭は少し赤みをおびている。様子をうかがいながら、父親のことを話すべきかどうか迷っていた。上手く説明できるかどうかわからないし、大介がどういう反応をするか不安だった。泣きだしてしまうかもしれない、頭を抱え込んでしまう可能性すらある。それを上手く対処する自信がなかった。しかしみえこという保母さんと約束をし、この機会を逃したら二度と告げられないような気もした。お互いが抱えている問題を共有することで、共に手を取り、現状を乗り越えられるかもしれない。これ以上逃げていても現状はかわらない。いい機会だし、腹をくくるしかない。
「大介、ちょっといいか」そう切り出すと大介はこっちを向いた。
「なに? 」足をばたつかせている。
「友達に何を聞かれたんだ」
 大介はクスクスと笑い、口を開く。
「みえこ先生と話していたことだね」
 そう言われて、彼女の言葉を思い出した。園児は大人の会話を聞いている、確かにその通りだと思った。
「からかわれたわけじゃないんだ。ただ、大介君のお父さんは自殺したの、と聞かれた。それだけだよ」ひょうひょうと大介は答える。予想外の反応だった。
「それを聞いておまえはどう思ったんだ。知っていたのか」
「知らなかったよ。だって、兄ちゃんはなにも言ってくれないんだもん」
「事情があったんだ。これから話そうと思っている」大介はふてくされた顔を浮かべた。
「いいよ。大体のことはわかっているし。芸術になったんだろ」
 その言葉のチョイスに不安が募った。それを聞いて大介がどこまで把握しているのか、予想がつかなかった。
「そのことについておまえはどう思ってるんだ」
「わからないよ。本当にわからないんだ。でも友達に聞いて、なんとなくつじつまが合ったんだ」
「つじつま?」弟のはなしが思わぬ方向に発展していく。
「おまえはなにを知っているんだ」
手の汗が尋常ではなかった。弟は適切な言葉を探すように右上を見ながら、腕を組みなおす。
「お母さんが死んだ日の夜、お父さんの作業場に行ったんだ。お父さんは絵を描いていた。電気をつけずに、真っ暗な部屋の中で。さっきまでお母さんの体にしがみついて泣いていたのに、もう仕事を始めたのかと驚いたよ」
 単調に話しながらも、上手く抑揚をつけている。悪夢を解説する、ナレーションのようだった。しかし大介の言葉にどことなく違和感を覚えた。だけどそれが何かは分からない。
「次第に目が慣れてきて、暗闇でもお父さんの表情を確認できた。クレヨンを飲み込んだ時のさっちゃんと全く同じ顔をしていた。それが、恐ろしくて……恐ろしくて……」
 そう言って、大介はがたがたと震え始めた。黒い冷気がまとわりついているようだった。大介は適切な言葉を探している。僕が傷つかない、やさしい言葉を。
 一段と静まり返った瞬間、大介は口を開いた。唇は小刻みに震えている。
「暗闇の中で赤い塊が目に入った。長細かったり、四角形だったり、いろいろな形をしていた。それがいくつも転がってるんだ。不気味だった。無意識のうちに、それらを頭の中でパズルのように組み合わせていた。でも、並べていく途中で、それが何かすぐにわかったよ。ずっとその人の事ばかり考えていたから。赤い塊の正体はお母さんだったんだ」
 息苦しさを覚え、息を吸う。数秒間、呼吸をするのを忘れていた。暗闇が恐ろしく感じはじめた。
「お父さんは赤い塊を掴んでいた。そして、それを使って絵を描いていた」
 大介の肩が上下に震えだした。そしてせきを切ったように涙があふれ始めた。「お母さん、お母さん」と叫んでいる。
 大介が呼んでいる母親は、いったいどのような姿をしているのだろう。僕は何を言ってあげたらいいのかわからず、ただ俯くことしかできなかった。


「秋の空を描くのは簡単なことなんだ。そうだなぁ、テーブルの上に置かれた果物も同じかな、たやすいことだ。ただ、母さんの絵を描くのは難しいんだ」
 口癖のように、父は語った。そして、母さんには内緒だぞ、とつけくわえる。
 僕の家では、母親がカメラのシャッターを押す。家族内の暗黙の了解である。したがって、母親の写真は一枚もない。それに対して、母親が文句を言わないのは、母親の肖像画が何百枚と部屋に置かれているからだ。「宝ものよ」と母親は満面の笑みで自慢する。
