失われた夏 1 偶然の出逢い
夏が終わりになる頃。彼は、何処か懐かしい場所にいた。青空は真夏の頃とは違って、何処か秋が漂い始めている。
残暑の厳しい夏の終わりの午後。
太陽の眩しい青い空の下、緑の林のある丘に立っている。
少し閑静な住宅地の路地を入ると、大通りの雑踏とは、まるで別の世界。自分だけが夏の終わりの午後にいる様だ。
坂を歩いてゆくと、林からまだ蝉の音色が聞こえる。何故か懐かしい場所を思い出す。
季節は、過ぎ去っていくのが早い。歳を重ねていくほど早く感じる。
仕事で多忙なのは、仕方ない事だ。
気がついたら、八月の下旬だ。
夏らしい事は、なにもないまま過ぎて行く。何か喪失感を感じる、夏の終わりの日の出来事だった。
学生の頃、よく通学で通った路地に似ている。昔に戻った錯覚を起こす。
夏の午後、誰もいない公園。
周辺の緑は、色濃く光と影のコントラストを描いている。
路地を歩いていると、水を打った処を通る。
何処からか、昼食の料理のいい匂いが漂ってくる。
何処からか、ピアノの音が聞こえる。ピアノ教室だろうか。
閑静な住宅地の路地を歩くと、人の気配を感じる。
彼の気持ちも落ち着いて来る。
視線を前に延ばすと、
路地の向こう側から、若い女性が歩いてくるのが見えた。
彼は、彼女に気がつかれない様にさりげなく見た。
少しづつ彼女との距離が短くなり、すれ違いに彼女と視線が重なってしまった。
彼は、慌てて伏し目がちに路面に視線を向けた。
彼女とすれ違った後に、背後から彼女の声がした。
「夏木くん。夏木くんでしょ」
彼は、自分の名前を呼ばれて、条件反射の様に振り向いた。そして、彼女をよく見た。
深いブラウンの、肩まで伸びるウェーブの柔らかい髪。
端正な顔立ちの中に、潤んだ瞳が魅力的だった。
細いシンプルなホワイトゴールドのネックレスが首元で揺れる。
ギャザーのある、大人の白いコットンドレスにヒールのサンダル。
身につけているもの全てが、彼女の魅力を引き立ていた。
彼女は、僕の顔を見て確信に変わったような表情をした。
「夏木くんだわ。昔と、変わらないわ」
彼は、彼女が誰なのかわからないまま呆然と見た。
「…」
「高校の頃、一緒のクラスだった阿木です。阿木貴子です」
名前を聞いて、思い出した。彼は、少し驚いた。あの頃の彼女とは、雰囲気が一変していたからだ。
それから、彼は少し冷静さを失ってしまった。昔、好きだった女性が、更に魅力的になって目の前にいるからだ。
彼は、気恥ずかしくて何処かに逃げたいけれど、見つかってしまって観念した様な複雑な気分だった。
「あ、阿木貴子さんなの。偶然だね、何年ぶりかな」
彼は、冷静な大人の振りをした。
「思い出してくれたのね。嬉しいわ」
彼女は、微笑した。
「雰囲気が、変わっていたから誰か分からなかったよ」
「そうね。あの頃の私、ショートヘアで男の子みたいだったから」
「ああ、あの頃の君は、ショートヘアが可愛いかった」
彼は、彼女と少し言葉を交わして落ち着いてきた。懐かしいあの頃の記憶が映像の様に蘇ってきたからだ。
「貴方も、スポーツマンで格好良かったわ」
「君は、優等生だったじゃないか。才色兼備でさ。男子生徒の憧れのマドンナだったよ」
「そうなの、知らなかったわ」
「懐かしいな」
「懐かしいわ」
二人は、微笑した。
「元気かい」
「ええ、お陰様で。元気だけが取り柄なの」
「君は、更に魅力的で綺麗なったよ」
彼女は、更に笑顔になった。
「そんな事、言われるの始めてよ。ありがとう」
「せっかく、偶然に出逢ったんだ。また、時間があるとき逢えないかな」
彼女は、戸惑った様な表情をした。それから、少しの沈黙のあと静かに応えた。
「いいわ」
二人は、連絡先を交換した。
「電話するよ」
「待ってるわ」
彼は、手を振るとまた歩きだした。
ふと、立ち止まり振り返ると、彼女はまだその場所で微笑して手を振っていた。
彼は、微笑して手を上げて応えると、また歩き始めた。
失われた夏 1 偶然の出逢い