「母さんが亡くなった」と父は前置きなく話した。そのとき僕と大介は夕食の準備をしていた。「いつなおるの? 」と大介は何度も尋ねていた。病院に行き手術を受けさえすれば、母親は回復すると思っているようだった。返答に困った父親は、ずっと下を向いて涙と鼻水を垂らしていた。
 急にそんなことを告げる父親の気がしれなかった。せめて大介が傷つかないような言葉を選んでほしかった。僕以上に大介は混乱しているに違いない。泣き疲れて眠る大介のとなりで僕も横になった。夢の中でさえ顔を硬直させている大介を見ながら、僕はあれこれ思いを巡らせた。ずっと頭の中は混乱していた。それは父親に告げられる前からだ。僕は母親の死ぬ瞬間を目撃していた。つまり父親に聞かされる前から知っていたのだ。それを踏まえて、母親は自殺したのか、それとも父親に殺されたのかを考えていた。そのことを父親は気づいていないようだった。
 家の近くに、建設の途中で中断された廃墟のビルがある。言うほど廃っているわけではないが、夜は近づきがたい雰囲気が漂っている。その敷地内でよく遊んだ。その日も普段どおり朝から走り回っていた。
 父親と母親が廃墟ビルに入っていくのを目撃した。少し様子がおかしいなと感じたが、あまり気にとめなかった。
 雲が一つもないため強い光がさす。青い空は限りなく澄んでいる。けれど空気中が何かで飽和されているような感覚に陥る。苦しくて、肺が空気を受け付けない。その時、しずくが落ちてきた。一瞬、雨粒かと錯覚する。そのしずくには感情が含まれているように感じた。
 蚊の鳴くような悲鳴が聞こえる。それは助けを呼んでいるのではなく、襲いかかる何かから逃げだしたいという、微妙な意味合いを含んでいた。顔をあげると、空からビルに沿って母親が落ちてきた。重力に身をゆだねた母親は泣いているように見えた。
 いきおいよく僕の横を通りゆく。そして鼓膜が裂けるほどのけたたましい音が響いた。握りつぶしたときのトマトの果汁のように血が飛び散り僕はそれを浴びる。血の海で溺れているようだった。鉄分がとれるかもね、という母親の言葉をふいに思い出す。実に上手いたとえである。
 無性に母親が恋しくなった。抱きしめて不安を拭ってほしかった。だけど目の前にいるガラクタがその人に違いない。底知れぬ虚脱感が込み上げてくる。
 恐ろしくて、その場を逃げ出していた。思い通りに走れず、バランスが崩れスピードが出ない。靴が脱げそうになった。大量の空気が肺に流れてきたが、すぐに苦しくなり立ち止まった。
 ふいに母親のことが気になった。そして眉を曇らせながら母親の方を振り返る。変わらず血まみれの塊が横たわっていた。
 するとビルの中から父親が飛び出してきた。肩で息をしながら、立ち尽くしている。そして崩れるように膝をつき、母親を抱きかかえた。首の据わっていない赤子のように、母親の首がだらんと垂れていた。
 人目を憚りながら家に帰り、そそくさと風呂に入った。血だらけの服は捨てることにした。なぜか冷静だった。体を洗いながら、母親は自殺したのか、それとも父親に殺されたのか、ひたすら自問自答を繰り返した。だがこれは悲劇の始まりに過ぎなかった。
 父親に告げられたことを大介はどのように感じたのだろうか。目を覚ますと、母親がいないことでまた苦しむに違いない。家じゅうを探し回ったり、返事をしてくれるまで母親を呼んだりもするだろう。想像するだけで胸が詰まる。大介の寝息を聞いているうちに、ついつい眠ってしまった。
 物音がして僕は目を覚ました。その音は父親の作業場から聞こえてくる。これまでに聞いたことのない異様な響きをしていた。しばらくすると、音はやんだ。そして畳をきしませながら、誰かが近づいてくる。薄眼を開けると父親が見えた。僕は寝たふりをして、様子を窺った。今まで父親は何をしていたのだろう。そして母親の行方も気になった。
 父は押入れを開けて、何かを探しているようだ。真っ暗の中、電気を付けないのは僕らに気を使っているに違いない。目的の品を見つけ、父親は押入れを閉めた。それは真新しい筆だった。
 部屋を出ていくのを確認して僕は跡をつけた。作業場に向かっていることは、すぐにわかった。父親の作業場は家の隣にあり、物置のような小屋である。建築家を目指していた父親が一年以上かけて作り上げた。一見、雑な仕上がりに見えるが三度の地震を耐え抜いたことで、極めて頑丈であることは実証されている。「完璧に仕上げると、自力で作ったといっても認めてくれないだろ。だからこれくらいが丁度いいんだよ」と言い訳のように父親はよく話した。
 父親は作業場に戻り扉を閉める。ただならぬ雰囲気に声をかけられない。中の様子を確認するために小屋の横側に回り、視線を向ける。母親は床下に寝かされていた。姿は人と呼べるものではなく、血の池に浸っている。どんな姿をしていても母親は母親である。腕が切断されていても、皮膚がはぎとられていても、臓器が散乱していても、それは母親である。のこぎりを筆頭に様々な日用道具が随所に置かれていた。父親が何をしようとしているのか、皆目見当もつかない。
 キャンバスを前にして母親を見つめている。そして先ほどの筆を手に取り、血の池につけた。躊躇いなく白いキャンバスに押し付ける。蝶が舞うように線があらわれていく。油絵の概念に囚われることなく、欲望や苦悶、そして慈愛が感じられてくる。暴発される感情をコントロールしながら、作業は進む。不意に父親は筆を壁に向かって叩きつけた。明らかに興奮している。そして無表情のまま笑い始めた。抑揚が感じられない。瞬きをせず、自分自身に支配されているようである。
 冷めるように笑いは止まった。そしておもむろに母親の切断された腕を掴んだ。赤い血がまんべんなくコーティングされている。それをどうするのか。想像するだけで身の毛がよだつ。僕は好奇心に駆られながらも、意識が徐々に失われていくのがわかった。足が震えて上半身を支えられない。「やめろ、やめてくれ」と僕は心の中で叫ぶ。それを言葉にできないことが悔しかった。キャンバスに描かれていく母親はモナリザのように微笑んでいた。僕はたまらず意識を失った。
 
 その日を境に父親の作品は評価され始める。家の中を満たしていた作品の数々は、瞬く間に売れていった。殺風景な部屋になり、すべてをリセットしたように感じた。最も評価されたのは母親の肉体を使って描かれた肖像画だった。それに対して父親の反応は薄く、喜んでいる様子は見られなかった。
「葉子の顔が思い出せないんだよな」白いキャンパスの前で父はぼやいた。記憶をたどるように、部屋の中をぐるぐると旋回する。そんな日が何日も続いた。そして、束縛から解放されるように父親は絵を描くのをやめた。
 聞かなければならないことがたくさんあった。頭の中で整理できてない散らかった現実。それらを処理したところで、行きつく先が暗闇であることは承知している。誰も味わったことのない、地獄同然の空間。それでも知らなければならない。それは未だに、いい方向に展開するのではないかと、少しだけ期待しているからだ。その期待は想像するたびに膨らんでいき、亡くなった母親を甦らしてしまう。そしてその母親に大介は抱きついていく。次の瞬間、場面は一転する。そこは真っ暗な部屋の中で、父親が絵を描いている。その右腕には筆のかわりに赤い塊が握られている。次第に黒い背景が赤く染まっていく。そして赤い背景に母親の輪郭が見えてくる。いつものように笑っていた。
「明日、母さんの所に逝こうとおもう」
 大介が眠ったのを見計らって父親はいった。どういう反応をしていいのか分からずに、ただ頷いた。そっけない対応に父親はさみしそうな顔を浮かべる。
 父親が何をしようとしているのかは、大体の予想がついた。これが最後の仕事になるのだろう。ふと、母親との思い出が浮かんできた。父親の仕事の邪魔をするたびに母親に叱られた。それでも僕と大介は食い下がらずに、遊んでもらいたいんだ、と主張する。すると母親はやさしい顔になる。子供たちに愛されている彼が愛しいに違いない。駆け引きの末、母親は決まって父親の話をすることになる。ナレーションのような語り口で、耳とどめるように聞いた。
 僕が父親を止める権利はない。母親もそれに賛成だろう。父親は大介の頭を包むように撫でた。そして肩が覆うまで布団をかける。目に焼き付けるように、大介を見つめていた。
「大介を頼むぞ」父親は目を合わさずにそういった。それが父親との最後の会話になった。 


 夢の中で化け物に襲われた。そいつは巨大な棍棒を振り回しあらゆる物を破壊する。どうやら、『お伽草紙』に登場する酒呑童子という鬼のようだ。逃げ惑う人々は自覚できぬまま死んでいく。どこかも分からぬ場所で、絶えず僕は走り続けた。呼吸器が上手く機能しなくなる。死体の上を走りぬけるたびに「南無阿弥陀仏」と闇雲に唱えた。
 無残な死体が一か所に集められ、山のようになっていた。それを見て戦慄する。どうやら酒呑童子の仕業らしい。それらが壁となり、僕の逃げ道はなくなった。焦らすように、酒呑童子は距離をつめていく。そして大きな棍棒は振り上げる。
 目が覚めたのは頭部に棍棒がめり込んだ瞬間だった。呼吸は乱れ、汗が身をまとう。脇のあたりからは酸っぱい臭いがした。そして小刻みに震えていた。想像を絶する恐ろしさだったが、皮肉にも悪夢は僕に安らぎを与えてくれた。少なからず現実よりはましだということだ。感覚がすでに正常ではないことは自覚している。それに対応できるほど器用でもない。上手く生きるための確かな道もなく、勘に頼って凌ぐしかない現状。父親の犯した罪を、僕らが背負い生きなければならないのだ。ただの夢なら覚めてほしい。事実は小説よりも奇なりとは僕のために生まれた言葉のように思えて仕方がない。
 生ぬるい水道水をのどに通す。錆び独特の臭さが微かに香る。食欲はなく、それだけで腹は満たされた。不意に孤独にさいなまれた。そして鼓動が高鳴り始める。その原因は違和感からくるものだった。いるはずの大介がこの部屋にいない。
 家じゅうを隈なく探したが大介が見当たらなかった。遊びに出かけたのだろうか。それとも、わけあって出かけたのか。どちらにしろ危険には変わりない。予定外の事態に対応できず、右往左往したのち、僕は家を飛び出した。
 横殴りの雨が強く吹き付けた。服とズボンに雨がしみ込み、ずしりと重く感じる。視界も悪く大介を見つけられるか不安になった。
 大介はどこに行ったのだろうか。見当もつかない。闇雲に探すことが得策とは思わなかったが、じっとしていられないのも事実である。
 突然、雨を縫うように人が落ちてきた。そして頭から地面にぶつかり、頭蓋骨の割れる奇怪な音がした。見慣れた光景だが、吐き気が込み上げてくる。これは生きた玩具だ、と自分に言い聞かせ、現実逃避することで精一杯だった。
 甲高い悲鳴が聞こえた。大介が頭によぎり、声のする方に顔を向ける。あっけなく思惑は外れた。そこにいたのは身動きできず立ちすくんでいる女性だった。平常心を失っているせいか、どんな些細なことでも大介とリンクさせてしまう。焦りと苛立ちで理性がなくなりそうだ。次の瞬間、上空から落下してきた男が彼女にぶつかった。赤い血が飛び散る。男に対して同情する気にもなれないし、女に対しても不運としか言いようがない。それどころではないのだ。
 常日頃、大介には家から出るなと告げていた。もちろん両親が亡くなってからのことだ。人が死ぬ瞬間を幼い弟に見せることは避けたいし、くだらない連中に何をされるかもわからない。わけあって外出するときは僕が付き添う形になる。保育園の送り迎えも僕がしている。保育園に通わすこと自体が心配のタネであったが、今の大介から友達を奪ってしまうことは酷なことに思えた。ここから近くに保育園がある。そこに大介はいるだろうか。自然とそこに向かっていた。
 雨粒が線になって落ちてくる。規則正しいリズムは不安定な心の処方箋のように感じた。
 園児のいない保育園は輝きを失っているように思える。まるで母性を失った母親のようだ。
 園内に入り、うつ伏せの状態で倒れている女性が目に入った。賑やかさの欠けた保育園でそれは際立って見える。それほど出血は見られないが息をしていなかった。見たことのある女性だった。裏返すと「みえこ」という名札が目にとまった。彼女の敷かれた地面は乾いていたので、雨が降る前に亡くなったことが推測できた。
ここいる彼女は昨日の人ではなく、ただの物体に変わり果ててしまった。大介を心配してくれていた彼女は、違う世界に逝ってしまったのだ。その現実を受け止められずに、僕は大介の行方を何度も何度も彼女に尋ねていた。
 彼女を教室の中に入れて、ポケットからハンカチを取り出し顔に被せてあげた。せめてもの償いである。みえこという女性にはこのような形で自殺をしてほしくなかった。どういう経緯で自殺したのかは知らないが、保育士として失格だ。
壁一面に園児が描いたと思われる絵が貼ってあった。たくらみを感じず、気の向くままに描かれており、心が洗われるようだった。これが本当の芸術なんじゃないかなっ て、ものさびしく思えた。
 画びょうの一つが外れてある絵が大介の作品らしい。右上が外れていて、対角線上に向かって垂れている。一見するだけで母親の肖像画であることは確認できた。絵の才能をひしひしと感じる。僕とは違い、父親の才能を受け継いでいるのだろう。クレヨンが上手く助長し、より温もりを感じる。抽象的な大介の絵を見て、忘れかけていた母親の顔を鮮明に思い出すことができた。ふっくらした輪郭、綺麗な二重、丸みを帯びた鼻、大きな口、そしてそれらを包み込むような長い髪の毛。母親との断片的な思い出が頭の中をめぐる。自然と甘えたくなり恋しくなった。それと同時に急激に心が冷たくなっていく。僕の感情を無視して、大切な物だけが淘汰されてしまう。さらに心が熱を失っていった。
 飛び降り自殺をする前に、彼らがこれらの絵を目にしていたら、いったいどうなっていただろうか。くいとどまり、命の尊さや芸術に真剣に向き合ったのではないのか。そんなことを考えながらも、今日中に僕は自殺するつもりでいた。笑えないくらいに説得力がなく、つくづく無責任である。
 教室を隈なく動き回り、大介の手がかりがないか調べてみたが、望んでいるような結果は得られなかった。だけど失望している暇はない。一刻も早く大介を見つけなければならない。いったい大介はどこにいるんだ。
 このような事態が発生しなければ、僕はすでにこの世にいないだろう。母親と同様あの廃墟ビルから飛び降りるつもりだった。以前は遊び場だったが、あれ以来、足を踏み入れていない。思い出してしまうことが恐ろしかったし、無邪気に遊んでいる場合でもなかった。ふと、ある光景が頭に描かれた。忘れていた思い出である。大介は叱られたとき、よく廃墟ビルの屋上に行き泣いていた。僕はさりげなくとなりに行き、よく頭を撫でながら慰めた。そこから見た景色は格別で、突然それを思い出したのだ。もしかすると大介はそこにいるのかもしれない。根拠のない想像に過ぎないが、一縷の望みに賭けてみるしか道はなかった。
 とりあえずそこに向かうことにした。すでに体力は限界だったが弱音を吐いている場合ではない。雨は降ったり、止んだりをテンポよく繰り返した。通行人とぶつからずに走るにはこつがいる。それを習得するには時間がかかりそうだ。すれ違う人の肩に当たるたびに、僕は頭を下げた。
 相変わらず、ビルから人が落ちてくる。生きることよりも死を選択した結果だ。芸術を求め、明日も明後日も――。
 ビルの屋上の扉を開け、壮大な景色が広がった。無論、エレベーターはなく、階段で上ってきたので息切れしていた。
「兄ちゃん、体力ないね」
 大介はこっちを見ずに口にした。笑い声が混じる。手すりに頬杖をつき、ぼんやり景色を眺めているようだ。足が棒になり、扉の前で立ち尽くす。大介の背中が遠く感じる。
「ここから兄ちゃんが走って行くところを見てたよ。それがおかしくってさ」
 浮かれたトーンで話した。大介の意に介さない態度が癪だ。
「心配してたんだ。黙ってこんなところに来たらいけないだろ。お前にもしものことがあったら……」
 それを打ち消すように大介はクスクスと笑う。小刻みに肩を震わせている。何がおかしいのか僕には理解できなかった。
「こんなところで何をしようとしてるんだ」
 返答はない。大介はうつむいたまま思考している。そして呼吸をはかり、ゆっくりこっちを振り向いた。屈託のない笑顔から、次第に真面目な顔に変わる。
「みえこ先生が死んだんだ。それが悲しくってさ……」言葉が細かくゆれている。
 そういうと顔を前に戻した。僕は鉛のような唾を飲み込む。
静かな時間が流れ、その後を風が追う。
 勝手な先入観が大介の言葉を邪魔し、理解に苦しんだ。大介は残酷な彼女の姿を目撃していたのだ。
「昨日、あれこれ考えていると眠れなくて、朝早くに保育園にいったんだ。すると、みえこ先生がいて、話を聞いてくれたんだ。誰にも言えないことをみえこ先生になら気兼ねなく話せるんだ」
 みえこ先生との思い出を噛みしめるように大介は話す。
「突然みえこ先生は泣き始めたんだ。僕のせいだと思って、ごめんなさいって何度もあやまった。するとみえこ先生は僕のことをギュッと抱きしめてくれた。そしてみえこ先生は屋上に向かって歩き始めた。僕はみえこ先生の名前を何度も呼びながら後を追ったんだ」
 大介の言葉が連なっていくにつれて、闇の中に引き込まれていくようだった。闇が大介を支配しているのではなく、大介が闇を支配しているように思える。
「最後の笑顔はきれいだったよ。手から滑り落ちてゆくコーヒーカップのように、みえこ先生は儚く散ったんだ」
 目の前に見える景色に大介が溶け込んでいく。自分が情けなく、はがゆかった。
「母さんも父さんも、そしてみえこ先生もいなくなってさみしいよ。みんな芸術になったんだよね」蚊の鳴くような声でそういった。
「違うよ、そんなの芸術じゃない。ただの自殺だ。人生に苦しんで死んでいるんだ。自分を敗北者だと認めたくなくて、都合よく芸術に託けているだけだ」
 大介は半笑いで首を横に振る。
「あれは芸術だよ。紛れもなく芸術なんだ。僕はそう思う」
「なにいってんだよ。父さんの描いた肖像画を見てきただろ、あれが芸術だよ」
「じゃあ、母さんの体で描かれた作品も芸術なんだね」
大介のへりくつに少しだけ狼狽してしまった。
「理由があるに決まっている」
「理由なんかないよ。だってそれも芸術なんだから」
「父さんは口癖のように、母さんのことを芸術だと言っていた。生きているだけで素晴らしい作品なんだ、とね。そんな母さんが無残な姿になって、父さんはやり切れなかったんだと思う。だからあのようなやり方で表現したんだ。あんな姿になっても母さんには芸術であって欲しかったんだよ」
「机上の空論だね。納得できないよ」
 園児の言葉とは思えなかった。口調が大人びている。
「みえこ先生が飛び降りる瞬間を見たんだ。美しかった。あれほど美しいものを見たことがないよ」手すりに体をゆだね、大介は遠くを見つめている。
「なにいってんだよ。これからもっと素晴らしいものを……」
 不意に大介は僕の言葉をさえぎり、遠くの方を指差した。
「ほら、あれ見てよ。あれだよ、あれ」
 視線の先に、見なれた光景が広がる。ビルを沿うように人が落下していた。
「あれがお前の言う芸術なのか」
 大介はニコッと笑った。乳歯が抜け、小さい永久歯が顔を出している。
「まさかお前、飛び降りるつもりなのか」
 大介は腹を抱えて笑いだした。
「勘違いしないでよ。僕は飛び降りたりしないよ」
 大介の言葉一つ一つが僕を動揺させる。緊張感は高まっていく。
「ここから飛び降りるのは僕じゃないよ、兄ちゃんだろ。隠しても無駄だよ、知ってるんだ。それで……」大介は僕の方に顔を向ける。控え目な風が吹き大介の前髪を揺らす。
「僕はそれを見に来たんだ」
 ぞわぞわと背筋が凍りついた。体を循環する血液がシャーベットにでもなったようだ。
「冗談だろ、自分がなにを言っているのかわかっているのか」半笑いで僕は尋ねる。
「本気だよ、死ぬ所を見てあげるよ。僕が最期を見届けるんだ。兄ちゃんが芸術になる瞬間を見ることができると思うと、本当に幸せだよ」
 まじまじと見つめてくる大介の眼から逃げるように僕は視線を逸らした。蛇に見込まれた蛙のように身動きが取れなくなりそうだったからだ。可愛げに思えていた大介が遠くに感じる。不気味にさえ思う。僕が飛び降りる瞬間を見るためにここにきた、という理解できない言葉を数回反芻してみた。信じられなかった。何かの間違いではないのか。大介の方に目を向けると、余計に不安になった。
 思考が低下していく。それは都合のいいことだった。もう、なにも考えたくなかった。
 ゆっくりと大介に近づく。まとまっていないものを頭の中で整理した。
 そしてそれらを反芻した後、口を開いた。
「母さんがこのビルの上から飛び降りたことを知っているのか?」
 僕の問いに、大介は当たり前のように頷いた。
「ここから隠れてみていたよ」
 不思議とそれが当然であるように思えてくる。母親が自殺したのか、父親に殺されたのか、大介は間違いなく知っているのだ。
「父さんが母さんの死を僕らに告げた時のリアクションは演技か?」
「まあね。でも子供ってそんなもんだろ。兄ちゃんに対しても演技はしていたしね」
 信じがたい事実を無理やり飲み込んだ。
「母さんは殺されたのか?」
「違うよ。自ら飛び降りたんだ。それを父さんは最後まで止めようとしていた。そんなことするなって。自殺は罪だって言っていた。けれど母さんはそれを振り払った」
 大介は寂しそうな表情を浮かべる。それも演技なのかもしれない。
「母さんはヒステリーを起こしているようだった。だけどそれは次第におさまっていった。そして、見ていてね、という言葉を残して飛び降りたんだ。」
 大介の大人びた話術に翻弄されていく。そして大介は続ける。
「父さんは地面にぶつかるまで見ていたよ。不快な顔してね」
 母親の死因は自殺だった。実際のところ殺されたと思っていた。わだかまりが解けたことによって、少しだけ冷静になれた。そして僕は大介の頭を撫でて、柵をまたぐ。
 死ぬ直前は様々なことが頭をめぐり、悶え苦しむと予想していた。けれど不思議と冷静でいられる。幽体離脱をしているかのように、遠くから客観的に自分を眺めている感覚だ。
「芸術になるんだね」大介は無邪気に言った。大介と無邪気に遊んでいた日々が、遠い昔のように思えてくる。
「残念ながら、僕はそういう価値観を持ち合わせてないんだ。母さんも父さんも、これまでに自殺した人々もその価値観はないと思う。お前だけだよ、大介」
「そんなことないよ。みんな興奮しているじゃないか」
「ただの野次馬根性だよ。刺激が欲しいんだろうな」
大介は不貞腐れた顔を浮かべる。ポケットから一枚の紙切れを取り出し、大介に渡した。雨に濡れくしゃくしゃである。
「父方の両親の住所と電話番号が書いてある。連絡しろよ」
 大介は頷き、口を開いた。
「最後にひとつ聞いてもいい?」
いいよ、と僕はやさしく答える。一つ間をおいて、大介は続けた。
「なぜ自殺するの?」
 大介は目に涙を浮かべている。それにつられて目頭が熱くなった。
「敷かれたレールがないと生きづらいんだ、ごめんな」
 そう言って、ためらわずに僕は飛び込んだ。


 僕は背負っていたものをすべて大介に背負わすことになった。周りから白い眼で見られ、いじめられ、そして偏見を持たれる。様々な人々が自殺するたびに、容赦のない刃が向けられた。ただ父親と血が繋がっているというだけで関係のない僕が責められる。父親が憎かった。そして母親すらも憎むようになった。そもそも母親が死ななければこのようなことにはならなかったのだ。自分の存在自体が八木一郎への憎しみを背負う器としか思えなかった。
 あれ以来、家から出ることが億劫になった。大介の送り迎え以外は引きこもる始末。どうすればいいのか分からなかった。昼間でもカーテンを閉めて、暗い中で震えていた。涙がとめどなく流れた。楽しかったときのことを繰り返し思い出した。そのたびに辛くなり、恋しくなる。次第に想像上の母親でさえ笑顔を見せてくれなくなった。
 友達の身内が自殺したという知らせを聞いた時は本当に申し訳なかった。初めはそんな風に思えた。友情が変わらないものだと信じていたからだ。だけどそれは安易な考え方だった。同情してくれていた友達も手のひらを返したような態度をとりはじめたのだ。そして関係のない僕を執拗に責めてきた。「殺してやる」と彼らは興奮しながら言ってくる。「僕が悪いんじゃない、八木一郎が悪いんだよ」と一応僕は言うが彼らには言い訳にしか聞こえないようだった。そんなことが繰り返されるたびに、本当は自分に責任があるのではないかと錯覚してしまう時もあった。やり場のない怒りを自分に向けてしまった結果なのかもしれない。
 これから僕はどうすればいいのか。ほとぼりが冷めるまでこの暗い部屋でじっとしていなければならないのか。仮に飛び降り自殺が無くなったとしても、関係のある遺族は僕を恨み続けるだろう。どう考えても波風にもまれながら生きなければならないに決まっている。そんなことを繰り返し悩んでいても水泡に帰してしまうだけだった。そんな時ふと父親の両親のことを思い出した。何度か話で聞いたことはあったが一度も会ったことはなかった。すがるような思いで彼らの許を尋ねた。
 祖父と祖母はやさしい顔で出迎えてくれた。父親の顔とそっくりで懐かしい気持ちになった。八木一郎の息子であることは気づいていないようだった。彼らの孫であることを信じてもらえるか一抹の不安があった。とりあえず一通り説明し、証拠といっては何だが家族で撮った写真を見せた。すると鳩が豆鉄砲を食ったように驚いていた。その表情を見て、残酷な運命から解放されるのではないかと、にわかに期待は膨らんでいった。
 僕の顔をまじまじと見つめながら、祖母は「弟さんはどうしたの」と尋ねてきた。それに対して、今は保育園にいます、と僕は答えた。気に入られようと敬語を使っている自分が白々しかった。一人で抱えていた問題を解決してくれる人が見つかり、肩の力が抜けそうになる。だけど神様は僕の味方をしてはくれなかった。
「あなた、葉子さんにそっくりね」と祖母は言ってきた。温もりを感じない、冷たいトーンだった。そして彼らの様子が激変していく様がうかがえた。特に鼻が似ていると、祖母は笑いはじめる。祖父は汚いものを見るような眼で僕を観察していた。怒りよりも恥ずかしさが僕を支配した。居心地が悪く、この場から立ち去りたくなった。
「葉子さんさえいなければ、こんなことにはならなかったのよ。一郎もかわいそうに。こんなこと言うのは酷だと思うけど、あなたの顔を見ていると吐き気がするのよ。できれば私たちの前に二度とあらわれないでほしいわ」たんたんと祖母は語った。八木一郎を愛している彼女たちでさえ僕を憎んでいる。ただ母親に似ているというだけで。唯一無二の存在であるのに僕は見捨てられてしまった。もう大介しかいない、とすがるような思いに自責の念に駆られた。
 僕は彼らを睨み、何も言わずに玄関の扉を開けた。なぜこんなことを言われなければならないのだとつくづく思った。やはり僕は加害者のようだ。この世界に生きている以上、報われることはない。
「弟さんには今度遊びに来るように言ってちょうだいね」ふてぶてしい顔で祖母は言った。
 それを遮るように僕は扉を閉める。耳の中に残った不快な声までもが僕を毛嫌いしているように感じた。ここに来るまでに様々な期待が膨らみ、彼らと一緒に暮らしている姿を頭の中で描いた。ただそれだけで温もりを感じることができた。だが、今思えば恥ずかしい話だ。そんな僕をあざ笑うかの如く、淡い期待は跡かたもなく消えていった。
 残された道は断たれた。そして導かれるように飛び降り自殺することを決意した。今となってはそれが自然のことのように思えてしまう。
 彼らに大介を預けることを躊躇ったが、もうどうでもいい悩みの一つだった。なぜなら僕は数秒後に死ぬのだから。みんな死んでしまえばいいんだ。数秒我慢するだけで永遠の地獄から解放される。無理して生きることがエゴに思えて仕方がない。
 それほど視界は良好ではない。思い出が走馬灯のように流れるわけでもなかった。ただ、落ちてゆく。重力を感じることができた。八木一郎しかり、彼らはこのような景色を眺めながら儚く散っていったのだ。地面にぶつかるまで、あと少し、一瞬だ。
 最後に自分が何を思うか、自問自答する。そして一つの感情が頭をかすめ、それが僕を支配していく。そんな自分がおかしくなった。それでも体はがちがちに緊張している。
 死にたくない。生きたい。そう、強く思う。次第にこの様な感情が芸術なのではないかと思えてきた。彼らもあながち間違ってないのかもしれない。
 痛い、と最後に思うのだろうか。大介の声が微かに聞こえる―――。

雨のち晴れ、ところにより人々

雨のち晴れ、ところにより人々

ある芸術家の死によって飛び降り自殺という行為が美徳とされ始める。ビルの屋上からは絶え間なく人が身を投げ、競うように、主張するように死んでいく。そして決まって彼らは「芸術になるんだ」という言葉を残した。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-08

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